by Rainbow School
<< July 2013 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
「きめつけ対応」の方法
心が閉じて来ると、人は最後は「きめつけ」に陥ってしまいます。「どうせ俺なんかダメだ」とか、「何をしようが仕方がない、人生無意味だ」とか。もう、やけのやんぱちです。
こうなりますと、心はテコでも動かない。子供がこうなったら、見守る親としても途方に暮れてしまいますよね。

7月17に書いた元宮川医療少年院院長の小栗正幸さん。この方が仰られていた「きめつけ対応」の方法をご紹介しましょう。

人は、人間関係においては、経験的に二つの方法を対処法として用いて来ました。「反論」か「受容」です。

例えば「どうせ何をやっても意味がない」という人に対しては、
A「そんなことはないよ」(反論)
B「今はそっとしておいて欲しいんだね」(受容)
というどちらかの方法です。ところが「きめつけ」の場合は、これがどちらもうまくいかないのです。

「きめつけ」とはこだわり。行動をパターン化して極度に固執した状態です。作り上げた殻が固くて、反論の言葉も受容の言葉も中まで届きません。
そこで、肯定的フィードバックをテクニックとして使うといいと、小栗正幸さんは仰っています。

上の例ですと、
「そんなことを考えるようになってきたのは、君も大人になった証拠だね」
と言ってみる、などです。
これは、言われた方からすれば「あれ?」という驚きになります。何しろ、考えもしなかった視点からものを言われるわけですから。

こんなふうに視点を変えてしまう方法を「リフレーム」と言います。それは元の問題に全然応えていないわけですが、殻を砕くにはとても有効なのです。
そもそも元の問題など、その時の気分の状態によってどうとでも変わる事柄です。気分が落ち込んだ時には、誰だって「どうせ何をやっても意味がない」と思ったりします。

それと同じ地平に立ってものを言っても、説得力にはならないということです。相手の気持ちを理解することは最も大切ですが、「きめつけ」が見られた時には、同情し過ぎずにちょっと引いて見るようにします。

「リフレーム」は機転が必要なので最初は難しいですが、一呼吸置いて肯定的な言葉を探せば、しだいにうまくいくようになります。ぜひチャレンジしてみてください。
判断に迷ったら
仕事をしていて判断に迷うという時がありますよね。誰かに相談したいけれど、相談する相手もいない。こんな時には次の方法を試してみてください。

本棚の前に立ちます。そして軽く目を閉じて深呼吸をします。3つ数えながら吸って、5つ数えて吐く。これを数回。心が落ち着いて軽くなったら、ゆっくり目を明けて、本棚に並んだ本の背表紙をぼんやり眺めます。

ピン!ときて目に留まった本があったらそれを取り出し、どこでもいいですからページをパッと開いてみてください。そこに答えにつながるヒントがずばり出ています。
毎回うまく答えが出るというわけにはいきませんが、3回に1回くらいは「なるほど!」と思わされるはずです。

気づきというものは、冗漫な言葉からは得られません。短い言葉や、体験したちょっとした感覚から得られます。誰かから言われた「ひと言」が、ずっと心に残ってはいませんか? 本のページを開くと、文章の中の一行が、それと同じようにして迫ってきます。

注意していますと、必要な時に必要な言葉が、どこかから与えられていることに、あなたは気づくでしょう。
開き直りの時代?
「BS世界のドキュメンタリー」で『ウォール街のアンタッチャブル』という番組を観ました。2007年にアメリカで起きた住宅バブル崩壊に伴う金融危機の裏には、銀行の度を超した貸し付けがあり、これは金融詐欺に他ならないのに、未だにウォール街から一人の逮捕者も出していないというのはいったいどういうわけか、という疑問を一人のジャーナリストが追及したドキュメンタリーです。

住宅バブルが起きた背景には、融資基準を満たさない(つまりお金を借りた後に返せそうもない)人々に対して、金融機関が野方図にお金を貸しまくったことがあります。「えっ、返済の充てがないお金をどうして貸すの?」と思われるかもしれませんが、貸した側はこれらを債券にして、投資家に売ったのです。

「それじゃ投資家が、投資資金を回収できないのは目に見えてるじゃない?」という当然の疑問が沸くでしょうが、これになんと信用格付機関が「安全」のお墨付きを与えていたわけです。だったら信用格付の意味がないじゃん、と思いますよね。これがバブルの恐いところで、みんなが一斉に走り出すのでもう止めようがないのです。

