by Rainbow School
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「心」の状態は、気のエネルギー状態からも説明できる
人体を解剖しても「心」は見えません。脳をいくら調べても「心」を掴むことはできません。そもそも「心」は肉体レベル、物質レベルにはないからです。このことを、普通の人は直感で知っています。ところが頭のいい人たちはそれをどうしても認めずに、「心」を「脳」という物質に還元しようとして四苦八苦しています。

思念はエネルギーの一形態です。しかしこのエネルギーは霊界にあるために、この世で、この世の機器を使って観測することが(今のところ)難しい。しかし人々には、(強弱はあれど)誰にでも霊界センサーというものがあるので、思念エネルギーを感じとることができます。それを我々は「気」という言葉で表しています。

相手の思念と波動が合えば「気に入る」、合わなければ「気に入らない」。もっと打ち解けると「気が合う」と言っていますよね。
前に「気」のついた言葉を掲載しましたので、ご興味があれば見てください。

さて「心」の状態を、このエネルギーの状態としてもいろいろと説明できるのです。昨日書いた過食とエネルギー不足との関係はその一つです。このことも普通の人は実は直感でみんな解っていて、頭の中がこんがらがってコンフューズすることを「気が狂う」とか「気が違った」と言っていました。早い話が、生体エネルギー(気)に、大きな乱れが生じた状態です。

私なども、若いころからしょっちゅう「気が狂って」いました。5・6歳のころから、30代半ばまで頭の中がとにかく爆発しそうでした。まあ今でも後遺症で時々あるんですがネ。

さてそこで。「気が狂う」とか「気が違った」とは言いますが、「脳が狂う」とか「脳が違った」って言わないでしょう? それは狂っているのは「脳」じゃないってことなんです。エネルギーの取り込み方、処理の仕方、使い方に問題があるってことなんです。要はソフトウェアの問題です。脳というハードウェアの問題じゃないんです。

ところが今のよくない風潮は、なんでも「脳」に還元しようとしていることです。「気が狂う」とか「気が違った」は、ただでさえ「不適切用語」として排斥される傾向にあります。そのうちこれが死語になって、本当に「脳が狂う」「脳が違った」という言葉に置き換えられかねません。それほどの勢いを持って、我々は物質主義に洗脳されつつあります。

まあこれを読んでくださった方だけでも、この流れにちょっと逆らっていただきたく思います。
過食が止められない人へ
過食の害については言うまでもありませんね。みな解っていることです。しかし解っていながら、どうして止められないのでしょうか?

お釈迦様は、あらゆる事象が「因・縁・果・報」の法則で動いていると、解りやすく説明しました。過食の「報い」が肥満や生活習慣病です。今ばくばく食べている状態は「結果」。そばに食べ物や、食べられる環境がいつでもある状態が「縁」。食べずにはいられない気持ちが「因」です。

つまり、過食は「心」の問題だということです。一つの解決策として「縁」を断つという方法が当然考えられます。そばに食べ物を置かない。カロリーの低い物で代替するなどです。しかし「食べた〜い」という「因」の欲求の方が勝っているので、あまり成功しません。

本当の問題は「因」にあるのです。そしてこの「因」もまた、あるものの結果なのです。もっと深いところにある本当の「因」は、エネルギー不足です。「えっ、エネルギーを摂り過ぎているんじゃないの?」そう思われるでしょう。でも違うんですよ。宇宙エネルギー、生体エネルギーの取り込みが不足しているのです。

人はただ物質的な存在なのではありません。このことは繰り返し書いているので、ご理解いただけている人もいるでしょう。肉体は容れ物で、本当の自分は、つまり霊魂は別の次元に重なって存在しています。肉体の維持には食物エネルギーが必要ですが、霊魂を元気にするには宇宙エネルギーと、それを変換した生体エネルギーが必要なのです。

過食が止められない人は、この取り込みが充分ではありません。どちらかというと、自ら拒絶しています。過食が止められない人には耳が痛い話になってしまいますが、こういう方たちは、どこかで「自分は優れている」「周囲の者はみなバカばかり」「みんな私の実力を解っていない」という思いが強いのです。

