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Q.「ちゃぶ台返し」をしてしまったことの課題とは?

前回のブログで「ちゃぶ台返し」の話題を書いたところ、ある方から、次のようなご質問をいただきました。

 

Q.最近、職場内であまりにも理不尽なことがあって、「ちゃぶ台返し」をしてしまいました。後でこれは自分への課題であったのでは思いました。そう考えたら受け入れるべきであったのか、「ちゃぶ台返し」がよかったのか分からなくなりました。課題であると気づかなかったときは、自分は正しいという思いが強かったのですが、今はモヤモヤ感が強くなっています。この感覚そのものが自分へのギフトなのでしょうか。答えは無くてもよいのでしょうか。

 

A.いつもメッセージを読んでくださり、また励ましの言葉をかけていただき、ありがとうございます。さて、ご質問ですが、「ちゃぶ台返し」をしたと書かれてあるところを見ますと、あなたが、瞬間的に感情を爆発させるような反応をしてしまったものと理解してよろしいでしょうか? そうであるとすると、ここには3つの問いが合わさって投げかけられていると思います。

 

ー分が理不尽だと思った要求を、受容すべきだったのかどうか?

⊆分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?

この事件から学ぶべき「課題」とは何か?

 

通常、人が「どうしていいか分からなくなる」という時には、そこには複数の、次元の異なる問題が同時に含まれているものです。人間というのは多次元的存在ですから、どうしてもそういうことが起きてしまうのです。上記で、,詫性的な判断を要する問題、△牢蕎霤な問題、は「魂」の世界の問題です。

 

この中で最も重要なのは、の「魂」の世界の問題です。しかしこれは、世間からすればちょっと非常識な捉え方であり、世間で問題にするのは、常に,鉢△任后このブログの熱心な読者であるあなたは、にこそ「生きる」うえでの根本的な課題があると気づいておられるのですが、そのアプローチは世間常識とはあまりにも違うために確信が持てず、,鉢△留洞舛鮗けて心が揺らいでしまっているのです。

 

アジアの都市を見ますと、交差点は大渋滞というところが多いですよね。人も、クルマも、バイクも、荷車もみんな我先にと急ぐ。人が「わけが分からなくなる」時というのは、大体こんな状態です。混乱した交差点の状況を改善しようと思ったら、どうするでしょうか? 先ず、車道と歩道と自転車道を分けて、次に信号機を設置して通過する順番をコントロールしようとするでしょう。これと同じです。

 

こんがらがった、次元の異なる複数の問題を、先ずはノートに箇条書きして整理をし、上から眺めて見ることをお勧めします。これで、混乱していた頭が、随分スッキリすると思います。さてその上で、順番に検討していきましょう。

 

先ず、,痢崋容すべきだったのかどうか?」ということですが、私の口からは「こうすべきだった」ということは申し上げられません。ただ、そのような発想はしない方がいいとは申し上げたいと思います。その時点での判断はすでに下されたのです。ですから、遡ってそれを思い悩むのではなく、今のこととして、もし訂正した方がよいと思ったら、直ちに行動を起こしてください。

 

朝令暮改が大切です。必要だと思った時には、どうか勇気を持って朝令暮改をしてください。世間では、どうも朝令暮改を「ブレた」と言っては非難し、頑固一徹や信念を重んじる傾向がありますが、「魂」の世界から見たら、それは誉められたものではありません。今の政府を見てください。一度ウソをついたら、次から次へとウソをつき続け、もうどうにならないところまで突き進んでいるでしょう。

 

頑固さゆえに、朝令暮改のタイミングを失してしまったのですね。「朝令暮改はダメ」じゃないんです。問題は、朝令暮改の方向です。それが、良い方向であるならば、人は朝令暮改を喜んで受容します。逆に悪い方向であれば、その改は責められるかも知れません。あなたは、「自分は正しいという思いが強かった」と書かれていますが、今もそうであるなら、もちろん改める必要はありません。

 

さてここで、「正しい」とは何か、という問題です。宇宙から見た場合、「正しい」とは、たった一つのことでしかありません。それは、宇宙の「理」に適っているかどうか、これだけです。ところが、人間の世界は違うのです。大多数の人間は「宇宙の真理」というものを知りません。そのため、、人間の世界では「正しい」ということに、「正義」や「倫理・道徳」を当てはめがちなのです。

 

しかし、「正義」や「倫理・道徳」の観念は、その時の社会体制によって、容易に変化するものです。その端的な例は、戦後すぐに実施された墨塗り教科書の指導です。ということは、「正義」や「倫理・道徳」といったものは、その時の為政者にいいように利用されてしまう危険性をつねに孕んでいるということです。なぜ戦争というものが起こるのかと言えば、それは大部分「正義」が原因です。

 

では、宇宙から見て「正しい」とはどういうことでしょうか? 何度も言うように、「宇宙の真理」は、「全部が一つ、一つが全部」たったこれだけです。ここからすべてが派生しています。ですから、大本にある「真理」をじっと見つめて考えれば、あらゆることのセオリーが、自ずと導き出されていきます。ちなみに、もし何かに迷った時には、この原点からじっくりと考えていけば、すべてに答えが見出せます。

 

やってみましょう。「全部が一つ」なのですから、自分と他者は一つです。自分と神も一つです。自分が神なら、あの人も、この人もみな神です。「全部が一つ」なのですから、自分が為したことは、宇宙に為したことになり、あの人に為したことは自分に為したことと同じなのです。するとどうなるでしょうか? 誰かを傷つけることは、自分を傷つけることと同じなのです。 

