by Rainbow School
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一神教は何を誤って教えて来たのか

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、中東を同じ起源とする一神教です。これに仏教を加えて、世界四大宗教と言われたりすることがありますが、仏教だけは、「神」を〈理解の範疇を超えたもの〉として、あえて定義づけを行っていません。三つの一神教の中では、ユダヤ教徒は僅か0.2パーセントに過ぎないのですが、金融を中心に、政治や医療や放送事業等で全世界に隠然たる勢力を持ち、存在感を示しています。

 

*ヒンドゥー教は信者数は多いのですが、地域が限定されているということから、世界宗教にはふつう分類されていません。

 

一神教は、日本人には馴染みがないだけではなく、考え方や感覚そのものがよく解りません。一神教の世界観と、日本人が持つ宗教観の間には大きな隔りがあって、ここに橋を架けるのはかなり難しそうです。ところが、世界情勢というものは、大部分が一神教世界を中心に動いているのです。ですから、世界情勢を読み解く時には、日本人はこのギャップと、背景にある宗教観、自然観の違いをよく知った上でニュース等を見る必要があります。

 

宇宙をつかさどるものは一つである。このことを、これまで何度も語って来ました。このブログの目的も、究極的にはこの一言を伝えたいだけだと言ってもいいのです。宇宙がどうして出来たのか? ビッグバン説が唱えるように、ある日突然、無から宇宙が生じたというのだろうか? しかし、時間も空間も無い「無」状態から、ある日(=時間)、宇宙が生じた(=空間)というのは、定義自体が矛盾です。「無」は無なのですから、何ものも生み出す元もないはずです。

 

私たちの生活を見回しますと、インフラや、家や、生活道具の中には、それらが作られる前に、「こうしよう」という意思なしに作られたものは一つもありません。でもよく見ると、そうじゃないものがありますよね。そうです、ただ、自然、生命、宇宙を除いては。そこで、類推してこう考えるのです。そこにも、きっと「何もの」かの意思があったのであろう、そして今もきっとあるはずだと。

 

その証拠に、自然、生命、宇宙には、この上なく秩序だった法則性が見られるのです。これは驚異です。私たちが見ている、経験している、自然、生命、宇宙が、ある「法則」によって成り立っているらしいことは疑いようがありません。そこで、その法則性を、ある者は「言葉」として、ある者は「数学」として、ある者は「音楽」として紡ぎ出すことが出来るのです。

 

*らしい:法則性に疑いがあるという意味ではなく、法則の肝心な点をまだ人間は殆ど知らない

 

そこで、こういう結論が導き出されます。自然、生命、宇宙(以下、総じて「宇宙」と言う)は、たぶん「何もの」かの意思によって創られたのであろう。では「何もの」とは何なのか? 「それ」が何かは分からないが、「宇宙」と同一、もしくは殆ど同じものであるはずだ。なぜなら、創造主と被創造物が別ものだとしたら、創造主を創ったのものは何かというパラドックスが生じるから。

 

*殆ど同じ:創造する意思と、創造されたものとは、厳密には同じではないという考えもある

 

結局、創造主は自らを創ったのであり、その起源については不明である。よって、始まりもなく終わりもなく、永遠なのだろう。これが、推論の結果、導き出される「宇宙」に対する見解です。この見解に、異論があったり、違和感を持たれる方も当然おられるでしょう。しかしこの先は、議論をしても始まりません。この結論を受け入れるか、受け入れないかというだけです。(仏教は、それゆえ、そこに手をつけなかったのです。)

 

さてこのようにして、「宇宙」を支配しているものは一つである、という考えに帰結します。しかしこの結論は、今、推論によって導き出されたというだけではなく、実は太古の時代から、メッセンジャーたちによって変わらずに伝えられて来たことなのです。ところが、スピリチュアリズムの中ではついぞ主流にはなりませんでした。いつの時代でも、ごく少数の人しか、これを保持しませんでした。しかも弾圧さえ受けて来たのです。なぜでしょうか? 

