現在、世界には「ジェンダー問題」の考え方に関して、真反対とも言える二つのベクトルが存在します。一つは、いわゆる「ジェンダーフリー(和製英語)」という思想で、社会の中にある、男らしさ・女らしさといった区別やお仕着せを無くしていこうという取り組みです。その主張自体には一理ある部分もあるのですが、この中に LGBT の権利という考えも含まれていて、学校教育にも導入されたりしていることからアメリカの保守層の間で猛烈な反発を呼んでいるのです。
これに対し、伝統的な価値観を守れという考え方があります。女性の社会進出ということが言われてから半世紀以上経っていますので、お若い人にはとてもイメージが出来ないとは思いますが、1960年代までの家庭は、日本もアメリカも夫だけが働きに出て妻は専業主婦、それで子どもを3人くらい養えた*のです。家には車も家電品もなくつましい生活でしたが、果たして今とどちらが幸福だったのだろうと考えると疑問符が付きます。
*嘘だと思ったら、この時代の映画をご覧になってください。たとえば小津安二郎作品とか。
さて、これだけなら、まさに「リベラル」対「保守」の闘いなのですが、この奥にはもっと深い暗闘が隠されているのです。それは、?ジェンダー平等を実現しよう?というスローガンが「SDGs」の第5目標に設定されているという理由を見れば、もう大体の察しがつくでしょう。
「SDGs」というのは「Sustainable Development Goals」の略ということになっていますが、そうではありません。実際のところは、S と D が入れ替わった「Deep State Goals」なのです。これが、例によって上から降ってきて、日本の政府も、自治体も、企業も、マスコミも、市民活動家も、みんながそうすることが正しいと信じて動いているのです。この延長の中に「ジェンダーフリー」というキーワードも含まれている。
人は、手痛い目に遭わなければなかなか目が覚めません。「毒沸く珍」の災禍を経験したことによって、この世界の「闇の存在」にやっと気づいたという人たちが急速に増えています。が、いつも言っているように「構造」をきちんと把握できている人は殆どおりません。表→裏→影→闇→魔、のどこまで知っているかという点で人々の間に大きな格差があるのです。その結果、「ジェンダー」の問題に関してもベストの解決を見い出すことは非常に難しいのです。
「ジェンダーフリー」の主張は、建前としては「性別による役割分担などの固定概念にとらわれずに、誰もが平等で公平に行動できる社会にしよう」ということになっています。これはもっともな主張だと思います。ところが、この主張をベースにして、「多様な性」のあり方を認めよう*という話になり、この中にドラァグ・クイーン(Drag Queen)や小児性愛者(Pedophilia)までをも含めていった。そしてさらに、そのことを幼児教育にまで導入しようとしているのです。
*日本でもLGBT法案が可決されています。
そのような中で、アメリカでは行き過ぎた「ジェンダーフリー」政策に対抗する動きとして、「神の摂理」を持ち出して来る、というもう一方のベクトルが立ち上がっています。簡単に言えば、「神」がなぜ男女の区別をお創りになったのか、お父さんとお母さんがいて、その間に子孫が生まれていくというのが、自然な家族の形であろうと。だから、LGBT なんてものはその自然の摂理に逆らった「神」を冒涜する所業である、と言うわけです。
前回のブログにも書きましたようにアメリカはキリスト教の国です。その中には、「同性愛反対」「人工妊娠中絶反対」を強硬に掲げる「キリスト教右派」と言われる人たちが数多く含まれています。保守派の「共和党」から立候補するトランプさんとしては、この人たちの票を無視するというわけにはいきません。そこで、民主党の政策に反対するという意味からも、「ジェンダーフリー」の問題に関してはいくぶん強めに反対姿勢を打ち出さなければならないのです。
そこにはアメリカ特有の事情があるのですが、非常にやっかいなのは、世の中の出来事に対する理解度には人によって大きなバラツキがあるという点です。かつ、深部を知る人というのは非常に少ない。
いわゆる「草の根運動」と言われるものには、ブームになるものとならないものがあります。ブームになるものは、一見、自発的な市民運動のように見えて、その実は DS から活動資金を得た NGO 組織がそういう工作を仕掛けているのです。マスコミがそれを報道するからブームになるのです。マスコミは、本当の「草の根運動」は取り上げません。マスコミの使命はあくまで大衆の操作ですから。そこで、マスコミ報道の「草の根運動」を揶揄し、これらは天然の草ではない「人工芝革命」だと言うわけです。
近年アメリカで発祥した「BLM(黒人の命も大切)」も「ジェンダーフリー」も、ともに市民の分断を狙った工作*でした。ところが、いつものように、一見「よいこと」を掲げて登場してくるために、普通の市民にはその〈裏→影→闇〉に至る構造というものが見抜けないのです。すると、好き嫌いとか単に感情だけで反応してしまい、たちまち社会に分断が起こる。挙げ句の果ては、疑心暗鬼や非難の応酬合戦となるのです。
*1960年代後半から70年代前半にかけて、「ウーマン・リブ(Women's Liberation)」というアメリカ発の女性解放運動が世界中で展開され、日本でも「中ピ連」が話題になったのですが、これも「人工芝革命」でした。
*「ジェンダーフリー」が、小児性愛の合法化までも狙っているということから、これが明らかに「人工芝革命」であるということが分かるでしょう。なぜなら DS の中枢はバチカンも含めて小児性愛者だらけだからです。
思い出してみてください。「沸く珍」が導入されたばかりのころを。首相が「感染を予防するし、感染しても重症化はしない」「自分だけでなく、周囲の人々も救ける」とビデオ広報で言いました。多くの著名人や医師が接種を推奨し、SNS では、打たない人間を非国民扱いやバカ呼ばわりする人たちまでが登場しました。行く先々で市民のゲシュタポが自発的に登場し、マスクの着用を厳しくチェックしていました。これらが、みな「よいこと」として行われたのです。
それと同じ輪っかの中に「ジェンダーフリー」というテーマもあります。あの「SDGs」の輪っかは、多様な色の「輪」に見せていますが、その実は「分断」を狙ったものです。「SDGs」が掲げるテーマに各国を従わせて国民を洗脳し、隷属させていく一方で、これに反対する者たちは非国民扱いして封じ込めていくのです。
しかし、「コロナ」の嘘と闇がバレたことをきっかけに、「地球温暖化説」や「EV」や「代替エネルギー」や「昆虫食」にまつわる嘘と闇もだんだんとバレてきました。芸能界の裏側もバレてきました。ウクライナとイスラエルの実体もバレてきました。中央銀行の闇もバレてきました。WHOをはじめとする国連機関の茶番もバレてきました。主流メディアが流すニュースがフェイクだということもバレてきました。
理解度の格差はまだまだ相当ありますが、とにもかくにも泥の詰まったタンクの底に穴が空いたのです。この穴はもう修復できません。泥水はこの先も抜けていく一方です。
しかし、多くのことで洗脳からの目覚めが進んだとしても、こと「ジェンダーフリー」というテーマに関しては、真に目覚めるということは当面ないでしょう。その理由は、この問題の本質が、「ジェンダーフリー」は是か否か、というような次元にあるものではないからです。
現在の対立は、「従来の固定的な性別の概念にとらわれずに、多様な性のあり方を認めてその生き方を尊重しよう」という主張と、「男女の結びつきは家族の自然なあり方なのであり、伝統的な宗教はみなそうあれと説いている」という考え方との闘いという構図になっています。この意見にはどちらも一理あるのですが、「多様な性」がなぜ存在するのか、という根本理由についてはどちらのサイドとも触れられてはいません。これでは真の解決は無理です。
なぜ「多様な性」が存在するのか? これについてはすでに以前に書きました。人間の本質は肉ではなく「魂」にあります。「魂」は霊性の向上を目指し学習のために何度も地上に輪廻転生をします。その過程で、「性」的なものに対するこだわりやとらわれが強く生じたとき、それにまつわる課題を来世にまで持ち越してしまうのです。
そこに働いているメカニズムは、他のこだわりやとらわれ(例えば金銭欲や物欲)とまったく同じことで、それが特に「性」的なものに強く働いたというだけの話です。ですから「性」に関しても、他のすべての課題と同様、こだわりやとらわれを捨てて、自己の「魂」を解放してあげる、ということが生きる上でのテーマの一つになっているのです。
ところが、「性」的なものには秘め事や気恥ずかしいことが多いために、他のテーマのようには「解放」が進みづらい。「解放」どころか、より潜伏させて隠してしまいがちです。しかし、基本的に、ちゃんと分別がつく独立した青年となってから恋愛をし、相手に対しても、また周囲に対しても、苦痛や不快な思いをさせないのであれば、何をしようと自由です。自己を解放して「性」を大いに楽しめばよいのです。
地上への転生をその「魂」が希望し、肉体を持つ選択をしたということは、肉体面の学習もちゃんとしてから帰って来いということです。人間は、霊的存在であると同時に動物でもあります。ですから、先ずは動物であるということをよく学習し、地上でしか体験できない「性」を通じて「愛」の初歩に触れる、ということも大切な体験となっているのです。
ところが、そうした知識を人々は知りません。知らないだけではなく、「性」をタブー視し、多くの宗教が霊性の向上のためには肉欲を消滅しなければならないと説きました。これが却って歪みをもたらし、こだわりやとらわれを育ててしまったのです。過去2500年間は宗教の時代でしたから、この歪みが幾重にも積み重なって堆積し、今があるのです。現に、聖職者の中には、隠れて小児性愛に耽る人が多数います。この「闇」も、近いうちに公になることでしょう。
しかしながら、いま言ったことはほとんど誰にも認知されない、この世の次元を超えた話です。したがって、現段階では、現実的な対処をとっていかなければなりません。先ず「多様な性」ということに関しては、それを寛容の中に認めることです。輪廻転生との関係で「LGBT」の傾向を持つ人はどうしても生じます。しかしそれを、宗教的ドグマで押さえつけてしまったら、隠れて発散するしかなくなってしまいます。すると、またそれがとらわれを生み出します。
大切なことは「解放」なのです。どんな人間も、男に生まれたり女に生まれたりする中で、多少なりとも「性」に対するこだわりは生じます。また、前世の環境と体験から来る抑圧意識(例えば、禁欲を強いられた聖職者だった、娼婦だった、性的被害に遭った、等々)を抱えている人も大勢います。そうしたものを全部ひっくるめて、一切合切を大いに「解放」していくことが求められるのです。
そのためには、自分の課題にちゃんと向き合い、体験し、そして気づきを得る、という過程が人それぞれに必要です。社会は、そうした学習の前提に対して寛容であるべきです。
日本は、「性」に関しては元々かなり寛容な社会性を有していました。ところが、日本はアメリカさんの属国ですし DS の言いなりですから、近年、アメリカ産の「ジェンダーフリー」思想を輸入して、これを広めようとする動きが活発化しています。私が住んでいる某市でも、熱心な議員や市役所職員がいるようで、「LGBT」の権利などと言い出して、条例を制定したり学校教育に取り入れようとする動きを展開しています。
しかし、「権利」意識を振りかざすのはまったく褒められたものではありません。「権利」意識そのものが、自己の「とらわれ」を強化する方向へと働いてしまいます。そして、「解放」とは真逆のベクトルに自分を追い込んでしまうのです。また、不必要なところで「権利」ばかりを主張すれば、必ずしや社会との軋轢を生み出します。DS の狙いの一つはそこにあるのですが(もう一つは本当にそのように社会を変えていくこと)、そんなものに安易に乗っかってはいけません。
日本はもともと寛容なのですから、そのまま寛容でありさえすれば何も問題はないのです。いや、それでも「差別」や「偏見」の眼にさらされる、と仰るかも知れません。しかし、繰り返しになりますが、それを「権利」で乗り越えることは出来ません。「権利」の下にたとえ人々を従属させることが出来たとしても、それで「意識」までを変えさせることは出来ません。社会に「寛容」が広がることでしか乗り越える道はないのです。
それに ─── 、
「差別」や「偏見」の種はおよそどこにでもあります。ハゲとかデブとかブスとか貧乏人とかへなちょことか(あ、オレのことだ)‥‥etc.。「性」差別を問題視する人は、自分の関心がことさら「性」に向いている(つまりとらわれている)ので、そこに過度に敏感になっているのです。およそ、「差別」されていると思っている人は、みなそれぞれの分野の敏感症を呈しているのです。
「差別」や「偏見」の奥にある問題とは、詰まるところぜんぶ一緒です。人は、「差別」や「偏見」の具体化した部分にしか注目しようとしません。しかしそれは、「差別」する側の人間の「心の表現」という「結果」であって、「結果」の前には必ず「原因」があります。そしてその「原因」は、「差別」する側の人間が抱えているものなのです。そこに、運悪くターゲットになるものが現れると、その間に「縁」が生じて、「結果」として「差別」が生まれるというわけです。
ですから、「差別」や「偏見」というのは表層の問題であって、真の問題点は、それをする人間の心の奥底が今どのような状態にあるかということなのです。
世の中から「差別」や「偏見」が一向になくならないのは、それをする側の人間の「因」に、アイデンティティに関する問題が深く腰を下ろしているためです。あなたは誰か? どこから来て、どこへ行くのか? これは自己の「生存」に関する究極的な問いかけです。しかし誰も、この問いかけに真剣に向き合おうとはしません。いくら考えたところで、どうにも答えが出そうにないからです。そこで、適当に誤魔化して今日一日をやり過ごす。
ところが、納得のいく答えが見つかっていないものですから、潜在意識の中にはつねに漠然とした不安感が残り、これがなかなか拭えません。そこで、その不安を埋めようとして、自己のアイデンティティに関して、人は大まかに次の三段階のステップを体験していきます。
?:自分が独自の存在であることを周囲に認めさせようとする。
?:シンボルへの帰属をもってアイデンティティに代替させる。
?:?であろうとすることも?であることも捨ててしまう。
?は、ごく最初の段階です。よく幼児が、自分のしている動作を「ねえ、見て見て」と周囲に盛んにアピールしているでしょう。あれは、個別の自分というものを認めて貰いたいのです。認めて貰うことで、自分が確かに存在しているんだ、ということを確かめているのです。この段階をちゃんと通過していくことは人格形成にとって非常に重要です。ここで無視されてしまった児童は、その後に深い傷を抱えて生きることになります。
少年や青年の齢を迎えても、自分個人への関心をなんとか引き寄せようとして、多くが悪事に手を染めるのです。善事よりも悪事のほうが魅力的ですし、誘惑も多く自分を認めてくれる仲間もすぐにできるからです。しかし、それだけでは社会からの認知が得られないということに気づくと、?の方向へと進みます。組織や、権威や、地位や、肩書きや、財力や、名誉などのシンボルを掴むことによって自分のアイデンティティを表現しようとするのです。
冷静に考えてみれば、シンボル=自分ではないのですが、自分が何者かを周囲に認めさせるためには、これがいちばん手っ取り早いのです。というのは、周囲の人々も、本人よりも先にシンボルを見て相手を品定めしようとするからです。そこでこの公式が社会の通念として幅広く定着してしまい、今や誰もその行動に疑問を抱きません。ですから、「波動」を読むなどということは頭の隅にすら思い浮かびませんし、やってみたこともありません。それがために、始終騙されてばかりいるのです。
さて、自己のアイデンティティに関する認識がこの?と?の段階にあるときに、人の意識に「差別」や「偏見」の念が湧いてきます。なぜなら、自己の優位性を誇示し、かつ自己満足を得るためには、自分が努力するよりも、他の誰かを貶(けな)したほうがずっと簡単で手っ取り早いからです。そこで何割かの人は、こちらの方向へと強く走り出していきます。そして、それがエスカレートすると、いじめや暴力や虐待にまで及んでしまうのです。
でもそれは、その人の霊的学習レベルが、まだかなり未熟な段階に留まっているということを表しています。ところが、ここに「一神教」が掲げる善悪二元対立の概念が、ばっちりフィットしてしまうものだから恐ろしいのです。自分たち以外は、みな邪悪な存在なんだと。だから、そいつらを蹴散らすことは「正義」であり「善」なのだと。そのようにして、霊的未熟さは一挙にマスキングされてしまい、あろうことか最悪の戦争殺戮にまでエスカレートしてしまうのです。
しかし、いま言ったような性向は、相対的なもので多かれ少なかれ大抵の人が持っています。これは程度問題であって、ハッキリ白黒をつけられませんし、しかもその性向はアイデンティティに起因しています。ですから、「いじめはダメだよ」「差別はいけないよ」といくら言っても、「差別」や「偏見」はなくなりませんし、そういう性向を変えるのも難しいのです。そこが変わっていくためには、その人の「霊性」が向上するのを待つ以外には手はありません。
けれども、このアイデンティティの問題は、次のステップを迎える段階になって飛躍的な変化を見せます。なんと、?も?も捨ててしまったときに、人は本当のアイデンティティを知ることになるのです。自分は誰か? というアイデンティティを確立するために、さんざん奮闘して生きて、最後の最後になって、そんなものはぜんぶ不要だったと悟った瞬間、本当の自分というものに気づくことになるのです。これが、よく言う「ありのまま」ということです。
でも、そう言ったところで、サッパリ訳が分からないことでしょう。当然です。アイデンティティをめぐっていま盛んに格闘している?と?の段階にある人にとっては、信じ難い逆説でしょうし「捨てる」ことには恐怖も感じることでしょう。ですから、「いま直ちに捨てよ」などとは申しません。それは後々のお楽しみとして取っておいてください。それに、先ず持たなければ、「捨てる」という行為と意味も体験できないのですからネ。
しかし、ここで頭の隅に入れておいて欲しいのは、たとえ自分のアイデンティティを支えていたものがぜんぶ壊れたとしても、まったく問題はないのだということです。霊的には、却って成長できるチャンスである、ということを覚えておいてください。
既存の金融システムが瓦解する兆候が、とうとう表に出てきました。果たして今月が山場となるのでしょうか? でもこれも、入れ替えのための作戦。まだ、我々には当分は明かされないでしょうけれど‥‥。しかし、それに伴って企業、政府、自治体などにもこれから大きな影響が及ぶことが予想されます。会社倒産やリストラの被害に遭われる方もきっと出てくることでしょう。
でも大丈夫。
崩壊の直後には、あまりのショックから、茫然自失という体になってしまう人も中にはいるかも知れません。けれども、壊れたものは、ぜんぶ虚飾のアイデンティティに過ぎないのです。すべては単なる思い込み。
しかし、霊的なあなたは、それでも依然として「あなた」であり続けます。
なぜなら、それこそがあなたの本質なのですから。
あなたの、真のアイデンティティなのですから。
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しかし小さなサインはちょこちょこ出しており、認知症を演じているバイデン役者に「(トランプさんが)現職の大統領」という失言を言わせたり、マイク・ジョンソン下院議長がマー・ア・ラゴの邸宅を訪問した際には、大統領のエンブレムをつけたジャンパーを着て登場していました。ですから、〈今も大統領だよ〉というアピールはそれなりにしていますし、水面下では軍の最高司令官としての行動を着実にこなしているようです。
2月28日にテキサス州の国境警備の視察に行った際には、ついに「これは軍事作戦だ!」と明言しました。またその前日には、カナダのジャスティン・トルドー首相(おそらく役者)に「ロシアがこの戦争に勝たなければならないことを知っている」と、お茶目な失言をさせています。このところ、ジェイコブ・ロスチャイルド死去の発表を境いに、世界中でエリート層の辞任や退位や入院(表向き)や死亡が相次いでいますから、大方の整理はほぼ終わったと見てよいのでしょう。
ですから、これから11月までは過渡期です。3月17日にはロシアの大統領選挙が実施されプーチンさんが選ばれることは確実視されていますから、あの2017年にがっちりと握手を交わしたプーチン=トランプ体制の戦略がこれで成就し、新しい世界秩序の実現に向けてのスタートが切られたということです。しかし、DS の残党がまだ残っていますので(特に日本)、破れかぶれになった彼らが今後何をしでかすかは予断を許しません。
表のニュース・メディアしか観ない人たちにとっては、これから起きていくことの意味がさっぱり理解できずに、まるでキツネにつままれたようになってしまうことでしょう。けれども、ここで重要なのは、それがみな「過渡期」の現象だということです。ニュース・メディアはそれ自体が旧体制に属しており、また大騒ぎするのが仕事ですから、社会変化や事件をつねに「不安を掻き立てる」方向へと誘導しようとします。
しかしみなさんは、新しい時代のほうにフォーカスを当てて行動して行ってください。古い世界はどのみち消えて行くのです。ですから、そんなものの動向にいちいち心を騒がせていても仕方がありません。時間のムダです。無視してうっちゃってくだい。その代わりに、未来に対して、自分なりの真理のビジョンを持つことです。そうすれば迷うことはありません。
さて、この「過渡期」における地球変革は、すでに表面化しているように、暴力を暴力によって制圧するという形で進行していかざるをえません。これは、現在の地球の霊性段階を考えれば、う〜んなんとも致し方のないところです。しかしそれは、「まだまだ本物ではない」ということに留意なさってください。ですから、たとえ制圧が成ったとしても、それで直ちに新しい世界が開けたというわけではなく、焼け野原が一面に見通せるようになったというだけなのです。
今の世界変革の主役は、米露の二大軍事大国です。ロシア連邦は西側陣営全体と戦わなければならないという極めて厳しい構図の中にいます。その中枢にはアメリカ合衆国があります。
一方のアメリカは、事実上はすでに二つに分かれていて、西側(DS)を統括するバイデン陣営と、MAGA 運動を推進するアメリカ共和国トランプ陣営との、見えない内戦の状態にあります。ですから、ロシア連邦側から見ると、バイデンのアメリカは敵だが、トランプのアメリカは味方ということになるのです。表のニュース・メディアは殆どが西側(DS)の支配下にありますので、それだけを見ていたのではこうした複雑さはとうてい理解できません。
このようにアメリカは、DS の総本山でありながら、同時に DS を討ち倒して MAGA 運動を成功させるというミッションが、国内に共存しているのです。そのため、トランプさんとしては、水面下では秘かに軍事作戦を進行させつつ、表面では大衆を洗脳状態から徐々に目覚めさせていき、MAGA 運動に向かって民意を鼓舞していく必要があったのです。
なんと言っても、アメリカは移民の寄せ集めの国ですし、プロテスタントの伝統的価値観と強さ(Machoism)がボンディングを果たしている国だからです。そのため、アメリカ社会ではつねに「善」と「正義」が叫ばれるのです。そして、それをプッシュすることが「強さ」の表明となるわけです。
ところでみなさんは、今の世界情勢を見ていて、あることにお気づきではないでしょうか? 現在の混沌(Chaos)はみな、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの「一神教」が浸透した地域に集中しているのです。
大きな地域紛争が、ウクライナ=ロシア間とイスラエル=パレスチナ間で起きました。ヨーロッパでは農民一揆が一挙に EU 全体にまで拡大し、人々の生活基盤を脅かす事態にまでなっています。 アメリカはバイデン政権が推進した不法入国者の大量流入と治安の悪化、テロの横行やホームレスの急増で混乱状態がますます酷くなっています。これらのことは何を意味しているのでしょうか?
ハッキリ言って、これは「一神教」とその「宗教システム」が賞味期限切れの段階に来ていることを表しています。
「一神」そのものは決して間違いではなく、論理的に言っても正しいのですが、それを「教」にして「宗教システム」に仕立て上げたところに無理がありました。
「宗教」になると、それが集団化していき、大きくなればなるほど管理のためのピラミッド構造が必然的に造られていきます。すると、上からの号令一下で多数の人間を同じ方向へ動かせる力を持つようになるのです。これが「権力」と結びついてしまった。そのため、逆に権力構造に振り回されるようになっていったのです。これはすべての「宗教」が抱える自己矛盾です。本来「霊性」は、あらゆる権力を超えたところにあるものなのですが。
さて、この賞味期限切れの時期をどう乗り越えていくかというときに、一つは「宗教の融和へ」という道があります。「我が宗のみが本物」という極論はとりあえず後ろに下げて、各宗教の文化的背景を尊重するという態度です。それはそれで、実現できればたいへん結構なことです。ロシアのプーチンさんはこのような方向を目指しています。プーチンさん自身はロシア正教ですが、ロシア連邦は多民族多宗教で構成されていますし、周辺国との関係を考えてもそれがいちばん現実的なのです。
ところが、トランプさんはそういうわけにはいきません。トランプさんは、外交ではプーチンさんと同じように融和の姿勢を押し出しているのですが、アメリカ人向けには違う顔を見せなければなりません。それは、アメリカという国が実質的にはキリスト教国であり、選挙対策のためには影響力の大きい福音派(Evangelicals)にも配慮しなければならないからです。そこで、「善」「正義」「偉大」「愛国」「勝利」といった、アメリカ人が熱狂するキーワードが頻繁に使われることになります。
日本人であるみなさんの大半は、多分その部分に違和感を持たれることでしょう。がしかし、それはアメリカの「過渡期」としては仕方がないものとして見てください。日本に入って来る海外情報の大部分はアメリカのフィルターを通ったものですので、それが世界の時流のように感じるかも知れませんが、あくまでもアメリカの「過渡期」なのです。国の総体としての「霊性」から言えば、(アメリカ人には失礼ですが)ロシアのほうがずっと進んでいます。
では日本は? 日本は、残念ながらアメリカさんに飼い慣らされてこき使われている犬です。DS のパシリであり、お金の貢ぐクンです。しかしそれは、政府の上層部と一部の太鼓持ちが腐っているというだけであって、総体としての日本人の霊性は、一昔前よりもむしろ向上しているのです。ただ、高い部分は目立たずひっそりとしていますし、低い部分のほうがアピール力が強くて拡散スピードも速いので、あまりそんなふうには思えないというだけです。
世界に比して、日本人の霊性がそれでも高く維持されている理由は、日本人の土台に脈々と流れ続けてきた自然観、そしてそこにある八百万の神々に対する畏敬の念、また礼儀や配慮を重んじる日常生活が、風土と「魂」との間で絶えず交感を続けてきたからなのです。そのルーツを遡っていけば、修験道や古神道やアイヌ文化などにも行き着くことでしょう。
これまでの世界は、欧米中心の考え方や価値観が最も優先され、その下に運営されて来ました。その中で、物質主義や、マネーや、テクノロジーや、人間第一主義(自然はその下僕)や、競争の概念が世界を席巻し、おかげで人々の生活は飛躍的に便利で快適なものとなりました。一方で、人間の心の中から霊的なものがお留守になっていってしまいました。人々はもう目もくれません。しかし人間は、単に物質的存在であるだけではなく、それ以前に霊的な存在なのです。
物質世界に大変革が起きて、しかも「一神教」(と称する、実は「二元教」)が矛盾の限界を迎えたときに、人々の「魂」はどこに安息を求めるのでしょうか? 人間が霊的存在である以上、安息は絶対に必要です。現に、あなた方は無意識的に日々安息の地に出掛けています。「眠り」がそれです。しかし、ただの「眠り」だけでは霊的向上は殆ど見込めません。やはり、毎日をどう生きるかという体験(しかも苦難の)によって向上させていくしかないのです。
そのときに、日本人が持つ自然観や神々に対する考え方が、今後、世界のお手本となっていくことでしょう。八百万の神々という考え方は、欧米の「一神教」の人々からは、これまでは未開の低位のものと見られて来ました。しかし、すべてのものに「神」が宿っているという考え方(汎神論)は、見方を変えれば、これこそが「Oneness(一神)」に最も近い「神」概念なのです。しかも、自然と人間を分け隔てせずに共存関係と見るのです。
こうした考え方は、今の人類全体の中では一歩先を行くものです。そのことに日本人は誇りを持ってください。そしてさらにその感性を磨いてください。
日本が、沈みゆく西側に属し、DS に操られて「毒沸く珍」を打たされ、憂欲工作員からどんなに戦争を焚き付けられても、今なお平和で美しい国であり続けられているのは、一般市民の総体としての霊性が、比較的高いところをキープしているからなのです。
みなさんが見たり体験したりしている現象は、つまるところは、すべて「波動の法則」の示すところに従っています。実に単純なことです。高い「波動」のところには高いものが同調して集まり、低い「波動」のところには低いものが同調して集まっていく、というそれだけの話。
今のあなたの周囲には、今のあなたの「波動」と同程度の人たちが集まっています。これが、世にいう「縁」。あなたの「因」が「縁」を引き寄せ「果」を結び、そこに「報」をもたらす。このようにして、あなたの人生のすべてが「波動の法則」に支配下にあるのです。そして、その「因」をもたらしている者とは、つねにあなた自身なのです。そこに、あなたの「自由」と「責任」がある。
あなたが、安心、思いやり、親切、献身、慈愛、救済といった統合方向へと意識を向ければ「波動」は高まり、恐怖、憎悪、蔑視、エゴ、虐待、暴力といった分離方向へと意識を向ければ「波動」は低下します。さて、今のあなたは、前者は何パーセントくらい、後者は何パーセントくらいでしょうか?
