by Rainbow School
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「就社」=「就職」ではありません
ニュースで、「今年の大学生の内定率63%」というのを目にしました。
これは前にも書いたかもしれませんが、新卒者の採用活動を、企業が同時期に一斉に行う、いわゆる「就活」は廃止すべきだ、というのが私の考えです。

これでは、どうしたってミスマッチは起きるし、運悪く就職浪人になってしまった人は、喩えは悪いですが「新古品」扱いにされてしまいます。何十倍、何百倍の関門をくぐり有名企業に就職出来た人だって、それが果たしてよい選択であったかどうか。実際に働いてみないことには判らない。

どうしてこんなバカバカしい方式を未だに続けているのでしょうか?
どうしてインターンシップ制度をもっと推進しないのでしょうか?

私が危惧するのは、こうした制度が根強く残る中で、若者たちの「就職観」「仕事観」というものが一色に染め上げられ、すっかり洗脳されてしまうことです。
みんなが同じ色のスーツを着るというところに、もうそれが表れています。
立場が弱いというのは解りますが、なぜ「個性を買ってください」と言わないんでしょうか?

いま就職活動をされている方に申し上げたいのは、当たり前のことなのですが、「就職」と「就社」は違うということです。
「就職」の中に「就社」が含まれるかもしれません。しかし「就社」=「就職」ではありません。
もっと言えば、「就職」と「仕事」も違うということです。

ですから、たとえ「就社」活動がうまくいかなかったとしても、それは「就職」とも「仕事」とも関係がないということです。
何を「職」とするか、どういう「仕事」をしていきたいか、これは主体的にあなたが自分をデザインして行くべき問題です。
その大きなプランの中に、新卒として「就社」を今回考えている。これなら話は解ります。

今は大企業だって潰れる時代。ブランドなど価値がない時代。平気でリストラする時代。大きい会社ほど社員は歯車にされる危険性も大きい。
そういうことを考慮した上で、「職」と「仕事」を主体的にデザインしていかなくてはならない時代なのです。

そのやり方を、いったい誰が教えてくれるでしょうか?
大企業や安定職場に、それが解っている先輩などいるわけがないじゃありませんか。それを考えたくないから、考えなくていい職場に就職したんですよ。
学校の就職課? 解っているわけないじゃありませんか。考えたくないから、考えなくていい大学に勤めているんですよ。
リクルート産業? みんなが個別に気づき始めたら、一斉に騙せなくなる。そうしたら産業じゃなくなっちゃうじゃないですか。

自分が何をしたいかがまだ解らない、ですって?
だったら、モラトリアムをすればいいんですよ。
大切なのは、自分の「職」と「仕事」を追い求め続けていくこと。
自分で考え、追い求め続けていくしかないんです。
求め続けていれば、たとえ失敗や紆余曲折があったとしても、必ず得るものがあります。
そこで、人生の意味が大きく変わってくるのです。
衆議院選挙に思うこと
第46回の衆議院議員選挙が12月4日に公示、16日に実施されます。
解散から一ヵ月しかないというのは、立候補者にとって非常に厳しいものがあるようですね。
おまけに小選挙区制ですから、一つの選挙区で一人しか当選できません。そうなると必然的に、知名度のある人や、政党支持率の高いところが選挙戦では有利になってきます。

今回の選挙では第三極の台頭ということが言われているのですが、選挙通に言わせると、小選挙区制のもとで議席を獲得するのは、単なるムードとは異なるしっかりした選挙戦術が必要とのこと。わずか一ヵ月の準備期間で第三極が表舞台に登場するのは、なかなか難しいようですよ。

と、最初に評論家のようなことを書いてしまいましたが、そんなことは私たちに今どうこうできるわけでもなく、この手の政局分析に心をくだいても仕方がありません。
それよりも問題は、一般庶民が今どう政治に関われるのか、ということです。
日本国は、一応民主主義国家ということになっているのですが、果たして本当に民主主義が日本国にあるのでしょうか?

