by Rainbow School
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劣等意識と才能

アンデルセンの童話に、よく知られた『みにくいアヒルの子』という物語があります。自分と他のヒナたちとは姿形がどうも違う。他の子たちと較べて自分はみにくい。その劣等意識にさいなまれていた一羽が、ある日、湖面に映った成鳥した自分の姿を見て、実は自分が白鳥だったと気づくという物語です。みなさんも、きっと子どもの頃に聞かされたことがあるでしょう。

 

けれども、この教訓話は、私にはどうしても好きになれないのです。物語の核心は、自分を醜いと思い込んでいた子が、実はそうではなかったことに気づくというものです。しかしその結末は、自分が、アヒルよりももっと美しい白鳥だったというところに救いを見出している。これでは、最初の差別意識の逆転ということでしかありません。この子が、本当にアヒルの子で、アヒルのままだったとしたら、一体どこに救いがあるのでしょうか?

 

「実は、美しい白鳥だった」という結論は、あまり美しいとは言えないと思うのです。結局は、外見の Beauty というところに価値観を置いていますし、たとえ、これが内面を表した寓話だったとしても、ある日、降って湧いたように、自分の内面に「美しさ」を見出すということが、果たして人間に出来るのかどうか。アンデルセンのこの物語には、イジメられ、蔑まれて来たことへの、見返しの気持ちしか見出せないのです。

 

私は、まどみちおさんの『ぞうさん』という歌が好きです。子象は、周囲から自分の鼻が長いということをからかわれ、「みにくいアヒルの子」と同じように気に病んでいました。それに対する救いは「そうよ、母さんも長いのよ」です。子象は、決してライオンになったりはしません。あなたは象なのよ。象だから鼻が長いの。母さんも象だし、象であることを生きているのよ。そのままのあなたを私は愛しているし、それで充分じゃない。と、この歌は語っています。

 

自然界には、同じ形態のものはただの一つもありません。アサリの殻の模様だって、よく注意して見れば、一個一個がぜんぶ違います。実に驚くべき多様性であり、多様性は無限なのです。ここに、宇宙の神秘の構造が示されている。すなわち、全体は一つ、生命は一つであるのだけれども、生命の「表現」は無限の多様性を持つということです。このように、超シンプルと超複雑が同居する。それが宇宙というものなのです。

 

この多様性のことを「個性」と呼ぶのです。そこに優劣はありません。宇宙には無限の「個性」があるのみです。そして、全部の「個性」が、宇宙では必要だから、そこに存在するのであり、他の「個性」に役立つことで、全体の生命が維持されているのです。ですから、役立たない存在など、宇宙には一つもありません。人間だって同じです。一人ひとり全員が「個性」を持ち、役立つために存在しているのです。

 

ところが、当の人間はそのようには考えません。宇宙の真理、本当の生命の仕組みというものを知らないためです。人間は、何事も、自分たちにとって、あるいは自分個人にとって、有用かどうかという視点でしかものを考えません。あらゆるものを「有用」というふるいに掛けて選別し、レッテル貼りしてしまいます。

 

宇宙というものが、生命というものが、巨大な系(System)で構成されているという点を無視し、そうやって、部分を都合よくイジろうとするから、却って自然界のバランスを破壊してしまうのです。そして、その本当の怖さというものも、現代人は解っていません。自然界というものは、人間自身を育む揺りかごであり、生かしていく土壌であるのに。

 

自家焙煎をしているコーヒー店へ行くと、豆をていねいに選別しています。その作業は、美味しいコーヒーを飲むためには、そうすることが有用だからです。では、撥ねられた豆は全くの無用なのかと言えば、土に返せばまた他の作物を育てる栄養になりますし、基準に合わない種は、次の環境変化を生き残るための新種になる可能性だってあるのです。

 

