by Rainbow School
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根本にある不安感から解放されるには?

今回お話することは、以前に、パニック障害や鬱病を患った人間が書いているということを先ず頭の隅に入れてください。ですから、その苦しさや辛さが痛いほど分かります。私がそうした状態から、本当の意味で解放されるまでには十数年間を要しました。その間に、段階的に少しづつ良くなって行ったのです。ですから、いまお苦しみになっている方も希望を捨てないでください。

 

先日、月末に開催しているサロンに、16年間向精神薬を飲み続けていたという男性が来られました。その方は、「16年間飲み続けていてダメなら、17年目もダメだろう」と思ってクスリを止めた、と話されていました。この『気づきの掲示板』は、いわゆる「心の病」を患っている方をサポートする目的で書いているわけではないのですが、きっとどこかに琴線に触れる部分があるのでしょう。

 

ただ、明確に意識しているのは、純粋であるがゆえに、傷つき、疲れてしまっている友人たちに「大丈夫だよ」と言ってあげたいということです。この世が、あまりにも粗雑で、汚れていて、悪意に満ちているために、純粋であり続けようとすることは、大変な生きにくさをもたらします。でもそれを決して曲げないでいただきたいのです。それは宇宙的に見て大きな価値であり、あなたに今の時期、大切な役割があるということを示しているのです。

 

つい一週間ほど前ですが、「自分を実験に使ったんだよ」という声が入って来ました。「ああ、なるほど‥‥」と納得が行きました。生まれてこのかたの苦しい経験、お恥ずかしい体験の数々は、すべて自分を使った人体実験だったと言うのです。その時にはもちろん分らなかったのですが、おかげで、それがいま役に立っている。成功物語を語ることは出来ませんが、どぶ板人生の方はこうして共感を持って語れる。結局それが、自分の役割だったということです。

 

さて、表題のテーマは、ある方からそのような質問を受けたからなのですが、その感じというのはよ〜く解るのです。私が、パニック障害と鬱から完全に抜けられたなと思えるようになったのは、ついこの間のことです。5年前には、まだパニックを起こしていました。

 

鬱症状はかなり改善していたのですが、それでも、質問者と同じように根本にある不安感というものがどうしても拭えないのですね。それが、何かのきっかけで調子を落とした時に、マグマのように下から沸き上がって来るわけです。すると、「いけない、またパニックを起こすんじゃないか」という気に襲われるのです。この辺りのことは、経験者なら多分みな首肯されることでしょう。

 

その状態から脱した今、言えるのは、先ず、「根本にある不安から解放されるにはどうしたらよいか?」という課題の設定、そのものをやめなければいけないということです。パニックや鬱になる人というのは、どちらかというと真面目な性格で、物事をとことん追求しようとする意識が強いのです。それ自体は悪いことではないのですが、ネガティブ方向にその性質が向けられると、思わぬ落とし穴に嵌ってしまいかねません。

 

別の方でしたが、以前に「アトピーを『完治』したが、どうすればいいでしょう?」という質問を受けたことがあったのですが、そのお気持ちもよ〜く解るのです。私にもそういう時期がありましたから。でも、このように「完全」を目標にするという設定は、物事を真面目に捉える傾向の人にとっては、自分を必要以上に追い詰めてしまうという結果になりやすいのです。

 

なぜならば、自分が想い描く「完全」と、それに比してあまりにも不完全な現状とのギャップが目について気になり、真面目な人は、「自分の努力が足りない、もっともっと努力しなければダメ」だと思ってしまうのです。ところが、そうやって、いろいろ手を尽くしても、思ったような成果が見られない。そこでさらに自分を追い込んで行き、ついには精神バランスを破壊してしまうのです。

 

これは男発想が陥りやすい罠で、男は、何をするにも「目標設定と努力が不可欠」とずっとそのように教育されて育ち、それがもう体に染み付いてしまっているのです。そうではなくて、もっと女発想を見習ってください。今ここを生きるということです。レース編みをひと針ひと針、根気よくやり、今日は少し進む。明日もまた少し進む。そうやって、半年後には大きなテーブルセンターが出来ているというように。

