by Rainbow School
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シリア状勢の報道に見る怪
国連の発表によれば、シリアで反体制デモが活発化した2011年3月から今年4月までに、内戦によって少なくとも9万3千人が死亡したといいます。そのシリア状勢をめぐる報道に、最近少し変化が見られるようになってきました。

以前の視点は、明らかに反体制側に立っており、ニュースで流れる映像は、携帯電話で撮影された出所も定かではないものが、アサド政権憎しとのコメントと共に使われていました。その一方で、シリア政府の国営テレビの映像が流れることは全くありませんでした。

ところが先日、フランスのテレビ局が映した首都ダマスカスの様子には呆気にとられました。市民が普通にカフェでお茶を飲んでいるではありませんか。裏事情を知らない自分としては、全くワケが解りません。しかも最近の論調は、シリア政府が勢いを盛り返して来たというものに変わってきました。

二つの疑問が沸きます。一つは、本当のシリア状勢はいったいどうなっているのか、ということ。もう一つは、報道視点が変化してきたのは、これまたいったいどういうわけなのかということ。


しかし合衆国大統領のこんな発言、もちろん信用できません。イラクの大量破壊兵器保持というのも捏造でしたし、アフガン侵攻だって最初にタリバンに武器を供与していたのはアメリカです。

自由と民主主義と正義の名の下に、常に自分たちの都合のいいように他国に軍事介入を繰り返して来たのがアメリカ。世界の警察官を任じていたその仮面が剥がされ、 今や世界の嫌われ者となり、自国民にさえ信用されなくなっている。

エドワード・スノーデン氏の一件もよく解らない。機密漏洩の罪を犯したといって合衆国がスノーデン氏の身柄拘束を狙っているという報道も、報道されればされるほど、アメリカ合衆国の悪者ぶりが目立つだけではありませんか?

何かニュース報道が変わって来たんですよね。シリア状勢に話を戻すと、政府側を支援していると言われるロシアを少なくとも「悪者」扱いしなくなっているんです。ベンジャミン・フルフォードさんが仰るように、これまで世界を支配してきたグループの勢いが弱まり、メディアの支配力も落ちて来ているということなのでしょうか?
心に負荷をかける
心が苦しい状態にあるとき、なんとかそこから脱したい、楽になりたい、元気になりたい、と願うのは当然の心境です。周囲の人たちがとても羨ましく見え、そうなれない今の自分に激しく苛立つ。それはよーく解りますよ。私もそうでしたから。でも、そこに間違った「思い込み」があるのです。

周囲の人たちはみな、いつも澄み切った青空のような意識で生きているわけではありません。晴れの日もあれば、曇りの日もある。ときには嵐やどしゃ降りの日だってある。それをみんなやりくりしながら生きているのです。心が苦しい状態にあるときは、そのやりくりがヘタクソになってしまったときなのです。

こう考えてみてください。筋肉をつけたり心肺機能を上げるためには、体に負荷をかけなければ向上していきませんよね。それと同じで、人間性も、霊性も、負荷をかけなければ向上は図れないのです。

でも、いきなりスクワット1000回などに挑戦したらどうなるでしょうか? 体を壊してしまいます。それと全く同じ。人間性も、霊性も、負荷をかけなければ向上はないけれども、かけすぎは逆に体を壊すのです。人間性を壊し、霊性を壊してしまうのです。よく荒行や座禅のし過ぎで「魔界に墜ちる」と言われることの一端はそこにあります。

心が苦しい状態とは、負荷がかかった状態です。そのチャンスを忌避しないで、もうイヤだと決めつけないで、喜んでください。あなたは気づいていませんが、あなたの潜在意識が鍛えられるのを欲して、今そのように向上のチャンスが与えられています。