おかしいな? と思う人がたとえ一人二人居たとしても、大勢の声に掻き消されてしまう。結局バブルというものは崩壊を待つしかストップすることがないのです。2008年にはリーマンブラザーズが倒産。世界経済に大打撃を与えたことは記憶に新しいでしょう。

リーマンブラザーズは倒産したんですが、シティグループやAIGは大き過ぎて潰せないという理由で、アメリカ政府が救済しました。このときシティグループの経営執行委員会会長に納まっていたのがロバート・ルービン。この人は、ハーバード大学経済学部を最優等で卒業した秀才ですが、クリントン政権時代には財務長官を務めていました。

さてドキュメンタリーには、このロバート・ルービンや、犯罪を取り締まる側の司法省次官補ラニー・ブルアー、FBI犯罪捜査部責任者ケビン・パーキンスらが登場します。しかしどの人もはぐらかしに終始していて、言葉はどうにも歯切れがわるい。表情というものは隠せないもので、「嘘をついてますけど」というのがもう見え見えです。

アメリカ政府は、外国に対してはいつも「正義(Justice)」ということを振りかざすのですが、そのアメリカ政府自体が腐りきっていて「正義」などどこにも見られません。
その腐りきったアメリカに、日本は着いていかなくちゃならないんですから、困ったものです。

メディアが多様化して、こうした不正が見え見えになっているというのに、アメリカも日本も政治が改まるということが全くなくなりました。昔は週刊誌ネタをきっかけに政治家が失脚なんてことが随分あったのに‥‥。

この変化はなんなのでしょう? 原発だって事故から2年で推進ですよ。未だに誰も逮捕されない。
厚顔無恥がまかり通る時代。開き直りの時代なのでしょうか?
屋根修理にまつわる葛藤
近所で塀のペンキを塗り直しているお宅がありました。2人職人さんが来てその作業をしていました。数日経ったある日、家の扉をノックする音がしたので出てみると、件(くだん)のペンキ屋さんの若い職人が立っていました。
「いま親方に行って来いっていわれたて来たんですけど、お宅の屋根、大分経ってますね。いつ建てたんですか?」
そう言われて、屋根が見える坂道の上まで連れて行かれました。
「ほら、屋根の色が薄茶色になっているでしょ。もうコケが生えてますよ。このまま放置したら大変なことになりますよ」
自分も、引っ越して来て以来、一度も屋根修理をしたことがなかったので、そう言われて心配になって来ました。屋根を見せてくれというので、ハシゴを掛けて上がってもらうと下りて来て
「ああ、やっぱり大分傷んでますね。鋲が浮き上がっているし、スレートが割れてるところもありますよ。今だったらいいけど、屋根裏まで雨が滲み込んだら百万単位のお金が掛かりますしね。塗り直しした方がいいですねぇ」とのこと。
その言葉にビビって見積りをして貰ったら、
「足場を組んでから最初に高圧洗浄を行うので、それを入れて45万くらいですね」
それを聞いて、腰が砕けそうになりました。私の家は玄関を開けたらどん付きまで見えるようなちっちゃい家。一ヵ月食費代3万円でやっと暮らしているのに、そんなまとまったお金などありません。
そしたら、その親方が私の顔色を見てすぐに
「足場代はサービスしておきますから、25万円くらいでどうですか?」
と言ってきました。
いったいどこをどうすれば、最初の45万円が20万円も一挙に下がるのか、よく解りませんでしたが、25万円であっても私にとっては大金です。
さてそれからです。私の内なる葛藤が始まりました。
このまま放置すれば、屋根裏まで雨が浸透し、そうなれば百万円以上の出費になる。さりとて、いま修理しようとしても25万円のお金を工面しなければならない。さあ、困ったぞ。
どっちにしたところで痛手であるという二者択一です。日ごろこのブログでも「とらわれ」を捨てなさいなどとエラそうに書いているのに、ビンボー人の性といいますか、完全にその術中にハマってしまいました。
不思議なものですね。もしペンキ屋さんがトントンとドアをノックしなかったら、私はなんの心配もしていなかったことです。それがそういう気づきを与えられたとたんに、どっちに転んだところで痛手に変わりがないという葛藤状態に置かれてしまったわけです。
こういう時には、いつも相談している、元暴走族の友人Tちゃんです。彼はペンキ屋さんだったこともあります。さっそく「こういうことがあったんだけど」と相談すると、
「ペンキ屋が一軒入ると、連鎖的にその周辺がみんなやるんですよ。そういうのに乗っちゃダメ。あなたの家だったらそんな掛からない。足場なんていらないし、高圧洗浄なんかしなくていいし、せいぜい15万もあればできるよ」と。
それで、信頼できるという友達を紹介して貰えることになりました。ホッとしました。
かように、葛藤状態にある時には、前後を見失っているということです。
どうも私は、クルマをぶつけたらどうするかとか、屋根の修理はどうするかとか、そう方面には弱いようです。またもやTちゃんに助けられました。
カミさんの死にまつわる出来事
私のカミさんは、今から7年前、私が51歳のときに死にました。スキルス性の胃癌だったので、発見されたときは既に第四期。あっと言う間に死んでしまいました。
胃癌が発見されてから、親しくしていた薬局の先生(私のお姉さん的な人)にそのことを打ち明けると「とにかくベッドを確保しないさい」と言われました。