しかしそれではコミュニケーションがうまくできません。自分をシャットダウンしてしまうことで宇宙エネルギーの取り込みにも支障を来し、反作用としていつも「心」の渇望感が拭えないのです。この渇望感が、食欲に向かわせます。本当は宇宙エネルギーの取り込み不足なのに、食物の過剰な摂取に転嫁してしまうのです。

そうしますと食物の過剰な摂取によって肥満し、宇宙エネルギー、生体エネルギーの取り込みが相対的にますます不足するという事態に陥ります。この結果、渇望感はますます高まり、無意識のうちに「食べた〜い」という欲求に向かう、という悪循環構造がつくられるのです。

ですから本当にダイエットしたいと思うのなら、このことに気づいて、先ず「ダイエット」を止めることです。通常の「ダイエット」策は、本当の問題をマスキングするために働いてしまいます。もし本当にダイエットしたいのなら、それが自身の「心」の問題だということに気づいてください。

そこに気づかないと、これも何度も言ってるように、いつか重大な問題に出会うことによって気づかされます。糖尿病で生きるか死ぬかというところまで行った人は、それからピタッと過食が止んでいる。それは気づきがもたらされたからなのです。単に過食を止めたということではなく、必ず心境の変化というものをもたらしているはずです。

心境に変化があれば、自然と過食は止みます。「自分は今まで何であんなに食べていたんだろう?」と不思議に思うことでしょう。
ですから、重大なことにならない前に、手を打ちましょうね。
子供にリンゴの皮を剥かせてください。
統計では離婚率が減少しているそうです。特にここ2年は東日本大震災の影響が大きかったらしく、「やっぱり頼れるものは家族」「家族を大切にしなくては」との思いが、いま見直されてきているのかも知れません。

1988年から2002年まではずっと離婚率の上昇が続いていました。この時期に、離婚によって母子家庭、父子家庭になった家族の子供たちは、いま中学生、高校生、大学生くらいになっているでしょう。

片親になってしまうと、余計に「しっかり育てねば」との思いが募るでしょうが、そこでお願いがあるのです。それを捨てて欲しいということです。
「何をバカなことを言っているんだ」とお怒りの向きもあるかも知れませんが、でも「放ったらかしにしろ」と言っているわけではありません。

「放ったらかし」はやはりまずいです。
愛情不足は漂泊する子供を産み出してしまう可能性があります。

しかし問題は、愛情の掛け方なのです。「しっかり育てねば」とあれこれ世話を焼くことは、逆に、子供にはプレッシャーとして作用してしまいます。理想が強調され、そのメッセージが絶えず発信されることによって、子供はそうなれない現在の自分との間で葛藤を生じてしまうのです。

親から見れば、赤ちゃんのころから知っていて、あれこれと世話を焼いていた。それが愛情だという感覚が染み付いています。しかし子供の方はだんだんと成長し自我が芽生えてくる。それなのにその感覚を手放さないで持ち続けていると、やがて依存/共依存の関係に陥ってしまいます。俗にいう、親離れ、子離れできない関係です。

子供に、自分でリンゴの皮を剥かせてください。
そう言われたら、あなたならどうしますか?

1.危険だから子供にはさせないで、なにもかも私がしてあげる。
2.一応やらせてはみるが、見ているとイライラするので、つい手出し口出しする。
3.下手でも見守ってやらせる。手を切るかもしれないがそれも経験だ。出来たら誉めてあげよう。

ここに、子育てのパターンが全部出ています。さあ、どれがいいでしょう?
社会不安障害とクォンタム・ジャンプ
27歳と10ヵ月目で、自分の人生の最初の転機が訪れたことを以前に書きました。北大出の秀才が自ら辞退したために繋がった私の首。私は心細かったし、彼とお友だちになりたかったのですが、結局はそうなりませんでした。彼の辞退は、きっと私へのプレゼントだったのでしょう。彼は今どうしているかなぁ?