 

宇宙は一つ。全部が一つであり、一つが全部である。この考え方を、一言で「ワンネス(oneness)」と言います。そして、そこから立ち顕れる法則を「The law of one(一者の法)」と言っています。このブログで、「真理」とか「宇宙の法則」と呼んでいるものは、同じことを差しています。しかし「一者」と言うと、擬人化して捉えられてしまうので、なるべく使わないようにしています。

 

英語の「one」には、一つという意味の他に、「これ」とか「それ」という意味もあります。こちらの方がよくニュアンスを表していると思うのですが、もっと端的に、「それ」を「神」と名づけるとすると、「神」は一つということになり、ここに一神教の基盤が整います。ですから、そのような意味においては、一神教は決して間違いではないのです。

 

それなのに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の別がある。「一者」を奉じているのに一つにはならない。そして互いに非難し合っている。これはとてもおかしなことです。実際、驚くなかれ、3つの宗教が奉じている「神」は、名前は違いますが同じものなのです。では何が違うのかと言いますと、天国の概念や、救済に対する概念、何が罪であり、守るべきものは何か、といったものが違うのです。つまりは運用法です。

 

「oneness」に付随した解釈やルールが大いに異なり、こちらを守ることの方が「oneness」よりも、ずっと大きくなってしまったのです。それどころか、一神教とは言っておりますが、実際には「oneness」を殆ど考慮していないと言ってもよいでしょう。「oneness」の真髄は「愛」です。ところが、「神は一つ」という意味が、「神」の独占に転化され、自分たち以外は邪宗・邪教という意味に使われているのです。

 

なぜ、このようになってしまったかを考えますと、やはり組織宗教の問題点に突き当たらざるを得ません。組織を立てるには独自性が必要となり、そこで独自の解釈やルールが生まれる。次にはこれを維持し発展させるために、階層や儀式や戒律の徹底が図られる。そして、巨大化した組織同士が隣接するようになると、自分たち以外を非難することによって求心性を強め、かつ価値を誇る。

 

このプロセスが、宗教組織を運営する側にとっても、信者にとっても、共に都合よく機能してしまうのです。それが何かと言いますと、無智にしてしまうということです。ですが、信者はそうは思っていません。教義を学ぶことで、自分は賢くなっていると思っているのです。ところが、実態には教義を鵜呑みにしているだけであり、「自分で考える」力を放擲してしまっているのです。

 

一神教を誤って伝えた場合の恐ろしいところはそこです。ですから、聖戦だって、爆弾テロだって、人殺しだって、何だって出来る。一神教は偶像崇拝を認めません。それで「像」に彫った美術品を躊躇なく破壊してしまうのですが、彼らだってシンボルは使うのです。彫刻もシンボルの一つだということに思い至る考えもなく、ただ偶像崇拝ということで破壊してしまうのです。

 

今ある一神教は、「一神」と名乗ってはいますが、実質はみんな「二元教」です。善と悪、罪と罰、天使と悪魔の二元対立を教義に立てて、互いに、自分たちは善の側だと主張するのです。ですから、悪を叩くことは善であり、神の祝福が得られることだと思い込み、喜んで「神」の名の下に戦争を繰り広げていく。こうした考えに取り憑かれた狂信者たちが、今もって世界中に充満しているのです。

 

*悪を叩くことは善:911直後のジョージ・ブッシュの演説を思い出してください

 

そして、もう一つの大きな誤り、というかスリ替えは、「神」を人間の外側に置いてしまったことです。これによって、「神」は崇拝の対象となり、それを納める神殿が作られ、救済や契約(信仰しますので、見返りに救ってください)の概念が生まれました。しかし「oneness」からすれば、それはとてもとてもおかしなことです。自分も宇宙の一員なのですから、当然、私は「神」の一部なのです。「神」と私とは一つなのです。別ではありません。

 

この真実が、一神教では伝えられませんでした。キリスト教ではイエスのみが神の子であるとしました。しかし全員が神の子なのです。「神」は、最初からあなたの中にいると言ってもいいし、あなたが「神」だと言ってもよいのです。ですから、「救い」は必要なく、最初から全員が救われているのです。しかし、これを言ってしまったら、組織宗教にはなりません。そこで、今日あるような教義が考え出されました。

 

「救済」概念を信じ込ませるために「輪廻転生」は否定されました。生まれ変わりを認めたのでは、「救済」の意義が無くなってしまいますから。また人間はみな不安と恐れを抱えているので、「最初から救われているんだよ」と言ったところで、大抵の人にとっては意味が解りません。それよりは、「神」を外側に置いておき「悪いのは悪魔のせいだよ」「熱心に信仰すれば救われるよ」「信仰しない者は地獄行きだよ」という方が、人々の心情にフィットしたのです。

 

この刷り込みが、何世代にも渡って続けれられ、また「輪廻転生」の度に同じ一神教に縁を得たりして、今に至る強固な基盤を構築したのです。よしんば、それが正しい教義だったとして、見よ! この謀略と、破壊と、殺戮に明け暮れた今日の世界を。家も家族も財産も失い、貧困と苦悩に喘ぐ人々の姿を。それらの大部分は、一神教がもたらしたものではないのか。

