by Rainbow School
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神は「居る」のではなく、「在る」のだ

ピンポン🎶〜とチャイムが鳴り、玄関に出て見ると、外に見知らぬ女性が二人佇んでいました。二人が醸し出すその雰囲気から、私は直ぐに察知して「宗教ですか?」とこちらから先に尋ねました。相手は頷くと、よくその名を聞く某渡来系の教団の名を名乗りました。(へー、こんな過疎の山奥にまでやって来るのか)と、私は驚き、その行動力に感心しました。私が住む部落には4軒しか人が住んでいないのです。

 

彼女たちに、私はのっけから「宗教の時代はもう終わりです」と、いつも話していることを伝えました。それは挑戦的態度を示そうとしたわけではなく、その場を早く打ち切りにしたかったからなのですが、でもそんなことであっさり引き下がる人たちではありません。彼女たちも「使命」を感じてやっておられることです。結局それから30分も話をすることになりました。

 

「今の世界の混乱の、大部分は宗教が原因になっているのじゃありませんか?」と言うと、彼女たちもそれを認めるのですが、「それは神様の本当の意向を知らないからです」と言い、でも「自分たちは違う」と言うのです。そして、「神様は、そうしたことも全部見ているんですよ」と言って、自分たちが信奉する「神」の名を挙げるのでした。

 

「神の本当の意向を知らない」というのは仰る通りだと思いますし、「全部見ている」というのもその通りです。強いて言えば、「見ている(watch)」というよりは、「知っている(know)」と言った方が適切な感じがします。がしかしそんなことよりも、私が不思議に思うのは、2000年前に勃興して、その後、人の手によって成立した宗教および聖典の解釈を巡って、未だに正統派争いを繰り広げてるというその時代錯誤の感覚です。

 

超ミクロ世界に迫る量子力学が誕生して90年、宇宙の膨張が発見されてから同じく90年、DNAが発見されてから60年、惑星探査機ボイジャーが太陽圏外に向けて出発して40年、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられて27年。それなのに、どうして宗教だけは、2000年も前に創られた「神話」の解釈論に、今もって終始しているのでしょうか?

 

おかしいとは思いませんか? あれだけ熱心に「神」を説きながら、現代に「神」は存在しないとでも言うのでしょうか? もし現代に「神」が存在しないのなら、過去の「神」を語っても無駄ですし、現代に「神」が存在するのなら、「神」はいつでもその時代に合った言葉と方法で語りかけて来ているはずです。それでこそ、永遠かつ普遍的存在と言えるのではないでしょうか?

 

なぜ、2000年も前の「神話」を、未だにどの宗教も有り難がるのだと思いますか? それは、まさに「神話」だからです。今進行しつつある現実ではないからです。「神話」だから、骨董的価値があると思われ、数々の奇跡もスンナリ認められる。「神話」だから、言葉を巡って、それぞれの宗派が、都合のよい勝手な解釈が出来るのです。

 

宗教者は、我々が住む「宇宙」というものを、果たして真剣に真正面から考えたことがあるのでしょうか? 彼らは「神様」は語ります。自分たちが承認する「神様」については語ります。しかし「宇宙」のことは語りません。けれども、「神」と「宇宙」と「生命」は、すべて同義です。同じことの言い換えなんですよ。なぜなら、「神」とは、「全て」だからです。

 

「神様」は正しく見て下さっていると、彼らは言います。自分たちが信奉する道のみが正しくて、それ以外は邪道であり邪教だと言います。そちらの道を行く人たちは、みなサタンに支配されているのだと言います。こんな馬鹿げた世界論、宇宙論が、果たしてあるでしょうか?

 

囲碁を思い浮かべてください。自分たちは本当の「神様」を奉じる白い碁石のグループ。でもその横には、サタンの支配下にある黒い碁石のグループも勢力を延ばしている。これが今の世界だと言う。では、その世界を支えているものは何でしょうか? 碁盤ですよ。白い碁石も、黒い碁石も、全部碁盤の上に載っかっている。だとすれば、その碁盤全体が「宇宙」なのだし、それが「神」だ。

 

「神」は、白い碁石じゃない。「全て」だ。この当たり前のことに気がつくことが、21世紀に相応しい、新しい「神学」の出発点になる。

All is in all.(全ては全ての中にある)

だから、当然のことながら、あなたも「神」の一員なのですよ。

 

「神」とは、全智であり、全能であり、全存在であり、宇宙であり、生命であり、完全なる愛であり、法則であり、その全てだ。あなた方は、その「神」の、Sum of God(神の総和)を形成している。

