by Rainbow School
<< January 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 脱出したいのなら、なぜ自分を救ってあげようとはしないの? | main | 良い人になることで乗り越えようとしても上手くはいかない >>
Jump --- 次元を超えた飛躍めざして

このブログを訪れてくれる人はみんな、自己の霊的向上を目指そうと、日々努力されている方たちだと信じています。それは、「魂」に誕生前からインプットされていた行動原理ですので、心を落ち着かせて、素直になって、自分の内面を静かに見つめれば、誰もが、自然にそうした欲求を抱くようになっているのです。ですが、残念なことに、「光への道」を極めんとする人は、いつの時代でも極く極く少数でしかありません。

 

どうしてそうなってしまうかと言いますと、人間は、エゴをなかなか手離せないからです。大我に至らんと欲すれば、小我は捨てなくてはなりません。両者はトレードオフの関係なのです。ところが、人間は生まれた直後から、エゴへの道をひた走り始めます。そのように、社会が出来上がっていますし、あらゆる場でそれが推奨されていますし、親や教師もその道を行くことを強く願うからです。

 

*大我:=大霊=神。大我に至るとは、その意識と自己とが一体となること。

*小我;=自我=エゴ

*トレードオフ;片方が増えれば、もう片方が減るような関係。

 

その結果、エゴを前提に生きることが半ば常識化、習慣化してしまい、もはや誰も、それを「捨てる生活」というものがイメージできません。宗教界や精神世界ですら、エゴをくすぐること(幸運が訪れる人生や、この道だけが唯一最高の道)をエサにして、信者獲得を図っている始末です。

 

そのような状況ですので、エゴをなんとか手離そうと、地道な努力を続けている者は、周囲からは奇異な目で見られ、きっと肩身の狭い思いをしておられることでしょう。あるいは、そんな段階はとうに卒業して、我関せずとばかりに、大らかに、自分の道を歩んでいる方も、中にはおられるかも知れませんね。

 

そこで、友よ。あなたは決して一人ではないということに確信を持っていただきたいのです。同じ道を極めんとする真の友は必ずいます。すぐそばにはいなくても、このメッセージを通じて繋がっている友はいるのですよ。ですから、忍耐、忍耐。今は、中世の時代のように、異端のレッテルを貼られて処刑されるようなことはありません。目立たぬように、ひっそりと、己が道を歩きなさい。

 

エゴは、あなたに幸福感と満足感を与えます。ですから、その誘惑を、みな直ぐに信じてしまいます。まるで、巧妙な詐欺にあうようなものです。しかし、この幸福感と満足感は一時的なものであって、決して長続きはしません。一時的な幸福感が過ぎ去ってしまうと、それを再び味わいたくなって、あるいはもっと強く味わいたくなって、自分のエゴをさらに強化していく道へと人は進むのです。その一方で、一度得たものを失いたくないという恐怖心が首をもたげて来る。

 

人間の「悩み」の大半は、結局、これが原因なのです。自分の欲で、自分を苦しめている。それが、お金であっても、財産であっても、地位や名声であっても、名誉や栄誉であっても、恋人であっても、パートナーであっても、自分の子どもであっても、みんな出所は同じ。欲しいという気持ちと、得たものを失いたくないという両方の気持ち。これがある限り、生涯「悩み」は消えない。

 

誰かに自分の「悩み」を打ち明ける。カウンセラーや精神科医に自分の「悩み」について相談する。そうすることで、一時は気持ちが楽になったり、悩みが解消されたように感じることもあるかも知れません。しかしそれも、幸福感や満足感と同じで、やがては過ぎ去ってしまいます。そしてほとぼりが冷めると、その人はまた、自分のエゴをベースに、「悩み」を創造(クリエイト)することになるのです。人の一生は、その繰り返し。

 

ですから、その繰り返し状態から完全脱出するためには、自己の底辺に流れている、このエゴという川から外に出なければならないのです。エゴの川にどっぷり浸かっている限りは、そこでどんなにもがいたとしても、その流れの強さにたちまちにして押し流されてしまう。そこで、川から出て、陸に上がるということが必要になって来るわけです。それが「捨てる」ということ。川を離れるということです。

 

でも、エゴという川を捨てて陸に上がるためには、その前に、自分はいまエゴの川の中に浸かっている状態にあるんだ、ということに気がつかなければなりません。先ずそこに気づかなければ、出ようがない。結局、これがみな分からないのですね。川の中にいる人にとっては、そこがむしろ陸地に見え、陸の方が、落ちたら死ぬかもしれない危険な川に見えるのです。そこで、あっち側に一歩を踏み出すことをみな躊躇する。

 

ですから、ハイ・ジャンプが必要なのです。思い切って、ポーンと踏み出す勇気。とにかく先ず陸に上がってみる。しのごの言わず、先ず上がる。上がった直後は、服もまだビショビショに濡れていて、しっくり来ないかも知れません。でも自分の姿をじっくり観察してみれば、服の袖や裾から、エゴの滴がポタポタと落ちて行くのをあなたは目撃するはずです。そうして、服があらかた乾くようになるまでには、数年を要することでしょう。いやもっと、数十年かかるかも。