 

「根本にある不安から解放されるには?」といった大目標は捨てて、毎日を楽しく生きる工夫をなさってみてください。そうして、1年経ち、2年経ち、3年経ちしてふと思い出し、「そう言えば、最近は不安を気にかけなくなっていたな」と気づくというのが本当のあり方です。

 

これは何度も言っていることですが、「悩みが消えない」とか「不安が消えない」というのは、意識がそこに集中しっぱなしになっているからです。《ネガティブ+否定語》という語法もダメだと、これも何度も言って来ました。例えば、「病気を治す」「戦争に反対する」といった言い方です。「不安を解消する」も同じですし、「悩みが消えない」というのは、そもそもこの語法の罠に捕まっています。

 

この語法を、自分の中で繰り返し呪文のように唱えていると、絶えずそのネガティブが潜在意識に刻み込まれることになり、ついにはその潜在意識に支配されるようになるのです。その結果、ますます悩みが深まる、ますます不安が高まる、という神経症的な段階にまで至ってしまいます。真面目で完璧を求める人は、ここでさらに自分を追い込んでしまい、鬱の深みへと陥ってしまうわけです。

 

しかし、これを何度説明しても、そのループに嵌った人というのは、それがもう習い性(クセ)になってしまい、暫くするとまた「悩みが消えない」「不安が消えない」と同じことを言って来られるのです。そこで私としても、何度でも同じことをお話しするしかありません。そこで言います。神経症的な段階にある方は、完治とか完全解消といったことを求めずに、先ずは通常の不安、通常の悩みに戻すことを目標としてください。そのような、不完全な自分を許すのです。

 

根本的不安から解放された、という人は、おそらく1パーセントもいないのではないでしょうか。殆どの人が、ちょっぴりの不安を抱えながら、日常を遣り繰りして生きているのです。これは健康問題と同じことで、今日は肩がちょっと痛いとか腰が痛いとか、お腹の調子が悪いとか言いながら、みんなウェルネス(Wellness:Health と Sick の間)を生きているのです。

 

このことを、先ず認めることが大切です。要は程度問題であり、その中で、心の爽やかさ、楽しさ、喜びを増やしていく、身体の好調を増やしていく、それがよりよく生きるということです。

ではそのためには、何を心がければ良いのでしょうか?

 

数ヶ月前ですが、サロンに来られた方が、私に向かって「自分は、これまでずっとメンター(Mentor:指導者)を探し求めていました」と仰られたのです。その時に、思わず私の口から出た言葉は、「あなたの課題は、自分にはメンターなど必要なかったんだと知ることです」でした。言った後で、(ああ、自分はなんて冷たい人間なんだろう)とも思ったのですが、幸いにその方は、その意味を直ちに理解されたのです。

 

「虹の学校」の門を叩く方は、私が手取り足取りといったことは何もしないし、縛ることもしないし、その人に代わっての判断はしてあげないし、サイキックな能力はないし、ご託宣を授けたりもしないし、何よりも権威がない(*´-`)ので、みんな呆れて早々に去って行かれます。ですが、師というものは、崇拝の対象にしてはならないのです。師は、踏み台にして、蹴飛ばして、乗り越えていくものです。

 

そうでなければ進歩というものがありません。また、そうでなければ、本物の師は喜ばれないでしょう。自分をずっと崇拝の対象に置き続けておくような師、そんな人間は師とは呼べません。宗教のダメなところはそこで、信仰の名のもとに、人間の本来の自由を奪い、教義に縛りつけ、自分で考え判断することをさせなくしてしまうのです。そして、師を乗り越えることは決して許さない。宗教の怖さはそこです。

 

「杖を持てば、もっと楽に生きられるよ」と言う。そんなものかな?と思って持ってみると、なるほど何か楽に歩ける(ような気がする)。でも暫くすると、もっといい杖があるんじゃないかなと思い始めて、杖を取っ替え引っ替えしてみる。すると、あるとき出合った人が、「そんなやり方ダメよ、浮気しちゃダメ。一つの杖をもっとギュッと強く握るのがコツよ」と教えてくれる。

