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生まれ変わりとカルマの法則を知れば、人を倫理・道徳で縛る必要はなくなる

NHK放送文化研究所が参加している国際調査機関、International Social Survey Programme(45カ国が加盟)が、2008年に「宗教意識(10年毎に行っており、2008年は3回目)」に関する調査を行いました。この中で「生まれ変わりはあると思うか?」という問いに対して、日本人は42%が「ある」と回答しています。「ない」と答えた人は33%、残り25%は「わからない」です。

 

ちなみに、アメリカでは31%が「ある」と回答。教義上は否定しているキリスト教圏の国でも「生まれ変わり」を認める人が増えているのです。ただしこの内実は、日米でかなり違うと思います。日本人がそう思うのは、長年培われて来た自然観から。アメリカ人が認め出したのは、ニューエイジ思想などの広がりによって、キリスト教教義の不自然さを自覚する人が多くなっているのだと思います。

 

「生まれ変わりはあるか・ないか」という問いは、「死後世界はあるか・ないか」に次いでポピュラーな問いでしょう。死後世界の存在を認めない人が、生まれ変わりを認めるわけがありませんから。でも、死後世界の存在は認めても、生まれ変わりは認めないという人はいます。三つの一神教はいずれもそうであり、仏教でも「釈迦は生まれ変わりを説かなかった」と、それを強調して言う人もいます。

 

この問い掛けを巡っては、過去半世紀くらいの間に、急激に(それはメディアの発達のおかげが大きい)、多くの情報が蓄積されて来ました。70年代までは、まだ霊媒がもたらした心霊主義的な情報が大部分だったのですが、イアン・スティーヴンソンが1987年に『前世を記憶する子供たち』を出版すると、こうした学術的、実証的なアプローチ方法が採られるようになりました。

 

その後、「臨死体験」をした人たちの証言が集められるようになり(それまでは、体験をしても口をつぐんでいる人が多かった)、臨死体験者がほぼ共通した体験を語ることがしだいに明らかにされて行きました。また同時期に、「退行催眠」という手法を用いて、被験者から、中間世にいた時の「あの世」の状況や、前世の記憶を聴きだすという調査も数多く行われるようになりました。

 

*しかしいずれの方法にも一短があります。前世を記憶する子どもたちの例は、前世で突然死を遂げた特殊例が多く、そのために次の生まれ変わりまでに要する期間が極端に短い。また7歳を過ぎると記憶が消えてしまうという問題点があります。「臨死体験」は死に切れずに戻って来た人の体験談であり、死んでしまった後のことが分からない。「退行催眠」は本人の想像が混じることを避けられません。

 

このようなことが総合されて、「生まれ変わり」に関しての考え方、捉え方は、以前とは大きな様変わりを見せています。しかし、そのような状況になっても、一般の人々の間に届いている情報は、いずれも断片的なものに過ぎず、総合的な知識を持たないというのが実情です。これは宗教者でも同様であり、それだからこそ、宗教者が語る古臭いドグマが、真実味を持たなくなって来ているように感じます。

 

「虹の学校」としては、「生まれ変わり」の証拠を探し求めることにはもはや関心がなく、あまり意味がないと考えています。「認めない」という人は、どんな証拠(に見えるもの)を提示したとこで、認めませんからね。先ず「否定」ありきから論理を構築していきますから。

 

それに、いくら探査したところで、客観性と観察を重んじる今の「科学」的常識においては、所詮は不確かな証拠しか得られません。たった一例を探査するにしても、ある一つの「魂」の、前世から中間世を経て今世に至るまでの経緯を、他の観察者が横にいて観察・記録し続けてみなければ、本当の意味での証拠とは認められないでしょうから。ですが、そんなことは不可能です。

 

それよりも「生まれ変わり」を認めた上で、そのようなメカニズムがなぜ存在するのかという理由や、またメカニズムが働く原因とプロセスを知ること、つまり「因の科学」にダイレクトに迫った方がずっと意義があります。なぜなら、「生まれ変わり」を前提とした上で、人生をどう生きるかを考えた際には、生き方がまるで違って来ますから。

 

それは信じるとか、信じないというレベルの問題では、もはやないのです。新しい神学や、因の科学(現象から法則性を導く今の科学ではなく、もっと裏にある真の原因を探る科学)の領域に、足を踏み入れるかどうかという、人類にとっての転換点の問題なのです。そしてこれは、実は新しくも何ともない。古代から変わらぬ「真理」の叡智を、ようやく出せる環境と時期が整ったから出すというだけの話です。

