by Rainbow School
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他人にイヤな思いをさせられたが‥‥
「他人(ひと)から責任問題を転嫁されイヤな思いをしましたが、その相手に腹を立てることなく、気にならなくする方法はあるでしょうか?」というメールをいただきました。
その方は、第三者の友人から「○○さんがあなたのことをこう言ってるのよ」と聞かされたというのです。「知らなければなんでもなかったのに‥‥」と、どうにも心が治まりません。

こういうことって、結構あるのでしょうね。
「私のことを悪く言ってる人にもショックだけれど、それをわざわざ知らせて来る人も来る人だ」
そのお気持ちは解りますよ。でも冷静になって考えてみてください。それって、自分の不快を他人のせいにしていませんか? 厳しいことを言うようですが、ご自分も同じく「責任転嫁」をしているのではありませんか?

あの人のせいでこうなった。この人のせいでこんなことになってしまった。そう思っている限りは、心の治めようがありませんよ。
なぜって、他人をコントロールすることなどできませんから。考えるだけ無駄というものです。
でも、自分自身は取り組みしだいで制御ができますよね。

同じものを見たり、同じことを体験したりしても、感じ方は人それぞれです。「他人から責任を転嫁された」と言っても、それでイヤな思いになって落ち込む人もいれば、腹を立てる人もいるし、反撃に出る人もいる。そうかと思えば、軽く受け流してしまえる人もいる。いったい何が違うのでしょう?

まず気づいていただきたいのは、「感情」を作っているのは自分自身だということです。他人や出来事ではないのです。それは単なるきっかけに過ぎません。

仏教では「因縁果報」を説きますが、人は何かの原因をたいてい外に求めようとします。つまり「因」を、あの人のせい、あの事件で、と考えがちです。そしてそこにたまたま出会った「縁」により自分にイヤな思いという「果」が生じたと考えます。

でもそうではありません。まったく逆です。「因」は自分にあり、他人や事件の方が「縁」なのです。自分の「因」が、それに見合った「縁」を引き寄せているのです。だから、同じものを見たり、同じことを体験したりしても、感じ方が人それぞれ異なるのです。

この理屈が解れば、対処法も自ずと解るでしょう。
それは、「因」であるところの「自分自身の心グセ」を変えることです。
具体策については、次回に。
老化と成熟
甥っ子で植物の研究をしている者がいて、生命科学に詳しいので訊いてみました。
「人間の細胞は28日周期で新陳代謝しているということだけど、新しい細胞が生まれているのに、どうして老化して行くの?」
彼の答えは「脳細胞だけは再生しないから」でした。

あ、そうか。脳だけは誕生から死までの1サイクルで、それに合わせて体の細胞が再生されていくから、40代では40代の細胞、50代では50代に相応しい細胞が生み出されるわけか。
と、納得したのですが、それが正しいことかどうか解りません。

しかしそう考えると、「老化」には何か意味があるということですね。
遺伝子の中に「老化」をつかさどるコードがあるとかで、それを改変すれば永遠の「若さ」が保てると、必死に研究している人もいると聞きます。そりゃそうでしょうねぇ。もしそれが実現できたら巨大産業になりそうですものね。

でもそれは、たぶん実現されることはないでしょう。「老化」は神からのプレゼントだと私は思っています。「老化」があるから「成熟」もあり、人生上のいろんな気づきも得られる。

そこにスポットを当てようとしないで、「いつまでも若くありたい」とだけ願うのは、それは「若さ」ではなくて「未熟」なのだと思います。
口うるさいお母さん
中学生を連れたお母さんと、しばらく一緒の時を過ごす機会があったのですが、このお母さんのまあ口うるさいことには閉口しました。「姿勢が悪い」「目を近づけ過ぎ」「手を洗ったの?」「お茶碗の持ち方がヘン」「話ちゃんと聞いてる?」「きちんとお礼言いなさい」10分に1回はダメ出しを入れています。

そばにいる私がウンザリするくらいなのですから、当のお子さんは、さぞかしストレスが溜まっていることでしょう。それに配慮がなさ過ぎです。他の人が見ている前で部下を叱る上司は尊敬されません。叱った相手に不必要な屈辱まで与えてしまいますから。それと同じです。

私は不思議でなりません。その自信はどこから来るのでしょうか? そう言っている本人は、すべて完璧にこなせるのでしょうか? 逆の立場を考えてみてくださいよ。ご自分が同じように他者から10分に1回ダメ出しをされたら、一体どんな気分になるでしょう?