「民主主義(democracy)」とは、一般の人々が国家権力に参加することを言います。
これと「議会制」とは、本来はまったく別の概念です。「議会制」のモデルとなったイギリスの上院が「貴族院」と呼ばれている(今日でも爵位を持つ人で構成される)ことをみても、「民主主義」とは別物であることがよく解るでしょう。

ところが私たちは、子供のころから「議会制民主主義」=「民主主義」という概念を植え付けられて育っています。
その結果、選挙制度で選ばれた代議士が政治を担うという制度に何の疑問を持たず、今日まで来ているのです。

しかし、本来の「一般の人々が国家権力に参加する」という意味からすれば、今の私たちが取り得る手段はそれほど多くありません。
国民が直接投票できる制度は、衆議院制度の際に同時に実施される「最高裁判所裁判官国民審査」と、「国民投票」しかありません。

「国民審査」はご承知のように形骸化していますし、「国民投票」は憲法改正の場合のみに制限され、これまで一度も実施されたことがありません。
よって、選挙のときに代議士を選ぶことでしか、「参加したつもり」にはなれないのです。後は、デモをするとか、暴動を起こすとか、市民的不服従を行うことでしか、政治に関わることができません。

では代議士による政治の根幹はいったい何になるのでしょうか?
これはとても簡単です。「公約」を守ることです。
「公約」を掲げて、その「公約」に対する賛同者を募り、当選する。当選したら、その「公約」を実行する。「公約」が実行できなければ、政党は下野し、代議士は次の選挙で落選する。
これが守られなければ、「議会制民主主義」など、全くの絵に描いた餅です。

ところがどうでしょう?
政権を握っても「公約」はちっとも守られない。
政党政治と言うけれども、たとえば消費税やTPPや防衛問題に関して、一つの政党の中にも真っ向対立する考えがあってまとめきれない。

そしていざ当選したら、政権獲得の目的のために、まったく意見を異なる政党とも連立を組んでしまう。(お若い方は知らないと思いますが、1994年にはなんと自民党と社会党が連立政権を組んだこともあるんですよ!)
これでは、選挙が大事といったところで、投票行為にどんな意味があるのか、本当に空しくなってしまいますね。

これからの政治が、日本国と日本国民にとって、非常に重大な意味をもたらすであろうことは疑いようもありません。
それなのに、日本には民主主義がない。
これから、いったいどなたが、どう日本を導いていくことになるのでしょうか?

●参考
2009年時の野田佳彦氏の街頭演説
総理になった野田佳彦氏の2012年の弁明
「信頼」の値踏みグセ
「あの人は信頼できるだろうか? 信用がおけるだろうか?」
そうやって、絶えず他者を値踏みしている人たちが居ます。
自分が過去に受けた手痛い「被害」。それと同じようなことにもう二度と会いたくない、そういう気持ちが嵩じて、これからは信頼できる人とだけ出会いたいと願うのです。

でもその「信頼」とは何でしょう?
自分のことを受けとめてくれる、話を聞いてくれる、けっして自分をバカにしたり怒鳴ったりしない。
と、ここまではよいのです。それは人間関係の最初における基本ですから。

ところが、こうした「信頼」の値踏みグセのある人たちは、最初の条件がクリアされたとみると、その関門にパスした人たちを、次には自分の思い通りに使おうとし始めるのです。
最初は軽い「甘え」から始まり、最後は自分の思い通りにしてくれなきゃイヤだとダダをこねたり、当たり散らしたり。つまりそれは、形を変えた「支配」です。

こうなりますと、相手はその「支配」から逃れるために、そういうめんどくさい人からは、次第に距離を置くようになります。
すると、「信頼」の値踏みグセのある人たちは、「やっぱりあの人も信用できなかった」「裏切られた」「酷い目に遭わされた」と、再び「被害者意識」のループの中に落ち込んでしまうのです。

