現在、世界には「ジェンダー問題」の考え方に関して、真反対とも言える二つのベクトルが存在します。一つは、いわゆる「ジェンダーフリー(和製英語)」という思想で、社会の中にある、男らしさ・女らしさといった区別やお仕着せを無くしていこうという取り組みです。その主張自体には一理ある部分もあるのですが、この中に LGBT の権利という考えも含まれていて、学校教育にも導入されたりしていることからアメリカの保守層の間で猛烈な反発を呼んでいるのです。
これに対し、伝統的な価値観を守れという考え方があります。女性の社会進出ということが言われてから半世紀以上経っていますので、お若い人にはとてもイメージが出来ないとは思いますが、1960年代までの家庭は、日本もアメリカも夫だけが働きに出て妻は専業主婦、それで子どもを3人くらい養えた*のです。家には車も家電品もなくつましい生活でしたが、果たして今とどちらが幸福だったのだろうと考えると疑問符が付きます。
*嘘だと思ったら、この時代の映画をご覧になってください。たとえば小津安二郎作品とか。
さて、これだけなら、まさに「リベラル」対「保守」の闘いなのですが、この奥にはもっと深い暗闘が隠されているのです。それは、?ジェンダー平等を実現しよう?というスローガンが「SDGs」の第5目標に設定されているという理由を見れば、もう大体の察しがつくでしょう。
「SDGs」というのは「Sustainable Development Goals」の略ということになっていますが、そうではありません。実際のところは、S と D が入れ替わった「Deep State Goals」なのです。これが、例によって上から降ってきて、日本の政府も、自治体も、企業も、マスコミも、市民活動家も、みんながそうすることが正しいと信じて動いているのです。この延長の中に「ジェンダーフリー」というキーワードも含まれている。
人は、手痛い目に遭わなければなかなか目が覚めません。「毒沸く珍」の災禍を経験したことによって、この世界の「闇の存在」にやっと気づいたという人たちが急速に増えています。が、いつも言っているように「構造」をきちんと把握できている人は殆どおりません。表→裏→影→闇→魔、のどこまで知っているかという点で人々の間に大きな格差があるのです。その結果、「ジェンダー」の問題に関してもベストの解決を見い出すことは非常に難しいのです。
「ジェンダーフリー」の主張は、建前としては「性別による役割分担などの固定概念にとらわれずに、誰もが平等で公平に行動できる社会にしよう」ということになっています。これはもっともな主張だと思います。ところが、この主張をベースにして、「多様な性」のあり方を認めよう*という話になり、この中にドラァグ・クイーン(Drag Queen)や小児性愛者(Pedophilia)までをも含めていった。そしてさらに、そのことを幼児教育にまで導入しようとしているのです。
*日本でもLGBT法案が可決されています。
そのような中で、アメリカでは行き過ぎた「ジェンダーフリー」政策に対抗する動きとして、「神の摂理」を持ち出して来る、というもう一方のベクトルが立ち上がっています。簡単に言えば、「神」がなぜ男女の区別をお創りになったのか、お父さんとお母さんがいて、その間に子孫が生まれていくというのが、自然な家族の形であろうと。だから、LGBT なんてものはその自然の摂理に逆らった「神」を冒涜する所業である、と言うわけです。
前回のブログにも書きましたようにアメリカはキリスト教の国です。その中には、「同性愛反対」「人工妊娠中絶反対」を強硬に掲げる「キリスト教右派」と言われる人たちが数多く含まれています。保守派の「共和党」から立候補するトランプさんとしては、この人たちの票を無視するというわけにはいきません。そこで、民主党の政策に反対するという意味からも、「ジェンダーフリー」の問題に関してはいくぶん強めに反対姿勢を打ち出さなければならないのです。
そこにはアメリカ特有の事情があるのですが、非常にやっかいなのは、世の中の出来事に対する理解度には人によって大きなバラツキがあるという点です。かつ、深部を知る人というのは非常に少ない。
いわゆる「草の根運動」と言われるものには、ブームになるものとならないものがあります。ブームになるものは、一見、自発的な市民運動のように見えて、その実は DS から活動資金を得た NGO 組織がそういう工作を仕掛けているのです。マスコミがそれを報道するからブームになるのです。マスコミは、本当の「草の根運動」は取り上げません。マスコミの使命はあくまで大衆の操作ですから。そこで、マスコミ報道の「草の根運動」を揶揄し、これらは天然の草ではない「人工芝革命」だと言うわけです。
近年アメリカで発祥した「BLM(黒人の命も大切)」も「ジェンダーフリー」も、ともに市民の分断を狙った工作*でした。ところが、いつものように、一見「よいこと」を掲げて登場してくるために、普通の市民にはその〈裏→影→闇〉に至る構造というものが見抜けないのです。すると、好き嫌いとか単に感情だけで反応してしまい、たちまち社会に分断が起こる。挙げ句の果ては、疑心暗鬼や非難の応酬合戦となるのです。
*1960年代後半から70年代前半にかけて、「ウーマン・リブ(Women's Liberation)」というアメリカ発の女性解放運動が世界中で展開され、日本でも「中ピ連」が話題になったのですが、これも「人工芝革命」でした。
*「ジェンダーフリー」が、小児性愛の合法化までも狙っているということから、これが明らかに「人工芝革命」であるということが分かるでしょう。なぜなら DS の中枢はバチカンも含めて小児性愛者だらけだからです。
思い出してみてください。「沸く珍」が導入されたばかりのころを。首相が「感染を予防するし、感染しても重症化はしない」「自分だけでなく、周囲の人々も救ける」とビデオ広報で言いました。多くの著名人や医師が接種を推奨し、SNS では、打たない人間を非国民扱いやバカ呼ばわりする人たちまでが登場しました。行く先々で市民のゲシュタポが自発的に登場し、マスクの着用を厳しくチェックしていました。これらが、みな「よいこと」として行われたのです。
それと同じ輪っかの中に「ジェンダーフリー」というテーマもあります。あの「SDGs」の輪っかは、多様な色の「輪」に見せていますが、その実は「分断」を狙ったものです。「SDGs」が掲げるテーマに各国を従わせて国民を洗脳し、隷属させていく一方で、これに反対する者たちは非国民扱いして封じ込めていくのです。
しかし、「コロナ」の嘘と闇がバレたことをきっかけに、「地球温暖化説」や「EV」や「代替エネルギー」や「昆虫食」にまつわる嘘と闇もだんだんとバレてきました。芸能界の裏側もバレてきました。ウクライナとイスラエルの実体もバレてきました。中央銀行の闇もバレてきました。WHOをはじめとする国連機関の茶番もバレてきました。主流メディアが流すニュースがフェイクだということもバレてきました。
理解度の格差はまだまだ相当ありますが、とにもかくにも泥の詰まったタンクの底に穴が空いたのです。この穴はもう修復できません。泥水はこの先も抜けていく一方です。
しかし、多くのことで洗脳からの目覚めが進んだとしても、こと「ジェンダーフリー」というテーマに関しては、真に目覚めるということは当面ないでしょう。その理由は、この問題の本質が、「ジェンダーフリー」は是か否か、というような次元にあるものではないからです。
現在の対立は、「従来の固定的な性別の概念にとらわれずに、多様な性のあり方を認めてその生き方を尊重しよう」という主張と、「男女の結びつきは家族の自然なあり方なのであり、伝統的な宗教はみなそうあれと説いている」という考え方との闘いという構図になっています。この意見にはどちらも一理あるのですが、「多様な性」がなぜ存在するのか、という根本理由についてはどちらのサイドとも触れられてはいません。これでは真の解決は無理です。
なぜ「多様な性」が存在するのか? これについてはすでに以前に書きました。人間の本質は肉ではなく「魂」にあります。「魂」は霊性の向上を目指し学習のために何度も地上に輪廻転生をします。その過程で、「性」的なものに対するこだわりやとらわれが強く生じたとき、それにまつわる課題を来世にまで持ち越してしまうのです。
そこに働いているメカニズムは、他のこだわりやとらわれ(例えば金銭欲や物欲)とまったく同じことで、それが特に「性」的なものに強く働いたというだけの話です。ですから「性」に関しても、他のすべての課題と同様、こだわりやとらわれを捨てて、自己の「魂」を解放してあげる、ということが生きる上でのテーマの一つになっているのです。
ところが、「性」的なものには秘め事や気恥ずかしいことが多いために、他のテーマのようには「解放」が進みづらい。「解放」どころか、より潜伏させて隠してしまいがちです。しかし、基本的に、ちゃんと分別がつく独立した青年となってから恋愛をし、相手に対しても、また周囲に対しても、苦痛や不快な思いをさせないのであれば、何をしようと自由です。自己を解放して「性」を大いに楽しめばよいのです。
地上への転生をその「魂」が希望し、肉体を持つ選択をしたということは、肉体面の学習もちゃんとしてから帰って来いということです。人間は、霊的存在であると同時に動物でもあります。ですから、先ずは動物であるということをよく学習し、地上でしか体験できない「性」を通じて「愛」の初歩に触れる、ということも大切な体験となっているのです。
ところが、そうした知識を人々は知りません。知らないだけではなく、「性」をタブー視し、多くの宗教が霊性の向上のためには肉欲を消滅しなければならないと説きました。これが却って歪みをもたらし、こだわりやとらわれを育ててしまったのです。過去2500年間は宗教の時代でしたから、この歪みが幾重にも積み重なって堆積し、今があるのです。現に、聖職者の中には、隠れて小児性愛に耽る人が多数います。この「闇」も、近いうちに公になることでしょう。
しかしながら、いま言ったことはほとんど誰にも認知されない、この世の次元を超えた話です。したがって、現段階では、現実的な対処をとっていかなければなりません。先ず「多様な性」ということに関しては、それを寛容の中に認めることです。輪廻転生との関係で「LGBT」の傾向を持つ人はどうしても生じます。しかしそれを、宗教的ドグマで押さえつけてしまったら、隠れて発散するしかなくなってしまいます。すると、またそれがとらわれを生み出します。
大切なことは「解放」なのです。どんな人間も、男に生まれたり女に生まれたりする中で、多少なりとも「性」に対するこだわりは生じます。また、前世の環境と体験から来る抑圧意識(例えば、禁欲を強いられた聖職者だった、娼婦だった、性的被害に遭った、等々)を抱えている人も大勢います。そうしたものを全部ひっくるめて、一切合切を大いに「解放」していくことが求められるのです。
そのためには、自分の課題にちゃんと向き合い、体験し、そして気づきを得る、という過程が人それぞれに必要です。社会は、そうした学習の前提に対して寛容であるべきです。
日本は、「性」に関しては元々かなり寛容な社会性を有していました。ところが、日本はアメリカさんの属国ですし DS の言いなりですから、近年、アメリカ産の「ジェンダーフリー」思想を輸入して、これを広めようとする動きが活発化しています。私が住んでいる某市でも、熱心な議員や市役所職員がいるようで、「LGBT」の権利などと言い出して、条例を制定したり学校教育に取り入れようとする動きを展開しています。
しかし、「権利」意識を振りかざすのはまったく褒められたものではありません。「権利」意識そのものが、自己の「とらわれ」を強化する方向へと働いてしまいます。そして、「解放」とは真逆のベクトルに自分を追い込んでしまうのです。また、不必要なところで「権利」ばかりを主張すれば、必ずしや社会との軋轢を生み出します。DS の狙いの一つはそこにあるのですが(もう一つは本当にそのように社会を変えていくこと)、そんなものに安易に乗っかってはいけません。
日本はもともと寛容なのですから、そのまま寛容でありさえすれば何も問題はないのです。いや、それでも「差別」や「偏見」の眼にさらされる、と仰るかも知れません。しかし、繰り返しになりますが、それを「権利」で乗り越えることは出来ません。「権利」の下にたとえ人々を従属させることが出来たとしても、それで「意識」までを変えさせることは出来ません。社会に「寛容」が広がることでしか乗り越える道はないのです。
それに ─── 、
「差別」や「偏見」の種はおよそどこにでもあります。ハゲとかデブとかブスとか貧乏人とかへなちょことか(あ、オレのことだ)‥‥etc.。「性」差別を問題視する人は、自分の関心がことさら「性」に向いている(つまりとらわれている)ので、そこに過度に敏感になっているのです。およそ、「差別」されていると思っている人は、みなそれぞれの分野の敏感症を呈しているのです。
「差別」や「偏見」の奥にある問題とは、詰まるところぜんぶ一緒です。人は、「差別」や「偏見」の具体化した部分にしか注目しようとしません。しかしそれは、「差別」する側の人間の「心の表現」という「結果」であって、「結果」の前には必ず「原因」があります。そしてその「原因」は、「差別」する側の人間が抱えているものなのです。そこに、運悪くターゲットになるものが現れると、その間に「縁」が生じて、「結果」として「差別」が生まれるというわけです。
ですから、「差別」や「偏見」というのは表層の問題であって、真の問題点は、それをする人間の心の奥底が今どのような状態にあるかということなのです。
世の中から「差別」や「偏見」が一向になくならないのは、それをする側の人間の「因」に、アイデンティティに関する問題が深く腰を下ろしているためです。あなたは誰か? どこから来て、どこへ行くのか? これは自己の「生存」に関する究極的な問いかけです。しかし誰も、この問いかけに真剣に向き合おうとはしません。いくら考えたところで、どうにも答えが出そうにないからです。そこで、適当に誤魔化して今日一日をやり過ごす。
ところが、納得のいく答えが見つかっていないものですから、潜在意識の中にはつねに漠然とした不安感が残り、これがなかなか拭えません。そこで、その不安を埋めようとして、自己のアイデンティティに関して、人は大まかに次の三段階のステップを体験していきます。
?:自分が独自の存在であることを周囲に認めさせようとする。
?:シンボルへの帰属をもってアイデンティティに代替させる。
?:?であろうとすることも?であることも捨ててしまう。
?は、ごく最初の段階です。よく幼児が、自分のしている動作を「ねえ、見て見て」と周囲に盛んにアピールしているでしょう。あれは、個別の自分というものを認めて貰いたいのです。認めて貰うことで、自分が確かに存在しているんだ、ということを確かめているのです。この段階をちゃんと通過していくことは人格形成にとって非常に重要です。ここで無視されてしまった児童は、その後に深い傷を抱えて生きることになります。
少年や青年の齢を迎えても、自分個人への関心をなんとか引き寄せようとして、多くが悪事に手を染めるのです。善事よりも悪事のほうが魅力的ですし、誘惑も多く自分を認めてくれる仲間もすぐにできるからです。しかし、それだけでは社会からの認知が得られないということに気づくと、?の方向へと進みます。組織や、権威や、地位や、肩書きや、財力や、名誉などのシンボルを掴むことによって自分のアイデンティティを表現しようとするのです。
冷静に考えてみれば、シンボル=自分ではないのですが、自分が何者かを周囲に認めさせるためには、これがいちばん手っ取り早いのです。というのは、周囲の人々も、本人よりも先にシンボルを見て相手を品定めしようとするからです。そこでこの公式が社会の通念として幅広く定着してしまい、今や誰もその行動に疑問を抱きません。ですから、「波動」を読むなどということは頭の隅にすら思い浮かびませんし、やってみたこともありません。それがために、始終騙されてばかりいるのです。
さて、自己のアイデンティティに関する認識がこの?と?の段階にあるときに、人の意識に「差別」や「偏見」の念が湧いてきます。なぜなら、自己の優位性を誇示し、かつ自己満足を得るためには、自分が努力するよりも、他の誰かを貶(けな)したほうがずっと簡単で手っ取り早いからです。そこで何割かの人は、こちらの方向へと強く走り出していきます。そして、それがエスカレートすると、いじめや暴力や虐待にまで及んでしまうのです。
でもそれは、その人の霊的学習レベルが、まだかなり未熟な段階に留まっているということを表しています。ところが、ここに「一神教」が掲げる善悪二元対立の概念が、ばっちりフィットしてしまうものだから恐ろしいのです。自分たち以外は、みな邪悪な存在なんだと。だから、そいつらを蹴散らすことは「正義」であり「善」なのだと。そのようにして、霊的未熟さは一挙にマスキングされてしまい、あろうことか最悪の戦争殺戮にまでエスカレートしてしまうのです。
しかし、いま言ったような性向は、相対的なもので多かれ少なかれ大抵の人が持っています。これは程度問題であって、ハッキリ白黒をつけられませんし、しかもその性向はアイデンティティに起因しています。ですから、「いじめはダメだよ」「差別はいけないよ」といくら言っても、「差別」や「偏見」はなくなりませんし、そういう性向を変えるのも難しいのです。そこが変わっていくためには、その人の「霊性」が向上するのを待つ以外には手はありません。
けれども、このアイデンティティの問題は、次のステップを迎える段階になって飛躍的な変化を見せます。なんと、?も?も捨ててしまったときに、人は本当のアイデンティティを知ることになるのです。自分は誰か? というアイデンティティを確立するために、さんざん奮闘して生きて、最後の最後になって、そんなものはぜんぶ不要だったと悟った瞬間、本当の自分というものに気づくことになるのです。これが、よく言う「ありのまま」ということです。
でも、そう言ったところで、サッパリ訳が分からないことでしょう。当然です。アイデンティティをめぐっていま盛んに格闘している?と?の段階にある人にとっては、信じ難い逆説でしょうし「捨てる」ことには恐怖も感じることでしょう。ですから、「いま直ちに捨てよ」などとは申しません。それは後々のお楽しみとして取っておいてください。それに、先ず持たなければ、「捨てる」という行為と意味も体験できないのですからネ。
しかし、ここで頭の隅に入れておいて欲しいのは、たとえ自分のアイデンティティを支えていたものがぜんぶ壊れたとしても、まったく問題はないのだということです。霊的には、却って成長できるチャンスである、ということを覚えておいてください。
既存の金融システムが瓦解する兆候が、とうとう表に出てきました。果たして今月が山場となるのでしょうか? でもこれも、入れ替えのための作戦。まだ、我々には当分は明かされないでしょうけれど‥‥。しかし、それに伴って企業、政府、自治体などにもこれから大きな影響が及ぶことが予想されます。会社倒産やリストラの被害に遭われる方もきっと出てくることでしょう。
でも大丈夫。
崩壊の直後には、あまりのショックから、茫然自失という体になってしまう人も中にはいるかも知れません。けれども、壊れたものは、ぜんぶ虚飾のアイデンティティに過ぎないのです。すべては単なる思い込み。
しかし、霊的なあなたは、それでも依然として「あなた」であり続けます。
なぜなら、それこそがあなたの本質なのですから。
あなたの、真のアイデンティティなのですから。
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しかし小さなサインはちょこちょこ出しており、認知症を演じているバイデン役者に「(トランプさんが)現職の大統領」という失言を言わせたり、マイク・ジョンソン下院議長がマー・ア・ラゴの邸宅を訪問した際には、大統領のエンブレムをつけたジャンパーを着て登場していました。ですから、〈今も大統領だよ〉というアピールはそれなりにしていますし、水面下では軍の最高司令官としての行動を着実にこなしているようです。
2月28日にテキサス州の国境警備の視察に行った際には、ついに「これは軍事作戦だ!」と明言しました。またその前日には、カナダのジャスティン・トルドー首相(おそらく役者)に「ロシアがこの戦争に勝たなければならないことを知っている」と、お茶目な失言をさせています。このところ、ジェイコブ・ロスチャイルド死去の発表を境いに、世界中でエリート層の辞任や退位や入院(表向き)や死亡が相次いでいますから、大方の整理はほぼ終わったと見てよいのでしょう。
ですから、これから11月までは過渡期です。3月17日にはロシアの大統領選挙が実施されプーチンさんが選ばれることは確実視されていますから、あの2017年にがっちりと握手を交わしたプーチン=トランプ体制の戦略がこれで成就し、新しい世界秩序の実現に向けてのスタートが切られたということです。しかし、DS の残党がまだ残っていますので(特に日本)、破れかぶれになった彼らが今後何をしでかすかは予断を許しません。
表のニュース・メディアしか観ない人たちにとっては、これから起きていくことの意味がさっぱり理解できずに、まるでキツネにつままれたようになってしまうことでしょう。けれども、ここで重要なのは、それがみな「過渡期」の現象だということです。ニュース・メディアはそれ自体が旧体制に属しており、また大騒ぎするのが仕事ですから、社会変化や事件をつねに「不安を掻き立てる」方向へと誘導しようとします。
しかしみなさんは、新しい時代のほうにフォーカスを当てて行動して行ってください。古い世界はどのみち消えて行くのです。ですから、そんなものの動向にいちいち心を騒がせていても仕方がありません。時間のムダです。無視してうっちゃってくだい。その代わりに、未来に対して、自分なりの真理のビジョンを持つことです。そうすれば迷うことはありません。
さて、この「過渡期」における地球変革は、すでに表面化しているように、暴力を暴力によって制圧するという形で進行していかざるをえません。これは、現在の地球の霊性段階を考えれば、う〜んなんとも致し方のないところです。しかしそれは、「まだまだ本物ではない」ということに留意なさってください。ですから、たとえ制圧が成ったとしても、それで直ちに新しい世界が開けたというわけではなく、焼け野原が一面に見通せるようになったというだけなのです。
今の世界変革の主役は、米露の二大軍事大国です。ロシア連邦は西側陣営全体と戦わなければならないという極めて厳しい構図の中にいます。その中枢にはアメリカ合衆国があります。
一方のアメリカは、事実上はすでに二つに分かれていて、西側(DS)を統括するバイデン陣営と、MAGA 運動を推進するアメリカ共和国トランプ陣営との、見えない内戦の状態にあります。ですから、ロシア連邦側から見ると、バイデンのアメリカは敵だが、トランプのアメリカは味方ということになるのです。表のニュース・メディアは殆どが西側(DS)の支配下にありますので、それだけを見ていたのではこうした複雑さはとうてい理解できません。
このようにアメリカは、DS の総本山でありながら、同時に DS を討ち倒して MAGA 運動を成功させるというミッションが、国内に共存しているのです。そのため、トランプさんとしては、水面下では秘かに軍事作戦を進行させつつ、表面では大衆を洗脳状態から徐々に目覚めさせていき、MAGA 運動に向かって民意を鼓舞していく必要があったのです。
なんと言っても、アメリカは移民の寄せ集めの国ですし、プロテスタントの伝統的価値観と強さ(Machoism)がボンディングを果たしている国だからです。そのため、アメリカ社会ではつねに「善」と「正義」が叫ばれるのです。そして、それをプッシュすることが「強さ」の表明となるわけです。
ところでみなさんは、今の世界情勢を見ていて、あることにお気づきではないでしょうか? 現在の混沌(Chaos)はみな、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの「一神教」が浸透した地域に集中しているのです。
大きな地域紛争が、ウクライナ=ロシア間とイスラエル=パレスチナ間で起きました。ヨーロッパでは農民一揆が一挙に EU 全体にまで拡大し、人々の生活基盤を脅かす事態にまでなっています。 アメリカはバイデン政権が推進した不法入国者の大量流入と治安の悪化、テロの横行やホームレスの急増で混乱状態がますます酷くなっています。これらのことは何を意味しているのでしょうか?
ハッキリ言って、これは「一神教」とその「宗教システム」が賞味期限切れの段階に来ていることを表しています。
「一神」そのものは決して間違いではなく、論理的に言っても正しいのですが、それを「教」にして「宗教システム」に仕立て上げたところに無理がありました。
「宗教」になると、それが集団化していき、大きくなればなるほど管理のためのピラミッド構造が必然的に造られていきます。すると、上からの号令一下で多数の人間を同じ方向へ動かせる力を持つようになるのです。これが「権力」と結びついてしまった。そのため、逆に権力構造に振り回されるようになっていったのです。これはすべての「宗教」が抱える自己矛盾です。本来「霊性」は、あらゆる権力を超えたところにあるものなのですが。
さて、この賞味期限切れの時期をどう乗り越えていくかというときに、一つは「宗教の融和へ」という道があります。「我が宗のみが本物」という極論はとりあえず後ろに下げて、各宗教の文化的背景を尊重するという態度です。それはそれで、実現できればたいへん結構なことです。ロシアのプーチンさんはこのような方向を目指しています。プーチンさん自身はロシア正教ですが、ロシア連邦は多民族多宗教で構成されていますし、周辺国との関係を考えてもそれがいちばん現実的なのです。
ところが、トランプさんはそういうわけにはいきません。トランプさんは、外交ではプーチンさんと同じように融和の姿勢を押し出しているのですが、アメリカ人向けには違う顔を見せなければなりません。それは、アメリカという国が実質的にはキリスト教国であり、選挙対策のためには影響力の大きい福音派(Evangelicals)にも配慮しなければならないからです。そこで、「善」「正義」「偉大」「愛国」「勝利」といった、アメリカ人が熱狂するキーワードが頻繁に使われることになります。
日本人であるみなさんの大半は、多分その部分に違和感を持たれることでしょう。がしかし、それはアメリカの「過渡期」としては仕方がないものとして見てください。日本に入って来る海外情報の大部分はアメリカのフィルターを通ったものですので、それが世界の時流のように感じるかも知れませんが、あくまでもアメリカの「過渡期」なのです。国の総体としての「霊性」から言えば、(アメリカ人には失礼ですが)ロシアのほうがずっと進んでいます。
では日本は? 日本は、残念ながらアメリカさんに飼い慣らされてこき使われている犬です。DS のパシリであり、お金の貢ぐクンです。しかしそれは、政府の上層部と一部の太鼓持ちが腐っているというだけであって、総体としての日本人の霊性は、一昔前よりもむしろ向上しているのです。ただ、高い部分は目立たずひっそりとしていますし、低い部分のほうがアピール力が強くて拡散スピードも速いので、あまりそんなふうには思えないというだけです。
世界に比して、日本人の霊性がそれでも高く維持されている理由は、日本人の土台に脈々と流れ続けてきた自然観、そしてそこにある八百万の神々に対する畏敬の念、また礼儀や配慮を重んじる日常生活が、風土と「魂」との間で絶えず交感を続けてきたからなのです。そのルーツを遡っていけば、修験道や古神道やアイヌ文化などにも行き着くことでしょう。
これまでの世界は、欧米中心の考え方や価値観が最も優先され、その下に運営されて来ました。その中で、物質主義や、マネーや、テクノロジーや、人間第一主義(自然はその下僕)や、競争の概念が世界を席巻し、おかげで人々の生活は飛躍的に便利で快適なものとなりました。一方で、人間の心の中から霊的なものがお留守になっていってしまいました。人々はもう目もくれません。しかし人間は、単に物質的存在であるだけではなく、それ以前に霊的な存在なのです。
物質世界に大変革が起きて、しかも「一神教」(と称する、実は「二元教」)が矛盾の限界を迎えたときに、人々の「魂」はどこに安息を求めるのでしょうか? 人間が霊的存在である以上、安息は絶対に必要です。現に、あなた方は無意識的に日々安息の地に出掛けています。「眠り」がそれです。しかし、ただの「眠り」だけでは霊的向上は殆ど見込めません。やはり、毎日をどう生きるかという体験(しかも苦難の)によって向上させていくしかないのです。
そのときに、日本人が持つ自然観や神々に対する考え方が、今後、世界のお手本となっていくことでしょう。八百万の神々という考え方は、欧米の「一神教」の人々からは、これまでは未開の低位のものと見られて来ました。しかし、すべてのものに「神」が宿っているという考え方(汎神論)は、見方を変えれば、これこそが「Oneness(一神)」に最も近い「神」概念なのです。しかも、自然と人間を分け隔てせずに共存関係と見るのです。
こうした考え方は、今の人類全体の中では一歩先を行くものです。そのことに日本人は誇りを持ってください。そしてさらにその感性を磨いてください。
日本が、沈みゆく西側に属し、DS に操られて「毒沸く珍」を打たされ、憂欲工作員からどんなに戦争を焚き付けられても、今なお平和で美しい国であり続けられているのは、一般市民の総体としての霊性が、比較的高いところをキープしているからなのです。
みなさんが見たり体験したりしている現象は、つまるところは、すべて「波動の法則」の示すところに従っています。実に単純なことです。高い「波動」のところには高いものが同調して集まり、低い「波動」のところには低いものが同調して集まっていく、というそれだけの話。
今のあなたの周囲には、今のあなたの「波動」と同程度の人たちが集まっています。これが、世にいう「縁」。あなたの「因」が「縁」を引き寄せ「果」を結び、そこに「報」をもたらす。このようにして、あなたの人生のすべてが「波動の法則」に支配下にあるのです。そして、その「因」をもたらしている者とは、つねにあなた自身なのです。そこに、あなたの「自由」と「責任」がある。
あなたが、安心、思いやり、親切、献身、慈愛、救済といった統合方向へと意識を向ければ「波動」は高まり、恐怖、憎悪、蔑視、エゴ、虐待、暴力といった分離方向へと意識を向ければ「波動」は低下します。さて、今のあなたは、前者は何パーセントくらい、後者は何パーセントくらいでしょうか?
前者をいま以上に少しずつ増やしていきましょう。それが周囲の人々にもに影響を与えます。そして、やがては人類全体にもその影響が及ぶのです。
あなたもこの地球の大切な一員です。
ともに手を携え、高め合って参りましょう。
]]>しかし泳げるようになるためには海に入らねばならない。
しかも泳げる者にしか、溺れた者を救うことは出来ないのだ。
]]>
ということで、緞帳がせり上がり、ついにトップスターがその顔を見せたというわけです。内容的にはカールソンさんの突っ込みが甘く、どれも既知の情報ばかりでしたが、それでも「西側」の一般人の眼にプーチンさんの素顔と肉声が直接届いたということには大きな意義があったと思います。類い稀なる知性、洞察力、忍耐力、言葉の慎重な選び方、そしてユーモアのセンスを観た人の多くが感じ取ったことでしょう。
カールソンさんはスーパーでの自分の買い物風景などもアップしており、「西側」の行ったロシア制裁というものが、庶民生活にまったく影響を与えていないことも伝えています。また、アメリカと比較して、治安がよいとか、落書きがないとか、ホームレスがいないといったこともレポートしており、米露の現状の落差と、西側のメディア報道がまったくの虚偽であるということを強く印象づけました。
カールソンさんはアメリカ国内でとても人気が高く、影響力も大きいので、多くの人々の眼を覚まさせる効果があったことでしょう。
それにしても、今回のカールソンさんのインタビュー事件は、これまで我々が認識してきた?メディア?というものの終焉を決定づけてしまったと思います。すなわち、大手メディアは流通機構としてもう不要だということと、主流メディアが管理する記者の取材と、編集された記事(つまりある意図への誘導)にはもう価値がないということです。たった一人の情熱家が、それをあっさりと凌駕してしまうということが証明されたのです。
結局、「主流メディア(MSM)」などは、捏造情報による大衆操作機関でしかないということがもうバレバレになってしまった。メディアに所属する人に、せめて〈ジャーナリズムの本質とは何か〉ということを追求する姿勢があれば、コンテンツ部門だけでも生き残れたかも知れませんが、それが嘘八百というのではまったく価値がありません。主流メディアは、その形式とともに遠からず消滅して行ってしまうことでしょう。
さて、こうして世界情勢の真実が一般の人々の耳目にも届くところとなったのですが、それでもまだまだ個々人の認識の温度差が大き過ぎて、みなバラバラで、総体としての人類の波動が上向くというところまでは至っていません。そもそも関心の差もありますし、洗脳度合いと解錠度合いの差もありますし、理解度の差もあるためです。結局それが、地球人類の(現在の)多様性ということであって、人類はこの段階を、これから乗り越えていかなければならないのです。
目指すところは、人類全体の「霊性の向上」です。
ですが、そのためには、
?直観を磨くということに加えて、
?智恵を発達させる(賢くなる)ということと、
?霊界に関する基本的な知識を学ぶということが、
共にバランスよく身につけられていく必要があるのです。
もしも、現在の人類に直観と賢さが備わっていたとしたら、プランデミックの悲劇などは絶対に起こらなかったはずです。そして、もしも霊界に関する基本的な知識があれば、騙す人間なども現れなかったはずです。
このことは、人類全体としての課題であるばかりでなく、個々人にとっての課題でもあります。この機会にご自分を振り返ってみて、直観、智恵、霊界の知識のどれがどのていど自分に欠けているのか、そして課題はどこにあるかを考察してみてください。
しかし、すでに賽は投げられました。後悔したところで今さらどうなるものでもありません。人類は、いま挙げた「課題」を、このタイミングで示された大いなるギフトと捉えて、次の段階に駒を進めていかなくてはなりません。
先ずもって、「沸く珍」被害に遭われた方は、デトックスの対処をいの一番にしてください。今度の「沸く珍」は、遺伝子操作とナノテクを利用した生物兵器であって、一般のお医者さんには対処ができません。お医者さんはそうしたことを何も知らないのです。以前にもお伝えしたことがありますが、これについては RK さんが日本でいちばんの情報量と経験値を持っておられます。この方の動画で知見を広げて、適切な対処をなさってください。
加えて言うと、物には物の理があるのですが、身体は必ずしも物理法則だけで動いているのではありません。身体を動かしているものは心であり、その心を動かしているものはその人の本体であるところの「魂」なのです。ですから、その理屈が解れば、身体の健康維持には、別のルートからのアプローチもあるということがお解りいただけるでしょう。むしろ、こちらのほうが主なのです。ということで、両面作戦を採用してください。
悲観したり、後悔したり、絶望したり、恨みに思ったりするのはよくありません。起きたことは起きたこととして受け留めて、それを「チャン、チャン!」と実際に口に出して区切りをつけ、きれいさっぱり水に流してしまいましょう。そして、自分の気持ちをポジティブなものに切り替えて、新しい創造に向かうのだと決意して立ち向かうことです。
これが何より大事なのです。みなさんは、何かというと直ぐに生死のことを考えてこればかりを話題にしますが、生死など、霊的には回転ドアをくぐる所作でしかありません。何度も言うように、大事なのは「生き方」と「死に方」なのです。それを、どのような心持ちの中で経験していくかということが、地球学校における「魂」の学習なのです。ですから、この未曾有の機会に、最高の学習成果を持ち帰ろうじゃありませんか。
現在、地球上で起きている激動は、これまでの「時代の変化」といったものとは根本的に違う性質のものです。みなさんの眼には同じように映るかも知れませんが、そんな悠長なものではありません。先ず、地球勢力圏の「波動のベース」全体が上昇しています。次に、変化のスピードが幾何級数的に上がっている。その結果、隠されていた悪事が次から次へと炙り出される事態となっています。さらに、いま言った理由から、そのツケは今世中に払わなくてはならなくなったのです。
自分が為したことは自分に還る。このことは宇宙の基本原理として何度も申し上げて来ました。しかしこれまでは、悪事を為したとしても、その反作用が、必ずしもその人が生きているうちに回って来るとは限らなかったのです。そのため、地上では悪人が栄えるという歴史がずっと続いて来ました。宇宙の法則は絶対です。因果応報というものは確実に存在したのですけれども、それがカルマとして来世にまで持ち越されたりしたものですから、素人目(?)には分かりにくかったのです。
ところが今回は違う。今世で為した悪事は今世中に清算するハメになったというだけではなく、過去世に積んできたカルマもここで一挙に清算ということになった。どっヒャー‼︎ つまり、決算棚卸しだけではなく、閉店在庫一掃大処分市になったというわけです。悪人たちにとっては、これは非常に辛い、耐え難い事態に思えるかも知れません。しかし逆なんですよ、出血大サービスになっている。なぜなら、生きているうちに反省の機会というものが得られるのですから。
生きているうちに反省できる。これは、なかなかどうして凄いことなんですよ。霊界に行ってからでは反省もしづらいからです。なぜかと言いますと、「霊界」というところは、霊性の高さに応じた厳然たる界層分けがなされた世界だから。これは、X線とガンマ線が区別されるのと同じく、その「魂」の〈ベースの振動数〉が異なるためです。そうしますと、悪人たちは、同じ振動数を持つ悪人たち同士が集まった世界を創ってしまうのです。
例えば、盗み癖がどうしても抜けないという男がいたとしましょう。この男は、死ぬと、自分が収るべき場所に収まります。すると、周囲の者もみな盗人ばかりなのです。結果として、互いに物を盗み合うという関係を延々と続けることになってしまう。物を盗むと言っても、実際には「物」はないのですから、盗んでも盗んでも家の中に溜まっていかない。「あれ、変だな?」と思っても「盗みたい」という衝動だけでずーっと動き続けている。それで別に警察に捕まることもありませんから、反省のしようがないのです。
結局、いい加減に飽きが来て「助けてくれ〜」という気になるまでは、100年でも200年でもその生活をし続けるということになってしまいます。余談ですが、「自殺はしないほうがいいよ」と言う理由の一つはそこにあります。自殺をすると、そこに至った気持ちというものが死後もずーっと継続してしまうからなのです。死んでハイ終わり!とはいかないのですよ。
しかし長い目で見れば、どんな「魂」にも救済の道が開かれていますし、いつかは最上階にまで到達できるのです。
地球という惑星の一大特徴は、「霊性」の高さに違いのある「魂」が、同じ一つの地表に住んでいるということです。「霊界」ではそれはありません。地上は、いわばごった煮の世界なのです。そのため、地上では必然的に「霊性」の上下間で軋轢が生じます。これは心地よいものではなく、難儀で辛いものです。しかし人々は、その背景にある理由を知りません。そのため、地表では際限なく闘争を繰り返すのです。
「霊界」とは違ってまったく理不尽な世界ではありますが、このようにして多大の負荷が掛かるからこそ、様々な体験が出来るのですし、大いなる学習成果も得られるのです。
今の世界のあり様を見ていて、きっとあなた方は「こんな残酷なことがなんで出来るのだろう?」「どうしてこんな人間がいるのだろう?」「なぜ人間は争い続けるのだろう?」といった、余りの理不尽さに戸惑い、憤りを感じていることでしょう。「いったい?神?はどこに居るんだ?」と悪態をつきたくなることもあるでしょう。しかしこの機会にこそ、いま進行中の事態を俯瞰して(それも遠く、眼を宇宙空間にまで引き上げて)地上を観察してみて欲しいのです。
地上には、様々な人間が闊歩しています。その中には、「霊性」の高い人も、低い人も一緒になって混じり合っているのです。この高低差というものが、意識のどういうところに表れるかという話は以前にしましたね。分離と統合です。その人の意識が、物質的なものや分離的な方向へ傾いたときには「霊性(波動)」が下がり、純粋精神的なものや統合へ向かったときには「霊性(波動)」が向上していくのです。
一人の人物の、今の「霊性」がどのあたりの位置にあるかは、二つの要素によって決まります。一つは、その「魂」のベースの「霊性」の高さです。そしてもう一つは、その時々における「意識」のアップダウンです。ベースの「霊性」の高さは、過去世までの学習体験によってほぼ決まっています。人間が生まれながらにしてみな性格が違うのは、過去世で積み上げた性格を引き摺っているためです。この中には「霊性」の高さの要素が多分に含まれています。
しかし、普通の人には「波動」を知覚できないのと同様に、「霊性」の高さというものも明確には嗅ぎ分けられません。でも、なんとなくは分かるのです。人が「人間性」と呼んでいるものがそれで、「人間性」というのは「霊性」の地上での顕れ方を指しているのです。しかし、その点に注目している人はほんの僅かしかいません。多くの人は、権威や肩書き、金持ちであるかどうか、容姿、体格、などを人物評価の基準にしています。
このようなわけですから、これまでの人間世界のあり様も、致し方のない面があったのです。それが、一気に大変革の時を迎えたのです。この変革は、DS の悪人たちを順に捕らえて処刑するという展開で進んでいます。ベースにあるのは「善悪二元論」です。「他に方法がなかったのかなぁ?」と思うのですが、エリザベス・ハイチも『イニシエーション』の中でそうなることを予言していましたので、やはりそれが運命ということだったのでしょう。
しかし、処刑して「ハイ、それで終わり」ではなく、なぜそのような地上世界が出来上がっていたかを振り返って、ちゃんと分析してみることが大切です。なんと言っても、人は、人間である以前に霊的な存在なのですからね。ですから、霊的意味を考えてみなければ、本当のことは解りません。今は「善悪二元論」で取り敢えずのカタをつけようとしていますが、人類は、遠からず「善悪二元論」を超えていかなければならないのです。
地上に見えるごった煮の世界。地球という惑星は、そもそもが「霊性」の低い「魂」の受け入れ先としてありました。フレデリック・マイヤースによれば、地球よりも程度の低い星はあと一つしかないと言います(ꏿ﹏ꏿ;)。地球は監獄惑星であり、牢名主が支配する世界だと、何度も言って来ました。「霊性」の点から見ると、価値観がひっくり返っているのです。その監獄の中で、いろんな「霊性」の段階にある「魂」が蠢いているところを見てください。
世の中には、他者を差別したり、傷つけたり、殺したり、暴力をもって従えさせたり、幼児を思いのままにすることが、何より「楽しく」て「愉快」という人たちが結構います。ネオナチとかヤンキー的な気分の人たちです。こうした「魂」は、地上でまだほんのヨチヨチ歩きを始めたに過ぎません。自己のアイデンティティを「分離」方向に見い出そうとして四苦八苦している段階です。そのため、他者を貶めることによって得られる相対的な優越感が自分にもたらされることを必要としているのです。
それよりは、多少とも知性の働く「魂」がいます。こういう人は、自分で暴力を振るうようなことはしません。ヤンキー的な人たちを利用するのです。彼らの暴力的な衝動を利用して、その上に君臨し、支配的な勢力権を確立しようと図るのです。ヤンキー的な人たちは、まだ暴力でしか自己表現ができず、知力で自分をコントロールする術を知りません。そこで、自分を導いてくれる親分肌の人を求めます。こうして両者の利害が一致するのです。
ヤンキー的な人たちにとっては、親分が語る思想信条の中身などはどうでもよいのです。そこまで考える頭脳もありません。ただ自分の衝動を導いてくれる人に盲目的に従っていくというだけです。およそ「カルト」的なものは全部このようにして成り立っています。これは、社会的観点からすると、非常に危険な集団に発展する可能性があります。ですが、自分で考えることを拒絶した人間たちの集まりですので、この信念を変えさせることはとても難しいのです。
そして、その上にはさらに知力に長けた狡猾な人物が君臨します。この人間にとっては配下の集団は単なる駒です。自分のビジョンに従って駒を好きなように動かしたり入れ替えたりするだけで、彼らの生き死になどは別にどうでもよいのです。この駒を操るのには「お金」と「秘め事」を使います。傘下の親分にとっては思想信条などは単なる肩書きに過ぎません。「お金」さえ貰えばどんな思想信条の服でも着てしまいます。加えて「秘密」を握られてしまうので、逆らうことも出来ません。
ここに、コロナ・パンデミックとか、温室効果ガスとか、EVとか、BLMとか、捕鯨とか、ポリコレとか、‥‥etc.、社会的正義の流行をそのつど作り出しては嵌め込んでいくのです。この全体を、「神」の否定と、人類の恒久的支配に情熱を燃やす、ごく一握りの狂人たちが操っている。ちなみに、いま言ったグループは、表→裏→影→闇の階層を構成しています。そして、善人たちもみなその構造の中に巻き込まれてしまっているのです。
なぜそんなことが可能に? 人々に、直観と、賢さと、霊界に関する基本的な知識が、欠けていたからです。
このようにして、何層にも渡って悪の支配構造というものが作られているのですが、宇宙的に観れば、今のこの状況は、地球人の霊的な学習段階が、現在どの程度にあるのかということの「現実」を映し出しているということになるのです。それがアーサー・C・クラークが言った「幼年期」ということです。つまり、地球に集まっている「魂」は、総体として見た場合に、まだまだ未熟な幼児の段階にある者が多いということです。
ですから、そのことをよく理解して、私たちは、悪人たちに対しても慈愛の眼をもって見ていかなければなりません。宇宙的観点からすれば、まだ未熟なヨチヨチ歩きの段階にある「魂」が、この地球に大挙集合してきている、ということに過ぎないのですから。
あなたがもしも親だとしたら、あるいは保母さん保父さんだとしたら、ヨチヨチ歩きがしたイタズラにどう対処するでしょうか? 「罪」には「罰」で報いるのでしょうか? 「悪」は「正義」によって駆逐するのでしょうか? ここで、自分が為したことは自分に還る、という宇宙の基本原則を思い出してみてください。
いま言ったことは、現段階ではとうてい納得し難いものだとは思います。が、怒りや、恨みや、憎しみを抱えたところで、自分自身の「魂」をさらに傷つけることにしかなりません。また、それで霊界への旅立ちを豊かにすることもありません。
この世での出来事は、みなスクリーンに投影した映画なのであって、一人ひとりがその主人公として自分の映画を体験しているだけ、という話を胸にしっかりと刻んでください。そこでは、成功とか失敗ということよりも、その体験を通じて何を学びとったかが最も大事であるということも。
そうはとても思えない? ええ、解りますよ。でも、そうなんですもの。
たとえ人数は少なくても、みなさんには次のステージへと進んでいただきたいのです。霊界の知識、宇宙の法則をきちんと学べば、「神の恩寵」の本当の意味も、やがては実感をもって解るようになることでしょう。
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この大舞台、今の世界で起きている劇変には、三重の「お芝居」の意味が隠れています。先ず一つめは、コロナ・パンデミックというものが、そのあとに「毒沸く珍」という主役を出すための前座の仕掛けであったということ。しかしこの第一の「お芝居」の真相は、もうかなり表に出てきましたね。
そして二つめは、その「毒沸く珍」の件も含めて、これまで長きにわたって世界を思い通りに操ってきたディープ・ステートを退治するための特別軍事作戦が、ロシアのプーチン大統領とアメリカのトランプ大統領(実は今も正式な大統領)の協力のもとに、秘密裏に着々と進行していたということです。そして、それがいよいよグランド・フィナーレを迎える段階にまで来たのです。
このことはまだそれほど知られていませんが、DS の最上層の主要メンバーはすでに片づけられていて、今も生きているかのように振る舞っているのは役者か CG ということのようです。また金融システムに関しても、裏では新旧の転換が着々と進んでおり、現行の金融システムは実質的には破綻終了しているとのこと。しかしこれらは、みな幕の裏側で進行していることで、私たちは引き続き「お芝居」を観せられているというわけです。
なぜこのようなお芝居が続けられているのかと言いますと、いちばんの原因は、アメリカ国内で内戦が勃発するのを防ぐためです。「え、そんなアメリカ国内の事情で‥‥?」と訝る向きもあるかも知れませんが、アメリカの行方は今後の世界の行方なのです。なんと言っても、第二次世界大戦後の政治、経済、軍事、そしてメディアの世界覇者として君臨していたのはアメリカです。いわゆるアメリカ一強です。
そのアメリカという国を乗っ取り支配してきたのが DS だったわけです。が、そうした裏側の歴史を当のアメリカ人たちがあまり知らない。そのような中で、二大政党制という茶番政治体制(両党とも、裏で支配しているのは同じ DS)に完全に染まり切り、メディアの報道や医療システムを何ら疑うことなく信じこんで来た人たちに対して、いきなり机をひっくり返すようなことをしたとしても理解できないわけです。
アメリカというのは、移民で構成された多民族の人造国家で、バラバラな人間をボンディング(接着)するものは、星条旗への忠誠心しかありません。ところが、その星条旗が清浄でも正常でもなかったということが悲劇であり、大問題となっているわけです。そうすると、「アメリカの現状」というものへの理解度の差から、アメリカ人が大好きな「愛国心(Patriotism)」を巡って、国が真っ二つに割れる可能性が非常に高い。しかも民衆がみな銃を持っている。
2020年の大統領選のころは、主流メディアの報道を鵜呑みにしたり、民主党びいきの人がまだ大勢いました。ですから、バイデン政権がいかにひどいものであるか、政治屋がいかに腐ったものであるか、メディアがいかに嘘八百を並べ立ててきたのであるか、軍産や医薬品業界がいかに身勝手なものであるか等々を、その動きを逐一見せていくことで、徐々に民衆が気づいていくようになるまで辛抱強く待つ必要があったのです。
そのために、DS のトップクラスから始末をつけた上で、取り巻き連中以下を自由に泳がせておいた。そうすれば、彼らはこれまで通り保身に走った行動をする。そこでタイミングを見て「真相はこうだよ」という機密情報を徐々に解除していく。すると矛盾が露呈され、弁解したり強弁したりするほどますますトンチンカンな話となって民衆が呆れていく。こうして、誰が DS の配下に所属しているかが炙り出しとなり、次のターゲットの退治もしやすくなるという次第です。
それを聞いて、「なぜ、もっと早くに真実が明かされなかったのか?」と、残念に思う人が中にはおられるかも知れません。特に「沸く珍禍」の犠牲となってしまった人たちの中には。けれども、早期に真実が語られたとして、世間一般の人々に、果たしてそれが届いたでしょうか? 真実は、実は最初から語られていました。しかし主流メディアが真逆のことを言ったり、政府がそれを検閲したために極めてマイナーな場所にしかそれがありませんでした。
人は、その人の現在の霊性の段階に応じた情報しか受け取れないものなのです。それ以上のものは、どれほど有意義なことを言ってあげたとしても、全部スルーされてしまいます。それがいけないと言っているわけではありません。単にそういうものだと言ったまでです。結局、すべては同調・共鳴という「波動の法則」に従っているのです。
霊性の段階と学習というものは、その人がいま山登りの何合目を登っているかという話に喩えられます。一合目を出発したばかりの人に、五合目の風景は見えません。いきなり五合目を歩けと言ってもそれは無理な話なのです。物資世界にあるもの(例えばお金)を無上の喜びと感じている人は、それはそれで、その段階における霊的学習を今しているということなのです。したがって、学びは遅れているかも知れませんが、非難することはできません。
ですが、どんなに学習が遅れた人であっても、いつかはそうした行動にも飽きがきて、その上を目指したいと思うようになります。けれども、そうなるまでにはいくつもの苦難を経験しなければなりません。なぜなら、自分が為したことは自分に還る、という原則を体験させられることになるからです。結局、苦難を経験し、それを乗り越えようと思うことが次のステージへのジャンプ台となるのです。
ですから、つねに向上心を持ち続けて生きるということが非常に重要であり、人生上で経験する様々な「痛み」は、社会のせいでも誰かのせいでもなく、みんな自分の未熟さより生じた体験学習であったと振り返ることが大切なのです。そうすることによって、今日の一歩、明日の一歩の成長が図られていくのです。
さて、「沸く珍禍」では、世界で56億人が接種をしてしまい、これまでに1700万人が死亡しました。またウクライナ戦争ではすでに50万人が死亡しています。ウクライナには訓練を受けたプロの兵士がもう残っておらず、高齢者や障碍者や女性までもが徴兵されて前線に送り込まれる事態となっています。また1月26日に、国際司法裁判所(ICJ)がイスラエルに対してガザ地区への集団殺戮をやめるよう命じましたが、イスラエルはこれを無視し続けています。
多くの人たちがこの2つの戦争(「大惨事世界大染」と「地域紛争」)の犠牲者になってしまい、今もなおその数を増やし続けているというのは大変な悲劇です。しかしここで、「戦争」の構図というものはいつも一緒だということに気づければ、人類にとっては、この「痛み」を学習体験に変えるチャンスとすることができます。いえ、チャンスどころか国民国家の幻想が消滅し、軍隊はもう必要がないのだ、というところまでの飛躍も可能です。
よく見てください。ウクライナ人を死に追いやっているのは、詰まるところ誰でしょうか? ゼレンスキーです。いまイスラエルを存亡の危機に落とし入れているのは誰でしょうか? ネタニヤフです。プランデミックによる「大惨事世界大染」の中心人物は誰でしょうか? ビル・ゲイツと Dr.ファウチです。結局のところ、どの「戦争」もみな「正義の戦い」を口実にした、実は同胞の人口削減(人口調整)の手段となっているのです。
恐怖心を煽って人々を戦争に駆り立て、そこに参加させる。そして、その人々を殺し、都市を破壊することによって金を儲け、次には人道支援と復興だと言ってまた金を儲ける。人々を病気にさせることで儲け、次にはそれを治してやると言って儲ける。環境を破壊することで儲け、次には環境保護だと言って儲ける。精神を破壊するような発明品を生み出しては儲け、次には精神病を治してやると言ってまた儲ける。すべて手口は同じです。
無論、それは一人の力で出来るわけではありません。スポンサー兼アイデアマンの下に、私利私欲のことしか考えない取り巻き連中と、保身と組織優先で動く悪徳官僚と、金の力で操られたメディアと、嘘の物語をすっかり信じ込んでいる狂信的な人々が、「波動の法則」によって引き寄せられていき、一致協力して、一般の普通の人々を死に追いやっているのです。そして誰も、自分がした行動の責任を取ろうとはしません。
ひどい話ではあるのですが、これもまた?そういうもの?なのです。
「善と悪の原理」のところでも述べたように、善悪というものはすべて相対的なものです。誰にでもこの両方の意識がある。その中で、その人がどの程度の悪人かは、その人の中にある分離意識と統合意識の相対量によって決まります。
そして、地球においては、分離意識にほぼ完全に支配された狂人が、いちばんの権力を持つという逆ピラミッドを構成しているのです。
この最下層にある「魂」には、どんな悪事を働こうが良心の呵責というものはありません。大衆というものは人間ではなく、人間の形をした「家畜」だ。だから「家畜」をどう扱おうがどう利用しようが我々の勝手だ、という発想と論理です。なぜこのような狂気が存在するかと言うと、彼らなりの霊的ミッションというものが中芯にありその信念に突き動かされているためです。お金儲けというのは目的ではなく、配下の人間を操るための道具でしかありません。
これは「善と悪の原理」のところでも少し言及しましたが、そのような強固な信念を抱き続け、常軌を逸した混乱と殺戮と破壊のプランを実行に移すことによって、彼らは、この地上に「神の恩寵」などはない、ということを証明しようとしているのです。そして「神」を否定するということに、無上の喜びと生きがいを見い出しているのです。早い話が「ドヤ顔」をしてみたいのです。誰に? 「神」に対して。
えーっ、そんな動機で?と思われたことでしょう。まったくもって馬鹿げているのですが、ルシファー(堕天使)の「波動」と同調しているために、それが変だとはちっとも思っていません。けれども、この発想が幼稚なのは、?「神」を否定する?という言葉の中にすでに矛盾が露呈している、ということに気がついていません。言葉の前提として、「神」の存在を認めてしまっています。「神」の存在を最初から認めないのであれば、「否定」も必要ないわけですからね。
彼らがやっていることは「邪悪」と言えば「邪悪」ですし「悪魔教」を信じているということもまた事実です。がしかし、「邪悪」のレッテル貼りをして、そいつら全員を掃討してしまえばそれで万事シャンシャンに治まるのか、ということです。その先の「魂」レベルのことは何も考慮されていません。これは、善悪二元論に汚染されているアメリカ人特有の考え方だと言えます。ヨーロッパ人の大半はすでに教会に幻滅しキリスト教にもだいぶ興醒めしています。
現段階の「総体としての USA」の霊的成長度では致し方がありませんが、霊的観点から言えば、これはまったく違った意味を持つのです。「邪悪」というのは、単に霊的に〈まだまだ未熟な段階にある〉ということでしかないのです。地球という惑星は、これまでは、最も未熟な「魂」をトップにした逆ピラミッドの支配構造を形成していました。が、地球のアセンションによって、それがひっくり返る(正常化する)段階にまで来たのです。
その結果、霊的には最も未熟でありながら、でも今まで大いに幅を利かせていた邪悪な「魂」たちは、「波動」が上昇した後の地球には、今後はいられなくなってしまいます。なぜなら、自分たちがしっくり来る場(最下層の波動領域)が地球上にはもう存在しないからです。するとどうなるか?
「魂」は死んでも死にませんから、これまでですと、処刑されても地縛霊として地球圏に残り、悪さをし続けていられたのですが、もうそれも終了です。おそらく、彼らには救済のために別の低級惑星が用意されることでしょう。
さて、ここからは更なる飛躍です。冒頭で、いま起きていることの「お芝居」には三重の意味が隠れていると書きました。その三つめとは、いま言った悪人退治のための秘密軍事作戦も含め、この地上での出来事は、基本的にすべてが「お芝居」だということです。同じことはこれまでに何度も言ってきましたし、人類の覚醒は二段階で進むということも繰り返し述べてきました。
覚えておられますか? 先ずは、自分が社会の物差しに騙されていたと気づくこと。そして二段階めは、自分の本質は身体にあるのではなく「魂」にあると気づくことです。
基本的にはそれと同じことを視点を変えて語っています。自分の本質は身体にあるわけではないので、物質界での体験というものは、すべて、自分の意識が、物質界というスクリーン上に投影された映画のようなものに過ぎないということです。しかしそのことを、頭で解るだけではなく、「魂」レベルで確信するに至るまでには、向上に賭けた長い道のりが必要とされます。
ですが、その視点に立たなければ、いま起きている惨劇に「救い」を見い出すことは困難でしょう。そして、怒り、悲しみ、落胆、慚愧、絶望などの念に沈んで行ってしまうことでしょう。このブログを読んでくださっているみなさんは、すでに充分学習を重ねて来られた人たちだと思いますので、遠慮をせずに書きますが、今度の戦争(「大惨事世界大染」と「地域紛争」)で不幸にも亡くなられた人たちには、そうなる理由というものがあるのです。
誤解して欲しくないのは、これは今度の体験だけが特別という意味合いではなく、すべての「死」に関係した普遍的理論だということです。その普遍的理論の中で、今度の染死および戦死に遭遇することには、それなりの理由があったという意味です。
それが何か、ということは個別の問題になって来ますので言えませんが、みなさんに知っておいていただきたいのは、結果には必ず原因というものがあるということです。これを「因果律」と言います。「律」とは法則の意味です。これは宇宙の基本的かつ絶対的な法則です。例えば、ヤカンに水を入れて火にかけたらお湯が沸いた、といったことです。物事には必ず、先ず原因があって、その結果というものがあるのです。
ところが、みなさんの行動を見ていますと、「因果律」ということをほとんど考えていないように見受けられます。「結果」ばかりをいつも気にしていて、「結果」から「結果」へと渡り歩き、ちっとも「原因」を探ろうとはしません。このような人は、「これから世の中どうなるのか?」「自分はどうしたらいいのか?」という質問を他者にいつも向け続けていて、自分で考えてみるということをまったくと言っていいほどしません。
ときに、「御託宣を仰ぎたい」と強く願う時期が、誰にでも訪れることがあるということは理解できます。またそれが、その人にとって有益な場合が少なからずある、ということも充分に認めます。なにより私がそうでしたから。しかし、いつもいつもそれであっては困ります。これでは「智力」は磨かれません。
「智力」を磨いていないと、向こうへ帰ったあとで困ることになります。と言いますのは、霊界では思ったことがすべて実現してしまうために、ジャンプ台というものが用意されないのです。向こうへ行ってからも山登りはできるのですが、自分の意思で向上を目指さなければならないために、その訓練がされていない「魂」は進化が滞ることになります。
ところで、今回このようなことを取り上げたのは、最近、体調を崩したり、鬱症状を再発させたりする人をよく見かけたからです。人間、生きていれば、日によって多少のアップダウンがあることは致し方ありません。しかし、軌道修正の範囲内を超えて落ち込む姿を見せられると、「ああ、またか」と思い悲しくなってしまいます。同じところを行ったり来たりしていて、残念ながら学習効果というものがあまり見られないのです。
これには、対処ができないという問題と、それ以前のこととして「因果律」を理解していないという二つの問題があるように思うのです。前者は、心身がダウンした場合のアフターケアとして、後者は、同じ症状を繰り返さないための予防として働きます。
先ず、対処ができないということに関しては、働き過ぎ、調子に乗り過ぎ、誘惑に負ける、身体の酷使、焦り、感情に巻き込まれる、身に降りかかった出来事と自分の解釈を同一視する、事件と情報と自分の気持ちの区別ができない、もう一人の自分(観照者)を立てられない、他者と自分の課題を線引きできない、等々といった直接的な理由があります。
しかし根本的理由を一つ言えば、その状態にあるときにはぜんぶ「波動」が落ちているのです。言い換えますと、「波動」が落ちるようなことをしていたために、つられて心身もダウンしたということです。
これらについては、もうかなり語って来たつもりなのですが、残念ながら芯には届かないんですね。どうしてでしょうねぇ。調子が良いときに聞いても、きっと他人事としか思えないのでしょうねぇ。そしてまた、何かをきっかけにドスン!と落ち込む。結局のところ、「結果」の現象面にばかり捉われいてて*、「因果律」を考えてみたことがないし考えようともしない。そのため、何度でも同じパターンを繰り返してしまう。
*なぜなら、そのときには「苦しい、苦しい」で心の中はいっぱいいっぱいですからネ。
しかし〈同じパターンを繰り返す〉というところに、すでに恩寵があるということに気がつきませんか? 本人は「ええっ、またあの苦しみかァ」と思うことでしょう。でもパターンになっているということは、「いい加減に気づけ!」と示してくれているのですよ。気づきへのサインは3回連続である、ってどこかで書きませんでしたっけ? ところがその恩寵を無にしてしまうのですネ。「苦しい、苦しい」「助けて、助けて」だけで、心の中をいっぱいにしてしまう。
よいですか? 何度も繰り返す「落ち込みのパターン」は、今世におけるあなたの「課題」の一端を示してくれています。「因果律」で考えれば、「落ち込む」という現象の前には、そうなる「原因」というものが必ずあります。この「因」→「果」の関係の中に、あなた特有のネガティブなパターンというものが隠れているのです。ヘソはここです。
ところが、その関係(→の部分)に注目したことなどついぞないために、「因果」を一緒くたに捉えて、訳もわからず同じパターンを繰り返してしまっているのです。
ですから、元気なときに、自分の「落ち込みのパターン」をよく分析してみることです。きっかけは何だったのか? その直前の自分の心身の状態や環境はどうであったのか? 最初のきっかけから、自分の心境がどのように変化していったのか? 何がいちばんの引っ掛かりだったのか? それに対して自分はどんな対処をしたのか? それは上手くいったのか、いかなかったのか等々。
自分を責め過ぎることなく、第三者的視点に立って考えつくものを列挙し、ご自分の「落ち込みのパターン」を探り出してください。さらに、落ち込んだときだけではなく、調子の良いときと、調子の良過ぎるときのパターンも探り出してみてください*。案外、良過ぎるときの暴走からタガが外れ、落ち込んでしまうということがよくあるものです。そして、メモノートの最初のページないし最後のページにそれを書き込み、ちょっと落ちたなというときに随時見るようにしてください。
*「エニアグラム」の分析がかなり参考になるかも知れません。こちらにご案内▶︎
さて、そのようにして「因」を分析していくと、例えば体調が悪いということの原因が暴飲暴食にあったとしましょう。ここで済ましてしまえば、それは身体上の「因果」ということになります。しかし、あまりにも頻繁に暴飲暴食を繰り返しているとすれば、それはそうしたいという「心グセ」の問題になります。そして、その「心グセ」がどうにも抑え難いということになれば、「魂」や「前世」に関係した問題かも知れない*、ということになるのです。
*もしも病気ということでお悩みでしたら、『瞑想入門』の巻末資料に「チャクラと病気対応表」というものを載せておりますので、そこから根本原因と課題を探ってみてください。
ズバリ言って、「心」の落ち込みが深刻であった場合の原因は、「前世」から引きずってきている何らかの問題が誘発されてしまったか、「波動」を落としたことによって低級霊に憑依されてしまったかのどちらかです。しかしそう聞いても怖れたりはしないでください。前者は、今世での克服すべき課題が明示された(つまりギフト)ということですし、憑依をされるケースはよほど波動を落としたときに限られます。ということでそれほど多くはありません。
「憑依」というのは、自分が死んだものとは気がつかず、霊界に入れないまま地上をうろついていた浮遊霊が、「波動」を落とした人間に取り憑き、その人の心身をコントロールしてしまう現象です。憑依した人間の身体を使って、未だ消えぬ物質界での欲望(例えば大酒を飲む)を再び満たそうとするのです。
こうした憑依も、「波動」の同調から起こるのであって、「波動」を下げなければ憑依はされませんし、たとえ憑依されても「波動」を上げれば、憑依霊は居座ることが苦痛になって出ていってしまいます。結局、恐怖心というものがいちばん「波動」を低下させてしまうのです。ですから、DS に操られたメディアや映画界や専門家と称する人は、人々に恐怖心を与えるようなことばかり言っているのです。恐怖心を抱かせることが最も安直なコントロール手段だからです。
ということで、もしあなたが、今かなりダウンしているという状態にあったとしたら、とにかく「波動」を上げることを第一に考えてそのための行動をなさってください。人混みを避けて、美しい自然に触れるのがいちばんです。空を見たり、陽の光を浴びたり、木々に触れたり、散歩をしたり、花を育てたり。そして自然と会話をしてみてください。美術品を見たり、波動の高い本を読んだり、絵を描いたり、詩を書いたりするのも有効です。
もしも「憑依」の可能性があれば、憑依した霊は自分が好むほうへ好むほうへと心身を引っ張っていこうとするので、それと判ります。閉じこもるとか、酒浸りになるとか、クスリに手を出すとか、自暴自棄になるとか、自殺しようとするなどです。ですからこの誘惑に負けてはなりません。また周囲の人は、これらは憑依した霊がやっていることで、本人がそうしたいわけではないということを知ってください。
そして、機会を見て憑依霊に語りかけてください。「あんたは誰か?」と。「悩みがあれば聞くよ」と。その上で、「あんたはもう死んでいるんだよ」「死んでいるんだから、この世のことで悩んだり苦しんだりする必要はもうないんだよ」「もっと素晴らしい世界が待ち受けているよ」「だから、ここらでそっちへ行けるように、守護霊さまにお願いしてみようね」と。‥‥辛抱強く。
とは言え、日ごろから「波動」を落とさないような生活を心がけていくことがいちばんです。どん底にまで落ちてから「ヤバイ!」と気づいて修正しようとしても、もうエネルギーが低下してしまって、自力で回復に廻す分の余裕がありません。(→高い「波動」を持った人の他力の助けが必要になる)
世の中は、低い「波動」の誘惑でひしめき合っています。今のあなたに「波動」の高低を嗅ぎ分ける力がないとしても、低い「波動」の影響は、確実にあなたの心身にダメージを与えているのです。ですから用心なさってください。
脅すもの、興奮させるもの、誘うもの、他者を貶すもの、騒がしいものには近づかないでください。もしも接してしまったらすぐに離れましょう。識者や論客たちは、その人が話している「言葉」を聞いてはいけません。「言葉」を聞いたら騙されます。特に手を大きく振って熱弁する人には要注意。言葉ではなく、顔と漂わせている雰囲気をボーッと見てください。嘘つきはすぐに判ります。「あ、この人は嘘を言っていない」と判ってから、初めてその人の言葉を聞いてください。
最後に、ちょっと落ちてるなという時のリセット法をお伝えしておきましょう。これはハトホルから教わった「光の薬」という方法で、回復に非常に効果があります。次のように、軽い瞑想と呼吸法を組み合わせて行います。
椅子に座って、先ず背骨を真っ直ぐに立てます。次にカップに清浄な水を満たし、それを両掌で包むようにして持ちます。眼を軽く閉じて、息を吸うと同時に頭上から光のエネルギーが頭頂部に入って来るのをイメージします。そして、その光がハートまで降りて明るく輝き、それが両手を伝わってカップの水に転写されていくのをイメージしながら、細く長く息を吐き出します。3回ほどしたら、静かに眼を開けて、カップ内の水が五体に浸透していくのをイメージしながらゆっくりと水を飲み干します。以上です。
お茶やコーヒーを飲むときなどにも、毎回、これをやってから飲む習慣をつけてください。
それではみなさん、お元気で。チャオ!
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あれほど好きだった映画も最近はほとんど観ることがなくなりました。シネコンの即物的な感じが好きになれないということや、観たい映画がないということもありますが、いちばんの原因は、自分が歳をとってしまって、もう映画の中で描かれている世界に興味を持てなくなってしまったのです。早い話が、自分の心境が大きく変わっちゃった。
ドラマって、人間の心の「葛藤」を描くじゃありませんか。その「葛藤」がつまらない。イ・ビョンフン監督の韓国宮廷ドラマが好きだったのですが『オクニョ 運命の女』は一話目の途中でギブアップ。妬みとか、裏切りとか、復讐劇とかは「もう結構!」って感じで‥‥。そういう要素は連続ドラマを引っ張っていくためには必須なんでしょうけれど、それに付き合わされるのは時間の無駄! だって、私の人生とは何の関係もありませんもの。
『チャングムの誓い』には本当にお世話になった。自分が観たのは再放送だったと思うのですが、カミさんの看病をしていた最も大変だった時期で、来週、また来週という期待が生きる気力を引っ張ってくれて、それでなんとか乗り切ることが出来たんだよね。昔のイ・ビョンフン監督作品には「理想」が描かれていた。イジワルな人も登場するのですが、「理想」のほうがそれをずっと上回っていたと思うのです。でも『オクニョ』にはそれが感じられなかった。
映画でもクルマでもなんでも、マーケティングなんかしたらみ〜んなつまらなくなっちゃう。こうすればウケるという数値化された目標に向かって走っていくので、独創性や作家性が消えてしまうのです。今の韓国ドラマや K-pop のスターたちは、私には全員が同じ顔に見える。お肌ツルツルのピッカピカー。イケメンと美女ばっかし。あーつまらん。山?努さんのような個性ある顔が主役を張るなんてことは、もう許されないんでしょうかねぇ‥‥。以上、昭和ジジイのぼやきでした。m(_ _)m
その昭和なんですけど、役所広司さん演じる「平山」という人物のライフスタイルは、昭和でストップしちゃっているんです。木賃アパートに住んでいて、ガラケーに、カセットテープの音楽アルバムに、古本屋と文庫本。モノクロフィルムのコンパクトカメラに、銭湯に、缶コーヒーに、地下街の居酒屋という具合。ですから、内面で味わっている世界は「昭和テイスト」のままなんです。
でも、決して社会を拒絶しているというわけじゃない。仕事は、時代の最先端をいくデザイナーズ・トイレットの清掃をしていて、ちゃんと社会とコミットしている。しかも非常に真面目に真摯に。でも仕事を終えると、自分のホームに帰還していき、ルーティンで構成された自分だけのド日常の世界に収まるのです。その対比が、スカイツリータワーと下町のボロアパートに象徴されている。
この平山という人物は、どうも資産家の息子だったようなのですが、何かをきっかけにして自分のライフスタイルを今のようなものに定めたんですね。ラジカセが流行った時代を考えれば、それはかなり若い頃だったと思うのですが、今のような生活に落ち着いていく間に、自分の出自をも含めた世間一般のモノサシというものを完全に捨ててしまったようです。けどモノサシは捨てても、東京には生きていくスキマがちゃんとあるんですね。
大事なのは、平山が今のその生活を悲観したり惨めに思ったりすることがないということ。ただ自分の仕事として、また役割として、黙々と丁寧にトイレ掃除を遂行している。そして、そのテイストが今も好きだから、昭和スタイルのド日常に帰っていくのです。でもよく見れば、ノスタルジーでそうしているわけではないということが解ります。平山が何より重んじているのは、内面の充実と成長で、そのためには今のライフスタイルが合っているというだけの話です。
トイレ掃除と言えば、羽田空港の清掃をやっておられた中国残留孤児2世の新津春子さんという凄い方がおられます。この人が「清掃」の概念を根本的に変えて、羽田を世界で最も清潔な空港と言われるまでに押し上げたと思うのです。平山も、清掃の道具を自分で工夫して作ったりして、そのプロフェッショナル精神を引き継いでいるのです。人の嫌がる仕事に精を出して、利用者に喜んで貰い、それで自分も喜ぶということが自然に出来ている。
それとあと、清掃員画家のガタロさんのことも思い出しました。ガタロさんの生き方にも胸を打たれて、何度か手紙をやり取りして『清掃の具』という画集を購入したことがあるのです。個展が横浜の画廊であったときに会いに行って、そこで少しお話をしました。そのあとで、畑中純さんの『ガタロ』という漫画と『ミリキタニの猫』のDVDを広島のご自宅に送ってあげて喜ばれました。以上、余談でした。m(_ _)m
この平山のところに、姪っ子のニコ(中学生かな?高校生かな?)がひょっこり現れるのです。どうやらニコは家出をしてきたらしく平山と会うのは十数年ぶりです。ニコの母親は平山の妹で、鎌倉で裕福な暮らしをしています。でもニコの中で、お母さんとの生活がイヤだなという思いが湧いたときに、ふと伯父さんを思い出したんでしょうね。あの伯父さんなら、今の自分を受け止めてくれるかも知れないという‥‥これは世代の違いというものを考えると非常に面白い。
ヴェンダースが、この映画で小津安二郎の『東京物語』を強く意識したことは明白ですが、『東京物語』では老夫婦と実の子どもたちとの間の無理解と、血の繋がっていない死んだ息子の嫁との交流の対比が描かれていました。が、ヴェンダースの『PERFECT DAYS』では、解り合えない兄妹(+父)と、世代を超えた伯父さんと少女との交流が描かれている。
その意味で、これはまさに現代の『東京物語』だと言えます。しかしヴェンダースは、そこにさらに、時代変化の荒波に準ずる人と抗する人という、生きる上での根本的な「価値観の違い」というものを強く打ち出しているのです。
平山がニコに言うセリフ。
「お母さんと、伯父さんとは、たぶん別の世界に生きているんだよ」
もちろんこれはドラマですから、ニコがその世代を代表しているというわけじゃない。むしろ少数派だとは思うのですが、ニコと同じような心情を抱いている十代もかなりいると思うのです。結局、ニコは連れ戻されてしまうのですが、たぶん自活できるような年齢になったら、きっとまた家を出ていくのでしょうね。その日が来るのは案外近いのかも。なぜって、これから価値観の一大転換が起こるのですから。
平山とニコとの会話の中にこんなのがある。
ニコ「ねぇ、今度っていつ?」
平山「今度は今度、今は今」
ニコ「(復唱するように)今は今」
これは明らかに含みを持たせたセリフで、「今度」を期待する生き方と、「今」を生きる生き方とが対比されています。平山のド日常というのは、結局のところ「今ここ(Be Here Now)」の体現なんですね。
ヴィム・ヴェンダース監督のプロットによれば、平山が変貌したのは、ある日、自分の身体に降り注がれている「木漏れ日」の存在に気づいてからだ、と言うのです。「木漏れ日」は木々の葉っぱの隙間を通って差し込んでくる光です。ですから、光は当たっているんですけれど、そのことに気づきにくいんです。葉っぱは光を遮っているのですが、邪魔をしているというわけじゃなくて日陰を提供し適度な気温に調節してくれています。
その葉っぱと光の関係というものは、時事刻々変化していて、同じ瞬間というものは二度と訪れない。けれども、瞬間々々において、その人の頭上に、その人用に調整されたオリジナルの「木漏れ日」が確かに差し込んでいるんですね。人間だって、日の当たった反対側には必ず影を拵えている。それを意識することなく人々が交わり、相互に他人の影を踏んでいるんです。
その影からは、逃れようとしたって逃れられない。しかしそれは物の道理です。道理は道理としてちゃんと認めて、影踏みを遊んじゃえばいいんです。平山はそのことに気づいて、たぶん、つくづく「ありがたいなぁ」と思ったんです。「これだ!」と思ったんです。そこで、こぼれダネから芽を吹いた若木を慈しんで育て、「木漏れ日」の一瞬をフィルムに記録するようになった。
『PERFECT DAYS』のロゴをよく見ると、「T」の文字の下が若干膨らんでいて、下に「〜」っぽいものが描き加えられてあります。これは一体なんでしょうか? あの若木をイメージしているのでしょうか。でも大地は強調されておらず、何か頼りなげですね。
そしてその上に「T」がすっくと立っている。「T」は象徴記号では「天」を意味していて、天上は横にバーンと張っているけれど、「地」のほうは弱々しげです。
私の勝手な解釈では、これは「霊主体従」を表しているのだと思います。平山はすでに「霊主体従」の心境にあって、「Be Here Now」を生きている。つまり、平山という人物は、すでに「アセンション」を体現している。ですから、他の人には見えないホームレスのダンサーが、平山だけには見えるのです。このホームレスは、平山のさらに先をいく師であるから。
平山は「木漏れ日」の向こう側にあるものを「信」じているのじゃないんです。「確証」しているんです。この両者は似ているようでいて、実はまったく違う。「信」の先に「確証」があるのではなく、両者は表裏が逆転した関係になっている。ですから、「信」を捨てない限りは「確証」は得られないのです。でもその違いは、いまだ「信」じている段階にある人たちには解りません。
「アセンション」とはどんな心境か?と思っておられる方が大勢いらっしゃるように思うのですが、まさにこの平山のような生き方と言っていいと思うのです。
「えっ、そんなことなの?」
「そう」
「じゃあ、あのニルヴァーナってのは何よ?」
「あれは、仏教が誇大宣伝したイリュージョン」
「そんなぁ」
「誰も達成できないような領域を目標とすべきではないね」
「でもこんな簡単なことで、本当にいいわけ?」
「だから『アセンション』には何の努力もいらない、って何度も言ってきたよ」
「しかし、平山は『行』をしていないじゃないか!」
「特別な『行』をしなくても『アセンション』はできる、とも言ってきたよ」
「えーーッ、じゃあ、このまんまでいいの?」
「このままでいいかどうかは判らない」
「でも、『今ここ』なんでしょう?」
「そうだよ。このままでいいかどうかは判らないが、ありのままであるべきだ」
「あー、わからん」
「君は捨てられるかい? 世のしがらみを。この平山のように」
「‥‥‥」
「『アセンション』には何の努力もいらないが、砂袋を一つずつぜんぶ捨てていくのには大変な覚悟と努力が必要なのさ。平山はそれを成し遂げたんだよ。でも妹にはそれが出来ない。たぶん、よほどのことがない限り、この先もずーっと。よく見てごらん。平山の毎日は『行』そのものだとは思わないかい? 生活のすべてがすでに『行』なっているんだよ。だから、砂袋をすっかり捨てて、自動的に浮き上がったというわけさ」
この映画の音楽は全曲、平山が聴いた曲という設定で流れています。それは、その時々の平山の心象風景を表しているのですが、同僚のタカシはそんなことはお構いなしで、平山に金をせびりカセットを売って換金しようという提案をします。しかし平山は同意せず、財布にあったお金をぜんぶタカシに渡してしまいます。おかげでその日は居酒屋にも行けずにカップラーメンを啜る羽目に。
そのカセットは、タカシにとっては単に「金」になりそうなものでしかないのですが、平山にとって、その中に記録されている音楽は「金」よりもずっと大切なものなんですね。この挿入歌の一つに、Lou Reed のその名も『Perfect Day』という歌が使われているのです。この映画では主題歌の扱いですが、曲の最後にこんなフレーズがあります。
I'm glad I spent it with you
Oh such a perfect day
You just keep me hanging on
You're going to reap just what you sow
君と過ごせてうれしいよ
ああ なんて完璧な一日
君が僕を繋ぎとめてくれている
自分で蒔いた種は自分で刈り取ることになるんだ
いろんな解釈ができると思いますが、最後の「You」はその一行前の「You」と同じではなく、慣用句的に使っているのだと思うのです。ですから、この「You're」は「I'me」のことであり「自業自得」を言っている。そして三行目の「You」は「神」を語っていると思うのです。ここで重要なのは、「自業自得」には「悪行悪果」だけではなく「善行善果」も含まれているということ。
平山は、だから自分の毎日が「Perfect Days」になったんです。歌は「Perfect Day」だけれど、平山の場合は「s」がついて複数形になっている。毎日々々がずーっと「Perfect」なんですね。映画の最後で見せる平山の顔は本当に幸せそうです。
最後に、平山がしていた「三目並べ」のお相手。
あれは、どんな人だったと想いますか?
私は、あのお相手は「トイレの神様」だったと想います。
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しかし、人によって接触するメディアも違えば、理解力や分析力も大いに違います。中には「陰謀論(Conspiracy Theory)」という言葉すら知らない人や、聞いたことがあってもまったく関心のない人もいるでしょう。このような温度差は、いまの人類にとっては如何ともし難いものです。
なぜなら、その根本原因というものは各人の「霊性」の差より生じているからです。人には、それぞれの「魂」の、今の「霊性」の段階に応じた体験と解釈しかできないものなのです。
本ブログでは、〈真の「闘い」は、横方向ではなく縦方向なんだよ〉ということを繰り返し言って来ました。本当は、縦方向に「闘い」という言葉を使いたくはないのですが、解り易くするために便宜的に使っています。よく、「自分との闘い」と言ったりすることがありますが、基本的にはあれと同じです。要するに、向上するための葛藤であり、産みの苦しみという意味です。ですから、「闘い」と言っても本質は「救済」なのです。
さて、イスラエル軍のガザ地区への侵攻は、いま言った観点から、これまでとは違う新しい認識を世界にもたらすようになりました。いかに謀略から始まったにせよ、世界の民衆は、おいそれとはそのプロパガンダ戦略に乗らなくなって来たのです。これは22年前の911事件のころとは大違いです。テロリストのハマスによる突然のイスラエル侵略というナラティブ(話術)はすぐに忘れ去られて、世界中の都市で「親パレスチナ」への合唱とアラブ反乱旗の乱舞が湧き起こりました。
そりゃあそうですよね。都市を更地にしてしまうほどの大破壊と無差別殺戮をライブ映像で見せられたわけですから。ネタニヤフが性懲りもなくまたもや「これは我々だけの戦争ではない、あなた方の戦争でもある。『闇』の子たちに対する『光』の子たちの戦争なのだ」と語ったというのですが、言えば言うほど人々は茶番にシラケ、「ユダヤ人のホロコースト」という物語の影に隠されていたシオニズムの非情と冷酷さが逆に浮き彫りになっていくばかりです。
ワシントンD.C.のデモでは、ユダヤ教徒とイスラム教徒とキリスト教徒(世界三大一神教)が一緒になってパレスチナとの連帯を叫んだと言いますから、民衆レベルでは、為政者たちが考える意図とは反対方向へ、一段の覚醒が進んだのです。
11日、英米はイエメンに対して空爆を行いました。これはアラブ諸国との全面戦争にも発展しかねない危険なアクションです。しかし、1990年に起きた「湾岸戦争」では、アメリカが主導した多国籍軍に28か国もが加わったのに、今回はイギリスの1国だけでした。これは非常に解りやすい変化を示しています。アメリカの、世界の覇権国からの転落と、悪の元締めがどこかということと、その者たちの孤立化です。
情けないことに、日本はアメリカさんの属国ですから、アメリカさんの命運が尽きると共に抱きつき心中ということになりそうです。国会議員のみなさんや、財界のみなさんは分かっているのかなあ?
このように、左右の対立というものが、世界支配を企む者たちによってみな仕掛けられたものだということに気づいた人たちが爆発的に増えてきました。と同時に、みなそれが当然だと信じてきたもの、良いことだと固く信じてきたものの内幕を知る人も劇的に増加しました。たとえば WHO であり、WEF(世界経済フォーラム)であり、中央銀行制度であり、マスコミであり、芸能界であり、SDGsであり、電気自動車であり、ポリコレです。
もちろん温度差というものはまだまだあるのですが、こういったものの「目覚め」はオセロゲームのように進むのです。ある閾値を超えた瞬間からバタバタッと一挙に逆転してしまう。「洗脳」というものは、されている側からすれば「思い込み」です。自分が、それが当たり前だと思っていたこと、そうするのが正しいと思っていたことが、単なる「思い込み」に過ぎなかったのだと気づいた瞬間、「洗脳」はパッと解けるのです。
人類史上の長きに渡って巨大な「洗脳」の仕組みがずっと維持して来られたわけは、「洗脳」をする側の人間もまた「洗脳」されていたためです。その代表格がマスコミ、投資家、政治家、役人、教師、芸能人、医者、宗教家です。強い影響力を持つ人間ほど、自身の「洗脳」も強固で、その「思い込み」がまるでシャワーを浴びせるようにして一般社会に広がっていくのです。結局、そのような関係ですから、誰も「洗脳」に気づくことさえ無かったのです。
しかし、盤石に見えたこの構造が、まるでダムが決壊するときのような勢いで崩れ始めました。一部の「今まで」を維持したい者たちが、必死になって防戦に努めていますがもはや無理。あがけばあがくほど嘘がバレていき、かえって馬脚をあらわす事態に陥っています。何にも解らずに、組織の中でただ「洗脳」に甘んじてきた人たちも、ダムの決壊とともに流されてどこかへといなくなってしまうことでしょう。
プランデミックに騙され、障害を負ったり亡くなった人たちは可哀想ですが、今さら悔やんだり嘆いたりしてみたところで始まらない。「そうしろと言われたから、素直に従っただけなのに‥‥」と、騙した者たちに怒りの矛先を向けても仕方がない。これを言うと冷たく聞こえるでしょうが、「信じて」騙された人が悪いのです。── それじゃ「救い」がないだろう、ですって? いや、ありますよ。いつだって「救い」はある!
霊的観点から言えば、それもその人の「一つの人生体験」だったわけで、そこからどんな教訓を得たか、その先に何をしようとしたか、がもっとも重要なことなのです。人間、辛い目に遭わなければ意識の飛躍はできません。その稀有な体験を、ジャンプ台に変えるか、はたまた怒り、嘆き、悲しみの感情を抱えたまま谷底へと落ちていくかは、その人のその後の考え方しだいなのです。
さて冒頭で、世界認識に関する温度差は「霊性」の違いから生じている、ということを述べました。人間が、いとも簡単に「横方向の対立軸」の罠に嵌ってしまうわけは、繰り返し言ってきたように「旗」と「杖」にあります。一般的に言って、人間は生きていく際に、どうしても「旗」と「杖」を求めたがるのです。そのわけは、さらにその奥に自分のアイデンティティに関する問題があって、これと「旗」と「杖」とが連動しているのです。
あなたは誰か? どこから来て、どこへ行くのか? これは究極の質問です。ここで言う「あなた」とは「意識的存在」の意味です。しかしみなさんは、そのように考えたことがありません。ほとんどすべての人が、身体を持つ自分が「自分」だと思い込んでいて、そこから、「誕生」と「死」という二大イベントに特に強い思いを寄せる傾向が生じているのです。はたまた、それを類推して、宇宙にも誕生と死があるなどというトンデモ理論を信じているのです。
でも、写真アルバムから、自分の赤ちゃん時代や子ども時代の写真を探して眺めてみてください。面影は感じられるかも知れませんが、今のあなたとは別人のような子どもが写っているはずです。あなたはそれを記憶として認識しているので、これが自分だと言えるでしょうが、その記憶を持たない人に見せたら、その赤ちゃんが誰かなんてまったく分からないことでしょう。つまり、「あなた」を連続しているものは、身体ではなく「意識」なのです。
ではその「意識」がどこから来たのか?という問題です。これは、このブログを読んできてくださったみなさんには言わずともお解りでしょう。あなたは、お父さん似でもなく、お母さん似でもなく、前世の自分にいちばんよく似ているのです。ところが、普通の人はそんなふうには考えません。そこで、自分は誰か?というアイデンティティを規定するのに、自分の外側で〈既に確立されている「何か」〉を持ってきて、それに仮託することによって表現しようとするのです。
それが、人間が「旗」と「杖」を求めてやまない根本的な理由です。それは、所属であり、肩書きであり、思想であり、権威であり、自分の心棒を意味するのです。ある「旗」のもとに参集すれば、それが自分のアイデンティティを表現する一助となり、さらに「杖」にまでしてしまえば、とりあえずの安心感も得られるというわけです。こうして人は、無意識のうちに「洗脳」の中に組み入れられていってしまうのです。
SNS 上で、なぜこれほどまでにレッテル貼りやヘイト記事が多いのかと言えば、それが自己のアイデンティティの防御手段になっているためです。「旗」と「杖」を持つと、とりあえずの安心感は得られるのですが、その次には「杖」が折れてしまうのが怖くなる。もし折れてしまったら、アイデンティティが崩壊してしまうからです。そこで、気に入らない奴は徹底的に攻撃することで、必死になって「自分」を保とうとするのです。
しかしいま言ったようなタイプの人は、「魂」がまだ動物的な段階にある人で、その先へと進むことが出来ないでいるのです。これは SNS 時代がもたらした大きな災禍だと言えます。残念ながら、動物的な人ほど声が大きいし、吠えて威嚇したり、他人を焚き付けるのも上手です。そこで、世間の耳目を集め、人々を「低い波動」に誘導して、そこでの応酬に参加させていくのです。
しかしそういった場に飛び込む人は、それによって相手を傷つけているだけでなく、自分をもどれだけ傷つけているかということを知りません。恐ろしいことに、自分のアイデンティティを守ろうとしてやっていることは、皮肉にも、最後にはそのアイデンティティを崩壊させてしまうのです。なぜなら、そんなアイデンティティは所詮は借り物でしかなく、どこかの時点でその違和感に気づき、実は自分が空っぽであったということを知ってしまうからです。
残念に思うのはそこです。せっかく、世の中の不正を暴こう、真実を人々に知らせようと思って熱心な活動をされている論客たちの多くが、途中からヘイト・スピーチ合戦に移行していってしまいます。「許せない!」とカチンと来るのでしょうが、反論する者、蔑(さげす)む者、からかう者などはどこにでもいくらでもいます。そんな輩は放っておきなさい。好き放題に言わせておきなさい。反論するから相手側にエネルギーを与えることになるのです。
それよりも、自分の「波動」を高く保つことにのみ専心しなさい。争いをして「波動」を下げれば、下げた「波動」に引かれた者しか集まって来なくなります。反対に、当初の善良なファンはみな逃げていってしまうことでしょう。飲食店経営を想像してみればすぐに分かること。
そもそも、このような罠に嵌ってしまうのは、あなた方が「正」と「邪」、「善」と「悪」というものについて、大きな考え違いをしているためです。あなた方はよく、「正」が「邪」を滅ぼすとか、「善」が「悪」に打ち勝つといった言い方をします。しかし今の中東で起きていることを見てください。ユダヤ教とイスラム教とキリスト教が、互いに相争っているではありませんか。そしてそれぞれが自分たちの「正義」と「善」を主張し、残虐な殺し合いを行っている。
いったいこれのどこが「神」を担いだ宗教なのでしょうか? もう、何が「正」で何が「邪」か、何が「善」で何が「悪」かということが、グチャグチャで誰にも分からなくなっているのではないでしょうか? 現に、「毒沸く珍」や「脱炭素」や「ウクライナ支援」は、「正」であり「善」であると盛んに喧伝されてきたわけですが、実はもっとも邪悪な者たちの企みであったということが公になり、全部がひっくり返ってしまいました。
悪巧みをする人たちというのは、必ず「善いこと」を言って人を騙すのです。そりゃそうですよね、最初から本心を明かしたら人を騙せませんものね。「嘘」情報には気をつけるようにと言って、自分たちがいちばん「嘘」をついているのです。しかしこれもバレましたネ。今でこそ、こうした策略を見抜く人がだいぶ増えたのですが、それは知識量が上がったからで、「波動」を読めない普通の人には、やはり「正邪」や「善悪」の判断というものは難しい。
ところが、判断は難しいのですが、「正邪」や「善悪」の定義そのものは極めてシンプルなのです。「宇宙の法則」に合致したものは「正善」であり、法則に逆らったものは「邪悪」という、ただそれだけのこと。ところが、世間一般の人は「宇宙の法則」というものを知らないので、残縁ながら、それに合致した生き方とはどういうものか、逆らった生き方とはどういうものかも分からないのです。
ここで「善悪の原理」についてお話ししましょう。あなた方の間違いの先ず根本にあるのは、「正邪」や「善悪」がハッキリと分けられるものだと考えている点です。そのせいで「レッテル貼り」などというものが横行してしまうのです。しかし、あなた方の世界に「完全」なものは何一つとしてありません。「正邪」や「善悪」も、どっちの傾向をより多く持っているかというだけの話であって、すべては相対的なものなのです。
つまり、100パーセント「善」だと言えるものとか、100パーセント「悪」だと言えものなど、この世界のどこにもないということです。先ずは、このことをしっかりと頭に入れてください。
それが理解できれば、単純な「レッテル貼り」がいかに不毛なものであるかが分かるでしょうし、二度と「レッテル貼り」をしようとは思わなくなることでしょう。「レッテル貼り」は、それをした途端、もう片方にある可能性を見えなくしてしまうのです。つまり、それをした自分自身を、狭い檻の中に押しやるのです。
さて、「宇宙の法則」については、これも繰り返しこのように言って来ました。「宇宙」というものは、表現においては実に多様、しかしそれを統括する法則自体は極めてシンプルであると。「正邪」や「善悪」の定義についてもそれが当てはまります。どっちの傾向をより多く持つかということの意味合いは、非常に単純な話で、その人の「魂」が「統合」に向かおうとするのか、「分離」に向かおうとするのか、という綱引きによって決まるのです。
あなた方は、全員が、一者から分かれて個別化した「魂」なのです。そのことで一人ひとりが「個性」を持つようになりました。けれども、個別化はしたのですが元から完全に離れたというわけではなく、みなさんの「魂」の芯の部分には、引き続き一者(大霊)と同じ「Spirit」が流れ続けているのです。
この「Spirit」を所持するのは、動物の中でも人間だけです。ところが肉(身体)を持ったために、「魂」のバイブレーションが物質側に強く引っ張られてしまい、容易には自分の「Spirit」に気づけなくなっているのです。
このような前提のもと、あなた方には「自由意志」が与えられました。何を思おうが、何をしようがまったくの「自由」なのです。ただし「自由」の裏側には必ず「責任」が伴っているということを忘れないでください。「責任」から離れた「自由」というものは宇宙にはありません。それは「作用と反作用」という科学的法則によって必然的にそうなるのです。また、それを文学的に表現した場合には「自分が為したことは自分に返る」ということになるのです。
この「自由意志」の行使を、「魂」の行動という面から見た場合に、人間には大きく二つの道があります。「統合」へと向かうのか、それとも、より「分離」方向を極めんとするかのどちらかです。実際面では、前者が、思いやり、助け合い、分かち合い、奉仕、誠実、滅私、利他、慈愛といった行動となって表れ、後者が、蔑視、いじめ、差別、高慢、欺瞞、謀略、利己、暴虐といった行動となり、果ては奪い合い、殺し合い、破壊衝動へと進むのです。
これを聞いて解るように、どの人間も、いま挙げた両方の傾向を多少なりとも持っています。ただ、人によってそのどちらの傾向がより強いか、という違いだけです。この綱引きの結果が、その人の現在の「霊性」レベルを表しているのです。そして、その現在の「霊性」を取り敢えずのホームポジションとして、外界の刺激に応じて両方向に揺れ動くのです*。この揺れが、心の動揺というものをもたらし、不安の原因となっているのです。
*これについては、ドン・リチャード・リソ、ラス・ハドソン著『エニアグラム 人生を変える9つのタイプ活用法』に詳細が書かれてありますので、興味のある方はお読みになってください。ご案内はこちら ▶︎
結局、この違いというものは「波動」レベルの違いということであり、「波動」が上がれば「魂」はより「統合」へと向かい、逆に「波動」が下がればより「分離」方向へと向かうということなのです。
このように、話は極めて単純なのですが、悩ましいのはこれにアイデンティティの問題が絡んで来ることです。あなた方はみな「個性」を持っています。これは、一者から分かれて「魂」が個別化したことから生じました。そのことで「魂」は「自由」の喜びというものを持てるようになったのですが、しかしそれが行き過ぎると、「自分だけ」がよい思いをしたいという利己的意識が立ち上がって来るのです。
「統合」へ向かうというのは、ある意味、アイデンティティを失うことのように見えるために、多くの人がより「分離」を極める方向へと向かうのです。こうして、地球では他者より優っているということが称賛され、それが社会の尺度にまでなり、お金や名声や権威を得ることが自己承認欲求を満足させる一大目的となっているのです。当然ながら、一部のエリートやセレブを除けば、大多数がこの梯子段から転げ落ちることの恐怖と体験を味わうということになります。
しかしアイデンティティの問題は、実は逆なのです。「分離」を極めることで得られたかに思うアイデンティティは、一時的にこの物質界で得られた装飾に過ぎず、死んでから向こう側へ持っていけるものではありません。むしろ、向こうへ行ってから、自分が空っぽであることに気づいて愕然とするのです。一方、「統合」へ向かってもアイデンティティは失われません。むしろますます強化され、本来の自分を取り戻していくことになるのです。
ここで、このような疑問を持たれた方がおられるでしょう。一者から分かれた「魂」が、なぜまた「統合」へと向かおうとするのか? そんなことなら、個別化など最初からしなければよかったではないか、と。
当然の疑問です。この答えの真に奥深いところは依然として謎なのですが、ただこういうことは言えるのです。「分離」してみなければ「統合」は味わえない。少なくとも、「統合する」という「する」の部分、英語でいう「ing」のところは、先ず「分離」という体験がない限り「ing」を体験できないのです。
結局、これが「愛」についての体験なのであり、この体験を積み重ねることで、「魂」は究極の「愛」、つまり宇宙的「愛」へと到達していくのです。そのための長い長い旅を、今それぞれの「魂」がしているというわけです。
ところが ─── 、
その中に「分離」方向をどうしても極めたいと願う「魂」たちがいて、地球ではこのような人間たちが背後で実権を握り、世界をずっと支配してきました。そしてついには、人類の遺伝子改変、万病の誘発促進、生殖不能化、人口削減、都市の破壊、虐殺、マイクロチップを使用した人間コントロールという、「分離」方向のボトムにまでその願望が拡張されたのです。この願望に、各国政府の(特に西側の)首脳たちはみな追随しました。
どうしたら、そのような残虐非道が心痛まずにできるのだろうか? と、きっと誰しもが思うことでしょう。そこには、魔界にまで堕ちた邪霊の存在というものが絡んでいるのですが、だとしても、それらに憑依されるまでに「波動」を下げたのは、現世を生きている人間の願望です。ある意味、もの凄い執念を持った優秀な「魂」だと言えます。ですから、ボトムを生きる邪霊とも波長が合ったし、その力の援助も受けられたのです。
そのことは間違いのないことですが、彼らの心境を表現するものとして、「悪魔崇拝者」とか「サタニスト(Satanist)」と呼んで片づけてしまう人がいるのは困ったものです。その「レッテル貼り」は非常に解りやすいですし、実際に彼らがそうした血の儀式やおぞましい人身御供(ひとみごくう)を行っていたことも確かです。しかしそう言ってしまうと、またもや「神」対「悪魔」という二元対立軸の中に嵌ってしまいます。
このような考え方はもっぱら北米方向より発信されていて、アメリカ人というのはどうしてもこの二元対立軸から離れられないようです。そして、ホワイトとブラックを分けて、「神と正義」の名のもとに、ホワイトがブラックを打ち倒すという考え方をする。しかしやっていることは、何かと言えばすぐに拳銃を取り出してその場で容赦なく相手をぶち殺してしまうのです。そしてそれを正当化する。広島、長崎の原爆投下とて同じ論法です。
こんな発想を続けている限り、自分の中に眠る「悪」の部分には気づけません。それを認めるのは苦しいかも知れませんが、自分の中には「善」だけではなく「悪」も同居しているということに気づかなければ、次の霊的ステージには進めません。ありのままの自分を先ず認めることで、初めて自己の本質に向かい合うことができるのです。そして、他者も同じであると知ることによって、少々の違いも許せるようになっていくのです。
今は「地球の大変革」の過渡期ですから、通過点としては致し方ないのかも知れませんが、悪人を捕まえて処刑したところで、それで世界の一切合切が直ちにクリーンになるというわけではありません。悪人の命をいくら奪っても、「魂」は死なない、ということを知る必要があります。悪人の「魂」は、処刑後も生き続け、激しい恨みを抱えたまま怨霊となって漂い、復讐の炎に燃えた活動をまた開始するのです。(これについては、また機会があればお話ししましょう)
ですから、「善」と「悪」を対立軸で見てはなりません。分断の種に使ってはなりません。「善」と「悪」は分断を誘うためにあるのではなく、「統合」に気づくためにあるのです。
彼らが「悪魔崇拝」の儀式を行なっていたということについては、別の視点を見い出すことができます。それは、彼らと言えども「物質主義(Materialism)」には徹しきれなかったという点です。実際にやってきたことは、遺伝子の改変を筆頭に「物質主義」の極みと言えることばかりですが、しかしその背後においては、やはり「信仰」を必要としていたということです。「悪魔崇拝」の中に、理性を超えた救いを求めているのです。注目すべきポイントはそこです。
アルバート・パイクは、自分たちがやっていることは「神への反抗ではなく、神そのものの否定なのだ」と言ったのですが、実際にはそうなっていません。「神」そのものの否定と言うのであるならば、「物質主義」に徹すればよいではありませんか。ところが、彼らとて、ルシファーやバフォメットを対象にしてこれを「信仰」している。結局、パイクの発言とは裏腹に、やっていることは「神」への反抗に留まっていたということです。
これは、今後の人類に対して、非常に重要な示唆をもたらしてくれています。すなわち、これ以上はないというほどの残虐性を示したとしても、所詮「悪」は「神」の対抗にはなり得ないということ。
みな「神」の手のうちにあるということです。
しかし考えてみれば、これは当たり前ですよね。すべては一つなのですから。でもそれを理解できずに反抗した。その理由も解ります。彼らには地道な向上というものがめんどくさかったのです。自分は優秀だと思っていたので、「神」の寵愛をいちばん先に受けられるだろうと思っていた。ところが違った。なぜなら「神」はすべての「魂」に対して公平だったから。そこで、「愛」が「憎しみ」に転化してしまったのです。
そこからは、自分の実力を何がなんでも認めさせようとして、「神」が創造してきたあらゆるもの、愛、生命、平和、秩序、創造物、美、人間を、ことごとく蹂躙して破壊する行動に出た。しかも「悪」ではなく「善」を語って、人々を騙して。まるでヤンチャ坊主ではありませんか。「へっへー、ざまぁ見やがれ。俺さまの実力とはこんなもんだい。全能だなんぞと言ったって、何にもできゃしねぇじゃないか。生命?、ちっとも助けてやれないじゃねぇか」という邪霊たちの快哉が聞こえそうです。
はい、そうかも知れません。しかし「生命」の意味はもっと奥深いのです。彼らはそれを知りません。「愛」を未だ知らないし「愛」に気づくこともないからです。表層しか見ていないためです。結局、為したことは自分に返るのです。どんな「魂」であっても、その法則からは絶対に逃れられません。その意味で、「神」の全能は見えないようでいてしっかりと働いているのです。ただ、派手な介入はしないために人々はそれに気づけないだけです。
宇宙からは、それぞれの人間の現在の霊性レベルや、思考や、心の状態がすべて丸見えです*。いささかも取り繕うことはできません。誤魔化すこともできません。偽善もまったく通用しません。だからと言って、「神」は不出来な者を叱ったり、反抗する者に罰を与えたりすることはありません。「神」は全き愛の存在なのです。ただただ我が子を見守り、その成長を応援しているだけなのです。
*ただしこれは監視されているという意味ではありません。あなたの意識的行動が、意識の大海の中に、あなた自身で刻印を残すのです。
あなた方にはみな「個性」があります。なぜ、「個性」というものが許されたのでしょうか? 大量生産された規格品の「魂」が集まった部屋を、ちょっと想像してみてください。そんなもの、ちっとも楽しくはないでしょう?
「個性」が集まればそりゃあ軋轢だって起きます。でも何もかも自分一人で出来るわけでありません。野菜を作っている人、スーパーでそれを売る人、宅配してくれるドライバー、ゴミを集めに来てくれる清掃員、その他、見えないところでも大勢の人たちが互いの力を出し合うことでこの社会が成り立っています。その原点を見つめてください。私たちの社会は、生活は、そして生命は、互いに助け合うことで循環し維持されているのです。それが「生命」の本質です。
これから、社会が提示する梯子を無理やり登らなくてもよい時代が到来します。梯子が倒れるからです。ただ生きていくためだけでもうアップアップしているような奴隷社会も終わります。搾取していた連中がいなくなるからです。
これからは「個性」発揮の時代です。
さあ、あなたの「個性」をどうぞ「善用」してください。
何のために「個性」があるのか?