そう言われて動いてみて初めて解ったのですが、ベッド確保がこんなに大変だとは思いませんでした。これからそういう状況が訪れるかもしれない方に申し上げておきますが、東京で末期癌の患者の入院先を探すのは至難の業です。行き場所がありません。いわゆる癌難民という状態になってしまいます。

病院のベッドは、治る見込みのある人のためのもので、死に逝く人の居場所ではないのです。そうハッキリ言われます。歩ける間は、某大学病院まで放射線治療に通っていたのですが、最後はそこを出されてしまいました。ここでは「資本主義だからね」と、先生に言われました。つまり「お金を積めばベッドはあるよ」ということです。

私は貧乏ですし、カミさんもそのことは解っていたので、それからは自宅で看護をすることにしました。地域医療専門の病院で点滴の仕方などを習って、2ヵ月くらいはそれを続けました。とてもいい経験になったし、濃密な時間を過ごすことができました。しかし、死ぬ2ヵ月くらい前からは、さすがに大変でした。

そんな最期のときに、日の出町のホスピスに入院できたのは幸運でした。やはり緩和ケアのノウハウが、一般の病院とは全然違いましたから。しかし都内のホスピスは満杯で空きが全くありませんでした。だいたい3ヵ月待ちだと言います。しかも審査があるので、審査を通らなければ入院はできません。

しかし考えてみてください。ホスピスというのは死に逝く人をケアする病院です。それを死の3ヵ月以上前に決断するというのは、非常に厳しいものがあります。
今の時代に都会で「死ぬ」というのは、とても難しいんだなぁ、とそのとき思いました。

やっぱり「死」がまともに扱われていないというか、うっちゃられている現実があるのです。日の出町のホスピスで亡くなった後、亡くなった月別に遺族が集まり、その後を話し合うような機会が2年間ありました。これはよい試みだと思いました。

その時に一度、主治医の先生が「霊魂はあるかも知れない」というようなお話をされたので、私は先生に手紙を書きました。当時は、私の知識も中途半端だったのですが、知っていることはお伝えしたいと思ったのです。でも、返事は来ませんでした。

それから私も徹底的に勉強したので、死後の世界のことはだいぶ解ってきました。今日、セミナーでそのお話をさせていただく予定です。みんなが、特に医療関係者が、死後の世界の知識を深めてくだされば、世の中ももっとよい方向に変わるのにな、と残念でなりません。
親を許す方法
これは人間関係全般に言えることなのですが、葛藤を<相手対私>という状況に置いたままでは、心がいつまでたっても治まりません。争うか、引き下がって屈辱に甘んじるか、どちらも決断できずに中間状態に留まるか、そのいずれかになってしまうからです。

夫婦関係の場合は、離婚という選択肢を取らざるを得ないことも多くなっています。そうして葛藤の状況を清算しても、心の傷は残ります。親子関係の場合は離別・絶縁ということは出来ますが、夫婦関係のように籍を抜くといったことができないので、「親子」という幼少期に体験した上下関係をいつまでも引き摺ることになりがちです。

幼少期に親からひどい扱いを受けたという体験があったら、親をなかなか許すことができないことでしょう。前にも書きましたが「許す」とはからんだ糸を緩めることが語源です。罪を「赦す」とは違うのです。「許す」ことで、自分の中のこんがらがった糸をほどくのです。相手を許すことで、自分を許すのです。

