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無知と無智

無知と無智。この漢字を、私は意識的に区別して使っています。知識のないことが「無知」、智慧のないことを「無智」というふうに。言語学的にこの定義づけが正しいというわけじゃないのですが、一応、私の中ではそのように区別しています。なぜかと言うと、この二つが意味するものは、一見同じように見えて相反する面があるからです。

 

私が「無智」と書いていた場合、それは知識がないと言っているわけではありません。もちろん小馬鹿にしているわけでもありません。「無智」というのは、それを知らないということではなくて、「智」が「無い」状態にあるという意味です。「智」というものは、知って解るというものではありません。その人の中に「在る」のか「無い」のか、「内在する」かどうかという問題なのです。

 

「智」という漢字には、「知」の下に「日」がくっ付いていますね。ですから、「智」は単に知るということではないのです。敢えて言えば「日」を知る。「日」は「⦿」から生まれた象形文字です。見ての通り、「⦿」には先ず、お日さま、太陽の意味があります。そこから、暗闇を照らす光、不明だったものを明らかにするという意味が、「智」には付加されているのです。

 

また、「○」の中に「・」が付いた形は、中心太陽とか、宇宙そのものを表す象徴でもあります。中心太陽というのは、いわゆる太陽(恒星)のことではありません。これは神秘学用語で、宇宙の根源的エネルギーが流れ出している中心点のことを指します。その中心点を、太陽になぞらえて言ってるわけです。そして、この中心点から、全体(○)に広がっているという象徴図形が「⦿」なのです。

 

ですから、私の中では、「智」は宇宙の中心点から溢れ出ている光、すなわち「宇宙の真理」「生命」「愛」というものを意味しています。そして、それを未だ知らない、内在されていない状態にあることを「無智」と言っているわけです。この「無智」というものは、今の地球人類全体が背負った宿業のようなもので、視点を変えれば、その状態から脱することが、地球人類としての一大テーマになっているわけです。

 

*以上はみな、同じものを機能別に別角度から捉えて言ったもの

 

そこで釈迦は、嘘をつくとか、他人のものを盗むとか、殺生をするとか、人としてやっちゃいけないことは色々あるけれども、何よりいけないことは「無智」だと言ったのです。ハテ? 戦争よりも人殺しよりも、なんで「無智」がいちばんいけないのか、とそう思うでしょう。それは、もし「智」に明るくあれば、すべての悪など、起きようはずが無くなるからです。

 

無智。

 

人類が抱えるあらゆる問題の原因は、ただこの一点にあるのです。環境問題も、貧困問題も、エネルギー問題も、核も、戦争も、病気も、怒りも、憎しみも、満たされなさも、孤独も。

 

すべては人が「無智」なるがゆえに生じ、かつ乗り越えられずに、同じ過ちを延々と繰り返している。そこで私も、先人に習い、微力ながらも光を注ぐお手伝いをしているわけですけれど‥‥。この闇は手強い。

 

どうしてこれほど手強いのでしょう?

 

その理由は、みなさんが得た「知識」にあるのです。まことに、まことに、「知」は「真理」を粉砕する。「知」は、この宇宙に、物質世界を超えた「真理」が存在するということを認めない。「知」は、たとえ「真理」の一端を垣間見ても「そんなものはインチキだ」と直ぐに耳許で囁く。「知」は、「真理」に触れた瞬間があったとしても「今のは錯覚さ」と己の感覚を打ち消す。

 

一人の人間の中で、宇宙意識とつながった奥深い霊性の主が「お前の本質はわたしなんだよ」「さあ、このチャンスに真理に気づくんだ」といくら声を上げていても、「知識」を得た頭が、常識でそれを振り払い、木っ端微塵に粉砕してしまう。その習いを超えて、我が内なる声に従順になるには、もの凄い勇気を必要とする。まるで、天と地がひっくり返るほどの‥‥。

 

視点を変えれば、実にな〜んてこともないんですけれどネ。でも、地球人にはまだまだそれは大変なこと。何しろ、あらゆる物差しが「知識」に重点を置いて出来上がっているのですからね。「知識」そのものというよりも、「知識」に重点を置くという「知識」構造に、人類がすっかり支配されてしまっていることの方が遥かに大きな問題。ここから脱するのは、まさに至難のワザ。

