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「完全なる奉仕の人となる」とは?

7月2日掲載の『パワースポット』の内容に関連して、次のようなご質問を頂きました。

 

Q.前回のメッセージ中に、〈完全なる奉仕の人となるように〉という言葉がありましたが、「完全なる奉仕の人となる」とは、一体どのような状態を指しているのでしょうか? また、どのように行動すれば、完全なる奉仕の人に近づけるのでしょうか? 私の考えでは、どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやるという習慣を身につければよいのかな、と思っているのですが、それでよいでしょうか。

 

A.先ずあなたが、その言葉に眼をお留めになり、ご自分も「完全なる奉仕の人」を目指そうとなされていることをとても嬉しく思います。その勇気、寛大さ、誠実さは、何ものにも代え難いものです。すべての人が、もしもあなたのようであったなら、地球は変わるでしょう。そして、人類は救われるでしょう。

 

さて、「完全なる奉仕の人」とあるということは、それがあなたの心に引っ掛かったように、そして既にお気づきのように、「不完全な奉仕」という段階もあるということを示唆しています。なぜ、わざわざ「完全なる」という形容動詞が付けられているのでしょうか? なぜ、そのように強調されているのでしょうか? それは、いわゆる「奉仕」とは違うものなのでしょうか?

 

「奉仕」とは、普通、他者のために出来るなにがしかを自分がする、という行為を指しています。それはそれで、立派な心掛けです。あなたが仰る「どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやる」ということも、「奉仕」の素晴らしい行動原理です。では、それを徹底して行っていけば、「完全なる奉仕の人」に近づけるのでしょうか?

 

近づけるかも知れません。でもそのアプローチは、どこか無理をしていないでしょうか? 「エイッ!」と気合いを入れないと、継続はなかなか難しいのではないでしょうか? そして、そのように無理し続けていたら、きっと疲れてしまうと思うのです。すると、その「疲れた」心の状態、義務感のようにしてやっている心の状態が、相手に伝わります。

 

形の上では「奉仕」をしていても、自分が喜んで行っていない行為というものは、本当の「奉仕」にはならないのです。いわゆる「支援」と称する活動の多くが、息苦しさを感じるのはそれが理由です。

 

実に、ポイントはそこです。「行動」のあり方や、あり様ではないのです。それを為す人の、「心」のあり方、あり様が肝心なのです。「心」のあり方、あり様が、つねに愛に溢れ、喜びに満たされていれば、その人が為すことは、すべて自動的に「奉仕」となるのです。これが、「完全なる奉仕の人」になる、ということです。

 

しかしこれだけでは、何を言っているのか、たぶんお解りにならないでしょう。以前に、善と偽善のことをお話ししましたね。これと同様のことが、「愛」の学習についても、また「奉仕」についても言えるのです。人は、誰しもが、中途半端な「善」、中途半端な「愛」、中途半端な「奉仕」という段階を経て、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に至るのです。

 

未だ「善」を知らない → 「善」に気づく → 完全なる「善」の人になる

未だ「愛」を知らない → 「愛」に気づく → 完全なる「愛」の人になる

未だ「奉仕」を知らない → 「奉仕」に気づく → 完全なる「奉仕」の人になる

 

大きく言って三段階。この中間段階にある時(大多数の人がそうですが)に、人は心が定まらずに悩みを抱えるのです。しかしそれは「学習途上」ということであって、心の葛藤や悩みは、その人に贈られたテストとなっているわけです。そして少数の、未だ「善」を知らない者が悪を為し、未だ「愛」を知らない者が他者を支配しようとし、未だ「奉仕」を知らない者が私利私欲に走るのです。

 

これは「魂」の成長のプロセスであって、完全でない人間がダメだと言っているわけではありません。誰もがこうした道を通って、いつかは完全に至るのです。そう思って見れば、悪を為す人の心理も解るでしょうし、その人を許すことも可能でしょう。そして、完全なる「善」の人となった暁には、その人は、同時に完全なる「愛」の人にもなっており、完全なる「奉仕」の人にもなっているのです。

 

以前、『高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?』という、長〜いタイトルのメッセージを掲載したことがあります。自然とともに生き、自然を敬い、欲得を忘れ、毎日を穏やかに過ごす人は、自ずと、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に近づいて行くわけですね。

 

では、そのような人は、何が違うのでしょうか。想像してみてください。「よしッ!これからは善を為すぞ」と誓ったり、「愛に生きるぞ!」と決意したり、「人々に奉仕しよう」と努力したのでしょうか? もしそうであれば、まだまだ本物ではありません。誓いや、決意や、努力なしに、自然にそれらが出来ている人こそが本物の聖者です。いったい、どこがどう違うのでしょうか?