この前後数日間のことは、記憶力が悪い私でもまざまざと甦ってきます。事務所は社長を含め5人。私よりも年齢が若い先輩たちに、最初はひどく緊張しました。電話がもの凄く怖かった。電話のベルが鳴ると、ドキッとしました。「どうか電話が掛かって来ませんように」と一日中祈っていました。

今なら立派な(?)「社会不安障害」です。でもその当時、そんな便利な言葉はありませんでした。なんとかそこを超えて、適応していかなければならない。もう必死です。しかし考えて見ると、あの時もし「社会不安障害」というレッテルを貼られていたとしたら、果たして克服できただろうかと思うのです。

その中に埋没する「安心感」の方を選んでしまったのではないだろうか‥‥

今でも電話は苦手ですが、全くできないというわけではない。パーティでは相変わらず壁の隅っこに居ますが、セミナーなどで人前でお話をするのは平気です。
何かを克服しようと思ったら、通常のことをしていたのでは、克服できません。飛躍が必要なのです。ほんのちょっとの勇気が必要なのです。

クォンタム・ジャンプ(quantum jump)です。
グラン・ジュテ(grand jeté)です。
埋没する「安心感」よりも、どうか飛躍する「勇気」を選んでください。
宗教の時代の終わり2
NHKのBSニュースで、バチカンのスキャンダルの話をわりと詳しく報じていました。マスコミの方針が変わったのかも知れません。バチカンのスキャンダルというのは大きく二つあって、一つは聖職者による子供に対する性的虐待です。もう一つはマネーロンダリング疑惑です。映画『ゴッドファーザー』で描かれたバチカンとマフィアとの関係です。

13日、第266代ローマ教皇に選ばれたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)枢機卿は、歴代法王として初めてフランチェスコ(フランシスコ)を名乗ることになりました。フランチェスコは “アッシジのフランチェスコ” と呼ばれる守護聖人。清貧で知られた人物で、映画『ブラザーサン・シスタームーン』の主人公として描かれています。

そのことから、これまでの腐敗したバチカンを改革しようとする表れだと見られているわけですね。ところが12世紀に聖マラキが歴代のローマ教皇を預言したとする、通称『聖マラキの預言』書には、ベネディクト16世の後継者が、ローマ教会において最後の教皇となることが預言されているのです。

果たしてその預言が現実のものとなるかは今後の展開次第ということになるわけですが、その預言がたとえないとしても、やはり宗教の時代は終わったと感じざるを得ません。

私も宗教家の家系に生まれて、名前も宗和と付けられました。ですから宗教には親しみがあるのですが、霊界の研究が進んでインターネットでそうした情報が交換できるようになった時代に、宗教で縛りをかけることはもはや不可能だと思います。また、そうする必要もないと思います。

霊界は一つです。Aさんが見た霊界とBさんが見た霊界が違うということはあり得ません。そうであったらそれは論理的矛盾です。ですから、どんな人がどのようなアプローチをしようとも、行き着くところは同じなのです。洋の東西を問わず、人種国籍を問わず、宗教を問わず。

宗教の開祖は大部分は霊能者であり、その人物の霊性が高ければ、文化の違いで多少の表現差があったとしても、みな同じことを説くはずなのです。
真理は一つであり、それは普遍性を持つからです。

ところがそれが教団を持つようになって組織化され、二代目、三代目と代替わりし、優れた霊能者が排出できなくなると、組織を維持するために教義や儀式の型だけが伝承されていきます。

その結果、お線香は立てるのではなくて折って横に寝かすのが正式だとか、墓はこういう形式にすべきだとか、うちの本尊だけを拝みなさいとか、本質とは何も関係ない、下らない(と言っては言い過ぎかな?)話が「教義」に格上げされ、信者はそれを一生懸命布教するというおバカな話になっていくわけです。

いまの宗教はみなそれをやっています。宗教家が、本来の志を忘れているのです。
なぜ宗教家になったのか? 「悩める人の杖となれ」ということではなかったのか? それとも教団を作りたかったのか? 宗教が解体され、原点に戻る時期が来ていると私は感じています。
「ハッピー10 ノート」をつけてみよう
吉元由美さんの『みんなつながっている』という本を読んでいたら、「ハッピー10 ノート」のことが書かれてあって、「ああ、これはなななかいい」と思いました。と同時に、昔読んだ和泉宗章さんの本にも確か同様のことが書かれてあったことを思い出しました。