でも、こういう人たちが、全く気がついていないことがあります。
それは、
「自分が他者から見て信頼のおける人間か?」
ということです。

いつもいつも、「あの人は信頼できるだろうか?」と他者を値踏みしているばかりで、「逆もあり」だということを考えてみたことがありません。
考えてもみてください。いつもいつも他者を値踏みしているような疑い深い人間が、果たして「信頼」を勝ち得るのかと。

人間関係は、ミラー(鏡)のようなところがあります。
相手に対して「怒り」を向ければ、「怒り」が返ってきます。「疑い」を向ければ、「疑い」が返ってきます。
ズバリ言って、自分の周囲に「信頼」のおける人がいない、と常に思っている人は、自分自身が「信頼」に足る人間ではないからです。

「愛」を向ければ「愛」が返ってくる。
「信頼」の値踏みグセのある人たちは、この単純な法則に気づいていただきたいと思います。
体からのメッセージ
風邪がやっと抜けて来ました。今回はそれほど重い症状にはなりませんでしたが、抜けて来るのに10日ほど掛かりました。
きっとバランスを調整するために、風邪がもたらされたのでしょう。どこかにムリがあったのです。

体の不調は、心の不調のメッセージです。
ドキドキしたり、体がほてったり、冷や汗が出たり、震えがきたり、めまいがしたり、肩がこったり、腰が痛くなったり、痒みがでたり、足がつったり、体が固まったり。

そんな症状が起きたら、自分の心の動きや行動に、どこか偏ったところはなかったか、ムリはなかっただろうか、を考えてみましょう。
そこに気づけば、軽い症状のうちに修正を図ることができます。

いちばんいけないのは、体の不調の要因を、外に求めることです。
「何々があったからこうなった」「誰々のせいでこうなった」
このような思考、感情の動きは、不調を加速させてしまいます。

なんでも周囲のせいにする。
なにより、そのような心グセが、体に不調をもたらしていることにお気づきになってください。
無意味なルールを答えにしない
子供はよその親のことを知らないし、まだ大人になった経験もないので、自分の親が「未熟」であるということを知りません。ですから、親の言動が「未熟」の為せる業(わざ)だとは思ってもみないことないのです。それは自分にとって絶対的なもの、社会の共通の見解であるかのように響くのです。

思春期になれば、子供は自分の苦しい心情を、人生の先輩であり、また自分を育ててくれた身近な親に、なんとか理解して貰いたいと思うことがあります。
とりわけ、学校の中で孤立化していたり、いじめを受けていたりした場合には、親という存在は最後の駆け込み寺でもあるのです。

ところがこうした子供の訴えに対して、親や教師にありがちな失敗は、常識で縛られた無意味なルールで答えを返してしまうことです。

私の父もそうでした。10代の後半、私は通っていた学校のカリキュラムが自分には合わず毎日がとても苦痛だったので、一度だけ「学校をやめたい」と父親に訴えたことがあります。その時の父の答えは、「途中で止めると、何でも途中で止めるような人間になるからダメだ。どんなことがあっても卒業しろ」でした。

そう言われて、やっとの思いで学校は卒業したのですが、その後の私はすんなり社会に適合できず、学校での授業は全く役に立たなかっただけではなく、10代後半から20代にかけてを完全に棒に振ってしまったのです。

その体験があって今が在るとも言えるのですが、父が言った格言は、全く無意味なルールに過ぎなかったと今では思います。
その後の私は、途中で投げ出したものもあれば、長続きしたものもある、という状態でした。考えて見ればそんなことは当たり前のことですよね。

学校でいじめを受けていて、それがいやで不登校になる。親が聞きただすと、初めていじめを受けていたということが解る。その時に「お願いだから、学校にだけは行ってちょうだい」と言う親が少なくないそうです。