 

また彼らの中には、多神教や自然崇拝を、未開で劣ったものとして小馬鹿にする傾向があります。そりゃそうでしょう。荘厳な礼拝堂を持ち、豪華絢爛な衣装で身を包んだ聖職者を前に、祈りや歌を捧げて来た者たちからすれば、山を拝んだり、立木に縄を張ったり、神様があっちこっちにいっぱいいるなんて思い込んでいる人たちは、まだ目覚めない未開人のように映るでしょう。

 

実際それで、世界中にいた素朴な人たちが、一神教の布教過程によって、もの凄い人数が虐殺されて来ました。「oneness」の真の信奉者が隠れざるを得なかったのも、そのような理由があるためです。一神教の組織宗教からすれば、「oneness」を説く者は、全くの異端であり、危険人物でした。なぜなら、組織宗教は必要ないということが、そこで明らかにされてしまうからです。

 

しかし、世界情勢が今のようになって、ニュースなどでは宗教対立を煽り立てるようなものばかりが目立ちますが、実際には、今までの「一神教」のあり方に疑問を呈する人々が増えているのです。そこで、日本人の役割です。多神教や自然崇拝を「oneness」の観点から語って頂きたいのです。それらが、まさに「oneness」の考えから滲み出ていることを、堂々と説明して欲しいのです。

 

△形を思い描いてください。底辺が今のこの全世界、全宇宙。そして頂点が「創造神」です。八百萬(やおよろず)に「神々」が宿ると言うことは、また自然そのものが「神」であると敬うことは、これぞ真の「一神教」なのですぞ。両者は、視点の位置が違うだけなのです。そこには、善も悪も、罪も罰もなく、全部が一つということしかない。だから、我々は自然を敬うんだ、自然と共に生きるんだと、堂々と宣言してください。

 

西洋には、自然は征服して当然という考えがあります。「humanism(人間主義)」は、一見すばらしいことのように思えますが、無条件の人間讃歌の裏には、人間は自分たちのために自然を利用し尽くしてもいいんだという考えが含まれているのです。しかし、冷静に考えれば、環境というのは自分たちを生かしてくれている場です。それを破壊してしまったら、人間は生きていけません。

 

日本は、明治維新以降、欧米列強に追い着け追い越せとばかりに、西洋的価値観をまるで憧れるようにして取り入れて来ました。そして第二次世界大戦後は、アメリカと同盟関係を結んで、西側の資本主義陣営の考え方や行動原理に無条件に歩調を合わせて来ました。しかしそれももう限界です。これまでと同じ感覚でいたのでは、大きく変化する世界情勢に着いて行くことは出来ません。

 

すでに、経済的にも文化的にも世界から取り残されて来ましたし、尊敬も失っています。ここで、経済協力がどうとか、軍事的にどうとかという問題ももちろんあるでしょうが、それらの底辺には、日本人がほとんど意識していない宗教の問題があることに気づいていただきたいのです。世界情勢の裏側には、今なお一神教同士の対立の問題があるのです。

 

一神教というのは、国家や民族を超えた、それよりも優先する概念なのです。ですから、一神教の信者は、移民してもその宗教を携えて移民し、これを手放すことはありません。ところが日本人は違うのです。日系移民は現地の宗教にあっさり宗旨変えしてしまいます。あるいは、外観は日本建築で中はキリスト教神殿といった折衷教会を作って取り込んでしまうのです。これは日本人の良さですが、世界常識はそうではないということです。

 

宗教と宗教が和を結んで一つになることは、不可能ではないでしょうが困難です。なぜかと言いますと、それは教義を変えるということになり、その宗教の存在理由が根底から崩れてしまうからです。「東方の星教団」を率いたクリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895 - 1986)は、組織の不必要に気づいてから、自分の教団を解散してしまったのですが、そのような勇気を持った人がどれだけいるでしょうか。

 

そのようなわけで、命令一下、組織を変えることは難しく、一人ひとりの意識の転換が図られていく以外には道はなさそうです。その時に、自然と共に生きて来た、また生きようとする(かつての)日本人の姿が、これからの人類の生き方として、欧米人にもアジアの人々にも説得力を持つと思うのです。そして、それこそが、世界中から尊敬を集める道となって行くことでしょう。

 

そのために、気づいた人から、自然と共に生きる素朴な生き方を、できるだけ実践していただければなと思います。