by Rainbow School
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自信過剰の治療家
心だけではなく、体も弱かったせいで、自分はこれまでいろいろな病気もしたし、小学校・中学校とずっと怯えながら暮らしていました。なぜなら、小学校も中学校も、弱肉強食のサバンナのようなものだったからです。今は、老化現象が体のあちこちを襲っていますが、それでも年々健康になっているのは有り難いことです。

体調が悪い時には、病院以外にもさまざまなな治療法を試してきました。いわゆる代替療法といわれる類いのものです。幸運なことに、いつも新しい出逢いがあって、一つずつ解決がもたらされました。そのことにはたいへん感謝しています。

一方で、様々なタイプの医者、治療家、治療師に接して来て、自信家が多いことに非常な違和感を覚えました。<自信家でないことには、とても治療などやっていられない>ということかも知れません。しかし、自分が信頼を寄せた人は、みな自分の限界を知っていました。できることとできないことが解っている人でした。

ところが、大概の治療家は「自分が編み出した治療法は万病に効く」と自信満々で、他の療法を非難して憚(はばか)りません。どうしてそんなに自信があるのだろうか。いつも自信を喪失している自分からすると、本当に不思議でなりません。心底、羨ましいと思いました。

ところがこうした人の手に掛かると、ほどんどと言っていいほど結果が出ないのです。そしてそれを訴えると、「まだ好転反応が出ない」とか「あなたには分からないだろうけど確実に良くなっている」とか、理屈をあれこれ言われて、結局最後はポイ捨てということになってしまうのです。

世間ではそれを「騙されたんだよ」なんて言うんでしょうけれどね。

私は、治療家の多くは、何か根本的な考え違いをしているんじゃないかと思うのです。それは自分の療法に患者の方を合わせようとするところ。自分の型に相手を嵌めて行くんです。そのワンパターンが、過剰な自信の正体ではないかと。だから他の療法を排斥して憚らない。要するに、多くを知らないから、自信が持てるわけです。

不安だらけの治療家であっては困りますが、自分の限界を知って、その上で、他の治療法にも目を向け、研究を怠らない。そういう治療家でなくてはならないと思います。治療とは、自分の型に患者を嵌めるのではなく、患者の特性を理解して、患者に合った療法を発見し、施すことを言うのだと思います。
「胎教」の本当の意味
この数ヶ月、改めて「前世」に関する考察をしていました。必要なときに必要な情報が集まる。まさにそれを実感するように、新しい知識が自分のもとに押し寄せて来て、パズルのピースがカチカチッと嵌っていくような深い理解が得られました。多くの疑問が解けてきました。

その中で「転生」に関する一つの疑問が解けました。「輪廻転生」を知っている方なら、誰しもこの疑問を持ったことがお有りでしょう。いったいどの時点で「転生」が行われるのか。これには大きく、受胎時説と誕生時説がありました。しかし実際は次のようなプロセスを踏むようです。

次の転生を計画している霊魂は、これから誕生して来るであろう赤ちゃんのボディを受胎時に先ず予約します。一年間に世界で誕生するベビーの数はおよそ1億4千万人。その中でどのボディを選ぶかについては、ガイドさんやマスターとの話し合いの中で2・3の候補が示され、最後は自分で選びます。

そして仮予約をしますと、誕生までの間、霊魂は胎児の体に出たり入ったりしながら、両親、特に母親の健康を気遣いエールを送って生活します。妊娠中というのは、転生する霊魂から見れば、いわば試運転期間というわけですね。

よく「胎教」ということが言われますが、これは実は逆だったわけです。お母さんが胎児を教育しているのではない。胎児が、お母さんを教育していたのです。

妊娠期間中は、次の転生を待つ霊魂が、母親の周囲に浮かんでいて、たえず行動を見守っている。ですからお母さんの行動や、話していることや、感情はみなダイレクトに、その霊魂に通じています。このときの体験は、潜在意識の奥深くに刻み込まれ、その子の誕生後の人生に多大な影響を与えます。

