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思考が現実化するということ

思い(想い)は現実化する。スピリチュアルなことに関心の強い方なら、多分どこかで、このことをお聞きになったことがあるでしょう。それって本当なのなの? いや、そんなこと信じられない。自分など、しょっちゅうある事を想い続けているけど、ちっとも実現しやしないよ。それとも、隠されたもっと深い意味でもあるのだろうか? 反応は、きっと様々でしょう。

 

想いが現実化する。これは、一面において確かです。けれども、この言葉を正しく理解するためには、いくつかの関門を通らなければなりません。普通に考えていたのでは、これをちゃんと理解することは出来ません。ところが、前回のブログでも述べたように、不思議現象としてこれを捉え、そこに付加価値を与えては人々を誘い込み、金銭を巻き上げようとする業界人?が後を絶ちません。

 

これは人の弱み(この場合は、誰しもがエゴを持っていること)につけこんだ商法です。エゴの誘いにエゴが反応してしまうのですね。そういう意味では、ここでも「想いは現実化する」という法則が、皮肉なことに立派に?生きているわけです。そうやって、手痛い失敗を何度か経験すれば、そのうちに次の気づきへと進めることになるでしょう。ま、懲りない人というのもたまにおられますがね。

 

先ず、「現実化」ということを考えなくてはなりません。「現実化」というのは、いったい何を指して言っていることなのか? これは重要なポイントで、この前提条件が違えば、「想いは現実化する」という言葉が持つ意味そのものが違ってきてしまいますから。しかしそこに踏み込むのは後回しにして、ひとまずは、これを普通に「目の前に展開される物質的世界」のことだとしておきましょう。

 

その上で、「想いは現実化する」というメカニズムを考えてみましょう。想えば、何でも現実化するのか? しません。えっ、さっき言ったことと違うじゃないか、ですって? 想っただけでは現実化しないことは明らかです。いまメロンを無性に食べたいと強く思う。そうすれば、目の前にメロンがパッと現れるのか? 現れません。少なくとも、買いに行かなければメロンは食せない。

 

けれども、こういうことは言えます。行動を起こすには、「想い」が先ず必要だということです。あいにくメロンを売っているお店が、歩いて15分のところにしかない。しかも外はカンカン照りだ。さて、どうしよう? ここで「想い」の強さというものが影響して来ます。メロンを食べた〜いという「想い」が、障碍を上回るほど強ければ、食卓の上にメロンが現れる可能性が高くなります。

 

ですから、第一の関門は、

・想っただけでは実現しない。

・想うと同時に、行動が伴わなければ、実現はしない。

・さらに、降り掛かる困難も、何するものぞとの強い想いを抱き、行動し続けていれば、実現する可能性が高くなる。

と言えます。

 

しかしこれでは、「なぁんだ、そんなことか」と思われるでしょう。これじゃあ、よくある自己実現方法のレクチャーとほとんど変わりがない。それを信じて必死に努力を重ねても、夢を叶えることが出来ないから、多くの人が落胆し、挫折感を味わったりしているわけですよね。かく言う私もそうでした。もうその連続でした。これはどうしてなのでしょう?

 

そこに、第二の関門として、人知を超えたセオリーが存在するのです。それは次のようなものです。人は、中間世にある時に、次の人生における課題と、誕生する場を決めてから転生します。すると、いくら自由意志を保証されていると言っても、初期設定の環境要因は、誕生後にはもう変えられませんし、課題から大きく外れるということもないのです。(課題に気づかないということはあります)

 

*中間世(生);前世と今世との中間にある、霊界に戻って生きているいる期間

 

そこから、宿命論、運命論といったものが巷間言われたりするわけですが、宿命論や運命論が間違っているのは、「人生は変えられないもの」とする捉え方です。いま言ったように、確かに初期設定の環境要因を変えることは出来ませんし、課題から外れることもありません。しかしその中で、課題を達成し、幸福に生きることは誰もが出来るのです。そして、まさにそれこそが魂の “課題” なのです。

 

さて、そうしますと、いくら強い願望と意志を持っていたとしても、また必死に努力を重ねたとしても、その課題から大きく逸脱するようなことは決して実現しない、ということになるのです。これが、実に盲点なのです。

 