深く考えもせずに、無意識のうちに批評グセを繰り出してはいないでしょうか? きっと「良かれ」と思ってしているのでしょうが、実体は自分を満足させるためのエゴになってしまっています。子供は所有物ではありません。別の人格です。自分の思い通りにコントロールしようと思ってもそれは無理です。

もし、言い聞かせたいと思うようなことがあれば、時を置いて二人だけで相対して、「私はこう思うが、あなたはどう思うか?」と静かに話し合えば済むことです。
いくらダメ出ししても逆効果にしかなりません。
自分の居場所、自分の役割
無職になって解ったことがあります。お金のない辛さは我慢ができますが、誰にも求められない辛さは我慢し難いということです。社会から見捨てられたような空虚感で心がいっぱいになってしまうのです。自分の役割がない、存在価値がない、誰にも相手にされないということが骨身にしみてくる。

リタイアを目前に控えたサラリーマンが予感する危機というのは、詰まるところこれです。その思いが処理できないので、OB会にしがみついたり、濡れ落ち葉族になって気を紛らわせようとするのです。でもそのようなコミュニティがある人は、まだ恵まれていますね。地縁、血縁、職場縁、全てを失った人には居場所はなかなか見つかりません。

「絶望」というのは、望みを絶たれることではなくて、居場所がないことだと痛感しました。考えてみれば、この感覚は20代の頃に味わったものと同じです。そしてあの頃と同じように、やはり未来があることを信じて前に進むしかありませんでした。

このブログを始めたのもその一つです。毎日書くことの枷(カセ)を自分にはめて、自分の役割をムリヤリに作ったのです。もし自分に絵を描くことが出来ていたら、絵に打ち込んでいたかも知れません。ガタロさんのように。

どこのどなたが読んで下さっているかは解りませんが、その日一人でも共感して下さった人がいたのなら、それだけで自分の役割があったということになり、それで私も救われているのです。どうもありがとう。
「more便利」の結果、失うもの
電車に乗ろうとしてホームに行くと、小鳥のさえずりが聞こえます。人工的なループ音で絶え間なく鳴き続けています。聞けば、これは厚労省の指導に従って各鉄道会社が導入しているのだとか。盲人のためにホームの階段が近いことを知らせるのが目的なのだそうです。主旨はいいのですが、果たして本当に役に立っているのでしょうか?

オール家電の家庭にお邪魔してお風呂に入ろうとしたら、お風呂がいろいろ喋るのでびっくりしました。「湯張りを開始します」とか「温度設定は○度です」とか。こういうものも必要なのでしょうか?

昨年、20年間使って来たビルトインコンロがいよいよ使えなくなったので、いちばん安いものを買って自分で交換しました。安いのでさすがにこのコンロは喋りませんが、でも20年前にはなかった温度センサーというものが付いています。鍋底の温度を測って勝手に火力を調節してしまうので、料理がやりにくくて仕方ありません。

メーカーの開発競争の現場を覗いたことがあるので、これでもかと機能を増やしていく理由は解るのです。それはライバル社に勝つためです。しかしその結果、ユーザーが本当にそれを望んでいるのか、どういうライフスタイルを提案したいのか、という視点がスッポリ抜け落ちてしまいます。

日本を訪れた外国人が先ずびっくりするのは、こういう日本社会に溢れる「過剰さ」です。だからこそ外国にはない商品やサービスを生み出せるといういい面も確かにあるのですが、外国人はライフスタイルを持っていますから、それにそぐわないものはハッキリ「要らない、必要ない」と言います。

日本社会が「more便利」を追求し続けて来た結果、人間の五感、六感をひたすら退化させる方向に進んでいることを懸念しています。医者は検査データを見て患者に接することに馴れきってしまい、患者に触れようともしません。オール電化で育った子供は、きっと火で煮炊きすることも出来なくなってしまうでしょう。

「心の病いが増えている」をうんぬんする前に、社会がそうなるように加速してる。人間の五感、六感を奪う方向にどんどん進んでいることを直視しなければなりません。生きている基盤が既にそうなっているのに、病いの部分だけを取り上げて薬で治そうとしても、根本が解決しません。

「more便利」にはハッキリ「No!」と言いましょう。
世間の風潮に流されることなく、何が幸福なのか、どう生きるべきか、を問い直しましょう。
悩みの渦中にいるときは
海水浴に行って波に巻き込まれた経験はありませんか。巻き込まれている間は、上も下も判らないし、もがいたところでどうにもなりません。悩みの渦中にいるときも同じです。文字通り渦の中に巻き込まれた状態です。自分がどこに居るのかさえ判りません。