 

神は「居る」のではなく、「在る」のだ。

 

どうでしょう、ここで提案なのですが、「神」に「様」を付けるのを、思い切って止めてみては? 止めたところで、「神」は別に怒りはしない。今までだって、人間たちは「神」をさんざんに言ってきたのだから。「神様、神様」と崇め奉るから、擬人化した感情的なものを、自分の外側に求めてしまうのだ。「神様」は「居る」と信じ、「神様依存症」で生きるしかなくなってしまうのだよ。

 

「神は、未だかつて、自分の名を名乗ったことは一度もありません。なぜなら、宇宙それ自身であるものに名前は必要ないからです」と私は言い、空中を指差して「神はここにも在るし、あなたの中にも在る。そして私の中にも」と言ったのですが、彼女たちには通じませんでした。きょとんとした顔をして「あ、もうお昼だから」と言って帰って行きました。

 

「洗脳」というものは、実に不自由なものだなと思いました。でも彼女たちは、自分が「洗脳」されているとは夢にも思っていません。「信仰」していると思っているのです。正しいことをしていると思っている。この教団のホームページを見ると、「教えの型に固く従うように努力する」とある。もう全然ダメです。「教えの型」も、「固く従う」ことも、「努力する」ことも。

 

宗教の恐ろしいところは、実にそこです。自動車を暴走させて通行人の列に突っ込んだり、山に火を点けて家ごと家族を焼き殺したり、集会所に行って銃を乱射したり。人間が、同じ人間に対して、どうしてこんな酷いことが出来るとお思いですか? 固い「信念」が在るからなのですよ。固い「信念」が、個人の内なる常識をぴょんと超えさせてしまうのです。「信念」が、人を殺人者にしてしまうのですよ。

 

内なる自分にちょっと聞いてみれば、「相手も同じ人間なんだよ。同じ生命(いのち)なんだよ。宇宙の一員なんだよ」という声が直ぐに返って来るはずです。でも「信念」は、その声をあっさり素通りさせてしまう。そして、現代においては、固い「信念」は何も宗教だけに限ったことではありません。政治的「信念」、金銭的「信念」、教育的「信念」、医療的「信念」、etc.。

 

こうしなきゃダメだ、ああしなきゃダメだ。現代人は、押し寄せて来るあらゆる「信念」の洪水の中で、もう息も絶えだえになっている。それが、今という時代の「生きにくさ」の原因です。その鎖から、解き放たれる手助けをしてあげることが猛烈に求められているのに、宗教までもが、自分たちがこしらえた古臭い「信念」を振りかざし、人々をなおも従わせようと躍起になっている。

 

「教えの型」を学ぶ必要はないし、「固く従う」ことなどむしろ避けるべきだし、「努力する」必要も全くない。あなたは、ただ「ありのままでいい」ということに気づくだけでいいのだ。

 

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。」

 

まことにその言葉の通りです。しかし、細い道、狭い門とは、特定の宗教・宗派のことを指しているのではありません。そうではなくて、外から来る何かを「信じる」という大通りから、逸れることが人間には難しいのです。みんながゾロゾロ着いていく道から外れて、自分の好きな小道に一人で分け入っていくということがなかなか出来ない。それには、ちょっとした勇気を必要とするから。

 

重要なのは自分自身なのです。外から来るものを「信じる」ことではない。あなたの現実は、あなたが創っているのですよ。自分が、自分の周囲に起きるありとあらゆる出来事について、何をどう解釈し、どんな意味を与えるか、それだけなのです。だから、ありのままに、自分が導く道を行けばよい。なぜって、これが生命の全ての目的なのだから。

 

「信じない」イコール「疑う」ということではありません。自分の内なる「それ」を信じていれば、外から来るものは、「疑う」ことも「信じる」ことも必要がなくなるのです。いつでもオープンハートでもって接することが出来るのです。そしてその状態にあることを、「魂」の自由、「宇宙」との一体と呼ぶのです。これぞ完全なる独立、かつ宇宙との融合です。

 

だから、内なる声に耳を傾けなさい。自分を信じなさい。内なる細い道を目指すのです。そこは元々、あなたが通って来た道なのですよ。そこを帰るだけです。あなたはひとりぼっちじゃない。いついかなる時でも、わたしと共にある。わたしは「全て」なのだから。わたしが在るように、あなたも在る。ですから、安心して己の道を選ぶのだよ。そして、自身の内に湧く歓喜のロードを進みなさい。