優越感に浸るためでも、他者を支配するためでもありません。
自分が為したことは自分に返る。
この「宇宙の法則」をくれぐれも忘れないように。
人に喜んでもらうことで自分も喜ぶ。
そのように、あなたの「個性」を使いなさい。
宇宙からは、あなたの心の動きは逐一見えています。
この先、どんなことがあっても挫けないように。
どのような人にも、つねにあなたを応援する指導霊がついています。
その存在を信頼して「善」なる道に生きなさい。
自分の中の「悪」を縮小させていく努力をしなさい。
そして、あなたの「個性」を、思う存分、花開かせなさい。
最近は思ったように捗らず、今回などは最初の10行をタイプするまでに5日間かかりました。降りてくる内容はとても微妙でどんどん高度化しているのですが、一方で私の心身が老化とアレルギー疾患の悪化から粘りが効かなくなり、両者の乖離が広がって、チャンネルを繋ぐのが非常に難しくなりました。なんとか繋げることが出来たとしても、持続するのがこれまたとてもしんどいのです。しかし、焦ったところでどうにかなるというものでもなく、変化を受け入れて、無理せずにやっていくしかありません。ご容赦ください。
自分が虚弱に生まれついたことについては、子どものころは大変なコンプレックスで辛い思いもしてきましたが、今ではそれがギフトであったと解ります。もし頑健に生まれついていたとしたら、虚弱な者の辛さは解らなかったでしょうし、克服したいという取り組みへの意欲も沸かず、身体のケアについての大切さも学ぶことがなかったでしょう。あの東城百合子さんも肺結核を患ったことから、自然療法の研究に進まれ、94歳の天寿を全うされたのです。
「人間万事塞翁が馬」と言いますが、若いころには解らなかったことが、還暦を過ぎてからやっと解ったということが多々あります。そういう意味では、「老いるショック!」もなかなか良いものです。
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ロバート・ケネディー・ジュニアさんが『武漢隠蔽工作(The Wuhan Cover-Up)』という新刊を上梓されました。
日本語訳はまだ出されてはいませんが、その中には、今回の「生物兵器」事件のルーツが、日本の731部隊にあったということが、歴史を掘り下げる形で述べられているそうです。
武漢ウイルス研究所と、コウモリ女と、mRNAワクチンの話が出たときに、すぐにこれは「生物兵器」だと直観し、731部隊に関連したカルマなんだろうなぁと思いました。
中国と日本とアメリカを巡るトライアングル。戦後、アメリカは731部隊が行っていた人体実験の研究成果を入手する代わりに、石井部隊の研究員たちを問責することなく市中に解放しました。その結果、多くが出身大学に帰り医学部の教授に収まったのです。
終戦から2年半後の1948年1月26日に『帝銀事件』という毒物を使った強盗殺人事件がありました。この事件は、画家の平沢貞通氏が犯人だとして逮捕され、死刑も確定したのですが、執行されないまま95歳で獄死を迎える、というスッキリしない幕切れとなったのです。何ゆえに司直が死刑執行を躊躇し、ただ事件が風化していくのを待ったのでしょうか? 多分、それが冤罪だったからです。
この事件の真犯人は731部隊の隊員であったと言われています。警察は、容疑者を複数に絞っていく中で、その線にもある程度は迫っていました。しかしGHQは、捜査が進展することによって、731部隊との密約がそこから表に出てしまうのを恐れたのでしょう。それ以上の捜査追及をさせないよう、上から司直に手を回したということだったのではないでしょうか。
*熊井啓監督の『帝銀事件 死刑囚』(1964年)、『日本列島』(1965年)、『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年)、『海と毒薬』(1986年)は、いずれも戦後日本のどろどろを描いていて当時の雰囲気がよく解ります。
結局、このようにして、戦後きちんと清算して来なかったものが、今になって当時と同じようにして噴き出したということです。そして、石井部隊の隊員と同じメンタリティを持つ医者、専門家や、GHQに媚を売り保身を図ったのと同じメンタリティを持つ政治家、役人たちが、これまた当時と同じように人体実験と殺戮に手を染め、しかし今度は同胞である日本人に対してそれを使った。
そのようにして、80年前に中国大陸で犯したカルマが、日本にブーメランして来たというわけです。
そんなバカな話があるか!と思うでしょう。がしかし、今度の「沸く珍」禍によって奇しくも公になったのは、アフリカを除く(アフリカ諸国は賢かった)世界各国の政府が、みな同じように〈自国民の殺戮〉に向けて一斉に動いたということです。何ゆえにそんなことをするのか?また出来るのか?、という当然の疑問点については追い追い探っていくとして、とにもかくにも、そういう人間がいて、実際にそれが起こされたのです。
私たちは、これまで国や民族やイデオロギーの違いによって絶えず対立することを煽られてきましたが、実はそれは大衆コントロールのための策略であって、本当の敵は横ではなく縦にあったということが、これでハッキリと見えたのではないでしょうか。
詰まるところ、「新世界秩序(New World Order)」の実現を悪魔で(シャレね)果たしたいアングロサクソンの一部とシオニストの狂人たちに、世界各国の首脳たちがことごとく右習えし、従っているという、まったく信じがたいようなピラミッド構造が、裏で密かに築かれていたということが、すべて明らかになったわけです。
早い話が、「陰謀論」と言われてきたことが全部本当だった。
そして、なぜそんな大掛かりな「陰謀」がこれまで可能だったかと言えば、な〜んてことはない。一つには、他者支配欲求と、地位と、金と、贅沢と、麻薬と、Sexの誘惑に転んだということと、他者を騙そうが、傷つけようが、嘘をつこうが、良心の呵責などは微塵も起きないというメンタリティの持ち主が、類が共を呼ぶ現象で集まったという、ただそれだけのことだったのです。
そして、もう一つの側面は「洗脳」。3S(Sport、Sex、Screen)を使って市民の知的向上を阻止してしまう(愚民化=自分で考える力を奪う)一方で、メディアを使って脅しと恐怖を煽り、ある意図のもとへと服従させていくのです。これが、見事にうまく機能した。でも、そこから物質的な要素をぜんぶ剥ぎ取って、そこに介在している人間たちの「心理面」だけを傍観してみてください。実にくだらないとは思えませんか?
これが、監獄惑星「地球」の長年にわたる姿だったのです。悪事に長けた牢名主が幅を利かし、飴と鞭でパシリを使って一般民衆を支配下に治める。そして彼らから労働力と上がりを搾取する。ずっとその歴史です。でも、いま言ったのと同じ視線で、支配層にいる人間たちの「魂」の成長度合いをご覧になってくださいよ。豪邸に住もうが、きらびやかな衣装を着ようが、高級料理に舌鼓を打とうが、ワガママ駄々っ子の幼稚園児のままではありませんか。
いま、自民党が大揺れになっているでしょう。特に「清和会(安倍派)」は、完全にお取り潰しのターゲットになっている。次の写真は、2023年5月16日に開かれた『清和政策研究会との懇親の集い』に集まった安倍派のお歴々です。みんな満面の笑顔で、自信満々といった感じです。それが半年後には、全員がシュ〜ンとした顔に変わっちゃった。「裏金問題」が表に出たというだけでこうまで顔が変わるのかと思ってびっくりしました。
胸を張れないようなことは、最初からしなければよいのにねぇ。でもやっちゃって、バレてから大慌てになる。これが人間なんですよね。
しかし考えてみてください。「裏金」は、別に昨日今日のことじゃないんです。ずっと前からやっていたこと。それに金額だって決して莫大というわけじゃない。どうして今ごろになってそれを騒ぎ立て、マスコミも報道するようになったのでしょう? 要は「清和会」潰し、「自民党」潰しという目的が先にあって、そのネタとして、パーティー券の「裏金問題」を出して来て、そこに当て嵌めたというだけのこと。
地検特捜部というのは、通常の警察・検察では踏み込めないような政治案件を扱う、ということに建前上はなっているのですが、実体は「特別捜査」の「捜査」の字が違う。これは「操作」の意味であって、日本の宗主国であるアメリカさんの意向にしたがって、アメリカさんに逆らう日本の政財界人たちを失脚させるための謀略機関としてある。要は、アメリカさんの下請けの工作機関です。ですから、そのためにはでっち上げだって、証拠改竄だって平気でやる。
それが、「清和会」潰し、「自民党」潰しに動いたということは、上の命令系統(アメリカさんの中枢部)に、一大変化が起きたということを物語っている。
だから、マスコミだってそれを報道できるのです。安倍が生きていた頃には、まったくもって安倍さまさまで、省庁も、警察・検察も、日銀も、経団連も、マスコミも、有識者も、みんな安倍にひれ伏していたじゃありませんか。強姦犯人の友人ジャーナリストも見逃したじゃないですか。佐川だって、モリカケだって、全部うやむやにしたじゃありませんか。それが一変した。
つまり、ウクライナ、イスラエルと来て、DS 叩きの最終章がとうとう日本にも及ぶ段になった、ということでしょう。
私が「なるほどネ」と思ったのは、国民監視の目的で作ったアメリカの「NSA(アメリカ国家安全保障局)」を、トランプさんが DS の悪事の証拠集めに逆利用したの同じように、安倍の手先となっていた検察とマスコミを逆利用して日本政府を追い詰めようとしているところ。だけど、「バカだなぁ」と思うのは、最終的には自分たちの癒着も暴かれていくことになるというのに、目の前の利害だけで動いているから、それを見通す眼がないんだネ。う〜ん。(˘・_・˘)
今や、Covid-19のパンデミックが作られたものだと分かり、「沸く珍」が恐ろしい生物兵器だったということも分かり、ウクライナ戦争はロシアの圧勝と分かり、西側の兵器はポンコツで使い物にならないということも分かり、ウクライナがナチス国家でそれを西側が支援していたという構図が分かり、ゼレンスキー政権がいかに腐敗していたかということが分かり、マイダン革命の工作によってその下地を作ったのがアメリカさんだったことが分かり、バイデン親子も深く関与していたということが分かり、腐敗したエリートたちがこぞって小児性愛者だったということも分かり、イスラエルはシオニスト国家であってユダヤ国家ではないということも分かった。
アメリカさんが、世界のお手本でも警察官でもなく、「悪の帝国」の総本山であったということも分かった。戦後の日本はその属国で、名誉白人ということで G7 のお仲間に入れていただき、それなりの地位を与えられて喜んだ人たちもいたけれど、DS のパシリとなっていいように転がされ、アジアを裏切り、ロシア・中国を敵視し、ひたすらお金を貢がされた。こうして、平成の30年間、日本はやせ細っていく一方だった。
しかし、いま言ったようなことは、日本国民の大半がいまだに知らない。
でも ───
「洗脳」が解けていくスピードが、加速度的に上昇していることに気がつきませんか? 大きなスパンで見ると、3000年間かかって起きた変化が直近の300年で起き、300年間かかって起きた変化が直近の30年で起き、30年間かかって起きた変化が直近の3年で起きている。長年にわたって秘密にされていたことの暴露が、今もの凄いスピードで進んでいるのを、あなたは驚きの眼をもって見ている筈です。
「ムーアの法則」は、何もモノ分野だけで起こっているわけではないのです。精神世界でも同様に起きている。いや、正確に言うと、霊的世界で加速度的変化が起きているから、精神世界でも加速度的変化が起き、精神世界で加速度的変化が起きているから、物質世界でも加速度的変化が起きているのです。ですから、この変化に適応できない人は、「清和会」の政治家と同じように、ある日突然、目の前の梯子がひっくり返されたのを見ることになります。
逆に言うと、霊的世界の加速度的変化を直感している人は、これから新しい、素晴らしい時代を創造していき、直感できない人は、古い価値観を抱えたまま地球圏から消えていくということになる。今度の、沸く珍死、戦場死に、もうその結果が出ています。また、それを強いた側の人間も、真相の暴露によって、これから消えていく運命となっている。まったくもってお馬鹿な話なのですが、それが、今の霊的段階にある地球人が経験しなければならないことなのです。
あなた方は「死」を恐れるので、これを言ってもなかなか理解し難いことでしょうが、「死」そのものは別段どうということもないのです。むしろ、自分を拘束していた「身体」から解放されるので、「魂」にとっては喜ばしいことです。問題は「生き方」と「死に方」です。その過程を通して、「魂」がどんな経験を積み、それによってどれだけ霊性を向上させたかが、死後、向こうへ帰ってから問われることになる。
ここで再度、物質的な要素をぜんぶ外し、衣服や身体も剥ぎ取って、地上に蠢く人間たちの「魂」の活動だけを想像して見てください。これは実際に、霊界から見える個々の人間の姿です。その中には、邪霊に取り憑かれて悪巧みをする奴や、金の亡者となってしまった奴や、Sex や麻薬の虜になった奴や、我が身の保身第一に嘘をつく奴や、無智なるがゆえに騙される奴や、戦場に駆り出されて撃ち合いの挙句に死んでしまう者たちがいます。
まさしく、幼稚園の風景そのものではありませんか? しかしそれは、園児たちの「お遊び」ですからまあ仕方がないのです。イジワルな子もいれば、心やさしい子もいる。暴力的な子もいれば、物静かな子もいる。
大切なのは、その「遊び」を通して、何を学んだかです。
2023年の暮れに『大川原化工機冤罪事件』というのが表沙汰になりました。横浜市にある大川原化工機が製造する噴霧乾燥機が、生物兵器の製造に転用が可能であるのに、経産省の許可を得ずに中国に輸出したという疑いで社長以下3名を逮捕。一年近く勾留したものの、これが冤罪だったという事件です。事件の中身や経過についてはいろいろなところに出ているのでので書きませんが、この事件は、私にとってとても興味深い点がいくつかありました。
先ずは、「生物兵器の製造に転用可能な装置」を中国に売っていたという容疑。このタイミングで、捜査の視点を「生物兵器」にフォーカスしているのです。ところがこの間、中国の武漢で、アメリカさんは実際に生物兵器を作り、ウクライナにも国防総省管轄のバイオラボをたくさん所有していました。そして日本政府はと言えば、アメリカさんの命じるままに、このウクライナを金品で支援しているのです。
二つめは、この事件の捜査と起訴を担当した検事が、法廷で大川原化工機側の弁護士から「謝罪の気持ちがあるか」と問われたときに、「当時、起訴すべきと判断したことは間違っていないと思うので、謝罪の気持ちはない」と答えた、と伝えられた一件です。これは、関係者の感情を逆撫ですることになるのでもちろん問題視されたのですが、私が興味深かったのはそこではなく、地位のある者がするときの責任逃れのパターンなのです。
アメリカさんに追随して日本もイラク戦争に加担し、あとになってイラクに大量破壊兵器が無かったということが分かったときに、国会答弁で小泉純一郎がこう言ったのです。「あのときは、それが正しい判断だったんだ」。まったく仰天します。一国を潰したんですからね。「あのときはそれが正しいと思ったんだ」ならまだ分かる。ところが「当時はそれが正しかったんだ」という論理を持ち出したら、反省する機会も謝罪する機会もそれで潰(つい)えてしまいます。
『大川原化工機冤罪事件』でさらに興味深いのは、この「謝罪の気持ちはない」と言った同じ検事が、大阪地検特捜部が2010年に起こした村木厚子さんの冤罪事件では、冤罪を晴らすための内部告発を行なった人だったというのです。ですから、片方では「冤罪」を晴らすために自分のクビまで掛けて組織と闘い、もう片方では「冤罪」を作っておきながらそれを「謝らない」と言うのです。
他人を謝らせることは可だけれども、自分が謝るのは不可なんですね。この人間心理というものは非常に興味深い。
タッカー・カールソンさんが、「沸く珍」を打った医者たちがなぜ謝らないのか、という問題を提起して「事が大きくなるほど、人は謝れなくなる」と言っていたのですが、これは違うと思います。事が大きかろうが小さかろうが、謝らない人は謝りません。ただ、事が大きくなった場合には、責任転嫁する対象物が増えるので、より誤魔化しやすくなるというだけの話です。「謝る」などという発想を、そもそも持たない人たちがいるのです。
こういう人たちは、次のパターンもよく使う。「自分はそんなつもりで言ったのではなかったが、もしも『誤解』を与えていたのだとしたら謝る」。と相手側の「誤解」に責任を転嫁してしまって、自分からは結局は謝らないのです。
これは、うっかり謝ったりすると、自分をこれまで支えてきた「杖」がそこでポッキリと折れてしまうような感じがするためです。特に、社会的エリートになったり官僚制度の中で生きて来たような人は、「杖」の太さが普通人の何倍にも膨らんでいる。これは宗教人も同じこと。梯子段の階層を上るたびに、それを支える「杖」も太くなっていくのです。ですから、それが折れるイメージは、その人に大変な恐怖をもたらすのです。
しかし、そんな「杖」など、所詮は「幻想」の上に築いてきた「杖」に過ぎません。死んだ後もあの世に携えていけるわけじゃない。ですから、「幻想」の「杖」にしがみ続けていればいるほど、老後や死が怖くなってしまいます。むしろ、「幻想」の「杖」などは早々に折ってしまったほうが、その奥にある、本当の「杖」の存在と、その確証に近づけるのですが‥‥。
けれども、その勇気を持つことよりも、目の前にある恐怖心を一時回避することのほうが優先してしまうのですね。ああ、もったいない。しかし、霊的観点から言えばこれは完全に落第です。0点どころの話じゃない、マイナス60点。なぜなら、せっかくの反省のチャンスにもきちんと向き合わず、スルーしてしまい、その分、カルマを積んだからです。うまく逃げおおせれば、この世では安泰と思うかも知れません。がしかし、死んでからはそうはいかないんですぞ。
こういう人は、あっちへ行くと、自分が迷惑を掛けた人たちの顔が次から次へと浮かんで来て自分を責め続けるのを、その後際限なく見続けることになるのです。なにしろ、本心を覆い隠してくれていた身体はもうありません。そこは意識だけの世界ですから、隠していた心がぜんぶ丸裸になって、その意識状態で固定されてしまう。傷つけられた者たちの恨みつらみが、そこを束になって襲いかかることになります。反省なく死んだ人に、情状酌量はまったくありません。
因果応報というのは、冷徹な「法則」なのです。ですから「情」は介在しません。宇宙には、キリスト教が言うような「罪」や「罰」はありません。死後の審判もありません。閻魔大王もおりません。しかし、自分が為したことは自分に還るという、絶対的な法則がある。どんな知的存在であろうとも、その法則から逃れることは出来ません。しかしあなた方は、その裏にあるメカニズムを知りません。
前回の「波動の法則」の中で、この*宇宙の中に認められる物質は、わずか5%に過ぎないということを言いました。しかも、その内の4.6%は銀河間ガスということで、星にまでなった物質はたった0.3%しかないのです。ここで、次のような映像を想像してみてください。
*厳密に言うと、(想像される)この宇宙。実際はどうなのかは分からないし、「この」以外の宇宙も分からない。
子供用のビニールプールを思い浮かべて、そこに水をいっぱいに張ります。その中に、全体量の4.6%分のゼリーを溶かし入れ、さらに0.3%分の塵を撒きます。塵はもうどこに行ったのかも分からないようなわずかな量ですが、これが星の上にある物質で、人間はその中に含まれます。ベースとなった水は、物質化されていない振動数のエネルギー*に当たり、この中には、あらゆる意識と生命力が複雑に絡み合いながら溶け込んでいます。
*西洋ではエーテルと言い、インドではプラーナといい、中国では気という。
さて、プールの縁をトントンと叩いてみましょう。すると、叩いたところから波が広がっていき、端にぶつかり返ってきます。続けていると、行く波と返る波がぶつかってうねりが大きくなりますが、叩くのをやめれば波はしだいに収まり、やがては平衡状態に落ち着きます。このように、宇宙というものは、基本的に、つねに「平衡」を保とうとする性質を持っているのです。これが、世に「中庸」とか「中道」と言われる性質です。
そうした前提条件の中で、人間が活動をすると宇宙はどうなるでしょうか? どのような活動にも、それをする、したい、しようという「意識」が必ず働いています。すると、「意識」の大海であるこのプールの中の水が、その「波動」で揺れることになるのです。この揺れは、同調や共感を集めれば、それだけ共鳴して大きくなります。
さてここで重要なのは、宇宙には「平衡」を保とうとする基本的性質があるので、そのときに、それと同等の反作用が生じるのです。揺れを元に戻そうとする力です。これが、「因果応報」というものの正体なのです。つまり「因果応報」は、自分が何かを為したその瞬間に、すでにその反作用として起きていることなのです。
ところが、人間にはそのようには思えません。その理由は、「意識」の大海で起きた揺れが、物資界にも影響を与えるようになるまでには時間が掛かるからです。
海辺に行くと、砂浜に、外国から旅をしてきて漂着したゴミを見つけることがあるでしょう。長い長い漂流期間を経て、やっとたどり着いたものです。海の中に入って、海面に浮いているゴミを観察すると、波がやって来てもゴミはほとんど動かずにその場で上下運動をしているだけだということに気がつきます。つまり、波の影響が直ちにゴミに反映するわけではありません。これはプールに浮かんだ塵とて同様です。
今のは喩えとして表現しましたが、今度は前回の「波動の法則」で示した原子モデルの図を使って説明しましょう。
物質界は、様々な原子の集積によって成り立っていますが、堅牢に見えて、実はその内部はスカスカです。それを、この段の冒頭で、プールの中の水と塵の関係に置き換えて説明したわけです。
あなた方は、ご自分を物質的存在だと無条件に捉えていますが、実はそうではなく、「意識」の大海と常時連結している、個別化した「意識」の塊(=魂*)なのです。「自分」だと思っている身体は、「魂」に付随している「塵」に過ぎません。実際には、身体を貫通して、宇宙のプラーナのエネルギーが常時往来しているのです。ところが、その流れに対して、「塵」はあまりにも微量でしかないものですから、わずかな抵抗しか生じません。
*塊は土くれで出来ているけれど、それがもの云うと魂になるというのは面白いですね。
このため、「意識」の大海、つまり「霊界」の場では、直ちに起きている反作用が、物質界にまで降りて来るためには相当な年月が掛かるのです。若いときから継続してきた思考パターンや行動パターンに対する「反作用」が具体化するのが、人生の終盤であったり、多くが来世にまで持ち越しになったりしてしまうのはそのためです。結果として、人間は、とことん追い詰められない限りは、自分の過ちというものになかなか気づけません。
しかし「霊界」においては、逐一、預金通帳にプラスとマイナスとが記録されています。そして、負債が溜まりに溜まったときに、清算のために一気にそれが流れ出る。それを、前回「ししおどし」の喩えを使って説明しました。ですから、本当は「因果応報」というものは瞬間々々でつねに起きているのです。が、人間は気づけないまま、ついつい負債を溜め込んでしまう。もちろん逆もあります。意識しないまま、でも貯金を少しずつ増やしていく善人もいる。
さあ、これで宇宙には「罪」も「罰」もない、審判もない、閻魔大王もいない、と言ったことの意味がお解りでしょう。審判を与えているのは、自分自身の、その時々の「自由意志」なのです。「罪」と「罰」という言葉を敢えて使えば、自分が「罪」を作り、自分が自分に「罰」を与えるのです。結局これは、誰も逃れられない、厳格な「宇宙の法則」の手のひらの上に、全員が乗っているということなのです。そして、この法則に情状酌量はありません。
さてここで、「ムーアの法則」に絡めて、霊的世界でいま加速度的変化が起きているという話をしたことを思い出してください。それが精神世界にも落ち、物質世界にも落ちてきているのです。そこで、安倍派のお取り潰しという動きも出てきている。ちょっと前ならば、不祥事などみんなスルーですよ。そして来世へ持ち越しだった。でも、自分が生きているうちに、議員生活をしているうちに、反作用が返ってきたわけです。
さて、そこでです。これは実は大変なギフトなのですが、果たして、本人たちがそのことに気づけるかどうか。反省して、自分の過ちを認められるかどうか。傷つけたり、騙した人たちにちゃんと謝ることができるのかどうか。
地球圏の外郭の波動が上がって(要は、地球がアセンションに突入して)、ずっと「闇」に暮らしていたかった人たちが、まるで陽だまりに置いた石を急にめくったときに右往左往する、ダンゴムシのような騒ぎになっています。
隠し事が根こそぎ暴かれて、そりゃあ辛いでしょう。
眩しくて、眼も痛いでしょう。
でもね。それはイジメるためでも、懲らしめるためでもないんですよ。今からだって、光の中に飛び込めるのです。光に抱いてもらうことだって出来るんです。光は決して拒みません。誰にも、いつでも、同じように照らし続けているんです。ただ、それに気づけなかっただけ。「闇」の誘惑のほうが楽しいし、ステキだと思ってしまっただけ。だって光は、あなたをふんわり温めるだけですもの。
どうぞお好きな道を行きなさい。わたしにはそれしか言えない。でも、神があなたを見捨てることは絶対にない。なぜって、神にとってはみな愛しいわが子なのですから。
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霊的な主題を扱った書物に接すると、「バイブレーション」や「波動」という単語をよく眼にします。会話の中でも「波動」が使われることは少なくありません。けれどもどれほどの人が、「波動」という言葉が意味するものを心底より理解しているでしょうか? 現状は、ほとんどの人たちが、単に「不思議パワー」ていどの意味でその言葉を使っているのではないでしょうか。
私たちが眼にする物事には、すべて「因果律」というものが存在します。「波動」がもたらす現象にも、その原因と、そうなるメカニズムが背後に存在しています。ですから、結果の現象面だけを見てあれこれ言ったところであまり意味はなく、メカニズムをちゃんと理解した上で、原因を探るという視点を持つことが大切です。そうでないと、「波動」も単にその場限りのオカルト話に堕してしまい、霊性の向上にはなかなか繋がっていきません。
そこで、「波動」という言葉の背景にあるロジックを、これまで多方面にわたって科学的に追いかけて来ました。それは、「波動」は単なる「不思議パワー」などではないんだよ、もっと根源的なロジカルなものなんだよ、ということを理解していただきたいがためです。さて、今回は最終回ということで、前半にそのまとめを書いてこれをさらに解説し、後半では現象面に見られる様相を、法則との関連から見ていくことにいたしましょう。
ということで、先ずはこれまでの大まとめを箇条書きにしてみます。
「波動」に関する宇宙の基本原理
?「波動」とは、振動するエネルギーのこと。
?「波動」は、全宇宙を形づくる最も基本的な単一の要素である。
?全宇宙のあらゆるものは、この「波動」がただ振動数を変えることによって出来上がっている。
?したがって、全宇宙のあらゆるものは、元の一つに還元される。
?この一つが、なぜ、どのように生じたのか、また在るのかは、永遠の謎。
先ず、?と?で述べていることは、宇宙を語る上での基本中の基本だと言えます。これは、古代より伝えられて来た不変の「真理」であり、時代によって言葉は多少違うかも知れませんが、内容的には一貫して同じことが伝えられて来ました。時代時代で言い方に違いがあるのは、そのときの人々の理解度に合わせて語る必要があったためで、「真理」そのものはいつの時代にあっても不変です。だからこそ「真理」と言えるのです。
さて、ここで重要なのは、それが〈唯一〉の要素だという点です。
現代物理学においては、物質の最も基本的な構成要素は「素粒子(Elementary particle)」ということになっています。そして全17種の「素粒子」からなる「標準モデル」というものが、20世紀の終わりまでに体系化されました。この理論の奥ゆかしいところは、「素粒子」を、「物質の基本要素」と言っている点です。決して「宇宙を構成する基本要素」とは言っていない。ですから、その意味において間違いではありません。
しかし、私から見て興味深いのは、この17種の中に、質量を持たない素粒子(光子、グルーオン)と、粒子とみなしている波動(光子)が含まれていることです。粒子なのに質量がない? 粒子だと確認されたわけではないのに、粒子とみなす? 常識的に考えたらおかしいではありませんか。いったいこれは、どういうことなのでしょうか? そこに私は、物質化と非物質化という相互作用の境界面(Interface)を見るのです。
一方で、現代物理学は、全宇宙に占める「物質」の割合はたった5%に過ぎないということを認めています。それ以外の95%は、「なんだかよく分からない物質(Dark Matter)」が26%、「なんだかよく分からないエネルギー(Dark Energy)」が69%を占める。ということが、観測と計算結果から導き出されているのです。
ところが、物理学者というのは変わった人たちばかりが揃っていて、95%のほうを研究してみればよいものを、なぜか5%にばかりこだわり続けています。
しかも、この「標準モデル」理論には、素人的感覚から言って誰もがおかしいと思う穴があるように思うのです。物質の最終的な素が、言われるように17種の「素粒子」に特定できたとして、ではなぜその17種が存在するのか?、それはどこからどのようにして生じたのか?、またそれを生じさせたもの(原因)は何なのか?、については何も教えてはくれないということです。
それはちょうど「ビッグバン」理論に対する疑問と同じで、仮にそれが正しいとして、では「ビッグバン」の前はどうだったのか?、どうしてある日ある時「ビッグバン」が起こったのか?、それを起こさせたものとは何なのか?、と訊いてみても一向に要領を得た答えは返って来ません。それどころか、そういう疑問を呈すること自体がタブーというか、バカ扱いされてしまう始末なのです。
村山斉さんという東大の物理学者がいて、NHKで『最後の授業』というのをやっておられたので見てみると、冒頭でいきなり「この宇宙は、およそ138億年前にビッグバンによって始まったと言われています。」と仰ったのを聞いて、ひっくり返りそうになりました。「えっ、〈言われています〉って、何なのよ?」「それを調べるのが、そもそも物理学者の役割じゃないの?」と。ちなみに村山斉さんのこと、私は嫌いじゃありません。
一事が万事その調子で、学会で一つの理論が打ち立てられると、学者たちはみなそれを鸚鵡返しのように繰り返すだけで、いつの間にか定説化して行ってしまうのです。インターネットをいくら調べても、「弩知ろう人」の私が思いつくような素朴な疑問に、「弩知ろう人」にも解るように答えてくれる科学者は皆無です。みな、業界用語を羅列して、簡単な話をわざわざ難しく話し、最後は複雑な数式を並べて煙(けむ)に巻いてしまう。困ったものです。
ところが、古代より繰り返し述べられてきた「真理」は、これらとはまったく違う理論を私たちに伝えてくれています。曰く、宇宙には始まりも終わりもない。ただ永遠の今があるだけ。我々の住む物質世界は、物理と時間とによって制限された世界に過ぎず、その奥にはつねに霊的世界が重なって存在している。そして、肉体の死後も「魂」は生き続け、霊的成長を目指して輪廻転生を繰り返すのだと。
近代物理学は、「物」の「理」からアプローチしていき、宇宙の95%は実は「物質」ではないもので構成されている、という認識にまでは到達しました。また、物質の最小単位を追い続けていった結果、「素粒子」の観測にまで行きつき、さらにその素には振動するエネルギー(超ひも)があるのではないかという仮説を打ち立てるところまで来ました。
ここまで来れば、次はトンネル工事をするときのように、「物理」側アプローチと「宇宙の真理」側アプローチとの開通式を図る段階に来たのではないでしょうか。
■宇宙を形づくっている素はたった一つの振動するエネルギー
さて、霊界を含めた全宇宙が、界層構造によって成り立っているということは、これもまた古代より指摘されて来たことです。ただその分類については様々な見解があり、また名称もバラバラで統一がされていないという問題点がありました。本稿では、なぜそうなってしまうのかという理由を説明した上で、「オクターブの法則」を「振動数」の幅によって特定するという仮説を提示しました。
「オクターブの法則」を説いている書物はそれほど多くありませんが、7界層の分類がチャクラとの関係で説明しやすいことと、ロバート・モンローの研究成果ともよく合致することからこれを採用しました。また、従来は「波長*」という言葉が一般にはよく使われていたのですが、この言葉は使われ方として曖昧さを有しているために、より科学的に聞こえ、かつ英語の?Vibration?の訳語でもある「振動数」という言葉を主に用いることにしたのです。
*「波長」と「振動数」は反比例の関係になっていて、同じことを別の視点から言っているだけ。
このような前提の中で、?として、宇宙の森羅万象が、たった一つの素である「振動するエネルギー」、つまり「波動」がただ振動数を変えることによって出来上がっているということを示しました。言い換えると、このことは〈宇宙のすべては「波動」である〉という言い方が出来るのです。実際にそう語っている人も多くおられ、それは間違いではないのですが、ただ残念なことに理論が伴っていないために、人々には眉唾の印象しか与えていません。
〈宇宙のすべては「波動」である〉と、それだけをいきなり言っても、一般の人には何のことやらさっぱりわからないことでしょう。しかも、現代物理学という権威は、そんなことを公式見解にしていないわけですから、それを言った途端、頭のおかしいやつということになってしまいます。この「波動」という言葉に纏わりついてしまった胡散臭さを、本稿で「科学」の面からきちんと説明することによって、何とか正常なものに位置づけたいと思っているのです。
さてここで、たった一つの「振動するエネルギー体*」から森羅万象が生じる、という基本のメカニズムに付随した、肝となる理論を述べておきます。これは非常に重要なポイントです。このことがちゃんと理解できれば、あなたがこれまでに感じて来た多くの疑問のいくつかが、たぶん解消されることになるでしょう。
*「振動するエネルギー」と言ったり「振動するエネルギー体」と言ったりしていますが、どちらも同じ意味です。ただ、ニュアンス的に「波動」すべてを指すときには「振動するエネルギー」と記述し、どちらかと言えば個別化したものを指すときには「振動するエネルギー体」と記述しています。また後者は、よく知られた言葉としては「霊(Spirit)」に相当します。
一つの素から宇宙のすべてが生じるという作用の過程については、「三角形の法則」のところで述べました。この初期の段階で、もともとは一つであった「振動するエネルギー体」が、性質の異なる3つの要素に大きく枝分かれしていく*のです。
一つめは物質化していく要素です。これが非物質と物質との境界面を超えると「素粒子」へと変化していくのです。
二つめは意識的存在となる要素です。これが振動数を下げて個別の「魂」を形成していきます。
そして三つめは、誕生したこれら森羅万象を生かすための「生命力(Vital Life Force)」へと変わります。
しかしこの三つの要素は、分かれたあとも「三位一体」を形成しているのです。
*枝分かれについてのもっと詳しい説明はこちらに掲載 ▶︎
■大元は一つ、だから全部が繋がっている
私たちが住む物質世界は、霊界側から見れば、最低限にまで振動数を下げていったさらにその先の領域に当たります。いわば霊界の最辺境地です。しかしそうした中にあっても、以上の3つの要素が適宜配分されて、この極めて多様で複雑な世界を形づくっているのです。
地上に生きる私たちの眼には、この世界の個別の物がすべてバラバラに存在しているように見えます。けれども、元を辿れば、出自は一つであり、いつでも、またどこを見ても「三位一体」の中にあるのです。
ですから、この宇宙がどれほど多様で複雑な世界に見えていても、すべての意識は根っこでは繋がっていて、宇宙のすべてが一つの生命活動を営んでいると言えるのです。あなた方の眼に映る実に多様な無限の世界は、すべてが根源である一者の表現なのであり、あなたという「個」もまた表現の一部分なのです。
これも、現代物理学の謎というか、まるでタブーのようになっている素朴な疑問ですが、〈原子モデルの隙間には何があるのか?〉ということの解答を、さていままでにあなたはお聞きになったことがあるでしょうか? インターネットをいくら検索しても、せいぜい「真空がある」という解答ていどしか出てきません。では「真空」とは何か?というと、もうそこでお手上げ状態なのです。誰も説明できないし、しようともしません。
試しに水素原子の隙間がどれくらいのものかを探ろうとネットを検索してみたのですが、答えが見つかりません。見つからないのは、誰もそんなことを考えたことがないということでしょうか? 仕方なしに自分で計算してみると、水素原子1個の中の隙間は、原子核に対してなんと1000兆倍*もの大きさがあると解りました。原子核の1000兆倍の隙間ですよ。この隙間には、いったい何があるのでしょうか?
*計算、合ってるかしら (・–・;)ゞ
そこは、結局のところ、物質化されていないエネルギーの通り道となっているのです。もっと正確に言えば、非物質的エネルギーの大海原の中に、ごく稀にチリのようなものが漂っているという感じです。この大海原を仕切る壁のようなものはどこにもありません。全部が大きな一つです。よって、物質と、意識と、生命力は根っこのところで全部つながり、互いに通じ合っているというわけです。
ただし、物質になるまで振動数を下げたエネルギーは、質量(=動きにくさ)を持つことになるので、三つのつながりに対する反応は鈍くなってしまいます。
「サイコキネシス(Psychokinesis)」という霊能があり、思念で物質を動かせる人がいるのですが、もちろん普通の人にはそんな芸当はできません。けれども、古代の聖人たちはもっと凄くて、思念によって、物質化と非物質化を自由に操ることができました。エジプトのピラミッドやマチュピチュの石組みはそのようして造られたのです。
以上のような成り立ちが理解できるならば、すべてのものが一者に還元される、という?で示した理由もすんなりと理解できるのではないでしょうか。また、物質世界には霊的世界が常時重なった姿で存在していますので、霊的存在でもある人間が、そちら側への意識を強めていけば(それには訓練を要する)、「すべては繋がっている」ということも、実感としてよく解っていくようになります。
以上が「波動の法則」についてのまとめとその解説です。
?を残していますが、これについては、次の現象面に見られる「作用」の解説を通じて述べることにいたします。
■現象面で見せる「波動」の作用は実にシンプル
ところで、この連載を始めるに当たっては冒頭で次のように述べました。〈「波動の法則」の「作用」という面だけに関して言えば、実にシンプルなものに過ぎない。けれども、それと背景にある「理論」とが合わさって説かれたことはない〉と。そこで、先ずは、「作用」の裏側にある「理論」について語って来たわけです。論理的思考に慣れていない人には難しいとの印象を与えたかも知れませんが、大事な点ですので、頑張って少しでも理解するように努めてください。
なぜかと言いますと、「作用」面の働き自体は非常にシンプルですし、「宇宙のすべては波動」という言い方も別に間違ってはいないどころか、正しいことですので、そこだけを切り取って悪用する人たちというのが後を絶たないのです。「波動」が何かをよく解ってはいないのに、「波動」という言葉を、まるで魔法のスパイスのように使っています。
しかし、背景にある理屈をよく学んでおけば、こうした詐欺に引っ掛かることは無くなるでしょうし、「波動」理論を自分の霊的向上のために正しく活用することも出来ます。次には、この観点から、話を進めて参りましょう。
「波動の法則」の「作用」という面だけに注目すれば、話は非常に簡単です。要は「振動」ですので、音楽シーンで見られる現象を類推して当てはめてみればよいのです。すなわち、同調、共鳴、協和、不協和といった現象が、全宇宙のあらゆる場面で起きているということです。ただし、音楽と一つだけ大きく違うところがあります。それは、おいそれとは高音を出せないし、また同調することも出来ないということ。これについては、後ほど詳しく述べます。
■「引き寄せの法則」?
最近、ある人と話をしていて、その人の口から「引き寄せの法則」という言葉が何度も出てくるのを耳にし、驚かされました。そうか、「引き寄せの法則」という言葉がもはやスタンダードになってしまったのか、と知りちょっとガッカリしました。この言葉も、典型的な引っ掛けです。8割、9割は正しいことを言って、残りの2割、1割に「心」をくすぐる嘘を混ぜ込んで全体をうっちゃってしまうのです。
同じ振動数を持つものが共鳴するということは確かです。ですから、人間が日々行動する中で、自分が発している振動数に近いものを「引き寄せ」るという現象は実際に起こりますし、瞬間瞬間においてそれが頻繁に起きています。しかし、逆から見れば、自分が「引き寄せ」たと思っている対象物に、実は自分のほうが「引き寄せ」られたということでもあるのです。先ずその視点が、この言葉からはスッポリと抜け落ちている。
ここで重要なのは、「引き寄せ」と言っている際の「動機」です。同調、共鳴という現象そのものは時々刻々と起きています。しかし「引き寄せ」と言ったときには、自分が欲しいと思うものを望み通りに「引き寄せ」られるもの、と解釈しているのではないでしょうか? そういうことが起きないとは申しません。首尾よくそれが実現することもあるでしょう。けれども、それがどんな「動機」から発せられたかを、天は絶対に見逃しはしません。
なぜなら、それこそが真の「波動の法則」の支配下において観察されていることだからです。先ほども述べたように、大海原は一つで、全部の意識はつながっているためです。一者に還元されるからです。嘘やゴマカシや偽善は天には通用しません。どんなエゴもすっかりお見通しです。しかし、このようなことを人々は知りません。
電車に乗ると、今やほとんどの人が、眼を皿のようにしてスマホの画面に見入っています。その人は、いま見ている画面を自分が選んでいると思っています。が、事実は逆で、その画面が発している「波動」に自分のほうが「引き寄せ」られているのです。しかし、そのことにまったく気づいていません。眼が釘づけになったということは、その時点でそこに「同調」が生じたということです。その瞬間、巣魔捕の餌食になってしまう。
今の検索エンジンのアルゴリズムは、過去と直前の閲覧履歴を元にして、その人が次に興味を抱くであろうものを、次から次へとプッシュして来ます。これに安易に乗っかっていると、すぐさま巣魔捕に呑み込まれ、「心」はどんどん荒れていきます。なぜなら、人間には向上心だけではなく、もっと強い衝動の向下心があるからです。そして、向下心に訴えたもののほうがより注目を浴び、アクセス数も増えるしお金も稼げる。そのため、放っておくとどんどん下り方向へと向かってしまうのです。
以前にも、山登りの喩えを使ってお話したことがあるのですが、自己の「波動」を上げていくのは容易ではありません。しかし下っていくのにはさして労力はいらない。こうしたことは、巣魔捕に限らず、日常生活のあらゆる場面で起きています。宇宙のすべてが「波動」ですから、物、場所、自然、人、集団、言葉、文章、写真、映像、等々あらゆるところからは「波動」が出ていて、知らず知らずのうちにあなたの心身に強い影響を与えているのです。
特に、人間が関わったもの、人間の思念が入り込んだものは、自然界が生み出しているものよりも数十倍も強い影響をあなたに与えます。なぜかと言いますと、自然界が表出する波動は、穏やかでさりげないレベルに、通常は*調整されているからです。そうでないと、人間がその中で安心して暮らしていくことが出来ませんから。
*ときに自然界が猛威を振るうことがあるのは、ししおどしが跳ねる瞬間のように、人間の悪業が溜まりに溜まって、その反作用が限界値を超えて一挙に溢れ出したときなのです。
■「言霊(ことだま)」の誤解
「言霊(ことだま)」という言葉を、多分どこかでお聞きになったことがあるでしょう。これには誤解があり、多くの人が「言葉そのものに霊力が宿っている」と解釈しています。が、そうではありません。言葉そのものは単に符号です。「概念」に付けられたレッテルに過ぎません。人が「霊力」だと思っているものは、言葉にリンクした「概念」に同調する意識エネルギーが共鳴現象を起こしたとき、その集合意識が発散するパワーなのです。
例えば、ちょっと前まで私は「安倍」という文字を書けませんでした。その言葉を書こうとすると、嘘八百や、金の亡者や、チルドレンや、憂欲や、統一教会や、ジャパン・ハンドラーズなどに巣喰う人間たちの集合意識が、まるで膨らんだ綿飴のようにたっぷりとくっついてくる。この強烈なエゴの「波動」があまりにも不快で、吐き気を催すほどでした。しかし、綿飴がプシューッと萎んでしまったので、今は書けるようになったというわけです。
■「波動」を読む
普通の人は、人間が出している、こうした「思念」の正邪、善悪をうまく見分けられません。そのいちばんの理由は、「言葉」を聴いてしまって、裏にある「波動」を読むということをしていないためです。そのせいで「嘘」にコロッと騙されてしまう。けれども、「波動」を読めなくても、「波動」の影響というものは、善きにつけ悪しきにつけ確実に受けているのです。
邪悪な霊に操られた人たちは、人を騙すのが上手です。射倖心を煽ったり、闘争心をけしかけたり、恐怖心を抱かせたりして、先ずは準備運動段階で「波動」を充分に下げてやる。そうなったところで、そのレベルに合致した「嘘」を吹き込んでやると、「嘘」への同調が簡単に起きてしまうのです。
あなた方は、他人の語っている言葉を、嘘か本当か?という眼で見て、ものを判断しようとします。しかしこれでは真偽を見抜けません。なぜなら、あなた方の中にはそもそも完璧な人間などは一人もおらず、全員の眼が曇っているからです。ですから、その眼で見て相手を判断しようとしたら間違います。ましてや、レッテルなど貼ったら、その時点でジ・エンド。同意するにせよ、反発するにせよ、分断の罠にすぐに引っ掛かってしまいます。
そうではなくて、自分のほうを見ればよいのです。他者の発言に対して、先ず、自分は協和の念を抱いたのか、それとも不協和の気持ちになったのか。次に、そうなった自分の「波動」は、そのとき果たして高い状態にあったのか。それをチェックしてみればいい。最初に繰り出される「波動」低下作戦の誘いには、すぐにパッとは喰いつかず、自分の「波動」を高いままにしていれば、音階にズレが生じるので不協和となり、自然とそこから離れたくなってきます。
また、自分だけを見ていれば、騙されたと思うことも無くなります。「選択」行動は、つねに自分の判断なのだということが自覚できますし、もしも判断違いが生じたときには、自分のどこに原因があったかを振り返ることによって、「心グセ」に気づき、それを修正していくことができるようになるのです。このようにして、正邪、善悪の判断能力がしだいに向上していきます。
ということで、みなさんには「引き寄せの法則」の代わりに、「調和の法則」という言葉を使ってほしいのです。「調和」に動機を置けば、自ずと「調和」に合致したものとの縁が生じます。自分のほうから温かな「波動」を出すことを心がけていれば、温かなものが返ってきます。それに、つねに高い「波動」を出すことを心がけていれば、邪霊も近寄っては来られません。それもまた「波動の法則」のゆえなのです。
■「波動の法則」からしてあり得ないこと
さて次に、巷でよく耳にすることがらで、「波動の法則」の観点から言って、これは絶対に〈あり得ない〉ということを列挙しておきましょう。
世代が変わっても、人々の無智につけこんで、こうした騙しを行う輩というのは引きも切りません。以下を参考にして、どうぞ用心なさってください。
先に〈おいそれとは高音が出せない〉という言い方で触れましたが、「霊界」というところは、地上世界とは違って、純然たる界層構造より成り立っています。喩えて言えば、タワーマンションです。死後、このタワマンのどの階の住人になるかは、その「魂」のその時点での「霊性」の高さによって決まります。つまり、「霊界」の界層は、「波動」の高さ(振動数の高さ)によって、明確に線引きされているのです。
しかも、このタワマンにはエレベーターがありません。階段しかない。上の階を目指すには、一段一段を自分の足で昇っていくしかないのです。ここが、地上世界とは大いに違うところで、地上では、霊性の高い人も低い人もみな一緒になって混じり合って生活しています。そのような中でも、「調和の法則」によって、似た者同士のグループは自然と出来てしまうのですが、それでも霊性に差のある者同士が接触する機会というものは多分に残っています。
ところが、霊界では霊格に2段階*以上の差があった場合にはもう交わることができません。基本的に、自分がいま所属している界層内と、接している上下界層としか交流ができないのです。そのため、?の〈この一つが、なぜ、どのように生じたのか、また在るのかは、永遠の謎〉ということが起きてしまうのです。
*ここで言う「段階」は、「霊性密度」の一界層をさらに細かく分けたもの。
つまり、天使クラスといえども神々クラスのことは朧げにしか知らず、神々クラスも、創造神、絶対神がどういうものかを知らない*のです。それを知ることは論理的に不可能なのです。
*「それは泳ぎを覚えるのに似ている。 泳げなければ水に入ることはできないし、泳ぐには水に入らないでは不可能である。」 K・K・シャー
このように、上位方向については、その界層に到達してみなければ、それがどんな心境や感覚をもたらすのかは解りません。しかし下位方向については、ある程度は経験済みですから理解できますし、例外的に降りていく場合がある。それは、上位の界層の「霊(Spirit)*」が任務を持って下りるときで、この任務には大きく二つがあります。一つは霊界にいる後進の指導をする場合、もう一つは最下層に沈んだままの「魂」を救済する場合です。
*界層の上位にいくほど「魂」の殻が消え、純然たる「霊(Spirit)」に変わっていくので、ここでは「霊(Spirit)」とした。
ところが、後者が行われるということは滅多にありません。それは、潜水夫が一気に潜れないのと同じで、下層界に行くためには、自己の「波動」をその階層の振動数に少しずつ適応させていかなければならないからです。これは、上位にいる存在にとっては、深海に潜っていくような危険な大冒険となります。
そのミッションに従事する「魂」も、本音は上を目指したいのです。が、敢えてレスキューに赴くのは、地上と同じく、とても放ってはおけないと考える、利他精神に燃える「魂」がいるためです。
しかし、下層に降りるにしたがって邪霊の支配力がどんどん強くなっていく。するとレスキューも、しだいに邪霊との「闘い」の様相を呈していくのです。実際には「闘い」ではないのですが、邪霊のほうが「闘い」を仕掛けてくるのです。よいですか、ここを間違ってはなりません。闘ったら、相手側の土俵に乗ってしまいます。これは、地上においてもまったく同じことです。誘いに乗ってしまったら、同じ「波動」レベルに堕ちてしまう。
しかし、霊界でのレスキュー活動はなかなか捗りません。なぜかと言いますと、その領域に捕まった「魂」は、そもそも邪霊が出す「波動」に惹かれてそうなったわけですから、せっかくレスキューに行ったしても、聞く耳をまるで持たないのです。「光」を嫌って怖がり、「闇」にずっと居続けようとするのです。いまの地上世界を見ても、事情はまったく同じだということを納得されるでしょう。
このように、霊界の最下層に行ってしまったり、浮遊霊となって地上をうろついている「魂」には、光の側からの言葉は届きません。そのため、こうした「魂」を救うには、霊性のレベルが比較的近い地上の人間の、祈りや説得や叱責などの働きかけが必要となって来るのです。上位の存在は、それを強く求めています。
さて、このような事情があるということを知っていただいた上で、いまもよくある「引っ掛け」の例を以下に指摘しておきましょう。個別例は申しません。がしかし「波動の法則」のセオリーからよく吟味してみれば、自ずと答えは導き出せるはずです。
◼︎みながよく知っている歴史上の著名人を引き合いに出し、その人物が、地上に「霊言」を下すといったようなことはあり得ない。
→名前は単なる符号です。霊界に行ったら霊界のニックネームがあります。その「魂」がもし高位の存在であるとしたら、そうなるまでにいくつもの人生を歩んで来たわけで、ある特定の時代の人物の名だけを取り上げて口にするということはありません。その「魂」にとっては、全部の人生のトータルが自己なのですから。また、高級霊になるほど個体性というものは失われていきます。したがって、歴史上の著名人の名を出して来るのは、名前の「権威」によって操作しようと目論む「引っ掛け」です。
→また、大天使クラスの存在ともなれば、超古代に生きていた「魂」であったわけで、我々がそれを知る由はありません。そもそも大天使クラスの存在が地上に再び降りる、あるいは地上に直接コンタクトして来るというようなことはありません。なぜなら「波動」の高さが、あまりにも違い過ぎるからです。もしコンタクトして来るとすれば、何段階かのリレー形式で下りて来ることはままあります。通訳を介するという感じです。
→さらに言えば、高位の存在は、地上の人間が「権威」に弱く「権威」で動くということを知っています。ですから、それを知る存在が、「権威」を利用することなどあり得ません。いったい何のために、そんなものを利用する必要があるのでしょうか? 高位の存在たちが願っていることを想い浮かべれば、自ずと解るでしょうに。「権威」による説得と、「真理」への気づきは、相容れません。
→それと関連して、よく「自分は○○の生まれ変わりだ」というようなことを公言する霊能者の方がいらっしゃいます。そういうことがないとは申しません。でも、だからと言って、それがどうしたというのでしょうか? 重要なのは、その人の「今の霊性」なのではないでしょうか。
◼︎高位の存在が、人々を脅したり、恐怖心を引き起こしたりする予言を下すことはあり得ない。
→もし、そういうことがあるとしたら、それは何のためでしょうか? 高位の存在は、すべてはつながっていて、元は一つであるということをすでに体得しています。また、人々の「波動」の動きも逐一モニタリングしています。それなのに、脅したり、恐怖心を引き起こしたりするとしたら、自分で自分にそれを課しているということになってしまいます。いったい何のために? あまりにも馬鹿馬鹿しくてお話しになりません。
→ただし、「こうなるよ」という話を、受け手側が「恐怖」と捉えることはあります。たとえば「どこかの政党が潰れるよ」と言ったとして、ある人にとっては、それはバンザーイかも知れませんが、その政党に所属していた人やぶら下がっていた人たちにとっては、「恐怖」を抱くということになるかも知れません。
◼︎前記に関連して、予言が成就する日時を特定するようなことはあり得ない。
→先ず「予言」というものについてですが、原則として、高位の存在が「予言」を頻繁に下すということはありません。基本的にはしない。なぜかと言いますと、「予言」をしたのでは、地球学校でわざわざ生きる学びにはならないからです。これと同じ理由で、個人にも、未来に関する情報が与えられることはありません(ヒントていどはままある)。もしそれをしたとしたら、本当の「愛」がないということになってしまいます。
→ごく稀に「神」の遠大なご計画が「予言」として示される場合があります。しかしそれは、霊的学習にとっての、人類の方向づけを促すような場合にのみ限られます。また大まかなプランはあったとしても、未来が完全に決まっているというわけではありません。なぜならば、人間には「自由意志」というものが与えられていますから。けれども、たとえその「自由意志」を行使したとしても、最終的には「神」のご計画の範囲内に収まっていくのです。
→前の段でも語ったように、人間に恐怖心をもたらすような「予言」は、基本的に言ってあり得ません。なのに、それに日時までつくのは、さらに悪質です。日時がつくと、人々の興味は嫌が上にも増すことになるので、より騙しやすくなるのです。
→けれども、それが無智をさらけ出していると思うのは、霊界が「無時間の世界」だという点を無視していることです。そのために、地上でこれこれが起きるという日時を、正確に特定することなどは出来ません。霊界側から読めるのは、人々の意識の動きだけです。その集合意識が、地上の時計で何月何日にどうなるか、ということまでは予測できないのです。それに、高位の存在は、もとよりそんなことには関心を持ちません。
以上、「波動の法則」の観点から見て、このようなものはすべて「引っ掛け」です、というものを列記しました。
そもそも、こうした「引っ掛け」に簡単に騙されてしまうということの根本原因には、「幸福」というものに対する人々の理解不足があります。
誰もが「幸福」になりたいと思っています。そのこと自体はよいのです。しかし宇宙的観点から言えば、「幸福」になるためには、辛さを味わい、痛い目にも遭う必要があるし、カルマは受けて清算されなければならないのです。けれども、残念ながら人々にはまだそれが理解できません。そのため、逆を説く邪霊の甘言のほうにより強く心惹かれてしまうのです。
地球の人々が、「宇宙の真理」に気づく日はいったいいつになるのでしょうか?
■「波動」を高めてキープし続けるには
最後に、ご自分の「波動」をどう高めて、それをいかにキープしていけばよいかというお話しをしましょう。別のところで何度か言って来ましたが、「霊能」の有無と「霊性」とはまったくの別物です。「霊能」については生まれつきの要素が強い。ですが「霊能者」イコール「霊性」が高い人というわけではありません。むしろ逆の場合のほうがほとんどです。
なぜかと言うと、自分の感覚だけを頼みにして、見えたこと、聴こえたこと、感じたことを語っているために、邪霊に憑依されていてもそれと気がつかないのです。そこで、憑依を許した邪霊の言葉を、まるで「神」の言葉のようにして語ってしまう。霊界の成り立ちや法則についても、不勉強で何も知らず、学ぼうという気もありません。下手に学習などし始めたら、自分が頼みにしていた霊感への信頼が揺さぶられてしまいますからネ。
しかし、世間一般の人たちにはそういう事情が分かりません。そこで、その言葉をそのまま信じてしまうのです。邪霊たちは、そうやって混乱する人間たちの姿を見てはほくそ笑んでいるのです。
一方「霊性」のほうは、瞑想行を中心とした日々の訓練によって高めていくことが可能です。「霊性」が高まるということは、自分の「波動」の中心帯域が上方にシフトするということです。それによって、「波動」の知覚能力というものがしだいに高まっていきます。そうすると、正邪や善悪の違いを見抜けるようになりますし、嘘もたちどころに見破れるようになるのです。
しかし他方で、知覚能力の発現は、非常に辛い日常をその人にもたらすことになります。なぜかと言いますと、世の中に溢れかえっている低い「波動」を、まるで津波のように受けることになるからです。自分の「波動」が低かったときには、まったく感じていなかったものが、突如としてそれが分かるようになり、世の中から出ているノイズが、四六時中まるで槍のように身体に突き刺さってくるのです。これが、もの凄く辛い。
しかし、そこで負けてしまっては精神を病んでしまいますので、低い「波動」との接触はできるだけ避けるとか、恐れを抱かないとか、気分転換の方法を見つけるとか、観照者を立てるとか、深呼吸をするとか、ほほ笑みを想い浮かべるとか、様々なテクニックを駆使して、やり過ごしていくしかありません。
と同時に、防御だけではなく、自分のお役目を自覚して、利他のしごとに打って出るという積極性も必要になっていくのです。このように、「波動」を知覚できるようになるということは、世間一般の人々には理解できない茨の道を歩むことになるのです。
■「調和の法則」を志向する
ここで、「カウンセリング」とか「ヒーリング」という言葉に惹かれて安易な選択をする人たちに、警鐘を鳴らしておきます。それをして、悩める人々の役に立ちたいという志はよいのです。しかし助けてもらいたいと願う人たちは、大抵は低い「波動」状態にあります。場合によっては、邪霊に憑依されているという場合も少なくありません。
そのカウンセラーやヒーラーの「波動」の知覚能力が低いときには、大した問題は起こりません。低い「波動」の者同士でエネルギーを交換し合っているだけですから。しかし、知覚能力が高まってきたときには、低い「波動」をモロに受けることになります。
したがって、その覚悟と、跳ね返す力と、自分を回復させるテクニックを持っていないと、先行きはなかなか厳しいものとなります。私は、そのようにして転落した人たちを何人か見て来ました。ましてや、ひと儲けしようとか、騙してやろうなどというのは言語道断で、その報いは必ず受けることになると申し上げておきましょう。
先ほど、高位の霊的存在が、下層にレスキューに行く際には「闘い」の様相を呈することになると言いました。が、これとまったく同じことは、一個人の中でも起きているのです。あなたの目覚めを促そうと寄り添ってくださっている守護霊と、そうはさせじとする邪霊たちとの「闘い」です。これが、あなたの「心」の葛藤を生み出しているのです。
そして、そのどちらの声をより聞くかは、
あなたの「自由意志」にすべて任されているのです。
そう聞くと、難しいなぁと感じたり、途方に暮れたりしてしまうかも知れません。でも、そこでこそ、「波動の法則」が示す原理を思い出していただきたいのです。怖れるあまりから防御姿勢を取ったりしてはなりません。逆です。心をオープンにして、明るく、素直に、誠実に、ありのままに、好奇心を持って、ほほ笑みを絶やさず、献身の中に生きればそれでよいのです。それが「波動」を高く保ついちばんの秘訣です。
いつもいつもそれを心がけていれば、いつかはそれが習い性となり、いつのまにか自分が「調和の法則」の中にしっかりと生きているのを自覚するようになっていることでしょう。
(完)
2023年最後のメッセージです。次から次へとインスピレーションが入って来るために、思いのほか長くなってしまいました。
それがいつだったかは覚えていませんが、ずいぶん以前に〈いつか「波動の法則」についてお話ししましょう〉と書いた覚えがあります。しかし当時は、自分の中にそれを受け入れるだけの知識も語彙もなく、また能力も未熟であったために、連載を開始できるになるまでには相当の年月が経過し、いざ開始してからも決して順調には運びませんでした。
けれども、なんとか「完」の字をつけることが出来たので今はホッとしています。通貫して読み直してみたら、きっとアラが目立つのでしょうけれど、まあ、現時点での一応の成果としてお許しください。
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あれから3年が経ち、人々は、自分がそんな異常心理状態に置かれていたということを、もはやすっかり忘れてしまったかのようです。やはり、どんな「ブーム」も3年で終わる、というマーケティングの常識がまたもや実証された感じがします。人の心は移ろいやすいとは言いますが、日々流され、どこかへと溶けていってしまうのです。かつてを振り返り、自分の心のあり方や行動を反省してみる、という人はごくごく僅かしかいません。
ですから、騙される人は何度でも同じ手で騙されるし、騙す人は何度でも同じように他人を騙す。そして騙している人は、自分もまた騙されているのだということに気づかないのです。こうして、人類全体が、いつの時代にあっても、同じ愚かさの幻影を繰り返し見続けて来ているのです。
このような中で、SNS時代を反映した、新しい用語と情報の判断機能が登場しました。それは「Fact Check」。何ものかの機関が、その情報が「事実」かどうかを判断し、「虚偽」と判断した場合には、警告を発したり、そのプラットフォームから締め出すといった措置を取るというものです。このような機関のことを「Fact Checker」と言うのだそうですが、ではその「Fact Checker」の「Fact Check」は誰がしたと言うのか?
また、大臣とかノーベル賞受賞者であるという権威を傘に着て「デマです!」と公言して憚らない「一人ファクトチェッカー」も登場しました。しかしこうしたことは、それが「事実」であったかどうかということ以前に、人として、あまりも傲慢な態度だと言わざるを得ません。何かを「事実」であるということを判断できる人間が、果たしているのでしょうか? そもそも「事実」とは何なのか? またそれが「事実」であるという証拠はどこにあるのか?
前回、「Fact Check」は現代の「魔女裁判」だという話をしたのですが、この「魔女裁判」のときの魔女だという「証拠」は、なんとホクロだったりしたのです。「魔女なら必ずホクロがある筈だ」と。そう言って服を脱がしてホクロを見つけ、「ほらやっぱりあったぞ」と。まったくヒドい話なのですが、では「Fact Check」が何を根拠にしてきたかと言えば、その時代とほとんど変わりがありません。
さて、ここまで、私は「真実(Truth)」と「事実(Fact)」という二つの言葉を使ってきました。両者は似ていますが、ここで改めて定義づけをしておきます。「事実」は「事」の「実」、つまり、ある出来事が本当であるかどうかということです。これに対して「真実」とは、「事実」を含む背景にある「意味、意義」が「真(まこと)*」であるかどうかということ。少なくとも、この場ではそう定義させてください。
*ここでさらに「真(まこと)」とは何か?という話になりますが、それについては後ほど触れます。
その上で、先ず「事実」に関してですが、人間社会では「事実」は何か?ということがつねに問題にされて、論争の火種を呼んでいます。「Fact Check」は、まさにその火中に投じられる水バケツのようなものです。バケツの水を一気に浴びせて一瞬で火を消してしまう。問答無用!と。このようなことが起きてしまうのは、「事実」というものを、みなさんが非常に曖昧に捉えているためです。
そもそも、人間には「事実」を100パーセント捉えることは出来ません。100パーセント捉えることが出来ないということは、これが「事実」なんだと、たとえ眼の前に示されたものであっても、それが本当に本当であるかは疑わしい、ということを意味します。疑わしさというものが、幾分かは必ず残るのです。ですから、もっと端的に言えば、人間には「事実」を把握することは出来ない、それは絶対に不可能だということです。
なぜ、そうだと言い切れるのでしょうか? それは、人間がある「事件」を体験し把握しようとするときには、必ずその前提として、「観測」という主観的な行為が生じるためです。
ここで「観測」と言っているのは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、という五感センサーのすべてを使った体験のことだと考えてください。
私たちは、「あるとき、どこそこで、○○を見た」などと言います。すると、それを無条件で「事実」と捉えてしまう傾向を持っています。私がこの眼で実際に見たんだから、それは事実であると。そして、ときにそのことを強弁します。でもそれは、「事実」そのものではありません。「事実」は、あくまで「事実」が起きた「場」にある。〈今ここ〉にあるのです。目撃したときは、すでにその人の五感センサーをくぐった信号に置き換わってしまっているのです。
例えば、通りを歩いていたら、一軒の家からチラチラ炎が上がっていて、その場を慌てて立ち去る男をあなたが目撃したとしましょう。その目撃者が、もしも自分しかいなかったとしたら、あとでそれを証言したとしても、その確度というものは低いと見なされます。しかし、自分以外にも目撃者が3人いて、各人の目撃情報を総合したときには、より具体的に「事実」というものが浮かび上がって来ます。そして、たぶんこうだったんじゃないかなぁ、と推定ができるようになる。
だとしても、やはりそれは「事実」ではありません。「観測」結果と「推論」に過ぎない。「事実」は、すでに時間経過の中に消えて無くなっているのです。結局、どのようにしたところで、私たちには「事実」を丸ごと捉えることは不可能なのです。
ここに、よく知られた命題があります。私たちが月を見ていないときには、月はあるのかどうか? さて、あなたならどう答えますか? ある? ない? それとも判らない? この答えは、現代物理学(量子力学)で、すでに出ています。別に、量子力学という権威を持ち出さなくても、これまでの話を振り返っていただければ、答えは自ずと分かるでしょう。正解は「判らない」です。
「そんなバカな話があるか!」と思った人。時々、新しい星が発見されたというニュースを見ませんか? では、発見される前にはその星はあったのでしょうか? 「いや、発見されたんだから、やっぱりあったんでしょうよ」と。じゃあそのままずーっと発見されなかったとしたら、どうなんでしょう? この話で重要な点は、「あった、なかった」という議論よりも、「観測」という行為が、前提として必ず介在してしまうという部分です。
月に関する命題にもう一つあります。私たちは「月を見た」と言うけれども、本当に見ているのかと。月は地球につねに同じ面を向けています。今は、月の裏側も写真で眼にすることが出来るようになりましたが、これも「観測」が出来るようになった結果で、それ以前には月の裏側がどうなっているかは何も分からなかったのです。では、今はもうぜんぶ分かったのかと言えば、表面上のことだけであって、月の詳細は依然として分かりません。例えば、月はどうして地球に対し同じ面を見せ続けているのか、といったことも。
ということで、「観測」を重ねることで「事実」により迫ることは出来たとしても、「事実」そのものを捉えることは、どうやっても人間には不可能なのです。
さらに、人間には厄介な問題があります。それは、「観測」後に、その「観測」についての「解釈」を立てることです。これが、「観測」結果をさらに大きく歪めてしまうのです。例えば、地球上ではいま重大な地域紛争が次々と起こっています。この紛争当事者のどちら側の視点に立つかで、報道内容は極端なときには真反対にさえなってしまいます。その結果、「事実」とは大きく異なる「物語」が創造されていくことになるのです。
ここに、「Fake」が生じる素地がある。その中には、ちょっとしたミスで「Fake」となってしまったものから、最初から意図的な心理操作が目的で流す「Fake」も混じります。いずれにせよ、これらはみな相対的なもので、絶対的に「正しい」情報など、基本的にありません。これは、人間の知覚・認識という行為が、「観測」と「解釈」というプロセスを取る以上は、どんなにしたところで防ぎ用がないのです。
それなのに、人間は、自分が見たものは即「事実」であると錯覚し、「事実」は解明できるものだと、これもまた錯覚しています。そのせいで、完全把握が不可能の「事実」の追求にばかり眼を向けて、無駄な努力をし、神経をすり減らしています。世の中は、あまりにも「嘘」だらけですので、それを正したいという気持ちは解るのですが、フォーカスを当てるべき場所はそこではないよ、ということを知ってほしいのです。
ところで、人間が有する「観測」→「解釈」という認識のプロセスは、「事実」の把握は絶対に不可能という面からすれば欠点ではあるのですが、それを知った上で、利点に活用することもできます。例えば、大きな失敗をし出かしたという事件があったとしましょう。普通に考えれば、後悔したり意気消沈してしまうところでしょうが、失敗したことによって何がしかを学べたんだと、もし考えることが出来れば、起きた事件の「意味、意義」もたちどころに違ってきてしまうのです。
これが「過去は変えられる」と言っていることです。みなさんは「過去」ということについても、「事件」と「観測」と「解釈」をみな一緒くたにしてしまい、それを「事実」だったと思い込んでいます*。しかしそうではありません。そのときに、どれほど辛く悲しい体験をしたとしても、それはその時点での感情や思考の動かし方だったのであり、今から「解釈」を変えてしまうことは、充分に可能なのです。歳を重ねていく価値はそこにあります。
*これが、いわゆるトラウマ。
また、〈100パーセントの「事実」把握などは不可能〉という「真理」は、一見、頼りなげな茫漠とした空間に放り出されてしまうよう感じをあなたに与えるかも知れません。しかし、「事実」の認識が、「観測」→「解釈」と進むに従って歪められていくという欠陥をものともしない、視点の転換が可能です。先ほども言いましたように、あなた方は「事実」がどうであったかという点の解明ばかりにこだわって、無駄な努力を重ねています。
しかし、視点を変えましょう。ある事件が起きたとします。すると、それが起きたからには、起きるに至った理由というものが、その奥に必ずあるのです(因果律)。もしその事件に、人間が介在していた場合には、その事件を起こした当事者たちの「意図」というものが背後に隠れています。着目すべきところは、個々の「事件」ではなくて、そこの部分なのです。
世の中には「嘘」と「謀略」があまりにも多いので、「事件」ばかりを追いかけていたら何がなんだか訳がわからなくなってしまいます。しかし「意図」を推理して繋げていけば、そこに「謀略」の臭いを嗅ぎつけることが出来ます。さらには、次のナラティブの予測までもが可能となります。これが非常に大事なのです。なぜかと言いますと、物理的世界で起きている事件は、所詮はスクリーンに投影された幻影でしかないからです。
みなさんは、ご自分を、身体を持った物質的存在だと思っています。そのため理解し難いでしょうが、繰り返し言ってきたように、みなさんの本質というものは「霊魂」にあり、その「霊魂」が生み出す「意識」の動きが、あなたたちの主たる活動場所なのです。みなさんは、その「意識」を基に、関係者が集まって、物質界に「事件」を創造しているのです。しかし、先ほども言ったように、この「事件」の全貌は人間には把握できません。各人が自分の役割を担うだけです。
では、全体としての「事件」はどこへ行ったのでしょうか? 「事件」は、宇宙にある「アカシック・レコード」と呼ぶ保管庫に逐一記録されます。ですから、もし「アカシック・レコード」を読み取る能力があれば、「事件」の裏側や詳細についても知ることが出来ます。けれども、その能力を持つ人は極めて限られるということと、それを知らされることにあまり意味がない(「事件」は重要ではない)ということから、積極的には行われていません。
みなさん一人ひとりにとって重要なことは、「事件」そのものではありません。「事件」に際しての、あるいは「事件」を通じての、その人の「意識」の使い方や行動のあり方なのです。これが、あなたの性格と性質とを決定づけ、あるいは強化し、現時点でのあなたの「霊性」を決めるのです。と同時に、この性格や性質は「カルマ」となって、霊界に還った後でも、また来世に誕生した後にも運ばれていくことになります。
宇宙に誕生したばかりの頃は、みな無垢で平等な存在であった筈なのに、なにゆえ個性や賢さの違いが生じたのでしょうか? また、善に生きる者もいれば、悪に染まり、遂には他者を抹殺してしまおうとまで考える人間がいるのでしょうか? これはみな、その後の、その「魂」の「自由意志」の行使、およびその積み重ねによる結果なのです。一方、「事件」そのものは、その場に捨て置かれていくために、「霊魂」には記憶されません。よって「事件」は経験の機会に過ぎず、重要ではないのです。
以上を理解していただいた上で、視点をさらにその先へと伸ばしてみてください。「事件」の奥を見ると、人間の「意図」を覗くことが出来るという話をしました。しかしその際にも、どんな情報も信用しない(鵜呑みにしない)、肩入れしない(旗を立てない)、色メガネで見ない(レッテルを貼らない)、という原則をしっかりと守ることが大切です。よく分からないことは、ひとまず判断を保留し、分からないままにしておくべきです。いま分からなくても、あとになって分かるということが往々にしてあります。
そうでないと、誤謬を犯し、袋小路に陥ってしまいます。残念でならないのは、善悪二元論に陥って、「正義」に肩入れしてしまう人のあまりにも多いこと。特にキリスト教文化圏はひどい。しかし、「正義」と言いながら、人々がやっていることは、「悪」と断定した人物の抹殺ではありませんか。「屋上屋を重ねる」という言葉がありますが、これでは「悪上悪を重ねる」です。まぁ、これも、歴史の大転換点にあっては致し方ないのでしょうか‥‥?
「事件」の奥を覗くと、邪悪な人間どもの「謀略」が見えてきます。しかし、その「謀略」を為している人間は、誰が創造したのでしょうか? そこまで視点を広げてみてください。何もかもが一者の許へと帰属します。すなわち、「神」です。と考えてみれば、すべては「神」のご計画の範囲内だということがお解りでしょう。つまり「神」は、「悪」を使って、地球を進化させようとしている。いったいなぜ? どうして?
それを、あなたも推理してみてください。アーサー・C・クラークはその意味を知っていて、『幼年期の終わり』という寓話を書いたのに違いありません。推理してみたとき、世の中で起きている事件に対する、あなたの見方や「解釈」は、きっと一変してしまうことでしょう。
世の中の動きは、極めて複雑なように見えていても、その背後にあるセオリー自体は極めてシンプルです。宇宙というものは、非常にシンプルな法則と、表現の果てしない多様性によって構成されたアクティブでダイナミックな世界なのです。そして全体は、部分の総和よりもつねに大きい。
あなたの心は、この両極端が併存する世界にあって、絶えず揺れ動き、ちょっとしたことにも翻弄されてしまいます。しかし、これまでに説明したことを振り返って、自分にとって、本当に大切なものは何かを改めて考えてみてください。
「事実」を知ることには限界があります。しかし限界があるからといって、探究心を最初から放擲してしまってよいというわけではありません。人間は、もっともっと賢くなる必要があります。もし人類が、今よりももっと賢かったとしたら、「沸く珍禍」の厄災は避けられたことでしょう。だから、もっと賢くなりなさい。理性が弱いと認識する者は、理性を鍛えねばなりません。理性とは、「理」つまり「法則」を理解する力です。
今世の賢さの違いは、前世までの努力の差なのです。好奇心の差なのです。世の中を分析的に見ることの手間を惜しんではなりません。自分だけの狭量な世界に安住せずに、つねに好奇心を働かせて見聞を広めなさい。知らないことについてはよく調べて学びなさい。今世の努力が、来世のあなたの賢さを決めるのです。霊能だけに頼っていたのでは、霊性を高めていくことは出来ません。理性の向上なくして、霊性の向上はないのです。
なぜなら、宇宙の本源の、性質の一つが「叡智」だからです。
そして他方で、「事実」の限界を打ち破る、「真実」に触れる努力もしてください。「真(まこと)」とは、物質世界を超えた、宇宙の普遍的な正しさのことです。物質世界で言っている「正しい」は、みな相対的なもので、宇宙から見たときには真逆であるということも少なくありません。しかし「真」は違う。「真」とは、「宇宙の法則」に合致しているということです。「宇宙の法則」は絶対的なものですから、ここに曖昧さはいささかもありません。
したがって、この法則にのっとった生き方さえしていれば、「事実」の曖昧さを超越して「真実」に触れる機会へと繋がっていくのです。それが何かと言えば、繰り返し言って来たように、正直に、誠実に、朗らかに、思いやりをもって、利他に生きるということです。どうです、簡単でしょ? これが、高僧よりも、田舎で野菜を作っている普通のお婆ちゃんのほうが、死後はるかに高い境界へ行けるということの理由です。
ですから、これからの時代を生きるみなさんは、「真実」に直接触れるアプローチ、つまり「直観」を鍛えることと、この世を動かしているものの背景理由を知ること、つまり「理性」を鍛えることの両方を学習していってください。もう、地球のステージは変わったのです。今までのような愚かさのままでは、新しい地球にフィットしていくことは出来ません。あなたの中に眠る、ご自身の可能性に自信を持ってください。
登山をして、眼下に広がる雄大な景色を見たときには、「うわーっ」と誰しもが感嘆の声を上げるでしょう。でもどうして、思わず感嘆の声が出たのでしょうか? 景色がそうさせたのでしょうか? それは一面において正しい。でも、あなたが見た景色は、網膜に映る光の点のゲシュタルト*に過ぎないのです。あなたは、そのゲシュタルトに反応して感嘆の声を上げます。
*ゲシュタルト(Gestalt):部分自体は意味を持たないが、それが集まった時に意味が生じて来るような機構。
それは、あなたの中に、それを美しさと感じる感覚が、あらかじめプログラミングされているからなのです。そしてそれは、あなたが「神」より分離してきたことの名残りとしてあるのです。けれども、その名残りを失ってしまった者たちは、邪悪への道を歩み出す。ですから、景色を見なさい。花々を見なさい。野菜を育てなさい。音楽を聴きなさい。アートを鑑賞しなさい。それらに触れて、その奥にあるものを掴みなさい。「美」は、「神」の別の一つの性質です。
あなたという「個我(Entity)」の誕生に当たっては、「自由意志」の権限が、あなたにも等しく与えられました。その「自由意志」を使って、統合へと向かう道を選ぶのか、それとも分離への道を選ぶのか。
人類全体としての結果は、もう出てしまいました。出口ナオもあれほど「早う改心してくだされよ」と言っていたのに、残念ながら改心する者はほとんどいませんでした。長年に渡って悪事を為して来た者たちの憐れを、これから一斉に見ることになるでしょう。
あなたのこれからを決めるのは、これまでのあなたの生き方なのです。もう何度も何度も言ってきましたよ。でも、過去は変えられます。反省して、セオリーをしっかり学んで、自信を持って、真理にのっとった生き方をしていれば大丈夫。
あなたも、「神」から見れば、等しく可愛い我が子なのです。地にしっかりと足を着けながら、同時に「真実」の中を生きてまいりましょう。
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昨年の暮れあたりから、自分の霊的ステージに大きな変化が起きたことを実感しました。また時を同じくして世界情勢が驚愕的展開を見せるに至ったことで、自分の役割にも新たなスタートが求められている時期が到来したと感じました。そこでこの節目に、これまでに至った経緯と、自分の経験を語ることが、これから同じような過程を経ていく方々にとって多少なりとも参考になるかも知れないと考えたゆえです。
このブログは『気づきの啓示板』というタイトルを冠して始めたのですが、畏れ多くも「啓示」の文字を使ってしまったのは、最初は単に軽いダジャレのつもりだったのです。そして、日々浮かび上がって来るインスピレーション(つまり自分の気づき)を整理して書いていったら面白いかなぁ、という程度の、まあ自分日記のようなものでした。ということで、動機が不純であったことと、多少の驕りがあったこと、申し訳ありませんでした。
しかし、それから1年くらいしたときに、みなさんもよくご存知の高田の馬場の「預言カフェ」へ行った際、そこでいきなり「あなたが、ご自分が思いついたことを日々メッセージとして発信していることを知っています」と言われてしまったのです。これには仰天しました。えっ、なんでそんなことを知ってるの?
そして、続けて「もっともっと語りなさい」「あなたが語れば語るほど、わたしが新たなメッセージをあなたの許に届けていきます」と言われました。また、どんなに語っても、そのメッセージの源泉は決して涸れるということがないことも。だから、心配する必要はない。むしろ、語れば語るほど内容が高度化していく、と言うのでした。
はたして、それは本当でした。しかし、そのことに確信を抱くまでには、実に10年にわたる精進が必要だったのです。そして10年が経過し、あの日、単なる思いつきでつけたつもりであった『気づきの啓示板』というタイトルも、今ではしっかりと計画されていた言葉であったような気がするのです。
しかし、当初のころは、恥ずかしいほどの無智であったことに加え、自分の無能さとの葛藤にずいぶん悩みました。特に神経を悩ませたのは、自分にはいわゆる「霊能」というものが無かったことです。霊視、霊聴はもちろんのこと、オーラも見えませんし、物を動かしたりも出来ません。ただ、インスピレーションだけはよく浮かびました。
でも、そんなものは誰にでも起こることです。それなのに、こんなことをしていていいのかなぁ、という思いがずっとあって、自信もまったくありませんでした。そこで、冗談で「信度2」くらいだと言ったり、自分は「零能者」だと言ったりしてきました。
あーっ、そうだ! 一個だけ才能があった。ダジャレ!(ま、才能と言うほどでもないか‥‥)また、社会的成功といったこととも無縁の人生でした。とにかく何をやっても上手くいかない。悲嘆の連続でした。それでも、今日まで生かされてきました。本当に、「生かされてきた」というのが実感です。
ところが、去年の暮れあたりから、急に自信が「信度6強」くらいに跳ね上がった。もちろん、「信度2」から「信度6強」にいきなり上がったわけではなく、じわじわと上がっていったのですが、最初は遅々とした歩みであったものが、やはり幾何級数的に上昇が進み、ここに来てガーンと大幅な上昇をみたというわけです。
けれども、残念なことに「信度」は上がったのに、身体のほうが言うことを効かなくなってきました (。ŏ﹏ŏ)。まず眼がダメ。お陰さまで白内障は手術で光が入るようになったのですが、目ん玉は古いままですので、その性能は悪化する一方。左目と右目の軸がズレているのでぜんぜん焦点が合いません。加えて、小康状態にあったリウマチが近ごろまた顔を覗かせてきて、腰と膝と指先の骨が痛ぇのなんの。冬場の乾燥で、眼の周囲のアトピーも痒ィーの武田信玄。とまぁヘロヘロ。
そんなわけで、ブログ更新の頻度がさらに低下していくかも知れません。けれども、これまでの過程において、更新頻度が減っていった最大の理由は、一回分に掲載する文章量が、ある時期からグーンと増えたことによります。それを分けて連載形式にすれば、以前のような頻度を保てるのですが、上はどうもそうしたくはないようです。やっぱり途切れることなく、濃い内容のものを一気に伝えたいみたいなのです。
しかし、そうしたことで、読者はますます限られた人数となり、ついて来られる人だけついていらっしゃい、という感じになっていきました。「拡散希望」とか「チャンネル登録よろしくお願いしま〜す」という時代とは、真逆を行ったわけです。見方によっては、傲慢に思えるかも知れませんが、しかし上は、そうすることを希望されたのです。それが「語れば語るほど、内容が高度化していく」ということの意味だったのです。
そして、最近になって、私は、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて英国で花開いた「霊界通信」ブームの渦中で出された本を読むようにと促されました。さっそく何冊かを読んでみて、私はこの時期に、このような一大ムーブメントがあったことを初めて知ったのです。まったくもって迂闊でした。その瞬間、これまで自分の中にあった「ミッシング・リンク(Missing Link)」が、ぜんぶスポーン!と繋がったのです。
これは、自分としては、大ジャンプでした。(その成果は、いずれお伝えできると思います)ですが、このタイミングでそれが為されたということについては、二つの意味があったように思うのです。一つは、自分がそれを読まねばならない時期が来たということです。私は、もともと読書家ではありません。というよりも本はほとんど読みません。多くの人と同じように、文章を読むのがかったるいしシンドイのです。(それなのに、自分が文章綴っているよ〜)
多くの本が字面を追いかけるだけでもう四苦八苦。なのに、ごくたまに内容がスラスラ入って来るというものに出逢えるときがあります。これには、その本が持っている内容や、文章の読みやすさという面が大きいのですが、一方で、こちらの読解力がどこまで育っているかという問題もある。
若いときにパッと目について購入した本が、読んでみると眠気を誘うばかりでサッパリ頭に入らない。そのまま放ったらかしていたものが、何年かしてふと手に取り読んでみると、驚いたことに難なくスラスラ読める。そして読めるだけでなく、内容が全部スーッと入って来る。このような体験を、これまでに何度か味わいました。
今回はまさにそれで、私は、「宇宙の真理」についてのほぼすべてが、およそ100〜170年前に、すでに充分な形として説かれていたことを初めて知ったのです。また同時に、この『気づきの啓示板』ブログを通じて発信してきたメッセージに、大方のところで間違いはないということにも確証を得ました。
これは非常に悩ましいことではあるのですが、メッセージを下(おろ)すということと、自分の思考を語ってしまうということの間には、明確な仕切りがありません。また、メッセージを下すについても、発信者のソースからしてみれば、媒介者の中にある知識や語彙を使わざるを得ないので、どうしても歪みが入るのです。加えて、その媒介者の「現在の霊性」がどの段階かという問題もあります。
われわれはみな地上に降りた人間ですから、基本的には「霊性」がそれほど高くはない。その状況下で、上の存在とのコンタクトを実現するためには、こちら側からは出来るだけ波動を上げる努力をし、反対に上の存在はある程度まで下げて近づいて来るということになるのです。その一致点となる波動領域でしか、両者のコンタクトは実現できません。またその波動領域内で許された範囲の「智恵」しか獲得できないのです。
ですから「預言」を行う者は、そのメカニズムを知った上で、自分の発言には、慎重な上にも慎重を期さねばなりません。ところが、世の中には「霊媒体質」の人というのがかなりいて、残念ながらそういう人の多くが、理性に欠け、論理構造に弱く、霊界の法則についての知識も何も持たないのです。ただ自分の感覚だけでやっている。すると、自分が受け取った感覚を単純に自分で信じ、それをそのまま他人に伝えてしまうのです。これが世の中に大混乱をもたらしてしまう。
なぜかと言いますと、その人は、「霊媒体質」ではあっても、「霊性」は依然として低いままなのです。別に「霊性」を高める努力をせずとも、「霊界」と繋がることができる体質を持っているためです。ところが、「波動の法則」によって、同程度の霊的界層の存在としかコンタクトはできません。その結果、いわゆる邪霊につかまってしまい、こうした邪霊たちに、自分の心身を乗っ取られ、利用されてしまうのです。
けれども、「霊媒体質」の人の多くは、それを「神」の言葉だと言ったり、不吉なことをカウンセリングと称して、他人に簡単に話してしまいます。一方で、一般の人たちも霊界の法則を何も知りませんし、生きるについては潜在的な恐怖心というものがありますから、これらの言葉のほうに強く惹かれてしまいます。こうして需要と供給(?)がマッチして、スピリチュアル業界が大いに繁盛するというわけです。
邪霊たちは、人々を脅したり、驚かしたり、騙したり、くすぐったり、混乱に陥れるのが大好きです。しかし、何度も言って来たように、高位の存在たちがそんなことをするわけがありません。あり得ません。これは声を大にして言っておきます。考えてみてください。「霊性」が高くなるほど根源的な「愛」そのものに近づくんですよ。脅しや恐怖を与えることが、どうして「神」の言葉でありましょうか? 霊言でありましょうか?
でも、そのような「霊能」を悪用する人たちに言っておきます。それは、他者だけではなく、自分自身をも破滅に追い込むことになるよと。なぜなら、「霊媒体質」の人は、自分の「霊能」に巻き込まれるだけではなく、自分自身が作る「感情」にも巻き込まれてしまうからです。たとえば、怖いとか、攻撃されているとか。これが、ダブルでその人を襲う。
少し離れた視点に立てば、全部が「無智」から来る「錯覚」だと分かるのですが、「霊媒体質」の人は、自分の想いが強すぎるために、そしてまたそれしか知らないために、その信念から脱出するのが非常に難しくなってしまうのです。知力不足の人は、それを放置したままにせずに、知力を鍛える努力をすべきです。そうでないと来世に繋がっていきません。現在のあなたの頭脳は、過去世までの努力の結果なのです。
ということで、「霊媒体質」の人は、霊界のセオリーをきちんと学習した上で、自分のエネルギーの状態をつねに観察し、ネガティブ方向に堕ちないようによくよく注意して行動しなければなりません。喩えれば、山肌に張り付いた登山道を、谷底に堕ちないようにして注意深く進むということです。そして、今日は疲れているなと思ったら、その日は踏破を中止するという決断も必要です。
また、言うまでもなく、自分の能力を、人々への奉仕のために使わなければなりません。万が一、それを悪用したり偽善に使ったりした場合には、当然ながら、自分が為したことは自分に還る、自分が蒔いた種は自分で刈り取る、という「カルマの法則」の報いを受けることになります。
私は、幸いにしてというか、残念ながらというか、霊能がありませんでした。今は「波動」をそこそこ知覚できますが、これは訓練によって磨いていったもので、霊能は未だに開花していません。すると、メッセージを下すとなったときに、もっぱらインスピレーションにのみ頼っていますので、〈言葉を選んで紡ぐ〉という作業の大半を、自分の意思において行わなければならなかったのです。
本来であれば、翻訳時に生じる歪みを防止するためには、「自分」の部分を出来るだけ消し去らなければなりません。ところが、私には霊能がなかったために、「自分」の思考を動かしているのではないかという疑念がどうしても拭えず、ずっと自信がありませんでした。ときどき「あれは『自動書記』ですか?」と訊かれることがあったのですが、そのため「いえ、そうではありません」と答えていました。
ところが、『コナンドイルの心霊学』を翻訳した近藤千雄(かずお)さんの註釈の中に、次の文章を見つけたのです。
自動書記現象:通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合で?おふでさき?と呼ばれているものにはこれに属する。スピリットが高級になると直接乗り移らずに、テレビその他のリモコン操作と同じように霊波によって操る場合と、インスピレーション式に思想波だけを送り、それを霊媒がキャッチして綴る場合とがある。これを「霊感書記」と呼ぶ。
直接書記現象:紙と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもので、絵画や記号、暗号などの場合もある。大変なエネルギーを要するので、長文のものは書かれない。
私は、「自動書記」という現象は、手が勝手に文字を綴り出すものだとばかり解釈していましたので、自分がやっていることは「自動書記」には当たらないと思っていました。ところが、近藤千雄さんの分類によると、私がしてきたものはどうやら「自動書記」の一種で「霊感書記」に相当するものらしいということが分かったのです。読者のみなさんがどう思われるかは分かりませんが、少なくとも私の中では、これで長年の胸の痞(つか)えが下りたのです。
それと、「霊界通信」ブームの頃に出された本を読むよう促されたもう一つの理由は、これで自分の役割というものがハッキリと解った。多分こうじゃないかなぁ、というイメージは前々からあったのですが、その直感は間違ってはいませんでした。「宇宙の真理」については、今から100〜170年前にほぼすべてが、すでに説かれていた。ということが解った。そうなると、なぜ自分がまた同じことを語るのか、ということになってしまいます。
これについては、今日それらが忘れさられてしまっている、ということもあるのでしょうが、それよりも「現代にも通じるエッセンスを加味して、みなに伝えよ」ということが、私に与えられた使命のように思うのです。そしてそれは、一つには「科学」と「アート」を通してそれを語るということであり、もう一つは、日々の出来事の奥にはつねに〈霊的意味が隠れている〉ということを、その関係性において述べるということです。
これならば私にも出来るし、私の特色が活かせます。もし私に「霊能」があったならば、「霊能」に埋没してしまって、「科学」の論理性というものはとうてい持ち得なかったことでしょう。また、もし「アート」への強い関心がなければ、表面上の「言葉」にこだわって、奥にある本質を丸ごと掴むという感覚は養われなかったでしょう。
一年ほど前だったでしょうか。今世の私に、なぜ「霊能」が与えられなかったのか、その理由というものが告げられました。それは、「普通の人間でもアセンション出来ることを示すためです」と言うのです。う〜ん、なるほど。だとすれば、なおのこと、そこへ至るまでの苦悩、苦闘と、喜び、そして幸福とを伝えていく義務がある。自分の残りの人生を、そこに集中したいと思っています。真摯に求める方には、自分が知っている限りのものは全部お伝えします。
また、日々の出来事の奥にはつねに〈霊的意味が隠れている〉ということを、その関係性において述べる、についてはこれまでも意識してそれを行なって来ました。「霊界の法則」を伝えること自体は、100〜170年前にすでに終わっているのです。しかし、日々の出来事との関連で語ることは、今という時代が、地球開闢以来の大変革を迎えている時期であるからこそ、新たな意味を持つように思うのです。
実を言いますと、私個人は、世間の動向変化については、あまり関心がありません。それは、単にスクリーンに投影された劇場に過ぎないということを知っていますし、人の生き死にも大したことではないということを解っているからです。あなただって、これまでにもう何度も生き死にを体験済みなんですよ。また、地球レベルのことと、地域レベルのことと、個人レベルのことは、重なる部分もあるけれども、基本的には別問題だということもよく承知しているからです。
しかし「宇宙の真理」だけを述べたのでは、人々の認識とはあまりにも隔たりがあり過ぎますし、すでに100年以上前に説かれたことを、またなぞるだけになってしまいます。そこで、意識的に世間の動向とブリッジさせて「宇宙の真理」を紐解いているのです。ところが、これがなかなか通じないんですよね〜。みんな前半ばっかりに眼を向けていて、肝心の後半にはちっとも眼を向けてくれないんですぅ。(・_・。)そっちが伝えたいことなのに‥‥。
これから世の中はどうなるのか? 自分はどうしたらいいか? と、そればっかりを考えている。無理ないと言えばないのですが、それは「体験学習」なのであって、肝心なのはそれを通じた「霊性の向上」にあるんだよ、という話をいくらしても、そっちに関心を持ってくれる人は殆どいないのです。残念ながら、われわれ(高位の存在と地上の人間との)の取り組みに反応してくださる方は、ほんの僅かな人数です。
しかし、そのことを、私は別に悲観していません。いつの時代にあってもそうだったからです。人は、今の自分の器以上のものは、受け取ろうにも受け取れないのです。ですから、繰り返し語っていくしかありません。まあ、断罪されたり、火炙りになったりしないだけ、時代はよい方向に着実に進んでいます。また、世界の垣根が取れて来ている。進化は幾何級数的に進むので、ある時点で、地球人トータルの霊性が、ギューンと上がる日もきっと来るでしょう。
100〜170年前に書かれたメッセージに、私はたったいま触れて感銘を受けました。それは、決して古い言葉ではなく、私へ贈られた、今の言葉なのです。Be Here Now ! この『気づきの啓示板』ブログが、100年後にまたどなたかの眼に触れることがあるやも知れません。
「神」のご計画は壮大です。昨日今日のことなど、宇宙から見ればごくごくちっちゃな変化に過ぎません。でも、あなたの今(Being)は、確実に、つねにモニタリングされています。それは監視ではなく、愛によって。ああ、地上とは何という違いか。そのことに想いを馳せなさい。そしてその愛に応えなさい。あなたの中の愛をもって。
友よ。ですから、将来を決して悲観してはなりません。また、自分の遅々とした歩みに絶望してはなりません。すべては、壮大な愛の法則によって動いているのです。この、極大と極小とが同時に進行する世界。
あなたは、やがて、すべては一つであることを知ることになるのです。
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使い古された「浄化」や「覚醒」という言葉にはいささか食傷気味かも知れませんが、今回ばかりは、それが本当に当てはまる。この大変革には、表面上に現れている事件や事象の裏に隠れて、「霊的な意味」が重って同時に進行しています。いえ、もっと正確に言えば、霊的な世界での大転換が起きた結果、地上世界においても未曾有の大変革が起きているのです。
本ブログに付き合ってきてくださったみなさんには、すでに全体構造が見えていると思いますので、簡単に言いますが、いま表面で起きている事象をひとことで言えば、ディープステートの「新世界秩序(New World Order)」の計画が頓挫したということです。
しかし、ここには大いなる皮肉があって、ディープステートが構想した「新世界秩序」(実際には秩序ではなく「破壊」なのですが)はなるほど頓挫したのですが、その「破壊」行為によって、別の形での「新世界秩序」がこれから誕生することになるということです。喩えて言うと、シロアリが食い荒らした家を、ここできれいさっぱりスクラップすることによって、やっと真新しい家を一からビルドできるようになったのです。
メチャクチャになって壊れていく世界と、人々の悲惨を毎日目にするなかで、「いったい、こいつは何を言っているのだろう?」といぶかしく思われるかも知れません。が、湿疹がいちどきにワーっと広がったり、激しい嘔吐や下痢をしたときと同じです。その時には「病気かな?」と意気消沈してしまうのですが、実態は、毒素を排出する「浄化」が行われているのです。これが、裏に隠れた「霊的な意味」です。
つまり、すべては「神」のご計画の範囲内だったということ。ディープステートたちよりも、またそれを操っている「闇」の連中や「魔」の存在たちよりも、「神」のほうが一枚うわ手、いやずっとずっと、ずーーーーっと遥かにうわ手だったということです。所詮は逆らえない。逆らえないのに逆らおうとする者の末路を、私たちはいま目撃し、一緒に体験しているのです。
宇宙中が、「地球の大変革」に注目をしているということの意味が、
たったいま解りました。
こんな体験は、いかに宇宙広しと言えども、滅多にないということ。
物質界でそれを体験できるだなんてネ。
だから、みなさんもよ〜く見て、充分に学習するんですよー。
しかし、前々から懸念していたことが、(ああ、やっぱりそうなるのか)というのを見せられるたび、いささか悲しく、そして残念な気持ちにもなってしまいます。一個人としても、集団としても、また国家としても、「宇宙の法則」が厳然として働いているということの結果を、このようにハッキリと示される時代が来るとは思ってもみませんでした。
みな、なるべくしてそうなっている。パンデミックの嘘や、金融システムの裏を暴くことに情熱を傾けていた人たち。それはそれで、その時点では意義あるものでしたが、そのベースに「愛」があるかどうかが、その後を分けてしまいましたネ。暴くための「暴く」、立場を一方に置いた上での「暴く」は、みな内紛と自己崩壊への道を歩んでいます。結局、「分断」に与(くみ)した者は、その「分断」の果実を自らが受け取ることになるのです。
宇宙の永遠からすれば、ニムロドの栄華と消滅などは、ほんの瞬きをする間のことに過ぎないのでしょうけれど、地球の時間では計り知れないほどの時が過ぎ、幾千万もの世代交代の中で、悲嘆と苦悩と怒りと、そしてちょっぴりの喜びが重ねられて来ました。その間、ずっと変わらなかった人類の支配構造が、いまこれから「大変革」しようとしているのです。
宇宙の最高神であるゼウスが、地上最初の女性であるパンドラに?箱?を渡し「絶対に開けてはならない」と言った。でもパンドラは、《好奇心》から?箱?を開けてしまった。すると、?箱?の中からありとあらゆる不幸や災いが飛び出してきて、たちまち地上世界を席巻した。
でも、なぜゼウスは「絶対に開けてはならない」という?箱?を、わざわざ地上最初の女性(つまり人類)に手渡したのでしょうか? そんな災いが詰まった?箱?など、最初から渡さなければよいではないですか。神様って意地悪ぅ〜。そう思いません? 実はこれには、よく言われる問い「神は全能だと言われているのに、なぜ地上に悪がはびこっているのか?」ということの答えが明示されています。
もちろん「神」は、人間が蓋を開けてしまうことを最初から想定して?箱?を渡しました。それ以前に、《好奇心》というものを人間に賦与していたからです。それが、つまりは「自由意志」です。早い話、「神」は人間に、「悪」に染まる「自由」を許したのです。当然、「悪」に染まる喜びと同時に、 人間はその反作用としての苦悩や災難や悲嘆にも触れなければならなくなりました。しかし、それを乗り越えていくこともまた「自由意志」とされたのです。
そして、これまで長いこと蓋をされ、隠されて来たあらゆる「悪」が、ここで一挙に表に飛び出して来た。 金融という詐欺システム、政府の腐敗、メディアの嘘、教育と娯楽による洗脳、国連という茶番、医療のマッチポンプ、戦争、暗殺、人身売買、幼児誘拐、小児性愛、臓器売買、麻薬カルテル、etc. その恐るべき残虐性と非道。まさに、ここまでやるのか、というところを日々見せつけられ、胸が痛みます。
ですが、 少し離れて、宇宙的観点から眺めてみれば、いま起きていることのすべては、個々の人間の「心」のあり方が、縷々(るる)集まってそのような世界というものを形作っているということが見えるのではないでしょうか。視点を、地上の細々とした現象に向けて置いていると、世の様相は複雑怪奇に見えますが、単純化してしまえば、地上を生きる人間たちの、いまの「心」のあり方と動きの集合体でしかないのです。
さて、先の「パンドラの箱」の神話の先を、みなさんもよくご存知でしょう。「あ、いけない!」と思ったパンドラは、慌てて蓋を閉じたのですが、時すでに遅し。あらゆる不幸や災いが世に放たれてしまった。でもその結果、箱の中には「希望」だけが残ったのです。さあ、「パンドラの箱」の蓋を、再び開ける時が来ましたよ。もう「希望」しか残っていないのです。その「希望」を、世に解き放ちましょう。
新世界の夜明けは日本から始まる。以前に、そのような予言を目にしたことがあります。それがなんであったかは思い出せないのですが、たしか複数あったと記憶しています。そのときには「へぇ、そう?」と思う程度で、あまりピンと来てはいませんでした。
かつては「Japan as Number One」と言われた時代もあったのですが、小泉改革以降の日本はおかしな方向にどんどん入り込み、安倍政権になってからは貧富の極端な差が生まれ、人心も荒廃していきました。そのような過程をずっと見ていたものですから、新しい世界の夜明けが日本から始まる、とはとても思えなかったのです。
しかしここにきて、少し考えが変わりました。それはひょっとしてあり得るかも?と思いますし、またそうしなければならない、とも思うようになったのです。なぜかと言いますと、今の日本は確かに「西側」に所属し、ディープステートの言いなりになっている国ではあるのですが、それは政府の中枢が腐敗しているということだけであって、一般の人々の心の中には、それとはまったく違った伝統的なよき価値観が、今も変わらず生き続けているように思うのです。
そのことに気づいたのは、コロナ明けのインバウンドブームで日本に来た外国人が、人種国籍を問わずみな共通の感想を述べることに、ちょっと意外な驚きを感じたからです。治安がよい、礼儀正しい、みんな親切、配慮が行き届いている、ゴミ箱がないのに街がきれい、清潔、静か、公共交通システムが優れている、人々がルールを守る、職人技がすごい、何を食べても美味しい、神社仏閣の中に流れる清涼な空気感、etc.
外国から来る人々がみな揃って共通の感想を述べるということの背景には、当然 SNS の影響というものがあるのでしょう。しかしその奥には、 日本という地場が醸し出している唯一無二の雰囲気に、日本を訪れた世界中の人々が多大の感銘を受けているということです。 日本では当たり前のことが、日本以外の国では少しもそうではない。そこに、今の世界人民に共通した願望や、潜在的な希求が顕れているように思うのです。
一昔前には、外国人からはよく、日本人の宗教観というものが解らない、と半ば軽蔑的に言われていました。正月には神社へ行き、チャペルで結婚式を挙げ、葬式は仏教。クリスマスにはケンタッキー・フライドチキンを食べて、春のお彼岸にはぼた餅も食べる。いったい、そりゃなんだ?というわけです。外国人からしてみたら「信仰」の姿というものが見えないのです。あのなぁ、入国審査の用紙には、眼の色と宗教は必ず書くもんなんだぞ、と。
ところが、それが劇的に変わった。日本人の無宗教の奥には、 自然を崇拝する気持ち、自然との一体感を尊ぶ気持ちがある。ということがだんだんと知られるようになってきた。結局、 日本人が持つ美意識や、おもてなし精神や、礼儀や、秩序に対する考え方や、職人気質などは、みなそれより発しているということが、旅行を通じてなんとなく理解されて来たのではないでしょうか。
なぜそう思うかと言いますと、大航海時代以降、長きに渡って世界を支配下に治めて来た西洋文明には、そのような観点がないからです。まったくないとまでは言いませんが、自然のどこにでも「神」が宿っているという感覚は薄い。「神」は、自然界とは別のところにおられる存在であり、人間は「神」とは契約の関係を結んでいるのであり、よって人間には地上の自然界を支配する権限が「神」より与えられている、という考えですから。
しかしその結果として、一神教を掲げる宗教同士が反目し、果ては殺し合いの戦争を繰り広げているのですから何をか言わんや。本来であれば、「一神」と言っているわけですから、全部が一つにならなければ論理としては矛盾です。ところが、その矛盾にすら気がついていません。これが、「宗教」と「信仰」というものの恐ろしいところです。
西洋の一神教は「一神教」とは言っておりますが、実体は善悪二元論の「二元教」であって、自分たちのみが「善」、それ以外は「悪」というレッテル貼りを簡単にしてしまう。そして、宗教的「正義」において、「悪」は殲滅してもよい、いや必ずや殲滅しなければならない、と考えるのです。まったくもって、このような粗暴な狂信が西洋社会をずっと席巻して来たのですから、まともな神経を持った人たちはもうウンザリしていることでしょう。
そういう中で、日本に興味を持った人たちが旅行にやってきて、ある真髄に触れたと思うのです。「あれ? こっちのほうがもしかして正解なんじゃない?」と。なぜなら、表面に見えているものは、みな精神の繁栄ですから、いま接しているものが心地よいと感じたときには、その裏にある精神にまさに触れたということなのです。日本を訪れる外国人が、こぞって称賛の声を上げていることの背景には、彼らの内面で、脱・西洋文明への予感と、願望がふつふつと沸き立って来ているのではないでしょうか?
もちろんそれは、世界人口から見ればほんの一握りの人たちです。しかし、「波動の法則」は〈類は友を呼ぶ〉ということを教えてくれています。いまは小さくとも、萌芽は萌芽です。光はますます強く当たっている。やがて芽が大きく育つときが来ます、必ず来る。なんと言っても日の本です。新しい世界の夜明けは、日本からと、きっとなるのではないでしょうか。みなさんも、その日のために心しておいてください。
とは言え、「覚醒」は一気には進まない。人々が「Oneness」を当たり前のこととして受け入れるようになるまでには、まだまだ相当の年月が必要となるでしょう。
現実的なシナリオとしては、その前段階として「宗教間の和解」というものが、果たして実現できるのかどうかということ。宗教は、その土地の文化と深く結びついていますので、一挙に葬り去ることなんてことはとてもできません。特に、中東とアメリカにおいては。プーチンさんとトランプさんは、その「和合」をなんとか果たそうと、いま水面下で必死の努力を重ねている。
Religious harmony is achieved now.