だから、負荷を完全に取ろうとはせずに、壊れない程度に治める工夫をしてください。やりくりをするのです。筋肉を鍛えるのと同じように、毎日、毎日、あきらめずに。
今は意味が解らなくても、それを乗り越えられたときに、「なるほどそうだったのか」と解るときが必ずやって来ます。
女優さん
健康食品の広告がやたらと増えて、かつて一世を風靡した美人女優さんが、<今もこんなに若々しくってきれいです>って感じで出てますよね。私、あれは無理があると思うんですよ。なぜって、明らかに整形してるのが判るから。何か痛々しい感じがしてしまうんです。

かつての美人女優の老後にも3タイプがありますね。
1.整形を繰り返し、昔のイメージを出来る限り維持し続けようとする女優さん
2.映画やテレビへの出演はやめて、舞台に活躍の場を移して行く女優さん
3.齢相応のキャラクターを演じる役者に変貌していく女優さん

あなたなら、どれを選択しますか?
人は誰でも齢をとっていきます。それを老醜にするか、成熟にするかは、その人しだいです。早い話が、精神のあり方です。

1.のタイプの女優さんは「老い」を素直に受け入れられないのですから、これはもう老醜です。いくら整形したってその心は隠せない。
2.のタイプの女優さんは、自分のポジションを解っています。でもまだ「若さ」にこだわりがある。
3.のタイプの女優さんは、変化していく勇気がある。これこそ成熟というものです。

20代、30代のころは、まだみんな若くてきれいだからチヤホヤして貰えます。でも40代が難しい。ここで、お母さん役などにチャレンジしていくと、女優生命はその後もつながっていく。でも 1.を選択した女優さんには、もう仕事がない。そこである日、健康食品の広告などに登場してくるわけです。

私が好きな女優さんは、堂々とお婆さん役をやっている人。岸恵子さんや八千草薫さんや香川京子さん。そういう女優さんがいつまでも美しいと思います。
片親で子供を育てなければならなくなった方たちへ
死別、離婚、その他の事情で、やむを得ず片親で子供を育てなければならなくなった方たちへ。私は以前に、小さな子供にはお父さんの役割の人と、お母さんの役割の人のサポートが、両方必要だと申し上げました。これについて少し補足しておかなければなりません。

ここで言った役割というのはまさに役割であって、その役割を担う人が実父母であるかどうかは、それほど重要ではないのです。養父母、齢が離れた兄弟、親戚、近所の人、学校や施設の人、誰であってもよいのです。

片親の場合、負い目があるのと、また生活上から、どうしても両方の役割を演じようとして頑張り過ぎてしまう傾向があります。頑張ることで、自分の成長につなげられるのならよいのですが、疲弊してしまったり、過度なストレスを抱え込んで自分を見失うようであってはいけません。

子供は片親であることのハンディキャップを充分知っています。ですから多少甘えてもいいのです。そのことで、逆に子供の自立を早くうながすことにつながります。両方の親の役割を無理に演じようとはせずに、先ずは母親なら母親、父親なら父親の役割を全うするように努力しましょう。

そして、足りない部分は自分の弱さを素直に見せて、周囲に頼ってください。一時でも父親代わり、母親代わりになってくれそうな人はいないか。そういう人を捜してください。求め続けていれば、必ず見つかります。

そうすることで、人は利他の縁に支えられて生きてるということ、そしてそれへの感謝の念を、自分と子供ともに養うことが出来ていくでしょう。
職人気質の親子修理屋さん
先日フロント部分を壊したクルマの修理が上がってきました。〆て64,837円。
インターネットで最初に見積りを頼んだところが概算で15万円、次に頼んだところが20万円でしたから、ビックリするほどの安さでやっていただけました。ほんと助かりました。

最初は修理しないことも考えたのですが、高速で部品が脱落すると危険ですから、修理も止むなしと考えて何人かに相談すると、「中古部品で修理してくれるところがあるよ」と聞き、運良く歩いて行けるところにそういう修理工場が見つかったのです。

