by Rainbow School
<< January 2013 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
生活保護世帯の増加に思うこと
昨年9月時点での生活保護受給者は過去最多の213万3905人。最も少なかった1995年の88万人から2.4倍にも増加しています。このことが、厳しい国家財政をさらに圧迫してしまうために、政府が生活保護費の見直しを進めようとしていることはニュースなどでご存知でしょう。

きちんと年金を納め老後にそれを受給するよりも、生活保護を受けた方が額が多いとなれば、バカバカしくて年金を納める人が居なくなってしまいます。そのため芸能人のスキャンダルまでも利用して、これをなんとか是正したいと目論むのは解ります。

しかし誰がみても、その背景には格差社会をもたらした政治・経済運営というものがあるのですから、その根本を変えなければ、単なる弱者切り捨てになってしまいます。また、生活保護受給者の著しい増加という問題も解決しません。

ところが、どうもそちらの方向には向かいそうもありません。国民の多くが、今の生活が苦しくなっているのは「景気」が悪いせいだと思い込み(込まされ)、今度の政権は「景気」を良くするということを旗印に議席を獲得し、誕生しました。

日本は島国のせいか、今のヨーロッパの窮状というものをよく理解していませんね。ギリシャやスペインやポルトガルは、国民がもう政府を信用しなくなっています。でも日本人はお人好しというか懲りないというか。「景気」が回復すればなんとかなると未だに思っています。高度成長期はとっくのとうに終わっているのに、その洗脳が解けません。

お金という面にスポットを当てれば、政治はお金の分配であり、経済はお金の回転です。生活保護はある意味、社会全体に流通するお金の分配に当たるわけですが、ここには別の問題があります。それは人間としての尊厳が得られないということです。

自分だって働いて社会の役に立ちたいのにそれができない。生活保護によって命は救われるけれども、尊厳は傷つけられる。

そのことを考えたら、格差社会が生まれるような政治をしておいて、こぼれた人には手当てをしてお金の分配をするというよりも、最初からみんなに仕事がある社会、格差が少ない社会を目指した方がずっといいのではありませんか? そうすれば「分配」と「尊厳」が同時に保たれるわけですからね。

「景気」という言葉のドグマ、「景気回復」という言葉の裏にある巧妙なウソ。
日本国民の大多数がこれに気づくのは一体いつのことになるのでしょうか?
学習嫌いはモッタイナイ
先日、友人と居酒屋に行ったときのこと。その日3軒目のハシゴだったのですが(反省)、小さな店だったので一人のご婦人と同席になりました。そのご婦人は夫に先立たれた未亡人。30代半ばの一人息子と同居しているということですが、夜は居酒屋に行ったりカラオケに行ったりして過ごすのだそうです。

けっこう酔っておられましたが、最初は私たちといい調子で話していました。ところがその居酒屋のメニューの話になり、ネーミングが面白かったので私がノートを取り出してそれをメモしようとしたとたんに、表情がサッと侮蔑に変わりました。

「そうか、こういう行為を面白くないって思う人も居るんだ」と、そのとき初めて気がつきました。
自分はいったいどういう風に映ったのでしょう。まさか、インテリと間違われた?

そう言えば、ご存知『寅さん』のセリフに、こういうのがありましたねぇ。
「やい、テメエさしずめインテリだな」
まあ、インテリが侮蔑されるという感覚は解らないでもありません。でも私は居酒屋メニューのダジャレをメモしていただけなんですけどねぇ。

ちなみにそのときのメモ
・しいたけ食べた人々
・高野ひじき
・食うもの糸
・つるっと温返し
・何層里芋発見伝
・ごぼうの石
・白い巨豆
・箸のない皮
『文学シリーズ』って書いてありましたが、元ネタあなたはいくつ解ります?