そのためには、<相手対私>という、同じ土俵に自分を置くのではなく、その土俵を俯瞰する目に立つことがどうしても必要です。
そこで、いい方法をお教えしましょう。父親なら自分の弟、母親なら自分の妹だと思ってその視点で親をみてください。これで、暗黙の上下関係の呪縛から逃れることができます。

親子関係は、幼少期の力関係からすればどうしても上下の構造を作ってしまいますが、人間性あるいは霊性において、親が常に上だということはありません。子供の方が進んだ魂だということは大いにあり得ます。

実際、生まれ変わりの過程で、親子関係が逆になったり、兄弟の誰かが親になったり、場合によっては自分の敵(かたき)が親になったりする場合があることも、多く報告されています。

どんな問題でも、心の呪縛を解くには、一段高い場所に自分の心境を置き換えることが重要です。すぐにそうした心境になれないかもしれませんが、目を閉じて、アファーメーションのように「お父さんは弟なんだ」という言葉を自分に言い聞かせると、しだいにそれが浸透していきます。このテクニックは夫婦関係でも使えますので、困っている人は試してみてくださいね。
忍耐
職業に貴賤があったり、上下関係があったりすることは、これはもう仕方のないことです。本当はそうではない、お互いを尊重できるフラットな関係が望ましいのですが、他者を支配したいという欲望を持つ人たちが大勢いる以上、どうしても逆の立場の人が生まれてしまいます。

また社会も、口では平等とか公平と言いながら、やっていることはまるで逆です。将来は社会的にステータスのあるポジションに付けるよう、子供のときから競争で他者を出し抜くことを、あらゆる場面で教えられます。競争がすべて悪いわけではありませんが、敗者を顧みない視野狭窄に陥ってしまっては人間教育にはなりません。

さて、上澄みを生きるのと、下積みを生きるのと、どっちが幸福でしょう? あなたはどっちがいいですか? わざわざ下積みをやりたいなんていう人は、めったに居ないかもしれませんね。でも中には変わり者が居て、上澄みなんてイヤだという人も居るかもしれない。

『おしん』のことばかり書いて申し訳ないですが、ここに渡瀬恒彦さん演じる浩太さんて人が出て来るんですよ。この人のお父さんは貴族院議員の名門なのに、浩太さんは敢えて出奔し、農民運動に身を投じるという設定です。つまり、上澄みの生活を拒否したんです。それは、自分を活かす場が、そこにはないと判断したからなのでしょう。

まあこういう人はめったに居ませんけれど、大多数の人は逆。上澄み生活が羨ましいのに下積みに甘んじるしかない。でもそこで、腐っちゃダメなんです。忍耐が必要なんです。暴力を受けたり、自分の人格を破壊されるようなことまで耐え忍ぶ必要はありませんが、仕事上の少々の軋轢はガマンしないと、スキルは向上しません。

若い時に、職を転々として来た人の多くは、これができないんですよね。人格攻撃と、仕事上の注意の区別かつかない。だから上司や同僚からちょっと注意を受けると、「自分は一生懸命やってるのに、周囲が何だかんだ言ってくる」と相手を非難して、すぐに辞めてしまう。

こういう人は、自分の自信のなさを、他者への非難・攻撃にすり替えてしまうんです。でもそれをやり続けていたら将来が開けません。「周囲の奴らはバカばっかり」と不平不満を絶えず口に出すものだから、そのうち誰からも相手にされなくなってしまう。そういう「自分がいちばんのバカ」という自覚がまだないんですね、可哀想に。

「自分はバカである」と気づけば、「何でも教えて貰いたい」という意欲が沸き、その態度を見せ続ければ、やがて周囲にも可愛がって貰えるというのに‥‥。
意地を張る→周囲から見放される→仕事のスキルが上がらない→自信がつかない→他者を悪く言う→意地を張る。このループを断ち切らないとね。
低価格のつけ
物が安く買える。嬉しいですか? 嬉しいですよねぇ。でもちょっと待って。

私が20代の頃(70年代末から80年代初頭)には、スーツの値段は7万円くらいしていました。当時の給料は12・3万円でしたから、スーツ一着買おうと思ったら大変です。積み立て貯金をしなければとても買えません。その代わり、毎日ブラッシングをして、少しでも長く使おうとしました。