最初に相談に行ったときに、この工場のたぶん先代と思しきオヤジさんが、タバコを吸いながらスカイラインGTR(通称ハコスカ)のエンジンをレストアしている最中でした。
「うちは、こんなのばっか頼まれるんだ。もうこういうのやれるのがいねぇーんだよ。時間が掛かってねぇ」と、ボヤキながらやっています。

相談と交渉は息子さんとしたのですが、とにかく親切でした。
ああ世知辛い世の中でも、こういう修理工場がまだ残っているんだなぁ、と感激しました。会社が大きくならなくても、ずっとお客さんがいて、その日食べて行ければいいという感覚です。

いい修理工場だったので紹介しておくね。多摩市の人は何かの折りに相談してみれば?
補助金制度のカラクリ
バイト先のオーナーがどこからか補助金の話を聞きつけて来て、この際老朽化したエアコンを取り替えたいと思うが、今ひとつ解らないので調べてくれないか、と言って来ました。


その補助金は国のある省庁が交付しているもので、設備機器を省エネタイプのものに取り替え、設置後に電力消費が減ることを立証できれば、工費の3分の1を助成するというものでした。


調べてみると確かにその補助金制度はありました。しかし募集締切りが2週間後に迫っています。オーナーがよく解らないと言ったのは、交付しているのが国なのに、間に名前の知らない団体が2つ絡んでいるからでした。


一つは、その審査を請け負っているという団体です。もう一つはそこへ出す申請書の取りまとめを代行するコンサルタント会社です。ここは交付された際には成功報酬として20%いただくという契約になっていました。


調べてみると、最初の審査機関というのは明らかに天下り団体でした。昨年設立されたばかりだというのに、いきなり国にその仕事を任されているのです。一応、代行機関を公募したということになっているようですが、まったくの出来レースです。


もう一つのコンサルタント会社は、天下り先とは確認できませんでした。しかし強いつながりがあるだろうことは想像できます。申請書の内容が複雑で、書類点数も多過ぎて、コンサルタント会社を使わなければとても申請などできはしません。


要するに、申請者には補助金を、メーカーや工事会社には利益を、代行機関には人件費をもたらす仕組みになっていました。3方共に利益があるのですから、まったく結構なことです。と言いたいところですが、使っているのは税金です。(というよりも、国債の借金なのかな?)


しかもこういう補助金制度は、一応ホームページなどには公表していますが、わざわざ見つけにくくしてあります。限られた人だけにしか、そういうおいしい情報がいかないようになっているのです。


まったくお役人というのは、次から次へと、よくもこういう仕組みを考え出すものだなと感心します。いったい頭の中はどうなっているのでしょう?


役所というのはサービス機関ですが、サービスを提供する相手からその都度報酬を貰っているわけではありません。お金は上から降って来るというか、ぶんどってくるわけですね。だから両者がリンクしていない。


これでは、できるだけ多くぶんどって、できるだけ少ないサービスしかしない、という発想になっていくのは当然といえば当然です。民主党はそこにメスを入れようとしたわけですが、自民党政権になってまた役人天国が復活したのでしょうか?


いつも思うのですが、名門大学を卒業した優秀な人たちが省庁に入るときには、きっと高い「理想」があったと思うのです。それがいつごろからどのように消えて、私利私欲優先に変わっていくんでしょう。とても興味があります。

「逃げる」と「やり過ごす」
他者との軋轢(あつれき)に対処する手段には4つがあります。
●反論する
●受容する
●逃げる
●やり過ごす
です。

このうち「反論」と「受容」は、これまで人が無意識のうちにとってきた代表的な対処法です。相手に反抗するか、それとも受け入れるか、という選択肢です。しかしここに「逃げる」と「やり過ごす」という別の視点を加えて欲しいのです。

「えっ、そんなバカな!」という声が聞こえそうですね。なぜかというと、我々は「ものごとにはきちんと対処しなさい」ということを小さいころから刷り込まれてきたからです。だから「逃げる」「やり過ごす」は、その場しのぎの中途半端でしかないと思ってしまう。

