by Rainbow School
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Q.人は「普通」じゃなければいけないの?

Q.職場で、上司から「あなたは、普通じゃない」と言われて、叱責されました。普通? 確かに、自分にはひとと変わった面があると思います。しかしそれは「個性」なのではないですか? 職場でそれを出すのは、いけないことなのでしょうか? そもそも「普通」とはどういうことなのでしょう? 人は「普通」でなければいけないのでしょうか?

 

A.その時の状況がどうで、どういう言われ方をしたのかが把握できませんので、あくまで一般論でしか語れません。しかし逆に、一般論で考えた方が、この問題の本質により迫れると思い、お返事を差し上げます。

 

「普通」という言葉は、普通(←ホラこんな風に)、曖昧に使っていますし、私もよく使います。大方の意味は、大多数の人々が合意している意識や行動のことを差しています。ご相談内容には、この「普通」概念の曖昧さと、そのような「普通」に対して、自分を合わせるべきか否かという課題の、両方が含まれています。

 

混乱が生じるのは、前者の曖昧さと、後者の課題とがゴッチャになってしまっているためです。早い話が、後者の課題に、前者の定義の曖昧さが被ってしまうのですね。ですから、先ずこれは分けて考えることが必要です。

 

私の近年の目標は、「普通のことが普通に出来るようになる」だったのですが、その意味は、毎日の掃除や洗濯をしたり、家の前の道を掃いたり、食事後にお茶碗を洗ったり、散歩時にゴミ拾いをしたり、高速道路を運転したりすることでした。自分には、そういう普通のことが(つまり何でもないことが)、普通に(この場合は、イヤだなぁと思わずに)することが、出来なかったのです。

 

この課題に意識して取り組むようになって、お陰さまで、だいぶ自分を変えることが出来ました。ひとによっては、「還暦過ぎて、馬鹿げた目標だなぁ」と思われるかも知れませんが、自分にとっては、それが「今を生きる」上での大きな課題でした。

 

結局、「行動」というものは、その人の今の「意識」の表現活動ですから、「行動」が目に見えて変わったということは、その人の「意識」が変わったというバロメータになっているわけです。我が家がゴミ屋敷だった頃は、私の心も、アラヤ識ならぬゴミヤ識でした。

 

さて、いま上げた「普通」は、私が勝手に「普通」だと思っている事柄に過ぎません。これに一般的とか、めずらしくない、といった定義を被せたとしたら、果たして「普通」であるかどうか? 掃除洗濯や食後の後片づけなどは、多くの人が苦もなく出来るでしょうが、まったく出来ないというかやらない人もいます。中には、「そんなものは女の仕事だ」と思っている男性だっている。

 

家の前の道を掃くというのは、京都では今も当たり前の習慣のようですが、東京ではもう見かけませんね。道路はゴミだらけです。散歩をするときには、出来るだけゴミを拾いながら歩いているのですが、拾っても拾っても、同じところにまたゴミが捨てられています。おそらく同じ人が捨てているのでしょう。その人にとっては、そうすることが「普通」なのですね。

 

このように「普通」の定義は、元来が、極めて曖昧模糊としたものです。けれども、月木は生ゴミを出す日だとか、赤信号になったら停止線でストップするといった、ほとんど総意とも言える「普通」も中にはある。これは、みんながそれを守った方が、社会生活が円滑に機能するということを、大多数の人が経験的に知っていて合意が形成されているからです。

 

では、次のようなケースはどうでしょうか? 義務教育を受けるために、小中学校へ通うことは「普通」だ。確かに、殆どの子どもたちが学校に行っていますし、大多数ということを基準に考えたら、それが「普通」ということになります。でもそうすると、行きたくない、行かない、という子どもは「普通」じゃないということにされてしまいます。それでよいのでしょうか?

 

事実、不登校の子どもを抱え、悩んでいる親御さんがたくさんいらっしゃいます。でも、「ロクでもない教師ばかりの、ロクでもない学校になど、行きたくない」と思っている子どもだっているのです。その子にとっては、世間的には「不登校」のレッテルが貼られていたとしても、実は「不登校」ではなく、「非登校」の意志を示した行動なのかも知れませんよ。

 

つまり「普通」など、定義が曖昧であるばかりでなく、見る立場によっても違って来るのです。このことは、相談者の事例のような職場でも言えることです。ある職場では、その仕事が、合理的また円滑に、かつ気持ちよく進められるよう手順やルールが設定されます。その中には、「月木は生ゴミの日」のようなものもあれば、そうでないグレーゾーンのものも含まれている可能性があります。

 

一時期、私はパチンコ店の清掃のアルバイトをしました。閉店後の11時から入って深夜に黙々と作業をします。5カ月ほど経った頃、私はウェスの手を滑らせて、陶製の灰皿を床に落とし割ってしまいました。ちょうど同時期にトイレの洗剤入れの破損(これは別の人のミス)などが重なったこともあって、数日後、清掃を請け負っている会社から役員がやって来ました。そして終礼の際に、「たかが灰皿だと思うなよ!」と言ったのです。

 

この価値観や「普通」概念は、私には合いませんでした。たかが灰皿です。アホくさ〜と思いました。それで、その後すぐにそこを辞めました。その会社の人々にとっては、アルバイトの怪我を心配するよりも、灰皿の破損の方が重大な問題なのです。その信念のためには、アルバイトのオッサンひとりを怒鳴りつけても一向に構わない。これが、彼らの「普通」です。

