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「祈り」の真髄

神社仏閣に行くと、たくさんの祈願札を見かけます。お正月には恒例行事のようにして祈願祭が行われますし、人々が皆、お賽銭を投じては手を合わせて祈りを捧げています。受験シーズンにでもなれば、合格祈願でたいそう賑わいます。私もかつては、意味も解らずに、単に人真似でそのようなことをしていました。手を合わせた向こう側に、霊験あらたかな何者かがおわすと信じていたのです。

 

けれども、これらの願いの一切合切を聞いていたとしたら、神様というのは大変です。忙しいだけじゃなくて、おそらく世の中はメチャクチャになってしまうことでしょう。色んな人の欲望が、一斉に噴き出して。入学定員が100人のところに200人の応募があったとします。その200人全員が合格祈願を出したらどうなるんでしょう? やっぱり100人しか受かりませんよ。だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうねぇ。

 

ここで、何か変だな?と思わなくちゃいけませんよ。合格祈願ていどなら理不尽さをあまり感じないかも知れませんが、身内に生きるか死ぬかの瀬戸際にある人がいるといった場合や、大事故で生死が判らないという時に必死で無事を祈るといった場合であっても、これとまったく同じことが起こります。結局は、生きる人と死ぬ人に分かれるのです。

 

そして、願望通りの結果が得られなかった時には、「神も仏もあるものか!」と悪態をつきたくなるでしょうし、願望通りの結果となった時には、「ああ、祈りが通じたんだな」「私の祈りが聞き届けられたんだ」と思うのではないでしょうか? だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうか。顕れる結果には、「祈願」とは別の力学が働いていることに、お気づきにはなりませんか?

 

「祈願」という言葉には、「祈り」に「願い」がくっ付いています。そのため、多くの人は、「祈り」と言えば「願い事」をすることだと無条件に思い込んでいます。自分の「願い」をなんとか実現させたいと思う。そのために、神仏のお力をお借りする。いま「お借りする」といったのは、ソフィストケートした言い方であって、実体は、自分の願望のために神仏を使ってやろう、という算盤(そろばん)ずくです。

 

スピリチュアル業界(?)に首を突っ込んだ人の中に、よく「引き寄せの法則」というものに引き寄せられている人を見るのですが、こんなものに引っ掛かっていてはダメです。その人は、いったい何を引き寄せたいのかな? 同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。ですが、その「自分のために何かを引き寄せたい」という願望そのものが、エゴから発していることに気づきませんか?

 

ですから、私は常々こう言っているのです。「引き寄せの法則」を活用なさりたいならどうぞしなさい、と。でもおまけに漏れなくエゴもついてくるよ、と。

 

同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。互いに引き合うと言ってもいいです。引き寄せると言っても間違いではありません。それは厳然たる法則だから。でも、(振動数が)高い波長でなければ、高い波長を引き寄せることは出来ませんし、低い波長は、低い波長どうしで共鳴し合うのです。

 

ですから「引き寄せの法則」という言葉に引っ掛かっている時点で、その人はスピリチュアル業界のエゴの戦略(ひとつ、これで引っ掛けてやろうという低い波長)の中に落ちている。それは、あなたの中に眠るエゴの部分が刺激され、共鳴したからです。逆なんですよ。天使や大師たちは、いつも応援したい人を探しているのに、自分たちを引き寄せるだけの高い波長を持った人がなかなかいないことにお嘆きなのです。

 

宇宙というのは法則です。宇宙全体が法則なのですから、なんぴとたりとも、この法則の下から逃れることは出来ません。「祈願」とは関係なしに、試験に受かる人と受からない人が生じるのも、「祈願」とは関係なしに、生き残る人と死ぬ人が出てくるのも、その背後に、人々が知らない、冷徹な「宇宙の法則」、つまり「真理」が厳然と働いているからなのです。

 

あなた方は、もういい加減に、先に述べたような迷信から脱して、その奥にある「真理」に目覚めなければなりません。それに、容易には受け入れらないのを承知で敢えて言えば、霊的世界から見れば、この世での生死など別に大した問題ではないのです。なぜなら「魂」は不滅なのですから。「魂」こそがその人の本質であり、死後もずっと生き続けるのですから。この世でいう生死は、ドアを隔てた入退室に過ぎないのです。

 

さて、真の「祈り」とは何かです。それは「願い」などではありません。いくら願ったところで、「宇宙の法則」に合致しないことは、実現のしようがないのですから。「祈」という字は、「示」ヘンに「斤」が付いたもの。「示」は「神」で「斤」は「近づく」。つまり、神に近づく行為が「祈り」です。では、どのようにして近づくのでしょうか。自分の波長を高めることによってです。これ以外に近づく方法はありません。

 

ここで、ピン!と来た方がおられるでしょう。そうです、「瞑想」と同じです。振動数の低い、物質界にフォーカスしている意識を滅して行くと、入れ替わりに、高い振動数を持った「魂」の意識が浮かび上がって来ます。すると、その振動数に応じた霊界のチャンネルが開かれるのです。「瞑想」は、この状態で、どちらかと言えば「受信」、「祈り」は反対に「発信」に徹したものと言っていいでしょう。

 

しかし、明確な区別はありません。要は、「瞑想」を「祈り」とし、「祈り」を「瞑想」とする感覚が大切です。これによって、あなたの、内なる宮が開かれる。つまり、あなたの社(やしろ)である人社が神社となるのです。

 

さてそこで、何を「祈り」とするのか、です。これは、あなたが理想とする世界です。この理想とする世界が、「宇宙の法則」に反しないものであれば、神々の応援を得て「魂」の意識世界の中にそれが実現されるでしょう。しかしもし「宇宙の法則」に反していれば、それは斥けられるか、修正を迫られるでしょう。

 

この「理想」は、あなたの「願い」ではなく、元々、そこに在ったものなのです。この違いが解りますか? つまり、「神の理想」が、あなたの中に想い出された時に、両者がつながるのです。神と、あなたの「魂」の中に宿している神の分身とが、共鳴した瞬間に。これが、「祈り」の真髄です。

 

そうして、あなたは、神の使徒の一人となる。その理想を、地上で実現するための、奉仕者として生きることを「祈り」の中に誓う。なぜなら、地上世界での実現は、地上世界に生きる者にしか出来ないから。

 

「祈り」とは、これです。世に蔓延する「祈願」などとは、いかに懸け離れたものであるかが、これでお解りでしょう。ですから、「祈り」を為すには、自分をどこまでも純粋なものに律しなければならないのです。そうでなければ、自分の波長を高めることは出来ない。高められなければ、上には届かない。そこで、いつも言っていることが大切になります。素直に、正直に、誠実に、無条件の愛をもって生きること。

 

それなしに、スピリチュアリズムの扉は開かれない。絶対に、開かれることはない。