よく死に逝く人は最後まで耳が聞こえている、と言いますね。これは実際には耳が聞こえているわけではなくて、肉体を離れかけている霊魂がすべてを観察しているのです。これと全く同じように、これから誕生して来る霊魂にも、総てのことが見えていて、聞こえています。死者の前でも、胎児や赤ん坊の前でも、ひそひそ話は御法度ですぞ。

このことが解っていれば、妊娠中のケアや赤ちゃんに対するケア意識が、ちょっと変わるかも知れませんね。
サラリーマンと居酒屋
サラリーマンが居酒屋で呑んでいる姿を見るのが好きです。これがある限り、まだ社会が健全に保たれているという感じがするんです。ニュース報道などで「サラリーマンの声」を拾うシーンになると、きまって新橋の機関車前。それでたいがいが酔っぱらっている。

あそこに登場する2・3人が、日本のサラリーマンを代表しているとはとても思えないのですが、なぜかそういう決まり事になっています。きっとテレビ局でも「このあとにサラリーマンの声入れたいから、お前、新橋へ行って画を撮って来い!」なんて言ってるんでしょうねぇ。

レクリエーションの語源をご存知ですか? レクリエーションは「re-creation」。つまり「再創造」という意味なんですよね。

産業革命が起き、炭坑労働や工場労働などで人間が長時間単純作業にコキ使われるようになってくると、そうした現場では疲れからどうしても生産力が落ちて来る。特に炭坑労働のような隔離された場所での労働はストレスが大きい。

そこで、生産力を回復させる必要性から、肉体的・精神的疲労を緩和する目的でレクリエーションが積極的に導入されたんです。ですから今でも、例えば海底油田のプラットフォームなどには劇場や娯楽施設が完備されています。まあどこの人も、風呂に入ったり、映画を見たり、お酒を呑んでくだを巻いたりして、心身をリフレッシュさせているというわけですね。

これはたぶん大昔から変わらない。だから、それができている間はまだいいのかな、と。大災害や戦争が起きたら、とてもそんなことできませんから。あ、そうそう。八戸市の八戸横丁連合協議会のゆるキャラ「よっぱらいほやじ」がカワイイ。どこかに上着とズボンと靴を置き忘れてきちゃったのね。
パクス・アメリカーナ
パクス・アメリカーナ(Pax Americana)。
この言葉はローマ帝国の全盛期を示すパクス・ロマーナ(Pax Romana)に由来します。「Pax」は、ローマ神話に登場する平和と秩序の女神のこと。ですからパクス・ロマーナは、「ローマの平和」、 パクス・アメリカーナは「アメリカの平和」という意味になります。

パクス・ロマーナという言葉を最初に使ったのは18世紀のイギリスの歴史家エドワード・ギボン。彼は著作『ローマ帝国衰亡史』のなかで、五賢帝の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と評し、それを「パクス・ロマーナ」というラテン語の造語をもって当てたのです。

しかしこの「平和」は、文字通りの「平和」を意味しているのではありません。そこには強大な軍事力を背景にした秩序と安定、という皮肉っぽいニュアンスが含まれています。ですから「パクス・アメリカーナ」も、超大国アメリカの覇権が形成する「平和」という意味なんですね。

外国にあるアメリカの軍事基地は、非公式を含めると800箇所以上。日本もそうですが、ちゃんとした独立国の中にまで軍事基地を置いているのですから、よく考えるとおかしな話です。それは、言葉は悪いかも知れませんが「属国」という位置づけなんですよね。

シリアで毒ガス兵器が使われたということを口実に、アメリカの軍事介入が取り沙汰されています。国連安保理の決議がなくても軍事介入に踏み込む意志がある、と言っているようです。シリア政府が使用したという明確な証拠があったわけでもないのに、そうした意志を国内外にちらつかせる。