でもそこで、そう言われた子供は、いったいどう思うでしょうか? 「ああ、この人には何も通じないんだな」とガッカリするだけではないでしょうか。
恥ずかしい話ですが、私もそれから、とうとう死ぬまで父とは会話がありませんでした。

親も教師も、自分が解らないことは「解らない」とそのまま言えばいいと思います。「自分も未熟なんだ」と言えばいいと思います。
それを、常識に縛られた無意味なルールを持ち出すから、収拾がつかなくなるのです。

子供が何かを訴えて来たら、「自分にも答えは解らないけど、一緒に考えましょう」と言ってあげてください。
それだけで、子供はずいぶん救われると思います。
スーパー隠居じいさん伊能忠敬
日本国の歴史上、はじめて国土の正確な姿を地図に表したという伊能忠敬(ただたか)
この人物が全国測量に費やした年月は17年間にも及ぶのですが、それがなんと56歳の時からだったということをご存知ですか。

伊能忠敬は、元々は下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)で、酒、醤油の醸造や貸金業を営んでいた商人だったのですが、50歳の時に隠居し家督を息子に譲ると、江戸に出て幕府の天文方であった高橋至時(よしとき)に師事し、天文学と測量の勉強を始めます。

今でいうと、定年後、生涯学習のために東京の大学に単身入学したシニア学生といったところでしょうか。
このことだけをみても、伊能忠敬の「勉強したい」という熱意はそれはそれは凄かったらしく、寝る間も惜しんで勉学に励んだといいます。

転機となったのは、天体観測をするなかで、地球の大きさを推定しようと考えたこと。
忠敬は天文方暦局がある浅草と、自分の家がある深川から北極星を観測し、緯度の差(僅か0.1度)と浅草=深川間の距離(2km)から、地球の円周を推算しました。いわゆる三角測量技法を応用したわけですね。

ところが至時(よしとき)からは、「浅草=深川間では距離が短過ぎて、推計値の信頼度が低過ぎる。せめて江戸と蝦夷くらい離れた場所で観測しなければ、正確な値が得られない」と一笑に付されてしまうのです。
これが、56歳にして蝦夷地までの測量の旅を始める大きなモチベーションとなったのです。

それまでに築いた財力があったからこそ出来たとも言えますが、それ以前に、忠敬が大変な好奇心の持ち主でガンバリ屋であったことは間違いありません。これこそ、スーパー隠居じいさんです。
安政南海地震で津波の来襲から村人を救った濱口梧陵(はまぐち ごりょう)と、ちょっと似た感じがありますね。

いまリタイアの年代に差し掛かっている世代の方々は、ひとつ伊能忠敬を目標にしてみてはどうでしょうか?

格差社会が言われていますが、今の若者たちをとりまく社会状況には悲惨なものがあります。若者たちの現在が、やがて日本の未来を決定するのです。
まだまだ働ける人は、高度成長期を生きて得た知力・財力を、社会の歪みを是正するような活動に使って、大いに燃焼していって欲しいと思います。
ソーシャルメディアって?
友人から、ソーシャルメディアに関する講演会があるので一緒に聞きにいかないか、と誘われました。
でも案内文の惹句を見たら、

・スティーブ・ジョブスの死と共に去ったパソコンの時代。
・2012年、ソーシャルメディアの夜明け。
・たった一つの”つぶやき”から生まれるシンデレラ・ストーリー。
・幸運の女神からの『いいね!』で変わる人生。

とあるのを読んで、私は遠慮しました。
こういう流行(はやり)ものを煽る話には、もう私はまったく興味が沸きません。「遅れている」と言われれば、その通りかもしれません。
でもどうなんでしょう? パソコンの時代が終わったとも思いませんし、ソーシャルメディアが、言うほど素晴らしいものだとも、私は思いません。

それに、世の中には、パソコンにすら触ったこともない人たちも大勢いて、そういう人たちだってちゃんと普通に生活をしています。
いまソーシャルメディアに関わらなければ、この先の人生が開かれないかのように言うのは、別の意味で、今という時代を解っていないのではないのかなぁと思います。