世の中には「学習そのものが嫌い」という人が居ます。私が知っている親戚の男の子も30歳を過ぎているのですが、生まれてこのかた単行本を読んだことが一度もない。日常は、食べることと、テレビゲームをすることと、カラオケに行くことと、コミックスを読むことで過ぎて行きます。

可哀想に、学習の面白さというものをまだ発見できていないんですね。
勉強に時間をとられることを「損」だと考えている。そんなことよりは、早く食べたい、早くゲームをしたい、という欲求の方が何十倍も強いんです。

『おしん』の再放送を見ていますが、おしんは勉強したかったのに学校へ行かせて貰えなかった。でも今は学校に行けるのに、図書館に行けば本だっていっぱいあってタダで借りられるのに、勉強したくないんですからね。なんてもったいないんでしょう。

古い話で恐縮ですが、私は小学校と中学校で二人見ているんです。それまでは悪ガキだったのに、ある時点から急に意欲を持って勉強するようになり、すっかり変身してしまった同級生を。

一人は算数、もう一人は英語に夢中になって、その教科だけはクラスで一二番を争うようになった。そうなると、今度は張り合いが出ますから、ますます勉強するようになる。
だから「学習そのものが嫌い」って人は、不幸なことにまだ面白さに気づいていないんですね。

もっとも日本の学校教育は、ほとんどが学習意欲を削ぐような教え方ばかりしていますから勉強がすぐにイヤになる。学校じゃなくてもいいから、どこかで気づく機会に出会えればいいんですけれど。早い機会に出会わないと、その後の人生できっと後悔することになると思います。

昔は自然の中で遊びましたから、いろんな発見がありましたよね。ところが今は、オギャーと生まれた瞬間から即「消費者」です。いろんな産業が、手ぐすね引いて待ち構え「消費者」にしようと狙ってくる。それに巻き込まれてしまったら、何にも考えないレールが敷かれてしまいます。

お釈迦様は、あらゆる不幸の元は「無明」にあるんだと言いました。「無明」とは道理に明るくないこと、つまりは「無智」です。「無智」があらゆる煩悩の根本なんだと言った。でもこれはお釈迦様がそう言ったからということに関わらず、世の中を見ていると「なるほど、その通りだ」と、つくづく実感します。

「勉強なんかに時間を取られるのは損だ」と考えている人。それこそが、損な人生なんですよ。
インナーボディーの発見
ヨーガの聖者などが、よく「聖なるヴァイブレーション」などと言ったりしているのを本で読んだことはありませんか? 私も「いったい何のことを言っているのだろう?」とずっと疑問で、眉唾物だと思っていました。

それが瞑想を初めて6ヵ月経ったとき、突然、体が振動し始めたのにはビックリ仰天しました。「あ、これがヴァイブレーションなのか」と、そのとき初めて実感したのです。最初は地震かと思ったのです。しかし暫くすると、そうではなくて自分のインナーボディが振動しているのだと解りました。

正確に言えば、インナーボディが振動していることを「知覚できるようになった」と言うべきでしょうか。ともかくその身体的変化によって、フィジカルなボディとは別に、もう一つのボディ(つまり霊魂であるところのインナーボディ)が確かにあることを実感したわけです。

この体の振動は、瞑想を日常的に行っている方ならば、ほぼ共通して知覚する身体的な変化です。それが別に珍しいものではないと知ったのは、だいぶ後になってからです。瞑想を行っていない方でも、朝方起きがけのときに眼を閉じて、そのまま布団の中で静かにしていれば、もしかしたら振動を感じ取れるかも知れません。

こうして、自分のヴァイブレーションが感じ取れるようになってくると、しだいに気のエネルギーも知覚できるようになっていきます。私ていどの者でも、それくらいの変化は実感出来るようになりましたので、ちゃんと取り組めば、多くの人が同様の実感が得られるようになるものと確信しています。
誰かのために?
誰かのために役立ちたい。立派な心掛けです。
子供のために。親のために。

こんな話を聞きました。寝たきりの母親の介護をめぐって、兄弟喧嘩になったというのです。普段の介護は、母親と同居している弟さんがしています。ところが正月休みで実家に帰った兄が、その様子を見て意見をしたことに、弟さんがカチンときた。

兄は、「もっとああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか」と言う。弟は、「たまにやって来て、いきなりなんだ」となる。「俺は毎日お袋を看ているんだ。お袋がいちばんいいようにやっているんだ」

どちらも「母親のために」と主張して喧嘩になる。
でも本当に「母親のために」なんでしょうか? 自分が満足したいだけなのではないでしょうか?