前者をいま以上に少しずつ増やしていきましょう。それが周囲の人々にもに影響を与えます。そして、やがては人類全体にもその影響が及ぶのです。
あなたもこの地球の大切な一員です。
ともに手を携え、高め合って参りましょう。
]]>しかし泳げるようになるためには海に入らねばならない。
しかも泳げる者にしか、溺れた者を救うことは出来ないのだ。
]]>
ということで、緞帳がせり上がり、ついにトップスターがその顔を見せたというわけです。内容的にはカールソンさんの突っ込みが甘く、どれも既知の情報ばかりでしたが、それでも「西側」の一般人の眼にプーチンさんの素顔と肉声が直接届いたということには大きな意義があったと思います。類い稀なる知性、洞察力、忍耐力、言葉の慎重な選び方、そしてユーモアのセンスを観た人の多くが感じ取ったことでしょう。
カールソンさんはスーパーでの自分の買い物風景などもアップしており、「西側」の行ったロシア制裁というものが、庶民生活にまったく影響を与えていないことも伝えています。また、アメリカと比較して、治安がよいとか、落書きがないとか、ホームレスがいないといったこともレポートしており、米露の現状の落差と、西側のメディア報道がまったくの虚偽であるということを強く印象づけました。
カールソンさんはアメリカ国内でとても人気が高く、影響力も大きいので、多くの人々の眼を覚まさせる効果があったことでしょう。
それにしても、今回のカールソンさんのインタビュー事件は、これまで我々が認識してきた?メディア?というものの終焉を決定づけてしまったと思います。すなわち、大手メディアは流通機構としてもう不要だということと、主流メディアが管理する記者の取材と、編集された記事(つまりある意図への誘導)にはもう価値がないということです。たった一人の情熱家が、それをあっさりと凌駕してしまうということが証明されたのです。
結局、「主流メディア(MSM)」などは、捏造情報による大衆操作機関でしかないということがもうバレバレになってしまった。メディアに所属する人に、せめて〈ジャーナリズムの本質とは何か〉ということを追求する姿勢があれば、コンテンツ部門だけでも生き残れたかも知れませんが、それが嘘八百というのではまったく価値がありません。主流メディアは、その形式とともに遠からず消滅して行ってしまうことでしょう。
さて、こうして世界情勢の真実が一般の人々の耳目にも届くところとなったのですが、それでもまだまだ個々人の認識の温度差が大き過ぎて、みなバラバラで、総体としての人類の波動が上向くというところまでは至っていません。そもそも関心の差もありますし、洗脳度合いと解錠度合いの差もありますし、理解度の差もあるためです。結局それが、地球人類の(現在の)多様性ということであって、人類はこの段階を、これから乗り越えていかなければならないのです。
目指すところは、人類全体の「霊性の向上」です。
ですが、そのためには、
?直観を磨くということに加えて、
?智恵を発達させる(賢くなる)ということと、
?霊界に関する基本的な知識を学ぶということが、
共にバランスよく身につけられていく必要があるのです。
もしも、現在の人類に直観と賢さが備わっていたとしたら、プランデミックの悲劇などは絶対に起こらなかったはずです。そして、もしも霊界に関する基本的な知識があれば、騙す人間なども現れなかったはずです。
このことは、人類全体としての課題であるばかりでなく、個々人にとっての課題でもあります。この機会にご自分を振り返ってみて、直観、智恵、霊界の知識のどれがどのていど自分に欠けているのか、そして課題はどこにあるかを考察してみてください。
しかし、すでに賽は投げられました。後悔したところで今さらどうなるものでもありません。人類は、いま挙げた「課題」を、このタイミングで示された大いなるギフトと捉えて、次の段階に駒を進めていかなくてはなりません。
先ずもって、「沸く珍」被害に遭われた方は、デトックスの対処をいの一番にしてください。今度の「沸く珍」は、遺伝子操作とナノテクを利用した生物兵器であって、一般のお医者さんには対処ができません。お医者さんはそうしたことを何も知らないのです。以前にもお伝えしたことがありますが、これについては RK さんが日本でいちばんの情報量と経験値を持っておられます。この方の動画で知見を広げて、適切な対処をなさってください。
加えて言うと、物には物の理があるのですが、身体は必ずしも物理法則だけで動いているのではありません。身体を動かしているものは心であり、その心を動かしているものはその人の本体であるところの「魂」なのです。ですから、その理屈が解れば、身体の健康維持には、別のルートからのアプローチもあるということがお解りいただけるでしょう。むしろ、こちらのほうが主なのです。ということで、両面作戦を採用してください。
悲観したり、後悔したり、絶望したり、恨みに思ったりするのはよくありません。起きたことは起きたこととして受け留めて、それを「チャン、チャン!」と実際に口に出して区切りをつけ、きれいさっぱり水に流してしまいましょう。そして、自分の気持ちをポジティブなものに切り替えて、新しい創造に向かうのだと決意して立ち向かうことです。
これが何より大事なのです。みなさんは、何かというと直ぐに生死のことを考えてこればかりを話題にしますが、生死など、霊的には回転ドアをくぐる所作でしかありません。何度も言うように、大事なのは「生き方」と「死に方」なのです。それを、どのような心持ちの中で経験していくかということが、地球学校における「魂」の学習なのです。ですから、この未曾有の機会に、最高の学習成果を持ち帰ろうじゃありませんか。
現在、地球上で起きている激動は、これまでの「時代の変化」といったものとは根本的に違う性質のものです。みなさんの眼には同じように映るかも知れませんが、そんな悠長なものではありません。先ず、地球勢力圏の「波動のベース」全体が上昇しています。次に、変化のスピードが幾何級数的に上がっている。その結果、隠されていた悪事が次から次へと炙り出される事態となっています。さらに、いま言った理由から、そのツケは今世中に払わなくてはならなくなったのです。
自分が為したことは自分に還る。このことは宇宙の基本原理として何度も申し上げて来ました。しかしこれまでは、悪事を為したとしても、その反作用が、必ずしもその人が生きているうちに回って来るとは限らなかったのです。そのため、地上では悪人が栄えるという歴史がずっと続いて来ました。宇宙の法則は絶対です。因果応報というものは確実に存在したのですけれども、それがカルマとして来世にまで持ち越されたりしたものですから、素人目(?)には分かりにくかったのです。
ところが今回は違う。今世で為した悪事は今世中に清算するハメになったというだけではなく、過去世に積んできたカルマもここで一挙に清算ということになった。どっヒャー‼︎ つまり、決算棚卸しだけではなく、閉店在庫一掃大処分市になったというわけです。悪人たちにとっては、これは非常に辛い、耐え難い事態に思えるかも知れません。しかし逆なんですよ、出血大サービスになっている。なぜなら、生きているうちに反省の機会というものが得られるのですから。
生きているうちに反省できる。これは、なかなかどうして凄いことなんですよ。霊界に行ってからでは反省もしづらいからです。なぜかと言いますと、「霊界」というところは、霊性の高さに応じた厳然たる界層分けがなされた世界だから。これは、X線とガンマ線が区別されるのと同じく、その「魂」の〈ベースの振動数〉が異なるためです。そうしますと、悪人たちは、同じ振動数を持つ悪人たち同士が集まった世界を創ってしまうのです。
例えば、盗み癖がどうしても抜けないという男がいたとしましょう。この男は、死ぬと、自分が収るべき場所に収まります。すると、周囲の者もみな盗人ばかりなのです。結果として、互いに物を盗み合うという関係を延々と続けることになってしまう。物を盗むと言っても、実際には「物」はないのですから、盗んでも盗んでも家の中に溜まっていかない。「あれ、変だな?」と思っても「盗みたい」という衝動だけでずーっと動き続けている。それで別に警察に捕まることもありませんから、反省のしようがないのです。
結局、いい加減に飽きが来て「助けてくれ〜」という気になるまでは、100年でも200年でもその生活をし続けるということになってしまいます。余談ですが、「自殺はしないほうがいいよ」と言う理由の一つはそこにあります。自殺をすると、そこに至った気持ちというものが死後もずーっと継続してしまうからなのです。死んでハイ終わり!とはいかないのですよ。
しかし長い目で見れば、どんな「魂」にも救済の道が開かれていますし、いつかは最上階にまで到達できるのです。
地球という惑星の一大特徴は、「霊性」の高さに違いのある「魂」が、同じ一つの地表に住んでいるということです。「霊界」ではそれはありません。地上は、いわばごった煮の世界なのです。そのため、地上では必然的に「霊性」の上下間で軋轢が生じます。これは心地よいものではなく、難儀で辛いものです。しかし人々は、その背景にある理由を知りません。そのため、地表では際限なく闘争を繰り返すのです。
「霊界」とは違ってまったく理不尽な世界ではありますが、このようにして多大の負荷が掛かるからこそ、様々な体験が出来るのですし、大いなる学習成果も得られるのです。
今の世界のあり様を見ていて、きっとあなた方は「こんな残酷なことがなんで出来るのだろう?」「どうしてこんな人間がいるのだろう?」「なぜ人間は争い続けるのだろう?」といった、余りの理不尽さに戸惑い、憤りを感じていることでしょう。「いったい?神?はどこに居るんだ?」と悪態をつきたくなることもあるでしょう。しかしこの機会にこそ、いま進行中の事態を俯瞰して(それも遠く、眼を宇宙空間にまで引き上げて)地上を観察してみて欲しいのです。
地上には、様々な人間が闊歩しています。その中には、「霊性」の高い人も、低い人も一緒になって混じり合っているのです。この高低差というものが、意識のどういうところに表れるかという話は以前にしましたね。分離と統合です。その人の意識が、物質的なものや分離的な方向へ傾いたときには「霊性(波動)」が下がり、純粋精神的なものや統合へ向かったときには「霊性(波動)」が向上していくのです。
一人の人物の、今の「霊性」がどのあたりの位置にあるかは、二つの要素によって決まります。一つは、その「魂」のベースの「霊性」の高さです。そしてもう一つは、その時々における「意識」のアップダウンです。ベースの「霊性」の高さは、過去世までの学習体験によってほぼ決まっています。人間が生まれながらにしてみな性格が違うのは、過去世で積み上げた性格を引き摺っているためです。この中には「霊性」の高さの要素が多分に含まれています。
しかし、普通の人には「波動」を知覚できないのと同様に、「霊性」の高さというものも明確には嗅ぎ分けられません。でも、なんとなくは分かるのです。人が「人間性」と呼んでいるものがそれで、「人間性」というのは「霊性」の地上での顕れ方を指しているのです。しかし、その点に注目している人はほんの僅かしかいません。多くの人は、権威や肩書き、金持ちであるかどうか、容姿、体格、などを人物評価の基準にしています。
このようなわけですから、これまでの人間世界のあり様も、致し方のない面があったのです。それが、一気に大変革の時を迎えたのです。この変革は、DS の悪人たちを順に捕らえて処刑するという展開で進んでいます。ベースにあるのは「善悪二元論」です。「他に方法がなかったのかなぁ?」と思うのですが、エリザベス・ハイチも『イニシエーション』の中でそうなることを予言していましたので、やはりそれが運命ということだったのでしょう。
しかし、処刑して「ハイ、それで終わり」ではなく、なぜそのような地上世界が出来上がっていたかを振り返って、ちゃんと分析してみることが大切です。なんと言っても、人は、人間である以前に霊的な存在なのですからね。ですから、霊的意味を考えてみなければ、本当のことは解りません。今は「善悪二元論」で取り敢えずのカタをつけようとしていますが、人類は、遠からず「善悪二元論」を超えていかなければならないのです。
地上に見えるごった煮の世界。地球という惑星は、そもそもが「霊性」の低い「魂」の受け入れ先としてありました。フレデリック・マイヤースによれば、地球よりも程度の低い星はあと一つしかないと言います(ꏿ﹏ꏿ;)。地球は監獄惑星であり、牢名主が支配する世界だと、何度も言って来ました。「霊性」の点から見ると、価値観がひっくり返っているのです。その監獄の中で、いろんな「霊性」の段階にある「魂」が蠢いているところを見てください。
世の中には、他者を差別したり、傷つけたり、殺したり、暴力をもって従えさせたり、幼児を思いのままにすることが、何より「楽しく」て「愉快」という人たちが結構います。ネオナチとかヤンキー的な気分の人たちです。こうした「魂」は、地上でまだほんのヨチヨチ歩きを始めたに過ぎません。自己のアイデンティティを「分離」方向に見い出そうとして四苦八苦している段階です。そのため、他者を貶めることによって得られる相対的な優越感が自分にもたらされることを必要としているのです。
それよりは、多少とも知性の働く「魂」がいます。こういう人は、自分で暴力を振るうようなことはしません。ヤンキー的な人たちを利用するのです。彼らの暴力的な衝動を利用して、その上に君臨し、支配的な勢力権を確立しようと図るのです。ヤンキー的な人たちは、まだ暴力でしか自己表現ができず、知力で自分をコントロールする術を知りません。そこで、自分を導いてくれる親分肌の人を求めます。こうして両者の利害が一致するのです。
ヤンキー的な人たちにとっては、親分が語る思想信条の中身などはどうでもよいのです。そこまで考える頭脳もありません。ただ自分の衝動を導いてくれる人に盲目的に従っていくというだけです。およそ「カルト」的なものは全部このようにして成り立っています。これは、社会的観点からすると、非常に危険な集団に発展する可能性があります。ですが、自分で考えることを拒絶した人間たちの集まりですので、この信念を変えさせることはとても難しいのです。
そして、その上にはさらに知力に長けた狡猾な人物が君臨します。この人間にとっては配下の集団は単なる駒です。自分のビジョンに従って駒を好きなように動かしたり入れ替えたりするだけで、彼らの生き死になどは別にどうでもよいのです。この駒を操るのには「お金」と「秘め事」を使います。傘下の親分にとっては思想信条などは単なる肩書きに過ぎません。「お金」さえ貰えばどんな思想信条の服でも着てしまいます。加えて「秘密」を握られてしまうので、逆らうことも出来ません。
ここに、コロナ・パンデミックとか、温室効果ガスとか、EVとか、BLMとか、捕鯨とか、ポリコレとか、‥‥etc.、社会的正義の流行をそのつど作り出しては嵌め込んでいくのです。この全体を、「神」の否定と、人類の恒久的支配に情熱を燃やす、ごく一握りの狂人たちが操っている。ちなみに、いま言ったグループは、表→裏→影→闇の階層を構成しています。そして、善人たちもみなその構造の中に巻き込まれてしまっているのです。
なぜそんなことが可能に? 人々に、直観と、賢さと、霊界に関する基本的な知識が、欠けていたからです。
このようにして、何層にも渡って悪の支配構造というものが作られているのですが、宇宙的に観れば、今のこの状況は、地球人の霊的な学習段階が、現在どの程度にあるのかということの「現実」を映し出しているということになるのです。それがアーサー・C・クラークが言った「幼年期」ということです。つまり、地球に集まっている「魂」は、総体として見た場合に、まだまだ未熟な幼児の段階にある者が多いということです。
ですから、そのことをよく理解して、私たちは、悪人たちに対しても慈愛の眼をもって見ていかなければなりません。宇宙的観点からすれば、まだ未熟なヨチヨチ歩きの段階にある「魂」が、この地球に大挙集合してきている、ということに過ぎないのですから。
あなたがもしも親だとしたら、あるいは保母さん保父さんだとしたら、ヨチヨチ歩きがしたイタズラにどう対処するでしょうか? 「罪」には「罰」で報いるのでしょうか? 「悪」は「正義」によって駆逐するのでしょうか? ここで、自分が為したことは自分に還る、という宇宙の基本原則を思い出してみてください。
いま言ったことは、現段階ではとうてい納得し難いものだとは思います。が、怒りや、恨みや、憎しみを抱えたところで、自分自身の「魂」をさらに傷つけることにしかなりません。また、それで霊界への旅立ちを豊かにすることもありません。
この世での出来事は、みなスクリーンに投影した映画なのであって、一人ひとりがその主人公として自分の映画を体験しているだけ、という話を胸にしっかりと刻んでください。そこでは、成功とか失敗ということよりも、その体験を通じて何を学びとったかが最も大事であるということも。
そうはとても思えない? ええ、解りますよ。でも、そうなんですもの。
たとえ人数は少なくても、みなさんには次のステージへと進んでいただきたいのです。霊界の知識、宇宙の法則をきちんと学べば、「神の恩寵」の本当の意味も、やがては実感をもって解るようになることでしょう。
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この大舞台、今の世界で起きている劇変には、三重の「お芝居」の意味が隠れています。先ず一つめは、コロナ・パンデミックというものが、そのあとに「毒沸く珍」という主役を出すための前座の仕掛けであったということ。しかしこの第一の「お芝居」の真相は、もうかなり表に出てきましたね。
そして二つめは、その「毒沸く珍」の件も含めて、これまで長きにわたって世界を思い通りに操ってきたディープ・ステートを退治するための特別軍事作戦が、ロシアのプーチン大統領とアメリカのトランプ大統領(実は今も正式な大統領)の協力のもとに、秘密裏に着々と進行していたということです。そして、それがいよいよグランド・フィナーレを迎える段階にまで来たのです。
このことはまだそれほど知られていませんが、DS の最上層の主要メンバーはすでに片づけられていて、今も生きているかのように振る舞っているのは役者か CG ということのようです。また金融システムに関しても、裏では新旧の転換が着々と進んでおり、現行の金融システムは実質的には破綻終了しているとのこと。しかしこれらは、みな幕の裏側で進行していることで、私たちは引き続き「お芝居」を観せられているというわけです。
なぜこのようなお芝居が続けられているのかと言いますと、いちばんの原因は、アメリカ国内で内戦が勃発するのを防ぐためです。「え、そんなアメリカ国内の事情で‥‥?」と訝る向きもあるかも知れませんが、アメリカの行方は今後の世界の行方なのです。なんと言っても、第二次世界大戦後の政治、経済、軍事、そしてメディアの世界覇者として君臨していたのはアメリカです。いわゆるアメリカ一強です。
そのアメリカという国を乗っ取り支配してきたのが DS だったわけです。が、そうした裏側の歴史を当のアメリカ人たちがあまり知らない。そのような中で、二大政党制という茶番政治体制(両党とも、裏で支配しているのは同じ DS)に完全に染まり切り、メディアの報道や医療システムを何ら疑うことなく信じこんで来た人たちに対して、いきなり机をひっくり返すようなことをしたとしても理解できないわけです。
アメリカというのは、移民で構成された多民族の人造国家で、バラバラな人間をボンディング(接着)するものは、星条旗への忠誠心しかありません。ところが、その星条旗が清浄でも正常でもなかったということが悲劇であり、大問題となっているわけです。そうすると、「アメリカの現状」というものへの理解度の差から、アメリカ人が大好きな「愛国心(Patriotism)」を巡って、国が真っ二つに割れる可能性が非常に高い。しかも民衆がみな銃を持っている。
2020年の大統領選のころは、主流メディアの報道を鵜呑みにしたり、民主党びいきの人がまだ大勢いました。ですから、バイデン政権がいかにひどいものであるか、政治屋がいかに腐ったものであるか、メディアがいかに嘘八百を並べ立ててきたのであるか、軍産や医薬品業界がいかに身勝手なものであるか等々を、その動きを逐一見せていくことで、徐々に民衆が気づいていくようになるまで辛抱強く待つ必要があったのです。
そのために、DS のトップクラスから始末をつけた上で、取り巻き連中以下を自由に泳がせておいた。そうすれば、彼らはこれまで通り保身に走った行動をする。そこでタイミングを見て「真相はこうだよ」という機密情報を徐々に解除していく。すると矛盾が露呈され、弁解したり強弁したりするほどますますトンチンカンな話となって民衆が呆れていく。こうして、誰が DS の配下に所属しているかが炙り出しとなり、次のターゲットの退治もしやすくなるという次第です。
それを聞いて、「なぜ、もっと早くに真実が明かされなかったのか?」と、残念に思う人が中にはおられるかも知れません。特に「沸く珍禍」の犠牲となってしまった人たちの中には。けれども、早期に真実が語られたとして、世間一般の人々に、果たしてそれが届いたでしょうか? 真実は、実は最初から語られていました。しかし主流メディアが真逆のことを言ったり、政府がそれを検閲したために極めてマイナーな場所にしかそれがありませんでした。
人は、その人の現在の霊性の段階に応じた情報しか受け取れないものなのです。それ以上のものは、どれほど有意義なことを言ってあげたとしても、全部スルーされてしまいます。それがいけないと言っているわけではありません。単にそういうものだと言ったまでです。結局、すべては同調・共鳴という「波動の法則」に従っているのです。
霊性の段階と学習というものは、その人がいま山登りの何合目を登っているかという話に喩えられます。一合目を出発したばかりの人に、五合目の風景は見えません。いきなり五合目を歩けと言ってもそれは無理な話なのです。物資世界にあるもの(例えばお金)を無上の喜びと感じている人は、それはそれで、その段階における霊的学習を今しているということなのです。したがって、学びは遅れているかも知れませんが、非難することはできません。
ですが、どんなに学習が遅れた人であっても、いつかはそうした行動にも飽きがきて、その上を目指したいと思うようになります。けれども、そうなるまでにはいくつもの苦難を経験しなければなりません。なぜなら、自分が為したことは自分に還る、という原則を体験させられることになるからです。結局、苦難を経験し、それを乗り越えようと思うことが次のステージへのジャンプ台となるのです。
ですから、つねに向上心を持ち続けて生きるということが非常に重要であり、人生上で経験する様々な「痛み」は、社会のせいでも誰かのせいでもなく、みんな自分の未熟さより生じた体験学習であったと振り返ることが大切なのです。そうすることによって、今日の一歩、明日の一歩の成長が図られていくのです。
さて、「沸く珍禍」では、世界で56億人が接種をしてしまい、これまでに1700万人が死亡しました。またウクライナ戦争ではすでに50万人が死亡しています。ウクライナには訓練を受けたプロの兵士がもう残っておらず、高齢者や障碍者や女性までもが徴兵されて前線に送り込まれる事態となっています。また1月26日に、国際司法裁判所(ICJ)がイスラエルに対してガザ地区への集団殺戮をやめるよう命じましたが、イスラエルはこれを無視し続けています。
多くの人たちがこの2つの戦争(「大惨事世界大染」と「地域紛争」)の犠牲者になってしまい、今もなおその数を増やし続けているというのは大変な悲劇です。しかしここで、「戦争」の構図というものはいつも一緒だということに気づければ、人類にとっては、この「痛み」を学習体験に変えるチャンスとすることができます。いえ、チャンスどころか国民国家の幻想が消滅し、軍隊はもう必要がないのだ、というところまでの飛躍も可能です。
よく見てください。ウクライナ人を死に追いやっているのは、詰まるところ誰でしょうか? ゼレンスキーです。いまイスラエルを存亡の危機に落とし入れているのは誰でしょうか? ネタニヤフです。プランデミックによる「大惨事世界大染」の中心人物は誰でしょうか? ビル・ゲイツと Dr.ファウチです。結局のところ、どの「戦争」もみな「正義の戦い」を口実にした、実は同胞の人口削減(人口調整)の手段となっているのです。
恐怖心を煽って人々を戦争に駆り立て、そこに参加させる。そして、その人々を殺し、都市を破壊することによって金を儲け、次には人道支援と復興だと言ってまた金を儲ける。人々を病気にさせることで儲け、次にはそれを治してやると言って儲ける。環境を破壊することで儲け、次には環境保護だと言って儲ける。精神を破壊するような発明品を生み出しては儲け、次には精神病を治してやると言ってまた儲ける。すべて手口は同じです。
無論、それは一人の力で出来るわけではありません。スポンサー兼アイデアマンの下に、私利私欲のことしか考えない取り巻き連中と、保身と組織優先で動く悪徳官僚と、金の力で操られたメディアと、嘘の物語をすっかり信じ込んでいる狂信的な人々が、「波動の法則」によって引き寄せられていき、一致協力して、一般の普通の人々を死に追いやっているのです。そして誰も、自分がした行動の責任を取ろうとはしません。
ひどい話ではあるのですが、これもまた?そういうもの?なのです。
「善と悪の原理」のところでも述べたように、善悪というものはすべて相対的なものです。誰にでもこの両方の意識がある。その中で、その人がどの程度の悪人かは、その人の中にある分離意識と統合意識の相対量によって決まります。
そして、地球においては、分離意識にほぼ完全に支配された狂人が、いちばんの権力を持つという逆ピラミッドを構成しているのです。
この最下層にある「魂」には、どんな悪事を働こうが良心の呵責というものはありません。大衆というものは人間ではなく、人間の形をした「家畜」だ。だから「家畜」をどう扱おうがどう利用しようが我々の勝手だ、という発想と論理です。なぜこのような狂気が存在するかと言うと、彼らなりの霊的ミッションというものが中芯にありその信念に突き動かされているためです。お金儲けというのは目的ではなく、配下の人間を操るための道具でしかありません。
これは「善と悪の原理」のところでも少し言及しましたが、そのような強固な信念を抱き続け、常軌を逸した混乱と殺戮と破壊のプランを実行に移すことによって、彼らは、この地上に「神の恩寵」などはない、ということを証明しようとしているのです。そして「神」を否定するということに、無上の喜びと生きがいを見い出しているのです。早い話が「ドヤ顔」をしてみたいのです。誰に? 「神」に対して。
えーっ、そんな動機で?と思われたことでしょう。まったくもって馬鹿げているのですが、ルシファー(堕天使)の「波動」と同調しているために、それが変だとはちっとも思っていません。けれども、この発想が幼稚なのは、?「神」を否定する?という言葉の中にすでに矛盾が露呈している、ということに気がついていません。言葉の前提として、「神」の存在を認めてしまっています。「神」の存在を最初から認めないのであれば、「否定」も必要ないわけですからね。
彼らがやっていることは「邪悪」と言えば「邪悪」ですし「悪魔教」を信じているということもまた事実です。がしかし、「邪悪」のレッテル貼りをして、そいつら全員を掃討してしまえばそれで万事シャンシャンに治まるのか、ということです。その先の「魂」レベルのことは何も考慮されていません。これは、善悪二元論に汚染されているアメリカ人特有の考え方だと言えます。ヨーロッパ人の大半はすでに教会に幻滅しキリスト教にもだいぶ興醒めしています。
現段階の「総体としての USA」の霊的成長度では致し方がありませんが、霊的観点から言えば、これはまったく違った意味を持つのです。「邪悪」というのは、単に霊的に〈まだまだ未熟な段階にある〉ということでしかないのです。地球という惑星は、これまでは、最も未熟な「魂」をトップにした逆ピラミッドの支配構造を形成していました。が、地球のアセンションによって、それがひっくり返る(正常化する)段階にまで来たのです。
その結果、霊的には最も未熟でありながら、でも今まで大いに幅を利かせていた邪悪な「魂」たちは、「波動」が上昇した後の地球には、今後はいられなくなってしまいます。なぜなら、自分たちがしっくり来る場(最下層の波動領域)が地球上にはもう存在しないからです。するとどうなるか?
「魂」は死んでも死にませんから、これまでですと、処刑されても地縛霊として地球圏に残り、悪さをし続けていられたのですが、もうそれも終了です。おそらく、彼らには救済のために別の低級惑星が用意されることでしょう。
さて、ここからは更なる飛躍です。冒頭で、いま起きていることの「お芝居」には三重の意味が隠れていると書きました。その三つめとは、いま言った悪人退治のための秘密軍事作戦も含め、この地上での出来事は、基本的にすべてが「お芝居」だということです。同じことはこれまでに何度も言ってきましたし、人類の覚醒は二段階で進むということも繰り返し述べてきました。
覚えておられますか? 先ずは、自分が社会の物差しに騙されていたと気づくこと。そして二段階めは、自分の本質は身体にあるのではなく「魂」にあると気づくことです。
基本的にはそれと同じことを視点を変えて語っています。自分の本質は身体にあるわけではないので、物質界での体験というものは、すべて、自分の意識が、物質界というスクリーン上に投影された映画のようなものに過ぎないということです。しかしそのことを、頭で解るだけではなく、「魂」レベルで確信するに至るまでには、向上に賭けた長い道のりが必要とされます。
ですが、その視点に立たなければ、いま起きている惨劇に「救い」を見い出すことは困難でしょう。そして、怒り、悲しみ、落胆、慚愧、絶望などの念に沈んで行ってしまうことでしょう。このブログを読んでくださっているみなさんは、すでに充分学習を重ねて来られた人たちだと思いますので、遠慮をせずに書きますが、今度の戦争(「大惨事世界大染」と「地域紛争」)で不幸にも亡くなられた人たちには、そうなる理由というものがあるのです。
誤解して欲しくないのは、これは今度の体験だけが特別という意味合いではなく、すべての「死」に関係した普遍的理論だということです。その普遍的理論の中で、今度の染死および戦死に遭遇することには、それなりの理由があったという意味です。
それが何か、ということは個別の問題になって来ますので言えませんが、みなさんに知っておいていただきたいのは、結果には必ず原因というものがあるということです。これを「因果律」と言います。「律」とは法則の意味です。これは宇宙の基本的かつ絶対的な法則です。例えば、ヤカンに水を入れて火にかけたらお湯が沸いた、といったことです。物事には必ず、先ず原因があって、その結果というものがあるのです。
ところが、みなさんの行動を見ていますと、「因果律」ということをほとんど考えていないように見受けられます。「結果」ばかりをいつも気にしていて、「結果」から「結果」へと渡り歩き、ちっとも「原因」を探ろうとはしません。このような人は、「これから世の中どうなるのか?」「自分はどうしたらいいのか?」という質問を他者にいつも向け続けていて、自分で考えてみるということをまったくと言っていいほどしません。
ときに、「御託宣を仰ぎたい」と強く願う時期が、誰にでも訪れることがあるということは理解できます。またそれが、その人にとって有益な場合が少なからずある、ということも充分に認めます。なにより私がそうでしたから。しかし、いつもいつもそれであっては困ります。これでは「智力」は磨かれません。
「智力」を磨いていないと、向こうへ帰ったあとで困ることになります。と言いますのは、霊界では思ったことがすべて実現してしまうために、ジャンプ台というものが用意されないのです。向こうへ行ってからも山登りはできるのですが、自分の意思で向上を目指さなければならないために、その訓練がされていない「魂」は進化が滞ることになります。
ところで、今回このようなことを取り上げたのは、最近、体調を崩したり、鬱症状を再発させたりする人をよく見かけたからです。人間、生きていれば、日によって多少のアップダウンがあることは致し方ありません。しかし、軌道修正の範囲内を超えて落ち込む姿を見せられると、「ああ、またか」と思い悲しくなってしまいます。同じところを行ったり来たりしていて、残念ながら学習効果というものがあまり見られないのです。
これには、対処ができないという問題と、それ以前のこととして「因果律」を理解していないという二つの問題があるように思うのです。前者は、心身がダウンした場合のアフターケアとして、後者は、同じ症状を繰り返さないための予防として働きます。
先ず、対処ができないということに関しては、働き過ぎ、調子に乗り過ぎ、誘惑に負ける、身体の酷使、焦り、感情に巻き込まれる、身に降りかかった出来事と自分の解釈を同一視する、事件と情報と自分の気持ちの区別ができない、もう一人の自分(観照者)を立てられない、他者と自分の課題を線引きできない、等々といった直接的な理由があります。
しかし根本的理由を一つ言えば、その状態にあるときにはぜんぶ「波動」が落ちているのです。言い換えますと、「波動」が落ちるようなことをしていたために、つられて心身もダウンしたということです。
これらについては、もうかなり語って来たつもりなのですが、残念ながら芯には届かないんですね。どうしてでしょうねぇ。調子が良いときに聞いても、きっと他人事としか思えないのでしょうねぇ。そしてまた、何かをきっかけにドスン!と落ち込む。結局のところ、「結果」の現象面にばかり捉われいてて*、「因果律」を考えてみたことがないし考えようともしない。そのため、何度でも同じパターンを繰り返してしまう。
*なぜなら、そのときには「苦しい、苦しい」で心の中はいっぱいいっぱいですからネ。
しかし〈同じパターンを繰り返す〉というところに、すでに恩寵があるということに気がつきませんか? 本人は「ええっ、またあの苦しみかァ」と思うことでしょう。でもパターンになっているということは、「いい加減に気づけ!」と示してくれているのですよ。気づきへのサインは3回連続である、ってどこかで書きませんでしたっけ? ところがその恩寵を無にしてしまうのですネ。「苦しい、苦しい」「助けて、助けて」だけで、心の中をいっぱいにしてしまう。
よいですか? 何度も繰り返す「落ち込みのパターン」は、今世におけるあなたの「課題」の一端を示してくれています。「因果律」で考えれば、「落ち込む」という現象の前には、そうなる「原因」というものが必ずあります。この「因」→「果」の関係の中に、あなた特有のネガティブなパターンというものが隠れているのです。ヘソはここです。
ところが、その関係(→の部分)に注目したことなどついぞないために、「因果」を一緒くたに捉えて、訳もわからず同じパターンを繰り返してしまっているのです。
ですから、元気なときに、自分の「落ち込みのパターン」をよく分析してみることです。きっかけは何だったのか? その直前の自分の心身の状態や環境はどうであったのか? 最初のきっかけから、自分の心境がどのように変化していったのか? 何がいちばんの引っ掛かりだったのか? それに対して自分はどんな対処をしたのか? それは上手くいったのか、いかなかったのか等々。
自分を責め過ぎることなく、第三者的視点に立って考えつくものを列挙し、ご自分の「落ち込みのパターン」を探り出してください。さらに、落ち込んだときだけではなく、調子の良いときと、調子の良過ぎるときのパターンも探り出してみてください*。案外、良過ぎるときの暴走からタガが外れ、落ち込んでしまうということがよくあるものです。そして、メモノートの最初のページないし最後のページにそれを書き込み、ちょっと落ちたなというときに随時見るようにしてください。
*「エニアグラム」の分析がかなり参考になるかも知れません。こちらにご案内▶︎
さて、そのようにして「因」を分析していくと、例えば体調が悪いということの原因が暴飲暴食にあったとしましょう。ここで済ましてしまえば、それは身体上の「因果」ということになります。しかし、あまりにも頻繁に暴飲暴食を繰り返しているとすれば、それはそうしたいという「心グセ」の問題になります。そして、その「心グセ」がどうにも抑え難いということになれば、「魂」や「前世」に関係した問題かも知れない*、ということになるのです。
*もしも病気ということでお悩みでしたら、『瞑想入門』の巻末資料に「チャクラと病気対応表」というものを載せておりますので、そこから根本原因と課題を探ってみてください。
ズバリ言って、「心」の落ち込みが深刻であった場合の原因は、「前世」から引きずってきている何らかの問題が誘発されてしまったか、「波動」を落としたことによって低級霊に憑依されてしまったかのどちらかです。しかしそう聞いても怖れたりはしないでください。前者は、今世での克服すべき課題が明示された(つまりギフト)ということですし、憑依をされるケースはよほど波動を落としたときに限られます。ということでそれほど多くはありません。
「憑依」というのは、自分が死んだものとは気がつかず、霊界に入れないまま地上をうろついていた浮遊霊が、「波動」を落とした人間に取り憑き、その人の心身をコントロールしてしまう現象です。憑依した人間の身体を使って、未だ消えぬ物質界での欲望(例えば大酒を飲む)を再び満たそうとするのです。
こうした憑依も、「波動」の同調から起こるのであって、「波動」を下げなければ憑依はされませんし、たとえ憑依されても「波動」を上げれば、憑依霊は居座ることが苦痛になって出ていってしまいます。結局、恐怖心というものがいちばん「波動」を低下させてしまうのです。ですから、DS に操られたメディアや映画界や専門家と称する人は、人々に恐怖心を与えるようなことばかり言っているのです。恐怖心を抱かせることが最も安直なコントロール手段だからです。
ということで、もしあなたが、今かなりダウンしているという状態にあったとしたら、とにかく「波動」を上げることを第一に考えてそのための行動をなさってください。人混みを避けて、美しい自然に触れるのがいちばんです。空を見たり、陽の光を浴びたり、木々に触れたり、散歩をしたり、花を育てたり。そして自然と会話をしてみてください。美術品を見たり、波動の高い本を読んだり、絵を描いたり、詩を書いたりするのも有効です。
もしも「憑依」の可能性があれば、憑依した霊は自分が好むほうへ好むほうへと心身を引っ張っていこうとするので、それと判ります。閉じこもるとか、酒浸りになるとか、クスリに手を出すとか、自暴自棄になるとか、自殺しようとするなどです。ですからこの誘惑に負けてはなりません。また周囲の人は、これらは憑依した霊がやっていることで、本人がそうしたいわけではないということを知ってください。
そして、機会を見て憑依霊に語りかけてください。「あんたは誰か?」と。「悩みがあれば聞くよ」と。その上で、「あんたはもう死んでいるんだよ」「死んでいるんだから、この世のことで悩んだり苦しんだりする必要はもうないんだよ」「もっと素晴らしい世界が待ち受けているよ」「だから、ここらでそっちへ行けるように、守護霊さまにお願いしてみようね」と。‥‥辛抱強く。
とは言え、日ごろから「波動」を落とさないような生活を心がけていくことがいちばんです。どん底にまで落ちてから「ヤバイ!」と気づいて修正しようとしても、もうエネルギーが低下してしまって、自力で回復に廻す分の余裕がありません。(→高い「波動」を持った人の他力の助けが必要になる)
世の中は、低い「波動」の誘惑でひしめき合っています。今のあなたに「波動」の高低を嗅ぎ分ける力がないとしても、低い「波動」の影響は、確実にあなたの心身にダメージを与えているのです。ですから用心なさってください。
脅すもの、興奮させるもの、誘うもの、他者を貶すもの、騒がしいものには近づかないでください。もしも接してしまったらすぐに離れましょう。識者や論客たちは、その人が話している「言葉」を聞いてはいけません。「言葉」を聞いたら騙されます。特に手を大きく振って熱弁する人には要注意。言葉ではなく、顔と漂わせている雰囲気をボーッと見てください。嘘つきはすぐに判ります。「あ、この人は嘘を言っていない」と判ってから、初めてその人の言葉を聞いてください。
最後に、ちょっと落ちてるなという時のリセット法をお伝えしておきましょう。これはハトホルから教わった「光の薬」という方法で、回復に非常に効果があります。次のように、軽い瞑想と呼吸法を組み合わせて行います。
椅子に座って、先ず背骨を真っ直ぐに立てます。次にカップに清浄な水を満たし、それを両掌で包むようにして持ちます。眼を軽く閉じて、息を吸うと同時に頭上から光のエネルギーが頭頂部に入って来るのをイメージします。そして、その光がハートまで降りて明るく輝き、それが両手を伝わってカップの水に転写されていくのをイメージしながら、細く長く息を吐き出します。3回ほどしたら、静かに眼を開けて、カップ内の水が五体に浸透していくのをイメージしながらゆっくりと水を飲み干します。以上です。
お茶やコーヒーを飲むときなどにも、毎回、これをやってから飲む習慣をつけてください。
それではみなさん、お元気で。チャオ!