「ソーシャルメディア」という言葉を初めて聞いたのは2年前ですが、その時は「social」という言葉を「社会的」という意味だと早合点して、少し興奮しました。でも後になって、twitterやfacebookやmixiのことだと知ったときには、ガッカリしました。

ウィキペディアの定義を見ますと、<誰もが参加できるスケーラブルな情報発信技術を用いて、社会的インタラクションを通じて広がっていくように設計されたメディア>となっています。
でもこれだけでは解りにくいですね。

ポイントは、

・マスメディアは多くの人に伝達可能だが、一方的であり、資本や規制による制約もあって誰もが情報発信できるわけではない。
・一方、パーソナルメディアは、個人から個人への伝達手段に留まり、それ以上の広がりを持たなかった。
・しかしソーシャルメディアは、個人の情報発信がマスメディアのように多くの人々に伝わる可能性を秘めている。

ということにあるようです。
それが「social」という言葉に被せられた意味のようです。

確かにその可能性の意義は大きく、中東革命で大きな役割を果たしたことをみても、これまでのマスコミ支配の構造を打ち破るインパクトがあると思います。
ところが、もちろん良いことばかりではありません。

第一の問題点は、情報発信元の信憑性が疑わしいということです。
中東のCNNと言われるアルジャジーラの放送を見ますと、シリア状勢やパレスチナ状勢を伝える際に、最近は携帯電話で撮影した映像が頻繁に使われるようになっています。でもどちらの側が撮影したのか、誰を撮っているのかも定かではありません。

映像など、最近では簡単に捏造できるわけですから、それを解像度の悪い携帯電話の素人撮影で見せて、そこにアナウンサーがコメントを被せるというスタイルをどこまで信じてよいか判りません。疑いなく観ていたら、アナウンサーの言葉を鵜呑みにするということになってしまいかねません。そして実際に、そういう虚偽の報道への誘導が行われていると私は考えています。

以前ですと、マスコミは必ず「裏」というものを取ったわけですが、それではソーシャルメディアのスピードに負けてしまいますので、今ではソーシャルメディアの後追いをするようになってしまいました。中国漁船衝突事件の際の映像も、出所が解ったのは、ネット上の動画をマスコミが取り上げて随分経ってからでしたよね。つまり、刺激的でさえあれば、「裏」などどうでもよくなってきているのです。

第二の問題点は、田原総一郎さんが最近になって仰っているのですが「twitterは結論しか言わない。途中がない。」ということです。田原総一郎さんは、当初は「twitterは面白い」と言っていたのです。ところが可能性を感じて使ってみた結果、「結論しか言わない。途中がない。」ということが解ったというのです。

これはどういうことかと言いますと、情報を精査したり、関連づけたり、分析したり、思索したりする「中間」がないということです。
ある事柄に関して、「賛成」か「反対」かといった単純な切り口で判断するだけになってしまう。そのいい例が、『いいね!』ボタンです。

何がいいのか、どこがいいのか、全く解らないけれども、ただ『いいね!』と言う。そしてその数を競う。
私はこの『いいね!』方式を、ちっとも「いいね」とは思いませんね。
こうして思考を単純化させた結果、第三の問題点として、ソーシャルメディアは「ネットいじめ」に非常に適したツールに成長してしまったのではないでしょうか?
「こいつ嫌い」「あれはダメ」とすぐに判断してコメントする。

マスメディアにしても、パーソナルメディアにしても、そしてソーシャルメディアにしても、結局はコンテンツ(内容)と、使う側のモラルの問題が問われるのだと思います。
ソーシャルメディアは、確かにマスコミの支配を破壊するインパクトを持っていると思います。けれども同時に、モラルも破壊するインパクトを持っていることを、私はとても危惧しています。
依存
何かの「依存」状態にあるとき、人はそれが「依存」だとはなかなか気づきにくいものです。
今まで「依存」していたものを捨てる段になって、初めて「依存」していたことに気づかされるのです。