という日がもし来るのであれば、それはそれでいい。
う〜ん、でも‥‥
私としては、一気に「Oneness」に目覚めて欲しいのですが‥‥。
ハッキリ言いましょう。ディープステートのいつものやり口の「原型」というものは、ぜんぶキリスト教が作ったのです。キリスト教はイエス・キリストが創始した宗教ではありません。イエスは宗教などは作りませんでした。豪華な衣装も着ませんでしたし、壮麗な神殿も造りませんでした。それらはみな後の人々が作ったのです。
紀元325年に開かれた第1回「ニカイア公会議」を手始めに、数回の公会議を重ねる中で、三位一体論や、イエスを唯一の神の子とすることや、贖罪の概念、聖書などが決められていったのです。
この創始は、コンスタンティヌス1世(ローマ帝国の皇帝、在位:306 - 337年)の権力的野望より生じました。コンスタンティヌスは、ローマ皇帝として初めてキリスト教に帰依した人物というような言われ方をしていますが、そうではなく、自分の権力のためにキリスト教を利用したのです。この最初の皇帝が、もしもコンスタンティヌスではなくアウレリウス*であったなら、というのが事情を知る者たちの共通した嘆きです。
*マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus、121 - 180年)は、第16代ローマ皇帝で「五賢帝」最後の一人。アウレリウスは単に学識に長けていたということではなく「宇宙の真理」を知っていた人。アウレリウスの著した『自省録』は、今日となるもまったく古びてはおらず、普遍の「真理」の一端を伝えてくれています。
コンスタンティヌスは、最初の「ニカイア公会議」において、「イエス人間説」を唱えているアリウス派を謀略によって排斥してしまいます。アリウス派は数の上では絶対的多数だったのですが、それらを議場から追放し残りの者たちのみで満場一致の採決を行ったのです。つまりは不正投票です。そして、イエスを「神」に準ずる存在に祀りあげ、聖職位階制組織(ヒエラルキー)と教会の権威というものに一般大衆が隷属する構造を作り上げたのです。その後、改竄(ざん)した「聖書」の制定なども行われていきました。
こうしてローマ・カトリック教というものが成立していくのですが、「カトリック(Catholic)」という言葉は、もともとはギリシャ語の「Καθολικός」から来ていて、この語は「普遍的」という意味を持ちます。つまり、すべての民が帰依すべき宗教というわけで、当時のローマ帝国の支配力と強烈な思い上がりがその語に表われているのが解るでしょう。
このような「陰謀(Conspiracy)」を出発点として、やがて宗教上の儀式はもとより、法律、財政、学問、芸術等々、あらゆる面がローマ教会の統治政策によって支配されるようになっていったのです。中世の封建制度は、まさにローマ・カトリック教会の支配機構に他なりませんでした。
そして、この絶対的な権力のもとに、またそれを維持するために、権力基盤を揺るがすような芽は、徹底して摘み取られて行ったのです。異端審問や魔女裁判は、今日で言う「Fact Check」です。このチェックに引っ掛かった者は生きたまま火炙りにされ、カタリ派に対しては根絶やしにするまでの虐殺が行われました。しかしこうしたことは、すべて闇に隠されて来たのです。
大航海時代には、勢力の拡張と海外資源の強奪が組織的に行われました。「イエズス会」は今日で言うところの「CIA」、「騎士団」は「占領軍」といった役割に当たり、こうした組織が表とは違う顔を持って裏で暗躍していたのです。これらはみな、今とまったく同じように、「正義」の名のもとに、また聖なる宗教の普及という「慈善活動」の美名のもとに推進されました。
このように、キリスト教の裏面史には、不正投票、文書改竄、洗脳、偽善、謀略、諜報活動、傀儡政府の樹立、真実の隠蔽、偽旗作戦、軍事侵攻、略奪、敵対者の暗殺、大量虐殺、と今日ディープステートが行っているあらゆる形式が、すでに出尽くしているのです。
これが何を意味しているかと言いますと、悪事を為す人間の本性と行動というものは、いつの時代にあっても変わらないということです。そして、それには理由があります。悪人たちの総元締めが、霊界にいる「ルシファー(Lucifer)」だからです。「ルシファー」が、地上で働いてくれる人間をリクルートして育成し、思い通りに操っているのです。
結局、悪人というものは、「ルシファー」に捕まってしまった人間だと言えます。が、ここにも〈類は友を呼ぶ〉「波動の法則」というものがしっかりと働いているのです。
ここで「ルシファー」について言っておきましょう。「ルシファー」は〈堕天使〉と称されるのですが、この名の通り、本来であれば「天使クラス」に相当する「魂」が、「光」の道へ進むことを途中で止めてしまい、反対方向の「闇」側へと堕ちて来た存在です。
同様の存在を暗示した言葉に「サタン(Satan)」というのがあるのですが、私はこの言葉は好きではありません。「サタン=悪魔」と言ってしまうと、最初からそういう存在がいるという印象を与えてしまいますし、「善悪二元論」の対立を煽ることにもなってしまいます。結局これも、キリスト教が創作した真実の歪曲です。自分たちに都合のよい世界観を信者に植え付けて、恐怖心を煽るための。
詐欺師の手口というのは、7割、8割は本当のことを言って、残りの2割、3割に嘘を混ぜ込んで、全体をひっくり返すのです。「サタン」という存在が最初からいたわけではありません。もしそうだとすると、その「サタン」は誰が創造したのかということになって、創造主(神)との関係において矛盾が生じてしまいます。そうではなく、〈堕天使〉はやはり〈堕天使〉なのです。
しかし、この「堕ちた」 というのは、「光」の側からの見方であって、その「魂」からしてみたら、途中で踵を返して、逆方向に進むことを〈自発的に〉選択したということに過ぎません。要は、(下降ではなく)「闇」の山を上昇しようと決心したということなのです。そんなバカな話があるか!と思うでしょう? いや、いっぱいありますよ、地上でもネ。覚醒剤をやって捕まって、更生施設に入ってもういいかかなぁと思うところまで来たら、あら、またやってしまったというようなこととか。
それほど「悪」への道は魅力的だということです。霊界というところは、振動数別に細かく分かれた界層構造になっていて、死んで霊界に渡っても、「魂」はこの界層構造の中で、引き続き霊性向上の旅を続けます。天使クラスは「霊性密度図」の中では第五霊性密度に当たりますが、この領域の中も細かく分かれていて、大天使から天使見習いまでがいる。その時に、界層を一つ上がるごとに、霊性(霊格)と霊能が洗練され上昇していくのです。
さて、そうした中で、ある時期にちょっとした手違いが生じてしまいました*。霊性と霊能がバランスよく発達せずに、霊性の発達が途中で滞ってしまうという「魂」が出現したのです。霊能の力は充分に備わっているのだけれども、その力に相応しい霊性が伴っていない。 結局、その「魂」は、踵を返してこの界層を反対方向に進む決心をしたのです。
*現在はこうしたことがもう起きないように是正されているということです。が、その時期に生じた手違いの影響というものがいまだに残っており「ルシファー」として今も地上に影響を与えているのです。
なぜ?と思うかも知れませんが、昇るよりは降りるほうが遥かに楽ですからね。それに、自分がいまいる場所よりも上の界層のことは未知ですが、下の界層のことは既知です。結局、忍耐が続かずに、上の存在たちを恨めしく思ったのです。まぁ、一種のヤンチャ坊主というか、跳ねっ返りというか、そんな存在だったのでしょう。ところが、「霊能」は天使クラスのものを持っていますので、地上近くに降りてからは様々な悪事を働きかける存在となったのです。
そして前回にも言いましたが、一度「闇」の道に入ってしまったら、「光」の論理を徹底的に否定し続けなければならなくなってしまいます。途中で踵を返したことは、たとえほんの出来心だったとしても、反逆した者は反逆の「刈り取り」をいずれは必ず受けねばならなくなるのです。それが宇宙の普遍的法則です。
ですから、悪事も軽めのうちで止めて、早めに改心すればよいものを、それが出来ないのです。一度でも改悛の情などを起こしたら、その瞬間から、後悔や辛さと真正面から向き合わなければならなくなる。そこで、悪の極みをとことんまで追求して、なにがなんでも自分が勝利者であるということを示さなければならない、と考えたのです。これが、信じられないほどの「残虐性」をもたらしました。
さて、それを知ったところで、みなさんの中には、なぜ本当の天使がやって来て「ルシファー」を退治してくれないのか?と疑問に思った方もいらっしゃるでしょう。当然の疑問です。
しかしこれは、「波動の法則」により出来ないのです。天使が地上近くにまで降りるためには、自身の「波動」を地上界に適応したレベルにまで下げなければなりません。これはかなり危険な賭けであり、 エネルギーの消耗も激しいために、よほどの任務(Mission)がなければ行われることはありません。それに、地上の人間が、自ら解決しなければならないことには、原則「不介入」の方針が徹底されているのです。
ここに来て、政府、金融、医療、軍事、法曹、教育、エンターテイメント、エネルギー等々、あらゆる産業が、長年に渡って「闇」のグループに牛耳られて来ていたのだ、ということに目覚めた人たちがだいぶ増えてきました。今回、このタイミングでキリスト教の裏面史に触れたわけは、「宗教」もその一つであり、全部の原型は、実はキリスト教の成立の中にあったということをお知らせしておきたかったのです。
これは、実に大きな視点の転換を要します。このことを受け入れるのは、クリスチャンはもとより、信仰者全員にとって困難なことでしょう。けれども、これをもってキリスト教に刃を向けたりはしないでください。以前にも言ったと思いますが、「宗教」から入って「アセンション」に向かうという道もあるのです。どんな宗教にも「真理」のエッセンスは多少は含まれています。要は、形式ではなく本質が重要であるということ。そこをくれぐれも取り違えないでください。
そして、これも以前に述べたことですが、人類の「覚醒」は二段階で進みます。一段階めは、自分が社会の奴隷になって操られていたということに気づくこと。そして二段階めは、自分が身体だけの存在ではないと気づくこと。自分の本質は「魂」にあるのであって、身体は単なる乗り物に過ぎないということを〈実感として〉理解することです。
この二段階めを達成するためには、「宗教」に埋没したままでは不可能なのです。「宗教」を超えなければなりません。第一段階めの「覚醒」を得たとき、みなさんは、社会が提示してきたハシゴ段を登ることに、もうあくせくする必要はないのだと気づきます。しかも、その「気づき」に強制リセットされる瞬間が迫っている。今まで散々「世間に合わせろ、合わせろ」と言われ続けて来たのに、その「世間」が総崩れしていく過程を今あなたは見ているのです。
さて、そのハシゴを下りたときに、別のハシゴがあなたの目の前に見えるかどうかです。あなたの内なる向上心は一体どこへ向かうのか? それは、もはや「宗教」ではありません。あなたが向かう先は「真理」です。古代から変わらぬ、そして普遍的な「宇宙の真理」に直に向かうことになる。ローマ帝国が為政のために成立させた宗教に「キリスト」の名を冠した。それは「キリスト」概念の乗っ取りであり、「ルシファー」の「キリスト」への反抗だったのです。
それを、元の正常なものに戻す仕事が、今あなたに与えられました。双魚宮の時代は二元対立の「宗教」の時代でした。しかし宝瓶宮の時代になったとき、瓶の中にある「真理」が直接あなたがた一人ひとりに注がれるようになるのです。
さあ、ここで、視点を宇宙にまで引き上げて地球を眺めて見てください。地上では、今これらの大変革をめぐってすったもんだが続いています。しかし宇宙から見れば、地上での個々の出来事などは、みなどうでもよいことばかりなのです。そう見えませんか?
騙す人と騙される人がいて、支配する人と支配される人がいる。 悪事を為そうとする人と、善に生きようとする人がいる。独り占めしようとする人と、分かち合おうとする人がいる。すべては相対的問題で、「絶対」などという人間は一人もおりません。宇宙から見えるものは、人々のこうした心の動きであり、意識の変化なのです。
あなたたちの行動を決めているのは、 突き詰めれば、心の動きであり、心の動きを決めているのは、あなたたちの現在の「魂」のあり方、つまりは「霊性」の成長具合です。そのことを強く自覚してください。
中東とアメリカは、宗教に深く汚染(あえて汚染と言いますが)された地域であり、「正義」の「戦い」をしなければどうにも気がすまないという人たちでいまだ溢れかえっています。よって、一足飛びに「浄化」が起こるということは期待できません。
けれども、みなさんにはその一歩先を見越して、新しい時代の息吹を、周囲に、特に外国に今から放射していってほしいのです。日本人が持っている特性に自信を持ってください。あなたの優しさ、あなたの親切、あなたの思いやり、あなたの心配り、あなたの笑顔を、周囲にふりまいてください。そして、それを世界中に届けましょう。日本は日出(いず)る国です。
新世界の夜明けは日本から。みなの心を一つにして、必ずやそれを成し遂げましょう。
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地球というところは、やっぱり牢名主が支配する監獄惑星なんだと、改めて感じて心が重くなります。プランデミックが起こされたとき、これが「第三次世界大戦」の代わりとなって、予言されていたハルマゲドンはひょっとすると回避されるのではないかと考えていたのですが、どうもそんなに甘くはいかなかったみたいです。あとは、「核」が使用されないことを祈るのみです。
けれども、この戦争が世界大戦にまで発展することはおそらくないでしょう。西側はウクライナ戦への肩入れの失敗で疲弊し、経済面も軍事力も凋落の一途ですし、市民たちの中にも自国政府の腐敗ぶりと、バックにある世界的規模の謀略に気づいた人がかなり増えて来ましたから。ずっと気づかないフリをし続けなければならない政府と主流メディアは、市民の認識とのギャップを拡大して自滅していくか、どこかの時点で手のひら返しをするしかありません。
もう第二次世界大戦のころとは、情報環境も人々の意識レベルもまったく違っているのです。単に接するメディアが交代したということではありません。メディアの交代は、生活様式も意識のあり方をも変えてしまいます。ところが、謀略を行う側は、人間の行動心理とコントロール方法に関してはこれまでに充分研究し尽くしてきたという驕りがあるので、以前と同じパターンでいけると踏んでいるフシがある。でも、そうはいきません。
10月7日に始まる今度の戦争の発端は、いささか奇妙でした。ガザを実行支配するハマスが、鉄壁と言われてきたイスラエルの防御を難なくかい潜って奇襲に成功したのです。ネタニヤフは、自国民から警備にスキがあったことを非難されているのですが、しかし知っている人は知っている通り、ハマスという組織はイスラエルのモサド(諜報機関)が作ったものです。
それは、ISISやアルカイダや、日本における北朝鮮と同様の位置づけにあるもの。要するに、マッチポンプを演出するための道具です。実際、開戦直後は、イスラエル側とパレスチナ側の双方からフェイク・ニュースが畳み掛けるようにして流され、例によって世界各地で、両陣営の「旗」を掲げた大規模デモと衝突が展開される事態となりました。
そして10月29日夜には、ロシア連邦ダゲスタン共和国のマハチカラ空港で騒乱事件が起きた。この事件は、イスラエルから到着した飛行機にユダヤ人が乗っているという噂が流されて、これに制裁を加えようとして集まった暴徒が一斉に滑走路になだれ込んだというもの。その数、推定で1200人。しかしこの騒乱はまもなく鎮圧され、危うく大惨事となるところを逃れたのです。(のちに、この飛行機にはイスラエル人が一人も乗っていなかったことが判明)
後になって、この騒乱はダゲスタン向けのSNSを使って焚き付けられたもので、「西側諜報機関による工作である」とする声明がプーチン大統領より出されました。ダゲスタン共和国はチェチェンと並んでイスラム教徒が多く住む国。ロシア連邦は、多民族、多宗教で構成され、シオニストではないユダヤ人も多く居住しています。ですから、もしもこの挑発に乗ってしまっていたとしたら、連邦内は大変な事態になっているところでした。
このとき、ムスリムの長老をはじめとする、各宗教の指導者たちが重要な役割を果たしたと言う。長老たちは、復讐を煽るようなことはせずに「分断工作の挑発には乗るな!」と呼びかけて同胞を説得し、逆に「民族や宗教を理由に人々を迫害することは犯罪である」と諭したのだそうです。また、ユダヤ教の指導者は、正教、カトリック、プロテスタントなどすべての宗派に「友好の橋」を燃やしてしまわないようにと呼びかけたとのことです。(以上、「ロシア在住です」さんのX記事より)
このように、分断を煽り、社会を混乱と混沌に陥れていくいつものDSの工作が、必ずしもうまく可動しなくなっているのです。これは、以前にも言ったことがあるように、真の戦いは、左右の相剋ではなく上下の相剋だと気づいた人たちが増えてきているということと、轍(わだち)を一つにしています。もちろん、認識や理解力には人によってまだまだ大きな差があります。しかし、これまでとは明らかに潮目が変わっている。そのことは間違いありません。
したがって、今のイスラエルとパレスチナとの戦争の奥には二つの意図(意識)が隠れていて、同時にそれが重なり合って進行しているのです。一つは、左右の分断を焚き付けて、何としてでも世界を破壊に導こうとする意図(意識)です。もう一つは、 左右の戦いを演出しながら(あるいは利用しながら)、上下の戦いに勝利していこうとする意図(意識)です。
しかし、「宇宙の真理」から言えば、「上下の相剋」は「戦い」ではありません。一見、戦いのように見えるかもしれませんが、決して「悪人」を滅ぼそうとしているわけではありません。 そうではなくて、改心させようとしている。 改心してもらうことによって、その「魂」を救おうとしているのです。
でも残念ながら、そのことを理解している人は、今の地上には殆どおりません。ひどいのは、本来「上下の相剋」である「善・悪」の問題に、「正義」をプラスして、「左右の相剋」に仕立て上げてしまう輩というのがあとを断たないこと。そして多くの人が、その煽動に易々と乗っかってしまうのです。
10月25日の緊急テレビ演説で、イスラエルのネタニヤフはこう言いました。
「ハマスに対する我々の戦争は、全人類にとっての試練である。イラン、ヒズボラ、ハマスという悪の枢軸と、自由と進歩の枢軸との戦いだ。我々は光の民であり、彼らは闇の民であり、光は闇に勝利する。」「今こそ、一つの目的のために団結し、勝利を達成するために突進する時である。そして団結の力と、我々の正義に対する深い信念と、ユダヤ民族の永遠性に対する深い信念とに結ばれて、我々はイザヤ書の予言を実現する。 あなたの国境には、もはや盗みはなく、あなたの門には栄光がある。共に戦い、共に勝利しよう。」
困ったなぁと思うし、頭が痛くなってしまうのですが、それが現時点での地球人の限界なのでしょう。今の人類に「その先を見て!」と言っても酷なのかも知れません。
しかし心ある人は、次のことを知っておいてください。たとえ「悪人」を根絶やしにしたところで、地上に天国は訪れません。 なぜなら、その「悪人」の「魂」は、その後も生き続けるからです。そして、次の世代の予備軍を見つけては誘惑し、また次の「悪人」に育てあげる。しかも「正義」によって「悪人」を退治したと思っていた人たちも、 自分がしでかした間違いの報いを、いずれ受けることになるのですぞ。ゾゾゾゾーッ
あなた方は「善」と「悪」というものを誤解しています。
「光」と「闇」ということを都合よく解釈しています。
「正義」という言葉を、それぞれが手前勝手に使用しています。
この宇宙において、いったい何が「善」で、何が「悪」なのでしょうか?
実はこの定義は簡単です。 「宇宙の法則」、つまり「真理」に則った考え方と行動をしていることが「善」であり、それに背いた生き方をすることが「悪」なのです。そして、「善」に生きることも「悪」に生きることも、その「魂」の自由選択であって、 どちらを生きようと宇宙には罪も罰もないのです。「神」は、罪を着せたり罰を与えたりすることは絶対にありません。しかし宗教は、「罪と罰」の脅しの物語とニセモノの救済策(これもマッチポンプ)を信じ込ませて、わが教団への求心力として来たのです。
けれども、「法則」というものは絶対的で(だから、真の理なのですが)、善因善果、悪因悪果。自分が為したことは自分に確実に還る。つまり「罪と罰」というものは、その人自身が、まさに今の生き方を、「悪」側に傾倒することによって、自ら〈創造〉しているのです。では反対に、至高の「善」とは何でしょうか? これも簡単です。「愛」に生きることです。したがって、「愛」に生きれば「愛」が還るのです。極めてシンプルな理屈です。
しかしあなた方は、「愛」というものを、まだ本当には理解していません。所有や、執着や、偽善を「愛」と履き違えています。究極の「愛」は、意識において「分離」が存在しないということ。すべては一体だと悟るということです。すべてが一体ですから、自分が為したことは自分に還るのです。そのことを、もしもハッキリ認識できていたとしたら、自分がどんな生き方をすれば幸福であるかは、自ずと決まってくるのではないでしょうか。
「光」と「闇」は、 あなた方が考えるような対決構造にあるわけではありません。なぜって、すべては一体なのですから。一体にあるものが、どうして対決しなければならないのですか? それなのに、「光」と「闇」の戦いを「正義」になぞらえて語る人の、なんと多いことでしょう。ああ情けない。実に、これこそが「闇」の方程式なのです。解りますか? 「闇」の術中に、すでに落ちているということです。
「光」が「闇」に闘争を仕掛けたりすることはありません。
そんな馬鹿なことをするわけがないじゃないですか。
なぜかって? あら、もう忘れたの? たったいま言いましたよ。
自分が為したことは自分に還る。
そして、至高の「善」とは「愛」に生きることだと。
それをとっくのとうに身につけたからこそ、いま「光」のバイブレーションを発しているんじゃですか。そのような高位の存在となったんじゃないですか。「光」は、そうやって一生懸命に「闇」に堕ちた者たちを救済しようとしているのです。
ところがねぇ、「闇」に堕ちた人間たちが、まったく聞く耳を持たないんですよォ〜。「光」が届かないんですよォ〜。
だから「闇」と言うなり。
彼らには「闇」のほうが性に合っていて、「光」を拒絶するのです。
「闇」に堕ちた人間というものは、なぜこれほどの残虐非道を行えるのだろうか? 都市を丸ごと壊滅させたり、殺人ウイルスを撒いたり、人間の遺伝子を改変したり、チップを埋め込んでコントロールしようとしたり、子どもをさらったり、原爆を落としたり。そこまでしたい理由というものが、これまでどうしても解りませんでした。
操られている者たちのことは解るのです。なぜなら、私にも経験があるから。上の地位にいるものは、金と虚栄心から動いている。その次の地位にいるものは、保身から動いている。さらにその次の地位にいるものは、組織の論理に従って動いている。そして最下層の者は、洗脳と抵抗手段を奪われることによって動かされている。でも、最上位にいる者たちが持つこの狂信的な支配欲求というものが、いったいどこから生じて来るのかが解らなかったのです。
しかし、彼らがした発言というものを改めてちゃんと眺めてみると、実に底が浅いというか、言葉にまったく深みがないというか‥‥。この「底の浅さ」を、自分が、不可思議なパワーと取り違えていたということに気づいた。もう一段、奥に何か深いものがあると思っていたのです。でもそれは買い被りだった。まさに「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という感じ。なぁんだ、そういうことだったのかと。でも、今になってやっとそれが分かったことも、タイミング。
ネタニヤフが言う「悪の枢軸と、自由と進歩の枢軸との戦いだ。我々は光の民であり、彼らは闇の民であり、光は闇に勝利する」も、紋切り型であって何の深みもないし、まるでバカみたいだ。このフレーズは、すでにジョージ・ブッシュが911後に使っていて、この言葉に騙されたことはもうみんな分かっている。二番煎じ、三番煎じ(第二次世界大戦から数えれば)が通用するわけがない。むしろこの言葉を出したことで、〈自分の頭はブッシュ程度〉と白状したも同然になった。
さらに、「光」と「闇」をネタニヤフが持ち出したことで、結局は、イルミナティが計画した「第三次世界大戦」のシナリオに向かって、自分が動いていることも白状したことになる。
アメリカ南北戦争時の南部の将軍で、イルミナティの最高幹部であったアルバート・パイク(Albert Pike、1809 - 1891年)は、1871年に「我ら三つの世界大戦を通じて世界を平定する」と宣言し、「第三次世界大戦」のあり方ついて次のように予言した。
“「第三次世界大戦」は、政治的シオニストとイスラム世界の指導者との間の「イルミナティ」の「代理人」によって引き起こされた、相違を利用することによって促進されなければならない。戦争は、イスラム教(イスラム教アラビア世界)と政治的シオニズム(イスラエル国家)が相互に破壊し合うような形で実施されなければならない。
一方、他の国々は、この問題で再び分裂し、肉体的、道徳的、精神的、経済的に完全に疲弊するまで戦うことを余儀なくされるだろう。我々はニヒリストと無神論者を解き放ち、すべてにおいて恐るべき社会的大変動を引き起こす。その恐ろしさは、絶対的な無神論、野蛮の起源、そして最も血まぐさい混乱の影響を国々に明確に示すことになるだろう。
そして至る所で、革命家の世界的少数派から身を守ることを余儀なくされた市民が、文明の破壊者たちを駆逐し、キリスト教に幻滅し、その瞬間から理神論的な精神が羅針盤も方向性も失い、理想を渇望しながらも、その崇拝をどこに捧げればいいのかわからなくなった大群衆が、最終的に公の場に明らかにされるルシファーの純粋な教義の普遍的な現れを通して、真の光を受け取ることになる。この現れは、征服され根絶されたキリスト教と無神論の破壊に続き一般の反動的運動から生じるだろう。”
ですから、片方では、この計画通りにいま事が進められていると見ることができます。しかし他方では、この計画が自滅・頓挫に向かっている、と見ることもできるのです。あとは、人々の集合意識が、今後どちら側により多く傾くかということがポイントとなって来る。
さて、アルバート・パイクとネタニヤフの言葉で注目したいのは、共に〈自分たちは「光」だ〉と語っている点です。ということは、少なくとも、「光」と「闇」の序列があるということを認めているわけです。また、「光」と「闇」の対比で述べれば人々が反応する、ということも計算に入れている。その上で、〈自分たちは「光」側だ〉と言っているのです。これは、単に騙しのテクニックとしてそういう文脈を用いているのか、あるいは本当にそうだと信じているのか?
アルバート・パイクはまた、こういうことも言っています。〈我々は「神」に対抗しようとしているわけではない。我々がなしているのは「神」そのものの否定なのだ〉と。つまり、 世間で言われているような「神」の論理などはこの世には存在しない。我々が掲げる論理こそが「光」なのだと。そう妄信している。そして、その信仰の正当性の象徴としてルシファー*を掲げるのです。
*しかしこれは、厳密に言えば自己矛盾です。なぜなら、ルシファーは堕天使ですから、「神」の界層の存在を間接的に認めることになってしまいます。これは重要なポイントです。
ここで元に戻って、なぜ彼らが、あれほど残虐非道なことを平気で出来るのかということです。一つには、自分で直接関与しているわけではない、ということがあるでしょう。「闇」のトップに君臨する者は、チェス盤を前に駒を動かしているだけであって、実際に戦ったり暗殺したり兵器を作っている人間というものは、いくらでも取り替えのきく道具でしかないのです。今で言えば、バーチャルなテレビゲームをやっていると同じ感覚と言えるでしょうか。
しかし、もっと根本的なことは、 彼らには「胸の痛み」がないということです。 そういう「痛覚」が存在しない。これは実際に、ジョージ・ソロスの昔のインタビューなどを見ますと、これまで自分が行ってきたことに関して、罪悪感に駆られたりすることはまったくないと明言しているのです。彼のモノサシというものは終始一貫していて、金を儲けて、金の力によって世界を牛耳る。そして、それを利用してまた金を儲ける、という飽くなきサイクルです。
これこそが「愛」の対極にある姿であり、だからこそ、どのような残虐非道を為したところで平気なのです。自分たちのモノサシだけがこの世を生きる価値基準であり、それ以外のものにうつつを抜かす人間などは、 どうにでもコントロールが可能な馬鹿な家畜に過ぎないというわけです。一度この「闇」の支配構造に飲み込まれてしまった人間は、上に位置する人間ほど、こうした「無感覚」を強く持つようになっていくのです。そこで、冷血動物とか、爬虫類人類といわれたりすることになる。
でも、それがすべてなのでしょうか? 私はそうは思いません。 それは、彼らがルシファーを崇め、自分たちを「光」だと宣っている点に垣間見られるのです。パイクは、「神」への反抗ではなくて「神」そのものの否定なのだ、と言いました。がしかし、実際には、どちらも「神」のモノサシを借用しています。ここには一種の倒錯が見られる。ですから、「神」そのものの否定というのは、逆に憧れと、激しい嫉妬を意味しているのではないでしょうか。
どんな悪人とて、みな「神」が生み出したものですから、 彼らも薄々気がついているのだと思います。むしろ「イルミナティ(光輝けるグループ)」と名乗っているくらいですから、一般の人よりもはるかに霊界の知識には長けているのかもしれません。しかし、そしてだからこそ、一度堕ちた者は、絶対に「罪悪感」など抱くことは出来ないと考えるのです。それは、なぜでしょうか?
先ほども言ったように、宇宙には「罪」も「罰」もありません。しかし、自分が一瞬でも「罪悪感」を持った瞬間から「罰」が始まるのです。これが非常に辛い。「真理」の光が差し込んできて、わが内を照らすようになるほど、己がしでかした悪事に正面から向き合わなければならなくなる。だから、自分の価値観を貫き通すしかない! このままどこまでも突っ走り続けるしかない! 反省などした日には身の破滅だ!
ところが、彼らが馬鹿なのは、死んでも死なないということを知らないのです。それは彼らにとってよいことなのか? 死んでも「魂」は生き続けます。しかし金も、地位も、組織も、豪邸ももはや何もない。隠していた意識が、ぜんぶ丸裸になって、それを晒して生き続けなければならないのです。さあ、どうする? 少しでも「光」を取り入れて、辛い反省の道を歩み出すのか、それともそのまま暗黒街に永遠に留まり続けるのか‥‥。
しかし「神」は、そのような極悪人であっても、決してお見捨てになることはありません。 必ずや手を差し伸べてくださるのです。あとは、本人がいつそれに気づくことができるのかです。 所詮は、すべてが「神」の手の内にあるのです。なぜなら宇宙は一つだから。そして、その本質は「愛」だから。
この機会に、「愛」の本質を知りなさい。「分断」工作には決してそそのかされることのないように。その背後にある、不純な意図を見抜くのです!
何事にもレッテル貼りをしてしまう習慣はおやめなさい。
レッテル貼りをした途端、あなたは「分断」への道へ自らを追い込み、自分で自分の可能性を閉じてしまいます。
なぜ人々は、これほどまでにレッテル貼りをしたがるのでしょうか?
その裏にある本質をもっと見つめてみるべきです。
あなた方は、よく「ブレる」という言葉を他人への批判として使っています。そして「ブレないこと」を良いことだと考えています。 言い換えれば、強い「信念」を持つことを、暗黙の了解のうちに良しとしているのです。でも、なぜ「ブレないこと」が良いことなのでしょうか? 自然界をよ〜く観察してみてください。ブレていないものなんて何一つありませんよ。太陽も、月も、雲も、風も、海も、いつもいつもブレ続けているのが見えませんか?
船の舵を固定してしまったら、目的地には着けませんよ。 瞬間、瞬間の条件に合わせて舵をつねに修正するからこそ、ちゃんと目的地に到達できるのです。「ブレる」という言葉を「嘘をついた」という意味で使っている場合もあるかもしれませんが、それは別。 嘘をつくのはやはりいけません。でも「生きる」ということは、日々、舵を修正していくということなのです。
ですから、朝令暮改でよいのです。向上のための朝令暮改であれば。
つねに向上心を持って自分を改めていかなければ、成長はありませんよ。
確固たる「信念」を持っていなければ、生きるのが不安になる、と思うのかもしれません。また、自分の考えが間違っていたらどうしよう、もしも失敗したらどうしよう、と考えるのかもしれません。でも、間違っていたと気づいたら反省すればいいだけのこと、失敗だったと気づいたらまたやり直してみればいいだけのこと。「間違いや失敗を犯してはならない」と考えていたら、それが恐怖に変わってしまいます。
正しいことや成功することに価値があるのではないのです。経験すること自体に価値がある。経験して間違ったと気づいたり、失敗したと気づいたことが、あなたの財産になるのです。何も冒険をしなければ、間違うことも失敗することもないかもしれません。でも、霊界に帰ったときに、そのような消極的な人生を送ったことは、まったく評価をされません。そのような「魂」は、低位の波動世界に行くことになるのです。
何ごとにもレッテル貼りをしなければ気が済まないという人は、そうしなければ、気持ちの整理がつかないと考えるからです。曖昧なままにしておいてはいけないと思い込んでいるからです。
でもこれも自然界を見てください。あなたが森の中に入っていくとします。森の中には様々な木々や草花が生い茂っています。動物や昆虫たちもたくさんいます。木漏れ日が差し込み、涼やかな風も吹いています。一つの見方として、これは杉の木だ、これは樫の木だと見ていくことができるでしょう。
同じような外見を持つものをひと括りにして、分類的に見ることは可能です。昆虫に詳しい人は、一つ一つに細かな学名を当てはめて見るかもしれません。でもキノコを見ても、あまり詳しくない人は、全部を「キノコ」で済ましてしまうことでしょう。レッテル貼りなんて要はそんなもの。それはさておき、そのように分類したところで、それは「森」を見たことになるのでしょうか?
結論を言えば、「森」の全体を見ることは、どのようにしたところで不可能です。あなたは、自分がそのとき見た「森」の感じ、そこで得た自分のフィーリングを味わうことしかできません。つまり、「森」の中に分け入っても、「森」を見たわけではなく、それを素材として、自分のフィーリングを〈創造〉しているだけなのです。それをみな「見た」と称して錯覚しているのです。
いま述べたことは、それが悪いと言っているわけではなく、単にそういうものだということを指摘したまでです。さてその時、ものごとを分類的に見ていくことと、全体*から受ける自分のフィーリングと、どちらをあなたはより重要視するでしょうか?
*これは言葉のあやで、厳密に言えば「全体」を把握することは不可能。
実はこの点は、アートを鑑賞する際のキモとなる課題です。よく「アートが解らない」とか、「この意味はなんだ」と、作者に失礼な質問をしたりする人がいるのですが、そういう人はレッテル貼りのクセが抜けないのですね。自分の中に、どんな「フィール」が浮かんだかを大切に思う気持ちがない。そういう訓練を積んできていない。いつもいつも、分類して、意味づけをしなければ気が済まないのです。
自分の「フィール」なんてものは、しごく曖昧なものであって信用できない。それよりはレッテルをバーンと貼って「断定」したほうが気持ちがスッキリするわけです。けれども、あなたが「杉」とか「樫」とか分類したものも、よく見れば、一本一本がぜんぶ違うのです。同じものは一つだってない。それが「自然界」というものの本質です。人間だってそれとまったく一緒。宇宙というものは、限りない多様性によって出来上がっているのです。
レッテル貼りをすれば、多少は気持ちがスッキリするかもしれません。しかしそれは、 世界を狭めた、その範囲の「錯覚」を自分にもたらした、というだけであって物事を正しく見たというわけではないのです。自分の「想念」にレッテルを貼ることで、モヤモヤが整理できたというだけの話。そもそも「正しく見る」なんてことはあり得ないし、最初から不可能なのです。なぜって、「見る」という行為は、〈自分の「見方」〉なのですからネ。どのみち錯覚なのです。
どうせ錯覚をするのなら、誰かからの借り物の、狭いレッテルを貼って見るよりも、もっと大きな錯覚、つまり自分の「フィール」を大切にしたほうが楽しいし、ずっとステキだとは思いませんか? 「分断」の煽動に乗ったりしなければ、もっと穏やかに、もっと平和に、もっと安心して暮らすことができます。自分の「フィール」は自分で創造するものですから、あなたがハッピーだと思えば、あなたの人生はハッピーになるのです。
あなた方の多くは、自分の中に沸き上がる不安やモヤモヤを解消するためには、自分をきちんとリードしてくれる何らかの指針が必要だ、是非ともそれが欲しいと考えています。ハンターたちはそれを待っていて、罠に近づいてくる者の心のスキマにぴったり嵌るクサビを打ち込むのです。すると、打たれた人間は「これだ!」と思って飛び付いて、不安やモヤモヤが解消された気になる。だから、「旗」と「杖」をどうしても手放せない。
ところが、このレッテル貼りの工作は、いろんなニーズ(?)に応えるために、「分断」を煽る者の手によって、ご親切にもあらゆる場面で展開されていくのです。
例えば政治的スタンスです。保守と革新とか、右翼と左翼とか。これだけだとすれば二分です。さてこれに、今のような中東問題がプラスされたとしましょう。パレスチナ支持派とイスラエル支持派に。すると、政治的スタンスと合わせれば、分断は2×2で四つになる。
さらにこれに、例えば親ロシアと反ロシアというものを加えたとしますと、2×2×2で八つになる。もうこうなると、自分のスタンスをどこに定めたらいいのかが分からなくなってしまうことでしょう。
実際には、こんなものでは済みません。ワクチンを打つ打たないの問題に始まって、人種差別、地域間格差、民族、環境保護、LGBTQ等々、ありとあらゆるところに「分断」の種が蒔かれ、「闇」が送り込んだ工作員(イルミナティの代理人)たちが煽動の暗躍に動いているのです。
ですから、これをニュースで見せられたり聞かされたりしている一般市民の頭の中は、もうグッチャグチャで、収拾がつかなくなってくる。するとどうなると思いますか? 人々の思考は、最も単純な二分する位置に帰るのです。AかBか。ここさえしっかり保持していれば、それ以外のことにわずらわされることはない。自分の頭を使って考えずとも済むので、楽だし「ブレる」心配もない。
かくして「狂信者」とそのグループが出来上がっていくのです。これが、パイクの言った「この問題で再び分裂」「肉体的、道徳的、精神的、経済的に完全に疲弊するまで戦う」「ニヒリストと無神論者を解き放ち、すべてにおいて恐るべき社会的大変動を引き起こす」に繋がっていく。しかし、一度「狂信者」グループが出来上がると、今度はそこから外れてしまうことがだんだんと恐怖になっていくのです。
その、最も単純な「狂信」は、その人にとっては掛け替えのない「杖」ですから、もしもそれがポッキリ折れてしまったら、自我崩壊にも等しい事態となってしまう。そこで、やがてこういうことを始める。自分の周囲で展開されることを、先ずは「狂信」のフィルターを通して見て、それに合致しなかったりそぐわなかったりした情報は、捻じ曲げたり、都合よく改変したり、明らかな嘘をついたりするようになっていくのです。「FACT CHECK」はその最たるもの。
この段階に至ったときは、社会的に言っても、その人個人の問題においても、非常に危険な状態にあります。そういう人の目は、どこか焦点が定まらずに、濡れたような異常な光り方をして来るのですぐに判ります。いま、ディープ・ステイター と言われる人たちの顔を見ていると、みなそうなってきているのが判るでしょう。みなさんも観察してみてください。
ですから、「信念」など持ってはいけません。「信念」は身を滅ぼします。「信念」がないと、不安からは逃れられないのではないかと思うかもしれませんが、それはまったく逆。「信念」を持つと不安が手放せなくなるのです。「信念」など持たない生き方をしましょう。「信念」なんて切断です! あなたは自由。自由を謳歌する生き方をしてください。自分を自分で束縛する愚は、金輪際やめましょう。
ここで三たび、自然界そして宇宙のあり方を見習ってください。この驚くべき多様性。しかし、それらはみなどこかでつながっていて、分断する壁などはどこにもありません。すべてが連続し、調和しているのが解るのではないでしょうか。生き方のお手本は、すべて自然の中にすでに現れているのです。もっと自分を信頼しなさい。いつも自分のそばに寄り添い、あなたを導こうとしてくださっている存在の言うことに耳を傾けなさい。
宇宙の法則に準じていれば、それがすなわち「善」なる生き方になっているのであり、そこに不安などは起こりようがありません。
未来は明るい。あなたの今の意識と行動が、あなたの未来を創っているのです。
]]>この宇宙を、霊界を含んだ階層(界層*)構造として捉える、という考え方は遥か以前より存在していました。
*これまでは「階層構造」と書くことが多かったのですが、「界層」という言い方があることを知ったので、これからは「界層構造」と書くようにしたいと思います。
その中でもっともシンプルなものは、私たちが住む「地上」世界の上方に「天国」、下方に「地獄」を設定するという三層構造です。これは、明るい天上世界と暗い地下世界のイメージが実際に想像しやすかったことから、多くの宗教で取り入れられて来ました。そして、死後どちらの世界へ行くかは生前の信仰心と行いが決めるとされたのです。
しかしその後、死後どちらへ行くかがまだハッキリしていない霊魂、いわゆる「幽霊」をどこに位置づけるかという問題があって、霊界と地上世界との中間領域が考えだされ、宗教宗派によってこれに様々な名称が付けられ体系が複雑化していきました。これにさらに、霊能者や霊媒が説く死後の世界からのレポートが混ざり、今に見る多種多様な「界層構造」が巷に流布されるようになっていったのです。
あるものは四層、またあるものは五層だと主張します。また、仏教のいわゆる「十界論」は十層、「九品(三三品)」は九層に分類しています。このほか、「地上」世界を第一層としてその上に全七層を数えるものや、さらにそれを二分して十四層とするものもあります。このように、界層のとらえ方はみなまちまちで、さらに各界に付けられた名称もまったく統一感に欠けるものでした。このことは、「宇宙の法則」を理解する上での大きな障害となっていました。
なぜならば、霊界のことを学習しようとしてどれほど有益な書物に接しても、記述がみなバラバラなために共通点が見い出しにくく、結果として全体構造の把握を困難にさせていたからです。私は、これをなんとかしたいとずっと思い続けて来ました。
宇宙が「界層構造」から成り立っているということ自体は間違いありません。しかし、このように「界層」の解釈がまちまちであったことにはそれなりの理由がありました。この「界層」を決定づけているものの正体が、実は「振動数」にあったからです。いきなり「振動数」と言われても、たぶん何のことか解らないとは思いますが、これと近い言葉はよく使われて来ました。それは他ならぬ、この論考のテーマとなっている「波動(Vibration)」です。
みな「波動(Vibration)」というところまでは語るのです。がしかし、その先の科学的な説明が一向にありませんでした*。そのため「波動」は、つねに曖昧模糊とした怪しげな話として捉えられて来ました。私は、この「波動」が持つ性質である「振動数」の違いで「界層構造」を説明すれば、誰もが納得できる統一的な見解が築けるのではないかと考えたのです。
*その理由は、「啓示」というものが、基本的に発信側と受信側とのコミュニケーション能力の範囲内で行われるためです。すなわち受信側の霊性、知識、語彙、言語化能力の影響というものを免れ得ないのです。
多種多様な「界層構造」が提示されてしまう理由は、「振動数」の変化というものには境い目がないため、いかようにも分類が出来てしまうせいです。喩えて言うとヴァイオリンのネックです。ギターにはフレットが刻んでありますが、ヴァイオリンにはないので、どこでも好きな位置で弦を押さえることが出来てしまいます。しかし「振動数」の観点からルールを特定すれば(つまりフレットの位置を定めれば)、ドミファソラシのように万人が納得できる共通の分類というものが可能になります。
■振動数仮説の確定へ
私は科学者でもなんでもないので、その任に当たる才があるかどうかは判りませんが、これが今世の自分の役割だと思って、後世の人のためにその扉をちょっぴり開けてみたというしだいです。私がやりたかったことは、この曖昧模糊とした「界層構造」に規則性を見い出して、「振動数」を具体的に特定したいと考えたのです。それがもし出来れば、曖昧さが回避され、「宇宙の法則」に関する共通理解がグッと進むはずです。
また、この「界層構造」を「霊性密度」と呼ぶことにし、「次元」と呼ぶのをやめました。この「次元」という言い方は、もともとは「この世」を超えた世界という程度の曖昧な意味で「四次元」と言っていたものが、いつの間にか定着してしまったものです。そんなわけで、当初はそれほど深い意味はなかったのですが、その後、数学的次元と取り違えることが起きてしまったために、「アセンション」との絡みで多くの人が混乱に陥り、「界層構造」の正しい理解をはなはだ困難なものにしていました。
ということで、「オクターブの法則*」と呼ぶ七界層の分類に整理して、前回その振動数の範囲を特定しました。もちろんこれは仮説の域を出るものではなく、「オクターブの法則」の分類整理が絶対的な構造だと主張するつもりもありません。しかし、長年この研究をしてきて試行錯誤を続けながらも、様々な点で法則的な整合性がつくということと、全体構造が理解しやすいだろうということから、これを現時点での一応の決着としておきます。
*「オクターブの法則」という考え方そのものは、分類法の一つとして以前よりあったもので、「宇宙鍵盤」という言い方をされることもあります。グルジエフもこの七界層説を説いていて、半音階部分に当たるミ・ファとシ・ドの間を「ショック」と呼びました。これは、ちょうど第三から第四霊性密度、第七から第八霊性密度への移行に相当し、この区間で起こる激変を説明しています。
すなわち、前者では物質界から非物質界への移行、後者は〈この〉宇宙から絶対界(認識できない世界=こちらから見て「無」)への移行です。このように、七界層説は非常に的確に宇宙の構造を説明できることと、チャクラとの関連も説明できることから、私も七界層説を採用することに致しました。
これは、そう見るのが正しいと主張したいわけではなく、「オクターブの法則」のモデルを基本的なスケールとして頭の中に入れておいていただければ、他の様々な分類に接した際に、それぞれで語っていることがらは大体この界層のことを語っているのだな、ということが分かるので、内容の理解が早いということです。そこで、以下に確定した振動数仮説を整理しておきます。
第一霊性密度 10^-10 〜 1(Hz)
第二霊性密度 1Hz 〜 10^10(Hz)
第三霊性密度 10^10 〜 10^20(Hz)
第四霊性密度 10^20 〜 10^30(Hz)
第五霊性密度 10^30 〜 10^40(Hz)
第六霊性密度 10^40 〜 10^50(Hz)
第七霊性密度 10^50 〜 10^-10(Hz)※極大から極小へ相転移が起こる
■「界層構造」が表している基本的な意味
以上のように、各領域の振動数が特定できたところで、改めて、宇宙の「界層構造」が示すところの基本的な意味を下記に整理しておくことにします。
?〈この*1〉宇宙のすべては、たった一つの「振動するエネルギー体*2」を基として出来あがっている。これが、ただ振動数を変えるだけで、宇宙のあらゆるもの(霊界を含む万物)が創生されている。*3
?極微の「振動するエネルギー体」は、先ず第七霊性密度領域に生じる。そして、振動数を下げるにしたがって、しだいに生命体を創る三つの要素に分化していく。すなわち、物質の素となるもの(Element)、意識の素となるもの(Soul)、そして生命力を与えるエネルギーになるもの(Purana*4)である。
?この「振動するエネルギー体」は、第七から第五霊性密度までは非物質的な存在としてあるが、第四霊性密度まで振動数を下げると、その一部である「Element」がしだいに「物質化」していき、第三霊性密度以下ではついに物質となる。第四霊性密度は、非物質界と物質界の中間に当たり、この領域で「物質化」「非物質化」現象が相互に起こる。
?第六霊性密度から第四霊性密度には、特定の振動数に適合した、言い換えれば霊格に応じた知的生命体が存在する。大まかに言って、第六霊性密度は「神々*5」クラス、第五霊性密度は「天使(地上では天才)」クラス、第四霊性密度は通常の「人間」の魂が過ごす領域であり、第四霊性密度の下部は通称「地獄*6」と呼ばれているところに当たる。
これらの領域はさらに細かく界層化されていて、上位の霊格の者は振動数を下げることで自分より下のどの領域にも赴くことができる*7が、下位の霊格の者は自分の場と接している一つ上の領域をかろうじて感じる程度しかできない。
?第七霊性密度は〈この〉宇宙の最上位である「創造神」に当たり、それ以下の界層に属するすべては、結局この一者が創造したものということになる。
?しかしここで、当然ながら、「創造神」を生み出したものは誰かという疑問が沸く。そこでその存在を「第一原因」と呼ぶのであるが、この問いは結局、限りのないパラドックスを生んでしまう。そこで神秘学では、「第一原因」を「絶対神」であるとし、〈この〉宇宙のオクターブ(七界層)を超えた第八霊性密度に位置づけることによって決着を図っている。第八霊性密度は、こちら側の宇宙には属していないので、絶対に窺い知ることは出来ないとしているのである。
?さらに、「創造神」と「絶対神」は、役割こそ違(たが)えているがつまるところは同じ存在であるというのが結論となっている。この先はパラドックスであって、もはや人知の及ぶ範囲ではない。地上の人間はもとより、「天使」クラスの存在ですら、それを理解し得ないのである。なぜなら、あまりにも霊格が違い過ぎるのと、雰囲気は多少窺い知ることが出来たとしても、下の存在には上の存在〈であること〉を絶対に経験できないからである。
*1:〈この〉としている意味は、他の宇宙もあるから。宇宙は、基本的にユニバースではなくマルチバース。しかし、〈この〉宇宙以外のものを窺い知ることは、論理的に言って不可能。私見では、別の宇宙の「創造神」が、こちら見たときに「絶対神」の役割を果たしているのであり、この関係がブラックホールとホワイトホールを通じて互いに行き来し、収縮と膨張の呼吸を永遠に繰り返しているものと考えている。
*2:この「振動するエネルギー体」に関しては、「精髄(Essence)」と呼ばれていることが多い。
*3:この理屈が解らないという人は、「一絃琴」を想い浮かべてみてください。たった一本の絃が様々な音階を奏でているじゃありませんか。
*4:「Purana」は、他に「エーテル(Aether)」「根源的生命力(Vital Life Force)」「宇宙エネルギー(Cosmic Energy)」などとも呼ばれる。
*5:「絶対神」と「創造神」は我々には窺い知ることは出来ないが、第六霊性密度の「神々」クラスの知的存在は稀に姿を持って顕現する場合がある。
*6:「霊界」と「物質界」は重なってあるので、「霊界」の「地獄」と同じ波長を出してこの世を生きる者は「生き地獄」を生きているのである。そして、それは本人が自ら創り出している世界なのである。
*7:が、実際にそうすることは殆どない。仮に下位に降りたとしても、下位の者たちにはその存在を認識できない。
以上が、振動数の違いが示す「界層」の意味ですが、この構造は、他方で宇宙の成り立ちについて次の情報を与えます。
■この宇宙の成り立ち
?〈この〉宇宙は、極微の「振動するエネルギー体」から、極大の物質化宇宙までが、すべてトーラス構造(スパイラル構造)を持った相似形をなしている。この構造が生み出されるわけは、第一原因が有する陰陽の双極性を基に、先ず最初に電磁気力が発生するためである。
?トーラス構造は、振動数を下げていく中でしだいに鈍重なものとなり、やがて粒子化していく。このとき、現代物理学で言うところの素粒子から原子核の形成あたりまでが「物質化」と「非物質化」が起こる境い目の領域、つまり第四霊性密度領域となっている。
?そしてさらに振動数を下げると、素粒子同士の結合によって、ついには完全な「物質」様態、つまりは「原子」が形成される。あとは、「原子」が結合と分離を繰り返すことによって、我々がよく知るところの「万物」が連鎖的に生み出されていくのである。これを「三角形の法則」と言う。あたかもそれは、両親が持つDNAを取捨選択することで、第三の新しい命が誕生する様子と似ている。このとき、「原子」の結合と分離に作用する力が、それぞれ「強い力」と「弱い力」である。
?では、「原子」の結合と分離をコントロールしているものは何であろうか? これは、そのようにしたいという「意志」による。人間の場合は、DNAの組み合わせを、誕生してくる本人自身が決めているのである。この取捨選択には「カルマの清算」の予定が組み込まれている。一方、自然界の万物を創生しているのは、「創造神」の命を受けた「天使」クラスに所属する多数のグループ集団*で、それぞれに細かな担当役割が決められている。
*人間は、自然界にあるものを材料として生活に有用なものを作り出すことまでは出来るが、「生命」そのものを生み出すことは出来ない。それを可能だと思っているのは、人間の傲り以外のなにものでもない。
?この、コントロールされた秩序を持つ全世界を「コスモス(宇宙)」と呼ぶ。もしそこに秩序がなかったとしたら、それはたちまちにして「ケイオス(混沌)」となってしまう。実に、「ケイオス」を「コスモス」に変えているものは、「神」の「意志」なのである。したがって、「物質化」というものは「神」の「意志」の顕現であり、あらゆる物質は「神」のもとに帰りたいという本能を持つ。これが第四の力である「重力」を生むのである。
?このような経過と展開をたどって、我々がいま住んでいる「物質界」というものが形成されている。人間の目からすれば、それは堅牢で確固たるもののように見えるが、宇宙の界層構造からすれば、我々は極めて狭い振動領域を知覚しているに過ぎない。実際には、原子の内部はスカスカなのであって、あなたが暮らし、そして見ている世界には、同時に「宇宙(Cosmos)」の全界層が重なって存在している。
?前記から、人間がこの地上で「生きる」ということには、単に「物質界」に適応して生きるというだけではなく、同時に「非物質界」にも生きている*という意味が隠れているのである。これらは、個々の「魂」にとって、みな個別の体験学習の場として提供されている。そして、前者は「死」によって一つの体験機会を終えてしまうが、後者はその後も学習が継続され、一つの地上生活でのあり方と、死後に還ってから行く世界との因果関係をやがて知ることになるのである。
*前者の学習体験の場を「地球学校」とするならば、後者に当たるものが「虹の学校」というわけです。その意味は、体験を重ねることで「七界層」を少しずつ上昇していく学習になっているということ。頂上を目指すのに、早道はあっても近道はありません。一歩一歩着実に、虹の階梯を昇っていくしかないのです。
この終盤、?〜?で示されていることがらは、さらに次の情報を我々にもたらしてくれます。
■「神」とは何か、そして何処に?
それは、〈あなた〉という「存在」が、なぜ、どのように、そしてなんのために誕生したかという、究極の問いに対する答えです。
誰もが、それを知りたい、と潜在的には強く願っています。しかし、表立ってそれを口にする人は、殆ど誰もおりません。みんな毎日を生きることで精一杯ですし、そんな問いを発したところで、答えなどないと思われているから‥‥。
けれども、答えはあります。
人間は「神に似せて創られた」という話をどこかで耳にされたことがないでしょうか? 『創世記』の中にその記述があるのですが、「聖書」を絶対視する人たちは、これを神話的に解釈し、結果的に二つの大きな間違いを犯しました。一つは、人間だけを特別視して、他の自然物はすべて支配下に置きコントロールしてもよいと考えたことです。二つめは、「似せて」を逆側に敷衍(ふえん)して、「神」を人格神(父)にしてしまったことです。
人間は、動物の中でも唯一特殊な存在で「神に似せて創られた」ということ自体は間違っていません。それは「真理」です。しかし解釈が違うのです。これは、これまで述べてきた「界層構造」が顕現した姿を、人間が自己の身体にそのまま映し出しているという意味なのです。その関係は『霊性密度図』の中で示してあります。ですから、原理的に言えば、人間は「神」と同等の存在になれる可能性を有している、と言えるのです。
しかしもちろん、そんなことは殆ど不可能です。その理由は、第一には身体を持ったことによって、地上を生きるための必然性から「物質界」への適応をせざるを得なくなったこと。これによって、自己が行使する「霊性密度」の主チャンネルが「物質界」側に強く傾くことになったのです。第二には、その結果、「物質界」が示す欲望刺激に耽溺してしまい、第五霊性密度以上の感覚をすっかり喪失してしまったためです。
また、第三として、個々の人間が背負った「カルマ」の問題もあります。こうしたことが重なって、人間は「神に似せて創られた」にも関わらず、「神」を思い出すことが出来ない、という存在になってしまったのです。このことをチャクラとの関係で述べると、チャクラが閉じられた状態*にあるということになり、これを解放に導くことを「浄化」、解放したことを「覚醒」と言っているのです。
*個々人によってその状態が異なり、それがその人の性格をつくります。
そんなわけで「覚醒」に至る道はなかなか厳しい。が、ともかく、誰もが「神」に至る要素というものを最初から持っているのです。ただ、それに気づけないというだけの話。さてそのとき、「神」とは何か?ということになるのですが、これを、各宗教がそれぞれみな勝手な概念を造ってこれまでやって来たのです。その結果、互いにわが「神」を信じて合い争い、果ては正義の名の下に殺し合いまでするという、とんでもない事態がずっと繰り返されて(そして今も!)来たのです。
そこで、これを是正するためには、本当の「神」、真実の「神」に帰趨するしかありません。ウォルシュさんの『神との対話』では、これを新しい「神学」が必要*と言っていたのです。
*私はそれを「因の科学」によって、そして「信仰」(信じて仰ぐ)を「智一」(叡智を解して一体となる)に置き替えることによって、実現したいと願っているのです。今はまだまだ遠い(Soo⚬⚬⚬⚬ far away)ですが、そういう時代は、いずれ必ず来ます!
では、本当の「神」、真実の「神」とは何か?
答えは、「正確なことは分からない」。前段で述べた通りです。そう言うと、元も子もないと思われるかも知れません。が、しかし「分からない」ことを「分からない」とハッキリ言うことが大切だと思うのです。そうすれば、この「波動」の論理がしっかり定着した暁には、「わが神」を掲げる怪しげな宗教はもう成立できなくなってしまうことでしょう。
しかし、「正確なことは分からない」けれども、論理的な帰趨はなんとなく分かるのではないでしょうか? 「界層構造」を遡っていけば、最終的に第一原因(第八霊性密度)に行き着きます。論理的に言って、第一原因には、〈この〉宇宙を創生した素(もと)の「性質」が集約されているはずです。果たしてそれは何でしょうか?
「神秘学」が教えるところによれば、究極的には次の二つの性質(+生命力)に還元されると説きます。一つは「法則(Logos)」であり、もう一つは「愛」です。また、両者が〈この〉宇宙の「地球神界」に顕現した際の最高位を「キリスト(Χριστος)」と呼びます。(「キリスト」はキリスト教の専属神というわけではありません。)そして、さらに地上にまで降りて、「法則」を顕現したメッセンジャーが「ブッダ・キリスト」だったのであり、「愛」を顕現したメッセンジャーが「イエス・キリスト」でした。両者は二つで一つです。
そのことを思うと、最高神を「人格神」のように考えたくなるでしょうが、そうではありません。「キリスト神」が振動数を落として、下位の領域に顕現していった際に、その領域にふさわしい人格性をだんだんと表現していくのです。その領域の者たちにも受け入れられ易いように。ですから、第一原因にあっては、あくまで「法則」は「法則」、「愛」は「愛」です。両者は、「愛」もまた「法則」であり、「法則」がまた「愛」であるという関係としてあります。
そして、「法則」はどちらかと言えば「男性性」の発露であり、「愛」は「女性性」の発露として、陰陽の双極性をバランスしているのです。なお、かつてブッダやイエスであった存在は、霊界に帰られてからも高い霊位につき、今も地球の人間たちを温かく見守り、部下を使って指導の任に当たられているということです。
ここで、「人間」というものは、元をたどっていけば「第一原因」から創生された存在であり、「神に似せて創られた」ということを改めて思い出してください。であるとするならば、人間には、当然ながらこの「第一原因」の性質が最初から内包されているということになります。これが、「人間」というものは生まれながらにして救われている、という理由です。
ところが、「神」は、「人間」を自身のところには留め置かずに、地球への旅に出しました。しかも「自由意志の原則」を設けて。旅の道中で何をしてもよい、と言うのです。お前さんの自由だ、と言うのです。これは、なぜでしょうか?
もし「神」が、自分に似せた者を生み出さなかったとしたら、「宇宙」がどうであったかを考えてみてください。「神」についてを思考する者がおりません。つまり「神」は、分身を生み出すことによって、はじめて「神」自身を思考する存在と状態というものを創り出したのです。しかも、「自由意志」を与えたことによって、「神」を無視することも、否定することも、憎悪することも、愛することも、すべて「人間」の自由に任せたのです。
このことは、全能を謳われる「神」にしては奇妙だ、と思われる方がたぶんいらっしゃるでしょう。けれども、こんな喩えはどうでしょう。オーナー会社の中に、もしもイエスマンしかいなかったとしたら、その会社はどうなるでしょうか? 変化に取り残されて、遠からず潰れてしまうことでしょう。
「神」が潰れるということはさすがにありませんが、「神」はそうすることによって、自身の絶えざるバージョン・アップを図ったのです。「可愛い子には旅をさせろ」の故事そのままに、わが子に自由に旅をさせて、各自の経験を持ち帰らせることによって、自身のさらなる成長を計画しているのです。そして、この「宇宙」の大運動というものが、未来永劫に続いていく。あなた方は、一人ひとりが、みなその運動を構成している貴重な一員なのです。
(つづく)
今回が最終回になるかと思ったのですが、疲れ切ってしまい、書き切れませんでした。
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以前に、表 → 裏 → 影 → 闇 → 魔、という構造の話を何度かしましたが、覚えておられるでしょうか。それがこれほど明確になっている時というのは、今をおいてないのではないでしょうか?
表だけしか知らない人たちは、恐怖と信ワク(と言うのか推ワクと言ったらいいのか)の中で動いている。裏まで知った人は薬害に目覚め、その危険を何とか衆知させようとするのですが、表しか知らない人たちからは反ワクのレッテル貼りをされ互いに非難応酬する事態となっています。さらに影まで知った人は、ここに製薬会社と政治の利権を見て、それを糾弾し裁判に訴えかける方向へと進んでいる。
しかし闇まで知った人は、それらがWHOを含む世界的陰謀であって、「沸く珍」なるものは生物兵器であったということに気づいた。そして、その背後にはごく一握りの大富豪たちがいて、世界中の政府とメディアがことごとく彼らに操られていたということにも。さらには、そうした新興財閥の元締めには、中央銀行制度を創ったロスチャイルド家やロックフェラー家、サウジ王家、その他のブルーブラッドたちがいて、イルミナティの歴史につながっていく‥‥。
とまあ、そんな具合ですから、こんなにも認識に差のある上下間で話が通じ合うわけがありません。みんなが、それぞれの理解の範囲内で思考を巡らしているだけで、そこをブレークスルーしていこうとする人は殆どいない。そのため、それぞれの段階から一つ奥に入ると、もう「はあ? なんじゃそれ」ということになってしまい、せせら笑うか、頭のおかしい奴のレッテルを貼って攻撃するようになっていく。
この多段階の構造の上に、いつものディープ・ステートの、敵対するAチームBチーム双方に工作を仕掛ける謀略が絡み、「旗」を振り回し拳を振り上げなければ気の済まない人たちが、この策略に乗っかってワッショイワッショイやるもんですから、もう世界はグッチャグチャでどうにもならない。ああ、こうやって人類というものは滅んでいくのかと、胸を痛めつつも(宇宙人的視点から?)興味深く眺めております。
ハッキリ言って、今の世界動向を「闇」のレベルまで見通す力のない人は、もはやこの先の激変に対処していくことはかなり難しいことになると思います。ネットで見つけた次の動画は、アメリカでいま何が起きているかを系統的に説明していますので、お時間がある時にご覧になってください。アメリカのことなど対岸の火事と思っていたとしたらぜんぜん違う。その成り行きは全世界に激震をもたらすことになるのですぞ。
https://rumble.com/volqy3-41325483.html
間もなく、人類を不条理に支配し続けてきた「闇」の長い歴史が幕を閉じます。「闇」という親亀がコケれば、その上に乗っかっていたものは、全部いっせいにひっくり返ってしまう。しかし、途中段階までの理解しかない人たちには、何が起こっているのかがサッパリ解らないと思うのです。大波がやって来た時には、こちらから波に突っ込んでいかなければなりません。慌てて舵を切って逃げようとしても、かえって波を横腹に受け、舟は大破してしまうことになる。
今になって、騙されたとか、政府やマスコミが打てと言うから打ったんだとか、専門家が安全だと言うから信じたんだ、と言い訳しても時すでに遅し。そもそも、政府や、マスコミや、専門家の言うことを「信じる」という姿勢自体がNGだ。そんなものは嘘をつくに決まっているじゃありませんか。そうするのが彼らの仕事なんだから。歴史を見なさい。どうして自分を信じないのか? 自分の命運を他人に預けてしまって、あとで「騙された」はないでしょう。
日本社会には「自己責任」というおかしな言葉が流通していて、「これは自己責任でお願いします」などと言っている。こういう注意書きがわざわざあるということは、責任の大半は自分以外の誰かにある、とみなが思っている証拠です。しかしこれは大間違い。自分の身に関係したことの責任は、すべてその人にある。他者責任など一つもないのです。なぜなら、人には「自由意志」というものが与えられているのですから。
行動の「選択」は、すべてその人の「自由意志」の行使によるものです。
どうして、このような世界的な陰謀が易々と成立してしまうのか? 何度も言ってきたように、騙す人間だけでは詐欺や茶番は成立しません。騙される人間の参加があって、はじめてそれが成り立つ。ということは、世界的な陰謀が成り立った背景には、今の人類には騙されることを好む体質(別の角度から言えば根本的欠陥)があるということです。地球人は「旗」と「杖」をどうしても捨てられない。つまり、何かへの隷属と依存です。
最近見たインターネットの動画で、ベルギーの臨床心理学者で精神科医のマティアス・デスメットさんという方が、現在の社会状況について非常に的確な分析をされていましたので、その言葉の抜粋を以下に掲載します。デスメットさんは、独裁政治と全体主義体制は、一見同じように見えるがまったく違うものである、と前置きした上で次のように語りました。
「私たちがいま経験しているのは、民主主義モデルが、技術官僚モデルに取って変わられようとしていることです。全体主義体制の初期段階において心理的なレベルで起こることは、 ハンナ・アーレントが非常に示唆的な言い方で「エリート層と大衆の間の悪魔的盟約」と呼んだものの出現です。
社会の指導部であるエリートのかなりの部分と、国民のかなりの部分が、ある物語、あるイデオロギー、ある理論を狂信的に信じ込むようになり、 通常の倫理的境界線をすべて越えて、社会に容赦なくそれを押し付けることが、自分たちの義務だと信じるようになっていく。
そして、プロパガンダこそが社会をコントロールし続ける唯一の方法だと信じる政府やエリートと、強化プロパガンダに極めて弱い状態にある国民との組み合わせが、全体主義を生み出したのです。けれども、全体主義体制に賛同する人々やその体制を支持する人々でさえも、最後はみな全体主義体制の餌食になってしまうのです。」
要は、独裁政治は、独裁者が強権によって民衆を従えようとする(よって、民衆には不満が鬱積する)のであるのに対し、全体主義体制は、民衆が気づかないまま積極参加させられていくことによって成立する、と言うのです。まさに、コロナにせよ、地球温暖化と温室効果ガスという物語にせよ、それを「正しいこと」と「信じ」て、熱心に推進する人たちの「旗」振り活動により、全体主義体制が強化されていっているのです。
ああ、哀れなり羊たち。そして牧羊犬となることを名誉と思う馬鹿どもよ。
しかし、こうして旧人類が滅んでいくことになるのかと思うと、とても感慨深いものがあります。この、宇宙でも稀な大変革の時期を、自分が体験できることの巡り合わせに感謝です。ああ、そうなんだ。実にシンプルなことだったんだ。イルミナティと言ったって大仰に見せていただけだったんだ。所詮は「カネ」で、実体はショボイものだったんだ。ということが解って、半ば拍子抜けしつつも、因果応報の「宇宙の法則」には大いに納得がいったのでした。
そして10月7日、ついにイスラエルにおいても戦端が開かれる事態に。有る魔下ドーン。が、この血生臭さは、いよいよ終焉に向かっているという証拠。さて東アジアの地にもこれが飛び火するのかどうか? しかし、コロナもウクライナも決着し、金融も裏ではほぼ決着した。ということで、あとは、生き残る者たちがアセンションに向けて、素晴らしい未来を一緒に創造していくだけ。地球が、牢名主が支配する「監獄惑星」の地位を脱し、次の進化の段階へとジャンプする時がいよいよ来たのです。
この度の決着は、地球人類を次のように分けました。先ず生物的には、生き残るDNAと今後消滅するDNA(消滅していく血族)とが分けられた。そしてもう一つ、この機会に霊性のステージを上げた「魂」と、上げられなかった「魂」とに分けられた。この結果、これ以降の地球人類は、生き残るDNAを持った身体に、ステージを上げた「魂」が転生して来ることによって、これまでとは違った人類へと入れ替わっていくのです。
『アセンション 宇宙からのメッセージ』をお読みになった方は、たぶん次のくだりを思い出されるのではないでしょうか。〈悪い宇宙人の遺伝子操作によって、切断されてしまった第六感以上のセンサーを、これから修復していかなければならない〉と書かれてあったことを。問題は、どうすればそれが修復できるかということです。私にも、当初はこれが分かりませんでした。ただ、「瞑想」はその一つの訓練になるだろうとは思っていましたが。
しかし、プランデミックで投入されることになった「沸く珍」が「mRNA」という新しい遺伝子操作技術によって作られたものだと知ったとき、すぐにピンときたのです。始まりが遺伝子操作なら、ああ、終わりも遺伝子操作なのだなと。「人類削減計画」のことは知っていましたので、この「沸く珍」が決定的な役割を果たすだろうことは容易に想像できました。しかし同時に、これが人類の変容を促すことにもなるだろうと直観しました。
プランデミックによる分断の結果、生き残ることになるDNAは、直観の働いた人か、賢者の子孫ということになり、一方、消滅するDNA(消滅していく血族)は、悪人、愚者、為すべきことを為さなかった人、唯物論者に集中することになったのです。悪人は狡猾ですので、他人には「沸く珍」を奨めながら自分では接種していなかったりするのですが、悪事がバレたあとで処刑され消滅させられていきます。
ということで、あと何代かする間に、第六感以上のセンサーを持つ人間の割合がしだいに増えていき、さらにこれらの人々が交配して子孫を産むことによって、のちの人類は第六感以上のセンサーがどんどん強化されていくことになるのです。
さて、このようなことを書くと、血も涙もない人間のように思われるかも知れませんが、私なりに警告は何度もしてきたのです。けれども、私ごときの言葉では、残念ながら人々のもとには届かないのです。それと、いまの大方の人々の価値観においては、「生きるか、死ぬか」がいちばんの問題となるのでしょうけれど、私はそれらについては殆ど関心がないのです。関心の矛先は、もっぱら「どう生きるか」「どう死ぬか」という点に向かっている。
「生きるか、死ぬか」は、自由意志とカルマの関係によってほぼ決まるのであり、それよりも、そのときの「意識」のあり方が重要であると何度も言ってきました。たとえ死ぬことになるにせよ、死に逝く「意識」のあり方のほうが大事だということです。すべてに絶望して死ぬのか、憎悪の念を抱いて死ぬのか、それとも自分のこれまでの生き方を振り返り反省して死ぬのか、あるいは希望を胸に抱いて死ぬのか。
なぜなら、それによって、死後の行き先というものが決まってしまうからです。輪廻転生のメカニズムを知らない人、人生は一度きりだと思っている人、死んだら無だと考えている人たちには何を言ったところで仕方がありませんが、少なくとも自分が霊的存在だと自覚している人には、今の時期の「意識」のあり方が、その後の自分の生き場所を分けることになる、ということを知っておいていただきたいのです。
これは、「脅し」と捉えられると困るのですが(むしろ「救い」なのですが)、消滅するDNAを持ち、今世で霊性のステージを上げることが出来なかった「魂」は、アセンション後の地球にはもはや転生して来ることが出来ません。その代わりに、現在の地球と同程度の霊的バイブレーションを持つ別の惑星に転移させられます。そして、そこでまた霊的学習の旅を続けることになるのです。
このことを、前々回、アラン・カルデック氏の予言を通じて示唆しました。が、これを書くにあたっては、タイミングをかなり熟慮しました。あまり早い段階で語っても、違和感があり過ぎて理解されないでしょうし、場合によっては怒らせてしまう人が出てくるかも知れないからです。また、徳性の低い人に悪用されてしまうかも知れません。しかし、自分のメッセージが届かないことには自信を持った (・–・;)ゞので、決着が見えてきた段階で掲載しました。
そこで今日は、その上にもう一段の「神秘」をお知らせしようと思います。これも、このタイミングでお知らせするのが相応しいであろうと考えたからです。神秘学で言う「秘」は、別に「秘密」という意味合いなのではありません。宇宙には「秘密」などないのですが、その情報にアクセスできる人が極めて少数に限られるということと、普通の人には理解するのが難しいという意味で「神秘」と言っているのです。
また、この難しいという意味も、決して「難解」というわけではなく、話自体は非常に簡単なのです。がしかし、地上に暮らす人間の常識や、宗教観や、論理構造の範疇からは逸脱しているために、容易には受け入れることが出来ずに難しいと判断されてしまうのです。もっともそれ以前に、殆どの人からは「価値なし」と思われて、無視されてしまうのですが‥‥(⑉・̆-・̆⑉)。しかし「なぜ?」という希求が止まない、ごく少数の人に応える意味で以下を記しておきます。
冒頭に記した、表 → 裏 → 影 → 闇 → 魔、という構造。「闇」まではすでに記したのですが、最後の「魔」とは何を意味するのだろう?と、きっと探究心旺盛な人は思われたことでしょう。またその人は、これまでに一度ならず、次のような疑問を持たれたことがあったのではないでしょうか? 「神」は全知全能と言うが、もしそれが真実だとするならば、なぜ「神」は「悪」の存在をお許しになっているのか?
気の早い人は、そこで「だから『神』などいない」という結論を出してしまいます。そしてまさに、それと同等のことがイルミナティの成立論理だったのです。つまり、イルミナティが為す「悪」は、「神」に対抗する「悪」ではなく、「神」そのものの否定なのです。しかし、多くの人はそれを解っていません。そして、悪魔教とか、サタニストとか、ルシファー信仰とか、バフォメット崇拝などというレッテル貼りをしている。
そうした儀式を、彼らがしていないとは申しません。やはりシンボリックな儀式はしているのでしょう。あれも、そしてあれも。しかし、そうした点ばかり強調するのは、そのようなレッテル貼りをする人間たちの中に、自分たちは「神」の側に立っている、という思い込み(また、そう思いたい気持ち)があるのです。実に、アメリカから、こうした情報が怒涛のように押し寄せて来るのには困ったものです。これは、中世キリスト教が西洋社会にもたらした最悪の残滓です。
「善」が「悪」に勝利するという図式を持ちたいという気持ちは解ります。しかし、その図式に守られて、でもやっていることは、「善」も「悪」も両者がピストルを持ち、互いに相手側をぶち殺している。それを、「スピリチュアル」を自認する人たちが、ホワイトハットとかライトワーカーと言って興奮しているのですからまったく始末に終えません。
「スピリチュアル」という言葉には何の罪もありませんが、今や穢れに穢れてしまい、私は「スピリチュアル業界」というものが大嫌いになりました。「NESARA/GESARA」なんて、5年以上も前から、来週から始まる、来月には開始される、月末には通貨リセット完了、などと言い続けて、その度に予言を外し、しかもその謝罪もなく、いまだにこうした与太話を言い続けています。
まったくもって、真の「スピリチュアル」を知らないというか、そういうイタズラ好きの悪霊に自分が操られているということにすら気がついていないのです。高位の存在は、人々を脅したり、興奮させたり、嘘をついたり、騙したりすることは絶対にありません。そんな段階をとっくのとうに卒業しているからこそ、いま高位にあるのです。
「天使」と「悪魔」との戦いとか、「善神」が「悪神」に勝つという図式は非常に解りやすいし乗りやすい。しかしそれでは、「悪魔」は誰が創造したのか、「悪神」は誰が創造したのかという話になって、論理に矛盾が生じてしまいます。宇宙の創造者は誰か?ということをどこまでも追求していったら、必ず一者(Oneness)に帰趨する。このような当たり前のことに、なぜ人々が気づかないのか。なぜキリスト教は誤魔化し続けて来られたのか。
天が(神が、と言ってもいいですが)人間に与えてくれたものは、究極的には次の二つの法則です。一つは「自由意志の原則」であり、もう一つは「カルマの法則」です。「カルマの法則」は「因果の法則」と言ってもよいのですが、「因果の法則」よりはもっと広い概念(輪廻転生に跨がる)を含みます。しかし西洋では、これを「罪と罰」という概念に置き換えてしまったのです。その原因は、輪廻転生を認めなかったのと、「神」を人格的存在としたためです。
確かに、そこで起きる現象は「罪と罰」に見えないこともない。けれども「罰」と言ってしまうと、では誰が「罰」を与えるのかという話になり、「神」が「罰」を与えるという結論に至ります。ところが、そうするとまた矛盾が生じてしまいます。あれ、「神」は全知全能の存在ではなかったの? その「神」が、なぜ「悪」を創り、のさばらせた挙句に「罰」を与えるの? いったい「神」は何をしたいわけ?、と。
この矛盾を、ウォルシュさんの『神との対話』では、〈神が右手で左手を叩くと言うのか〉と言って表現したのです。
宇宙には「罪」も「罰」もありません。しかし「カルマの法則」は、絶対不動のものとしてある。つまり、一見「罰」のように見えるもののジャッジは、すべて本人自身が行っている、ということなのです。自分以外の何者も、本人に代わってジャッジはしない。その人の、ただ今この瞬間の「意志」の行使が、すでに将来の「カルマ」の応報を育てているのです。ですから、「今ここ(Be here now!)」を大切に生きなさい、ということが繰り返し説かれて来たのです。
そして、この「自由意志の原則」というものは、すべての霊的存在に与えられている。そこに一つとして例外はありません。つまり、邪悪な人間にも、自己の「意志」の自由な行使と個性とが認められているのです。But、「カルマの法則」は絶対だよ。善因善果、悪因悪果だからね。その法則の上に立ってどうぞご自由に生きなさい、というわけです。ところが、邪悪な存在たちというのは「神」そのものを否定しておりますから、そのような忠告もまったく耳には入らないのです。ああ、哀れなり。
さて、この話にはさらに奥があります。ピン!と来た人はいるでしょうか? これを聞いたら、「なるほど!」と思う人と、「えっ!」と卒倒する人が出てくるでしょう。
なぜ「悪」がのさばっているのか? なぜ「神」は「悪」の存在をお許しになるのか? これは、「善」と「悪」の戦いという話に繋がるのでもなく、ましてやイルミナティの「神」そのものの否定、という話が出口になるわけではありません。
「神」は「悪」を使って人類の進化を促す、という話がその答えなのです。
「神」を否定することなどできません。だっているんですから。悪魔信仰などを行なっても無駄。すべてが「神」の手の内にあって、ご計画どおりに転がされているだけということなのです。なぜって、そのような邪悪な放蕩息子たちを生み出したのも、また「神」なのですからネ。すべての存在が、「神」にとっては愛しい我が子なのです。さて、あなたは「なるほど!」と膝を叩いたでしょうか、それとも卒倒したくちでしょうか?
そんな話のどこに救いがあるのか?と思われる方もきっといらっしゃることでしょう。でも、これ以上の救いはないじゃありませんか。ですから、このブログでは、「あなたは最初から救われている」と何度も言ってきたのです。
「天使」は「悪魔」と戦ったりはしません。なぜ「天使」が戦わなければならないのですか? そんな存在が「天使」であるはずがないじゃありませんか。「天使」は、いつも「悪」に染まった人間たちを助け出そうとしてくださっています。ただ、悪人たちが、なかなか聞く耳を持とうとはしてくれないのです。「天使」たちも苦慮しているのですが、どうにもなりません。「波動」があまりにも違い過ぎて、コミュニケーションの一致点を見い出しにくいのです。
むしろ、邪悪な存在を救い出せるのは、彼らと近い領域に存在している、地上に住む我々なのです。地上の人間でなければ救えないのです。「天使」たち高位の存在は、そういう人間たちが登場して来ることを日々待ち望んでおられます。そこで、これを読んでくださっているみなさんにお願いしたいのです。これから次のことを心がけるようにしてください。
すべては「波動」です。邪悪な存在に、敵意や憎悪を向けないでください。また、彼らを怖れないでください。「魔」に防御姿勢をとっても意味がありません。「意識」に壁が築けるわけではありませんから。そんなことをすればするほど、逆に波長が合って、「魔」の侵入を許すことになってしまいます。「悪魔」とは、自分の中の「悪」に同調する心なのです。その集合体が「悪魔」的領域を創るのです。ですから、全員が同調を止めれば、地球の圏内から「悪魔」は消滅します。
しかし、今この「真理」を説いたとしても、影響力は殆ど持たないことでしょう。やはり地上では、「善」が「悪」を懲らしめるという図式で、この転換期が進行していくことになるのでしょう。今の地球人類の段階においては、それも致し方ないのかも知れません。
でも、みなさんは、50年後、100年後の世界を思い描いて行動してください。「悪」を消滅させようとして戦っても、またそれが「悪」を生んでしまいます。ご覧なさい。いまイスラエルのガザ地区で展開されている激しい憎悪の応酬を。この地に残るカルマが、21世紀の今も消えないのです。まったくもって、宗教というものはロクなものではない。
「悪魔」とは、自分の中の「悪」に同調してしまう心のこと。「悪」を滅ぼすためには、自分の意識を上昇させて、心の中から「悪」を追い出し、「光」を発する以外に手はないのです。
あなたには、どうかそのような存在になっていただきたい。そういう人を、本当の「ライトワーカー」と言うのです。
]]>9月8日 トクメイ様
9月21日 トクメイ様
ご好意に感謝いたします。どうもありがとうございました。
インフルエンザが流行っているようです。どうぞお身体をご自愛ください。
]]>「真理」は不変です。いつの時代にあっても変わらないものであるからこそ、それを「真理」と呼べるのです。もしも時代の変遷とともにころころと変わっていったとしたら、そのようなものは「真理」とは言えません。なぜなら、「理」とは「法則(Law)」の意味なのですから。
でも、なぜ変わらないのでしょうか? 実に、ここが重要な点です。それは、「真理」の本源というものが「無時間」の世界に存在しているからです。つまり「霊界」です。「無時間」だからこそ変わらないし、変わりようがないのです。私たちが住む「物質界」は、時間も空間もない「霊界」の中に、物質化という現象を経た形として存在しています。したがって、この「物質界」にも、「霊界」から漏れ出てくるようにして「宇宙の真理」というものが遍く浸透しているのです。
■自然界の「4つの力」を統一式で表したいという願い
前回の「続・不変の宇宙論」の中で、古代インド人の宇宙観というものを紹介しました。そこでは、現代の物理学が特定した、自然界に働く「4つの力」が、すでに4頭のゾウによって象徴的に表されていたということをお話ししました。(と書いたところで、いま気づいたのですが、「象徴」という字はまさに「象」の「シルシ」と書くんですねぇ)(☉。☉)!
この「4つの力」とは、「電磁気力」「強い核力」「弱い核力」「重力」のことを言います。この中で、私たちに身近なものは「電磁気力」と「重力」ですが、ミクロの世界を覗いたときには、さらに「強い核力」と「弱い核力」と呼ぶ力が存在することが分かっています。(最近では、単に「強い力」「弱い力」と言うことが多いようですので、以降はそう表記します)
宇宙の物質が何から出来上がっているのか? その最小単位を見つけようとして、近代の物理学者たちが懸命な努力を重ねてきた結果、現在ではクォークとレプトンと呼ぶ素粒子がその基礎的物質と考えられる、という「素粒子の標準モデル」が確立されました。
「強い力」とは、これらクォークとレプトンを結びつける力のことを言います。「強い」という名称がついているのは「電磁気力」と比べてという意味で、この力があることによって、同じ電荷を持つ陽子どうしも反発せずに結びつくことができ、原子核がバラバラになることを防いでいるのです。一方の「弱い力」は、「電磁気力」よりも弱い力ですが、さまざまな粒子を別の粒子に変化させる力を持っており、原子核の放射性崩壊などを引き起こします。
さて、現代の物理学者たちに共通した究極の目標に、この「4つの力」をなんとか一つの数式に取りまとめたいというものがあります。これを「超大統一理論」と言います。これは、「ビッグバン」理論との絡みで〈宇宙創生の初期には、これらの力はみな一つだったはずだ〉という考えに基づき、その証明が切望されているのです。しかし、この強い願望の背景には、物理学者たちの心情の中に、ある種の「美学」があるように思うのです。
それは、〈宇宙を貫いている法則は、きっとシンプルで美しいはずだ〉というものです。かのアインシュタインもそういう考えを持っていました。この直観は、まったくもって正しいものです。物理学者たちは、口にこそ出しませんが心の奥底で、その仕事を通じてなんとか「神」に迫りたいと考えているのです。
しかし、直観は正しいのですが、実際の作業はかなり難航しています。その理由として、「重力」を除く3つの力はミクロの世界の理論(量子力学)を使って説明できるのに対し、「重力」はマクロの世界の理論(相対性理論)を用いるために、両者の相性が悪く、一つに組み込むことが難しいのだ、と説明されています。どうも、数式をいじっていると無限数がいっぱい出てきてしまうようです。
しかし、私から見ていちばんの問題は、出発点に「ビッグバン」理論を置いていることだと思うのです。言い換えれば、宇宙の成り立ちを、すべて物質の作用の範囲内で説明しようと考えている。そこに、そもそもの無理があるのです。
自然界の現象のすべては数式によって説明できる、という考え方があります。あながち、これは間違いではありません。なぜなら、「法則性」は「神」の最大級の一面だからです。しかし「すべて」というのは、さすがに言い過ぎです。数学者や物理学者のこれは驕りです。自然現象というものを、物質世界だけの営みと思っているからそう考えてしまうのです。「神」の性質には、「法則」だけではなく「愛」も「生命」もあります。これらを数式を使って説明することはできません。
フィボナッチ数列や、素数や、円周率の不思議を見るとき、そこに「神」を見い出すのはごく自然な感慨です。しかし、不思議の奥にある、さらに「向こう側」へと超えていかねばならないのです。なぜならば、物質的宇宙が成立した「第一原因」は、非物質界、解りやすく言えば「霊界」にあるからです。この関係を明らかにしようという試みが、物質科学を超えた「因の科学」なのです。
ところが「ビッグバン」理論は、その始まりをあくまで物質に求め、不毛な議論を繰り返しています。なぜ、ある日突然、無から有が生じたのでしょうか? どうすれば無から有が生じることが出来るのでしょうか? それを生じさせた大本の力はどこから来たと言うのでしょうか? これら矛盾だらけの理論を、学者たちだけではなく、今ではみんなが信じ込まされている。これを捨てない限り「超大統一理論」の完成はありません。
私は、大学教育も受けておりませんし、難しい数式もまったく解しません。ただ、自分の中に湧く「インスピレーション」のままに以下の仮説を提供するものです。したがって、「ど素人が何を言うか」との批判は覚悟の上です。しかし私としては、現代物理学を否定したいのではなく、逆に進展させたいのです。「因の科学」という別からの視点を提供することで、なんとか「超大統一理論」を完成させて欲しいと願っているのです。
ではなぜ、「ビッグバン」理論を捨てない限り「超大統一理論」の完成はない、と言い切れるのでしょうか? それは、「重力」というものが、いったいどこから、また何によって生じているのかという難問に答えを出すためは、従来の「物質界」の科学に立っている限りは無理だからです。実は物理学者たちは、そのことにうすうす気づきはじめています。ところが、勇気を持って「因の科学」に踏み込むところまではまだ出来ていません。
■「重力」の発生原因は何か?
「4つの力」の中で、他の3つと比べて「重力」だけが桁違いに弱い理由はなぜか? 冒頭の「4つの力」の表の「力の大きさの目安」という項目を改めて見てください。「強い力」を1としたときに、「重力」は10^−40の力しかありません。これは、「重力」の発生原因が、「この世(物質界)」の中より生じているのではないからなのです。では「重力」の発生原因は何なのか?
それを言う前に、先ず「重力(Gravity)」の定義を振り返ってみます。「重力」とは、物体が他の物体に引きよせられるという現象の背後で生じている力です。熟したリンゴが地面に落ちる。これは、地球とリンゴが「重力」によって引き合った結果です。そしてこの力は、物体の「質量」の大きさに比例する。
アインシュタインはその理由を、「質量」の大きい物体ほど周囲の空間を大きく歪めることになるので、その歪みが急勾配となって周囲の物体がより転げ落ちやすくなるのだと説明しました。(もちろんこの説明と図は、3次元空間を2次元平面に置き換えたときの比喩です)
では「質量」とは何でしょうか? 今日「質量」は、物質の動きにくさの度合い、つまり慣性の大きさであると定義されています。「質量」が大きい物体ほど、止まっている時にはそこをじっとして動かず、動いている時にはそのまま動き続けようとするのですぐには止まれない、という現象が「慣性」です。しかしこの定義の中には、あまり意識されていない重要な要素が含まれています。それは、「質量」を持つものが「物質」だという点です。
そもそも、「物質」の動きにくさを「質量」と定義しているので、当たり前と言えば当たり前なのですが、「質量」があるかないかということは、その素粒子が「物質」であるかないかを分ける基準になるということです。2023年現在、「素粒子の標準モデル」には17種類の素粒子が並んでいます。このうち「光子」と「グルーオン」は、質量が0と見なされています*。ということは、「光子」と「グルーオン」は「物質」ではないということになります。
*少し前にはニュートリノにも質量がないと言われていましたが、その後あることが確認されましたので、現在の「標準モデル」は今後も書き換えられていく可能性があります。
現在の「標準モデル」の右側にある「ゲージ粒子」は、先に挙げた「3つの力」を媒介する素粒子ということになっています。すなわち、「光子」が「電磁気力」を、「グルーオン」が「強い力」を、「ウィークボソン(WとZの2種)」が「弱い力」を伝える働きをしています。そして、その類推として、「重力」にもそれを媒介する素粒子があるに違いないと考えられているのです。これには「重力子(Graviton)」という名前までつけられているのですが、いまだ発見には至っていません。
さて、この「ゲージ粒子」の列に、2012年7月にその存在が確認された「ヒッグス粒子」が並べられています。しかし「ヒッグス粒子」=「重力子」なのではありません。もしそうだとすれば話は簡単なのですがそうはいきません。
「ヒッグス粒子」というのは「ヒッグス場」が粒子として現れたものという解釈になっているのです。粒子として確認できたのはたまたまであって、粒子化以前の段階にある「ヒッグス場」が宇宙空間に満ちていると考えるのです。この「ヒッグス場」はゼリーが入ったプールのようなもので、そこに「質量」を持った「物質」があると、ゼリーのせいで動きにくくなり、そこに「重力」が生じるとするのです。ということで、「ヒッグス粒子」が「重力子」の働きを持つというわけではありません。
「重力子」と「ヒッグス場」の考え方は、今のところ二股を取っていて、「重力子」が見つかればスッキリしていいんだけれど、まあ「ヒッグス粒子」と「ヒッグス場」という考え方を使っても「重力」が生じる理由を説明できないことはない、という関係になっています。つまり後者は、今のところ、「重力子」が発見されない場合の予備的な位置づけになっています。これが予備的に捉えられていることには理由があります。
電場とは違って、「ヒッグス場」にはそれを計測する手段がありません。「ヒッグス場」は、あくまでも理論上の仮説なのです。それどころか、真空中にも未知のエネルギーが満ちているという話になってしまい、「物質科学」の立場から見るとどうにも気持ちが悪くてスッキリしません。そこで、それよりはなんとか「重力子」が見つからないものだろうか、ということを優先して考えているのです。
けれども、「ヒッグス場」の考え方は「因の科学」にかなり迫ってきたと言えます。「因の科学」では、はるか以前より、宇宙空間にはプラーナ(西洋ではエーテルと言った)が満ちていて、「物質界」というものはその中に局所的にあるだけだ、ということを言って来ました。
真空中には何もない、というわけでは決してないのです。そこには「空」がある。「空」があるからこそ、その間が「空間」になるわけで、もし何もないとしたら、「空間」はペシャンコになって潰れてしまいます。でも宇宙はそうなってはいないでしょう?
この宇宙の「空間」を、今は「重力」のことだけに着目しているので、「ヒッグス場」という解釈に落とし込んでいるのですが、この「場」は、意識を伝える場であり、同時に物質を育む場でもあり、そして生命エネルギーを与える場にもなっているのです。つまり、「宇宙空間」というものは、宇宙の万物を形成する培地の役割を果たしているわけです。「ヒッグス場」という解釈は、これらの一義的な役割からすれば、二義的(派生的)なものに過ぎません。
「重力」という力は、これら万物を生み出す培地である「場」に、局所的に物質が誕生した際(それが「質量」を持つ)に、この物質を元に、つまり「霊界」側に引き戻そうとする力なのです。言い換えれば、物質化の反作用です。
ゼリーのプールに、ゼリー以外には何もない状態というのを考えてみてください。ただしこのゼリーはガッチリ固まっているわけではなく、かなりユルユルで流れを持っています。この状態であるとき、そこにはまだ「重力」はありません。しかし、その一部が固まって物質化すると、これが抵抗となって、周囲のゼリーを押し広げようとします。その反発力が「重力」になるのです。
以前は、「重力」のことを「万有引力」と言っていた時代もありました。けれども、実際は逆で、「質量」を持った「物質」が周囲の「物質」を引き寄せるのではなく、これは周囲の空間側からの「斥力(反発力)」なのです。アインシュタインは重力が空間を歪めると言いましたがこれは逆で、空間の歪みが重力を生み出すのです。けれども、プラーナの空間は非常に希薄でかつ原子の内部にまで浸透しているために、物質の外殻に及ぼす力は極めて弱いというわけです。巨大天体となってはじめて実感できるくらいの力になるのです。
前回取り上げた「古代インドの宇宙観」の図をもう一度見てください。4頭の象のうちの一頭が背後に隠れているでしょう。これは、「4つの力」のうち「重力」だけが表に出ていない、背後から立ち上がる力であるということを象徴しているのではないでしょうか。
■「因の科学」から見た「4つの力」の成立過程
ついでに、残る3つの力のことも言っておきましょう。先ず「電磁気力」ですが、これは「非物質界」から連続して生じている、宇宙の最も基本的な力となっています。「非物質界」と「物質界」を含めて、すべてのエネルギーが「電磁気力」を発生します。
これは、「第一原因(創造神)」から放射されたエネルギーが、そもそも「陰陽の双極性」を帯びているためです。双極性があるからこそ、その間に新しいものが連鎖的に生み出されていき、宇宙の万物が形成されるのです。
そして、極小のものから極大のものまでが、「電磁気力」によって、みな「渦(トーラス構造)」を形成し、拡張(外へ、分裂)と収縮(内へ、融合)とを繰り返しているのです。そしてさらに、これが「物質化」の段階に至ったときに、そこに付随的に「強い力」と「弱い力」を発生させます。「物質界」では、「粒子」という「物質」が生じていきますので、これをくっつけたり壊したりするために「強い力」と「弱い力」が必要になってくるのです。
以上、宇宙の成立を考えた場合には、「第一原因(創造神)」にまで遡らない限り、謎は絶対に解けません。ですから、「ビッグバン」理論が大きなネックになっていると言ってきたのです。
ちなみに「ビッグバン」が広く信じられているのには理由があり、この説は、唯物論の科学者にとっては「人生」のアナロジーとなっています。つまり、人間の誕生から死までのモデルを、そのまま宇宙に投影して考えている。彼らは「死後の世界」があることなど認めません。そこで、宇宙の誕生についても、突如、無の世界に物質の火種が誕生したという話に拘泥してわけです。しかしそれは、取りも直さず、自分がどこから来てどこへ行くかを知らない、ということになるのですが‥‥
■「因の科学」の領域に踏み込み始めた現代物理学
とはいえ、現代物理学は、かなりその境界にまで踏み込んで来ました。「超弦理論(Superstring Theory)」はその一端です。これは、素粒子のさらに奥(素粒子を成立させる要因)にまで踏み込んだ理論物理学です。この理論が登場したのは、「超大統一理論」を模索する過程で、マクロ(相対性理論)とミクロ(量子力学)を融合させる際に、数学的に破綻のないような数式を編み出そうとあれこれ試行錯誤を重ねた結果、生み出されて来たものです。
しかし、成立の過程はどうあれ、素粒子が形成される前段階に「振動するエネルギー」が存在するという考え方は、古代より「因の科学」が主張していたこととピタリ一致します。「因の科学」では、昔から、この全宇宙を構成している素はたった一つの「振動するエネルギー」である、ということを言って来ました。その「振動するエネルギー」が、ただ振動数と振幅を変えるだけで、宇宙の万物が出来上がっていると説くのです。
これほどシンプルな科学はないでしょう。すべてのものが一者に還元されていくのです。ですから、全部が一つで、一つに全部があると語って来たのです。これが「全一」つまり「Oneness」という意味合いです。ですから、この「一者」を仮に「神」と呼ぶとすれば、あなたは「神」の一部であり、あなたの中に「神」がいるということになるのです。また、大自然は「神」の表現物である、ということになります。これが、宗教を超えた、新しい神学です。
■「霊性密度」の階層を「振動数」で表す試みに挑戦
さて、この「波動の法則」の連載をするに当たって、私にはどうしても成し遂げたい一つの願望がありました。それは、宇宙の階層構造のモデルを、「振動数」を使って特定したいというものです。「霊界」を含めたこの宇宙が、階層構造で出来上がっているということはずっと以前から分かっていました。そして、これまでにいろいろなモデルが提示されて来ました。ところが、その分け方はみなバラバラで名称にも統一性がありませんでした。
これが、「霊界」の構造を理解するうえで大きな障壁となっていたために、私はこれをなんとか整理したいとずっと思い続けて来ました。また、巷でよく言われる「次元」が、数学で定義する「次元」とは別物で、正しくは、先に言った「振動するエネルギー」の振動数の違いのことを言っている、という初歩的な誤謬にも途中段階で気がつきました。実にこのことが、多くの人を長年にわたって困惑と戸惑いの中に放り込んで来た主原因だったのです。
数学で言う「次元」は、直交する座標軸の数のことを言い、整数によって規定されます。したがって、2.3次元とか3.5次元といったものは存在しません。しかし振動数は、幾何級数的に連続して変化していくものであるために、そのどこで線引きしてもよいことになります。このため、数多くの階層モデルが生み出されてきたのです。
こうした中で、私はモンロー研究所の「Focus」の概念にヒントを得て、試行錯誤の末『霊性密度図』と呼ぶ7×7の階層モデルを新たに提案しました。このモデルでは、「オクターブの法則」の階層構造を整理し、物質界から非物質界までがどのような位置関係にあるのか、またその中で「アセンション」とは何を意味しているのかを明らかにしました。そこに加えて、小宇宙である「人体のチャクラ」との関連性も解るようにしました。
*このモデルは今も改良を重ねているために、たくさんのバージョンが存在します。最新バージョンは下記を参照してください。
http://rainbow-school.info/study_hall/spiritual_density.html
しかし、宇宙の階層が「振動数」の違いによって出来上がっていると言いながらも、肝心の「振動数」が特定されていないことに、私は満足していませんでした。そこで、「仮説」としてでも、なんとか「振動数」を特定しておきたいという願望がその後もずっとあったのです。これはまだ誰もやっていない仕事です。そしてこのたび、ようやくのことでその目処が立ちました。
■ついに適った「振動数」による階層分類仮説
ヒントになったのは、大橋正雄さんの「宇宙の階層性構成図」と、シェルドン・グラショウさんの「ウロボロス図」です。
今日、グラショウさんが提案したこの「ウロボロス図」は、物理学を専攻する人たちの間で数多く引用されるまでになっています。しかし、自分の尻尾を噛んでいるこの蛇図は、「物質界」のマクロとミクロの融合という願望、ないし期待にまだ留まっている感じがするのです。おそらくこうだけれど、証明できたらいいなぁ、という感じで、やはりまだ「ビッグバン」説の証明という視点からは抜け出ていないように私は思うのです。
しかし、大橋正雄さんの「宇宙の階層性構成図」は、物質の大きさとともに、振動数を二軸の対数グラフ上にプロットしていって、それが一直線にきれいに並ぶということを示しました。これは大発見であり、宇宙の階層構造が相似形から成り立っている(私が言うところの「マトリョーシカの法則」)ということを示唆しています。そして、これと同じことを、イームズが『Powers of Ten(10のべき乗)』という映画にして見せた*のです。
*イームズがこの映画を創ったときには、まだ「素粒子」の発見はありませんでしたので、その後、次世代の作家による同様コンセプトのバージョンアップ版が創られています(いま探したんだけど見つからないよ〜(╥﹏╥))。なお、イームズはイームズと書いているのに、グラショウさんにさん付けしているのはご存命でおられるから。一方、大橋さんは故人ですが、親しみを感じるのでさん付けしています。
大橋さんが生きておられたころにはまだ「超弦理論」はなく、大橋さんは「虚子」という概念と言葉を提示されていました。「虚子」というのは、まだこの世に物質化されてはいないが、物質世界の向こう側(非物質界)にあって、「素粒子(実子)」の基になるものという意味です。つまり、今日仮説として提示されている「振動するひも」と同じ概念を、大橋さんはすでに提案されていたわけです。
グラショウさんの「ウロボロス図」には「相似形」の考え方までは見られませんが、大橋さんとイームズには、明らかに「相似形」の考え方が見て取れます。そしてこれは、古代より神秘学が示してきた「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」を科学的視点から実証しようとしたものとなっているのです。そこには、紛れもなく美学があります。ピタゴラスも直観した「宇宙は、数学的にみてきっと美しいはずだ」という‥‥。
ということで、私もこれに倣って、大橋さんと同じ考え方のマップを作ってみようと思い立ちました。平面上に取った二軸は、横が振動数(Hz)で、縦が波長(cm)です。先ず、この平面に電磁波をプロットしていきます。電磁波は、波長と振動数がすでに分かっており、両者は反比例の関係にありますので、これを種類別に並べていくと、マップ上には直線が引かれます。この直線の延長上に、代表的な物質の大きさを配置すれば、振動数が求められると考えたのです。
次に、物質の波長をどう見なすかということですが、あらゆる物質が「渦」の回転運動をしているわけですから、1回転が正弦波の1波長に当たると考えて、「直径」の数値を充てました。この考えが果たしてよいのかどうかは判りませんが、対数マップに落とし込むと、べき乗の数値があまりにも巨大過ぎて、半径であろうが、直径であろうが、円周であろうがあまり関係なくなってしまうので、取り敢えず分かりやすく「直径」としました。
その上で、「第1霊性密度」は鉱物の領域ですから、銀河団あたりまでがその縁(へり)になるであろうと、また「第4霊性密度」は半霊半物質界ですから、素粒子の大きさの前後を含むことになるであろうと大まかな当たりをつけて、そのあいだを等間隔で割っていきました。そうしたところ、偶然にも(偶然ではないかも知れませんが)、振動数を10の10乗ごとに綺麗に7分割した構造が見えて来たのです。
また、そこにマッピングされた代表例を見てみますと、かなり納得がいく構成になっているように思えます。例えば、「第2霊性密度」には太陽と地球が入っていて、これらは植物を育てる基盤となっています。また「第3霊性密度」にはヒト(の身体)から体細胞、DNAあたりが入ってくるので、これにも納得がいきます。
「超ひも」は、理論的に導き出されたものですが、プランク長よりは小さいとされます。プランク長は1.616×10^−33cmですから、「超ひも」をそのあたりに配置すると、振動数は「第6霊性密度」内に位置します。つまり、「第一原因」である「第7霊性密度」から放たれた最初のエネルギー状態が「超ひも」に当たるのではないかと見当がつきます。
続く「第5霊性密度」には代表例が何もありませんが、この範囲は、素粒子の形成(物質化)以前の段階ですからそれも当然です。この領域は「霊性密度図」では「カラーナ界(コーザル界=原因界)」に相当し、「第4霊性密度」の「アストラル体」を形成する前駆の場ですからこれにも納得がいきます。
ということで、まったくの仮説に過ぎませんが、「霊性密度」の階層構造を振動数で表現したいという当初の願望は、取り敢えずこれで整理できました。あとは、これを基にして、のちの人がさらに精緻化ないし発展させていってくださるといいなぁ、と思っています。
また、この作業をしている際に、「なるほど!」というインスピレーションが追加で飛び込んできました。この平面のマップを、筒状にして極大と極小とをつないでみるのです。つまり、グラショウさんのアイデアを借用して立体に適用してみます。
すると、振動数の極大と極小が「第7霊性密度」、つまり「創造神」の領域に入り込んでいってつながるという理由を発見できたのです。
すなわち、「第1霊性密度」の外側に出ると、振動数は限りなくゼロに近づき、波形はフラットになっていってしまいます。一方、「第6霊性密度」の外側に出ると、振動数は逆にほぼ無限大となり、こちらの波形も、細かすぎるがゆえにフラットになってしまうのです。こうして両者は一つにつながる。「霊界」は、時空間のない異次元世界(「超弦理論」では9次元が想定されている)ですから、このような相転移が起こったとしても何の不思議もありません。
そして、このこともまた、古代より伝えられてきた神秘学がすでに語っていたことなのです。「因の科学」では、かねてより、極大を行き着くと極小側に抜ける、また逆に極小を行き着くと極大側に抜けるということが言われて来ました。その理由が、ここに朧げながら見えて来たのです。
このようにして、古代から伝わる神秘学と、最新の物理学がかなり接近するところまで、時代は進化して来ました。このまま進化を続け、いつの日か、「物理」と「霊理」の世界が、完全に一体のものとして語られる日が訪ずれることを願ってやみません。
(つづく、たぶん次回で最終回)
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よろしい。おまえたちの言葉にしてみよう。
始まりはない、終わりもない、ただ変化があるのみ。
教師はない、生徒もない、ただ記憶があるのみ。
善はない、悪もない、ただ表現があるのみ。
結合はない、分離もない、ただ一者があるのみ。
喜びはない、悲しみもない、ただ愛があるのみ。
優はない、劣もない、ただ均衡があるのみ。
静止はない、エントロピーもない、ただ運動があるのみ。
覚醒はない、眠りもない、ただ存在があるのみ。
限界はない、偶然もない、ただ計画があるのみ。
これが我々の知るところである。
この智恵を携えて生きなさい。
忍耐の助けになるだろう、おまえたち全員にとって。
---- ロバート・モンロー『究極の旅』より
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▪️『霊の書』1019節、1856年
人類の変容が太古より予言されている。諸君らは今その予言の時に近づきつつある。諸君らの中、人類の進歩を進めるために努力している者は、この変容の促進に助力しているのである。
この変容は高級レベルの霊たちの地上再生を通じて行われる。この高級霊たちは、漸次置き換えられていくことになる現在の人類よりも、ずっと進化した精神の持ち主で、彼らが新人類を構成することになろう。
日毎、死によって地上から刈り取られている邪悪人の霊、そして進歩を阻むすべての霊、これらは地球より一掃され、別の世界での再生を余儀なくされよう。
なんとなれば、彼らは高級な人類の中では場違いであり、彼らの存在で、高尚な人類の至福が損われるからである。彼らはこの地球よりずっと進化の遅れた、未だかつてないような世界に送りこまれよう。
その中にあって、辛い苦労な使命を果たすことになろう。この使命によって、本人は進歩の手段を得ることになる。だが、これを通じて、この若い世界の住人たち、自分より進化の遅れた同胞たちの進歩に寄与することになろう。
▪️『天国と地獄』アントニオ・B氏の招霊に際して、1865年
どうして狂人がいるのか? どうして愚かな人間が存在するのか? どうして死に際しても、生きることも死ぬこともできずに、長いあいだ断末魔の苦しみにさらされる人がいるのか?