この状態では、脱しようともがいてみてもどうにもなりません。このような時には逃れようと焦るのではなく、自分の状態を外側から眺めてみることが功を奏します。一つには、他の人から見て貰う方法です。しかしこれは信頼に足る相手でないと、逆効果を招いてしまう可能性もあります。

もう一つは、鏡を見る方法です。鏡と言っても心を映す鏡、ノートです。ノートに、今の悩み事を次のレベルに分けて、思いつく限り記入してみましょう。

1.現在の自分の感情
2.その感情を引き出しているきっかけ
3.きっかけとなった事柄の背景要因

悩み事を三階建ての家になぞらえて整理してみてください。
三階に当たる「感情」は、あなたが自分で作り出しているものです。二階をきっかけにしてはいますが、二階に「感情」はないのです。先ずそのことに気づいてください。

二階部分のきっかけに対して、どうして自分はそのような感情を作り出したのか。それと同じことは過去にもなかっただろうか? そう思い起こして分析してください。たぶん、過去にも同じことを何度も経験している筈です。それが、あなたの「心グセ」のパターンなのです。

自分の「心グセ」のパターンが解れば、一つ客観視ができたことになります。要はきっかけに対して同じパターンの感情表出をやめればいいのです。これは一朝一夕には行きませんが、自分にはこういう傾向があるということが解っていれば、体のウィークポイントをカバーするのと同じで、心のクセも次第にカバーすることができるようになって行きます。

次に、きっかけとなった事柄の背景要因、つまり一階部分を分析してください。これには周囲の環境要因、人間関係、自分自身の性質や体調などの問題があります。複合的になっている場合もあります。特に急な「変化」があった事柄に注目してください。そしてこれらの背景要因に関しては、感情とは切り離して、現実的具体的に向き合い、対処することが必要です。

感情と切り離すことがポイントです。自分だけでは解決できないときには、誰かを頼ってください。法律には法律の専門家、病気には病気の専門家、金銭には金銭の専門家の助けを借りることも、解決を早める道かも知れません。これらを含めて、持つべきは、困った時に助けてくれるいい友です。
カラダのことを考えれば「中庸」の意味が解る
中庸、中道、ということが、若い時分には全く解っていませんでした。なんでそんな中途半端なことを言うのだろう。何事もトコトン極めるのが筋ではないか、とそのように思っていました。「あ、そうか」と、スポーンと体の中に入って来たのは50代の半ばになってからです。(遅過ぎ?)

中庸は儒教、中道は仏教、ギリシャ哲学では Mesotes(μεσοτης)英語ではGolden Mean(又はHappy Mean)と言うそうです。お釈迦様は、中道を竪琴の弦の張り方に喩えて話されましたね。弦を張り過ぎても緩め過ぎても、いい音は出ない。ちょうどいい加減というものがあるのだ、と。

抽象概念のようですが、でもこれをカラダのことで考えると実によく解る。力を入れ過ぎても入れなさ過ぎてもダメ。運動し過ぎてもしなさ過ぎてもダメ。右に傾き過ぎても左に傾き過ぎてもダメ。食べ過ぎても食べなさ過ぎてもダメ。結局、中庸ということです。

ところが人間は、「中庸」ということをしないんですね。かつての自分がそうであったように。「極端」の方にどうしても惹かれてしまう。「極端」の方が目立つし、社会も常に「極端」をアピールしますから。でも考えてみれば、「極端」を一度経験しないと、何が「中庸」なのかも解りません。結局それを経験して行くことが人生なのかも知れませんね。
映画『シャイン』から
1995年公開のオーストラリア映画『シャイン』をご覧になりましたか? 1996年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞、音楽賞、編集賞と七冠もとったので、きっとご覧になった方も多いと思います。お話はデヴィッド・ヘルフゴット(David Helfgott)さんという、実在のピアニストの半生をほぼ忠実に描いたものです。

デヴィッドさんは天才的なピアニストでしたが、父親の間違った愛の影響を受けて不安神経症とパニック発作を発症、精神病院へ収容されてしまいます。しかしここでピアノを禁じられ、薬物と電気ショックによる治療を受けたことから、ますます症状を悪化させてしまうのです。それを救ったのが、後に妻となる15歳年上の女性ギリアンさんです。