シャツはいいもので8,000円くらい。安い物で3,500円くらいだったと記憶しています。ですからシャツを買った日は大喜びで、気分がとても高揚していました。それが今は1,000円で買える。スーツも2万円ちょっとあれば買える。おかげで、スーツもシャツも手入れをしなくなりました。有り難みがまったく感じられなくなりました。

90年代の半ばでしょうか。ランチ弁当の価格帯があれよあれよという間に毎年100円ずつ下がっていきました。600円から500円、400円、そして半額の300円にまで下がった。いったい今までの価格はなんだったのかと思いました。喫茶店でコーヒー1杯が400円〜600円。それが今は150円。こういう低価格が当たり前になってしまい、若い世代にしてみれば昔の値段が信じられないことでしょう。

結局これで誰が得をしたのでしょうか? 消費者でしょうか? 90年代、市場開放論議が盛んだった頃に、アメリカは「消費者の利益」という錦の御旗を引っさげて日本に市場開放を迫りました。そのロジックは変わっておらず、ジム・ロジャーズをはじめとした投資家は、今でも必ず「消費者の利益」という言葉を発してきます。

自由貿易推進論者にとって、「消費者の利益」はもっとも解りやすい、そして大衆を騙しやすい言葉なのです。今まで高い金を払わされて来たのが、本当はもっと安く物やサービスを手に入れられるのだから、それがあなたの利益になりますよ、という理屈です。一見もっとものように聞こえますが、問題は、その安さが何によって実現されているか、という点です。

80年代までは、それが流通カット(卸店などを通さずに中間マージンを減らす)によって実現されてきました。ところが今は、安い労働力と、超大量生産によって「安さ」が実現されているのです。

そうしますと、労働力については、安い労働力を求めて生産地が玉突き的に移動して行きますので、高い労働コストの地域ではたちまち空洞化が起こります。90年代には中国が世界の工場だったのですが、今は中国の賃金も高くなり、労働力がインドやミャンマーやバングラデッシュやアフリカに移転しています。これらの国では、低コストを実現するために、児童労働を含む非常に低廉で違法な労働が常態化しているのです。

一方、超大量生産については、市場が世界に広がったために、単一のものを大量に生み出すための材料が必要になります。これが限られた資源の野放図な収奪と、穀物や家畜の大量生産を必要とし、環境に多大な負荷をかけるようになってきているのです。

つまり「安さ」の実現には、裏側に必ず過酷な労働と環境破壊があるということです。おまけに、「安さ」が当たり前の時代では、それを実現するために、賃金も安いのが当たり前になってしまいます。なんのことはない、「消費者の利益」どころか、「安さ」は、安い物しか買えない人々を大量に生み出して行く基になってしまうのです。

それでいったい誰が得をしているのでしょう? それをコントロールしているごく一部の人々だけです。物でもお金でも、右から左へ大量に動かせば、その度に利益が発生します。一度に動かす量が多ければ多いほど、利益も大きい。そこでグローバル化する必要があり、そのためには自由貿易を推進しようと彼らは画策するのです。

自由貿易こそ諸悪の根源。世界中に貧困層を拡大させ、人々を労働の奴隷にする元凶なのです。
低価格のツケが、もう私たちの生活にも影響を与え始めているのです。
摂食障害
食べることは、人間にとっての大きな楽しみの一つです。その楽しみが、苦しみに変わってしまうのが「摂食障害」です。大きく過食症と拒食症のタイプがありますが、カーペンターズのカレンが拒食症で亡くなってしまったことはよく知られています。

「食べる」という行為があまりにも日常的であるだけに、実際に「摂食障害」を持っている人以外には、苦しさが伝わらないしピンと来ないのではないでしょうか? 逆にいま「摂食障害」にある人は、様々な情報を仕入れ過ぎてたぶん混乱しておられるだろうと思います。

いろいろなことが言われていますが、「摂食障害」も神経症の一種です。電車に乗れないとか、敷石の縁が踏めないとか、手の汚れが気になるなどと、根は同じです。真面目で自己評価の低い人が罹りやすく、「デブ」と言われたりしたことがきっかけとなって発症します。

例えば「食べてはいけない」という思いに対して「食べる」という行動を起こすと、それが自己嫌悪となって自分を責め、やがて吐いたりするようになっていくわけです。
「摂食障害」は体に関係したことなのですが、結局は心の問題です。

私も神経症の気(ケ)があるのですが、神経症を患っている時には、意識がそこに集中してしまい、なかなか手放すことができません。根が真面目なものですから「ま、いいか」なんていい加減な処理ができない。ついつい過剰に考えてしまうというわけです。