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あれほど好きだった映画も最近はほとんど観ることがなくなりました。シネコンの即物的な感じが好きになれないということや、観たい映画がないということもありますが、いちばんの原因は、自分が歳をとってしまって、もう映画の中で描かれている世界に興味を持てなくなってしまったのです。早い話が、自分の心境が大きく変わっちゃった。
ドラマって、人間の心の「葛藤」を描くじゃありませんか。その「葛藤」がつまらない。イ・ビョンフン監督の韓国宮廷ドラマが好きだったのですが『オクニョ 運命の女』は一話目の途中でギブアップ。妬みとか、裏切りとか、復讐劇とかは「もう結構!」って感じで‥‥。そういう要素は連続ドラマを引っ張っていくためには必須なんでしょうけれど、それに付き合わされるのは時間の無駄! だって、私の人生とは何の関係もありませんもの。
『チャングムの誓い』には本当にお世話になった。自分が観たのは再放送だったと思うのですが、カミさんの看病をしていた最も大変だった時期で、来週、また来週という期待が生きる気力を引っ張ってくれて、それでなんとか乗り切ることが出来たんだよね。昔のイ・ビョンフン監督作品には「理想」が描かれていた。イジワルな人も登場するのですが、「理想」のほうがそれをずっと上回っていたと思うのです。でも『オクニョ』にはそれが感じられなかった。
映画でもクルマでもなんでも、マーケティングなんかしたらみ〜んなつまらなくなっちゃう。こうすればウケるという数値化された目標に向かって走っていくので、独創性や作家性が消えてしまうのです。今の韓国ドラマや K-pop のスターたちは、私には全員が同じ顔に見える。お肌ツルツルのピッカピカー。イケメンと美女ばっかし。あーつまらん。山?努さんのような個性ある顔が主役を張るなんてことは、もう許されないんでしょうかねぇ‥‥。以上、昭和ジジイのぼやきでした。m(_ _)m
その昭和なんですけど、役所広司さん演じる「平山」という人物のライフスタイルは、昭和でストップしちゃっているんです。木賃アパートに住んでいて、ガラケーに、カセットテープの音楽アルバムに、古本屋と文庫本。モノクロフィルムのコンパクトカメラに、銭湯に、缶コーヒーに、地下街の居酒屋という具合。ですから、内面で味わっている世界は「昭和テイスト」のままなんです。
でも、決して社会を拒絶しているというわけじゃない。仕事は、時代の最先端をいくデザイナーズ・トイレットの清掃をしていて、ちゃんと社会とコミットしている。しかも非常に真面目に真摯に。でも仕事を終えると、自分のホームに帰還していき、ルーティンで構成された自分だけのド日常の世界に収まるのです。その対比が、スカイツリータワーと下町のボロアパートに象徴されている。
この平山という人物は、どうも資産家の息子だったようなのですが、何かをきっかけにして自分のライフスタイルを今のようなものに定めたんですね。ラジカセが流行った時代を考えれば、それはかなり若い頃だったと思うのですが、今のような生活に落ち着いていく間に、自分の出自をも含めた世間一般のモノサシというものを完全に捨ててしまったようです。けどモノサシは捨てても、東京には生きていくスキマがちゃんとあるんですね。
大事なのは、平山が今のその生活を悲観したり惨めに思ったりすることがないということ。ただ自分の仕事として、また役割として、黙々と丁寧にトイレ掃除を遂行している。そして、そのテイストが今も好きだから、昭和スタイルのド日常に帰っていくのです。でもよく見れば、ノスタルジーでそうしているわけではないということが解ります。平山が何より重んじているのは、内面の充実と成長で、そのためには今のライフスタイルが合っているというだけの話です。
トイレ掃除と言えば、羽田空港の清掃をやっておられた中国残留孤児2世の新津春子さんという凄い方がおられます。この人が「清掃」の概念を根本的に変えて、羽田を世界で最も清潔な空港と言われるまでに押し上げたと思うのです。平山も、清掃の道具を自分で工夫して作ったりして、そのプロフェッショナル精神を引き継いでいるのです。人の嫌がる仕事に精を出して、利用者に喜んで貰い、それで自分も喜ぶということが自然に出来ている。
それとあと、清掃員画家のガタロさんのことも思い出しました。ガタロさんの生き方にも胸を打たれて、何度か手紙をやり取りして『清掃の具』という画集を購入したことがあるのです。個展が横浜の画廊であったときに会いに行って、そこで少しお話をしました。そのあとで、畑中純さんの『ガタロ』という漫画と『ミリキタニの猫』のDVDを広島のご自宅に送ってあげて喜ばれました。以上、余談でした。m(_ _)m
この平山のところに、姪っ子のニコ(中学生かな?高校生かな?)がひょっこり現れるのです。どうやらニコは家出をしてきたらしく平山と会うのは十数年ぶりです。ニコの母親は平山の妹で、鎌倉で裕福な暮らしをしています。でもニコの中で、お母さんとの生活がイヤだなという思いが湧いたときに、ふと伯父さんを思い出したんでしょうね。あの伯父さんなら、今の自分を受け止めてくれるかも知れないという‥‥これは世代の違いというものを考えると非常に面白い。
ヴェンダースが、この映画で小津安二郎の『東京物語』を強く意識したことは明白ですが、『東京物語』では老夫婦と実の子どもたちとの間の無理解と、血の繋がっていない死んだ息子の嫁との交流の対比が描かれていました。が、ヴェンダースの『PERFECT DAYS』では、解り合えない兄妹(+父)と、世代を超えた伯父さんと少女との交流が描かれている。
その意味で、これはまさに現代の『東京物語』だと言えます。しかしヴェンダースは、そこにさらに、時代変化の荒波に準ずる人と抗する人という、生きる上での根本的な「価値観の違い」というものを強く打ち出しているのです。
平山がニコに言うセリフ。
「お母さんと、伯父さんとは、たぶん別の世界に生きているんだよ」
もちろんこれはドラマですから、ニコがその世代を代表しているというわけじゃない。むしろ少数派だとは思うのですが、ニコと同じような心情を抱いている十代もかなりいると思うのです。結局、ニコは連れ戻されてしまうのですが、たぶん自活できるような年齢になったら、きっとまた家を出ていくのでしょうね。その日が来るのは案外近いのかも。なぜって、これから価値観の一大転換が起こるのですから。
平山とニコとの会話の中にこんなのがある。
ニコ「ねぇ、今度っていつ?」
平山「今度は今度、今は今」
ニコ「(復唱するように)今は今」
これは明らかに含みを持たせたセリフで、「今度」を期待する生き方と、「今」を生きる生き方とが対比されています。平山のド日常というのは、結局のところ「今ここ(Be Here Now)」の体現なんですね。
ヴィム・ヴェンダース監督のプロットによれば、平山が変貌したのは、ある日、自分の身体に降り注がれている「木漏れ日」の存在に気づいてからだ、と言うのです。「木漏れ日」は木々の葉っぱの隙間を通って差し込んでくる光です。ですから、光は当たっているんですけれど、そのことに気づきにくいんです。葉っぱは光を遮っているのですが、邪魔をしているというわけじゃなくて日陰を提供し適度な気温に調節してくれています。
その葉っぱと光の関係というものは、時事刻々変化していて、同じ瞬間というものは二度と訪れない。けれども、瞬間々々において、その人の頭上に、その人用に調整されたオリジナルの「木漏れ日」が確かに差し込んでいるんですね。人間だって、日の当たった反対側には必ず影を拵えている。それを意識することなく人々が交わり、相互に他人の影を踏んでいるんです。
その影からは、逃れようとしたって逃れられない。しかしそれは物の道理です。道理は道理としてちゃんと認めて、影踏みを遊んじゃえばいいんです。平山はそのことに気づいて、たぶん、つくづく「ありがたいなぁ」と思ったんです。「これだ!」と思ったんです。そこで、こぼれダネから芽を吹いた若木を慈しんで育て、「木漏れ日」の一瞬をフィルムに記録するようになった。
『PERFECT DAYS』のロゴをよく見ると、「T」の文字の下が若干膨らんでいて、下に「〜」っぽいものが描き加えられてあります。これは一体なんでしょうか? あの若木をイメージしているのでしょうか。でも大地は強調されておらず、何か頼りなげですね。
そしてその上に「T」がすっくと立っている。「T」は象徴記号では「天」を意味していて、天上は横にバーンと張っているけれど、「地」のほうは弱々しげです。
私の勝手な解釈では、これは「霊主体従」を表しているのだと思います。平山はすでに「霊主体従」の心境にあって、「Be Here Now」を生きている。つまり、平山という人物は、すでに「アセンション」を体現している。ですから、他の人には見えないホームレスのダンサーが、平山だけには見えるのです。このホームレスは、平山のさらに先をいく師であるから。
平山は「木漏れ日」の向こう側にあるものを「信」じているのじゃないんです。「確証」しているんです。この両者は似ているようでいて、実はまったく違う。「信」の先に「確証」があるのではなく、両者は表裏が逆転した関係になっている。ですから、「信」を捨てない限りは「確証」は得られないのです。でもその違いは、いまだ「信」じている段階にある人たちには解りません。
「アセンション」とはどんな心境か?と思っておられる方が大勢いらっしゃるように思うのですが、まさにこの平山のような生き方と言っていいと思うのです。
「えっ、そんなことなの?」
「そう」
「じゃあ、あのニルヴァーナってのは何よ?」
「あれは、仏教が誇大宣伝したイリュージョン」
「そんなぁ」
「誰も達成できないような領域を目標とすべきではないね」
「でもこんな簡単なことで、本当にいいわけ?」
「だから『アセンション』には何の努力もいらない、って何度も言ってきたよ」
「しかし、平山は『行』をしていないじゃないか!」
「特別な『行』をしなくても『アセンション』はできる、とも言ってきたよ」
「えーーッ、じゃあ、このまんまでいいの?」
「このままでいいかどうかは判らない」
「でも、『今ここ』なんでしょう?」
「そうだよ。このままでいいかどうかは判らないが、ありのままであるべきだ」
「あー、わからん」
「君は捨てられるかい? 世のしがらみを。この平山のように」
「‥‥‥」
「『アセンション』には何の努力もいらないが、砂袋を一つずつぜんぶ捨てていくのには大変な覚悟と努力が必要なのさ。平山はそれを成し遂げたんだよ。でも妹にはそれが出来ない。たぶん、よほどのことがない限り、この先もずーっと。よく見てごらん。平山の毎日は『行』そのものだとは思わないかい? 生活のすべてがすでに『行』なっているんだよ。だから、砂袋をすっかり捨てて、自動的に浮き上がったというわけさ」
この映画の音楽は全曲、平山が聴いた曲という設定で流れています。それは、その時々の平山の心象風景を表しているのですが、同僚のタカシはそんなことはお構いなしで、平山に金をせびりカセットを売って換金しようという提案をします。しかし平山は同意せず、財布にあったお金をぜんぶタカシに渡してしまいます。おかげでその日は居酒屋にも行けずにカップラーメンを啜る羽目に。
そのカセットは、タカシにとっては単に「金」になりそうなものでしかないのですが、平山にとって、その中に記録されている音楽は「金」よりもずっと大切なものなんですね。この挿入歌の一つに、Lou Reed のその名も『Perfect Day』という歌が使われているのです。この映画では主題歌の扱いですが、曲の最後にこんなフレーズがあります。
I'm glad I spent it with you
Oh such a perfect day
You just keep me hanging on
You're going to reap just what you sow
君と過ごせてうれしいよ
ああ なんて完璧な一日
君が僕を繋ぎとめてくれている
自分で蒔いた種は自分で刈り取ることになるんだ
いろんな解釈ができると思いますが、最後の「You」はその一行前の「You」と同じではなく、慣用句的に使っているのだと思うのです。ですから、この「You're」は「I'me」のことであり「自業自得」を言っている。そして三行目の「You」は「神」を語っていると思うのです。ここで重要なのは、「自業自得」には「悪行悪果」だけではなく「善行善果」も含まれているということ。
平山は、だから自分の毎日が「Perfect Days」になったんです。歌は「Perfect Day」だけれど、平山の場合は「s」がついて複数形になっている。毎日々々がずーっと「Perfect」なんですね。映画の最後で見せる平山の顔は本当に幸せそうです。
最後に、平山がしていた「三目並べ」のお相手。
あれは、どんな人だったと想いますか?
私は、あのお相手は「トイレの神様」だったと想います。
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しかし、人によって接触するメディアも違えば、理解力や分析力も大いに違います。中には「陰謀論(Conspiracy Theory)」という言葉すら知らない人や、聞いたことがあってもまったく関心のない人もいるでしょう。このような温度差は、いまの人類にとっては如何ともし難いものです。
なぜなら、その根本原因というものは各人の「霊性」の差より生じているからです。人には、それぞれの「魂」の、今の「霊性」の段階に応じた体験と解釈しかできないものなのです。
本ブログでは、〈真の「闘い」は、横方向ではなく縦方向なんだよ〉ということを繰り返し言って来ました。本当は、縦方向に「闘い」という言葉を使いたくはないのですが、解り易くするために便宜的に使っています。よく、「自分との闘い」と言ったりすることがありますが、基本的にはあれと同じです。要するに、向上するための葛藤であり、産みの苦しみという意味です。ですから、「闘い」と言っても本質は「救済」なのです。
さて、イスラエル軍のガザ地区への侵攻は、いま言った観点から、これまでとは違う新しい認識を世界にもたらすようになりました。いかに謀略から始まったにせよ、世界の民衆は、おいそれとはそのプロパガンダ戦略に乗らなくなって来たのです。これは22年前の911事件のころとは大違いです。テロリストのハマスによる突然のイスラエル侵略というナラティブ(話術)はすぐに忘れ去られて、世界中の都市で「親パレスチナ」への合唱とアラブ反乱旗の乱舞が湧き起こりました。
そりゃあそうですよね。都市を更地にしてしまうほどの大破壊と無差別殺戮をライブ映像で見せられたわけですから。ネタニヤフが性懲りもなくまたもや「これは我々だけの戦争ではない、あなた方の戦争でもある。『闇』の子たちに対する『光』の子たちの戦争なのだ」と語ったというのですが、言えば言うほど人々は茶番にシラケ、「ユダヤ人のホロコースト」という物語の影に隠されていたシオニズムの非情と冷酷さが逆に浮き彫りになっていくばかりです。
ワシントンD.C.のデモでは、ユダヤ教徒とイスラム教徒とキリスト教徒(世界三大一神教)が一緒になってパレスチナとの連帯を叫んだと言いますから、民衆レベルでは、為政者たちが考える意図とは反対方向へ、一段の覚醒が進んだのです。
11日、英米はイエメンに対して空爆を行いました。これはアラブ諸国との全面戦争にも発展しかねない危険なアクションです。しかし、1990年に起きた「湾岸戦争」では、アメリカが主導した多国籍軍に28か国もが加わったのに、今回はイギリスの1国だけでした。これは非常に解りやすい変化を示しています。アメリカの、世界の覇権国からの転落と、悪の元締めがどこかということと、その者たちの孤立化です。
情けないことに、日本はアメリカさんの属国ですから、アメリカさんの命運が尽きると共に抱きつき心中ということになりそうです。国会議員のみなさんや、財界のみなさんは分かっているのかなあ?
このように、左右の対立というものが、世界支配を企む者たちによってみな仕掛けられたものだということに気づいた人たちが爆発的に増えてきました。と同時に、みなそれが当然だと信じてきたもの、良いことだと固く信じてきたものの内幕を知る人も劇的に増加しました。たとえば WHO であり、WEF(世界経済フォーラム)であり、中央銀行制度であり、マスコミであり、芸能界であり、SDGsであり、電気自動車であり、ポリコレです。
もちろん温度差というものはまだまだあるのですが、こういったものの「目覚め」はオセロゲームのように進むのです。ある閾値を超えた瞬間からバタバタッと一挙に逆転してしまう。「洗脳」というものは、されている側からすれば「思い込み」です。自分が、それが当たり前だと思っていたこと、そうするのが正しいと思っていたことが、単なる「思い込み」に過ぎなかったのだと気づいた瞬間、「洗脳」はパッと解けるのです。
人類史上の長きに渡って巨大な「洗脳」の仕組みがずっと維持して来られたわけは、「洗脳」をする側の人間もまた「洗脳」されていたためです。その代表格がマスコミ、投資家、政治家、役人、教師、芸能人、医者、宗教家です。強い影響力を持つ人間ほど、自身の「洗脳」も強固で、その「思い込み」がまるでシャワーを浴びせるようにして一般社会に広がっていくのです。結局、そのような関係ですから、誰も「洗脳」に気づくことさえ無かったのです。
しかし、盤石に見えたこの構造が、まるでダムが決壊するときのような勢いで崩れ始めました。一部の「今まで」を維持したい者たちが、必死になって防戦に努めていますがもはや無理。あがけばあがくほど嘘がバレていき、かえって馬脚をあらわす事態に陥っています。何にも解らずに、組織の中でただ「洗脳」に甘んじてきた人たちも、ダムの決壊とともに流されてどこかへといなくなってしまうことでしょう。
プランデミックに騙され、障害を負ったり亡くなった人たちは可哀想ですが、今さら悔やんだり嘆いたりしてみたところで始まらない。「そうしろと言われたから、素直に従っただけなのに‥‥」と、騙した者たちに怒りの矛先を向けても仕方がない。これを言うと冷たく聞こえるでしょうが、「信じて」騙された人が悪いのです。── それじゃ「救い」がないだろう、ですって? いや、ありますよ。いつだって「救い」はある!
霊的観点から言えば、それもその人の「一つの人生体験」だったわけで、そこからどんな教訓を得たか、その先に何をしようとしたか、がもっとも重要なことなのです。人間、辛い目に遭わなければ意識の飛躍はできません。その稀有な体験を、ジャンプ台に変えるか、はたまた怒り、嘆き、悲しみの感情を抱えたまま谷底へと落ちていくかは、その人のその後の考え方しだいなのです。
さて冒頭で、世界認識に関する温度差は「霊性」の違いから生じている、ということを述べました。人間が、いとも簡単に「横方向の対立軸」の罠に嵌ってしまうわけは、繰り返し言ってきたように「旗」と「杖」にあります。一般的に言って、人間は生きていく際に、どうしても「旗」と「杖」を求めたがるのです。そのわけは、さらにその奥に自分のアイデンティティに関する問題があって、これと「旗」と「杖」とが連動しているのです。
あなたは誰か? どこから来て、どこへ行くのか? これは究極の質問です。ここで言う「あなた」とは「意識的存在」の意味です。しかしみなさんは、そのように考えたことがありません。ほとんどすべての人が、身体を持つ自分が「自分」だと思い込んでいて、そこから、「誕生」と「死」という二大イベントに特に強い思いを寄せる傾向が生じているのです。はたまた、それを類推して、宇宙にも誕生と死があるなどというトンデモ理論を信じているのです。
でも、写真アルバムから、自分の赤ちゃん時代や子ども時代の写真を探して眺めてみてください。面影は感じられるかも知れませんが、今のあなたとは別人のような子どもが写っているはずです。あなたはそれを記憶として認識しているので、これが自分だと言えるでしょうが、その記憶を持たない人に見せたら、その赤ちゃんが誰かなんてまったく分からないことでしょう。つまり、「あなた」を連続しているものは、身体ではなく「意識」なのです。
ではその「意識」がどこから来たのか?という問題です。これは、このブログを読んできてくださったみなさんには言わずともお解りでしょう。あなたは、お父さん似でもなく、お母さん似でもなく、前世の自分にいちばんよく似ているのです。ところが、普通の人はそんなふうには考えません。そこで、自分は誰か?というアイデンティティを規定するのに、自分の外側で〈既に確立されている「何か」〉を持ってきて、それに仮託することによって表現しようとするのです。
それが、人間が「旗」と「杖」を求めてやまない根本的な理由です。それは、所属であり、肩書きであり、思想であり、権威であり、自分の心棒を意味するのです。ある「旗」のもとに参集すれば、それが自分のアイデンティティを表現する一助となり、さらに「杖」にまでしてしまえば、とりあえずの安心感も得られるというわけです。こうして人は、無意識のうちに「洗脳」の中に組み入れられていってしまうのです。
SNS 上で、なぜこれほどまでにレッテル貼りやヘイト記事が多いのかと言えば、それが自己のアイデンティティの防御手段になっているためです。「旗」と「杖」を持つと、とりあえずの安心感は得られるのですが、その次には「杖」が折れてしまうのが怖くなる。もし折れてしまったら、アイデンティティが崩壊してしまうからです。そこで、気に入らない奴は徹底的に攻撃することで、必死になって「自分」を保とうとするのです。
しかしいま言ったようなタイプの人は、「魂」がまだ動物的な段階にある人で、その先へと進むことが出来ないでいるのです。これは SNS 時代がもたらした大きな災禍だと言えます。残念ながら、動物的な人ほど声が大きいし、吠えて威嚇したり、他人を焚き付けるのも上手です。そこで、世間の耳目を集め、人々を「低い波動」に誘導して、そこでの応酬に参加させていくのです。
しかしそういった場に飛び込む人は、それによって相手を傷つけているだけでなく、自分をもどれだけ傷つけているかということを知りません。恐ろしいことに、自分のアイデンティティを守ろうとしてやっていることは、皮肉にも、最後にはそのアイデンティティを崩壊させてしまうのです。なぜなら、そんなアイデンティティは所詮は借り物でしかなく、どこかの時点でその違和感に気づき、実は自分が空っぽであったということを知ってしまうからです。
残念に思うのはそこです。せっかく、世の中の不正を暴こう、真実を人々に知らせようと思って熱心な活動をされている論客たちの多くが、途中からヘイト・スピーチ合戦に移行していってしまいます。「許せない!」とカチンと来るのでしょうが、反論する者、蔑(さげす)む者、からかう者などはどこにでもいくらでもいます。そんな輩は放っておきなさい。好き放題に言わせておきなさい。反論するから相手側にエネルギーを与えることになるのです。
それよりも、自分の「波動」を高く保つことにのみ専心しなさい。争いをして「波動」を下げれば、下げた「波動」に引かれた者しか集まって来なくなります。反対に、当初の善良なファンはみな逃げていってしまうことでしょう。飲食店経営を想像してみればすぐに分かること。
そもそも、このような罠に嵌ってしまうのは、あなた方が「正」と「邪」、「善」と「悪」というものについて、大きな考え違いをしているためです。あなた方はよく、「正」が「邪」を滅ぼすとか、「善」が「悪」に打ち勝つといった言い方をします。しかし今の中東で起きていることを見てください。ユダヤ教とイスラム教とキリスト教が、互いに相争っているではありませんか。そしてそれぞれが自分たちの「正義」と「善」を主張し、残虐な殺し合いを行っている。
いったいこれのどこが「神」を担いだ宗教なのでしょうか? もう、何が「正」で何が「邪」か、何が「善」で何が「悪」かということが、グチャグチャで誰にも分からなくなっているのではないでしょうか? 現に、「毒沸く珍」や「脱炭素」や「ウクライナ支援」は、「正」であり「善」であると盛んに喧伝されてきたわけですが、実はもっとも邪悪な者たちの企みであったということが公になり、全部がひっくり返ってしまいました。
悪巧みをする人たちというのは、必ず「善いこと」を言って人を騙すのです。そりゃそうですよね、最初から本心を明かしたら人を騙せませんものね。「嘘」情報には気をつけるようにと言って、自分たちがいちばん「嘘」をついているのです。しかしこれもバレましたネ。今でこそ、こうした策略を見抜く人がだいぶ増えたのですが、それは知識量が上がったからで、「波動」を読めない普通の人には、やはり「正邪」や「善悪」の判断というものは難しい。
ところが、判断は難しいのですが、「正邪」や「善悪」の定義そのものは極めてシンプルなのです。「宇宙の法則」に合致したものは「正善」であり、法則に逆らったものは「邪悪」という、ただそれだけのこと。ところが、世間一般の人は「宇宙の法則」というものを知らないので、残縁ながら、それに合致した生き方とはどういうものか、逆らった生き方とはどういうものかも分からないのです。
ここで「善悪の原理」についてお話ししましょう。あなた方の間違いの先ず根本にあるのは、「正邪」や「善悪」がハッキリと分けられるものだと考えている点です。そのせいで「レッテル貼り」などというものが横行してしまうのです。しかし、あなた方の世界に「完全」なものは何一つとしてありません。「正邪」や「善悪」も、どっちの傾向をより多く持っているかというだけの話であって、すべては相対的なものなのです。
つまり、100パーセント「善」だと言えるものとか、100パーセント「悪」だと言えものなど、この世界のどこにもないということです。先ずは、このことをしっかりと頭に入れてください。
それが理解できれば、単純な「レッテル貼り」がいかに不毛なものであるかが分かるでしょうし、二度と「レッテル貼り」をしようとは思わなくなることでしょう。「レッテル貼り」は、それをした途端、もう片方にある可能性を見えなくしてしまうのです。つまり、それをした自分自身を、狭い檻の中に押しやるのです。
さて、「宇宙の法則」については、これも繰り返しこのように言って来ました。「宇宙」というものは、表現においては実に多様、しかしそれを統括する法則自体は極めてシンプルであると。「正邪」や「善悪」の定義についてもそれが当てはまります。どっちの傾向をより多く持つかということの意味合いは、非常に単純な話で、その人の「魂」が「統合」に向かおうとするのか、「分離」に向かおうとするのか、という綱引きによって決まるのです。
あなた方は、全員が、一者から分かれて個別化した「魂」なのです。そのことで一人ひとりが「個性」を持つようになりました。けれども、個別化はしたのですが元から完全に離れたというわけではなく、みなさんの「魂」の芯の部分には、引き続き一者(大霊)と同じ「Spirit」が流れ続けているのです。
この「Spirit」を所持するのは、動物の中でも人間だけです。ところが肉(身体)を持ったために、「魂」のバイブレーションが物質側に強く引っ張られてしまい、容易には自分の「Spirit」に気づけなくなっているのです。
このような前提のもと、あなた方には「自由意志」が与えられました。何を思おうが、何をしようがまったくの「自由」なのです。ただし「自由」の裏側には必ず「責任」が伴っているということを忘れないでください。「責任」から離れた「自由」というものは宇宙にはありません。それは「作用と反作用」という科学的法則によって必然的にそうなるのです。また、それを文学的に表現した場合には「自分が為したことは自分に返る」ということになるのです。
この「自由意志」の行使を、「魂」の行動という面から見た場合に、人間には大きく二つの道があります。「統合」へと向かうのか、それとも、より「分離」方向を極めんとするかのどちらかです。実際面では、前者が、思いやり、助け合い、分かち合い、奉仕、誠実、滅私、利他、慈愛といった行動となって表れ、後者が、蔑視、いじめ、差別、高慢、欺瞞、謀略、利己、暴虐といった行動となり、果ては奪い合い、殺し合い、破壊衝動へと進むのです。
これを聞いて解るように、どの人間も、いま挙げた両方の傾向を多少なりとも持っています。ただ、人によってそのどちらの傾向がより強いか、という違いだけです。この綱引きの結果が、その人の現在の「霊性」レベルを表しているのです。そして、その現在の「霊性」を取り敢えずのホームポジションとして、外界の刺激に応じて両方向に揺れ動くのです*。この揺れが、心の動揺というものをもたらし、不安の原因となっているのです。
*これについては、ドン・リチャード・リソ、ラス・ハドソン著『エニアグラム 人生を変える9つのタイプ活用法』に詳細が書かれてありますので、興味のある方はお読みになってください。ご案内はこちら ▶︎
結局、この違いというものは「波動」レベルの違いということであり、「波動」が上がれば「魂」はより「統合」へと向かい、逆に「波動」が下がればより「分離」方向へと向かうということなのです。
このように、話は極めて単純なのですが、悩ましいのはこれにアイデンティティの問題が絡んで来ることです。あなた方はみな「個性」を持っています。これは、一者から分かれて「魂」が個別化したことから生じました。そのことで「魂」は「自由」の喜びというものを持てるようになったのですが、しかしそれが行き過ぎると、「自分だけ」がよい思いをしたいという利己的意識が立ち上がって来るのです。
「統合」へ向かうというのは、ある意味、アイデンティティを失うことのように見えるために、多くの人がより「分離」を極める方向へと向かうのです。こうして、地球では他者より優っているということが称賛され、それが社会の尺度にまでなり、お金や名声や権威を得ることが自己承認欲求を満足させる一大目的となっているのです。当然ながら、一部のエリートやセレブを除けば、大多数がこの梯子段から転げ落ちることの恐怖と体験を味わうということになります。
しかしアイデンティティの問題は、実は逆なのです。「分離」を極めることで得られたかに思うアイデンティティは、一時的にこの物質界で得られた装飾に過ぎず、死んでから向こう側へ持っていけるものではありません。むしろ、向こうへ行ってから、自分が空っぽであることに気づいて愕然とするのです。一方、「統合」へ向かってもアイデンティティは失われません。むしろますます強化され、本来の自分を取り戻していくことになるのです。
ここで、このような疑問を持たれた方がおられるでしょう。一者から分かれた「魂」が、なぜまた「統合」へと向かおうとするのか? そんなことなら、個別化など最初からしなければよかったではないか、と。
当然の疑問です。この答えの真に奥深いところは依然として謎なのですが、ただこういうことは言えるのです。「分離」してみなければ「統合」は味わえない。少なくとも、「統合する」という「する」の部分、英語でいう「ing」のところは、先ず「分離」という体験がない限り「ing」を体験できないのです。
結局、これが「愛」についての体験なのであり、この体験を積み重ねることで、「魂」は究極の「愛」、つまり宇宙的「愛」へと到達していくのです。そのための長い長い旅を、今それぞれの「魂」がしているというわけです。
ところが ─── 、
その中に「分離」方向をどうしても極めたいと願う「魂」たちがいて、地球ではこのような人間たちが背後で実権を握り、世界をずっと支配してきました。そしてついには、人類の遺伝子改変、万病の誘発促進、生殖不能化、人口削減、都市の破壊、虐殺、マイクロチップを使用した人間コントロールという、「分離」方向のボトムにまでその願望が拡張されたのです。この願望に、各国政府の(特に西側の)首脳たちはみな追随しました。
どうしたら、そのような残虐非道が心痛まずにできるのだろうか? と、きっと誰しもが思うことでしょう。そこには、魔界にまで堕ちた邪霊の存在というものが絡んでいるのですが、だとしても、それらに憑依されるまでに「波動」を下げたのは、現世を生きている人間の願望です。ある意味、もの凄い執念を持った優秀な「魂」だと言えます。ですから、ボトムを生きる邪霊とも波長が合ったし、その力の援助も受けられたのです。
そのことは間違いのないことですが、彼らの心境を表現するものとして、「悪魔崇拝者」とか「サタニスト(Satanist)」と呼んで片づけてしまう人がいるのは困ったものです。その「レッテル貼り」は非常に解りやすいですし、実際に彼らがそうした血の儀式やおぞましい人身御供(ひとみごくう)を行っていたことも確かです。しかしそう言ってしまうと、またもや「神」対「悪魔」という二元対立軸の中に嵌ってしまいます。
このような考え方はもっぱら北米方向より発信されていて、アメリカ人というのはどうしてもこの二元対立軸から離れられないようです。そして、ホワイトとブラックを分けて、「神と正義」の名のもとに、ホワイトがブラックを打ち倒すという考え方をする。しかしやっていることは、何かと言えばすぐに拳銃を取り出してその場で容赦なく相手をぶち殺してしまうのです。そしてそれを正当化する。広島、長崎の原爆投下とて同じ論法です。
こんな発想を続けている限り、自分の中に眠る「悪」の部分には気づけません。それを認めるのは苦しいかも知れませんが、自分の中には「善」だけではなく「悪」も同居しているということに気づかなければ、次の霊的ステージには進めません。ありのままの自分を先ず認めることで、初めて自己の本質に向かい合うことができるのです。そして、他者も同じであると知ることによって、少々の違いも許せるようになっていくのです。
今は「地球の大変革」の過渡期ですから、通過点としては致し方ないのかも知れませんが、悪人を捕まえて処刑したところで、それで世界の一切合切が直ちにクリーンになるというわけではありません。悪人の命をいくら奪っても、「魂」は死なない、ということを知る必要があります。悪人の「魂」は、処刑後も生き続け、激しい恨みを抱えたまま怨霊となって漂い、復讐の炎に燃えた活動をまた開始するのです。(これについては、また機会があればお話ししましょう)
ですから、「善」と「悪」を対立軸で見てはなりません。分断の種に使ってはなりません。「善」と「悪」は分断を誘うためにあるのではなく、「統合」に気づくためにあるのです。
彼らが「悪魔崇拝」の儀式を行なっていたということについては、別の視点を見い出すことができます。それは、彼らと言えども「物質主義(Materialism)」には徹しきれなかったという点です。実際にやってきたことは、遺伝子の改変を筆頭に「物質主義」の極みと言えることばかりですが、しかしその背後においては、やはり「信仰」を必要としていたということです。「悪魔崇拝」の中に、理性を超えた救いを求めているのです。注目すべきポイントはそこです。
アルバート・パイクは、自分たちがやっていることは「神への反抗ではなく、神そのものの否定なのだ」と言ったのですが、実際にはそうなっていません。「神」そのものの否定と言うのであるならば、「物質主義」に徹すればよいではありませんか。ところが、彼らとて、ルシファーやバフォメットを対象にしてこれを「信仰」している。結局、パイクの発言とは裏腹に、やっていることは「神」への反抗に留まっていたということです。
これは、今後の人類に対して、非常に重要な示唆をもたらしてくれています。すなわち、これ以上はないというほどの残虐性を示したとしても、所詮「悪」は「神」の対抗にはなり得ないということ。
みな「神」の手のうちにあるということです。
しかし考えてみれば、これは当たり前ですよね。すべては一つなのですから。でもそれを理解できずに反抗した。その理由も解ります。彼らには地道な向上というものがめんどくさかったのです。自分は優秀だと思っていたので、「神」の寵愛をいちばん先に受けられるだろうと思っていた。ところが違った。なぜなら「神」はすべての「魂」に対して公平だったから。そこで、「愛」が「憎しみ」に転化してしまったのです。
そこからは、自分の実力を何がなんでも認めさせようとして、「神」が創造してきたあらゆるもの、愛、生命、平和、秩序、創造物、美、人間を、ことごとく蹂躙して破壊する行動に出た。しかも「悪」ではなく「善」を語って、人々を騙して。まるでヤンチャ坊主ではありませんか。「へっへー、ざまぁ見やがれ。俺さまの実力とはこんなもんだい。全能だなんぞと言ったって、何にもできゃしねぇじゃないか。生命?、ちっとも助けてやれないじゃねぇか」という邪霊たちの快哉が聞こえそうです。
はい、そうかも知れません。しかし「生命」の意味はもっと奥深いのです。彼らはそれを知りません。「愛」を未だ知らないし「愛」に気づくこともないからです。表層しか見ていないためです。結局、為したことは自分に返るのです。どんな「魂」であっても、その法則からは絶対に逃れられません。その意味で、「神」の全能は見えないようでいてしっかりと働いているのです。ただ、派手な介入はしないために人々はそれに気づけないだけです。
宇宙からは、それぞれの人間の現在の霊性レベルや、思考や、心の状態がすべて丸見えです*。いささかも取り繕うことはできません。誤魔化すこともできません。偽善もまったく通用しません。だからと言って、「神」は不出来な者を叱ったり、反抗する者に罰を与えたりすることはありません。「神」は全き愛の存在なのです。ただただ我が子を見守り、その成長を応援しているだけなのです。
*ただしこれは監視されているという意味ではありません。あなたの意識的行動が、意識の大海の中に、あなた自身で刻印を残すのです。
あなた方にはみな「個性」があります。なぜ、「個性」というものが許されたのでしょうか? 大量生産された規格品の「魂」が集まった部屋を、ちょっと想像してみてください。そんなもの、ちっとも楽しくはないでしょう?
「個性」が集まればそりゃあ軋轢だって起きます。でも何もかも自分一人で出来るわけでありません。野菜を作っている人、スーパーでそれを売る人、宅配してくれるドライバー、ゴミを集めに来てくれる清掃員、その他、見えないところでも大勢の人たちが互いの力を出し合うことでこの社会が成り立っています。その原点を見つめてください。私たちの社会は、生活は、そして生命は、互いに助け合うことで循環し維持されているのです。それが「生命」の本質です。
これから、社会が提示する梯子を無理やり登らなくてもよい時代が到来します。梯子が倒れるからです。ただ生きていくためだけでもうアップアップしているような奴隷社会も終わります。搾取していた連中がいなくなるからです。
これからは「個性」発揮の時代です。
さあ、あなたの「個性」をどうぞ「善用」してください。
何のために「個性」があるのか?
優越感に浸るためでも、他者を支配するためでもありません。
自分が為したことは自分に返る。
この「宇宙の法則」をくれぐれも忘れないように。
人に喜んでもらうことで自分も喜ぶ。
そのように、あなたの「個性」を使いなさい。
宇宙からは、あなたの心の動きは逐一見えています。
この先、どんなことがあっても挫けないように。
どのような人にも、つねにあなたを応援する指導霊がついています。
その存在を信頼して「善」なる道に生きなさい。
自分の中の「悪」を縮小させていく努力をしなさい。
そして、あなたの「個性」を、思う存分、花開かせなさい。
最近は思ったように捗らず、今回などは最初の10行をタイプするまでに5日間かかりました。降りてくる内容はとても微妙でどんどん高度化しているのですが、一方で私の心身が老化とアレルギー疾患の悪化から粘りが効かなくなり、両者の乖離が広がって、チャンネルを繋ぐのが非常に難しくなりました。なんとか繋げることが出来たとしても、持続するのがこれまたとてもしんどいのです。しかし、焦ったところでどうにかなるというものでもなく、変化を受け入れて、無理せずにやっていくしかありません。ご容赦ください。
自分が虚弱に生まれついたことについては、子どものころは大変なコンプレックスで辛い思いもしてきましたが、今ではそれがギフトであったと解ります。もし頑健に生まれついていたとしたら、虚弱な者の辛さは解らなかったでしょうし、克服したいという取り組みへの意欲も沸かず、身体のケアについての大切さも学ぶことがなかったでしょう。あの東城百合子さんも肺結核を患ったことから、自然療法の研究に進まれ、94歳の天寿を全うされたのです。
「人間万事塞翁が馬」と言いますが、若いころには解らなかったことが、還暦を過ぎてからやっと解ったということが多々あります。そういう意味では、「老いるショック!」もなかなか良いものです。
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ロバート・ケネディー・ジュニアさんが『武漢隠蔽工作(The Wuhan Cover-Up)』という新刊を上梓されました。
日本語訳はまだ出されてはいませんが、その中には、今回の「生物兵器」事件のルーツが、日本の731部隊にあったということが、歴史を掘り下げる形で述べられているそうです。
武漢ウイルス研究所と、コウモリ女と、mRNAワクチンの話が出たときに、すぐにこれは「生物兵器」だと直観し、731部隊に関連したカルマなんだろうなぁと思いました。
中国と日本とアメリカを巡るトライアングル。戦後、アメリカは731部隊が行っていた人体実験の研究成果を入手する代わりに、石井部隊の研究員たちを問責することなく市中に解放しました。その結果、多くが出身大学に帰り医学部の教授に収まったのです。
終戦から2年半後の1948年1月26日に『帝銀事件』という毒物を使った強盗殺人事件がありました。この事件は、画家の平沢貞通氏が犯人だとして逮捕され、死刑も確定したのですが、執行されないまま95歳で獄死を迎える、というスッキリしない幕切れとなったのです。何ゆえに司直が死刑執行を躊躇し、ただ事件が風化していくのを待ったのでしょうか? 多分、それが冤罪だったからです。
この事件の真犯人は731部隊の隊員であったと言われています。警察は、容疑者を複数に絞っていく中で、その線にもある程度は迫っていました。しかしGHQは、捜査が進展することによって、731部隊との密約がそこから表に出てしまうのを恐れたのでしょう。それ以上の捜査追及をさせないよう、上から司直に手を回したということだったのではないでしょうか。
*熊井啓監督の『帝銀事件 死刑囚』(1964年)、『日本列島』(1965年)、『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』(1981年)、『海と毒薬』(1986年)は、いずれも戦後日本のどろどろを描いていて当時の雰囲気がよく解ります。
結局、このようにして、戦後きちんと清算して来なかったものが、今になって当時と同じようにして噴き出したということです。そして、石井部隊の隊員と同じメンタリティを持つ医者、専門家や、GHQに媚を売り保身を図ったのと同じメンタリティを持つ政治家、役人たちが、これまた当時と同じように人体実験と殺戮に手を染め、しかし今度は同胞である日本人に対してそれを使った。
そのようにして、80年前に中国大陸で犯したカルマが、日本にブーメランして来たというわけです。
そんなバカな話があるか!と思うでしょう。がしかし、今度の「沸く珍」禍によって奇しくも公になったのは、アフリカを除く(アフリカ諸国は賢かった)世界各国の政府が、みな同じように〈自国民の殺戮〉に向けて一斉に動いたということです。何ゆえにそんなことをするのか?また出来るのか?、という当然の疑問点については追い追い探っていくとして、とにもかくにも、そういう人間がいて、実際にそれが起こされたのです。
私たちは、これまで国や民族やイデオロギーの違いによって絶えず対立することを煽られてきましたが、実はそれは大衆コントロールのための策略であって、本当の敵は横ではなく縦にあったということが、これでハッキリと見えたのではないでしょうか。
詰まるところ、「新世界秩序(New World Order)」の実現を悪魔で(シャレね)果たしたいアングロサクソンの一部とシオニストの狂人たちに、世界各国の首脳たちがことごとく右習えし、従っているという、まったく信じがたいようなピラミッド構造が、裏で密かに築かれていたということが、すべて明らかになったわけです。
早い話が、「陰謀論」と言われてきたことが全部本当だった。
そして、なぜそんな大掛かりな「陰謀」がこれまで可能だったかと言えば、な〜んてことはない。一つには、他者支配欲求と、地位と、金と、贅沢と、麻薬と、Sexの誘惑に転んだということと、他者を騙そうが、傷つけようが、嘘をつこうが、良心の呵責などは微塵も起きないというメンタリティの持ち主が、類が共を呼ぶ現象で集まったという、ただそれだけのことだったのです。
そして、もう一つの側面は「洗脳」。3S(Sport、Sex、Screen)を使って市民の知的向上を阻止してしまう(愚民化=自分で考える力を奪う)一方で、メディアを使って脅しと恐怖を煽り、ある意図のもとへと服従させていくのです。これが、見事にうまく機能した。でも、そこから物質的な要素をぜんぶ剥ぎ取って、そこに介在している人間たちの「心理面」だけを傍観してみてください。実にくだらないとは思えませんか?