このように、視点をちょっと変えれば、宇宙には無駄になるものは何もないということが解るでしょう。人間の身体も、90種類以上の元素から出来上がっているということが、今日の科学によって確かめられています。この点で、土をこねて造った人形に、魂を吹き込んだものが人間だ、という認識は間違っていません。宇宙という土壌から生まれたもの、それがまさしく人間なのです。

 

さて問題は、人間が、この「◯◯にとって有用であるかどうか」という視点を、あらゆるものに適用し、あまつさえ、人間自身にも当てはめてしまったことです。これによって、人間が、人間を選別するということを許してしまったのです。この人間は、職場にとって有用かどうか、会社にとって有用かどうか、産業にとって有用かどうか、社会にとって有用かどうか、etc.。

 

この考えを推し進めて行くと、ついには優生学による劣等種の切り捨てというところにまで行ってしまいます。そして過去に、実際にこれが行われました。

 

今日では、この考えは「当たり前」になってしまい、誰も疑問を抱く人がいません。みんな、唯々諾々(いいじゃくじゃく)としてその評価システムを受け入れています。それは、早くも幼児教育から始まって、一生をついて回る。そして、次の世代に丸ごと伝承される。ですから、もう誰も疑問を抱かない。しかしこれが、現代人に特有の苦悩の、元凶となっているのです。

 

あなた方は、あらゆるものにスケールを押し当てます。そして、これを3つに分ける。標準と、それよりも優秀、そして標準以下の劣等とにです。優秀者を賞賛するのはいいのです。しかし、スケールの右側に優秀者を置いたとすると、あなた方は必ずと言っていいほど、左側に劣等者を見出そうとします。見出さずにはおられないとでも言いましょうか。

 

これが、実は、大衆支配の構図を決定しているのです。大衆とは、スケールの標準内に収まっている大多数の人たちです。優秀者の中で、支配的な野望を抱くエリート層は、その地位を継続的に維持するために、大衆に対して、「私のようにすればあなたも上に上がれるかもよ」という憧れの餌を撒く一方で、「標準からもしもこぼれ落ちたら大変なことになるよ」という恐怖を同時に与えます。

 

これがモチベーションとなって、大衆支配が維持され続けているのです。自分たちに憧れを抱かせるということは、そのスケールを認めさせるということですし、こぼれ落ちる恐怖を与えることは、そのシステムにしがみ付かせることによって永続性を保証します。それだけではなく、恐怖は大衆のガス抜きにも使えるのです。努力しても上に行けない不満を、自分よりもさらに下を蔑むことに転化させることができるからです。

 

このようにして、あなた方の世界では、表向きは「差別はいけない」と言いながら、堂々と差別が是認されているのです。政治家の発言を、注意してごらんなさい。つねに、差別すべき敵(Enemy)を探していることが判るでしょう。自分たちに反対する勢力、特定の団体、イデオロギー、宗教、民族、果ては人種や国家にまでその対象が及ぶ。そうやって、大衆の不満を「敵」に横滑りさせては、内側の結束を強めようとするのです。

 

しかし、この「敵」を設定するというトリックを、エリートたちは、大衆支配の道具として解ってやっているわけではないのです。本気で「敵をやっつけなければ」と思っている。つまり、そのスケールに最も強く洗脳されているのは、他ならぬエリートたちだということ。ですから、彼らを目覚めさせるのは非常に難しく、大衆がこの構造に、もういいかげんに気づいて、巻き込まれないようにする、同調しないようにするということが大切になってきます。

 

ここで、みなさんに、これまで説かれたことがなかった、ある知識をお伝えしましょう。これまでにも、このブログでは「障害」というものはないのだと何度も語って来ました。あるのは「個性」だけなのだと。しかし世の中では、「障害」というものを何とかほじくり出しては細分し、そこに様々な名前を付けてレッテル貼りをすることが、まるで流行のようにさえなっています。しかも「支援(Support)」と称して。いったい、それで誰が得をしているのでしょうか?