処罰は人間全体を進化させるために行われるのではなく、あくまでも罪を犯した個人を罰するために行われる。実際、人類全体は個人個人が苦しむこととは何の関係もない。 罰は過ちに対して向けられるものだからだ。
多くの不幸が不当なものに見えるのは、今という瞬間しか視野に入らないからなのである。
過去、幾世紀にもわたって、最も教養のある最も身分の高い人々が、正視に堪えない残虐な行為を繰り返してきた。数多くの王たちが、同胞の命を弄び、権力をふるって無辜の民を虐殺してきた。今日われわれとともに生きている人間の中に、こうした過去を清算しなければならない人々がたくさんいたとしても、何の不思議があろうか。
個別の事故で亡くなったり、大きな災害に巻き込まれて亡くなったりと、数多くの人々が亡くなっているのも別に不思議なことではない。
中世、そしてその後の数世紀のあいだに、独裁政治、狂信、無知、傲慢、偏見などが原因で数多くの罪が犯された。それらは、現在そして未来への膨大な量の借金となっているはずである。それらは、いずれにしても返済されなければならないのだ。
▪️「人類再生のとき」1866年4月25日、パリにて。霊媒はM氏ならびにT氏
様々な事件が相次いで起こっています。そこでもはや「その時は近づいている」とは言わず次のように言いましょう。すなわち「その時がやってきた」と。
とは言え、洪水、地震、天変地異が起こると言っているのではありません。地球が部分的に痙攣する事は、あらゆる時代に起こってきましたし、いまも起こっています。それは地球の構造自体から起こるものなのです。そしてそういった事は時代のしるしではありません。(中略)
時代の先触れを探すために空を眺める必要などないのです。それよりも身の周りを見ればよろしい。周りの人間をよく観察すれば、そこにこれからの時代を告げるものが発見できるはずです。
地球に風が吹き渡り、すべての人間に覚醒を促しているのを感じませんか? 嵐が近づきつつあるという漠然とした予感が、世界全体を包んでいるのではありませんか? しかし、世界の終わりが来るわけではありません。地球は、創られたとき以来、進化を続けているのであって、これからもまだ進化を続ける必要があるからです。
しかし、人類は、大いなる変容の時期に差しかかっています。地球は次なる段階に入っていかなければなりません。訪れようとしているのは、物質的な世界の終焉ではなくて、これまでの精神のあり方の終焉なのです。
偏見、エゴイズム、傲慢、狂信が滅んでいくのです。毎日少しずつ、それらが消滅していき、やがて新たな世代が新たな建物を建て、それに続く世代が、その建物を堅固にし、完成させていくでしょう。
罪が償われ、地球は幸福な星になっていくでしょう。そして、そこに住むことは、罰ではなく、報いを意味することになるでしょう。悪に代わって、善がそこを支配するようになるでしょう。
人類が地球上で幸せに暮らすには、地球がよき人々で満たされる必要があります。善を望む人々だけが生まれ変わってくる必要があるのです。そして実際に、そうした時期がやってきました。
現在、大規模な移住が進行中です。悪のために悪を犯す人々、善の感情を持つことができない人々は、変容後の地球にはふさわしくないので、地球外へと移り住むことになるでしょう。なぜなら、彼らが残っていると、新たに混乱をもたらして、進化の邪魔をすることになるからです。
彼らは地球よりも進化の遅れた星に移住して、そこで善に対して無感覚になった心を変えていく必要があります。 地球で獲得した知識を携えて、その星に行き、そこでその星の進化のために使命を果たすのです。彼らが出て行ったあとには、もっと優れた魂がやってきて、正義と平和と友愛に基づく生活を展開するでしょう。
すでに言ったように、地球は一世代全体を滅ぼすような大規模な天変地異によって変容するのではありません。いま地球上に多く生きている世代は、徐々に姿を消し、それに続く世代が同じく徐々に姿を現すのです。
自然の秩序が乱れるという事はありません。物理的な世界が変わるのではありません。そうではなくて、「今まで地球で生まれ変わっていた魂たちの一部が、もはや地球には生まれてこなくなる」ということなのです。
これからは、未発達の、悪に傾きやすい魂の代わりに、進化した善への傾向を持った魂が生まれてくるということです。 人類の肉体が大きく変わるということではなくて、そこに宿る魂たちのレベルが上がるということなのです。
したがって、「何か超自然的な驚くべきことが起こって、人類が変わっていくだろう」と思っている人々は、失望することになるでしょう。現在は、移行の時期です。今は二つの世界が混在しているのです。あなた方は過渡期にあって、一つの世代が地球を去り、別の世代が地球にやってくるのを見るでしょう。(中略)
不幸なことに、神の声を理解することができず、盲目的な状態のままにとどまっている霊もたくさんいます。しかし、彼らがいつまでも闘争を続けることは許されていません。彼らは錯乱のあまり、自らの破滅に向けてまっしぐらに進んでいきますが、彼らが破壊を繰り返すことで、災難、不幸が数しれず生み出され、その結果、彼らはそれと知らずに、次なる大改革の時代を招き寄せているのです。
そして、それ以外にも自殺者の数が前代未聞のレベルに達するでしょう。そこには子供たちさえ含まれることになります。多くの人々が狂気に取りつかれ、自らの命を絶つことになるのです。まさに、それこそが、時代の異常さを告げるしるしとなるでしょう。
以上のようなことが、次から次へと生じるはずですが、それらはすべて自然の法則に則っているのです。
とはいえ、あなた方を覆っている黒い雲を通して(すでに嵐のうなり声が聞こえていませんか?)新たな時代の光が射し始めているのを感じ取ってください。
地球上のあちこちで友愛の基礎が築かれ、人々は手を差し伸べ合っています。野蛮が姿を消しつつあります。これまで数多くの流血の原因となってきた民族的な偏見、宗教的な偏見が消えつつあります。狂信、不寛容がその立場を失いつつあり、一方で、良心の自由が社会に導入され一つの権利となりつつあります。
あらゆる場所で、人々の考え方が変化してきています。悪が至るところに見られますが、人々はその悪を癒そうとしています。しかし、多くの人が羅針盤なしに歩んでおり、夢想の世界に迷い込んでいます。
世界はいま産みの苦しみの最中なのです。まだまだ混乱は続きますが、やがては目的がはっきり見えてくるでしょう。和解の先触れである統合が感じられるようになるはずです。それもまた時代のしるしなのです。
(以上、アラン・カルデック氏による予言)
「地球のアセンション」にともなう「人類の変容」。いまの状況をマクロで見れば、人類全体を襲う厄災がここで一挙にやって来たかのように、みなさんの眼には映っているのではないでしょうか。けれども、それは個人個人の意識の集合体がそうさせているのであって、真の問題は、それぞれの「魂」が過去世までに積み上げてきた「カルマの負債」に原因がある、ということがこれらの予言によって示されています。
「神」のご計画によって、地球を次の進化段階に移行させるために、地球にはいま非常に強い光が当たっています。そのため、もう「隠し帳簿」のようなことが出来なくなりました。課題は、あくまで個人個人のものなのですが、「地球のアセンション」の時期と重なったために、今までの「清算」を、誰しもが同時に迫られるようになったということなのです。
さて、この期に及んで、我々はどうあるべきなのでしょうか? すでに賽(サイ)は投げられました。重要なのは、個人の現在そして今後の「意志のあり方」です。それはまさに、今回の「沸く珍」接種に際しての、「自由意志の行使」の仕方のなかに象徴的に表れています。
直観を働かせた人、働かせなかった人。世の中の動きをよく観察している人、自分の世界のみで脳天気に生きている人。よく調べた人、ろくに調べもしなかった人。権威など信用しなかった人、権威を盲目的に信用した人。独自の道を選択した人、みんなに着いて行こうとした人。誠実であろうとした人、お金と地位のために魂を売った人。他者を助けようとした人、自分さえよければいいと思った人。
各々の選択の中に、過去世までに積み上げてきた「魂」の性向というものが、すでに表れているのです。ですから、自分の苦悩や不幸の原因を、一方的に社会や悪者たちのせいにするのは筋違いというものです。何度も言ってきたように、騙す人と騙される人とが相互に協力し合って、その集合した意識が、現在の社会を創り上げているのです。
人間のDNAを操作して弄び、種の消滅を画策する、という信じがたい暴挙。その計画をあらかじめ知っていたか知らなかったかは別として、ともかくそうしたことが、国連、政府、自治体、保健機関、製薬会社、医療現場、主流メディア、SNS、推進者、受容者の一致協力のもとに起きた。この歴史的大事件は、そのことに気づくキッカケを与えてくれた、とは思えないでしょうか?
怒りや恨みや批判の念は、社会を動かすことは出来たとしても、その人個人の「魂」を向上させることは出来ません。あの世へ持っていけるのは、いや、持っていくことになるのは「心」だけなのです。無時間の世界の中で、そういう自分の思念が永続する事態を想像してみなさい。あなたを覆い隠してくれる身体は、もうないのですよ。自分の「心」を丸裸にして、周囲に晒したまま生きねばならないのです。
その念を受け取る者は、いったい誰になるのでしょうか?
怒りには思いやりを、恨みには許しを、批判には慈愛を 悪には善をもって対処しなさい。それが、あなたという個人を成長に導く唯一の道なのです。
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一方、「ジェンダー(Gender)」という言葉を最近よく見かけるようになって来ました。こちらは「社会的に付与された性差」のことを言っています。解りやすく言えば、「男性像」「女性像」といった概念です。しかしなぜこの言葉が、最近になって急に多く耳にするようになったのか、不思議だとは思いませんか? それもそのはずです。例の「SDGs」の目標の5番めに「ジェンダー平等を実現しよう」というものが上がっているのです。
5-1.すべての女性と女の子に対するあらゆる差別をなくす。
5-2.女性や女の子を売り買いしたり、性的に、また、その他の目的で一方的に利用することをふくめ、すべての女性や女の子へのあらゆる暴力をなくす。
5-6.国際的な会議で決まったことにしたがって、世界中だれもが同じように、性に関することや子どもを産むことに関する健康と権利が守られるようにする。
はい、その目標はたいへん結構なことです。「国際的な会議で決まったことにしたがって」ってところはヒドイですが‥‥。しかし何度も言ってきたように、「環境を守れ!」と言っている人間たちが環境を最も破壊し、「貧困をなくそう」と言っている人間たちが世界中の富を独占しているのです。
「ジェンダー」の呼びかけも、これらとまったく同じこと。彼ら(世界支配層)が、実際にやってきたことを見てください。ジェフリー・エプスタインの島へせっせと通って、少女買春の顧客になっていたじゃありませんか。自分たちが、女性や女の子を売り買いしているんじゃありませんか。そして、妊婦や赤ちゃんにまで「毒沸く珍」を打たせて、人類史上かつて無かった「女性への暴力」を振るっているじゃありませんか。
これが、国連から各国に降りてきて、さらに自治体や企業に降りて、みんながそれを「良いこと」だと信じさせられていくのですから‥‥。もうどうにもなりません。ハッキリ言って、人類はいま存亡の危機に立たされているのですよ。「毒沸く珍」で遺伝子をいじられ、男女ともに生殖機能を破壊されていっている。人類を抹殺しておいて、「支配」も何もないものだと思うのですが、それが彼らの「宿願」だと言うのですから、いやはや極悪人たちの頭の中というものは解らない。
さて、この「ジェンダー」の問題をめぐっては、一時期、世界中でレインボー・フラッグはためく街頭デモが、同時多発的に行われていたことをご記憶ないでしょうか。しかしアメリカでは、キリスト教的な価値観を背景にして、逆にこうした運動に反対する考えが保守層を中心に強まっています。これには、女子のスポーツ競技に、男性の性転換者が参加してメダルを独占してしまうといった、ちょっと考えられないような行き過ぎがあったことも影響しています。
いったいこの裏には何があるのでしょうか? 今日では、環境デモにしても、民主化デモにしても、BLM(黒人の命も大切)やLGBTQのデモにしても、その背後に仕掛け人がいたことが解っています。それは、ジョージ・ソロスを筆頭とする支配層で、世界各地に傘下のNGOを設立し、ここに資金を投入して、そうしたデモを先導せていたのです。こうした、一見「草の根(Grass-roots)」に見せかけたヤラセのことを、皮肉って「人工芝(Astroturf)」運動と言います。
なぜ、このような声高な運動を支配層が繰り返し仕掛けるのか、ということについては、ジョージ・カーリンというスタンダップ・コメディアンが、非常に解りやすく解説してくれていますので、よかったら次のビデオをご覧になってください。そしてまさに、ここで語られているように、私たちはつねに「対立」することを煽られているのです。
●伝説的コメディアン ジョージ・カーリン
https://twitter.com/ShortShort_News/status/1693528258351108574
ところが、この「対立」は支配層が使う常套手段で、対立するAチーム、Bチームの両方ともを裏で操っているために、一般人には真実というものが非常に解りにくいのです。例えば、「沸く珍」が非常に危険なもので真実はこうだよと言ったとすると、それを陰謀論だと叩くグループを先ず用意する。すると、それにカチンと来る人が出てきますから、今度はその人たちを焚き付けるグループを用意して戦闘的に反論させるのです。こうして、「真実」は何かということよりも、「対立」構造に軸足を移してしまうのです。
誰の中にも、すがりたい(こっちが正しいと思いたい)という気持ちと、反対にコノヤローという気持ちが合い半ばしていますから、こういう仕掛けにはみんな簡単に引っ掛かってしまいます。かく言う私も、以前はこうした構造をまったく解っておらず、「嘘」が見抜けませんでした。小泉純一郎、バラク・オバマには見事に騙されました。それは知識不足ということもありましたが、そのころはまだ、その人物が発している「波動」の違いというものをキャッチできなかったのです。
余談ですが、最近 Youtube を観ておりますと、以前は頻繁に上がっていた右翼のプロパガンダ番組の推奨が、「A」の死後はキレイさっぱり表示されなくなりました。これはおそらく、統一教会との癒着や電通のことが暴かれたりして、そうした工作機関に資金が回らなくなっているのではないかと思います。ということで、振り返ってみますと、「A」とその取り巻き連中がやってきた政治というものの茶番劇が、本当にひどいものだったのだなぁと改めて感じるのです。
ちなみに、洒落っ気のある人が、「SDGs」の真実をチャートにしてくださっているので比較してご覧になってください。なお13番めは、例の「プロビデンスの目」に地球を丸ごと放り込んでいる図ですから、もう「何をか言わんや」ということで、「ノーコメント」になっているのかなぁと思います。
話を戻しまして、私は、権利を声高に主張したりすることには賛同できないのですが、「多様な性」ということに関しては、別の視点からこれを全面的に認めています。基本的に、誰かを傷つけたり、苦しめたりするものでなければ、どのような性があってもよいのです。そこには、人間特有の事情というものがあります。冒頭で生殖の自然ということを言ったのですが、本能だけで生きている動物とは違って、人間には精神性というものが備わっています。
つまり、「性」の中に精神性の要素が加わるということです。この精神性を持っているということはとても重要なポイントで、それによって人間は「愛」を学習していくことができるのです。人間の場合、「性」は、その入り口の役割を果たしているのです。
と同時に、なぜ「多様な性」が存在するのか、という理由を考えてみなければなりません。これは、人間の大本である「霊」の本質と、その「魂」の過去世での体験によって決まってくるのです。
人間の個性を決定づけているものはその人の「魂」ですが、「魂」というのは「霊」が身体(アストラル体のみか、もしくはアストラル体+肉体)に宿った状態のことを言います。つまり「魂」は身体を持ちますが、「霊」には身体というものがありません。意識だけの存在が「霊」です。そうしますと、「魂」は性別を有しているのですが、「霊」には性別が無いのです。つまり中性です。
人間は、輪廻転生を繰り返しながら少しずつ霊的成長を果たしていく、ということを申し上げて来ましたが、これを「性」の面で考えますと、時に男性に生まれたり、また時に女性に生まれたりしながら、両方の特性を経験して、やがては中性に近づいていくというプロセスを辿るのです。そうしますと、地上では、必ず身体的にどちらかの「性」を有することになるのですが、気持ちの上では、霊性の発達度合いに応じて中性感覚が増していくということになります。
左図の「陰陽太極図」も何度も紹介してきましたが、魚の目に当たる部分を、それぞれ陰中陽、陽中陰と言い、性差に当てはめますと、男性の中にも女性らしさがあり、女性の中にも男性らしさがある、ということを示しています。しかし、一般的には、受肉した時点から、肉体の性別に同化して精神も強く引っ張られていきますので、だんだんと男性は男性っぽく、女性は女性っぽくなっていくのです。
ところが、そうならない人がいます。身体上の自分の性に強い違和感を持つ人たちです。医学的には「性同一障害」という診断名が付けられています。転生後の人生のアジェンダ(課題)は本人が設定して来るのですが、性別は選べません。希望は一応できるのですが、必ずしもかなえられるとは限らない。ですから、男性優位が激しかった時代や地域においても男女比が半々にバランスされているのです。さてそうしますと、過去世で、男女のどちらかであることに強い執着を持っていた「魂」は、逆の性を付与されたときに違和感を持つことになります。
実に、考えてみなければならないのはこの点です。今のその性別を与えたのは天です。ということは、そこには「今世の人生においては、男性性(または女性性)を学びなさい」というメッセージが与えられているのです。ですから、通常であれば多少の違和感があったとしても、それに甘んじて従うべきなのです。しかし、それができないほどの違和感があるのだとしたら、その人は、その執着がどこから生じているのかを見つめ直してみなければなりません。
「性」の問題だけが特別視される傾向にありますが、それへの執着は、要するに肉体という「物」への執着であって、お金や所有物に対する執着と基本的には変わりないのです。この視点が、今の世の中にはありません。「LGBTQ」というものに対する現在の考え方は、片方が権利を主張し、もう片方が宗教的な価値観からそれに反対するという形が主流となっています。どちらも、それが「正義」だと考えているのです。しかし霊的観点からはどちらも褒められません。
宗教的「正義」によって「LGBTQ」を断罪したりしたら、そこでもう逃げ場を断ってしまいます。そして悲しい思いにさせたり、隠れて生きることを強いることになってしまうでしょう。実際にそういう時代が長く続きました。ですから、これらの抑圧がなくなって、もっとオープンになることはよいことです。でも「LGBTQ」の人たちも、ずっとその内に留まっているのではなくて、そこを入り口として、「愛」の完成を目指して行ってほしいのです。「エロス」→「フィリア」→「アガペー」へと。
「エロス」段階に「多様な性」があることについては、一向に構わないのです。前の段で言いましたように、輪廻転生との関係で、そういうことも充分起きうるのですから。しかしながら、その先が大事です。いわゆるノーマルと言われる人たちも、結局のところは同じであって、「性愛(エロス)」から「友愛(フィリア)」、「友愛(フィリア)」から「博愛(アガペー)」へと「愛」を拡大していくことが、人生上における究極の課題となっているのです。
その視点から言えば、「LGBTQ」がどうのこうのと言っていることなど、小っちゃい問題に過ぎません。入り口の「エロス」が、どんな「多様な性」であったとしても、どの人にも父性と母性の両方の意識が奥深いところでは眠っているのです。あとは、今世の体験を通して、どれだけそれを思い出すかです。両方を思い出せれば、性差による差別意識などは無くなって、敬愛や慈愛の気持ちが自然と湧いてくるようになるのです。
一般に、男性は女性よりも体が大きく腕力も強いという外見を持っています。また物事の全体を俯瞰して見る力があります。この能力がプラスに働けば、女性や家族を庇護する存在となり、グループのリーダーとしても活躍できます。しかしマイナスに働けば、腕力は暴力となり、統率力は支配欲となって、他の人々の細かな機微を理解できない傲慢な人間になってしまいます。
女性は、男性に比して腕力はありませんが、男性には見えない細々とした点によく気がつき、粘り強さや記憶力の点でも優れています。この能力がプラスに働けば、子どもや老人たちや弱い人たちを親身になって助ける存在となり、地に足をつけた先達として周囲から慕われていきます。そして、なんと言っても母性を発揮するようになるのです。しかしマイナスに働けば、自己の感情を統御できずに、トレンドにうつつを抜かし、育児さえも放棄してしまいます。
いま言った性差は、家庭の中での役割の差になっていきます。ところが、輪廻転生を知らない人々は、人生はたった一度きりだと思っていますので、それを差別と捉えているのです。その結果、間違った平等思想が吹き込まれるようになっているのです。
しかし50年前までは、家庭に専業主婦がいることは当たり前でしたし、一家庭の子どもの数も今より多かったのです。それが、その時代よりは賃金も増加しているはずなのに、ほとんどの家庭が共働きで、しかも子どもを持てなくなっています。いったい「ジェンダー平等」が目指しているものとは何なのでしょうか? 私は、癌の撲滅運動と同じような感じを受けるのです。運動をすればするほど、逆に癌で死亡する人間が増えていっている。
結局、これも他のミッションと同じことで、「良いこと」を推進するふりをして、逆に「家庭」を破壊し、家族をバラバラにし、男女ともに奴隷労働に駆り立てて、税金を搾り取るという構造を作っているのです。そして、この洗脳の闇も深過ぎて、なかなか晴れる日というものが来そうにもありません。
ともあれ我々は、神の計画の本当の意図を知って、まったき「愛」の人になれるよう、上昇を目指して参りましょう。
]]>それは「変化し続ける」ということである。
2019年末から始まった「Plandemic」騒動は、「直観」を働かせた人と、働かない人との、その後を大きく二分しました。これは「知識」の問題ではありません。「知識」など「沸く珍」開始直後には、まだほとんど誰も持っていなかったのですからね。ですから「沸く珍」の接種率というのを見れば、「直観」を働かせた人がおおよそどれくらいいたかが判ります。「あれ? なんか危険なニオいがするぞ」と思った人は、結局2割ていどしかいなかったのです。
そこには、その人の「情報キャッチセンサー」の問題もありますし、信頼できる「情報ソース」を日頃からどれだけ持っていたかという問題もあります。けれども、これらも含めて、やはりそれは「直観」に依拠しているということなのです。政府を信頼していたから、メディアを信用していたから、権威ある専門家が推奨していたから、というのは裏を返せば、自分自身の声を聴いていなかった、いや「聴こう」という発想すらなかったということです。
それから3年が経って、徐々に真実が明らかになってきたときに、手酷い目にあって、「騙された〜」「無念だ〜」と嘆く人が出てくるというのは致し方ありません。まったくもって伊丹万作さんの言った通りなのです。でも、そこからまた「争いごと」のタネを新たに見つけ出そうとする人が出てくるのを見ていると、「人間というものは‥‥、ほんとにもう‥‥」といささか悲しくなります。
よく、「反抗の声を挙げないのは、何もしないことと同じだ」と仰る方がいるのですが、それは違います。逃げるということも、沈黙するということも、「行動」の選択肢の一つです。闘争的な手段を取らずとも、意思表示は可能なのです。
この世で生きるについては、命がどうなるかということや、自分のキャリアがこの先どうなるのか、また生活の基盤がどうなるかといったことが、一個人にとっての重大問題であるということは解ります。しかし、ここまで来た以上は、こうした従来型の「心配ごと」を、そっくり捨て去る段階へと移行していかなければなりません。なぜなら、従来型の「構造」そのものが、いま崩壊へ向かおうとしているからです。このことは、これまでにも何度も言って来ました。
先ず金融システムが崩壊します。次いで政府が崩壊します。フェイクニュース・メディアや、学校矯育システムも崩壊します。「崩壊」というと、そら恐ろしく思うかも知れませんが、腐敗の極みにあったものが根こそぎ倒れていくわけですから、これは明るい未来への通過点なのです。また、これらは地球規模の巨大な「洗脳」システムを構成してきた各部分でもありますから、それらが崩壊するということは、人々の「洗脳」が解けていくということにもなるのです。
そして、この流れの最後の最後には、二元対立を煽ることで求心力を保ってきた「宗教」の崩壊も控えています。がしかし、それはもう少しあとのことになるでしょう。
いま言ったことは「脅し」ではありません。単にそうなると言っただけです。要するに、これはいつの時代にも起きている「変化の波」なのですが、ただ今度だけは、潮目が大きく変わる大変化の波が押し寄せて来ているということです。この「大変化の波」への対処の仕方に大きく三つがあります。舟の切先から飛び込んで大波を乗り越えていくか、そのまま波に押し流されていってしまうか、急旋回しようと焦って横波を受けて沈むかです。
人類の素晴らしい未来を予測できる人、「直観」が働く人にとっては、これは自分自身を変える絶好のチャンスとなります。崩壊後の「新しい世界」を創ることになるのは、その人たちです。けれども、未来を何も予測できずに、既存のシステムに浸かったまま、その維持だけをひたすら望んでいるような人にとっては、驚愕の現実が待ち受けていることになります。早い話が、乗っている泥舟とともに、自分も沈んでいくことになるのです。
けれども、これらの違いも、大局的に見れば、地上における「今世の体験学習」のあり方の違いに過ぎないのです。霊的には、生きるか死ぬかは大した問題ではありません。何をどう体験し、それをどう消化したかが重要なのです。それによって、「真理」への扉がどれだけ開かれていったかが問われているのです。これも以前に言ったように、いくつかの選択肢があります。そして、どの道を行くかは、その人の自由です。
?「直観」を働かせてこの時期を生き延びる。→ その後も体験学習の機会が得られる。
?生きるか死ぬかの目にあった後に、生かされることによって気づきを得る。
?死ぬことと引き換えにカルマを一つ清算し、「真理」の一端を知る。
?死んでもなお悟らずに、あくまで強情を張り続ける。
なぜ「争いごと」を好む人がいるのか? 「争いごと」をして決して気分がよくなることはないはずなのに、なぜそうすることを止めようとはしないのか?
と、つらつら考えてみるに、「人生にとって大切な課題ほど、人は後回しにする」の格言通りなのだなと気づかされます。「争いごと」をしている間は、己が人生の課題を考えなくてもいいのですね。目の前の「争いごと」に一生懸命で、自分の人生の課題についてじっくり考えているヒマなんかない!
ああ、もったいない。「今度こそは!」と自分にかたく誓って、希望して、この世に誕生してきたというのに‥‥。要はアジェンダ(課題)を忘れてしまって、くだらぬ道草にかまけているわけです。そのような人のなんと多いことでしょう。その人の今にとっては、道草が大問題なんでしょうけれど、霊的世界から見たら、その行動の裏に隠れている意味はまったく違うのですよ。
いいかな? あなたの本質は「魂」にあるんだよ。身体の自分が、自分ではないんだ。身体は、地球という惑星で生きるための単なる宇宙服に過ぎないんだよ。肉体の死後も「魂」は生き続ける。生き続ける「魂」にとっての知見とは、生前に、地上で味わった体験に対して、どのような「意識」を持ったかということだけなのだよ。残るものはそれだけで、あとの全部はロールプレイング・ゲームのようなものなのだ。
それなのに、ゲームをいかに戦うかに「価値」があると、大多数の人が思っている。だが、そうじゃない。「魂」の中に残るものは、その「魂」の〈意識的体験〉だけなんだよ。
誰もがいつかは死ぬ。それはその通り。しかしそれは、「気づき」のほんの初歩的なきっかけに過ぎない。そこを起点にして、その後に続く考え方には、分かれ道がいくつも生じていくのです。その中には、およそ真反対とも言える「生き方」の違いというものが出てきてしまう。
どうせ死ぬんだから好きなことをしてから死のう。
生きているうちにあらゆる快楽を味わい尽くすのだ。
今だけ金だけ自分だけ、他人のことなど知ったものか。
同僚を蹴散らし、自分はのし上がって勝利者となるのだ。
何事もなく、とにかく平穏無事に一生を終えよう。
自分を磨き、才能を思う存分開花させよう。
死ぬまでには欠点をなんとか克服しておこう。
人々に喜ばれることをしよう、喜ばれる喜びを味わってから死のう。etc.
どんな道を選ぶかは、その「魂」の自由です。
ところが、どの人も「いつかは死ぬ」という認識だけに留まっていて、そのあとの「死後の世界」については、ほとんどの人が何も知らないのです。せいぜいが、宗教で聞かされた偽りのドグマを丸暗記している程度で、聖職者と言えども、実はまったくの無智なのです。ですから、スヴェーデンボリが「たくさんの聖職者が地獄に堕ちている」と言ったのです。
しかしこの「無智」は、知識がないということではありません。いまだ「思い出せずにいる」ということであって、いずれは誰もが思い出すことになるのです。本当は知っているけど、記憶喪失に陥っているというだけの話。では、その「いずれ」とはいつを指すのか? 霊界に還った時です。ですから、死ねば誰もが思い出す。そして、逝ったあとになって「しまったぁ!」と机を叩いて(机はないけど)みんな後悔する。
それを、生きているうちに思い出そうというのが、最も古くて新しい、古代より不変の「神秘学」なのです。逆に言えば、既成宗教はそうしたメソッドを持たなかったのです。
悲しむ者は幸いである。その者たちは慰められる。(『マタイによる福音書』5章4節)
これを、「この世」の範囲内で見て、あれこれ解釈をめぐらしてみても、納得のいく回答というものは見つかりません。慰められるのは、「あの世」へ渡ってからのことだからです。「な〜んだ、あの世か」などと思わないでください。身体は一代限りの脱ぎ捨て。でも「霊魂」は永遠であって、「あの世」のほうが本籍地でありホームなんですから。「この世」というのは、ちょっと林間学校へ体験学習に行っているというだけのこと。
そして、ホームに帰還したあとになって、林間学校での過ごし方の採点が、極めて適切にまた厳格に行われることになるのです。
しかし、別に死ななくても、努力しだいで、生前から「あの世」へ渡る(垣間見る)ことは可能なのです。
あなたが、今の人生が非常に辛いものだと感じていたとしても、それはトランポリンの上に強く押し付けられているようなもので、一見して沈み込んでいるように見えますが、なぜそうなのかという、己がしでかした理由に気づき、克己忍耐と努力と奉仕の日々を送っていれば、向こうへ行ってからは大きくジャンプできるのです。
一つの人生は、一瞬の夢。辛い人生は悪夢のようなものです。「あの世」に帰還して、目覚めた時になって、それを乗り越えた体験が生きてくるのです。今日の辛い体験も、永遠の生命にとっての一つの試練、もしくは自分が過去世でしでかした贖(あがな)いなのだと知れば、受けとめ方も、生き方も違ってくることでしょう。
反対に、今だけ金だけ自分だけで生きて、快楽に耽り、他者をないがしろにしてきた人間は、それ相応の報いを、「あの世」に帰還してから受けることになります。「この世」でいくらうまく立ち回って、不正もバレずになんとか逃げおおせたとしても、「あの世」ではそんなわけには参りません。何もかもがすでにお見通しです。
「沸く珍禍」のもとで行われた、虚偽、不正、人体実験、大量殺戮。
自分が、死後どうなるかを知っていたら、あまりにも恐ろしくて、とてもこんな悪事は働けなかったことでしょう。
それは「罰」ということではないのです。宇宙には「罪」も「罰」もありません。ただ、自分が為したことは自分に還るという、厳格な「法則」があるだけです。それは、作用・反作用から成り立っていて、作用したところには必ず反作用が生じている。その法則があるからこそ、陰陽二極からなる宇宙が平衡状態を保っていられるのです。
「因果応報」と言うときの「報い」は、あとになってからやって来ると、誰しもが思っているでしょう。けれども、「意識」世界においては、作用したと同時に反作用が生じているのです。ところが、物質世界ではそれがすぐに表面化することはありません。なぜなら、反作用のエネルギーが物質界で具体的な形を取るまでには時間を要するからです。そこで、己が為したことの反作用に気づかずに、悪事を続けるという者が出てくるのです。
ところが、
死んだあとになって、まったく想像だにしない、恐ろしい「報い」がその者を待ち受けています。
いったい何がそれほどまでに恐ろしいのか?
それは、「死んでも死なない」し、「死のうと思っても死ねない」ということ。
「この世」で悪事を為していた時には、その者は身体という殻を纏っていました。それは、地球惑星の上を生きるための宇宙服だったのですが、同時にそれは「魂」の隠れ蓑にもなっていたのです。その者の「意識」を隠してくれていた。ですから、嘘をついたり、隠れて悪事を働いたりすることが可能だったのです。ところが、死んだあとには、もう隠れ蓑がありません。すると、その「魂」の性根が、すべて丸裸のスッポンポンになってしまうのです。
そんな「魂」のところに、いったい誰が近づいていくでしょうか? 同類やかつての子分たちならば近づくでしょうか? 分け与えてやる金も地位も、もうないんですよ。生前の同類たちは、利害関係で結びついていただけで、所詮はみな今だけ金だけ自分だけの人間です。自分のエゴを満足させるためなら、平気で他人の足を引っ張るし、いつでも仲間を裏切るのです。ということで、絶望的な孤独状態に置かれてしまう。
加えて、地上にいた時には隠されていた反作用の「意識」エネルギーが、「あの世」へ行ったとたんに表面化してきます。その人間が、仮に100人を殺したとしましょうか。すると、殺された人たちの呪いの声と殺された瞬間の眼が、その者をずっと取り囲み続けることになるのです。いくら、それを拭い去ろうと思っても決して拭えない。そこは「意識」エネルギーだけで構成された世界。この状態が、いつ終わるとも知れずに延々と続くことになるのです。
「助けてくれ〜」といくら叫んでも誰も助けに来てくれない。「あの世」というのは、波動別に分かれた完全な階層社会ですから、上からの働きかがたとえあったとしても、低い階層にいる者にはなかなか気づけないのです。また「もういやだ、いっそ死にたい!」と思ったとしても死ぬことはできません。「魂」の永遠性が恨めしくなるほど、孤独で絶望的な苦悶が、この先ずーっと続くことになるのです。この状態はまさに「地獄」ではないでしょうか。
知らない者は、それを「罪」に対する「罰」だと思うでしょう。実際に宗教は、方便のために、それを強調してきました。ところが「罰」ではないのです。
神(一者)は、「罰」をお与えにはなりません。宇宙は一つ(Oneness)のものですから、もし神が「罰」を与えるということになると、自分で自分に「罰」を与えるという変なことになってしまいます。全能であるものが、何ゆえにそんなことをするというのでしょうか。
神には「愛」しかないのです。一見「罰」のように見えるのは、この「魂」に対する慈悲なのです。たとえどんな悪人であっても、神にとっては等しく我が子。自分で気づき、成長していって欲しいのです。
「地獄」という場があって、そこに悪事を為した者が堕ちるのではないのです。確かに、「魂」は、その者に相応しい波動領域へと導かれて行きます。しかし、「地獄」という固定した場所があるわけではなく、この者の「魂」が、自分の「信念」にそった、自分に相応しい「地獄」を創造(想像)する*1のです。溜まっていた反作用のエネルギーが、周囲にそれを創り出すのです。この点で、「この世」にいたときと、環境創造*2のメカニズムにはなんら変わりがないのです。
*1:このことは、よ〜く覚えておいてください。同様に、「死後の世界なんてない、死んだら無だ」と考えている人が、死後にどんな世界を創造することになるのか? 苦しみから逃れようとして自殺した人は、死後にどんな世界を創造することになるのか? 自分に嘘をつき続け他者を騙して来た人が、死後にどんな世界を創造することになるのか? また、霊的世界になど何の関心も持たずに怠惰な日々を送っていた人が、死後にどんな世界を創造することになるのか? それぞれのケースをじっくりと考えてみてください。
*2:あなたの部屋を見回してみてください。あなたの心の状態が投影されていることに気づきませんか?
これが「自業自得」の真の意味です。苦しみが、いつ終わるかも分からないというのは、実に耐え難いことです。しかし、いま言ったことの中に、永遠に続くかと思われる「地獄」から脱出するヒントが隠されています。さて、お気づきでしょうか? もしあなたが「地獄」に堕ちた時には、それが役立つことになるかもよン。( •͈ᴗ•͈ )
冒頭に掲げた言葉を、もう一度、思い起こしてみてください。時代の変化を怖がっていてはなりません。変化することは必然です。ですから、変化への対応というよりも、「直感」を働かせてこちらから変化していくことで、時代の変化と合致していくということになるのです。ということで、「大変化の波」を、一緒に明るく乗り切っていきましょう。
]]>?宇宙の大きさには果てしがない。
?宇宙は極大から極小のものまでが相似形で成り立っている。
前回の「波動の法則」では、以上3点の、古代より不変の「宇宙論」についてを解説しました。
■古代の文献を読む際の二つの注意点
「神秘学」について、私たちが学ぶ際に心しておかなければならないことが二点あります。それは、「時間軸」の幻想と、「血筋(DNA)」の幻想にとらわれてはならない、ということです。
しかし実際には、人間社会で認識されている世界観というものは、この両方の幻想の上に構築されています。それが当たり前であり、前提であって、誰もそれを幻想だとは考えていないのです。これまでにも、「現実は幻術」だと幾度か語ってきたことを覚えておられる方もいるでしょう。けれども、そのことをたいていの人々は理解できません。そして反対に、「真理」を伝える「神秘学」をトンデモ話のように扱って、いつの時代にも排斥したり攻撃したりして来たのです。
先ず、霊界は「無時間」だということです。肉体を持った私たちが暮らす世界は「時空間連続体」の中にあります。しかし、物質を超えた世界は「意識」だけのエネルギーで出来上がっており、そこには時間も空間もないのです。そのことを、こちら側から理解しようと思うと「そんなバカな!」ということになってしまいますが、反対側から見ますと、「時空間連続体」というのは、広大無辺な宇宙の中の「限定された波動領域」に過ぎないのです。
言い換えますと、私たち地球人というのは、自由がかなり制限された、負荷の多い、生きるためには何かと工夫をしなければならない不便な場所に「閉じ込められた」存在なのです。これが、地球という惑星がしばしば「監獄」に喩えられるゆえんです。
もう一つは、私たちはけっして肉体だけの存在ではなく、個々の本質というものは「魂」にあるということ。肉体はその衣服に過ぎません。「魂」は、肉体の死後も生き続け、自身の霊的向上を図るために、地球学校に何度も再入学を果たし、輪廻転生を繰り返すのです。エドガー・ケイシーのリーディングによりますと、イエスは30回の転生があったと言います。イエスにして30回ですから、普通の人の転生回数は数百回にもおよぶのです。
このことから言えるのは、その人の現在の性格に似ている人物とは、過去世の自分なのです。ところが、普通の人はそんなふうには考えません。ほとんどの人が、両親の遺伝的特質を備えていると考えていて、自分は父親似だとか母親似だとか、もっと遡ってお爺さん、お婆さんに似ているということをしきりに語っています。確かに、DNAは身体的な特徴を伝達します。しかしそれは、「魂」にとっては、その時期に選んで着た外套に過ぎないのです。
ですから、例えば、日本人にはユダヤ人の血が混じっているとか、なぜ中南米にもピラミッドがあるのかといった謎が、「血筋」のレベルでしばしば論議となるのですが、別に「血筋」によらなくても(ということは、陸路なのか海路なのかといったことにも関係なく)、「魂」は輪廻転生するのですから、その中には別の土地や異民族だったときの過去世の特質を伝達する人間というものは、必ず出てくるのです。(かといって、「血筋」の可能性を全否定しているというわけではありません)
嘆かわしいのは、宗教界ですら、血縁の子に教団を継がせようとするところが少なくありません。こう言ってはなんですが、霊界の法則をまったく知らないということがその一点で解ります。これは、教団側も信者側も、ともに「血筋」に〈特別な何かがある〉という幻想を持ち続けていたい、という願望からそうなってしまうのです。要はエゴの発露です。出口王仁三郎は、なおの実子ではなく娘婿でした。血は繋がっていなかったので、さらにパワーアップした存在たり得たのです。
以上述べたように、霊的世界には「時間」というものがありません。したがって、数百回におよぶ輪廻転生も、「魂」の大本においては、すべて同時に各々の人生を体験しているのです。ただ、私たちが振動数を落として、物質界に生まれ出たときには、「時空間連続体」という枠組みの制約を受けることになってしまいます。そこで、各人生を「時間軸」の中で解釈するということになるのです。
この「時間軸」の制約には、各時代の文化的背景(特に宗教)や、科学の発達度合い、メディアの発展状況、人々の理解力の程度、言語のあり方などが、複合的に絡んできます。一般に、我々が古代の文献に接するときには、文化的に未発達だった時代のもの、というコンセンサスがなんとなく出来上がっています。が、そうではありません。「時間軸」の制約のせいで、その時代の「表現」がそうであったというだけであり、「宇宙の真理」というものはいついかなる時代においても不変のものなのです。
■古代インド人の宇宙観を読み解く
次の絵を見てください。この絵については、インターネットをどんなに検索しても、「古代インド人が考えた宇宙観はこんなふうだった」といった説明しか出てきません。
ヘビが全世界を取り囲み、その上に亀が乗っかっていて、甲羅の上には四頭の象がいる。この象が地上世界を支え、その中央部には須弥山(しゅみせん)がそびえ立っている。
この絵だけを眺めたら、古代インド人は、本当にこんなお伽話のように世界を宇宙だと思っていたと誰しもが思うでしょう。
しかし、そうではないのです。これは、見る人が見ればすぐに解ります。先ず、自分の尾をくわえているヘビ(龍)ですが、このヘビのことを「ウロボロス(Ouroboros)」と言います。自分の尾をくわえて一周していることから、これは大宇宙の連環と一体を表現しています。「ウロボロス」の起源を探ると、BC1600年頃の古代エジプト文明にまで遡り、この原型が太陽神ラーの夜の航海を守護する神メヘンとして描かれています。
こうして、エジプトを起源に、「ウロボロス」と同様の象徴が世界各地で見られるようになったのです。このヘビまたは竜(西洋ではドラゴン)は、宇宙(=自然界)の根源的な力を表していて、この力はプラスにもマイナスにも作用します。そこで人々は、ヘビや龍を一方で畏れ、もう一方で敬ったのです。またヘビは蛇行しながら進みますが、これはまさに波の形であり、ヘレナ・ブラヴァツキーは、この力がヘビのように「シューッ」と音を立てて進むのだと説明しています。
そして、この根源的な力(Aeatherに当たる)の中に、亀が存在している。亀は、水中と陸上との間を行ったり来たりして、そのどちらでも生活できます。ということで、亀は非物質界と物質界とを跨ぐ象徴となっているのです。その甲羅(水上に出た物質界側に当たる)の上に4頭の象が乗っかっています(イラストでは3頭に見えますが、奥にもう一頭隠れている)。これは、すぐ解るように、自然界の4つの力*を表わしています。
*電磁気力、強い核力、弱い核力、重力。
物理学で、宇宙に働いている力が4つだということが特定されたのは、素粒子論が展開されるようになった20世紀になってからのことです。しかし古代人にも、すでにそれが解っていたわけです。その象の上に、つまり4つの力の上に支えられて私たちが住むこの世界がある、ということをこの図が表わしているのです。
そして、その中央部には須弥山がある。「須弥」というのはサンスクリット語の「スメール」を漢語に音写したもので、須弥山は「聖なる山」の意味です。意訳した場合には「妙高」となります。地上世界では、この須弥山の頂に昇ることを目標にして生きるわけですが、それらはみな大宇宙の根源であるところの「ウロボロス」のヘビに囲まれた中で営まれているということになるのです。
そして、地上での一つの生を終えた時には、また「ウロボロス」の円環の中へと帰っていくことになるわけです。
このように、全部が象徴的に描かれてはいますが、この図は、宇宙の真の姿を解りやすく描写したものなのです。
■中世の時代に、宇宙の構造をすでに正確に見通していたビンゲン
さて、もう一つの例を見てみましょう。これは、ドイツのベネディクト会系女子修道院長だった神秘家、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen、1098 - 1179年)が、自身の神秘体験を絵にしたものです。ビンゲンは多彩な才能を持った賢人で、薬草に関する研究を行ったり、グレゴリオ聖歌の作曲なども行いました。特に自然療法(Naturopathy)に関する知識は随一のもので、ハーブ療法の母*などとも呼ばれています。
*日本には、東城百合子さんがおられます。これからハーブ療法を学ばれようとする方は、日本人の体質と風土にあったものということでは、先ず東城百合子さんの著作を学ばれてはいかがでしょうか。
Wikipedia などを見ますと、ビンゲンが幻視体験をしたというようなことが書かれてあるのですが、それは知らない人が言っていることで、ビンゲンは体脱をして霊界に入り、そこから得た知識を持ち帰って書物に表わしているのです。要は、エマヌエル・スヴェーデンボリやロバート・モンローと同じ能力を持っていたということです。
ここでちょっと考えていただきたいのは、ビンゲンがカトリック教会の修道院長の職にあったということです。かたやスヴェーデンボリは、キリスト教教会に対してはかなり辛辣な言葉を残しました。これは、すぐにレッテル貼りをしてしまう癖のある人から見ると、奇異な感じがするかも知れません。しかしそうではなく、宗教から入る道もあるということです。須弥山への山登りに、登山口は関係ありません。どんな道を通ろうが、頂は一つなのです。
さて、この図は宇宙の構造をビンゲンが象徴的に描いたものです。万物を母なる神が取り囲み、それを支えて父なる神がいる。そして、この中にあるものはすべてが互いにネットワークで繋がれ、波動を発しています。こうした原理の中に、大気の自然現象があり、地球があり、人間が住んでいるのです。なお、この絵のバージョンには複数あって、中央部が森や畑で過ごす人間を描いたものもあります。ご興味のある方は探してみてください。
もう一つの絵は、『道を知れ』という著作の中にある挿し絵で、「三位一体」を象徴的に表わしたものと言われています。が、「あれ?」と思いませんか?
ご存知のように、キリスト教で言う「三位一体」は、神(主)と子(イエス)と精霊ということになっています。これは公会議で決定されたものですが、ビンゲンの「三位一体」は、これとは違うというのがお解りでしょう。人間の周りを二段階の波動の輪が取り囲んだ図になっています。
中央の橙色に見えるのは、アストラル界(第4霊性密度)の波動です。その外側の白っぽい輪はカラーナ界(第5霊性密度)の波動です。ということで、この絵は、肉体、アストラル体、カラーナ体の「三位一体」を表現しています。そしてよく見ると、アストラル界のエネルギーが頭頂部(サハスラーラ)から浸透して体全体を取り囲んでいる様子が描かれています。これは肉体の表面に形成されるエーテル体を表わしています。
ということで、12世紀の、日本で言えば平安時代の末期に描かれた書物であっても、「宇宙の真理」の構造をちゃんと描き出しているのです。
■「宇宙の真理」が明かされる時代の到来
以上のことから、次の知見が得られます。
?「宇宙の真理」は不変であるということ。
?どの時代にも、それを発見し到達する者がいた(いる)ということ。
?しかし、(今までは)それが決して主流にはなり得なかったということ。
特に?は、地球人類の成長段階の問題もありますが、時の権力者にとって「真理」は体制を揺るがしかねない「危険思想」でしかなかったために、それを説く者はつねに弾圧され、歴史の闇へと葬られて来ました。代わって、虚偽とエゴが社会に蔓延し、それらを操る者が、政治でも宗教でも権力者の地位を手に入れて来たのです。
この歴史の闇が、ついに白日のもとに暴き出される時代がやって来ました。
そして、「宇宙の真理」は次のことを約束しています。
たとえどんな人であっても、いずれはみな必ず「真理」に到達するのだと。
(つづく)
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2000年代の初頭、未来に関するこのような複数の予言を目にしたことを印象深く覚えています。大騒ぎをした1999年7月の『ノストラダムスの大予言』が不発に終わってしまったあとで、スピリチュアル業界は次の「恐怖」を喚起するタイミングを探していました。それが2012年12月ということになり、惑星直列とかフォトンベルトとかポールシフトだとか言う人が、それからまた大挙して現れたのです。もちろんそれも不発に終わりました。
聞くところによると、今も「ソーラー・フラッシュ」とか「ゲートが閉まる」とか、また変なことを言い出している人がいるようですネ。こういう目新しいキーワードが出てきたときというのは要注意。そんなことを言う人は、霊界の真の姿というものを知らないのです。霊界は無時間の世界。無時間とはどういうことを意味しているか、解りますか? 無時間の場には、自分自身のすでに高位となった魂(ハイアーセルフ)もいるのだよ。
高位の霊的存在が、人々を脅すようなことは絶対にない。しようと思ったって出来ない! もう「愛」だけの存在になっているのだからネ。自分がすでに高位の存在になったものと想像してみてください。地球の人々に、霊界からそういう働きかけをしますか? いったい何のために? 自分で自分を脅してどうしようというのだ。
業界は商売でやっているので、そういう人が次から次へと出てくるというのは、もう致し方ありません。そういうものに引っ掛かってしまうのは、引っ掛かるほうが悪いということです。
ハイ、私もずいぶん引っ掛かりましたよ〜ン。(・–・;)ゞ ポリポリ。
500万円は使っちゃったかなぁ。(・–・;)ゞ ポリポリ。
でも、今になって振り返ってみると、それが自分の、その段階での学習だったんですよね。
克己心と向上心をもって臨んでいれば、なにひとつ無駄はないということです。
すべてはグッド・タイミングで動いている。
そんな中で、冒頭の予言を振り返ってみると、「本当にそうだなぁ」とつくづく思うのです。「闘争」というのは、なにも戦争のことだけではなく、あらゆる利害の対立や、人間関係のあつれきのことを指すのだと考えると、巷はそんな話でいっぱいじゃありませんか。しかし一方で、そんなことにいっさい巻き込まれずに、気の合った者同士で、楽しく平和にクリエイティブに毎日を過ごしている人たちもいる。
堤美果さんが仰っていたんですが「犯人探し」をしてはダメだと。「犯人探しをすると、私たちは分断されてしまって広く深く見ることができなくなる」というのは、まったくその通りだと思うのです。「沸く珍禍」の裏側が、ようやく世間の目に触れるようになってきたときに、被害に遭った人、騙された人にどうやって救済の手を差し延べるかということよりも、犯人探しと闘争のほうにより重きを置く人が絶えないというのを見ていると、いささか悲しくなります。
そこで、「他に方法がなかったのだろうか?」と繰り返し思うのですが、結論は出ていて、やはりなかったのでしょう。これが、人類が通過しなければならない地平線であり、通過のプロセスだったのでしょう。
『イニシエーション』で、エリザベス・ハイチは「たくさんの人たちが投獄されたり処刑されている」と書いていますし、出口王仁三郎は「ウラル姫の退治」だと言っています。
ウラル山脈はヨーロッパを東西に分断する背骨ですから、今になって考えると、これはNATO勢力の進出およびウクライナのことを語っていたのだと気がつきます。ウラル姫という大悪党は「人身御供(ひとみごくう)」までもしていたと書かれていて、これは今でいう「人身売買」に当たりますから、王仁三郎の予言が非常に正確に今を映していたことが解ります。
王仁三郎はまた、面白いことを言っています。日本列島と世界地図は相似形だとし、日本で起こることはやがて世界でも起こる、と言ったのです。この伝で言うと、カスピ界が琵琶湖に当たり、黒海と地中海が瀬戸内海ということで、ウクライナの地は大阪に当たるということになるのです。
1614年の冬と翌年の夏に起きた二つの「大坂の陣」で豊臣家の敗北が決定し、その後300年の安定が続く徳川幕府の時代となります。ですがこの戦いは、家康が天下取りの総仕上げのために、様々な手段を講じて、大坂方を決戦の場へ招き入れ、豊臣家を排除することを狙って仕掛けたものでした。大坂方は、浪人衆を集めて(つまりは傭兵の募集)なんとか戦おうとするのですが、指揮命令系統がうまく機能せずに結局は敗北してしまうのです。
ウクライナで、いまこれとまったく同じことが起こっています。西側がどれほど戦費を注ぎ込み、軍備を送り、また傭兵を投入しようとも、わずか数週間で排撃され、高価な兵器があっという間にスクラップと化している。ワグネル反乱の偽装作戦にも簡単に引っ掛かってしまい、NATOとCIAというのはこれほどバカなのかと唖然とするほどです。それが、追い詰められたがゆえなのか、それとも我々が今まで賢いと思わされていただけ*だったのかは判然としません。
*CIAのヒーローの活躍を描いた小説や映画がたくさんあるじゃありませんか。たとえば『ジャック・ライアン』とか。
いま世界で起きていることを、トランプさんとプーチンさんがタッグで仕組んだ軍事作戦だと把握している人は、はたして世界中でどれだけいるでしょうか? おそらく1パーセントにも満たないでしょう。
トランプさんとプーチンさんはともに敬虔な信仰者ですが、ある特定宗派にのみ肩入れしている信者というわけではありません。二人とも、己の信仰の先に万教帰一や普遍的な神を見ている方だと思います。特にプーチンさんは非常に懐が広い。これはロシア連邦内に多数のイスラム教徒やユダヤ教徒、その他がいることに気づかってのことだと思います。それと比べると、トランプさんはアメリカ特有の事情(キリスト教国)があって、それよりは狭い感じがします
しかしその二人も、今度の「THE GREAT RESET」の転覆(これは、転覆の転覆になるわけですが、結果として、違う形での「THE GREAT RESET」になっていく、という非常にややこしい話)に際しては、多くの人間の殺害を実行することになったのです。
先ずプーチンさんは、ウクライナ戦争*に突入せざるを得ませんでした。プーチンさんは、事前に必ず警告を発しているのですが、いわゆる西側(G7、NATO、CIA)のディープ・ステートたちは、その警告を無視しあくまでユーラシア支配の野望を諦めませんでした。その過程で、スラブ民族抹殺のための生物兵器を、アメリカのネオコンがウクライナ領内で開発していたことを掴んだ。ですから、国家指導者としては、この研究所(Lab)の実態を暴くと同時に、これを完全消滅させる必要があったのです。
*ロシアは「戦争」とは呼ばずに「特別軍事作戦」と呼ぶ。目的が、ウクライナ西部のロシア系住民居住地の独立と、ネオナチの一層に限っていたから。
一方のトランプさんは、2020年の選挙に敗退したと見せかけて、偽のバイデン大統領(役者)を擁立すると、いわゆる「トランプ劇場」を進行させていきました。この裏では、ディープ・ステートの大物たちの逮捕、処刑、もしくは司法取引(処刑を免除する代わりに内情を暴露させる)が進んでいたのです。しかしこれは囮作戦でしたので、パンデミック騒ぎと毒沸く珍の陰謀を事前に阻止することは出来ませんでした。このため、世界中で大変な数の人たちが、亡くなったり副作用で苦しむことになったのです。
今から12・3年前でしょうか。『虹の学校』の活動を始めるちょっと前のことです。私は、ある人の紹介でひとりの霊能者(極めて有能な方でした)と面談する機会を得ました。そのときに、どんな経緯だったかは忘れましたが、その方が「第三次世界大戦は間違いなく起こる」と、私に向かって呟いたのです。しかしその時には、まだそのような兆候がまったく見えませんでしたので、私は「ふ〜ん」としか思いませんでした。
ちなみにこの時に、私の将来の役目も言われたのですが、まるでピンと来ませんでした。なぜなら、自分には霊能も、特別な才能もなかったからです。しかし、いつの間にか『虹の学校』の活動を始め、最初のころは全然無知無知片瞑りで、自信も信度1くらいしかなかったのですが、最近になってようやく覚悟が定まり、信度も5くらいにはなりました。と思ったら、今度は体がいうことを効かなくなり、賞味期限切れがだんだんと迫って来ました。(。ŏ﹏ŏ)
それはさておき、「第三次世界大戦」は、今のところ起きてはいないとも言えるし、別の形ですでに起きたとも言えるのです。それは、何度も書いて来たように、人口削減を目的とした「大惨事世界大染」としては、計画どおりに実行されてしまったのです。これは、遅延型殺人(Slow Kill)の生物兵器を、世界中の人々の腕に注射するという前代未聞の形で行なわれ、また接種者から未接種者へシェディングを起こすということも確認されています。ということで、最終結果がどうなるかはいまだ不明です。
しかし、このシナリオの進行が少し狂ってしまいました。そうなった理由は、大きく3つあります。一番めはインターネットがマス・メディアを凌駕するまでに成長したこと。二番めは、2016年のアメリカ大統領選でトランプさんがまさかの当選を果たしたこと。そして三番めは、2018年7月のヘルシンキの会談で、トランプさんとプーチンさんが米ソの冷戦が終わったことを宣言して、裏でひそかにアライアンスを結んだことです。
これで、構造が大きく変わりました。今までの二度の世界大戦は、ディープ・ステートがAチームとBチームを共につくって、両者を裏で操り戦わせたものでしたが、もうそれが出来なくなったのです。米ソ冷戦は、見かけ上は継続されましたが、それはディープ・ステートを最後の決戦におびき出すための囮作戦だったのです。本当の戦いは、東西という左右対立ではなく、この時すでに対ディープ・ステートという上下の戦いに移っていたのです。
しかし、そんなことはごくごく少数の人にしか解りません。なにしろ、これまでさんざん人々を騙して来たディープ・ステートの網目のように張りめぐらされた巨大な権力基盤を、根こそぎおびき出して退治するという作戦なのですから、普通の人々に解るわけがありません。まずもって、フェイク・ニュースを流し続けている主流メディアと、検閲を行っていたSNSメディアの、さらにその裏をかかなければいけないわけですから。
そのため、いま世界で起きていることの理解については、まったくの無関心という人は除き、大きく三つのレベルが生じることになりました。
一つは、政府と主流メディアの言うことを相変わらず信じきっている人々です。アメリカでは、すでに6割の人たちが政府もメディアも信じなくなったということですが、日本ではカウンター・メディアが発達していませんし、一般人は英語もできず、かつ従順であることから、このような人たちは非常に多いと思われます。もちろんこのような人は、「沸く珍」が生物兵器であるなどということはまったく知りません。
二つめは、ディープ・ステートの支配構造に気づき出したのはいいけれど、犯人探しや敵を設定して燃え上がるという人々です。どうも欧米人というのは、こうした傾向が強いように感じます。しかし日本人には、そうした人間はあまりいません。インフルエンサー(扇動家)という人は目立つ存在なので、そういう声ばかりが大きく聞こえるように感じますが、実際には、太平洋戦争にしたところで、日本人の「従順さ」がああいう結果となってしまったのです。
三つめは、アンテナを多方面に張り、情報収集をしっかり行って、現在の状況を深く読み、冷静に分析する人です。しかし残念ながら、こういう人はほとんどおりません。なぜいないかと言うと、人間というものは、真っ先に「感情」で反応してしまうためです。そうすると、興奮したり、自分の立場からものを見る(要は色メガネをかける)ということになり、その範囲内に収まる情報だけを集め、それ以外はヘイトするようになって行ってしまうのです。
さて、このような状況ということになりますと、ディープ・ステート退治のためには、マジョリティとなり得る可能性がある二番めの人たちを焚き付けて動かさなくてなりません。それが、トランプさんがやっている「MAGA*」運動であり、トランプ・ラリー(全米各地遊説)です。ここに、アメリカ人の宗教観というものがどうしても絡んできてしまうのです。
*MAGA:Make America Great Again(アメリカを再び偉大な国に)
アメリカは、ご承知のように、イギリスからピューリタン(清教徒)たちが移民して建国した、元々がキリスト教を母体とする国家です。アメリカは「法」というものに非常に厳格な国ですが、その「法」の上にはさらに「神」がおられるという構造になっている。つまり、その構造があることによって「法」にお墨付きが与えられている、という考え方なのです。
*対して日本は、「法」は単に文章に過ぎず、いかようにでも解釈変更が可能ということで、法治国家というよりは放置国家になっている。
この感覚が、文化的に深く染み付いているために、アメリカでは、政治はこの宗教的母体の上に乗らざるを得ないのです。そうでないと選挙で票を獲得することができません。そこで、アメリカの選挙では、銃の規制や、妊娠中絶や、同性婚のことがつねに最初の争点となるのです。日本人からすれば「あれ?」という感覚ですが、アメリカ人にとっては、これらは投票行動の最初のリトマス試験紙となるわけです。
こうしたことがあるために、プーチンさんと比べると、トランプさんが示す許容範囲はやや狭くなっています。しかしトランプさんの言葉をよく聞いていると、本質的な人類愛をベースにして語っていることが解ります。けれども、戦術としては「MAGA」に反応して燃えあがるアメリカ人を焚き付ける、という手段を執っているのです。これは、既存のシステムの「破壊」という過程においては、仕方のないことなのかなぁと思って見ています。
今の私は、もしも誰かと対峙して「殺すか、殺されるか」という局面になったとしたら、躊躇なく殺されるほうを選びます。もちろん、殺されないように最善の努力はします。が、最終的にそうなった場合に相手を殺すことはしません。しかし、そうは出来ないところが、世界の政治指導者としての立場であり、また現在の人類の霊的段階ということになるのでしょう。この大殺戮の段階を超えてしか、人類は次のステージには進めないということのようです。
過去、2600年余り続いてきた「魚座の時代」は、簡単に言えば「宗教の時代」でした。中でも、中東を起源として世界中に広まった三つの一神教が、世界支配の覇権を競ってきたのです。特に、大航海時代に強引に広められたキリスト教と、信者数は少ないものの金融と経済の根幹を独占することによって各国の政治までをも支配下に納めたユダヤ教の影響が、今日に至る欧米人の価値観と文化面に非常に大きな影響を与えることになりました。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が信奉している「神」はすべて同じです。同じ「神」を信奉していながら、仲が非常に悪い。これは、よく兄弟喧嘩に喩えられるのですが、言ってみれば三兄弟で「神」の取り合いをしているのです。このようなことになったのは、三つの宗教が、ともに創始者である一人の預言者が語った言葉を、全面的に「信じる」ということによって成立しているためです。となると、どうしたって、あとの二人の言うことは「違うよね」ということになってしまいます。
ところが仏教は違う。仏教教典の多くは、一応「如是我聞(私はこのように聞きました)」という言葉から始まって、釈迦が話したことを記録したという形式をとっているのですが、実際にはこれは釈迦の入滅後に高僧たちによって創作されていったものです。これは、先の一神教の立場からすれば「本物ではない」ということになりますが、どのように伝えていくかということを考えて、時代とともに変化させていったと考えれば、「柔軟性がある」ということにもなるのです。
しかし三大「一神教」は、どれもこのような柔軟性を持ちません。聖書、聖典に盛られた言葉や、教会の言うことを信じてひたすら従うべし、という傾向が非常に強いのです。結果的に、三大「一神教」は、以下に掲げる共通の歪みを持つに至りました。
?「信仰」が「契約」という概念とセットになっている。(⇒見返りを求める)
?一神教と言いながら、実態は善悪二元論に立つ。
?輪廻転生を認めない。
?人間主義。(Humanismと言うと聞こえはいいものの、自然を人間より一段下のものと見る)
*以上の詳細に関しては、これまでにも述べて来ましたので、よく解らないという方は検索して調べてみてください。
このような宗教観が深く染み付いた欧米では、自然は人間が支配してよいものだという考え方ですし、悪人に鉄槌を喰らわせれば「神」に誉められ、天国に行くことにつながると信じていますので、もうどうにもなりません。これが銃の所持を許したり、正当防衛と称して他人を殺すことを許容したり、ケミカルなものへの過度な研究開発へとつながっているのです。
そうしますと、こうした宗教観のもとにあっては、転生時の「自己のカルマに気づく」という発想が生まれにくく(そもそも輪廻転生を認めていないわけで)、よって個人のカルマはもちろんのこと、土地のカルマ、国のカルマ、民族のカルマが、なかなか解消されないということになってしまうのです。(現在の欧米を見てください。まさにそれぞれのカルマが噴き出していることが、よく解るのではないでしょうか)
近代の欧米の繁栄は、アジア、アフリカ、中南米からの搾取によって成り立って来ました。現地人が自給自足の農業をすることを許さずに、特定の農産品のみを大量生産させて市場を独占的に管理したり、あらゆる鉱物資源の採掘権を押さえたりすることで、その国の人々が本来手にすることができた富をすべて横取りして来たのです。これまでのその歪みが、これから解消されていくことになります。
欧米人のスピリチュアリストの中には非常に進んだ人もいて、もちろんこの方たちは「宇宙の真理」について深く理解しており、カルマ理論にも精通していて、素晴らしいメッセージをたくさん発信してくださっています。しかし、規制の三大「一神教」が積み上げて来た文化的伝統があまりにも強固であるために、これらの宗教観を打ち破るところまでは未だ至ってはいないのです。
ということで、第一段階めの「覚醒」が、いよいよ落としどころを迎える段階になったとしても、それから第二段階めの「覚醒」が成就するまでには、まだ数世代はかかることでしょう。この、気の遠い話と、果たして生き残れる人間がどの程度いるかという話が、これからセットで進行していくことになります。
その過程で、おそらく、八百万の神という考えと感覚を有する日本人が、これからの世界の中で、重要な役割を果たすことになるでしょう。なぜなら、万物に神が宿るという考え方こそが、本当の一神教(Oneness)だからです。しかしそれは、未来においては、宗教の形を採ることはないでしょう。
ですから、その日のためにも、次世代、次々世代を担うみなさんには、ぜひとも研鑽を積んで、世界に貢献していってほしいと思います。
未来は明るい。
希望を抱いて、この激動の時期を乗り切ってまいりましょう。
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真っ青な空が満天に広がり、眩い陽光が地上のあらゆるところを明るく照らし出していました。
高原には爽やかな風が吹きわたり、蝶や虫たちが花々のあいだを忙しそうに動きまわっています。
森では、小鳥たちが木々のうえで、それぞれのさえずりをまるで自慢しあうように奏でていました。
と、急にバタバタと羽音を立てて小鳥たちがいっせいにどこかへと飛び去ってしまいました。
さっきまで晴れわたっていた空が、いつの間にか灰色に変わっています。そしてみるみるうちに真っ黒になったかと思うと、強烈な閃光と雷鳴が森の頭上に響きわたりました。
やがて、叩きつけるような雨が森の木々の上を襲い始めました。
生き物たちはみなどこかへ隠れてしまって姿が見えません。
深い森のすべてを、ただただ長い雨足が覆い尽くしていきました。
しかしその雨も、しだいに小降りとなりついに止むときがきました。
小鳥たちのさえずりが森に戻り、青空がまた帰ってきました。
乾きはじめた木々の表面を、しずくが連なって下へ下へと落ちていきます。
幹から枝へ、枝から葉っぱへと。
そして一枚の葉先から、ポタリと落ちた水滴が地に着いた瞬間、“それ” がこの世に誕生したのでした。
地上に落ちた小さな小さな水滴の表面には、すでにそれが世界のあらゆるものを含んでいるかとでもいうように、周囲の風景すべてが映り込んでいました。
その風景が、一瞬プルプルと揺れたかと思うと、“それ” が姿を変えました。
ゆるい傾斜を転がりだし、土をひっつけながら成長していったのです。
大きく、さらに大きく、まん丸に。
しばらくして、ドーンという衝撃を受けて “それ” は目覚めました。
あまりの痛さに、思わず出たのは泣き声でした。
ふんぎゃー、ふんぎゃー、ふんぎゃー。
あらん限りの音量を出して、“それ” は、そうやってしばらく泣きじゃくっていました。
すると、頭の上から怒鳴り声が聞こえてきました。
「あー、うるさい、うるさい。誰じゃ、わしの平穏な時を壊すのは」
「痛いよー、痛いよー」
と “それ” が答えるようにして言いました。
「なんだ、お前さんか?」
「痛いよー、痛いよー」
「痛い痛いって、ぶつかって来たのはお前の方だぞ。わしこそ、えらく痛かったわい」
声を聞いて、“それ” は目の前にそびえる壁を見上げました。
「だれなの? あなたは」
「わしはロックじゃ。このあたりじゃちょっとした顔なんだが、お前はわしを知らんのか?」
“それ” が首を横に振りました。
「うーん、見たところ、生まれたばかりのようじゃのう。それなら、わしを知らんのも無理はない。お前さんは、いったいどこからやって来たんじゃな?」
“それ” がちょこんと首をすくめました。
「で、どこへ行くつもりなんじゃ?」
また首をすくめてから、“それ” が聞き返しました。
「おじさんはどこから来たの?」
「うーん、それを語ると、ロング、ロング、ローング、ロング、ストーリーになってなぁ。わしはおじさんというよりも、もはやヒヒヒヒ爺さんなのじゃ」
「じゃあ、ヒヒヒヒお爺さんは、いくつなの?」
「これを言うても信じられんだろうが、あまりにも古いことで、正確なことはわしももう忘れてしまったのじゃ。たぶん、生まれてから500万年くらいは経っておるなぁ」
「えっ。それで、今まで何をしてきたの?」
「60万年くらい前には、ここよりもっと上の方におったんじゃ。それが崖崩れで、仲間と散り散りになってからはずっとここにおる。じゃが、そのもっと以前は、海の中におったんじゃよ」
「海?」
「そうだ。あ、お前は、まだ海を知らんかったのだな」
「それがどうして、今はここにずっーといるの?」
「それがなぁ、そのずっとずっと以前に、ある過ちを犯してな。恥ずかしい話じゃが、それからロックになったというわけなんじゃ。流れ流れて、ロックンロールというわけであるな。わしにも、はるか遠い昔にお前さんと同じような時期もあったのだがなぁ‥‥」
と、ロックは感慨にふけるようなため息をついてから、ポツリと呟きました。
「若いお前さんがうらやましいわい、自由に動けて」
「誰かに、そんなふうにされちゃったの?」
「あ、いや、自分でこうなることを希望したんじゃ。だから誰のせいでもない。これは、今のお前さんに言うてもわからんだろうが‥‥」
と、ロックは少し悲しげな表情を浮かべてから続けました。
「じゃが、お前さんは若くて動けるんだから、これから思い切りやりたいことをすればいい。そうだ、人生の門出に際してわしが名前をつけてやろう」
「名前?」
「そうだ、お前にふさわしい名前じゃ。この世界ではみな名前を持っておる。そうだなあ、見るところ、お前さんはドロ‥‥。そうだ、ドロ坊というのはどうかな?」
「ドロ坊? うーん」
「なんじゃ、気に入らんのか。ではダンゴはどうだ」
「うーん」
「それもダメか。どう見ても、お前さんはドロダンゴなんじゃがなぁ」
「ドロダンゴ?」
「そうじゃ。お前さんはな、土ぼこりを集めたところに、アレのしずくが浸透して、こねこねしてできあがったものなんじゃ」
「こねこね?」
怪訝そうに “それ” が首を傾げました。
「うーむ、どうもダ行の濁音が不潔な感じがしていかんようだなぁ。よし、それならこうしよう。トロじゃ。お前は今日からトロと名乗れ」
「トロ?」
「うん、こりゃいい。いい名前だ。さあトロ、これからお前さんは旅に出るんだ。さあさ、行ってこい」
「うーん、でもヒヒヒヒお爺さん、お爺さんが邪魔して動けないんだよう」
「おお、そうか。すまん、すまん。先ほどの大雨で少し地盤が緩んだから、わしもちっとは動けるかもしれん。わしが左側に回るから、お前さんは反対側に体をひねるのじゃ。ええか」
うんしょ、うんしょ、うんとこどっこいしょ。
二人は、力を込めて何度も何度も体を揺り動かし、そしてトロは、ついにひとり歩きできるようになったのです。
「ヤッター、バンザーイ!」
「おう、ようやった、ようやった」
「ありがとう。ヒヒヒヒお爺さん」
「さあ、お行き、トロ。じゃが、誘惑には気をつけるんだよ。この世界にはお前を喰いものにしようと企んでいる者たちが大勢おるからな。でも、心配ない。困ったときには天を仰げ。無防備はよくないが、用心し過ぎるのもいかん。お前さんは、そもそも “自由” なのだからな」
「うん、わかった。じゃあヒヒヒヒお爺さん、ぼく行くね」
「おう、元気でな。それと、ヒヒヒヒはもう言わんでもええ。気持ちが悪いからのう」
ひとりになったトロは、この “自由” を思い切り謳歌しました。
行く先々で、見るもの、聞くもの、すべてが新鮮で輝いて見えるのでした。
こうしてトロは、地のものを吸収してますます大きくなっていきました。
そんなある日のこと。
トロは、道端になにやらニョロニョロと動くものがいるのを見つけました。
持ち前の好奇心から、目を凝らすと、そいつが、こっちへ来い、こっちへ来いと手招きをするのです。招きに応じてトロはだんだんと近づいていきました。
目の前まで来たとき、そいつが握手を求めてきました。
親愛の情を示そうと、トロが応じようとした瞬間です。急にそいつが、体ごとトロのどてっ腹に食い込んできたのです。
グリグリ、グリグリ。
あまりの痛さにトロは悲鳴をあげました。
「うううー」
相手はなおもクネクネ、グイグイと容赦なく体に食い込んできます。
トロの意識がしだいに遠のいていきました。
「ああ、これでもうダメか」と思ったそのとき、トロは自分の体がフワリと宙に浮き上がったのを感じました。
いったいなにが起きているのか、トロには解りませんでした。
体を突き刺す鋭い痛みと、これからどうなるのだろうという不安とで、トロはもう生きた心地がしませんでした。
気絶いっぽ手前という中で、でも薄目を明けてぼんやりと外を見たのです。
それは、トロが初めて見る世界でした。
頂に雪をのせた山々や、深緑の森がはるか眼下に見えました。
草原を元気よく動物たちが走っています。
谷あいを流れる小川が、あるところでは滝となり、またあるところでは湖に流れこみ、しだいに集まって大河となり、さらに先へと広がっていました。
へりまで続くそのコバルトブルーの広がりを、トロは「もしかして、あれがお爺さんの言っていた “海” ?」と思うのでした。
悠々とした羽ばたきの音が止んだとき、トロはいつのまにか、自分が地面に横たわっているのに気がつきました。
視線の先には、鋭い眼光とクチバシを持った鳥がいて、その顔をニューッとこちらに近づけて来るのです。
あ、危ない! とトロが思ったその瞬間です。
クチバシは、トロの体からはみ出ていたミミズの足にパクリと噛みついたかと思うと、一気にそれを引っ張り出しました。
そして、なんとその場でペロリと呑み込んでしまったのです。
ひええーっ。
仰天するトロに、その鳥が振り向いて言いました。
「おどろいタカ」
ガタガタ震えているトロに、なおもその鳥が言いました。
「わしは‥‥いやわしはワシではないが、お前には興味はない」
トロには言っていることの意味がさっぱりわかりませんでした。
「だから、安心せい」
どうやら、自分を食べるつもりはないらしいことが解りました。
それどころか、考えてみると、ピンチだと思っていたことが新しい体験となり、危ないところも救われていたのです。
でもトロには、どうお礼したらよいものかがわかりませんでした。
あくまでも威厳を失わないその鳥の眼は、まるで哲学者のようでした。呆然としているトロを前に、大きな翼をゆっくりと広げると、
「どうだ坊主、わかっタカ!」
とひとこと言って、ハハハハと笑いながら飛び去っていきました。
わかっタカ、とはいったいどういう意味だったのでしょう?
トロは、あのお爺さんが言っていた言葉を思い出しました。
本当だ。誘惑には気をつけなくちゃだ。
今度ばかりは助かったけれど、いつもいつもこうなるとは限らない。
トロは、用心することと、判断することの大切さをこの体験で学んだのでした。
月日がめぐり、トロは少年になっていました。
天真爛漫さは多少失われていましたが、持ち前の好奇心でトロは旅を続けていました。
トロの胸のうちには、大空からかいま見た、あの世界を隅々まで知りたいという欲求が膨らんでいたのです。
そうして、新たな気持ちを胸に旅を続けていた日のことです。
口笛を吹きながら快調に森の中を進んでいたトロは、突然、何かの気配を感じてその場に立ちすくみました。
誰かいる! 用心、用心。
でもそれが誰だかはわかりません。
目の前に見えるのは、ゴツゴツした石ころだけでした。
と、その石の一部分が光って、こちらをギロッと睨んだのですから、トロは腰をぬかさんばかりに驚きました。
「ちっ、邪魔をしよってからに」
とそれが言いました。そしてノソリと動いたのです。
トロが石ころだと思っていたものは、大きなカエルでした。まるで忍者のように、周囲の色に自分を溶け込ませて、じっと獲物を待っていたのです。
危険を感じてトロが思わず後ずさりをしました。
ロックお爺さんのあの忠告が耳によみがえってきたからです。
「怖がらんでもいい。俺はお前を喰ったりはせんから」
とそのカエルが言いました。
「ぼくの‥‥心が読めるの?」
「そうさ。なぜって、俺は森の忍者だからな」
「おじさんは、だれ?」
「俺は、トノサマって呼ばれている」
「トノサマ?」
「そうだ。俺ほどの技を持ったやつはそうそうはおらんからな。どうだ、ひとつ見せてやろう」
と言って、一足でピョーンと遠くまで飛んでいきました。
目を白黒させているトロにトノサマは得意顔です。
「どうだ、びっくりしただろう」
ああ、この大人はそんなに悪い人じゃない、とトロは思いました。
「もっと違う技もある」
と言って、トノサマは白い腹を見せて上体をグーっと反らせました。
「これがそっくりカエルの技だ」
と言ってから、今度はクルッと回って地面に大の字になりました。
「そして、これがひっくりカエルだ」
どう反応してよいかわからずに、トロはポカンとした表情を浮かべました。
身を起こしたトノサマは「ハハハ」と笑って、
「なんだ、喜ばせてあげようと思ったのに、通じなかったかのう」
と言い、小声でさらにこう付け加えました。
「これが、忍法あきれカエルの技じゃ」
トロには、この人が何をしたいのかがさっぱりわかりませんでしたが、とにかく子どもにはやさしい人だということはわかったのです。
「君はこれからどこへ行くんだ?」
と聞かれて、トロは困りました。
「わからないんです、自分でも‥‥。おじさん、でもぼくにはね、ちゃんと名前があるんだよ」
「ほう、なんて言うんだい?」
「トロ」
「トロかぁ。うーん、ちとトロいやつだけど、まあいいか」
と言って、トノサマは自分からケロケロと笑うのでした。
トロは少し安心しました。「怖い」と最初に思った人が、実際には愉快な人だったのです。
トノサマと別れてから、トロは「あのおじさんは人の心が読めるって言ってたけれど、判断にはそういう技も必要なのかなぁ」と思うようになりました。そして「もしかしたら、自分にだってそれができるかもしれない」と考えるようになったのです。
それからのトロは、ますます大きくなって、青年らしさを増していきました。
道中、数多くの危険に遭いながらもトロは無事でした。危険な目に遭うたびに、何者かがトロを守ってくれているようでした。
そうして旅を続けている中で、トロはある共通の現象に気がつくようになったのです。道に水たまりがあると、そこに青空が映り込んでいました。ゆっくりとたなびく雲の姿もそのままでした。
トロの耳に、川のせせらぎの音が聞こえてきたとき、
「そうだ!」
と、急にあることを思いつき、トロは音のする方向へと転がっていきました。
トロの目の前には、ゆったりと流れる澄んだ小川が広がっていました。
近づいていくと、川面に映る黒っぽい玉が見えました。近づくとその姿が大きくなったので、それが自分だとわかりました。
「そうかぁ、ぼくって、こんな奴なんだ」
と、トロはつぶやきました。
ヒヒヒヒのお爺さんが言っていたっけ。どこからどう見てもドロダンゴだって。
「そうか、これがぼくか‥‥」
もっと細部を確認しようと、トロが小川に身を乗り出したそのときです。
「ダメ!」
という女の人の声が聞こえました。
「それ以上、近寄ったらダメ。すぐに後ろに下がりなさい」
と、その声は、いくぶん命令するような口調で言いました。
その強い調子に気圧されて思わず後ずさりすると、トロは声の主を探して周囲を見まわしてみました。でも、それらしい姿はどこにも見えません。
すると、また同じ声が聞こえました。
「こっちへ来るのはまだ早い。あなたには、まだまだやるべきことがたくさんあるのよ」
と、その声の主が言いました。
「だあれ? あなたは? どこにいるの?」
「わたしはあなたを生んだものよ。いとしい坊や。わたしは、いつでも、どこにだって一緒にいるのよ」
坊やと呼ばれて、トロはちょっとムッとしたのですが、その声にはどこか懐かしい響きがありました。
そこで、恐る恐る言ってみたのです。
「あなたは‥‥、もしかしてお母さん?」
でもその問いかけに答えはありませんでした。
その場に、一陣のつむじ風が吹くと、声も気配も一瞬にしてなくなっているのでした。
トロは、自分は誰なのだろうか?と考えました。
あの人は、確かに「ぼくを生んだもの」と言っていたけれど、それ以上は答えてはくれなかった‥‥。
いくぶんの寂しさと、割り切れなさを覚えるトロでしたが、でも考え続けたところでどうにもなりません。気を取り直すと、さらに先へと転がっていきました。
イヤッホホー!
長い坂道を駆け下りながらトロは雄叫びを上げました。
なぜって、開放感でいっぱいだったからです。
トロは青春真っただ中でした。
坂道を猛スピードで転がりながら、こうしているのが自分一人だけではないということに、やがてトロは気がつきました。彼方を同じように転がっていく、別のドロダンゴの姿が見えたのです。
こうして、二つのドロダンゴは、まるで運命の糸に引かれるように互いの距離を縮めていきました。
そして二つが真横に並んだとき、トロは思い切って相手に話しかけてみました。
「ねえ、君?」
「え、わたし? わたしをいま呼んだ?」
と、若い女性のはち切れるような声が返ってきました。
「君はだれ?」
「だれって、なんのこと?」
「名前だよ」
「名前? 知らない」
「そうか、君にはまだ名前がないのか」
と言ってから、二人は立ち止まりました。
「ぼくはトロって言うんだ。名前がなければ、お互いの区別がつかないだろう? ほら、ぼくたち同じような姿をしているし‥‥。だから、君の名前はぼくがつけてあげよう。うんそうだ、あれだ。いい名前がある。ダ行の濁音は不潔な感じがするからね。君はタ・ン・ゴ。今日から君はタンゴだよ」
「タンゴ?」
「そう、いい名前だろう? さあ、一緒に踊ろうよ、タンゴ」
二人は、お互いをくるくる回って踊り出しました。
そして、一緒に旅を続けたほうがもっと楽しくなる気がしてくるのでした。
それからの二人はいつも一緒でした。
見るもの、聞くものの感想を二人で話しあったり、新しい冒険に出たりして、ともに喜びを分かちあったのです。
若さゆえの無茶なところはあったものの、二人はよきパートナーでした。
そんな楽しい日々に、突如としてアクシデントが襲いかかりました。
草原を疾走していたとき、地面に突き出ていた鋭い石片に衝突して、無惨にもトロの体が引き裂かれてしまったのです。
「トロ、トロ!」
泣き叫ぶタンゴの前に横たわるトロは、グッタリしていてもうピクリとも動きませんでした。
「トロォ、トロォ。目を覚ましてぇ。死んじゃいやよ。わたしを置いて先に逝かないでぇ。ああ、トロ‥‥」
数分のパニックが通り過ぎたあとで、タンゴの脳裏にある考えが浮かびました。
「そうだ、わたしの体で補おう」
そう考えたタンゴは、欠けたトロの体に自分の体を削ってペタペタと貼りつけていきました。
タンゴのこの必死の手当と、祈りと、見守りは、およそ一週間続きました。
そのかいあって、やがてトロが息を吹き返しました。
ぼんやりと目を開けたトロの目の前にいるタンゴは、ずいぶんと痩せ細っていました。
そのとき、トロは一瞬で理解したのです。
タンゴが献身的にずっと寄り添って看病してくれていたことを。
危機を乗り越えて、トロは誓いました。ぼくはこの人にずっと感謝を捧げ続けて生きよう、と。
そうして、二人はまた楽しい旅を続けて行きました。
二人は合わさってトロタンゴになっていました。
そして、ますます大きく膨らんで、やがてそこから小さな塊が、一つ、二つ、三つと、こぼれ出していきました。
「ああ、いとしい子たちよ」
とタンゴが言いました。
この子たちは、しばらくはトロタンゴと一緒に旅を続けていましたが、やがて、それぞれが、二人のもとを離れていきました。
悲しみに暮れるタンゴをトロが言って慰めました。
「あの子たちも、昔のぼくたちと同じなんだ。旅に出ることは誰にとっても宿命なんだよ。だからそれを祝ってあげなくちゃね」
それからずいぶんと月日が経ちました。
二人は、トロとタンゴになっていましたが、それでも仲良しのままでした。
ただ、見た目はだいぶ変わっていました。
体から水分が抜けて、シワシワのカサカサになっていました。
トロは、自分たちはこれからどうなるのだろう?という漠然とした思いに浸ることがしだいに多くなっていました。
そんな矢先です。
地響きとともに大地が激しく揺れ、二人が行く手前の道が、突如として真っ二つに割れてしまったのです。そして、対処する間もなくタンゴがその中に滑り落ちてしまいました。トロのほんの目の前でです。
見ると、出っ張りに引っかかってタンゴがバタバタしていました。彼女を救おうとして、トロは必死で手を伸ばすのですが、二人の目と目が合った瞬間、タンゴは深い穴底に落ちていきました。
「タンゴォー、タンゴォー」
と呼びかけるトロの声も、真っ黒な穴の中に虚しくこだまするだけでした。
それから三日三晩、トロは泣き続けました。
ああ、なんでなんだ。なぜタンゴなんだ。
どうしてぼくが身代わりにならなかったんだ。
ぼくはいちど死んだ身だ。
そのぼくを、彼女はあれほどの献身で救ってくれたというのに‥‥。
こんなことってあるかい。この不公平さはなんなのだ。
どこに正義があるって言うんだ。どこに神がいるって言うんだ。
タンゴを救えなかった自分の不甲斐なさが、トロには許せませんでした。
ひとりになったトロには、もう生きる希望が何も残っていませんでした。
トボトボと力なく転がっていくトロの肩の上に、でもあの日と変わらない陽光が燦々と降り注いでいたのです。
その暖かさが、じわじわと心の奥に浸み通ってくることに気がついて、ふとトロは天を見上げました。
そして気がついたのです。
そうかぁ、いつだって、あの光が、変わらず降り注いでいたんだ‥‥。
陽の光は、いつも公平に万物を照らし続けてくれていたのに、そのことに気づき感謝することなど、いちどたりともこれまでのトロにはなかったのです。
そのことが解ったとたん、嗚咽が込み上げてきました。
そして、目に映る風景のすべてが違って見えてきたのです。
木々も、花々も、鳥も、虫たちも、周囲に生きるものたちがみな虹色の光を発して輝いていました。
そしてその先に、陽光をキラキラと反射して、あのコバルトブルーの海がどこまでも広がっていたのです。
海面から立ち昇っていく蒸気の姿も見え、それがやがては雲となり、雨を降らせて循環していることも、トロは一瞬のうちに理解しました。
「坊や」
そう呼びかける声が、どこからか聞こえてきました。
変だな。自分はもうお爺さんなのに「坊や」だなんて。
その直後、以前にも同じ声を聞いたことがあったのを思い出したのです。
「そうか、あのときの‥‥」
トロは、海辺へと転がっていきました。
「いままで、よく頑張ったわね」
と、また懐かしい声がトロの胸に響いてきました。
そのとき、大波がトロを一息に呑み込んで沖合へと運び去りました。
トロの体はたちまち崩れて散り散りになっていきました。
トロは、不思議だなと思いました。
なぜって、自分がまだ生きていたからです。しかも若返っていました。
「そうか、ぼくはドロダンゴじゃなかったんだ」
その瞬間です。トロは自分がどこからやって来たのかを知ったのです。
「ああ、お母さん」
トロは何か大きなものの懐に抱かれるようにして、その中に溶け込んでいきました。
周囲には、自分と同じようなものたちがたくさんいて、全部がつながっていることもトロは瞬時に理解しました。
「そうだね、そうだったね。ぼくの旅の意味は‥‥」
そう思った彼の視線の先に、懐かしいあの笑顔が見えました。
「なんだ、ここにいたのかい? タンゴ」
「そうよ、先にきて待ってたのよ、トロ。さあ一緒に踊りましょうよ」
二人は、絡みあい、溶けあって、深い海の底に消えて、やがて見えなくなりました。
そして、誰もいない海岸に、500万年前と変わらぬ潮騒の音だけが、繰り返し静かに流れているのでした。
この物語の着想を得たのは4年前のことです。でもその時はまだ『泥ダンゴの冒険』というタイトルでした。以来、毎年夏が迫ると「ああ書かなくては」と思っていたのですが、いざパソコンに向かっても、ポエムの神様が降りて来てはくれず、ただの一行も書けない日々が続いたのでした。そのため、今日のこの日になってしまいました。でもこれが、きっとグッド・タイミングだったのでしょう。いつかこの物語を、アニメーションにしてくださる方が現れてくれないかなぁと、今は漠然と思っています。
]]>なのにあなたは、自分が気球だってことを知らない。
なぜって、そんなことを今まで聞かされたことがなかったし、
まだ一度も、大空の彼方へと浮いたことがなかったから。
だけどそれは、砂袋をたくさん溜め込んで来たためなんだよね。
ゴンドラの中を見てごらんよ。
あっちにもこっちにも、赤いのや白いのやらでいっぱいじゃないか。
あ、縞模様や水玉模様の袋だって奥に隠してある!
綺麗だね、魅力的だよね、レアものだものね。
きっとそれが、グッドだと思って、正しいと思って、溜めて来たんだね。
でも、それじゃあ浮き上がるはずがないよ。
それを捨てられるかい?
思い切ってドサっと。
あ、いや、一つずつでいい。
その金色のラメが入ったやつ、それって本当に必要なのかな?
必要というのは思い込みで、
思い込みだと気づけば、一瞬でつまらなくなるものだよ。
ほうら、もう色がグレーに変わって来た。
ああ、自分は、なんでこんなものに夢中になっていたんだろう、ってね。
焦らなくていい。焦る必要はない。
いや、むしろ焦ってはダメだ。
さあ、一つ捨てよう。
これで、あなたは昨日より、ちょっとだけ心が軽くなった。
]]>
それは、「夢」と「目覚め」とが逆転しているということです。通常は、眠りから目覚めたときに「あ、今のは夢だったのか」と気づく。特に悪夢を見たときなどは、目が覚めたあとでホッとする。ところが、霊的観点からすると、起きて活動している時間帯のほうが「夢まぼろし」だと言うのです。そしてむしろ、眠りに落ち、夢を見ているときのほうが「覚醒」しているというのですから、これは俄には受け入れ難いでしょう。
しかし考えてみれば、人生の3分の1は眠っているわけです。60年生きたとすれば、20年間は眠っている。堂々、眠りの「成人式」を迎えているじゃありませんか!(あれ? 成人は18歳になったんでしたっけ?)その間、眠っての学習を愚う愚う積み重ねて来たわけです夜。それを学習だと思っていないのは、単に自分の「信念」がそれを認めていないというだけのこと。
このように、「覚醒」という言葉には、それまでの固い「信念」の崩壊と、続く「意識」の転換とが意味されているのです。
これまで、人類の「覚醒」は二段階で進むと説明して来ました。一段階めは、自分が何ものかに操られて来たこと、そして社会の奴隷になっていたことに気づくということです。これにも、もの凄い「信念体系」の崩壊と「意識」の転換とが伴う。「信念体系」というのは、別の言葉を使えば「洗脳」です。「洗脳」は、洗脳されている間は、それが「洗脳」だとは気づきません。「洗脳」が解けて、はじめて自分が「洗脳」されていたということに気づくのです。
そして今、人類は、この第一段階めの「覚醒」を急速に成し遂げようとしています。そのジャンピング・ボードとなったのは、言うまでもなく「沸く珍禍」です。この世界規模で行われた人類淘汰の大イベントによって、人類全体が第一段階めの「覚醒」へと進む切符を手にしたのです。もちろんこれには、この世的に言って、大きな犠牲と試練が伴いました。しかし人は、よほど痛い目に遭わなければ、なかなか気づけないものなのです。
恥ずかしながら、私も、妻との愛憎の果てに、妻を癌で死なせるという最悪の結果を経験して、はじめてハッと気づかされることになりました。そうなったのも、お互いが無智で、真理に昏(くら)く、己のカルマに気づかず、永く心得違いをしていて、本当の愛に気づけなかったからなのです。その一個人に作用したメカニズムとまったく同じことが、今度は人類全体に対して起きているというわけです。それが、地球人類を次のステージへと導くことになるのです。
さて、未だに理解の差は個々には大幅にあるものの、総じて人類は、この度のパンデミックを装った虐殺計画に、事が始まってから、わずか3年余りで気がついたのです。それだけでなく、人類支配の骨組みにまで理解が及んで来ました。政府、役人、政治家、自治体、メディア、専門家、科学者、グローバル企業、金融屋、戦争屋、王族貴族、そして宗教までもが、揃ってこの構造に加担している。それはまさに、巨大で深い闇の「洗脳装置」であったのです。
この「洗脳」から目覚めるに際しては、当然ながら、激しい「怒り」が一部に沸き起こることでしょう。信じていたものに騙され、病気になったり、身内を殺されたりしたのですから。しかし、霊的な観点から言えば、それをも学びにしていかなければならないのです。何事にも偶然はありません。「信じていたものに騙された」ということの背景には、その人のカルマの問題もありますし、同調や、依存や、不見識という課題も横たわっているのです。
第一段階めの「覚醒」であるところの、〈自分が何ものかに操られ、社会の奴隷にされていたことに気づく〉ということですが、その原因究明は、先ず自分自身に対して向けられなければなりません。それはちょうど、自分を愛せない人が、他者を愛せないのとまったく同じ理屈で、自分が操られて来たことの真の原因が解らないことには、操る側の人間の気持ちも解らないのです。
白か黒かは程度問題であって、どちらか100パーセントなどという人間は、この世の中に一人もいないのです。新約聖書の中に、イエスが語ったとされる次の有名な言葉があります。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、先ずこの女に石を投げなさい。*」大切な点はそこです。そこに気づかない限りは、この度の未曾有の体験を、価値ある学習にまで高めることは難しい。
*『ヨハネによる福音書』8章7節。続いて「それを聞いたパリサイ人達は、年長者から一人、また一人とその場を離れていった」とある。
他者を傷つけようが、金品を奪おうが、何とも思わない邪悪な人間は、この世にウジャウジャいます。しかし人間には、誤りを犯したり悪事を働いたりする「自由」だってあるのです。そして、その権利は神から与えられている。もちろん、それを推奨しているわけではありませんが‥‥。他者を落とし入れる者には、落とし入れる者の課題があります。と同時に、落とし入れられる者にも、落とし入れられる者の課題があるのです。
逆説に聞こえるでしょうが、「すべての責任は自分にある」とただ認めさえすれば、人生は遙かに容易なものとなるのです。
ところが、世の論客たちは、他者を非難することばかりに血眼になっています。あまつさえ、スピリチュアル業界でも、この未曾有の人類「覚醒」の時期に際して、「光」対「闇」の闘争を煽る輩が大勢いるというのは、ホトホト困ったものです。ライトワーカーとかホワイトハットとか、それがインチキだとは言いません。光の勢力に属する存在はいます。けれども、私のチャンネルに「闘争」を煽ったり勝利を喜んだりする言葉が届けられたことは、これまで、ただの一度だってありません!
それは、論理的に言ってもあり得ないし不可能なのです。そもそも、そのような段階をとっくの昔に終えたからこそ、高い波動の領域に今おられるわけで、人間の「闘争」に心を痛めることはあったとしても、それを主導することなどあり得ないのです。彼らが語るのは、いつだって普遍的な「愛」についてです。ですから、ライトワーカーとかホワイトハットといった言葉につられて、単純になびかないようにしてください。こうしたものはみな、実は「光」を語った「闇」の波動なのです。
しかし、恐れることはありません。それらに同調しなければよいだけのことですから。彼らは、「恐れ」や「興奮」を起こさせようと仕掛けて来ます。先ず、語っている本人自身が興奮しているので、それが引っ掛けだとすぐに分かります。彼らは、自分たちが何をしているかもよく解っていないのです。自分の中にある「闇」の部分が反応して興奮しているのに、自分は「光」だとか「正義」の使者だと、本当に信じているのです。愛を語る人は興奮などはしませんよ。
光あるところ影があり、影あるところ必ず光あり。これが真理です。どちらか片一方ではありません。「闇」というのは、そういう「存在」のことを言うのではなく、自分の心の中の「闇」に惹かれる部分の大きさを言うのです。要は、低い波動のエネルギーです。「光」と称して「闇」を語り、その言葉に惹かれた波動が集まっていけば、結局は「闇」を肥え太らせることになるのです。人類は、こうした「闘争」の歴史に終止符を打たねばなりません。
2012年の直前には「アシュタール・コマンド」とか「銀河連邦軍」だとかと言う自称スピリチュアリストが大勢登場し、やはり「闘争」を盛んに煽っていました。でも今はぜんぜん聞かないじゃありませんか。その言葉のブームも終わったじゃありませんか。「真理」はブームなどではありませんよ。いついかなる時代でも通用するのが「真理」です。
でも、この人たちを責めないでください。大局的な眼で見れば、その段階にある霊的学習の人たちには、彼らも役立っているのです。
こうした声は、つねにアメリカからやって来ます。アメリカという国は実に不思議な国で、善いことも悪いことも、つねに最先端を突っ走っている。これは、建国時のカルマから来ています。キリスト教の清教徒(Puritan)たちが、イギリスを追われてやって来て、高い霊性を保持していたインディアンたちの土地を奪い、後に彼らを虐殺していった。その後、この地で輪廻転生していった魂たちの中に、その両者の特徴が顕れているのです。
西洋社会、なかんずくキリスト教の支配下で培われて来た「善と悪」の二元論は、もう修正不可能なほどに、そこに生きる人々の体質に沁み込んでしまっています。彼らは自己反省ということをしません。つねに自分が正しく、善が悪に勝利するという論法を世界中に押し付けて来ます。その逆ブレが「悪魔信仰」ということになってしまって、誰の中にも善と悪の両面性があるのだということを認めようとはしません。このような考えは、彼らにとって「敗北」を意味するのです。
でも日本人には、このような発想は本来的にいってありません。日本人はハッキリ白黒つけることを嫌い、どちらかと言うと曖昧さの中で阿吽の呼吸を求めるという態度を取ります。また神道系では、悪神を守り神とする例も多いのです。「艮(うしとら)の金神」というのがそれで、悪神を怒らせないように、我が身をいつも清くして敬い、そのパワーでもって味方になって貰おうという発想です。『大魔神』という映画にこの思想が表現されています。
ところが、日本もすっかり西洋化してしまい、最近ではインターネットの影響も加わって、ちょっとでも自分と意見を異にする人をのべつ幕なしに罵倒するという傾向が広まってきました。こういう人は、実際には少数なのですが、発言力が高いので、人々を巻き込む力が強いのです。いわゆるインフルエンサーです。そこにアメリカ発のホワイトハットとか、Qアノンとか、ネセラゲセラとかといった情報が飛び込んで来るのです。
しかし、同じアメリカから、実に質の高い、善いメッセージも発信されているのですが、こうした善なるものは刺激的ではないために、残念ながら一般の人々のところには届かないのです。また、たとえ届けたとしても簡単にスルーされてしまうことでしょう。これも繰り返し言ってきたように、人は、今の自分の霊性の段階に応じたものしか受け取れないのです。しかし、それを嘆いてみても仕方のないことで、霊性と波動の法則というものはそのようにしか働かないのです。
ここで、キリスト教のことに少し触れておきましょう。バチカンを頂点とする現在のキリスト教は、イエスが伝えたかったものではありません。いくぶんはその要素を保持していますが、著しく歪められたものです。これは、「宗教」全般に言えることで、どの「宗教」にも「真理」の一端は含まれているものの、今の地球上に完全だなどと言えるものは一つもないのです。
これは、組織化や権威化、人の手になる教義の制定、集金構造の構築、権力への接近等によって、教団がしだいに発展していくのと引き換えに、純粋さを失い、結果そうなったのです。先に挙げた例を使えば、宗教組織内における「光」が縮小し、「闇」の部分が拡大していったのです。そして、この構造の永続的な維持のために、「洗脳」システムも強化されていきました。これには「闇」が使う常套手段、「脅し*」と「救済」がセットで提供されたのです。
*特に、キリスト教が説く「原罪論」は、宇宙の真理に反した最悪な教義です。
キリスト教はイエスの死後もローマ帝国の迫害を受けていました。が、シルヴェステル教皇(在位314 - 335年)の時代になると、当時のローマ皇帝コンスタンティヌス一世によって公式宗教に認められます。そして西暦325年の「ニカイア公会議」、381年の「コンスタンティノポリス公会議」を経て、今日に続く「三位一体説」や「輪廻転生の否定」といった教義の骨格が決められていったのです。また、397年の「カルタゴ公会議」では、現在の新約聖書全27巻が制定されました。
このようなことを書いたのは、「信仰」というものの裏側にあるものを知っていただきたいからで、キリスト教を特に貶めたいというわけではありません。念のため言っておきます。11世紀初頭になって、南フランスを中心に、通称「カタリ派」という集団が台頭します。これは、歴史的には「異端」と言われているのですが、キリスト教を3世紀以前のものに戻そうということで、魂の輪廻転生を認め、グノーシス主義と同じく「真の智恵」との一体化を目指す原点回帰を目指したのです。
しかしそれは、すでに確立されていたキリスト教の教義および教会にとっては、危険極まりないものでした。なぜなら、輪廻転生を認めてしまうと、キリスト教の根幹である「救済」の定義が根もとから崩れてしまうからです。地獄へ堕ちることの恐怖から、自分だけはなんとか天国へ行きたいと願い、聖書と教会の指導に従う。という「信仰」の基本そのものが揺らいでしまいます。何度でも生まれ変わってやり直しが出来るのですし、自分の努力と生き方がそれを決めるのですから、教会など別に無くてもよいわけです。
そこでどうなったかと言いますと、第176代ローマ教皇のインノケンティウス3世(在位1198 - 1216年)が、十字軍を組織して「カタリ派」の撲滅を図るのです。この弾圧は徹底したもので、1209年から1244年までに100万人以上を火あぶりなどの手段を使って虐殺し、遂に「カタリ派」は歴史上から姿を消してしまったのです。このカルマが、後のナチス(実はユダヤ人)のユダヤ人弾圧へとつながっているのです。
ここで、「敵」という烙印を押して、これを成敗するという名目で、実際には同胞が同胞を殺す、というパターンが歴史的に繰り返されていることに注目してください。パンデミック騒動で操られることになった今も、それが変わらないのです。アメリカ人がアメリカ人を殺す。日本人が日本人を殺す。ウクライナ人がウクライナ人を殺す。そして人類が人類を殺す。なぜだと思いますか? またどうすれば、それを終えさせることが出来るでしょうか?
大航海時代から今日に至るまでは、西欧文明が世界を席巻した時代でした。この時代がまもなく終わります。しかし、西欧社会に長く染み付いた、正義が勝つ、善が悪を滅ぼす、という「敵対」概念の残滓はまだ色濃く残っています。本来であれば、貧困や病気や差別などの社会的な矛盾を、次元を超越した視点から救おうとしたのが「宗教」でした。しかし「宗教」が政治権力と結びついて、その下支えをするようになってしまったのですから、もうどうにもなりません。
これは、完全な自己矛盾です。世俗を超越するところの「真理」を求めたのが本来の「宗教」であったはずなのに、自ら世俗に接近し相まみえていくのですから‥‥。実質的に「宗教」はもう終わったということです。その存在意義も、魅力も、完全に失ったのです。第一段階めの「覚醒」の最後には、「宗教」のまやかしにも人々が気づくようになるでしょう。
人間社会では、真実はウソとされ、逆にウソが真実とされ、人々はそちらのほうを信じ込まされるのです。「真理」を説く者は、相変わらず主流にはなり得ませんが、しかし今は弾圧されることも、処刑されることもなくなりました。正統が実は異端だったのであり、異端が実は正統だったということも、いずれ理解される時が来ます。
考えてみてください。歴史の闇に葬られていた「カタリ派」の虐殺が公になるまでには700年もの時が必要でした。それが、「毒沸く珍」の闇が暴かれるまでにはわずか3年しか掛かっていないのです。第一段階めの「覚醒」に、もの凄い加速がついているのです。さあ、この調子で、私たちは先行して次を目指しましょう。
「覚醒」の二段階めは、〈身体の自分が自分なのではない〉ことに気づく、ということです。言い換えれば、〈自分の本質は「意識」にある〉ということに目覚めるのです。この気づき方には、二通りがあります。
一つは、死んで、つまり肉体を失うことによって、そのことに気づかされる*というパターンです。どのような形であれ、この世で「死」と定義する状態を迎えると、予備知識のなかった者たちはみな驚愕してしまいます。自分が、死んでも、死なないことに気づくからです。たとえ肉体が死んでも、自己という「意識」が失われることはありません。そのため、中には自分の死を頑固に認めない魂もいます。しかし大部分は、その状態を素直に受け入れるに至ります。
*これは、強制的なように見えて、その実は自分の選択です。
なぜなら、やがて見ることになる死後世界が、えも言われぬほどの美しさと恍惚感でもってその人を出迎えるからです。なんと言っても、あっちだと思っていた場所のほうが、実はホームなのですからネ。ですから、今度の「沸く珍禍」で、身内を亡くされたという方がいらっしゃったとしても安心してください。どの「魂」も生き続けて、素晴らしい世界の中で活動を続けていますから。なお、この気づきは、臨死体験後に生還した場合にも同様に得られます。
もう一つは、この世で生きて活動したまま、〈身体の自分が自分なのではない〉〈自分の本質は「意識」にある〉ことを覚る、というパターンです。これが、「アセンション」です。しかし、そうは言ってもなかなか解らない。なぜなら、それは「理解」ではなくて「感覚的な変化」だから。実際に到達してみて、「ああ、この感覚か」と解る。するといつの間にか、怒りや嫉妬心が消え、所有欲も無くなり、すべてを許せるようになり、奉仕に生きる人になっているのです。
最近になって、人と話していて、「アセンション」に対して非常に高いハードルのイメージを抱いている人がいるということを知りました。う〜ん、何度も言っているんですがねぇ。「アセンション」に努力は不要だと。
こっちから、あっちへ行くのではないのです。あっちだと思っていた世界の中に、こっちの世界が重なって同居している。こっちの隙間にはつねにあっちが存在しているのに、ただそれを実感できないというだけのことです。その理由は、両者の波動の帯域(Harmonic range)が大きく異なっているから。あっちの世界は、量子よりもさらに微細な振動で動いているために、なかなかキャッチ出来ない。
こっち側は物理を体験する「地球学校」になっていて、あっち側が霊的法則を学ぶ「虹の学校」になっているというわけです。両者は重なっていますから、「地球学校」で学びながら、同時に「虹の学校」に入って学ぶことも出来るのです。そして、あなたが送受する日常の波動が、第5霊性密度の領域にまで高められた時に、なんの努力も無しに、自動的に上に引き上げられるのです。
私も、仏教から入りましたので、以前には、涅槃とか、無の境地とか、悟りとか、クンダリニーの覚醒とか、いったい何を言っているのだろうという疑問がずっとあったのです。そして、もの凄い苦行を積まなければ、その領域には到達できないと信じ込んでいました。ですから、その時分には、イタリア人などが「人生を楽しめ」などと言っているのを聞くと、「けっ、お気楽な連中め。なに言ってやがる、人生は苦だ。苦集滅道を知らんのか!」などと息巻いていたのです。
ところが、根がいい加減なものですから、苦行などしたくない。また、蝋燭の下で讃美歌を歌うなんてのも性に合わない。ということで、実にテキトーにヘラヘラと生きる道を選択したのです。ただ、欠点多き人間でしたので、それをなんとか矯正したいということでは努力しました。たとえば、食事をした後の洗い物を流しにそのまま置きっぱなしにしないとか。そういうことすら、まともに出来ない人間でした。
今では、「人生を楽しめ」ということがよく解り、イタリア人に「ごめんなさい。あなた方の仰る通りでした」と謝りたい気分なのです。要は、何事にもこだわりを持たず、オープン・ハートを維持して、毎日を普通に、楽しく生きればそれでよかったのです。ただし、世俗の雑事から離れる必要があり、現代社会ではこれにはかなりの努力を必要とします。なぜなら、雑事がいつまでも後を追いかけて来るからです。
でも、すべては、どうでもいいこと。社会が、世間が、プッシュして来るもの、ニュースで日々語られていることなどは、よくよく考えてみれば、みなどうでもいいことばかりです。それらが、どうでもいいことだという確信が、これほどハッキリ見えて来た時代は、かつて無かったのではないでしょうか。あなたは、あなたの人生にとって大切だと思えることだけを選択し、そこに集中して、自分の暮らしを創造すればよいのです。
感情の中でも、思考の中でもなく、直観の中に生きなさい。
直観は、あなたを裏切りません。
直観を信頼すれば、何かを「信じる」という悪癖から脱することが出来るでしょう。
宗教が「信じなさい」と言うのは、あなたの自由と目覚めとを奪いとって、檻の中に落とし込むためなのです。
直観を、自分の能力という面だけで捉えているとしたら、それは違う。
直観のソースは、あなたにそれを伝えようとしている高位の存在だ。
彼らは、あなたに、なんとか受け取ってもらいたくて、日々有益なメッセージを送ってくれているのだよ。
都会にいて、ガチャガチャした波動の中で、雑事に振り回されていたり、どうでもいい情報につねに興奮していたのでは、高い波動にチャンネルを合わせることは出来ません。精妙な波動を受け取るには、清浄な場で、心静かにして、意識を集中させることが必要です。
あなたのことは、あなたのガイドさんが、いつも暖かく見守り応援してくれています。自信を持ちましょう。でも、謙虚さと、愛の心は忘れてはいけませんよ。
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・なぜ「無」から「有」の「ビッグバン」が生じるのか? 生じることが出来るのか?
