by Rainbow School
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食の大切さ、その奥にある深い意味

スーパーに行くと、小アジを詰めたパックが、「唐揚げ用」という表示を付けて安く売られていました。私はドがつく貧乏人ですので、目ざとくそれを買ったのですが、買いながら(今時こんなものを買う人は、居ないだろうなぁ)と思いました。家庭に出刃包丁がないでしょうし、ぜいごの取り方も知らないでしょうし、揚げ物もしないでしょう。

 

もう「料理」以前の問題で、その前提が崩壊してしまっている。出刃包丁を持っていなくちゃ魚は下ろせないですが、出刃は鋼ですから、しょっちゅう研いで手入れをしていないと直ぐに錆びてしまいます。その砥石も、今の家庭には無いでしょうし、刃物の研ぎ方だって知らないでしょう。でもね、わずか50年前は、そうしたものが各家庭に当たり前にあったんですよ。

 

インターネットを見ると、たくさんの料理レシピが載っています。ですがどれも、基本を無視した「なんちゃって料理」ばかりで驚きます。(ああ、これが今の人の普通の感覚なんだろうなぁ)と嘆かわしくなるし、これでは現代人の「心の問題」など、永遠に解決しやしないだろうなとつくづく思います。う〜ん、こんなこと言ってる私の方が、時代遅れの浦島太郎なんでしょうかねぇ?

 

私は、マクドナルドのハンバーガーというものは、むか〜し1回食べたことがあるだけ。コンビニ弁当というのは2回くらいあるかな。それは何かの会合で、他の人が買って来たものを「要らない」とは言えなくて、仕方なく食べました。レトルトとか冷凍食品とか「なんとかの素」の類は一切使いません。毎食、ささやかなものですが、自分で作って食べています。

 

先日、あるお母さんから聞いたのですが、小学生の息子さんが野球部に入っていて、次期卒業生のお別れ会があったんだそうです。そこで、親御さんたちが集まって食事を何にしようかという話になり、コンビニ弁当という案と、カップラーメンという案が出て、さすがにカップラーメンはないだろうということで、コンビニ弁当に落ち着いたと言うのです。

 

いやはや、もう私の想像を超えておりますな。私の中では、エプロンをして、お母さんたちが一緒に楽しそうにカレーライスを作っている姿が浮かぶのですけれどねぇ。そうすれば、子どもたちも匂いに惹かれて集まって来て、楽しく食事が出来ると思うんですけれどねぇ。いったいどうして、こんなことになってしまったんでしょうねぇ?

 

たぶんそれは、そうするのが面倒くさいというよりも、自分の調理技術のなさを他の人に知られるのがイヤで、お互いに牽制し合った結果、落とし所をそこに求めたのでしょう。日本人が伝統的家庭料理を捨ててから、二代、ないし三代が既に経過しています。核家族化の影響もあり、家庭の味の伝承がとうについえてしまって、もう戻れるところがありません。

 

同じ豊かな食文化を持つイタリアが、ファストフードの入国を拒否して、マンマの味をまんま守ろうとしたのに比べて、日本人は、まあなんとあっさり自国の伝統文化を捨ててしまったのでしょうねぇ。アメリカ文化を有り難がって、アメリカ流のプアーな食を真似して、それがおしゃれだと勘違いして、子どもたちをその習慣にすっかり馴染ませてしまいました。

 

今や “家庭”料理は「外食」でしか味わえないという、笑えない冗談みたいな時代になっちゃった。

 

それでいったい、何を代わりに得たのでしょう? 食事を作らなくなって、自由に使える時間が増えましたか? FFやコンビニがあるので、お弁当や水筒を持たなくても済むようになりましたか? 家族団欒はチェーンの居酒屋や回転寿しで出来るし、後片付けもしなくていいし。便利な世の中になって、本当によかったですねぇ。で、あなたは何を得ましたか?