大量破壊兵器の存在を口実に、イラクに攻め込んだブッシュ政権時代と重なってきます。結局イラクに大量兵器などはなく、国家元首を殺害して一国を蹂躙し、その後に混乱をもたらしただけでした。シリアが内戦状態にまで進んでしまったのも、元はと言えばアメリカを中心とする西側の意向が働いたからです。

自分で火を点け、自分で消しに行く。そして「正義と自由」の名の下に、どこもかしこも廃墟にしてしまう。こんなことが大手を振ってまかり通り、メディアもそれを後押しする。異常です。気象も気性も。中東発の破局のシナリオを、どうしても実行したい人たちが居るようです。
おすすめ映画『マーサの幸せレシピ』
このところずっと気分が塞ぎ気味でスランプだったので、ふと思いついて、録画してあったドイツ映画の『マーサの幸せレシピ』を観て過ごしました。この映画を観るのは2度目です。派手さのない小品ですが捨て難い味を持った秀作だと思います。キャサリン・ゼタ=ジョーンズ主演で、ハリウッドでもリメイクされました。

主人公のマーサはハンブルクにあるフランス料理店のシェフ。腕はいいのですが、妥協を許さずに味を追求する姿勢が裏目に出て、いつも気が張りつめピリピリしている。周囲の状況が自分の思い通りにならないと癇癪を起こすか、時に過呼吸のパニック発作を発症する。そのため精神分析医のもとに定期的に通っているが、そこでも料理のレシピを一方的に話すのみでなかなか改善が見られない。

説明がほとんど省かれた脚本になっているので想像するしかないのですが、妹や姪との関係を見れば、たぶん家族に愛された経験がなく育ってきてしまったのでしょう。そうした中で、料理だけが自分のアイデンティティを実感できる手段だったのです。そこに、職場の同僚としてガサツなイタリア野郎が登場します。

マーサは当初、この男マリオが自分の座を狙っているのではないかと勘ぐるのですが‥‥。親交を深めていくと、ただの純で陽気な男だということがだんだんと解って行く。それはマーサとは正反対のアバウトな気性の持ち主なのですが、料理を極めたいという姿勢だけは二人とも共通したものがある。

このマリオがマーサの頑なな心をしだいに溶かして行くんですね。その大きな変化が垣間見えるのが、マーサがマリオに放つ次の台詞。
「力を貸して」
マーサがマリオに頼むのです。きっと彼女は、今まで男に頼み事などしたことなどなかったことでしょう。でも純なマリオに接したことで、自分の中の素直さをやっと発見したんです。

さて、現実ではこんなハッピーエンドになるでしょうか? でもなれたらいいなぁ。
死生観
いささか古いデータになりますが、2005年のギャラップ調査によればアメリカ人の20%が「輪廻転生」を信じているとのことです。ご存知のようにアメリカ合衆国はキリスト教徒が8割を占める国で、キリスト教は教義として「輪廻転生」を認めておりません。

しかしべトナム戦争を契機として沸き起こった「ヒッピー・カルチャー」や「ニューエイジ運動」の盛り上がりを経て、70年代以降、アメリカ人の「死生観(しせいかん)」が大きく変わって行ったといいます。その真打ち登場が、1983年に刊行され世界的なベストセラーとなったシャーリー・マクレーンの著書『アウト・オン・ア・リム』でした。

今は「karma」も英語化され、東洋思想が語る真理に目覚め、傾倒する人も多くなっているようです。特に、芸術や、工芸や、 医学分野などで、最先端を走る人にその傾向が強いようです。ところが日本では、反対にどんどん西洋的な物質主義が幅を利かせるようになっていきました。

過去50年で、日本人の「死生観」が大きく様変わりした。というよりも「死生観」そのものを、日本人はどこかに置き忘れてきてしまったのではないでしょうか? 「死生観」と書いて、<しせいかん>と読むことや、その意味も、すでに解らないのではないでしょうか? 「あなたの死生観は?」と訊かれて、返答ができるでしょうか?

