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「全託」ということについての誤解

自力が正しいのか、他力が正しいのか。一体どっちなのか? このことに迷った方が、少なからずおられるのではないでしょうか。一般社会通念としては、個人の生き方として、「他力本願じゃダメだよ」「自分の力でやるんだよ」と言われるのが普通です。ところが、宗教界の一部や宗教家の中には、まったく真逆の「他力」を力説する人たちがいます。

 

しかしこの考えは、一般社会通念とは真逆の思想なので、その高いハードルを打ち破るために、これこそが絶対なんだ、本当は正しいんだ、という意味を付け加えて「絶対他力」と言って強調する場合もあります。ある意味、これはコペ転です。この思想を、別の言葉で言うと「全託」ということになるのです。何もかも一切合切をお任せしてしまうということです。何に? 神仏に。

 

*コペ転(コペルニクス的転回):天動説から地動説に変わったように常識がひっくりかえること。

 

なぜ、そしてどこから、このような考え方が生じたのでしょうか? これは、宇宙と個人との関係を突き詰めていけば自ずと解ります。我々は誰一人、この宇宙から外に漏れ出てはいません。何もかもがこの宇宙の中にあるのです。では、その宇宙がどうして「在る」のか? よく分からないけれども、在るからには、創った「何ものか」がいるはずだ。それを、仮に「神」と呼ぼう。

 

というわけです。そうしますと、我々がみな宇宙の一員であることは否定しようがないわけですから、当然その「何ものか」、つまり「神」の手の内から出ることは絶対にない、という結論になるのです。筋斗雲に乗った孫悟空が、縦横無尽に動き回ったつもりであっても、お釈迦様の掌から少しも出ていなかったという、あれです。そこで、「全託」しておればよいという考えに行き着くのです。

 

ですから、これは論理的に言って正しいですし、間違ってはおりません。しかしその運用方法が、今日までの長い期間、間違って来たたのではありませんか、というのが私の主張です。

 

「全託」を説く人は、必ず「信仰」の大切さというものを強調します。両者はセットになっています。「信仰」の先に、一切合切を託せる存在としての「神(仏)」がいるのです。ですから、揺るぎない「信仰」であることが「全託」を保証する、という構造になっている。これは、宗教にとっては、もの凄い便利ツールと言いますか、求心力を支える土台になり得るのです。

 

しかしここで、前の回で言いましたように「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になる」ということが起きてしまうのです。この言葉の中には、「信仰」という語こそありませんが、意味しているところはそれです。私は、「全託」思想と、「信仰」の熱心さとは、似て非なるものだと考えています。ここには、巧妙なゴマ化しとすり替えがある。

 

どこにそれがあるかと言いますと、先ほども言いましたように、「全託」思想それ自体は論理的に言って正しいのです。ところが「信仰」は、「全託」する対象を、自分の外側に置いているのです。外に見出しているのです。外側にある「神(仏)」に、自分の一切合切を預けるという感覚です。ここで、ズレが生じてしまうのです。

 

「全託」思想そのものは、自分も宇宙の一員である、という一体(oneness)の発想から始まっていたにも関わらず、「信仰」する対象を外側に見出した途端、そこには一体ではない「分離」が生じているという皮肉です。しかし、そのことによって、より「神(仏)」に近づくモチベーション、すなわち「信仰」が強化される構造というものが創り出されたのです。そして、祈りや、礼拝、聖典読誦が奨励されました。

 

しかし、一体(oneness)の発想を突き詰めれば、自分は宇宙の一員なのですから、宇宙を仮に「神」と呼ぶのであれば、自分もまた「神」である、少なくとも「神」の一部であるという結論の方が、論理的には正しいということになります。そこから、自分に祈る、自分を信じる、自分の中にある神を見出す、という「内観」が誕生するわけです。

 