脱出のためのポイントは、2つあります。一つは「思い込み」に気づくということです。例えば「デブ」と言われたけれども、本当に「デブ」なのか、といったことです。体重や外見を見ても、全然そんなことはないということが往々にしてあります。さらに言えば「デブ」の何が悪いのか、ということです。

私は子供の時から、逆に「ヤセ」だとずーっと言われ続けてそれがコンプレックスになっていました。でも最近はむしろ羨ましがられたりもするし、これはもう個性だと割り切っています。ですから「ありのまま」でいいんだ、とそういう心境になることが大切で、その前に、自分の「思い込み」に気づかないといけません。

あなたの親兄弟や周囲の人たち、あるいはテレビや雑誌やインターネットは、絶えず無責任なメッセージを送り続けています。「痩せていなければならない」とか「異性にモテたいならこうするべきだ」とか「今これをしていないのは遅れている」とか。それでいて、一切責任は取りません。言いっぱなしです。

相手は確証があって言っているわけではなく、相手も単なる「思い込み」であったり、流行を演出したり追っているだけで、本質を語っているわけではありません。このようなメッセージを信じ込み、それにハマってしまうのは馬鹿げています。あなたはあなたでいいのです。自分の中に本質を発見しましょう。

二つめは、他の自己表現を見つけるということです。人は適切な自己表現ができないでいると、心に変調を来します。なぜかというと、誰しも独りぼっちがイヤで、周囲に自分を認めてもらいたいからです。自己表現というのは、そのためのコミュニケーションの第一歩なのです。

ところが、「食べる」という行為は、しばしば自己表現の代替手段となってしまうのです。うまく自己表現できないことによる満たされなさを、「食べる」ことで満たそうとするわけですね。「摂食障害」にある人は、たぶん、適切な自己表現手段がない状態だろうと推察します。

ですから、「思い込み」に気づき、捨てた後は、何か自分の自己表現手段を見つけてください。絵を描くことでもカラオケで歌うことでも何でも結構です。それによって、症状はしだいに改善して行くと思います。
体は借り物
霊魂の存在を真っ向否定する人はそれほどおられません。だからこそ皆さんお墓参りに行くし、家に仏壇を置き朝夕祈ったりしています。ところが、その霊魂とはどういうものなのか、どういう働きをしているのか、霊界はどういうところなのか、まで追究しようとする人は、極々まれです。

私にはこれが不思議でなりません。一つには目に見えない世界だからということがあるのかも知れません。でも目に見えない世界なんて他にいくらでもあります。ミクロの世界は目に見えないのに、私たちはラザフォードの原子模型などを学校で習って鵜呑みにしているじゃありませんか。宇宙の始まりなんて誰も見たことがないのに「ビッグバン」仮説を定説にしようとしているじゃありませんか。

でもなぜか「霊界」だけはタブーなんですよね。
これはね、「霊界」を知ると、この世の常識がひっくり返ってしまうからだと思うんです。そうすると都合の悪い人が出てくるから、それで無意識のうちにも抵抗するのでしょう。何しろ、地位、名誉、財産、なーんにも関係ない世界ですから。

前置きが長くなってしまいましたが、今日お伝えしたいのは「体は借り物」だということです。肉体があなたではないということです。あなたの本質はあくまで霊魂。霊魂は永遠不滅であり、成長を続けて元のところに帰還するまで、この世に何度も転生します。その時に一時的に拝借するのが肉体です。

ただしこの肉体は何でもいいというわけではなくて、自分でよくよく吟味して、選択して今に至っています。
「えー、それなのに、私ってこんななの?」ってガッカリした人も多いでしょうねぇ。でもそうなんですよ。ところが人は、肉体こそが自分だと思っているから、このことが解らない。

それで、借り物の肉体を、ついつい粗末に扱ってしまうんです。
自分の体は、自分の意識に貼り付いていて、鏡を使ったり写真に写すことでしか全体を見ることができません。しかしその鏡や写真に写った像も、像であって、実物ではありません。ですから、肉体から離脱することでしか、自分の肉体を客観視することはできないのです。

しかし考えて見れば、生まれてこのかた○十年、休み無く自分という霊魂を預かってくれているわけですからね。感謝しなければならないし、借り物を傷つけないように、もっとていねいに扱わなければなりませんよね。
あ、ちょっとビール飲み過ぎだぁ。反省。