 

病院の関係者から、今の恐るべき実態をお聞きしました。入院患者の食事は、外部の納入業者が運び込んで、病院側はただそれを温めるだけなんだそうです。栄養士はいろいろ計算しているのでしょうけれど、食べずに残す人がいっぱいいる。そりゃそうです。私はまずあのプラスティクの器がダメ。見ただけでげんなり。職員は、医師も看護師も時間に追われて、コンビニ弁当やカップラーメンが当たり前なんだそうですよ。

 

毎日の、家庭の食事や、団欒の場が崩壊していても、そこに危機意識を持たない。それどころか、忙しさを言い訳にして、さらなる崩壊の道を突き進んで行く。そして、その穴を埋めるように、健康食品の情報だけはやたらと詳しくなって、あれがいいとか、これがいいとか、ダイエットだとかと言って騒いでいる。何かが、根本的に間違っているとは思いませんか?

 

自然界に暮らす鳥を見てください。親鳥が雛に餌を与えるのは当たり前です。人間は、それをより美味しく、楽しく、また食卓に集う人が分かち合って食べられるようにと工夫し、各地固有の文化にまで発展させて来ました。その食文化を、現代人は、作るのが面倒くさいと言ってあっさり捨てたのですからね。もはや「生きる」意欲を見失ったとしか思えません。

 

子どもの頃に、家庭の味をしっかり覚えた人は、大人になっても決して身を崩すということがありません。どんなに辛い目にあったとしても、ギリギリのところで踏ん張れるのです。それは「家庭の味」というものの記憶が、体に刷り込まれているから。手作りの、我が家の味こそが、その人にとって、親から確かに「愛されていた」という自信と証明になるのですから。

 

愛のこもった食事。それは、ただのエサとは違うのですよ。そう聞いても、信じられないでしょうね。食べ物は食べ物だ。手作りであろうが何であろうが違いやしない。重要なのは成分だ、栄養価だ。それが今の風潮であり、主流の考え方です。いや、それ以上に、空腹を満たせればそれでいい、と考えてる人だって大勢いる。

 

でも、大切な点は、そこじゃないのです。人間にとって、食は確かに大切です。でもそれは、みなさんが考えているように、物質的な側面だけからの話ではないのです。むしろ、物質的側面は、さほど重要ではないのです。と言ったら、驚かれるでしょうね。中には反発を覚える人もいるかも知れません。今の栄養学の常識とは掛け離れておりますから。

 

一日何品目食べろとか、手のひらに当てて量を計れとかの「栄養指導」なるものが盛んに行われていますが、そこに神経質になる必要はありません。身体というものは素晴らしい化学工場で、摂取した食べ物はみんな、分子、原子レベルにまで細かく分解し、自分の身体に必要な栄養素へと再構成してしまう能力を持っているのです。

 

ですから、動物は極端な偏食にも耐え得るし、だからこそ、人類も古代より生き延びて来られたのです。ご覧なさい。情報過多で、飽食の現代人の方が、よほど病気持ちが多いではありませんか。その病気を脅しにしてまた、あれを食べろ、これを飲めと、情報洗脳している輩がいることが判りませんか?

 

それよりも重要なのは、分子、原子の間にあるものです。分子、原子の間? そう、間。スキマです。あなた方は、物質が目に見えるものだから、いや物質しか見えないものだから、物質が確固たるもの、目の前の物質がすべてだと思い込んでいます。そしてそこから、あらゆる考えを構築しようとする。でも、その固い物質というものは、実はスキマだらけなんですよ。

 

水素原子を例にとると、中心にある原子核の大きさは、原子のおよそ10万分の1でしかありません。東京駅に直径1m大のボールを置き、これを原子核だと仮定すると、電子の軌道は、なんと100km先の銚子あたりということになるのです。つまりその間はスカスカ。ニュートリノの検出が困難なのはそのためです。ほとんどがその間を通り抜けて行ってしまうのです。

 