でも「反論」か「受容」か、「黒」か「白」かという極端な選択肢は、当然ながら心に激しい葛藤を生じさせてしまいます。心はたいていその間にあるものだからです。ところが真面目な人たちは中途半端が許せません。そこで激しく反論するか、受容を超えた隷属に身を置いてしまうことになりがちなのです。

人間関係というものは、決して相手だけの問題ではなく、自分の心の成熟度も関係してきます。心が強いか弱いか、心グセはどうであるか、その組み合わせによって対処法にも出来ることと出来ないことが起きてきます。

たとえば、内向的な人は「反論」が出来ずに、そのエネルギーは自分の内側に向かって、自分を傷つけます。ですからそうしないためには、「逃げる」「やり過ごす」というテクニックを駆使してもいいのです。相手との力関係を考えた場合には、次のような段階で考えてみるといいでしょう。

1.逃げる
2.反論する
3.やり過ごす
4.受容する

もちろん「受容」できるところまでいければいいのですが、ここに至るためには、自分の心の成熟度の一段の飛躍が必要です。視点が変わらなければ「受容」は起こらないのです。それは一朝一夕ではいきません。ですから、それまでは1〜3の方法を取りながら、徐々に学習していけばよいのです。

特に内向的な人には、「逃げる」「やり過ごす」というテクニックを身につけていただきたい。「そんなの、その場しのぎ、一時しのぎに過ぎないじゃないか」真面目なあなたはそう考えるかも知れませんが、なあに人生の大半はその場しのぎ、一時しのぎです。エラそうなことを言ったところで、みんなその場しのぎ、一時しのぎの連続で人生が成り立っている。

ですから恥じる必要はありません。その場しのぎ、一時しのぎで心を慣らしながら、最終的にクォンタムジャンプを目指せばよいのです。
自分をまず許せない人に、他者を許すこと(つまり「受容」)はできません。
体格コンプレックス
子供のころ、すごく不思議に思っていたことがあります。人はどうしてそんなに軽々しく外見に関する批評を口に出すのか、という疑問です。周囲に居ませんか、そういう人。会ったとたん「あら、肥ったんじゃない?」なんて言う人。

私の上の姉がそういう人で、今でも会うと第一声が必ず外見の批評です。「なあに、その格好?」「痩せたんじゃない?」「つんのめって歩いてるじゃないの」「目ばっかりギョロギョロして」「枯れ木が歩いてるのかと思った」ともう散々です。ハイハイ、自分がヘナチョコだってことはよーく解ってますヨーだ。

私も来年は還暦ですよ。立派な(?)ジイさんですよ。それなのに未だにこんなこと言われ続けなくちゃいけないのかと思って、このあいだ試しに反抗してみたんです。そうしたら、びっくりしたような顔になった。まさか反抗されるとは思わなかったんでしょうね。

とにかく子供のときからずっとそういうことを言われ続けて来たために、自分はもうどうしようもない人間なんだ、生きている価値のないクズなんだ、ということが早い段階で刷り込まれてしまい、生きるのが辛かった。

この体格コンプレックスは、10歳のときに海で溺れるという事件を起こしてからは恐怖にまで発展し、とうとう世の中に出ることができなくなってしまった。それで20代をフリーターで過ごすことになったのです。

その時代のこと。一ヵ月くらいでしたが、彫刻のヌードモデルをしたことがあるのです。彫刻家のアトリエに出掛けて、一日5時間くらい素っ裸になってポーズをとる。50分ポーズして10分休憩するのを繰り返すのです。お金はまあまあでしたが楽なバイトではありません。