薬物への依存、物への依存、テレビやゲームやコミックスへの依存、パソコンへの依存、買い物への依存、スイーツへの依存、アルコールや煙草への依存、ペットへの依存、人間関係への依存。
依存の対象は、それこそいくらでも転がっています。

強い「依存」は、心の病いの一歩手前です。
自分は何者なのか、自分はどこから来て、どこへ行くのか?
今までその根本命題に真剣に向き合おうとして来なかったので、いつまでも自分が定まらず、心はその不足分を補おうと、絶えず外に在るものへの「依存」に向かうのです。

でも考えてみてください。墓場まで持っていけるものは何一つないことを。
強い「依存」は、いずれ強い「喪失」感をもたらします。
そうなることが人は本能的に怖いので、ますます「依存」にのめりこんでしまうという悪循環。しかしこれは、どこかで断ち切らなければなりません。

今ご自分の周囲を見回してみて、不必要なものを抱えていませんか?
これだけはどうしても捨てられない。それはひっとして「依存」なのかも知れませんよ。

さっさと捨ててしまえば思い煩うこともないのに、いつまでも後生大事に抱えている「こだわり」。そんなものがないか、一度チェックしてみるといいかもしれませんね。
寒がり
11月も下旬になって、さすがに寒さを感じるようになりましたね。
私は、どちらかというと寒がりの方でしょう。
夏はどんなに暑くてもクーラーは使いません。クーラーがないからといって、別に死ぬわけではありませんからね。
でも冬は、暖房なしで堪えるのは今のところ難しい。

ところが先日、電気のない生活をしているという女性にお会いしました。
団地住まいだというのですが、ずっとブレーカーを落とした状態のままで、契約をしていないというのです。

今はお風呂だってマイコン制御ですから、電気がストップした状態ではお風呂も使えません。どうしているのかとお聞きしたら、お湯は沸かせるので、それで体を拭くだけという答えでした。
そして、11月なのにとても薄着なのです。体が慣れてしまうというか、逆に内側からポカポカと暖かいと言うのです。

私もできるだけ暖房器具を使わないようにしているのですが、この人のようにはとてもいきません。
今度、秘訣をもっと詳しく聞いてみようと思います。

あッ! 電話もないんだった。どうしよう、連絡とれない。
「庇護」と「支配」は紙一重
「庇護」と「支配」は紙一重です。
自分では「庇護」しているつもりになっていても、実際には「支配」していることに気が付かないことも、日常生活の中では往々にしてあることでしょう。

幼子は、今いる環境の中で生きて行くしか術(すべ)はなく、自分を庇護してくれる存在に抵抗することはできません。しかしその子供も青年期に達すれば、支配に抵抗できる体力や考えを身につけていきます。

このとき、子供が言うことを聞かないといって、文句を言ったところで、子供が態度や行動を改めると思ったら、それは大間違いです。
実際は、文句を言ったり、批判したり、欠点を指摘したりすると、子供はますます態度をこわばらせ、反抗的な行動をとるものです。

それは、文句を言う側が、相手のことを尊重していないからです。
幼子であった時代には通用していた「支配」の論理が、もう通用しない。そのことにハッと気づかされることになります。

子供に文句を言っているときの、自分の顔つきや物言いや態度を想像してみてください。それがもし醜いものであったなら、子供は自己防衛のために反射的に復讐してきます。
立場を置き換えて想像してみてください。自分でも反抗するのではありませんか?

生まれたときから、子供は別人格の存在であり、親の所有物ではないのです。
もし、子供に対して何か言うべきことがあったら、子供の存在を尊重した上で、なおかつ自分の顔つきが醜くないかを想像して、それで語ってください。
その後どうするかは、子供自身の問題です。