by Rainbow School
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想いは実現するということと、人生苦との狭間

想いは実現する。この言葉を、スピリチュアルなことに関心のあるあなたなら、きっとどこかで目にしたことがお有りでしょう。ところが言葉とは裏腹に、人生というのはままならないし、ちっとも思い通りにはいきません。いったいこれはどういうことなのでしょう? 若いころの私も、思い通りにならない現実に随分と苦しみました。苦しんで、苦しんで、とうとう還暦を過ぎちゃいましたよ〜。(・ω・`;)ノ

 

仏教学の権威である故中村元さんは、サンスクリット語の「苦(dukkha)」を、〈思い通りにならない現実〉と訳されました。これは名訳とされているのですが、仏教では、そもそもの出発点に「一切皆苦(いっさいかいく)」という捉え方を置いています。それからすると、〈人生ってのはねぇ、ぜーんぶが思い通りにならないんだよォ〉ということになってしまいます。う〜ん、暗い。

 

ま、そりゃそうなんですが、還暦を過ぎた今は、「これはちと言い過ぎだよな」と思うようになりました。確かに、人生は思い通りにならないことだらけです。でも最初から「一切皆苦」という認識を自分の中に置いてしまうと、常時「一切皆苦」という人生を自分の中に創り出してしまうことになってしまいます。皮肉なことに、まさにその意味で、思考は現実化してしまうのです。

 

仏教の限界はそこにある、と今の私は思っています。「苦」を努力してなんとか乗り越えるという発想。それで随分回り道をしましたね。その過程が無駄だったとは思っていませんが、これからの人たちが同じことをする必要はもうないと思います。生老病死が本当に深刻な苦しみであった時代には、その思想は慰めになったことでしょう。でもこれからは、本当の科学(因の科学)を知る時代です。

 

50代の半ばを過ぎた時に、私はそれまでの一切合切を捨てて、「これからは、普通のことが普通に出来る人を目指そう」と決めました。「普通のことが普通に出来る」とは、ご飯を作ったり、お茶碗を洗ったり、洗濯をしたり、買い物に行ったり、掃除をしたり、ゴミを出したり、草取りをしたり、花を育てたり、クルマを運転したりといったことです。これらが、当時の自分には出来ませんでした。

 

なぜ出来なかったかと言いますと、それらに「苦」を感じていたからです。どれも、やればやれないことではなかったけれど、半分「嫌だなぁ」と思いながらやっていた。ですから、それらを難なく普通にこなしている人を見ると、「凄いなぁ」といつも尊敬の眼差しで見ていました。その姿は、私にとっては大きな憧れであり、次の人生の大目標だったのです。

 

台所に、山のように洗い物が溜まっている。「これを洗わなくちゃいけないのか、嫌だなぁ」と思う。そう思うこと無しにスッと出来るようになりたい。そして遂には、喜んで出来るまでになりたい、とそう思ったのです。これはあくまで一般論ですが、そういう意味では、世の女性たちは、男性よりも遥かに進んでいると思います。「虹の学校」の門を叩くのも9割が女性ですし。

 

山奥で暮らして5年になりますが、家の近くに産土神を祀った小さなお宮があるのです。最初に来た時には、過疎地でもう誰も手入れをする人がなく、お宮全体に腰高までの草が生い茂っていました。「よ〜し、これを一つ、自分の『普通の人』になるプロジェクトの実験にしてみよう」と決めた私は、その年から、少しずつ手入れを始めました。

 

最初は、鎌で草を刈っていました。ひとりですので、一日では全部刈れません。しかも、刈っても刈っても、また草が生えてくる。春から夏に掛けては大量の花が地面に落ち、秋になると落ち葉でたちまちいっぱいになってしまいます。それでも続けていたら、2年目から草の背丈が低くなり、地面が見えて来ました。そして3年目になると、草の代わりにうっすらと苔が生えて来たのです。

 

4年目になると、これが逆転し、苔の間に生えた雑草をピンセットで引く抜くスタイルへと変わり、今ではあたり一面に苔が生え、すっかり苔神社に生まれ変わってしまいました。そして、何かしっとりした、凛とした空気があたりに満ちて来るまでになったのです。そうなってみて「ああ、これか!」と、私はやっと気がつきました。「想いは実現する」ということの意味がです。

 

苔を生やしたのは私ではありません。自然にそうなったのです。「自然て、なんて凄い庭師なんだろう」と思いました。苔神社にしようというプランが私にあったわけではありません。今できることをコツコツやっていたら、だんだんと姿形が変わっていった。そして驚くことに、いつの間にか自分も、普通に草取りや掃除ができる、掃除喜爺さんに変身していたのです。

 

ああ、想いは実現する。

 

でも想っただけでは、もちろん実現はしなかったでしょう。行動したからこそ、そうなった。しかしそれは、こうも言えます。先ず「想わ」ないことには、次のステップである「行動」は生じない。そこで、〈人生思い通りにならない〉ことの原因の一段階目は、「想っても行動しない」か、「想いそのものを抱かない」か、そのどちらかだということです。耳が痛い人、おられるのではありませんか?