これが、監獄惑星「地球」の長年にわたる姿だったのです。悪事に長けた牢名主が幅を利かし、飴と鞭でパシリを使って一般民衆を支配下に治める。そして彼らから労働力と上がりを搾取する。ずっとその歴史です。でも、いま言ったのと同じ視線で、支配層にいる人間たちの「魂」の成長度合いをご覧になってくださいよ。豪邸に住もうが、きらびやかな衣装を着ようが、高級料理に舌鼓を打とうが、ワガママ駄々っ子の幼稚園児のままではありませんか。
いま、自民党が大揺れになっているでしょう。特に「清和会(安倍派)」は、完全にお取り潰しのターゲットになっている。次の写真は、2023年5月16日に開かれた『清和政策研究会との懇親の集い』に集まった安倍派のお歴々です。みんな満面の笑顔で、自信満々といった感じです。それが半年後には、全員がシュ〜ンとした顔に変わっちゃった。「裏金問題」が表に出たというだけでこうまで顔が変わるのかと思ってびっくりしました。
胸を張れないようなことは、最初からしなければよいのにねぇ。でもやっちゃって、バレてから大慌てになる。これが人間なんですよね。
しかし考えてみてください。「裏金」は、別に昨日今日のことじゃないんです。ずっと前からやっていたこと。それに金額だって決して莫大というわけじゃない。どうして今ごろになってそれを騒ぎ立て、マスコミも報道するようになったのでしょう? 要は「清和会」潰し、「自民党」潰しという目的が先にあって、そのネタとして、パーティー券の「裏金問題」を出して来て、そこに当て嵌めたというだけのこと。
地検特捜部というのは、通常の警察・検察では踏み込めないような政治案件を扱う、ということに建前上はなっているのですが、実体は「特別捜査」の「捜査」の字が違う。これは「操作」の意味であって、日本の宗主国であるアメリカさんの意向にしたがって、アメリカさんに逆らう日本の政財界人たちを失脚させるための謀略機関としてある。要は、アメリカさんの下請けの工作機関です。ですから、そのためにはでっち上げだって、証拠改竄だって平気でやる。
それが、「清和会」潰し、「自民党」潰しに動いたということは、上の命令系統(アメリカさんの中枢部)に、一大変化が起きたということを物語っている。
だから、マスコミだってそれを報道できるのです。安倍が生きていた頃には、まったくもって安倍さまさまで、省庁も、警察・検察も、日銀も、経団連も、マスコミも、有識者も、みんな安倍にひれ伏していたじゃありませんか。強姦犯人の友人ジャーナリストも見逃したじゃないですか。佐川だって、モリカケだって、全部うやむやにしたじゃありませんか。それが一変した。
つまり、ウクライナ、イスラエルと来て、DS 叩きの最終章がとうとう日本にも及ぶ段になった、ということでしょう。
私が「なるほどネ」と思ったのは、国民監視の目的で作ったアメリカの「NSA(アメリカ国家安全保障局)」を、トランプさんが DS の悪事の証拠集めに逆利用したの同じように、安倍の手先となっていた検察とマスコミを逆利用して日本政府を追い詰めようとしているところ。だけど、「バカだなぁ」と思うのは、最終的には自分たちの癒着も暴かれていくことになるというのに、目の前の利害だけで動いているから、それを見通す眼がないんだネ。う〜ん。(˘・_・˘)
今や、Covid-19のパンデミックが作られたものだと分かり、「沸く珍」が恐ろしい生物兵器だったということも分かり、ウクライナ戦争はロシアの圧勝と分かり、西側の兵器はポンコツで使い物にならないということも分かり、ウクライナがナチス国家でそれを西側が支援していたという構図が分かり、ゼレンスキー政権がいかに腐敗していたかということが分かり、マイダン革命の工作によってその下地を作ったのがアメリカさんだったことが分かり、バイデン親子も深く関与していたということが分かり、腐敗したエリートたちがこぞって小児性愛者だったということも分かり、イスラエルはシオニスト国家であってユダヤ国家ではないということも分かった。
アメリカさんが、世界のお手本でも警察官でもなく、「悪の帝国」の総本山であったということも分かった。戦後の日本はその属国で、名誉白人ということで G7 のお仲間に入れていただき、それなりの地位を与えられて喜んだ人たちもいたけれど、DS のパシリとなっていいように転がされ、アジアを裏切り、ロシア・中国を敵視し、ひたすらお金を貢がされた。こうして、平成の30年間、日本はやせ細っていく一方だった。
しかし、いま言ったようなことは、日本国民の大半がいまだに知らない。
でも ───
「洗脳」が解けていくスピードが、加速度的に上昇していることに気がつきませんか? 大きなスパンで見ると、3000年間かかって起きた変化が直近の300年で起き、300年間かかって起きた変化が直近の30年で起き、30年間かかって起きた変化が直近の3年で起きている。長年にわたって秘密にされていたことの暴露が、今もの凄いスピードで進んでいるのを、あなたは驚きの眼をもって見ている筈です。
「ムーアの法則」は、何もモノ分野だけで起こっているわけではないのです。精神世界でも同様に起きている。いや、正確に言うと、霊的世界で加速度的変化が起きているから、精神世界でも加速度的変化が起き、精神世界で加速度的変化が起きているから、物質世界でも加速度的変化が起きているのです。ですから、この変化に適応できない人は、「清和会」の政治家と同じように、ある日突然、目の前の梯子がひっくり返されたのを見ることになります。
逆に言うと、霊的世界の加速度的変化を直感している人は、これから新しい、素晴らしい時代を創造していき、直感できない人は、古い価値観を抱えたまま地球圏から消えていくということになる。今度の、沸く珍死、戦場死に、もうその結果が出ています。また、それを強いた側の人間も、真相の暴露によって、これから消えていく運命となっている。まったくもってお馬鹿な話なのですが、それが、今の霊的段階にある地球人が経験しなければならないことなのです。
あなた方は「死」を恐れるので、これを言ってもなかなか理解し難いことでしょうが、「死」そのものは別段どうということもないのです。むしろ、自分を拘束していた「身体」から解放されるので、「魂」にとっては喜ばしいことです。問題は「生き方」と「死に方」です。その過程を通して、「魂」がどんな経験を積み、それによってどれだけ霊性を向上させたかが、死後、向こうへ帰ってから問われることになる。
ここで再度、物質的な要素をぜんぶ外し、衣服や身体も剥ぎ取って、地上に蠢く人間たちの「魂」の活動だけを想像して見てください。これは実際に、霊界から見える個々の人間の姿です。その中には、邪霊に取り憑かれて悪巧みをする奴や、金の亡者となってしまった奴や、Sex や麻薬の虜になった奴や、我が身の保身第一に嘘をつく奴や、無智なるがゆえに騙される奴や、戦場に駆り出されて撃ち合いの挙句に死んでしまう者たちがいます。
まさしく、幼稚園の風景そのものではありませんか? しかしそれは、園児たちの「お遊び」ですからまあ仕方がないのです。イジワルな子もいれば、心やさしい子もいる。暴力的な子もいれば、物静かな子もいる。
大切なのは、その「遊び」を通して、何を学んだかです。
2023年の暮れに『大川原化工機冤罪事件』というのが表沙汰になりました。横浜市にある大川原化工機が製造する噴霧乾燥機が、生物兵器の製造に転用が可能であるのに、経産省の許可を得ずに中国に輸出したという疑いで社長以下3名を逮捕。一年近く勾留したものの、これが冤罪だったという事件です。事件の中身や経過についてはいろいろなところに出ているのでので書きませんが、この事件は、私にとってとても興味深い点がいくつかありました。
先ずは、「生物兵器の製造に転用可能な装置」を中国に売っていたという容疑。このタイミングで、捜査の視点を「生物兵器」にフォーカスしているのです。ところがこの間、中国の武漢で、アメリカさんは実際に生物兵器を作り、ウクライナにも国防総省管轄のバイオラボをたくさん所有していました。そして日本政府はと言えば、アメリカさんの命じるままに、このウクライナを金品で支援しているのです。
二つめは、この事件の捜査と起訴を担当した検事が、法廷で大川原化工機側の弁護士から「謝罪の気持ちがあるか」と問われたときに、「当時、起訴すべきと判断したことは間違っていないと思うので、謝罪の気持ちはない」と答えた、と伝えられた一件です。これは、関係者の感情を逆撫ですることになるのでもちろん問題視されたのですが、私が興味深かったのはそこではなく、地位のある者がするときの責任逃れのパターンなのです。
アメリカさんに追随して日本もイラク戦争に加担し、あとになってイラクに大量破壊兵器が無かったということが分かったときに、国会答弁で小泉純一郎がこう言ったのです。「あのときは、それが正しい判断だったんだ」。まったく仰天します。一国を潰したんですからね。「あのときはそれが正しいと思ったんだ」ならまだ分かる。ところが「当時はそれが正しかったんだ」という論理を持ち出したら、反省する機会も謝罪する機会もそれで潰(つい)えてしまいます。
『大川原化工機冤罪事件』でさらに興味深いのは、この「謝罪の気持ちはない」と言った同じ検事が、大阪地検特捜部が2010年に起こした村木厚子さんの冤罪事件では、冤罪を晴らすための内部告発を行なった人だったというのです。ですから、片方では「冤罪」を晴らすために自分のクビまで掛けて組織と闘い、もう片方では「冤罪」を作っておきながらそれを「謝らない」と言うのです。
他人を謝らせることは可だけれども、自分が謝るのは不可なんですね。この人間心理というものは非常に興味深い。
タッカー・カールソンさんが、「沸く珍」を打った医者たちがなぜ謝らないのか、という問題を提起して「事が大きくなるほど、人は謝れなくなる」と言っていたのですが、これは違うと思います。事が大きかろうが小さかろうが、謝らない人は謝りません。ただ、事が大きくなった場合には、責任転嫁する対象物が増えるので、より誤魔化しやすくなるというだけの話です。「謝る」などという発想を、そもそも持たない人たちがいるのです。
こういう人たちは、次のパターンもよく使う。「自分はそんなつもりで言ったのではなかったが、もしも『誤解』を与えていたのだとしたら謝る」。と相手側の「誤解」に責任を転嫁してしまって、自分からは結局は謝らないのです。
これは、うっかり謝ったりすると、自分をこれまで支えてきた「杖」がそこでポッキリと折れてしまうような感じがするためです。特に、社会的エリートになったり官僚制度の中で生きて来たような人は、「杖」の太さが普通人の何倍にも膨らんでいる。これは宗教人も同じこと。梯子段の階層を上るたびに、それを支える「杖」も太くなっていくのです。ですから、それが折れるイメージは、その人に大変な恐怖をもたらすのです。
しかし、そんな「杖」など、所詮は「幻想」の上に築いてきた「杖」に過ぎません。死んだ後もあの世に携えていけるわけじゃない。ですから、「幻想」の「杖」にしがみ続けていればいるほど、老後や死が怖くなってしまいます。むしろ、「幻想」の「杖」などは早々に折ってしまったほうが、その奥にある、本当の「杖」の存在と、その確証に近づけるのですが‥‥。
けれども、その勇気を持つことよりも、目の前にある恐怖心を一時回避することのほうが優先してしまうのですね。ああ、もったいない。しかし、霊的観点から言えばこれは完全に落第です。0点どころの話じゃない、マイナス60点。なぜなら、せっかくの反省のチャンスにもきちんと向き合わず、スルーしてしまい、その分、カルマを積んだからです。うまく逃げおおせれば、この世では安泰と思うかも知れません。がしかし、死んでからはそうはいかないんですぞ。
こういう人は、あっちへ行くと、自分が迷惑を掛けた人たちの顔が次から次へと浮かんで来て自分を責め続けるのを、その後際限なく見続けることになるのです。なにしろ、本心を覆い隠してくれていた身体はもうありません。そこは意識だけの世界ですから、隠していた心がぜんぶ丸裸になって、その意識状態で固定されてしまう。傷つけられた者たちの恨みつらみが、そこを束になって襲いかかることになります。反省なく死んだ人に、情状酌量はまったくありません。
因果応報というのは、冷徹な「法則」なのです。ですから「情」は介在しません。宇宙には、キリスト教が言うような「罪」や「罰」はありません。死後の審判もありません。閻魔大王もおりません。しかし、自分が為したことは自分に還るという、絶対的な法則がある。どんな知的存在であろうとも、その法則から逃れることは出来ません。しかしあなた方は、その裏にあるメカニズムを知りません。
前回の「波動の法則」の中で、この*宇宙の中に認められる物質は、わずか5%に過ぎないということを言いました。しかも、その内の4.6%は銀河間ガスということで、星にまでなった物質はたった0.3%しかないのです。ここで、次のような映像を想像してみてください。
*厳密に言うと、(想像される)この宇宙。実際はどうなのかは分からないし、「この」以外の宇宙も分からない。
子供用のビニールプールを思い浮かべて、そこに水をいっぱいに張ります。その中に、全体量の4.6%分のゼリーを溶かし入れ、さらに0.3%分の塵を撒きます。塵はもうどこに行ったのかも分からないようなわずかな量ですが、これが星の上にある物質で、人間はその中に含まれます。ベースとなった水は、物質化されていない振動数のエネルギー*に当たり、この中には、あらゆる意識と生命力が複雑に絡み合いながら溶け込んでいます。
*西洋ではエーテルと言い、インドではプラーナといい、中国では気という。
さて、プールの縁をトントンと叩いてみましょう。すると、叩いたところから波が広がっていき、端にぶつかり返ってきます。続けていると、行く波と返る波がぶつかってうねりが大きくなりますが、叩くのをやめれば波はしだいに収まり、やがては平衡状態に落ち着きます。このように、宇宙というものは、基本的に、つねに「平衡」を保とうとする性質を持っているのです。これが、世に「中庸」とか「中道」と言われる性質です。
そうした前提条件の中で、人間が活動をすると宇宙はどうなるでしょうか? どのような活動にも、それをする、したい、しようという「意識」が必ず働いています。すると、「意識」の大海であるこのプールの中の水が、その「波動」で揺れることになるのです。この揺れは、同調や共感を集めれば、それだけ共鳴して大きくなります。
さてここで重要なのは、宇宙には「平衡」を保とうとする基本的性質があるので、そのときに、それと同等の反作用が生じるのです。揺れを元に戻そうとする力です。これが、「因果応報」というものの正体なのです。つまり「因果応報」は、自分が何かを為したその瞬間に、すでにその反作用として起きていることなのです。
ところが、人間にはそのようには思えません。その理由は、「意識」の大海で起きた揺れが、物資界にも影響を与えるようになるまでには時間が掛かるからです。
海辺に行くと、砂浜に、外国から旅をしてきて漂着したゴミを見つけることがあるでしょう。長い長い漂流期間を経て、やっとたどり着いたものです。海の中に入って、海面に浮いているゴミを観察すると、波がやって来てもゴミはほとんど動かずにその場で上下運動をしているだけだということに気がつきます。つまり、波の影響が直ちにゴミに反映するわけではありません。これはプールに浮かんだ塵とて同様です。
今のは喩えとして表現しましたが、今度は前回の「波動の法則」で示した原子モデルの図を使って説明しましょう。
物質界は、様々な原子の集積によって成り立っていますが、堅牢に見えて、実はその内部はスカスカです。それを、この段の冒頭で、プールの中の水と塵の関係に置き換えて説明したわけです。
あなた方は、ご自分を物質的存在だと無条件に捉えていますが、実はそうではなく、「意識」の大海と常時連結している、個別化した「意識」の塊(=魂*)なのです。「自分」だと思っている身体は、「魂」に付随している「塵」に過ぎません。実際には、身体を貫通して、宇宙のプラーナのエネルギーが常時往来しているのです。ところが、その流れに対して、「塵」はあまりにも微量でしかないものですから、わずかな抵抗しか生じません。
*塊は土くれで出来ているけれど、それがもの云うと魂になるというのは面白いですね。
このため、「意識」の大海、つまり「霊界」の場では、直ちに起きている反作用が、物質界にまで降りて来るためには相当な年月が掛かるのです。若いときから継続してきた思考パターンや行動パターンに対する「反作用」が具体化するのが、人生の終盤であったり、多くが来世にまで持ち越しになったりしてしまうのはそのためです。結果として、人間は、とことん追い詰められない限りは、自分の過ちというものになかなか気づけません。
しかし「霊界」においては、逐一、預金通帳にプラスとマイナスとが記録されています。そして、負債が溜まりに溜まったときに、清算のために一気にそれが流れ出る。それを、前回「ししおどし」の喩えを使って説明しました。ですから、本当は「因果応報」というものは瞬間々々でつねに起きているのです。が、人間は気づけないまま、ついつい負債を溜め込んでしまう。もちろん逆もあります。意識しないまま、でも貯金を少しずつ増やしていく善人もいる。
さあ、これで宇宙には「罪」も「罰」もない、審判もない、閻魔大王もいない、と言ったことの意味がお解りでしょう。審判を与えているのは、自分自身の、その時々の「自由意志」なのです。「罪」と「罰」という言葉を敢えて使えば、自分が「罪」を作り、自分が自分に「罰」を与えるのです。結局これは、誰も逃れられない、厳格な「宇宙の法則」の手のひらの上に、全員が乗っているということなのです。そして、この法則に情状酌量はありません。
さてここで、「ムーアの法則」に絡めて、霊的世界でいま加速度的変化が起きているという話をしたことを思い出してください。それが精神世界にも落ち、物質世界にも落ちてきているのです。そこで、安倍派のお取り潰しという動きも出てきている。ちょっと前ならば、不祥事などみんなスルーですよ。そして来世へ持ち越しだった。でも、自分が生きているうちに、議員生活をしているうちに、反作用が返ってきたわけです。
さて、そこでです。これは実は大変なギフトなのですが、果たして、本人たちがそのことに気づけるかどうか。反省して、自分の過ちを認められるかどうか。傷つけたり、騙した人たちにちゃんと謝ることができるのかどうか。
地球圏の外郭の波動が上がって(要は、地球がアセンションに突入して)、ずっと「闇」に暮らしていたかった人たちが、まるで陽だまりに置いた石を急にめくったときに右往左往する、ダンゴムシのような騒ぎになっています。
隠し事が根こそぎ暴かれて、そりゃあ辛いでしょう。
眩しくて、眼も痛いでしょう。
でもね。それはイジメるためでも、懲らしめるためでもないんですよ。今からだって、光の中に飛び込めるのです。光に抱いてもらうことだって出来るんです。光は決して拒みません。誰にも、いつでも、同じように照らし続けているんです。ただ、それに気づけなかっただけ。「闇」の誘惑のほうが楽しいし、ステキだと思ってしまっただけ。だって光は、あなたをふんわり温めるだけですもの。
どうぞお好きな道を行きなさい。わたしにはそれしか言えない。でも、神があなたを見捨てることは絶対にない。なぜって、神にとってはみな愛しいわが子なのですから。
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霊的な主題を扱った書物に接すると、「バイブレーション」や「波動」という単語をよく眼にします。会話の中でも「波動」が使われることは少なくありません。けれどもどれほどの人が、「波動」という言葉が意味するものを心底より理解しているでしょうか? 現状は、ほとんどの人たちが、単に「不思議パワー」ていどの意味でその言葉を使っているのではないでしょうか。
私たちが眼にする物事には、すべて「因果律」というものが存在します。「波動」がもたらす現象にも、その原因と、そうなるメカニズムが背後に存在しています。ですから、結果の現象面だけを見てあれこれ言ったところであまり意味はなく、メカニズムをちゃんと理解した上で、原因を探るという視点を持つことが大切です。そうでないと、「波動」も単にその場限りのオカルト話に堕してしまい、霊性の向上にはなかなか繋がっていきません。
そこで、「波動」という言葉の背景にあるロジックを、これまで多方面にわたって科学的に追いかけて来ました。それは、「波動」は単なる「不思議パワー」などではないんだよ、もっと根源的なロジカルなものなんだよ、ということを理解していただきたいがためです。さて、今回は最終回ということで、前半にそのまとめを書いてこれをさらに解説し、後半では現象面に見られる様相を、法則との関連から見ていくことにいたしましょう。
ということで、先ずはこれまでの大まとめを箇条書きにしてみます。
「波動」に関する宇宙の基本原理
?「波動」とは、振動するエネルギーのこと。
?「波動」は、全宇宙を形づくる最も基本的な単一の要素である。
?全宇宙のあらゆるものは、この「波動」がただ振動数を変えることによって出来上がっている。
?したがって、全宇宙のあらゆるものは、元の一つに還元される。
?この一つが、なぜ、どのように生じたのか、また在るのかは、永遠の謎。
先ず、?と?で述べていることは、宇宙を語る上での基本中の基本だと言えます。これは、古代より伝えられて来た不変の「真理」であり、時代によって言葉は多少違うかも知れませんが、内容的には一貫して同じことが伝えられて来ました。時代時代で言い方に違いがあるのは、そのときの人々の理解度に合わせて語る必要があったためで、「真理」そのものはいつの時代にあっても不変です。だからこそ「真理」と言えるのです。
さて、ここで重要なのは、それが〈唯一〉の要素だという点です。
現代物理学においては、物質の最も基本的な構成要素は「素粒子(Elementary particle)」ということになっています。そして全17種の「素粒子」からなる「標準モデル」というものが、20世紀の終わりまでに体系化されました。この理論の奥ゆかしいところは、「素粒子」を、「物質の基本要素」と言っている点です。決して「宇宙を構成する基本要素」とは言っていない。ですから、その意味において間違いではありません。
しかし、私から見て興味深いのは、この17種の中に、質量を持たない素粒子(光子、グルーオン)と、粒子とみなしている波動(光子)が含まれていることです。粒子なのに質量がない? 粒子だと確認されたわけではないのに、粒子とみなす? 常識的に考えたらおかしいではありませんか。いったいこれは、どういうことなのでしょうか? そこに私は、物質化と非物質化という相互作用の境界面(Interface)を見るのです。
一方で、現代物理学は、全宇宙に占める「物質」の割合はたった5%に過ぎないということを認めています。それ以外の95%は、「なんだかよく分からない物質(Dark Matter)」が26%、「なんだかよく分からないエネルギー(Dark Energy)」が69%を占める。ということが、観測と計算結果から導き出されているのです。
ところが、物理学者というのは変わった人たちばかりが揃っていて、95%のほうを研究してみればよいものを、なぜか5%にばかりこだわり続けています。
しかも、この「標準モデル」理論には、素人的感覚から言って誰もがおかしいと思う穴があるように思うのです。物質の最終的な素が、言われるように17種の「素粒子」に特定できたとして、ではなぜその17種が存在するのか?、それはどこからどのようにして生じたのか?、またそれを生じさせたもの(原因)は何なのか?、については何も教えてはくれないということです。
それはちょうど「ビッグバン」理論に対する疑問と同じで、仮にそれが正しいとして、では「ビッグバン」の前はどうだったのか?、どうしてある日ある時「ビッグバン」が起こったのか?、それを起こさせたものとは何なのか?、と訊いてみても一向に要領を得た答えは返って来ません。それどころか、そういう疑問を呈すること自体がタブーというか、バカ扱いされてしまう始末なのです。
村山斉さんという東大の物理学者がいて、NHKで『最後の授業』というのをやっておられたので見てみると、冒頭でいきなり「この宇宙は、およそ138億年前にビッグバンによって始まったと言われています。」と仰ったのを聞いて、ひっくり返りそうになりました。「えっ、〈言われています〉って、何なのよ?」「それを調べるのが、そもそも物理学者の役割じゃないの?」と。ちなみに村山斉さんのこと、私は嫌いじゃありません。
一事が万事その調子で、学会で一つの理論が打ち立てられると、学者たちはみなそれを鸚鵡返しのように繰り返すだけで、いつの間にか定説化して行ってしまうのです。インターネットをいくら調べても、「弩知ろう人」の私が思いつくような素朴な疑問に、「弩知ろう人」にも解るように答えてくれる科学者は皆無です。みな、業界用語を羅列して、簡単な話をわざわざ難しく話し、最後は複雑な数式を並べて煙(けむ)に巻いてしまう。困ったものです。
ところが、古代より繰り返し述べられてきた「真理」は、これらとはまったく違う理論を私たちに伝えてくれています。曰く、宇宙には始まりも終わりもない。ただ永遠の今があるだけ。我々の住む物質世界は、物理と時間とによって制限された世界に過ぎず、その奥にはつねに霊的世界が重なって存在している。そして、肉体の死後も「魂」は生き続け、霊的成長を目指して輪廻転生を繰り返すのだと。
近代物理学は、「物」の「理」からアプローチしていき、宇宙の95%は実は「物質」ではないもので構成されている、という認識にまでは到達しました。また、物質の最小単位を追い続けていった結果、「素粒子」の観測にまで行きつき、さらにその素には振動するエネルギー(超ひも)があるのではないかという仮説を打ち立てるところまで来ました。
ここまで来れば、次はトンネル工事をするときのように、「物理」側アプローチと「宇宙の真理」側アプローチとの開通式を図る段階に来たのではないでしょうか。
■宇宙を形づくっている素はたった一つの振動するエネルギー
さて、霊界を含めた全宇宙が、界層構造によって成り立っているということは、これもまた古代より指摘されて来たことです。ただその分類については様々な見解があり、また名称もバラバラで統一がされていないという問題点がありました。本稿では、なぜそうなってしまうのかという理由を説明した上で、「オクターブの法則」を「振動数」の幅によって特定するという仮説を提示しました。
「オクターブの法則」を説いている書物はそれほど多くありませんが、7界層の分類がチャクラとの関係で説明しやすいことと、ロバート・モンローの研究成果ともよく合致することからこれを採用しました。また、従来は「波長*」という言葉が一般にはよく使われていたのですが、この言葉は使われ方として曖昧さを有しているために、より科学的に聞こえ、かつ英語の?Vibration?の訳語でもある「振動数」という言葉を主に用いることにしたのです。
*「波長」と「振動数」は反比例の関係になっていて、同じことを別の視点から言っているだけ。
このような前提の中で、?として、宇宙の森羅万象が、たった一つの素である「振動するエネルギー」、つまり「波動」がただ振動数を変えることによって出来上がっているということを示しました。言い換えると、このことは〈宇宙のすべては「波動」である〉という言い方が出来るのです。実際にそう語っている人も多くおられ、それは間違いではないのですが、ただ残念なことに理論が伴っていないために、人々には眉唾の印象しか与えていません。
〈宇宙のすべては「波動」である〉と、それだけをいきなり言っても、一般の人には何のことやらさっぱりわからないことでしょう。しかも、現代物理学という権威は、そんなことを公式見解にしていないわけですから、それを言った途端、頭のおかしいやつということになってしまいます。この「波動」という言葉に纏わりついてしまった胡散臭さを、本稿で「科学」の面からきちんと説明することによって、何とか正常なものに位置づけたいと思っているのです。
さてここで、たった一つの「振動するエネルギー体*」から森羅万象が生じる、という基本のメカニズムに付随した、肝となる理論を述べておきます。これは非常に重要なポイントです。このことがちゃんと理解できれば、あなたがこれまでに感じて来た多くの疑問のいくつかが、たぶん解消されることになるでしょう。
*「振動するエネルギー」と言ったり「振動するエネルギー体」と言ったりしていますが、どちらも同じ意味です。ただ、ニュアンス的に「波動」すべてを指すときには「振動するエネルギー」と記述し、どちらかと言えば個別化したものを指すときには「振動するエネルギー体」と記述しています。また後者は、よく知られた言葉としては「霊(Spirit)」に相当します。
一つの素から宇宙のすべてが生じるという作用の過程については、「三角形の法則」のところで述べました。この初期の段階で、もともとは一つであった「振動するエネルギー体」が、性質の異なる3つの要素に大きく枝分かれしていく*のです。
一つめは物質化していく要素です。これが非物質と物質との境界面を超えると「素粒子」へと変化していくのです。
二つめは意識的存在となる要素です。これが振動数を下げて個別の「魂」を形成していきます。
そして三つめは、誕生したこれら森羅万象を生かすための「生命力(Vital Life Force)」へと変わります。
しかしこの三つの要素は、分かれたあとも「三位一体」を形成しているのです。
*枝分かれについてのもっと詳しい説明はこちらに掲載 ▶︎
■大元は一つ、だから全部が繋がっている
私たちが住む物質世界は、霊界側から見れば、最低限にまで振動数を下げていったさらにその先の領域に当たります。いわば霊界の最辺境地です。しかしそうした中にあっても、以上の3つの要素が適宜配分されて、この極めて多様で複雑な世界を形づくっているのです。
地上に生きる私たちの眼には、この世界の個別の物がすべてバラバラに存在しているように見えます。けれども、元を辿れば、出自は一つであり、いつでも、またどこを見ても「三位一体」の中にあるのです。
ですから、この宇宙がどれほど多様で複雑な世界に見えていても、すべての意識は根っこでは繋がっていて、宇宙のすべてが一つの生命活動を営んでいると言えるのです。あなた方の眼に映る実に多様な無限の世界は、すべてが根源である一者の表現なのであり、あなたという「個」もまた表現の一部分なのです。
これも、現代物理学の謎というか、まるでタブーのようになっている素朴な疑問ですが、〈原子モデルの隙間には何があるのか?〉ということの解答を、さていままでにあなたはお聞きになったことがあるでしょうか? インターネットをいくら検索しても、せいぜい「真空がある」という解答ていどしか出てきません。では「真空」とは何か?というと、もうそこでお手上げ状態なのです。誰も説明できないし、しようともしません。
試しに水素原子の隙間がどれくらいのものかを探ろうとネットを検索してみたのですが、答えが見つかりません。見つからないのは、誰もそんなことを考えたことがないということでしょうか? 仕方なしに自分で計算してみると、水素原子1個の中の隙間は、原子核に対してなんと1000兆倍*もの大きさがあると解りました。原子核の1000兆倍の隙間ですよ。この隙間には、いったい何があるのでしょうか?
*計算、合ってるかしら (・–・;)ゞ
そこは、結局のところ、物質化されていないエネルギーの通り道となっているのです。もっと正確に言えば、非物質的エネルギーの大海原の中に、ごく稀にチリのようなものが漂っているという感じです。この大海原を仕切る壁のようなものはどこにもありません。全部が大きな一つです。よって、物質と、意識と、生命力は根っこのところで全部つながり、互いに通じ合っているというわけです。
ただし、物質になるまで振動数を下げたエネルギーは、質量(=動きにくさ)を持つことになるので、三つのつながりに対する反応は鈍くなってしまいます。
「サイコキネシス(Psychokinesis)」という霊能があり、思念で物質を動かせる人がいるのですが、もちろん普通の人にはそんな芸当はできません。けれども、古代の聖人たちはもっと凄くて、思念によって、物質化と非物質化を自由に操ることができました。エジプトのピラミッドやマチュピチュの石組みはそのようして造られたのです。
以上のような成り立ちが理解できるならば、すべてのものが一者に還元される、という?で示した理由もすんなりと理解できるのではないでしょうか。また、物質世界には霊的世界が常時重なった姿で存在していますので、霊的存在でもある人間が、そちら側への意識を強めていけば(それには訓練を要する)、「すべては繋がっている」ということも、実感としてよく解っていくようになります。
以上が「波動の法則」についてのまとめとその解説です。
?を残していますが、これについては、次の現象面に見られる「作用」の解説を通じて述べることにいたします。
■現象面で見せる「波動」の作用は実にシンプル
ところで、この連載を始めるに当たっては冒頭で次のように述べました。〈「波動の法則」の「作用」という面だけに関して言えば、実にシンプルなものに過ぎない。けれども、それと背景にある「理論」とが合わさって説かれたことはない〉と。そこで、先ずは、「作用」の裏側にある「理論」について語って来たわけです。論理的思考に慣れていない人には難しいとの印象を与えたかも知れませんが、大事な点ですので、頑張って少しでも理解するように努めてください。
なぜかと言いますと、「作用」面の働き自体は非常にシンプルですし、「宇宙のすべては波動」という言い方も別に間違ってはいないどころか、正しいことですので、そこだけを切り取って悪用する人たちというのが後を絶たないのです。「波動」が何かをよく解ってはいないのに、「波動」という言葉を、まるで魔法のスパイスのように使っています。
しかし、背景にある理屈をよく学んでおけば、こうした詐欺に引っ掛かることは無くなるでしょうし、「波動」理論を自分の霊的向上のために正しく活用することも出来ます。次には、この観点から、話を進めて参りましょう。
「波動の法則」の「作用」という面だけに注目すれば、話は非常に簡単です。要は「振動」ですので、音楽シーンで見られる現象を類推して当てはめてみればよいのです。すなわち、同調、共鳴、協和、不協和といった現象が、全宇宙のあらゆる場面で起きているということです。ただし、音楽と一つだけ大きく違うところがあります。それは、おいそれとは高音を出せないし、また同調することも出来ないということ。これについては、後ほど詳しく述べます。
■「引き寄せの法則」?