 

自分がどういう人間であるかを知りたい。そういう思いに駆られる時は誰しもあります。特に病気になったり、弱気になったりした時には。しかし、そこにレッテルを貼られると、一時は「そういうワケだったのか」とそれでホッとするのですが、やがてその人は、そのレッテルを貼られたアイデンティティを無条件に生きるようになり、遂には脱け出すのが困難になってしまうのです。

 

あるのは「個性」だけです。自分のトータルを受け入れて、それを「個性」と思えば、その人は「個性」を生きることになります。ところが、「障害」というレッテルを貼り付ければ、まったく同じ自分を、今度は「障害者」として生きることになるのです。いったいどっちがいいでしょうか?

 

今の社会は、「個性」であることを認めようとはせずに、逆に「障害」の名は、社会的に認知されるのです。あまつさえ、そこに等級まで与えています。でも、よ〜く考えてみてください。それは、「健常」というスケールを、より強調する手段になっていることを。このように、一見、良いことをしているフリをして、差別と恐怖による支配が堂々と行われているのです。

 

さてここからが、これまで説かれていない知識です。標準から、自分がこぼれ落ちるのではないかという恐怖心や、標準外、規格外というレッテル貼りは、その人を深く傷つけます。時には、二度と立ち直れないほどに。それは、人間の身体というものが、その時の心のあり様によって常に再創造されているからです。しかしそのレッテル貼りは、いま言ったように、スケール維持のために創作されているのです。

 

ですから、くれぐれも、そのシステムの犠牲になどならないようにしてください。人間の本質は、身体にあるのでも、心にあるのでもなく、「魂」にあります。「魂」は、深いところではつねに宇宙と繋がっていて、真理を知っています。ですから、自分の「魂」の声に耳を傾けて、「魂」が命じるままに生きていれば、決して犠牲になることはないのです。

 

わたくしの真実の喜びは何か?

そう、自分に尋ねてみてください。そこから返って来るものが答えです。

 

人間が、五感を持ち、感情を抱き、心を動かし、思考をするのは、この物質世界を知覚し、そこでの出来事を体験するためです。それは、この世に誕生した目的、物質的世界でしか味わえない体験をするために、あなたが自ら望んでしたことです。しかし、あなたの本質はあくまで「魂」ですから、依然として、「魂」が知覚する世界のことを、超意識の分野では知っているのです。

 

ただ、脳が発達して成長するに連れて、五感刺激の罠につかまり、五感優位の世界に生きる(つまりは心を中心に生きる)ようになって行くために、本来持っていた六感以上の能力を次第に失って行き、やがては「魂」の世界のことはすっかり忘れてしまうのです。つまり、あの世を知覚する能力と、この世を知覚する能力は、通常はトレードオフ(入れ替わり)の関係になっているのです。

 

ですから、脳の発達がまだ未熟な7歳くらいまでの幼児は、霊界のことをとてもよく覚えていますし、ゴッコ遊び(見えない世界に浸りきる)ということが、実に楽しそうに生き生きと出来るのです。また、死期が近くなった人も、脳の活動が弱まって来ると、入れ替わりに「魂」の感覚を取り戻し、「魂」の世界を生きるようになって行きます。そこで「お迎え」などを見るようになるのです。

 

ところが、人間の知識はこのようなことを知りません。また、ほとんどの人が、物質主義を基盤に置いた唯脳論に染まっているために、脳の発達が不充分であったり、機能が低下したり、失われたりした人に対しては、「病気」とか「障害」とレッテル貼りをして、それでみんな納得しているのです。これは、五感による知覚と脳機能に、ここまでは「標準」というスケールを当てて、そこからこぼれ落ちる状態を、「病気」や「障害」と見なしているのです。

 