親が子供の世話をやくときも、多くの人は「子供のために」と言いますが、それは本当でしょうか? 本当に子供のためになっているでしょうか? 自分が満足したいだけなのではないでしょうか?

逆の立場に立ってみたら「うっとうしい」だけになっていませんか?
「誰かのために」と言う前に、自分のために行動しましょう。先ず自分のために行動して、自分で責任を取るのです。

飛行機に乗ると救命胴衣の付け方のガイダンスがありますが、親は先ず自分に付けることを指導されます。それから子供です。
泳げない人間に、溺れた人は救えません。「誰かのために」を、自分の不満足の隠れ蓑にしないようにしましょう。
「パラサイト・シングル」のその後
このブログでもすでに何度か書いて来たのですが、離婚したり夫に先立たれたりしてしまった母親と、独身の息子が一緒に生活するというケースが近年目立って増えて来たように思います。男性の生涯未婚率が2割を超えたということですから、巷(ちまた)に見るこうした現象にも頷けます。

1997年、東京学芸大学助教授(現中央大学教授)であった社会学者の山田昌弘氏が「パラサイト・シングル」という造語をつくり、当時顕在化し始めた社会現象を指摘してこれが話題となりました。

「パラサイト・シングル」とは、学卒後も親と同居し、基礎的生活条件を親に依存している未婚者のことを言います。
住居費は要らず、家事を親に任せっきりにし、収入の大半を小遣いに充てることができ、時間的にも経済的にも豊かな生活を送っている独身者をそう呼んだのです。

ところが、それから15年。かつてはリッチだった「パラサイト・シングル」像が、親世代の高齢化と若い世代の雇用不安定化によって、一気にプアな像へと転落してしまいました。

今や相互補完しなければとても生活できない、という状況にまで陥っています。しかたなしの「パラサイト・シングル」現象です。
これでは生涯未婚率はさらに上がり、したがって少子化にもブレーキが掛かることはないでしょう。

雇用の悪化という状況が、思わぬ現象として表面化しているわけです。将来、人口ピラミッドが少子高齢化によってますます逆型になっていくことは間違いないのですから、社会の問題としても、個人の問題としても、なんとか手を打たないとどんどん酷い状況に追い込まれていくことでしょう。

昔の雇用は、新卒で採用した人間を、会社が一人前になるまで育て上げました。しかし、正社員の採用枠が減っているところにもってきて、じっくりと育てる余裕もなくなってきています。格差社会となり、正社員になれない、かといって一人で生き抜くスキルもない、ということでは将来に希望が持てようはずはありません。

現代は、人脈やソーシャルスキルがものをいう時代です。たとえ今「パラサイト・シングル」状況にあったとしても、現代には現代に合ったリテラシー(読み書きそろばんといった基礎能力のこと)が必要だということを頭の隅に入れて、状況に負けないように戦略的に行動していかなければいけません。

一般論としての社会的成功などは気にする必要はありませんが、自分が輝ける居場所をつくる努力は、惜しまないようにしたいものです。
総括しない国
先の衆議院選挙には正直ガッカリしました。
「こんなものかぁ」という感じです。
結果についてではありません。結果をどうこう言っても始まりません。

選挙の争点がもっぱら「景気回復」に有ったということ。分析によれば、原発の是非については、わずか1割の影響力しか持たなかったのだとか。それと、3年半前には自民党政治にウンザリして民主党を選んだ筈なのに、今度は振り子が大きく戻るようにして自民党に回帰してしまったということ。

