by Rainbow School
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批判と陰口は違います。
周囲の人の考え方や行動に、どうしても納得できない部分があるのならば、面と向かって堂々と批判をすべきです。それを出来もしないで、ただ陰口を叩いていても何の利益ももたらしません。
それなのに、陰口が習い性になっていることに気づかない人たちが大勢います。
陰口を利くことで多少なりとも自分の溜飲が下がると思っているのだとしたら、それは大間違いです。
第一に、陰口を叩いても問題が解決するわけではありません。
第二に、それを聞かされる第三者にとっては、そのような話などどうでもいいことです。どうでもいいような陰口を始終聞かされていたら、人はそれを語っている人をいったいどう思うでしょうか?
第三に、陰口はネガティブなアファメーション効果を本人にもたらしてしまいます。
陰口を利くという習い性が、知らず知らずのうちに、不平不満という心グセを雪だるまのように膨らませてしまうのです。
常に陰口を叩いている人をよく観察してごらんなさい。あそこが痛い、ここが悪いと、何かしら体調不良を訴えている筈です。
それを作り出しているのは、他ならぬ自分自身なのです。
いつか手痛いしっぺがえしを受ける前に、気づいてくださるといいのですが。
徹夜や重労働をしたときに、体は疲れきっているはずなのに眠れない、という経験はありませんか?
そのような状態を持ち越してしまうと、いつまでもスッキリしないだけではなく、その後の仕事の効率も著しく低下してしまいます。
これは、仕事の集中によって起きた脳の興奮状態が、いつまでも収まらないためにそうなるのです。
こんな時にはすぐに眠ろうとはせずに、いったんクールダウンを図りましょう。
いちばん良いのは、ぬるめのお風呂にゆっくりと浸かることです。浴槽に体を沈め、頭を空っぽにして、興奮した意識を解き放ちます。
お風呂の中でする一種の瞑想です。試してみてください。
山間僻地の村で、一日中草刈りをしました。そこは総戸数が4戸しかありません。住んでいるのはお年寄りばかりです。
馴れない作業でグッタリしましたが、昔の人は「生きる」だけできっと精一杯だったんだろうなぁと思いました。
そこは日照時間が短いのと寒冷地であるため、昔は稲作ができませんでした。(今は、温暖化の影響で出来るようになったとのことです)
そのため、稲作をするには2時間の山越えをして、平地まで出かけて行ったそうです。2時間歩いて行き、それから作業をするのですから、過酷ですよね。
「自己実現」なんて言葉が、全くアホらしくなって来ます。
サバイバルのために費やす労働時間が減ったおかげで、人間は「自己実現」を模索する余裕が出来たわけですが、さて、その余裕が出来た時間をしっかり使っているでしょうか?
私には、どうもそうは思えません。
「生きる」だけで精一杯だった時代と、ヒマを持て余している時代と、どっちがいいのか判りませんね。
人と会話をしているとき、実はコミュニケーションの9割は言葉以外のものから得ていると言われています。
言葉以外のものとは、話しぶりや表情、目の動き、身振り、態度などです。
「目は口ほどにものを言う」という言葉もあります。目を見ればその人が真実を言っているかどうかが解る。それを見抜く感覚を人間は持っています。
手書きの文書に、書かれている内容以上のものを込めよう、あるいは受け取ろうと考える文化は、日本独特のもののようです。
欧米ではそこまでは強く意識しない。ラブレターなどはやはり手書きのようですが、それ以外はタイプした文書に、サインだけを自筆ですればOKといった感じです。
何を言いたいかといいますと、言葉以外のコミュニケーション技量がとても大事だということです。技量は、訓練しなければ向上しません。
それなのに、最近は、訓練を阻害するといいますか、敢えて訓練などさせないツールが蔓延しています。これらにイージーにハマってしまってはなりません。
私の知人で、結婚願望の非常に強い男性がいます。
彼は、相手の目を見て話をするということがついぞできません。
何かの機会で女性と知り合うことがあると片端からメールを送り、自己紹介のつもりなのでしょう、自分の興味あることばかりを並べ立ててはデートを迫ります。
もちろん毎回フラれます。相手からは気持ち悪がられています。
しかしそこのことに、彼は全く気がついていません。
ストーカーのようなことをする男ではないのですが、コミュニケーションの技量が著しく劣ったまま大人になってしまったのです。
相手の目を見て話をすることができないというのは、コミュニケーション技量に問題があることの一つのサインです。
その問題を「性格」に帰するのではなく、訓練不足の問題として捉えてください。
鉄棒の逆上がりと同じです。勇気をもって訓練に取り組んでください。