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自分を信じる

信用できるものが何もない。今、多くの人を捉えている感覚は、たぶんそのようなものではないでしょうか。政府や官僚に対する信用度はもはや地に落ちました。三権分立など絵に描いた餅。警察や検察が本来の義務を果しているかどうかも定かでない。本来、権力の監視機関であった筈のマスコミも、真実を隠して意図的な情報操作を行っているということを、多くの人が知るようになりました。

 

医療制度も、学校制度も、信用できない。企業も、金融システムも、食品も信用できない。とにかく何もかもが信用できない。これは日本に限られた現象ではなくて、世界中で、特に資本主義を推進して来た西側諸国に共通して見られる現象のようです。俯瞰してみれば、現在の強欲な資本主義を基盤とした社会のあり方が、崩壊へと向かっていると言えるでしょう。

 

これまでの秩序が崩壊する。それは一見、悪くなって行くように見えますが、長い目で見れば良いことです。一時的には崩壊は大混乱をもたらしますが、それは産みの苦しみであり、人類の変革のためには避けては通れない道なのです。では、この先はカオスしかないのだろうか? そうではありません。何もかも信用できないというのは、一種の気づきです。しかも、大いなる飛躍への。

 

「信」をもう外に求めない。これは個人にとっても、人類全体にとっても、大ジャンプを意味します。代わりに、「信頼すべきものはすでに自分の内にあったのだ」と気づくきっかけを提供することになるからです。実に、ここが肝です。「信」を外側に置いている限り、人は、生きる不安から逃れることは出来ません。それは岸壁に垂れ下がったロープのようなもので、手放す恐怖が生じるからです。

 

自分を信じる。これは簡単なことのようであってとても難しい。ですから、現実に多くの人が「信」を外に求めているし、求めようとしているわけですね。でも、なぜ自分を信じることが出来ないのでしょうか? それは、自分が何者かが分からないからです。自分はいったい何者か。多くの人はその問い掛けから逃避し、外見や肩書きの中に「自分」を見い出そうとしています。

 

でもそれが虚飾に過ぎないということは、直ぐに解るのではないでしょうか? もしも、その外見や肩書きが取れてしまったら、その人は、たちまち自分が誰だか分からなくなってしまうことでしょう。だからこそ、多くの人がその恐怖に怯えて外見や肩書きを必死で守ろうとするのです。でもそれは、自分ではない自分で自分を縛っているということなんですよ。そこに少しも気づいていないのです。

 

1996年、英国で「post-truth(真実の後)」という言葉が、その年の流行語大賞として選ばれました。 このキーワードは、今の社会風潮や政治状況を端的に表しています。 

 

何が「真実」であるか判らなくなった現在(post-truth)では、人々は、自分の感情や主観的な思い込みにフィットする情報や知識だけを受け入れるようになり、自尊心をくすぐる言動には熱狂する一方で、異なる見解には敵意をむき出しにするようになったと言うのですが、まさにその通りですね。それが、今のような「不寛容な社会」を創り出しています。

 

こうした傾向は、バブル崩壊後の1990年代から徐々に強まり、当初は「タコツボ化」とか「オタク」というキーワードを生んだのですが、不況の深刻化と雇用の流動化によって、自分の将来像が描けなくなると、人々の不満が鬱積し、そのエネルギーを外に出すタイプの人は排他的、攻撃的になり、内に溜め込む人は鬱になる傾向が強まったのです。

 

これは「真実」だと確信できるものがない中で、情報だけは爆発的に増えました。また情報を得たり発信したりする手段も極めてイージーに行えるようになりました。その結果、物事の前後関係や、そこに至った経緯や、言った後での影響度を深く考えることなしに、多くの人が、その場の自分の思いつきや感情的な反応から出た言葉を、まるで速射砲のように繰り出すようになって行きました。

 

さてこれは、「自分」を信じていることになるのでしょうか? 信じていると言えば、言えないことはありません。でも問題は、その「自分」とは何か、ということです。感情を動かす自分、主観的な思い込みに拘泥する自分、確かにそれも自分です。でもそれらの「自分」は、しばしば自分自身に嘘をついたり、暴れたり、裏切ったりします。果たしてそれは本当の「自分」なのでしょうか?