お若い方はご存知ないでしょうが、和泉宗章さんは1978年から79年にかけて「天中殺」という物凄い占いブームを巻き起こしたんですよ。とにかく日本中が「天中殺」で沸きかえったと言ってもいいくらいのものでした。

ところが、大変な自信をもって「長嶋監督が1980年2月までに辞任する」とした占いが外れたことで、それまでのブームがバッシングに変わり、その後かなりのご苦労をされたのです。このバッシング後に書かれた本に「ハッピー ノート」に関することが書かれてありました。

私もかつては占術を学びましたが、今は使っていません。それは占術が無効だということではなく、それを超えたところのものに興味が移ったからです。高度な占術はやはり有効性が高いですし、うまくお使いになればいいと思います。

和泉宗章さんは真摯な方だったんですね。物事をとことん突き詰める性格がおありだった。でも私が見るところ、そのカルマに縛られてしまった。和泉さんが元々占術を研究されたのは競馬の予想をするためでしたし、白黒つけなきゃ気が済まない性格が、マイナスに作用したんですね。でも根は真面目な方だったと思います。きっと来世はもっとよい展開になるでしょう。

横道にそれてしまいましたが、「ハッピー10 ノート」は簡単です。その日に感じたハッピーを、10個日記につけるのです。これだけです。
10個と決めるのがミソ。このたった10個がななかか出ないんですよォ。

でも無理やり絞り出していると、「今年もフキノトウが食べられてハッピーだった」とか、「掃除をしたら達成感があってハッピーだった」とか、「今日もブログが書けてハッピーだった」とか、「青空が輝いていてハッピーだった」とか、そんな風になってきます。そのときに気がつくんです。「なんだ、ハッピーってこんなところにあるんだ」「こういうことだったのか」って。

鬱の回復期にある人、パニック障害の人、神経症の人には、ぜひ実行して欲しい習慣です。

トイレ掃除のコツ
鬱のときこそして欲しい「家事労働」。今日はトイレ掃除のコツの話を。
私が深夜にパチンコ屋の清掃のアルバイトをしていたときのこと。20名位のスタッフが集合すると、その日の役割が分担されます。でもトイレ掃除はほとんどの日、女性が当てられていました。(これも差別なのかな?)

スーパーバイザーがあるとき「男性にもして貰おうかな」と言ったので、私が「ハイ、やります」と名乗りを上げたのです。色々経験してみたかったから。
でもスタッフのほとんどは大学生でまだ若いですから、トイレ掃除というだけで腰が引けちゃっている。その気持ちも解ります。

先日書いた清掃員画家のガタロさん。トイレ掃除をしているときに、取材に当たっているNHKの人間がこう訊いた。「手袋をしないんですか?」
するとガタロさんが一言。「手袋なんかしてたら仕事にならん!」
そう言って、ただ黙々と、ひたすらやっている。

これはね、私もやってみて解ったんです。トイレ掃除のコツが。
二つあるんです。
一つは、トイレを「差別」しないこと。
手袋をしたら、それだけでもう「差別」なんです。

なくてはならないものなのに、こんなに毎日お世話になっているのに、感謝もせずに「差別」する。もしトイレが汚いものなら、その排泄物を出している人間はナンボのもんじゃい、ということになるじゃないですか?

二つめは、トイレと「一体」になること。
トイレを抱くようにして掃除をすると実に上手くできる。まあ「愛」でしょうかねぇ。
第一段階は「差別」しない。第二段階は「一体」となる。トイレ掃除を利用したいわば「トイレ掃除瞑想」ともいうべき心境かなぁ。
moonyのオムツ交換
11日間だけのアルバイトが終わって時間ができたので、母親の様子を見に4日ほど田舎へ行って来ました。昨年の10月に寝たきりになってから、筋肉が落ちてしまいもう体を起こすこともできません。私はベッドの横に布団を敷いて寝起きし、規定の時間にオムツ交換をします。

まさか自分が母親のオムツ交換をするようになるとは思ってもみませんでした。でも私のニックネームは “moony” だからちょうどいいかな。赤ちゃんと違って、足をひょいって持ち上げるわけにいかないから、大人のオムツ交換ってけっこう難しいですねぇ。何かコツがあるのでしょうね。プロの方はどうされているのでしょうか?