言葉は悪いですが、なんだか丁半バクチをしているようです。
丁がダメなら半、半がダメなら丁。
結果的に、アメリカ仕込みの二大政党制のロジックが出来上がったのだ、と言えなくもありません。

二大政党制というのは、裏から見れば、大衆のガス抜きのために設けられた制度です。アメリカは基本的に自由主義の国。その自由主義の枠組みの中で、保守とリベラルの小さい差を設けているだけです。どっちが政権をとっても、基本路線が変わることはありません。それが二大政党制というもののカラクリです。

日本も、労働組合を母体とした民主党が政権をとったことで、労働者に有利な政治に変わるのかと思いきや、そうはなりませんでした。
政権運営の酷さばかりが目立つだけで、自民党といったい何が違っていたのか、今となってはよく解りません。

今回、選挙前の調査で「選挙後にはどのような政権の枠組みを望みますか?」という質問に対し「自民党と民主党の連立」と答えた人が3割以上もいたのには驚きました。ちょっと前まで、これは「大政翼賛会」と言って、絶対にあっちゃいけないことのように言われていた筈なのですが‥‥。

でもそれを望んだ人が3割も居た。よい方に解釈すれば、「与野党で争っている場合ではない。一致団結して、日本をよくしてくれよ」という切実な願いだったのかもしれません。

選挙の争点が「景気回復」に有ったということは、「景気」が回復すれば暮らし向きがよくなる、諸問題が解決する、と考えている人がまだまだ大勢いるということなのでしょう。マスコミを通じた洗脳の根深さを感じます。

ヨーロッパの経済危機や、アメリカの貧困が一体どうして起きたのか? 失われた10年が、失われた20年に延長されてしまったのはどうしてなのか?「改革」を叫び長期安定政権を維持した小泉改革後、日本がどうなってしまったのか? 民主党にスイッチさせたはいいが、その後はどうだったのか?

やっぱり日本は、総括しない国なんですね。
根拠なき「期待」に身を委ねることはもうやめにしなければならない。
と個人的には思うのですが、どうもそんなふうにはなりませんね。
病者への不用意な意見は慎みましょう
パッと思いついたことを、何でもすぐに口に出してしまう人がいます。
心の悩みを抱えている人は、それを誰かに聞いて欲しいと願いながらも、いざ話すと、理解されることが殆どないので、ガッカリして、だんだんと口を噤(つぐ)むようになっていってしまいます。

「心の持ちようが大事なんだから」「心の病いなんて贅沢病よ」「病いは気からって言うでしょう」「鬱だと思うから鬱になるのよ」「自分をそんなふうに神経症だと決めつけないで」「私のようにケラケラと笑って過ごせばいいのよ」「周囲との問題があれば、まず自分の方から変わらなければダメよ」「あなただっていいところはあるんだから」「自信を持ちなさい」「死ぬ死ぬと言ってる人ほど死なないものよ」「元気出しなさいよ」

その「意見」が全部間違っているというわけではありません。しかし、そんなことを病者に言っても、言葉は全く届きません。却って悪化させるだけです。

なぜなら、解っているけれども出来ないで苦しんでいるのが病者なのですから。
そのようにして、叱咤したり激励したりすればするほど、病者にとっては自分がそう出来ない状態にあることが逆に強調されることになってしまうのです。

叱咤激励する方は、少しでも良くなってもらおうという親切心から、そうした言葉を不用意に投げかけてしまうのでしょう。でもちょっと待ってください。
病者というのは、いわば心の過敏症にある状態です。これでは化学物質アレルギーの人に、化学物質を振りかけているようなものです。

専門家でもないのに、ましてや頼まれたわけでもないのに、アドバイスをすることは慎みましょう。心の病いだけではなく、体の病いにある人に対しても同様です。生半可な知識を披瀝するのはやめましょう。相手は混乱するばかりです。

