by Rainbow School
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男性性と女性性 ―― 内なる女性性が未来を開く

原始、女性は太陽であった。明治44年9月に創刊された雑誌『青鞜』の発刊の辞の冒頭で、平塚らいてうはそう記しました。これは、〈本来そうであった筈なのに、今は日影の身に置かれている〉ということを嘆いたもので、このあと文章は「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のやうな青白い顔の月である。」と続きます。

 

陰陽二元を考えた場合には、一般的に男性が陽極、女性が陰極側に置かれるのですが、男性性と女性性というものを比較してみると、らいてうの言う通り、確かに女性の方が「太陽」のような感じがします。それは産む、生み出すというところから来ているようで、海や大地も、女性性で喩えられることが多い。何か温かな、ふんわりと包みこむような要素を、女性性というものが持っているからでしょう。ちなみに「子産む生む」が「commune」の原点だという説もある。

 

これからの社会変革は間違いなく、この女性性が鍵を握っています。それは、らいてうが生きた時代のような、女性解放運動的な意味合いではなくて、もっと根元的な、人間本来の生き方に還るという意味において重要になって来ます。さらに言えば、これまでの社会にあった男性性の悪い面は、これからどんどん捨てて行く。そのような変革無くして、人類の明るい未来はないでしょう。

 

男性性が支配する社会、それは虚飾であり、遊戯(ゲーム)であり、勝ち負けにこだわる社会でした。こんなものは本来不必要でした。それなのに、そこにずっとしがみ付いて来たことが、人類を永らく不幸のどん底に落とし込んで来た元凶でもあるのです。ですから、先ずはその構造に気づくということが、いま崖っぷちにある地球人類全体を救うことにつながって行くのです。

 

ここで、男性性と女性性が、男性と女性を指しているわけではないことを強調しておきます。男性にも女性性はあるし、女性にも男性性はあります。中には、性同一性障害と呼ばれている人たちだっている。しかし、声を大にして言いますが、それは障害ではありません。「魂」は輪廻転生していますから、今のドレスに違和感を持つ人が出ることは当然です。それは、障害ではなく、個性であり、表現であり、才能であり、恵みです。

 

女性政治家というと、今までは男性に伍してというか、自分の中の男性性を発揮することで、政界への進出を果たして来ました。逆に言えば、男性性を発揮できる人のみが政界に入れたのです。演説の口調、態度、全部が男性のモノマネです。弱みを見せてはいけない、勝たなければいけない、敵をやっつけなければいけないと思い込んでいる。でもそんな時代は、決定的に古いということです。もう終わりです。

 

これからは、女性性を持つ女性政治家、女性性を持つ男性政治家が多く登場することになるでしょう。そうであってこそ、人類に明るい未来が開けて行くのです。女性の社会進出ということも、既存の男性社会のルールの中に、女性がビシッとスーツを着て出て行くというのではなくて、社会全体に、インクが滲むようにして「女性性」が浸透して行く、という意味に変わって行くことでしょう。

 

男性性と女性性との決定的な違いは、ものの見方、つまり視点です。これまで、視点がその人の認識を創り、認識が行動を生み、行動が体験になると繰り返し言って来ました。そのことを思い起こしていただければ、この「視点の違い」というものが、その後の行動までを全部支配していることが解って頂けると思います。いわゆる男女間のスレ違いは、その殆どが、ここに理由があるのです。

 

女性というのは、すぐ目の前にあるものを見ようとします。そして、目の前の対象物の中の、自分が共感できる部分にパッとアクセスして行くのです。ですから、初対面の人とでもすぐに打ち解けられるし、仲よくできるのです。(バーゲン品にスッと目が行くというのもその顕れの一つ)女性のコミュニケーションというのは、まるでレース編みを広げて行くように、糸で繋がりながら周囲に拡大して行くのです。

 

これは優れた特質ですが、目の前ばかりに集中し過ぎて、周囲が見えないという面もあります。スーパーに行くと、少しでも良い品を探そうと、取っ替え引っ替え、下から野菜をひっくり返し、売り場をメチャクチャにして去って行く人をよく見かけます。また、共感でつながるのはよいのですが、そこにちょっとでもズレを感じるようになると、仲間うちの噂話で、特定の人を口撃しようとしたがります。

