by Rainbow School
<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< “絶対的” なものなど、どこにもない | main | 文明の終り >>
支援(Support)ということについて

困っている人を助けることは良いことです。人間がみんな、そのような優しい心根を持って生き、行動していたとしたら、どれほど素晴らしい社会が出現しているでしょうか? しかし残念ながら、現実はそのようにはなっていません。

 

これは地球人類が、霊的にまだまだ未熟なためです。学校で言えば、小学校入学のレベルにも至っていません。助けるよりはむしろ虐げる、平等よりは優劣、与えるよりは奪う、融和よりは闘争、正直よりは欺瞞を好む人間が、社会のリーダーとなって、民衆をその価値観で染め上げ、引率しています。彼らがリーダーになれるのは、それを支える大衆に、結局は同じ心根を持つ人が多いからです。

 

でも心ある人たちは、内心それはおかしいと感じています。ある意味、それは当然です。なぜなら、その人の「本質」は、虐げるよりは助ける、優劣よりは平等、奪うよりは与える、闘争よりは融和、欺瞞よりは正直の方が、人は幸せに生きられるということを知っているからです。この〈心ある人たち〉というのは、自己の「魂」が発する声に素直な人たちなのです。

 

けれども、「魂」の声に素直な人たちにとっては、今は非常に生きにくい時代です。ちょっとニュースを見れば、暴力事件や紛争やテロで人が何人殺されたといった話ばかり。一方で、株価がどうしたこうした、ビットコインが史上最高値をつけたとかと言って人々を儲け話に誘う。イヤな世の中だなぁと思いながらも、多勢に無勢で世の流れには逆らえない。こんな状況に、きっと胸を痛めておられることでしょう。

 

先日、ある人からこんな相談を受けました。その方の職場近くの路上に、ホームレスの男性がいたのだそうです。彼女は気の毒に思って、最初、食べ物をその人に渡してあげていた。そのうちに話をするようになったというのですが、ある時、男性から「500円くれないか?」と言われて、それで急に怖くなったというのです。さて、あなたがその彼女だったらどうしますか?

 

そんなつもりで始めたことじゃないのに‥‥。自分はただ困っていると思って、ちょっと食べ物をあげただけなのに‥‥。一人ぼっちじゃないよ、と言いたくてお話しただけなのに。どうして今、彼はそんなことを言って来るのだろう? 500円。うーん、どうしよう。あげるべきなのだろうか? でもここでお金をあげたら、これから会うたびに無心されるかも知れない。もしかして、最初は500円だったのが、次には1000円になるかも知れない。そして段々と私の生活に入り込んで来るかも? あーイヤだ、自分は何を怖れているんだろう。500円が惜しいのか? いや、そうじゃない。やっぱり彼を、本当のところでは受け入れていないんだ。自分の愛が足りない、ということか? 最初の思いが、単なる偽善者に過ぎない、自己満足に過ぎなかったということを、いま突き付けられているのだろうか?

 

きっと、こんな思いが頭の中を駆け巡るのではないでしょうか? 私にも、若い頃に同じような経験があります。一緒に切磋琢磨して来た友人の一人が、鬱になって仕事が出来なくなってしまった。無収入になった彼を憐れんで、私は彼に10万円をあげました。当時、10万円もあれば1箇月生活できたのです。倹約すれば2箇月は持ちます。その間に、打開策を見つけられるだろうと思ったのです。

 

ところが10日ほど経った頃、当時住んでいたアパートに彼からのハガキが届きました。そこには「お金が無くなりました。」と、一言だけ書かれてありました。これにはびっくりすると同時に、私は腹を立てました。私の3倍のスピードでお金を使っている! いったいどういうことだ。それ以来、彼とは一度も会っていません。今でも時々、どうしているかなぁと思うことがあります。

 

もう30年も前の話で、当時は、私も今のような智恵を持ってはいませんでした。それで、自分のしたことに、やはり激しく自己嫌悪し、悶々とした日々をしばらく送りました。

今の私なら、昔の自分にどう言ってあげるでしょうか? また彼にはどうしてあげるでしょうか?

 

これから書くことは、世間的な、また処世術的な回答にはならないと思います。ですが、この『気づきの啓示板』の読者なら、きっと解ってくださるだろうと思います。

 

近年、「支援(Support)」という言葉が一般に広く浸透し、そうした行為、行動、考え方が当たり前のような感覚になりつつあります。冒頭にも書いたように、困っている人を助けてあげることは、基本的には良いことです。でも、その人が、何に困っているのか、その困っている部分を何をもって助けてあげるのか、を見極めることが非常に大切です。

 

お腹が空いていたら、おにぎりを作って食べて貰えばいいですし、寝るところがなかったら、部屋の一部を提供して布団を使って貰えばいい。ところが「お金」となると、何か気分がザワザワするのは、「お金」というものがいろんなサービスに代替できてしまうからです。その結果、ひもじいのだろうと渡してあげた500円を、お酒を買って飲んでしまったということが起こり得る。

 

*逆に、災害発生直後には、何にでも代替可能な「お金」がいちばん良くて、毛布や古着ばっかり送って来られても困る、という話もあります。

 