・「ビッグバン」の以前は何だったのか?
・「無」であれば、時間も空間もない筈なのに、なぜ「ある日ある時」と言えるのか?
・どうして、「ビッグバン」と同時に「時間」が突如として開始されたのか?
・宇宙が膨張していると言うが、何(座標)に対して膨張しているというのか?
・膨張しているところの「縁(へり)」はどうなっているのか?
・「縁」の外側はどうなっているのか?
・宇宙を観測した時に、なぜいつも地球が中心にあるのか?
ところが、これらの疑問に対する答えは、神秘学においてはとっくのとうに示されているのです。
■神秘学が説く宇宙の姿
はるか遠い昔より、神秘学ではこのように説かれて来ました。
?宇宙には始まりも終わりもない。ただ永遠の今だけがある。
?宇宙の大きさには果てしがない。
?宇宙は極大から極小のものまでが相似形で成り立っている。
これは、そういう言い伝えが伝承されて来たということではなく、どの時代に登場した賢者たちも、みな一様にこれと同じことを語ったのです。しかしここに挙げた3つは、物質界に暮らしている人間たちにとって常識的感覚からは理解できないことばかりであるために、もっとすんなり納得できるような物理的な解が求められたのです。そこに登場したのが、宇宙の開闢に関して、今日では常識的理解とされるにまで至った「ビッグバン」理論です。
これは、それまでにあった宗教的、また神話的な宇宙開闢説を根底から覆す、科学的最新理論として提出されました。その意味では、ダーウィンの進化論に匹敵するインパクトを世の中に与えたのです。「ビッグバン」説は、理論の基底に時間軸を想定していますので、常識的感覚からみて、非常に解りやすい印象を与えるのです。しかしちょっと突っ込めば、立ちどころに矛盾が露呈するような、おかしなところを満載した理論です。
けれども、一般の人はそこまで追究はしませんし、権威が言うことなら「そうなのかなぁ」と思って、今日では常識となっているのです。その他のあらゆる常識と同様、人間界では一度これがスタンダードだと決められると、それに疑問を投げかける考えというものは徹底的に排除され、時には弾圧さえも受けます。今はまだ仕方がありませんが、今後はこうした風潮も遠からず是正されていくことになるでしょう。
さて、いま挙げた3つは、別々のことを言っているわけではなく、みな互いに関連し合っています。始まりも終わりもないので、宇宙には果てしがないのです。また、果てしがないので、始まりも終わりもないのです。そして、その構造は、相似形および永遠の今とから成り立っているというわけです。え?、ますますワケが分からなくなってしまったって?(╯︵╰,)。ここで「物質界」の常識から思考を一気にワープしなくてはなりません。
これまで繰り返し語ってきたように、我々が住む物質的世界というものは、霊的世界の中に包含されるかたちとして存在しています。この広大にして多様性に満ちた「大宇宙(Macrocosm)」を形づくっているものは、本を辿れば、たった一つの振動するエネルギー体なのです。その一つのエネルギー体が、ただ振動数を変えるだけで、宇宙のあらゆる多様性というものを生み出しているのです。
そして、私たち人間は、その相似形としての「小宇宙(Microcosm)」を形成しています。ということで、人間もまた、霊的な存在(霊魂)の中に、物質的な存在(肉体)を形づくって、この世に在るというわけです。
■宇宙階層の相似形
次の写真は、2020年にイタリアのボローニャ大学の天文物理学者フランコ・ヴァッツァ氏と、ヴェローナ大学の神経外科医アルベルト・フェレッティ氏が『Frontiers of Physics』誌に発表した共同研究の論文中に掲載されたものです。二人は、「人間の脳は宇宙そのもの」と題して、銀河団のバブル構造と、人間の脳のニューラル・ネットワークを並べて比較し、その類似性を指摘しました。二人は、こう述べています。
「人間の脳はおよそ690億本の神経からなる広範囲なニューラル・ネットワークのおかげで機能しています。一方、観測できる範囲の宇宙は、最低でも1億個の銀河から成り立っています。神経と銀河は共に長い糸と結節の形をとっており、これが全体の30%を占めます。残りの70%は受動的な役割を果たしていて、脳では水、宇宙ではダークエネルギーがこれに相当します」と。そしてさらに、両者の発展法則は同じであると推論しています。
「我々の分析によって、脳のニューラル・ネットワークの振動分布は1ミクロンから0.1ミリメートルで、宇宙のネットの中での事象分布の発展と同じ道をたどっていることが分かりました。もちろん宇宙での振動分布の規模は、5光年から5億光年とずっと大きいのですが‥‥」
「2つの間には、神経を2とすれば、宇宙は2の27乗とその規模に大きな違いがあるものの、これらのシステムの中の物質を構造化する物理的なプロセスは、まったく同一の法則に従って機能しているのではないかと推測しています。その結果として、同一レベルの複雑さと自己組織化を持った構造が形成されたのではないでしょうか」
いま挙げたのは一つの例ですが、このように、振動数(別の視点から見れば「波長」= 大きさ)のあらゆる階層に「相似形」を発見できるのです。そして、その「相似形」は、「トーラス構造(Torus Structure)」およびそれが作り出すところの「渦」の形として、様々な場所に散見できるのです。次の写真はそれらの例です。
■「時空間」のある世界とない世界
けれども、「霊界」というところは「意識(思念)」だけで形成されている世界ですので、「物質界」にあるような「時空間」というものがありません。ですから、「物質界」から「霊界」を見た(と言っても実際に見たということではありませんが)場合には、広大無辺としか形容のしようがないのです。ちなみに阿弥陀仏の「アミ」とは、サンスクリット語で「無量」を意味し、果てしがないということを表しています。
この、「時空間」がない世界というのは、地上にいる我々には想像がつかない*のですが、このように考えればよいでしょう。非物質世界(霊界)にあるエネルギーが振動を落としてきて、ある境い目(いわゆる量子世界)を超えたところで物質化する。すると、物質があるということは、それを入れる容れ物が必要ということで、そこに空間が生じる。また物質が〈できる〉ということはすなわち変化ですから、そこには時間も生じる。こうして「時空間」が一挙にできる。
*臨死体験や体外離脱体験などでそこを訪問して来た人には、行ったとたん瞬時にその感覚が分かるようです。
結局、我々が認識している「宇宙」というものは、「時空間」の存在しない、つまりは果てしのない世界の中に、局所的に物質化した大宇宙というものがあって、その中にまた局所的に銀河があり、さらにその中に局所的に太陽系が存在し、さらにさらにその中に局所的に地球というものが存在しているのです。そして、その中に局所的に生物が誕生し、生物の中には細胞や様々な化合物が作られて、その中に局所的に元素が存在し、さらにその中に局所的に量子が認められるのです。
このような、局所的に形成された「物質」以外の空間というものは、すべてがスカスカの状態です。ではそこに何があるというのでしょうか? 文字通り「空」がある。「空」と「無」とは違います。「空」は何もないのではなく、「空」には物質化していない振動エネルギーが充満している。つまり「スピリット・エネルギー」です。これが、惑星『ソラリス』で描かれたところの、意識を持つ「海」の概念なのです。
■あらゆる物質あらゆる生命の素とは?
「スピリット・エネルギー」がなぜ振動しているかと言えば、それは「中庸」を保つためです。「スピリット・エネルギー」には陰陽の極性があります。この両極の間を、激しく往復することによって中庸が保たれているのです。つまりそこには、陰極と陽極のエネルギーが詰まっていて、物質化する要素がすでに備わっている。そして、何かのきっかけを得て、物質化するのを待っている状態にあるのです。
この中庸に「ゆらぎ」が生じた時、中庸が破られてそこに物質が誕生するというわけです。では、どのようなとき「ゆらぎ」が生じるのでしょうか? これは、非物質界(霊界)が「意識」だけの世界である、と言ったことを思い出していただければ想像がつくでしょう。これらは、宇宙の鉱物、大気、水、その他あらゆる生物を創造する任を負った「神々」クラスの知的存在が、創造主の意を受けて、彼らの「意識」によってそれを動かしているのです。
ということで、地上の人間にはどんなに頑張ったとしても「生命」を創造することは出来ません。人間が出来ることは、いまある「生命」を基にして、これをいじくることだけです。しかし悲しいかな、その野望に燃える、傲慢な人間が後を絶ちません。天使たちから見れば、鉱物だって「生命」です。時間の働きはゆっくりとですが、「パンゲア(Pangaea)」の動きや「プレートテクトニクス(Plate Tectonics)」を見れば、それが生命活動を行なっているということが解るでしょう。
このようなことで、現在定説とされている「ビッグバン」説というのは、完全な誤りなのです。
■〈この〉宇宙の生成の要因
〈この〉宇宙の生成には、大きく二つの要因が絡んでいます。一つは、いま述べた極小の量子的世界における「スピリット・エネルギー」の物質化という現象です。もう一つは、極大のホワイト・ホールを通じて、他の宇宙から流入して来る物質化したエネルギーによってです。もちろん、反対にブラック・ホールを通じてこちらから流出していくエネルギーもあります。これは、決算で言うところの、収入と支出の関係になっています。
宇宙は、我々のいる宇宙一つだけとは限りません。無数の宇宙があって、それぞれがブラック・ホールとホワイト・ホールを通じてエネルギーの相互交換(=呼吸)をしているのです。しかし、我々の住む宇宙から、別の宇宙をうかがい知ることは絶対に出来ません。このホールの中を行って戻ることは、光といえども出来ないからです。
よって、〈この〉宇宙からみた場合、その外側にある宇宙は、「無」としてしか捉えようがありません。これが、「オクターブの法則」における第8霊性密度に相当するのです。
光のドップラー効果という観測結果から、1929年に〈この〉宇宙が膨張しているということが発見され、しかも近年この膨張は減速どころかむしろ加速していることが確認されました。加速しているということは、〈この〉宇宙の総エネルギー量に増大がなければなりません。これは大きな謎です。しかし宇宙が一つ(Universe)だけではなく、多数(Multiverse)*あって、相互に呼吸しているということが解れば、この謎も解けるのではないでしょうか。
*なお、マルチバース論において、まったくの新規の宇宙の生成に当たっては、「ビッグバン」に近いことが起こった可能性はあります。しかしそれも、決して「無」から誕生したというわけではなく、里芋の親芋の表面に小芋がポコッとコブを作ったようなものなのです。
■霊界は何次元なのか?
さて、霊界には「時空間」概念が存在しないと言いました。ということは、そこは3次元世界ではないということです。(注:ここで言う「次元」とは数学的概念のことで、「霊性密度」を言っているのではありません)では、何次元なのでしょうか?
これについては諸説があって、まだ明確な答えは得られていません。現代の理論物理学者たちは、9次元、10次元、5次元などを想定し、複雑な数式を駆使して、なんとか宇宙の構造を解き明かそうと懸命な努力を続けています。彼らは、そこを「霊界」と言っているわけではありませんが、しかし「この世」とは別の世界が重なってあるのではないか?、という直感を得るところまでは到達しています。
ということで、「霊界」が数学的に○次元であるかは今のところ不明です。ですが、我々が住む3次元よりは高い次元であることは、どうやら間違いなさそうです。だからこそ、そこでは「すべてが同時に起きる」「永遠の今だけがある世界」という、「この世」から見たらとんでもない非常識も成り立つのです。その非常識の無限の世界の中に、ほんの一部が局所的に物質化する形となって、我々が今いる宇宙というものが存在しているのです。
■宇宙の縁が分からないのに宇宙が膨張していると言えるわけ
ですから、宇宙の縁(それは量子的世界ですが)には、「あいまい領域」というものが存在します。したがって、この「あいまい領域」は、3次元を超越した世界に徐々に溶け入っていると想定されるのです。そこで、思考実験です。
「あいまい領域」を含むこの宇宙を、仮に4次元だとしましょう。その上で、我々が住む3次元世界の次元を1つ落とし、平面の2次元に置き換えます。そして宇宙も同じく、1つ落として3次元だと見なします。
図の球は、この3次元宇宙を示しています。すると、我々はこの宇宙の上に2次元人として存在しているという関係となります。(図の人間はかなり誇張して描いています。実際は、大宇宙に比べれば表面上にポチッとある点に過ぎません)
2次元世界に暮らす2次元人ですから、3次元世界のことは知るよしもありません。平面世界に閉じ込められているので、それを超えた次元については認識のしようがないのです。けれども、接触面においては、かろうじて地平線の範囲までは円周状に宇宙が認識されるということになります。
これが、宇宙を観測した際につねに地球が全天球の中心に位置することになる、という理由です。球体上のどこにあっても、観測者というものは、つねに(自己が認識する)宇宙の中心にあるのです。
一方、球体の宇宙には大きさがあります。このようなことから、観測者には、宇宙の縁というものがハッキリとは分からない(2次元人から見ればそれは地平線ですから、向こうへ段々と消えていく)のに宇宙は膨張している、という矛盾にも答えが見い出せるのです。あとは、次元を元に戻して想像してやればいいだけです。
(つづく)
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次から次へと秘密の暴露が続いていて、時代の底が抜けたというか、あたかも世の中がメチャクチャになって来ているように見えるでしょう。ですが、左にあらず。陽当たりにある石をどかすと、裏に隠れていた日影の虫たちが一斉にワーッと逃げ出す。あれと一緒です。世の中の浄化がどんどん進んでいるので、追い詰められた悪人たちが最後の生き残りをかけ、必死になって特攻作戦を仕掛けているという状態。でも実のところは、もう終わーてるろーの戦いなんだよね。
さてそこで、これまで人々に、なんとか正しい情報や知識を伝えたいと頑張ってこられた人たちの中で、脱線暴走していく人たちが出て来たのを見るようになったのは、なんとも忍びない。できれば、早く気づいて修正してくれるといいのになぁ、と思って見守っているのですが‥‥。世の中に一段落感が出て来て、この先の自分の方向性や落とし所が、きっと分からなくなっているのでしょうね。
間違いを正す、不正を暴く、というのは風の吹き始めはよいのです。帆を大きく広げれば広げるほどグーンと前進して行きますから。でも、風向きが変わったり弱まったりして来ると、ベースに「愛」というものがなければ、舟を推進する蓋然性がそれ以上は見い出せなくなってしまう。すると、いつの間にか「何のために」という目的を忘れてしまって、「正す」「暴く」という行動の部分が目的化し、エスカレートして行ってしまうのです。
本人は、「自分は正しい」ことをしていると思い込んでいるので、またそれがその人の心のよりどころともなっているので、ますます意固地になり、自分の考えとちょっとでも違う人間には片っ端から咬みつくという態度に出てしまいます。今の世の中は、こんな人たちであっちもこっちも溢れかえっている。でもこれも、大局的に見れば灰汁が出ているのであって、鍋がグツグツ煮えて来た状態にある本人の心中は少しも穏やかではない筈です。
ここで、なぜそっちへ行こうとするのか、また行きたい!という衝動を抑えられない自分がいるのかを、立ち止まって考えてみなければなりません。
勢いで進んできた道のどん詰まりがT字路になっていて、そこに道標が立っている。一方には「統合への道」、反対方向には「分離への道」と描かれてある。さ〜てどっちへ行くのか。ここが思案のしどころです。「分離への道」を極めたいという衝動の奥には、多分その人のカルマがある。
隠されて来た「闇」が暴かれることは、以前から決まっていた天のご計画で、その任に当たる人というのは自ずと現れるでしょうし、その人にはそういう役割が与えられています。しかし同時に、その役割を通じて、自身のカルマを解消するという機会も与えられているのです。
秘密を暴くということは、これまでの時代であれば、相当な困難と苦難が伴ったことでしょう。場合によっては、それをしたために殺されてしまったかも知れません。地球における政治というのは、何しろ謀略や裏切りの繰り返しですからね。でもその時の、自分の恨みつらみを晴らそうというのと、長らく奴隷状態に置かれていた人類に解放の恩恵をもたらしたいという動機とでは、同じ暴露行為だとしても意味する結果は雲泥の差です。
私も、時に YouTube で論客と言われる人たちの発言を聞くことがありますが、論客たちの口から「ありがとう」のひと言が発せられた瞬間というものを、ついぞ見たことがありません。どの人も、いつもいつも自分以外のやつらはバカばっかりだと、小馬鹿にしたり罵ったりし続けています。いつの間にやら、自分が「ありがとう」の言葉を忘れてしまったことにすら気づいていないのではないでしょうか。
ああ、可哀想に。愛を授かった経験というものがないから、「ありがとう」の言葉も湧いて来ないのだろうね。
でもね、自分が与えようとしないから、愛に出逢えないのですよ。
結局、彼らは、頭はいいのでしょうが、無智なのです。
人になぜ個性があるのか、なぜ持てる能力に違いがあるのか。これはみな「統合」を学ぶためなのです。先ず、分かれていないことには「統合」を学習できません。また「統合」された中にずっと居続けていたとしたら、それが「統合」だということにすら気づけないでしょう。そこで人間は、一者(大いなるもの)から別れて、個別化したのです。これが自我の始まりです。
ですから「統合への道」に気づければ、個性というものが、補い合ったり、励まし合ったり、切磋琢磨したりするためのものだということが解ります。そして、仲間うちのみんながそのことに気づけば、LOVE and PEACE が実現されます。ところが、「分離への道」を極めんとしたときには、競争となり、差別となり、闘争となり、支配となり、行き着く先は、追い落としや裏切りや破壊の泥沼へと転落していくのです。
今、この両者の道行きが、ハッキリと分かれ出しています。しかし、今からでも遅くはありません。「分離への道」から引き返して、「統合への道」へと、これから進むことも出来るのです。どうか、そうであっていただきたい。
以前に「縦の相克」と「横の相克」という話を書きました。世の論客たちは、今もって「横の相克」の話ばかりをしていますし、したがります。保守対リベラルとか、愛国主義対グローバリズムとか、推ワク対反ワクとか‥‥。でも、ロバート・ケネディ・Jr 氏が、4月19日に「民主党」から次期大統領選へ出馬すると宣言をしましたよ。これでもう明らかじゃありませんか。これまでの左右対立はただの茶番劇だったということが。
なんにでもレッテルを貼って決めつけるのはやめにしたほうがいいよ。レッテルを貼るのは簡単だけれど、それは単に、自分の「思い込みの整理」に過ぎない。レッテルを貼ってキャビネットに整理すれば、その後の思考が簡単になるかも知れないけれど、個性というのはそういうものじゃないからね。それを、自分の気に入らない人間はみんな一緒くたにしてレッテルを貼りつけたら、括られた中にいる人たちをみな「敵」にしてしまうよ。それでいったい何になる?
人類は、魚座の二元対立を克服しなければならない時代に来ているのだよ。二元は「対立」ではなくて「補完」だということに、もういい加減に気づかなくちゃいけないねぇ。
何のために男女がいるのさ。差別するためでも、従わせるためでも、恐れるためでもないよ。あなたが、二元は「補完」関係だと気づき、「補完」だという視点で周囲の世界を見まわせば、世の中がまるで違って見えて来るよ。そして、やがてはすべてを許せるようになるでしょう。
今ある世界は、西洋文明の支配のもとに構築されて来た歴史があるために、あらゆるところに西洋文明の価値観というものが深く浸透しています。ことに、自然は人間が支配すべきものだと考える人間第一主義や、一神教に基づく二元対立と闘争の概念が、当たり前の感覚をもって日々欧米から発信されています。日本人というのは、元来はそうではなかったのに、今ではすっかりこれに侵されてしまい、特に知識人は欧米と同じ価値観からものを語る傾向があります。
最近では、「闇」の支配層を「カバール(Cabal)*」と言ったり、「悪魔教」を信奉*していると言ったり、これと戦うグループを「ホワイトハット」と呼んだりするのが流行となっているようです。ですが、そういう言葉に接していると、私は頭の中がジリジリと痛くなってきて「もう勘弁してよ〜」と言いたくなる。
*カバール:カバラ(ユダヤ教の神秘思想と数秘術)に基づいて付けられた蔑称で、そうしてレッテル貼りして丸ごと否定してしまうというのが、なんとも嘆かわしい。カバラから学べることだってあるのにネ。良いところは取り入れて、高めて行けばいいのに‥‥。
*「悪魔教」を信奉:そのようなレッテル貼りをするとどうなるか? その考えに同調した人たちの「思い」を集めます。その「思い」の集合が、かえって「悪魔」を肥え太らせるのです。なぜなら、悪魔は「存在」ではなく「意識エネルギー」の集まりなのですから。ですから、同じ土俵に上がって「勝負」してはならないのです。
それが事実だとしても、「カバール」や「悪魔教」という言葉を出して、これに責任の一切をおっ被せたり、「ホワイトハット」に悪魔退治の期待を抱いたりするのは、いま人類に突きつけられている課題というものを履き違えています。これでは、人類の前進はない。戦って勝ったとしても、「闇」と同じ領域に落ちるだけだ。
人類は、新しい「神学」に目覚める段階に来ています。善が悪に勝利する。正義が悪人を退治する。このような二元論はもはや過去のものです。これは正しくはありません。正しくないどころか、人類にもたらされた災厄は、悉くこの二元論より出発しているのです。
いつも言っているように、騙される人がいなければ、騙す人は成立しません。たとえ悪魔が耳元で囁きかけてきても、興味を持たなければ、悪魔だって退散するしかないのです。でも、「悪魔教」を信奉する奴らが「悪」の根源なんだ、悪いのはみんなアイツらのせいだという話にしたら、自分の中に潜んでいる「悪」に人々が気づかなくなってしまいます。自分を見つめなくてもいいよ、反省しなくてもいいよ、ということになってしまいます。
これは、自分の人生の不運を、すべて「カルマ」のせいにして終わりにするのと、まったく同じ過ちに踏み込んでいます。そうではないのです。カルマを言い訳に使ってはなりません。カルマは、見つめて、反省して、乗り越えるために与えられている。それは、自分が自分へと送ったギフトなのです。
宇宙はすべて波動です。同調のないところに詐欺は成立しません。自分の中にも「悪魔教」に惹かれる部分があるからこそ、「悪魔教」を信奉する人たちの餌食になってしまうのです。そこに気づかない限りは、人類の進歩はない!
コロナ・パニックを振り返ってみてください。今となっては、すべてが嘘だったと解ります。でも、騙した人も騙されていたのであり、騙された人もまた他の人を騙したのです。そうすることが、みんな「正しい」と信じ込んで。
これは、太平洋戦争時の「国防婦人会」と一緒です。いつの時代も変わらない。普通のお母さんたちが、タスキをかけて、日の丸の小旗を振って、子どもを戦地へと送り出していったのです。そうすることが「正しい」と信じ込んで。
世に、「正」を冠した宗教団体というのがたくさんあります。いわく「正法」「正宗」「正教」。それは、自分のところのみが「正しい」、我こそが「本物」と称して憚りません。そして、自分たち以外はみんな邪宗、邪教なのだとレッテル貼りをする。でも、その「正しい」という判断は、いったい誰が下したのでしょうか? それを運営している者たち、つまり人間ではありませんか。
いや、自分は「お前のみが正しい」という神からの啓示を特別に授かったんだと。あるいは、自分は釈迦の生まれ変わりであると。イエスの生まれ変わりであると。だから「正しい」んだと。そう言う人間がいるかも知れません。だとしたら、その人物は、霊界のことをまったく理解していないということになります。
全宇宙を支配するものは何者でしょうか? それが何者かは解らないまでも、この宇宙に何らかの秩序だった法則性が見られ、引き続き宇宙が存在し続けていることを思えば、究極的にはそれが一者であることは自明です*。だから、善神と悪神が相争っているのではなく、善神も悪神も同じ一つの神から出ているのです。それは、故(ゆえ)あってそういう役割を果たしているに過ぎないのです。どういう故か? 魂の成長を促してやるためにです。
*二者では、互いを誰が創ったかという矛盾が生じてしまいます。
ですから、わが教団のみが「正しい」などということはあり得ません。この世というのは「相対的」な世界です。「絶対」というものは、絶対にない。なぜなら、「絶対」と言えるものは「無」しかありないから。諸行無常。生々流転。全部が「相対的」な今を生きて変化している。ということで、それぞれがみな霊的発展途上にあるのであり、それぞれの霊的学習段階を生きているのです。
この世に「悪」があるのは、「悪」を経験して苦しんで、それを霊性向上のジャンプ台とするためです。だから、あなたの中に潜む「悪」に気づけば、それをジャンプ台に活用することが出来るのです。ああ、なんて素晴らしいこと。でもスルーしてしまったら、「悪」を隠したままになる。
先行きが見えないことで、何らかの「心のよりどころ」が欲しいという気持ちが湧くのは解ります。でもそれを、自分の外に求めちゃいけないよ。外に求め続けている限り、不安が消えることはない。ひと場所にしがみ付き続けるか、行脚を続けて「あ、また騙されたぁ」ということになる。なぜって、今世における課題は一人ひとりがみな違うんですもの。あなたの課題(すなわちカルマ)は、あなたにしか解決できないのですからネ。
だから、「心のよりどころ」は自分に求めなさい。もっともっと自分を信頼しなさい。あなたは誰なのか? あなたは一者の生んだ子です。あなたの胸中には、誕生した時からずっと神性が備わっている。こんな経験が、きっとあなたにもお有りでしょう。あるきっかけに接した瞬間、嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに、なぜか法悦の涙が内側から溢れ出て来たということが。それは、あなたの「魂」が、内なる神に触れた瞬間なのです。
だから、自信を持ちなさい。あなたはそのままのあなたでよいのです。自分を信頼して、いつも奉仕に生きなさい。奉仕に生きていれば、後になって他者を非難したりすることはありません。打算でつながるから、後になって「騙された」だの「裏切られた」だのと言い出すのです。要は、自分が悪いのです。「分離への道」か「統合への道」か、選ぶのはあなただ。
愛を与えれば、愛が返って来る。その反対もまた然り。
宇宙の法則とは、いたってシンプルなのです。
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2023年2月に愛知県小牧市でセミナーを主催してくださった takuya さんが、『虹の学校 - New Horizon - 名古屋校』を立ち上げてくださいました。
その名の通り、名古屋近郊を拠点としたグループ・コミュニティづくりを目指しています。当面の活動は、インターネットラジオを使った番組の配信を計画しております。
名古屋校開設の目的と経緯につきましてはこちら ▶︎ をご覧ください。
また、今回、『虹の学校』の「アセンション・セミナー」にご参加くださった方、また『瞑想入門』をご購入くださった方へのフォローとして、誘導瞑想用の音源を特別付録として掲載させていただきました。
どうぞ、みなさんお好きな時間に訪れて、『虹の学校 - New Horizon - 名古屋校』の番組をご試聴なさってください。
『虹の学校 - New Horizon - 名古屋校』のサイトはこちら
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ロシアはこの戦いを「戦争」とは呼ばずに、一貫して「特別軍事作戦」と呼んでいました。その目標は大きく二つあり、一つはロシア系住民が住むウクライナ東部の四つの州の解放でした。「解放」と言うと、西側報道に汚染された人たちからはロシアびいきと思われるでしょうが、2015年の「ミンスク合意」を反故にして、東部地方の住民に攻撃をし続けていたのはウクライナ政府軍です。しかも、このウクライナ軍には、ネオ・ナチが入り込んでいるのです。
もう一つは、ウクライナに巣食っているナチスを撲滅して、ウクライナを東西の軍事バランスの中立地帯に押し戻すということです。この地の歴史的な闇は深く、ウクライナのネオ・ナチのルーツは第二次世界大戦にまで遡ります。第二次世界大戦では、ヒットラー率いるナチス・ドイツを、英米ソその他の連合軍が倒したということになっていますが、これは中東にユダヤ人国家イスラエルを建国するための口実に過ぎませんでした。
実際には、ユダヤ人を迫害したというヒットラー自身がユダヤ人だったのであり、目的のためには手段を選ばずということで行われた、これは壮大な茶番劇だったのです。世界を二分したこの戦いも、結局のところ、AチームBチームに分けて戦わせて、その両陣営にお金を貸して儲ける、という闇の支配者の常套手段の一つだったのです。一説によると、第二次世界大戦では、当時の総人口の2.5パーセント、8000万人ほどが亡くなったと言われています。
そのあまりの非道さを考えると、頭がクラクラするのではないでしょうか。聞かされて来た歴史とあまりにも違うので、そんなことあるわけがないと思われるかも知れません。しかし、通常の人間の感覚をもってしては判断できません。闇の支配者たちというのは、人を虐殺することなど何とも思っていないのです。そして、今回の偽りのパンデミック、大惨事世界大染では、最終ミッションとして90パーセントの人口削減を目標に掲げているのdeath。
このウクライナのバックには、アメリカの国防総省と、CIA、そして世界的大富豪のジョージ・ソロスがいる。ソロスもまたユダヤ人ですが、第二次世界大戦中はナチスに協力してユダヤ人迫害を手伝っていました。
今度の戦争で、ウクライナ軍を影から指揮していたのはNATOです。ウクライナはNATOの加盟国ではありませんが、ゼレンスキーは単なる傀儡であり、実質的にはNATOのコントロール下のもとで動いているのです。その軍費と兵器を、日本を含むいわゆる西側グループが支援するという構図になっています。要は、G7というのは、親ナチの、DS傀儡国家の集まりなのです。(Gというのはゴロツキの略だと言っている人もいます)
そしてNATOが束になって掛かっても、ロシアの一民間軍事会社に勝てないのです。また、今まで聞かされてきたのとは違って、西側兵器は近代ロシア兵器にまったく歯が立たない。そのことも証明されてしまいました。
自分たちの戦争ではないのに税金を使われて、ロシアを制裁したら、制裁したほうの国の物価が高騰して庶民の生活が苦しくなる。ということで、欧米では人々の「洗脳」もかなり解けて来ているのですが‥‥、日本だけは、未だにほとんどの人が、実態や、真実や、ことの背景を何も知らずに呑気にやっているのです(๑•﹏•)。挙げ句の果ては、NATOの事務所を日本に開設するんだとか。
NATOって軍事同盟ですよ。国会を通さずに、法律も変えずに、誰がそんなことを決められるんでしょう? 決めていいんでしょう? しかも、日本が位置するのは「太平洋」側ですよ。NATOは「北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization)」でしょう。「太平洋」と「大西洋」の区別もつかないって、いったいどういうわけ? 地理の答案で「太平洋」と「大西洋」を間違えたら、バッテンがつくよ〜。
ところが、日本人の大多数が知らないことって、これだけじゃないのです。実は、DSの主要プレイヤーは既に逮捕、処刑されているか、あるいはGPS発信装置の足枷を付けられた上で転向させられているかのどちらかだと言うのです。ですから、先日の広島のG7に集まった顔ぶれも、いったい何人が本物か判りゃしない。ひょっとして全員が役者ということも大いにあり得る。
1953年に出版されたエリザベス・ハイチの『イニシエーション』の中に、魚座からみずがめ座の変革期には「支配階級だった何千という人たちが、投獄されたり処刑されたりしているのが見える」と書かれてあります。最初にこれを読んだ時には、どのような経緯でそうなるかがイメージ出来なかったのですが、まさにその通りのことがいま起きているのにはビックリです。「ああ、こうして何千という単位にそれが起こるのか」と、ようやく納得がいきました。
結局、「特別軍事作戦」というのは、トランプさんとプーチンさんが組んで、裏ではDS幹部の始末を着けながら、表では代役の役者にトンチンカンなことを言わせ、あるいは闇の計画をわざと語らせて、人々に呆れさせることで、徐々に「洗脳」を解いていくという作戦を言っているようです。頭からどやしつけたところで「洗脳」というものは解けませんからね。「え、そうだったのか」「自分は騙されていたんだ」と本人が気づいてこそ、はじめて「洗脳」が解ける。
その真実に目覚めた人たちが臨界量(Critical Mass)に達するまでを、じっくり待っていたというわけです。そうしないと下手すりゃ内戦になってしまいますからねぇ。そして、「洗脳」から目覚めた人たちがかなり増えたことで、いよいよフィナーレが飾られる時期というものが迫って来ました。トドメは、基軸通貨であるドルの崩壊です。世界中の金融システムは大混乱に陥り、ロスチャイルドが造った中央銀行制度もこれを機に消滅してしまうことでしょう。
「沸く珍」の闇についても、だいぶ暴露が進んで来ました。しかしこれも、「目覚め」の度合いには、まだかなりの温度差があります。「沸く珍」が用意周到に計画された*「生物兵器」であった、ということを理解する人は、全国民のまだ1〜2パーセントしかいません。それが出来た時、ウクライナのことも、金融のことも、政府のことも、マスコミのことも、医療のことも、その他諸々が全部つながって一挙に理解が出来る。
*その端緒は1965年にまで遡る。
参考:https://twitter.com/KimDotcom/status/1661698114917646336
結局、我々が住む地球世界は、「闇」のグループが支配する〈基盤〉の上に乗っかっていたということです。ここで、フラットアースをイメージしていただくと解りやすいかも知れません。その基盤の上に何もかもが乗っかっていて、それが当たり前の世界であり、誰も根本的な疑いなど持たなかったのです。そこからこぼれ落ちたら、生きる術も見つからないほどでしたし、基盤の上に各種の梯子を立てて、いかに上に昇るかということが教育目的となっていたのです。
しかし、それが今、丸ごと「ちゃぶ台返し」に合おうとしているのです。ここで、この地球の住民たちは大きく二分されます。最後まで基盤にしがみついている人は、ちゃぶ台返しと一緒になってひっくり返って終わる。けれども、最初から基盤に背を向けて別の地平を歩いていた人と、今度の時代のうねりの中で飛び降りる決心をした人は、この激動の時代を生き延びる。そして、次の世紀を創る礎となるのです。
家を建て替える時、新しい家のイメージを思い描き、設計図まで拵えている人は、古い家を壊すことに躊躇はしないでしょう。でも、古い家に執着があれば、壊れ行くことは、その人に苦しみと悲しみをもたらことになります。
もうマスコミ報道を見ることは一切おやめなさい。今となっては、なんの価値もないだけではなく、時間のムダです。それが単にフェイクだということに留まらず、「沸く珍」被害者の報道をめぐっては、特定方向へ意図的に誘導していることを、NHKも自身で暴露しました。決して公正中立なんかじゃない。NHKがDSのど真ん中にいるということを、自ら白状したのです。
亡くなった方、重篤な病気の発症や、体調不良でいま苦しまれている方はお気の毒ですが、こうなることは最初から解っていたことです。ですが、そこを強く言い過ぎるとさらに鞭打つことになりますので、この程度に留めますが、ここで考えていただきたいのは、どこに「救い」があるのか?ということです。こうなった以上は、この世を超えた「本質」に向き合わなければ、「救い」には出逢えない、と私は思うのです。
これは、よきチャンスです。チャンスという言葉が不謹慎に聞こえるかも知れませんが、私は躊躇いません。むしろ、チャンスにすべきです。
そして、ここで、「本質」からの結論を申し上げますと、
〈誰もが最初から救われている〉のです。
例外はありません。誰もが最初から救われている。
死んだ人もか?
そうです。死んだことによって救われている。
しかし、すでにお気づきのように、「救い」の概念が、世間の常識と、ここで私が言うのとでは違います。私が言う「救い」は、「魂」が掬われるということです。
何に? 天に。
天網恢恢疎にして漏らさず。これは一般には「天は悪事を見逃さない」の意味に解釈されていますが、それだけではありません。天の網は、善事も見逃しませんし、どんな「魂」をも掬い上げてくれる網なのです。
しかし、死んだ後になってやっと「救い」に気づくよりは、死ぬ前に「本質」に気づくことのほうがずっと価値があるし、「魂」を大きく成長させることが出来ます。
今度の「沸く珍禍」では、加害者となった側には、最初から意図して悪事を為した邪悪な「魂」と、金や地位に釣られて悪事と知っていながら加担した「魂」と、悪事を善事と信じ込んで推進した「魂」と、あまり考えずに長い物には巻かれろ式に従った「魂」とがいます。一方の被害者となった側には、やはりあまり考えずに長い物には巻かれろ式に従った「魂」と、悪事とは見抜けずに善事と信じ込んで行動してしまった「魂」とがいます。
これらの違いは、それぞれの「魂」の成長段階による違いです。決して加害者だけが一方的に悪いというわけじゃない。それぞれに、今度の災禍を通じて学習できたことの「課題」がそこに明確に提示されているのです。あとは各人が、死ぬ前に、そのことに気づけるかどうかです。もしも死ぬ前に気づければ、その「魂」は、この未曾有の災禍を利用して、大きくジャンプすることが出来ます。果たして、どれくらいの人たちが、その「本質」と出会うことが出来るのか‥‥。
地球の大転換期に際して、いろんな人がいろんなことを言っています。けれども、「信念」を振りかざす人たちには注意しなさい。共感を覚えた瞬間から、あなたは真実を見通す眼を失い、その「信念」の中に取り込まれます。「信念」など持ったら、「魂」の成長に急ブレーキが掛かり、そこで成長はストップしてしまいます。なぜなら、成長とは、捨てることだから。だから、あなたは、いつでも自由でいなさい。
人は自由でいてよいのだということ。自由がいちばん尊いのだということ。そして何より楽しいのだということ。それを、あなたの生き方で示しなさい。そうすれば、その波動が、周囲の人たちを救うことになります。あなたの得意分野で、あなたの出来ることで、すぐに走り出しなさい。行動しなさい。それがあなたを救う。天はいつでもあなたを見守り応援しています。
]]>イヴ・クデーが行なった実験とは次のようなものです。水を張ったトレーの下部に振動発生器を置き、これを作動させて水の表面に波紋を浮かび上がらせます。この上にシリコーン・オイルの滴を垂らします。すると、両者の間には空気の潤滑層が形成され、滴が宙に浮いた状態となります。そして、波紋の動きに合わせて、滴がぴょんぴょん跳ねながら移動して行くのです。その動きを観察していますと、滴は周囲の波にまるで導かれて行くように見えます。
また一方で、飛び跳ねた滴は、落下の際に水面に波を生じさせます。このとき水面を傾けてやると、滴がまるで自分の通路を掻き分けるようにして、波紋を生じさせながら歩いて行くのです。このように、滴と、それを覆うようにして周囲にある水盤の波とが、相互に作用しながら、これらの奇妙な現象を作り出していく姿が観察されるのです。
クデーは、これらの観察結果から、1927年にルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie、1892 - 1987年)が提唱した「パイロット波(誘導波)」理論との関連性に着想を得ます。そこで、この実験装置を使って、例の「二重スリット」の実験を再現してみたのです。すなわち、シリコーン・オイルの滴を光子に見立て、「二重スリット」に向けて打ち出してみました。すると、スリットを抜けた滴に、見事に回析する現象が認められたのです。
もちろん、量子的なミクロの世界で起きている現象を、目に見える世界にまで超拡大して解釈することには無理があります。しかしこの実験成果は、ある可能性を提示してくれています。それは、「二重スリット」実験における「光子」の奇妙な振る舞いは、「光子」だけに着目していてもラチの明かないパラドックスに陥ってしまうのであり、解決のヒントは、むしろ「光子」を取り巻いている「場」の側にあるということです。
■復活する「エーテル」論
さてここで、以前に紹介した「エーテル」理論のことを思い出してください。この宇宙には、基本単位としての「エーテル」エネルギーが遍(あまね)く満ちている。という神秘学におけるセオリーです。しかしここでは、「エーテル」とは別の言葉を用いたいと思います。と言いますのは、『虹の学校』では、気が発している見えない体に対して「エーテル体」の呼称を使用しているためです。そこで、これとの混同を避けるために、これ以降は別の言葉を用いることにします。
これまで、「宇宙エネルギー」とか「生命エネルギー」という言い方もして来ましたが、今回は「意識」があるということを強調したいので「Sprit Energy(スピリット・エネルギー)」と言うことにします*。その上で、クデーの実験結果を改めて解釈し直すと、「スピリット・エネルギー」の波動が、「パイロット波」となって「光子」を誘導し、回析現象を起こしているという仮説が成り立つのです。
*このように、言葉が統一できないのは、三角形△の頂点に行くほど、一つの概念内に多様な性質が含まれることになっていくため、それをひとことで言い表す言葉がなくなってしまうのです。
クデーの行なった実験は、クデーの死後も弟子の流体力学者たちによって引き継がれ、誘導する波が干渉縞を生じさせる理由が数学的にも解析されています。ということで、流体力学者たちの間では、量子論の背景に「スピリット・エネルギー(エーテル)」の存在があるということに、そろそろ気がつきはじめているのです。
しかし、残念ながら量子物理学者たちはほとんどこれを無視しています。よって、日本で量子力学を語る人の口からイヴ・クデーの名が出ることはありません。Googleで検索してもその名は上がって来ませんし、Wikipediaの日本語版にもその名はありません。
物理学者というのは、やはり「物」の「理」を追究している人たちですので、それを超えた領域になると、途端にアレルギー反応を示してしまうというのは、どうにも困ったものです。そのくせ、日曜日には教会に通ったりしているのですからねぇ。もう少し歩み寄る姿勢を見せてくれると良いのですが‥‥。分からないかなぁ、時代は、もう次のステージに変わったんです世〜。ま、私たちは、私たちの論を進めましょう。
ド・ブロイの「パイロット波」理論は、当時の量子力学の主流であったコペンハーゲン解釈とは相容れなかった*ために、その後はずっと捨て置かれていました。しかし、これを復活させて考えてみると、単発で打った「光子」が、「二重スリット」を通過した後で干渉縞を描くという謎が、クデーの実験から解明できます。私たちの言葉で言えば、振動するエネルギーである「スピリット・エネルギー」が、「光子」をそのように導いて行くということです。
*ド・ブロイは孤高の人と言われていました。いつの時代、どんな分野であっても、真実に迫ろうとする者はつねに異端あつかいをされ、風潮に迎合する人たちが正統派と言われるのです。
今度のワクチン禍でもそれは同じだったでしょ。でもなぜ多くの人々が、真実よりも、ウソやニセモノの言葉のほうにより強く惹かれるのでしょうか? ちょっと考えてみてください。これもまた、「波動の法則」が示す通りのことなのです。
■テレパシー現象の謎と『ソラリス』の「海」が示す意識
さて、そこまでは良いとして、ではその秘密を暴こうとしてスリットを覗き込んだ途端、干渉縞が発生しなくなるというのはどういうわけなのでしょう? また、「量子もつれ」の状態にある二つの量子間でテレパシー現象が生じるというのは、どうしてなのでしょうか? 流体力学者たちも、まだそこまでは考察してはいないようです。
ここで私は、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レム(Stanisław Herman Lem、1921 - 2006年)が1961年に発表した小説『ソラリス(Solaris)』のことを思い出すのです。この小説は、1972年にソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーによって、また2002年にはハリウッドでジョージ・クルーニーの主演のもと、スティーヴン・ソダーバーグ監督によって映画化されています。
『ソラリス』のあらすじはこんな感じです。主人公はクリス・ケルヴィンという名の心理学者です。ある日、彼のもとに、惑星「ソラリス」を探査中の宇宙ステーションに対する調査依頼の仕事が舞い込むのです。このステーション内では不思議な現象が頻発していて、地球との交信もとうに途絶えてしまっていました。
さっそく「ソラリス」の宇宙ステーションに向かったクリスは、そこで前任者と会うのですが、生きていたのは二人きり。あとのクルーはみな自殺していました。しかも、生き残っていた二人とは会話もうまく成立しません。二人とも精神を病んでいて、その原因は、ステーション内に、存在しないはずの人間が出現するという怪奇現象にあるようなのです。そして、やがてクリスの前にも、10年前に死んだはずの妻ハリーが出現するのです。
クリスはハリーの死に対して強い自責の念を抱いていました。同様に、各クルーの前に出現した人物たちは、みなそれぞれのトラウマが描き出した人物だったのです。惑星「ソラリス」を覆っている「海」には、どうやら意識があって、この意識がクルーたちの心を読み取り、それに応じたホログラムを出現させているようなのでした。こうして、惑星「ソラリス」にやって来たクルーたちは、ことごとく狂うということになってしまうのです。
「ソラリス」のことは前にも紹介したことがありますが、私がしばしば話題にするのは、この小説が、「波動」理論の原理をメタファー(隠喩)したものになっているからです。惑星「ソラリス」や、宇宙ステーションという設定は、SFとしての形式を確かに与えていますが、それらを全部とっぱらってしまえば、これは地球で日常的に起きている普遍的な心理ドラマを、少し誇張して描いたものなのです。
つまり、クルーたちが抱えることになる、それぞれの気も狂うほどの悩みというのは、自らが創り出した、自己の意識の外部への投影となっているのです。
ではレムは、なぜこの惑星の意識体を「海」に設定したのでしょうか? 大気ではダメだったのでしょうか? 私の直感では、「海」であるならば、人々は直ちに「波」の動きをイメージ出来るからです。「海」が不気味に揺れ動く様は、あたかもそれが「意識」を持っていることを想像させるのではないでしょうか。
この意識体は、人びとの心を読み取って、その人の眼前にトラウマの原因となった人物を出現させます。これは、みなさんが「現実」と呼んでいるものが、実はみなさんの意識が創り出している「幻術」なのだと、これまで何度も言って来たことのメタファーとなっています。また、あなたが為した体験の「解釈」は選べる、ということも言って来ました。つまり、体験をトラウマに仕立てた際には、それがその人のトラウマとなるのです。
さて、「パイロット波」の話に戻りましょう。ズバリ言って、「ソラリス」の「海」とは、「スピリット・エネルギー」のことを指しています。そして、この「スピリット・エネルギー」が「パイロット波」の役割を果たしているのです。「スピリット・エネルギー」には意識があって、人々の意識を読み取ります。逆に言うと、人々の意識が、「スピリット・エネルギー」の総体に影響を与えるのです。カール・グスタフ・ユングは、この構造体を「集合的無意識(Collective Unconscious)」と呼びました。
ということで、光子の動きにいったい何が起きているかを覗こうとした途端、干渉縞が消えてしまうという謎もこれでお解りでしょう。「スピリット・エネルギー」が、秘密を暴いてやろうと考えた観察者の、ヨコシマな心を読み取って、スクリーンの縦縞を表示させなくするのです。また、「右を通れ、通れ」と念じた際には、その思いを汲み取って、右側に誘導する「パイロット波」を生じさせるのです。
■「量子の非局所性」という現象が起こるわけ
では、残る最後の関門です。「量子もつれ」と「量子の非局所性」に関する謎は、一体どのようにして生じているのでしょうか? この答えは実は簡単です。しかし、物理学者にとっては、今後も難問であり続けるでしょう。なぜなら、その理由は「物理」の範疇を超えてしまうからです。したがって、ここで答えを言ったとしても、彼らは決して認めはしないでしょう。トンデモ理論と言って一笑に付すことでしょう。
「量子の非局所性」という現象が顕れるわけは、「量子」というものが、もともと非局所領域(=非物質界)と、物質界の境い目を行ったり来たりしているためです。非物質界と物質界との間を、激しく往復振動しているのです。ですから、非物質界に入った時には、時空間の制約を受けずに、「スピリット・エネルギー」の充満の中で、直ちに意思疎通が行なわれるというわけです。そこには、そもそも〈時間〉はないのです。それを、物質界側から見た時には、不思議な現象と見えるのです。
同じことは、以前に「遠隔治療」を例に挙げて説明したと思います。波動療法を行う場合、アストラル体の次元にまで波動を上げて施術できた場合には、時空間の制約を受けないために、施術者にとってはあたかもすぐ隣で施術していることと同じになるのです。それを、理屈を知らない人が見ると、物理的には大変な距離を置いているので、「遠隔治療」ということになって、不思議だなぁというわけなのです。
ド・ブロイが受け入れられなかったのは、「光は波動か粒子か?」をめぐって、コペンハーゲン解釈では、波動と粒子の二重性を、相補性としてとらえていたからです。つまり、波動の時もあれば、粒子の時もある、という考え方です。これに対して、ド・ブロイは粒子の中にすでに波動が含まれると主張しました。これは、「波動もしくは粒子」ではなく、「波動ならびに粒子」であるということで、ド・ブロイは二重性を統合へと導こうとしたのです。
このように、量子が波動と粒子の二重性を持つという現象は、物理学界から見れば、今日でも大変な難問としてあり続けているわけですが、神秘学は、これに別の解答を与えるのです。それは、宇宙には、物質化(非物質である振動エネルギーが物質になる)と非物質化(物質であったものが非物質の振動エネルギーに変わる)が相互に起こる「中間領域」が存在するというものです。
光子は粒子ではないが「波束」という形として粒子性を有する。つまり物質化する一歩手前にある。一方で、物質の基本となる素粒子は「物質波(ド・ブロイ波)」という内部振動を持つ。つまり非物質化の要素を抱えている。ということで、「中間領域」とは、どうやら量子世界にあるのではないか?ということなのです。ですから、量子力学が今後、物質化と非物質化という現象を認めたあかつきには、現在の標準理論に新たな枠組みが設定される可能性があります。
■現代物理学への素朴な疑問
いま述べたことは「宇宙の真理」に迫る上での、非常に重要なポイントとなっています。これも以前に述べましたが、私たちが存在する「宇宙」というものは、物質的空間だけのものではなく、霊的世界(=非物質的領域)に重なったものとしてあります。この関係は、霊的世界のほうが遥かに広大で、物質的空間というものは、その中のごく限られた波動領域を占めているに過ぎない*のです。
*これは、宇宙物理学の観点からも認められていて、直近の計算によれば、全エネルギーの4パーセント程度という値が示されています。
この関係を概念的で示すと、左図のようになります。ところが、物理学者たちはあくまで「物理」の世界の範疇で理論を追い求めようとします。そのため、超ミクロや超マクロの領域に入って行った場合には、霊的世界との境い目に踏み込んで行くこととなり、次々とパラドックスに遭遇してしまうのです。
「波動の法則(2)」において、その矛盾点を列挙してみましたが、なぜこれらの疑問の声が物理学の現場から上がって来ないのかが、私にはとても不思議です。以下に、再掲してみます。
・なぜ「無」から「有」の「ビッグバン」が生じるのか? 生じることが出来るのか?
・「ビッグバン」の以前は何だったのか?
・「無」であれば、時間も空間もない筈なのに、なぜ「ある日ある時」と言えるのか?
・どうして、「ビッグバン」と同時に「時間」が突如として開始されたのか?
・宇宙が膨張していると言うが、何(座標)に対して膨張しているというのか?
・膨張しているところの「縁(へり)」はどうなっているのか?
・「縁」の外側はどうなっているのか?
・宇宙を観測した時に、なぜいつも地球が中心にあるのか?
ところが、これらの疑問に対する答えは、神秘学においてはとっくのとうに示されているのです。
(つづく)
]]>先ず、「波動」とはそもそも何かということです。その意味するもの(定義)とは、いったい何なのでしょうか? スピリチュアルな場で、「波動」という言葉を、実に多くの人が日常的に使っておられるのをよく目にします。私も、時に使いますが、使う時には慎重を期しています。しかし、こう言うとお叱りを受けるかも知れませんが、大半の方は、どうも曖昧にしたまま、ご自分でもよく解っておられないまま使用されているように、私には思えるのです。
似た言葉に「波」や「振動」があり、こちらは広く世間で普通に使われていて、その定義もほぼ共通認識がされているように思います。ところが、スピリチュアルな話になった途端、誰れもが「波動」という言葉を使い出すのは、一体どうしてなのでしょうか? 「波」と「波動」とは何が違うのでしょうか? また「振動」と「波動」とはどこがどう違うのでしょうか?
英語で「波」に相当する単語は「Wave」です。「波動」という言葉は、おそらく英語の「Vibration」に充てた訳語として定着していったのではないかと思うのです。スピリチュアル関連の翻訳本を見ますと、「ヴァイブレーション」とカタカナ表記された文を多く見かけます。この「ヴァイブレーション」を日本語に訳した時に、「振動」ではどうも味気ないし、意味するものを伝え切れていないということで、どなたかが「波動」という言葉を考えだしたのではないか*と私は推察しています。
*あるいは、後述する量子力学における量子の二面性を表現する言葉として、先に「波動」が使われ、これをスピリチュアル用語に転用したのかも知れません。
しかし、このような背景を抜きにしたとしても、「波動」の文字列が示しているように、その意味は、「波」と「振動」とが合わさった概念を持っていると言ってよいのではないでしょうか。単に「波」でもないし、また単に「振動」でもない。「波の振動」あるいは「振動する波」というニュアンスが、「波動」という言葉には込められてるということを先ずは感じ取ってください。
■「波」の性質と成立の条件
次に「波」とは何かを探ってみましょう。「波」と言って真っ先に思い浮かべるのは、海面に見られる「波」ではないでしょうか。沖合から「波」がやって来て、海岸に達して打ち砕ける。その姿を眺めていますと、一つの波が沖合からやって来て、ずーっと海岸まで流れて来ているように思うのではないでしょうか。
ところがそうではないのです。波の各ポイントでは上下の回転運動が起きているだけなのです。その証拠に、「波」の上に乗っかっている流木や海藻などは、「波」と一緒に海岸には達しません。その場に留まって円を描くように上下動しているだけ*なのです。結局「波」とは何かと言いますと、「媒質」を介したエネルギーの連続的な伝播のことを言うのです。
*実際には、風や摩擦や海流などの影響で、少しずつですが横方向にも移動して行きます。
さてここで「媒質」という言葉が出て来ました。エネルギーが「波」という形をとって伝わっていくためには、それを伝える「媒質」が必要とされるのです。海の波の「媒質」は、言うまでもなく海水です。地震波の「媒質」は土ですね。音波の「媒質」は空気です。空気が振動することで、音が伝わって行くのです。ところで、真空中では音が伝わらないということを聞いたことがありませんか? それは、音を伝える「媒質」である空気が、真空中には存在しないからなのです。
■「光」がなぜ真空中も伝わって来れるのか、を巡る論争
では「光」はどうなのでしょう? 光は、プリズムで虹色に分解できたり、屈折したり、二重スリットを通すと干渉縞が現れたりすることから、「波」であることはよく知られています。では、太陽光や星の光が地球まで到達する際には、いったい何を「媒質」として伝わって来ているのでしょうか。実は、これが初期の物理学上の大問題だったのです。真空中でも光が伝わって来るワケはどうしてなのか?
ここで、考え方が大きく二つに割れました。一つは、真空中にも我々がまだ発見できていない、何らかの「媒質」があるのだという考え方です。その考えに結び付けて想起されたのが、神秘学において古来より言われてきた「エーテル*」概念でした。しかしこれは、物理学(あくまで物質世界のセオリーを追究する)の範疇を超えてしまいますので、物理の科学者たちにはどうにも評判が悪い。そこで「エーテル」説は、トンデモ理論として直ぐにうっちゃられてしまったのです。
*ここで言う「エーテル」は、有機溶媒のエーテル(Diethyl Ether)のことではありません。宇宙に遍満する生命エネルギーのことを言い、古代ギリシャ語で「αἰθήρ」、英語では「Aether 又は Ether(発音はイーサー)」と書きます。これは、サンスクリット語で言うところの「プラーナ」、ギリシャ語で言う「プネウマ」、チベット語で言う「ルン」、中国語で言う「気」と同じものだと思っていただいて構いません。それぞれの言葉が持つニュアンスや波動のレベルに多少の違いはありますが、それは定義づけの問題であり、基をたどればみな一緒です。
このように、「エーテル」概念は世界共通のものであり、そうなるのも然りで「宇宙の真理」は一つだからです。「エーテル」は、地、水、火、風の四元素に続く第五元素(Quintessence)に位置づけられ、ピラミッドの頂点や五輪塔の最上部で象徴されています。ジエチルエーテルが発見された際、その揮発性の高さから「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている」と解釈されたことにより、この液体にエーテルの名が充てられたのです。
代わって浮上した考えが、光は「波」としての性質だけではなく、「粒子」としての性質も併せ持つのだという考え方です。実際に、光はその両方の性質を示します。そこで、光を「粒子」でもあるとすれば、真空中も伝わって来れる理由が説明できたのです。そこで、この仮定の粒子に「光子(または光量子、Photon)」という名前がつけられました。そして、 1 個の電子のエネルギー遷移から放出された光のエネルギーを最小単位とみなして「光子」が定義づけられたのです。
その後、「光子」は標準理論にも組み入れられ、今では完全に「粒子」の扱いを受けるに至っています。ところが、驚くべきことに、今もって「光」の〈粒〉は確認されていないのです。光は、粒子の「性質」も併せ持っているというだけであって、それが「粒子」だということはいまだ確認されていません。おそらく、今後も発見されることはないでしょう。それなのに、なぜか、光が「粒子」だという説が広くまかり通り、誰もがこれを前提とした議論を展開しているのです。
これに限らず、現代物理学というものは、おかしな定説だらけです。よく知られた「ビッグバン」理論も、宇宙が膨張しているという観測結果から逆算して考えられたものであって、なぜ、「ある日ある時」、突如として「無」から宇宙の種が生じたのか、その説明がまったく出来ていません。
・なぜ「無」から「有」が生じるのか? 生じることが出来るのか?
・「ビッグバン」の以前は何だったのか?
・「無」であれば、時間も空間もない筈なのに、なぜ「ある日ある時」と言えるのか?
・どうして、「ビッグバン」と同時に「時間」が突如として開始されたのか?
・宇宙が膨張していると言うが、何(座標)に対して膨張しているというのか?
・膨張しているところの「縁(へり)」はどうなっているのか?
・「縁」の外側はどうなっているのか?
・宇宙を観測した時に、なぜいつも地球が中心にあるのか?
以上は、私ならずとも多くの人が考える謎だと思うのですが、不思議なことに、学者たちは誰一人としてそれが謎だという声をあげません。そしてなぜか、「ビッグバン」理論というものが、もはや定説化する事態となっているのです。
■救世主となった「電磁波」伝播のメカニズム
話を戻して、「光」が、なぜ「媒質」のない真空中も伝わって来れるのかという難問に対しては、その後、「粒子説」に代わって、救世主ともなる新しい理論が登場しました。それは、「電磁波」の伝播のメカニズムに関する説明です。
今日では「光」は電磁波の一種であることが判っています。電磁波というのは、電界(電場)と磁界(磁場)を交互に発生させながら空間を伝わっていく波のことを言います。電界とは、電圧がかかっている空間に発生する場のことです。一方の磁界とは、磁気が作用している空間の状態を言います。
ところで、フレミングの「左手の法則」や「右手の法則」*のことはご存知でしょうか? 導線に電流を流すと、導線のまわりには電流と垂直な方向に磁界が発生します。このとき、電流の向きを変化させると、磁界の向きも変化します。また磁界が変化すると、磁界とは垂直な方向に電界が生じます。この関係を「電磁誘導」と言います。
*フレミングの「右手の法則」は、我々がむかし習ったのとは、今日では違う形を示しているようです。私がむかしむかしに習った形は、現在では「右ねじの法則」と言い換えられているようです。さらに、これらの法則は、義務教育ではもう教えなくなったのだとか。私って、もうガラパゴス?
電磁波とは、このように電界と磁界とを自ら交互に発生させながら伝わる波のことを言います。そのため、媒質がない真空中でも伝わることが可能、と説明されるのです。
■なお残るやっかいな問題 ---- 光量子の奇妙な振る舞い
さて、こうして、なぜ真空中も光(電磁波)が伝わるのか、という問題に関しては一応の理論的解決を見たのですが、光をめぐっては、その後も説明できないやっかいな問題が存在し続けました。それは、有名な「二重スリットの実験」と「量子の非局所性」に関する不思議な現象です。
「二重スリットの実験」とはこうです。スリットが二つ並んで開けられた遮蔽物に光を当て、その奥にあるスクリーンにどういう像が映るかを見ます。すると、通常であれば、スクリーンには縞模様が現れます。これは干渉縞と言って、光が波であることを証明しています。
次に、光を連続して照射するのではなく、光子を一個ずつ打ち出して同じようにスリットを通過させてみます。光子は粒の性質を持っているのですから、スリットを通過できた粒は、スクリーン上に1個の点を描きます。これをずっと繰り返していった場合に、果たしてどうなるでしょうか? 光子を弾丸のようなものだと考えれば、スクリーンには当然2本の線が現れるはずです。ところが、そうはならないのです。この場合であっても、スクリーンにはちゃんと干渉縞が現れるのです。
あたかも1個1個の光子が連絡を取り合って「みんなで一緒に干渉縞を作ろうね」と動いているかのようです。そこで、スリットの近くで、一体どんなことが起きているのかを確かめようとしてここに観測装置を設置してみることにします。すると今度は、その試みをまるで嘲笑うかのように、干渉縞は出現せずに、ただの2本の線になってしまうのです。
「秘密を暴いてやろう」というこちら側の考えをまるで見透かしたかのように、光が先回りして反応するのです。そこで、装置を工夫し、観測していることが直には解らないような迂回路を使った実験なども行われてきたのですが、結果はいつも同じでした。胸の奥に隠した企みも、必ずバレてしまうのです。
また、最近ではこんな実験も行われました。観測者の念をスリットを通過する光子に送ってみるのです。例えば「右を通れ」という具合にです。すると、確かに右側を通る光子の数が増えたのです。これらのことから、光には意思があって、あたかも人間の心を読み取っているかのように感じられるのです。
さて次は、「量子の非局所性(Nonlocality)」という不思議な現象です。「量子(Quantum)」とは、粒子と波の性質をあわせ持った物質やエネルギーの最小単位に付けられた総称で、原子や光子やその他の素粒子も量子に含まれます。また、非局所性というのは、場所を選ばないという意味合いです。「量子の非局所性」は、「量子もつれ(Quantum Entanglement)」の状態にある2つの量子間で起こるある不思議な現象のことを言います。
ややこしい言葉がまた出てきましたが、「もつれ」というのは、ペアになった量子間に起こる強い相関のことを指して言います。わかり易く、双子の関係と言ってもいいでしょう。この双子の関係にある量子の仲を引き裂いて遠くに離して置きます。これまでに、40kmまで離した実験というものが行われたそうですが、このようにして置かれた量子a、bの片方に刺激を与えてみます。例えば、量子aの回転をそれまでとは逆向きにしたとします。すると、瞬時に遠くにある量子bの回転も逆方向に変わってしまうのです。
この現象は、両者の距離がどれほど離れていても変わりがありません。また、実験で設定された距離をレーザー光で計ってみたところ、この現象は光速を超えていることが判明しました。これは、片方からもう片方へ情報が伝達されているというわけではないことが解ります。早い話が、同時に起きている。つまり、量子的世界では、時空間を超えて、“何か”が、同時に連携し合っているということが、観測の結果から想像されるのです。
このように、量子的世界では、日ごろ我々が慣れ親しんでいる自然界からは想像もつかないような不思議な現象が見られるのです。いま言った、「二重スリットの実験」と「量子の非局所性」の二つを合わせて考えると、量子、あるいはそれが存在する場、またはその両方か、にはまるで「意識」が備わっているようにしか思えないのです。
しかしこれは、量子的世界に限って見られる現象である、とは必ずしも言えません。なぜなら、量子的世界は、我々が「現実」と呼ぶ世界の中に、つねに内包されているからです。言い換えれば、すべての「現実」というものは、量子的世界がスクリーン上に描き出したホログラフィだと言ってもよいのです。
その関係を強く意識させる成果が、フランスの物理学者イヴ・クデー(Yves Couder、1941 - 2019年)が行なったある奇妙な実験によって暗示されました。
(つづく)
*今回の記事作成にあたっては、図版を他のサイトから引用させていただきました。
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「エニアグラム」という不思議な図形のことをご存知でしょうか。
『虹の学校』ホームページの「自習室」欄に、ドン・リチャード・リソ、ラス・ハドソンの共著からなる『エニアグラム 人生を変える9つのタイプ活用法』の推薦文を掲載いたしましたので、ご興味のある方はどうぞご一読ください。
以下に、冒頭の箇所のみを転載します。
ドン・リチャード・リソ、ラス・ハドソンの共著からなる『エニアグラム 人生を変える9つのタイプ活用法』(角川書店刊、上下巻)を、「光の道」をめざす方へのガイドブックとして推奨します。
特に、心の葛藤や、平静さや意志力を保つことについて悩まれている方には、 ぜひとも手にし、活用していただきたい、これは稀に見る良書だと言えます。
ご自分の性格の善くない面について悩み、なんとかしたいと思っておられる方はきっと多くおられるでしょう。本書では、そうした性格を丸ごと肯定した上で、性格の違いというものがどこから発生し、それがどのような意味を持っているのかを明らかにします。
その構造とメカニズムを俯瞰的に捉えてしまえば、いたずらに悩んだり翻弄されたりすることなく、ご自分の性格を活かして善い方向に振り向け、さらには霊性の向上までも図ることが出来るのです。読みこなすにはいささか知力を必要としますが、文章はこなれており、翻訳も適切です。 本書はきっと、あなたのよきガイドブックとなってくれることでしょう。
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私が今、とても残念に思うのは、社会正義に燃えたインフルエンサーたちの多くがあらぬ方向へと迷い込んで行っていること。不正を暴きたい、無知なる者に警告を発したい、催眠状態からの覚醒を促したい、というその気持ちはよく解ります。でもその人たちは「波動」の影響というものを知らない。影響力を持っているだけに、なんとか早めに軌道修正してほしいものだなぁと思っているのです。
話す内容がどれほど有意義なものであったとしても、ディスる気持ちをいっぱいにして発信すれば、ディスるその気持ちも確実に伝わってしまうのです。すると、どうなると思う? 「内容」に共感する人よりも、「ディスる気持ち」に共感する人たちのほうを多く集めてしまうのだよ。そして逆に、「内容」に今まで共感していた人たちは静かにその場を去って行く。
老舗の菓子店や飲食店から、ある日を境に客がスーッといなくなるのと同じことが起こるのだ。店主には皆目その理由が解らない。でも客は、何らかのBadな変化を、微妙に感じ取ってしまったんだね。
時代の大きな変わり目だから仕方のない面もあるけれど、いつまでもそこに留まっていたのではラチが明きません。覆水盆に返らずと割り切って、明るい未来像にさっさとシフトすることが肝心なのです。
騙されて傷ついた人に、「言わないこっちゃない」「なんでそんなバカなことをしたんだ」「自業自得だ」と今さら責めてみてもどうにもなりません。ましてや、これまでの見解をめぐって、あれこれ言い合いをしてみたところで良いことは起きない。傷ついた人がいたら、治してあげたり、癒してあげることが先決でしょう。そうすれば、もしかしたら、凝り固まった心の中にも、感謝や反省の気持ちが芽生えてくるかも知れません。
人々を騙して、傷つけたり、殺したり、お金を奪ったり、人生設計を破壊した人たちに対して恨み骨髄という気持ちもよく解ります。見ていると、政治の世界、役人の世界、知識人の世界には、「反省」という言葉がどうも存在しないようですね。う〜ん、可哀想に‥‥。自己反省のないところに、人間的成長はないよ。よって霊的成長もない。そのことをよくよく理解すれば、憐れみの気持ちが起きても「恨み」の感情などは持たなくて済みます。
彼らが犯したことの責任追及はきちんとすべきです。しかし、事実関係を粛々と明示するだけでいい。他者を裁くことよりも、先ず自分の成長のことを考えなさい。あなたが先んじて変われば、「反省」という言葉を知らない強情な人たちにも、反省の機会を促すことになるかも知れません。同じことをするのでも、あなたは、つねに明るい未来像を思い描いて行動してくださいね。そうすれば、心持ちをいつも明るくしていられるのです。
でも、
いつもいつも「ディスる気持ち」を突出させて行動していたら、その人は、やがては鬱蒼とした森の中に迷い込んで、出口の光を見つけられなくなってしまいますよ。みんな才能のある人なのに、根はやさしい人なのに、人々のために役立ちたいという気高い理想を持っている人なのに‥‥。私は、ちと残念に思うと同時に、この人たちの身をいささか案じているのです。
世の中はメチャクチャです。冷酷な人間がおります。悪い奴らが私腹をこやし、嘘つきが幅を利かし、正直者が損をする時代が長く続いています。しかし、それを怒ってみても、また自分と同じように怒らない人たちをさらに怒ってみても、ハッキリ言ってエネルギーの無駄遣いです。
なぜなら、第一に、そのような時代がもう終わったからです。第二に、怒っている気持ちは、その人のもの(自分で自分を不快にしている)だからです。そして第三に、それらは所詮、みな「幻」に過ぎないからです。
そこで、才能のあるみなさん(これはお世辞ではなく、また特定の人を指すわけでもなく、全員が本当に素晴らしい才能を持っているのです)に言ってあげたいのです。そんな不毛な闘争に、いつまでも関わりあってないで、サッサと飛び越して、一気にワープしましょうよと。
みなさんは、ご自分の年代の推移と、時代の推移の交差点に生きています。このことは以前にも書きました。
そうしますと、その人の「価値観」形成というものは、その人が成長期で体験した「時代環境」の影響というものを、非常に強く受けることになるのです。
これが「価値観」をめぐる世代差となります。
さて、90年代半ばから、大きな社会構造の変革が始まりました。これはさして議論に登るようなこともなく、でも必然的に、かつ確実に、人々の考え方や行動原理を変えていきました。言うまでもなく、インターネットとSNSの隆盛です。それらは、一つのフレーム(構造)に過ぎないのですが、しかしとてつもないインパクトを持っていました。フレームが変わったことによって、人々の考え方や行動原理のほうも、知らず知らずのうちに変えられて行ったのです。
「disる」という言葉も、SNS用語なのでしょうが(私はトレンドに疎いので、最近になってやっと知りました (・–・;)ゞ )、これは、Facebookが「Like」と「Dislike」のボタンを設置したことが、その浸透に大きく寄与したと思うのです。
Facebookの初代CEOだったショーン・パーカー(Sean Parker、1979年 - )は、「ユーザの時間や注意を最大限に奪うためには、ドーパミンを分泌させることが必要」と考えて、これらのボタンやコメント欄を設置したと言います。「それは、私たちのようなハッカーが思いつく発想で、私たち開発者は、このことを理解した上であえて実行したんだ。人の心理の『脆弱性』を利用したわけだね」と彼は述べました。
90年代以前には〈人々の中に、ディスる気持ちもヘイトする気持ちも無かった〉とは言いません。が、それらを「いいね」したり「拡散」したりする手段が、その時代にはまだありませんでした。そういう気持ちは、やり場なのない怒りとして、むしろ個人の内側に向かっていたのです。つまり、社会の波に乗れない自分が悪いのだと思っていたし、思わされていたのです。
それが、1989年のバブル崩壊で、それまでのメインフレームだったものが一緒に崩壊してしまったのです。この空虚さの中で、次世代を担う若者たちの間に、オタクの肥大化と、サブカルチャーの大衆化が起きて行きました。そして、これらの軽チャーが、メインと呼べるものがもはや無い中で、裏メイン化(旧世代は、その変化をぜんぜん理解していなかった)して行ったのです。
このような中で、今のような、他人を「ディスる」ことが当たり前の感覚や行動パターンが育っていったように思います。
また、そうしたほうがより世間の注目を集めますからネ。自分の「存在」理由を確認できた気にもなれる。
しかしこれは、冒頭でも言ったように「ディスる」ことをしたい人たちを集めてしまいます。ここで、ショーン・パーカーの言葉を思い出してください。この流れに乗って、始終ディスってばかりいたのでは、ドーパミンがそれこそドパドパと出続けて、その人の脳は遠からずやられてしまいますよ。これを私は心配しているのです。シューティング・ゲームにハマった脳と同じ状態になってしまうことでしょう。
なぜ、そんなことをするのかな? なぜ、地獄への階段を自ら降りていこうとするのかな? 所詮は、どうでもよいことです。そんな、どうでもよいことにいつまでも拘泥して、神経をすり減らしていてどうするのですか? 何が楽しいのですか。勝ち誇りたいんですか。自分が絶対的に正しいと言いたいんですか。そんなことをすればするほど、まともな人たちは引いて行きますよ。そこをワープして、あなたのエネルギーを、あなたの未来のビジョンに使うべきです。
なぜなら、第一に、新しい時代がもう来ているからです。第二に、ワクワクする気持ちはその人のもの(恐れや、不安や、怒りよりも、ワクワク気分のほうがずっといいでしょ)だからです。そして第三に、それらは所詮、みな「幻」に過ぎないからです。
その「幻」をどう生きるかです。
さて、この世が「幻」だという言い方は、きっとどこかで、今までにも聞いたり見たりしたことがお有りでしょう。私自身も、これまで何度も語って来ましたし、またその説明もして来ました。しかしこれは、頭で理解したとしても、実際に、感覚として「本当にそうだ」と理解するようになるまでには、瞑想をし続けてし続けて10年はかかるでしょう。ですから、いくら語ったところで、人々の意識をそこへ向けて貰うというのは難しい。
ですが、これは古来より言われている真実なのです。
この時に、人々の反応には4パターンがあります。先ず最初は、この世が「幻」だなんてことを、これまでに一度も聴いたこともなく暮らしている人。2番目は、聴いたことはあるけれど、「なに、それ? ワケがわからん」と相手にしなかった人。3番目は、その意味を知ろうとして探究した人。そして4番目は、その感覚をついに我がものとした人。
けれども、この世は「幻」という言い方には疑念を抱いている人であっても、次のことを考えた人というのは、たぶん大勢いらっしゃることでしょう。
「どうせ、死ぬんだ」
ふと、そんな言葉が浮かぶ時がある。そこで、「どうせ死ぬ」ことになる日までを、どう生きるかということをちょっとは考えてみようとする。どうせなら好きなことをして生きようとか、安心・安全で長生きしようとか。
これは、この世は「幻」という話にけっこう近いです。でも、大いに違う。それは、実際には、人は死んでも死なないからです。身体が死んでも、意識はずっと生き続ける。そうだとすると、「生きる意味」というものがまるで違って来てしまうでしょう。
好きなことをして生きる。これはこれでよいのですが、「好き」の中身が、自暴自棄であったり、享楽的なものではなくなります。なぜなら、死後も意識は生き続けるのですから、死んだ後で、超能力を得た意識はそれらの空虚さに気づいてしまうのです。そこで、膝を叩いて(膝はもうないけど)「シマッタ〜」となる。しかしその時にはもう遅い。
ですから、(感覚的理解まではいまだ至らないとしても)死ぬ以前からそのことを知っていれば、「幻」のこの世をどう生きるかという課題に積極的にコミットできることになります。
要は、すべてが体験学習なのです。あなた方の本当のHomeは霊界にあります。あなた方はみな、地球という林間学校に、体験学習を希望して訪れた生徒たちなのです。あなた方、一人ひとりの周囲に展開されている事件、事象は、すべてが、あなたの霊的成長のために、あなたを主役として用意された舞台であり、シナリオなのですよ。ですから、その舞台を大いに、また自由に使いなさい。
今の時代は、確かに、地球開闢(かいびゃく)以来の大変化を迎えています。でも、時代というものは、ただの生きる「背景」に過ぎないのです。舞台上に用意された書き割りです。あなたは、どの時代にも、登場できたのです。でもこうして、その史上稀に見る大スペクタクルの舞台に、今回あなたがキャスティングされたということ。これって、すごいことじゃありませんか。
大スペクタクルだからこそ、この一生の間に、数万年規模の激変を一挙に体験できるのです。ですから、この機会を大いに活用しなさい。いつまでも、恐れや、不安や、怒りや、猜疑心を抱えて、これらに翻弄され続けていてどうするのですか? すべては幻影です。
いい加減に眠りから目覚めなさい。そしてワープするのです世。
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子鳥の巣立ちをうながさない親鳥はいないし、
巣立った子鳥のあとを追いかける親鳥もいない。
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西側メディアはダンマリを決め込んでいますが、4月2日にウクライナ側の要衝と言われるバフムートが陥落し、ウクライナ軍人の投降も相次いでいるようです。それを遡る3月9日には、ロシアの極超音速ミサイル「キンジャール」がNATO軍の地下秘密要塞を攻撃し、これを壊滅させていました。NATOが最後の破れかぶれの作戦に出たりすることがなければ、これでもうロシアの圧倒的な勝利と西側の敗北は決定でしょう。
2022年2月24日にウクライナ侵攻を開始したロシア軍は、最初の48時間で先ずレーダー基地を叩き、早々とウクライナの制空権を握ってしまったので、この時点でロシア軍の勝利はほぼ確定していました。そして翌3月には、イスタンブールで停戦の協議が持たれたのですが、これを英米のDSが許さずに、ウクライナ国民は勝ち目のない泥沼の戦争に引き摺り込まれて行ったのです。この状況は太平洋戦争時の日本国民と同じです。本当にかわいそうです。
おバカな権力者やその提灯持ちたちのせいで、死ななくてもいい人間の命が次々と奪われていく‥‥。考えると胸が痛くなります。これは、命を奪われたということ以上に、その後の体験機会をむしり取られたということがなんとも痛ましい。地球人という種族は本当にどうしようもないものだなぁと思う反面、今度の経験を経て大いに学習を深めた「魂」もいることをもって、まあよしとしなければならないのかなぁ。
ともあれ、人類全体を見れば、人類史上初の歴史的な底上げというものがこれで叶ったのです。今までは、DSが拵えた沼地が地球全体を厚く覆っていましたので、多くの善良な人々も沼に突き堕とされあっぷあっぷしていたのが、今後はもうその部分で苦しむということが無くなりました。これはもの凄い進化です。
ただし明日からすぐにというわけではなく、まだまだ転換には時間が掛かります。しかし方向性はすでに見えていますので、どうか希望を持って毎日を生きて行ってくださいということです。
この地球全体の底上げというものは、ロケットの発射に喩えれば、第1段目の飛躍が成功したということになります。これをもって人類の「覚醒」と言う人がおられるのですが、確かに夢遊病状態にあったところから目覚めたという意味では「覚醒」と言えるのかも知れません。
さんざん適合を強いられて来た今までの社会が崩壊するのです。これはある種の人にとっては朗報で、別の人にとっては天地がひっくり返るような事態となります。登校拒否児童のほうがまともで、学校に適合しようと頑張った人のほうが犠牲者であったことが明らかになる。また宗教でいえば、正統派のほうが異端で、異端のほうが正統であったこともやがて明らかになるでしょう。
けれどもこれは、まだ「社会性の奴隷」状態からやっと自由になれたということに過ぎないのです。人類史にとって非常に大きな転換点であることは間違いありませんが、本当の「覚醒」ということから見ればまだまだほんの序の口。この先に、「身体」から自由になるという第2段目と、そしてさらに「精神」からも自由になるという第3段目のロケット・ブースターが控えています。こうして、点火が順次成功して行って、初めてその人は本当の「覚醒」へと至るのです。
今度の「沸く珍禍」では、鮮明な「立て分け」が、結果として人類の上にもたらされました。沼地への道案内を泉への道だと思い込んで、進んで行った多くの人たちが犠牲者となった一方で、そっちは沼だよと早くから気づいて立ち止まった人たちは難を逃れました。その違いを決定づけたものとはいったい何だったのでしょうか? 知識? 洞察力? 直感? 簡単には同調しないということ? 友人関係? 縁? それとも運?
たぶんそうしたものが複合的に影響して、今回の行動の違いというものを決定づけたのでしょう。しかし、今さらそれを問うても仕方がありません。それらは、ロケットの第1段目の点火に必要であったことで、とにもかくにも地球のアセンションに向けての第1段目はすでに打ち上げられたのです。そのことは、難を逃れた人にも、逃れられなかった人にも等しく影響しています。よって今後は、第2段目のことを考えていかなくてはなりません。
あなた方があまり気に留めていないことに次の点があります。それは、あなた方の「今」は、それまでのあなたの生き方が創っているということです。ですから、前記の複合的な要因も、昨日今日でどうなるというものではなく、それまでの、その人の生き方が決定づけていたのです。この機会に、その関係性をもっと深く認識してください。自分の身の上に起きることには、すべてそれなりの原因があるのです。
よく知られた言葉では「因果応報」と言います。この法則がネガティブな結果に出た場合を、人間界では「自業自得」とか、「身から出た錆」などと呼んでいるのです。しかしそれは、決して間違いではありませんが、法則の一面しか捉えていません。あなた方の行動を見ていますと、いつも目の前のことに一喜一憂し、結果の良し悪しばかりを問題にしています。しかし、結果の良し悪しというのは、その人の、その時点での「物差し」がした判断に過ぎないのです。
例えば、お金はいっぱいあったほうが良い。試験に合格したほうが良い。一流大学を出ていたほうが良い。大企業に入っていたほうが良い。結婚していたほうが良い。子どもがいたほうが良い。健康診断を受けたほうが良い。「沸く珍」注射は受けたほうが良い。etc.etc.。
しかし、その「良い」と思っていたことが、まわり回って悪いことに繋がってしまったということなど、それこそ掃いて捨てるほどあるのです。そうしますと、「死ぬよりは、1分1秒でも長く生きていたほうが良い」という「物差し」すらも、それが正しいことだとは単純には言えないのです。
いま挙げたようなことは、結局、世間的な常識が差し出している「物差し」に過ぎません。これに加えて、親が差し出した「物差し」、学校が差し出した「物差し」、地域社会が差し出した「物差し」、宗教が差し出した「物差し」、等々がプレッシャーとなり、苦しんでいる人たちが大勢いたのです。これが「社会性の奴隷」になっていた状態で、そんなものは最初から不必要だったのです。
しかも、結果の良し悪しという「物差し」は、落胆や、後悔や、意気消沈や、怒りや、絶望などの、心の二次災害を生み出します。そしてこの蓄積が、その人の「カルマ」へと成長していくのです。このメカニズムを、この機会に知ってください。
「因果応報」も「善因善果、悪因悪果」ということも、法則としては、これは間違いのないことです。しかし「果」の捉え方を誤らないようにしなければなりません。世間の大多数の人々は、その時の、自分の「物差し」にとって「良いこと」が、善果なのだと考えています。しかしそうではないのです。あなた方は、もう次の段階への気づき、つまりロケット・ブースターの2段階目に移行する時期に来ました。
心理学用語に「Projection(投影)」という言葉があります。これは、自分の思いを相手に投影し、相手側の思いとして見てしまうことを言います。心理学では自己防衛のための手段だと説明されています。これはまさしくその通りなのですが、霊的に見た場合には、さらに大きな意味があるのです。それは、あなたの周囲に見える出来事が、すべて、あなたの意識的世界の、3D(三次元)世界への「Projection(投影)」になっているのだということです。
もっと解りやすく言うと、あなたは、この物質世界で、「今世のあなた」という人物像を演じているのです。かえって解りにくくなったかしらん (・–・;)ゞ。その他の配役や、シチュエーションも、生まれる前から決まっていて、多少のアドリブも、途中での台本の書き換えも許されるといった感じです。そう言っても、たぶん俄かには信じられないでしょう。もちろん「信じ」てはいけません。が、頭の隅に入れておいてくだされば、いつかは解る時も来るでしょう。
これを、もしも理解すれば、「因果の法則」の意味も自ずと違って来るのです。「果」というものは、その人の〈今の意識〉の「Projection」としてあるということです。これに時間軸が作用して「因果応報」と展開することももちろん起きます。しかし原則的に言えば、「因果」は作用・反作用の関係として、あなたの身の上につねに現出しているのです。
あなたは、自分の身の上に起きたことを、これは良い、これは悪い、と判断したり解釈したりします。そして、時には感情までをも大きく揺さぶります。しかしそれは、あなたを主役とした劇場での演技なのだということです。そのことを(頭ではなく、全身全霊で)もしもあなたが理解できれば、「救い」と「成長」の概念が一変します。
この世の「物差し」に規定された結果など、どうでもよいのです。良いことも悪いことも、みな良いことなのです。あなたがご自身で創って来た「因」と、あなたが受け取った「果」の関係をきちんと理解できれば、それが直ちに「救い」となり、魂の「成長」ともなるのです。
例えば、国にすっかり騙されて「毒沸く珍」を打った結果、死んでしまったとしましょう。そこで、無念だ、悔しい、腹立たしい、とばかり思っていたのでは、その念が「カルマ」となってしまいます。しかし、なぜ騙されてしまったのか、自分のどこがいけなかったのか、社会の問題、制度の問題、人々の心の問題、自分自身の心の問題、を充分に考えて*分析すれば、それが「救い」となり、魂の「成長」にも繋がっていくのです。
*体は死んでも「魂」は死にません。ですから、死ぬ前にも、死ぬ過程においても、死んでからでも考えられるのdeath。
さて、いま言ったことは、一般の人には理解し難いことかも知れません。しかしあなたは、先行して次のステージに進んでください。そして、もしも聞く耳を持っていて、苦しんでいる人が周囲におられたら、あなたの言葉で、「因果の法則」と、本当の「救い」の意味を話してあげてください。
あなたの身の上に起きていること(結果)と、その原因は多層構造になっています。
・地球的な出来事の原因は、人類の集合意識が創っています。
・特定地域の出来事の原因は、その地域の人々の集合意識が創っています。
・あなたの身近なところで起きたことの原因は、関係者の意識が創っています。
・そして、あなたの身の上に起きていることは、あなたの意思と行動が創っているのです。
これらがマトリョーシカ人形のようにあなたを取り巻いています。
この「人生劇場」は、あなたのカルマを要因として、あなたが自ら設計したものです。
そのカルマを、どのように清算するかが、今世のあなたのアジェンダ(課題)です。
さあ、次のステージに進みましょう。この未曾有のチャンスを、是非ともモノにしてください。ただし、義務感を持ったり、焦ったりしないでくださいね。上昇イメージだけを持ち続けて、できるだけ自然体でいてください。喜怒哀楽をそのつど出してよいのです。そこから学ぶことを学んでください。
2段目のロケット・ブースターに点火をしましょう。
そして大いなる飛躍を遂げてください。
大空へ、宇宙へ。一緒に邁進しましょう。
]]>これより数回に渡って「波動の法則」についてのお話をしたいと考えています。「いつかちゃんとこの話をしておかなくては‥‥」とずっとずっと思っていたのですが、今日のこの日のタイミングとなりました。これが連続の連載になるのか、飛び飛びになるのかはまだ分かりません。その時の気分しだいというところです。
「波動」のことを口にされる方というのは非常に多いです。しかし、その内のどれだけの人が「波動の法則」について、論理的にきちんと説明ができるのでしょうか。大半の人が、単に「不思議さを醸し出すための付加価値」ていどの意味合いで、かなり安易に「波動」という言葉を使っておられるように感じます。これは、そのことを非難しているわけではなく、真に「波動」のことを語るためには、向こう側から語らなければならないという理由によります。
ところが、「因の科学」の観点から「波動」を語った理論というものが、残念ながらこれまでにまったくと言っていいほど無かったのです。殆どすべてが、「波動」がもたらす「効果」について語っているのみで(それ自体は間違いではないのですが)、なぜそうなるのかという科学的根拠に基づいて語られたことは殆どありません*。「波動」という言葉を聞いた時に感じる胡散臭さは、そこに原因があると思うのです。
*ひとりよがりの意味不明なことを言っている方は時々おられます。
私自身、若いころは「けっ、また波動かよ」と思っておりましたので、まさか将来、自分が大っぴらに「波動」を語ることになるとは思ってもみませんでした(ꏿ﹏ꏿ;)。それだけに、きちんと説明できるだけのものは持っていたいという思いがずっとあり、最近になって、モヤモヤもやっと解消されて来ましたので、このタイミングでそれを公表することにいたしました。
がしかし、本稿のテーマに関心を持たれる方は、ごくごく僅か(おそらく数人)しかおられないだろうと思います。どうも、ちょっとでも科学的な話をすると、それだけで「頭の中が真っ白になる」(☉。☉)! という方がおられるようですネ。科学嫌いと言いますか、科学アレルギーと言いますか。しかしこれは、「科学」というものに対する先入観に大きな誤解があるように思うのです。
「科学」というのは、現象面に表れた背後にある「法則性」を探求する学問のことを言うのです。学問というより、そういう「態度」だと言ったほうがよいかも知れません。
何も、難しい数式や法則を暗記することが「科学」なのではありません。「科学」好きな人というのは、どうもそうしたものを誇る傾向があるので、それも一般人の科学嫌いに拍車を掛けているのかも知れません。
例えば、ただ漫然と昼夜を過ごしていたのでは、そこに「科学」はありませんが、なぜ夏と冬とで昼夜の長さが変わるのだろう?と探究し出したとたん、そこから「科学」が始まるのです。これは農家にとっては、とても重要な知見です。その他、気温や、風や、湿度や、水はけや、土中細菌など、追究していけばキリがありません。このように、「科学」はごく身近なところにあるのです。
そう考えますと、ことは畑に限らず、料理をしたり、掃除をしたり、健康体操をしたり等々、生活全般に渡って、科学的な視点というものが、自然と求められて来るのです。日常生活に科学的視点を盛り込むことは、その人の知性を豊かにしていきます。科学的な視点を持つ人と持たない人とでは、おそらく10年、20年、30年と経過した後には、両者の人間力は雲泥の差となっていることでしょう。
よく、「料理が嫌い」という方がおられるのですが、科学的な視点を持たない人には料理はできません。なぜなら、「料理」は第一に「科学」だからです。ですから、その人は料理が嫌いなのではなく、「科学」する思考方法の訓練が足りないだけだと思うのです。なんでも一対一の関係だけで覚えてしまって、関連づけるとか、推論するとか、応用するとか、実験してみるといった思考に慣れていない。
こうした「思考」や「創造」は、本来は楽しいものの筈なのですが、慣れていない人には、先ず「面倒くさい」と感じてしまうのですね。特に、テレビ、スマホ、ゲームは、こうしたじっくり「思考」する力を、人間からどんどん奪っていきます*。反対に、一対一の関係でパッ!とピーキーな反応をする人たちばかりを育てていっている。AI はこれをさらに加速させ、このまま放置していれば、やがては人間が人間であることを滅ぼしに行くことになるでしょう。
*知らないことを Wikipedia などを使って検索しても直ぐに忘れてしまう。すべてがその場限りの Flow 情報 でしかない。
今度の「沸く珍禍」においては、その問題が如実に出てしまいました。これは単に知識だけの問題ではありません。「科学」する思考力が脆弱なために、「これはちょっと変だぞ?」「理屈に合わないな」という直観にスイッチが入らないのです。そこを付け込まれて、Dr. ファウチのような人物に「私が科学だ」と言わせてしまったり、ウイルス学者でも医者でもない岸田の「感染と重症化を予防します」と言う言葉にも簡単に騙されてしまったのです。
そのことを思い起こせば、もういつまでも「科学」嫌いの態度を取り続けていることは出来ない、ということがお解りではないでしょうか。ということで、食わず嫌いを克服して、これから述べる「波動の法則」にも、ぜひ取り組んでいただきたいのです。なんといっても、これは、全宇宙を支配する根源的な法則なのですから。
■「波動」をめぐる4つの問い
冒頭でも申し上げたように、「波動」のことを口にされる方は多いのですが、しかしそれは、単に「不思議さを醸し出すための付加価値」ていどの扱いでしかありません。実のところは、その言葉が意味するものは何一つ明らかになっていない、というのが正直なところではないでしょうか。これが「波動」という言葉が持つ「胡散臭さ」に繋がっています。この、何一つ明らかになっていない、ということに関しては、大きく4つの点があります。
?そもそも「波動」とは何か? 何を意味しているのか?
?「波動の法則」とはどのような法則なのか?
?「波動の法則」が働く裏のメカニズムとは、どのようなものであるのか?
?「波動」を検知したり知覚したりすることは出来るのか?
以上の4つがきちんと示されたことは、古今東西を通じて、たぶんないはずです。?の「波動の法則」については、このブログでも、これまで何度か語って来ました。「波動の法則」の〈作用〉という面に関しては、実にシンプルで、同調、共鳴、協和、不協和という現象が、この世のあらゆる場面において起きている、というただそれだけのことです。しかし、これと???を関連づけて述べたことは、これまでに私もありません。
これから記述することが、絶対だというつもりは毛頭ありません。あくまで、現時点で私が受け取ったものということに過ぎず、その大部分は「仮説」が占めています。それは、現代の「科学」の限界と、私という媒体(Medium)の限界によるものです。ですから、これをベースにして、後に続く方々が、今後理論を発展させていったり仮説を検証してくださることを切に望んでいます。では順番に見て行くことにいたしましょう。
ただしその前に、一つだけ話しておきたいことがあります。「宇宙の真理」というものは基本的に不変です。もし変化してしまったとしたら、それは「真理」とは呼べません。ということは、いついかなる時代においても、もしそれを引き出せた際には、必ず同じ答えを得る、ということになるのです。ところが、媒体の能力や、その時代の民衆の理解力、科学の発展度合い、社会的また文化的環境のあり方などによって、どんなアウトプットにもどうしても歪みが生じるのです。
このことを、みなさんはよく知っておいてください。そこで、現代社会にありがちな二つの誤りを指摘しておきます。一つは、古代に説かれたとされるメッセージは、今の時代には合わない、古い神話的なものに過ぎないという捉え方です。もう一つは、聖書、聖典類というものを絶対視して、ここに書かれてあることは完全で否定しようがない、という考え方です。このどちらも正しくはありません。
そもそも人間は、不完全だからこそ、この地上に生を受けた(波動を低下させて物質化した)のであって、完全な人間というものは地上に一人もおりません。
大切なことは、何かを絶対視したり、1か0かで分けるのではなく、背後に共通したものを(あなたが、自分の意思によって)見つけ出すことなのです。正にこれこそが「科学」的な態度です。
何かをただ鵜呑みにしたり、反射的に断罪したりすることなく、共通性を見い出すことが何より大切です。それがインスピレーションと共にサッとあなたの元を訪れた時、「真理」の小箱の蓋が一つ開くのです。そしてそれは、あなたの中にもともと存在したものなのです。
(つづく)
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いやぁ、ここまでが長かった。「バルブの崩壊」が言われてから、もう20年以上も経過している。よくぞここまで持ったというべきか、いや持たせたと言うべきなのか。しかし延命は、モルヒネを打ち続けて来た結果ですから、その副作用は、きっと「異次元」の規模でやって来るのでしょうね。
でも思い出してみてください。安倍と日銀黒田がやった「異次元の金融緩和」という狂気。500兆円もの金を新たに刷って、国際金融資本の延命のためにそれを使った。そのお金は、庶民のところには廻らなかった。
国会、政府、マスコミ、御用学者、そして安倍シンパたちは、誰もその愚行を止めようとしなかったじゃありませんか。ウソの「愛国主義」の宣伝(実はバックに統一教会)と、利権の分配に群がった連中が、一緒になってワッショイ、ワッショイ、安倍神輿を担ぎ続けて来た。
そして、ツケを払わされるのはいつだって庶民なのです。でも今回は、戦争に突入することなくどうやら決着しそうであるのを、それでも良しとしなければなりませんね。残念ながら、もう一つの「染争」のほうの犠牲者は、これからも増え続けてしまうのでしょうが‥‥。しかしこれで、庶民も少しは目が覚めたと思うのです。アホな権力者たちに対抗していくためには、一般庶民がもっともっと賢くなる以外に、方法はありません。
さてこれで、コロナの闇が暴かれ、ウクライナの敗戦も決定的となり、金融詐欺システムの崩壊も始まって、ホップ、ステップ、ジャンプで、DSの悪だくみが奈落の底に消えようとしています。政治や経済に無関心で、何も知らないで来た人にとっては、きっとびっくりするような衝撃の連続に映ることでしょうね。トランプさんが「私はディープステートを完全に抹殺する」と宣言しました。ということは、裏ではもう方が付いたということです。
今度のシリコンバレー銀行の倒産で、「ESG投資」なる言葉があるのを知りました。ESGとは、環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の3つの頭文字を取った言葉だそうです。要は、投資先の企業が適格かどうかを判断する際には、その企業がESGへの取り組みをどれほどしているかを見ようということです。なぜなら、この3つのキーワードが今後のトレンドなのだから、そこに投資すればリターンも大きいという理屈です。
まさしく、金融詐欺の最たるものです。シリコンバレー銀行の顧客には、このESG関連のベンチャー企業が多かったというのです。なんてったってシリコンバレーですからね。ところが、それが飛んだ。これは単に一つの銀行が破綻したというだけではなく、「SDGs」のインチキもこれで飛んだということになっていくでしょう。ESGが企業評価の今後の基準になるというから、トヨタだってなんだって電気にシフトしなくちゃとやっていたわけで‥‥。でも、それが真っ先に破綻してしまったのです。
「環境を守るために」はウソだった。「ワクチンで感染予防、重症化を防ぐ」もウソだった。「ロシアの侵略。ウクライナ勝利」もウソだった。何から何まで全部がウソでした。政府も、製薬会社も、WHOも、マスコミも、専門家も、みんなウソをついた。日本の国会議員などは、マスコミが流しているフェイク・ニュースを見て世界情勢を語っているのですから、もうどうしようもありません。日本国民など、漂流する筏に乗せられているようなものです。
結局、こうした根本にあるものは、みんな「信仰」だと思うのです。全部を、それが「善いこと」だと信じ込んで、上から下までが一斉に降ってくるキーワードにひれ伏している。反論は絶対に許さないぞと。これに逆らう奴は変なやつなんだと。「善いこと」を否定しているのはデマ情報だから、厳しく検閲して、ファクト・チェックをして、断罪してやるんだと。人々には、「善いこと」だけを知らせれていればいいんだと。
その「信仰」が「虚構」だったと気づく時が、いま津波のように一斉に押し寄せて来ていると思うのです。チャンネルつばさの黒川敦彦さんが、某宗教団体を追い詰めていて、その本部前で「イタコ芸」を披露するというイベント?をやっているのですが、その間、教団女性が発し続けている叫び声の凄まじいこと、凄まじいこと。そうか、最後はみんなこうなっちゃうのかと、興味深く拝聴しました。
普通だったら、あんな絶叫のようなことはしないと思うのです。ましてや「宗教」と言っているわけですから、なんらかの理想を掲げ、行動にも節度を保った態度を示すだろうと思うのです。ところが、つい一週間ほど前に教祖が死んで支柱を失ったという動揺もあるでしょうが、半狂乱になってまで「わが教団」を必死に擁護しようとしているのです。それだけ心の内は苦しいのでしょう。ここに「信仰」というものが持つ大きな問題があります。
彼女が必死に守ろうとしているものは、一見「教団」のように思えますが、そうではありません。「自我」を守ろうとしているのです。「教団」を信じ切っているという現在の「自我」です。ですから、「教団」が万一瓦解してしまいますと、そのブリッジが切れて、今の「自我」を支えているものが失くなってしまうのです。これは、その本人からしてみたら非常に恐ろしいことです。ですから、必死になって防御しようとする。崩壊を止めようとする。
これは、高市早苗さんだってNHKだって同じで、最後はもうトチ狂ったのか、というところまで行ってしまう。自分の誤りや失敗や不誠実さを素直に認められないのです。もしもそれを認めてしまったら、「敵の軍門に下ってしまう」という感じで、自我が崩壊してしまうと思い込んでいるのです。これが、一度ハマってしまうと抜けられない「信仰」というものの恐ろしさです。
「信仰」とは、裏を返せば「依存」で、自力で生きる力を根っこから奪ってしまうのです。お父さんを巻き込んだ苦闘の末に統一教会を脱会した飯星景子さんは、なぜ入信していたかの答えとして「自分で考えなくていいから楽だった」と語っているのです。私が「巣魔捕は人類最悪の発明品」というわけは、この道具は、自分で自分を支配することを学習する以前に、他から支配されることを先に学んでこれを習慣づけてしまうためです。
しりあがり寿さんのマンガ『弥次さん喜多さん』の中に、こんなシーンがありました。二人が街道を歩いていると、突如、道の真ん中に一本の丸太ん棒がクイッと立っているのに出喰わすのです。それを見て二人はギョッとします。一体あれは何だと。何でこんなところに杭が突っ立っているのかと。これはどういう意味なのかと。二人は恐れおののきます。で、どうしたか。杭の両脇は空いていますから、ただそこを通ればいいだけのものを、なんと杭を相手に戦いを挑み始めるのです。
「信仰」なんて、そんなものだということです。自分が創り出している「虚構」にみな必死でしがみつき、恐れたり、戦ったりしている。ああそうか、自分が今まで信じて来たものは、みんな「虚構」だったんだとハタと気づけば、いま世界で起きていることの背景理由もよく解るし、いろんな人間たちがいるということも許せるのです。
実に、このことに気づけるかどうかは、非常に大事なポイントです。
崩壊は、何も、コロナ、ウクライナ、金融の三つだけに留まるものではありません。金融はあらゆるものの基盤に位置していますから、これから連鎖的に次々とこれまでの秩序(だと思っていたもの)が壊れていきます。早いところでは医療、企業、次いで学校、軍隊、政府、自治体、宗教などにも崩壊の余波が広がっていくでしょう。しかし、これまで言ってきたように、これをチャンスだと捉えてください。
今までのヒドい仕組みが、まるで津波が来たように一掃されて更地になるのです。そしてそこから、理想世界の実現に向けての建設が始まります。それは理想を持つものにとっては、喜びの時代の到来です。ですが、あくまで「虚構」にしがみつこうとしている人にとっては、大変な苦悩に苛まれることになっていくでしょう。その意味で、高市早苗さんは後者の見本をいま示してくださっているのです。憐れ、安倍の最後を見てもまだ気づかないのです。
賢明なあなたには、彼女にだって直ちに救われる道のあることがお解りでしょう。そうです。「ゴメンナサイ。私はウソをついていました。また、自分の身を守ろうとして他の人を傷つけてしまいました」と言えば、それで済むことです。でもそれが、はたして出来るかな? 強情な人の謝り方というのもはいつも決まっています。「誤解を与えてしまったことについてはお詫びする」(悪いのは「誤解」であって、私じゃないも〜ん)
今の時代は、disるということをごく軽いノリで、みな平気でやっていますよね。私は「disる」という言葉があることも、その意味も、最近になるまで知りませんでした。ネットの匿名性とお手軽さとが、こういう風潮を一気に広めてしまったのですね。でも‥‥これは止めたほうが賢明です。前回、他者に与えている「波動」の影響のことをお話ししましたが、それ以前に、自分に対しても大変な悪影響を与えているのですからね。
なぜって、考えてごらんなさい。他者をdisる前には、自分の中に先ず「disる心」を立ち上げなくてはならないじゃありませんか。それって誰のものですか? その人のものですよ。どうして、自分で自分の心の中を、わざわざ不快なイメージで満たそうとするのですか? それが「楽しい」と思う心境が解らないです。いや、たぶん「楽しく」はないのでしょう。でも、そうしたいという衝動が先に走ってしまうのでしょうネ。
しかし、もう本当に止めにしないと、この先は非常に厳しいことになります。いつもdisってばかりいる人間を誰が信用してくれますか? disり仲間同士では通用するかも知れないけれど、心は荒れる一方だよ。そして、最後は自滅することになります。
もう時代はすっかり変わったんですよ。価値観のちゃぶ台返しが起きたんだ。そのことを認識しないとね。これからは精神性だよ。物性(お金)優先の時代はこれにて終了だ。
あなたが創る現実は、あなたの行動の結果。あなたの行動はあなたの思いの結果。あなたの思いはあなたの今現在の霊性の顕れだ。一人ひとりの、その集合体が、今の社会を創っているのだよ。
だから、いくら仕組みをいじっても、社会体制が変わっても、それだけでは理想社会は創れない。先ず、人間の「心」が変わらなければネ。そして「心」が変わるためには、人類の「霊性」が向上していかなくちゃならないのだよ。そのタイミングがいよいよ来たということなのだ。あなたにはその先導役として、今まで以上に誠実に、素直に、優しく、朗らかに、そして元気に生きていってもらいたい。
さて、人によっては、仕事が思うに任せないという時代がしばらく続きます。でも、辛抱、辛抱。
枠組みから考えたら辛くなってしまうよ。職種とか、勤務地とか、給与とか、資格とか。そうじゃなくて、自分の興味、創造力、社会貢献力を活かせるものは何かと考えるんだ。それを積み重ねていけるものは何だろうかと考えるんだよ。
そして、そのプランに向けて今すぐに動き出せ。大切なものは精神性。それを日々向上させていくことが、自分の一生の仕事であると考えるんだ。それを継続していく中で、生計も立てられればなお良い、くらいに考えておくこと。そうでないと、社会の激変、身の周りの激変に意気消沈してしまって、適応できなくなってしまうからね。
未来は明るい。世界は、必ずもっと良くなる。今はまだ、望むような仕事にすぐにはありつけないかも知れないけど、毎日の努力は決して無駄にはならないからね。見ている人は必ずいるよ。いつか花開く時が来るから、それまでは腐ることのないようにね。毎日を、誠実に、素直に、優しく、朗らかに、そして元気に生きるんだよ。
辛抱する木(気)に花が咲く。
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この度の染争と戦争を振り返ってみて、「やはり最後は、武力による鎮圧しかないのかな?」という、どうにも釈然としない思いが自分の中に広がっています。今のような惨状になることは、最初から分かっていたのに、誰もそれを止められないし、止まろうともしない。人類というものは、やっぱり反省ということをしないのだな。
自浄作用に期待したところで、所詮は無理なのかな? 人間が持つ「向下心」というものは、つくづく際限のないものだな、と今は寂しく感じています。もっと多くの人が助かったのに‥‥。私は選民思想は嫌いですが、しかしここで、結果として、人類がハッキリ分けられてしまいましたね。生き残るDNAと、死に絶えるDNAとに。
高市早苗という人と、総務省との間で泥仕合が展開されています。方や「捏造だ」と言い、方や「文書内容は本当のものだ」と言う。もちろんこの背後には、安倍*の処刑に始まる「清和会潰し→自民党潰し」というシナリオがあります。マスコミや世間は、いつものように泥仕合の場面ばかりに注目するでしょうが、しかしそれよりも、安倍の圧力を、当時の総務省がなぜ跳ね除けなかったのか、という点のほうがよほど問題なのではありませんか?