 

「喜び」の質が違うのです。先ほど言った三段階。これを喜びの質から見ると、肉の喜び、心(魂)の喜び、魂の奥(霊)の喜びへと、進化して行っているのです。ですから、内なる「霊」の喜びに生きる人は、まったく自然に、「善」「愛」「奉仕」に生きることが出来るのです。そして、この心境に至った暁には、その人は「全ては我がためにあり」との感慨を得るのです。

 

これを聞いて「えっ!」と思われた方も多分お在りでしょう。一見すると、これは驚くべき結論であるかも知れません。また、大いなる誤解をもたらすかもしれません。なにしろ、「他者のため」ではなくて、「全ては我がためにあり」と思えるようになることが、「完全なる奉仕の人」「完全なる愛の人」「完全なる善の人」になることだと言うのですから。

 

それは、エゴの最たるものではないのか? 違うのです。「全ては我がためにある」のですから、どんな災難も苦悩も「我がためにある」と受け入れるということですし、何を為しても見返りを求めるということがありません。また、自分にとって都合の悪い出来事を、他人のせいにするということもないのです。

 

ちなみに、釈迦の誕生時の言葉として知られる「天上天下唯我独尊」は、これと同じ境地を語ったものです。

 

「奉仕」活動を、「誰かのために」と思ってしている間はまだまだ浅く、「すべては自分のために」と思えた時に、それは本物になるのです。だからこそ、その人は、毎日を、この瞬間々々を、喜びの中に生きることが出来るのです。

 

その人にとっては、「奉仕」する対象がもはや違うのですね。「他者」にではなくて、「神」に奉仕する人間になっている。エゴを完全に滅して、自分を「神」の通り道にしてしまったのです。自分は単なるパイプ役に過ぎない。そうやって全部を「神」に委ねてしまう。そうなると、その人がする行動はどんなものであっても、全部が自動的に「完全なる奉仕」になってしまうのです。解りますか?

 

「神」とは何でしょうか? 「全宇宙」の別名です。ですから、「神」に奉仕するということは、取りも直さず、全ての人々、全ての自然、全ての生き物に奉仕することと同義なのです。そして、そのように生きることが、「光への道」の歩みなのです。

 

しかし、この道は決して平坦ではありません。批判や、誹謗中傷、時には攻撃も覚悟しなくてはなりません。なぜかと言えば、普通の人々には、その心境や感覚が理解できないからです。大多数の人は、未だ中途半端な「奉仕」の中に生きています。そこではスケール(物差し)が当てられ、量の多寡で「奉仕」が測られます(たとえば、寄進額や貢ぎ物で)。ですから、それを超越した「神」への奉仕は、その人たちからすれば、単なる独善にしか見えないのです。

 

ですから、マザー・テレサも独善的だと批判されましたし、『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師などは、自分が設立したホスピスのコミュニティを、二度にまで渡って焼き討ちにされてしまいました(一度建てて焼かれ、再建してまた焼かれた)。このように、「光への道」を生きることは、人々の無理解を覚悟しなければならないのです。

 

しかし、でも歩まねばなりません。いいえ、こんな時代だからこそ、一人でも多くの人に歩んでいただきたいのです。権力者の不正や嘘が大っぴらにまかり通り、それを咎め立てする機関もなければ、内部告発する者もいない。みんなが、低我の満足のために、自己の「魂」の、真我の声を裏切って行動し、仲間以外の人たちを奴隷のように扱って支配しようとする。未だ善、愛、奉仕を知らない憐れな権力者たち。無明の中に生きる人たち。

 

これらの「魂」たちに、内なる気づきを与えてあげてください。それには、みなさんが「光」を発することです。「光」の輝きで、硬く凝り固まった「魂」の扉を溶かしてあげることです。だから、友よ。完全なる奉仕の人を目指せ。そして、わが使徒となりなさい。わたしとあなたはつねに共にある。