この実話には、親子関係に関する様々な示唆が含まれています。

・父親はポーランドからのユダヤ系移民で、家族の多くがナチに殺されていたこと。
・父親も音楽家になりたかったけれども反対され、13・4歳の時に自分が大事にしていたバイオリンを祖父に壊され、それをずっと恨みに思っていたこと。
・父親はその見果てぬ夢を長男デヴィッドに託し、幸いデヴィッドは才能の片鱗を見せるが、しかし父親はデヴィッドを自分の思い通りにコントロールしようとしたこと。
・父親は「私のようにお前を愛する人間は他に居ない」と語ってデヴィッドを心理的に拘束し、時には暴力を加えていたこと。

ここには、親子間の「暴力の連鎖」と、「愛に名を借りた支配」、という典型的な親子問題が見受けられます。加えてデヴィッドさんは精神病院で「治療」を受けたために、「自分のことを誰も理解してくれない」という思いが加速され、自分を守るために心を閉ざすしかなくなったのです。

これを救ったのがギリアンさんです。魂の劇的な出会いというしかないのですが、ギリアンさんが親から受けた愛は180度違っていました。ギリアンさんは「自由」を両親から教えられて育ったのです。彼女は非常に聡明で、デヴィッドさんの心理を観察し理解することができました。それが、まるで母親のような無償の愛の癒しに表現されて行ったのです。

映画『シャイン』からもたくさんの示唆が得られますが、つぎのインタビューもとても示唆に富んでいます。よかったらご覧になってください。


仕事のコツ?
友人から聞いた話です。その友人のお父さんはペンキ屋さんだったのですが、息子にペンキ職人としてのテクニックをこう伝授したというのです。

「いいか、仕事のコツは、見えるところだけを塗るんだ。体育館の鉄骨の塗りだったら、下から見上げて見えるところだけを塗る。裏側は誰もチェックできないからそのままにしておく。そうすれば塗料の量も少なくて済むし、手間も大分省ける」

これは冗談ではなく、長年の経験から身に付けたテクニックとして、自慢げに息子に語ったというのです。こういう職人さんに当たった日には、依頼主は目も当てられませんが、業界を良く知っている人の話だと「そんな奴いっぱい居る」のだそうです。

私の友人であるその人はデザイナーですが、妥協を許さない人です。そういう意味では、父親の「教え」に全面的に逆らったわけですね。
お父さんは今では引退していますが、会えば文句ばかり言っているので、頭が痛いと友人は嘆きます。

ああ、可哀想なお父さん。どこでどう道を誤ったんでしょう。
ペンキ職人はやり直せなくても、生き方はこれからでもやり直せます。
「西部劇」に見るアメリカの論理
ボストンマラソンの爆発事件で、ワールドニュースはもちきりです。爆発事件で騒ぎ、オバマさんの演説で騒ぎ、犯人探しでまた騒ぐ。一つの事件でかなりの期間、世間の注目を引っ張れる。メディアとはそうしたものだということは解りますが、911のときと、論法がまったく変わっていないのにはさすがにウンザリさせられます。

またしても「テロには屈しない」「テロは絶対許さないぞ」というムードを、アメリカのマスコミは作り上げてきています。
17日、銃規制の強化法案が米上院で否決されました。このときオバマ大統領は「ワシントンにとって非常に恥ずべき日」と憤慨したというのですが、問題はアメリカ社会に潜むメンタリティにあるのではないでしょうか。

60年代から70年代にかけて、ハリウッドの「西部劇」映画が多く公開されていたのですが、BSプレミアムで、改めてこのころの「西部劇」を観ると、図式はなんにも変わっていないんだなぁということがよく解ります。

平和な町にギャング団がやってくる。町の住民はみな怯え、酒場の美女がいやがらせを受ける。住民はなんとかしたいと思うがとても人数では敵わない。保安官も途方にくれるが、そこに腕利きのガンマンが助っ人に現れる。二人は力を合わせて闘い、悪いギャング団全員をやっつける。町には平和が戻り、解放された美女とガンマンの恋も実りめでたしめでたしとなる。

保安官とは「世界の警察」を自認するアメリカそのものであり、ガンマンは武力、美女は富の象徴です。そして、同族以外は敵と見なし、武力によって敵を完全に制圧する。逮捕して裁判にかけるような面倒なことはしません。敵はその場で全員射殺でハッピーエンドです。

他ならぬ銃規制を訴えるオバマさん自身も、ブッシュほどではないにしろ、演説になるとアメリカ社会に根付くこうしたメンタリティを刺激する言葉に、ビジョンを織り交ぜて上手に語ります。

私はそこにすごく違和感を感じます。どうしようもないアメリカのジレンマ、貧困大国となった今も軍事で世界を制圧しようとする無理、嘘くさい民主主義の理想が見えて仕方ありません。アメリカの凋落と抱きつき心中するしかない日本の今を憂えています。