「死生観」とは、<死ぬことを考えた上での、生き方に関する見解>を言います。人間、いつかは死ぬわけですから、そこにスポットを当てて考えると、どうしたって人生観も変わってきます。そこから「どう生きるか」だけではなく、「どう死ぬか」という感慨も生まれて来るわけです。それが「死生観」です。“Be Here Now” は、一つの「死生観」だと言えるかも知れません。

さて、日本人から「死生観」から失われた背景には、今や大部分の人が病院で死ぬようになったことがあるように思います。生まれて来るのも病院なら、死ぬところも病院です。でも考えてみればこれはすご〜くヘンです。なぜなら「生」も「死」も「病気」ではないからです。

それをまるで病気の亜種のように位置づけて、いつの間にか、それを当たり前に思うように人々に刷り込んでしまいました。替わって葬儀は、結婚式と並ぶイベント・ショーに成り下がってしまいました。こうなったら、もう「霊魂」もへったくれもありません。葬式は死者のためにあるのではなく遺族のためのもの、と堂々と宣言する人もいるくらいです。

私の母は自宅で息を引き取ったのですが、死んだ後で、お医者さんを呼びに行き「死亡診断書」を書いて貰いました。そうしないと、火葬許可が下りないからです。自然死は不審死扱いなのです。何がなんでも免許を持った医者が「死んだ」と認めないと、死なせて貰えない仕組みになっているのです。こんな馬鹿な話があるでしょうか?

今のお医者さんは「自然死」をほとんど見た経験がないのだそうです。ですから「自然死」がどういう経過をとるのかを全然知りません。そこで、一分一秒でも長く生かすことが「最善を尽くす」ことだと思い込み、家族も「先生にお任せします」が最善だと思い込み、共に死に逝く人をスパゲッティ症候群にして苦しめているのです。

この異常さに、気づくべきときが来ています。長い歴史の中でこれまで人類はどういう死に方をしてきたのか? ここ3・40年で定着した、一分一秒でも長く生かすという考え方が、本当にいいことなのか?幸いにと言うべきなのか、医療が治療効果のない患者はベッドから追い出す方針に転換したことで、自宅で死を迎える人が増えて来ているようです。

その時がきたら、あなたはどのように死にたいですか?
子供が語る前世の記憶
ご自分が幼少だったころの、奇妙な感覚を覚えていませんか? 私は外国の景色を白昼夢の形で見ることが多くあり「これはなんだろう?」と思っていました。その中身についてはもう忘れてしまいましたが、確か中東の景色だったような気がします。それとカラーの鮮明な夢をよく見ました。

今ならそれがどういう現象で起きていることか、ちゃんと説明できるのですが、子供のころにはもちろんそんな知識がありません。ですから、自分だけがおかしいのではないか、頭が狂っているのではないかと不安に思い、誰にも打ち明けられませんでした。そのうちにそうした体験が減って行き、遂には忘れてしまいました。

これは前世の記憶なのです。幼少の頃は、自分が選んだ肉体との同化がまだ完全には進んでいないので、そうした現象が起こります。私の息子は、幼少時に、突然人格が変わったように急に大人びた口調で言葉を話したことが二度ありました。たぶん本人は何も覚えていないでしょうけれど。

ヴァージニア大学医学部精神科の主任教授だったイアン・スティーヴンソン博士が『前世を記憶する子どもたち』を発表したのが1966年。これを契機として、1969年にはエリザベス・キュブラー・ロス博士の『死ぬ瞬間』、1975年にはレイモンド・ムーディーの『かいまみた死後の世界』など、輪廻転生の証明に関わる研究が進みました。

いま幼稚園くらいまでのお子さんをお持ちの方なら、お子さんの何か不思議な言動を、きっと一度や二度は耳にしたことがあるでしょう。そんな時には、否定なさらずに、じっくりと聞いてみてください。時には「ねえ、あなたが大人だった時のこと、覚えている?」と訊ねてみてください。もしかしたら、過去世でのあなたとの関係を聞き出せるかもしれませんよ。
「ブラック企業大賞2013」の結果を見て