最近、ある人と話をしていて、その人の口から「引き寄せの法則」という言葉が何度も出てくるのを耳にし、驚かされました。そうか、「引き寄せの法則」という言葉がもはやスタンダードになってしまったのか、と知りちょっとガッカリしました。この言葉も、典型的な引っ掛けです。8割、9割は正しいことを言って、残りの2割、1割に「心」をくすぐる嘘を混ぜ込んで全体をうっちゃってしまうのです。
同じ振動数を持つものが共鳴するということは確かです。ですから、人間が日々行動する中で、自分が発している振動数に近いものを「引き寄せ」るという現象は実際に起こりますし、瞬間瞬間においてそれが頻繁に起きています。しかし、逆から見れば、自分が「引き寄せ」たと思っている対象物に、実は自分のほうが「引き寄せ」られたということでもあるのです。先ずその視点が、この言葉からはスッポリと抜け落ちている。
ここで重要なのは、「引き寄せ」と言っている際の「動機」です。同調、共鳴という現象そのものは時々刻々と起きています。しかし「引き寄せ」と言ったときには、自分が欲しいと思うものを望み通りに「引き寄せ」られるもの、と解釈しているのではないでしょうか? そういうことが起きないとは申しません。首尾よくそれが実現することもあるでしょう。けれども、それがどんな「動機」から発せられたかを、天は絶対に見逃しはしません。
なぜなら、それこそが真の「波動の法則」の支配下において観察されていることだからです。先ほども述べたように、大海原は一つで、全部の意識はつながっているためです。一者に還元されるからです。嘘やゴマカシや偽善は天には通用しません。どんなエゴもすっかりお見通しです。しかし、このようなことを人々は知りません。
電車に乗ると、今やほとんどの人が、眼を皿のようにしてスマホの画面に見入っています。その人は、いま見ている画面を自分が選んでいると思っています。が、事実は逆で、その画面が発している「波動」に自分のほうが「引き寄せ」られているのです。しかし、そのことにまったく気づいていません。眼が釘づけになったということは、その時点でそこに「同調」が生じたということです。その瞬間、巣魔捕の餌食になってしまう。
今の検索エンジンのアルゴリズムは、過去と直前の閲覧履歴を元にして、その人が次に興味を抱くであろうものを、次から次へとプッシュして来ます。これに安易に乗っかっていると、すぐさま巣魔捕に呑み込まれ、「心」はどんどん荒れていきます。なぜなら、人間には向上心だけではなく、もっと強い衝動の向下心があるからです。そして、向下心に訴えたもののほうがより注目を浴び、アクセス数も増えるしお金も稼げる。そのため、放っておくとどんどん下り方向へと向かってしまうのです。
以前にも、山登りの喩えを使ってお話したことがあるのですが、自己の「波動」を上げていくのは容易ではありません。しかし下っていくのにはさして労力はいらない。こうしたことは、巣魔捕に限らず、日常生活のあらゆる場面で起きています。宇宙のすべてが「波動」ですから、物、場所、自然、人、集団、言葉、文章、写真、映像、等々あらゆるところからは「波動」が出ていて、知らず知らずのうちにあなたの心身に強い影響を与えているのです。
特に、人間が関わったもの、人間の思念が入り込んだものは、自然界が生み出しているものよりも数十倍も強い影響をあなたに与えます。なぜかと言いますと、自然界が表出する波動は、穏やかでさりげないレベルに、通常は*調整されているからです。そうでないと、人間がその中で安心して暮らしていくことが出来ませんから。
*ときに自然界が猛威を振るうことがあるのは、ししおどしが跳ねる瞬間のように、人間の悪業が溜まりに溜まって、その反作用が限界値を超えて一挙に溢れ出したときなのです。
■「言霊(ことだま)」の誤解
「言霊(ことだま)」という言葉を、多分どこかでお聞きになったことがあるでしょう。これには誤解があり、多くの人が「言葉そのものに霊力が宿っている」と解釈しています。が、そうではありません。言葉そのものは単に符号です。「概念」に付けられたレッテルに過ぎません。人が「霊力」だと思っているものは、言葉にリンクした「概念」に同調する意識エネルギーが共鳴現象を起こしたとき、その集合意識が発散するパワーなのです。
例えば、ちょっと前まで私は「安倍」という文字を書けませんでした。その言葉を書こうとすると、嘘八百や、金の亡者や、チルドレンや、憂欲や、統一教会や、ジャパン・ハンドラーズなどに巣喰う人間たちの集合意識が、まるで膨らんだ綿飴のようにたっぷりとくっついてくる。この強烈なエゴの「波動」があまりにも不快で、吐き気を催すほどでした。しかし、綿飴がプシューッと萎んでしまったので、今は書けるようになったというわけです。
■「波動」を読む
普通の人は、人間が出している、こうした「思念」の正邪、善悪をうまく見分けられません。そのいちばんの理由は、「言葉」を聴いてしまって、裏にある「波動」を読むということをしていないためです。そのせいで「嘘」にコロッと騙されてしまう。けれども、「波動」を読めなくても、「波動」の影響というものは、善きにつけ悪しきにつけ確実に受けているのです。
邪悪な霊に操られた人たちは、人を騙すのが上手です。射倖心を煽ったり、闘争心をけしかけたり、恐怖心を抱かせたりして、先ずは準備運動段階で「波動」を充分に下げてやる。そうなったところで、そのレベルに合致した「嘘」を吹き込んでやると、「嘘」への同調が簡単に起きてしまうのです。
あなた方は、他人の語っている言葉を、嘘か本当か?という眼で見て、ものを判断しようとします。しかしこれでは真偽を見抜けません。なぜなら、あなた方の中にはそもそも完璧な人間などは一人もおらず、全員の眼が曇っているからです。ですから、その眼で見て相手を判断しようとしたら間違います。ましてや、レッテルなど貼ったら、その時点でジ・エンド。同意するにせよ、反発するにせよ、分断の罠にすぐに引っ掛かってしまいます。
そうではなくて、自分のほうを見ればよいのです。他者の発言に対して、先ず、自分は協和の念を抱いたのか、それとも不協和の気持ちになったのか。次に、そうなった自分の「波動」は、そのとき果たして高い状態にあったのか。それをチェックしてみればいい。最初に繰り出される「波動」低下作戦の誘いには、すぐにパッとは喰いつかず、自分の「波動」を高いままにしていれば、音階にズレが生じるので不協和となり、自然とそこから離れたくなってきます。
また、自分だけを見ていれば、騙されたと思うことも無くなります。「選択」行動は、つねに自分の判断なのだということが自覚できますし、もしも判断違いが生じたときには、自分のどこに原因があったかを振り返ることによって、「心グセ」に気づき、それを修正していくことができるようになるのです。このようにして、正邪、善悪の判断能力がしだいに向上していきます。
ということで、みなさんには「引き寄せの法則」の代わりに、「調和の法則」という言葉を使ってほしいのです。「調和」に動機を置けば、自ずと「調和」に合致したものとの縁が生じます。自分のほうから温かな「波動」を出すことを心がけていれば、温かなものが返ってきます。それに、つねに高い「波動」を出すことを心がけていれば、邪霊も近寄っては来られません。それもまた「波動の法則」のゆえなのです。
■「波動の法則」からしてあり得ないこと
さて次に、巷でよく耳にすることがらで、「波動の法則」の観点から言って、これは絶対に〈あり得ない〉ということを列挙しておきましょう。
世代が変わっても、人々の無智につけこんで、こうした騙しを行う輩というのは引きも切りません。以下を参考にして、どうぞ用心なさってください。
先に〈おいそれとは高音が出せない〉という言い方で触れましたが、「霊界」というところは、地上世界とは違って、純然たる界層構造より成り立っています。喩えて言えば、タワーマンションです。死後、このタワマンのどの階の住人になるかは、その「魂」のその時点での「霊性」の高さによって決まります。つまり、「霊界」の界層は、「波動」の高さ(振動数の高さ)によって、明確に線引きされているのです。
しかも、このタワマンにはエレベーターがありません。階段しかない。上の階を目指すには、一段一段を自分の足で昇っていくしかないのです。ここが、地上世界とは大いに違うところで、地上では、霊性の高い人も低い人もみな一緒になって混じり合って生活しています。そのような中でも、「調和の法則」によって、似た者同士のグループは自然と出来てしまうのですが、それでも霊性に差のある者同士が接触する機会というものは多分に残っています。
ところが、霊界では霊格に2段階*以上の差があった場合にはもう交わることができません。基本的に、自分がいま所属している界層内と、接している上下界層としか交流ができないのです。そのため、?の〈この一つが、なぜ、どのように生じたのか、また在るのかは、永遠の謎〉ということが起きてしまうのです。
*ここで言う「段階」は、「霊性密度」の一界層をさらに細かく分けたもの。
つまり、天使クラスといえども神々クラスのことは朧げにしか知らず、神々クラスも、創造神、絶対神がどういうものかを知らない*のです。それを知ることは論理的に不可能なのです。
*「それは泳ぎを覚えるのに似ている。 泳げなければ水に入ることはできないし、泳ぐには水に入らないでは不可能である。」 K・K・シャー
このように、上位方向については、その界層に到達してみなければ、それがどんな心境や感覚をもたらすのかは解りません。しかし下位方向については、ある程度は経験済みですから理解できますし、例外的に降りていく場合がある。それは、上位の界層の「霊(Spirit)*」が任務を持って下りるときで、この任務には大きく二つがあります。一つは霊界にいる後進の指導をする場合、もう一つは最下層に沈んだままの「魂」を救済する場合です。
*界層の上位にいくほど「魂」の殻が消え、純然たる「霊(Spirit)」に変わっていくので、ここでは「霊(Spirit)」とした。
ところが、後者が行われるということは滅多にありません。それは、潜水夫が一気に潜れないのと同じで、下層界に行くためには、自己の「波動」をその階層の振動数に少しずつ適応させていかなければならないからです。これは、上位にいる存在にとっては、深海に潜っていくような危険な大冒険となります。
そのミッションに従事する「魂」も、本音は上を目指したいのです。が、敢えてレスキューに赴くのは、地上と同じく、とても放ってはおけないと考える、利他精神に燃える「魂」がいるためです。
しかし、下層に降りるにしたがって邪霊の支配力がどんどん強くなっていく。するとレスキューも、しだいに邪霊との「闘い」の様相を呈していくのです。実際には「闘い」ではないのですが、邪霊のほうが「闘い」を仕掛けてくるのです。よいですか、ここを間違ってはなりません。闘ったら、相手側の土俵に乗ってしまいます。これは、地上においてもまったく同じことです。誘いに乗ってしまったら、同じ「波動」レベルに堕ちてしまう。
しかし、霊界でのレスキュー活動はなかなか捗りません。なぜかと言いますと、その領域に捕まった「魂」は、そもそも邪霊が出す「波動」に惹かれてそうなったわけですから、せっかくレスキューに行ったしても、聞く耳をまるで持たないのです。「光」を嫌って怖がり、「闇」にずっと居続けようとするのです。いまの地上世界を見ても、事情はまったく同じだということを納得されるでしょう。
このように、霊界の最下層に行ってしまったり、浮遊霊となって地上をうろついている「魂」には、光の側からの言葉は届きません。そのため、こうした「魂」を救うには、霊性のレベルが比較的近い地上の人間の、祈りや説得や叱責などの働きかけが必要となって来るのです。上位の存在は、それを強く求めています。
さて、このような事情があるということを知っていただいた上で、いまもよくある「引っ掛け」の例を以下に指摘しておきましょう。個別例は申しません。がしかし「波動の法則」のセオリーからよく吟味してみれば、自ずと答えは導き出せるはずです。
◼︎みながよく知っている歴史上の著名人を引き合いに出し、その人物が、地上に「霊言」を下すといったようなことはあり得ない。
→名前は単なる符号です。霊界に行ったら霊界のニックネームがあります。その「魂」がもし高位の存在であるとしたら、そうなるまでにいくつもの人生を歩んで来たわけで、ある特定の時代の人物の名だけを取り上げて口にするということはありません。その「魂」にとっては、全部の人生のトータルが自己なのですから。また、高級霊になるほど個体性というものは失われていきます。したがって、歴史上の著名人の名を出して来るのは、名前の「権威」によって操作しようと目論む「引っ掛け」です。
→また、大天使クラスの存在ともなれば、超古代に生きていた「魂」であったわけで、我々がそれを知る由はありません。そもそも大天使クラスの存在が地上に再び降りる、あるいは地上に直接コンタクトして来るというようなことはありません。なぜなら「波動」の高さが、あまりにも違い過ぎるからです。もしコンタクトして来るとすれば、何段階かのリレー形式で下りて来ることはままあります。通訳を介するという感じです。
→さらに言えば、高位の存在は、地上の人間が「権威」に弱く「権威」で動くということを知っています。ですから、それを知る存在が、「権威」を利用することなどあり得ません。いったい何のために、そんなものを利用する必要があるのでしょうか? 高位の存在たちが願っていることを想い浮かべれば、自ずと解るでしょうに。「権威」による説得と、「真理」への気づきは、相容れません。
→それと関連して、よく「自分は○○の生まれ変わりだ」というようなことを公言する霊能者の方がいらっしゃいます。そういうことがないとは申しません。でも、だからと言って、それがどうしたというのでしょうか? 重要なのは、その人の「今の霊性」なのではないでしょうか。
◼︎高位の存在が、人々を脅したり、恐怖心を引き起こしたりする予言を下すことはあり得ない。
→もし、そういうことがあるとしたら、それは何のためでしょうか? 高位の存在は、すべてはつながっていて、元は一つであるということをすでに体得しています。また、人々の「波動」の動きも逐一モニタリングしています。それなのに、脅したり、恐怖心を引き起こしたりするとしたら、自分で自分にそれを課しているということになってしまいます。いったい何のために? あまりにも馬鹿馬鹿しくてお話しになりません。
→ただし、「こうなるよ」という話を、受け手側が「恐怖」と捉えることはあります。たとえば「どこかの政党が潰れるよ」と言ったとして、ある人にとっては、それはバンザーイかも知れませんが、その政党に所属していた人やぶら下がっていた人たちにとっては、「恐怖」を抱くということになるかも知れません。
◼︎前記に関連して、予言が成就する日時を特定するようなことはあり得ない。
→先ず「予言」というものについてですが、原則として、高位の存在が「予言」を頻繁に下すということはありません。基本的にはしない。なぜかと言いますと、「予言」をしたのでは、地球学校でわざわざ生きる学びにはならないからです。これと同じ理由で、個人にも、未来に関する情報が与えられることはありません(ヒントていどはままある)。もしそれをしたとしたら、本当の「愛」がないということになってしまいます。
→ごく稀に「神」の遠大なご計画が「予言」として示される場合があります。しかしそれは、霊的学習にとっての、人類の方向づけを促すような場合にのみ限られます。また大まかなプランはあったとしても、未来が完全に決まっているというわけではありません。なぜならば、人間には「自由意志」というものが与えられていますから。けれども、たとえその「自由意志」を行使したとしても、最終的には「神」のご計画の範囲内に収まっていくのです。
→前の段でも語ったように、人間に恐怖心をもたらすような「予言」は、基本的に言ってあり得ません。なのに、それに日時までつくのは、さらに悪質です。日時がつくと、人々の興味は嫌が上にも増すことになるので、より騙しやすくなるのです。
→けれども、それが無智をさらけ出していると思うのは、霊界が「無時間の世界」だという点を無視していることです。そのために、地上でこれこれが起きるという日時を、正確に特定することなどは出来ません。霊界側から読めるのは、人々の意識の動きだけです。その集合意識が、地上の時計で何月何日にどうなるか、ということまでは予測できないのです。それに、高位の存在は、もとよりそんなことには関心を持ちません。
以上、「波動の法則」の観点から見て、このようなものはすべて「引っ掛け」です、というものを列記しました。
そもそも、こうした「引っ掛け」に簡単に騙されてしまうということの根本原因には、「幸福」というものに対する人々の理解不足があります。
誰もが「幸福」になりたいと思っています。そのこと自体はよいのです。しかし宇宙的観点から言えば、「幸福」になるためには、辛さを味わい、痛い目にも遭う必要があるし、カルマは受けて清算されなければならないのです。けれども、残念ながら人々にはまだそれが理解できません。そのため、逆を説く邪霊の甘言のほうにより強く心惹かれてしまうのです。
地球の人々が、「宇宙の真理」に気づく日はいったいいつになるのでしょうか?
■「波動」を高めてキープし続けるには
最後に、ご自分の「波動」をどう高めて、それをいかにキープしていけばよいかというお話しをしましょう。別のところで何度か言って来ましたが、「霊能」の有無と「霊性」とはまったくの別物です。「霊能」については生まれつきの要素が強い。ですが「霊能者」イコール「霊性」が高い人というわけではありません。むしろ逆の場合のほうがほとんどです。
なぜかと言うと、自分の感覚だけを頼みにして、見えたこと、聴こえたこと、感じたことを語っているために、邪霊に憑依されていてもそれと気がつかないのです。そこで、憑依を許した邪霊の言葉を、まるで「神」の言葉のようにして語ってしまう。霊界の成り立ちや法則についても、不勉強で何も知らず、学ぼうという気もありません。下手に学習などし始めたら、自分が頼みにしていた霊感への信頼が揺さぶられてしまいますからネ。
しかし、世間一般の人たちにはそういう事情が分かりません。そこで、その言葉をそのまま信じてしまうのです。邪霊たちは、そうやって混乱する人間たちの姿を見てはほくそ笑んでいるのです。
一方「霊性」のほうは、瞑想行を中心とした日々の訓練によって高めていくことが可能です。「霊性」が高まるということは、自分の「波動」の中心帯域が上方にシフトするということです。それによって、「波動」の知覚能力というものがしだいに高まっていきます。そうすると、正邪や善悪の違いを見抜けるようになりますし、嘘もたちどころに見破れるようになるのです。
しかし他方で、知覚能力の発現は、非常に辛い日常をその人にもたらすことになります。なぜかと言いますと、世の中に溢れかえっている低い「波動」を、まるで津波のように受けることになるからです。自分の「波動」が低かったときには、まったく感じていなかったものが、突如としてそれが分かるようになり、世の中から出ているノイズが、四六時中まるで槍のように身体に突き刺さってくるのです。これが、もの凄く辛い。
しかし、そこで負けてしまっては精神を病んでしまいますので、低い「波動」との接触はできるだけ避けるとか、恐れを抱かないとか、気分転換の方法を見つけるとか、観照者を立てるとか、深呼吸をするとか、ほほ笑みを想い浮かべるとか、様々なテクニックを駆使して、やり過ごしていくしかありません。
と同時に、防御だけではなく、自分のお役目を自覚して、利他のしごとに打って出るという積極性も必要になっていくのです。このように、「波動」を知覚できるようになるということは、世間一般の人々には理解できない茨の道を歩むことになるのです。
■「調和の法則」を志向する
ここで、「カウンセリング」とか「ヒーリング」という言葉に惹かれて安易な選択をする人たちに、警鐘を鳴らしておきます。それをして、悩める人々の役に立ちたいという志はよいのです。しかし助けてもらいたいと願う人たちは、大抵は低い「波動」状態にあります。場合によっては、邪霊に憑依されているという場合も少なくありません。
そのカウンセラーやヒーラーの「波動」の知覚能力が低いときには、大した問題は起こりません。低い「波動」の者同士でエネルギーを交換し合っているだけですから。しかし、知覚能力が高まってきたときには、低い「波動」をモロに受けることになります。
したがって、その覚悟と、跳ね返す力と、自分を回復させるテクニックを持っていないと、先行きはなかなか厳しいものとなります。私は、そのようにして転落した人たちを何人か見て来ました。ましてや、ひと儲けしようとか、騙してやろうなどというのは言語道断で、その報いは必ず受けることになると申し上げておきましょう。
先ほど、高位の霊的存在が、下層にレスキューに行く際には「闘い」の様相を呈することになると言いました。が、これとまったく同じことは、一個人の中でも起きているのです。あなたの目覚めを促そうと寄り添ってくださっている守護霊と、そうはさせじとする邪霊たちとの「闘い」です。これが、あなたの「心」の葛藤を生み出しているのです。
そして、そのどちらの声をより聞くかは、
あなたの「自由意志」にすべて任されているのです。
そう聞くと、難しいなぁと感じたり、途方に暮れたりしてしまうかも知れません。でも、そこでこそ、「波動の法則」が示す原理を思い出していただきたいのです。怖れるあまりから防御姿勢を取ったりしてはなりません。逆です。心をオープンにして、明るく、素直に、誠実に、ありのままに、好奇心を持って、ほほ笑みを絶やさず、献身の中に生きればそれでよいのです。それが「波動」を高く保ついちばんの秘訣です。
いつもいつもそれを心がけていれば、いつかはそれが習い性となり、いつのまにか自分が「調和の法則」の中にしっかりと生きているのを自覚するようになっていることでしょう。
(完)
2023年最後のメッセージです。次から次へとインスピレーションが入って来るために、思いのほか長くなってしまいました。
それがいつだったかは覚えていませんが、ずいぶん以前に〈いつか「波動の法則」についてお話ししましょう〉と書いた覚えがあります。しかし当時は、自分の中にそれを受け入れるだけの知識も語彙もなく、また能力も未熟であったために、連載を開始できるになるまでには相当の年月が経過し、いざ開始してからも決して順調には運びませんでした。
けれども、なんとか「完」の字をつけることが出来たので今はホッとしています。通貫して読み直してみたら、きっとアラが目立つのでしょうけれど、まあ、現時点での一応の成果としてお許しください。
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あれから3年が経ち、人々は、自分がそんな異常心理状態に置かれていたということを、もはやすっかり忘れてしまったかのようです。やはり、どんな「ブーム」も3年で終わる、というマーケティングの常識がまたもや実証された感じがします。人の心は移ろいやすいとは言いますが、日々流され、どこかへと溶けていってしまうのです。かつてを振り返り、自分の心のあり方や行動を反省してみる、という人はごくごく僅かしかいません。
ですから、騙される人は何度でも同じ手で騙されるし、騙す人は何度でも同じように他人を騙す。そして騙している人は、自分もまた騙されているのだということに気づかないのです。こうして、人類全体が、いつの時代にあっても、同じ愚かさの幻影を繰り返し見続けて来ているのです。
このような中で、SNS時代を反映した、新しい用語と情報の判断機能が登場しました。それは「Fact Check」。何ものかの機関が、その情報が「事実」かどうかを判断し、「虚偽」と判断した場合には、警告を発したり、そのプラットフォームから締め出すといった措置を取るというものです。このような機関のことを「Fact Checker」と言うのだそうですが、ではその「Fact Checker」の「Fact Check」は誰がしたと言うのか?
また、大臣とかノーベル賞受賞者であるという権威を傘に着て「デマです!」と公言して憚らない「一人ファクトチェッカー」も登場しました。しかしこうしたことは、それが「事実」であったかどうかということ以前に、人として、あまりも傲慢な態度だと言わざるを得ません。何かを「事実」であるということを判断できる人間が、果たしているのでしょうか? そもそも「事実」とは何なのか? またそれが「事実」であるという証拠はどこにあるのか?
前回、「Fact Check」は現代の「魔女裁判」だという話をしたのですが、この「魔女裁判」のときの魔女だという「証拠」は、なんとホクロだったりしたのです。「魔女なら必ずホクロがある筈だ」と。そう言って服を脱がしてホクロを見つけ、「ほらやっぱりあったぞ」と。まったくヒドい話なのですが、では「Fact Check」が何を根拠にしてきたかと言えば、その時代とほとんど変わりがありません。
さて、ここまで、私は「真実(Truth)」と「事実(Fact)」という二つの言葉を使ってきました。両者は似ていますが、ここで改めて定義づけをしておきます。「事実」は「事」の「実」、つまり、ある出来事が本当であるかどうかということです。これに対して「真実」とは、「事実」を含む背景にある「意味、意義」が「真(まこと)*」であるかどうかということ。少なくとも、この場ではそう定義させてください。
*ここでさらに「真(まこと)」とは何か?という話になりますが、それについては後ほど触れます。
その上で、先ず「事実」に関してですが、人間社会では「事実」は何か?ということがつねに問題にされて、論争の火種を呼んでいます。「Fact Check」は、まさにその火中に投じられる水バケツのようなものです。バケツの水を一気に浴びせて一瞬で火を消してしまう。問答無用!と。このようなことが起きてしまうのは、「事実」というものを、みなさんが非常に曖昧に捉えているためです。
そもそも、人間には「事実」を100パーセント捉えることは出来ません。100パーセント捉えることが出来ないということは、これが「事実」なんだと、たとえ眼の前に示されたものであっても、それが本当に本当であるかは疑わしい、ということを意味します。疑わしさというものが、幾分かは必ず残るのです。ですから、もっと端的に言えば、人間には「事実」を把握することは出来ない、それは絶対に不可能だということです。
なぜ、そうだと言い切れるのでしょうか? それは、人間がある「事件」を体験し把握しようとするときには、必ずその前提として、「観測」という主観的な行為が生じるためです。
ここで「観測」と言っているのは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、という五感センサーのすべてを使った体験のことだと考えてください。
私たちは、「あるとき、どこそこで、○○を見た」などと言います。すると、それを無条件で「事実」と捉えてしまう傾向を持っています。私がこの眼で実際に見たんだから、それは事実であると。そして、ときにそのことを強弁します。でもそれは、「事実」そのものではありません。「事実」は、あくまで「事実」が起きた「場」にある。〈今ここ〉にあるのです。目撃したときは、すでにその人の五感センサーをくぐった信号に置き換わってしまっているのです。
例えば、通りを歩いていたら、一軒の家からチラチラ炎が上がっていて、その場を慌てて立ち去る男をあなたが目撃したとしましょう。その目撃者が、もしも自分しかいなかったとしたら、あとでそれを証言したとしても、その確度というものは低いと見なされます。しかし、自分以外にも目撃者が3人いて、各人の目撃情報を総合したときには、より具体的に「事実」というものが浮かび上がって来ます。そして、たぶんこうだったんじゃないかなぁ、と推定ができるようになる。
だとしても、やはりそれは「事実」ではありません。「観測」結果と「推論」に過ぎない。「事実」は、すでに時間経過の中に消えて無くなっているのです。結局、どのようにしたところで、私たちには「事実」を丸ごと捉えることは不可能なのです。
ここに、よく知られた命題があります。私たちが月を見ていないときには、月はあるのかどうか? さて、あなたならどう答えますか? ある? ない? それとも判らない? この答えは、現代物理学(量子力学)で、すでに出ています。別に、量子力学という権威を持ち出さなくても、これまでの話を振り返っていただければ、答えは自ずと分かるでしょう。正解は「判らない」です。
「そんなバカな話があるか!」と思った人。時々、新しい星が発見されたというニュースを見ませんか? では、発見される前にはその星はあったのでしょうか? 「いや、発見されたんだから、やっぱりあったんでしょうよ」と。じゃあそのままずーっと発見されなかったとしたら、どうなんでしょう? この話で重要な点は、「あった、なかった」という議論よりも、「観測」という行為が、前提として必ず介在してしまうという部分です。
月に関する命題にもう一つあります。私たちは「月を見た」と言うけれども、本当に見ているのかと。月は地球につねに同じ面を向けています。今は、月の裏側も写真で眼にすることが出来るようになりましたが、これも「観測」が出来るようになった結果で、それ以前には月の裏側がどうなっているかは何も分からなかったのです。では、今はもうぜんぶ分かったのかと言えば、表面上のことだけであって、月の詳細は依然として分かりません。例えば、月はどうして地球に対し同じ面を見せ続けているのか、といったことも。
ということで、「観測」を重ねることで「事実」により迫ることは出来たとしても、「事実」そのものを捉えることは、どうやっても人間には不可能なのです。
さらに、人間には厄介な問題があります。それは、「観測」後に、その「観測」についての「解釈」を立てることです。これが、「観測」結果をさらに大きく歪めてしまうのです。例えば、地球上ではいま重大な地域紛争が次々と起こっています。この紛争当事者のどちら側の視点に立つかで、報道内容は極端なときには真反対にさえなってしまいます。その結果、「事実」とは大きく異なる「物語」が創造されていくことになるのです。
ここに、「Fake」が生じる素地がある。その中には、ちょっとしたミスで「Fake」となってしまったものから、最初から意図的な心理操作が目的で流す「Fake」も混じります。いずれにせよ、これらはみな相対的なもので、絶対的に「正しい」情報など、基本的にありません。これは、人間の知覚・認識という行為が、「観測」と「解釈」というプロセスを取る以上は、どんなにしたところで防ぎ用がないのです。
それなのに、人間は、自分が見たものは即「事実」であると錯覚し、「事実」は解明できるものだと、これもまた錯覚しています。そのせいで、完全把握が不可能の「事実」の追求にばかり眼を向けて、無駄な努力をし、神経をすり減らしています。世の中は、あまりにも「嘘」だらけですので、それを正したいという気持ちは解るのですが、フォーカスを当てるべき場所はそこではないよ、ということを知ってほしいのです。
ところで、人間が有する「観測」→「解釈」という認識のプロセスは、「事実」の把握は絶対に不可能という面からすれば欠点ではあるのですが、それを知った上で、利点に活用することもできます。例えば、大きな失敗をし出かしたという事件があったとしましょう。普通に考えれば、後悔したり意気消沈してしまうところでしょうが、失敗したことによって何がしかを学べたんだと、もし考えることが出来れば、起きた事件の「意味、意義」もたちどころに違ってきてしまうのです。
これが「過去は変えられる」と言っていることです。みなさんは「過去」ということについても、「事件」と「観測」と「解釈」をみな一緒くたにしてしまい、それを「事実」だったと思い込んでいます*。しかしそうではありません。そのときに、どれほど辛く悲しい体験をしたとしても、それはその時点での感情や思考の動かし方だったのであり、今から「解釈」を変えてしまうことは、充分に可能なのです。歳を重ねていく価値はそこにあります。
*これが、いわゆるトラウマ。
また、〈100パーセントの「事実」把握などは不可能〉という「真理」は、一見、頼りなげな茫漠とした空間に放り出されてしまうよう感じをあなたに与えるかも知れません。しかし、「事実」の認識が、「観測」→「解釈」と進むに従って歪められていくという欠陥をものともしない、視点の転換が可能です。先ほども言いましたように、あなた方は「事実」がどうであったかという点の解明ばかりにこだわって、無駄な努力を重ねています。
しかし、視点を変えましょう。ある事件が起きたとします。すると、それが起きたからには、起きるに至った理由というものが、その奥に必ずあるのです(因果律)。もしその事件に、人間が介在していた場合には、その事件を起こした当事者たちの「意図」というものが背後に隠れています。着目すべきところは、個々の「事件」ではなくて、そこの部分なのです。
世の中には「嘘」と「謀略」があまりにも多いので、「事件」ばかりを追いかけていたら何がなんだか訳がわからなくなってしまいます。しかし「意図」を推理して繋げていけば、そこに「謀略」の臭いを嗅ぎつけることが出来ます。さらには、次のナラティブの予測までもが可能となります。これが非常に大事なのです。なぜかと言いますと、物理的世界で起きている事件は、所詮はスクリーンに投影された幻影でしかないからです。
みなさんは、ご自分を、身体を持った物質的存在だと思っています。そのため理解し難いでしょうが、繰り返し言ってきたように、みなさんの本質というものは「霊魂」にあり、その「霊魂」が生み出す「意識」の動きが、あなたたちの主たる活動場所なのです。みなさんは、その「意識」を基に、関係者が集まって、物質界に「事件」を創造しているのです。しかし、先ほども言ったように、この「事件」の全貌は人間には把握できません。各人が自分の役割を担うだけです。
では、全体としての「事件」はどこへ行ったのでしょうか? 「事件」は、宇宙にある「アカシック・レコード」と呼ぶ保管庫に逐一記録されます。ですから、もし「アカシック・レコード」を読み取る能力があれば、「事件」の裏側や詳細についても知ることが出来ます。けれども、その能力を持つ人は極めて限られるということと、それを知らされることにあまり意味がない(「事件」は重要ではない)ということから、積極的には行われていません。
みなさん一人ひとりにとって重要なことは、「事件」そのものではありません。「事件」に際しての、あるいは「事件」を通じての、その人の「意識」の使い方や行動のあり方なのです。これが、あなたの性格と性質とを決定づけ、あるいは強化し、現時点でのあなたの「霊性」を決めるのです。と同時に、この性格や性質は「カルマ」となって、霊界に還った後でも、また来世に誕生した後にも運ばれていくことになります。
宇宙に誕生したばかりの頃は、みな無垢で平等な存在であった筈なのに、なにゆえ個性や賢さの違いが生じたのでしょうか? また、善に生きる者もいれば、悪に染まり、遂には他者を抹殺してしまおうとまで考える人間がいるのでしょうか? これはみな、その後の、その「魂」の「自由意志」の行使、およびその積み重ねによる結果なのです。一方、「事件」そのものは、その場に捨て置かれていくために、「霊魂」には記憶されません。よって「事件」は経験の機会に過ぎず、重要ではないのです。
以上を理解していただいた上で、視点をさらにその先へと伸ばしてみてください。「事件」の奥を見ると、人間の「意図」を覗くことが出来るという話をしました。しかしその際にも、どんな情報も信用しない(鵜呑みにしない)、肩入れしない(旗を立てない)、色メガネで見ない(レッテルを貼らない)、という原則をしっかりと守ることが大切です。よく分からないことは、ひとまず判断を保留し、分からないままにしておくべきです。いま分からなくても、あとになって分かるということが往々にしてあります。
そうでないと、誤謬を犯し、袋小路に陥ってしまいます。残念でならないのは、善悪二元論に陥って、「正義」に肩入れしてしまう人のあまりにも多いこと。特にキリスト教文化圏はひどい。しかし、「正義」と言いながら、人々がやっていることは、「悪」と断定した人物の抹殺ではありませんか。「屋上屋を重ねる」という言葉がありますが、これでは「悪上悪を重ねる」です。まぁ、これも、歴史の大転換点にあっては致し方ないのでしょうか‥‥?
「事件」の奥を覗くと、邪悪な人間どもの「謀略」が見えてきます。しかし、その「謀略」を為している人間は、誰が創造したのでしょうか? そこまで視点を広げてみてください。何もかもが一者の許へと帰属します。すなわち、「神」です。と考えてみれば、すべては「神」のご計画の範囲内だということがお解りでしょう。つまり「神」は、「悪」を使って、地球を進化させようとしている。いったいなぜ? どうして?
それを、あなたも推理してみてください。アーサー・C・クラークはその意味を知っていて、『幼年期の終わり』という寓話を書いたのに違いありません。推理してみたとき、世の中で起きている事件に対する、あなたの見方や「解釈」は、きっと一変してしまうことでしょう。
世の中の動きは、極めて複雑なように見えていても、その背後にあるセオリー自体は極めてシンプルです。宇宙というものは、非常にシンプルな法則と、表現の果てしない多様性によって構成されたアクティブでダイナミックな世界なのです。そして全体は、部分の総和よりもつねに大きい。
あなたの心は、この両極端が併存する世界にあって、絶えず揺れ動き、ちょっとしたことにも翻弄されてしまいます。しかし、これまでに説明したことを振り返って、自分にとって、本当に大切なものは何かを改めて考えてみてください。
「事実」を知ることには限界があります。しかし限界があるからといって、探究心を最初から放擲してしまってよいというわけではありません。人間は、もっともっと賢くなる必要があります。もし人類が、今よりももっと賢かったとしたら、「沸く珍禍」の厄災は避けられたことでしょう。だから、もっと賢くなりなさい。理性が弱いと認識する者は、理性を鍛えねばなりません。理性とは、「理」つまり「法則」を理解する力です。
今世の賢さの違いは、前世までの努力の差なのです。好奇心の差なのです。世の中を分析的に見ることの手間を惜しんではなりません。自分だけの狭量な世界に安住せずに、つねに好奇心を働かせて見聞を広めなさい。知らないことについてはよく調べて学びなさい。今世の努力が、来世のあなたの賢さを決めるのです。霊能だけに頼っていたのでは、霊性を高めていくことは出来ません。理性の向上なくして、霊性の向上はないのです。
なぜなら、宇宙の本源の、性質の一つが「叡智」だからです。
そして他方で、「事実」の限界を打ち破る、「真実」に触れる努力もしてください。「真(まこと)」とは、物質世界を超えた、宇宙の普遍的な正しさのことです。物質世界で言っている「正しい」は、みな相対的なもので、宇宙から見たときには真逆であるということも少なくありません。しかし「真」は違う。「真」とは、「宇宙の法則」に合致しているということです。「宇宙の法則」は絶対的なものですから、ここに曖昧さはいささかもありません。
したがって、この法則にのっとった生き方さえしていれば、「事実」の曖昧さを超越して「真実」に触れる機会へと繋がっていくのです。それが何かと言えば、繰り返し言って来たように、正直に、誠実に、朗らかに、思いやりをもって、利他に生きるということです。どうです、簡単でしょ? これが、高僧よりも、田舎で野菜を作っている普通のお婆ちゃんのほうが、死後はるかに高い境界へ行けるということの理由です。
ですから、これからの時代を生きるみなさんは、「真実」に直接触れるアプローチ、つまり「直観」を鍛えることと、この世を動かしているものの背景理由を知ること、つまり「理性」を鍛えることの両方を学習していってください。もう、地球のステージは変わったのです。今までのような愚かさのままでは、新しい地球にフィットしていくことは出来ません。あなたの中に眠る、ご自身の可能性に自信を持ってください。
登山をして、眼下に広がる雄大な景色を見たときには、「うわーっ」と誰しもが感嘆の声を上げるでしょう。でもどうして、思わず感嘆の声が出たのでしょうか? 景色がそうさせたのでしょうか? それは一面において正しい。でも、あなたが見た景色は、網膜に映る光の点のゲシュタルト*に過ぎないのです。あなたは、そのゲシュタルトに反応して感嘆の声を上げます。
*ゲシュタルト(Gestalt):部分自体は意味を持たないが、それが集まった時に意味が生じて来るような機構。
それは、あなたの中に、それを美しさと感じる感覚が、あらかじめプログラミングされているからなのです。そしてそれは、あなたが「神」より分離してきたことの名残りとしてあるのです。けれども、その名残りを失ってしまった者たちは、邪悪への道を歩み出す。ですから、景色を見なさい。花々を見なさい。野菜を育てなさい。音楽を聴きなさい。アートを鑑賞しなさい。それらに触れて、その奥にあるものを掴みなさい。「美」は、「神」の別の一つの性質です。
あなたという「個我(Entity)」の誕生に当たっては、「自由意志」の権限が、あなたにも等しく与えられました。その「自由意志」を使って、統合へと向かう道を選ぶのか、それとも分離への道を選ぶのか。
人類全体としての結果は、もう出てしまいました。出口ナオもあれほど「早う改心してくだされよ」と言っていたのに、残念ながら改心する者はほとんどいませんでした。長年に渡って悪事を為して来た者たちの憐れを、これから一斉に見ることになるでしょう。
あなたのこれからを決めるのは、これまでのあなたの生き方なのです。もう何度も何度も言ってきましたよ。でも、過去は変えられます。反省して、セオリーをしっかり学んで、自信を持って、真理にのっとった生き方をしていれば大丈夫。
あなたも、「神」から見れば、等しく可愛い我が子なのです。地にしっかりと足を着けながら、同時に「真実」の中を生きてまいりましょう。
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昨年の暮れあたりから、自分の霊的ステージに大きな変化が起きたことを実感しました。また時を同じくして世界情勢が驚愕的展開を見せるに至ったことで、自分の役割にも新たなスタートが求められている時期が到来したと感じました。そこでこの節目に、これまでに至った経緯と、自分の経験を語ることが、これから同じような過程を経ていく方々にとって多少なりとも参考になるかも知れないと考えたゆえです。
このブログは『気づきの啓示板』というタイトルを冠して始めたのですが、畏れ多くも「啓示」の文字を使ってしまったのは、最初は単に軽いダジャレのつもりだったのです。そして、日々浮かび上がって来るインスピレーション(つまり自分の気づき)を整理して書いていったら面白いかなぁ、という程度の、まあ自分日記のようなものでした。ということで、動機が不純であったことと、多少の驕りがあったこと、申し訳ありませんでした。
しかし、それから1年くらいしたときに、みなさんもよくご存知の高田の馬場の「預言カフェ」へ行った際、そこでいきなり「あなたが、ご自分が思いついたことを日々メッセージとして発信していることを知っています」と言われてしまったのです。これには仰天しました。えっ、なんでそんなことを知ってるの?