 

これも、そうかなと思って一つを選んで歩き続けていると、あまりにも強く握り過ぎて、今度はポッキリ折れたらどうしようとか、失くしてしまったらどうしようという不安に駆られるようになる。そこで先の先輩に相談すると「それはあなたが、まだまだ中途半端だからよ。心がフラフラしているからそんな迷いが起こるの。もっと杖を信頼して、全体重をここに掛けるの!」と言われてしまう。

 

あな恐ろしや。そして10年もすると、当たり前のことを、この人はすっかり忘れてしまうのです。

人間は、杖なしでも歩けるということを。

杖なしで、親の支えも振り切って、自分の足でしっかと歩き始めた日の瞬間が、この私にもあったということを。

 

あなたは叫ぶ。「杖、杖、杖をちょうだい」「私にもっとよい杖をちょうだい」「人間には杖が必要なのよ」。そして、杖なしで歩いている人を見かけると驚いて、「どうしてそんな無茶なことが出来るのよ。あなた、怖くないの? 杖を持てば一切の不安から解放されるのよ。この杖の良さがあなたには解らないの? あなたも絶対に持つべきよ!」と言う。

 

実に、これが「根本的な不安」というものの正体です。

 

頼るものを外側に求め続けているから、根本的な不安から逃れられないのです。そもそも、「頼りたい」気持ちが「不安」の裏返しです。ですが、何かに「頼りたい」人にとっては、それを失うことはもの凄い恐怖ですし、捨てることは大変な勇気を必要とします。でも、あなたは忘れてしまったでしょうが、ある日ハイハイからむっくりと立ち上がって、自分の足で歩いたのは、一体どうしてだったのでしょうか?

 

理由などありません。ただそうしたいから、そうしただけです。

その瞬間のあなたは。

ただ「魂」の命じるままに。

 

自然の中の動物たち、植物たちを見てください。杖を求めて生きているのでしょうか? 杖が無いと不安なのでしょうか? 自分が生きたいように生きているだけです。今ここ、この瞬間を、生きたいように生きているだけです。あなたが二足歩行を始めたあの日の感覚、その時の喜びを、ずっと継続して生きている。それなのに、人間だけが、それではいけないと思い始めるのです。

 

そんなことはない。断じてない。「今ここ」を生きた、その軌跡が人生になるのです。だから、喜びの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は喜びの人生になり、悲嘆と悩みの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は悲嘆と悩みの人生になるのです。さて、どちらをご希望でしょうか?

 

理想を追い求めることはよいことです。でもその理想と、今の自分とを比較して、ギャップに落胆してはなりません。理想は理想として置き、そこへ向けて走る「今」にフォーカスするのです。人間は、つねに「成ろう」としている存在です。つまり Being であることが当たり前なのです。だとしたら、これをもっと積極的にハンドリングして行った方が、よりよく生きられるということです。

 

理想の地に向かって、あなたは自転車に乗って走り出します。その時に、ペダルを漕ぎ続けるのを決して止めないこと。ペダルを漕ぐのをやめれば、自転車はフラつきますし、もし停止してしまったら、足を着かない限りパタンと倒れてしまいます。ですから、ペダルだけは漕ぎ続けること。言い知れぬ不安が沸き上がって来ている瞬間というのは、ペダルを漕ぐのを忘れてしまった時なのです。

 

ペダルを漕ぎ続けていれば、不安など忍び寄って来る隙がありません。毎日が忙しくて、不安になどなりようがありませんから。そのための一番よい方法は、「奉仕の人生をひたすら生きよう」と決めることです。一旦そう決めれば、周囲の評価など気にせず、誰に何と言われようと、己の喜びにのみ邁進できるのです。これが、持ち替えるということ。持ち替えれば、自動的に、前のものを手離しているのです。

 

そして、これが習い性になって数年した時、あなたは、ふと気づくはずです。「そう言えば、不安が消えている。いったいあれは何だったんだろう」って。