このズレは、本当に困っていることの原因が見抜けていないことと、対処の仕方が適切でないことの両方が合わさって生じます。この場合、「500円くれないか?」と言った人は、ひもじかったのではなく、実はお酒を飲みたかったのです。でもそれだって、違うかも知れません。本当のところは、孤独感に打ちひしがれていて、それをお酒で紛らわそうとしたのかも知れません。だとすれば、お金もお酒も何の解決にもなりません。

 

「支援(Support)」という言葉の、今の一般化や常識化は、どうも、この視点がスッポリ抜けているような気がしてなりません。現代においては、「支援」というものが何か制度化、イベント化してしまって、却って、本当に困っていることは何か、というものを見抜く目を失わせているのではないでしょうか? 沈鬱な表情に沈み切った人を助けるのに必要なことは、ただ優しく抱擁してあげることだけなのかも知れません。

 

若い頃の私に、そしてこの500円騒動の相談者に、共に欠けていた視点は、「課題の区別」ということです。私も相談者も、「どうしたらいいのか?」という対処方法にばかり目を向ける余り、相手の課題とは関係ない課題まで自分の中に創り出し、それと闘う羽目に陥っている。そのことに気づかないのです。500円をあげるべきか、あげざるべきか。そのことで、果たして自分が苦しむ必要があったのか? いったいそれは、誰の課題なのか?

 

もちろん、「あなたの現実はあなたが創っている」とこれまで言って来ましたし、「何事にも偶然はない」とも言って来ました。だとすれば、そういう状況に遭遇したのは、何か自分にとっての意味があるはずだ、と生真面目なあなたは思うでしょう。それは、その通りです。ですが、ここからが問題です。「真の援助とは何か?」ということを、あなたは考えなくてはなりません。

 

ここで、世間的な常識からは大きくズレます。宇宙でいう「真の援助」とは、たった一つ。相手の「魂」が、今この瞬間(be here now)の自己の課題に気づいて、成長することを促すことだけなのです。そう聞いて、「なんだ、また『魂』かよ」と呆れられる方もおられるでしょう。でも「なるほどそうか!」と、今までモヤモヤしていたものが、スッキリされる方も多分おられることでしょう。

 

「魂」は、すべて個別のパーソナリティを持っています。あなたが誰かに会う。その時、あなたは、その関係性の中にご自身の課題を発見します。が同時に、相手もその人自身の課題を発見しているのです。これは、当然ながら、同じではありません。そして、その時の境遇や事件は、たとえどんなに悲惨で可哀想なものに見えたとしても、宇宙的に見れば、すべてがギフトなのです。

 

この考え方には、きっと激しい抵抗を覚える方もおられることでしょう。ではこう言い直します。ギフトに変え得る力を、各々の「魂」は最初から持っている。そして、ギフトに変え得た者のみが、それこそが「神の恩寵」だったと気づく。これが、いわゆる『沈黙する神』という命題の答えなのです。

 

神は沈黙している。何もしてくれないように見える。しかし、あなたがハッと気づけば、あなたは、元々が神の一部なのですから、その瞬間に、自分の恩寵を自分で受け取るのです。解りますか? これが、これまでの宗教では決して説かれることがなかった奥義なのです。なぜ説かれなかったのか? みんながこれを知ってしまったら、組織宗教が成り立たなくなってしまうから。

 

ですから、「真の援助」とは、その人の「魂」の課題を見抜いて、今ある状況から、相手が何を学び取るのか、どういう至らなさに気づくのかを、促してあげることなのです。そのためにこそ、お互いの出会い、人間関係というものがあるのです。このことが解れば、いわゆる「支援(Support)」というものの多くが、時に逆効果しか生み出していないことの理由がお解りでしょう。

 

一生懸命「支援」しているつもりが、依存・共依存の関係を創り出しているだけに終わっているケースがあまりにも多い。また、支援する側のちょっとした満足とは裏腹に、支援された側が却って孤立感を深めてしまうケースも見られる。今の親子関係の多くが、自助グループと称するものの多くが、こうした罠に陥っています。それは、互いの「気づき」を遅らせ、「魂」の成長を阻むものになっていることに、それこそ気づいていただきたいのです。

 

課題=成長へのチャンスであることに着目してください。介入し過ぎることによって、相手の課題を奪ってはならないのです。それは、天からのギフトを取り上げてしまうということです。もちろん、相手の課題まで自分が引き受ける必要はありません。あなたにはあなたの課題があるのですから。だから、そこに集中しなさい。そして、それはエゴではありません。

 

そう行動することは、「情」が支配する人間社会から見れば、一見、何か冷たいものに映るかも知れません。がしかし、「宇宙の法則」とはそういうものなのです。「愛情」から「情」を取り去れば、真の「愛」だけになる。宇宙の人になる。時には、何にもしないことが、最大の援助だということがあり得ます。まさに、それは『沈黙する神』のように。

 

ですから、誰かを助けてあげられなかったからと言って、悲しんだり、自分を責めるのはお止しなさい。それぞれの「魂」には、それぞれの課題があって、そうなっているのですから。たとえあなたが助けられなくても、その人は、最初から助けられているのですよ。だから、あなたはあなたの課題に、ちゃんと向き合いなさい。そして自分を助けなさい。それが、結果的には多くの人を助けることに繋がるのですから。