そして、続けて「もっともっと語りなさい」「あなたが語れば語るほど、わたしが新たなメッセージをあなたの許に届けていきます」と言われました。また、どんなに語っても、そのメッセージの源泉は決して涸れるということがないことも。だから、心配する必要はない。むしろ、語れば語るほど内容が高度化していく、と言うのでした。
はたして、それは本当でした。しかし、そのことに確信を抱くまでには、実に10年にわたる精進が必要だったのです。そして10年が経過し、あの日、単なる思いつきでつけたつもりであった『気づきの啓示板』というタイトルも、今ではしっかりと計画されていた言葉であったような気がするのです。
しかし、当初のころは、恥ずかしいほどの無智であったことに加え、自分の無能さとの葛藤にずいぶん悩みました。特に神経を悩ませたのは、自分にはいわゆる「霊能」というものが無かったことです。霊視、霊聴はもちろんのこと、オーラも見えませんし、物を動かしたりも出来ません。ただ、インスピレーションだけはよく浮かびました。
でも、そんなものは誰にでも起こることです。それなのに、こんなことをしていていいのかなぁ、という思いがずっとあって、自信もまったくありませんでした。そこで、冗談で「信度2」くらいだと言ったり、自分は「零能者」だと言ったりしてきました。
あーっ、そうだ! 一個だけ才能があった。ダジャレ!(ま、才能と言うほどでもないか‥‥)また、社会的成功といったこととも無縁の人生でした。とにかく何をやっても上手くいかない。悲嘆の連続でした。それでも、今日まで生かされてきました。本当に、「生かされてきた」というのが実感です。
ところが、去年の暮れあたりから、急に自信が「信度6強」くらいに跳ね上がった。もちろん、「信度2」から「信度6強」にいきなり上がったわけではなく、じわじわと上がっていったのですが、最初は遅々とした歩みであったものが、やはり幾何級数的に上昇が進み、ここに来てガーンと大幅な上昇をみたというわけです。
けれども、残念なことに「信度」は上がったのに、身体のほうが言うことを効かなくなってきました (。ŏ﹏ŏ)。まず眼がダメ。お陰さまで白内障は手術で光が入るようになったのですが、目ん玉は古いままですので、その性能は悪化する一方。左目と右目の軸がズレているのでぜんぜん焦点が合いません。加えて、小康状態にあったリウマチが近ごろまた顔を覗かせてきて、腰と膝と指先の骨が痛ぇのなんの。冬場の乾燥で、眼の周囲のアトピーも痒ィーの武田信玄。とまぁヘロヘロ。
そんなわけで、ブログ更新の頻度がさらに低下していくかも知れません。けれども、これまでの過程において、更新頻度が減っていった最大の理由は、一回分に掲載する文章量が、ある時期からグーンと増えたことによります。それを分けて連載形式にすれば、以前のような頻度を保てるのですが、上はどうもそうしたくはないようです。やっぱり途切れることなく、濃い内容のものを一気に伝えたいみたいなのです。
しかし、そうしたことで、読者はますます限られた人数となり、ついて来られる人だけついていらっしゃい、という感じになっていきました。「拡散希望」とか「チャンネル登録よろしくお願いしま〜す」という時代とは、真逆を行ったわけです。見方によっては、傲慢に思えるかも知れませんが、しかし上は、そうすることを希望されたのです。それが「語れば語るほど、内容が高度化していく」ということの意味だったのです。
そして、最近になって、私は、19世紀の後半から20世紀の前半にかけて英国で花開いた「霊界通信」ブームの渦中で出された本を読むようにと促されました。さっそく何冊かを読んでみて、私はこの時期に、このような一大ムーブメントがあったことを初めて知ったのです。まったくもって迂闊でした。その瞬間、これまで自分の中にあった「ミッシング・リンク(Missing Link)」が、ぜんぶスポーン!と繋がったのです。
これは、自分としては、大ジャンプでした。(その成果は、いずれお伝えできると思います)ですが、このタイミングでそれが為されたということについては、二つの意味があったように思うのです。一つは、自分がそれを読まねばならない時期が来たということです。私は、もともと読書家ではありません。というよりも本はほとんど読みません。多くの人と同じように、文章を読むのがかったるいしシンドイのです。(それなのに、自分が文章綴っているよ〜)
多くの本が字面を追いかけるだけでもう四苦八苦。なのに、ごくたまに内容がスラスラ入って来るというものに出逢えるときがあります。これには、その本が持っている内容や、文章の読みやすさという面が大きいのですが、一方で、こちらの読解力がどこまで育っているかという問題もある。
若いときにパッと目について購入した本が、読んでみると眠気を誘うばかりでサッパリ頭に入らない。そのまま放ったらかしていたものが、何年かしてふと手に取り読んでみると、驚いたことに難なくスラスラ読める。そして読めるだけでなく、内容が全部スーッと入って来る。このような体験を、これまでに何度か味わいました。
今回はまさにそれで、私は、「宇宙の真理」についてのほぼすべてが、およそ100〜170年前に、すでに充分な形として説かれていたことを初めて知ったのです。また同時に、この『気づきの啓示板』ブログを通じて発信してきたメッセージに、大方のところで間違いはないということにも確証を得ました。
これは非常に悩ましいことではあるのですが、メッセージを下(おろ)すということと、自分の思考を語ってしまうということの間には、明確な仕切りがありません。また、メッセージを下すについても、発信者のソースからしてみれば、媒介者の中にある知識や語彙を使わざるを得ないので、どうしても歪みが入るのです。加えて、その媒介者の「現在の霊性」がどの段階かという問題もあります。
われわれはみな地上に降りた人間ですから、基本的には「霊性」がそれほど高くはない。その状況下で、上の存在とのコンタクトを実現するためには、こちら側からは出来るだけ波動を上げる努力をし、反対に上の存在はある程度まで下げて近づいて来るということになるのです。その一致点となる波動領域でしか、両者のコンタクトは実現できません。またその波動領域内で許された範囲の「智恵」しか獲得できないのです。
ですから「預言」を行う者は、そのメカニズムを知った上で、自分の発言には、慎重な上にも慎重を期さねばなりません。ところが、世の中には「霊媒体質」の人というのがかなりいて、残念ながらそういう人の多くが、理性に欠け、論理構造に弱く、霊界の法則についての知識も何も持たないのです。ただ自分の感覚だけでやっている。すると、自分が受け取った感覚を単純に自分で信じ、それをそのまま他人に伝えてしまうのです。これが世の中に大混乱をもたらしてしまう。
なぜかと言いますと、その人は、「霊媒体質」ではあっても、「霊性」は依然として低いままなのです。別に「霊性」を高める努力をせずとも、「霊界」と繋がることができる体質を持っているためです。ところが、「波動の法則」によって、同程度の霊的界層の存在としかコンタクトはできません。その結果、いわゆる邪霊につかまってしまい、こうした邪霊たちに、自分の心身を乗っ取られ、利用されてしまうのです。
けれども、「霊媒体質」の人の多くは、それを「神」の言葉だと言ったり、不吉なことをカウンセリングと称して、他人に簡単に話してしまいます。一方で、一般の人たちも霊界の法則を何も知りませんし、生きるについては潜在的な恐怖心というものがありますから、これらの言葉のほうに強く惹かれてしまいます。こうして需要と供給(?)がマッチして、スピリチュアル業界が大いに繁盛するというわけです。
邪霊たちは、人々を脅したり、驚かしたり、騙したり、くすぐったり、混乱に陥れるのが大好きです。しかし、何度も言って来たように、高位の存在たちがそんなことをするわけがありません。あり得ません。これは声を大にして言っておきます。考えてみてください。「霊性」が高くなるほど根源的な「愛」そのものに近づくんですよ。脅しや恐怖を与えることが、どうして「神」の言葉でありましょうか? 霊言でありましょうか?
でも、そのような「霊能」を悪用する人たちに言っておきます。それは、他者だけではなく、自分自身をも破滅に追い込むことになるよと。なぜなら、「霊媒体質」の人は、自分の「霊能」に巻き込まれるだけではなく、自分自身が作る「感情」にも巻き込まれてしまうからです。たとえば、怖いとか、攻撃されているとか。これが、ダブルでその人を襲う。
少し離れた視点に立てば、全部が「無智」から来る「錯覚」だと分かるのですが、「霊媒体質」の人は、自分の想いが強すぎるために、そしてまたそれしか知らないために、その信念から脱出するのが非常に難しくなってしまうのです。知力不足の人は、それを放置したままにせずに、知力を鍛える努力をすべきです。そうでないと来世に繋がっていきません。現在のあなたの頭脳は、過去世までの努力の結果なのです。
ということで、「霊媒体質」の人は、霊界のセオリーをきちんと学習した上で、自分のエネルギーの状態をつねに観察し、ネガティブ方向に堕ちないようによくよく注意して行動しなければなりません。喩えれば、山肌に張り付いた登山道を、谷底に堕ちないようにして注意深く進むということです。そして、今日は疲れているなと思ったら、その日は踏破を中止するという決断も必要です。
また、言うまでもなく、自分の能力を、人々への奉仕のために使わなければなりません。万が一、それを悪用したり偽善に使ったりした場合には、当然ながら、自分が為したことは自分に還る、自分が蒔いた種は自分で刈り取る、という「カルマの法則」の報いを受けることになります。
私は、幸いにしてというか、残念ながらというか、霊能がありませんでした。今は「波動」をそこそこ知覚できますが、これは訓練によって磨いていったもので、霊能は未だに開花していません。すると、メッセージを下すとなったときに、もっぱらインスピレーションにのみ頼っていますので、〈言葉を選んで紡ぐ〉という作業の大半を、自分の意思において行わなければならなかったのです。
本来であれば、翻訳時に生じる歪みを防止するためには、「自分」の部分を出来るだけ消し去らなければなりません。ところが、私には霊能がなかったために、「自分」の思考を動かしているのではないかという疑念がどうしても拭えず、ずっと自信がありませんでした。ときどき「あれは『自動書記』ですか?」と訊かれることがあったのですが、そのため「いえ、そうではありません」と答えていました。
ところが、『コナンドイルの心霊学』を翻訳した近藤千雄(かずお)さんの註釈の中に、次の文章を見つけたのです。
自動書記現象:通信霊が霊媒に乗り移って、われわれと同じ要領で綴る場合で?おふでさき?と呼ばれているものにはこれに属する。スピリットが高級になると直接乗り移らずに、テレビその他のリモコン操作と同じように霊波によって操る場合と、インスピレーション式に思想波だけを送り、それを霊媒がキャッチして綴る場合とがある。これを「霊感書記」と呼ぶ。
直接書記現象:紙と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られるもので、絵画や記号、暗号などの場合もある。大変なエネルギーを要するので、長文のものは書かれない。
私は、「自動書記」という現象は、手が勝手に文字を綴り出すものだとばかり解釈していましたので、自分がやっていることは「自動書記」には当たらないと思っていました。ところが、近藤千雄さんの分類によると、私がしてきたものはどうやら「自動書記」の一種で「霊感書記」に相当するものらしいということが分かったのです。読者のみなさんがどう思われるかは分かりませんが、少なくとも私の中では、これで長年の胸の痞(つか)えが下りたのです。
それと、「霊界通信」ブームの頃に出された本を読むよう促されたもう一つの理由は、これで自分の役割というものがハッキリと解った。多分こうじゃないかなぁ、というイメージは前々からあったのですが、その直感は間違ってはいませんでした。「宇宙の真理」については、今から100〜170年前にほぼすべてが、すでに説かれていた。ということが解った。そうなると、なぜ自分がまた同じことを語るのか、ということになってしまいます。
これについては、今日それらが忘れさられてしまっている、ということもあるのでしょうが、それよりも「現代にも通じるエッセンスを加味して、みなに伝えよ」ということが、私に与えられた使命のように思うのです。そしてそれは、一つには「科学」と「アート」を通してそれを語るということであり、もう一つは、日々の出来事の奥にはつねに〈霊的意味が隠れている〉ということを、その関係性において述べるということです。
これならば私にも出来るし、私の特色が活かせます。もし私に「霊能」があったならば、「霊能」に埋没してしまって、「科学」の論理性というものはとうてい持ち得なかったことでしょう。また、もし「アート」への強い関心がなければ、表面上の「言葉」にこだわって、奥にある本質を丸ごと掴むという感覚は養われなかったでしょう。
一年ほど前だったでしょうか。今世の私に、なぜ「霊能」が与えられなかったのか、その理由というものが告げられました。それは、「普通の人間でもアセンション出来ることを示すためです」と言うのです。う〜ん、なるほど。だとすれば、なおのこと、そこへ至るまでの苦悩、苦闘と、喜び、そして幸福とを伝えていく義務がある。自分の残りの人生を、そこに集中したいと思っています。真摯に求める方には、自分が知っている限りのものは全部お伝えします。
また、日々の出来事の奥にはつねに〈霊的意味が隠れている〉ということを、その関係性において述べる、についてはこれまでも意識してそれを行なって来ました。「霊界の法則」を伝えること自体は、100〜170年前にすでに終わっているのです。しかし、日々の出来事との関連で語ることは、今という時代が、地球開闢以来の大変革を迎えている時期であるからこそ、新たな意味を持つように思うのです。
実を言いますと、私個人は、世間の動向変化については、あまり関心がありません。それは、単にスクリーンに投影された劇場に過ぎないということを知っていますし、人の生き死にも大したことではないということを解っているからです。あなただって、これまでにもう何度も生き死にを体験済みなんですよ。また、地球レベルのことと、地域レベルのことと、個人レベルのことは、重なる部分もあるけれども、基本的には別問題だということもよく承知しているからです。
しかし「宇宙の真理」だけを述べたのでは、人々の認識とはあまりにも隔たりがあり過ぎますし、すでに100年以上前に説かれたことを、またなぞるだけになってしまいます。そこで、意識的に世間の動向とブリッジさせて「宇宙の真理」を紐解いているのです。ところが、これがなかなか通じないんですよね〜。みんな前半ばっかりに眼を向けていて、肝心の後半にはちっとも眼を向けてくれないんですぅ。(・_・。)そっちが伝えたいことなのに‥‥。
これから世の中はどうなるのか? 自分はどうしたらいいか? と、そればっかりを考えている。無理ないと言えばないのですが、それは「体験学習」なのであって、肝心なのはそれを通じた「霊性の向上」にあるんだよ、という話をいくらしても、そっちに関心を持ってくれる人は殆どいないのです。残念ながら、われわれ(高位の存在と地上の人間との)の取り組みに反応してくださる方は、ほんの僅かな人数です。
しかし、そのことを、私は別に悲観していません。いつの時代にあってもそうだったからです。人は、今の自分の器以上のものは、受け取ろうにも受け取れないのです。ですから、繰り返し語っていくしかありません。まあ、断罪されたり、火炙りになったりしないだけ、時代はよい方向に着実に進んでいます。また、世界の垣根が取れて来ている。進化は幾何級数的に進むので、ある時点で、地球人トータルの霊性が、ギューンと上がる日もきっと来るでしょう。
100〜170年前に書かれたメッセージに、私はたったいま触れて感銘を受けました。それは、決して古い言葉ではなく、私へ贈られた、今の言葉なのです。Be Here Now ! この『気づきの啓示板』ブログが、100年後にまたどなたかの眼に触れることがあるやも知れません。
「神」のご計画は壮大です。昨日今日のことなど、宇宙から見ればごくごくちっちゃな変化に過ぎません。でも、あなたの今(Being)は、確実に、つねにモニタリングされています。それは監視ではなく、愛によって。ああ、地上とは何という違いか。そのことに想いを馳せなさい。そしてその愛に応えなさい。あなたの中の愛をもって。
友よ。ですから、将来を決して悲観してはなりません。また、自分の遅々とした歩みに絶望してはなりません。すべては、壮大な愛の法則によって動いているのです。この、極大と極小とが同時に進行する世界。
あなたは、やがて、すべては一つであることを知ることになるのです。
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使い古された「浄化」や「覚醒」という言葉にはいささか食傷気味かも知れませんが、今回ばかりは、それが本当に当てはまる。この大変革には、表面上に現れている事件や事象の裏に隠れて、「霊的な意味」が重って同時に進行しています。いえ、もっと正確に言えば、霊的な世界での大転換が起きた結果、地上世界においても未曾有の大変革が起きているのです。
本ブログに付き合ってきてくださったみなさんには、すでに全体構造が見えていると思いますので、簡単に言いますが、いま表面で起きている事象をひとことで言えば、ディープステートの「新世界秩序(New World Order)」の計画が頓挫したということです。
しかし、ここには大いなる皮肉があって、ディープステートが構想した「新世界秩序」(実際には秩序ではなく「破壊」なのですが)はなるほど頓挫したのですが、その「破壊」行為によって、別の形での「新世界秩序」がこれから誕生することになるということです。喩えて言うと、シロアリが食い荒らした家を、ここできれいさっぱりスクラップすることによって、やっと真新しい家を一からビルドできるようになったのです。
メチャクチャになって壊れていく世界と、人々の悲惨を毎日目にするなかで、「いったい、こいつは何を言っているのだろう?」といぶかしく思われるかも知れません。が、湿疹がいちどきにワーっと広がったり、激しい嘔吐や下痢をしたときと同じです。その時には「病気かな?」と意気消沈してしまうのですが、実態は、毒素を排出する「浄化」が行われているのです。これが、裏に隠れた「霊的な意味」です。
つまり、すべては「神」のご計画の範囲内だったということ。ディープステートたちよりも、またそれを操っている「闇」の連中や「魔」の存在たちよりも、「神」のほうが一枚うわ手、いやずっとずっと、ずーーーーっと遥かにうわ手だったということです。所詮は逆らえない。逆らえないのに逆らおうとする者の末路を、私たちはいま目撃し、一緒に体験しているのです。
宇宙中が、「地球の大変革」に注目をしているということの意味が、
たったいま解りました。
こんな体験は、いかに宇宙広しと言えども、滅多にないということ。
物質界でそれを体験できるだなんてネ。
だから、みなさんもよ〜く見て、充分に学習するんですよー。
しかし、前々から懸念していたことが、(ああ、やっぱりそうなるのか)というのを見せられるたび、いささか悲しく、そして残念な気持ちにもなってしまいます。一個人としても、集団としても、また国家としても、「宇宙の法則」が厳然として働いているということの結果を、このようにハッキリと示される時代が来るとは思ってもみませんでした。
みな、なるべくしてそうなっている。パンデミックの嘘や、金融システムの裏を暴くことに情熱を傾けていた人たち。それはそれで、その時点では意義あるものでしたが、そのベースに「愛」があるかどうかが、その後を分けてしまいましたネ。暴くための「暴く」、立場を一方に置いた上での「暴く」は、みな内紛と自己崩壊への道を歩んでいます。結局、「分断」に与(くみ)した者は、その「分断」の果実を自らが受け取ることになるのです。
宇宙の永遠からすれば、ニムロドの栄華と消滅などは、ほんの瞬きをする間のことに過ぎないのでしょうけれど、地球の時間では計り知れないほどの時が過ぎ、幾千万もの世代交代の中で、悲嘆と苦悩と怒りと、そしてちょっぴりの喜びが重ねられて来ました。その間、ずっと変わらなかった人類の支配構造が、いまこれから「大変革」しようとしているのです。
宇宙の最高神であるゼウスが、地上最初の女性であるパンドラに?箱?を渡し「絶対に開けてはならない」と言った。でもパンドラは、《好奇心》から?箱?を開けてしまった。すると、?箱?の中からありとあらゆる不幸や災いが飛び出してきて、たちまち地上世界を席巻した。
でも、なぜゼウスは「絶対に開けてはならない」という?箱?を、わざわざ地上最初の女性(つまり人類)に手渡したのでしょうか? そんな災いが詰まった?箱?など、最初から渡さなければよいではないですか。神様って意地悪ぅ〜。そう思いません? 実はこれには、よく言われる問い「神は全能だと言われているのに、なぜ地上に悪がはびこっているのか?」ということの答えが明示されています。
もちろん「神」は、人間が蓋を開けてしまうことを最初から想定して?箱?を渡しました。それ以前に、《好奇心》というものを人間に賦与していたからです。それが、つまりは「自由意志」です。早い話、「神」は人間に、「悪」に染まる「自由」を許したのです。当然、「悪」に染まる喜びと同時に、 人間はその反作用としての苦悩や災難や悲嘆にも触れなければならなくなりました。しかし、それを乗り越えていくこともまた「自由意志」とされたのです。
そして、これまで長いこと蓋をされ、隠されて来たあらゆる「悪」が、ここで一挙に表に飛び出して来た。 金融という詐欺システム、政府の腐敗、メディアの嘘、教育と娯楽による洗脳、国連という茶番、医療のマッチポンプ、戦争、暗殺、人身売買、幼児誘拐、小児性愛、臓器売買、麻薬カルテル、etc. その恐るべき残虐性と非道。まさに、ここまでやるのか、というところを日々見せつけられ、胸が痛みます。
ですが、 少し離れて、宇宙的観点から眺めてみれば、いま起きていることのすべては、個々の人間の「心」のあり方が、縷々(るる)集まってそのような世界というものを形作っているということが見えるのではないでしょうか。視点を、地上の細々とした現象に向けて置いていると、世の様相は複雑怪奇に見えますが、単純化してしまえば、地上を生きる人間たちの、いまの「心」のあり方と動きの集合体でしかないのです。
さて、先の「パンドラの箱」の神話の先を、みなさんもよくご存知でしょう。「あ、いけない!」と思ったパンドラは、慌てて蓋を閉じたのですが、時すでに遅し。あらゆる不幸や災いが世に放たれてしまった。でもその結果、箱の中には「希望」だけが残ったのです。さあ、「パンドラの箱」の蓋を、再び開ける時が来ましたよ。もう「希望」しか残っていないのです。その「希望」を、世に解き放ちましょう。
新世界の夜明けは日本から始まる。以前に、そのような予言を目にしたことがあります。それがなんであったかは思い出せないのですが、たしか複数あったと記憶しています。そのときには「へぇ、そう?」と思う程度で、あまりピンと来てはいませんでした。
かつては「Japan as Number One」と言われた時代もあったのですが、小泉改革以降の日本はおかしな方向にどんどん入り込み、安倍政権になってからは貧富の極端な差が生まれ、人心も荒廃していきました。そのような過程をずっと見ていたものですから、新しい世界の夜明けが日本から始まる、とはとても思えなかったのです。
しかしここにきて、少し考えが変わりました。それはひょっとしてあり得るかも?と思いますし、またそうしなければならない、とも思うようになったのです。なぜかと言いますと、今の日本は確かに「西側」に所属し、ディープステートの言いなりになっている国ではあるのですが、それは政府の中枢が腐敗しているということだけであって、一般の人々の心の中には、それとはまったく違った伝統的なよき価値観が、今も変わらず生き続けているように思うのです。
そのことに気づいたのは、コロナ明けのインバウンドブームで日本に来た外国人が、人種国籍を問わずみな共通の感想を述べることに、ちょっと意外な驚きを感じたからです。治安がよい、礼儀正しい、みんな親切、配慮が行き届いている、ゴミ箱がないのに街がきれい、清潔、静か、公共交通システムが優れている、人々がルールを守る、職人技がすごい、何を食べても美味しい、神社仏閣の中に流れる清涼な空気感、etc.
外国から来る人々がみな揃って共通の感想を述べるということの背景には、当然 SNS の影響というものがあるのでしょう。しかしその奥には、 日本という地場が醸し出している唯一無二の雰囲気に、日本を訪れた世界中の人々が多大の感銘を受けているということです。 日本では当たり前のことが、日本以外の国では少しもそうではない。そこに、今の世界人民に共通した願望や、潜在的な希求が顕れているように思うのです。
一昔前には、外国人からはよく、日本人の宗教観というものが解らない、と半ば軽蔑的に言われていました。正月には神社へ行き、チャペルで結婚式を挙げ、葬式は仏教。クリスマスにはケンタッキー・フライドチキンを食べて、春のお彼岸にはぼた餅も食べる。いったい、そりゃなんだ?というわけです。外国人からしてみたら「信仰」の姿というものが見えないのです。あのなぁ、入国審査の用紙には、眼の色と宗教は必ず書くもんなんだぞ、と。
ところが、それが劇的に変わった。日本人の無宗教の奥には、 自然を崇拝する気持ち、自然との一体感を尊ぶ気持ちがある。ということがだんだんと知られるようになってきた。結局、 日本人が持つ美意識や、おもてなし精神や、礼儀や、秩序に対する考え方や、職人気質などは、みなそれより発しているということが、旅行を通じてなんとなく理解されて来たのではないでしょうか。
なぜそう思うかと言いますと、大航海時代以降、長きに渡って世界を支配下に治めて来た西洋文明には、そのような観点がないからです。まったくないとまでは言いませんが、自然のどこにでも「神」が宿っているという感覚は薄い。「神」は、自然界とは別のところにおられる存在であり、人間は「神」とは契約の関係を結んでいるのであり、よって人間には地上の自然界を支配する権限が「神」より与えられている、という考えですから。
しかしその結果として、一神教を掲げる宗教同士が反目し、果ては殺し合いの戦争を繰り広げているのですから何をか言わんや。本来であれば、「一神」と言っているわけですから、全部が一つにならなければ論理としては矛盾です。ところが、その矛盾にすら気がついていません。これが、「宗教」と「信仰」というものの恐ろしいところです。
西洋の一神教は「一神教」とは言っておりますが、実体は善悪二元論の「二元教」であって、自分たちのみが「善」、それ以外は「悪」というレッテル貼りを簡単にしてしまう。そして、宗教的「正義」において、「悪」は殲滅してもよい、いや必ずや殲滅しなければならない、と考えるのです。まったくもって、このような粗暴な狂信が西洋社会をずっと席巻して来たのですから、まともな神経を持った人たちはもうウンザリしていることでしょう。
そういう中で、日本に興味を持った人たちが旅行にやってきて、ある真髄に触れたと思うのです。「あれ? こっちのほうがもしかして正解なんじゃない?」と。なぜなら、表面に見えているものは、みな精神の繁栄ですから、いま接しているものが心地よいと感じたときには、その裏にある精神にまさに触れたということなのです。日本を訪れる外国人が、こぞって称賛の声を上げていることの背景には、彼らの内面で、脱・西洋文明への予感と、願望がふつふつと沸き立って来ているのではないでしょうか?
もちろんそれは、世界人口から見ればほんの一握りの人たちです。しかし、「波動の法則」は〈類は友を呼ぶ〉ということを教えてくれています。いまは小さくとも、萌芽は萌芽です。光はますます強く当たっている。やがて芽が大きく育つときが来ます、必ず来る。なんと言っても日の本です。新しい世界の夜明けは、日本からと、きっとなるのではないでしょうか。みなさんも、その日のために心しておいてください。
とは言え、「覚醒」は一気には進まない。人々が「Oneness」を当たり前のこととして受け入れるようになるまでには、まだまだ相当の年月が必要となるでしょう。
現実的なシナリオとしては、その前段階として「宗教間の和解」というものが、果たして実現できるのかどうかということ。宗教は、その土地の文化と深く結びついていますので、一挙に葬り去ることなんてことはとてもできません。特に、中東とアメリカにおいては。プーチンさんとトランプさんは、その「和合」をなんとか果たそうと、いま水面下で必死の努力を重ねている。
Religious harmony is achieved now.
という日がもし来るのであれば、それはそれでいい。
う〜ん、でも‥‥
私としては、一気に「Oneness」に目覚めて欲しいのですが‥‥。
ハッキリ言いましょう。ディープステートのいつものやり口の「原型」というものは、ぜんぶキリスト教が作ったのです。キリスト教はイエス・キリストが創始した宗教ではありません。イエスは宗教などは作りませんでした。豪華な衣装も着ませんでしたし、壮麗な神殿も造りませんでした。それらはみな後の人々が作ったのです。
紀元325年に開かれた第1回「ニカイア公会議」を手始めに、数回の公会議を重ねる中で、三位一体論や、イエスを唯一の神の子とすることや、贖罪の概念、聖書などが決められていったのです。
この創始は、コンスタンティヌス1世(ローマ帝国の皇帝、在位:306 - 337年)の権力的野望より生じました。コンスタンティヌスは、ローマ皇帝として初めてキリスト教に帰依した人物というような言われ方をしていますが、そうではなく、自分の権力のためにキリスト教を利用したのです。この最初の皇帝が、もしもコンスタンティヌスではなくアウレリウス*であったなら、というのが事情を知る者たちの共通した嘆きです。
*マルクス・アウレリウス・アントニヌス(Marcus Aurelius Antoninus、121 - 180年)は、第16代ローマ皇帝で「五賢帝」最後の一人。アウレリウスは単に学識に長けていたということではなく「宇宙の真理」を知っていた人。アウレリウスの著した『自省録』は、今日となるもまったく古びてはおらず、普遍の「真理」の一端を伝えてくれています。
コンスタンティヌスは、最初の「ニカイア公会議」において、「イエス人間説」を唱えているアリウス派を謀略によって排斥してしまいます。アリウス派は数の上では絶対的多数だったのですが、それらを議場から追放し残りの者たちのみで満場一致の採決を行ったのです。つまりは不正投票です。そして、イエスを「神」に準ずる存在に祀りあげ、聖職位階制組織(ヒエラルキー)と教会の権威というものに一般大衆が隷属する構造を作り上げたのです。その後、改竄(ざん)した「聖書」の制定なども行われていきました。
こうしてローマ・カトリック教というものが成立していくのですが、「カトリック(Catholic)」という言葉は、もともとはギリシャ語の「Καθολικός」から来ていて、この語は「普遍的」という意味を持ちます。つまり、すべての民が帰依すべき宗教というわけで、当時のローマ帝国の支配力と強烈な思い上がりがその語に表われているのが解るでしょう。
このような「陰謀(Conspiracy)」を出発点として、やがて宗教上の儀式はもとより、法律、財政、学問、芸術等々、あらゆる面がローマ教会の統治政策によって支配されるようになっていったのです。中世の封建制度は、まさにローマ・カトリック教会の支配機構に他なりませんでした。
そして、この絶対的な権力のもとに、またそれを維持するために、権力基盤を揺るがすような芽は、徹底して摘み取られて行ったのです。異端審問や魔女裁判は、今日で言う「Fact Check」です。このチェックに引っ掛かった者は生きたまま火炙りにされ、カタリ派に対しては根絶やしにするまでの虐殺が行われました。しかしこうしたことは、すべて闇に隠されて来たのです。
大航海時代には、勢力の拡張と海外資源の強奪が組織的に行われました。「イエズス会」は今日で言うところの「CIA」、「騎士団」は「占領軍」といった役割に当たり、こうした組織が表とは違う顔を持って裏で暗躍していたのです。これらはみな、今とまったく同じように、「正義」の名のもとに、また聖なる宗教の普及という「慈善活動」の美名のもとに推進されました。
このように、キリスト教の裏面史には、不正投票、文書改竄、洗脳、偽善、謀略、諜報活動、傀儡政府の樹立、真実の隠蔽、偽旗作戦、軍事侵攻、略奪、敵対者の暗殺、大量虐殺、と今日ディープステートが行っているあらゆる形式が、すでに出尽くしているのです。
これが何を意味しているかと言いますと、悪事を為す人間の本性と行動というものは、いつの時代にあっても変わらないということです。そして、それには理由があります。悪人たちの総元締めが、霊界にいる「ルシファー(Lucifer)」だからです。「ルシファー」が、地上で働いてくれる人間をリクルートして育成し、思い通りに操っているのです。
結局、悪人というものは、「ルシファー」に捕まってしまった人間だと言えます。が、ここにも〈類は友を呼ぶ〉「波動の法則」というものがしっかりと働いているのです。
ここで「ルシファー」について言っておきましょう。「ルシファー」は〈堕天使〉と称されるのですが、この名の通り、本来であれば「天使クラス」に相当する「魂」が、「光」の道へ進むことを途中で止めてしまい、反対方向の「闇」側へと堕ちて来た存在です。
同様の存在を暗示した言葉に「サタン(Satan)」というのがあるのですが、私はこの言葉は好きではありません。「サタン=悪魔」と言ってしまうと、最初からそういう存在がいるという印象を与えてしまいますし、「善悪二元論」の対立を煽ることにもなってしまいます。結局これも、キリスト教が創作した真実の歪曲です。自分たちに都合のよい世界観を信者に植え付けて、恐怖心を煽るための。
詐欺師の手口というのは、7割、8割は本当のことを言って、残りの2割、3割に嘘を混ぜ込んで、全体をひっくり返すのです。「サタン」という存在が最初からいたわけではありません。もしそうだとすると、その「サタン」は誰が創造したのかということになって、創造主(神)との関係において矛盾が生じてしまいます。そうではなく、〈堕天使〉はやはり〈堕天使〉なのです。
しかし、この「堕ちた」 というのは、「光」の側からの見方であって、その「魂」からしてみたら、途中で踵を返して、逆方向に進むことを〈自発的に〉選択したということに過ぎません。要は、(下降ではなく)「闇」の山を上昇しようと決心したということなのです。そんなバカな話があるか!と思うでしょう? いや、いっぱいありますよ、地上でもネ。覚醒剤をやって捕まって、更生施設に入ってもういいかかなぁと思うところまで来たら、あら、またやってしまったというようなこととか。
それほど「悪」への道は魅力的だということです。霊界というところは、振動数別に細かく分かれた界層構造になっていて、死んで霊界に渡っても、「魂」はこの界層構造の中で、引き続き霊性向上の旅を続けます。天使クラスは「霊性密度図」の中では第五霊性密度に当たりますが、この領域の中も細かく分かれていて、大天使から天使見習いまでがいる。その時に、界層を一つ上がるごとに、霊性(霊格)と霊能が洗練され上昇していくのです。
さて、そうした中で、ある時期にちょっとした手違いが生じてしまいました*。霊性と霊能がバランスよく発達せずに、霊性の発達が途中で滞ってしまうという「魂」が出現したのです。霊能の力は充分に備わっているのだけれども、その力に相応しい霊性が伴っていない。 結局、その「魂」は、踵を返してこの界層を反対方向に進む決心をしたのです。
*現在はこうしたことがもう起きないように是正されているということです。が、その時期に生じた手違いの影響というものがいまだに残っており「ルシファー」として今も地上に影響を与えているのです。
なぜ?と思うかも知れませんが、昇るよりは降りるほうが遥かに楽ですからね。それに、自分がいまいる場所よりも上の界層のことは未知ですが、下の界層のことは既知です。結局、忍耐が続かずに、上の存在たちを恨めしく思ったのです。まぁ、一種のヤンチャ坊主というか、跳ねっ返りというか、そんな存在だったのでしょう。ところが、「霊能」は天使クラスのものを持っていますので、地上近くに降りてからは様々な悪事を働きかける存在となったのです。
そして前回にも言いましたが、一度「闇」の道に入ってしまったら、「光」の論理を徹底的に否定し続けなければならなくなってしまいます。途中で踵を返したことは、たとえほんの出来心だったとしても、反逆した者は反逆の「刈り取り」をいずれは必ず受けねばならなくなるのです。それが宇宙の普遍的法則です。
ですから、悪事も軽めのうちで止めて、早めに改心すればよいものを、それが出来ないのです。一度でも改悛の情などを起こしたら、その瞬間から、後悔や辛さと真正面から向き合わなければならなくなる。そこで、悪の極みをとことんまで追求して、なにがなんでも自分が勝利者であるということを示さなければならない、と考えたのです。これが、信じられないほどの「残虐性」をもたらしました。
さて、それを知ったところで、みなさんの中には、なぜ本当の天使がやって来て「ルシファー」を退治してくれないのか?と疑問に思った方もいらっしゃるでしょう。当然の疑問です。
しかしこれは、「波動の法則」により出来ないのです。天使が地上近くにまで降りるためには、自身の「波動」を地上界に適応したレベルにまで下げなければなりません。これはかなり危険な賭けであり、 エネルギーの消耗も激しいために、よほどの任務(Mission)がなければ行われることはありません。それに、地上の人間が、自ら解決しなければならないことには、原則「不介入」の方針が徹底されているのです。
ここに来て、政府、金融、医療、軍事、法曹、教育、エンターテイメント、エネルギー等々、あらゆる産業が、長年に渡って「闇」のグループに牛耳られて来ていたのだ、ということに目覚めた人たちがだいぶ増えてきました。今回、このタイミングでキリスト教の裏面史に触れたわけは、「宗教」もその一つであり、全部の原型は、実はキリスト教の成立の中にあったということをお知らせしておきたかったのです。
これは、実に大きな視点の転換を要します。このことを受け入れるのは、クリスチャンはもとより、信仰者全員にとって困難なことでしょう。けれども、これをもってキリスト教に刃を向けたりはしないでください。以前にも言ったと思いますが、「宗教」から入って「アセンション」に向かうという道もあるのです。どんな宗教にも「真理」のエッセンスは多少は含まれています。要は、形式ではなく本質が重要であるということ。そこをくれぐれも取り違えないでください。
そして、これも以前に述べたことですが、人類の「覚醒」は二段階で進みます。一段階めは、自分が社会の奴隷になって操られていたということに気づくこと。そして二段階めは、自分が身体だけの存在ではないと気づくこと。自分の本質は「魂」にあるのであって、身体は単なる乗り物に過ぎないということを〈実感として〉理解することです。
この二段階めを達成するためには、「宗教」に埋没したままでは不可能なのです。「宗教」を超えなければなりません。第一段階めの「覚醒」を得たとき、みなさんは、社会が提示してきたハシゴ段を登ることに、もうあくせくする必要はないのだと気づきます。しかも、その「気づき」に強制リセットされる瞬間が迫っている。今まで散々「世間に合わせろ、合わせろ」と言われ続けて来たのに、その「世間」が総崩れしていく過程を今あなたは見ているのです。
さて、そのハシゴを下りたときに、別のハシゴがあなたの目の前に見えるかどうかです。あなたの内なる向上心は一体どこへ向かうのか? それは、もはや「宗教」ではありません。あなたが向かう先は「真理」です。古代から変わらぬ、そして普遍的な「宇宙の真理」に直に向かうことになる。ローマ帝国が為政のために成立させた宗教に「キリスト」の名を冠した。それは「キリスト」概念の乗っ取りであり、「ルシファー」の「キリスト」への反抗だったのです。
それを、元の正常なものに戻す仕事が、今あなたに与えられました。双魚宮の時代は二元対立の「宗教」の時代でした。しかし宝瓶宮の時代になったとき、瓶の中にある「真理」が直接あなたがた一人ひとりに注がれるようになるのです。
さあ、ここで、視点を宇宙にまで引き上げて地球を眺めて見てください。地上では、今これらの大変革をめぐってすったもんだが続いています。しかし宇宙から見れば、地上での個々の出来事などは、みなどうでもよいことばかりなのです。そう見えませんか?