今、私はこんなことをしておりますが、これは自分が願ったことではなく、思ってもみないことでした。複数のチャンネルを通じて、将来の役割というものを言われてはおりましたが、全く信じていませんでした。しかし、子ども時代から幾度となく続いた、不運、失敗、挫折、屈辱、病気と、他方、首の皮一枚で拾い上げられた経験が、全部、今やっていることに結果的に役立っているのです。

 

「なるほど、こういうことだったのか」「このためだったのか」と、つくづく思わずにはいられません。全てが完璧。それは本当のことでした。そして最近になって、やっと自分の課題と役割が見えて来ました。さて、「盲点」というのはここです。若い時には気づかないし、気づけないのですね。自分が実現したいと想う外面的な願望でいっぱいで。

 

ですから、それに挫折すると当然ながらガックリ来ますし、そういうことが何度も何度も続けば、もういい加減、腐ってしまうわけですね。それで破れかぶれになったり、クスリやアルコールに溺れたり、自己否定に向かうということになってしまう。ところが、もっと長い目で人生を見ると、それらは全部、天がくれたギフトになっていて、自分が設定して来た課題からは少しも逸れていないということが解るのです。

 

問題は、「いつ気づくか」ということです。気づくのが先か、腐るのが先なのか。あなたを応援する天の存在たちは、同じ過ちを何度冒したとしても、実に辛抱強く、またあなたに気づきと修正を促して来ます。その転換、つまり、自己実現とは、職業や外面や形にあるのではなく、自己の意識の変化、もっと言えば「魂」の成長にあるのだと悟ったその瞬間、その人にパッと光が射すのです。

 

若い時には、外面的、物質的に何かを獲得することが自己実現だとみな考えています。しかし、願望も含めて、そうしたものは全部、その人を「課題」に向き合わせるための材料に過ぎないのです。ですから、初期設定という縦糸と、誕生後に自由意志で選んだ横糸を組み合わせて、その人が、自分独自の「課題」に向き合う人生を、周囲の協力のもとに編み上げて行くのです。

 

現実は、不公平に見えます。大金持ちもいれば、着の身着のままの貧乏に泣く人もいます。名家に生まれる人がいれば、ひどい親の下に生まれる子もいます。名声を獲得する人もいれば、一生うだつが上がらず底辺で暮らす人もいます。この差に、目をくらまされてはなりません。それらはみんな、今度の人生における、単なるキャスティングに過ぎないのです。

 

そう、それはまさに配役によるお芝居であって、お芝居のテーマは、あなたという主人公に、自分自身の今世の「課題」に気づかせ、それを達成するよう促すことです。名家の出や、イケメンや美女だけが主人公なのではありません。全員が自分の人生ドラマの主人公であり、同時に全員が他の人の脇役をこなし、複雑なタペストリーをこの世で織り上げているのです。

 

今度の配役は、今世がそうであるということだけであって、何十回、何百回と繰り返す輪廻転生のドラマにあっては、王子になったり乞食になったり、男になったり女になったり、実に様々な境遇を、「魂」の霊的完成に至るまで経験していくのです。ですから、ご自分の出自や、境遇や、容姿や、病気や、傷害を呪ってはいけません。呪ったところで何にもなりません。かえって自分を辛くさせるだけです。

 

いま言ったことが解れば、幸福とはどういうことなのか? 幸福を実現するにはどうすればいいのか、も同時に解るはずです。全てはあなたの「思い」しだい。あなたが今この瞬間を幸福だと思えば、幸福なのです。なぜなら、幸福とは条件ではなく、自分の感じ方なのですから。一杯のお茶、一皿のカレーライス、窓に広がる景色、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり、全てが幸福のハーモニーを奏でてくれるのです。

 

さてそこで、第三の関門に近づきました。冒頭に語った「現実化」とは何かということです。最初の仮定では「目の前に展開される物質的世界」を、一応「現実」だとみなしました。これは多くの人が考えている一般的な解釈です。しかし論を進める中で、重要なのは、自分の感じ方や思いなのだということになって来ました。

 

