by Rainbow School
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イエスとゴータマは、結局なにを説いたのか

ナザレのイエスと、釈迦族のゴータマ・シッダルタは、ともに歴史上の人物です。イエスは今から2000年ほど前に、ゴータマはそれより前の紀元前5世紀ころ世に出現して、それぞれの持ち味を活かした立場から、宇宙の真理を語りました。その活動の一端を、今日まで続くキリスト教、仏教として、いま我々は見ているのです。しかし、その伝えられ方は、相当に歪められたものとなっています。

 

*ナザレは地名、釈迦はシャキャという一族の名を漢字で音写したもの。

 

二人が霊的に傑出した人物であったことは疑いありません。しかし重要な点は、我々と同じく、二人が肉を持った人間だったということ。ところが、その事実が無視され、共に祭壇の奥に鎮座せられるべき、この上なく高貴な存在として位置づけられたのです。そのことで、イエスもゴータマも、神に代わる信仰の対象として、人々の外に置かれることになりました。

 

結果、祭壇を納める教会が必要となり、それを管理する教団が作られ、その価値を永続的に維持するために、組織が権威化していったのです。

 

これで、「救い」というものの本質が何であるのかが、皆んなわけが分からなくなってしまいました。教会、祭壇、僧侶、聖典、教義、儀式、といったものの中に「救い」に繋がる道があると、人々に錯覚させたのです。「信仰」という名の下に、それは教団への強い依存体質を人々に染み込ませることになり、教団運営にとってはまことに良かったのですが、入れ替わりに大きな問題を生み出しました。

 

権威や集金システムの「権利」を巡って分派が起こり、ともに相争うようになったのです。外の物に権威を求めれば、それらは当然起こり得ることです。結果として、複数の教会、複数の祭壇、複数の僧侶、複数の聖典、複数の教義、複数の儀式が乱立し、互いに我こそは正宗、他はみんな邪宗・邪教と罵り合って、果ては戦争まで繰り広げるようになっていったのです。

 

それが、果たしてイエスやゴータマが望んだことなのでしょうか。イエスやゴータマが本当に伝えたかったことだとでも言うのでしょうか。なにゆえに、神が、我が子同士を争わせますか。ちょっと考えてみれば分かりそうなものなのに、人間たちは、未だに同じことを繰り返しています。新しく勃興する宗教もみんな同じ。結局は、ピラミッド型組織を作って、人々に上を仰ぐことを強いているだけです。

 

「キリスト」というのはヘブライ語の「メシア」のギリシア語訳で、「救世主」という意味です。よく、クリスマスを「Xmas」と表記しているのを見かけると思いますが、これは Christ のギリシア語表記が Χριστοςと、X で始まっているためです。ですから、イエス・キリストというのは、結局、キリスト(救世主)であるところのイエスさんという意味になります。

 

一方「ブッダ」は、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味です。いったい何に目覚めたのか。「真理」にです。ですから、ゴータマ・ブッダは、真理に目覚めたゴータマさんという意味です。さて、ここで注目していただきたいのは、「キリスト」も「ブッダ」も、特定の個人を指した名称ではないということです。

 

ところが、多くの人は、「キリスト」と言えば無条件でイエスその人を指し、「ブッダ」と言えば、ゴータマその人を指すものと誤解しています。これが、二人を神格化の頂点に位置付けて来たことの何よりの証拠であり、同時に、今日まで続く長い権威主義と不毛の歴史を作り出す元凶として作用して来たのです。しかし、二人は紛れもない「人間」でした。あなた方と同じ「人間」だったのです。

 

これは、決して二人を貶めようとして言っているのではありません。逆です。二人は、誰もが「キリスト」になれるし、「ブッダ」になれるよということを示そうとしたのです。そのお手本を、ともに我が身をもって示しただけだったのです。さてそう聞いて、今まで、二人を神さまのように拝んでいた人たちはショックを受けるかも知れませんね。場合によっては怒り狂うかも知れません。

 

けれども二人は、この世に生きていた間、実にフレンドリーに周囲と接していたのです。神格化されることなど微塵も望んではいませんでした。考えてみてください。万人の平等を説く者が、また万人に救いをもたらす者が、なにゆえに自己の神格化を望むでしょうか? なにゆえに、お付きを引き連れて、神輿に担がれて、ぞろぞろと歩くでしょうか? 

 

そんな輩が「キリスト」であり「ブッダ」だとでも言うのでしょうか? それでは思想の矛盾です。そう思いませんか?

 

凡夫という言葉があります。大聖者、大覚者であるイエスやゴータマに比べれば、自分は何と未熟で、間違いだらけの、ちっぽけな、取るに足らない存在なのか。一生かかっても、自分はそんな境地には到達できない。ああ、自分はなんともなさけない凡夫である。

 

違う。

違う、違う、違う。あなたは凡夫ではない。

イエスやゴータマは、まさにその考えを打ち破ろうとしたのです。

誰もが「キリスト」になれるし「ブッダ」になれるんだよ、と。

ほら、こんなふうに、と。

 

あなた方は、先ずこの凡夫思想を葬り去らねばなりません。

そして、21世紀にふさわしい、新しい神学に目を見開くべき時が来たのです。

 

一般にはあまり知られていませんが、神秘学では、「キリスト」というのは別名「キリスト意識」とも言い、ある一つの到達した意識状態を指した言葉です。その意味するところは、「全き愛」です。完全な愛にある意識状態を「キリスト」と言うのです。ナザレのイエスは、その「キリスト意識」を携えて、自身の30数回めの転生を成した「人間」だったのです。