本当にその人のことを思っているのなら、聞き役に徹するだけで充分です。
それでもし求められたら、そのときにはご自分の意見を静かに語るようにしましょう。
頭を抱える
悩み事があるとき、人は自然と頭を抱える仕草をとっていますね。
「頭を抱える」というカラダの行動が、悩んでいる状態の別名にもなっているほどです。
このアクションは、どうも万国共通のようです。

悩み事があるとき、人はなぜ頭を抱えるのでしょうか?
実は無意識にセルフヒーリングを行おうとして、自然とそのような形になるのです。

先ず、頭を抱えたとき、眼は瞑(つむ)っている筈です。眼を爛々と見開いたまま頭を抱えているということはありません。これは、眼を閉じて瞑想することによって、混乱した頭を鎮めようとしているのです。

その上で、さらに手を載せる。これは「手当て」、つまりセラピューティック・タッチです。頭だけではなく、お腹が痛いとき、腰が痛いとき、自然と手が患部に行くでしょう。これが「手当て」です。

頭を抱えるという仕草は、こうして、自分で自分を癒そうとしているアクションなのです。
岸朝子さんのノート

「おいしゅうございます」で一世を風靡した、岸朝子さんを覚えておられますか? 『料理の鉄人』の審査員をやっておられ、上品な言葉を駆使されていましたね。「料理記者歴ン十年」という紹介になっていましたが、その通り、バリバリ働く女性だったわけです。

以前、その岸朝子さんのエッセイを読んでいたときに、子供と交わした伝言ノートのことが書かれてあって、「なるほどなぁ、これはいいな」と思ったことがありますので、ご紹介します。

なあに面倒なことではありません。普段、食事をするキッチンテーブルの上にノートとペンを置いておくだけ。そして出かける際には、そこに伝言を書きこむのです。作っておいたお惣菜が冷蔵庫のどこそこにあるから温めて食べてくださいとか、お風呂のお掃除お願いしますとか。

私も紙切れにメモを残しておくということはしましたが、それを常設のノートにしたところがミソですね。その伝言を読んだお子さんが、今度は自分が伝えたいことをまたノートに書く。そういうルールにしておく。

すると、伝言のやり取りがそのまま家族の成長の歴史として残るわけですね。岸朝子さんは、こうすることで子供と十分なコミュニケーションが取れたと言っています。

今はたいていのお母さんが外に出て働いていますし、シングルマザーの世帯も増えています。いつも一緒に居ることが、必ずしも親子の愛情じゃないんですよね。一緒に居る時間がそれほどなくても、一冊のノートがそれを果たしてくれる。

重要なことは、気遣いを解る形で示してあげること。子供も、お母さんが自分を養うために一生懸命働いてくれていることは解っていますので、ノートだけで十分通じ合えるんです。それにノートの方が言いにくいことも言えるという利点もあります。育ち盛りのお子さんがいらっしゃる家庭の方、試してみられてはどうでしょうか。

勇気・根性・潔さ

「勇気・根性・潔さ」これは若いころ、ある師から教わった言葉です。その師は、人が仕事をする際に、もっと言えば仕事を通じて生きていく際に、大切なことはこの三要素だと教えてくれたのです。

事を始めるに当たっての「勇気」、一旦始めたら持続する「根性」、そして結果に執着しない「潔さ」。
言葉で言うのは簡単ですが、いざそれを心がけようとすると大変に難しい。
もしこの三つを兼ね備えていたとしたら、その人物は間違いなく大物になっていることでしょう。

三つの中で、「根性」がある人、これは10人に一人くらいは居るでしょう。でも「潔さ」のある人となると、100人に一人くらいしかいない。さらに「勇気」のある人となると、1000人に一人ではないでしょうか?

三つの中では「勇気」を持つことがいちばん難しい。現役時代、私はそのように感じていました。