 

こういう「普通」に合わせる必要があるのでしょうか? ブラック企業、ブラック組織が掲げる「普通」に、「こうじゃなきゃいけないんだ」といちいち適応していたら、気がつかないうちに奴隷にさせられてしまうし、自分もブラックに染まってしまいます。ですから、会社や上司が言う「普通」に対しては、常に疑ってみる姿勢が大事です。

 

さてここからが、本質に迫る問い掛けです。「あなたは、普通じゃない」と言われた際に、そこにあなたの人格を否定するような、また侮蔑するようなニュアンスが含まれていたかどうかです。おそらく含まれていたのでしょう。ですから、あなたも反発心を持ったのでしょう。しかしうまく言い返せなかった。そこで、冒頭のような相談になったのでしょう。

 

あなたの中には、「普通じゃなくて、一体どこが悪い?」という思いがある反面、「普通」というスケールをほっぺたにギュッと押し当てられて、「あんたはね、規格外なんだよ」という評価を下されたことで、「えっ、そうなの?」という揺らぎもあるのです。その意味では、あなたは、相手が提示した土俵(スケール)の上に乗っかってしまったわけですね。そんなものは、無視してしまえばよかったのに‥‥。

 

あなたの本質が、個別化した「魂」であるということは、何度も語って来ましたね。そして、なぜ個別化したのかという理由も、最近のメッセージで示しました。そうです、個別の体験をするためです。いいですか、もう一度よく考えてみてください。「魂」が個別化した以上、「個性」が生じるのは当然なのですよ。このことは、誰も否定できません。

 

ところがこの時、みんなそれぞれに「個性」があることを、素晴らしいと思う人と、苦々しく思う人とがいるのです。通常はこの両方の意識を、ほとんどの人が同時に持っていて、中間を揺れ動いています。その典型例は、子を持つ親で、我が子の個性の芽生えを嬉しく思う反面、親の言うことをちっとも聞かないと言っては、始終グチをこぼしているではありませんか。

 

なぜ「個性」を苦々しく思うかと言えば、自分の思い通りにすることが難しいからです。周囲の人々を思い通りに動かしたい、自分の支配下に置きたい、コントロールしたい、と強く願う人にとっては、「個性」など、人間の目障りな資質です。これは、歪んだ「oneness」の願望とも言えるでしょう。結局この二律背反も、「融合 / 分離」という「魂」の根源的存在理由より発しているのです。

 

ところで、この相談者は、自分が「普通じゃない」と言われたことに傷ついているわけですが、実は逆の人の方がずっと多いんですよ。それは、「自分が特別ではない」という思いです。自分には特別な才能など何もない。周囲を唸らせるような光る個性がない。平凡だし、優れた点もないし、何をしていいかも分からない。そう悩んでいる人の方が、圧倒的に多いのです。

 

でもここで、この両極端で、ともに悩んでいる人たちに、ハッキリ宣言しておきます。「特別」でない人など、この世に誰ひとりいません。全員が Special なのですよ。あなたも、そしてあなたも。だからこそ、あなたという個別化した「魂」が、この宇宙に存在しているのです。そのように創られたのですよ、あなたは。先ずそのことに、全幅の信頼を置いてください。しかしここで、同時に、錯覚しないようにしなければいけません。

 

全員が「特別」な存在である。だが、そのことは少しも特別ではない

 

解りますか? 全員が「特別」な存在であるということが、宇宙では「普通」のことなのですよ。それは、自然を見ればすぐに解るはずです。山茶花は寒椿に勝ろうとしているのでしょうか? 寒椿は、山茶花よりも、俺の方がチト偉いんだぜと主張しているのでしょうか? どちらも、あらかじめその種子の中に織り込まれていた「自分」を、この物理世界でただ表現しているだけです。

 

そして、同じ寒椿どうしでも、また山茶花どうしでも、枝ぶりや花の付き方は1本1本ぜんぶ違う。いいですか、優があって、劣があるのじゃないのですよ。全員が Special な存在なのですよ。その Special の現れ方が、ちょっとずつ全員違うというだけです。

 

優劣のスケールなど、他者を支配したい人たちが持ち込んだ一つのツールに過ぎません。優劣を認めたら、たちまちにしてその奴隷にされてしまいます。このツールを、満遍なく信じ込まされたために、人類は、本来しなくてもいい苦労を、今なお際限なく続けているのです。でも、もうそろそろ目覚める時です。

 

全員が Special な存在としてある。ああ、それは、なんという圧倒的な愛なのでしょうか。このことを、今ここで、胸に深く刻み込んでください。その限りない愛を受け取ってください。いったい何者が、あなたという存在を創ったのでしょうか? あなたと、このあなたと、あのあなた。そこに差別や優劣があろうはずはありません。

 

全員が「特別」な存在である。しかしそのことは、何も特別ではない。これが、あなたの胸にしっかりと刻まれた時、人間関係に対するあなたの見方は、きっと一変するでしょう。これまでの悩みがまるで嘘のように氷解し、あなた自身が、全き愛の人に生まれ変わっているに違いありません。

 

友よ、そこにこそ、真実のあなたがいるのですよ。