お正月に行ったときはまだ寒くて大変だったけれど、今回は寒さも緩んで楽でした。オムツ交換をしながら、一年中オシッコ臭かった自分の子供時代を思い出しました。匂いの記憶って一瞬にして甦って来るんですよね。私がオネショをしたときの、母親の憤懣やるかたない顔、いつも竹尺を持って追いかけてきて私を叩くときの鬼の形相。

でも、復讐しなくてよかったと思いました。オムツ交換が終わったとき、母親が「汚いことさせて申し訳ありませんねぇ」と言って、両手を合わせて、なんと私を拝んだのです。びっくりしました。「ああ、子供のときの試練は、こういうことを経験させるためにあったのか」と、そのとき納得しました。
職業に貴賎はない?

「職業に貴賎はない」と言いますよね。その通りだと思います。でも上下関係はある。これが30年間働いて実感した、偽らざる心境です。
「職業に貴賎はない」というのは職業差別を戒めた言葉なのでしょう。しかしたとえ貴賎がないとしても、産業構造の中では上下関係が歴然としてありますからそれがどうしても差別を生んでしまいます。

たとえば、福島第一原発の事故処理では7次下請けまであるそうです。東北が被災をし、多くの人が職を失いました。だとしたら復興の仕事を地元の人に優先的にやって貰えば、一時的にせよ助かると思うのです。実際安政の大地震の時には、現ヤマサ醤油の七代目であった濱口梧陵が震災後に堤防工事を行うことで、地元を活性化することに成功しました。

ところが、今はそういう政治が行われません。大規模な計画の元請はみな大手ゼネコンであり、そこから中小零細そして日雇いにまで仕事が回される仕組みになっています。どの業界でも、事情は殆ど同じです。仕事が下請けに流れるたびに上からマージン(悪くいえばピンハネ料)が取られていきます。

その結果、下に行くほど低廉で過酷な労働が待っている。本当は逆じゃなければならないのに‥‥。これが現実です。
そうだとしたら、あなたは上に属したい派ですか?

キプロスで預金封鎖
東地中海のキプロス島にある国(地図で見るとトルコの南側)キプロス共和国が大変なことになっています。銀行預金が封鎖されたのです。ATMも操作され現金を引き出すことができません。そればかりか、国が預金者の口座から一定割合いを強制的に徴収しようと計画しており、国民が反発しているというのです。

預金封鎖という言葉は知っていましたが、それが実際に起きるのだとは思ってもみませんでした。日本では、昭和2年(1927年)の金融恐慌のときに、片岡直温蔵相の失言から取り付け騒ぎが起きているんですよね。でも今から86年前ですからね。その時10歳の人でもいま96歳になる勘定です。

キプロスのニュースを見ていて、二つのことを思いました。一つは、金融というのは本当に絵に描いた餅なんだな、ということです。貨幣→紙幣→数字と、金融システムはどんどん実体がなくなっていったわけですが、それが成り立っていたのはひとえに「信用」によってです。

みんなが数字に価値があると思い込んで「信用」しているからこそ、銀行も株式市場も為替も成り立っている。でもそれはやっぱり実体がないわけで、ひとたびその「信用」が崩れると、一挙に瓦解してしまう可能性がある。それをキプロスの預金封鎖騒動が予見している感じがします。

もう一つは、いったい何が、誰が、そうした事態を招いたのかということです。いま世界を見ますと、多くの国で、国民は失業状態にさらされ貧困に喘いでいます。ところが、ごく一部の富裕層はますます肥え太っている。

天秤計りを思い浮かべてください。釣り合うポイントが富裕層側にグッと寄り、反対側の貧困層が延びているのです。極端なアンバランスが進行しています。
ところが政治もマスコミも常に富裕層の視点に立っていて、いざ問題が起きるとツケはいつでも一般庶民が払わされるのです。

このような状態が長く続くとどうなるのでしょう。革命です。いつかは革命が起きます。
すでに火種は各地に起きていますが、キプロスを見ながら、日本も他人事ではないと感じています。