 

でもね、ここが肝心。最初の一歩がなければ、その後だってないのですよ。とにかく、第一歩。Jump、Jump、Jump! だから、思考をやめるのです。判断をやめるのです。他者にお墨付きを求めようとするのをやめるのです。損得勘定をやめるのです。アクセルとブレーキを一緒に踏むクセをやめるのです。過去を振り返ったり、将来を考えることをやめるのです。

 

今ここ。今ここのあなたがすべて。

そしてこの瞬間が、あなたを変えるパワーポイント。

 

「私は自由だ!」と叫びなさい。そしてジャンプするんです。

そこから、あなたの見る世界が変わる。

やがて何もかもがひっくり返る。まるでメビウスの輪のように。

表が裏に、裏が表に。

 

いつまでも川の中にいて叫んでいるようじゃあ、真理には到達できない。「光への道」へは進めない。なぜなら、川の流れ、つまりこの世で定めたスケールの中でしか、その人は動けないのだから。

そんなものじゃないのですよ。そこでは、次元を超えた飛躍が待ち受けているんです。常識人には、その飛躍の意味が解らない。

 

この『気づきの啓示板』では、信仰や戒律を否定しています。倫理、道徳も、そんなものは不要だと言っています。なんでもありだ、自由なんだと言っています。信仰の貴さを説いたり、倫理、道徳の必要性を説くのは、まだ川の中に浸かっている者たちの論理。その段階も経なければ、人類は気づけないのかも知れません。けれど、「光への道」は、その次元を、超越したところにあるのです。

 

本当にジャンプしてしまえば、真理をつかんでしまえば、そんなものは一切不要だということが解ります。なぜなら、大我=神我というものは、そもそもそうなのだから。あれこれ屁理屈も不要。しかし、屁理屈が不要ということを知るためには、先ず屁理屈をこね尽くさなければならない。次々と湧き上がる問いに答えを見い出さなければならない。それはちょうど、自分探しの旅は本当は必要なかったんだということを知るために、わざわざ長い旅に出ることと同じです。

 

次元を超えてジャンプした者の行動は、完全に道徳的なものになるし、その人の在り方は、宗教信仰者よりも信仰篤い人のように映ることになる。また、内なる声に従うことを徹底して生きる寡黙な人は、誰よりも強い信念を有する人に見えることでしょう。でもそれは、その人が、倫理的、道徳的であろうと努力しているわけではないし、特定の信仰心や信念を持って生きているわけでもないのです。

 

すべては自由。ただ、ありのまま。

 

同じように、利他だ、支援だと言っているうちはまだまだで、すべては自分のためにやっている、誰のためでもなく天に奉仕している、と極めて利己的に語る人の方が、真の奉仕とは何かということをずっとよく解っているのです。けれども、人々には、それが理解できない。エゴの川に浸かり続けている人には、そのスケールでしかものを見れない人には、ただの奇人変人にしか見えない。だから、そういう人には異端者の烙印を貼って、投獄するか処刑して来たのです。

 

ところがそれも、一度権威づけが為されれば、まるで手の平を返したように態度が変わる。その者は、神の代弁者だから絶対だとか、言行録に書かれてあることは全て正しい、などと言い出す。そして、今度はそれを疑う者たちを許さない。結局、大衆が求めているのは、いつの時代でも「権威」なのであって「真理」ではない。そのエゴの心理につけこんで支配を目論む者たちがいることに、人々はまったく気づかないのです。

 

だからね、「言葉」じゃないんですよ。言葉に惑わされる人が時々いますが、そうじゃないんです。「信仰」が大切なのか、不要なのか。「信念」を持つということが貴いものなのか、忌むべきものなのか。そんな議論など、どうだっていいんです。言葉は、単なるレッテルに過ぎない。問題は、その中身です。ホンモノには次元を超えた飛躍があるのですよ。

 

自分を縛り付ける、あらゆるものは不要なんです。ただただ素直で自由であればいい。それだけのこと。でも人間たちは、それでは決して満足しない。ありとあらゆる機会を通じて、自らを縛る方策を考え出す。そして、他者を縛り、自分も縛って、それによって互いに苦しみ、憎しみ合う。ああ、なんてお馬鹿さんたちなのでしょう。「今ここ」でジャンプして、宇宙に、このわたしに身を預げればいいだけなのに‥‥。

 

「気づき」の体験は、あなた固有のもの。他の誰にも、そこには介入できないし、まとめ上げて組織化することも出来ません。ですから、「この道しかないぞ、こっちへ来い」と主張する者はすべてニセモノです。どんな道だってあるんです。だから、もう、誰かに判断を仰ごうとすることはおやめなさい。あなたは、あなたの道を行きなさい。自分を信じて、自分の声に耳を傾けて、堂々と、力強く歩きなさい。

 

頂きは一つ。どんなルートを通っても、最後には到達するのです。

最初の一歩を、あなたが踏み出しさえすれば。