 

それに否定派も、どうせご自分が死ぬ時には、死んでも死なないということを知るのですから。その日のために、今から言っておきます。死んだ後は、自分が思っていた世界に行き着くということ。それは、そういう世界が在るというのではなく、自分が創造に加担するということです。ですから、死後は「無」だと思っていた人は、ご希望通りに「無」の世界に入って生き続けるのですぞ。

 

想像できますか? 真っ暗闇の「無」の世界で、なんの手応えもなく、永遠に生き続けることになる自分を。

 

さて、「生まれ変わり」というのは、一面から見れば、大層しんどいシステムのように思えます。ですが、冷静になって考えて見れば、また霊性になって見れば、「魂」の救済システムであることが容易に解ると思います。何しろ、やり直しが効くわけですから。人生を振り返って、「ああ、あれとこれはどうも間違えちゃったかな」というところを、再び、時には逆の立場を通じて再挑戦できるのですから。

 

この時に「カルマの法則」というものが働く。それは、前世で未消化に終わってしまったものを、つまりは落第・留年になってしまった課題を、もう一度学び直せるというチャンスの再提供であり、自分が自分に贈ったギフトなのです。ところが、そうやって「生まれ変わり」を果たしても、7歳を過ぎると、人はそんな決意を忘れてしまい、またもやエゴをむき出しにした人生を送るようになってしまうのです。

 

このようにして、大半の人が、一つの人生をあまり進化することなく終えてしまう。そして、また同じところをグルグル回る輪廻転生を繰り返しているわけです。それもこれも、「生まれ変わり」と「カルマの法則」について、人々が無智だからです。ただ無智なだけではありません。間違った知識を、宗教者やオカルト信者や哲学者や科学者からてんでバラバラに吹き込まれているからです。

 

しかし、「生まれ変わり」と「カルマの法則」のことを、みなが当たり前のように知るようになれば、そしてそれが体に染み通れば、世界は一変します。いま生きていることの意義や、生き方が全く変わってしまいますから。

 

先ず人生の目標が、様々な体験を通じて、普遍的な「愛」を身に付けることだと知ります。そうすれば、人生上で起こる様々な困難も、自分への何らかの「気づき」がそこには隠されているのだということが解り、不平・不満がなくなります。また「カルマの法則」が念頭にあれば、エゴを剥き出しにしたり、陰で悪事を働くといったこともなくなるでしょう。そうして、一生涯が学習なんだということも解る。

 

そうすれば、職業やお金や地位なんてものは、単なる舞台装置や道具に過ぎないということも解り、いま置かれた状況の中で、無条件の愛の人になることを目指し、今この瞬間を、クリエイティブに、楽しく生きれば、それでよいということも解るでしょう。このようにして、あなたの「魂」が、明るく艶やかなものに磨かれていくこと。それが、霊的進化なのです。

 

人生の目的はこれしかありません。こうして、一段進化した「魂」が、肉体の死後も生き続け、あの世へ行って癒された後、次の学年へ進級するのです。このようなメカニズムを理解した上で、一生涯学習を続けようと決意した「魂」は、自己制御のもとにそれを行うようになります。ですから、「倫理・道徳」によって、外側から考え方や行動を縛る必要など、一切無くなってしまうのです。

 

逆に言えば、「倫理・道徳」教育の必要性が叫ばれるのは、外側から行動を抑えつけなければ人間は正常にコントロールできない、放っておいたら人は何を仕出かすか分からない、と思っている人がいるからであり、また、無智であるがために自己制御が出来ない段階に、未だ人類があるということを指し示しています。

 

けれども、以前にも言いましたが、「倫理・道徳」や「正義」は、結局は為政者の支配の道具としていいように使われてしまうのです。しかし世の人々は「倫理・道徳」も「正義」も、ともにアプリオリに良い事と信じて疑いません。実際には、「倫理・道徳」を語る者ほど裏では倫理・道徳観に乏しく、「正義」を語る者ほど悪を為している例が多いのですが。

 

ともあれ、そのようなことで、「生まれ変わり」と「カルマの法則」を、みなが当たり前のように知れば、地球は一変してしまうのです。そして、それこそが、求められる「地球のアセンション」に他ならないのです。

 

果たして、その日が、いつになることか。