知らない土地を、旅人のあなたが歩いていると、だんだん腹が空いて来た。すると疲れた顔の旅人を見て、ある家のご主人が、休んで飯でも食べていきなさいと声を掛けてくれた。いや、ありがたい。ところが、出された食事は薄いスープ一椀と硬いパンが一切れだった。ここであなたは、「なんだ、こんなもの!」と思うことも出来るし、「いやいや、本当に助かりました」と思うことも出来る。

 

結局、「現実」というものは、また自分が「現実」だと思っているものは、あなたの「認識」でしかないということです。そこでこのブログでは、これを「リアリティ」と言って、区別して来ました。いわゆる「現実」というものは、多分あるのでしょう。けれども、これが「現実」だと言える確かなものは、実際にはどこにもないのです。あるのは、各人それぞれの「リアリティ」だけなのです。

 

これは奇妙な話に聞こえるかも知れませんが、量子力学においては常識です。あなたが夜空を見上げて、いま出ている月を見ない限りは、つまり見ていない間は、月が実際にそこにあるかどうかは判らないのです。見て初めて、「あ、今夜は月が出ているな」と判る。しかしそれも、突き詰めれば、あなたの「認識」がそう認めたというだけに過ぎないのです。

 

そこで、よく言われる次の言葉が出てくるのです。この世は幻に過ぎない。これは真理です。ですが、多くの人は、そう聞いてもピンと来ないでしょう。なぜなら、この「現実」だと思っている世界に、肉体を持って現に存在し、五感を使って知覚しているものに、確かな手応えを感じているのですから。ですから、前回も言ったように、「霊主体従」の感覚に至らなければこの言葉は解りません。

 

「霊主体従」に生きて、それが身体の隅々にまで染み通って、この世とあの世が逆転した時に初めて、この世は幻に過ぎないと解るのです。さてそうなった時に、じゃあ生きる意味は何なのか、という疑問が当然わくでしょう。この世が幻と言うのであれば、その幻の世界を生きることに、一体どんな意味があると言うのか? あまりにも虚し過ぎる話ではないのか?

 

そう、実にそこなのです。ですから、みんなこの物質世界になんとか手応えを見出したくて、物資的価値、物質的満足を必死になって求めようとするのです。ところが、そこにどうしても超えられない壁が立ちはだかる。人はいずれ、みんな死んでしまうということです。死んだら一巻の終わり。だとしたら、人生の意味とは何なのだ。そこで、哲学というものをひねり出すのですが、いくら考えても答えが出ない‥‥。

 

やあ、なんだか振り出しに戻っちゃいましたねぇ。この世が幻だと言っても虚しいし、物質世界を追い求めてもやっぱり虚しい。そんな人生に、果たして意味はあるのか。

 

人生に、意味などない。でも目的はある。この世のすべてが幻であっても、あなたは死なない。あなたの本質である霊魂は、肉体の死後もずっと生き続ける。その時、あなたの「魂」が携えて行くのは、この世でした体験から得られた感情と解釈と技能というソフトウェアだけなのです。ハードウェアは一切持っていけない。このソフトウェアを、輪廻転生するたびに、何度も磨きながら、あなたという「魂」は霊的完成を目指すのです。それが人生の目的。

 

これで解ったでしょう。人生劇場というものの成り立ちが。

幻の世界を生きることは、決して虚しいことではありません。自己の本質と、裏側にある真実の世界をつねに意識しながら、なおかつ幻の世界を生きるのです。

 

あなたが「現実」だと思っているものは、あなたが認識する「リアリティ」に過ぎない。言い換えれば、あなたが創る「現実」です。あなたの人生は、初期設定による境遇や、いま置かれている環境や、周囲の人間関係によって、制約された世界の中にあります。けれども、その制約された世界の中で、あなたは、自由に「想う(思う)」ことは出来るのです。そこに一切の制約はありません。

 

実に素晴らしいことだとは思いませんか? だから、善なる「リアリティ」をお創りなさい。木々の緑の中に、生命の輝きを見なさい。青空の中に、精霊たちが飛び交うのを見つめなさい。鳥のさえずり、虫たちの声に、命への讃歌を聴きなさい。水面の輝きに、永遠の光を見出しなさい。そして、出会う人々の心に、等しく神性が宿っていることを発見しなさい。

 

あなたが想えば、それは現実化するのです。想像は創造。さあ、お行きなさい。あなた自身の道を。