 

そこには目的があったからなのですが、肉を持ったということにおいては、他の人間たちと何ら変わりがなかったのです。ただイエスは、自分を、「キリスト意識」の完全なる媒体としました。純粋なパイプ役となって、自分を神の通り道にしたのです。つまり神に使われる者です。結局、そこでイエスは何をしたのか? イエスが説いたことは一つ、「宇宙とは愛である」ということでした。それを、完全なる法則性の上に説いたのです。

 

では、ゴータマが説いたことは何か? 「宇宙とは法則である」ということです。それを、愛の下敷きの上に、どこまでも説いたのです。宇宙とは「理」なんだと、「Law」なんだと、徹底して語ったのです。突き詰めれば、二人はこれしか言っていません。奇跡話は、当時の人々が(残念ながら今もそうですが)、奇跡でも見せない限り、真実の言葉に耳を傾けようとしなかったから、やって見せたまでのことです。

 

二人が説いたことは、一見、まったく関連がないように思えます。ですが、これは「宇宙」というものの多面性を、各々別の視点から語ったものであって、元は同じ一つのことを違う側面から言っているのです。

 

宇宙とは法則である。

宇宙とは愛である。

 

これは、いずれもが正しく、ともに真理を示しています。しかし切り口はまだまだあるのです。

 

宇宙とは智性である。

宇宙とは生命である。

宇宙とは力である。

宇宙とは波動である。

宇宙とは変化である。

宇宙とは永遠である。

宇宙とはあらゆる存在である。

 

ここで言う「宇宙」は全てという意味です。ですから、これを「神」という言葉に置き換えると、こうも言えるのです。

 

神は法則である。

神は愛である。

神は智性である。

神は生命である。

神は力である。

神は波動である。

神は変化である。

神は永遠である。

神はあらゆる存在である。

 

この全てが正しく、そして、たった一つのことから発しているのです。

それは、

 

全部が一つ。一つが全部。(All is One. One is all.)

 

これしかありません。実にシンプル。それなのに、宗教は、これをこねくり回し、もっともらしい屁理屈を考え出しては小難しいものに変えて、あたかも人々が容易には到達できないものであるかのような印象操作を行って来ました。ああ、いかにそれが、人々の霊的成長を長年にわたって妨げて来たことか。キリスト教は人々に原罪意識を植え付け、仏教は凡夫意識を植え付けて来たのです。

 

今という時代が、乱雑さの極みに達していることは解ります。人間の心が、ほとんど壊れそうになっていることも知っています。しかしそれは、全て、人間が想い行動したことの結果です。この状況を何とかしたい、地球を救いたい、自身が変わりたい、と思っている方々にここで言ってあげたい。今さら、イエスやゴータマに戻る必要はないんだよ、と。

 

戻りたければ戻ってもいいが、判じ物のように書かれた書物の謎解きに挑戦したり、熱心にお経を唱えたり、どこかの偉い先生の教えをうかがいに行ったりすることは、ハッキリ言って時間の無駄だ。いいかい。教会、祭壇、僧侶、聖典、教義、儀式、そんなものには何の値打ちもないんだよ。そこに「信」を見出すことは、あなたの「真」の気づきを遠ざけ、遅らせるだけだ。

 

イエスもゴータマも、確かに傑出した人物ではありましたが、言ってみれば、神の声を伝えた、その時代のメッセンジャーの一人に過ぎない。あなた方の殆どはご存知ないでしょうが、どの時代にも、たくさんのメッセンジャーがいて活躍しているのですよ。それは言葉だけとは限らない。絵だったり、音楽だったり、映画だったり、園芸だったり、数学だったりと、凡そありとあらゆる分野でね。

 

それを、何を今さら、2000年以上も前の、その時代の状況下の影響を強く受けた、古代の外国語の、訳文の訳文の、難解な言い回しの、しかも教団によって意図的に歪められた教義を、有り難がって読む必要があるでしょうか? あなた方がそれらに目を向ける理由は一つ。古くて、たいそう権威があるからだ。そして、それしか知らないからだ。

 

でも、よく考えてごらん。神は存在である。神は永遠である。神は生命である。神は智性である。神は変化である。いいかい、神は、今この瞬間も、まさに存在し、変化しつつ、生きているのだよ。

 

イエスもゴータマも、今は大師として、天上の世界で生きているんだよ。生きて、みんなに声援を送っているんだよ。「我々の真実の声を聴け」とね。なぜ、ただ今、この瞬間の声を聴こうとしないんだい? なぜ、わざわざ2000年以上も前の不確実な書物に「信」を求めようとするんだい? Be here now ! と、何度も言って来たはずだがね。

 

えっ、聴けったって、どうすればいいか分からないだって? 困ったね。これも、何度も言って来たはずだがね。いいかい、神はあなたの内にあるんだよ。あなた自身が神なんだよ。だから、「魂」の奥にあるその声に耳を傾ければいいのさ。イエスもゴータマも、正にそれを示したんだ。そうすれば、誰もが「キリスト」になれるし「ブッダ」になれるんだよ、と。

 

豪華な神殿など不必要かつ不用なのさ。なぜって、あなたの肉体がすでに神殿なのだから。神は、最高の宮の中に降りたんだよ。いつでもどこでも持っていける、今の言葉で言えばモバイル神殿、スマート本尊、それがあなたの肉体だよ。この素晴らしいギフトに感謝して、せいぜい労って磨き上げることだね。そうすれば、あなたに、天使も神々も降りるから。