 

このようにして、自分が為したことは自分に還ります。これが、いわゆる「カルマの法則」です。自分が蒔いた種は、いつか必ず自分が刈り取ることになるのです。これに例外はありません。結果がすぐには表れないために、このことに、きっと疑問を持たれるとは思いますが、長い目でみれば、必ず帳尻が合うようになっています。

 

ですから、愛を与えれば愛が還り、憎悪を与えれば憎悪が還り、他人から何かを奪えば、次には自分が奪われるのです。人類全体でも同じことです。地球を痛めつければ、次には地球から痛めつけられるのです。でもこれを「罰」とは捉えないでください。天に「罰」はありません。「罪」もありません。あるのは冷徹な法則だけです。自分が為したことは自分に還る。ただそれだけです。

 

ですから、天から見て「正しい」こととは何かと言うと、この「全部が一つ」というセオリーをちゃんと理解して行動をしているのか、ということに尽きるのです。理解しているのであれば、自ずと行動は、利他、奉仕、無条件の愛へと向かっていきます。ですから、相談者の方も、この点から、自分が下した判断、とった行動が「理」に適っていたかを見てください。

 

そして、「理」に適っていたのであれば、たとえそれを主張することで、自分の立場が悪くなったりしたとしても、それを貫き通してください。理由は、前に書いた通りです。

 

次に、△痢崋分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?」という点です。「怒り」は自分を傷つけます。それは心理的な面だけではなく、身体の細胞にもダメージを与えます。ですから怒らないに越したことはありません。しかし、だからといって、「怒り」を抑えつけようとはなさらないでください。これは「怒り」を出すことより、さらに悪いダメージを与えます。

 

前段に書いた「全部が一つ」という感覚が、身体に沁み通ってくれば、次第に「怒り」という感情そのものが無くなっていきます。ですからそれまでは、上手な「怒り」の表出の仕方を学んでください。「ちゃぶ台返し」も、コミュニケーションの表現の一つです。それによって、周囲の人に新たな気づきを与えられるかも知れません。

 

感情のコントロールで大事なことは、これまでにも何度も書いて来ましたが、二次災害に発展させないということです。パッと感情を出して、それで終わりにしてすぐに忘れる。これがコツです。ちょっとやり過ぎたなと思ったら、すぐに謝るなどして終わりにしてしまう。自分の感情の動きと、そうさせた原因というものを一緒くたにせずに、区別して考えるクセをつけてください。

 

さて、最後の「この事件から学ぶべき『課題』とは何か?」という点です。冒頭にも書いたように、実はこれがいちばん重要なことです。もし失礼があればお許しいただきたいのですが、相談者の方は、もしかすると「課題」というものを誤解されているのではないでしょうか? 「ちゃぶ台返し」をしなければいけないような事件があった。その事件を「課題」と捉えてはいないでしょうか?

 

そうではないのです。「魂」の世界から見た場合の「課題」とは、「事件」にあるのではありません。人は、いつも「事件」を問題にします。「事件」の中身について、あれこれと憶測したり、解釈しようとしたりして時間を浪費しています。しかし、極端な話「事件」などはどうでもよいのです。怒られることを承知でいえば、どんな大事件であろうと、全部が大したことではないのです。

 

なぜそんなことが言えるのかと言いますと、答えは簡単です。「事件」はあの世へは持っていけないからです。あの世へ持って行ける(行かされる)のは、あなたがした、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解、これらだけなのです。すべての「事件」は、これらを味わうための、いわばきっかけに過ぎないのです。

 

その証拠をお示ししましょう。あなたは、ご自分が過去世で体験した「事件」を覚えているでしょうか? えっ、過去世そのものを覚えてないですって? いやいや、そうじゃないんですよ。あなたの性格、あなたの心グセ、あなたのこだわり、あなたの容貌、あなたの体躯、あなたの境遇、これらは全部、あなたが過去世で体験して覚えて来たものの結果なんですよ。だから、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、全員の個性が違うのです。

 

いいですか、もう一度言いますよ。あなたは「事件」をきっかけとして、そこから、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解等を徐々に深め、今世で掴みきれなかったものを来世への課題(カルマ)として残すのです。そして、その課題克服のために、「事件」のシナリオを設定して、また物質世界に誕生して来る。

 

このようにして、「事件」のきっかけを通じて、その時々の体験を存分に味わい、自分のものとして行く。これが、霊的成長を図るということなのです。そしてこれこそが、あなたが、この世に誕生して来た目的なのです。ですから、「課題」とはそこです。「事件」ではありません。「事件」に接した際の、自分のリアクションの中に「課題」が隠れているのです。

 

ですから、そこにこそ着目してください。「事件」はすべて、天から贈られたギフトです。自分が自分に贈ったといってもいいです。なぜなら、もしそれが贈られなければ、霊性向上のチャンスには出会えないからです。さてその時に、自分が同じパターンのリアクションを繰り返していないかを見てください。感情の動かし方、口の利き方、態度、処理方法等です。そこにあなたのカルマが現れています。これは、そのことに本人が気づくまで、何度も贈られます。

 

これまでを、じっくり振り返って見てください。お中元お歳暮の恒例ギフトにしてはいなかったでしょうか。もうそろそろ、受け取り拒否にしてはいかがでしょうか。これを読んでくださっているみなさんは、今日、たぶん多くの謎が解けたと思います。そのきっかけを与えてくださったのは、この質問者の方です。そのギフトに感謝して、自分の生をしっかりと全うしていきましょう。