 

一方、男性の視点には、目の前のものの細部がよく見えていません。男性の場合、そこに関心はないのです。男性は細部よりも、鳥の視点で、先ず全体を俯瞰して眺めようとします。そうやって安全性を確かめた上でないと、自分の降りる場所を決められないのです。用心深いというか臆病というか。そのため、初対面の人とすぐに打ち解けるということは苦手です。打ち解けるまでには何度も会って、相手の「力量を量る」ということをするのです。

 

けれども、この「力量を量る」というプロセスを、一瞬にして省いてしまう便利な仕組みが、男性社会にはあるのです。それが「肩書き」です。男性同士の出会いでは、とにもかくにも名刺交換が先。男性にとっては、自分がどういうところの所属で、どんなポジションであるかが、その人のアイデンティティを決めるのです。ですから、定年でリタイアした後も、何らかの肩書きがついた名刺を欲しがる人が大勢います。

 

男性のコミュニケーションというのは、まるでドーナツ生地を、セルクル(仏:お菓子作りで使う輪っか、英語のサークル)で型抜きして行くようなものです。円形にも大小があり、その他にも星型やハート型や六角形や動植物をかたどったものまである。男性は、自分がこの中のどのサークルに属するかということが大問題で、サークルの中では生き生きとしているものの、その外に対してはあまり心を開こうとはしません。

 

男性性優位の社会とは、このような感覚や態度が、当たり前となり定着した社会なのです。さて、どうでしょう? 現代の女性から見たら、実にアホらしい仕組みだとは思いませんか? 結局、男性性優位の社会というのは、種つけと、重い物を持ったり兵隊員になったりする以外には、あまり使い道のない男性が、それを悟られないようにと編み出した、虚飾の仕組みだと言えなくもありません。

 

さて問題は、この虚飾の化けの皮が、剥がれ始めて来ていることです。いや、もう既に随分と剥がれ落ちている。けれども、それを認めたくない、これまでと同じでありたいと願う人たちが、必死に延命策を弄しているというのが、今という時代状況なのではないでしょうか。そして、その過中で起きている混乱を、みなさんがただ今目撃しているのです。

 

そうでなければ、まるで幼稚園児かと思うような国会での稚拙なやり取りや、バレバレの嘘を平気でつき続けたり、税金泥棒を政府の要職に付けたり、盗んだ大金をお友達に融通したり、犯罪を犯しても友達なら逮捕せず邪魔者を長期間拘留したり、国民の多くが貧困に陥っていても「いざなぎ景気を超える」と言い張ったりなど、とても出来る訳がありません。

 

もう、何もかもがタガが外れていて、呆れるしかないのに、マスコミはそのことをちっとも報道しようとしません。マスコミもまた、崩壊が差し迫った利権構造の延命に、必死になって食らいついているといった状況なのでしょう。しかし、いくらそのような延命策を試みたとしても、最後の最後は、花火のように弾け飛びます。宇宙の摂理から言って必ずそうなります。

 

考えてみれば、男性性とは哀れなものです。現実を〈生き抜く〉という力が乏しいのです。目の前が見えませんから、今ここ(be here now)、この瞬間を生きるという力がそもそも弱い。そこで、入れ替わりに、大志とか、野望とか、ロマンといった非現実的なことを言い出してはこれに執着するのです。坂本龍馬や三国志にワクワクするのも男性。ゲームや博打に夢中になったり、コレクターになるのは、殆どが男性です。

 

女性から見れば「えっ、何でそんなことに?」と、きっと不思議に思うでしょうねぇ。

 

また、男性には「かしずく美学」というものがあって、サークルの内側では、その主君のために馬車馬のように働くのです。そうすることで、上の人たちから、頭を「いい子、いい子」して貰いたいという欲求があるのです。これが度を超して、忠誠を尽くすまで行ってしまう。そうなると、サークルの外側がどうなろうが、人としてそれはどうか、などはもうどうでもよくなってしまうのです。

 