 

いや、俺は強烈に想っていたし、それなりに行動もした。それでも実現しなかった。そう仰る方もおられるでしょう。かく言う私もその一人でした。20歳の時に映画監督になる夢を抱き、東京に出てきてそのための努力を必死にした。でもいつも、あと一歩というところでなぜか道が閉ざされてしまうのです。

 

泣きたい気持ちに押し潰されそうになる中で、私は自分の運命を呪いました。その不運の才(?)が、その後もずっと自分にまとわりついて離れませんでした。

 

さてそこで、〈人生思い通りにならない〉原因の二段階目です。今になって思うのですが、そのように図られたということです。誰に? 天によって。いや、もっと正確に言えば、自分の「魂」が、そのような軌道修正を選んだと言うことです。あの時もし、自分の「心」が望んだようにスンナリ映画監督になっていたら、今このようなことはしていなかったでしょう。また出来なかったでしょう。

 

そう考えると、不運の日々、屈辱の日々、貧乏に喘いでいた日々、悲しみに打ちひしがれた日々、この世の不条理に憤っていた日々、うつ病で死ぬことしか考えなかった日々、そしてカミさんの病死、それらがみんな今の自分の役に立っているのです。

 

また、もし自分に、生まれつきの霊能でもあったなら、きっと錯覚して、道を誤っていたことでしょう。無能だからよかった。無智だからよかった。だから選ぶことが出来た。お宮さんの掃除を始めた時と同様、ゆくゆくはメッセンジャーになろうなどとは露ほども考えたことはなかった。でもコツコツやっていたら、いつの間にかそうさせられていたのです。天の手足となったのです。

 

あなた方はみな、この世に転生して来る際に、一人ひとりが、自分の今世における「課題」を設定して誕生しています。この「課題」は、自分という「魂」の霊的成長を図るためのもので、前世までのカルマの刈り取りが半分と、今世で新たに味わいたい領域の体験が半分含まれています。そしてそれが体験できる国や環境や両親や自分の肉体を選んで、この世に誕生して来るのです。

 

「魂」は、そのことをもちろん覚えているのですが、成長してこの世を体験し、五感に操られる「心」の方がしだいに優勢になるに従って、大多数の人は、自分が設定して来た転生の目的を忘れてしまいます。このブログで、しばしば「思い出すだけ」と言っているのは、そのためです。何かを掴まなければと思う必要は何もないのです。思い出せば「魂」に帰れるのであり、それが「真我」の発見、つまり自分探しということなのです。

 

ということで、あなたの「想い」が、この「魂」が設定してきた目的に合致し、かつ「宇宙の法則」に則っていることであれば、それは自ずと実現することになります。と、今書きましたが、正確には、あなたの「魂」の初期設定に合致するだけでよいのです。なぜなら、転生時における各「魂」の課題設定そのものが、「宇宙の法則」に則った上で創られているからです。

 

ですから、自分の今の境遇や運命を呪ってはなりません。全部、自分が計画したことです。よくよく見つめてみれば、そこには必ず何らかの学びが含まれていることが解るはずです。それを素直に受け取りなさい。そして感謝しなさい。間違っていたならば修正しなさい。それでこそ、あなたの「魂」が成長できる。カルマも試練も、あなたがご自分に贈ったギフトなのです。だから、自分を愛しなさい。

 

想いは実現する。この言葉を、世に言う「成功者」の方々が発しているのを時々見かけます。また、この手のハウツー本やスピリチュアル系の教材も山のようにあります。それらと、いま言った意味とを、混同しないようにしてください。「成功者」などという概念は、「不成功者」の上に立ってこそあるものだということに気づいてください。そんなものが「宇宙の法則」だと、あなたは本気で思うのですか? わたしが、わたしの子らの差別を望むとでも言うのですか?

 

あなたの本質は「魂」です。「魂」は不死不滅であり、今世で行き着いた霊性のレベルと、この世で体験したことに付随した思いと、身につけた技能と、積んだカルマだけが、次の転生にも運ばれます。境遇や、体験や、物資的なものは、全部、それらのプレイの「道具」に過ぎないのです。このことが解れば、人生にとって、いったい何が重要なことなのかが解ることでしょう。

 

なぜちょっと前のブログで、今度の選挙のことを書いたのか。人は、そしてメディアは、受かったとか落ちたとか、大勝したとか惨敗したとか、そんなことばかりに注目します。でも、それらの何一つ、あの世へも、そして来世へも運べないのですよ。議員の椅子もバッチも、私利私欲で得た財産も名声も、何一つ運べないのですよ。運ばれるのは、その「行動」に至った「想い」だけなのです。

 

そして、自分が蒔いた種は自分で刈り取るという法則があるだけ。だから反省が大事なのです。「因の世界」にまで遡った反省が必要なのです。自分が犯した間違いに直ぐに気がついた者は、その場で直ぐに刈り取れます。でも、間違いに、更に間違いを重ねて生きる者は、雪だるまのようにそれを膨らまし、来世にまで持ち越して、大きく実ったカルマを刈り取らなければなりません。

 

賢明なあなたなら解るでしょう。それは「罰」ではないということが。ただ、自分が為したことは自分に返るという「宇宙の法則」を学ぶチャンスに過ぎないということが。そしてそれは、自分で自分に贈ったギフトなのです。このことが心底解った時、あなたの「魂」は大きく成長する。

 

だから、自分の今の境遇を、嘆かず、朗らかに、精一杯生きなさい。瞬間瞬間の思いを大切にしなさい。そして、何気ない「今この瞬間」に喜びを見出した時、あなたは宇宙の奥義を理解することでしょう。

 

これこそが「神の恩寵」であったということが。

“God bless you” だったのだということが。

 

残念ながら、多くの人が、成功や、物質的な充足を、この世での「想い(願望)」にしているために、それが実現しないと言っては嘆いています。かつての私のように。でもそうではないのです。あなたの真の「想い」は、ソウルの「想い」にこそある。そこに気づけば、そして自分自身を発見できれば、あなたの「想いは実現する」のです。宇宙とは、最初からそのように創られています。

 

だから、友よ。あなたもそのように生きるのだ。