 

物心ついた頃には、本人の興味関心とは関係なく、学校教育で「知識」の洗礼を受け、どれだけ覚えたかで優劣が決められる。上の学校に上がるのも、会社に入るのも同じ物差し。社会に出れば出たで、業界知識や社交術を知らねばならない。加えて、ニュースで世の動向を知り、株価に毎日眼を光らす。果ては、健康情報にグルメ情報、スポーツ情報、芸能界情報と大層忙しい。その各分野に、指南役としての知識人が存在し、人々をある方向へと導いてゆく。

 

よく、「知識は無いよりは有った方がいい」なんて言いますが、必ずしもそうとは言い切れないんですよ。世の中には、知らなくてもいい「知識」、知ったからといって別にどうということもない「知識」、知るとかえって有害になる「知識」がいっぱいある。むしろ、そっちの方がずっと多い。それなのに、そんなムダな「知識」に振り回されて、現代人はすっかり我を見失っています。

 

そして、世界須磨穂教の熱心な信者となった今は、一瞬たりとも「知識」から逃れるスキがない。分からないかなぁ、それが、心から「不安」というものが消えない根本原因なのですよ。ほっと一息つく時間がある時、あなたは、眼を閉じて静かに内観することを選びます? それとも、すぐに須磨穂大神様に手を伸ばします? 須磨穂大神様は、どんな有意義なご託宣を、あなたに授けてくださるのでしょうねぇ。

 

そうやって、次から次へと「知識」を仕入れて、少しは賢くなれましたか? 生きる目的が見つかりましたか? 不安がすっかり解消されましたか? あなたが「知識」を増やした時というのは、その世界に取り込まれたということなんですよ。あなたは、ご自分が、その「知識」を選び取ったと思っています。でもそうじゃない。その世界に引っ掛かったのですよ。

 

本当の「智慧」は、心静かに内観するとき以外には降りて来ません。周囲の情報を遮断して、静寂の中に身を置き、一人きりになる必要があるのです。そのようにして、自我を出来るだけ消滅させていく。そうすれば、入れ替わりに、宇宙とのチャンネルが開かれて行くのです。

 

ですから、いつもいつも自我をフル稼働させ、目を皿のようにして「知識」を追いかけているような人は、せっかくの「真理」にも出会うチャンスがありません。それどころか、「知識」を「悪観念」にまで育て上げてしまう人のなんと多いことか。ご覧なさい、ネット上に渦巻くヘイトの声の数々を。「知識」の罠に一度は引っ掛かったとしても、それをあなたの直観の秤(はかり)に掛けて、問い直すということが大切なのです。

 

やけくそになった人が、よく言うじゃありませんか。「俺のことなんか放っといてくれ」「今は誰にも会いたくないんだ」「俺は一人になりたいんだ」。それは、その人の「魂」の叫びです。「魂」はちゃんと知っているのです。ここ一番という大事な瞬間を。「真理」を掴むチャンスの時を。その方法を。やけくその混乱状態に陥入ればこそ、それをジャンピング・ボードに変える「智慧」が働くのです。

 

なぜだと思います? やけくそになったことで、図らずも、自我を正常に働かせることが出来なくなったためです。自我を滅するチャンスが、そこに生じたのです。そうやって、ちゃんと救いの手が差し伸べられているんですよ。凄いですねぇ。だからって、あなたも早く「やけくそ」にな〜れ、なんてことは言いません。この理屈さえ解っていれば結構。

 

知性は、しばしば「真理」を抹殺してしまいます。「知識」をいくら求めても「真理」には到達できません。「真理」は、「知識」の先にあるのではないのです。哲学などいくら学んでもムダ。むしろ「知識」から離れた時にこそ、「真理」と出会えるのです。

 

あなたに、一息つける間がある時、眼を閉じて、心を静かにして、安心して、神にその身を委ねなさい。そのような習慣を持ちなさい。そうすれば、やがて解ります。

 

私は誰か。どこから来て、どこへ行くのか。