*以前は、名前を記述するのすら吐き気がして嫌でしたが、「安倍」という言葉に集まるエネルギーが急速に萎んできて、やっと書けるようになりました。
今ごろになって、「いや、圧力があってそうせざるを得なかったんだ」と被害者のごとく語っても、「あんた、どっちを向いて仕事をしてるんだい?」「公務員というのは国民の下僕じゃなかったのかい?」という話になるでしょう。お厄人たちの心に、もしもそうした矜持(きょうじ)が少しでもあれば、殺せい省による国民大虐殺、少子化大推進という犯罪も決して起きなかったはずなのです。
ましてや、この「圧力があった」ということを、マスコミが、これまで行って来た偏向報道の言い訳に使うなどということがあってはなりません。それでは厄人と同じく、ジャーナリストの矜持は一体どこにあるの?という話になります。ウクライナ情勢の報道を巡っては、NHKも新聞も、もはや発狂状態にあります。ああ、大本営発表の最後というのは本当にこういうものなのか、ということを見せられている心境です。
でも、関係者一致協力のもとに、国民大虐殺、少子化大推進が挙行されました。
なぜなのでしょうか? なぜ、そんなことが出来たのでしょうか?
これを、「正義」を引き合いに出して考えてはなりません。
波動が違いますと、正しいとする考えが違ってきてしまうのです。低い波動の人間にとっては、低い波動の中での考え、思いが正しいのです。でも、低い波動の状態にある人間は、本当は辛いのです。自分の本当の魂の姿に反した事を思い、言動を行っているからです。心の深いところでは、自分で自分自身の魂を傷つけている事を知っているからです。
――『アセンション 宇宙からのメッセージ』2007年8月12日「我々の使命」より
今の時代は、レッテル貼りが多様化しているため解りにくいでしょうけれど、バックにある構造自体は非常にシンプルです。先の大戦と、基本的にはなんら変わりがありません。騙す人間と、騙される人間との関係。両者の間にあるものは何かということです。太平洋戦争では「国家」という「正義」を、国民の大多数が信じ込まされました。今回は「沸く珍」の「正義」を、大多数の人間が同じように信じ込んだのです。
問題は、これが「正しい」というものに対しては、人間はいとも簡単に騙され、コントロールされてしまうということです。そういう習性を持っている。
これが「正しい」と思った途端、思考がそこでストップし、「正しい」と思うものへの「信仰」に置き換わっていくのです。そうなると、これは「信仰」ですから、もうエビデンスがどうのとかは関係ない。「信仰」を妨げるものは一切が「邪教」ということになり、挙げ句の果てに、「邪教」を徹底して排除することにひたすら情熱を燃やす人間までが登場してくるのです。
この人間が持つ習性は、今回も何も変わるところがありませんでした。スーパーに行けば、いまだに「感染拡大防止のために〜」云々のエンドレステープをしつこく聞かされますし、テレビに出る人も、国会議員も、いまだに何の意味もないマスクを着用し、アクリル板の衝立を設置して話をしています。とにかく、〈上から下まで揃って〉というところが非常に大事で、〈上から下まで揃って〉騙し騙される関係を構築しているのです。
先日、友人に連れられてレストランに行ったのですが、そこに「CO₂センサー」なるものが設置されているのを見て仰天しました。「この空間のCO₂濃度をモニタリングしています。1000ppm以下なら正常です。」と書かれてあります。あれれ?200ppmから400ppmに跳ね上がったから、地球温暖化で大変だ、それ脱炭素だ、って騒いでいたんじゃなかったんでしたっけ? 「1000ppm以下なら正常」って、一体どういうこと? じゃあ、大騒ぎすることないじゃん、ねぇ。
まったく訳がわかりません。おまけに「こちらは新型コロナウイルスに感染しないことを保証するものではありません。」とまで書いてある。ん? CO₂センサーと新型コロナウイルス? 一体どういう関係? (ああ、脅し繋がりか)こういうものも、みな親切心からやっているのでしょうけれど、あまりにも科学音痴がヒド過ぎます。自分でちょっと調べてみればよいことなのに、ただ流行で、ムードで、空気で、上から降ってくるものを信じて動いているのです。
その、ちょっと調べてみるをやっていれば、「沸く珍禍」なんて決して起きなかったのに‥‥、国民虐殺も防がれたのに、と残念でなりません。でも、少しは進歩しました。いろんな不祥事が、いっぺんに噴出して(このタイミングで出るように仕組まれて)、政治、政党、官僚、警察、検察、裁判所、銀行、金融、財界、専門家、メディア、広告代理店、宗教、暴力団、芸能界、スポーツ界、等々の「闇」の繋がりが、一挙に白日のもとに晒される時が来ました。
権力者殺すにゃ刃物はいらぬ。隠した情報、公にするだけでいい。
そして、降って湧いたコオロギ食の問題は、SDGsのインチキそのものを暴いてしまう起爆剤となるかも知れません。こうなったら、不買運動を徹底的に展開して、コオロギ一点で、企業が潰れるというところまで追い込むべきです。そうすれば、〈上から下まで揃って〉騙し騙されるという、今の構造に楔が打ち込まれて、人類の目覚めを一段と促進することに繋がるかも知れません。企業も、どっちを向いて仕事をするのかの、再点検を迫られることになっていくでしょう。
昭和の経営者が考えたのは、第一に従業員と家族の幸せでした。第二にお客様に喜ばれる製品づくりでした。株主利益の追求なんてものは、言葉すらありませんでした。本田宗一郎は、退任の挨拶でこう言って社員たちから拍手喝采を貰いました。「うちの会社は、ヘッポコが社長になるんであって、社員の皆さんに助けて貰わなくちゃ困るんだ」。それが、91年のバブル崩壊を契機にして、日本は外資に乗っ取られ、DSの犬となった売国奴たちが、日本の政治、経済を牛耳るようになっていきました。
そこからは、ひたすら搾取、搾取です。その時代に、青年から壮年への時を過ごさなければならなかった人たちにとっては、未来の見えない、きっと辛い日々が続いたことでしょう。しかし、その悪夢のような30年間も、これでもう終わりです。上から降ってくる「良いこと」の顔をした謀(はかりごと)に無自覚に従うのではなく、これからは、何が本当に人々のためになるのかを考えて行動していかなければなりません。
世直しの時代が到来します。それを、「怒り」や「敵愾心」を捨てて、取り組んでいくことです。必要なのは「罰」ではなくて「気づき」です。起きたことは仕方がありません。低い波動の状態でにある人間は、本当は辛いのです。騙されてしまったのは、騙された側にも責任があるのです。どうぞ広い視野を持ってください。人類全体のいく末のことを考えて、騙した人間たちやメディアに、責任追及の矛先を向けてください。気づかせてあげるのです! 彼らにも。
低い波動は、争いを生じさせ、あげくの果ては、戦争という、人間が人間を殺すという最悪なシナリオを作り上げていきます。波動の高い存在である者たちは、慈悲の心を持って、波動の低い存在に、愛の波動を出し続け、早く、本当の魂の姿に出会える時を祈っていく事が大切です。高い波動は、あなた達、出し続けていく事が出来る人間が出していかなければ、低い波動の人達には、知る事も、感じる事もできないものなのですから。
――『アセンション 宇宙からのメッセージ』同2007年8月12日「我々の使命」より
さてそこで、もう二度と騙されない人間となるためには、この先どうあればよいのでしょうか? これには、大きく三つのポイントがあります。これは、とても大事な点です。なぜなら、人類の遺伝子の修復に関わってくることだからです。なぜ人類は、バビロニア以来、これまで繰り返し同じ間違いを犯してきたのでしょうか? その合理的な解釈が、『アセンション 宇宙からのメッセージ』を始めとして、様々なところで共通して説かれています。
それは、そもそも人間が、古代地球に飛来した悪い宇宙人たちの手によって、奴隷人種として創造されたものだということ。彼らは、それまでに地球にいた原人種を捕まえると、遺伝子操作技術によって第六感以上の能力をカットしてしまい、奴隷として服従する人間を創造しました。そして、自らを「創造主=神」として崇めるように仕向けたのです。その後、悪い宇宙人たちは地球を去ってしまいましたが、残された人間にはその習性がそのまま残ったのです。
『アセンション 宇宙からのメッセージ』には、未来に向けて、その遺伝子を修復していく必要がある、と書かれてあります。ではどうやって修復していけばよいのでしょうか? この度、DSが試みたような、遺伝子の書き換えといった物理的な方法でしょうか? そうは思えません。それではまた、悪魔的なところに堕ちてしまいます。そうではなくて、ベクトルは逆方向だと思うのです。つまり、非物理的な手段によって修復を図っていくのです。
人類は、物質世界と非物質世界との関係を、もっと科学的にきちんと知る必要があります。これまでのような、オカルティックな理解やサイキックなアプローチではまったくお話になりません。宇宙とは何か、存在とは何か、自分は誰か、どこから来てどこへ行くのか。これらの問いに対し、科学的に(それは物理科学ではなく、因の科学として)答えられないものは、これから淘汰されていくでしょう。
あなた方は、「人体」と「意識」との関係をもっと学ぶ必要があります。多くの人が、「人体」の自分が本体であり、その自分が「意識」を持っているのだというふうに考えています。しかしそうではありません。あなたの本体は「意識」にあり、その「意識」が、その人の「人体」を創造しているのです。ですから、「意識」が変われば、基本的には「人体」も変わります。ただ人間の場合は、その可変能力がそれほど高くないというだけです。
したがって、「意識」を改変する努力を続けていけば、やがては切断されていた第六感以上の遺伝子も戻ってくるのです。一代でそれが完全に達成されるということは難しいでしょうが、三代、四代と続くに連れて、テレパシー能力を回復した人類がしだいに増えていくはずです。今度の「沸く珍禍」によって、医者の権威は丸潰れとなり、医療と製薬会社の闇が白日の下に晒されていきます。これは人類の覚醒にとっての大きなチャンス到来なのです。
ということで、〈二度と騙されない人間となるため〉の三つのポイントを箇条書きにし、次に順番に説明をして参りましょう。
?「依存」体質からの脱却
?「意識」の多重性を知り、区別して用いることができるようにする
?「波動の法則」を知り、波動の知覚能力を身につける
先ず最初の【?「依存」体質からの脱却】ということですが、今度の「沸く珍禍」は、まさに「依存」体質というものがもたらした悲劇だと言えます。実に多くの人が、自分の命に関わることを、他人の決定に簡単に委ねてしまったのです。「いや、首相が言うから、厚労省が言うから、専門家が言うから、自分は素直にそれを信じたんだ」と仰るかも知れません。しかしそれこそが大問題。信じる・信じない以前に、ご自分の「依存」体質に気がついていないのです。
人は、実に簡単に「依存」傾向に陥ります。「依存」の対象は、何もアルコールやドラッグだけとは限りません。ギャンブル、ゲーム、アイドル、宗教、テレビ、パソコン、買い物、身近な人物、等々。ありとあらゆるものに「依存」の対象を見つけます。これは程度問題ですが、誰もがそうした傾向を多少なりとも持っています。しかし対象物は変わっても、「依存」のバックグラウンドにあるものはみな一緒です。そこに身を投げ込んでいる間は、不安感から逃げられる。
近年、大きな社会問題となっているのが「Digital Addiction」です。「依存」の問題は、本人がそれを「依存」だとは認識していないことで、ことに、社会全体が「Digital Network」を基盤として成り立つような状況下にあっては、それが「依存症」だと指摘することすら難しいようなありさまです。ハッキリ言って、「巣魔捕」は人類最悪の発明品です。でも人は、そうは思わないでしょう。便利で楽ちんですからね。
あなた方は、もっと賢くなる必要があります。それは、知識を増やせと言っているわけではありません。自分の足と手と頭を使って、調べて、試して、感じて、分析する力を身につける必要があるということです。当然、それは楽ちんではありません。しかし楽ちんではない動作を通じて、不安感を克服していくことを学ばなくてならないのです。「巣魔捕」に頼り切っていたら、その人は抜け殻になってしまいます。
重要なのは、自分をコントロールする主体は誰かということです。「依存」の中に身を置き続けていたら、つねに他者によって、自分をコントロールされてしまいます。そうではなく、あなた自身が、自分をコントロールする術(すべ)を学ばなければならないのです。それが、その先の「智恵」の獲得へと繋がっていくことになるのです。
二番めは【?「意識」の多重性を知り、区別して用いることができるようにする】ということです。「意識」の多重性については、先ごろ上梓した『瞑想入門』の中で詳しく解説しています。人の「意識」は一種類だけのものではなく、異なった次元(霊性密度)の意識が、重なった状態としてあります。しかし誰も、そんなことを知識として知らないし、今までに聞いたこともないので、何のことやらサッパリ分かりません。
けれども、今度の「沸く珍禍」に関しても、「直感」が働いた人たちなら、すぐに「これは怪しいぞ」と気がついた筈なのです。でも残念ながら、そういう人は少なかった。これは、自分の中に重なってある「意識」を、区別して用いるということができないためです。そして区別できないだけでなく、「依存」体質にある「意識」のほうを逆に全開させてしまったのです。ですから「直感」が働かなかった。
しかしこの能力は、訓練によって、向上させていくことが可能です。でもその前に、脱「依存」が実現されていなければなりません。そこを通過して、初めて自分の「意識」を意識するということができ、区別もつくようになっていくのです。
さて三番めは【?「波動の法則」を知り、波動の知覚能力を身につける】ということです。二番めの【?「意識」の多重性を知り、区別して用いることができるようにする】ができるようになっていくと、次にその人は、「波動」が分かるようになっていきます。「波動」が分かるようになれば、「嘘」が瞬時に見破れるようになります。よって、騙されることがなくなります。
「波動」という言葉を語り、またこれを売り物にする人は多いのですが、しかし実際に知覚能力を持っている人というのは、ごくごくわずかしかいません。
その理由は、いま「能力」と書いたのですが、実際には「能力」ではなく、これはその人の「霊性」の高さに付随した事柄だからです。つまり「霊性」が高くなれば、おまけとして「波動」の知覚能力もだんだんに顕れて来るのです。ということは、エゴが残っている限りは、それなりの能力しか持てないということになります。また、この能力が顕れることは、その人にとっては、決して楽しいものではありません。
しかし、知覚能力を持っていなくても、実は全員が「波動」の影響をつねに受けています。あなた方が「共感」したとか「共鳴」したというのは、すべて「波動」の働きによるものです。「波動」の働きなしに、「共感」や「共鳴」は起こり得ません。問題は、その人が、今どんなコトやものに「共感」したり「共鳴」したりするのか、ということです。
「波動」はありとあらゆるものから出ています。宇宙そのものが「波動」によって出来ているのですから当然です。場所や、物や、佇まいや、音や、映像や、色や、人物や、その人物の語り口やら表情やら、文章や、言葉や、メールなどからも、それぞれ特有の「波動」が放出されています。これらに接した時に、興味のある・なしに始まり、快・不快や、共感、共鳴、感動、嫌悪、憎悪、怒りなどの様々な反応を、それぞれの人が瞬時に行っているのです。
逆から見ると、発信者側が変なこだわりを持っている場合には、そのこだわりが直ちに周囲に伝播します。この時には、次の法則が働いています。霊性密度から見て、同じレベルのものどうし、コトどうし、人どうしにしか、共感や共鳴、あるいは反対に憎悪や怒りといった感情は起きないということなのです。共感と憎悪とは、真逆のベクトルにありますが、反応したという点においては、実は両者は同じレベルにあります。
送り手と受け手の霊性密度が掛け離れている場合には、こうした現象は起きません。受け手からすれば、今の自分の霊性よりも、遥かに高いものは眩し過ぎて不快に感じますし、逆に遥かに低いものにはちっとも興味が沸きません。(ただし、人の「意識」は一重ではないということに改めて注意してください。誰の中にも、高い波動に共感、共鳴する部分が眠っています。何かの拍子に、それがパッと繋がることもあるのです。)
私が残念だなと思うのは、インテリの人たちの殆どが、いま言った「波動」の原理というものを知らないのです。不正を正さなければ、嘘を暴かなければ、正義を行使しなければ、悪人をやっつけなければ、という思いが皆さんあまりに強過ぎるのです。それはそれで、今のタイミングにおいては必要なことでありましょうが、ただそっちの思いが強過ぎると、「やっつけたい」という波動のほうに共感を覚える人たちを集めてしまいます。
また今の時代は、広告収入の関係もありアクセス数の寡多を競うので、自分が嫌いと思う人間への攻撃が、どんどんエスカレートして行く傾向にあります。しかしそんなことを繰り返していれば、その場の霊性はどんどん下降して行ってしまいます。行き着く先は、仲間割れの罵り合いです。必ずそうなる。なぜなら、自他を分けるというところから出発していますから、それを貫けば、当然、核分裂のようになって行ってしまうのです。
そうではなくて、「波動の法則」を、統合に向けて使うようにしていかなければなりません。これからは、違いを粗探しするのではなく、同じところを見つけるようにいたしましょう。それは、生活様式を平準化したり一様にするということではありません。それぞれが個性を持って、また違うライフスタイルを持って活動しながら、その中で共感できる部分を見つけていくということです。
道のりは、まだまだ長いです。しかし希望を持って、一緒に取り組んでいきましょう。
あなた達は、この低い波動の中で、翻弄され、悲しみ、苦しむ為に、わざわざ、光りの存在として、愛にあふれた幸せな日々を送っていた各々の星々から、地球にやって来たわけではないのですよ。アセンションを知って、地球の為に、宇宙の為に、愛と平和の為に、志願して、この地球に来た事をよ〜く思い出してください。
波動の高い周波数というものが、どんなものかを知らなくて、右往左往している人間達に、高い波動を知ってもらう為に、感じてもらう為に、地球に産まれたのだという事をしっかり心に刻んでください。自分自身の波動を高く固定し、地球に、その波動を固定していく為に、思い、言動を行っていく事は、あなた達、この時、地球に生を受けたものの、最大の使命だという事をしっかりと思い出してください。
――『アセンション 宇宙からのメッセージ』同2007年8月12日「我々の使命」より
毎月、1日、11日、21日の、午前と午後の8:30から15分間
『PEACE DOME』を創る瞑想を行います。
こんな感じをイメージしてネ。
ドームに星とシダの葉のフラクタルが広がって、なんともキレイですよねぇ。
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これからは、後始末をどうつけるか、という段階へと移ります。
人によっては、これからが本番(の苦悩を体験)という時期を迎える方もいらっしゃるでしょう。ですが、いつも言っているように、表に出てきた時には(背後にあった意図の部分は)すでに終わっているのです。たぶんこの先、このブログの中でコロナ関連のことを書くことはもうないと思います。これまで充分に語って来ましたし、そこから何を学べるかというヒントもお伝えして来たつもりです。(うまくお伝えできたかどうかは分かりませんが‥‥)
振り返ってみますと、私自身も「コロナ騒動」の以前と以後では、かなり大きな認識の変化というものがありました。それはやはり、「成長」と言ってよいものだったと思います。人類全体というものを見ても、全世界で「Turbo Awakening」が起きていることは明白です。その意味では、この3年間の「コロナ騒動」と、それに続く「沸く珍禍」は、地球人類にとって、間違いなく進化のジャンプ台の役割を果たしたのです。
さて、私たちは先行して次の段階へと歩みを進めなくてなりません。世の中は、引き続き後始末に伴う混乱と、場合によっては天変地異のような現象が続出したりするかもしれません。しかしみなさんは、それらの表面的な動きには惑わされることなく、未来をしっかりと見据えて行動していってほしいと思います。 ずいぶん前に話したことがあると思いますが、 今という時間は、新しいものを生み出す前の陣痛の時なのです。
藤原直哉さんという天賦の才人(天才)がおられまして、 この方の見立てにはいつも感嘆平伏しているのですが、最近のお話の中で、次の3つの言葉が、私の心に強く印象として残りました。
一つめは、「予言はこれで終わり」という話です。確かに、人類の終末期を予言したメッセージについては、古今東西いろいろとあるのですが、その先についてはあまり語られていないのです。その理由は、これまでの「予言*」というものが、〈このまま、人類がそのような生き方を続け、もしも反省して改めるということがなければ、将来に大変な厄災を迎えることになるよ〉という「If」の形式で説かれているからです。
*預言と予言の違いについて:知らない方のために書いておきます。「預言」とは、預かった言葉のことを言います。早い話がチャネリング・メッセージです。対する「予言」は、未来透視のことを指します。どちらも同じ音なので紛らわしいですネ。
ですから、その「予言」なるものは、人類の「改心」を促すことが主目的であり、その手段として警告の言葉を発しているのです。でもそうなりますと、人類が「改心」すれば、警告した「予言」はハズれるという事態が出現することになります。これが「予言」というものの難しさです。中には、自分への注目を集めるために、わざと恐怖心を与える「予言」をする自称「霊能者」も少なくありません。
厄災に関する「予言」をしますと、人は先ず「恐怖心」からそれを捉えてしまいます。 すると、「そんな恐ろしいことが起こって欲しくはないな」と思いながらも、どこかで「予言」の整合性を求めて、仄かに期待する気持ちが生じてしまうのです。そうしますと、その意識が集合した場合には、大きなエネルギーとなって、本当にその「予言」を成就させてしまうということが起こり得るのです。ですから、これはかなり危険な賭けです。
果たして、警告したほうが良いのか、しないほうが良かったのか‥‥。
したがって、この危険性をよく知っている霊能者は、不用意な「予言」というものはいたしません。 けれども、沈黙されると、なおさら聞きたくなってしまうというのが人間の性でありまして‥‥。 結局、人間の意識というものは、いくら警告しても、警告への興味ばかりが増大して、反省へと向かうことがなかったのです。 困ったもんですね (´﹏`;) 。ということで、予言されていた「終末期」が、残念ながら本当にやって来たというわけです。
しかしどの予言も、ある含みを持たせて「終末期」を語っていました。それは、「終末期」を迎えても、決して人類が滅亡してしまうというようなことにはならず、大混乱の時代を経て、これを乗り切った後には、逆に「素晴らしい世界」が出現するというものです。 けれども、その「素晴らしい世界」の具体的進展というものに関しては、まったくと言っていいほど語られていないのでした。これは、なぜでしょうか?
多くの宗教が、それをよいことに、わが宗を信じさえすれば、終末期にも救われるとか、終末期後には天国に引き上げられるという趣旨の教義を展開しました。ですが、もちろんそんなわけはありません。そんなことではなくて、この理由は、「素晴らしい世界」というものを、あなた方が力を合わせて創って行くんだよ、という意味なのです。つまり、ここにおいて、天が与えた「自由」というものの、次の段階への行使が促されているのです。
早い話が、霊的「向下心」が幅を利かせていた時代から、「向上心」への大転換です。それが、「予言はこれで終わり」ということの意味です。
さて次に、私がうならされた直哉さんの言葉は、「これからは信仰を持たない人間は生きていけない」というものです。後の言葉は正確ではないかもしれませんが、とにかくそのような趣旨の発言です。確か、頭に「ハッキリ言うけど」とサラッと仰ったような気もします。私も、本当にハッキリ言うなぁ、とこれには非常に驚いたのです。けれども、その言葉に着目した人というのは、それほど多くはいなかったことでしょう。
何が凄いかと言うと、人類の「向上心」の今後のあり方というものが、その言葉によって明確に示されているからです。普通の経済アナリストは、そんなこと堂々と言ったりはしませんよ。しかも、これは非常に誤解を与える言葉です。
私自身は「信仰」という言葉は嫌いで、積極的には使いません。「信仰」と言ってしまうと、既成宗教やカルト宗教までもが入ってしまうと思うのです。それこそ、統一教会や、創価学会や、あれやこれやが、「これは『信仰』なんだ」と、「信教の自由なんだ」と、きっと言うだろうと思うのです。直哉さんが仰っていることは、そういうことではなくて、天の理と言いますか、宗教を超えた、その先にあるものへの畏敬のようなものです。
あえて「信仰」という言葉を使えば、「信仰観」とでも言えばよいでしょうか。「倫理」と「倫理観」とは違うと思うのです。「道徳」と「道徳観」も違うと思うのです。「倫理」も「道徳」も私は嫌いですし、必要がないと思っています。でも私は「倫理観」「道徳観」はそれなりに保持しているつもりです。思い出してみてください。日本で最も「倫理・道徳観」に欠けていた男が、「道徳」教育の導入を叫んでいたことを。
倫理、道徳、正義、信仰。こうしたものは、みな容易に人間支配の道具と化してしまうのです。
いま進行中の「世界同時革命」の立役者であるトランプさんとプーチンさんは、共にこの「信仰観」に関して、非常に篤いリーダーでもあるのです。このことはあまり指摘されることはありませんが、実は最も重要な背景要因であると言えるのです。現EU委員長のフォン・デア・ライエンは、ドイツキリスト教民主同盟所属で、医学博士号も持った才媛ですが、やっていることを見れば「信仰観」はまったくないというのが判ります。
対してプーチンさんというのは、西側報道ではまるで悪魔のような言われ方をしていますが、実際にはロシア正教会が送り込んだ人物(今のプーチンさんは2代目だと言われています)であり、「信仰観」に非常に篤い人です。またトランプさんも、(アメリカはキリスト教国ですので、選挙対策上「キリスト教保守主義」に傾かざるを得ないのですが‥‥)言っていることの奥にはしっかりとした「信仰観」があるのが判ります。
いま起きている「世界同時革命」を、「反グローバリズム」運動として括られる方がおられるのですが、なんでも色分けしてレッテル貼りをしなければ気が済まないというのは、インテリの悪い癖です。そう語っている本人が、SNS や Youtube というグローバル・ネットワークの恩恵に預かっているというのを無視してそういうことを言っています。そうではなく、この戦いは(敢えて「戦い」という言葉を使えば)、左右の対立ではなく、上下の戦いなのです。
つまり、「向下心」と「向上心」との戦いであり、これは、社会全体についても、政治や経済についても、また様々な組織についても、そして一個人の内面についても、同時に問われる課題であり(全部が入れ子構造になっている)、乗り越えなければならないハードルとなっているのです。そのため、「信仰観」を持たない人間はこれから生きていく術がないよ、ということになるのです。なぜなら、生きる基盤そのものが同時にそっちへ変わって行ってしまうのですからネ。
そして、最後にご紹介したい言葉が次です。
「これからは、ガラパゴスでないものはみんなコモディティになる」
う〜ん、凄い。これはけだし名言です。
しかしこれについては、少し解説が必要となるでしょう。
ガラパゴスについては解りますよね。ガラケーのガラパゴスです。つまり、外の進化に取り残されてしまった技術です。一方のコモディティ(Commodity)とは、大衆実用品のことです。便利品・必需品として重宝され普及した結果、大衆化してしまったような商品です。例えばスマホがそう。あの小さな箱の中にはもの凄いハイテク技術が詰まっているわけですが、今や誰もそんなことに驚嘆する人間はいません。単なる大衆道具になってしまったのです。
このように、最初は高級品、貴重品として登場した物であっても、それが普及するにつれて当初の価値を失い、やがては単なる大衆実用品となってしまいます。自動車がコモディティになるまでにはおよそ200年かかりました。カラーTVがコモディティになるまでには、白黒の時代を含めて20年かかりました。でもスマホがコモディティになるまでには10年しかかかっていません。この期間というものは、どんどん短縮しているのです。
それは、ハイテクの加速度的な発達によるものですが、この分野を追いかけている限りは、マーケットは巨大であっても、陳腐化のスピードが速すぎて浮沈が非常に激しいのです。しかもそこに金融の詐欺が絡んでくるのです。あれほどの栄華を誇っていたIT企業や金融は、今どうなったでしょうか? 大規模なリストラを敢行中です。金融ももうメタメタで、いつダムが決壊するかという段階に入ってきました。
さて、これまでの「経済」というものは、こうしたビッグマーケットを中心にして、いつも語られてきたのです。 マスコミのニュースも、大企業や輸出産業の業績ばかりを(実際にはGDPに占める割合が低いにもかかわらず)取り上げていました。 これも一種の「騙し」だったのですが、そのようにして、株価と、広告主である大企業と、広告代理店と、マスコミと、政府が、癒着の構造を維持してきたのです。
しかし、製造業の中心拠点が、中国やインド、その他のアジア地域に移り、得意だったハイテク分野でも中国や韓国にあっという間に追い抜かれてしまって、日本はかなりの遅れをとるようになりました。これは、政府の産業政策の意図的な失敗(目的は日本が蓄えた富を外資に売り飛ばすこと)だったわけですが、今さら元に戻すことはできません。それよりも、基盤そのものがここで変わるわけですから、それに合わせて意識も変えてしまうほうが得策です。
直感の鋭い人はすでに動き出しています。30代くらいのご夫婦で、子どもの誕生を機に田舎に引っ越したとか、LOHAS(Lifestyles Of Health And Sustainability)な価値観に生き方をすっかり変えてしまった人とか、自分で小さな商売を始めたり、職人のもとに弟子入りしたり、一次産業に回帰している人たちが出てきて頼もしい限りだと思っています。これが、すなわち「ガラパゴス」ということです。
テレビニュースでは、貿易収支がどうのとか、トヨタの業績がどうだとか、大手労組のボーナス妥結額がどうの、株価がどうのと、そんなことばかりを報道していますが、そもそも個人の生活とはなんの関係もないことです。ところが、それがさも「経済」を代表しているかのような意識操作をされてきたのです。でも、今度の「コロナ騒動」を通じて解ったのではないでしょうか。政府やマスコミが言うことと、すべて逆を行けば「正解」なのだということが。
私は15年前に54歳で隠居してしまったのですが、ハローワークに行っても仕事にありつけなかったのです。その結果、働くこと自体を諦めてしまって、今日に至ります。そう言うと、「楽隠居ですか?」などと返されるのですが、今どき「楽隠居」などどこにいますか? まあ、カッコよく言えば「Artist」として生きることを決意したということです。早い話がフーテン老人になったとばい。
そのフーテンの先輩が言うよ。ハッキリ言って、文系サラリーマン男子の中高年には、特にプライドの高い人には、この先まともな仕事はないと覚悟したほうがいい。女性はなんとかなります。辛抱強いし、ささやかなことにも喜びを見い出せる力があるから。しかし男は厳しいよ。男を捨て、プライドも捨てればなんとかなるけれど、果たしてそれが出来るかどうか。
「ガラパゴス」というのは、結局は手わざの価値ですよ。その感覚、技巧、丁寧さ、親切さ、向学心、向上心というものは、日本人のDNAに流れる独特のものであって、コモディティには実現できないSpecialな価値です。これからは、そういったものが大切にされます。今まで捨て置かれていたものも復活を果たします。伝統の技術、老舗の味が、新しいセンスとデザインによってどんどん甦る時代となります。
大きく儲ける必要などはないのです。必要な方から必要とされて、そして愛されて、それで家族が平和に楽しく生きていければ、それでよいわけです。それ以上、何を望むでしょうか? しかしそのためには、手わざを磨かなくてはなりません。この修練は、早ければ早いほうがいい。もうグズグズしているヒマはありませんよ。そして、やがては熟練の技を身につけて、「ああ、その件なら、あの人に頼むといいよ」と言われる人になりましょうよ。
中高年には、ゼロから熟練の技というのはさすがに難しいでしょうが、しかし一次産業ならば歓迎されるでしょう。でもそのためには、何より健康で素直な人でなくちゃあね。そしてそれだって、一日でそうなれるというわけではありません。結局、それまでの生き方です。素直に、正直に、誠実に、親切に、朗らかに生きてきたのか? それとも、強欲に、身勝手に、嘘をついて、他者を見下して、偉そうにして生きてきたのか、です。
これから、その審判が下ります。審判を下すのは天ではありません。その人の、それまでの生き方が、自分自身に審判を下すのです。これが、いわゆる「カルマの法則」です。ですから、総和としての人類の審判は、人類の総和としてのそれまでの生き方が決めているのです。
「予言」までの時代がここで終わりました。これからは、あなたが、ご自分の「自由」を行使して、自分で自分の道を切り開いていく時代です。誰かに着いて行こう、などという了見はもう通用しません。それでは一緒になって谷底まで落ちてしまいます。
よいですか。ベースに「信仰観」をしっかりと置きながら、「ガラパゴス」を生きるのですよ。あなたの「ガラパゴス」は何か。それを早く見つけなさい。そして、それを辛抱強く磨きなさい。光り輝く玉になるまで。
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運よくそこを通過できた人であっても、放っておけば死はジワジワと迫って来ることになる。これからは、そうした人の死者数が増えていくでしょう。ですから、この「沸く珍禍」の本質に早く気がついて、解毒に努めるとともに、ご自分のこれまでを反省し心をチェンジして行くことが大切です。なんと言っても、心が行動を決め、行動が今のその人の「現実」と呼ぶものを創っているのですから。
以前より、このブログを読んでくださっていたみなさんは、みな健康でお過ごしのことと思います。その中には、苦境に陥っている隣人をなんとか助けたい、との思いを抱いている方々も多くいらっしゃるでしょう。しかし周囲を眺めて見て、きっとこうお思いになられたのではないでしょうか。人の「信念」を変えることは非常に難しい。
最初から「信念」など持たなければよいのに、人は「信念」を持つし、持とうとするし、また持たないと不安感が拭えません。特定の「信念」を推奨する人たちだって大勢います。例えば、倫理、道徳、教義、科学、宗教、お金、政治信条などです。しかし「信念」というものは、その人にとっては守るべき大切な「信念」なのですが、見る視点を変えれば、「洗脳」されているということに他ならないのです。
どうやら、ウクライナ戦争の終結が近いようです。ウクライナという国は、おそらく消滅してしまうことでしょう。ロシアがウクライナに軍事侵攻した2022年2月24日から、およそ一か月で、ロシア連合軍の勝利は確定していました。そこで、一度は終戦に向けての話し合いがイスタンブールの地で用意されたのですが、英米のDSがウクライナの敗北を許さず、そこでズルズルと今日まで戦争を継続することになってしまいました。
可哀想なのは、殺されたり難民になったりしたウクライナ市民と、徴兵に駆り出された若者たちです。NATOは、まだ戦車や戦闘機を供給するんだとか言っていますが、すでに257,000人が戦死していると言われ、もう訓練された兵士が残っていません。武器が来ても、それをちゃんと扱える人間がいないのです。ウクライナに金を送れば政府の要人たちの懐へと消え、武器を供給すれば直ちにスクラップにされ、いたずらに戦死者の数だけを増やしているのです。
今では、コロナ騒動の裏面と、ウクライナ問題の裏面が、しっかりリンクしているということが明らかになったわけですが(「ウイルス」および「沸く珍」が生物兵器として作られたものであり、ウクライナには兵器開発の拠点が多数あった。ウクライナ政府は、DSが傀儡運営してきた悪の巣窟であった等)、これまでの日本政府の行動と、メディアの報道がどうであったかを、ここでしっかり思い出してみてください。
日本政府は、ゼレンスキーを「閣下」と言って持ち上げ、ロシアを一方的に悪者扱いして西側の制裁に加わりました。また「沸く珍」では、最初こそ出遅れたものの、その後急激に挽回して、世界一のブースター接種率を実現しました。この間、主流メディアは全部がこの流れや意向を推進するように行動して来ました。これは、国民「総洗脳」ということでは極めて大きな効果を発揮し、だからこそ接種率の挽回にも大きく寄与したのです。
ところが、諸外国ではこの茶番劇の奥にある構造に、今や多くの人々が気づくようになり、日本だけが〈目覚め〉が圧倒的に遅れているという状況です。これには英語ができないという問題もありますが、国民性の違いも大きい。日本では下からの市民革命というものは起きません。「お上」という思想が根底にあって、みな上に従う。また上にいる者たちも、外圧でしか変わることができません。日本という国では、上も下も自主性というものを持たないのです。
「ひよる」という言葉は「日」と「和」と書きます。「日和る」です。今はあまり言いませんが、「お日和がよろしいことで」が、半世紀前の挨拶言葉でした。日本人は農耕民族ですから、その日の天候をよく見ないことには、適切な作業というものができません。そこで「日和」を「見る」ことが重要になり、それがいつしか日本人の習性になってしまったのです。これが「日和見(ひよりみ)」で、日和見主義は、まさに日本の伝統精神を表しています。
しかしもう、DSの平定は完了したようですね。あとは残党をちょこちょこっと退治するだけ。まさにその残党が日本政府。今年のダボス会議に現れたクラウス・シュワブは、どうも替え玉のようです。日本だけえらく遅れているように見えますが、現在の河野太郎はゴム人形だという説もありますし、ビル・ゲイツももうこの世には居ないということですから、そうなるとビル・ゲイツと会談した岸田は、崩壊に向けて嵌められているということになります。
その真相はともかくとして、これまでのことが、これで全部ひっくり返ったのです。ということで、関係者のみなさんは、これからどうするのでしょうねぇ? やっぱり、「知らんぷり」「手のひら返し」「あいつのせい」の三種の神器を繰り出すということになるのでしょうか? まあメディアは、いけしゃあしゃあと「手のひら返し」に走るでしょうね。
でもそれが、はたして今回も通用するでしょうか?
今回、メディアが国民「総洗脳」に走ったことは、それがひっくり返った際には、却って分かりやすい結論を人々に与えることになると思います。メディアはダメでぃあ。専門家というのは「嘘つきの専門」家なんだな。奴らはみな金で転ぶゴロツキストだったんだ。ただでさえビジネスモデルが時代遅れとなっているというのに、コンテンツの信用までをも失ったら、もうメディアの存在理由がありません。騙されて愛想を尽かした人々が、今後戻ることはないでしょう。
それにしても、なんてバカなことをしているのだろうか、と思います。嘘を報道することは、メディアにとっては自殺行為ではありませんか。ちょっと前なら、「虚偽報道」が発覚した際にはかなりしつこく追及されたものです。ところが「A」が首相になってからというもの、メディアが平気で嘘をつくようになりました。大嘘*は以前からもついていたのですが、小嘘にはけっこう注意を払っていた。それがもう、堂々と嘘八百を垂れ流すようになっていった。
*大嘘:メディアは独立した機関であり公平中立である、という幻想。
私は15年前には新聞購読をやめ、10年前には民放テレビと雑誌も観るのをやめました。かろうじてNHKのBSとEテレの特定の番組だけを録画して観ていたのですが、ここ5年くらいは、それすらも本当にヒドいなと思うようになりました。ニュースは嘘だらけですし、かつて私が観ていた『Nスペ』や『BS世界のドキュメンタリー』や『100分de名著』にまで、「THE GREAT RESET」に向けての情報操作のための番組を差し込んでくるのです。
ビル・ゲイツや、ジョージ・ソロス、ジャック・アタリ、ユヴァル・ノア・ハラリ、山中伸弥といったDS御用達の人間を礼賛する番組をたくさん作っていますし、『Nスペ』では人々に恐怖心を植え付けるような番組ばかりを放送しています。それと、再放送の多いこと多いこと。再放送の再放送まである。こんなものに、ただチューナーがあるというだけで「受信料」というものを払わなければいけないのだろうか?と思います。
私が不思議で仕方がないのは、「こうした嘘報道や操作報道を続けていたら、存在基盤が危うくなるよね」とか、「DSの言いなりではダメだよね」と言う人が、各放送局の中に一人くらいはいないのだろうかと思うのです。これは、今の殺せい奴隷労働省の職員に対しても抱く、同じ素朴な疑問でもあります。
日本社会というのは、どの組織においても、内部告発をする人というのがほとんどいませんよね。みな「日和見主義」だし「長いものには巻かれろ」式に生きている。でもこれからは、それがマイナスに作用していくことになります。その予感が、いまだに全くないというのは、もはや致命的です。
ただメディアは、今回一つだけ良いことをした。「沸く珍」の嘘を流し続けたことによって、いわゆる「西側」の報道が、いかにデタラメなものであるかということを人々に気づかせてくれたのです。そして、政府や、専門家と称する人間が、まるで信用できないということを知って、これらの背後にある「大きな企み」の存在についても、人々が気がつくようになりました。これは人類史上の大きな前進です。
親ガメはすでにコケたのです。ですから、その上に乗っかっていた子ガメ、孫ガメ、ひ孫ガメが、これから次々とコケていく。最初からその上に乗っかっていなかった人、途中で気がついて飛び降りた人たちは、痛手をそれほど受けないで済むことでしょう。けれども、ずっと乗り続けて来た人、ますます強くしがみついて来た人にとっては、天地がひっくり返るような事態が訪れます。
もうその兆候は表れていて、すでに後戻りできないところまで来ました。ここには、騙す側だった人と、騙される側だった人がいて、後者は可哀想ではあるのですが、しかし人生上の課題という点においては、両者の思惑というものは一致していたのです。騙される者がいるから、騙す者が成り立ち、また逆に騙す人間がいてくれるおかげで、騙された人は、騙されるということを体験できたのです。
しかしこれは、あまりにも不条理に思えて、とうてい納得がいかないことでしょう。ですが、霊的観点から言えば、両者というものは補完関係にあって、一致協力して、その「現実」というものを創造しているのです。
ところで、世間には「騙すよりも騙されろ」という格言があります。これは、一体どういう意味なのでしょう? どうして騙されるほうがよいのでしょう?
それは、騙される側のほうが、騙す側よりも遥かに「気づき」を得やすいからです。騙されてしまった時、最初は、怒りとか、悔しいとか、悲嘆に暮れるでしょうが、その時期を過ぎてしまえば、やがては自分の落ち度にも気がつき、反省する気持ちもしだいに芽生えてきます。けれども騙したほうは、元来が悪人ですから、責任逃れに終始することになるので、反省する気持ちがなかなか起こりにくいのです。
ここで、自分に「嘘」をつくということが、なぜそれほどいけないのかをお話ししましょう。私は「A」を可哀想な人と言ってきました。名前を書くことすらイヤなのは「嘘」が出す波動がイヤだからであって、人物に関しては可哀想という気持ちです。世間知らずのおぼっちゃまだったのに、母親や、周囲の取り巻き中や統一教会におだてられて、能力不相応の首相の座に着いてしまったのです。
そして、「嘘」に「嘘」を重ねる人生を歩まざるを得ませんでした。彼にとっては、それが「正義」だったのです。そしてこの「嘘」は、金と、人事権と、組織と、マスコミの懐柔によって守られて来たのです。関係者みんなが、一致協力してそのような「現実」を創造して来たのです。
でも、死んだらどうなるでしょうか?
人は、死んでも死にません。
肉体とのリンクは解けますが、「魂」はその後も生き続けます。
さてそうしますと、それまで「嘘」を覆い隠してくれたものが、死後の世界に入ったとたん、何一つないことに気づくのです。この世にいる間は、身体がプロテクターの役割を果たしていましたが、もうそれすらもない。その「魂」の「意識」が、完全に裸にされてしまうことになります。
霊界というのは「意識」だけの世界ですから、その後は「嘘つき」の看板をずっとぶら下げて歩かなければならないのです。またそれが、いくら隠そうとしても、テレパシーであっという間に伝わってしまいます。しかも、「嘘」に「嘘」を重ねる「ペルソナ(仮面)」を被ってきた人間は、何が自分の本質であるかさえも解らなくなっています。その状態を想像してみてください。生前に「本当の自分」探しを真剣にして来なかった人間の、末路というものは悲惨です。
また一方で、今世の誕生前には「アジェンダ(課題)」を設定した上で転生して来ていますから、それを何一つ達成できなかったというだけではなく、他の大勢の人々に大迷惑をかけ、苦しませてしまったということにもようやく気づくのです。でももうやり直しは効かない。これが非常に辛い。素っ裸のまま、針の筵の上を延々と歩き続けるという事態に晒されるのです。その姿を想像できますか? 今度の大惨事で「嘘」をついた者どもは、みなそうなってしまうのです。
そして、今度の「沸く珍禍」においては、もっと大きな「気づき」が人々に与えられようとしています。それは、「こんな奴らに、自分は、そして人類は操られて来たのか」という気づきです。「A」の暗殺から、すでに7カ月が経過しました。さてどうなったでしょうか? 統一教会との癒着なども表に出て、あれほどの権勢を誇っていた応援団たちも今や形無しです。「A」が第二次政権の8年間で築き上げてきたものが、わずか半年余りで瓦解したのです。
これで、憂欲の半分がいなくなりました。残る半分も、路線対立をめぐって今や内ゲバを繰り広げている状態です。路線対立の内ゲバと言えば、かつては詐欲のお家芸だったのにネ。結局、右も左も同じということ。要するに、自分勝手な「信念」をぶち上げているだけなのです。やがては、憂欲のもう一つの「旗」である千代田区一丁目一番地にお住まいの、あのお方のご威光も消滅してしまうことでしょう。残る宗教勢力も、みな散り散りバラバラになって終わってしまうでしょう。
「信念」の崩壊は、さらに玉突き的に進みます。
殺せい省、WHO、ビッグファーマ、威者、医科大学、医学論文誌、等々の闇が暴かれて、これまでの医猟の権威は完全に失墜するでしょう。また、金融を支配してきた者たちの素性がバレて、「金融」そのものが巨大詐欺システムであったことを人々が知ることになるでしょう。先生、先生と言って崇めてきた国会議員たちが、ただの強欲なアホどもだったということもバレバレになり、人々は半ば怒り、ようやくのことで目を覚ますでしょう。
これまで教えられて来た歴史が嘘で塗り固められていたことを知り、学校矯育の不毛にも慄然として目覚めるでしょう。魔巣込みは言うまでもなく、ハリウッド映画や音楽産業、スポーツ業界までもが、人々の洗脳装置として機能していたことを知り、スターの裏側の顔が明らかにされるでしょう。そして、「ファティマの予言」にある通り、これまで世界を騙し続けてきたバチカン勢力も終わりを迎えることになるでしょう。
さて、いま挙げた事柄は、その中にいた人々にとっては、とりわけそこにしがみついて来た人にとっては、大変な苦難と苦痛をもたらすことになります。しかし視点を変えれば、これまでずっと羊として飼育されて来た「人類」を解放する、世紀の夜明けがやって来たということでもあるのです。
日は沈み、日はまた昇る。
要は、どちら側に視点を置くかという問題です。よいですか、立ち位置ではなく、視点ですぞ。それが解れば、苦悩の中にも希望はあるのです。
あなた方は、今度の「コロナ禍」を通して、世界のトレンドを牽引しているものは、人々の「集合意識」であるということを学んだはずです。しかしこの「集合意識」なるものは、個人「意識」の集合体なのです。ここにおいて、個人の修養と、社会変革とは、しっかりリンクしているということにお気づきでしょう。
今度の「コロナ禍」では、その関係が悪者たちによって悪用されてしまったのです。個人の「意識」に、恐怖心を植え付けてコントロールすることにより、「集合意識」を人類削減の方向へと向かわせたのです。しかしそうなってしまったのは、一人ひとりが、本当の「自由」というものを知らず、また事に際して、自身の「修養」という観点から行動をしなかったためなのです。その結果、悪者たちの企みにいとも簡単に「同調」してしまったのでした。
しかし多くの犠牲を払いながらも、人類は貴重な体験をしたので、この先はもう二度と同じ目に合わないようにしなければなりません。個人が生きるにおいては「旗」も「杖」も不要、ということにあなた方は気づかねばなりません。己の中の理想を「旗」とし、日々の喜びを「杖」として生きる。それ以上、何が必要でしょうか。死後に持っていけるものはそれしかないのです。
今後は、苦悩と希望とが並行して進む時代となります。その関係はコインの裏表であって、どちらを見て行くかという問題なのです。たとえどんな状況に置かれたとしても、あなたは、つねに希望の側を見続けてください。そして、周囲の人々にも、ハッピーを振りまいてください。その集合意識が、明るい、次の時代を創造するのです。
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この後、(おそらく対応を協議していたのでしょう)2日経ってから、ファイザー社はそれらの事実を否定する声明を出したのですが、時すでに遅しです。相前後して、ダボス会議が開かれたスイスの雪道を歩くファイザーCEOに、ジャーナリストが突撃取材をして「世界に謝ったほういいのでは?」と投げかけるシーンも拡散しました。また、これを受けて、インドのチャンドラセカール電子技術大臣が、ファイザー社がインド政府に対して行ってきた脅しの手口を暴露しました。
ということで、今まではごく限られた人しか知りえなかったことが、次々と明るみに出る事態となっています。これもみな、Twitter が検閲をやめたことが起爆剤になっています。現代の戦争は、先ずは「情報戦」です。しかし「情報を制する」というのは、やはり為政者の手口であって、それよりも情報そのものをオープンにしてしまうことが、民主革命を実現する上でのいちばんの早道となるのです。
そもそも、なぜ隠し事をするのでしょうか? 隠さなければならない、何かやましいことがあるからではありませんか? アメリカは「法」に厳格な国ですが、日本では情報公開請求をしても、国や自治体は平気な顔をして黒塗り文書を出してきます。これ自体が「民主主義じゃないよ」と言っているようなものですが、征事家や厄人はもう感覚がすっかり麻痺していて、そうすることが当たり前だと思い込んでいるのです。
その一方、1月29日にニューハンプシャー州とノースカロライナ州を訪れたトランプ前大統領は、「自分が大統領になったら〜」という前提で、現在のバイデン政権の狂った暴走を終わらせるハッキリとした対抗策を披露しました。これは、表向きは「2024年大統領選キックオフ・イベント」ということになっていますが、私が見るところ、このタイミングを絶妙に見計らった、ある「宣言」であったように思います。
いったい何の「宣言」か? 「お〜いみんな。もうカタはついたよ。これから新しいアメリカの創造に向けて走り出す時が来たよ」という。ひょっとすると、2024年の選挙を待たずして、トランプ大統領の復活ということになるやも知れません。そうなれる手は、いくらでもありますからね。そして何より、今のバイデンは不正選挙で選ばれのですから。
これは以前にも言いましたが、表に出た時には、もう終わっているのです。「陰謀」というのは完全に隠されていた時のみが「陰謀」であって、それが漏れ出てしまった時には、後ろに「論」をくっつけて誤魔化すしかありません。そんなのフェイクだよンと。ところが、民衆の認識が変わると、「陰謀」が一気に「表謀(=標榜)」になってしまうのです。こうなったら「陰謀論」というレッテル貼りの誤魔化しはもう通用しません。
「陰謀じゃなかったんだ。本当のことだったんだ」と目覚める人が加速度的に増える中で、「陰謀論だ、デマだ」とそれでもずっと言い続けていたら、「こいつ、ほんまもんのアホやで〜」ということになっていっちゃいますからね〜。
ね、河野太郎さん。
もうすでに逆転してしまったのですよ。
さて、これからは「反省」がキモになります。この「反省」には、組織としての反省と、個人の反省とがある。この両者は分かち難く結びついていて、一方だけを責めてみても、霊性のステージというものは上がりません。それはちょうど、社会の変革が、個人の修養と密接に結びついているというのと、同じ関係です。しかし組織は、それ自体の反省ということが難しい。結局は人なのですが、両者の間にはいくらでも誤魔化しのきくバッファが存在するからです。
それは「空気」と呼ぶバッファ。困ったことが起こったら、その場の「空気」のせいにしてしまえば、どんなことでも責任逃れができてしまう。でも、ここでまた逃げる愚を繰り返してはならないのです。「組織」としての反省と、「個人」の反省とが共にしっかり行えて、さらに「空気」という圧力がどのようして生まれたのかをきっちり分析できてこそ、初めて人類は次のステージへと進むことが出来るのです。
これは以前にも書きましたが、第二次世界大戦後にイスラエルで「アイヒマン裁判」というのが行われたのです。アイヒマンはナチスの将校でユダヤ人を収容所に送る責任者をしていたのですが、敗戦後は南米に逃亡・潜伏していました。それが捕まって、イスラエルに送られ戦争犯罪を問う裁判が行われたのです。この時、アイヒマンは、〈自分は一人の官吏(役人)であって、上からの命令に従っただけだ〉という自己弁護論を展開しました。
要は、組織のせいにして、自分に非はないと主張したのです。このアイヒマンの言い分を、あなたはどう思われるでしょうか?
今度の「沸く珍禍」では、すでに20万人の超過死亡が発生し、現在も体調を崩して苦しんでおられる方が大勢おられます。また、今は大丈夫のように見えても、この「毒沸く珍」は、自己免疫機能を破壊してしまう遅延型殺人兵器として設計されていますから、この先、犠牲者がどれくらいで止まるのかもまだよく見えていません。当初は、3〜5年以内に全員死亡すると言われていましたが、イベルメクチンという思わぬ伏兵が登場したことで状況が変わりました。
しかし、政府の言うことを信じて身内を殺された人たちや、自身が後遺症(と言っていますが、実は本症)に苦しんでいる人たちの怒りは、とうてい収まらないことでしょう。
このことについても、早い段階で「未必の故意」による殺人罪で告訴する必要がある、と書いておきました。当事者たちが、それぞれどの程度の認識で国民の「虐殺」に関与していたのかは、今のところ不明です。何もかも知った上でやっていたのか、自己保身で何となくそうしたのか、単にパッパラパーだからそうしたのか。これは、金銭の授受関係を追うことで、しだいにハッキリしていくでしょう。
さて、この時に大事なのは、「個人」の責任をちゃんと追及するということです。「組織」を訴えてもダメです。それでは「空気」の中に逃げられてしまいます。ですから、「薬害訴訟」でいちど反省したはずの厚生省が、いとも簡単に「殺せい奴隷労働省」へと、むしろ悪事をパワーアップさせてしまったのです。そうではなくて、個人をきちんと特定して、それぞれの責任を追及していくということをしていかなければなりません。
これは、裁判に持ち込むことがたとえ難しくても、今はインターネットというものがありますから、その人の過去の発言内容を写真つきで掲載して、どんどん広めるということをしてあげればよいのです。
Twitter に掲載されていた次の動画は、〈病理医がワクチン接種後の死亡の因果関係を認めた薬害について、全て「評価できない」と判定している厚労省選定の16名の専門家〉だそうですが、こういうことをどんどんやっていくとよいのです。
これと同じようにして、「殺せい奴隷労働省」の技官の氏名も、顔写真入りでちゃんと公表していかなくちゃダメです。彼らは人殺し集団なのですからね。もちろん、自ら動画に発言を残してきた殺人鬼たちや、媚び人従狗に感染して殺人を幇助してきた著名人たちも、動画をプレイバックして責任を徹底的に追及していかなくちゃいけない。とにかく、逃げ得だけは絶対にさせてはダメ!
さてそう言うと、「ふだん言ってることと違うじゃないか」とお思いになるかも知れません。しかしこの追及は、彼らのためであって、「罰」を与えろと言っているのではありません。彼らには、自分が為してきたことの「反省」の機会を作ってあげなければならないのです。それが彼らの「魂」への親切になる。「反省」の機会を与えてあげなければ、あの人たちは自ら反省するということはしません。そういう性質がないために「大量虐殺」にまで手を染めてしまったのです。
そもそも、今日に至る日本の政治の暗部は、「逃げ得」から始まったのです。A級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた高級官僚の岸信介が、GHQに篭絡されて無罪放免にして貰う代わりに、なんと首相の地位を手に入れた。死刑になるところが首相ですよ。もちろん日本国民のための首相なんかじゃありません。アメリカさんの飼い犬です。以来、ポチ本流が自民党政治の中核となり、DSには誰も逆らえなくなっちゃった。ちょっとでも逆らった奴は、みな殺されるか失脚させられた。
アメリカさんが故意に「逃げ得」を許したのは、岸ら満州人脈だけではありませんでした。もう一つ、重大な戦争犯罪人たちを無罪放免にした。それは、中国で毒ガスや細菌兵器の研究開発を行い、中国人捕虜に対して人体実験までしていた731部隊に所属していた軍属の研究者たち。彼らは戦後、大学の教授などに転身していきました。アメリカは、この時の研究資料を受け取ることと引き換えに、731部隊の行為そのものを抹消してしまったのです。
またアメリカは、ドイツの敗戦後、ナチスの科学者をアメリカに大量に連れて来ました。これをペーパークリップ作戦と言います。彼らは主にロケット技術の開発に携わります。こうした下地があって、その後の軍産複合体に操られた悪の帝国アメリカが栄えていったのです。そしてそれは、今回の生物兵器プログラムやウクライナのネオナチとの関係にまで繋がっているのです。日本がまたもやナチスに加担しているのは、こうしたカルマの腐れ縁です。
ですから、この連鎖を解くためにも、またしても「逃げ得」を許すということがあってはならないのです。悪事を為した人には、なぜ、どうして、自分がそうしてしまったのかを、充分に「反省」して貰う場と時間を与えてあげる必要があります。そうすれば、その「魂」には成長の機会となるのですし、日本国全体の霊性の底上げにも繋がるのです。けれども「逃げ得」をずっと許していたら、最後は「A」のようなあっけない結末を迎えてしまうのdeath。
世間では、「自業自得だ」とか「天罰だ」といったことがよく言われます。確かに、見え方としてはそのように見える場合もあります。しかしこれは、「宇宙の法則」を正確に伝えているものではありません。宇宙には、「罪」も「罰」もありません。ただ、「自分が為したことは自分に還る」という法則があるだけなのです。その作用の結果として、善行善果、悪行悪果になるというだけです。なぜなら、宇宙は一つ(全部が一体)だからです。
しかし人間は、そもそも霊性を下げたことによって地球に誕生した「魂」ですから*、放っておけばさらに下へ転んでいく。向上心ならぬ向下心を持っていて、善事より悪事のほうがずっと魅力的に思えるのです。宗教は、先ずこれを是正しようとしました。そこで、地獄の物語や、戒律を作って、脅しと恐怖で信者をコントロールするという手段を採ったのです。
*これが「失楽園」の物語になっている。
しかしこの方法は、あまりよい成果を産みませんでした。やはりそれは便法に過ぎず、本当の真理ではないからです。所詮は付け焼き刃ですから、すぐに本性が出てしまう。何よりも、そうした戒律や行動規範をやかましく言っている宗教団体自体が、裏で悪事を為しているのですから、もうどうにもなりません。こうなると、その教義の信者は、団体お墨付きの悪事を、善事と錯覚して邁進するということになってしまいます。これはもう最悪です。
でも「真理」はそうではありません。宇宙には「罪」も「罰」もない。何をしようとも自由なのです。しかしそう言うと、今まで聞かされてきたり、信じてきた倫理観・道徳観とはあまりにも掛け離れているので、理解の範疇を超えてしまいます。そこで、一般社会に受け入れられるということがなかったのです。これまではネ。しかし、これからは違う。本当のことが表に出るようになります。
別に悪事を勧めるわけではありませんが、「真理」が説くところのものは、善行善果、悪行悪果の両方を体験することで、辛さを味わい、法則を学び、「魂」が成長する機会を得る、というようになっているのです。
さて、今度は騙された人たちのことを考えてみましょう。先ず、政府とマスコミに騙されて、図らずも「毒沸く珍」を打ってしまったという人は、何よりデトックス(解毒)に集中的に取り組んでいってください。チャンスはあります。イベルメクチンという特効薬もありますし、その他の手段も今いろいろと試されています。情報収集をきっちり行い、また人にも相談するなどして、永い目で見て改善を図っていってください。
さてその上で、「なぜ騙されてしまったのか?」という「反省」をしてみることが大切です。「打たなきゃよかった」と思うのは「後悔」です。「後悔」をしても始まりません。時間のムダです。起きたことは起きたこととして、次の対処に向けて潔く行動したほうがよいのです。ですから、先ずはデトックス。その上で、これを「反省」の機会に活用すれば、自分の霊性向上に役立てることが出来るのです。そして、それこそが生きる目的なのです。
結果的に「騙されてしまった」という理由は、きっと人によって様々でしょう。
・そもそも関心が薄く、何も考えていなかった。
・自己免疫のことも、ワクチンのことについても無知のままだった。
・政府、厚労省、マスコミ、専門家の言うことをそのまま信じていた。
・周囲のみんなが打っているから、自分も打たねばならないと思った。
・恐怖心から、そうしなければ大変なことになると思い込んだ。
しかし集約すれば、「無智」「他人任せ」「恐怖心」の3つになるでしょう。
先ず「無智」というのは、「知識」がないということではありません。俗に、「知識はないよりもあったほうがいい」などと言われますが、必ずしもそうとも言えないのです。今度の「沸く珍禍」では、医療関係者の多くが率先して4回め、5回めを打っています。カナダでは50人以上の医師が「沸く珍」を打って亡くなりました。「知識」があるはずなのに、それがまったく生きていません。
ですから、頭がいいとか、お勉強ができるというのは、マイナスに働く場合もあるのです。要は専門バカの思い込みに陥ってしまう。そうではなくて、本当の「智恵」、つまり「直観」に通じる部分が働いていないか、働かせていないことが問題なのです。これが「無智」と呼ぶものです。もしも「直観」が働いていれば、「あ、これはヤバいぞ」というのがすぐに分かったはずなのです。でも、それが働かなかった。ここに、一つの反省点があります。
2番めは「他人任せ」です。これは、よく思考停止状態とか、自分で考えることをしない、と言われている現象です。諸外国と比べて、日本人はこれが顕著な気がします。私は「“和”にも程がある」と言っているのですが、「和の精神」はよいとしても、日本人は余りにも自分を抑え込み過ぎているのではないでしょうか。自分の考えや主張をしっかり持って、それをもっとハッキリ述べるべきだと思います。
その上で「和の精神」が生きればよいのですが、自分の考えを持たずに「和」を指向していると、日和見、忖度、右倣え、他人任せ、が横行することになってしまいます。今度の「沸く珍禍」に際しても、自分の命運を他者に丸投げして平気な人が、これほど多いというのは驚きでした。しかしみなさんは、今度の体験を通じて、人々の集合意識が今の日本の状況を創り出しているというのをハッキリと見たでしょう。ですから、これはとりわけ日本人が克服すべき大きな課題です。
3番めは「恐怖心」です。最初は状況がよく分かりませんでしたから、「恐怖心」がパッと動いてしまうというのは致し方ありません。しかし、その次に大事だったのは、自分でよく調べるということだったのです。いったいどれほどの人が、そのステージへと向かったでしょうか? 非常に多くの人が、特に高齢者は、ここで「他人任せ」へと舵を切ってしまいました。たとえ若い世代であっても、情報の質を見抜く眼力のない人は、フェイク・ニュースの餌食となってしまいました。
ところで、「恐怖心」の中身には二つの課題が隠れています。一つは感情のコントロールという問題です。そしてもう一つは経験です。感情のコントロールに関しては今回は述べませんが、人は経験を積むということによって「恐怖心」を克服していくことができます。さてそこで、パンデミックの謀略について、事前にある程度の知識を持っていたとしたら、その後の行動はまったく違ったものになっていたのではないでしょうか?
私が、最初に知ったときの感想は、「ほほう、そう来たか」「いよいよだな」というものでした。けれども、同様な感想を持った人は、多分ごくわずかしかいなかったでしょう。これは、私にとっては胸の痛い問題なのです。でもみなさんは、今回の経験を通じて、政府やマスコミがいかに腐敗しているかということと、専門家なる者はまったく信用できないということを学習したと思います。
そしてさらに学習を深めた人は、なぜ上から下までが一斉に騙されてしまうのか、という理由も見えたと思うのです。要は、【闇】→【影】→【裏】→【表】へと、多段階に支配構造が広がっているために、その中にいる人たちには、自分の周囲のごく狭い範囲のことしか見えないのです。上下間の深い構造など、知る由もない。そしてもう一つは、「恐怖心」を煽ってコントロールの手を入れて来るということです。
これは、宗教の手口も同じです。そして、もう片側に「旗」と「杖」を見せる。すると、「恐怖心」に駆られた人々は、いとも簡単にその「旗」と「杖」に飛びついてしまうのです。今度のプランデミックとはまさにそれで、「恐怖心」を煽り立てて、「自粛」という旗、「沸く珍」という杖をサッと差し出しわけです。しかし、種明かしは、その両方を同じ連中がやっている。そして、上から下まで、ほぼ全員がこのテクニックにコロっと騙されているのです。
まあ、今までのところは仕方がありません。でも、いつも言っているように、「今」という現実は、それまでの生き方の「結果」としてあります。ですから、この機会に、自分の半生を反省すれば、それが未来に繋がるのです。
ここは、あなた方が思っている以上に重要です。地球のアセンションとは、そして人類のアセンションとは、直感力を持たない遺伝子の死滅をも意味しているからです。ですから、この機会に賢くなれない「魂」は、もう地球に転生することができません。おバカさん用のBODYは一掃されてしまって、この先の地球にはないのです。賢い人用の遺伝子BODYしか、未来の地球には残っていません。
これは、脅しに聞こえるかも知れませんが、脅しているわけではなく、賢くなること(それは直観力と霊性を磨くということですが)を促しているのです。また、おバカさんを切り捨てているわけでもなく、できれば全員にジャンプして欲しいと思っているのです。でも残念ながら、ごく限られた人にしかこの声が届かないんですよ。そこで私は、次の次の世代のための種蒔きを今しているのです。
さあ、一緒に祈りましょう。
未来の明るい明るい地球の姿を想像して。
和気あいあいと、楽しく暮らしている人々の姿を想像して。
その集合意識が、そういう未来をかたち創るのです。
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“バルブ”というのは“バブル”の駄洒落で、何年も前から自分が言ってきたことなのですが、金融界も二枚腰、三枚腰でなかなか粘り強く、この予測は毎年外れ続けて来ました(ノ_< ;) 。しかしそれが、もう間も無く‥‥遅くとも今年中にはそれを経験することになると思います。‥‥たぶん。
バブルというのは膨らんだ泡のこと。それが吹き飛んでしまうのが「バブルの崩壊」。ところが、今度はそんな程度では済まない。バブルももちろん吹き飛ぶけれど、ペトロダラーの終焉を契機にお金の供給元そのものが崩壊してしまうのです。ですから「バルブの崩壊」。具体的には、「お金」の発行権を有していた「中央銀行」の制度そのものが崩壊してしまうことになるのです。
その影響が暮らしにどう及んで来るのかは、お金に¥のない自分には解りません。しかし、「そうかぁ、そういうことだったのか」という背景事情がやっと読めました。つまり、金融大崩壊が、最後の大掃除の引き金を引くことになるということです。そのために、この大イベントが最後まで取って置かれたようです。
「トランプ劇場」が完全な囮作戦であったということが、ここに来てますますハッキリと見えてきました。そう思って調べてみますと、この計画は、どうも2016年のトランプ大統領誕生以前からすでに始まっていたようです。DS のあまりにも深く、広い政府への浸透ぶりと悪魔的な将来計画に危機感を抱いていた自発的なグループが、トランプさんに2016年の大統領選への出馬を依頼したというのが、そもそもの始まりだったというのです。
実業家であったトランプさんからすれば、自分が大統領になることにメリットはまったくありません。もちろん汚職をすれば何らかのメリットを得るでしょうが、それでは沼の泥水を抜くという大仕事はできません。トランプさんが当選した直後は「政治経験がまったく無いど素人なのに‥‥」という声が非常に多かったのですが、依頼したグループは、逆に既成の政治家では世直しはできないと考えていたのです。
これは、日本の自民党を見てみればよ〜く解るじゃありませんか。2世、3世、4世という世襲制になってしまっている。これじゃ、事実上の「貴族院」ですよ。当家が獲得した利権を、息子や娘たちに引き継がせるのがメインの仕事になっちゃってる。ですから、まったく違うところからトランプさんが出て来た。そして、あれよあれよというまに頭角を表し、なんとヒラリーを打ち負かしてしまったのです。これは油断していたのでしょうが、DS にしてみれば大誤算だったと思います。
ですから、つぎの2020年選挙では何としてもバイデンを勝たせなければならなくなり、大規模な不正選挙に手を染めたのです。ところが、時すでに遅し。2017年の段階で、すでに沼の大きな栓は抜かれていて、代わりに網がそこに設置されていたというわけです。そして、網に獲物が掛かって来るのをじーっと待った。
2020年の選挙で大規模な不正が行われるだろうことは事前に分かっていましたので、万全を整えて不正の証拠を積み上げることを密かに行っていた、というのがこれまでの真相のようです。そして、翌年の議事堂襲撃事件が起こる前には、いくつかの大統領令を発布しておいて、この時点で、アメリカを軍政に移管しておいたというのです。
これらは「Devolution(権限移譲)」と言って、かなり前の時代に作られた緊急事態の法律を適用した奥の手だったようです。ですから、現在のアメリカは軍のコントロール下にあって、その総指揮官は依然としてトランプさんだというのです。じゃあバイデンはなんなのか? あの人は、今はアーサー・ロバーツという役者さんが痴呆老人を演じてくれているみたいです。
さて、これから来る「バルブの崩壊」が何を意味しているかというと、英語で「通貨」を意味する「Currency」には「流れる」の意味合いがあって、この流れが、文字通りこれまでのすべての悪事を押し流してしまうのです。それはまるで集中豪雨のあとの大河の氾濫のようなもので、激流が渦巻いて沼地の泥を全部きれいにさらっていってしまうことになるのです。私たちは、その過程をこれから目撃することになります。
なぜそうなるかというと、結局のところ「悪」に染まる人たちを動かしていた力は、全部「お金」だったのです。腐敗した政府、嘘を垂れ流し続けるメディア、デタラメを言っては人々を誘導する専門家や御用学者、人々を殺して利益を得ている医者と製薬会社、そして利権を貪る政治家。これらを操っている力の源泉は、要するに「お金」です。ですから、イルミナティは、その元栓を「中央銀行」という公共の顔をした、実は私企業群によって制圧したのです。
「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでもよい」
ーー マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド
結果として、ほぼすべての地球市民が「お金」の奴隷にされてしまい、好きでもない仕事を与えられて長時間コキ使われ、家賃の心配をしたり、子どもの学費の心配をしたり、ローンを組まされたり、税金や保険を支払わなければならなくなったのです。そして、その仕組みが、当たり前だとずっと思い込まされて来たことで、それらより生じる苦しみと恐怖から逃れるためには、他人を騙してでも「お金」を巻き上げる必要がある、と強く信じる輩が誕生したのです。
この思想は玉突き的に広がって、シャンパンタワーのようにトリクルダウンして行き、今や末端にまであまねく浸透しているのです。上は大悪党から中悪党へ、中悪党から小悪党へ、小悪党から保身第一の人へ、そして最後はただ騙されるだけの大勢の人々へと。
これらの「流れ」を構成しているのは、結局のところ「通貨」ですから、その「バルブ」が崩壊すれば、現在の(虚飾に満ちた)社会システムは、ことごとく破滅に向かうということになるのです。そしてそうなる日は近い。「Currency」の激流にみな押し流されてしまい、あとは瓦礫の山となる。そこから、地球人類の新たなエクソダスが始まるのです。
地球温暖化と炭素の抑制。みんながこれを正しいことだと信じています。先日、QBハウスに行ったところ、狭い待合所のところにSDGsのマークが貼ってあるのを目にしました。「当社はSDGsに賛同しています」と、とても誇らしげです。でもみなさんは、現在の地球の炭酸ガス(二酸化炭素)濃度がどれくらいかを知っていますか?
試しに、知り合いの何人かに聞いてみましたが、ただの一人も実数値を知らないのです。それなのに「炭酸ガスの排出を抑制しなければならない」と、上から下までが、この話をすっかり信じ込んでいるのです。ガソリン車はダメで、これからは全部電気自動車にしなくちゃならない、とか。ニューヨーク市議会では、なんと新たな建物での天然ガスの使用を禁じる法案まで採択したそうですよ。
「マスク」や「沸く珍」の話とまったく一緒です。科学的エビデンスを無視したおとぎ話を、ほぼ全員が「そうすることが正しい」と信じ込まされているのです。
‥‥大気中の炭酸ガス濃度って、どれくらいだと思う?
「えーと、20パーセントくらい?」
‥‥いいや、全然違う。
「う〜ん、もっと多い?」
‥‥いや、少ない。
「じゃあ、10パーセントくらい?」
‥‥ぜんぜん。
「え? じゃあ、5パーセント」
‥‥いやいや。
「3? 2? 1?」
‥‥ロケットの発射じゃないんだから。
「もっと少ないの?」
‥‥答えは、0.04パーセント。
「え、うっそー⁈」
‥‥嘘じゃない。よく使われる「ppm(parts per million)」という単位は百万分率のことで、400ppmを百分率に換算し直すとそうなっちゃうんだよ。200ppmが400ppmに増えたからさあ大変と言っているわけだけど、それはそう見える時期を恣意的に切り取って言っているだけであって、ロングレンジで見れば地球の炭酸ガス濃度はむしろ減っているし、気温だって逆に寒冷化に向かっているのだよ。
「そんな話、初めて聞きました」
‥‥ちゃんと言っている人もいるんだけれど、「沸く珍」の話と同じで、真実の情報はみんな掻き消されてしまうんだ。そして、そういうトリックを使って、嘘の話を針小棒大に聞かされ、上から下までが地球温暖化と温室効果ガスというフィクションをみ〜んなで信じ切っているというわけさ。
「‥‥(絶句)」
でも、植物が光合成をするときに必要なガスが何かは知ってるよね?
「二酸化炭素」
‥‥そう。だとすると、炭酸ガスを抑制したらどうなる?
「えーと、光合成のための材料が減る」
‥‥うん。だから、食物が育たなくなり、食物が育たなくなると草食動物が減り、草食動物が減ると肉食動物が減る。ということで、人類がめでたく食糧危機へと向かう。
「ええーッ、そんな、バカな⁈」
‥‥バカなって、でもそのトリックの実体というものを、今度の「沸く珍禍」によって、もう充分に経験したのじゃないのかな? え、まだ経験し足りないのォ? 困った人たちだね。こりゃ人類破滅にまで行くしかないかな。
結局、全部が同じなのだよ。すべてがマッチポンプなのさ。このことは前にも何度か言ったけれど、戦争を起こしている奴らが平和を叫び、環境を破壊している奴らが環境保護を訴え、エネルギー危機を創り出している奴らがエネルギー転換を煽り、自然農法を破壊している奴らが食糧危機で脅し、病気を作り出している奴らが新たな治療法と称するものを普及させ、子どもを殺している奴らが子どもたちの保護育成を謳っているのだよ。
地獄への道は、善意で舗装されている。
「アフリカの子どもたちを救おう」と集められたお金が「毒沸く珍」開発の人体実験に使われて子どもたちを殺し、「ウクライナに義援金を」と集められたお金がネオナチに渡ってウクライナの若者たちを戦死させているのだよ。
これが、上から下まで、全部一斉に行われていく、というところが肝(キモ)だ。なぜ、全部一斉に動くの? いや、動かされるのさ? マスクだ、社会的距離だ、沸く珍だ、というと、それが瞬く間に全部一斉に広がっていく。しかも、それを「良いこと」だとして。ここが、地球人類というものの摩訶不思議な世界だよ。あなたはどう考える? 地球人類のこの不思議な特性を? 一体どこに原因があるのだろうかと‥‥。
しかし、起きてしまったことはもう取り返しがつかない。だから、生き残った人たちは、今度の、そしてこれからの試練をプラスに考えることが肝心だ。当初から言ってきたように、これは「大惨事世界大染」だったのだよ。「打て」は「撃てー」ということで、生物兵器を使った戦争だったわけだ。そのことに気がつく人々は、残念ながら少なかったけれど、もし「学び」があるとすれば、まさしくそれが「戦争」の構図そのものを映していたという部分だ。
「敵」の脅威に備え「敵」を殲滅する、と言いながら、実際には、アメリカ人がアメリカ人を殺し、ユダヤ人がユダヤ人を殺し、ヨーロッパ人がヨーロッパ人を殺し、ウクライナ人がウクライナ人を殺し、中国人が中国人を殺し、韓国人が韓国人を殺し、日本人が日本人を殺している。
同じく、「沸く珍」の積極推進で、公明党が創価学会員を殺している。み〜んな一緒。これが「戦争」というものの本質なのです。
泣いた女がバカなのか、騙した男が悪いのか。どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙して欲しかった。
宇宙からこれを見ると、地球人が地球人を熱心に殺戮している。しかも、市民たちは、自分たちを間引きするお金を、自ら拠出させられているのです。へんなの? あ〜らあらあら、地球人類の摩訶不思議。今度も岸田が言ったでしょ。「戦争に備えて増税だ」
この、人類の行動があまりにも変なので、それを「悪魔崇拝」を行っている連中の狂った所業、ということにぜんぶ帰趨してしまおうという人たちがいます。確かに、その構図は分かりやすいし、気持ちの整理もつけやすい。しかし、そう思っている限りは、地球人の進歩はこの先もありませぬぞ。
この図式は、キリスト教に影響された二元論に基づくものです。片方に「悪魔」や「闇」や「不義」を設定し、これを「天使」や「光」や「正義」が駆逐するという物語。それが、欧米人が好むヒーローものの基盤となっています。確かに、形の上ではそう見える場面もあります。でもそれは、決して本質を捉えたものではありません。キリスト教徒たちは、他ならぬ、キリスト教聖典群の最後を飾る『ヨハネの黙示録』に、こう記述されてあるのを忘れてしまったのでしょうか?
わたしは、天に、これからの出来事を暗示するもう一つの大きな徴を見た。最後の七つの災害を地上に下す任務が七人の天使に与えられ、ついに神の怒りが頂点に達するのである。(15-1)
そのときわたしは、底なし穴の鍵と巨きな鎖を手にした一人の天使が、天から降りてくるのを見た。(20-1)
第五の天使がトランペットを吹き鳴らすと、わたしは一つの星が天から地上に落ちてくるのを見た。この星に、底なし穴を開くための鍵が与えられた。(9-1)
一人の力強い天使が、大きな挽臼のような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った。「大いなる都バビロンはこの石のように投げ捨てられ、もはや永久に見ることができない」(18-21)
よいですか。最後の七つの災害を地上に下すのは、「悪魔」ではなくて「天使」なのですよ。そして、第五の天使がトランペットを吹くと(つまりTrumpのPetになった人に証言をさせると)、底なし穴の鍵が開く(=隠されて来た秘密が暴露される)となっているのです。こうして、この地上からバビロンが永遠に姿を消す。
災害を与えるのは、あくまで(ここシャレね)「天使」だということ。その意味が解らない限り、人類の進歩はない。今回も、前と同じことの繰り返しで終わってしまう。
この惑星に住む人々の考え方と行動は、あまりにも奇妙なので、どこにその原因を求めたらよいのか解らなくなってしまうでしょうが、地上を遠く離れて、宇宙から眺めてみればその理由というものがよく解るのです。その一つは、地球が「監獄惑星」であるということ。物質界という監獄に入れられた(それは罰ということではなくて、自ら望んで入った)「魂」たちが集う惑星であるということ。よって二つめに、霊的な発達度合いがみなまだ幼稚園レベルにあるということです。
そして、「監獄」の中では、最も悪質な牢名主が権力を握り、他の人間たちをこれまで奴隷・家畜として支配してきたということです。このバビロンの歴史がここでとうとう終わるのです。
さてそこで、この機会に、地球人類が二段階の飛躍(Ascention)を遂げるためには、どうであらねばならないのでしょうか。先ずは、同じ土俵での戦いを止めるということです。「正義」が「悪」に勝利する。それは一見、もっともらしいロジックに思えます。しかしそれは、地上の理屈であって、「宇宙(神)」の論理ではありません。「神」を語って、長年人々をたぶらかして来た宗教のドグマのインチキが、これから明らかにされて行きます。
地上のその「悪」とやらを生み出したものは何者なのでしょうか? 一部の人が声高に主張しているように「悪魔」なのでしょうか? もしそれが本当だとすれば、「悪魔」を生み出したものは何者なのでしょうか? みな一者です。つまりは創造神です。神が「善」も「悪」も生み出し、実際にそれを許容しているのです。許容しているからこそ、地上に「悪」がはびこっているのです。また同時に、宇宙には「罪」も「罰」もないということが証明されているのです。
あなた方は、今度の「沸く珍禍」を通して、人々の「集合意識」が、今の世界を形作っているということを充分に経験したはずです。ただの「恐怖感」がこの災厄を創ったのです。そこには、「恐怖感」を人々に植え付けてコントロールしようとする者と、それに加担して一儲けを企む者と、意味も解らずにただ従っている者と、「恐怖感」に同調して自分を破滅させてしまう者とがいて、みんなで役割分担をしながら、スクリーンにこの地獄絵図を描いているのです。
「悪魔崇拝」の儀式を面白がる輩はいます。他人を騙してコントロールすることに使命や生きがいを感じている人間もいます。調子のいい嘘をついて、他者の生命や財産を奪うことに無上の喜びを感じている人間もいます。だって、そういう人たちのために用意された惑星なんだもの。でもそこで、そんな奴らがいたって、その人たちに同調しなければいいだけの話。
それなのに、なぜ多くの人が同調してしまうのでしょうか? それは、自分の中にも「同じ波長」が隠れているからです。それが刺激によって呼び起こされ、「同調」に至る。ああ、どうちよう。そうでない限りは、いくら圧力を受けたとしても「同調」は起きません。
その「うっかり」の集合エネルギーが「魔」ということなのです。サッと「魔」が刺した瞬間に、その人は地獄に転落する。地獄とは、今のこの地上世界のこと。そこに、一人ひとりが気づかなければ、地上世界を天国に変えることはできません。今は、その「気づき」の大チャンスが訪れているということです。ですから、この大破壊の期間をどう過ごすかは、社会的問題である以上に、個人の修養の問題になっているのです。
あなた方は、この先に天国を築いていくための礎です。そのことを自覚しなさい。あなた方が先行して、己の浄化と目覚めを進めることによって、やがてそれが周囲の人たちにも伝播して行くのです。
12人が144人になり、144人が144,000人になった時、大きなうねりが起こります。そして、数世代を経て、地球にもいよいよ理想世界が出現する。
外に「旗」を求めるな。信じる者は救われない。ただ、内なる理想を「旗」とせよ。「神」は常にわが内におわすのです。
その理想を思い描いて頑張りなさい。捨て駒となって他の人々に尽くしなさい。
そのようなあなたを、「神」が見捨てることはありません。
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本書は、「虹の学校」のエクササイズの柱である「瞑想法」に関して、その科学的理論背景と実践方法とを、合わせて学習用テキストとして新たに書き下ろしたものです。
「瞑想」と言われても何をどうしたらいいか分からないという方や、過去に坐禅に取り組んでみたものの挫折してしまったという方々にお読みいただきたく、「瞑想」のABC〜Zまでを懇切丁寧に解説をいたしました。
これまでの先入観を打ち破る視点から「瞑想」を捉え直しており、夜明けの時代をこれから生きる人々にとって、本書が画期的なツールになるものと確信しております。1月10日のブログに記載しました「遺伝子の修復」の手段は、実はこの「瞑想」ということになるのです。
本書をぜひ座右に置いていただき、日々のエクササイズにご活用願えれば幸いです。
この書籍に関する詳しいご案内はこちら▶をご覧ください。
ところが、元気だった知り合いが「沸く珍」接種後に体調を崩して死んだとか、芸能人や有名人が急死したという情報を耳にして、さすがに「これはおかしい」と思う人も増えてきたようです。さらには「副反応」と称する症状が自分にも現れてきて、慌てて病院に駆け込むという人たちで病床はどこも満杯のようです。しかし、今なお「情報格差」の問題は歴然とあり、征府や魔巣込みや威者を信じ切っている人たちがいる。可哀想だけれどどうしようもありません。
私も、毎日毎日どうしたらこの地獄絵図を事前に食い止められたのだろうと考え続けているのですが、決定打が浮かんできません。「沸く珍」を打たなきゃ死ぬと思っている人と、「沸く珍」を打ったら死ぬと思っている人とが真っ向対立していたのですからね。しかも前者のほうが圧倒的多数だったわけで、非接種者が罵倒されたりネットから発言が締め出されるという状況も起こりました。いったい誰が、またどのようにすれば、それを変えられたでしょうか?
世界の惨状は、まだ姿を見せ始めたばかり。でもこれは、始まりではなく、「結果」なのですよ。そこをよ〜く理解しなくちゃいけない。「結果」の世界をいま見ているのであって、そこに至るまでのプロセスはすでに決着しているのです。簡単に言えば、ああしたから、こうなったということです。ですから、一からやり直すということはもう出来ません。それまでの生き方が、結果として出ているのです。個人としての、家族としての、日本人としての、地球人としての。
こうなった以上は、「結果」を潔く受けいれて、そこから何を学べるかという「創造」へと、早めに意識を切り替えていくべきです。
世間というものは、つねに目の前のことに追われて、ただ転がっていくだけですから、それと付き合っていても時間のムダです。そうではなく、裏に隠れた因果律を発見してください。「ああしたから、こうなった」の関係と意味を学んで、反省すべきところを反省すれば、この未曾有の「大惨事世界大染」も、自分の霊的成長のためにしっかりと活かすことが出来るのです。また、そうでなくてはいけません。
おそらく、あなたはもう解っておられるでしょう。少なくとも、今という時代が、「時代の転換期」などというありきたりな言葉ではとても括れないほどの、まるで天地がひっくり返るような、宇宙でも極めて稀な大変革期にあるということを。その「直感」を、きっと持っておられることでしょう。そこに、さらに因果律を見い出せれば、〈今ほど解りやすい時代はない〉ということにも、あなたならきっと気づけるはずです。
イーロン・マスク氏が、2022年10月27日に Twitter の買収を完了してからというもの、これまでに計10回にわたる内部情報の公開が行われました。そして遂に、File10では Covid19 に関する検閲の実態が暴露されました。
マスク氏はいつも洒落っ気のある発言をする人で、Twitter 社の買収直後にはシンク(流し台)を抱えて本社に乗り込む映像とともにこう短くツイートしました。「Entering Twitter HQ – let that sink in!」。〈Twitter 本社に入った。さあ、あれを流して出してやるぞ!〉という感じでしょうか? 「sink」と「think」が掛け言葉になっていて、〈(何を流すかは、これから)じっくり考えるぞ!〉とも言っているのです。結果として、内部情報の暴露と、不正に関わった社員の大量解雇をすぐさま実施しました。
これでもう DS は絶対絶命です。最後の最後は、やはり「真実」が決するのです。Twitter File の公開で、これまで「陰謀論(Conspiracy Theory)」とさんざん言われてきたことが、本当のことだったのだと、多くの人が気づかされることになりました。もちろん、こんなことはマスコミは報道をしませんし、その事実が示すところの奥深い意味について、演繹する人もほとんどいません。
しかしここで、変だとは思いませんか? これまででしたら、今回マスク氏が行ったような暴露は、それに着手しようとする時点で事前に察知され、マスク氏の命はとっくのとうに無くなっているはずです。ところが、そんなことは起きていません。実は、DS の上位層の平定はすでに完了していて、特に悪質な人物については、処刑も済んでいるという話があるのです。どんな人物が、いつ処刑されてしまったかについては、詳しいリストも上がっています。
ですから、私たちがいま見せられているのは、DS の茶番を上回る「猿芝居」だというのです。まったくもって仰天するような話ですが、もしもそれが事実だとすると、様々な疑問点に関する辻褄がすべて合うのです。今のジョー・バイデンの顔が本物とは明らかに違うことも、ワシントンDC がもぬけの殻で、バイデンがカルフォルニアにある映画セットのホワイトハウス内で喋っているということも。その他あれも、これも。
なぜそんなことが行われているかと言うと、一つには DS の残党たちを隅から隅までそっくり炙り出すためなんだと。そこで、役者を使って重要人物を演じさせ、彼らがまだ生きていると思わせて、着いてくる手下連中にはしたいようにさせ、いったんそれらをぜんぶ表にさらけ出させる。二つめには、その結果というものが、あまりにもデタラメかつ杜撰であることに民衆が呆れ果てることによって、権力構造の二重システム(つまり、表には現れない闇の政府=DSの存在)に目覚めさせることを狙っている、というのです。
これまでの歴史を考えれば、「闇」の支配構造はあまりにも長きに渡り、深く、巧妙に、また広範囲に広がっていましたので、この完全な洗脳下にある人々の意識を変えることは非常に大変です。目覚めには格差があるのですから、事を焦ったら、下手をすると内戦状態になってしまいます。そこで、上からいきなり変えるのではなく(実際は変えているのですが、そこは猿芝居を打って)、民衆が覚醒するタイミングを待つ、というオペレーション(作戦)を実行したというのです。
誰が? トランプ元大統領がです。ですから、私たちは今、「トランプ劇場」という映画を観せられているということらしいのです。
そう思って日本の政治状況を見ますと、岸田首相がまさにそのシナリオの上に乗って転がされていることがよく解るのです。
インフレで庶民が困っている時に、なぜ急に、増税して軍備を増強するなどと言い出したのでしょうか? ウクライナがネオナチの巣窟で、生物兵器開発の拠点であることも明らかになっているのに、なぜ肩入れをやめないのでしょうか? 311の大被害を経験したというのに、原発の稼働年数を延長するなどとなぜ言い出したのでしょうか? 「沸く珍」の嘘とデタラメがバレて、世界中で接種を止める動きが広がっているのに、日本だけはなぜビル・ゲイツの言いなりを続けて、大変な被害者を出しているのでしょうか?
どれもこれも、いかに無能で政治センスがないかを、さらけ出しているではありませんか。そこに「A」の暗殺芝居を契機とする統一教会汚染の暴露と五輪汚職の裏側の暴露、さらに閣僚の辞任ドミノが重なっている。後者の事態は、明らかに政権潰しを意図して展開をしているのに、前者の岸田首相の行動は DS のポチそのものを無分別に継続しています。すべてが公になった時に、「なるほど、そういう訳だったのか」と、非常に分かりやすい構図を描かされている。
現在のアメリカは軍政に移行していて、そのトップは依然としてトランプ前大統領なのだという話です。日本は無法の国ですが、アメリカは法が第一の国。トランプ前大統領は、2019年末には軍政への移行プロセスに着手していて、今のバイデンは、替え玉の役者が認知症のアホを演じさせられているのだと。そして驚くべきことに、軍を擁したこの「トランプ劇場」のオペレーションは、2016年にトランプさんが大統領に就任した直後から、すでに始まっていたというのです。逆に言うと、軍が、トランプさんを大統領に押し上げた。
そして、大統領に就任すると、トランプさんは直ちに各国歴訪の旅に出ました。サウジアラビア、イスラエル、EU、イギリス、フランス、バチカン、ロシア、アフガニスタン、北朝鮮、韓国、日本、中国など、主要なプレイヤーのところを矢継ぎ早に回って行った。特に北朝鮮の訪問には驚かされました。私もこの時には「何をしているのだろう?」と思っていたのですが、すでにこの時点で、カタを付け終わっていたというのです。つまり、大統領就任直後の各国歴訪は、DS を屈服させるための旅だったというのです。
ですから、それ以降は、「トランプ劇場」の手の内で、各国首脳全員が動かされていたと、どうやらそういうことらしいのです。どうりで、2020年の大統領選の不正の時にもトランプさんは大騒ぎをしませんでしたし、それ以降も余裕しゃくしゃくで対処しているように見えたわけです。1月6日委員会とか、Twitter アカウントの永久凍結とか、相手の好きなようにさせていましたが、実は首根っこはきっちりと押さえていたというわけです。
しかし、どのようにすれば、そんなことが出来たのだろうと思っていましたら、盲点を突く情報に出逢って納得しました。NSA という情報機関に勤めていたエドワード・スノーデン氏が、内部資料を密かに持ち出し、政府と大手ビッグテックが結託して、国民が交わす通信情報をすべて収集分析し、監視下に置いていたという実態を暴露した事件がありましたよね。その同じシステムを使って、反対に DS の連中の通信内容をすべて傍受していたというのです。
トランプ大統領は、そのネタを各首脳に突きつけて、全部知っているぞと。これをバラされたくなかったら言うことをきけと、迫ったらしいのです。そして、言うことを聞かない奴は逮捕されてグァンタナモ収容所送りとなり、替え玉(Body Double)と取っ替えられてしまったのだと。以降は、その役者が◯○役を演じているのだというのです。
これで、トランプさんがシンゾーと仲のよいフリをしていた理由も、統一教会系の団体にビデオメッセージを送っていた理由も、マイク・ペンスを副大統領に置いていた理由も、Dr.ファウチをそのままの役職につけていた理由も、すべて合点がいきました。RINOのケビン・マッカーシーを下院議長に推した理由も、これで理解できます。味方を近くに、敵はより近くに置く、というのがトランプさんの戦略。その全部が、来たるべき時を睨んだ囮作戦だったというわけです。
となると「A」の暗殺劇の真相も見えてきます。2020年9月に桜田議員がうっかり漏らしてしまったように、やはりこの時すでに「A」は急死していたのでしょう。2019年10月、日米貿易協定の署名式に立ち会ったトランプ大統領が「良き友人のABE総理、誕生日おめでとう。彼はきょう39歳になったんだ」と、記者を前にして謎の発言をしたことがありました。当時は単なるジョークだろうとされていたのですが、おそらくそれは「A」がトランプさんと接触した39回目という意味だったのではないかと思います。(会談と電話を合わせ)
2016年の米大統領選でトランプさんが勝利すると、それまでヒラリー支持を謳っていた「A」が、各国首脳の中で真っ先にトランプ詣でに出掛けました。その時には何たる節操のなさかと思ったのですが、そうではなく、世界中で真っ先に呼びつけられて、数々の不正の証拠を突きつけられ、Reborn を迫られたのだと思います。その結果、「A」はすぐにトランプさんの軍門に下ったと。
そして、そこからはトランペットに生まれ変わり、「良き友人」として「トランプ劇場」の大根役者となった。ということで、「39歳」には、「生まれ変わってから39回目の出会いになったよね、シンゾー」という意味がそこに込められていたのではないでしょうか。
ところが、その後「A」が急死してしまい、そのあとは影武者が「A」役を演じるようにさせていたと。けれども、囮作戦のシナリオを次に進める時期がやって来たので、用済みの「A」を終了させることにし、暗殺劇をきっかけにして「統一教会」という切り札をここで出してきたのではないか。と、そのように想像されるのです。
以前にも書きましたが、「統一教会」のことなど、知っている人はみなとっくに知っていたことです。それなのに、岸信介以来、半世紀以上も封印してきたタブー中のタブーを、なぜ今になってマスコミが公けにしたのか? 世界中のマスコミが DS の傘下にあるのですから、自分たちを追い詰める情報をわざわざ流すわけがありません。これは、上が変わったということです。つまり、囮作戦がメディアの支配権にも及ぶようになったということです。
このようにして、私たちは、一見両方の勢力(よく言うホワイトハットとブラックハット)のせめぎ合いが進行しているような姿を見せられながら、実は最上層の掃除はすでに完了していて、あとは残党の炙り出しと、人々の第一段階めの目覚め(自分たちが、DS に操られていたという事実を知ること)を促されている状態にあるというわけです。
ということで、ターボが掛かっているのは、何も癌だけではないのです。いま言った「目覚め」にも、急激なターボ(Turbo Awakening)が掛かっている。3年前には「なんだ陰謀論かよ」と嘲笑されていたことが、今では大っぴらに語れるようになっただけではなく、「沸く珍」と「ウクライナ戦争」の背後にある【闇】を知って、「陰謀論」というのは本当のことだったんだと、世界中の人たちが同時に覚醒し始めた。まさしく、これは「地球の大変革」です。
ただし、人々の興味は、悪魔儀式とか、小児性愛とか、アドレノクロムとか、ケムトレイルとか、もっぱら【闇】の奇行にばかり眼が向かっていて、そこから【表】へとつながる、【影】から【裏】の部分というものをあまり知りません。ですから、統一教会のさらに奥の国際勝共連合のことも、CSISのことも、笹川USAのことも、田布施システムのことも、世界経済フォーラムのこともほとんど知りません。そこがすっぽり脱け落ちて、ミッシング・リンクになっちゃっている。
まあそれは仕方のないことで、【闇】の存在に気づいただけでも今は良しとしなければなりません。がしかし、本当を言えば、【闇】と【裏】のあいだには、もう一段の【影】があり、【闇】→【影】→【裏】→【表】へと、段階的に操られていっているという「構造」に気がつかなければならない。そしてさらに、各段階の奥には【魔】がぜんぶ控えているということにも。
人々は、【魔】を、もっぱら【闇】が崇拝する対象と位置づけています。あいつらは悪魔教を信じているから、そんな狂気の沙汰が平気でできるんだと。そして、そう位置づけることによって、ホワイトハット側の「正義」への共感を訴える人がやたら居られる。確かに、そうでも思わなければ「人類削減計画」などという狂気はとうてい理解できません。その気持ちは解りますが、もう一歩先を見てほしいのです。
何事も、「同調」が行動を決めているのです。「同調」のないところに「縁」は決して生まれません。【闇】→【影】→【裏】→【表】へと、支配の構造が広がっていくのは、「同調」の連鎖というものがそこに出現するからなのです。そこにこそ、本当の【魔】が存在する。この【魔】に気づかない限り、人類は、今後も同じことを繰り返すことになってしまうでしょう。悪い奴らに、ついていく小狡い奴らがいて、こいつらにまた騙される人たちがいる。それは全部、「同調」から起きているのです。
「目覚め」というのは、支配に気づくことだけでなく、自分の中にもある「悪」や「邪」に気づくことなのです。それがない限り、第一段階の「目覚め」を本当に通過したことにはならない。征事家やお厄人の言動を見てごらんなさい。旗色が悪くなった途端、自己弁護にみんな終始しているじゃありませんか。手のひら返しに知らんぷり。そしてあいつのせい。今だけ、金だけ、自分だけでやって来た人たちは、最後は必ずああなってしまいます。
彼らには、もっともっとそれを演じていただきましょう。そうすれば、「こんなアホどもに騙されていたのか⁈」と気づく人たちがそれだけ多くなります。そして、「わても、アホやったなぁ」と。
「あの人は本物ですか?」とか「どうしたら嘘を見抜けるようになりますか?」と訊かれることがあります。用心して、疑い深い眼で相手を見るようにしたところで、「嘘」は見抜けません。それでは、単に自分の猜疑心を相手に投射しただけになってしまいます。そうではなくて、「嘘」を見破るのには、自分を見るのです。
「自分を見る? 相手じゃなくて?」
そうです。自分を見れば、相手の「嘘」が見抜けるのです。これには、以前に話した「鑑照者」の手法を使います。誰かが言っていることに、その時点で共感や共鳴を覚えたとしましょう。さて、その共感や共鳴は、自分の中のどんな「意識」を動かしたのでしょうか? そこを見つめるのです。それは、恐怖や怒りや憎悪といった「感情」なのか、信念やこうあるべきという「思考」なのか、それとも興奮という「本能」だったのか。つまり、自分の「同調」が起きた理由を探し出すのです。
理由がどうであるにせよ、その「同調」は、その人が自分で、自分の内に拵えたものです。それが共感や共鳴の正体です。形の上では、相手の言ったことに共感や共鳴を覚えたと捉えていますが、自分の中に似たものが湧いて来たからこそ、また元々そういう性質があったからこそ、そこに「同調」現象というものが起きたのです。ですから、自分の中に湧いて来たものを、「鑑照者」の視点から眺めて見れば、「嘘」はすぐに見抜けるのです。
要は、自分に「嘘」をついていないかどうかを、意識を拡張して、ボーッとした感覚の中でチェックして見ればいいわけです。そこで、これまで一貫して「正直に、誠実に」と言ってきたのです。あなたが、つねに正直で、誠実であれば、自分に「嘘」をつくということは出来ません。そうすれば、あなたの周囲には、正直で誠実な波動を持つ人以外は近寄って来られなくなるのです。結果として、騙されることなど無くなります。
ところが、ほとんどの人は、そんなふうには考えたこともありませんし、実際にしません。いつも感情、思考、本能ばかりを動かしていて、その揺れ動く心に、自分自身で翻弄されているのです。打たなければ死ぬ、打てば死ぬ、という違いを決定づけたものは何でしょうか? 決して知識だけではありません。どの意識を働かせているかという、その人の中の「縦の相克」なのです。
それにしても、なぜこれほど多くの人が、恐怖によって簡単に操られてしまったのでしょうか。なぜ「鑑照者」という別の意識を立てる術を知らないのでしょうか。また、どうして、自分の中の「縦の相克」に気づかずに、いつまで経っても、保守だリベラルだとか、共産主義がどうとか、嫌中・嫌韓とか、左右の争い事ばかりに翻弄されているのでしょうか。結局それも、自分の中に「旗」と「杖」を立てなければ気が済まないという、被洗脳願望から生じているのです。
詐欲でも憂欲でもなく、みんな仲良く、ですぞ。
宇宙から見ますと、このことはもの凄く不思議に思えます。地球人は、口では自由を叫びますが、決して本当の自由を求めようとはしない。自ら、支配され、拘束されることのほうを希求するのです。今度の「Turbo Awakening」のいちばん重要なポイントはそこです。いま進みつつある「地球の大変革」に際して、地球人類が、はたして被支配願望から脱することが出来るのかが、この先の大きなテーマなのです。
それは、具体的に言えばどういうことなのか?
実は、今回のコロナ騒動が起きた初期に、その理由をほのめかしておいたのですが、覚えている方はおられるでしょうか? 「mRNA」の新型ワクチンと称するものが登場したとき、私はすぐにピン!と来たのです。「なるほど、そう来たか」と。それはまさに、「人類のカルマ」の清算の時が来たことを示していました。なぜならば、今に通じる地球の人類は、遠い古代に、地球にやってきた悪い宇宙人の遺伝子操作によって奴隷として創造されたものだったからです。
この経緯については、岡本せつ子さんの『アセンション 宇宙からのメッセージ』の本の中に書かれてあります。遺伝子操作によって造ったものだから、増えすぎた家畜は、再び遺伝子操作によって消滅させる。戦争で9割もの削減は無理です。ですから、今いる人間をできるだけ多く殺処分するとともに、将来の生殖機能も奪ってしまうことで達成させようとした。そこで、子どもと妊婦も、積極的にターゲットにしたのです。
そして、生き残った1割の人間には、何の所有も認めず、昆虫の餌を与えて飼育し、マイクロチップを埋め込んで(マイナンバー)管理する。
でも大丈夫。
「The Great Reset」は、土俵際でうっちゃりされることになりますから。
多くの犠牲者が出てしまうのは辛いことだけれど、これは形を変えた「戦争」ですからね。太平洋戦争の時と何も変わってはいない。日本政府が自国民を殺しているのです。
このナラティブ(物語)に、各国政府、自治体、メディア、医者、企業、学校、軍隊、その他諸々がぜんぶ従っているのです。「そんなバカなぁ⁈」と思うでしょう。でもそれが実際に行われている。なぜなのか? 人間というものは、そもそも家畜・奴隷として造られ、当初からご主人様を敬い、従うという性質を遺伝子的に持たされている。ですから、簡単に「洗脳」されてしまうし、「自由」よりも「旗」というリード、「杖」というハーネスを欲しがるのです。
その根本理由は、宇宙人が行った遺伝子操作によって、第6感以上とつながるセンサーを、人間が切断されてしまったことにあると。ですから、この切断された感覚を修復しなければならないのだと。このことも、『アセンション 宇宙からのメッセージ』の本の中に書かれてあります。ということで、いよいよその時期が到来したということなのです。ではその修復は、どうすれば可能となるのか? これについては、また別の機会に検討することにいたしましょう。
今年は、足元を根底から揺さぶられる事態が進行します。勤め先の倒産や廃業、失業を覚悟しなければならない人も大勢出てくることでしょう。また、生物兵器の「毒沸く珍」が本格的に効き始め、多くの人が命を落としたり、重篤な病魔に侵されるようになります。しかし、冒頭に書いたように、これは「結果」が起きているということです。ですから、そのことを受け留めた上で、どう対処し生きていくかを模索していくことが大切です。
たとえどんな事態になろうとも、先ずは心が折れないようにすることが肝心。宇宙の実相は諸行無常にあります。変化しないものはありません。最初から何も持たなければ、失うものはありません。心が折れないようにさえしていれば、どんな状況に遭っても、その中から必ず学びが得られるのです。そこを、こちらからアクティブに経験しましょう。
もしも、不測の事態に遭って困ったら、友人に助けを求めましょう。苦しいときにはお互いに助け合いましょう。これまでのあなたが、どれほど正直で、誠実であったかが、これから問われることになります。
2023年を元気に生き切って、一緒に、未来に種を蒔きましょう。
11日、午前と午後の8:30に、『PEACE DOME』を造る瞑想を行います。
今年もよろしくお願いします。
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?その人の負の「カルマ」の発現として病気になる。→「魂」の問題
?「宇宙の法則」に逆らった考え方、生き方が病気をつくる。→「心」の問題
?身体のケア不足が病気をもたらす。→「体」の問題
しかしながら、現代の「健康」「病気」「医療」の概念には、このような視点も分類もありません。「病気」をすべてひっくるめて身体(肉体)の問題として捉え、そこに「人間機械論」を背景とした、物質的対応を施しているだけです。すなわち、故障した箇所は修理するか、それが出来なければ部品を取り替えればよい、動きの悪いところには潤滑油(薬剤)を刺せばよい、といった対応です。
けれども、人間は機械ではありませんから、このような考え方だけで「病気」が治るものではありませんし、日々の「健康」も図れないのです。家の造作に喩えれば、「魂」の問題は基礎部分に当たり、「心」の問題は柱や梁、「体」の問題は壁や屋根に相当します。基礎が傾いたり、柱が歪んだりしていときに、ひび割れが生じた壁をパテでいくら塞いでみても真の問題は解決しません。何年かすればまたひび割れが出てきてしまう、というのはしごく当然ではないでしょうか?