騙す人と騙される人がいて、支配する人と支配される人がいる。 悪事を為そうとする人と、善に生きようとする人がいる。独り占めしようとする人と、分かち合おうとする人がいる。すべては相対的問題で、「絶対」などという人間は一人もおりません。宇宙から見えるものは、人々のこうした心の動きであり、意識の変化なのです。
あなたたちの行動を決めているのは、 突き詰めれば、心の動きであり、心の動きを決めているのは、あなたたちの現在の「魂」のあり方、つまりは「霊性」の成長具合です。そのことを強く自覚してください。
中東とアメリカは、宗教に深く汚染(あえて汚染と言いますが)された地域であり、「正義」の「戦い」をしなければどうにも気がすまないという人たちでいまだ溢れかえっています。よって、一足飛びに「浄化」が起こるということは期待できません。
けれども、みなさんにはその一歩先を見越して、新しい時代の息吹を、周囲に、特に外国に今から放射していってほしいのです。日本人が持っている特性に自信を持ってください。あなたの優しさ、あなたの親切、あなたの思いやり、あなたの心配り、あなたの笑顔を、周囲にふりまいてください。そして、それを世界中に届けましょう。日本は日出(いず)る国です。
新世界の夜明けは日本から。みなの心を一つにして、必ずやそれを成し遂げましょう。
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地球というところは、やっぱり牢名主が支配する監獄惑星なんだと、改めて感じて心が重くなります。プランデミックが起こされたとき、これが「第三次世界大戦」の代わりとなって、予言されていたハルマゲドンはひょっとすると回避されるのではないかと考えていたのですが、どうもそんなに甘くはいかなかったみたいです。あとは、「核」が使用されないことを祈るのみです。
けれども、この戦争が世界大戦にまで発展することはおそらくないでしょう。西側はウクライナ戦への肩入れの失敗で疲弊し、経済面も軍事力も凋落の一途ですし、市民たちの中にも自国政府の腐敗ぶりと、バックにある世界的規模の謀略に気づいた人がかなり増えて来ましたから。ずっと気づかないフリをし続けなければならない政府と主流メディアは、市民の認識とのギャップを拡大して自滅していくか、どこかの時点で手のひら返しをするしかありません。
もう第二次世界大戦のころとは、情報環境も人々の意識レベルもまったく違っているのです。単に接するメディアが交代したということではありません。メディアの交代は、生活様式も意識のあり方をも変えてしまいます。ところが、謀略を行う側は、人間の行動心理とコントロール方法に関してはこれまでに充分研究し尽くしてきたという驕りがあるので、以前と同じパターンでいけると踏んでいるフシがある。でも、そうはいきません。
10月7日に始まる今度の戦争の発端は、いささか奇妙でした。ガザを実行支配するハマスが、鉄壁と言われてきたイスラエルの防御を難なくかい潜って奇襲に成功したのです。ネタニヤフは、自国民から警備にスキがあったことを非難されているのですが、しかし知っている人は知っている通り、ハマスという組織はイスラエルのモサド(諜報機関)が作ったものです。
それは、ISISやアルカイダや、日本における北朝鮮と同様の位置づけにあるもの。要するに、マッチポンプを演出するための道具です。実際、開戦直後は、イスラエル側とパレスチナ側の双方からフェイク・ニュースが畳み掛けるようにして流され、例によって世界各地で、両陣営の「旗」を掲げた大規模デモと衝突が展開される事態となりました。
そして10月29日夜には、ロシア連邦ダゲスタン共和国のマハチカラ空港で騒乱事件が起きた。この事件は、イスラエルから到着した飛行機にユダヤ人が乗っているという噂が流されて、これに制裁を加えようとして集まった暴徒が一斉に滑走路になだれ込んだというもの。その数、推定で1200人。しかしこの騒乱はまもなく鎮圧され、危うく大惨事となるところを逃れたのです。(のちに、この飛行機にはイスラエル人が一人も乗っていなかったことが判明)
後になって、この騒乱はダゲスタン向けのSNSを使って焚き付けられたもので、「西側諜報機関による工作である」とする声明がプーチン大統領より出されました。ダゲスタン共和国はチェチェンと並んでイスラム教徒が多く住む国。ロシア連邦は、多民族、多宗教で構成され、シオニストではないユダヤ人も多く居住しています。ですから、もしもこの挑発に乗ってしまっていたとしたら、連邦内は大変な事態になっているところでした。
このとき、ムスリムの長老をはじめとする、各宗教の指導者たちが重要な役割を果たしたと言う。長老たちは、復讐を煽るようなことはせずに「分断工作の挑発には乗るな!」と呼びかけて同胞を説得し、逆に「民族や宗教を理由に人々を迫害することは犯罪である」と諭したのだそうです。また、ユダヤ教の指導者は、正教、カトリック、プロテスタントなどすべての宗派に「友好の橋」を燃やしてしまわないようにと呼びかけたとのことです。(以上、「ロシア在住です」さんのX記事より)
このように、分断を煽り、社会を混乱と混沌に陥れていくいつものDSの工作が、必ずしもうまく可動しなくなっているのです。これは、以前にも言ったことがあるように、真の戦いは、左右の相剋ではなく上下の相剋だと気づいた人たちが増えてきているということと、轍(わだち)を一つにしています。もちろん、認識や理解力には人によってまだまだ大きな差があります。しかし、これまでとは明らかに潮目が変わっている。そのことは間違いありません。
したがって、今のイスラエルとパレスチナとの戦争の奥には二つの意図(意識)が隠れていて、同時にそれが重なり合って進行しているのです。一つは、左右の分断を焚き付けて、何としてでも世界を破壊に導こうとする意図(意識)です。もう一つは、 左右の戦いを演出しながら(あるいは利用しながら)、上下の戦いに勝利していこうとする意図(意識)です。
しかし、「宇宙の真理」から言えば、「上下の相剋」は「戦い」ではありません。一見、戦いのように見えるかもしれませんが、決して「悪人」を滅ぼそうとしているわけではありません。 そうではなくて、改心させようとしている。 改心してもらうことによって、その「魂」を救おうとしているのです。
でも残念ながら、そのことを理解している人は、今の地上には殆どおりません。ひどいのは、本来「上下の相剋」である「善・悪」の問題に、「正義」をプラスして、「左右の相剋」に仕立て上げてしまう輩というのがあとを断たないこと。そして多くの人が、その煽動に易々と乗っかってしまうのです。
10月25日の緊急テレビ演説で、イスラエルのネタニヤフはこう言いました。
「ハマスに対する我々の戦争は、全人類にとっての試練である。イラン、ヒズボラ、ハマスという悪の枢軸と、自由と進歩の枢軸との戦いだ。我々は光の民であり、彼らは闇の民であり、光は闇に勝利する。」「今こそ、一つの目的のために団結し、勝利を達成するために突進する時である。そして団結の力と、我々の正義に対する深い信念と、ユダヤ民族の永遠性に対する深い信念とに結ばれて、我々はイザヤ書の予言を実現する。 あなたの国境には、もはや盗みはなく、あなたの門には栄光がある。共に戦い、共に勝利しよう。」
困ったなぁと思うし、頭が痛くなってしまうのですが、それが現時点での地球人の限界なのでしょう。今の人類に「その先を見て!」と言っても酷なのかも知れません。
しかし心ある人は、次のことを知っておいてください。たとえ「悪人」を根絶やしにしたところで、地上に天国は訪れません。 なぜなら、その「悪人」の「魂」は、その後も生き続けるからです。そして、次の世代の予備軍を見つけては誘惑し、また次の「悪人」に育てあげる。しかも「正義」によって「悪人」を退治したと思っていた人たちも、 自分がしでかした間違いの報いを、いずれ受けることになるのですぞ。ゾゾゾゾーッ
あなた方は「善」と「悪」というものを誤解しています。
「光」と「闇」ということを都合よく解釈しています。
「正義」という言葉を、それぞれが手前勝手に使用しています。
この宇宙において、いったい何が「善」で、何が「悪」なのでしょうか?
実はこの定義は簡単です。 「宇宙の法則」、つまり「真理」に則った考え方と行動をしていることが「善」であり、それに背いた生き方をすることが「悪」なのです。そして、「善」に生きることも「悪」に生きることも、その「魂」の自由選択であって、 どちらを生きようと宇宙には罪も罰もないのです。「神」は、罪を着せたり罰を与えたりすることは絶対にありません。しかし宗教は、「罪と罰」の脅しの物語とニセモノの救済策(これもマッチポンプ)を信じ込ませて、わが教団への求心力として来たのです。
けれども、「法則」というものは絶対的で(だから、真の理なのですが)、善因善果、悪因悪果。自分が為したことは自分に確実に還る。つまり「罪と罰」というものは、その人自身が、まさに今の生き方を、「悪」側に傾倒することによって、自ら〈創造〉しているのです。では反対に、至高の「善」とは何でしょうか? これも簡単です。「愛」に生きることです。したがって、「愛」に生きれば「愛」が還るのです。極めてシンプルな理屈です。
しかしあなた方は、「愛」というものを、まだ本当には理解していません。所有や、執着や、偽善を「愛」と履き違えています。究極の「愛」は、意識において「分離」が存在しないということ。すべては一体だと悟るということです。すべてが一体ですから、自分が為したことは自分に還るのです。そのことを、もしもハッキリ認識できていたとしたら、自分がどんな生き方をすれば幸福であるかは、自ずと決まってくるのではないでしょうか。
「光」と「闇」は、 あなた方が考えるような対決構造にあるわけではありません。なぜって、すべては一体なのですから。一体にあるものが、どうして対決しなければならないのですか? それなのに、「光」と「闇」の戦いを「正義」になぞらえて語る人の、なんと多いことでしょう。ああ情けない。実に、これこそが「闇」の方程式なのです。解りますか? 「闇」の術中に、すでに落ちているということです。
「光」が「闇」に闘争を仕掛けたりすることはありません。
そんな馬鹿なことをするわけがないじゃないですか。
なぜかって? あら、もう忘れたの? たったいま言いましたよ。
自分が為したことは自分に還る。
そして、至高の「善」とは「愛」に生きることだと。
それをとっくのとうに身につけたからこそ、いま「光」のバイブレーションを発しているんじゃですか。そのような高位の存在となったんじゃないですか。「光」は、そうやって一生懸命に「闇」に堕ちた者たちを救済しようとしているのです。
ところがねぇ、「闇」に堕ちた人間たちが、まったく聞く耳を持たないんですよォ〜。「光」が届かないんですよォ〜。
だから「闇」と言うなり。
彼らには「闇」のほうが性に合っていて、「光」を拒絶するのです。
「闇」に堕ちた人間というものは、なぜこれほどの残虐非道を行えるのだろうか? 都市を丸ごと壊滅させたり、殺人ウイルスを撒いたり、人間の遺伝子を改変したり、チップを埋め込んでコントロールしようとしたり、子どもをさらったり、原爆を落としたり。そこまでしたい理由というものが、これまでどうしても解りませんでした。
操られている者たちのことは解るのです。なぜなら、私にも経験があるから。上の地位にいるものは、金と虚栄心から動いている。その次の地位にいるものは、保身から動いている。さらにその次の地位にいるものは、組織の論理に従って動いている。そして最下層の者は、洗脳と抵抗手段を奪われることによって動かされている。でも、最上位にいる者たちが持つこの狂信的な支配欲求というものが、いったいどこから生じて来るのかが解らなかったのです。
しかし、彼らがした発言というものを改めてちゃんと眺めてみると、実に底が浅いというか、言葉にまったく深みがないというか‥‥。この「底の浅さ」を、自分が、不可思議なパワーと取り違えていたということに気づいた。もう一段、奥に何か深いものがあると思っていたのです。でもそれは買い被りだった。まさに「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という感じ。なぁんだ、そういうことだったのかと。でも、今になってやっとそれが分かったことも、タイミング。
ネタニヤフが言う「悪の枢軸と、自由と進歩の枢軸との戦いだ。我々は光の民であり、彼らは闇の民であり、光は闇に勝利する」も、紋切り型であって何の深みもないし、まるでバカみたいだ。このフレーズは、すでにジョージ・ブッシュが911後に使っていて、この言葉に騙されたことはもうみんな分かっている。二番煎じ、三番煎じ(第二次世界大戦から数えれば)が通用するわけがない。むしろこの言葉を出したことで、〈自分の頭はブッシュ程度〉と白状したも同然になった。
さらに、「光」と「闇」をネタニヤフが持ち出したことで、結局は、イルミナティが計画した「第三次世界大戦」のシナリオに向かって、自分が動いていることも白状したことになる。
アメリカ南北戦争時の南部の将軍で、イルミナティの最高幹部であったアルバート・パイク(Albert Pike、1809 - 1891年)は、1871年に「我ら三つの世界大戦を通じて世界を平定する」と宣言し、「第三次世界大戦」のあり方ついて次のように予言した。
“「第三次世界大戦」は、政治的シオニストとイスラム世界の指導者との間の「イルミナティ」の「代理人」によって引き起こされた、相違を利用することによって促進されなければならない。戦争は、イスラム教(イスラム教アラビア世界)と政治的シオニズム(イスラエル国家)が相互に破壊し合うような形で実施されなければならない。
一方、他の国々は、この問題で再び分裂し、肉体的、道徳的、精神的、経済的に完全に疲弊するまで戦うことを余儀なくされるだろう。我々はニヒリストと無神論者を解き放ち、すべてにおいて恐るべき社会的大変動を引き起こす。その恐ろしさは、絶対的な無神論、野蛮の起源、そして最も血まぐさい混乱の影響を国々に明確に示すことになるだろう。
そして至る所で、革命家の世界的少数派から身を守ることを余儀なくされた市民が、文明の破壊者たちを駆逐し、キリスト教に幻滅し、その瞬間から理神論的な精神が羅針盤も方向性も失い、理想を渇望しながらも、その崇拝をどこに捧げればいいのかわからなくなった大群衆が、最終的に公の場に明らかにされるルシファーの純粋な教義の普遍的な現れを通して、真の光を受け取ることになる。この現れは、征服され根絶されたキリスト教と無神論の破壊に続き一般の反動的運動から生じるだろう。”
ですから、片方では、この計画通りにいま事が進められていると見ることができます。しかし他方では、この計画が自滅・頓挫に向かっている、と見ることもできるのです。あとは、人々の集合意識が、今後どちら側により多く傾くかということがポイントとなって来る。
さて、アルバート・パイクとネタニヤフの言葉で注目したいのは、共に〈自分たちは「光」だ〉と語っている点です。ということは、少なくとも、「光」と「闇」の序列があるということを認めているわけです。また、「光」と「闇」の対比で述べれば人々が反応する、ということも計算に入れている。その上で、〈自分たちは「光」側だ〉と言っているのです。これは、単に騙しのテクニックとしてそういう文脈を用いているのか、あるいは本当にそうだと信じているのか?
アルバート・パイクはまた、こういうことも言っています。〈我々は「神」に対抗しようとしているわけではない。我々がなしているのは「神」そのものの否定なのだ〉と。つまり、 世間で言われているような「神」の論理などはこの世には存在しない。我々が掲げる論理こそが「光」なのだと。そう妄信している。そして、その信仰の正当性の象徴としてルシファー*を掲げるのです。
*しかしこれは、厳密に言えば自己矛盾です。なぜなら、ルシファーは堕天使ですから、「神」の界層の存在を間接的に認めることになってしまいます。これは重要なポイントです。
ここで元に戻って、なぜ彼らが、あれほど残虐非道なことを平気で出来るのかということです。一つには、自分で直接関与しているわけではない、ということがあるでしょう。「闇」のトップに君臨する者は、チェス盤を前に駒を動かしているだけであって、実際に戦ったり暗殺したり兵器を作っている人間というものは、いくらでも取り替えのきく道具でしかないのです。今で言えば、バーチャルなテレビゲームをやっていると同じ感覚と言えるでしょうか。
しかし、もっと根本的なことは、 彼らには「胸の痛み」がないということです。 そういう「痛覚」が存在しない。これは実際に、ジョージ・ソロスの昔のインタビューなどを見ますと、これまで自分が行ってきたことに関して、罪悪感に駆られたりすることはまったくないと明言しているのです。彼のモノサシというものは終始一貫していて、金を儲けて、金の力によって世界を牛耳る。そして、それを利用してまた金を儲ける、という飽くなきサイクルです。
これこそが「愛」の対極にある姿であり、だからこそ、どのような残虐非道を為したところで平気なのです。自分たちのモノサシだけがこの世を生きる価値基準であり、それ以外のものにうつつを抜かす人間などは、 どうにでもコントロールが可能な馬鹿な家畜に過ぎないというわけです。一度この「闇」の支配構造に飲み込まれてしまった人間は、上に位置する人間ほど、こうした「無感覚」を強く持つようになっていくのです。そこで、冷血動物とか、爬虫類人類といわれたりすることになる。
でも、それがすべてなのでしょうか? 私はそうは思いません。 それは、彼らがルシファーを崇め、自分たちを「光」だと宣っている点に垣間見られるのです。パイクは、「神」への反抗ではなくて「神」そのものの否定なのだ、と言いました。がしかし、実際には、どちらも「神」のモノサシを借用しています。ここには一種の倒錯が見られる。ですから、「神」そのものの否定というのは、逆に憧れと、激しい嫉妬を意味しているのではないでしょうか。
どんな悪人とて、みな「神」が生み出したものですから、 彼らも薄々気がついているのだと思います。むしろ「イルミナティ(光輝けるグループ)」と名乗っているくらいですから、一般の人よりもはるかに霊界の知識には長けているのかもしれません。しかし、そしてだからこそ、一度堕ちた者は、絶対に「罪悪感」など抱くことは出来ないと考えるのです。それは、なぜでしょうか?
先ほども言ったように、宇宙には「罪」も「罰」もありません。しかし、自分が一瞬でも「罪悪感」を持った瞬間から「罰」が始まるのです。これが非常に辛い。「真理」の光が差し込んできて、わが内を照らすようになるほど、己がしでかした悪事に正面から向き合わなければならなくなる。だから、自分の価値観を貫き通すしかない! このままどこまでも突っ走り続けるしかない! 反省などした日には身の破滅だ!
ところが、彼らが馬鹿なのは、死んでも死なないということを知らないのです。それは彼らにとってよいことなのか? 死んでも「魂」は生き続けます。しかし金も、地位も、組織も、豪邸ももはや何もない。隠していた意識が、ぜんぶ丸裸になって、それを晒して生き続けなければならないのです。さあ、どうする? 少しでも「光」を取り入れて、辛い反省の道を歩み出すのか、それともそのまま暗黒街に永遠に留まり続けるのか‥‥。
しかし「神」は、そのような極悪人であっても、決してお見捨てになることはありません。 必ずや手を差し伸べてくださるのです。あとは、本人がいつそれに気づくことができるのかです。 所詮は、すべてが「神」の手の内にあるのです。なぜなら宇宙は一つだから。そして、その本質は「愛」だから。
この機会に、「愛」の本質を知りなさい。「分断」工作には決してそそのかされることのないように。その背後にある、不純な意図を見抜くのです!
何事にもレッテル貼りをしてしまう習慣はおやめなさい。
レッテル貼りをした途端、あなたは「分断」への道へ自らを追い込み、自分で自分の可能性を閉じてしまいます。
なぜ人々は、これほどまでにレッテル貼りをしたがるのでしょうか?
その裏にある本質をもっと見つめてみるべきです。
あなた方は、よく「ブレる」という言葉を他人への批判として使っています。そして「ブレないこと」を良いことだと考えています。 言い換えれば、強い「信念」を持つことを、暗黙の了解のうちに良しとしているのです。でも、なぜ「ブレないこと」が良いことなのでしょうか? 自然界をよ〜く観察してみてください。ブレていないものなんて何一つありませんよ。太陽も、月も、雲も、風も、海も、いつもいつもブレ続けているのが見えませんか?
船の舵を固定してしまったら、目的地には着けませんよ。 瞬間、瞬間の条件に合わせて舵をつねに修正するからこそ、ちゃんと目的地に到達できるのです。「ブレる」という言葉を「嘘をついた」という意味で使っている場合もあるかもしれませんが、それは別。 嘘をつくのはやはりいけません。でも「生きる」ということは、日々、舵を修正していくということなのです。
ですから、朝令暮改でよいのです。向上のための朝令暮改であれば。
つねに向上心を持って自分を改めていかなければ、成長はありませんよ。
確固たる「信念」を持っていなければ、生きるのが不安になる、と思うのかもしれません。また、自分の考えが間違っていたらどうしよう、もしも失敗したらどうしよう、と考えるのかもしれません。でも、間違っていたと気づいたら反省すればいいだけのこと、失敗だったと気づいたらまたやり直してみればいいだけのこと。「間違いや失敗を犯してはならない」と考えていたら、それが恐怖に変わってしまいます。
正しいことや成功することに価値があるのではないのです。経験すること自体に価値がある。経験して間違ったと気づいたり、失敗したと気づいたことが、あなたの財産になるのです。何も冒険をしなければ、間違うことも失敗することもないかもしれません。でも、霊界に帰ったときに、そのような消極的な人生を送ったことは、まったく評価をされません。そのような「魂」は、低位の波動世界に行くことになるのです。
何ごとにもレッテル貼りをしなければ気が済まないという人は、そうしなければ、気持ちの整理がつかないと考えるからです。曖昧なままにしておいてはいけないと思い込んでいるからです。
でもこれも自然界を見てください。あなたが森の中に入っていくとします。森の中には様々な木々や草花が生い茂っています。動物や昆虫たちもたくさんいます。木漏れ日が差し込み、涼やかな風も吹いています。一つの見方として、これは杉の木だ、これは樫の木だと見ていくことができるでしょう。
同じような外見を持つものをひと括りにして、分類的に見ることは可能です。昆虫に詳しい人は、一つ一つに細かな学名を当てはめて見るかもしれません。でもキノコを見ても、あまり詳しくない人は、全部を「キノコ」で済ましてしまうことでしょう。レッテル貼りなんて要はそんなもの。それはさておき、そのように分類したところで、それは「森」を見たことになるのでしょうか?
結論を言えば、「森」の全体を見ることは、どのようにしたところで不可能です。あなたは、自分がそのとき見た「森」の感じ、そこで得た自分のフィーリングを味わうことしかできません。つまり、「森」の中に分け入っても、「森」を見たわけではなく、それを素材として、自分のフィーリングを〈創造〉しているだけなのです。それをみな「見た」と称して錯覚しているのです。
いま述べたことは、それが悪いと言っているわけではなく、単にそういうものだということを指摘したまでです。さてその時、ものごとを分類的に見ていくことと、全体*から受ける自分のフィーリングと、どちらをあなたはより重要視するでしょうか?
*これは言葉のあやで、厳密に言えば「全体」を把握することは不可能。
実はこの点は、アートを鑑賞する際のキモとなる課題です。よく「アートが解らない」とか、「この意味はなんだ」と、作者に失礼な質問をしたりする人がいるのですが、そういう人はレッテル貼りのクセが抜けないのですね。自分の中に、どんな「フィール」が浮かんだかを大切に思う気持ちがない。そういう訓練を積んできていない。いつもいつも、分類して、意味づけをしなければ気が済まないのです。
自分の「フィール」なんてものは、しごく曖昧なものであって信用できない。それよりはレッテルをバーンと貼って「断定」したほうが気持ちがスッキリするわけです。けれども、あなたが「杉」とか「樫」とか分類したものも、よく見れば、一本一本がぜんぶ違うのです。同じものは一つだってない。それが「自然界」というものの本質です。人間だってそれとまったく一緒。宇宙というものは、限りない多様性によって出来上がっているのです。
レッテル貼りをすれば、多少は気持ちがスッキリするかもしれません。しかしそれは、 世界を狭めた、その範囲の「錯覚」を自分にもたらした、というだけであって物事を正しく見たというわけではないのです。自分の「想念」にレッテルを貼ることで、モヤモヤが整理できたというだけの話。そもそも「正しく見る」なんてことはあり得ないし、最初から不可能なのです。なぜって、「見る」という行為は、〈自分の「見方」〉なのですからネ。どのみち錯覚なのです。
どうせ錯覚をするのなら、誰かからの借り物の、狭いレッテルを貼って見るよりも、もっと大きな錯覚、つまり自分の「フィール」を大切にしたほうが楽しいし、ずっとステキだとは思いませんか? 「分断」の煽動に乗ったりしなければ、もっと穏やかに、もっと平和に、もっと安心して暮らすことができます。自分の「フィール」は自分で創造するものですから、あなたがハッピーだと思えば、あなたの人生はハッピーになるのです。
あなた方の多くは、自分の中に沸き上がる不安やモヤモヤを解消するためには、自分をきちんとリードしてくれる何らかの指針が必要だ、是非ともそれが欲しいと考えています。ハンターたちはそれを待っていて、罠に近づいてくる者の心のスキマにぴったり嵌るクサビを打ち込むのです。すると、打たれた人間は「これだ!」と思って飛び付いて、不安やモヤモヤが解消された気になる。だから、「旗」と「杖」をどうしても手放せない。
ところが、このレッテル貼りの工作は、いろんなニーズ(?)に応えるために、「分断」を煽る者の手によって、ご親切にもあらゆる場面で展開されていくのです。
例えば政治的スタンスです。保守と革新とか、右翼と左翼とか。これだけだとすれば二分です。さてこれに、今のような中東問題がプラスされたとしましょう。パレスチナ支持派とイスラエル支持派に。すると、政治的スタンスと合わせれば、分断は2×2で四つになる。
さらにこれに、例えば親ロシアと反ロシアというものを加えたとしますと、2×2×2で八つになる。もうこうなると、自分のスタンスをどこに定めたらいいのかが分からなくなってしまうことでしょう。
実際には、こんなものでは済みません。ワクチンを打つ打たないの問題に始まって、人種差別、地域間格差、民族、環境保護、LGBTQ等々、ありとあらゆるところに「分断」の種が蒔かれ、「闇」が送り込んだ工作員(イルミナティの代理人)たちが煽動の暗躍に動いているのです。
ですから、これをニュースで見せられたり聞かされたりしている一般市民の頭の中は、もうグッチャグチャで、収拾がつかなくなってくる。するとどうなると思いますか? 人々の思考は、最も単純な二分する位置に帰るのです。AかBか。ここさえしっかり保持していれば、それ以外のことにわずらわされることはない。自分の頭を使って考えずとも済むので、楽だし「ブレる」心配もない。
かくして「狂信者」とそのグループが出来上がっていくのです。これが、パイクの言った「この問題で再び分裂」「肉体的、道徳的、精神的、経済的に完全に疲弊するまで戦う」「ニヒリストと無神論者を解き放ち、すべてにおいて恐るべき社会的大変動を引き起こす」に繋がっていく。しかし、一度「狂信者」グループが出来上がると、今度はそこから外れてしまうことがだんだんと恐怖になっていくのです。
その、最も単純な「狂信」は、その人にとっては掛け替えのない「杖」ですから、もしもそれがポッキリ折れてしまったら、自我崩壊にも等しい事態となってしまう。そこで、やがてこういうことを始める。自分の周囲で展開されることを、先ずは「狂信」のフィルターを通して見て、それに合致しなかったりそぐわなかったりした情報は、捻じ曲げたり、都合よく改変したり、明らかな嘘をついたりするようになっていくのです。「FACT CHECK」はその最たるもの。
この段階に至ったときは、社会的に言っても、その人個人の問題においても、非常に危険な状態にあります。そういう人の目は、どこか焦点が定まらずに、濡れたような異常な光り方をして来るのですぐに判ります。いま、ディープ・ステイター と言われる人たちの顔を見ていると、みなそうなってきているのが判るでしょう。みなさんも観察してみてください。
ですから、「信念」など持ってはいけません。「信念」は身を滅ぼします。「信念」がないと、不安からは逃れられないのではないかと思うかもしれませんが、それはまったく逆。「信念」を持つと不安が手放せなくなるのです。「信念」など持たない生き方をしましょう。「信念」なんて切断です! あなたは自由。自由を謳歌する生き方をしてください。自分を自分で束縛する愚は、金輪際やめましょう。
ここで三たび、自然界そして宇宙のあり方を見習ってください。この驚くべき多様性。しかし、それらはみなどこかでつながっていて、分断する壁などはどこにもありません。すべてが連続し、調和しているのが解るのではないでしょうか。生き方のお手本は、すべて自然の中にすでに現れているのです。もっと自分を信頼しなさい。いつも自分のそばに寄り添い、あなたを導こうとしてくださっている存在の言うことに耳を傾けなさい。
宇宙の法則に準じていれば、それがすなわち「善」なる生き方になっているのであり、そこに不安などは起こりようがありません。
未来は明るい。あなたの今の意識と行動が、あなたの未来を創っているのです。
]]>この宇宙を、霊界を含んだ階層(界層*)構造として捉える、という考え方は遥か以前より存在していました。
*これまでは「階層構造」と書くことが多かったのですが、「界層」という言い方があることを知ったので、これからは「界層構造」と書くようにしたいと思います。
その中でもっともシンプルなものは、私たちが住む「地上」世界の上方に「天国」、下方に「地獄」を設定するという三層構造です。これは、明るい天上世界と暗い地下世界のイメージが実際に想像しやすかったことから、多くの宗教で取り入れられて来ました。そして、死後どちらの世界へ行くかは生前の信仰心と行いが決めるとされたのです。
しかしその後、死後どちらへ行くかがまだハッキリしていない霊魂、いわゆる「幽霊」をどこに位置づけるかという問題があって、霊界と地上世界との中間領域が考えだされ、宗教宗派によってこれに様々な名称が付けられ体系が複雑化していきました。これにさらに、霊能者や霊媒が説く死後の世界からのレポートが混ざり、今に見る多種多様な「界層構造」が巷に流布されるようになっていったのです。
あるものは四層、またあるものは五層だと主張します。また、仏教のいわゆる「十界論」は十層、「九品(三三品)」は九層に分類しています。このほか、「地上」世界を第一層としてその上に全七層を数えるものや、さらにそれを二分して十四層とするものもあります。このように、界層のとらえ方はみなまちまちで、さらに各界に付けられた名称もまったく統一感に欠けるものでした。このことは、「宇宙の法則」を理解する上での大きな障害となっていました。
なぜならば、霊界のことを学習しようとしてどれほど有益な書物に接しても、記述がみなバラバラなために共通点が見い出しにくく、結果として全体構造の把握を困難にさせていたからです。私は、これをなんとかしたいとずっと思い続けて来ました。
宇宙が「界層構造」から成り立っているということ自体は間違いありません。しかし、このように「界層」の解釈がまちまちであったことにはそれなりの理由がありました。この「界層」を決定づけているものの正体が、実は「振動数」にあったからです。いきなり「振動数」と言われても、たぶん何のことか解らないとは思いますが、これと近い言葉はよく使われて来ました。それは他ならぬ、この論考のテーマとなっている「波動(Vibration)」です。
みな「波動(Vibration)」というところまでは語るのです。がしかし、その先の科学的な説明が一向にありませんでした*。そのため「波動」は、つねに曖昧模糊とした怪しげな話として捉えられて来ました。私は、この「波動」が持つ性質である「振動数」の違いで「界層構造」を説明すれば、誰もが納得できる統一的な見解が築けるのではないかと考えたのです。
*その理由は、「啓示」というものが、基本的に発信側と受信側とのコミュニケーション能力の範囲内で行われるためです。すなわち受信側の霊性、知識、語彙、言語化能力の影響というものを免れ得ないのです。
多種多様な「界層構造」が提示されてしまう理由は、「振動数」の変化というものには境い目がないため、いかようにも分類が出来てしまうせいです。喩えて言うとヴァイオリンのネックです。ギターにはフレットが刻んでありますが、ヴァイオリンにはないので、どこでも好きな位置で弦を押さえることが出来てしまいます。しかし「振動数」の観点からルールを特定すれば(つまりフレットの位置を定めれば)、ドミファソラシのように万人が納得できる共通の分類というものが可能になります。
■振動数仮説の確定へ
私は科学者でもなんでもないので、その任に当たる才があるかどうかは判りませんが、これが今世の自分の役割だと思って、後世の人のためにその扉をちょっぴり開けてみたというしだいです。私がやりたかったことは、この曖昧模糊とした「界層構造」に規則性を見い出して、「振動数」を具体的に特定したいと考えたのです。それがもし出来れば、曖昧さが回避され、「宇宙の法則」に関する共通理解がグッと進むはずです。
また、この「界層構造」を「霊性密度」と呼ぶことにし、「次元」と呼ぶのをやめました。この「次元」という言い方は、もともとは「この世」を超えた世界という程度の曖昧な意味で「四次元」と言っていたものが、いつの間にか定着してしまったものです。そんなわけで、当初はそれほど深い意味はなかったのですが、その後、数学的次元と取り違えることが起きてしまったために、「アセンション」との絡みで多くの人が混乱に陥り、「界層構造」の正しい理解をはなはだ困難なものにしていました。
ということで、「オクターブの法則*」と呼ぶ七界層の分類に整理して、前回その振動数の範囲を特定しました。もちろんこれは仮説の域を出るものではなく、「オクターブの法則」の分類整理が絶対的な構造だと主張するつもりもありません。しかし、長年この研究をしてきて試行錯誤を続けながらも、様々な点で法則的な整合性がつくということと、全体構造が理解しやすいだろうということから、これを現時点での一応の決着としておきます。
*「オクターブの法則」という考え方そのものは、分類法の一つとして以前よりあったもので、「宇宙鍵盤」という言い方をされることもあります。グルジエフもこの七界層説を説いていて、半音階部分に当たるミ・ファとシ・ドの間を「ショック」と呼びました。これは、ちょうど第三から第四霊性密度、第七から第八霊性密度への移行に相当し、この区間で起こる激変を説明しています。
すなわち、前者では物質界から非物質界への移行、後者は〈この〉宇宙から絶対界(認識できない世界=こちらから見て「無」)への移行です。このように、七界層説は非常に的確に宇宙の構造を説明できることと、チャクラとの関連も説明できることから、私も七界層説を採用することに致しました。
これは、そう見るのが正しいと主張したいわけではなく、「オクターブの法則」のモデルを基本的なスケールとして頭の中に入れておいていただければ、他の様々な分類に接した際に、それぞれで語っていることがらは大体この界層のことを語っているのだな、ということが分かるので、内容の理解が早いということです。そこで、以下に確定した振動数仮説を整理しておきます。
第一霊性密度 10^-10 〜 1(Hz)
第二霊性密度 1Hz 〜 10^10(Hz)
第三霊性密度 10^10 〜 10^20(Hz)
第四霊性密度 10^20 〜 10^30(Hz)
第五霊性密度 10^30 〜 10^40(Hz)
第六霊性密度 10^40 〜 10^50(Hz)
第七霊性密度 10^50 〜 10^-10(Hz)※極大から極小へ相転移が起こる
■「界層構造」が表している基本的な意味
以上のように、各領域の振動数が特定できたところで、改めて、宇宙の「界層構造」が示すところの基本的な意味を下記に整理しておくことにします。
?〈この*1〉宇宙のすべては、たった一つの「振動するエネルギー体*2」を基として出来あがっている。これが、ただ振動数を変えるだけで、宇宙のあらゆるもの(霊界を含む万物)が創生されている。*3
?極微の「振動するエネルギー体」は、先ず第七霊性密度領域に生じる。そして、振動数を下げるにしたがって、しだいに生命体を創る三つの要素に分化していく。すなわち、物質の素となるもの(Element)、意識の素となるもの(Soul)、そして生命力を与えるエネルギーになるもの(Purana*4)である。
?この「振動するエネルギー体」は、第七から第五霊性密度までは非物質的な存在としてあるが、第四霊性密度まで振動数を下げると、その一部である「Element」がしだいに「物質化」していき、第三霊性密度以下ではついに物質となる。第四霊性密度は、非物質界と物質界の中間に当たり、この領域で「物質化」「非物質化」現象が相互に起こる。
?第六霊性密度から第四霊性密度には、特定の振動数に適合した、言い換えれば霊格に応じた知的生命体が存在する。大まかに言って、第六霊性密度は「神々*5」クラス、第五霊性密度は「天使(地上では天才)」クラス、第四霊性密度は通常の「人間」の魂が過ごす領域であり、第四霊性密度の下部は通称「地獄*6」と呼ばれているところに当たる。
これらの領域はさらに細かく界層化されていて、上位の霊格の者は振動数を下げることで自分より下のどの領域にも赴くことができる*7が、下位の霊格の者は自分の場と接している一つ上の領域をかろうじて感じる程度しかできない。
?第七霊性密度は〈この〉宇宙の最上位である「創造神」に当たり、それ以下の界層に属するすべては、結局この一者が創造したものということになる。
?しかしここで、当然ながら、「創造神」を生み出したものは誰かという疑問が沸く。そこでその存在を「第一原因」と呼ぶのであるが、この問いは結局、限りのないパラドックスを生んでしまう。そこで神秘学では、「第一原因」を「絶対神」であるとし、〈この〉宇宙のオクターブ(七界層)を超えた第八霊性密度に位置づけることによって決着を図っている。第八霊性密度は、こちら側の宇宙には属していないので、絶対に窺い知ることは出来ないとしているのである。
?さらに、「創造神」と「絶対神」は、役割こそ違(たが)えているがつまるところは同じ存在であるというのが結論となっている。この先はパラドックスであって、もはや人知の及ぶ範囲ではない。地上の人間はもとより、「天使」クラスの存在ですら、それを理解し得ないのである。なぜなら、あまりにも霊格が違い過ぎるのと、雰囲気は多少窺い知ることが出来たとしても、下の存在には上の存在〈であること〉を絶対に経験できないからである。
*1:〈この〉としている意味は、他の宇宙もあるから。宇宙は、基本的にユニバースではなくマルチバース。しかし、〈この〉宇宙以外のものを窺い知ることは、論理的に言って不可能。私見では、別の宇宙の「創造神」が、こちら見たときに「絶対神」の役割を果たしているのであり、この関係がブラックホールとホワイトホールを通じて互いに行き来し、収縮と膨張の呼吸を永遠に繰り返しているものと考えている。
*2:この「振動するエネルギー体」に関しては、「精髄(Essence)」と呼ばれていることが多い。
*3:この理屈が解らないという人は、「一絃琴」を想い浮かべてみてください。たった一本の絃が様々な音階を奏でているじゃありませんか。
*4:「Purana」は、他に「エーテル(Aether)」「根源的生命力(Vital Life Force)」「宇宙エネルギー(Cosmic Energy)」などとも呼ばれる。
*5:「絶対神」と「創造神」は我々には窺い知ることは出来ないが、第六霊性密度の「神々」クラスの知的存在は稀に姿を持って顕現する場合がある。
*6:「霊界」と「物質界」は重なってあるので、「霊界」の「地獄」と同じ波長を出してこの世を生きる者は「生き地獄」を生きているのである。そして、それは本人が自ら創り出している世界なのである。
*7:が、実際にそうすることは殆どない。仮に下位に降りたとしても、下位の者たちにはその存在を認識できない。
以上が、振動数の違いが示す「界層」の意味ですが、この構造は、他方で宇宙の成り立ちについて次の情報を与えます。
■この宇宙の成り立ち
?〈この〉宇宙は、極微の「振動するエネルギー体」から、極大の物質化宇宙までが、すべてトーラス構造(スパイラル構造)を持った相似形をなしている。この構造が生み出されるわけは、第一原因が有する陰陽の双極性を基に、先ず最初に電磁気力が発生するためである。
?トーラス構造は、振動数を下げていく中でしだいに鈍重なものとなり、やがて粒子化していく。このとき、現代物理学で言うところの素粒子から原子核の形成あたりまでが「物質化」と「非物質化」が起こる境い目の領域、つまり第四霊性密度領域となっている。
?そしてさらに振動数を下げると、素粒子同士の結合によって、ついには完全な「物質」様態、つまりは「原子」が形成される。あとは、「原子」が結合と分離を繰り返すことによって、我々がよく知るところの「万物」が連鎖的に生み出されていくのである。これを「三角形の法則」と言う。あたかもそれは、両親が持つDNAを取捨選択することで、第三の新しい命が誕生する様子と似ている。このとき、「原子」の結合と分離に作用する力が、それぞれ「強い力」と「弱い力」である。
?では、「原子」の結合と分離をコントロールしているものは何であろうか? これは、そのようにしたいという「意志」による。人間の場合は、DNAの組み合わせを、誕生してくる本人自身が決めているのである。この取捨選択には「カルマの清算」の予定が組み込まれている。一方、自然界の万物を創生しているのは、「創造神」の命を受けた「天使」クラスに所属する多数のグループ集団*で、それぞれに細かな担当役割が決められている。
*人間は、自然界にあるものを材料として生活に有用なものを作り出すことまでは出来るが、「生命」そのものを生み出すことは出来ない。それを可能だと思っているのは、人間の傲り以外のなにものでもない。
?この、コントロールされた秩序を持つ全世界を「コスモス(宇宙)」と呼ぶ。もしそこに秩序がなかったとしたら、それはたちまちにして「ケイオス(混沌)」となってしまう。実に、「ケイオス」を「コスモス」に変えているものは、「神」の「意志」なのである。したがって、「物質化」というものは「神」の「意志」の顕現であり、あらゆる物質は「神」のもとに帰りたいという本能を持つ。これが第四の力である「重力」を生むのである。
?このような経過と展開をたどって、我々がいま住んでいる「物質界」というものが形成されている。人間の目からすれば、それは堅牢で確固たるもののように見えるが、宇宙の界層構造からすれば、我々は極めて狭い振動領域を知覚しているに過ぎない。実際には、原子の内部はスカスカなのであって、あなたが暮らし、そして見ている世界には、同時に「宇宙(Cosmos)」の全界層が重なって存在している。
?前記から、人間がこの地上で「生きる」ということには、単に「物質界」に適応して生きるというだけではなく、同時に「非物質界」にも生きている*という意味が隠れているのである。これらは、個々の「魂」にとって、みな個別の体験学習の場として提供されている。そして、前者は「死」によって一つの体験機会を終えてしまうが、後者はその後も学習が継続され、一つの地上生活でのあり方と、死後に還ってから行く世界との因果関係をやがて知ることになるのである。
*前者の学習体験の場を「地球学校」とするならば、後者に当たるものが「虹の学校」というわけです。その意味は、体験を重ねることで「七界層」を少しずつ上昇していく学習になっているということ。頂上を目指すのに、早道はあっても近道はありません。一歩一歩着実に、虹の階梯を昇っていくしかないのです。
この終盤、?〜?で示されていることがらは、さらに次の情報を我々にもたらしてくれます。
■「神」とは何か、そして何処に?