その結果、出発点は同じだった筈なのに、外方向と内方向とで、180度、「信じる」向きが違ってしまいました。これは、結果として、もの凄い違いです。なにしろ真反対なのですから。

 

最近、私のところに、キリスト教系の某教団の方が、二人で布教活動にやって来られました。お相手したくはなかったのですが、邪険にするのもなにかなと会話をしているうち、私はつい「神はここにいる」と、自分の胸を指して本音を言ってしまいました。すると相手は、一瞬(信じられない!)という顔つきをし、たちまちそれが酷しい目つきへと変わりました。

 

(このオッサンなに言うてんねん。神を冒涜するにも程がある!)と、その目が語っていました。だから、話をしたくなかったのに‥‥ネ。そりゃそうでしょうよ。「私自身が神だ!」な〜んて言ったら、狂人扱いされてしまうのは必定。私の内に神が在るというよりも、外側に神様がいると唱えた方が、普通の人の気持ちには、よりよくフィットしますからね。

 

なぜなら、完全なる(と信じているだけで、実は見たことがない)「神」と、不完全な「自分」とのギャップがあり過ぎですから。そのため、昔からこの説を唱えるグループは、「カルト」のレッテルを貼られ、正統派宗教からは疎外され、虐待され、ひっそりと地下活動するしかなかったのです。ですが今も、全世界に脈々とその流れを汲む少数グループが生き続けているんですよ。

 

でも、時代は変わりました。私の目には、既成の組織宗教が、もはや求心力を無くしているのが分かります。多くの人が、ただ惰性でやっているだけで、何かそこにしっくり来ないものを感じているのです。その証拠として、あっちでもこっちでも、内紛騒ぎが勃発しているでしょう。それは、今までのやり方が効力を失ったことを示しています。

 

自分の「信仰」の対象を外側に置く、ということをしておりますと、その「対象となるもの」の〈保持〉ということが問題になって来ます。なぜなら、その永続性が、「信仰」し続けることの意味、価値を担保しているからです。逆に言えば、万が一永続性が失われた時には、「信仰」の意味や価値のみならず、運営システムや教団までもが瓦解してしまうということです。

 

組織宗教というものは、常にそういう内患を抱えているのですが、教団が拡大基調にある時には、その勢いによってマスキングされ、その問題があまり目立たないのです。ところが、拡大基調が止まったり、頂点に立つ指導者が重病になったり、亡くなったりすると、途端にこの問題が噴出して来るのです。それは、永続性を担保していた大黒柱がグラグラと揺れ出すためです。

 

この時に、何割かの人は気づきます。自分の「信仰」というものは、砂上の楼閣に過ぎなかったのだと。しかし大多数の人は、引き続き「信仰」の対象を求めます。「信」を失ったら、たちまち不安に襲われるからです。この結果、組織宗教は必ず、血脈(けちみゃく)派と、大幹部派と、教典派に分裂します。永続性はDNAに引き継がれると思う人と、高弟に引き継がれると思う人と、人間ではなく「教え」にこそあるのだと考える人々とにです。

 

そして、もともと同じであったことゆえの近親憎悪を募らせ、互いに非難応酬し合うという、まあ、一体どこが宗教なんだという、浅ましい状態になって行くのが常なのです。結局、「全託」の対象を自分の外側に置いた結果、それを操る者に操られてしまうのです。しかし、「全託せよ」とにかく「信じろ」とずっと言われて来たわけですから、内部にいる者にはそれが判らないわけですね。

 

百歩譲って「信仰」を認めるとしましょう。でもその成果が、果たしてあったのでしょうか? ご覧なさい。世界中の争い事の多くは、過去もそして現在も、宗教が基になって起きているではありませんか。宗教は、明らかに失敗したのです。「確かにそういう面もある。でも、うちと他の宗教とを一緒くたにしないでくれ」ですって? そう、それ、それ。その発想が、もう「oneness」から外れているのですよ。

 