さてここで、もう一つの視点の転換にも触れておきましょう。前段で述べたように、現代人には、先ず自己を「多次元的存在(家の造作の喩えで示した三層)」であると捉える認識がありません。加えて、「病気」を「恩寵」だと捉える考え方もないのです。「病気」になるとみな、ただ「困った、困った」「辛い、苦しい」と言って、お医者さんや薬に頼ることばかりを考えています。
もう時代がそうですから致し方ない面もありますが、しかしそれでは二重の「苦痛」を自らで創り出してしまうことになります。
先ずは身体的な不調に対する「痛み」です。次には、その状態を「苦しい」と思う心です。
さて、後者の「心」は誰のものでしょうか? その人が、自分で創り出したものです。ですから、もしそれがなければ「苦」はありません。単に「痛み」を感じている自分がそこにいるというだけです。つまり、「痛」と「苦」を一緒くたにしないようにすることが肝心なのです。
決して「痛」=「苦」ではありません。これを切り離し、「痛」を眺める別の自分を用意すればよいのです。この方法を「観照者」を立てると言います。そして、その前提となるのが、自己が「多次元的存在」であることに気づくことなのです。すなわち、「身体」の自己を、「魂」の自己によって観察するように仕向けるのです。今はこれを「病気」を例に語っていますが、この「観照者」を立てる方法は、他のどんな場面においても有効です。
大多数の人は、ショックを受けるような事件に遭遇すると、今「起きたこと」と、それによって呼び起こされる自己の「感情」を、瞬時に一緒くたにして捉えてしまいます。しかし、「起きたこと」は単に「起きたこと」であり、それをどう捉えるかはその人の「自由」意志に任されているのです。このことが理解できれば、それ以降の、その人の人生はまったく違ったものになっていきます。
いま私が行っている活動を『虹の学校』と称しているのは、みなさんの人生そのものが〈「虹の階梯」を上昇していくための学校になっているんだよ〉という意味であり、『虹の学校』という教育の場がここにあると主張しているわけではありません。ですから、『虹の学校』と名乗ってはいても、校舎もなければ、組織もありませんし、先生も生徒もなく、入学試験も進級試験もなく、ルールもなく、権威もなく(^_^;)、卒業もなく、ただただ「魂」の「自由」を謳っているのです。
みなさんの本籍地は、地上ではありません。みなさんの本体は「魂」であり、その本籍地は霊界にあります。今世、みなさんが地上に誕生してきたのは、この「地球」という物質界の場で、ここでしか味わえない体験学習をするためです。そして、その体験学習を通じて、少しずつ霊性を向上させていく旅を今しているのです。
そのことに、もしもハッキリと自覚が生じたなら、地上でする体験は、たとえどんなに辛いものであっても、すべてが自分へのギフトであるということが解るようになります。そして、生きる不安は消え去り、怒りも憎しみもなくなり、ただただ感謝と幸福感に満たされるようになるのです。同じ理由から、「病気」もまた「恩寵」であることに気づけるようになります。なぜなら、自分のいま学習すべき課題を「病気」が教えてくれているのですから。
ここで、以前にも話したように、分かれ道が生じます。?修正すべき課題に気づき、反省して、そこから生まれ変わって病気を克服する。?病気で死ぬというプロセスを通じて、引き換えに、今世の「魂」の課題を一つ学習する。?病気になっても、それが恩寵だとは気づけずに、「カルマ」を来世にまで持ち越しにする。あなたが、もしも病気になった時には、できれば?、最低でも?でありたいものです。
死は敗北ではありません。地上で体験する多くのカリキュラムの中の一つに過ぎないのです。ただ、今世のために用意された「身体」を手放すという劇的変化を、その過程において伴うというだけのことです。
「身体」は「魂」にとってこの世を生き切る乗り物です。物質界の海を渡るために用意した自分専用の舟なのです。この舟には、それぞれの「カルマ」に応じた特別の造作がなされています。つまり、一人ひとりの身体のあり方はみな異なる。けれども、身体を構成している細胞自身は、ただ「宇宙の法則」に従った生き方をしたいと願っているのです。ところが、冒頭に挙げた3つの要因が複雑に絡んで、この邪魔をしてしまうのです。結果として「病気」が生じるのです。
でも、「病気」になって反省し、身体細胞の願いをちゃんと聞いて、「宇宙エネルギー」の流れに素直に乗せてあげたとしたらどうなるでしょう? 細胞は、本来の生き方に戻ることになるのでとても喜びます。結果として、「病気」が癒やされることになります。この、身体細胞を宇宙エネルギーの流れに戻してあげる操作を人為的に行う手段が「波動療法」です。乱れた細胞の「波動」を、宇宙の「波動」に同調させることで、細胞本来の活力を復元させてやるのです。
医者も見放した重病が、「波動療法」によって治った際などには、しばしばこれが「奇跡」と呼ばれます。しかし、物質主義に陥った現代医療から見ると、それが「奇跡」に見えるというだけであって、人が「多次元的存在」であるという観点に立てば、しごく当たり前のことに過ぎないのです。
では、どうすればそれが可能となるのでしょうか?
「波動」の性質については、これまでにも何度か語ってきました。同じ波長を持ったもの同士は引き合い、共鳴して増幅するというものです。ですから、何らかの方法によって、宇宙の聖なる「波動」を病気を患っている方の全身に強力に送り込み、これと同調するよう導いてあげることが出来れば、病変した細胞が共鳴し、自己治癒力を発揮して自然に修復を図るようになります。
問題は、その方法です。これについては、レメディやアロマ、ストーン、水など各種の技法が云々されて来ましたが、水以外のものについては、私自身はこれまで大きなパフォーマンスを感じたということがありません。私の感想からすると、それらが出す「波動」は、あまりにも微弱すぎて身体にはほとんど影響を与えないように思えます。水は確実に気を通し、またエネルギーを溜める能力も秘めていますが、未だ研究中のためにハッキリしたことはまだ言えません。
それよりも、圧倒的なパワーを有しているのが「人間」です。おそらく、前記のものの100倍とか1000倍といったパワーを発しているのではないかと思われます。次いで、ある種の「場」も、強い「波動」を発しています。
この、人間や場が持つ「強さ」という側面は、「高い波動」についてのみ言えるわけではなく、「低い波動」についてもそれが言えるのです。むしろ、今の世の中は「低い波動」を発する人間と場に席巻されており、敏感くんにとっては非常に生きにくい時代となっています。つまり、「低さ」が「低さ」を惹きつけ、ますます増幅して、イライラ、ギスギス、他者攻撃、鬱、といった感情のもつれがもう止まらなくなっているのです。
このように、人間には「低い波動」を持つ人と「高い波動」を持つ人がいます。が、「高い波動」を有効に使えば、物などにはない圧倒的なパワーをもって人を癒すことが出来るのです。
しかしここで、最近のよくない風潮について苦言を呈しておきます。困っている人を助けてあげたい、弱っている人を癒してあげたい、その思い自体は善いことです。ところが、「波動」の何たるかも理解していないのに、「波動」という言葉を売り物にしたり、またカウンセリングやヒーリングのテクニックを教えると言って、「家元制度」をつくり段階的にお金を積ませて「御免状」を与えるといったことをやっておられる方が引きも切らずです。
どうしてそのようなことをするのでしょうか?
「御免状」など必要でしょうか? その「御免状」というものは、誰が与えた、どういう権威だと言うのでしょうか?
ただ、困っている人を助けてあげたい、弱っている人を癒してあげたい、ではダメなのでしょうか?
こうしたものは、その人の生き方、考え方ですので、とやかく言う筋合いのものではないのかも知れません。がしかし、根本的なことを言っておきます。人を癒す力は、テクニックにあるのではありません。いついかなる時であっても、それは「愛」の力なのです。今度の「沸く珍禍」で、そのことが浮き彫りにされたのをあなたも見たでしょう。「愛」のある善良な少数の医者と、「愛」のない、金で転ぶ、ただの威者がいるということを。
ヒーラーが出す全体のパワーを10とすれば、テクニックはせいぜい2割、愛のエネルギーが3割、そして残りの5割は天のお働きによるものです。ですから、人を癒すのはヒーラー自身ではありません。その人の「なんとか力になってあげたい」という純粋な「愛」の思いが、同種の「宇宙エネルギー」を引き寄せて、テクニックを介して相手側に注がれるのです。
ヒーラーはあくまでパイプ役であって、自分の力で誰かを癒せるというわけではないのです。治しているのは患者本人であり、それは「宇宙エネルギー」への同調によって起こるのです。本来であれば、それは誰でも出来ることなのですが、その方法を忘れてしまった人たちに代わって、ヒーラーが自分をコンデンサの役割にして回路を繋ぎ、援助するのです。しかし、はたから見ていますと、あたかもそのヒーラーが癒しを行なっているように見えるというわけです。
ですから、ヒーラーというものは、できる限り「自我」を滅して、自分を透明のパイプにしなければなりません。また同時に、自己の「魂」をただただ純粋さの中に置いて、高い次元とアクセスするようにしなければ、エネルギーの回路が生まれず、他者を癒すことは出来ません。このような理由から、いくらテクニックを学習しても、「愛」の波動がないところには、高次の「宇宙エネルギー」は降りて来ようがないのです。
それと、ヒーラーやカウンセラーを安易な気持ちで目指そうとする方たちに言っておきます。自分を「救って欲しい」と願う人の中には、もの凄く低い波動状態にある「魂」もおられます。また、いわゆる憑依の状態にある「魂」も少なくありません。ヒーラーやカウンセラーというものは、高い波動を相手に流して、ある意味中和するわけですから、反対側から言えば、低い波動を引き受けるということでもあるのです。
そのため、ヒーリングやカウンセリングを真剣に行なった場合には、大袈裟に言えば、自分の命を縮めるほどの疲労感を覚えることもある、ということは言っておきます。ですから、その覚悟のない人、それでも自分は他者の役に立ちたいんだという人以外は、安易にこの道を目指してはなりません。
ところが、皮肉なことに、エゴに駆られてヒーリングやカウンセリングをおやりになっている人には、いま言った心配がないのです。なぜなら、クライアントと同じ「波動」のレベルでエネルギーをやったり取ったりしているだけだからです。そのため、いわゆる「低い波動を受ける」という心配がありません。
けれども、その代わりに「宇宙の法則」を故意に誤用しているという報いは、いつかは受けることになります。
それと、「波動療法」を受ける側の問題点も指摘しておきます。施術を行うヒーラーが、純粋で高い波動を持つ人であった場合には、時として「奇跡」が起きます。しかし、その人の「病気」は、「カルマ」→「心グセ」→「行動パターン」→「結果としての病気」というメカニズムで生じているということを、いま一度思い出してみてください。そうしますと、たとえ「奇跡」が起きたとしても、本人がそのことに感謝し、それまでの生き方を改めるということがなければ、また「カルマ」の発動に戻ってしまうのです。
『ヒマラヤ聖者の生活探究』という本の中に、そのことが書かれています。聖者がある村を訪れた際に、病気に苦しむ村人たちが彼のもとに押し寄せて来て、治療を懇願したと。そこで聖者は、全員の病いを治してあげます。「奇跡」によって病いの消えた村人たちは、たいそう喜び聖者に感謝するのですが、しかし数日するとその念も消えてしまい、以前の好き放題の生活に戻って行ってしまったと。
そこに聖者の嘆きがあるわけですが、これはなかなか難しい問題ですね。もしも、相手の「魂」の成長を本当に願うのであれば、助けてあげないほうが、逆に助けになる場合もあるということを考えなくてはなりません。ヒーラーやカウンセラーになろうとする人は、そこまで見抜けなければならないということです。
最後に、最近話題の「Med Bed」について言及しておきましょう。「宇宙エネルギー」を、科学技術力を用いて取り出し、活用しようとする試みは半世紀以上前から行われてきました。
これには大きく二つの方向があり、一つは空中から無尽蔵のエネルギーを取り出そうという試みです。いわゆるフリーエネルギーです。もしもこれが実現化されれば、エネルギー問題が一挙に解決するだけでなく、政治体制から日常生活に至るまでが、きっと一変してしまうに違いありません。そしてもう一つが、「波動療法」への取り組みです。
しかしその両方ともが、新しいものが登場しては消え、また登場しては消えということを、これまで幾度となく繰り返して来ました。一説によると、これは「闇」のグループがそのつど邪魔をして来たからだと言われています。それらがもしも登場してしまうと、エネルギーと医療分野における絶対的支配権が脅かされてしまうだけでなく、「恐怖感」を煽ることによって操る民衆支配が出来なくなってしまうからです。
ところが、ここに来て急に「Med Bed」が実用化され、販売までが大っぴらになされるようになりました。これは今までになかったことで、これまでの縛りが解禁されたということは、裏側の権力構造に何らかの変化が生じたことを物語っていると思います。しかし効果については、世に出たばかりということもあって、私にはまだ何とも言えません。自分で実際に試してもいませんし、この手のものには眉唾ものも多いですし‥‥。
しかし、こうしたテクノロジーが実用化される可能性は大いにあります。仮に今度のムーブメントがそうでなかったとしても、いつかは両方ともが実現されるでしょう。ということで、いま出現している「Med Bed」についてどうこう申し上げることは致しませんが、「波動療法」が機器によって実現された場合の社会的影響について、考察しておきます。
先ず、もちろんのことながら、現在の医療システムは根底から覆されます。突発的な怪我や感染症、救急医療、以外の分野はほとんどが不要となってしまうことでしょう。というよりも、もともと意味が無かったということが、並行してバレて行ってしまいます。特に慢性疾患の類いは、「Med Bed」が普及すればみんな解決してしまいます。また「波動療法」の高いヒーリング効果から、精神疾患も改善されていくでしょう。
この結果、これまで莫大な利益を上げてきた製薬会社は市場を失い、縮小を余儀なくされます。そして、医療関係者の多くが失業するだけでなく、ヒーラーと称する人たちも実力のない人は機器に取って代わられてしまうでしょう。
しかし、「Med Bed」の使用でこうした治癒効果がたとえ実現されたとしても、前段で挙げた「カルマ」と「心グセ」の問題は、依然として未解決のままであるということにお気づきください。
ところが、
この機器を毎日使うということになると、話はかなり違ってきます。ネガティブな「カルマ」が、細胞に再び病変を起こそうとするスピードよりも、「Med Bed」による細胞修復のスピードのほうが追い越してしまうかも知れません。そうなると、もう病気の再発はありません。なんと、テクノロジーが、「愛」を凌駕してしまう事態となるのです。(@⩋⩋@)!
さらに、人間の「体」と「心」は、絶えず情報をフィードバックしていますので、「体」の不調がすっかり無くなれば、頑固な「心グセ」にだって変化が訪れるかも知れません。
ということで、『虹の学校』で推奨しているような、「瞑想」「呼吸法」「LEAF YOGA」に倦まず弛まずこつこつと勤しむという古典的な修行スタイルは、もう必要がなくなるかも知れません。
毎日「Med Bed」で眠るだけという(安易な?)方法で、アセンションが達成できるかも知れないのです!
ヤッタね! ズボラな人たちよ。(あなたのことではありません)
これは、とても興味深い点です。もしかしたら、それが新しい人類を創ることに繋がるのかも知れません。
]]>肉体に重なって、見えない「体」が同時に複数存在しています。
前回にはその解説をいたしました。しかしこれは、世間一般で信じられている常識とはあまりにも掛け離れた話であるために、非科学的とかトンデモ理論といった非難や嘲笑を受けるであろうことは覚悟のうえです。
ところが逆に、「身体の自分」のみが自分であるという〈思い込み〉は、なんとここ半世紀ほどの間に常識化されていったものに過ぎないのです。それ以前の人々には、古代から続く別の常識が広く浸透していました。
それは、「霊魂」の存在を認めるということです。だからこそ、「慰霊祭」や「鎮魂」の儀というものが各地で昔から執り行われて来たのです。けれども、そうしたものは今やすっかり形骸化してしまい、文字どおり「魂」を抜かれた儀礼でしかなくなっています。故人に対して行う「お葬式」ですらそうで、葬儀社に一切合切をお任せして、みなそれでよしとしています。
遺族たちは、みなそこに何か割り切れないものを感じているのですが、時代の流れに押し流されてしまって、どうにもならないのです。これらは結局のところ、「霊魂」という言葉は使っていても、その本当のところについては、葬儀社も僧侶も医者も誰も何も知らないという「無智」から起きています。
では昔の人たちがそれを知っていたのかというと、そうではありません。何となくそう信じていたものが、「物質主義」の隆盛によって簡単に駆逐されてしまった、というのが正直なところです。そしてみんなが「無智」なまま、スピリチュアル業界で「波動」という言葉だけがやたら横行し、その言葉にありがたみを感じる人たちが、互いに騙したり騙されたりということをやっているのです。
「波動」の理論そのものは真理ですが、こちら側にいて向こう側を語っているのと、向こう側に行ってそれを語っているのとでは、実のところ全然違うのです。こちら側にいて向こう側を語っている限り、それは「エセ科学」と呼ばれてしまいます。しかし、向こう側に行って、向こうからそれを語るのは「因の科学」という真理なのです。ですが、残念ながらその違いを理解できる人というのはほとんどおりません。
人間の「体」が多次元的である(複数の霊性密度に同時に存在している)ということがちゃんと解れば、当然ながら、「病気」「治療」「健康」に関する考え方もまるで違ってきてしまうのです。
先ず、肉体というものは、アストラル体を鋳型として、その内側に造られているのですから、その人のアストラル体を物質界に投射した結果が肉体となっているのです。このアストラル体は「魂」の下部*に当たり、どちらかというとネガティブな「カルマ」をそのチャクラに内包しています。その結果、肉体上にも、その人の「カルマ」を反映した気質や、体格や、歪みや、ウィークポイントが顕現するのです。
*「魂」の上部に当たるのがカラーナ体(英語で Causal Body、またそれを訳して原因身と言われる場合もある)
「カルマ」というと、普通、ネガティブな面だけが強調されています。が、「カルマ」にはポジティブな面もあります。アストラル体のさらに外側にある、カラーナ体上のチャクラにそれらが保存されています。人には、生まれつき得意な技や分野がありますが、これにはポジティブな「カルマ」が作用しています。モーツァルトは6歳で最初の作曲をしたと伝えられていますが、それは過去世で、すでにその素質を充分に磨いてきたからこそ成せる技*なのです。
*常人は、第4霊性密度に存在するアストラル体上のネガティブな「カルマ」に翻弄されながら生きていますが、まれに第5霊性密度に存在するカラーナ体のほうが優勢という人が現れます。この人たちは「常人」に対して「天才」と呼ばれます。
さて、人間の「身体」を成立させている条件には、大前提としてその人の「カルマ」というものが先にあり、その上で、なおかつ物質界への適応があるということを先ず理解してください。つまり、大きく2段階の考慮すべき「体」があるのです。非物質的な体と、物質的な体です。ですから、「病気」「治療」「健康」に関する考え方は、「宇宙の真理」から見た場合、この2つの体を共に考慮することが前提になるということです。
先ず、後者の物質界への適応にあたっては、人間も動物ですから、身体を動かすことと、エネルギーを補充することと、適宜ケアをすることが大切であるということが、容易に解るかと思います。しかしそれ以前に、個々の人間が生まれながらにして持つ「カルマ」をいかに克服するかということが、その人の「健康」にとって最も重要なことなのです。ところが、「物質主義」に陥った現代医療や健康概念は、そこがすっかり抜け落ちているわけです。
結局のところ、「原因身(カラーナ体)」のあり方から考え直していかなければ、真実の「健康」の意味と実践には到達できないということです。しかし人間は、そんなとこにはまったく考えが及びません。だからこそ、人間社会から「病気」というものがなくならないのです。
「カルマ」というものは、非常に強力な病気要因であって、一生かかってもなかなか克服ということができません。「カルマ、カルマ」とあまり騒ぐのも考えものですが、少なくとも注意を向けて生きるようにしたいものです。それは、あなたのためなのです。
さらに言いますと、その人の「カルマ」は、身体条件を決定する要因となるだけではなく、そもそもが「心グセ」より発したものですから、その人の今の「心」のありようが「健康」にも極めて大きく影響するのです。よく言われる「生活習慣病」というのは、「性格習慣病」なのです。つまり、克服できない「心グセ」が、同じパターンの Bad な行動を身体にもたらし、結果として病気を発症しているのです。
この「心グセ」と、今の「心」のありようからくる諸問題を、現代医学では単に「ストレス」という言葉で片づけているのですが、そんなレベルのものではありません。「カルマ」と「チャクラ」の部位と「心グセ」の関係というものは全部が密接につながっており、先ずこの関係を知ることが、真実の「治療」と「健康」への道を開くのです。
また、エネルギー補充に関しては、清浄な「食物エネルギー」を摂るということはもちろん重要ではあるのですが、身体が必要としているエネルギーは「食物」だけではありません。むしろそれよりも、「プラーナ」と呼ばれる宇宙エネルギーを、体いっぱいに摂り込むことのほうがはるかに重要です。これは、「根源的生命力(Vital Life Force)」から放出されているエネルギーで、これ無くしては、宇宙のどんな生命活動もないのです。
しかし、そのような知識が現代人にはまったくありませんので、もっぱら薬や健康食品といった「物質の摂取」にのみ注目が傾き、これにさらに金儲けが絡んで、不安を煽ってはこれらを売りつける、という異常事態に今やターボが掛かっているのです。こうした状況が3世代も続けば、人々は間違った知識によってすっかり洗脳されてしまい、もはやそれが常識化してしまいます。
けれども、はっきり言って、CMで言っているような単一の健康食品をいくら摂取したところで、ほとんど意味がありません。人体は精密な化学工場であり、あらゆる食物を分子レベルにまで分解し、いま自分に必要なものを再合成してしまいます。ですから、何を摂らなければいけないということはなく、身体の声をよく聞いて、その時々で身体が望むものを摂取していればそれで充分なのです。
身体の細胞は、天の摂理に従って生きたいのです。それが身体の細胞にとっての喜びだからです。ですから、その声をよく聞いて、自然に寄り添った無理のない生き方をしていたら、何の問題も発生しません。ところが人間は、身体ではなく、頭が望むものについ手を出してしまう。頭が「これを喰いたい、飲みたい」と思うものに夢中になって、それが過ぎて病気を自分で拵(こしら)えているのです。
このような、「カルマ」の結果として生じた「性格習慣病」を、現代科学は、薬という「物質」で治そうとしているわけですから、そんなものでよくなるわけがないじゃありませんか。4階のトイレで生じている水漏れを、3階のトイレにせっせと詰め物をして修理しようとしているようなものです。
「プラーナ」は呼吸とともに人体に入ってきます。そして、主に経絡を通じて全身の細胞に運ばれます。呼吸は、ふだん誰もが意識せずに行っていますが、それが全身の細胞の活動を自動的に維持してくれているのです。ところが、この「プラーナ」の摂り込みに欠乏や鬱滞が生じると、体調不良となり、甚だしい場合には病気となります。ヨーガはそのことを知っていますので、各種の呼吸法によってこの調整を図っているのです。
以上をまとめますと、人間が「健康」を維持するために必要な要素は、以下のようになります。
1.カルマの克服
・自己の「カルマ」の特定と、それを解消していく不断の努力
・悪い「心グセ」の淘汰
2.心のコントロール
・ストレスがなるべく生じないような、環境、職場、家庭、人間関係の構築
・心の平静と安定化
・穏やかに、朗らかに、楽しく、向上心を持って毎日を過ごす
3.自然との触れ合い
・自然の中に見る生命力との接触
・深く、喜びに満ちた呼吸
・生かされていることに対する感謝の念
4.食養生
・汚染されていない清浄な食物を腹八分目に摂る
・体を冷やさないようにする
・毎朝の規則正しい排泄
5.体のケア
・関節を柔らかく保ち、骨格と筋肉を鍛える適宜な運動
・運動も精神活動も無理はしない
・充分な睡眠と、疲れが溜まる前に休息をとる
これらが、習慣として自然に身につき、悪い「カルマ」も生きているうちに完全に断つことができれば、その人は病気になることなく天命を全うできます。そして最期は、老衰による穏やかな移行を果たすことができるのです。これが、自然が教える「健康な生き方」に関する摂理です。
しかし現代では、このような生き方を実践することが非常に難しくなっています。そもそも、このような観点を人々が持っていません。1〜3については、まったくと言っていいほど考慮されていませんし、4と5も、間違った常識が知れ渡っているのです。その原因は、冒頭でも申し上げたように、「身体の自分」が自分であると思い込んでいる「唯物主義」にあります。
これを出発点として、この半世紀のうちに、現代の医療システムがそちら側への極端化を推し進め、ほとんど「洗脳」のレベルにまで、「健康」に関する概念を書き換えてしまいました。一方で、前記の項目とは逆行するようなライフスタイルが巷に溢れているために、人々は自ら進んで「病気」になる道を選んでいるのです。そして、いざ「病気」になると、次には間違った治療法によってさらに心身を痛めつけるという、二重の誤謬を犯すようになったのです。
今度の「沸く珍禍」は、その「洗脳」実態が如実に顕れたものと言えるでしょう。最初の「新型ウイルス」という脅しに始まり、PCR検査、マスク、社会的距離、そして「mRNA」という史上初の遺伝子操作型の「沸く珍」。さらには、治療薬と称するレムデシビルにモルヌプラビル。何から何まで、「物質主義」と「洗脳」に終始してきたことにお気づきでしょうか? 人々は、こんなものにコロッと騙されたのです。
国民を騙して、今なお虐殺をし続ける、無い格の人間や厄人に対しては、怒りとともに「なぜ、このようなことが?」という疑問が、たぶん湧くことでしょう。
けれども、彼らは、自分がいま何をやっているかすらも、実はよく分かっていないのです。牧羊犬としての務めを果たすことが第一義であり、そうすることが正しいと信じ込んでいるのです。思考がもうそのようにしか働かない。それ以外の考えや感覚が浮かばない。結局、彼らも、自分の「真我(ハイヤーセルフ)」の声を聴くことができない、操られた存在でしかないのです。
一流大学を出て、ブラック政府に雇われて、殺人者となる。憐れなり。
実に、「物質主義」と「洗脳」が、諸悪の根源。
でも、今度の「沸く珍禍」によって、さすがに何割かの方は、「医猟の闇」の深さに気づくことになるでしょう。しかし、「物質主義」を超えた、真実の健康概念と健康法に目覚めるまでには、あと2回ほどの世代交代が必要かも知れません。
以前から言っているように、「覚醒」は二段階で進みます。先ずは、政府や社会に騙されていたということに気づく目覚めです。その後に、「身体の自分」だけが自分ではないということに気づき、本当の自分(真我)に目覚めるのです。
さて、これまで言ってきたことを振り返りながら、次の「ヒポクラテスの格言」に眼を通してみてください。これが、これからの時代の最先端をいく言葉だと、賢明なあなたなら、きっとお感じになることでしょう。
■生き方
・まず、何よりも害をなすなかれ
・人生は短いが、技術は長い
■心の持ち方
・人生は思考するものにとっては喜劇であり、感情に流されるものにとっては悲劇である
・心に起きることは全て身体に影響し、身体に起きることもまた心に影響する
■自然治癒力
・人は誰でも体の内に百人の名医を持っている
・私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである
・病気は、人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである
■病の概念
・病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない
・人は自然から遠ざかるほど病気に近づく
・生命を維持するに役立つものは、我々を病いにもする
・理由もなしに疲労するのは病気を意味する。
・老人は若者より病気は少ないけれども、彼らの病気は彼らから去らず
■健康維持
・賢者は健康が最大の人間の喜びだと考えるべきだ
・人間がありのままの自然体で自然の中で生活をすれば120歳まで生きられる
・睡眠も不眠も度を越せば共に悪いしるしである
・健全なる体を心掛ける者は完全なる排泄を心掛けねばならない
■食養生
・全ての病気は腸から始まる
・食べ物で治せない病気は、医者でも治せない
・食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか
・汝の食事を薬とし、汝の薬は食事とせよ
・火食は過食に通ず
・飽食も絶食もその他のものも、自然の度を過ぎれば良いことはない
・満腹が原因の病気は空腹によって治る
・浄化されていない身体は、栄養を摂れば摂るほど侵される
・病人に食べさせると、病気を養う事になる。一方、食事を与えなければ、病気は早く治る
・食物によるよりも、飲料によって回復を図るほうが容易である
・月に一度断食をすれば病気にならない
■身体
・筋肉を十分に使っている人は病気に罹りにくく、いつまでも若々しい
・歩くと身体が軽くなる
・身体にとって良いことをするか、できなければ少なくとも悪いことをするな
■治療法
・病気は食事療法と運動によって治療できる・
・極度に激しい疾患には、極度に激しい治療が最も有効である
・患者に発熱するチャンスを与えよ。そうすればどんな病気でも治してみせる
・病気は神が治し、恩恵は人が受け取る
(完)
]]>
太平洋戦争では、軍人軍属230万人、民間人80万人以上の合計310万人以上が、「国を信じて」殺されてしまったのですからね。戦後になって、伊丹万作*が「『騙されていた』と平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でも騙されるだろう。いや、現在でもすでに別の嘘によって騙され始めているに違いないのである」と言ったのですが、まさしくそれが今度のことで実証されてしまいました。
*伊丹万作のこの言については、過去に何度も引用しています。
「感染予防効果が明らかになっていないことは、皆さんに配布された接種券の説明書に記載されてます。これを了承の上で接種された方は、厚労省としては協力者という認識です」というのが、殺せい奴隷労働省による公式見解です。しかしこんな言い訳が、果たしてこの先も通じるものなのかどうか? 政府広報の動画で、岸田が「感染予防効果と、重症化を防ぐ効果があります」と堂々と言っていたじゃありませんか。なんという二枚舌なの?
お厄人のこういう姑息なメンタリティというものが、私にはまったく理解できません。いったい何処を向いて仕事をしているのでしょうか? 公共のための奉仕者であるはずなのに‥‥。なぜ真実を言わないのか。なぜ隠し事ばかりするのか。どうしてデータや公文書を平気で改竄したり破棄できるのか。「誠実」という言葉を彼らは知らないのでしょうか? そして何より、そんなことばかり毎日やっていて楽しいのかどうか?
霞ヶ関の殺せい奴隷労働省の玄関前に『誓いの碑』という石碑が立っているそうです。きっと通勤する度に、建物の中に入る前にしかと眼にするよう配慮されているんですね。
建立された日付は平成11年8月で「薬害エイズ事件」の後に立てられたもの。ここには「このような事件の発生を反省しこの碑を建立した」 とあります。そして、「医薬品による悲惨な被害を再び発生させることのないよう医薬品の安全性・有効性の確保に最善の努力を重ねていくことをここに銘記する」と、この中でちゃんと謳っているのです。
だとしたら、お厄人の「反省」とか「誓い」って、一体なんなのかなぁと思います。その「誓い」は、何に対して誓ったのでしょうか?
国中の人々に対してでしょうか? 自分の中の良心に対してでしょうか? それとも天に対してでしょうか?
この碑が建立された経緯については、「きみの歩いた道=薬害エイズ資料館」というサイト内に詳しいのですが、当時の殺せい省の担当者の第一声が、「碑なんか建てても、薬害防止に何の効果もありませんよ」だったというのですから、唖然とします。
う〜ん、わからない。どうしてそういう言葉が出てくるのかなぁ? 皮肉にも、その言葉は大当たりだったわけですけど‥‥。
言っておきますが、これは「薬害」じゃないよ。「副反応の後遺症」という話でもない。形の上では「薬害」という話になるかも知れませんが、「薬害エイズ事件」の100倍、いや1000倍もひどい話なんだよ。これは最初から人類の削減を狙った「大虐殺」なんですから。なぜそんな非道いことが平気で出来るのかは解りませんが、同じ人間を、騙して、ぶっ殺しても別になんとも思わない、心も痛まない人間がいるということだけは、今回を経験してよく解りました。
官房長官の松野なんかは、妊婦や子どもにまで「毒沸く珍」を打たせて、自分たちで少子化を推進しておきながら、出生数が過去最少になったことを「危機的状況だと認識している」な〜んて言っているのだから、まったくどういう神経をしているんでしょうねぇ。少子化対策担当大臣が誕生したのは、第一次「A」政権下の2007年で、それ以降25人も大臣が交代している。その間、「少子化対策」が機能したなんてことが一度でもあったっけ? 単なる大臣ポストじゃないですか。
ドイツのデモでは、先頭を行く人たちが「グレートリセットを止めろ」という横断幕を掲げて歩いているよ。これは今年7月の写真。世界はもうそこまで進んでいるというのに、日本人の認識は世界最低レベルで、世界最高の感染者と死亡者を出している。コロナ初期の2019年末から2020年初頭にかけては、弱毒株の自然免疫獲得という奇跡的とも言える神風が吹いたのに、そのせっかく神風を、その後のアホどもが全部吹き飛ばしちゃった。
国が言う「有識者」というのは「誘色者」のことで、特定の色に染まるよう人々を誘導していく人のこと。「専門家」というのは「銭文家」のことで、金で買われて嘘八百の適当な文言を並べ立てる人のこと。これに、厄人、征事家、魔巣込みがスクラムを組んで、一般庶民を「虐殺」にまで誘導してきた。でも、その彼らももうすぐ終わりだよ。異論マスク氏が Twitter を買収したことが、これから大きく大きく響いてくる。もう真実に蓋をすることは出来ないのだ世。
「A」が死んで、あれほど「A」を持ち上げていた応援団たちの声も、今じゃさっぱり聞こえなくなってしまったじゃありませんか。「虎ノ門ニュース」も終了したし、「A」の下関の事務所も年内閉鎖が決定した。「A」と統一教会との関係が一般人にも知れ渡って、日本を取り戻すとか、愛国とか、美しい国だとかさんざん言ってきたことが、ぜ〜んぶ茶番劇だったことが、これでバレちゃった。
でも、世間一般の人々は全体構造を知らないので、今なぜ急に統一協会のことやオリンピック利権のことが出て来たのか、さっぱりワケが分からないと思うのです。ワケが分からない中で、「統一自公」と「それを追い詰める言論」という対決構造が、もっぱら表層レベルでのみエスカレートしているのです。このやり口(手口)そのものは、いつものマスコミと同じパターン。ターゲットを決めて一斉に襲いかかる。
漫才師のOさんは、その一方通行姿勢に気持ち悪さを感じているわけです。ところが素直にそれを言ってしまうと、すぐに「お前は擁護派か」となって、なんでもかんでも対立構造のレッテル貼りにしなければ気が済まない、という人たちの格好の餌食にされてしまうのです。がしかし、今のテレビの中で正論を吐いたところでどうしようもないのです。またOさん自身もテレビの人間ですし、決して全体構造が見えているというわけではない。
ここで、思い出してください。「A」が生きていた(とされていた)時には、モリカケ桜もレイプ事件も一切合切がウヤムヤにされていたではありませんか。以前にも書きましたが、地検特捜部というのは、真実を追及する機関ではなく、アメリカさんのご意向で動く謀略機関です。その特捜部が動き、マスコミがそれらを報道するようになったということは、その上にいるアメリカさんの指揮命令系統の一部にドンデン返しが起きたということです。
どうやらその中枢は、自民党と公明党を本気でぶっ潰すつもりのようですよ。
ところが、カサンドラクロス列車は止められないので、岸田政権は、今までの命令系統からの指示を相変わらず世間にそのまま発表して、トンチンカンを極める事態に陥っています。インフレで庶民が生活苦に喘いでいるというのに、増税して軍備を拡張するんだと言い出したり、アメリカCDCの支所を日本にも作るとか、ファイザー工場を国内に設立し今後10年間「mRNA沸く珍」を購入するとか言ってみたり。今なおDSの忠実な家来ぶりを演じています。
でもそれ以前に、「自公」が先に溶けてしまうことでしょう。
次の図は、ジョン・コールマン博士の『300人委員会』の中で示されていたものを、少し調整したものです(クリックしていただければ拡大します)。下段の「RIIA(王立国際問題研究所)」の下部にあるTC(Trilateral Commission)が「日米欧三極委員会」で、日本政府はこの指令のもとでしか動けないのです。
この図は、「RIIA(王立国際問題研究所)」があちこちに顔を出し、系統図としてはちょっと変なのですが、悪い奴らの中枢がイギリス王国にあり、それが米ワシントンを支店としてコントロールし、アメリカが世界を一極支配してきたという、【闇】→【影】への構造がなんとなく解るのではないかと思います。この「300人委員会」のルーツは東インド会社で、海賊国家であった大英帝国の支配が、形を変えて今日までずっと続いているのです。
国会議員も、政府の役人も、マスコミも、有識者と言われる人々も、ジャーナリストも、この大局の構造を知りません。自分の前後に見える狭い世界の中で、それぞれの仕事をしているだけです。ですから、自分が大局の中の一駒として動かされているということを知りません。そして、政局が裏でどう動いただとか、こんなスキャンダルが出てきたとか、誰と誰がくっ付いたとか離れたとか、そんな表層レベルの話ばかりを追いかけているのです。
「洗脳」というものは、「洗脳」されている間は、それが「洗脳」だったとは気づけないものです。それどころか、それに反することを言う人間を、憐れんだり、小馬鹿にしたり、罵ったり、攻撃したりして喜んでいる始末です。ところが、ハタと気がついた時には、自分が絶対的な信頼を置いていた旗や杖が、もうどこにも見つからなくなる。いつの間にか、みんな溶けて無くなっているのです。さあ大変!
そんなもの、最初から持たなければよかったのに、持ってしまったばかりに、またきつく握りしめたばかりに、それが溶けたときには言葉を失って、ただ呆然と立ち尽くすのみになってしまう。「A」というシンボルの喪失が、いまその事態を引き起こしています。しかしこれは、今までのおかしかったものや強欲が、ここでついに崩壊するということを示唆しているのです。
ですから、これは基本的に言って善いこと。宇宙の理法が働くということです。一切合切をいちど焼け野原にしてしまうことで、長年の憑き物が取れて、晴れて浄化される。そして、その焼け野原の中から、次の時代を担う新芽が誕生するのです。まるで焼畑農業のように。
これからの1〜2年で、今までの隠し事がぜんぶ明らかになります。すでにそれが始まっていますが、既存のシステムにしがみ付いてきた人、なかんずく利権を貪ってきた人、そして人々を騙して「毒沸く珍」で殺人を行ってきた人たちには、もう明るい未来はありません。「誠実」に生きて来なかった人間が、同類とだけつるんで育てて来た縁が、ガラガラ崩壊してしまったら、その先を生きる術はもうない。そんな人間を、いったい誰が助けてくれるでしょうか?
自分には「誠実」という言葉を知らない人たちの〈気持ち〉が解りませんが、これまでの経緯を俯瞰してみると、この人たちを衝き動かしているものは、結局は、金、地位、優越感、保身、薬物、変態性欲、支配欲でしかないのです。これには拍子抜けしました。なぜ、そんなものの虜になってしまうのか? なぜ、そんなもののために、他の人間たちを騙したり、陥し入れたり、殺したりすることが出来るのか? 一体それのどこが楽しいのか?
【闇】の人間たちは「悪魔教」を信奉しているのだ、と言う人がいるのですが、それは買い被りというものです。キリスト教を背景とした二元論と、人々の買い被りがそういう「幻想」を育てたのです。なぜなら、「魔」は、人々の恐怖心や思い込みを栄養源にして生きているのですから。しかし、キャンキャン吠える犬ほど実は弱い。「魔」は実際には怖がりなのですから、怯えたりせず、逆に叱り飛ばしてやればよかったのです。
そういう意味では、自分もこれまで「洗脳」されていました。でも、そうじゃないということが、今にしてようやく解った。結局は、金、地位、優越感、保身、薬物、変態性欲、支配欲でしかない。しかし、誰の心の中にもこれらが多少なりとも巣食っていて、彼らはこの気持ちを刺激し、束ねて、利用し、その上に君臨しているだけだったのです。つまり、「魔」の正体というのは、これらの刺激に突き動かされ、同調した人々が作り出す「集合意識のエネルギー」なのです。
ですから、今度の「沸く珍禍」のようなことも起こりえた。先の伊丹万作は、このようにも言いました。「多くの人が今度の戦争で『騙されていた』という。いくら騙す者がいても、誰ひとり騙される者がなかったとしたら、今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである」。結局のところ、騙す者のメッセージに「同調」してしまう人間が大勢いたからこそ、それが成立したし、成立できたのです。
しかし、もしも、金、地位、優越感、保身、薬物、変態性欲、支配欲になど惹かれる人が、この地上に一人もいなかったとしたら、またそれらにただ隷属してしまうという人が一人もいなかったとしたら、「沸く珍禍」が起こることはありませんでした。
【闇】というのは、とどのつまりは、物質界に対する誤った適応です。物質界には、物質界ならではの「美」や「歓喜」や「気づき」もあります。それは、それを通じて「三角形の法則」を正しく理解していくという学習教材となっているのです。
分離と合一の繰り返しの中に、創造と多様性と愛と美がある。陰と陽が出逢って新しい創造が生まれ、その中からまた陰と陽が出現する。前者が▽(カ)で、後者が△(ミ)。二つが合わさって✡(カミ)となる。
ところが【闇】は、これを666の「獣」のシンボルに転用してしまったのです。つまり向上心を持つのではなく、向下心をひたすらに追究して行った。まさにルシファー(堕天使)の成せる技です。
【闇】が転用したことはこれだけではありません。【闇】→【影】→【裏】→【表】へと繋がる隠されたヒエラルキー(ハイアラーキー)は、霊的世界の階層構造を地上世界に転用したものなのです。すなわち、その元は【光】→【燦】→【明】→【真】でした。【燦】は燦々と輝くということから、西洋では「イルミナティ(Illuminati)」と言ったのですが、【闇】はそれさえも悪の秘密結社の名称にすり替えてしまいました。
フリーメイソンの33階層というのは、脊椎骨の数を表しています。この話も非常に象徴的です。人間の「体」は一種類ではありません。肉体に重なって「アストラル体」「カラーナ体」と呼ばれる見えない「体」がある。この「アストラル体」上の脊椎に当たる位置に、スシュムナー管と呼ぶ宇宙エネルギーの中枢があるのです。クンダリニーおよびチャクラの覚醒は、このスシュムナー管を通るエネルギーが自在となったことを意味します。ところが、フリーメイソンは、それを脊椎骨という「物質」の数の上昇に転用してしまったのです。
以前に、【表】→【裏】→【影】→【闇】のもう一段階奥に【魔】がある、という話をしたかと思います。
この【魔】というのは、半霊半物質の世界、つまり「霊界」の入り口部分の階層の中にあるのです。しかしそこは、「霊界」全体からみれば、程度の最も低い領域に過ぎません。
ここに、人々の恐怖心をはじめとして、怒り、妬み、嫉み、嘆き、悲しみなどのネガティブなエネルギーや、金、地位、優越感、保身、薬物、変態性欲、支配欲といった「我欲(エゴ)」が集合しているのです。
しかし、人々はそんなことを知りませんし、波動を知覚することも感情をコントロールすることも出来ません。その結果、この領域が出すエネルギーに簡単に惹かれていき、すぐさま同調してしまうのです。
さて、ここからです。【魔】は【真】に転換することができるのです。どんな人の中にも、【魔】と【真】が共存しています。その時々によって、【魔】が多く顔を出したり、【真】顔がパッと顕れたりしています。しかし、残念ながら、ほとんどの人がそれを意識したことがありません。
自分の今の性格を野放しにして、その気持ちの赴くままに生きている。でも、そこをちょっと意識するだけで、【魔】が【真】に変わるのです。ただし、誤解しないでいただきたいのは、今すぐにそれを「矯正しろ」と言っているわけではありません。自分の「意識」を意識して欲しいと言っているのです。「意識」を意識することで、その人は最初の気づきを得ます。でもその後どうしたいかは、その人の自由です。
しかし、【魔】への同調が、どれだけの悲劇を生んでいるかを、今度の「沸く珍禍」を通じて、すでにあなた方は見たはずです。でも、【魔】は【真】に転換できるのです。
自分の中に巣食う「魔心」を「真心」へと変え、「魔人間」から「真人間」へと、いつでも人は変身できる。たとえどんな悪人であろうとも。
自分にも他人にも嘘をつかず、誠実に生き、ただ周囲の人々を思いやる気持ちを持つだけで、その人は先ず【真】の心境に目覚める。そして、【真】に生き続けていれば、やがて次の扉が開く。開いた扉の向こうからは明るい光がどんどん差し込んでくる。これが【明】の段階。そしてさらに、【明】に入ってもなお向上心を持って努力し続けていれば、その人はいつかは【燦】に達することになるでしょう。
その大きな目標を持ちなさい。自分の可能性を信じなさい。あなたを創った者は、いったい誰であるかを思い出しなさい。その愛に応えなさい。地球は、今あなたを必要としています。たとえ焼け野原となっても生き抜いて、5年後、10年後、15年後、それぞれ時期のあなたの活躍によって、他の人々を救うのです。
「沸く珍禍」の現状と今後の対処について
「沸く珍禍」のステージが変わり、次の段階へと突入しました。2021年と2022年9月までの超過死亡数の合計が19万人を超えています。いま私が住んでいる東京某市でも、救急車のサイレンが一日中鳴りっぱなしという状況です。
超過死亡数が激増している月と、ブースター接種が行われた時期とには明らかな相関が認められ、打てば打つほど死のリスクが高まるということが実証されています。
また、初期に多かった血栓症とは違い、やや遅れて発症する自己免疫疾患が本格的な活動期に入りました。一般の人にとっては、芸能人の死亡に関するニュースがいちばん心に突き刺さるようですが、有名芸能人の中にターボ癌に罹る人や死亡する人が次々と現れる状況となって来ました。
このようなステージ変化は、今後、次のような展開を生むものと予想されます。
?今後は、接種希望者が激減し、多くの「毒沸く珍」が廃棄される事態となるでしょう。
?接種を急がせた集団から、順に重篤な病人および死者が激増していくことになると思われます。特に高齢者介護施設や医療関係者に対しては、優先的にブースター接種を推進して来たので、真っ先にこれらの機関がやられてしまいます。その結果、今後は病人を看病する人間がいない、という深刻な事態も予想されます。
?公共交通機関の運転士たちも義務づけされた職場が多かったので、今後は乗り物が危険です。列車はATSがあるので大丈夫でしょうが、飛行機の利用は避けたほうが賢明です。すでに外国で操縦士の飛行中の死亡例が報告されています。
?政府、厚労省、自治体、保健所、医者、有識者、製薬会社、マスコミ等、今まで接種を煽って来た者たちへの責任追及がこれから本格化するでしょう。しかし彼らは最後までシラを切り続けるか、または責任追及を避けて逃げてしまうことでしょう。
さて、このブログを読んで来てくださったみなさんは、きっと「沸く珍」接種はされていないだろうと思います。これまでは、周囲から睨まれたり、肩身の狭い思いをして来られた方も多かったのではないでしょうか。しかし、今や立場が逆転しました。それに伴って、今後は注意すべきポイントが、これまでとは違ってまいります。
統計データが正しければ、12月2日時点で、国民の77パーセントが2回目の接種を完了し、3回目が67パーセント、さらに4回目が39パーセントに達したと報告されています。そうなりますと、周囲は今や「毒沸く珍」の接種者だらけという状況となり、しかも一斉に自己免疫疾患の発病時期を迎えています。そこで、いわゆるシェディング(Shedding)の問題を考慮しなくてはならなくなりました。
まだ報告例は少ないものの、母乳を通じて乳幼児にスパイクタンパクが伝播してしまったという例や、多くのクライアントを相手にしている整体師さんの両手が水疱瘡で腫れ上がったという話をはじめ、蕁麻疹、頭痛、めまい、不正出血、生理不順等、様々な症状が実際に現れており、学術的にも確かにシェディングが起こることが確認されています。
ということで、これからは、「沸く珍」接種者が放出する体液との接触をできる限り避けるようにしたほうが賢明だと思われます。皮肉な話ですが、これからは逆に人混みではマスクをしていたほうがよいかも知れません。マスクは空気感染は防げませんが、飛沫はあるていど防げますので。
しかし政府やマスコミは、当然こうした危険性についてを言うはずがなく、これからもそれらをコロナ感染のせいにしたデタラメな報道を続けると思います。しかしみなさんは、新しいステージへの対応を考慮なさってください。
ここで、私たちのごく小さなグループ内で実証や確認ができたことを書いておきます。権威はまったくありませんが、もしかしたら役立つことがあるかも知れませんので。
これまで、アレのことを「沸く珍」と言ってきたのですが、これはWHOや政府が言うような「Vaccine」ではないからです。「珍」というのは毒性を持ったスパイクタンパクのことで、一度アレを体内に入れてしまいますと、脂質ナノ粒子に包まれた「mRNA」が全身に回り、書き換えられた遺伝子情報によって毒性のあるスパイクタンパクの産生が止まらなくなってしまいます。ですから、先ずは絶対に打ってはならないということです。
また最近分かったことですが、一度コロナに感染して抗体を持った人が、そのあとで「沸く珍」を打つと、産生されたスパイクタンパクを含む細胞を、先の抗体が敵とみなして攻撃に行き、それが止まずに死に至るというメカニズムが働くようです。日本人は早い段階で集団感染を達成していましたので、「沸く珍」接種はまさしく自殺行為となってしまいます。
この「mRNA」の遺伝子には、HIVとプリオンも一部組み込まれているという情報もあります。ということで、すでに接種してしまった人はもちろんのこと、未接種であってもシェディングを受けた人は、スパイクタンパクの産生を阻止して解毒に努め、次いで正常細胞への置き換えと自己免疫機能の賦活を図っていく必要があります。
先ずIVMは、私たちのグループ内でも多くの人が恩恵を受けました。副作用がまったくなく、処方量も厳密でなくても問題がありませんでした。ビタミンC、D、亜鉛と併用し、油ものを食べた後に服用するとよいようです。「沸く珍」の副作用と後遺症に悩まされている方は、一定期間集中して服用する必要があります。これについては、FLCCCプロトコルその他*を参照してください。
*おそらく、この辺りの情報に関しては、リチャード・コシミズさんがいちばん多く症例を含めた情報を持っておられます。この方は口は悪いのですが、根は愛のある方です。自分の役割を果たそうと一生懸命にされています。
なお、緊急にIVMが必要だが手に入らないという方は、お問い合わせ欄より申し出てください。こちらでストックしているものをお分けする(貸し出し)ことができます。
またFLCCCではオートファジーも勧めています。オートファジーというのは間欠断食のことで、1日に16時間の断食時間を設ける食事法です。調べてみますと、IVMだけでなく、オートファジーも日本人が発見した効果なんですね。この他、グルタチオン、N-アセチルシステイン、竹炭パウダーにも高いデトックス効果があるようです。それぞれの詳細については、ご自分でお調べください。
また、前回ちょっと紹介しました『新・ハトホルの書』の308ページに、「光の薬」を自分で処方して服用する方法が掲載されています。
以上を適宜組み合わせて、どうぞ元気にこれからの時期を乗り切ってください。
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しかし、ここまで来るのに3年の月日が掛かっています。最初からこうなることは分かっていたのに、人間というものはやはり堕ちるところまで堕ちないと気がつかないものなのでしょうか? 若干の悲しみとともに、う〜ん、と頭を抱えざるを得ません。騙すほうは金と地位と保身の我欲で動き、騙されるほうは知力と直感力のなさが原因で、搾り取られたあげくに殺されていく。
殺せい奴隷労働省では、辞める人が相次いでいるそうです。そりゃそうだわなぁ。まともな人間なら殺人になど関与したくないもの。それに、これからは苦し紛れの弁明に追われることになる。誰も、そんな役はやりたくないよネ。ということで、なんと省庁始まって以来の、キャリアの中途採用の募集を開始したというのです。今まではキャリアとノンキャリの厳然たる階級差別があったのに、それがキャリアの中途採用OKというんだから‥‥。
でも、そんな餌に惹かれて入って来る人は、それこそ保身第一の人ばかりになっちゃうじゃありませんか。いったい厄人というのは、どこまでアホなのか? 夢も希望もビジョンもないから、ロクでもない上司しかいないから、若い人がどんどん辞めちゃうんじゃありませんか。もう「親方日の丸」の時代じゃないんです世。「日の丸」号が沈没するんですよ、これから。あなた方クルーの操船のせいで。船長岸田はもう既死だ。それが解らないのかな?
10日には、仮想通貨交換業大手の FTX が破綻しました。幻金の崩壊も始まったよ。【闇】に惹かれていく人間たちが、なぜ途中で「ごめんなさい」と言えないのか? なぜ、愚かさのカサンドラクロスを、最後まで突っ走って谷底まで落ちていくのか? これも、結局は「無智」だからです。天には、罪も罰もありません。でも地上には罪と罰がある。その地上の罪と罰を怖れて、素直さに立ち還ることができずにカサンドラクロスを突っ走ってしまう。
あ〜あ、お馬鹿さんだなぁ。途中で「ごめんなさい」をしたら、地上では、そこまでに仕出かしたことの罪と罰は、当然ながら受けなくちゃなりません。破産したり、刑務所に入れられたり、場合によっては死刑になったりもする。でも、天には罪も罰もないのですから、その過程から得た体験によって、霊的にジャンプすることも可能なのです。地上世界でする体験は、所詮はスクリーンで演じた一配役に過ぎないんですから。
ところが、カサンドラクロスを行っちゃったら、そのことに気づけない。反省もなく、恨みや、口惜しさが残ってしまうじゃありませんか。それだけじゃないよ。迷惑をかけた、塗炭の苦しみを強いた、悲嘆に追い込んだ人たちの怨念のエネルギーが大挙してその人を襲うことになるのだよ。そうなったら、その「魂」は、次の転生でこの大カルマを解消するためのキツ〜い人生を設計しなくちゃならなくなるというのに‥‥。
征事家も厄人も、威者も看誤死も、本当に馬鹿だ。単なる保身と金のために、市民を虐殺している。しかし、起きたことはどうにも取り戻しようがない。これはもう原爆投下後のようなもので、死ぬ人と後遺症に悩まされる人が、世界中で今後さらに大量に発生します。みなさんは、それをこれから目撃することになる。金融と経済が崩壊し、都市はスラム化し、今日の食事にも困る人が街に溢れる。でも、恐れてはいけないよ。
基本的に、地上で起きる出来事は、みな何かのサイン(警告やシルシ)になっているのです。ですから、このサインを見逃さずに、背後にある意味をきちんと読み取って、反省すべきところは反省し、考えや行動を改めていけば、どんなに困難な状況もすべて人生上の学習機会に転じることができるのです。この視点の転換というものは、素晴らしいものです。実に、ここが人生の大きな分かれ道!
今度の「沸く珍禍」は、人類全体に対して、近代以降の「健康と医療」に関する考え方というものが、「宇宙の法則」から見て大間違いであったということを示唆してくれているのです。
いま世界中で起きていることは、近代、およびホワイト・アングロ・サクソン・エスタブリッシュメントによる世界支配が、いよいよここで終わるということを示しています。その過程を、いま体験しているのです。その中で、日本だけが特殊な位置にいる。日本人はアジア人であって、ホワイト・アングロ・サクソンではありません。けれども、日米欧三極委員会(Trilateral Commission)に組み入れられて、準白人の扱いを受けるかたちでG7にも所属しているのです。
この三極委員会の「日」の実体というのは、旧大日本帝国の延長です。アメリカが戦後、これを乗っ取る形で、白人のいない地域で、日本人を使ってユーラシア大陸(中・露)の東の蓋の役割を担わせたのです。そして、この旧大日本帝国の【裏】側で暗躍していたのが満州人脈(岸、笹川ら)だったのであり、戦後その【影】の座についたのが国際勝共連合(統一教会)でした。さらに、その奥の【闇】にはロックフェラーらがいたのです。
こうしたことは、長年に渡って今までずっと隠されて来ました。がしかし、殆どの日本人が何も知らないまま、この構造がここで一挙に崩壊の時を迎えたのです。大航海時代に始まる500年以上続いたホワイト・アングロ・サクソンの世界支配が、遂にここで終焉を迎える。これは凄いことです。歴史の大転換です。そして、準白人扱いをされてその気になっていた日本国も、彼らと一緒に沈没することになるのです。
さて、アングロ・アメリカン・エスタブリッシュメント*による世界支配の終わりと同時に、彼らが形づくって来た「近代」の様々なシステムもこれで終わりを遂げます。その兆候は、既にみなさんもたぶんお感じになっていると思います。ほんのちょっと前には、それが当たり前だったり、みんなが熱狂して来たことが、今ではひどくつまらないものに感じ出してはいないでしょうか。
*Anglo American Establishment:大航海時代を最終的に制したのは大英帝国で、世界各地に植民地を持ち、非白人を奴隷労働力として使役しました。その名残りが今もコモンウェルス(Commonwealth of Nations)として残り、56カ国(世界の4分の1)を束ねています。しかし第二次大戦後は、イギリスの諜報界がアメリカに支店(ワシントンDC)を出す形で間接統治する形に変わり、主力がアメリカに移りました。このようにして、アメリカのエリート層(DS)による世界支配が今日まで続くことになったのです。
働き方も変わりましたし、物の所有にもこだわらなくなりました。都会から田舎に脱出する人が増えましたし、食や農産物に対する考え方も随分と変化してきました。
「洗脳」というものは、それが解けてしまえば、「なぁんだ、そんなことだったのか」という程度のものに過ぎません。その一つに、「健康と医療」に関する現在の常識があるのです。お若い方はもちろん知るよしもないでしょうが、50年前の「健康と医療」に関する日本人の考え方は、今とはずいぶん違っていました。それが少しずつ「近代化」して行き、今の常識が形づくられたのです。その過程を、我々はみな「進歩」だと信じていたのです。
医療費が毎年々々膨れ上がっていっているのにも関わらず。
癌で死亡する人が、年々増えているのにも関わらず。
春の健康診断や癌検診が推進されているのにも関わらず。
そして今では「新規モダリティ」なる言葉までが登場し、この分野が成長産業となっているのです。はたして、この中から生まれたのが、この度の「mRNA Vaccine」というとんでもない代物です。
「今後数十年間に人類の遺伝子レベルで何かしら興味深いことが起こり、科学者たちの興味をそそると思われます。
遺伝子マッピングと言うのは、遺伝子情報の操作を可能にする外面的なテクノロジーです。これは善でもなければ悪でもなく、単なるテクノロジーにすぎません。
もし積極的に生命を肯定しようとする願いから遺伝子構造を変えようとするなら、それは生命を補強する手段となるでしょう。しかし生命を抑圧したり封じ込めたり、または人々を操ったり敵意から支配するといった、生命に逆らうような使い方をすれば、文明として手に負えない窮地に陥ることになるでしょう。」
『新・ハトホルの書』266ページ 2013年(1996年の改訂版)
人間というものは、やはりとことん堕ちなければ気がつかないもののようです。
上が、このような警告をいくら発していても、悲しいかな、わずかに縁ある人のところにしか届かないのです。
しかし今度のことで、「医猟」の「近代化」に関しても、さすがに〈おかしい?〉と気がつく人が増えるはずです。およそどんな分野にも、善人と悪人とがいるものですが、なぜか医療分野だけは、全員が「善人」であるかのような錯覚が、これまでずっとまかり通っていました。でもまもなく(時期は不明ですが)、この「医猟」制度のバベルの塔は崩壊します。そして、Reborn を求められるようになります。
さて、その Reborn は、どんなものであればよいのでしょうか?
それを計るには、そもそもこのボタンのかけ違いが、どこから始まったかを考えなくてはなりません。
ここで「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスのことを話しても、たぶん今から2500年も前の、文明も科学も発達していない時代の人間が語った戯れ言、くらいにしか思われないでしょう。しかしこれは、他の「ギリシャ哲学者」と言われる人たちと同じで、現代人の「無智」からきた偏見なのです。確かに、当時は文明も科学も今のようなレベルではありませんでした。けれども、「人間とは何か」「生命とは何か」については、彼らは現代人よりも遥かに高い智恵を有していたのです。
今の大西洋*にあったアトランティスが水没する前、それを事前に予見していた聖人のグループが、東は現在のエジプトに、西は中南米方向に逃れました。そうしてそれぞれの地にエジプト文明とインカ文明が花開きました。形は違えども、両者にピラミッドがあるのは偶然ではありません。また、両地とも長頭族が治めていました。その後、エジプトにいた高い霊性を持った人たちの一部が、ギリシャへと移っていったのです。
*大西洋:Atlantic Ocean の名に、アトランティスの名が残されている。
このようにして、ギリシャにもアトランティス時代の真理の智恵が移築されていきました。ですから、プラトンがアトランティスのことを語ったのです。けれども、後の人々には、もうそのようなことが解らなくなってしまいました。「グノーシス」という言葉も誤解されていて、Wikipedia には〈古代ギリシア語で「認識・知識」を意味し、物質と霊の二元論に特徴がある〉などと書かれてあるのですが、そうではありません。
「グノーシス」というのは、地上世界における「認識・知識」を言っているのではなく、「宇宙の真理」に関する「智恵」のことを指しているのです。ですから「物質と霊の二元論」が特徴だったというのは誤りであり、「Oneness」(一元論)を語っていました。「Oneness」の中には、物質と霊の全部が含まれるので、素直にそれを語っていただけなのです。
ところが、なんでもかんでも二元論で考える人(特に西洋人)や、こっちからあっちを見る癖が抜けない現代人には、その意味がどうしても理解できません。そこで、自分の常識的な見方を「ギリシャ哲学者」にも投射して、誤った解釈をしているのです。
ですから、「Oneness」が解らない人たちは、グノーシス主義とか、エッセネ派とか、カタリ派とか、スーフィ主義とか、ドゥホボール派とか、「○○主義」や「○○派」という名称をつけて、主流の分派として無理やり解釈しようとします。
ですが、これはまったくの的外れなのです。どのような時代であっても必ず、「Oneness」を知り、その真髄を理解するごく少人数のグループが、全世界に散らばってひっそりと存在してきたのです。けれども、一般の人々には「Oneness」の真髄が理解できず、異端者にしか見えません。現代においてもこれは同じことで、いくら「因の科学」の話をしても、エセ科学とか、トンデモ話とかと言われて糾弾されるだけなのです。
『虹の学校』も、ある人から「アセンション派」と呼ばれたことがあり、その時にはびっくりしました。こちらとしては普遍の真理をただ語っているだけなのに‥‥。何かを解釈しようとするときに、ビンの中に入れて、レッテルを貼らなければ気が済まない、という人たちがいるのです。悲しいことですが、しかたありません。
ヒポクラテスも同じで、彼は「宇宙の真理」を知っていました。そして、そこから引き出した本当の智恵を周囲に説いたのです。「宇宙の真理」は、永遠であり不変です。そこには時間というものがありませんので。ですから、ヒポクラテスが語ったことは、古代の人間が語った古くさい考えなどではなく、今日にも完全に通じる普遍的な真理を話しているのです。
現代の医療と、ヒポクラテスが語った真理とでは、いったい何がいちばん違うのでしょうか? それは、第一には「人間とはどういう存在なのか」ということであり、第二には「病気はなぜ起こるのか」ということに対する見解です。
第一の問題は、言い換えれば「私はだれか?」ということです。
あなたも、ご自分に問うてみてください。
私はだれか? どこから来たのか? そしてどこへ行くのか?
これは「人間存在」と「個」というものに関する究極的な問いかけです。この「人間存在」と「個」に関する疑問が解けない限りは、次の「病気はなぜ起こるのか」という問いの答えも見つかるわけがありません。なぜなら、「病気」は放っておいたら「存在」の消滅にまでつながるのですし、ある人は「病気」になるが、ある人は「病気」にならないという違いがどうして生じるのかも解らないからです。
ヒポクラテスの格言を引いているサイトは多くありますが、その意味を解説しているものに、いまだ私はお目にかかったことがありません。どれも、格言をただ載せているだけです。例えばこの言葉。
「病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない」
これは、いったいどういう意味なのでしょうか? これを、現代人の視点でいくら解釈しようと思っても、理解はできません。ヒポクラテスは、その言葉の中で「宇宙の真理」を示したのです。しかし現代の「医猟」システムは、「物質科学」の基盤の上に構築されたものです。結果から結果を推論しているだけであって、真の原因というものを知りません。物質科学のさらに奥の「因の科学」へと踏み込まない限り、ヒポクラテスの語った意味というものは解らないのです。
「病気の概念は存在しない」
これは、宇宙には、本来的に言って「病気」はない、ということを語っています。ちょうど、宇宙には罪も罰もない、というのと基本的に一緒です。でも地上世界には、罪と罰があるでしょう。それと同じように、地上世界には病気もあるのです。これはどちらも、「人間」が作り出したものなのです。それはある意味、地上世界への適応、つまり物質化への適応を人間が果たしたということでもあります。
人間の身体は、一重ではありません。物質化した身体以外のボディが、他にも重なって存在しています。次の図は、身体の多層構造を表にしたものです。
「霊性密度」の概念はもう何度も説明してきましたので、すでにお解りでしょう。全宇宙の素となっているものは、たった一つの「振動するエネルギー体」で、それがただ振動数を変えるだけで、あらゆるものを創り出しています。人体というものは、この振動数がだんだんと低下していき、ある領域(第4霊性密度)を経て劇的に低下した結果、物質化して形をなしたものです。
この物質化した身体は、あなた方の眼にはきっと確かな存在に感じられることでしょう。けれども、細胞を構成している1個1個の原子の中というのはどれもスカスカなのです。これは、机であろうと、金属であろうと、いちばん硬いダイヤモンドであろうと変わりがありません。水素を例にして、中心にある原子核をバスケットボール大に見立て東京駅に置いたとすると、電子はピンポン玉くらいの大きさで小田原あたりの位置になります。
つまりそのあいだは、すべて空間だということです。この極小の世界を覗き見たイメージを、そのまま保持した状態で、物質の成り立ちを想像してみてください。どんな物質も、だだっ広い空間の中に局所的に素粒子が出現し、その素粒子が集まって原子を構成し、原子が分子を構成し、水や他の物質をかたち創っているのです。この構造は、大宇宙と相似形*であることにお気づきでしょう。
*そこで、極小世界をマイクロコスモス、極大世界をマクロコスモスと言います。
さて、人体のスカスカ部分には何があるのでしょうか? 「空間」というのは、何もない場ということではありません。そこには素粒子(物質化したもの)は存在しないけれども、もっと高い(物質化する以前の)振動数のエネルギーが満ちているのです。言うなれば、このエネルギーの海の中に、ポツポツと物質化した素粒子が漂っているという感じです。そして、このエネルギーの海こそが「あなた」を構成している「意識体」なのです。
あなたという存在は、物質だけのものではありません。いわゆる身体(肉体)は、「第3霊性密度」の振動領域に形成された体です。がこの他に、「第4霊性密度」には「アストラル体」、「第5霊性密度」には「カラーナ体」と呼ぶ、見えない体(意識体)が、重なった状態として存在しています。この両者を一括りにして、一般に「魂」と呼んでいるのです。「アストラル体」は「魂」の下部で、ここに「カルマ」が保持されています。
そして、さらに上の「第6霊性密度」には「プルシャ」があります。「プルシャ」になると、純粋精神だけとなってしまい、もう体は持ちません。振動数が高くなるほど「時空間連続体」から離れて行き、時間も空間もない世界に溶け込んでいくためです。このように、あなたという存在は、複数の霊性密度にまたがった状態としてあります。そこでこれを、一般に「多次元的存在*」と言っています。
*次元とは密度のこと。つまり振動数の帯域を差します。
いま言ったことを逆から並べますと、純粋精神である「プルシャ」の中に先ず「カラーナ体」が作られ、その中に「アストラル体」ができ、そしてさらにそれらを鋳型として「物質的身体」が形成されているというわけです。このようにして、振動数を下げることによって、あなた方は地上に降り立った(誕生した)のです。言葉を換えますと、物質界への適応を果たしたのです。
さて、この物質界への適応(この世への誕生)の出発点は「プルシャ」という純粋精神でした。しかし「プルシャ」には体がありません。したがって「プルシャ」は無病です。ということは、宇宙にはそもそも病気はないということです。ところが、振動数を落として物質化し、人間として誕生する過程で「病気」という状態が発生していくのです。これが、ヒポクラテスの語った「病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない」の意味です。
ヒポクラテスは、ここを出発点として次に、地上で生きる際の健康法と治療法を具体的に示しました。つまり彼は、霊界と地上世界とのブリッジ役を果たしたのです。ヒポクラテスを理解しようと思ったら、先ずこの点をきっちり押さえておかなければなりません。ここをしっかり捉えていたら、彼の語ったことが、文明の未発達だった古代人が語った戯言などではないということが直ぐに解るはずです。彼はすべて、宇宙の本質についてを語っていました。
宇宙には本来「病気」などはない。「病気」を創っているのは人間なのだ。
彼はそう言っています。
では、人間の何が、またどういう行いが「病気」を生み出しているというのでしょうか?
これについても、ヒポクラテスはちゃんと語ってくれています。
「人は自然から遠ざかるほど病気に近づく」
「まず、何よりも害をなすなかれ」
「人は誰でも体の中に百人の名医を持っている」
「私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである」
「病気は神が治し、恩恵は人が受け取る」
ヒポクラテスは、「自然」から遠ざかると病気になるリスクが高まると言っている一方で、「自然治癒力」こそが真に病気を治すものだとも言っています。つまり「自然」が鍵ということなのですが、この「自然」とは何を意味しているのでしょうか?
「自然から遠ざかるほど病気に近づく」の意味を、ただそのまま読んだところでは、おそらく大多数の人が、都会地を離れた田舎の景色を思い浮かべられるのではないかと思います。もちろんそれも含んでいますが、彼が言った「自然」には、もっと大きな意味があります。
前のところで、みなさんは複数の体を持った「多次元的存在」だという話をしました。あなたという「個」の本質は、物質的身体にあるのではなく「意識体」にあります。身体も個別性を有してはいますが、これは前のところでも述べたように、あなたという「個」が、縁ある両親のDNAを選んで、その組み合わせによって自分用に創造したものなのです。
つまりあなたの身体は、物質界を生きるための道具、いわば乗り物としてあるのです。そして、このDNAの組み合わせを決定づけているものこそ、その「魂」が背負ってきたカルマなのです。「魂」は、前世までに積んだカルマを、次の人生で清算する(刈り取り)ことを目標にして、そのカルマがわざわざ顕れるように自分の心身を設計し、その上でこの世に転生して来るのです。よく「親は選べない*」と言いますが、そうではなく「魂」は親を選んで誕生してきているのです。
*最近では「親ガチャ」という言葉もあるそうです。
しかし、あなた方の世界ではそのようには考えないので、もっぱら家系の遺伝にばかりフォーカスを当てて、無意味な議論を繰り返しています。この「家系の遺伝」に縛られて、どれほどの人がしなくてもよい苦労をしていることでしょうか。中には、家系を誇りに思っているという方もおられるでしょう。でもそれも、宇宙から見れば、単なる「執着」でしかありません。
さて、この乗り物は、誰が日常の整備点検をしてくれているのでしょうか? あなたは、ドライバーとしてこの乗り物を日々使う一方で、時々はメンテナンスもしています。食事と運動です。しかし、このメンテナンスにどのていど気を使っているかは、人それぞれです。中には乱暴に扱ったあげくに放ったらかしという人も少なくありません。しかしそれでも、この乗り物は、けなげに、律儀に動いているのです。
ここで考えてみてください。心臓は誰が動かしているのでしょうか? 消化は誰が行っているのでしょうか? 血液やリンパ液の循環は誰がしているのでしょうか? 免疫の働きは誰が行っているのでしょうか? 細胞分裂は誰の命令で行われているのでしょうか?
あなたではありません。あなたが、それらをコントロールすることは出来ません。それらは「自然」に動いているのです。これが、ヒポクラテスが語った「自然」の意味です。ですから、「人は誰でも体の中に百人の名医を持っている」と言ったのです。百人の名医が、日々それらを調整してくれているのです。
あなたの身体細胞は、それ自体が、己の意志で宇宙の摂理にしたがって、ただ生きようとします。そのとき、細胞の生き方が「宇宙の真理」と完全に合致していれば、宇宙は基本的に無病なのですから、身体は病気にはなりません。ところが、その人が「宇宙の真理」に逆らうような生き方をしていた場合には、その「意識」がノイズとして身体細胞に混入してしまうのです。なぜなら「意識体」の中に「身体」がつくられていくのですから。その結果、細胞のコピーミスが起こり、癌を始めとする様々な病気が発生します。
大自然に病気はありません。自然界では、生き物たちが互いに助け合って、みな健康に生きています。植物でも動物でも、病気が発生するのは人間の近くにいるものたちだけなのです。人間が、自己の都合のよいように手を加える、つまり「自然」から遠ざければ遠ざけるほど病気が発生してしまうのです。人間に飼われたペットには、飼い主の波動が伝播します。そのため、飼い主の波動がネガティブな気持ちで満ちていた場合には、ペットにもそれが伝染し、ペットが病気に罹るのです。
「まず、何よりも害をなすなかれ」と、ヒポクラテスが言った意味とはこれです。「害」とは「宇宙の真理」に逆らう生き方をしてしまうということです。「病気」をうんぬんする前に、まず「害」をなさない生き方が重要であると。ちゃんと「自然」に寄り添って生きよと。「自然」から遠ざかるほど病気になってしまうのだぞ、と言っているわけです。そして、もしも「病気」になった場合には、「自然」なあり方に回帰すれば治るのだと。これを「病気は神が治し、恩恵は人が受け取る」と言って説明したのです。
ヒポクラテスは、こうした「因の科学」のセオリーを大前提とした上で、次に具体的な養生法や治療法を示しました。ところが、現代人には「因の科学」が理解できません。物質偏重の科学を、真の科学だと信じ切っていて、逆に「因の科学」をエセ科学といって断罪までする始末です。その結果が、今度の「沸く珍禍」を引き起こしているというのに、そうなってもまだこの過ちに気がつかないのです。地球人たちは。
人の遺伝子を操作するなどという発想は、「自然」とは対極に位置するものであり、まさに神への反抗です。666のルシファーが為せる技です。それを今度の「沸く珍禍」では、上から下までが一斉に賛同して行ったのです。‥‥‥‥‥。
しかしここで、「病気」というものが示しているもう一つの側面にスポットを当てることができれば、まだ救いがあります。病気は「自然」から遠ざかるほど、言い換えると「宇宙の真理」に背いた生き方をするほど発生するのですから、人が「病気」になった時には、その人の生き方の間違いを、「病気」というサインが示してくれているということになります。
今度の「沸く珍禍」では、それが個人の生き方の問題だけにとどまらず、集団としての人類の生き方の誤りまでをも示してくれたのです。このことにもしも気がつければ、個人としても、また人類としても、「病気さん、ありがとう」と言うことも出来るのです。そして、心底から反省し、これまでの生き方を根本的に是正すれば、人類の「病気」もやがては癒えていくことになります。
生き残るあなた方は、これからはそれを根本に据えて、先ず自分の生活を立て直し、次いで他の人々を手助けできるよう、ますます元気に生きていかなくてはなりません。悪いものは、これから一掃されます。世の中は一見メチャクチャになりますが、それは明るい波動が還ってくるということで、言うなればデトックス作用であり好転反応なのです。
ですから、その時期が過ぎれば、ストレスのない真の健康生活が、これから送られるようになります。しかしそこには、視点の転換が掛かっています。みなさんは先行してそれを実践し、周囲の人たちに明るい波動をどんどん振り撒いていってください。今までよく耐え忍びました。これからは、純粋さと、誠実さと、真理に生きる人たちが活躍する時代です。そうです、あなたたちの時代が来ました。
次回には、癒しと健康のための具体的なポイントについてを述べます。
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もう元には戻らない。「再生」はしない。人類の、民族の、国家の、そして各個人の、これまでの「カルマ」が根こそぎ噴出し、すでに清算に向かっている。世間では、やっと「沸く珍」の嘘や恐さのことが知られるようになり、引き続き「統一教会」の問題が話題になっているけれど、みなさんは果物がどうやって腐っていくのかを知っているかい? 表面に黒いポツポツが出たり、カビが生えたりしていた時には、内側はもうすっかり腐っているのだよ。
「沸く珍」は、製薬会社の金儲けだとかなんだとかと言っている人がいるけれど、そうじゃない。これは意図的に計画された人類大量虐殺(Genocide)。また、「統一教会」を自民党が切れるのかどうかと言われているけれど、そうじゃない。自民党のほうが「統一教会」の下部団体なの。「統一教会」には、日本を「東朝鮮(East Korea)」にする計画もあったんだよ。「統一教会」というのは、宗教団体の顔をした、れっきとした国際謀略機関。
関連団体の「世界平和女性連合」の公式HPを見てごらん。
「OUR MISSION」の動画で話している女性。Moonとは文(ムン)の英語名。
アフリカの子どもたちを感染症から救おうというのも、女性の地位を向上させて平和を実現しようというのも、地球環境を守ろうというのも、みんなみんな良いことだ。
「地獄への道は善意で舗装されている」
The road to hell is paved with good intentions.
これから、世間一般の人々はこの言葉を噛み締めていくことになるのだ世。
私だって、ただ黙って見ているわけじゃない。どうしたら人々が辛い目に合わずに済むのだろう? どうやったら苦難を救えるのだろう? 何かいい方策はないものだろうか? と、毎日毎日、頭を悩ませてる。が、どうにもならないのです。「放っといたらこうなるよ」ということは、すでに充分に語って来たつもりです。でも、自分には影響力がほとんどない。私が語ることなど、届かないし、通じない。
ただ、私が最近「なるほどなぁ」と思ったのは、大惨事世界大染にしても、第三次世界大戦にしても、金融の大崩壊にしても、みんなじわじわと進むということ。「霊性」の向上だってじわじわだし、崩壊もじわじわ。ある日一夜にして、な〜んてことがない。茹でガエルのように徐々に崩壊に向かって行く。だからみんな、大転換が進行していることに気がつかないんだよね。
Youtube とか Twitter とかやって、もっと広くアッピールすればいいじゃないか、と言われるかも知れない。ごもっともです。
でも違う。みなさんは「情報」ということを、ごく狭い範囲でしか捉えていません。私が、映像でもなく音声でもなく、言葉で綴っているのは、その言葉を、あなたがあなたの声で読むことができるからです。もし私が映像で話したら、私の話す言葉を、単に「情報」としてあなたは受け取ってしまうでしょう。でも、あなたがあなたの声で読めば、文字はあなたが話した言葉になるのです。ここが大事なの。
文章は、単なる文字の羅列。文字のゲシュタルトに過ぎない。そこに意味を見い出すのは、いや与えるのは、あなたの気づきなのです。それは、あなたの内側にもともと有ったもの。その声に、あなた自身が気づくのです。
「弥陀の本願、ひとえに親鸞一人がためなりけり」
衆生をあまねく救いたいという阿弥陀様の願いは、すべて親鸞一人のためであったのだ。
親鸞は好きではありませんが、
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」
という感覚はよ〜く解ります。
これは傲慢を語ったものではなく、わが内なる気づきの感動を語った言葉。
親鸞が言った「絶対他力」は、誤解を与える言葉ですが、他力の中の自力、自力=他力ということで、「Oneness」を言っているのです。
正直言いますと、私は、政局の裏事情とか、五輪汚職とか、統一教会とか、沸く珍サギをめぐる攻防、といったことにはほとんど興味がないのです。興味がないし苦手でもあります。別に私が言わなくても、どなたかが言うでしょうし、そういう【裏】社会というものは、週刊誌が追いかけてくれている分野ですから。
私の役目は、あくまで「宇宙の真理」と「Oneness(一つであること)」をお伝えすること。でもそれだけですと、話が遠過ぎますし、下手をするとキラキラ話になってしまいかねません。そこで、【表】社会に現れている現象の奥の奥には、必ず「真理の法則」が働いているよ、という関連で述べるための必要性から、苦手分野である世の中の動きにも触れているのです。
ところが、これが難儀なんですよねぇ。【裏】社会のことは週刊誌や Twitter なんかが追いかけてくれるのですが、その一段奥の【影】レベルとなると、ほとんどの人が知らないし、誰も興味を持っていません。【影】というのは、国際政治を動かしているパワーのことですが、驚くなかれ、日本の政治家もマスコミも、この内情をまったくと言っていいほど知らないのです。当然のことながら、一般人の耳に届くわけがありません。
「統一教会」の話がマスコミで一斉解禁されたのは、【影】の勢力地図が変わってしまい、【影】の新しい指令部が自民・公明の連立政権を潰すために動き出したから。そのために、一般人にも解りやすい、One Issue(一点絞り)の「霊感商法や合同結婚式を行っていたカルト宗教と政治との癒着」という、ビックリ仰天話を、突如プッシュして来たのです。
この癒着構造は何十年も前からあったのですし、桜を見る会のことも、伊藤詩織さんレイプ事件のことも、五輪汚職のことも、マスコミは今までずーっとスルーして来たわけです。それが突如の秘技「手のひら返し」。次の手のひら返しは、コロナになるよ。
マスコミというのはつくづく「アホやなぁ」と思うのは、「統一教会」の話を突っつくのが、いくら今ブームだとしても、最後はその手裏剣が、ギューンと回ってきて自分たちの喉元に突き刺さることを知らないのです。今それがブームだから、トレンドだから、流行りだから、ということだけで動いている。
前にも書きましたが、「統一教会」の奥【=影】は「国際勝共連合」で、その奥【=闇】はロックフェラー。「統一教会」が(罪深いサタンの国の)日本人から金を巻き上げて、それを韓国と北朝鮮に送金し、その同じ「統一教会」が自民党を操って、嫌韓、反北朝鮮のポーズを取らせている。そして、自民党内に暗雲が立ち込めると、視点を逸らすために北朝鮮がミサイルを発射して援護する。
早い話が、日本の金で、日本にミサイルを撃っている。「A」家三代というのは、その謀略の中心にいた世襲の権力者。これは「沸く珍」も同じ。税金で「毒沸く珍」を大量購入し、それで人殺しをしている。早い話が、国民は、自分を殺す毒を、自分の金で購入して打っているのです。政府は、妊婦や子どもにまでも「毒沸く珍」を接種させといて、それで「少子化で大変だぁ」な〜んて言っている。
それが「A」の公開処刑から流れがすっかり変わったのは、指令系統の頂上である【闇】に異変が起きたからです。【影】レベルは、所詮は【闇】からの「金」で動いているので、「金」が切れれば、玉突き的にその下の【裏】の面倒も見れなくなる。日本の政治家などは全員が【裏】レベルの世界にしか生きておらず、ただ【影】の指令で動いているだけ。そこでは、より「貢犬度」の高い人間が「よし、よし」と頭を撫でられて、牧羊犬の地位を与えられてきたのです。
というわけで、飼い主が雲散霧消してしまい、日本のみならず、今や世界の政治中枢が一斉にダッチロールをし始めているわけです。
世界のマスコミは、ほとんどが【闇】の傘下にあるわけですから、このカラクリを一般人までもが知るようになった時点で、マスコミは終わる。Twitter も、異論マスク氏がすでに買収を成立させたことで、各界と【闇】との癒着構造にメスが入り、これからは、【闇】と【影】の不正が暴かれていきます。ですから、マスコミには真実など何もない、ただの情報操作機関だったということが公になり、誰も信用しなくなって、あっという間に潰れていく。
このようにして、第四権力が先ず崩壊し、司法、立法、行政の三権も、すべてが腐っていたのだということが人々の目に明らかとなります。政府に飼われていた、専門家、有識者、言論人も、いずれ断罪されることになるでしょう。
インテリという人たちも非常に頭が固く、いまだに右とか左とか、保守とかリベラルだとかと言っています。まるで、その視点と旗を死守するのが「インテリのインテリたるゆえん」とでも言うかのようです。
ここに一本の棒があったとして、左が気にくわないからと、左端を10センチ切ったらどうなりますか? そこを切ってもまた左端ができるじゃないですか。じゃあ、球だとどうなるのか? 我々はみんな「地球」の上の住民だ。自分の右側の人間は信用できるけれど、左側は許せないと言って、左側の連中を次々に抹殺して行ったらどうなりますか? アレレ? 仲間だと思ってた右側もみんな始末しちゃっている。
この下らなさや、不毛が解らないんですかねぇ。要は「思い込み」なんですよ。人間を、勝手にどこかで線引きして、こっちはいいけど、あっちはダメだと決めつける。そこに、先ずインテリが着目する。インテリというのはとにかくこれが大好き。そして、憂欲や詐欲の旗を立てる。その旗に惹かれて、一般人が着いていく。「ここに私が居る」という、「自分の存在」を自覚するためには、みんな自分以外の誰かを攻撃しないではいられないのだ。「本当の自分」を知らないという無智のために。
でもね。
人間のその習性を利用して、
【闇】が、これまでずっと人類を操って来たんですよ。
【闇】のこの戦略は、宇宙の「三角形の法則」の誤用であり、悪用なのです。マジョリティをAとB、右と左というように二つに分断して争わせ、互いに憎悪させ、その両方をマイノリティであるエリート層が影でこっそり操るという戦略です。これが数珠繋ぎで、上下に伸びている。
一つのものから陰陽の二極が生じる。陰陽の二極から、新しい一つが生まれる。この陰陽は「対立」ではありません。互いが「補完」し合っている関係です。一見、「対立」のように見えますが、それは創造のための畑と種の関係なのです。
すべては「一つ」です。
しかし、【闇】の勢力は、地上という物質世界において、それを「補完」から「対立」の概念に置き換えてしまいました。これは、ある意味「発明」です。
この事実は、次のことを示しています。誰の中にも、二極を「対立」だと思う気持ちもあれば、「補完」だと思う気持ちもある。
そして、「対立」だと思う気持ちを増大させていったときには、人間は獣になり、心身が荒れ、闇に堕ちる。しかし反対に「補完」だと思う気持ちを増大させていったときには、やさしさと慈愛が生まれて、健康になり、人々は幸福に満たされていく。
この結果が、もう出たのです。
起きたことは、起きたことで、時計の針を逆回しにすることは出来ません。
しかし、希望はつねにある。
これまでにも何回か言ってきましたが、地上でする体験は、すべて、自分の「霊性」を向上させていくための学習機会として提供されています。地上世界というのは、虹の階梯を昇っていくための学校なのです。そして、ここには様々な「霊性」の段階と個性を有する人たちが大勢集まっている。
その中には、聞かん坊やら、跳ねっ返りやら、お調子者やらがいっぱいいる。そういう人たちは、霊界でしてきた誓いを早々と忘れて、地上世界の誘惑と我欲にストンと堕ちてしまうのです。それもまた一つの体験ではあるのですが、このようにして一回の入学体験にも大きな差が出てきてしまう。
?手痛い目に遭う前に、あるときハッと気づいて生き方を修正する。
?生きるか死ぬかの手痛い目に遭って、やっと気づいて死の淵から生還する。
?生きるか死ぬかの手痛い目に遭い、死ぬ過程を通して気づいていく。
?生きるか死ぬかの手痛い目に遭っても、まだ気づかずにそのまま死んでしまう。
?なら留年、?だと1学年上がり、?だと2学年の特進となり、?であれば3学年の特進となる。どのコースを歩むかは、あなたしだい。
今度の「沸く珍禍」が起きた当初から、どうしたらこのようなジェノサイドが防げたのだろうかと、何度も何度も考えをめぐらせて来ました。巨大で強力な「洗脳」の構造が、このような結果をもたらすことになったとはいえ、しかしこんな悲劇を経験せずとも超える方法が、人類になかったのだろうかと、考え続けました。
「洗脳」の構造というものは、自分が「洗脳」されている時には、まったく気づけません。騙されて初めて「あ、自分は騙されていたんだ」と気づくことができる。となると、一人ひとりが、いかにすれば騙されないでいられたのか、ということがポイントになる。私は、人々が、もしも下記のいずれかを備えていたのであったならば、と思うのです。
?科学に対する基礎知識(特に免疫に関して)がもう少しあれば、まったく変わっていたのではないだろうか?
?権威の言ったことに盲目的に身を預けてしまうということがなければ、まったく変わっていたのではないだろうか?
?直感というものの働きを知り、そこに信頼をおいていれば、まったく変わっていたのではないだろうか?
?信頼できる人や情報との「縁」があれば、まったく変わっていたのではないだろうか?
このうちの?は、その人の「それまでの生き方」が決定づけている。
が、あとの3つは、みな同じところに問題の根があることに気づきます。
結局のところ、今の人類の課題は「智力」の不足にあると思うのです。ですから、今のこの悲劇を「洗脳」システムの問題だけにしていたのでは、じゃあ「システムを変えればいいだろう」ということで終わってしまう。でもそれでは、「外部システムへの依存体質」がひどすぎるという、現代人特有の傾向がちっとも改善されていきません。そう考えると、今度の「沸く珍禍」は、その点を気づかせるための「出来事メッセージ」になっていたように思えるのです。
「智力」というものは、ただのほほんと生きていただけでは向上していきません。この先の未来を生きる人たちには、今後の人生を「智力」の向上を意識しながらクリエイトしていくことが求められると思うのです。「智力」が弱いのは、過去世において、のほほんと生きてきてしまい、充分に「智力」を鍛えてこなかった結果です。「智力」というものは、必死に食らいついていかなければ向上はしない。
「智力」と「インテリ」ということとは、まったく違います。「インテリ」であっても「智力」のない人はいっぱいいます。「智力」というのは、「なぜ?どうして?」と思う気持ちです。子どもの頃を思い出してみてください。蟻さんが列をつくって行進している様子や、蜂が花の中に飛び込んでいく様子や、蜘蛛が糸を掛けていく様子や、土の中から朝顔の双葉がひょっこり出て来たときの様子や、星空に見える銀河の帯に、「なぜ?どうして?」と思わなかったでしょうか?
「なぜ?どうして?」は、自分の中に湧く気持ちであって、教育で教えられるものではありません。「なぜ?どうして?」が湧いてくるから、じゃあ調べてみよう、研究してみよう、実験してみよう、試してみよう、工夫してみよう、という興味とアクションが生まれるのです。これが「科学」です。「智力」のある人というのは、一日のほぼすべてを、このように生きている。ですから、退屈することもないし、つねにクリエイティブに生きられるのです。
この原点に還ってください。いつでも、「なぜ?どうして?」の言葉を発して、次の行動をワクワクしながら行うのです。これを、これからの習い性にしてください。そうすれば、あなたの「智力」がどんどん増していきます。
それが、あなたを「Reborn」します。
今まで、聞く耳を持たなかった人や、あなたを小馬鹿にしてきた人や、攻撃してきた人も、生きるか死ぬかの目に遭って、反省するチャンスが訪れています。身近にもしも困っている人がいたら、手を差し伸べてあげてください。今がそのタイミングです。もしも医辺留滅苦鎮を持っていたら、分けてあげてください。説教や説得は不要です。してはなりません。あなたの生き方で示すのです。
人々をうらやましがらせなさい。なんで、あなたはそんなにいつも明るいんだ。なんで、あなたはそんなに元気なんだ。なんで、あなたはそんなに生き生きしているんだ。
そのような人になりなさい。
あなたにとっても、さらに一段上がる「Reborn」のチャンスですよ。
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世の中の展開に加速度がついているように感じられるわけは、地球の波動が急激に上昇しているためです。波動の上昇というものは、算術級数ではなく幾何級数的に進みます。解りやすく言えば、経過時間に対して倍々ゲームで上昇していくということです。すると、展開が加速度的になりますから、逆に時間が縮んでいるように感じるのです。
ギター奏法に「ハーモニックス」というテクニックがあります。これはフレットとフレットの間を指でギュッと押さえるのではなく、特定のフレット上に指を軽く触れて弦を弾くことによって、倍音を出すテクニックです。開放弦のちょうど中央に指を触れて弦を弾けば二倍音が出ますし、3分の1のところに指を触れれば三倍音が出る。このようにして、弦の長さと音の高さ(振動数)とは、倍々ゲームの関係で変化していくのです。
この関係を「オクターブ」と言います。「オクト」とは8番目という意味で、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの7音階の次の8番目で、1オクターブ上がって次のドへジャンプする。このとき、上のドの振動数は、下のドの振動数の2倍になっています。これと同じ現象は、あらゆるものが波動より成り立つ「宇宙」全体についてもそのまま適用されます。そこでこれを、宇宙の「オクターブの法則」と呼んでいます。
今の地球は、地球であるところの「ガイア生命体」の振動数が倍々ゲームでどんどん上昇しているために、その上で展開されている人間世界にも多大な影響が及び、結果としてもの凄い大転換が進んでいるわけです。
何度も言うようですが、世の中がメチャクチャになっているように見えるのは、地球の波動上昇に伴って「光」の威力が増したことにより、隠れていた「闇」があぶり出されているのです。ここを間違えないでください。「波動」を分かっている方には、破滅に向かう世界の奥に、明るい希望の光がすでに見えているはずです。
前回のブログの末尾に、「来たるべき世界に際してのあなたへの提言」というものを付け加えさせていただきました。これは前段に記述したメッセージを書き終えたあとで急に入って来たものです。一瞬、次回に回そうかとも思ったのですが、なるべく早くお伝えしておいたほうがよい感じがして、付録のような形で掲載しました。
ここには、「世の中の転換」と「自分個人の意識の置き方」との関係について、その課題というものが示されています。語られていること自体は、いつでも通用する普遍的な事柄なのですが、世の中が「大転換」に進む際には大きな影響が出るので、改めて示されたということです。
私たちはみな、「ガイア生命体」であるところの地球の上に乗っかった存在です。このガイアの大海原の上には、大小無数の船が浮かんでいます。そして、いちばん大きい船には「グローバリズム号」という船名がつけられていて、ここに最も大勢の人間たちが乗っかっているのです。
その人たちは、なんとなく、大きい船のほうが安心だと信じているのです。でも、この船はあまりにも巨大なので、乗っている人たちには自分の周囲のものしか見えません。自分が巨船の上に乗っかっているという自覚すらないのです。
その巨船が、ついに沈む時が来ました。タイタニック号のように。自覚のないまま乗り続けていた人は、手すりにしがみついたまま、これから船もろとも一緒に沈んでいくことになるのです。
大海原が荒れ出している兆候は30年も前から表れていました。でも、船のへりに押しやられてポツンと海を観察していたごく少数の人にしか、それが分かりませんでした。その少数の人たちの中に、直感に優れた人がいて「おーい、巨大な嵐が来るぞォ!」と何度も警告を出したのですが、船上パーティーに夢中になっていた人たちには、その声がついぞ届かなかったのです。それどころか、「おい、あっちで何か叫んでいるバカがいるぞ」とせせら嗤って来たのです。
私は、みなさんのことは心配していません。すでに小舟に乗り換えて、明るいパラダイスの方向へ進路を変えておられるでしょうから。それに‥‥、
そもそも、誰をも心配する必要はないのです。以前にも言いましたが、みなさんは最初から天のセーフティーネットの上に乗っている。最初から救われているのです。問題は、そのことにいつ「気づく」かです。
これはとても微妙なポイントで、内なる「認識」の転換のことを語っています。
それは、あくまで「気づき」であって、「信仰」であってはならないということです。ところが、世間の人々には、この両者の違いというものが解らないのです。意識を、自分の内側に向けて得た発見が「気づき」。でも、内観などしたことがありませんし、やり方も分からない。そこで、反対に意識を外側に向けて、何かを信じようとするのです。これが「信仰」です。
しかし、「信じる」というのは、「疑い」があるからこそ「信じる」ことで乗り越えようとしているわけです。ですから「信仰」の裏側には、つねに同じ量の「疑い」が貼り付いている。それを見ないように、見ないようにセルフ・コントロールしていく姿が「信仰」です。ときに信仰者が強く見えるのは、もしもこの杖を手放したら崖っぷちに落ちる、という恐怖が心の奥にあるからです。それゆえ、信仰者というのは、杖をますます硬く握り締め、上から言われた教義をオウムのように繰り返すだけの存在になって行ってしまうのです。
「気づき」というのは、それとは違う。自分の中にもともと有ったものに、自分自身で気づくのです。「そうか、自分は最初から救われていたんだ」とハッと気づく。ですから、わが教義を「信じれば救われる」と説く、いわゆる「信仰」とは完全に真逆なのです。救いを求める必要などなかったということに、「そうか!」と気づくわけですから。
しかし、いま言ったことを言葉尻だけで捉えて、「信仰」と「気づき」とをスパッと線引きをしないようにしてください。「信仰」を通して「気づき」に至るという道もあるのですから。アッシジのフランチェスコや、マザー・テレサや、中村哲さんたちはこの道を行きました*。両者は、鏡の表と裏の関係です。そして、それは内面の問題ですから、普通の人には、外側からは杳(よう)として窺い知れません。でも、判る人が見たらその違いは直ぐに判るのです。
*彼らはそうして、結果的に(正統派から見れば)異端の反逆児となります。
私は、本質においては何も心配はしていないのですが、今まで共に学んで来られた人の中に、ほんのちょっとしたきっかけから、元のカルマの莢に戻ってしまう方がおられるのです。そのような場面を目にしますと、「せっかく良い調子で来ていたのになぁ」と、少しの悲しみと、与えられた役割を果たせない自分の不甲斐なさに胸が痛むのです。「言葉だけではダメだ」ということは解っているのですが、宗教にするつもりも、権威になるつもりも自分にはありません。
しかし、はっきり申し上げて、自分自身の「カルマ解消」を第一義に掲げてよしとしている時期は、もうとっくに終わっているのです。「カルマ解消」は「魂」にとっての不変的なテーマではあるのですが、時代が違う。今は、地球の次元上昇に合わせて、それを利用しながら自分をジャンプさせていくべき時です。
つまり、外側で展開されていく「世界の激変」をしっかり受けとめながら、その中で自分を活かし、かつ他の人々を喜ばせて上げられるような具体的アクションを通じて、同時に「カルマ解消」も果たしていく、ということが望まれるのです。したがって、自己の「カルマ解消」というテーマは、第二義的というか、もはや付随的なテーマになってしまったのです。この点を、しっかりと認識するようにしてください。
激動の時代だからこそ、そこに背を向けて生きるのではなく、大波がどこからやって来るのか、方向はどっちなのか、波間に見え隠れしているものの意味は何なのかを見極めて、自分が乗った小舟を上手に操船していくのです。けれども、そうはせずにいつまでも自己の「カルマ解消」というテーマに拘泥し続けていた場合には、このような大転換の時代にあっては、激動の大波にあっという間に呑み込まれて沖へさらわれて行ってしまいます。なぜなら、波長がそれと合ってしまうから。
「カルマ解消」をもはや付随的なテーマにしてしまった人と、「カルマ」の莢にまた戻って行ってしまう人とを見並べていますと、両者にはある決定的な違いがあることが分かります。それは、前者の人たちにはみな「クリエイティビティ(創造性)」があるということです。この差は非常に大きい。
これは、改めてそう言われてみなければ分からないことですので、この点に気づいている人というのは殆どいません。また、「クリエイティビティ」のある人というのは生来の能力であることが多いために、両者の違いがいったいどこに起因しているかが分かりづらいのです。しかし、「クリエイティビティ」が肝心要であるということはもう解ったのですから、「クリエイティビティ」に欠けている人は、これから「クリエイティビティ」を磨くことに専心していけばよいのです。
これまでにも、執着を「手放せ」と言ってもなかなか難しいので、その代わりに「持ち替える」ことを考えて、と言って来ました。これは、「手放そう、手放さなくては」とばかり考え、そこに神経を集中していますと、それ自体が新たな執着となってしまうためです。ですから、ここは発想を転換して、楽しい創造活動に置き換えてしまったほうがずっと早いのです。両手に握りしめたカルマ製のバッグを、ポジティブ・カラーのバッグに持ち替えてしまえばいい。そうすれば、自動的に執着などは手放せているわけです。
だから、「転ばぬ先のクリエイティビティ」なのです。
「クリエイティビティ」をつねに持ち続けている人というのはめっぽう強い。貧乏だろうが、着るものが無かろうが、食べものが粗末であろうが、一向に気にはしません。それよりは、空いた時間のすべてを創作活動に打ち込みたいという気持ちのほうが、はるかに勝ってしまう。私の母親が生涯そういう人でした。周囲からは「バカだ」とか「自分勝手だ」と見られていましたが、気にしていませんでした。そして、死を迎える前にアセンションを果たしました。
世の中がひっくり返り、苦難と苦闘の時代がこれから数年間は続きます。でも、「クリエイティビティ」のある人は、たとえどんな状況にあっても、楽しく、心豊かに生きることが出来ると思うのです。
前回のブログでは「世の中の価値観に合わせないでね」と申し上げました。「それだと、一緒に沈んで行くことになりますよ」と。この世界を牛耳る者たちは、人間の潜在能力を削いでいくことに、異常なほどの執念を燃やしています。残念ながら、羊たちはみな喜んでその道に従っていく。その結果、困備荷や巣魔捕が無いと生活ができないとか、電気釜なしでは飯を炊くことも出来ない、という人たちが大勢育っています。これではタイタニックと運命を共にしてしまいます。
先ずは、その状況から抜け出るということが一段階め。そして、さらにクリエイティブに生きるのです。これが二段階め。
このとき、自分が楽しく、周囲の人たちも喜ばせることができ、かつ霊性の向上に役立つことに邁進できれば、これはもう最高の生き方です。(図の交点)
でも、「霊性の向上に役立つ」の意味を「スピリチュアルなこと」とは捉えないでくださいね。人間はそもそもが霊的存在なのですから、何をするにしてもつねに向上心をもって取り組めば、それが霊性の向上に繋がっていくのです。
しかし、そう言うと「自分は何をやっても下手くそだし、特別なクリエイティビティなど何も持っていない」と、きっと卑下する方がおられるでしょう。でも、これは学校矯育の成果によるその人の思い込みです。別に比べることはないのです。誰かに認められようとする必要もないのです。ただ自分が楽しければ、それでいいのですから。そして、自分より上手な人がいたら、向上心を燃やして、その人に素直に教えを乞えばいいのです。
子どものころの楽しい時間を思い出してみてください。その気持ちをまた復活させればよいのです。生活の場をグルリと見回してみてくださいな。クリエイティブでないものなど何一つありません。料理ひとつとっても、「メンドくさいな」と思えば、食事が餌になってしまいます。でも「楽しいなぁ」と思えば、食事がたちまちにして生きる活力に変わってしまいます。要はあなた次第なのです。
そうやって、何をするにしてもクリエイティブな視点を働かせ続けていれば、その人の一日は全部が楽しさで満たされます。そしてこれを一生続ければ、生涯、幸福でいられるのです。
植物の写真撮影を通して『生命』の素晴らしさを伝えようとしてきた写真家の埴沙萠(はに しゃぼう、1931 - 2016)さん。もう亡くなられてしまいましたが、この方は「足元の小宇宙」と呼んで、地面に這いつくばって写真を撮りながら、「楽しいよォ。人生は楽しいことばかりだよォ」とずっと言っておられました。11月
まったくもってその通り。さすが、植物の中に「宇宙」のホロニックを見た人です。クリエイティブに生きていれば「人生は楽しいことばかり」なのです。
大変な時代だからこそ、ここはアクティブに、楽しく行動してまいりましょう。
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緊張しないというのはよいことなんですけれど、あとになって「騙されたぁ」という衝撃を受けなければいいんですけどネッ。
10月11日、欧州委員会のコロナ特別公聴会に呼ばれたファイザー社の取締役が、新型「沸く珍」の感染予防効果については実験をしていないということを公に認めました。理由は、スピードのほうが優先されたからだそうです。また、ファイザー社が新型「沸く珍」の治験申請を早くも2017年には提出していて、武漢風邪の DNA が初めて発表された2020年1月11日からわずか3日後の14日には治験開始となっていた。ということも公聴会後の記者会見で明らかにされ、それが可能となった理由を聞いたところが、回答は無かったそうです。
そうかと思えば、ゼレンスキーがアップしている動画メッセージが、スタジオのクロマキーの前で撮影されたものだということが証拠映像によって明らかにされました。クロマキーというのは合成用のグリーンバックのことです。ですから、ゼレンスキーがキエフにいるということも怪しくなったわけです。バイデンに至っては、前々からあのホワイトハウス執務室というのは映画用のセットだという話があったのですが、これも証拠動画がネットに堂々と上げられました。
以前にもお話ししましたが、こういうものは内容に着目するのではなく、それらの映像が、なぜ今、このタイミングでオープンにされたかということに着目しないといけません。これらはの映像は、みな内部にいた人から流出しているわけです。今までは隠して来たことが、このタイミングで内部から暴露された。その意味は何なのか?ということです。さて、あなたはどう思いますか?
と、こんなふうに、すべての嘘がもう公式にバレバレになって来ました。それなのに、殺せい奴隷労働省の役人たちや岸田は「ゴメンナサイ」って言わないんですね。ゼレンスキーと同じで、とにかく行くところ魔で行くんだと。悪魔でも突っ走るんだと。カサンドラ黒巣に突っ込で大破しても構わないんだと。いやぁ凄い。戦時中の大本営もおんなじだったのかなぁ? こうした人たちの気持ちや思考というものが、私にはまったく解りません。いったいそれの何が楽しいの?
だから「嘘」を言ってはダメなのです。一度「嘘」をついたら、ずーっと玉突き的に「嘘」をつき続けていなくちゃいけなくなる。そして、それがまかり通っている間は、何とかなると錯覚してしまう。マスコミは金の力を使って懐柔したから大丈夫だと。警察のトップもこっちの人間にすり替えから大丈夫だと。日銀総裁、あいつはこっち側だと。官邸秘書官も子飼いを集めたから、これで出身省庁にも睨みが効くぞと。これでもう怖いものなしだと。それでどうなりましたか。ズドン!