8月11日、昨年に引き続いて今回で2回目となる「ブラック企業大賞2013」の発表がありました。主催者側は「受賞式」と言っていますが、受賞した企業はわざわざ受け取らないでしょうから、まあキツイしゃれということです。「ゴールデンラズベリー賞」や「イグノーベル賞」に似ていますが、あれよりもずっとキツイ。なにせブラック・ジョークと言うくらいですから。

私は基本的には、軽々しく他者を揶揄したりすべきではないと思っています。でも今は労働者の立場があまりにも弱すぎて、人は「使い捨て」という風潮が社会に浸透してしまいました。組合も弱体化してしまって有効な対抗手段もありませんから、こういうしゃれで対抗するのはなかなかいい方法だと、そのアイデアには感心しています。

運営主体は、作家や弁護士や大学教授などの有志10人で構成された「ブラック企業大賞企画委員会」。このグループは「ブラック企業」を次のように定義し、これらの観点から具体的な企業をノミネート。Web投票の結果も反映して大賞ほか各賞を選出しています。

「ブラック企業大賞企画委員会」による「ブラック企業」の定義
(1)労働法やその他の法令に抵触し、またはその可能性があるグレーゾーンな条件での労働を、意図的・恣意的に従業員に強いている企業。
(2)パワーハラスメントなどの暴力的強制を常套手段として従業員に強いる体質を持つ企業や法人(学校法人、社会福祉法人、官公庁や公営企業、医療機関なども含む)。

さて、今回の「大賞」受賞企業はワタミフードサービスでした。ワタミは2012年にも「市民賞」を受賞しています。

2008 年6 月に正社員だった当時26 歳の女性が、厚生労働省が定める過労死ラインをはるかに上回る残業を強いられ、わずか入社2 カ月で精神疾患と過労自殺に追い込まれたという事件がありました。この事件と、その後の同社の対応、代表である渡邉美樹氏の一連の発言などが火に油を注ぐ結果になったようです。

でもこの方、国会議員になられたんですよね。それで、第一次安倍内閣の時には教育再生会議の委員、それから神奈川県教育委員会教育委員も務められた。
すごい時代になっちゃったなぁ。もう「う〜ん」って感じです。

アルジャジーラのシリア報道豹変の裏
エジプトでデモ隊鎮圧をめぐり850人もの人が亡くなったそうです。1989年の天安門事件の犠牲者に匹敵する(500〜1000人と見積もられている)すごい数です。けれども、シリアの内戦が泥沼状態ですから、言葉は悪いですが、何か馴れっこになってしまっている自分がいます。

日本のメディアが報道する外国のニュースは、アメリカに著しく偏向していて、あとはヨーロッパとアジアが少し。中東やアフリカ諸国に関するものはあまりありません。今までずーっとそうだったので、日本人はそれを変だとも思っていません。でもオーストラリアの放送を見ると、日本て変だなぁと解ります。(オーストラリアは周辺国を万遍なくカバーしている)

アラブ圏のニュースは、カタールにある放送局のアルジャジーラを見るくらいしか手段がないのですが、シリア報道に関しては常々おかしいと思っていました。内戦が始まったころは、アサド大統領がいかに残虐な人間かというところにスポットが当てられていて、流される映像は誰が撮ったかも解らない携帯電話の映像ばかりだったのです。

ところがふた月前くらいから、シリア政府側のニュースが流れるようになりました。NHKのアナウンサーも「アサド大統領の久々の登場です」なんて言っているのですが、シリア政府側の放送は内戦中もずっとあったでしょうし、それを意図的に取り上げなかったのはアルジャジーラなんですよね。いったいこの豹変ぶりはなんだろうと思いました。