「全託」思想のもう一つの大きな欠点は、自分が行動しないことのエクスキューズに使われがちだということです。何かを自分で為そうということを止めて、お祈りと礼拝ばかりしている人がいるのです。「全託」が正しいんだ、「全託」でいいんだと思うから行動しない。行動しない自分をよしとする。それが習い性になって、もう行動することが怖くなる。そしてお祈りばかりしている、という人をよく見かけます。

 

そういう方たちに言ってあげたいです。何のために、あなたに「自由意志」というものが天から与えられたのかと。お祈りばかりしている人は、教団から見たらいい金づるでしょうけれども、それでは地球学校に生まれた甲斐がありません。自分の意思で考えて、発言して、行動して、体験するからこそ、地上に生まれ落ちた意義というものがあるのです。失敗を怖がっていては何も学習できません。

 

鎌倉時代に立宗され、今日まで続いている念仏系の宗教があります。この教祖たちは、凄いことを考え出しました。「全託」思想をさらに推し進め、ただ一本の念仏や題目をひたすら唱えるだけで、みな救われるんだと説いたのです。なぜなら、その言葉の中に、既に「衆生を救いたい!」という仏の想いが全部含まれているからだと言うのです。だから、これで救われないわけがない!、と。

 

それが本当だとしたら、もの凄いマジックです。当時としては、仕方が無かったのかも知れませんが、何という論理のすり替えでしょうか? しかしこの単純さは、爆発的な信仰者を生みました。けれども、今の時代に、ロボットだ、AIだ、遺伝子操作だと言っている時代に、まだそれを、あなたは信じられるでしょうか? それで本当に救われ、不安も解消し、ハッピーになれるのでしょうか?

 

頼れるものを、自分の外側に探し続けているから、自分を信じられないのです。自分を信じられないから、不安が拭えないのです。不安が拭えないから、信じられるものを外に探して、また行脚を続けるのです。そうして、同じところをグルグル、グルグル回っている。何度、転生を繰り返しても。「信仰」が安心をもたらしているように見えて、実は不安から発し、それをより強化しているのです。

 

この方たちは「全託」を誤って解釈しています。「全託」というのは、何もしなくていい、ただ身を任せてお祈りしていればいいということではないのです。何のために地上に生まれて来たのか。そこは、自分の意思をしっかり持って、行動するところです。「全託」するのは、その後のこと。悩み事や不安は全部預けてしまう。やることをやって後の結果は考えない。その後は全てお任せする。それが「全託」です。

 

自力が正しいのか、他力が正しいのか、という二者択一ではないのです。両者は一つ。一つになった時が「全託」。そこを間違えないでくださいよ。

 

「全託」というのは、「自我」の放棄なのです。自分の中の「自我」部分をポーンと捨ててしまう。「自我」を捨てれば、「真我(本当のわれ)」が奥から顔を出し、ついには「神我」と一体となってしまう。この状態が「全託」ということです。それなのに、みんな逆をやっている。自分の願い事(つまり「自我」意識)を、向こうにいる「神(仏)」に一生懸命ゆだねようとしている。

 

これでは真逆です。気持ちは解りますよ。みんな「悩みから解放されたい」と口では言いながら、それを手放さずにしっかりと抱えようとしますしね。その一方で、自分の願い事(自我)のために「神(仏)」を利用しようと考える人の何と多いことか。中には、その秘策を伝授してやるというスピリチュアリストまでいるのですからね。いやはや。何もかもが逆。

 

いいですか。神性は、既にあなたの中にあるのですよ。いや、すべてのものにあるのです。でも、それを見えなくしているのが、あなたの「自我」なのだということ。やることはやりなさい。やるだけやりなさい。直感に導かれて。そして「自我」を上手にコントロールして。その後はゆだねなさい。結果を心配しないで。どんなことも受けとめて。それが「全託」です。

 

「全託」とは、完全なる奉仕の人となった、その際の生き方なのです。