実に、これが恐ろしいのです。小はちょっとした出来心による汚職に始まり、大は世界大戦や、ホロコースト(大虐殺)を引き起こすところまで、男性性というものはエスカレートしてしまう。ところが、サークルの内側にいる人たちにとっては、そうすることに対して、その瞬間においては少しも疑問はないのです。むしろ、信念に支えられて、嬉々としてそれをこなして行く。

 

アイヒマン裁判というのがあって、第二次世界大戦後の1961年、アウシュヴィッツ最後の収容所所長だったアドルフ・オットー・アイヒマンが、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを、イスラエルの諜報機関に捕まり、イスラエルで裁判にかけられた。これをドイツ出身で、当時アメリカに亡命していたユダヤ人の思想家、ハンナ・アーレントが傍聴して『The New Yorker』誌に記事を書いたのです。

 

しかしこの傍聴記は、轟々たる非難を巻き起こしました。ハンナ・アーレントが、アイヒマンを擁護したというのです。しかしアーレントは、分かり易い「憎しみの構図」を超えて、「一体なぜこんなことが起きたのか?」を追究しようとしました。その結果、アイヒマンは、ただの凡庸な役人に過ぎず、職務に忠実に従っただけだったと書いたのです。これは結果的にアイヒマンが主張するものと同じでした。

 

アーレントは、ホロコーストを引き起こしたものの原因には、自己の本質(人間としてのあり方)を忘れてしまった「忠誠心」がある(つまり誰にでも、それは起こりうること)と見抜いたのですが、世間はそれでは納得しませんでした。「目には目を」という分かり易さを求めて、アイヒマンは絞首刑にされました。日本では、インパール作戦を率いた牟田口廉也中将が、戦後にやはり、同様の自己弁護を行っています。

 

男性性というものは、先ずは「枠組み」ありきです。この「枠組み」発想というものから、男性はどうしても逃れられません。それは一見、大局的に物事を見ているようでいて、「枠組み」の中にいちどハマってしまうと、周囲が全く見えなくなってしまうのです。そしてこの周囲の見えなさは、「人として」という最低限の垣根さえも、容易に破壊してしまうほどの恐ろしさを秘めているのです。

 

ですから男性は、環境変化というものに非常に弱い。周囲の環境に慣れるのにも女性よりはずっと時間が掛かるのですが、いったん慣れると、今度は過適応を起こして、そこからハミ出すのを怖がるようになるのです。(男性が、「行きつけの呑み屋」が好きなのはそのため。)そういう弱さを内心よく解っているので、頭のいい人ほど、それを悟られまいとして威張り散らし、真っ先に保身に走ろうとするのです。

 

これに対して、女性性というものは、目の前にあるものにすぐに適応してしまいます。そして、まるでレース編みのようにしてコミュニケーションを広げて行く。それは、いわゆる地図が読めないということ、空間把握する力という点では男性よりも弱いかもしれませんが、現実を確かに〈生き抜く〉という、男性性にはない力強さを持っているのです。

 

そしてこの〈生き抜く〉力に、人間としての理想、子育てに対する理想、食に関しての理想、自然環境に対する理想、働き方に関しての理想等々が加われば、これまでの、虚飾に満ち満ちた、男性性優位の社会を変えられると思うのです。「枠組み」発想にいつまでも縛られた、今の男性性優位の社会に、もう従う必要などはないのではないでしょうか。それでは人類の幸福はない、という結論はもう出ていると思うのですが。

 

原始、女性は太陽であった。まさにその言葉のように、ご自分の中の輝きを、周囲にこれから注いで行って欲しいのです。そうすれば、社会は変わります。男性性に敵対するのではなく、その中に埋没している人を哀れんで、太陽の輝きによって、重い(思い)コートを脱がしてあげてください。今世、女性であった人も、来世には男性に生まれるかも知れませんよ。その時には、今よりも、もっと進歩している男性であるように。

 

いつまでも同じことを繰り返している歴史(he-story)は、ここらで終わりにしましょう。女性も、男性も、これからは内なる女性性を意識して、それを大いに誉めてあげて、行動して行きましょう。枠組みや常識などにとらわれず、あなたの理想に向かって突き進んでください。そして、今ここ(be here now)、この瞬間を、元気よく生きてください。

 

そんなあなたを、わたしはいつも見守っています。