そのときは「なんで私なのかな?」と思ったのですが、その彫刻家いわく「筋肉ナシオ」のところがいいんだと。ロダンのようなのはつまらないんだと言うわけです。

で、数ヵ月経って、上野の美術展に出品したから観に来いと。彫刻家は、全身像の他に顔も作って出品してあるというから、観に行きましたよ。そうしたら、ありました。もう観た瞬間、ガーンです。その「顔」の作品には、『神経質な男の首』というタイトルが付けられてあったんです。

あんまりじゃないか、と思いました。とにかく、世間というのは残酷なものです。
「父」の存在
前回書いた、上祐史浩さんの著書『オウム事件17年目の告白』からの話の続きです。

この本の中には、「救い」も描かれています。上祐さんの両親は、彼が幼いころに離婚し、上祐さんは母親に育てられます。でも母親が、別れた父親の悪口を一切言わなかったというのです。

これは、前に私が「離婚してしまった親御さんたちへ」として書いたことを、正に体現されていた。それによって、彼の「父親」像が、過度に傷つかずに済んだのです。お母さんは、そうすることで上祐史浩さんを守ったわけですね。とても賢い人です。

加えて、別居した父親が、毎月養育費をきちんと送金してくれていた。上祐さんは私立の名門早稲田を卒業されたわけですが、そのときには、自分が大学に行けたことや卒業できたことについて、特別感謝の念などは持っていなかったと言います。

ところが齢をとり、そのころの父親と同じ年代にいざ自分が差し掛かってみると、その当時の父親の苦労や自分への思いがようやく解るようになった。そしてそれが解ったときに、両親への感謝がふつふつと沸き起こったと告白しています。

このことがあって、上祐さんは麻原彰晃を相対化できるようになっていったようです。
つまり、父親不在という空白を埋めていた「虚像」を追い出し、実の父親をそこに復活させることができたわけです。

それは、やはり「虚像」に過ぎないのかも知れません。しかし、自分を愛してくれた「父親」が居た。別のところでちゃんと見守ってくれていた。という証拠の断片は、確実に彼の中に一つの規範を伝えただろうと思うのです。そこに「救い」がある。

親子関係の今は、何十年も経った後に効いて来るのです。ですから、今を大切に生きなければなりませんね。
男性と女性の性能差
前回、男性の「過適応」のことを書いたのですが、どうして男性と女性とではそんなに環境適応性能が違うのか、という疑問に合理的な解釈を与えた研究者がいるのです。外国人の女性で、名前は忘れてしまいましたが、それを聞いて「なるほど!」と私は納得しましたねぇ。

その方が言うのには、男性は狩猟で食べ物を確保していたのに対し、女性は採取で食べ物を確保していたことに原因があると言うのです。その長年に渡る習慣が、男女の脳の違いを作ったと。よく「女性は地図が読めない」と言いますが、その原因もそこにあると言うのです。

えっ、解らないって? ではご説明しましょう。(ってウケウリですけどネ)
狩猟では、獲物が絶えず移動する。だからその行き先を予測したり、たえず追いかけたりしなくちゃならない。そのためには、自分が今どこにいるか、という空間把握能力が高くなくてはどうにもならない。

一方、採取では、あの木からこんな実が採れる。その木の先を10歩行ったところには、毎年こんな菜っ葉が出る、といったふうに、ホームベースからの関係を記憶してく。そのため、記憶力がよく、ちょっとした変化の兆しにも対応していく力が身に付いていると言うのです。

その証拠に、「地図が読めない」と言われる女性ですが、最初に100メートル歩いて、右側にお地蔵さんがあるからそこを左に曲がって、すると今度は正面に二股に別れた木があるからそこを今度は右に曲がって、というふうに説明すると、ちゃんと目的地に行ける。

ところがこの方法では、逆に男性は辿り着けない。途中で印に気がつかないんです。見逃してしまう。
面白いですねぇ。全体把握は優れているけれども細かなところが見えない男性、細かなことは見えるけど全体把握が苦手な女性。結局、男女協力し合ってうまく行くということなんですね。