 

人間の意識というものは一つの層のみで出来上がっているのではありません。潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四層*から成り立っています。人間は通常、この意識を意識化することなしに思考し、行動しています。その結果、潜在意識や顕在意識が創り出す「思い」に常に振り回され、それが「自分」だとみんな思い込んでいます。けれども、それは表層的なものに過ぎません。

 

本当の「自分」は、その奥にあります。それが、超意識、超絶意識です。これらは肉体を超越したもで、脳の活動が創り出しているものではありません。「魂」の意識、そして「魂」をさらに超えた意識と言えます。そこに本当のあなたがいるのです。しかし残念ながら、このことを殆どの人は知りません。知識として知らないだけではなく、その本当の「自分」に問いかけてみたこともあまりありません。

 

 

ところが実際には、多大な影響を受けているのですね。多大どころか、そもそも、あなたという個が存在しているのは、超意識、超絶意識があるからこそです。脳科学者は、人間の意識や行動をすべて脳の活動で説明しようとしますが、そこには無理があります。脳の活動の結果が意識なのだと彼らは言います。じゃあその脳を動かしているものは何かという問いに、彼らは答えることが出来ません。

 

ではどうして、人は本当の「自分」の声に耳を傾けるということが、なかなか出来ないのでしょうか? それは、五感刺激によって形づくられる意識(潜在意識、顕在意識)が、あまりにも優位に立ち過ぎているためです。対して、超意識や超絶意識は、非常に精妙で微かなものです。そのため通常の意識状態では、この精妙な超意識や超絶意識は、奥深くに埋もれてしまっているのです。

 

多くの人が、言葉としては「魂」を知っていても、実際には、自分の「魂」を意識する努力というものを殆どしていません。また、したとしても、すぐに諦めてしまいます。ここには盲点があって、いま言った理由から、「魂」の意識は、探ろう探ろうと努力しても、逆に掴むのは難しいのです。なぜなら、探ろう探ろうと必死に努力している意識は、「脳」が創った意識だからです。

 

「魂」の意識と「脳」が創る意識との関係は、実はトレード・オフになっているのです。つまり「魂」の意識を呼び出してくるためには、「脳」が創る意識は、逆に閉じていかなければならないのです。そうすれば、入れ替わりに「魂」の意識が(自動的に)浮かび出て来ます。これを、あまり考えずに行っているのが、みなさんが眠っている時に見る夢です。

 

人が眠りに落ちると、肉体は五感刺激の反応に蓋をしてしまいます。それと入れ替わりに、「魂」の意識が活動を開始するのです。ただし夢見は、意識する意識を失った状態ですのでコントロールが効きません。ですから、コントロール意識を保ちつつ、五感刺激の反応を抑えてしまう技術を身につければ、誰でも「魂」にアクセスできるようになるのです。このほとんど唯一とも言える手段が「瞑想」です。

 

「瞑想」と聞くと、多くの人は座禅修行を思い浮かべると思います。ですが、あんな苦行をする必要は全くありません。いつでもどこでも、ちょっとした時間に、リラックスして、静かに眼を閉じて、すべてお任せで、ボーッと身を委ねればそれでいいのです。これを繰り返し行って、習い性のようにしてしまえば、あなたは、本当の「自分」を発見する旅に立てます。

 

現代では、多くの人が「情報」にこそ価値があると思っています。そのため、いつも最新情報を仕入れようと、インターネットを血眼になって追いかけ、それで神経をすり減らしています。このような人にとっては、一日数時間をボーッと過ごすことなど、単なる時間のムダ使いにしか思えないことでしょう。かつては、私もそう思っていました。でもね、時間のムダ使いは、前者の方なんですよ。

 

情報にアクセスすることにアクセクしている時間、それでいったい何が得られるのでしょうか? 一年前の情報をあなたは記憶していますか? 一カ月前の情報を記憶していますか? 三日前の情報を記憶していますか? すべてはうたかた。川面に浮かぶあぶくです。そうやって過ごした時間だけ、本当の「自分」を発見する時が過ぎ去って行くのですよ。

 

便利なアプリは、恐ろしい麻薬です。人を虜にして、抜け出せなくしてしまいます。道具を使っているのではなく、道具に使われてゾンビにされていることに気づきましょう。

人生にとって大切なことほど、日常での優先度が低い。死の間際になって「死待った!」と言うことのないようにしましょうね。