アルジャジーラというのは、一応アラブのCNNという位置づけになっているようですが、実体は西側の息のかかったメディアだそうです。ですから、決してアラブ世界の代表というわけではなくて、西側のフィルターを通して、その都合に合うような内容しか報道していないんですね。ウィキペディアのアルジャジーラの項を見てびっくりしたのですが、日本のNHKがいちばん放映権料を払っているらしいのです。

さて、この豹変ぶりの意味がなんとなく解ってきました。シリアの内戦では、反政府武装組織である自由シリア軍に、最初は西側が武器を供与していたと言われています。ところが、その反政府武装組織が、どうも外国から来た「サラフィー主義者」に乗っ取られたようなのです。それで、取材の視点が豹変した。

「サラフィー主義者」は、西側がイスラム過激派と呼んでいた人たちですから、そうなると、サダト大統領が言っていた「外国から来たテロリスト」という指摘は、あながち嘘でなかったことになります。ということで、中東状勢が、西側の支配者たちが計画した思惑通りにはうまく進んでいないようです。

ムスリム同胞団の支持者は1000万人も居ると言うし、エジプトも内戦状態に突入かと心配です。
エンデの『モモ』と Be Here Now
“Be Here Now”

どうして「いま」なのでしょうか? それは、時には「今」しかないからです。
なにを馬鹿なこと言ってるんだ。時には「過去」「現在」「未来」があるじゃないか。我々は日々、カレンダーや時計を目にし、使っているじゃないか。

その通りです。
でも「時間」は捕まえられません。私たちが「過去」と呼んでいるものも、本当にあったことかどうかは疑わしい。

そんなことはない。歴史教科書に史実が載っているし、家族写真だって残っているじゃないか。
でもそれが「過去」の証拠なのでしょうか? まあ普通に考えれば、そういうことになっています。でも「過去」を出現させることはできません。その「過去」なるものが、幻でなかったと果たして言い切れるでしょうか?

結局「時間」というものが何かは解らない。万物に同じ早さでめぐっているものなのかも解りません。これは瞑想をしていれば誰でも体験することですが、覚醒時と瞑想時では、時間の進み方がまるで違うのです。時間は一定ではない、というか時間感覚は一定ではない、と言った方が正確かも知れませんが、とにかくよく解らない。

かろうじて確かのように思えるのは「いま」しかない。それなのに我々は、過ぎ去った「今」を「過去」と呼び、これから来る「今」を「未来」と呼ぶ。そしてその間の「時間」に、あたかも価値があるかのように考える。それは、見ることも捕まえることも出来ないものなのに‥‥。

ミヒャエル・エンデの『モモ』は、このことを寓話的に描いた作品だと私は思っています。「時間貯蓄銀行」を名乗る「灰色の男たち」は、時間を大切にしなさい、自分の目標達成のためにせっせと貯蓄しなさいと、街の人たちにアドバイスを与えます。

そしてそれに感化された人々がきっちり時間を管理するようになると、人々は仕事で成功し経済的にも豊かになっていく。ところがその代償として、友だちと語り合う時間を失い、人生を哲学する時間をなくしてしまうのです。時間を大切にしなさいと啓蒙する人たちは、実は「時間どろぼう」であったというお話です。

果たして「時間」を奪った犯人は、この「灰色の男たち」なのでしょうか? そうではないと私は考えます。時間は最初からなかった。ないものをあると錯覚してしまい、富と引き換えに大切なものを失ったがために「時間」が奪われたと解釈した。つまり「時間」に価値を見出そうとしたことも、それが奪われたと感じたことも、ともに意識が作り出した幻覚だったのです。

モモが取り戻そうとしたものは「時間」ではなく「瞬間」、つまりその陰に隠れて見えなくなってしまった「今を生きる」ということだったのではないでしょうか? 時間を効率的に使うことや、そこから富を生み出すことに腐心するよりも、ただ「今を生きろ」と。つまり “Be Here Now” 『モモ』は、そのことを語っているように、私には思えるのです。