それは、〈あなた〉という「存在」が、なぜ、どのように、そしてなんのために誕生したかという、究極の問いに対する答えです。
誰もが、それを知りたい、と潜在的には強く願っています。しかし、表立ってそれを口にする人は、殆ど誰もおりません。みんな毎日を生きることで精一杯ですし、そんな問いを発したところで、答えなどないと思われているから‥‥。
けれども、答えはあります。
人間は「神に似せて創られた」という話をどこかで耳にされたことがないでしょうか? 『創世記』の中にその記述があるのですが、「聖書」を絶対視する人たちは、これを神話的に解釈し、結果的に二つの大きな間違いを犯しました。一つは、人間だけを特別視して、他の自然物はすべて支配下に置きコントロールしてもよいと考えたことです。二つめは、「似せて」を逆側に敷衍(ふえん)して、「神」を人格神(父)にしてしまったことです。
人間は、動物の中でも唯一特殊な存在で「神に似せて創られた」ということ自体は間違っていません。それは「真理」です。しかし解釈が違うのです。これは、これまで述べてきた「界層構造」が顕現した姿を、人間が自己の身体にそのまま映し出しているという意味なのです。その関係は『霊性密度図』の中で示してあります。ですから、原理的に言えば、人間は「神」と同等の存在になれる可能性を有している、と言えるのです。
しかしもちろん、そんなことは殆ど不可能です。その理由は、第一には身体を持ったことによって、地上を生きるための必然性から「物質界」への適応をせざるを得なくなったこと。これによって、自己が行使する「霊性密度」の主チャンネルが「物質界」側に強く傾くことになったのです。第二には、その結果、「物質界」が示す欲望刺激に耽溺してしまい、第五霊性密度以上の感覚をすっかり喪失してしまったためです。
また、第三として、個々の人間が背負った「カルマ」の問題もあります。こうしたことが重なって、人間は「神に似せて創られた」にも関わらず、「神」を思い出すことが出来ない、という存在になってしまったのです。このことをチャクラとの関係で述べると、チャクラが閉じられた状態*にあるということになり、これを解放に導くことを「浄化」、解放したことを「覚醒」と言っているのです。
*個々人によってその状態が異なり、それがその人の性格をつくります。
そんなわけで「覚醒」に至る道はなかなか厳しい。が、ともかく、誰もが「神」に至る要素というものを最初から持っているのです。ただ、それに気づけないというだけの話。さてそのとき、「神」とは何か?ということになるのですが、これを、各宗教がそれぞれみな勝手な概念を造ってこれまでやって来たのです。その結果、互いにわが「神」を信じて合い争い、果ては正義の名の下に殺し合いまでするという、とんでもない事態がずっと繰り返されて(そして今も!)来たのです。
そこで、これを是正するためには、本当の「神」、真実の「神」に帰趨するしかありません。ウォルシュさんの『神との対話』では、これを新しい「神学」が必要*と言っていたのです。
*私はそれを「因の科学」によって、そして「信仰」(信じて仰ぐ)を「智一」(叡智を解して一体となる)に置き替えることによって、実現したいと願っているのです。今はまだまだ遠い(Soo⚬⚬⚬⚬ far away)ですが、そういう時代は、いずれ必ず来ます!
では、本当の「神」、真実の「神」とは何か?
答えは、「正確なことは分からない」。前段で述べた通りです。そう言うと、元も子もないと思われるかも知れません。が、しかし「分からない」ことを「分からない」とハッキリ言うことが大切だと思うのです。そうすれば、この「波動」の論理がしっかり定着した暁には、「わが神」を掲げる怪しげな宗教はもう成立できなくなってしまうことでしょう。
しかし、「正確なことは分からない」けれども、論理的な帰趨はなんとなく分かるのではないでしょうか? 「界層構造」を遡っていけば、最終的に第一原因(第八霊性密度)に行き着きます。論理的に言って、第一原因には、〈この〉宇宙を創生した素(もと)の「性質」が集約されているはずです。果たしてそれは何でしょうか?
「神秘学」が教えるところによれば、究極的には次の二つの性質(+生命力)に還元されると説きます。一つは「法則(Logos)」であり、もう一つは「愛」です。また、両者が〈この〉宇宙の「地球神界」に顕現した際の最高位を「キリスト(Χριστος)」と呼びます。(「キリスト」はキリスト教の専属神というわけではありません。)そして、さらに地上にまで降りて、「法則」を顕現したメッセンジャーが「ブッダ・キリスト」だったのであり、「愛」を顕現したメッセンジャーが「イエス・キリスト」でした。両者は二つで一つです。
そのことを思うと、最高神を「人格神」のように考えたくなるでしょうが、そうではありません。「キリスト神」が振動数を落として、下位の領域に顕現していった際に、その領域にふさわしい人格性をだんだんと表現していくのです。その領域の者たちにも受け入れられ易いように。ですから、第一原因にあっては、あくまで「法則」は「法則」、「愛」は「愛」です。両者は、「愛」もまた「法則」であり、「法則」がまた「愛」であるという関係としてあります。
そして、「法則」はどちらかと言えば「男性性」の発露であり、「愛」は「女性性」の発露として、陰陽の双極性をバランスしているのです。なお、かつてブッダやイエスであった存在は、霊界に帰られてからも高い霊位につき、今も地球の人間たちを温かく見守り、部下を使って指導の任に当たられているということです。
ここで、「人間」というものは、元をたどっていけば「第一原因」から創生された存在であり、「神に似せて創られた」ということを改めて思い出してください。であるとするならば、人間には、当然ながらこの「第一原因」の性質が最初から内包されているということになります。これが、「人間」というものは生まれながらにして救われている、という理由です。
ところが、「神」は、「人間」を自身のところには留め置かずに、地球への旅に出しました。しかも「自由意志の原則」を設けて。旅の道中で何をしてもよい、と言うのです。お前さんの自由だ、と言うのです。これは、なぜでしょうか?
もし「神」が、自分に似せた者を生み出さなかったとしたら、「宇宙」がどうであったかを考えてみてください。「神」についてを思考する者がおりません。つまり「神」は、分身を生み出すことによって、はじめて「神」自身を思考する存在と状態というものを創り出したのです。しかも、「自由意志」を与えたことによって、「神」を無視することも、否定することも、憎悪することも、愛することも、すべて「人間」の自由に任せたのです。
このことは、全能を謳われる「神」にしては奇妙だ、と思われる方がたぶんいらっしゃるでしょう。けれども、こんな喩えはどうでしょう。オーナー会社の中に、もしもイエスマンしかいなかったとしたら、その会社はどうなるでしょうか? 変化に取り残されて、遠からず潰れてしまうことでしょう。
「神」が潰れるということはさすがにありませんが、「神」はそうすることによって、自身の絶えざるバージョン・アップを図ったのです。「可愛い子には旅をさせろ」の故事そのままに、わが子に自由に旅をさせて、各自の経験を持ち帰らせることによって、自身のさらなる成長を計画しているのです。そして、この「宇宙」の大運動というものが、未来永劫に続いていく。あなた方は、一人ひとりが、みなその運動を構成している貴重な一員なのです。
(つづく)
今回が最終回になるかと思ったのですが、疲れ切ってしまい、書き切れませんでした。
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以前に、表 → 裏 → 影 → 闇 → 魔、という構造の話を何度かしましたが、覚えておられるでしょうか。それがこれほど明確になっている時というのは、今をおいてないのではないでしょうか?
表だけしか知らない人たちは、恐怖と信ワク(と言うのか推ワクと言ったらいいのか)の中で動いている。裏まで知った人は薬害に目覚め、その危険を何とか衆知させようとするのですが、表しか知らない人たちからは反ワクのレッテル貼りをされ互いに非難応酬する事態となっています。さらに影まで知った人は、ここに製薬会社と政治の利権を見て、それを糾弾し裁判に訴えかける方向へと進んでいる。
しかし闇まで知った人は、それらがWHOを含む世界的陰謀であって、「沸く珍」なるものは生物兵器であったということに気づいた。そして、その背後にはごく一握りの大富豪たちがいて、世界中の政府とメディアがことごとく彼らに操られていたということにも。さらには、そうした新興財閥の元締めには、中央銀行制度を創ったロスチャイルド家やロックフェラー家、サウジ王家、その他のブルーブラッドたちがいて、イルミナティの歴史につながっていく‥‥。
とまあ、そんな具合ですから、こんなにも認識に差のある上下間で話が通じ合うわけがありません。みんなが、それぞれの理解の範囲内で思考を巡らしているだけで、そこをブレークスルーしていこうとする人は殆どいない。そのため、それぞれの段階から一つ奥に入ると、もう「はあ? なんじゃそれ」ということになってしまい、せせら笑うか、頭のおかしい奴のレッテルを貼って攻撃するようになっていく。
この多段階の構造の上に、いつものディープ・ステートの、敵対するAチームBチーム双方に工作を仕掛ける謀略が絡み、「旗」を振り回し拳を振り上げなければ気の済まない人たちが、この策略に乗っかってワッショイワッショイやるもんですから、もう世界はグッチャグチャでどうにもならない。ああ、こうやって人類というものは滅んでいくのかと、胸を痛めつつも(宇宙人的視点から?)興味深く眺めております。
ハッキリ言って、今の世界動向を「闇」のレベルまで見通す力のない人は、もはやこの先の激変に対処していくことはかなり難しいことになると思います。ネットで見つけた次の動画は、アメリカでいま何が起きているかを系統的に説明していますので、お時間がある時にご覧になってください。アメリカのことなど対岸の火事と思っていたとしたらぜんぜん違う。その成り行きは全世界に激震をもたらすことになるのですぞ。
https://rumble.com/volqy3-41325483.html
間もなく、人類を不条理に支配し続けてきた「闇」の長い歴史が幕を閉じます。「闇」という親亀がコケれば、その上に乗っかっていたものは、全部いっせいにひっくり返ってしまう。しかし、途中段階までの理解しかない人たちには、何が起こっているのかがサッパリ解らないと思うのです。大波がやって来た時には、こちらから波に突っ込んでいかなければなりません。慌てて舵を切って逃げようとしても、かえって波を横腹に受け、舟は大破してしまうことになる。
今になって、騙されたとか、政府やマスコミが打てと言うから打ったんだとか、専門家が安全だと言うから信じたんだ、と言い訳しても時すでに遅し。そもそも、政府や、マスコミや、専門家の言うことを「信じる」という姿勢自体がNGだ。そんなものは嘘をつくに決まっているじゃありませんか。そうするのが彼らの仕事なんだから。歴史を見なさい。どうして自分を信じないのか? 自分の命運を他人に預けてしまって、あとで「騙された」はないでしょう。
日本社会には「自己責任」というおかしな言葉が流通していて、「これは自己責任でお願いします」などと言っている。こういう注意書きがわざわざあるということは、責任の大半は自分以外の誰かにある、とみなが思っている証拠です。しかしこれは大間違い。自分の身に関係したことの責任は、すべてその人にある。他者責任など一つもないのです。なぜなら、人には「自由意志」というものが与えられているのですから。
行動の「選択」は、すべてその人の「自由意志」の行使によるものです。
どうして、このような世界的な陰謀が易々と成立してしまうのか? 何度も言ってきたように、騙す人間だけでは詐欺や茶番は成立しません。騙される人間の参加があって、はじめてそれが成り立つ。ということは、世界的な陰謀が成り立った背景には、今の人類には騙されることを好む体質(別の角度から言えば根本的欠陥)があるということです。地球人は「旗」と「杖」をどうしても捨てられない。つまり、何かへの隷属と依存です。
最近見たインターネットの動画で、ベルギーの臨床心理学者で精神科医のマティアス・デスメットさんという方が、現在の社会状況について非常に的確な分析をされていましたので、その言葉の抜粋を以下に掲載します。デスメットさんは、独裁政治と全体主義体制は、一見同じように見えるがまったく違うものである、と前置きした上で次のように語りました。
「私たちがいま経験しているのは、民主主義モデルが、技術官僚モデルに取って変わられようとしていることです。全体主義体制の初期段階において心理的なレベルで起こることは、 ハンナ・アーレントが非常に示唆的な言い方で「エリート層と大衆の間の悪魔的盟約」と呼んだものの出現です。
社会の指導部であるエリートのかなりの部分と、国民のかなりの部分が、ある物語、あるイデオロギー、ある理論を狂信的に信じ込むようになり、 通常の倫理的境界線をすべて越えて、社会に容赦なくそれを押し付けることが、自分たちの義務だと信じるようになっていく。
そして、プロパガンダこそが社会をコントロールし続ける唯一の方法だと信じる政府やエリートと、強化プロパガンダに極めて弱い状態にある国民との組み合わせが、全体主義を生み出したのです。けれども、全体主義体制に賛同する人々やその体制を支持する人々でさえも、最後はみな全体主義体制の餌食になってしまうのです。」
要は、独裁政治は、独裁者が強権によって民衆を従えようとする(よって、民衆には不満が鬱積する)のであるのに対し、全体主義体制は、民衆が気づかないまま積極参加させられていくことによって成立する、と言うのです。まさに、コロナにせよ、地球温暖化と温室効果ガスという物語にせよ、それを「正しいこと」と「信じ」て、熱心に推進する人たちの「旗」振り活動により、全体主義体制が強化されていっているのです。
ああ、哀れなり羊たち。そして牧羊犬となることを名誉と思う馬鹿どもよ。
しかし、こうして旧人類が滅んでいくことになるのかと思うと、とても感慨深いものがあります。この、宇宙でも稀な大変革の時期を、自分が体験できることの巡り合わせに感謝です。ああ、そうなんだ。実にシンプルなことだったんだ。イルミナティと言ったって大仰に見せていただけだったんだ。所詮は「カネ」で、実体はショボイものだったんだ。ということが解って、半ば拍子抜けしつつも、因果応報の「宇宙の法則」には大いに納得がいったのでした。
そして10月7日、ついにイスラエルにおいても戦端が開かれる事態に。有る魔下ドーン。が、この血生臭さは、いよいよ終焉に向かっているという証拠。さて東アジアの地にもこれが飛び火するのかどうか? しかし、コロナもウクライナも決着し、金融も裏ではほぼ決着した。ということで、あとは、生き残る者たちがアセンションに向けて、素晴らしい未来を一緒に創造していくだけ。地球が、牢名主が支配する「監獄惑星」の地位を脱し、次の進化の段階へとジャンプする時がいよいよ来たのです。
この度の決着は、地球人類を次のように分けました。先ず生物的には、生き残るDNAと今後消滅するDNA(消滅していく血族)とが分けられた。そしてもう一つ、この機会に霊性のステージを上げた「魂」と、上げられなかった「魂」とに分けられた。この結果、これ以降の地球人類は、生き残るDNAを持った身体に、ステージを上げた「魂」が転生して来ることによって、これまでとは違った人類へと入れ替わっていくのです。
『アセンション 宇宙からのメッセージ』をお読みになった方は、たぶん次のくだりを思い出されるのではないでしょうか。〈悪い宇宙人の遺伝子操作によって、切断されてしまった第六感以上のセンサーを、これから修復していかなければならない〉と書かれてあったことを。問題は、どうすればそれが修復できるかということです。私にも、当初はこれが分かりませんでした。ただ、「瞑想」はその一つの訓練になるだろうとは思っていましたが。
しかし、プランデミックで投入されることになった「沸く珍」が「mRNA」という新しい遺伝子操作技術によって作られたものだと知ったとき、すぐにピンときたのです。始まりが遺伝子操作なら、ああ、終わりも遺伝子操作なのだなと。「人類削減計画」のことは知っていましたので、この「沸く珍」が決定的な役割を果たすだろうことは容易に想像できました。しかし同時に、これが人類の変容を促すことにもなるだろうと直観しました。
プランデミックによる分断の結果、生き残ることになるDNAは、直観の働いた人か、賢者の子孫ということになり、一方、消滅するDNA(消滅していく血族)は、悪人、愚者、為すべきことを為さなかった人、唯物論者に集中することになったのです。悪人は狡猾ですので、他人には「沸く珍」を奨めながら自分では接種していなかったりするのですが、悪事がバレたあとで処刑され消滅させられていきます。
ということで、あと何代かする間に、第六感以上のセンサーを持つ人間の割合がしだいに増えていき、さらにこれらの人々が交配して子孫を産むことによって、のちの人類は第六感以上のセンサーがどんどん強化されていくことになるのです。
さて、このようなことを書くと、血も涙もない人間のように思われるかも知れませんが、私なりに警告は何度もしてきたのです。けれども、私ごときの言葉では、残念ながら人々のもとには届かないのです。それと、いまの大方の人々の価値観においては、「生きるか、死ぬか」がいちばんの問題となるのでしょうけれど、私はそれらについては殆ど関心がないのです。関心の矛先は、もっぱら「どう生きるか」「どう死ぬか」という点に向かっている。
「生きるか、死ぬか」は、自由意志とカルマの関係によってほぼ決まるのであり、それよりも、そのときの「意識」のあり方が重要であると何度も言ってきました。たとえ死ぬことになるにせよ、死に逝く「意識」のあり方のほうが大事だということです。すべてに絶望して死ぬのか、憎悪の念を抱いて死ぬのか、それとも自分のこれまでの生き方を振り返り反省して死ぬのか、あるいは希望を胸に抱いて死ぬのか。
なぜなら、それによって、死後の行き先というものが決まってしまうからです。輪廻転生のメカニズムを知らない人、人生は一度きりだと思っている人、死んだら無だと考えている人たちには何を言ったところで仕方がありませんが、少なくとも自分が霊的存在だと自覚している人には、今の時期の「意識」のあり方が、その後の自分の生き場所を分けることになる、ということを知っておいていただきたいのです。
これは、「脅し」と捉えられると困るのですが(むしろ「救い」なのですが)、消滅するDNAを持ち、今世で霊性のステージを上げることが出来なかった「魂」は、アセンション後の地球にはもはや転生して来ることが出来ません。その代わりに、現在の地球と同程度の霊的バイブレーションを持つ別の惑星に転移させられます。そして、そこでまた霊的学習の旅を続けることになるのです。
このことを、前々回、アラン・カルデック氏の予言を通じて示唆しました。が、これを書くにあたっては、タイミングをかなり熟慮しました。あまり早い段階で語っても、違和感があり過ぎて理解されないでしょうし、場合によっては怒らせてしまう人が出てくるかも知れないからです。また、徳性の低い人に悪用されてしまうかも知れません。しかし、自分のメッセージが届かないことには自信を持った (・–・;)ゞので、決着が見えてきた段階で掲載しました。
そこで今日は、その上にもう一段の「神秘」をお知らせしようと思います。これも、このタイミングでお知らせするのが相応しいであろうと考えたからです。神秘学で言う「秘」は、別に「秘密」という意味合いなのではありません。宇宙には「秘密」などないのですが、その情報にアクセスできる人が極めて少数に限られるということと、普通の人には理解するのが難しいという意味で「神秘」と言っているのです。
また、この難しいという意味も、決して「難解」というわけではなく、話自体は非常に簡単なのです。がしかし、地上に暮らす人間の常識や、宗教観や、論理構造の範疇からは逸脱しているために、容易には受け入れることが出来ずに難しいと判断されてしまうのです。もっともそれ以前に、殆どの人からは「価値なし」と思われて、無視されてしまうのですが‥‥(⑉・̆-・̆⑉)。しかし「なぜ?」という希求が止まない、ごく少数の人に応える意味で以下を記しておきます。
冒頭に記した、表 → 裏 → 影 → 闇 → 魔、という構造。「闇」まではすでに記したのですが、最後の「魔」とは何を意味するのだろう?と、きっと探究心旺盛な人は思われたことでしょう。またその人は、これまでに一度ならず、次のような疑問を持たれたことがあったのではないでしょうか? 「神」は全知全能と言うが、もしそれが真実だとするならば、なぜ「神」は「悪」の存在をお許しになっているのか?
気の早い人は、そこで「だから『神』などいない」という結論を出してしまいます。そしてまさに、それと同等のことがイルミナティの成立論理だったのです。つまり、イルミナティが為す「悪」は、「神」に対抗する「悪」ではなく、「神」そのものの否定なのです。しかし、多くの人はそれを解っていません。そして、悪魔教とか、サタニストとか、ルシファー信仰とか、バフォメット崇拝などというレッテル貼りをしている。
そうした儀式を、彼らがしていないとは申しません。やはりシンボリックな儀式はしているのでしょう。あれも、そしてあれも。しかし、そうした点ばかり強調するのは、そのようなレッテル貼りをする人間たちの中に、自分たちは「神」の側に立っている、という思い込み(また、そう思いたい気持ち)があるのです。実に、アメリカから、こうした情報が怒涛のように押し寄せて来るのには困ったものです。これは、中世キリスト教が西洋社会にもたらした最悪の残滓です。
「善」が「悪」に勝利するという図式を持ちたいという気持ちは解ります。しかし、その図式に守られて、でもやっていることは、「善」も「悪」も両者がピストルを持ち、互いに相手側をぶち殺している。それを、「スピリチュアル」を自認する人たちが、ホワイトハットとかライトワーカーと言って興奮しているのですからまったく始末に終えません。
「スピリチュアル」という言葉には何の罪もありませんが、今や穢れに穢れてしまい、私は「スピリチュアル業界」というものが大嫌いになりました。「NESARA/GESARA」なんて、5年以上も前から、来週から始まる、来月には開始される、月末には通貨リセット完了、などと言い続けて、その度に予言を外し、しかもその謝罪もなく、いまだにこうした与太話を言い続けています。
まったくもって、真の「スピリチュアル」を知らないというか、そういうイタズラ好きの悪霊に自分が操られているということにすら気がついていないのです。高位の存在は、人々を脅したり、興奮させたり、嘘をついたり、騙したりすることは絶対にありません。そんな段階をとっくのとうに卒業しているからこそ、いま高位にあるのです。
「天使」と「悪魔」との戦いとか、「善神」が「悪神」に勝つという図式は非常に解りやすいし乗りやすい。しかしそれでは、「悪魔」は誰が創造したのか、「悪神」は誰が創造したのかという話になって、論理に矛盾が生じてしまいます。宇宙の創造者は誰か?ということをどこまでも追求していったら、必ず一者(Oneness)に帰趨する。このような当たり前のことに、なぜ人々が気づかないのか。なぜキリスト教は誤魔化し続けて来られたのか。
天が(神が、と言ってもいいですが)人間に与えてくれたものは、究極的には次の二つの法則です。一つは「自由意志の原則」であり、もう一つは「カルマの法則」です。「カルマの法則」は「因果の法則」と言ってもよいのですが、「因果の法則」よりはもっと広い概念(輪廻転生に跨がる)を含みます。しかし西洋では、これを「罪と罰」という概念に置き換えてしまったのです。その原因は、輪廻転生を認めなかったのと、「神」を人格的存在としたためです。
確かに、そこで起きる現象は「罪と罰」に見えないこともない。けれども「罰」と言ってしまうと、では誰が「罰」を与えるのかという話になり、「神」が「罰」を与えるという結論に至ります。ところが、そうするとまた矛盾が生じてしまいます。あれ、「神」は全知全能の存在ではなかったの? その「神」が、なぜ「悪」を創り、のさばらせた挙句に「罰」を与えるの? いったい「神」は何をしたいわけ?、と。
この矛盾を、ウォルシュさんの『神との対話』では、〈神が右手で左手を叩くと言うのか〉と言って表現したのです。
宇宙には「罪」も「罰」もありません。しかし「カルマの法則」は、絶対不動のものとしてある。つまり、一見「罰」のように見えるもののジャッジは、すべて本人自身が行っている、ということなのです。自分以外の何者も、本人に代わってジャッジはしない。その人の、ただ今この瞬間の「意志」の行使が、すでに将来の「カルマ」の応報を育てているのです。ですから、「今ここ(Be here now!)」を大切に生きなさい、ということが繰り返し説かれて来たのです。
そして、この「自由意志の原則」というものは、すべての霊的存在に与えられている。そこに一つとして例外はありません。つまり、邪悪な人間にも、自己の「意志」の自由な行使と個性とが認められているのです。But、「カルマの法則」は絶対だよ。善因善果、悪因悪果だからね。その法則の上に立ってどうぞご自由に生きなさい、というわけです。ところが、邪悪な存在たちというのは「神」そのものを否定しておりますから、そのような忠告もまったく耳には入らないのです。ああ、哀れなり。
さて、この話にはさらに奥があります。ピン!と来た人はいるでしょうか? これを聞いたら、「なるほど!」と思う人と、「えっ!」と卒倒する人が出てくるでしょう。
なぜ「悪」がのさばっているのか? なぜ「神」は「悪」の存在をお許しになるのか? これは、「善」と「悪」の戦いという話に繋がるのでもなく、ましてやイルミナティの「神」そのものの否定、という話が出口になるわけではありません。
「神」は「悪」を使って人類の進化を促す、という話がその答えなのです。
「神」を否定することなどできません。だっているんですから。悪魔信仰などを行なっても無駄。すべてが「神」の手の内にあって、ご計画どおりに転がされているだけということなのです。なぜって、そのような邪悪な放蕩息子たちを生み出したのも、また「神」なのですからネ。すべての存在が、「神」にとっては愛しい我が子なのです。さて、あなたは「なるほど!」と膝を叩いたでしょうか、それとも卒倒したくちでしょうか?
そんな話のどこに救いがあるのか?と思われる方もきっといらっしゃることでしょう。でも、これ以上の救いはないじゃありませんか。ですから、このブログでは、「あなたは最初から救われている」と何度も言ってきたのです。
「天使」は「悪魔」と戦ったりはしません。なぜ「天使」が戦わなければならないのですか? そんな存在が「天使」であるはずがないじゃありませんか。「天使」は、いつも「悪」に染まった人間たちを助け出そうとしてくださっています。ただ、悪人たちが、なかなか聞く耳を持とうとはしてくれないのです。「天使」たちも苦慮しているのですが、どうにもなりません。「波動」があまりにも違い過ぎて、コミュニケーションの一致点を見い出しにくいのです。
むしろ、邪悪な存在を救い出せるのは、彼らと近い領域に存在している、地上に住む我々なのです。地上の人間でなければ救えないのです。「天使」たち高位の存在は、そういう人間たちが登場して来ることを日々待ち望んでおられます。そこで、これを読んでくださっているみなさんにお願いしたいのです。これから次のことを心がけるようにしてください。
すべては「波動」です。邪悪な存在に、敵意や憎悪を向けないでください。また、彼らを怖れないでください。「魔」に防御姿勢をとっても意味がありません。「意識」に壁が築けるわけではありませんから。そんなことをすればするほど、逆に波長が合って、「魔」の侵入を許すことになってしまいます。「悪魔」とは、自分の中の「悪」に同調する心なのです。その集合体が「悪魔」的領域を創るのです。ですから、全員が同調を止めれば、地球の圏内から「悪魔」は消滅します。
しかし、今この「真理」を説いたとしても、影響力は殆ど持たないことでしょう。やはり地上では、「善」が「悪」を懲らしめるという図式で、この転換期が進行していくことになるのでしょう。今の地球人類の段階においては、それも致し方ないのかも知れません。
でも、みなさんは、50年後、100年後の世界を思い描いて行動してください。「悪」を消滅させようとして戦っても、またそれが「悪」を生んでしまいます。ご覧なさい。いまイスラエルのガザ地区で展開されている激しい憎悪の応酬を。この地に残るカルマが、21世紀の今も消えないのです。まったくもって、宗教というものはロクなものではない。
「悪魔」とは、自分の中の「悪」に同調してしまう心のこと。「悪」を滅ぼすためには、自分の意識を上昇させて、心の中から「悪」を追い出し、「光」を発する以外に手はないのです。
あなたには、どうかそのような存在になっていただきたい。そういう人を、本当の「ライトワーカー」と言うのです。
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