「A」の最後を見れば分かるじゃないですか。
嘘をつき続ける者、我を張り続ける者、反省のない者の末路の姿が。
それに付き合って来た人間、それを旗に立てて仰いで来た連中は、みんな総崩れとなって、これから共に沈むんです世。
日本の閣僚には言葉がない。口を開けば、ていねいに、一つ一つ、きっちりと、はっきりと、しっかりと、徹底して、断じて、断固として、絶対に、という強調語ばかりを連発する。でも、こういう強調語が発せられたときというのは、内容の無さというものが露呈したときなのです。ていねいに、一つ一つ、きっちりと、はっきりと、しっかりと、のあとに続く意味は「説明しない」。徹底して、断じて、断固として、絶対に、のあとに続く意味は「やらない」ということ。
ところが、トランプさんとプーチンさんは、ぜんぜん違う。誰もこのことを言わないので言っておきますが、トランプさんというのは詩人なのです。トランプさんの演説は、言葉をポエティックに重ねて行って聴衆をグイグイ引き込んでいく。しかも原稿なしで。この技は大したものです。一方のプーチンさんは、歴史を大局的に見て、今後あるべきビジョンを理路整然と語っていく。このインテリジェンスと、懐の広さと深さはほかに代わる人がいません。
プーチンさんは理に情を乗せる演説をして、トランプさんは情に理を乗せる演説をする。どちらも、自分の言葉を持っています。それは、言葉以前に、自分の理想があるということです。My Own の理想があるから、自分の言葉が出て来る。そこがポイントだと思うのですが、どうして誰もそこに着目しないのでしょう? どうして言葉尻ばかりを追いかけるのでしょう? 政治中枢のトップにいるのですから、手練手管はそりゃいろいろとあります。でもその奥に、どんな理想が見えるかが大事だと思うのです。
人間社会における「幸福」論を追究して行ったときに、大きく二つの考え方があります。一つは、〈みんなが幸せになれば、自分も幸せになる〉という考え方です。もう一つは、〈他者を従わせてその上に君臨すれば、自分は幸せになれる〉という考え方です。この両者は、人間関係のあり方においては、真逆の価値観を示しています。
グローバリズムが押し寄せて来た平成以降の30年間は、日本全体が後者の価値観によってすっかり覆われてしまいました。しかし昭和の経営者というのは、ほぼ例外なく前者の考え方というものを基本的に持っていたのです。それは、焼け野原から、みんなで協力して立ち上がろうという理想に燃えていたからです。ですから、家族主義でしたし、終身雇用制でしたし、福利厚生も非常に充実していました。
時代が違うと言えばそれまでですし、その時代を懐かしむ訳でもありませんが、日本企業の国際競争力も今とはまるで違っていたのです。下記の表は、1989年と2021年の世界時価総額ランキングのトップ50を比較したものです。
この間に日本に何があったのか。それまでの人たちが一生懸命に働いて蓄えた富が、外国の資本家たちにすっかり抜き取られたということです。どうしてそんなことが可能だったのか。日本の政界と財界とマスコミに、その仲立ちをした人間がいたからです。彼らは、自分個人が地位と名声と財産を得ることと引き換えに、日本を売り飛ばしたのです。典型的な、今だけ金だけ自分だけ、の人たちです。その人たちが「愛国」の仮面を被って来た。
「愛国」には関心がないですし、泥棒を怒る気もありませんが、どうしてそんなことが出来るのかなと。私にはそこが不思議でならないのです。5人家族がいたとして、親父が家族に内緒で貯金を盗み出し、愛人にせっせと貢いで自分は享楽に耽り、ついには母親がパートをしながら積み立てていた子どもの学資保険にまで手をつけていた、ということでしょう。子どもたちの未来はどうなるのよ。それも尽きてすっからかんになったら、家族もろとも共倒れじゃないですか。
その想像がつかないんでしょうかねぇ。懐石料理に舌鼓を打ったって、別にいいんですけどネ。高級ワイン何杯飲んだって、別にいいんですけどネ。いったいどういう「理想」が、彼らの胸の内にあったのでしょう? 「哀酷」? 日本を「鬱苦強い国」にすること? 平成の30年の、陽が沈む日本に育った人たちは、いまや成人し、結婚して、早い人は子育て世代になっているよ。
でもね、彼らだけが悪いんじゃない。だから、「アイツらのせいでこうなった」はスジ違い。みんなで、今の「鬱苦強い国」日本を創り上げて来たんだよ。そこをちゃんと認識しないとネ。理不尽だと思うでしょうが、騙される人たちがいて、騙す人間のミッションが完了するわけだから。両者は互いに協力し合っているのです。でも、どうして騙されちゃうんだろうねぇ? そこがポイントだよ。
今度の大惨事世界大染と第三次世界大戦は、「人類よ、そこに気づけ!」ってことを示しているよ。それでこそ、二度の世界大戦の教訓が生きるというものです。
多くの人たちが、ネットで情報発信を行って「あなたたちは騙されているんだよ」ということを言ってくれています。ところが、そうすると「そんなのデマゴギーだ!」と言う人が必ず出てくる。その根拠はなんだと。「だって、ファクト・チェックがデマだと言ってるよ」と。「WHO が、政府が、厚労省が、自治体が、保健所が、医者が、製薬会社が、そんな人殺しなんかするわけがない」と。「お前は頭がおかしいんちゃうか」と。
こういう人に「人類削減計画」とか「グレート・リセット」とか「NWO」の話をしたところで、どうにもなりません。いつも言うように、【表】→【裏】→【影】→【闇】→【魔】に至る、多段階の、もの凄い情報格差があるので、階段が一つ違えば、ぜんぜん話が噛み合わない。人間というものは、よほど痛い目に合わない限り、なかなか気づけないものなのです。
最近、私が残念に思うのは、「あなたたちは騙されているんだよ」という、せっかくの情報を発信してくださっている方たちが、世間の無理解と政府の相変わらずの行動に業を煮やして、反論に反論したり、罵ったりする言葉が日増しに激しくなって来ていること。そんなことをしたって、エネルギーの無駄遣いにしかならないんですよ。他人をグループ分けしてあげつらったりしても、世の中は良くなりません。それに、始終カッカし続けていたら、自分の神経のほうが先にやられてしまいますよ。
多段階に渡っているこの情報格差は、自分の思いを相手にぶつけたところで埋まるものじゃない。怒っちゃいけないと言っているわけじゃありませんよ。怒ったっていいんです。むしろ、怒りの感情を抑え込むのはよくない。ですから、怒って発散したほうがまだいい。「怒り」は創造のエネルギーですからね。
でも、怒ったあとで、自分が何に対して怒っているのか、どうして怒っているのか、その怒りの表現は適切だったのか、他の表現方法はなかったのか、をよく分析してみるといい。そこに、その人の本質が隠れているから。
怒ってもいいんだけれど、毎度々々同じパターンで、もしも怒り続けているのだとしたら、その奥に、何か別の理由がある。それは、相手ではなく、本人の問題。その人のカルマを映し出しているよ。過去世で、いったい何があったんだろうね?
「黙っていることは、何もしないことと同じだ」と言う人がいますが、そんなことはありません。その人は「波動」の影響というものを知らないのです。自分と見解の違う人をいくら罵倒しても、世の中は良くはなりません。それどころか、むしろマイナスの影響を周囲に与えています。なぜなら、そのネガティブな「波動」が、ネガティブに共鳴する人たちの「波動」を集め、増幅するからです。
人は「情報」によって動かされるのではありません。みな、「情報」が人を動かすのだと勘違いをしています。でも、〈あなたと周囲の人を守るために「沸く珍」を打ってください〉という共通の情報を与えられても、それに同調する人と、嘘だと見抜く人がいます。つまり、その情報にすぐさま共鳴する人と、逆にノイズに感じてしまう人とがいるのです。この違いは、どうして起こるのでしょう?
人は「情報」ではなく、
実は。その背後に流れる「波動」に動かされているのです。
さてそこで、
「情報格差」の深い谷間を埋めることはなかなかどうして難しい。
でも、「波動格差」は直ぐに埋められますし、「情報格差」を一挙に超えることだって出来るのです。
これからの時代は、そこに気づいて欲しいのです。拳を振り上げるのではなく、祈りによって、祈りの共鳴によって、世界を変えることも出来るということです。
新しい価値観へのスイッチはもう起きています。大破壊の裏には、それと重なって大創造が控えています。もう一瞬たりとも、エネルギーを浪費している暇はありません。「怒り」のエネルギーを「創造」に転化してください。反発の言葉ではなく、理想の言葉を語るのです。以前に「アンパンマン」のことを書きましたが、「アンパンマン」の理想に触れてください。「アンパンマン」の凄いところは、「そんなのはいやだ!」と反抗しているところ。世間同調など決してしないところです。
でも、その反抗心を、「アンパンマン」は理想に変えているじゃありませんか。
来たるべき世界に際してのあなたへの提言
今の社会的枠組みは絶対的なもの → その社会の基では、お金が無いと生きられない → だから、お金を得るために仕事につかなければならない → 仕事にありつければなんとか生活ができる → だから生きていける
と思考していると、このチェーンのどこか一箇所にでも断裂が生じたときには、生きる気力までも失ってしまいます。
現在の社会システムは決して絶対的なものではありません。今も、マイナカードの導入とか、グレート・リセットとか、デジタル通貨とか、為政者に都合のいい社会システムをさらに補強しようとして日に日に変化しているのです。その社会システムの中心的役割を果たすようにようになったものが「お金」です。がしかし、中央銀行の歴史は350年、ニューヨーク証券取引所の設立からも230年しか経過していません。今の「お金」の仕組みなど、人類が生きてきた歴史と比べれば、ほんの僅かな期間でしかないのです。
しかし、アンパンマンのように「なんのために生きるのか」と考えたときに、これとはまったく違うベクトルが発見できると思います。
なんのために生きるのか → なぜ自分が今ここにいるのか → 自分が生まれて来た理由は何か → それはどこからやって来たのか → 生命とは何か → なぜ宇宙に生命が存在するのか → それら生命を誕生させたものはいったい誰か
人間が、現在のような社会システムにまだ組み込まれていない時代には、人は月や星空を見上げながらそれらのことを考えたのだろうと思います。社会システムの崩壊は、あなたの崩壊を意味しません。あなたが存在する理由、誕生した理由、そして生きる理由は、社会システムとは関係なしにあるのです。前者のベクトルの出発点にあるものは【闇】の支配です。後者のベクトルの最終点にあるものは【光】の愛です。
本文の中に「幸福」の追究に関する二つの考え方というものを書きました。〈他者を従わせてその上に君臨すれば、自分は幸せになれる〉と志向する代々の者たちが、現在の社会システムを築き上げました。
しかし、これが間も無く、根こそぎ崩壊します。社会はいま以上にメチャクチャになります。でもそれは、今まで隠されて来たものが表に出てきているということですので、誤解しないようにしてください。悪くなっているのではなくて、良くなっている。表に出たということは、隠されて来たものがすでに終わっているということなのです。向こうの世界で起きている断末魔の混乱が、こっち側の、みなが「現実」と呼ぶ世界にいま投射されているのです。
これからは、〈みんなが幸せになれば、自分も幸せになる〉という考え方に変わります。そしてこれが、これからの人類の苦悩を救うことになるのです。
この先、どんな困難が待ち受けていても、こちらの理想に生きてください。
それが、あなたを救います。
今の意識と行動が、未来の自分のあり方を創るのです。
さあ、「アンパンマンのマーチ」を元気に口ずさみましょう。
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でもなぜ、そんなマンガみたいな(今になって振り返ってみればの話ですが)歴史が、人々にまったく気づかれることなく、数千年にもわたって維持し続けて来られたのでしょうか? そこには、「洗脳」に簡単に染まってしまうという、地球人類共通の性格的特質がありました。これは、地球人類の DNA に深く刻み込まれた根本的な欠陥だと言えます。そしてこの欠陥は、そもそも人類が、奴隷・家畜人種として創作された*ことに起因しているのです。
*『アセンション 宇宙からのメッセージ』308ページ「あなたたちの使命 ー 第六感以上を切断された DNA の修復」を参照のこと。
人類というのは、檻の中で飼われた羊です。それは「家畜」ですから、飼い主の言うことをよく聞くようにみな飼育されて来ました。それが「洗脳」です。そして、家畜の中の一部に、「牧羊犬」としての地位を与えてエリート意識を持たせ、他の家畜を管理させたのです。しかしあまりにも数が増え過ぎたので、そろそろ屠殺処分の時期が来たと「闇のグループ」たちは考えました。そして科学技術が追いついた今のこのタイミングで、かねてからの計画を実行に移したというわけです。
彼らにとって、優生学的に劣る人間は「家畜」ですから、屠殺処分することについては何の心の痛みも感じません。この「闇」に操られた、おバカなエリートたち(牧羊犬)が、これまたおバカなために、何の心の痛みも感じずに、同じ人間をせっせと屠殺場へと送り込んでいるのです。彼らは、あまりにもおバカなために、そうすることで、自分の命運も一緒に尽きていることにすら気づきません。完全に「洗脳」ロボット化しているのです。
さて、「パンドラの箱」の蓋が一挙に開いて、あらゆる分野の不正が暴かれていくという過程を、いま世界中の人々が同時に目撃しています。その中の一つに、現代の「医猟」システムもあります。しかしこの「洗脳」は、あらゆる分野の中で、お金に次いで強力なものとなっています。そもそも、今度の「沸く珍禍」に多くの人がハメられてしまったのは、「医猟」の闇というものを知らず、「威者」の言うことをただ盲目的に信じてしまった結果、そうなってしまったと言えるのです。
「医猟」の「洗脳」がとりわけ強力なわけは、それが「死の恐怖」と直結しているためです。ですから、「恐怖」で人を操るというセオリーにいちばん近い話題をつねに提供できました。お若い方はご存知ないと思いますが、現在の「医猟」システムや健康常識についての考え方は、この半世紀間に徐々に確立されていったもので、最初から今のようなものであったわけではありません。少しずつ少しずつ歪められて行き、今では、間違った健康と医療に関する概念が、世間で完全に常識とされるまでに至ったのです。
これは、2019年末に「Plandemic」が開始されてから、今日に至るまでの過程を振り返って見れば、容易に想像できるのではないでしょうか。「Plandemic」以前と以後では、人々の常識が大きく変わった(変えさせられた)ことが解るはずです。また、この「洗脳」スピードには、加速度がついて来ているということもお解りいただけるでしょう。
「早期発見、早期治療」「素人判断せずに直ぐにお医者さんへ」といったスローガンや、春の健康診断が定着するまでには、それなりの時間が掛かりました。また2009年の「子宮頸癌ワクチン」の導入に際しては、人々の間にまだ抵抗する意思があったように思います。
ところが今度の「沸く珍」では、それが従来型のワクチンではなく、人間の遺伝子を操作するというとんでもない発想のしろものであったのにも関わらず、あっというまに普及していきました。しかも、予防効果などなく、打てば打つほど感染しやすくなるというデータが明確に出て来ても、多くの人々がブースターまで接種してしまったのです。加えて、医療関係者が率先してそれを推進しているという事実にはまったく驚きを隠せません。
つくづく「洗脳」というものの恐ろしさを感じます。とにかく上から下までが、玉突き的に一気に「洗脳」されていくのです。まさに、「終えりゃあ洗脳」という世界。現代の「医猟」は、「ヒポクラテスの誓い」を忘れてしまった、エリートたちのための羊狩り(Sheep Hunting)となってしまいました。
「ヒポクラテスの誓い」の第四条から第八条にはこうあります。
4.自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
5.依頼されても人を殺す薬を与えない。
6.同様に婦人を流産させる道具を与えない。
7.生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。
8.どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
どうでしょう? 「闇」に操られた現代の「威者」たちは、これと真逆のことに精を出しているのではありませんか? 金と地位が欲しいばかりに‥‥。
しかし、今度の「沸く珍禍」は、多くの犠牲者を出すことと引き換えに、現代「医猟」の化けの皮を剥がすことにも繋がっていくことになります。15年前、私が「新聞やテレビニュースは見てないんだ」と知人に語ったときには、「ほんとォ?」とまだ不思議そうな顔をされていました。でも今は、若い世代の大部分がマスコミなど歯牙にもかけていないでしょう。それと同じことが今後、「医猟」と「威者」についても起こります。
でも、まだもう少し時間が掛かる。何しろ、この「洗脳」は深過ぎる。先ずは、良心の療法家がどんどん現われて、いま苦しんでいる人たちに本当の医療を施すようになることが先決です。これは急務です。
「医猟」の「洗脳」の深さというのは、単にそのシステムだけの問題に留まりません。これは二重の構造になっているのです。
確かに、システムだけを見ても問題は大ありです。製薬会社、医療機器メーカー、政治家、医療系の学校、免許制度、厚生労働省、医師、病院、健康保険、自治体、広告、メディア、WHO、etc.。これらはまるでお城の石垣のようなもので、互いが互いをガッチリ支え合う構造になっていてまったくビクともしません。それは、「軍産複合体」に並ぶ「医産複合体」の強力な利権構造を保っているのです。そして、そのボンド(Bond)となっているものが病気と医療に関する「洗脳」です。
しかし、この石垣を崩す方法が一つだけあります。みんなが一斉に、春の健康診断など受けなくなればいいし、病院などにも行かなければいいのです。「えっ! なんという暴論」と思ったあなた。それこそが、深く深く「洗脳」されてしまった証拠ですぞ。「早期発見、早期治療」という謳い文句で、癌になる人が減りましたか? 逆にどんどん増えているじゃありませんか。「素人判断は危険、直ぐにお医者さんへ」と言われてどうなりましたか? 「病気」にされた挙句に、国民医療費も猛烈に増えたじゃありませんか。
おかしいとは思いませんか? しかし、明らかにおかしいということを、データがちゃんと示していたとしても、大多数の人々はそれをおかしいとは思いません。20年とか50年の長いスパンで見れば、データは歴然としたものを示しています。しかし変化というものは、たいていは緩やかにやって来ますので、人々も変化にすぐに慣れてしまい、それまでの常識が気がつかない間にちょっとずつ更新されていくのです。
そもそも、人々はデータやエビデンスになどは関心がありません。思考や分析は大の苦手です。それよりは真っ先に「感情」を動かして直ぐにアクションしてしまう。一に恐怖心、二に嫉妬、三に怒りです。人類のその欠陥的性質を、巧みに突かれ、これが支配者に利用*されてしまうのです。マスコミや操作されたSNSは、絶えずこれらの「感情」を刺激し続けることによって、大衆をコントロールしています。
*政権に不祥事や隠したいことが起きると、芸能人の不祥事ネタを差し込んでそっちを大きく扱わせたり、今なら「北朝鮮がミサイルを打った」というニュースを流して、防衛意識にすり替えを図ったりする。
ですから、「洗脳」は単にシステムだけの問題で起こるのではなく、「洗脳」される側の「意識」の目覚めが遅れているという、人類のカルマに起因する根の深い問題が背後にあるのです。
けれども、今度の「Plandemic」はその展開がかなり性急であったために、茹でガエル的なじっくりとした「洗脳」とはなりませんでした。急に「つべこべ言わずに打て!」ということになった。それでも、恐怖心の煽りが非常に大きかったために、多くの人がそれに従いました。が、3年が過ぎようとする現在、この性急さが、逆に綻びに転化し出したのではないでしょうか。おそらく、「闇のグループ」の中に、完成されたシステムに対する過信というものがあったように思います。
ともあれ、「沸く珍」による「人類削減計画」は、すでに一定の成果を挙げました。これまでに犠牲になった方、そしてこれから犠牲になってしまう方やそのご家族はお気の毒ですが、どうにもならないのです。縁なき衆生は度し難し。自分で耳をブロックしてしまった人たちには、どんな言葉も届きません。真実の言葉よりも、嘘の言葉を好む人には、真実が嘘に聞こえてしまうのです。悲しいことですが、どうしようもありません。
この3年弱というものを観察しておりますと、自分の耳をブロックしてしまった人たちというのは、共通して次のどれか、もしくは複数の罠にハマってしまっていることが特徴として見受けられます。
1.政府発表およびマスコミ報道を真に受ける
2.権威を信用する
3.科学の嘘に騙される
ところが、この言い方は、その枠組みの外に飛び出てみて初めて解るものであり、それぞれをいま信じ切っている人たちにとっては、このような指摘はトンデモ話(いやゆる陰謀論)や、ひどく傲慢なもの言いにしか映りません。宗教を信じ切っている人たちとまったく一緒です。
ですから、あまり強く言うことは出来ません。そんなことをしたら、たちまち喧嘩になってしまいます。喧嘩をしたら、そこでまた一気に波動が下がります。ですから、説得しようとしても労力の無駄なのです。これはもう、本人の気づきを辛抱強く待つしかありません。感情を交えずに、真実だけを淡々と述べればそれでいいのです。
しかしこれは、いま挙げたものを「疑え」ということを主張しているわけではありません。「疑う」視点を持って見ることも、また別の「信」を持つことに他ならないのです。そうではなく、これらの罠にハマる根本原因は、別のところにあります。煎じ詰めれば、それは、次の無知と無智(無知:知識がない、無智:知恵がない)に起因しているのです。
1.政府発表およびマスコミ報道を真に受ける → 支配構造の闇を知らない
2.権威を信用する → 自分で判断をしない
3.科学の嘘に騙される → 真の科学を知らない
1.の「支配構造の闇」については、これまでにも何度も語って来ました。知らない人は、国連加盟の国々はみな独立した存在で、各国政府はその代表であると教科書で習ったことを素直に信じています。ところが実際には、国連は「闇のグループ」の傘下にあって、各国政府などは、この国連、および諜報機関、シンクタンク、中央銀行、大企業、富豪の投資家らに操られた存在でしかないのです。またマスコミも、この支配構造のプロパガンダ機関でしかありません。
2.の「自分で判断をしない」という慣習は、教育とマスコミによって醸成されました。普通に考えれば、まったく逆のように思うでしょう。教育が思考能力を育て、マスコミがその材料を提供するのだと。ところがそうではありません。
これは巧妙に仕組まれたトリックで、先ずは「教育」の名の下に人間に優劣をつけます。ここで、優越感を持った少数の人間だけを「牧羊犬」へと養成し、エリートとそうでない人間との格差を生み出します。そして、劣等意識を持った大勢の羊たちに対しては、マスコミを通じていわゆる3S(Sports、Sex、Screen)の娯楽を与え、牧場の中で毛を刈りながら(つまり搾取しながら)飼うのです。そこで、教育は「矯育」であり、マスコミは「魔巣込み」というわけです。
こうして「自分で判断をしない、判断できない」人間が大量に育成されているのです。このような土壌の中に「専門家」という肩書きの人を投げ込まれたら、大衆はひとたまりもありません。「専門家」というのは、特別メダルを付与された「牧羊犬」です。首にぶら下げたそのメダルの輝きの前には、大衆はみな頭(こうべ)を垂れるしかありません。なぜって、「専門」的なことは、難し過ぎて一般大衆にはからきし分からない(ということにされている)のですからネ。
さて、この「専門家」のトップの位置に君臨してきた NIH(アメリカ国立衛生研究所)の Dr.ファウチ*が、コロナ騒動の真っ最中、こう発言したことがあります。「私が科学なんだ」。ファウチの発言には、〈私が科学を代表しているのだから、これ以上は問答無用!〉という意味が込められています。が、その言葉の前提には、「科学」というものに対する「絶対的信仰」が、この世界にすでに幅広く浸透しているということが分かるではないでしょうか? 早い話が、科学迷信です。
*Dr.ファウチ(Anthony Stephen Fauci):今度のコロナ・パンデミックの首謀者の一人で、NIAID(アメリカ国立アレルギー・感染症研究所)所長。NIAID は NIH の下部機関。
3.の「真の科学を知らない」は、この状況に対して根本からの修正を迫ります。この「知らない」には、二重の意味が含まれています。一番めは、「専門家」のところでも述べたように、「科学」の専門家が話すことを、一般の大衆がほとんど理解できないという点です。
では「科学」の専門家が、「宇宙の真理」を本当に知っているかというと、実は彼らのほとんどが何も知らないのです。これが二番めの「知らない」の意味です。自分が「知らない」ということを知っている謙虚な科学者も稀にはいますが、大多数は、ファウチのように「知っている」と自負することによって、その穴にマスキングテープを貼って誤魔化しているのです。
『アセンション 宇宙からのメーセージ』の本の解説にも書きましたが、この世で「科学」と称しているものは、みな結果から結果を導き出しているものに過ぎません。一応、原因を探ろうと努力はしているのですが、どうやっても真の原因には迫れません。なぜでしょうか? それは、彼らが「科学」と称しているものが、みな物質界内の現象を追いかけるだけのものに留まっているからです。
ここで、問います。
「存在」とは何でしょうか?
「生命」とは何でしょうか?
「意識」とは何でしょうか?
これらを説明できる科学者が、果たして今、いるのでしょうか?
いま挙げたものは、みな物質界で普通に見られる実体です。しかも、「この世」の基盤を構成しているものばかりです。ところが誰も、それが何であるか、どうして「在る」のかを説明できません。驚くべきことに、ちゃんと説明ができないのに、みんな普通に生活しているのです。
実は「不安」の大元は、ここより発生しています。基盤の大元を知らないのに、生き続けているということによる「不安」です。自分はなぜ生まれたのか? 何のために生きているのか? どうせ死ぬと解っているのに、生きることにどんな意味があるのか?
この世で言う「科学」は、その答えを知りません。提示できません。そもそも、この世に「在る」ということは、何かの結果としてそれが今「在る」のです。これは「あなた」という存在に関しても同じです。いま「在る」ことには、必ずその「原因」がある。でも、それを知ろうと思ったら、「結果」の「原因」にまで遡らなくてはなりません。つまり、物質界を超えた領域(非物質界)に踏み込まざるを得ないのです。
この因果関係を説明したロジックが「因の科学」です。それは、物質科学をはるかに凌駕した宇宙哲学なのです。
しかし、現在の人類の「この世界」に関する認識は、「因の科学」からは大きく遠ざかってしまいました。物質文明の発達に伴って、逆に著しく後退して行ったと言ってもよいほどです。これが、「健康」や「医療」や「環境」の分野において、多大のマイナスの影響を与えるに至っているのです。
ひとことで言えば、西洋文明(中でもアングロ・サクソンのはかりごと)によって、「因の科学」が脇に追いやられてしまったのです。その背景には、666の獣の論理があります。物質科学への偏重があまりにも強化されて行き、もはや回復不能な状態にまで、人類は「洗脳」されてしまいました。
けれども、今度の「沸く珍禍」は、少なくともそこに疑問をさし挟む機会を与えることになったと思います。これまでにも何度か言って来ましたが、地球人類のアセンションは、大きく二つの段階を経て達成されることになります。最初は、自分が巨大な社会システムに操られていたと気づくことです。そして二段階めは、自分が身体だけの存在ではないということに気づいて、それ以上のものを知覚することです。これによって、その人は真の「自由」を思い出し、サナギから蝶へと変身するのです。
いま言ったことは、そっくりそのまま、「健康」「医療」「環境」の分野についても当てはまります。間違った(意図的に歪曲された)知識が、これらの分野を席巻してしまい、今では人々がすっかり「洗脳」された状態にあります。しかし、今度の「大惨事世界大染」は、「闇のグループ」が意図していた方向とは違う気づきを、多くの人に与えることになりました。現代の「医療」システムが、「医猟」(Sheep Hunting)になっていることに、人々がやっと気づき始めたのです。
みなさんには、先行する旅人として、単に「医猟」の「闇」に気づくだけではなく、「因の科学」が示す、真の医療と癒しに目覚めていただきたいのです。このブログを読んでくださっている方々の中には医療関係者がたくさんいらっしゃいます。彼らは一様に苦悩しています。自分の志と、現在の「医猟」現場とのあまりにもの乖離に。
今が、真実の「健康」に目覚める時です。
「真理」に時の経過はありません。
いついかなる時代でも「真理」は変わらず「真理」であり続けるのです。
だからこそ「真理」なのです。
ヒポクラテスはこう言っています。
人は誰でも体の中に百人の名医を持っている。
私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである。
これは「因の科学」より発せられた真実の言葉です。
ヒポクラテスは過去の人などではありません。
今でも、人々を救おうとして生きておられるのです。
ほら、あなたのすぐ横に。
(つづく)
この連載は、飛び飛びで掲載されることになるかも知れません。
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いやはや、凄い時代に私たちは生きていますねぇ。そしてこの敗者というものは、最初から決まっているのです。いいですか、勝者ではなく、敗者が既に決まっている。戦争に勝者などはいませんよ。それなのに、愚かな人類というものは、その奈落へと集団で突き進む。
みなさんは、これから起こることをよく観察して、なぜそんなバカなことが起きてしまうのか、なぜ止められないのか、原因はどこにあるのか、をじっくりと分析してみるといい。アホのトリクルダウン。この全体構造をよ〜く見極めることだね。他者の見解を求めるのではなく、自分なりの答えを見つけるんですよ。それが、今の時代に生まれたことの最大の価値となります。
日本では、民意を問うこともせず、また国会で議論することもなく、法的根拠が何もない「国葬」が政府のゴリ押しで執り行われました。多くの反対の声があったのにも関わらず、結局は実行に移された。これが行われねばならなかった。そのことには特別な意味があると思うのです。これは、本当の意味で「国葬」だった。つまり、「A」をシンボルに担ぎ上げて来た「大日本帝国」の歴史が、この葬儀によってやっと終わったのだと。
むろん、最初の意図はそうではありません。岸田政権は、「A」の死を保守地盤の国威発揚に大いに利用するつもりでした。ところが、清和会と統一教会との一件が表に出て、このシナリオが狂ってしまったのです。以前にも言いましたが、統一教会との癒着や米 CIA との繋がりのことなど、知っている人はもうとっくのとうに知っていたことです。何しろ半世紀以上も前から続く暗部の歴史なのですから。
でもマスコミも、知っていながらそれを今まで報道して来ませんでした。表に出すことなく、ずっと裏に隠して来た。それは、マスコミが CIA のコントロール下にあったからです。両者は同じ穴のムジナだった。ところが「A」の処刑後、突如豹変して、清和会潰し、自民党・公明党潰しに動いているのです。Yahoo ニュースなどを見ていますと、「徹底して暴いていくからな!」という意気込みが背後にあるのが分かります。これは、アメリカさんから来る命令系統に、異変が生じたことを物語っています。
アメリカ上院議員のランド・ポールさんが24日、今度の「Plandemic」の首謀者の一人である Dr.ファウチを公聴会に呼びつけてこう言い放ちました。「私たちが行政利権を持った時には、製薬会社から(FDAやCDCの)委員会にどんな利益供与があったのかを徹底的に追及していくからな」。行政利権を持った時というのは、11月8日の中間選挙後のことを指していると思われますが、また不正選挙が行われない限りは、共和党の圧勝となることが確実視されています。
ということで、ファウチがいよいよ追い詰められている。「沸く珍」の副作用のことも、もはや隠せなくなり、手のひら返しをする威者も続々と現れて来ています。目の敵にしていた IVM も「これほど安全かつ安価でよく効く薬はない」との論調が大っぴらに語られるようになり、潮目がハッキリ変わって来ました。しかしその一方で、9月20日に開催されたニューヨークの国連総会に出席した岸田は、その足でビル・ゲイツと会談し今後の指示を受けているのです。
岸田は CDC の日本支部を創設すると言いましたし、政府の買い上げを前提としたモデルナ製「沸く珍」の日本工場設立までも計画しています。世界中が、既に「沸く珍」の茶番と重篤な副作用に気づき出した中で、日本政府のみが未だに「人類削減計画」を強力に推進しているのです。これは、民衆の反抗が日に日に激化している欧米から後退し、従順な日本人を標的に、日本国を最後の砦にしようという目論見だろうと思われます。
弔問外交の思惑が外れ、G7の元首は国葬に誰も姿を見せませんでした。「A」の国葬への参列は、図らずも今後どちらの側に組みするかという「踏み絵」化してしまったのです。来日した中でいちばんの格上だったのはアメリカ副大統領のハリスでしたが、ハリスは国葬終了後にアメリカ海軍の横須賀基地を訪問し、わざわざ台湾有事について言及。そのあとすぐに韓国に渡り、ここで面白いことを言いました。ハリスは「米国は北朝鮮と重要な同盟関係にある」と言ったのです。
DS がアジアの東端で戦争を起こそうとするシナリオは以前から決まっています。その際に、日本の傀儡政権を使って、日本を極東のウクライナにするつもりでした。隣国との敵愾心を煽り、愛国心に訴えて日本人を焚きつけ、中国と戦わせるのです。
しかしそのためには平和憲法が邪魔ですので、憲法を改正し、事前に日本を戦争ができる国にしておく必要がありました。これは岸信介の時代から連綿と続いている清和会の悲願だったのです。そして、その裏には国際勝共連合つまり統一教会がいた。ですから、自民党の改憲案というのは、統一教会案とそっくりになっているわけです。さらに、その裏には北朝鮮と CIA が控えている。これが、「A」とその仲間が唱えて来た、保守・愛国というものの正体だったのです。
先の参議院選挙では自民党が圧勝して、保守系野党を合わせた議席数は、憲法改正の発議に必要な3分の2を楽々上回りました。ですから、これはかなり危険な状況でした。ところが、「A」の公開処刑から、その流れが一挙に変わりました。「A」と統一教会との関係、自民党清和会と統一教会との関係、さらにはオリンピック利権の闇までが公になってしまいました。下がり続ける政権支持率。これじゃあ、憲法改正などまったくの無理。この先2周遅れで、日本でもコロナの闇が暴かれていくことになるでしょう。
さて、ここからがもっと危ないことになる。隠されて来た闇が、これからさらに公になります。その時、追い詰められた人間がどうするか、ということです。DS およびその側近連中は、絶対に反省などしない。嘘をつくことは単なる戦術手段だと思っているので、嘘をつくことに何の抵抗もありません。ところが、そうやってずっと嘘ころがしをして生きて来ましたから、正直であるということの意味が、彼らにはまったく解らないのです。そこにどんな益があるの?という感覚です。
そういう連中が袋小路に追い詰められた際にはどうするか?
これはもう「破れかぶれ」しかない。
9月27日、ロシアからヨーロッパに天然ガスを送るためのパイプライン、ノルドストリームの1、2が爆破されました。NATO は例によってこれをロシアの破壊工作だと言って非難しているのですが、爆破の前後にアメリカの艦船が付近の海上にいたことが確認されています。
自国のメシの種であるものを、どうしてロシアが破壊するというのでしょうか? 破壊したら、今度は修理にお金も時間も掛かるじゃありませんか。別に破壊などしなくても、ロシアはガスの供給を止められるのです。西側の言っていること、やっていることは、もうメチャクチャです。ロシアにいじわるをした結果、困っているのは EU の市民たちなのに、さらにその苦境に追い打ちをかけているのです。
ウクライナ軍(実質 NATO 軍)がザポリジャー原発に対する攻撃を引き続き行っていて、これもまたロシアのせいにしてやろうとあがいています。今のところロシアが防御していますが、この原発がもしもやられてしまったら、ヨーロッパ全土に壊滅的な影響が生じることは必定です。それなのに、こんな気狂いじみたことを始めているのです。
ゼレンスキーはさらに、アメリカに対してモスクワへも届く長距離ミサイルを配備してくれるよう要請を出しました。ロシアはそれがレッドラインだとして、ついに部分的な徴兵に踏み切るとともに、今後はあらゆる兵器の使用も辞さないとまで宣言する事態となっています。
また30日には、ウクライナ東部の4州が住民投票を実施した結果、ロシアへの編入を決定。これをプーチン大統領が承認したことによって、これまでのドンバス地方への攻撃が、今後はロシア領への NATO 軍による直接攻撃ということになってしまうのです。プーチンがこれを座して見ているはずはありません。
ゼレンスキーはユダヤ人です。ウクライナはユダヤ人大富豪でナチスでもあるジョージ・ソロスが、陰で操っている国。ゼレンスキーのバックにはイスラエルがいて、そのイスラエルが、なんとウクライナのナチス軍を支援しているという構図です。
左:ゼレンスキー 右:ジョージ・ソロス
これで、第二次世界大戦のときのナチスによるユダヤ人迫害という歴史が、実は DS が創作した大茶番劇だったということが解る。目的のためだったら、彼らはどんなことでもする。同胞を虐殺することすら、何とも思っていません。日本政府は、残念ながら、その DS の傀儡なのです。
光が、闇をますます暴き出す事態が進行中です。
う、うぅ〜、眩しい。あ、熱い。こりゃ、堪まらん。
ということで、「破れかぶれ」が、人類をハルマゲドンへと向かわせる可能性が出て来たのです。
テロが頻発し、残虐行為がさらにエスカレートすることでしょう。
金融も、経済も、これからメチャクチャになるでしょう。
なぜこんなことになってしまったのでしょうか? 2月24日のロシアのウクライナ侵攻があってから、一カ月後にはイスタンブールにおいて停戦の話し合いが行われていました。ところが、それにストップを掛けたのが NATO です。NATO は軍事顧問団と傭兵を送り込むと共に、同盟国に対して金と武器の支援を要請しました。こうして終わるはずだった戦いが、戦争屋によってドロ沼へと引き摺り込まれて行ったのです。
まさに「亡者の執念」がそうさせているということに、私たちは気がつかねばなりません。彼らは、絶対に反省するということがありません。その絶対に反省することのない「亡者の執念」に、人類全体が巻き込まれて行くのです。なぜそうなるのでしょうか? なぜ途中でストップできないのでしょうか?
2014年のマイダン革命以降、ロシアは我慢に我慢を重ね、慎重にも慎重を重ねてウクライナ問題に対処して来ました。ところが、そのロシアにつねに謀略を仕掛け、メディアを使って真逆の嘘をつき続けて来たのは NATO および西側の勢力だったのです。しかしそのことを、日本国民の大多数は未だに知りません。ウクライナ人を助けるというお題目を信じて募金活動をし、ナチスにお金と軍装品を送っているのです。
この構図は、あらゆるところそっくりだということに気がつきませんか? 感染対策に有効だというお題目を信じて、マスクチェックをしたりアルコール消毒を行っている。感染も重症化も防ぐというお題目で、「沸く珍」接種を推進し、妊婦や子どもにまで打っている。デマ情報の拡散を防ぐというお題目で、 SNS が言論の封殺を行なっている。みんなでスポーツの祭典を祝おうというお題目で、 オリンピック利権が動いている。みんなみんな構図は一緒です。
でもこれらの茶番劇は、「亡者の執念」だけでは決して成り立ちません。
そこを注視してください。
そのお題目を信じ、付き従う人たちが大勢いてこそ、初めて成立するのです。
よく、「思考停止」といったことが言われるのですが、私はこれは違うと思っています。人間の大半は、最初から「思考」などしていないし、したことがない。誰かが言ったことを鵜呑みにしたり、信じたり、鸚鵡返しに言ったりしているだけです。「思考」しないように、つまり自分の考えなどは持たないように、学校とテレビで矯育されて育ってきている。「思考」というのは、自分の考えを持つことです。自分が、何かをクリエイトしていくことです。
また、戦争の悲劇をあとから振り返って解剖するといった場合に、頂点の権力者の動きを追って分析するか、末端の一般民衆の体験を追うか、大抵はそのどちらかの視点になっています。でも本当のポイントは、その中間に位置した人にあったのではないでしょうか。上意下達で、上から下りて来た言葉を何も精査することなしにそのまま下に伝え、それで良しとしてしまう人たち。けれども、この中間層にスポットを当てて解剖したドキュメンタリーというものは、ほとんど見られません。
中沢啓治さんの『はだしのゲン』の中に、町内会長の鮫島伝次郎という人物が出て来ます。この鮫島という男は、戦中と戦後で言っていることが180度違う。悪びれた様子もまったくなく、平気で「手のひら返し」をする人物として描かれています。学校教師は戦後、戦時中に使った教科書の軍国主義的な部分を墨塗りしたものを子どもたちに与え、そのまま平気で教壇に立った。当時は、こんな人間たちが溢れかえっていたのです。
円空仏の研究家の長谷川公茂(まさしげ)さんは、12歳の時に敗戦を経験するのですが、高等小学校の教員をしていた父親が国の言うことを信じて教え子をどんどん満州に送り出してしまい、戦後は「自分が間違っていた」と、その責任を感じて教員をスッパリ辞めてしまったのだそうです。そのため一家は極貧状態となり、それがきっかけで、救いを求めた末に円空仏に出逢ったと言います。公茂さんにとってはそれは運命だったのでしょうが、しかしこのような「責任」をとった人というのは殆どいなかったのです。
新聞『たいまつ』を主催したむのたけじ(本名:武野武治、1915 - 2016年)さんは、大学卒業後、報知新聞、次いで朝日新聞の記者となりましたが、戦時中に軍部の統制に従った報道をしてしまったことの責任を感じて、戦後になるときっぱり新聞社を辞めます。そして、個人でタブロイド紙を発行するようになりました。今でいえば、ブロガーといった感じでしょうか。そのむのさんが仰るには、戦時中の行動を反省した言論人は、皆無に等しかったそうです。
おそらく、今もきっと同じようなものでしょう。もしも橋田壽賀子さんがご存命でいらっしゃったら、ぜひとも次のテーマで朝ドラを創っていただきたいところです。タイトル名は『ほしん』。「ほしん」のほしは欲しいのほし。それとあと、『渡る世間は闇の手下ばかり』というのも。
今後は、鮫島伝次郎のような人たちが次から次へと出てきます。でも、あなたたちは、そういう人たちを恨んではいけませんよ。これは、「倫理道徳」的な観点から言っているのではありません。「倫理道徳」など、所詮は人間が作った悪観念の一つに過ぎません。そうではなくて、「波動」的観点からそう言っています。腹立たしい気持ちは解ります。許せないと思う気持ちも解ります。でも、そこで恨みを抱いてしまったら、あなたのためにはならない。
先ず、鮫島伝次郎のような人間が周囲にいたとしても、それに怒りを覚えたり、恨みを抱いたりする「その気持ち」は、あなた自身のものだということです。あなたが想像したものです。そこに気づきましょう。そういう無分別な人の言動を見て、なぜあなたが、自分で自分の気分を害する必要があるのでしょうか?
第二に、「恨み」の感情は非常に低い波動を周囲に発することになります。そうしますと、その波動が「共鳴の法則」によって同レベルの波動をあなたのところに集めるのです。あなたは、それを見て自分の賛同者がこれだけいる、と思うかも知れませんが、それは波動的にはネガティブを強め合う集団を形成しているのです。その共鳴は、最初は気持ちよく感じるかも知れません。が、後になって大きなしっぺ返しをその人たちにもたらすことになります。
もうそろそろ、そこに気づきなさい。このような応酬をいつまでも繰り返しているから、人類全体に巣食うカルマが消えないのです。
絶対に反省をしない人は別として、鮫島伝次郎のような中間層にある人たちに対しては、その人自身が「気づき」を得るように手助けしてやり、自分が自分に課していた呪縛から解放してあげることが大切なのです。逃げ得(実は「魂」の学習から見れば逃げ損)は許さず、かといって責めもせず、呪縛に気づかせ、解放してあげるのです。そうすれば、その人も、あなたも、共に成長していける。
これこそが、宇宙的な真の愛です。自分が為したことは自分に還る。与えれば与えられ、奪えば奪われる。責めれば責められ、愛すれば愛される。しかしこの還元は、いつもいつも直ちに起こるというわけではなく、何十年もの年月を経たり、時には来世にまで持ち越しとなるので、ほとんどの人が気にも留めていません。しかし、この「宇宙の法則」は完璧です。今後は、この法則の発露を、そこかしこでハッキリと見ることになります。
人類が、今まで為してきたことの大きな揺れ戻しを。
それと同時に、あなたのこれまでの生き方も問われることになる。
よいですか。
自分が為したことは自分に還るのです。
誰も恨んではなりません。
すべては、宇宙的な愛の発露なのです。
「最終戦争」という言葉の意味は、それによって人類が消滅するとか、地球が壊滅するといったことではありません。これをもって、「戦争」という愚かな行為が地球上で終わりを告げるということです。ロシア連合軍だって、別に戦いたくて戦っているわけではありません。何度も何度も説得しようとして来たのに、絶対に反省することのない狂人たちが、多くの人々を騙し、道連れにして「破れかぶれ」に突き進んでいるので、仕方なしに応戦しているのです。
でも、結末はとうに決まっている。『ヨハネの黙示録』第14章にこうあります。
なお目を凝らすと、わたしは子羊がシオンの山に立っているのを見た。
また、それと一緒に144,000人の人々がおり、その額には子羊の名とその父の名とが刻まれていた。次に、第二の天使が来て言った。
「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。世界中の人々を、その不品行と罪のワインを飲ませて惑わせた者が」
]]>実施するプログラムは、「アセンション クラス」と「初級・瞑想法講座」の二つです。
つきましては、出張先現地における計画の立案、各種手配、当日の実施運営の一切をボランティアで引き受けてくださる意欲ある方を募集いたします。
この企画募集の詳細につきましては、こちら▶をご覧ください。
ただ待っているだけでは扉は開きません。
未来の地球のために、あなたのその才能と情熱を、ぜひ活かしてくださることを希望いたします。
あなたのために、子どもたちのために、そのまた子どもたちのために。
]]>その循環は、自然界に見られる不変の摂理です。
しかしそれは、必ずしも「こうでなければいけない」ということを語っているわけではありません。自然界をよく見てください。発芽できない種もあれば、花が咲かずに萎れてしまう苗も、実を結ばない花だってあるのです。それらが全部が合わさって、大自然の摂理というものが営まれているのです。
槇原敬之さんの楽曲に『世界に一つだけの花』という、SMAPが歌って大ヒットした曲があります。この歌詞の中で語られている生命に関する考察は、そのまま真実です。でも、付け加えれば、花屋の店先に並べて貰えない花だってあるのだし、花を咲かせずに終わってしまう命もあるということ。それらすべてが合わさって、宇宙が示している命の表現なのです。
〈「年齢の変化」と「時代の変化」〉の回で、あなたの人生の軌跡は、自分の日一日の年齢の積み重ねと、時代の流れとの交差点が作っていくという話をしました。
ところが、この普遍的真理も、以前とはその受けとめ方に重大な差が生じて来ています。今、地球に暮らす誰もが、人類史上かつてなかった大変化の時代を、共に生きているのです。
この大変化は、具体的に眼に見えるものとなってあなた方に示されていきます。でもそれらは、風邪をひいたときに熱や咳が出たりするのと同じことで、表面に現れた現象に過ぎません。それより重要なのは身体の内部です。身体の内部では、風邪をなんとか治そうとして、目に見えない闘いが、静かに、でも激しく繰り広げられているのです。
あなた方は、この時期に、自分自身が体験していくことになる内なる闘いに、何としてでも勝利しなければなりません。しかしここでいう勝利とは、何かをやっつけるということではありません。一人ひとりが、本来の自分を取り戻すということです。本来の自分を取り戻した時に、これと入れ替わるようにして、何者かにマニピュレートされていた以前の自分が滅びるのです。
社会の変化、世界の変化は、同時に、その中に暮らすあなた方の価値観を変えます。でも、時代の変化に〈対応していこう〉という発想は、もう通用しません。そうした発想は過去のものです。そうではなくて、あなたが先んじて価値観を変えるのです。すでに、その直感のある人は、もう随分と前から動き出しています。
価値観を変えると言っても、そんなに難しいことじゃありません。以前から言われて来たことを、ただ実行するだけでいいのです。次に掲げた言葉は、たぶんどこかで何度も聴いたことがお有りでしょう。これは「宇宙の法則」に照らした真実の言葉です。ところが残念なことに、これを真剣に受け止める人が今まであまりいなかったのです。
聴いてもピンと来なかったのでしょうし、従来の価値観のほうが真実に思えたのでしょう。でも、言い古された言葉が、真実であったと悟る時がいよいよ来ましたよ。これがラストチャンス。次の言葉を何度も何度も噛み締めて、ぜひとも自分のものにしてください。花も実もある世代の未来は、何てったって、これからなんですからね。
・従来の価値観:何かにならなければいけない。
違う!→ ありのままでいい。
・従来の価値観:キャリアアップの設計をしなければならない。
違う!→ 今を生きればいい。Be Here Now !
「ありのまま」とは、どういう意味でしょうか?
あなたが、あなたであるように、あれ。ということです。
アレ、アレ、アレルーヤ。
あなたは、もともと特別な Only One として、ただ今のこの時代に、自ら望んで、この地上に生を受けました。そこには大きく言って二つの目的があります。
一つは、今世の体験の中で、自分のカルマの清算をきっちり果たすことです。
そしてもう一つは、いま進行中の地球の「アセンション」をしっかりと経験し、自分も同時に霊性のジャンプを果たすことです。
先に図示した矢印の縦軸と横軸が、ちょうどその二つの目的を表しています。縦軸は、あなたのカルマ清算の道程です。そして横軸にも、惑星の「アセンション」が宇宙でも極めて稀な出来事であるということから、特別な Only One が用意されているのです。つまり、今世のあなたの人生というのは、
Only One × Only One の軌跡となるのです。
このことを念頭において、これからの日々を生きていって欲しい。
私は、幼少のころから自殺することばかりを考えて来ましたが、それは自分が無智だったからです。「宇宙の真理」のことなど何も知らなかった。でも、こうして生き永らえて、いまジジイになってみてこう言えます。どんなに辛いことがあっても、自殺はしないほうがいいよ。自殺をしたら、先に挙げた二つの課題が、両方とも中途半端で終わってしまいますからね。
あなたの眼に映る、「現実」と呼ぶ出来事は、あなたに向けられた Only One のドラマです。あなたはそのドラマの主人公。いいですか、主人公ですよ。脇役なんかじゃない。もともと特別な Only One なのですよ。そのことを強く自覚しなさい。ただし驕らずにネ。みんなが Only One なんですからね。
さて、改めて「ありのまま」とはどういうことでしょうか?
〈「年齢の変化」と「時代の変化」〉の中で次の図を示しました。なぜ、「体主霊従」の生き方になってしまうのか、という理由です。これは、地上に生まれた人間が、成長するに連れて、ほぼ例外なく「霊的意識」を喪失してしまうためです。ですから、あなたの本体は身体ではなく「魂」にある、そして「魂」は永遠である、ということを何度語っても、あなた方はついぞそこに気づきを発見しようとはしません。
誕生して、成長して、老いて、そして死を迎える。という一生のサイクルのイメージが、もう頭の中にこびり付いていて、これを打ち破ることが出来ません。ネットでもテレビでも、周囲の人たちの行動を見ても、みなそうなっている。あらゆることを、この前提のもとに考え、その中で行動しているのです。でも、「魂」の世界から見たら、これが真逆になってしまうのです。試しに、上下を逆さまにしてみましょうか。
みなさんは、成長するに従って「魂」の意識を忘れてしまいます。自分が誰であったかを思い出せなくなってしまうのです。この心棒を失った喪失感から来る不安を埋めようとして、すがるもの、頼れるものを、自分の外側に見い出そうとするのです。そして、それを信じようとする。しかしその喪失感を、いかなる「代替物」を使っても埋めることは出来ません。そんなものは、所詮はスクリーンに投影された幻に過ぎないのです。
このスキマを埋めるものは、本当の自分、つまり「Oneness」だけなのです。
「ありのまま」とは、これらの代替物に惑わされることなく、本来の自分、つまり「魂」である自分を思い出すということです。自分の内にぽっかり空いたスキマを、本当の自分によって埋めることが出来れば、もう外側に信じるものを見つける必要がなくなります。不安も焦りも消えます。嘘に騙されたり、誰かに操られることもなくなります。
そして、本来の自分、つまり「魂」は無時間の世界に生きているのですから、この世で体験するものは、みな霊性向上のために用意されたジャンピング・ボードに過ぎないということが解ってくる。ですから、ただ「今を生きればいい」のです。
今、今、今、と生きて、その体験の中で霊的向上を果たして行けばよいのです。
だから、Be Here Now !
これから、花も実もある世代のみなさんへ
昭和枯れすすきのジジイより
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*「グローバル・アジェンダ」というのは〈世界のすべての人々が取り組むべき課題〉の意味。いつの間にかそれらが上から降って来て、民衆は当然のこととして従わされるのですが、実体は「闇の支配者」が企んだ国際的陰謀。2015年に国連が制定したSDGsはその一環。
パンデミックで脅され、「沸く珍」打たないとクビだ!と脅され、より素直に従った人たちのほうから、死んだり、重篤な副反応に苦しむ人が出て来ている。ロシアを悪者にした経済制裁は、エネルギー危機、食糧危機、インフレ、経済崩壊、生活破綻を世界にもたらしています。〈世界のすべての人々が取り組むべき課題〉に一斉に取り組んだ結果が、これです世。
恐怖で操られ、政府の命令に従った人たちも、「騙されたぁ!」と気づいた時には、それまでの「恐怖」が一気に「怒り」に変わってしまう。民衆の集合エネルギーというものは凄まじいものです根。怒りが塊りになった時に、長年の歴史で積み重なって来た、民族のカルマ、土地のカルマというものが、それぞれの特色を持って、一挙に噴き出して来るのです。
EUは、NATOの方針としてウクライナ戦争に金と武器の支援をもって介入し、ロシアに経済制裁を課しました。が、それが自分たちのほうに跳ね返って来て、難民の流入と経済混乱という大打撃を受けています。民衆は世界支配の構図(表←裏←影←闇)にもう既にかなり気づいていて、政府を糾弾する大規模なデモが各地で発生しています。チェコのプラハに集まった大群衆には特に圧倒されました。抑圧された「プラハの春」のエネルギーがまるで再爆発したようです。
EUの繁栄と豊かさが、これで終わるかも知れません。もともと資源国でもないヨーロッパが、世界で真っ先に繁栄できたのはなぜなのか。海賊とキリスト教が世界に出て行き、各地の土地や資源を略奪しまくったからです。その上に築かれたヨーロッパの豊かさです。もちろん、いま住んでいる人たちには身に覚えのない話ですが、それでも、民族のカルマや土地のカルマは残るのです。これは、いつか清算されなければなりません。
この100年間はアメリカの世紀でした。世界で唯一の超大国として、科学と軍事の面で世界をリードしました。国民生活に関しても「アメリカン・ドリーム」と言われた華やかな時代がありました。が、80年代以降になると衰退著しく、それ以降は軍事面と諜報活動と金融面の強欲さばかりが目立つ、悪辣な国家に変わっていきました。日本は、その悪の帝国の手下となったのです。
今度のプランデミックも、ウクライナ戦争も、中心にいるのはアメリカです。アメリカのスタイルというのは、昔から砲艦外交で、武力で脅しては相手を従わせるというやり方です。ところが、そのゴリ押しがもはや通用しなくなって来た。政治の裏、影、闇が暴かれ、アメリカを乗っ取った人間たちのこれまでの悪事がバレバレになって来ました。それでもまだ言い逃れをして突破できると考えているのは、非常に興味深い。人間というのはこういうものなのか、と。
嘘が隠されている間はうやむやで終わってしまうのですが、一度バレてしまうと、矛盾が露呈して、玉突き的に悪事の露呈が進む。それでもゴメンナサイをしないのは、全世界共通なんだなぁと。これまでは二大政党制のスイッチでごまかして来たけれど(裏は両方ともDS)、MAGA対DSの、国を根底からひっくり返す闘いになって来ています。これも、先住民を虐殺して大陸を乗っ取ったアメリカの、建国と南北戦争時のカルマの清算が近づいていると感じます。
英国、米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの通称「ファイブアイズ」は、今回のプランデミックにおいて、自国民に対し、ロックダウンを初めとする非常に厳しい制限措置を取りました。それは、ジョージ・オーウェルの『1984年』を彷彿とさせる全体主義国家の突然の出現だったのですが、この「ファイブアイズ」というのは、通信傍受網で得た機密情報を互いに共有するというUKUSA協定の参加国なのです。
諜報界の主役の座は今でこそアメリカのCIAですが、その出発点は英国のMI6です。イスラエル建国の工作をしたのは英国で、イスラエル内にもモサドという諜報機関を作った。そして、そのイスラエルも、世界で真っ先に「毒沸く珍」接種の3回目4回目を推進してきました。ということで、ファイブアイズ+イスラエルの、国民監視と通信傍受に最も熱心なところが、自国民を殺すことにも最も熱心な行動を取っているのdeath。
カナダのトルドー首相は、トラック・コンボイで追い詰められた際に、箔を付けるためにイギリスのエリザベス女王に謁見してツー・ショットを撮り、それをメディアに流すということをしました。そのエリザベス女王の次男のアンドリュー王子は、エプスタイン島での買春の一件がバレて王室の職を解かれてしまった。自国民を密かに監視、統制しようとしてきた者たちの行動が、いま反対に表沙汰になっているという皮肉です。(9日にエリザベス女王死去の報あり)
中国は、オーストラリアのさらに上をいく統制を敷いています。今もゼロコロナ政策をとっていて、なんの科学的根拠もない集団隔離を強制的に推し進めています。何しろもの凄い人口ですから、その規模も半端ではありません。こうしたことが可能なのも、一党独裁による管理体制がすでに出来上がっていたことと、世界最先端のIT技術を持つに至ったおかげです。でもやはり中国らしいというか、万里の長城に見るように、広大なエリアを一挙に統制下に置くその腕力には驚嘆します。
しかし中国という土地は、何度もそれまでの政治体制を根こそぎひっくり返して来たという歴史を持っています。ですから、今の体制も必ずひっくり返ります。押さえつければ押さえつけるほど、エネルギーの反動が溜まって行って、いつか一挙に爆発する。今はまだインターネットの検閲と取り締まりが出来ていますが、これがもしオープンになってしまえば、即座に現政権は崩壊してしまいます。その時の民衆のエネルギーたるや、凄まじいものになるでしょう。
スリランカ、パキスタン、バングラデシュ、インドネシア、チリ、シエラレオネなどの国々では、政権に対する怒りから、一部で暴動まで発生しています。旧先進国(で、今は敗戦衰退国)と、新興のBRICS(で、勝者の資源国)のどちらにも属さない国々は、まだ民衆が貧しくて普段の生活もカツカツですから、物価の高騰がダイレクトに響いてくるのです。そこで、デモを通り越して暴動にまでエスカレートしてしまう。
反対に、ブラジル民衆の明るいエネルギーの発散はもの凄い。こうまで両極端に分かれるのかと思うほど。ボルソナーロ大統領は、自国の保健省に逆らった人です。各国の保健省にはみなWHOのスパイ*が入り込んでいて、国の元首といえども抵抗できない仕組みになっている。が、ボルソナーロはそれに果敢に立ち向かった。非常に早い時期に自身がコロナに感染し、これで自己免疫が出来たのだから、「沸く珍」は必要ないと、免疫学の常識を語っていた。
*Chief Medical and Global Health Officer
この言葉で検索すると、怪しいのがボロボロ出て来るよ。こんなのとか、こんなのとか。英語だけど、自動翻訳かけて見てみて。
ところが、全世界で、専門家と称する「威者」が、免疫学を無視したデタラメを吹聴したのです。そして、非常識が常識になり、常識が非常識となってそれを語る人間を、メディアやインターネットから締め出した。逆にそんなの「FACT」じゃない、デマです、というレッテルを貼った。そのアホのトリクルダウンが、日本では今も行われているのです。でも結果はどうでしょう? 敗染国と、勝理国が明確に分かれたじゃありませんか。
それぞれの表現は違えども、民衆の抵抗運動がこのように世界で同時に噴き出して来ているということは、その裏に、地球規模の大変化があるということを示しています。言うまでもなく、地球の「アセンション」です。地球の波動が劇的に高まっているために、歴史上長年に渡って隠されて来たこれまでの悪事が、一挙に表に噴出しているのです。これは、風邪が治る前の高熱と発汗作用と同じことで、いわゆる浄化が行われているのです。
ですから、こうした悪事が表に出たということは、実質的には「The Great Reset」の企みは既に失敗に終わっているのです。ところが、「闇」の権力者およびその手下たちは、絶対に反省はしません。自分たちの負けは認めません。他者(家畜人)を騙して支配する、その邪魔をする奴らがいたらいつでも駆除する、という考え方でずっとやって来ましたし、そのやり方が今まで通用して来たので、それ以外の発想や価値観がないのです。
しかし、番頭格は「今だけ、金だけ、自分だけ」の論理で動いている人間です。こうした連中は、自分の身が危うくなると、必ず、秘技「手のひら返し」を使うか、クイズ「知らんぷり」で逃げ出すか、いよいよ困ると「他の誰かのせい」にして最後まで己のみの保身を貫こうとするのです。「国葬」問題で支持率を急低下させた岸田は、今ごろになって「国葬なんて誰が言いだしたんだ」と言ったとか。自分の口でそれを発表したという責任意識すらないのです。
日本は、「統一教会」汚染の問題が一挙にクロースアップされて、清和会、なかんずく自民党の存在基盤が怪しくなって来ました。二階元幹事長が「自民党は(こんなことで)ビクともしない」と語ったのは、大いにビクともしているからです。しかし前にも書きましたが、「統一教会」と自民党の癒着のことなどは、岸信介の時代から分かっていたことです。それを今までマスコミが語らなかったのは、マスコミ自体がそこに一枚加担していたからです。
森友問題も、加計学園問題も、桜を見る会の問題も、伊藤詩織さんレイプ事件の問題も、五輪誘致の問題も、マスコミはなぜそれを今まで徹底追及しようとしなかったのでしょうか。それは「A」および清和会に対して、忖度し続けて来たからではありませんか。それを急に「手のひら返し」したのは、自浄作用が働いたからではありません。上の命令が変わったからです。Yahoo!ニュースの報道の仕方を見ていると、「あ、これは清和会を潰せという指令が出ているな」ということが、つぶさに判ります。
マスコミの報道というものは、報道の内容ではなく、なぜそれを、このタイミングで出して来たか、ということの中に真実があります。それと比べれば、内容などは捨ててしまって構わない。それを出す背景には、必ず、伝える側の「意図」がある。報道「内容」というのは、その「意図」を適当な文言で飾っただけの代物。「意図」とは、大衆をどうやって洗脳するか、どうやってある方向に誘導するか、という戦術です。こんなものに引っ掛かってはなりません。
これも前に書きましたが、いま急に「統一教会」汚染がほじくり出されたのは、日本ではデモも暴動も起きないからです。日本人は政治思想にはあまり興味がない。かといって韓国のような情緒で動くということもない。日本の大衆は「和の精神」で動く。みんなが行く方向に私も行く、という忖度文化が骨の髄まで染み付いている。そして多少の正義感もある。そこで、「霊感商法」で悪名高い「統一教会」の問題が、巷で炎上するようにセットされたのです。でも岸田はそれを知らない。
7月25日に、米バイデン政権の国務次官ビクトリア・ヌーランドが来日しました。このヌーランドという女性はバリバリのネオコンで、2014年にウクライナで起きた「マイダン革命」の影の首謀者なのです。ヌーランド、オバマ、バイデン、マケインらが絵を描いて、ウクライナを米国の傀儡政権にこの時すげ替えた。それ以来、ドンバス地方で内戦が続き、2022年2月、支援要請を受けたロシアがついに参戦するに至ったというわけです。
ヌーランドの来日は、岸田にハッパを掛けに来たということでしょう。ウクライナ側の劣勢が続いているので、G7の結束を揺るがないものにして起きたかったのだろうと思われます。8月4日には、米下院議長で民主党のナンシー・ペロシが来日した。ペロシは、この直前に台湾を訪問していて、岸田とは「台湾海峡の平和と安定に連携して取り組む方針を確認した」となっているのですが、要するに、中共との緊張関係をよ〜く演出し危機感を煽っておけよ、という指令です。
そして、8月18日にはビル・ゲイツが来日しました。世界中で「沸く珍」の嘘がバレバレになって来ている中で、日本をどうも最後の砦にしたいようです。5月23日にバイデンが「米疾病対策センター(CDC)」の日本事務所を新設すると発表。6月17日には岸田が「日本版CDC」の新設を決めました。さらに8月11日になって、2023年5月をめどに、日本にWHO傘下の新組織を設立するという合意が、テドロスと岸田の間で交わされていたという記事が共同通信に出た。
そして驚くなかれ、このタイミングで、ビル・ゲイツが「旭日大綬章」を貰ったのです。受賞理由は〈慈善団体を通じた途上国における公衆衛生の改善の取り組みなどを評価して〉だそうです。今でも「途上国の子どもたちにあまねくVaccineを接種し、命を救いたい」という文言を、本気で信じている人がいるのですが、ビル・ゲイツがどれだけの子どもをアフリカやインドで実験に使用し殺して来たか。その実態を知ったら、きっと卒倒してしまうことでしょう。
叙勲の対象者は内閣府賞勲局が決めるのだそうですが、「旭日大綬章」の賞状には、国璽印と徳仁(なるひと)天皇の文字が記載されています。
まるで、エリザベス女王に謁見した時のトルドーのようなタイミングじゃありませんか。
今回は、2020年春の受章決定を2年遅れで受け取ったということで、天皇に代わって林芳正外相がビル・ゲイツに手渡したそうですが、本来は配偶者同伴で天皇陛下から直接いただくという大勲位。そして2020年春というのは、プランデミックをちょうど本格化させて行く時期に当たっていました。
岸田は「人の話をよく聞く」のがウリだそうですが、聞くばっかりで自分の見通しというものは持たないようですね。麻生に「理屈じゃねぇんだよ」と言われて国葬を決めたということですが、今になって大炎上。「統一教会」の話が、これほど逆風となって襲い掛かって来るとは見ていなかったんでしょう。「毒沸く珍」も、ビル・ゲイツとテドロスの意向に従って、10月から1日100万回を超える接種体制を取ると発表したのですが‥‥。もう潮目が変わっているというのにねぇ。
NIHのファウチは年内の辞任を表明しましたし、CDCのロシェル・ワレンスキーも、秘技「手のひら返し」を繰り出して、CDC内の徹底した調査が必要だと言い出した。自分が率先して嘘をついて来たのに「調査が必要だ」って、何という厚かましさでしょう。ファイザーCEOのアルバート・ブーラは「自分は、当初から mRNA って大丈夫かな?と疑いを持っていたが、空気に押し切られた」と、他人のせいにし始めましたよ。そして Youtube も、副作用に関する検閲をもうやめることにしたんだとか。
公開処刑された「A」の信者には大きく二種類がいました。一つは「A」の裏の顔を知っていて、でもそこに何の罪悪感も感じず、おこぼれに預かっていたという連中です。歴代最長の在任期間を記録したという「A」の「無い格創利代人」という地位は、政治家としては何の能力もないけど、利権構造を創るのだけには長けていたので、みんなでお神輿に担いで代わりに大いに利用したということだったのです。そして、死んでもまだ利用したいやつがいる!
もう一種類は、「A」が口にする改憲論も含めた国家主義とタカ派姿勢に共感した人たちです。ところが今度の「統一教会」の一件で、実は韓国、北朝鮮とも通じていて、ジイさんの代からCIAの工作員だったということがバレてしまった。「A」が口にする「AIKOKU」の裏にはBプランがあって、実は「BAIKOKU」だったというお粗末です。これにはショックを受けた人も多いらしい。自分が信じて来た「旗」が「偽旗」だったわけですからね。
しかし、それでも居直って、いや「A」は誰が何と言おうと素晴らしい人間なんだ、とまだ言い張っている輩もいる。そりゃそうだ。自分の信念の突っかい棒が倒れたら、もう立っていられなくなる。
これで、「保守」を標榜して来た人たちの一角が崩れてしまったのですが、「保守」陣営にはもう一つの大きな「旗」がありました。それは「天皇」です。同じ「保守」を標榜する人であっても「A」を嫌う陣営は、「A」は DS の犬だ、「統一教会」は天皇をサタンと呼んでいるんだぞ、と言って非難します。しかし今回、天皇はビル・ゲイツに「旭日大綬章」を与えましたよ。子どもの虐殺を称えましたよ。これをどう見るのでしょうねぇ?
非難しているわけじゃないんですよ。以前から言っているように、「保守」とか「リベラル」とか、どっちが真の「保守」だとか、そんなことは下らない、どうでもいいことだと言っているのです。第一、視点が古い。もうそんな時代ではないことが解りませんかねぇ? 中庸、中道というのは、山のクネクネ道を、山壁にぶつからないように、また崖からも転落しないように、ハンドルを右に切ったり左に切ったりして進むことなのです。
左20度にハンドルを固定しっ放しにしていたら山壁に衝突してしまいますし、右20度に固定していたら崖から転落してしまいます。右17度はニセモノで、真の保守は右に23度なんだと。それが保守本流だと。そんな論争は不毛だし実に下らない。どっちにしたって崖から落ちる。いい加減に目を覚ましなさい。
いま起きている闘いは、左右ではなく、上下の闘いなのだと何度も言ってきたでしょう。ウクライナ戦争だって、上下の闘いなのです。でもそれを、左右のフィルターを被せて見れば、左右の闘いに見えてしまう。そうやって騙すのが、支配者が使ういつものテクニックなのです。いい加減に見破りましょうよ。
通常の戦闘で敗退を続け、追いつめられたウクライナ軍はついに特攻作戦に舵を切り、あろうことかザポリジャー原子力発電所に攻撃をしかけました。お忘れかも知れませんが、1986年に、旧ソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所の大災害。あの原発のあった場所は、ウクライナのキエフ州プリピャチなんですよ。
これもカルマんでしょうかねぇ? ウクライナ軍はここを爆発させて、その仕業をロシアのせいにするつもりだった。もしそうなったら、チェルノブイリと同じか、それ以上の大災害がヨーロッパ全域に広がっていたかも知れなかった。しかし、この作戦を事前に察知したロシア軍によってテロはすんでのところで阻止され、IAEAの査察も終了しました。
西側のメディアは、これをまたロシアを悪者に仕立てて報道するのでしょうが、真実はもうバレています。もうメディアの時代では無いのですよ。戦場の兵士がみなスマホを持っていて、自分が撮影した動画をその場でインターネットにアップしている。私たちは、この一次情報を直接見られるのです。編集加工してナレーションをつけた報道など、もう誰が信用しましょうか。
「A」の公開処刑をきっかけに、次から次へと明かされていく不祥事。結局は、地位と金と女と麻薬。自己保身と嘘。な〜んだ、こんな奴らに支配されていたのか、とは思いませんか? まさにアホのトリクルダウン。パンドラの匣ならぬ汚物の蓋が空いて、今まで何もかも騙されていたんだと気づいた時に、人々はどうするんでしょうか? 世界の人民は怒っている。でも日本人は、怒らないで、落胆したり、意気消沈してしまう人が多くなるのかも知れませんね。
どちらにせよ、重要なポイントがあります。それは、「恐怖心」がまやかしであったと、人々が気づくこと。
表→裏→影→闇と、支配構造のトリクルダウンを遡っていけます。ところが、【闇】の奥には、もう一段階があるのです。それは、この世ではない。霊界に住みつく【魔】の世界。この【魔】が、地上の【闇】を支援しているのです。
では【魔】とはなんでしょうか? そこには、過去【闇】の一員として働いていたが、そのまま浮遊霊となってしまった「魂」たちがいる。
そして、その「魂」たちに栄養を与えて来たものは、人々の「恐怖心」だったのです。
【魔】は「恐怖心」を食べて太っていく。なぜなら、霊界というところは「意識」だけの世界であり、「恐怖心」というのは人々が出す最も低い波動だからです。そこで、「波動の法則」によって、同種のものが惹かれ合う。このようにして、【魔】は人々の「恐怖心」を栄養源にしているのです。
人は、今の霊的めざめの段階に応じたものしか、受け取ることが出来ませんし、また発信も出来ません。ですから、「恐怖心」を操られている間は、周囲にも「恐怖心」の波動を発しているのです。でも、「恐怖心」が「怒り」に転化してしまったらどうなるでしょうか?
【魔】は、もう大好物の栄養をそれ以上は貰えません。その結果、地上の【闇】をサポートする力も無くなってしまうのです。結局、【魔】は人々が創造したマーヤー化しに過ぎなかったのです。いま全世界で、そこに、人々が気づく過程が進行中です。それは、人類全体の、霊的めざめの一歩なのです。
「怒り」のエネルギーは「創造」へと転化できます。また「創造」と「破壊」とは同じエネルギーです。怒って、ぶち壊すことも、怒りから別の新しい何かを生み出すことも出来るのです。壊すことは、同時に反対に何かを生み出している。そこに着目してください。
落胆したり、意気消沈している場合ではありませんよ。今が「創造」のチャンスなのです。「怒り」のエネルギーを「創造」に変えましょう。そして一緒に、「魂」の本当の自由を謳歌できる、素晴らしい未来を創って参りましょう。
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金融大崩壊の兆候がもうあちこちに顕れています。ウクライナ戦争はロシアを敵に回した西側諸国の完敗です。エネルギー危機とインフレで西側の経済はメチャクチャ。政府に対する民衆の怒りが各地で噴出しています。主流メディアの報道が、民衆操作のためのフェイク・ニュースであったことに人々が気づき出し、その裏には、今まで「陰謀論」と言われて嘲笑されて来た「闇のグループ」の計画が、本当に有ったことなのだという認識も広がっています。
しかしみなさんには、何度も言って来たように、そのずっと先を見て欲しいのです。いま起きてることは、所詮は「現象」です。スクリーンに映ったドラマに過ぎません。ドラマに夢中になって、細部を追いかけ回しても仕方がないのです。ドラマはいつか終わります。そして次の時代がまた新たに始まる。
「大惨事」というドラマを、なぜ今、人類が見せられ、体験させられているのか? 作者の意図は、いったいどこにあるのか? それを読み解かなければ、このドラマを体験する意味がありません。
この先、もっと多くの人が死にます。家系が断絶してしまうという人も多いでしょう。出生数も激減します。今までの常識はすべて非常識になります。価値観とライフスタイルが一変します。これらの激変に、精神的に耐え切れない人たちの中には、自殺という手段を選択する人も出てくることでしょう。
あなたは、未来が怖いでしょうか?
しかし、怖がる必要はありません。どうせ全員がいつかは死ぬのです。
課題は、この激動期を「どう体験するか」だけなのです。
よく、人生に行きづまり、思い詰めた挙句に「生きることに何の意味があるのか?」と自問して頭を抱える人がいるのですが、その問いは無駄です。「生きる意味」などありません。
しかし、人生の「目的」はある。それは、「生きる意味」を発見するということです。え、解らない? 生きることに意味を与えるのは天ではなく、あなた自身だということです。誰にも普遍的な「生きる意味」などはない。あなた自身が、自分の人生に、自分で意味を与えるのです。それがこの世で人生を全うする「目的」です。
意味を見い出す「生き方」を瞬間々々において選択する。その日々の選択の軌跡が、結果的にその人の人生となって最後に結実するのです。ですから、どんな激動期にあっても、また困難にあっても、それを「生きる意味」発見のジャンピング・ボードとすることは可能です。頭を強く押さえつけられれば押さえつけられるほど、むしろその反動で、より高くジャンプすることが出来るのです。
あなたの本質は「魂」にあります。物質界で味わう体験は、たとえどんなものであっても、自身という「魂」が、そこで「どんな意味を見い出すか」という極めて丁寧な個別レッスンとなっているのです。
このような「魂」の世界の根本原理を理解しない限りは、今度のような、あまりにも理不尽な「大惨事」が身に降りかかったときには、それを乗り越えることというのは相当に難しいでしょう。今も全世界で、悲嘆や、怒りや、絶望にさいなまれている人たちが大勢います。けれども、宇宙の根本原理をちゃんと理解すれば、人類に訪れたこの未曾有の試練が、逆に神の深い愛であることも解るのです。
とにもかくにも、あなたという「魂」が、今のこの時期に、地球という惑星に生を受けました。霊的進化がかなり遅れた、この「監獄惑星」に自ら飛び込んできた目的の一つには「カルマの解消」があります。
左図は、あなたに関係する様々なカルマを、自分への影響度の強さの順に、階層化したものです。同心円の内側に行くほどその要因の影響度が強く、外側に行くほど直接的な影響が少なくなっています。ですが、外側に広がる輪の中に入っていることも確かですので、このカルマの影響も少なからず受けるのです。
たとえば、気候変動といった地球規模の変化や、人類の遺伝子操作および個人データの統制管理というかつてなかった企てや、ウクライナをめぐるスラブ民族と偽ユダヤ人との戦争や、DSとWHOに操られた国家等、いま一斉に噴出してきた諸問題はいずれも個人に大きな影響を与えています。コミュニティというのは、自分が所属する生活圏ということで、地域、職場、学校、組織、宗教などのことですが、こちらも経済システムが破壊されたことによって、重大な変化を強いられるに至っています。
このようにして、カルマの各階層が、同時に一斉に動き出したということには、もちろん大きな意味があります。それこそが、まさに「地球のアセンション」の到来を示しているのです。しかし、部分ばかり見て全体を見通せない人や、身の上に起こる出来事に意味を見い出せない人にとっては、単にケイオス(chaos:混沌)としてしか認識できないのです。
でもこれは、宇宙の中でも、極めて稀にしか起こらない出来事なのですよ。大浄化というプロセスを経験した後に、地球が次のステージへと新しく生まれ変わる。その大変化の時代を、どうしても体験してみたくて、あなた方は自ら望んで、この時期に大挙して地球へ転生して来ました。
ということで、さぁ、あとはどう体験するかということです。騙されて死ぬというプロセスを通じて体験するのか、はたまた騙すほうに廻って詐欺と人殺しに精を出すのか。病気に苦しんで介護される道を選ぶのか、様々な困難に遭いながらも復活する道を行くのか、それとも苦しむ人々を助けることに生きがいを見つけ出すのか。
さぁ、どうする? ウカウカしちゃおられませんぞ。この機会にアセンション出来なかった「魂」は、アセンション後の地球にはもう転生して来られないんですからね。低い波動のまま、霊界にずーっと留め置かれちゃうんですからネッ!
ところで、あなたは今、何歳でしょうか? 人が一生を通じてすることになる「この世(物質世界)」での学習体験は、年代によってかなり感じ方や受けとめ方、ひいては解釈というものに違いがあります。次の図は、ただ今の激動期を、いくつくらいの年齢で体験して行くことになるかを表示したものです。
今回の馬鹿げたコロナ騒動は2019年の暮れから始まり、たちまちにして世界を席巻しました。が、インチキであることがバレて、上手くすれば今年中には終息しそうです。しかしこの後には、経済と金融の大崩壊が待っています。
コロナ騒動も含めて、今まで隠されて来たことが次々とバレていくという事態は、時代の大きな転換点がそこに表れた、ということを示しています。つまり今が変化のピークです。
人間というものは、ちょっとした変化にも直ぐに慣れてしまうので、よほど極端な変化が起きない限りは、「時代の変化」というものを認識できません。しかし今の事態の萌芽は、もっと以前から始まっていました。でもそれを無視し続けて来たために、今日のような「大惨事」にまで突入していったのです。
また、これでコロナ騒動が終息したとしても、「沸く珍禍」の問題が火を噴き、医療だけではなく、これから金融も経済も何もかもがメチャクチャになって行きます。この後始末は、反対側に次の新しい社会の登場を促すことにもなるのですが、いずれにせよ混乱はまだまだ続きます。そうしますと、前後合わせて30年近くが、地球の大転換期に当たるということになるのです。
これは、悠久の宇宙からすれば、ほんの瞬きするような時間でしかないのですが、地上で生きる人間にとっては、世代が一交代してしまうほどの長さです。あなたが、どの年代でこの激動の時期を通過することになるかは、あなたの人生計画に非常に大きな影響を与えることになってしまいます。
図の赤い斜線は、例えば1960年生まれの人が、どの年齢でいつの時代を生きて来たかが判るようになっています。横軸は西暦年ですが、(この図には入っていませんが)ここにその年の出来事を記入すれば、各年代が何歳の時に何を見てきたかが、たちどころに判る仕組みです。仮にあなたが1983年生まれだとすれば、西暦年のその場所から、赤線に倣って平行線を引き、年齢軸との交点を見れば、生きて来た時代の体験が判ります。
さて問題は、この30年間は、人類史上いまだかつて無かった異常な特異点になるということです。あなたの人生上の意味の発見は、あなたがこの時代を通過していく年齢が何歳から何歳くらいまでになるか、ということが、これからもの凄く大きな影響を与えることになるのです。
例えば、人生の終盤にすでに差し掛かっている人ならば、これまでの価値観を引きずらない、捨てるということが大事になってきます。働き盛りの年齢であるならば、生き方の大胆な転換というものが求められるでしょう。まだ青年期や少年期にあるならば、大人たちの言うことを信じないということがとても大切になってきます。そして幼少期にあるのならば、その親たちが、新しい時代のビジョンを明確に持って、子育てに当たらなければなりません。
さらに言いますと、今度の「沸く珍」と称するものは、人間の遺伝子を書き換えてしまうだけではなく、不妊を促進することが既に確認されています。これがさらに人口抑制効果を高めるわけです。こうした中を運よく生き残った人たちの中で、生殖可能な年代に達した人たちには、アセンション後の地球に相応しい、新しい人類を産み育てるという強烈な課題が託されています。
新しい人類とは、霊的センサーおよび霊界とのチャンネル接続を回復したDNAを持つ、これまでに無い人種ということになります。これは品種改良のようなものですので、ざっと200年、7代ほどの世代交代が必要でしょう。これはなかなかの難事です。覚醒後の新しい世界のビジョンが、代々ずっと継続されなければなりません。しかし逆に言えば、創造力を発揮する場面が無限に開かれているということでもあります。
このところ「旗」も「杖」も持つな、ということを繰り返し言って来ました。それは、「旗」や「杖」に頼ると、知らず知らずのうちに隷属の道を歩むことになるというだけではなく、この先もっとも大切な「創造力」を奪われてしまうからでもあります。これはいけません。誰かの後ろを付いていけば、それで何とかなる時代はもう完全に終わりました。
「創造力」を発揮している時が、人間いちばん楽しい時なのです。早く、その楽しさに目覚めてください。「旗」や「杖」を失うことは、決して苦しいことではありません。むしろ喜ばしいことなのです。その軛(くびき)から解放されるということなのですから。すでに政府のウソと、マスコミのウソがバレました。政治家のウソもバレました。公衆衛生のウソと、医療のウソもバレました。国連のウソもバレました。最後の最後には宗教のウソもバレます。
いっさいがっさい何も信じるな。
信じた結果の今のこの惨状を見よ。
なんど言ってきたことか。
信じる者は救われない。
ただ、己のみを頼みとせよ。
そして、内なる神の存在に気づけ!
さて、どうしたら気づけるのでしょうか?
これには、あなたの「意識」のあり方を変える、という絶えざる訓練が必要になって来ます。以前にも言いましたが、あなた方は、自分の「意識」を意識するということが、日常生活においてほとんど無いのです。自分の「意識」を野放しにしていて、動き回る「意識」に埋没し翻弄されています。それは、自分が「意識的存在」だということを忘れてしまったからです。この世に誕生し、受肉したことによって、身体を持つ自分が自分だと思い込むようになったのです。
次に示した図は、この世に誕生し死を迎えるまでの、意識の(通常の場合の)立ち上がりから消滅までを概念図にしたものです。「魂」が縁ある両親を選んで受肉すると、一人の人間としてこの世(物質界)に誕生します。そして直ちに、この世を認識するための訓練を開始します。すなわち、五感を使って周囲の情報をキャッチし、脳で分析処理した後に、対処行動をとるというプロセスを行使し始めるのです。これは脳の発達とともにどんどん高度化していきます。
一般的なパターンでは、7歳くらいまでに先ず急激な脳の発達があり、それを過ぎると成長度合いがやや鈍化し始め、12歳を過ぎたあたりになるともう脳自体の発達はだいぶ収まってしまいます。しかし、神経回路を構成するニューロンは思考することによって増やすことが可能なので、脳の発達が収まっても引き続き知識量を増やしていくことが出来るのです。と、いま言ったことは一般的な見解で、これは物質界しか見ていない分析です。
しかし、人間の意識というものは、一重だけのものではありません。第2図を見てください。人間の意識の分類に関しては様々な見解がありますが、ここでは解りやすいように単純に「顕在意識(上矢印)」と「霊的意識(下矢印)」としておきます。以前に、これをシーソーの喩えを使って説明したことがあったと思いますが、「顕在意識」と「霊的意識」はトレードオフの関係になっているのです。
さてそうしますと、この世(物質界)を知覚するための脳の発達というプロセスは、逆にその人が本来有していたはずの「霊的意識」を失わせていく過程ともなっていくのです。先ず7歳くらいまでに脳の急激な発達が起きます。しかし図を見ていただければ分かるように、幼少期にはまだ「霊的意識」をかなり保持しているのです。そのため、大人には見えない世界が見えていますし、その世界に入っての一人遊びが出来るのです。
ですから、2歳〜5歳くらいまで子どもに「何を目的に生まれて来たのか」「なぜ、この家を選んで生まれて来たのか」「生まれる前はどうしていたのか」「前世は誰だったのか」といったことを尋ねると、答えてくれる場合があります。ただし言葉がまだ未発達ですので、うまくコミュニケーションが取れないという問題があります。絵を描いてもらうといいのかも知れません。
しかし、こうした時期もあっと言う間に過ぎ去ってしまい、7歳前後にはほぼ全員が、霊界にいた記憶を失ってしまうのです。前世を記憶する子どもたちについては、古くはイアン・スティーヴンソン(Ian Stevenson、1918 - 2007年)の研究レポート『前世を記憶する子供たち』(1987年)がありますが、最近では『死者の記憶をもつ子供たち』というアメリカのテレビシリーズも作られています。スティーヴンソンの頃はインチキ呼ばわりもされていたのですが、少しは認められるようになったということでしょうか?
さて、そうやって幼少期を過ぎ、少年期、青年期を迎えるようになると、大半の子どもが真っ先に興味を示すことは、どちらかと言えば世俗的な悪いことなのです。これはある意味当然で、カルマの強い執着があるからこそこの世にまた転生して来ているわけです。霊界にいた時には、カルマの解消を固く誓って転生するのですが、いざ転生してみると、誓いのことなどすっかり忘れてしまい元のエゴに戻ってしまうのです。その結果、何度も何度も輪廻転生を繰り返すのです。
このようにして成人し、壮年期を迎えると、周囲はみなそういう人間たちばかりですから、よりエゴ的な「今だけ、金だけ、自分だけ」の人間のほうがのさばり、社会の頂点を支配するという現実に直面します。そこでは、この物差しを受け入れて従う人間が出世し、「イヤだなぁ」と思う人間は社会不適合を起こして「鬱」になって行ってしまう。でも「鬱」の根本原因が解らないし、周囲からは白い目で見られるので、みんな自分が悪いのだと思っているのです。
しかし、そんなエゴ的な生き方をし続けて来た人間も、いつかは死ぬ。「死」というのは、「顕在意識」のチャンネルを閉じるということであり、通常は、誕生時とは逆プロセスを踏んで徐々に「顕在意識」を手離し、反対に徐々に「霊的意識」を回復していきます。今の医療の由々しき問題は、このような知識がないために、「魂」がスムースな帰還を願っていても、それを邪魔して無理やりこの世に留めておこうとしていることです。これは是正されなければなりません。
「死」がすべての終わりだと思っている人にとっては、身近な人の「死」は辛く悲しいものに思うかも知れません。が、死ぬ本人はいたって平気です。終末期に入ると、もう「霊的意識」をかなり取り戻しているので、本当の我が家はこっちだったということが分かりますし、霊界のほうが安らかでずっとステキなものですから、喧騒で溢れたバカバカしい人間社会に戻る気などはもう失くしています。それに、縁ある「魂」の帰還への伴走もあります。
ところが、まだ若い年齢でありながら、まったく予期していなかった死が、事故などで突如として訪れたり、死んだとしてもこの世にあまりにも強過ぎる執着を残した「魂」は、死んだ後も自分が死んだという自覚がありません。その結果、霊界にスムースに移行することが出来ずに、物質界と霊界との間をさまよい続けるのです。何しろ、その人の「意識」はずっと継続しているわけですから。このような「魂」を、俗に浮遊霊とか幽霊と呼んでいるのです。
よく「人生は一度きりだから」といった言われ方がされます。この言葉に込めた、〈だから、チャレンジしよう、思いっきり好きなことをしよう〉という呼びかけは、まったくその通りだし、有意義だと思います。が、正確には「この人生は一度きり」なのです。その人の人生は一回ではありません。カルマの働きによって、何度も何度もこの世に転生してくるのです。そのようにして、霊性向上のための学習機会を得るのです。
参考:自殺は人生というマラソンレースの、一つを途中棄権したに過ぎない。
ここで、「この世(物質界)」での、人生上の各年代における学習課題というものを整理しておきましょう。
幼少期:この年代は、大人(通常は両親)の庇護を受けなければ、生存すら敵いません。ですから、先ずもって、物質界に「生きる」という根元的な課題を持っています。五感が徐々に発達していくと、この時期の子どもは、物質界を早く理解しようとして、動くものや音楽に大いなる興味を示します。しかしこれは、同時に、周囲の大人たちに対して、子どもを庇護する役割と本能的な愛の発露の機会を与えるという課題も提供しているのです。
少年期:この年代になると「社会」との最初の接触を経験します。最も小さな「社会」は家庭です。次いで近所や学校へと範囲が広がって行きます。しかし、この年代での「社会」との関わりは、まだ受動的なものに留まります。家庭では「親子愛」を互いの立場から学習していくということになりますが、親と比べて子どもの立場というものは圧倒的に弱いものですから、親となる者には細心の注意が必要です。
教育という言葉が普及し、「家庭教育」という言葉も一般化した現在、ある種の錯覚がまかり通っています。「親子愛」の学習というのは、親が子に一方的に何かを「教える」というものではありません。親は、子育てという機会をいただいて、子どもを通して「親子愛」のあり方を学ぶのです。また、子どもを「作る」という傲慢な言い方を平気でする大人がいますが、親が子どもを作っているのではありません。子どもが親を選んでいるのです。
ところが、そうした視点がないものですから、「家庭教育」という美名の下に、親の勝手なエゴを子どもに押し付けている親のなんと多いことでしょうか。これが、後々まで消えない深いトラウマをその子に残してしまうのです。それが是正されるだけでも、社会は大きく良いものに変わります。
青年期:接触する「社会」の範囲が一挙に拡大します。と同時に、「社会」と能動的な関わりも持ち始めます。親子関係を離れたところでの、他者との「愛」も学習し始めます。最初に興味を持つのは「エロス」的な愛です。
壮年期:青年期に学習した「社会」との関わり方がある程度身についてくると、今度はそれを自分で行使できるようになります。このようにして、社会的影響力を持つ存在に次第に変わっていきます。が、このことは、青年期にどんな価値観を身につけたかによって大きく左右されます。また愛については「フィリア」的なものを学習していきます。
老年期:この年代になると、それまでの学習(生き方)に対する反省が生まれてきます。そして愛の興味も「アガペー」的なものに移っていく。しかし、壮年期の執着をいつまでも捨てられない人は、いわゆる老醜というものをさらけ出す人間になってしまいます。
さて、「この世(物質界)」における年代別の学習テーマは、いちおう前記の通りなのですが、その間の意識というものは、もっぱら「顕在意識」に頼り切った状態です。そのため、普通の生活をしていたのでは、宇宙の本当の真理というものにはなかなか気づけません。どんな人にも守護霊団という霊的存在がいて、手助けをしてくれてはいるのですが、その声を聴くセンサーを失っているので、肉に堕ちた(身体の自分が自分であるという認識)状態のまま生きているのです。これが「体主霊従」の生き方です。
しかし、「顕在意識」と「霊的意識」はシーソーの関係である、ということをもう一度思い起こしてください。「顕在意識」への過度な集中を削げば、反対に「霊的意識」が自動的に浮かび上がるのです。第3図は、20歳くらいでこのことにハッと気づき、「意識」のコントロール法を身につけていったという例だと思ってください。このコントロール法とは、具体的には「瞑想」です。これを7年やり続けたところ、意識に変化が起こり、30代を迎えたころにはすっかりその感覚が身についてしまった、と。
すると、日常の意識のあり方が、「霊的意識」の側にシフトして、こちらの厚みを増していくのです。よく言う「幼な子のようになれ*」とは、この状態です。これが「霊主体従」の生き方ということであり、「アセンション」の成就となるのです。このような状態になると、何をしていても、宇宙の真理に照らした生き方に変わってしまいます。死ぬことが怖くなくなり、物質的なものへの執着もなくなり、波動を知覚できるようになり、ウソも直ぐに見破れるようになってしまうのです。
*マタイによる福音書18章3節
このような意識変化を体現した人が、その家系に7代続けば、ついにはDNA自体に変化が現われるに違いありません。なぜなら、人体というのは「意識」の物質化なのですから。そして、「奴隷として遺伝子操作されて誕生した今の人間*」以前に生きていた、高い霊性を有する、半霊半物質型の人間に人類が立ち返っていることでしょう。これは壮大な計画ではありますが、すでに約束された未来なのです。みなさんには、その最初の礎の役割を果たしていただきたいのです。
*『アセンション 宇宙からのメッセージ』の中に、今の奴隷人種の創生に関する出来事が記されている。
ということで、3年ほど封印していた「アセンション」のセミナーを今冬から再開します。ただし、『虹の学校』の主催では行いません。求める人、求める場所のところへ出掛けて参ります。『虹の学校』のホームページに「出張セミナーのご案内と、お世話役の募集について」という記事を掲載しましたので、もしご興味のある方がおられましたら、ぜひご一読ください。
隠されている意識を覚醒させ、「霊主体従」の生き方に自分を変えていくためには、やはりそれなりのレッスンの継続というものがどうしても必要です。我々はみな凡人です。ただ、霊的知識を増やしているだけではどうにもならないのです。「アセンション」というのは、知識ではなく智恵の獲得です。感覚的変化なのです。
今の時代、私が憂えているのは、人間を取り巻く環境があまりにも煩さ過ぎるということです。都市の喧騒、絶え間なく音楽が流れるお店、後から後から押し寄せてくる広告、おしゃべりな家電機器、24時間手離さない巣魔捕、SNSに暗躍する詐欺師たち。これらが四六時中、あなた方の意識を物質界側に引きずり下ろしているのです。こんな状態に身を晒し続けていては、「アセンション」など絶対にムリ! 低い波動で、すでに意識がボロボロになっているのに、そのことにすらまだ気がついていないのです。
昔から、「アセンション」を決意した人は、深山幽谷や海岸の洞窟に、独りになって何年もこもったのです。そこまでする必要はありませんが、ある程度は世俗を絶って、静寂の中に身を置かなければ、「霊的意識」は開きません。今という時代は、それが難しい。文明の発達の矛盾と言えましょうか。
ともあれ、私たちは、次の時代の礎を築いていかなければなりません。礎を築くことに貢献したあなたの「魂」は、修復したDNAを持つ子孫の中にまた戻って来ることでしょう。明るく、爽やかで、愛のあふれた、素晴らしい未来のビジョンを胸に抱いて、さあ一緒に行動して参りましょう。
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人の心というものは流されやすいので、風が右に吹けば右に、左に吹けば左にと、みな一斉にドドドドーッと動いてしまいます。そして、片側だけしか見えなくなる。人は、自分がいま見たいものだけを見るのです。
世の中の大半の人は、マスコミが情報操作機関、洗脳工作機関としてあるということを未だに知らないので、政界の「統一教会」汚染の報道をいちど目にすると、そればっかりにフォーカスを当ててしまいます。マスコミも図に乗ってそれしか報道しなくなる。こうして時代のトレンドが形成され、闇のグループの意図した方向へと、大衆が誘導されて行くのです。あなた方は、その策略を見抜いて、もうそこから脱却しなければなりません。
今まで隠されていたものが暴露されるというのは、それはそれで必要なことですし、世界の革新を推し進める強い原動力となります。しかし、あなた方には、その先を行ってほしいのです。あの議員は祝電を送っていたとか、この議員は会合に参加していたとか、そんなマヨネーズのチューブをカットして中身を掻き出す*ようなことは、それを暴きたい人間たちに任せておけばよろしい。はっきり言って、そんなものは目糞鼻糞の世界。怒り、妬み、嫉み、の感情に一緒になって突き動かされてどうするのですか?
*「重箱の隅をつつく」はたぶんもう死語で、若い人たちは重箱を使ってみたことすら無いと思うので。
大切なのは、いま起きている事象を「構造的に把握」するということです。なぜ、「統一教会」汚染というものが50年以上も前から起きていたのか? なぜ、それが今まで報道されずに、今になって急に騒がれることになったのか? 戦時中、国家神道の強制が起こした歪みから、戦後は「政教分離」の原則が打ち立てられたはずなのに、なぜそれがずっと無視されて来たのか? 統一教会だけじゃない。日本会議、神道政治連盟、幸福の科学、そして創価学会。どうして、議員たちはその誘惑に乗ったのか?
構造を追究していくと、結局は、人間が持つエゴと、我が身かわいさの保身と、無智(本当の真理を知らない)というところに還元していくのです。早い話が、「アホ」っちゅうことですわ。人間社会では、権力の上に立つ人ほど「アホ度」が高く、このアホの滴がポタポタとトリクルダウン(trickle-down)して行き、末端にまで隈なくアホが浸透しているのです。
参考:人類支配の構造と、支配からの脱却(2018.09.10)
ところが、この構造に気づいていないから、自分がいつの間にか「アホ」にされている(=洗脳)ということに、誰も気づかないのです。今度の「コロナ騒動」でも「沸く珍禍」でも、この構造は大いに機能しました。それだけではなく、そもそも征治も、魔巣込みも、金誘も、医猟も、矯育も、みんなアホのトリクルダウンによって、現在のシステムが成立している。いやまったく、アホ→アホ→アホ→アホ、の限りない連鎖。あんたがアホなら、わいかてアホや、っちゅう世界やね。
モニターに映るゼレンスキーを囲んだ、米欧日の悪い奴ら(番頭格)。
バイデンの後ろに隠れているのはジョンソン英首相。
こ奴らに共通した資質は、自国民を騙して殺すことに熱心なこと。
笹川陽平(日本財団)の別荘に集った、自民党歴代の悪い奴ら(あれ? 清和会の末席に岸田が喰い込んでいるよ。なるほど、次期首相の座の予約済だったんだね)
ところが、このシャンパン・タワー劇場も遂に終わりとなる時がきたのです。
熊さん:シャンパン・タワーが崩れるんだってよ。
八つぁん:ほうかい。
アホの連鎖も、上から降って来るアホをすっかり信じて、鵜呑みにしてしまうから止まらないわけで、人々がこれを易々とは信じなくなれば、アホの連鎖もどこかで止まる。しかしこれは、今までの構造を支えて来た、エゴと保身の欲求に楔(クサビ)を打ち込むことになるので、そこに強く寄り掛かって来た人たちにとっては、もの凄い恐怖心をもたらすことになります。
でもそこで、もう一方を見てほしいのです。光の当たる側です。闇が暴かれて崩壊するということは、反対に強い光が当たっているからこそなのです。エゴと保身がもう通用しない世界がやって来る。それは、まったくの「無智」の状態であったところから、一歩、脱却を果たすということです。
金や、地位や、名声といった尺度をもう捨てる。その替わりに「智」を得る。果たしてそこに、あなたが価値を見い出せるかどうか。
さあ、ここで、あなたの本質は何か?ということに想いを馳せてください。あなたの本質は「魂」なのですよ。「魂」にとっては、何がいちばんの栄養になるのでしょうねぇ。
誰もが人生の幸福を願っているのです。あのビル・ゲイツでさえも。ウォロディミル・オレクサンドロヴィチ・ゼレンスキーでさえも。ただ、「幸福」の定義を錯覚しただけなのです。「肉」に堕ちる幸福に。より得ることの幸福、より持つことの幸福、他者を蹴散らすことの幸福、自分が世界に君臨することの幸福、etc.。彼らは、「魂」の幸福に、光へと上昇する幸福に、ついぞ気づけなかったのです。残念ながらネ。
人為的に「人類削減」などしなくても、人口増加の問題は自動的に調整されました。それが、自然界の法則です。エネルギーも食料も足りています(今のあり方で良いとは思いませんが‥‥)。現在の飢餓や貧困は、物資が不足しているために起きているのではありません。家も食料も足りています。それなのに、飢餓や貧困が起きるのは、「分配」に問題があるからです。要は、根底に〈みんなで分かち合う〉という発想がない。
価値が、すべて「お金」に換算され、「お金」の極端な偏在が起きています。その結果、社会に充分に家や食料があっても、「お金」を持たないためにそれらを得ることが出来ないという人たちがいるのです。投資家は投資によって「お金」をさらに膨らませます。しかし庶民は、一般に労働対価でしか「お金」を得ることが出来ません。そのため、不況、倒産、失業、雇い止め、病気などによって、突如、収入の道を断たれるというリスクをつねに抱えているのです。
今の人間社会および社会システムは、そうした問題があっても、それが当然だと考えています。これは、もう「政治の貧困」を通り越し、「政治の幼稚さ」以外の何ものでもありません。
世界を牛耳る「闇」の総本山が、「お金」を支配の道具として使っているために、「お金」をベースとした社会システムを構築し、「お金」の有無のみが人生の価値であるという洗脳を行なっているのです。この洗脳がトリクルダウンして末端にまで広く行き渡り、結果、人々は「お金」の奴隷となって、本来しなくてもいい苦労や不安に日夜さいなまれているのです。
「お金」による洗脳と支配は、あまりにも深く広範囲に浸透してしまったために、もはやそれに疑問を投げ掛けることも許されていません。しかし、考えてみてください。太陽は誰のものでしょうか? 空気は誰のものでしょうか? 水は誰のものでしょうか? 海は誰のものでしょうか? 土地は誰のものでしょうか? 実りは誰のものでしょうか? 鉱物は誰のものでしょうか? 地球は誰のものでしょうか? 誰のものでもありません。
ところが、誰のものでもないそれらを、「俺のものだ」と言い張る人がいて、地球ではそういう人たちが幅を利かし、人々の上にまるで王様のように君臨しているのです。
よく考えてみてください。
誰のものでもないそれらを、私たちに与えてくれたものは誰なのでしょうか?
そして、なぜ、なんのために、この宇宙が生じたのでしょう?
崩壊後の世界の政治は、そこまで考えられる人間にしか、もう任せられません。「お金」が支配する社会、「お金」に隷属する価値観などは、ただの流感(風邪)だったのです。地球人全員が揃って洗脳されていただけだったのです。
世代交代を急ぎましょう。古い価値観でしかモノを見られない、クソジジイ、クソババアには早々に引退して貰いましょう(あ、ひょっとしてオイラも入る?)。影の反対側に、今どんな光が当たっているかをよ〜く見てください。直感が働く人は、すでにかなり前から動き出しているはずです。
ケイオス(chaos)の時代は、人々のエネルギーが活発に動くときです。世界の動勢を見てください。腐り切った政府が、次々と民衆に倒されようとしています。ここで一挙に、本当の目覚めへと進みましょう。幸福の概念も変えましょう。より得ること、より持つこと、他者を支配することでは、真の幸福は得られません。なぜなら、その物差しにはキリがありませんし、持ったら持ったで、次には失うことが不安になるからです。
あなたの「仕事」の概念を、これから根本的に変えてください。とにかく、徹底して「奉仕」に生きるのです。これは別に無償でやれと言っているわけではありません。自分を生かしていただくための対価は受け取ってください。ここで言う「奉仕」に生きるとは、他の人々を喜ばせたり、楽しませたり、手助けしたり、役に立ったりすることに、徹底して身を捧げるということです。そこに全身全霊を傾けるということです。
自分の才能や自分が出来ることを、惜しみなく人々に分け与えるのです。
そうすれば、人は幸福になれます。幸福に生きられます。
でもこれは、あげれば貰えるという、別にバーター取り引きのようなことを言っているわけでもありませんからね。間違えないでくださいよ。もっと根本的な話。「宇宙の真理」を語っています。
実にこれが、「幸福」への究極の切符なのです。
それはなぜか?
第一に、幸福とは状態ではなく気分だということです。自分がいま幸福だと思う「気持ち」です。その人の幸福「感」のあり方が、自分がいま幸せかどうかを決めているのです。大きな家に住めたら幸せ、お金持ちと結婚できたら幸せ、というのも確かにあるでしょう。それは、その人の幸福感が、(今のところ)その「状態」とリンクしているからです。しかし、大きな家屋敷を持っていても、お金をたくさん持っていても、自分は不幸だと感じている人は大勢います。
反対に、ほんの些細なことにも、幸福を感じることは出来ます。野に咲く花を見て、風にそよぐ稲穂を見て、小鳥のさえずりを聴いて、雨上がりの太陽を見て、青空に浮かんだ虹を見て、その瞬間に「幸福だなぁ」としみじみ感じたことはありませんか?
試しに、次のことを実験してごらんなさい。自分の行動の一つひとつの後に「ああ、ハッピーだ」と付け加えてみるのです。朝目覚めて「ああ、生きている。ハッピーだ」。ご飯を食べて「ああ、うまい。ハッピーだ」。うんちをしても「出たぁ。ああ、ハッピーだ」。仕事机の前に座って「ハッピーだ。さあ、やるぞォ」。夜、床について「ああ、今日一日ずっとハッピーだった」。それを習い性にしてしまえば、幸福というものは、そう思う瞬間瞬間の中にあるということが分かるでしょう。
第二に、行動へのモチベーションが作られるということです。周囲の人を喜ばせたいんだ。みんなの役に立ちたいんだ。その気持ちは、あなたを行動へと駆り立てます。人は、「創造」活動をしている時がいちばん楽しいのです。他人から言われたことをただやるとか、お金をモチベーションにしているだけでは、息が詰まってしまいます。
世の中を見ると、貰うことばかりを考えている人が実に多い。そして自分が貰えないことに、始終タラタラと不満を述べています。けれども、与えることの中にこそ「創造」があるのです。工夫が生まれる余地があるのです。ですから、楽しく出来る。これと、一番めの「気持ち」を組み合わせれば、もうそれは最強です。
第三に、徹底して奉仕に生きれば、自分が死ぬときに「ああ、よくやった」と満足して死ぬことができます。これは、カルマを残さない生き方になります。しかし、エゴの中に生き続けていたら、満足というものは決して得られず、未練を残した死に方になってしまうでしょう。結局、それがカルマをつくるのです。
でも、ちょっと考えてみれば、それがいかに馬鹿馬鹿しい生き方であったかが、解るのではありませんか? 死後の世界には何一つ「物」は運べないんですよ。
ということで、「幸福」への究極の切符は、徹底して「奉仕」に生きることなのです。これは簡単に出来ることです。なぜなら、自分の意識のあり方をちょっと変えるだけでよいのですから。人々に喜んでもらいたい。みんなの役に立ちたい。という強い思いを胸に抱いて、黙々と自分の仕事をすればいい。
ところが、残念ながらそれを実践している人というのは非常に少ない。みんな「幸福」へのベクトルを間違えているからです。逆方向への切符を買っちゃっている。
しかし、もう時代は変わりました。地球は誰のものでもない。みんなのものだ。その中で、すべての人がハッピーであるためには、どうあればいいのか。恵みを互いに分け与えればよいのです。全員が「奉仕」に生きればよいのです。先ず、あなたから始めなさい。徹底して「奉仕」に生きなさい。最終的に、あなたはそこに、究極の「幸福」を見い出すでしょう。
けれども、そこに至る過程で、あなたは、たくさんの嫌な思い、悔しい思い、もの悲しい思い、を経験するはずです。たとえあなたがそのように「奉仕」に生きても、世の中には、それとは真逆の価値観を持った人立ちがまだまだ大勢いるからです。裏切られたり、誤解されたり、誠意が通じないという思いに、きっとひどく落ち込むこともあるでしょう。
でも諦めないでください。闇のほうに引っ張られた人たちには、光は眩しすぎて不快なのです。そして、そういう人たちも許してあげてください。すべては「波動の法則」です。「波動」が合わなければ通じ合えません。エゴに生きる人たちは、目覚めがちょっと遅れているというだけなのです。
評価を気にせず、また大言壮語もせずに、今のあなたが出来る「奉仕」を、胸のうちに抱いて、この先を積極的に行動しなさい。通じる人は必ずいます。響き合う人は必ずいます。それが、「波動の法則」というものなのです。
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