「心」の状態は、気のエネルギー状態からも説明できる
2013.03.31 Sunday
人体を解剖しても「心」は見えません。脳をいくら調べても「心」を掴むことはできません。そもそも「心」は肉体レベル、物質レベルにはないからです。このことを、普通の人は直感で知っています。ところが頭のいい人たちはそれをどうしても認めずに、「心」を「脳」という物質に還元しようとして四苦八苦しています。
思念はエネルギーの一形態です。しかしこのエネルギーは霊界にあるために、この世で、この世の機器を使って観測することが(今のところ)難しい。しかし人々には、(強弱はあれど)誰にでも霊界センサーというものがあるので、思念エネルギーを感じとることができます。それを我々は「気」という言葉で表しています。
相手の思念と波動が合えば「気に入る」、合わなければ「気に入らない」。もっと打ち解けると「気が合う」と言っていますよね。
前に「気」のついた言葉を掲載しましたので、ご興味があれば見てください。
さて「心」の状態を、このエネルギーの状態としてもいろいろと説明できるのです。昨日書いた過食とエネルギー不足との関係はその一つです。このことも普通の人は実は直感でみんな解っていて、頭の中がこんがらがってコンフューズすることを「気が狂う」とか「気が違った」と言っていました。早い話が、生体エネルギー(気)に、大きな乱れが生じた状態です。
私なども、若いころからしょっちゅう「気が狂って」いました。5・6歳のころから、30代半ばまで頭の中がとにかく爆発しそうでした。まあ今でも後遺症で時々あるんですがネ。
さてそこで。「気が狂う」とか「気が違った」とは言いますが、「脳が狂う」とか「脳が違った」って言わないでしょう? それは狂っているのは「脳」じゃないってことなんです。エネルギーの取り込み方、処理の仕方、使い方に問題があるってことなんです。要はソフトウェアの問題です。脳というハードウェアの問題じゃないんです。
ところが今のよくない風潮は、なんでも「脳」に還元しようとしていることです。「気が狂う」とか「気が違った」は、ただでさえ「不適切用語」として排斥される傾向にあります。そのうちこれが死語になって、本当に「脳が狂う」「脳が違った」という言葉に置き換えられかねません。それほどの勢いを持って、我々は物質主義に洗脳されつつあります。
まあこれを読んでくださった方だけでも、この流れにちょっと逆らっていただきたく思います。