さらに言えば、(これは現代物理学ではまだ認めてはいませんが)物質というのは、空間の縄張り的主張なのです。宇宙のベースになっているものは、超ミクロの振動するエネルギーです。このエネルギーが、振動数を下げて行った時に物質化して素粒子となる。その素粒子がさらに集まって原子を作る。この時に、無時間・無空間の宇宙に「時空間」が主張(produce)されるのです。

 

ですから、喩えて言いますと、超ミクロの振動するエネルギーの海に、ダスト(埃)のような素粒子がプカプカ漂っているような状態です。海流に乗って流されて行く小さな木片思い浮かべてみてください。すると、このダストは、海の流れ、波の影響といったものを当然受けます。影響を受けるどころか、海流にほぼ支配されていると言ってもよいくらいです。さてここからです。

 

人間の想念というものは、非物質的なエネルギーです。ですから、この超ミクロの振動するエネルギーの海に、想念が溶け込むということになるのです。それらは同質のものですから。あなたの出す想念エネルギーが、あなたの周囲に、想念の海流を創るのです。ですから、食事を構成している原子のスキマにもそれが入る。食事の際に、人はそれらを一緒に頂くことになるのです。

 

さあ、そこで考えてみてください。栄養価はしっかり考えられているけれども、工場で大量生産された食事と、粗末だけれども、愛のこもった手作りの食事。そのどちらが、食べた人を癒し、喜ばせてあげられるのでしょう? 当然ながら後者です。何しろ、原子核の大きさよりも、スキマの方が遥かに広大なのですからね。

 

人は、どうしても物に惑わされてしまいがちです。ですが、目をつむって、物が一切無い世界に、いま自分は居ると想像してみてください。それが真実の世界なのですから。そうすれば、直ちに解ります。あなたが食べているものは何なのか? あなたが食べたいと欲しているものは何なのか? あなたを癒し、勇気づけ、健康で、朗らかな気持ちにしてくれるものは何なのか?

 

現代社会の破壊的構造は、こうした面がほとんど顧みられなくなっていることにあります。みんなが「家庭の味」を忘れ、エサを食べることをよしとし、エサを供給する産業が大手を奮い、その中に平気で身を任せている。それがどれほど、精神を荒廃させ、生きる本能すらも奪っていることか。見よ! プアーな食先進国アメリカの、人々の精神の荒廃ぶりを。そしてそれを後追いする日本を。

 

今や、心を病んだ教師たちが、次代の子どもたちを脅育し、矯育している。心を病んだ医師たちが、訪れる人を薬漬けにしている。そして、インターネット・ゲームという麻薬が、子どもたちを幼い時から重症の中毒者に仕立てあげる。その仕組みを作ったのは、それを「よし」とする前の世代の大人たち。そして、その大人たちを育てたのは、その前の前の世代の大人たち。その大人たちを育てたのは‥‥

 

地球人たちよ。いい加減に目覚めるのです。この壮大なカラクリに。カラクリを作り上げているものの根本的な理由(ワケ)に。

 

こんな状態で、傷ついた心が癒されるわけがないではありませんか。悩み、傷つき、病んだ人を救えるのは、テクニックなどではありません。ましてや薬などではない。一杯のスープ。温かな心のこもった食事です。そのベースがあってこそ、人は初めて、生きている実感、生きていることのありがたさ、他の人から支えられて自分もある、ということが解るのです。

 

社会の風潮に流されるままであってはいけません。便利を追求すれば、便利の奴隷に成り下がってしまいます。不便の中にこそ、工夫と楽しみがあることを知りなさい。大切なのは「意識」の自由なのです。人間は本来的にクリエイティブな存在です。表現せずにはいられない存在なのです。そこに、どうでもよいような便利の蓋を被せて、自分を檻に入れてしまわないようにしなさい。

 

あなたはあなたです。ご自分の才能をもっと活かしなさい。他者に認められようが認められなかろうが、あなた自身を生きなさい。それでこそ、生きている甲斐があるというものです。自由は、そのために与えられたのですから。