しかしそれは、全くの一方的な見方です。脳機能が相対的に弱まった時には、トレードオフ関係によって、「魂」は、逆に第六感以上の知覚を大いに働かせていきます。「アール・ブリュット(生の芸術)」というジャンルがありますが、一般に障害者と言われている人たちが、驚異的なセンスのアートを表現するのは、そのためです。彼らには、実際に、自分が表現している世界が鮮やかに知覚できているのです。

 

反対に、健常者と言われている人の大多数は、五感が知覚する世界のみに落ち込んでいて、またそれを「正常」だと思い込んでいるために、第六感以上の世界を知覚することがなかなかできません。そこで、テクニックとして、通常の脳機能を人為的に低下させることによって、第六感以上の世界を知覚するしかないのです。この人為的なテクニックが、いわゆる「瞑想」なのです。

 

認知症とか、自閉症とか、サヴァン症候群と言われる人たちも同じです。この人たちは、通常の人よりも、脳機能が低下した分だけ「魂」の世界にずっと近づいた「生」を生きているのです。それまで「普通」に生活できていたのに、アクシデントによって五感機能や知覚に異常が生じた際には、さすがに本人も周囲の人もショックを受けることでしょう。それは、スケールの標準からこぼれ落ちた、正常では無くなったのではないか、と考えるためです。

 

しかし人間というものを、もっとトータルな存在として見た場合には、「魂」が主体の生き方への転換、次のステージへのジャンプという意味があるのです。そして、そうなったのには、ちゃんと理由があります。その新しく生じた才能を使って、「魂」の世界のことを、また宇宙の真理というものを、人々に伝えるメッセンジャーとしての役割が、その人に新たに与えられたのです。

 

一般の人は、「スピリチュアル」というと、どうしても超常現象や不思議現象や予言などに興味を抱きがちなのですが、そんなものは出会い頭の交通事故に遭った程度のこと。本当の「スピリチュアル」は、むしろ、数学、科学、芸術分野の中に表現されているのです。なぜなら、真の「スピリチュアル」とは、あの世とこの世の中間領域のことではなく、あの世とこの世を全部包含するものだから。

 

だから、「魂」の世界により近づいた「生」を生きるようになった人たちが、数学、科学、芸術の分野で、驚異的なパフォーマンスを見せるのです。それは真実の宇宙の表現。数学者のジョン・ナッシュさんや、アーティストの草間彌生さんもそうした典型的な一人です。そうやって、みなメッセンジャーとしての仕事を遂行しているのです。人々に、宇宙を、真理を、愛を、気づかせるために。

 

えっ、数学、科学、芸術、どれも苦手だってぇ? あ、そう。

じゃあ、もっと言おうか。この3つは、どれも自然の中に完璧に表現されているのだよ。

 

そこで、みなさんにお願いしたいのは、先ずは、劣等意識の罠にハマらないで欲しいということ。自分を犠牲者にしてはいけないよ。劣等意識の罠は、必ず、憧れと脅しの両端のスケールを携えてやって来るから。その時には、「お、来たな」と思って、引っ掛からないようにするんだよ。あなたは、あなたでいるだけで、すでに素晴らしい人間なんだよ。なぜって、そのように作られのだから。ぞうさんが、ぞうさんであるように。

 

何事も全てパーフェクトにこなせる人間なんて、この世に一人も居ないんだよ。誰にも、得意なことと不得意なことがある。それが「個性」であり、同時に「才能」というものなんだよ。身の周りを見渡してごらん。あなたが、いかに他者の助けを借りて生きているか。まさしく、これが自然界の姿を映したものじゃないか。多様な才能によって、生命の輪廻が営まれているという証拠じゃないか。

 

だから、あなたも、自分の個性を光り輝かせて生きるのだよ。その生き方は、さっき言ったように、自分の「魂」に訊いてみればいい。いいかい、他の人の良いところを賞賛するクセをつけなさい。そして同様に、自分の良いところを誉めてあげるクセを付けなさい。この二つは同じことだから。そうすれば、あなたは、もっともっと喜びの中に生きられるようになるから。