by Rainbow School
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“絶対的” なものなど、どこにもない

自分で自分を客観視することは、完全にはできません。自分の行動や思考プロセスを、時に内省することは出来ますし、それは自己の成長にとって必要かつ大切なことですが、それでも「内省している今の私」というものから逃れることはできません。そこで、人はしばしば、客観的に見ようとしている自分と、見られている自分がゴッチャになり訳が分からなくなってしまう時があります。

 

えっ、しょっちゅうそうだって? それはいけませんなぁ。そんな時には、誰か権威ある人にジャッジして貰いたくなったり、倫理道徳の規定や、聖なる書物の一節に従いたくなったり、霊能者のご託宣を仰ぎたくなったりするものです。私にもそういう時があります。でもその時に大切なことは、外から来る情報に対しては、いつも、「私にとっての真実」をそこに見つける、という姿勢で臨むことです。

 

これまで「外から来るものは信じないように」「つねに自分自身に頼りなさい」と、何度も語って来ました。しかしそれは、外から来るものを完全にシャットアウトしなさいということではないのです。そもそも、それは不可能ですし、それを目指したら、地上で生活する意味がなくなってしまいます。そうではなくて、外から来るものを「自分で選んだ」という意識を、つねに持って接することが大切なのです。そして、実際にそうなのです。

 

たとえばこの『気づきの啓示板』にしても、自分の中にパッと明かりが灯ったように感じるセンテンスが時にあろうことかと思います。それはその瞬間に、あなたという個が、自分の中に元々あった、封印された小箱の蓋を開けたのです。それで、光がサッと射し込む。ですからそのとき眼にした言葉、それは単に鍵の役割を果たしたに過ぎないのです。

 

このようにして、あなたは、「真の自分」を、その段階に応じて徐々に思い出して行っているのです。外から来る情報は、一見偶然のように見えて、実は天によって周到に手配されたものです。しかし「気づき」となる情報は、その準備が出来た者にしかもたらされません。同じ情報を見ても、準備が出来ていない人には、自分にとっての価値が見出せず、それは素通りして行ってしまうのです。

 

ですから、「これは私に向けて書かれた言葉だ!」と読むことが大切なのです。これは文章だけに限ったことではありません。友人が発した言葉、街を歩いていてふと耳にした会話、人々の仕草や行動、足を止めて眺めた絵やオブジェ、音楽、景色、すべてがそうです。自分の周囲に展開されるすべてを師として眺め、そして自分の発見とする。これが、自分でハンドリングするということであり、「自分に頼む」ということなのです。

 

冒頭に書いたように、外に頼みたくなる気持ちも解ります。でもそれを、自分自身の選択に変えていかないと、人は外部にあるものの奴隷として生きることになってしまいます。「魂」が本来有している「自由」の放棄です。

 

人はよく「聖書には、真実がすべて書かれてある」とか、「誰々という過去の偉人はまるで神のような人だ」とか、「わが師である◯◯先生は、この世で最高の人物だ」などと言います。そして、「神」の言葉が記された書物なのだから、この聖書・聖典は「絶対」なのだ、あの先生の仰ることは「絶対」なのだというロジックを使いたがります。

 

けれども、その聖書・聖典を記して編纂したのは、紛れもなく人間です。その「先生」と言われる人物も、人間なのです。最高のチャネラーといえども、同じ不完全な人間なのです。「神」は自らペンを取りません。誰かを通して語らせる。その誰かとは人間です。そこをよく考えなくてはいけません。

 

さらに、言葉そのものが不完全なものです。だからこそ、同じ聖書・聖典類を奉じていながら、言葉の解釈をめぐって異論が百出するのです。そして、たくさんの宗派に分かれ、どっちが本物かと言って不毛な争いをしている。それがどれほど馬鹿げたことであるか、なぜ気がつかないのか。一体なんのための、スピリチュアルな世界への参入なのでしょうか?

 

何事にも「絶対」などはありません。もし「絶対」なるものがあったとしたら、活動がそこで停止するということです。いま有る「絶対」が、少しでも動いたら、それはたちまちにして「絶対」でなくなるからです。宇宙は、決して活動を停止しません。あえて言えば、「絶対」でないことののみが「絶対」である、と言えるでしょうか。すべては、至高を目指して「今、成ろうとしている」存在なのです。

 

それは「神」ですらも。

ですから、神に似せて造られた人間、不完全な我々がいるのです。

 

何かを “絶対的” と認めた瞬間から、それを基に自分の行動を規定してしまうという(つまり自分には「自由」はないと信じる)逆転が始まります。あの先生が言ったことだから、それに従順に従う。聖書・聖典にこう書かれているから、それを信じる。戒律でこう言われているから、それを固く守る。本人は、そうすることが “絶対的” に正しいことだと信じている。

 

そして、その状態に埋没して生きることが、「聖」なる領域に生きることだと信じ込んでいる。でもこれが、「奴隷」でなくしてなんだと言うのでしょうか? この宇宙に、あなたという「個」が生み出されたのは一体なぜなのでしょうか? 自分というものを失くして、奴隷的人生に身を捧げるために、わざわざこの世に誕生してきたとでも言うのでしょうか?

 

ご覧なさい。今の世の中を、そして世界を。宗教でも、お金でも、政治でも、科学でも、“絶対的” と信じる「何ものか」に、自分を売り渡してしまったロボット人間たちが、世界を大混乱へと、生命を大破壊へと導いているこの現実を。なぜ誰かの後を付いて行こうとするのでしょうか? なぜ、自分で自分を縛る道の方を選ぶのでしょうか? なぜ、「自由」であろうとはしないのでしょうか?

 

あなた方の最高の権威は自分自身なのですよ。そのことに自信を持ちなさい。あなたの代替は、他にいないのですよ。あなたという「魂」は、一兵卒でも、駒でも、歯車でも、部品でもありません。この広い宇宙の中に、たった一つの、個性を持った独立した存在です。コントロールされる自分ではなく、自分をコントロールできる自分を見出しなさい。

 

「魂」は生きないではいられません。「魂」には、この世でいう死はないのです。ですから、人間にとっては、生き残ることが問題なのではなく、どう生きるかが問題なのです。この意味をよく考えなさい。あなたはどう生きたいですか? 生き残りのために、自分の「自由」を押し殺して生きる人生と、「自由」を謳歌して、生き残りなど考えずに瞬間瞬間を燃焼させる人生と。

 

いいですか。幸福とは、その時々の「気持ち」なのですよ。