by Rainbow School
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宗教の和は成るか?

私の祖父は宗教家でした。山岳密教の修験道行者で、八海山を行場としていました。父は八人兄弟の次男で、幼い頃から寺(以前には本堂があったのですが今は消失)を継ぐように言われていたのですが、兵隊に取られてしまい、結局は医者になる予定だった伯父(長男)が後を継ぎました。そのような訳で、父は宗悦という宗教者の名を付けられ、その父から私は宗和という名を付けられたのです。

 

誰でも、自分に付けられた名前に、特別な関心を抱く一時期というものがあると思うのですが、私も〈宗の和が今成る〉という自分の名前については、ことあるごとに考え続けて来ました。父からは「名前負けしている(名前が立派過ぎて中身が追いついていない)」としょっちゅう言われ、「俺が付けたんじゃねぇ」と反発しましたし、自分の名が好きではありませんでした。

 

宗教的なものが大嫌いだったカミさんは、「宗」の字を毛嫌いし、生まれた息子には、「宗の字を付けたら絶対にダメ。宗ネームはあなたの代で断ち切ってください」と言うので、私はそれに従いました。息子の名は、自分の願望を押し付けるようなことはしないようにと、生まれた赤ちゃんに「どう呼ばれたい?」と聞いて、それを付けました。

 

「宗」という字は、ウかんむりに示と書きます。ウかんむりは家の屋根の象形で示は「神」ですから、この字は「家の神」を意味し、そのことから特定集団の信仰を表しています。ということで、その特定集団の教えが「宗教」ということになるのです。以前から、私は宗教的なものには強い興味がありましたが、けれども宗教にはどうしても馴染めないものがありました。

 

最近になって、その理由というものが、過去世との関係でようやく解って来たのですが、それは書かないことにします。とにかく「宗」の字がだんだんとイヤになって来たものですから、それに山をつけて(家を合わせた全体という意味がある)「崇」に変えてみたりしたのですが(でもこれ、タタリとも読むんですよね(´ρ`))、それもコダワリに過ぎないなと思い直して、元に戻したのです。

 

祖父の時代(明治、大正、昭和初期)には、宗教が必要だったと思います。今と違って、民衆の中に学識のある人というのは少なかったですし、疑問があったらキーワド検索をすればすぐに答えが得られるという環境もありませんでした。人々の悩みの主たるものは貧しさと病気であって、それに具体的に援助の手を差し伸べるものとして、山間の部落においては宗教が一定の役割を果たしたのです。

 

しかし今の時代は、宗教成立の前提となるもの(社会環境も、科学の進歩も、人々の学識も、悩みの質も)が大きく変わり、人々の精神的支柱、もっと言えば魂の支柱となるものが、もはや「宗教」では支えきれなくなっていると思うのです。

 

「宗教」は、物質世界を超えた Something を、信仰や預言や教義や戒律として人々に提示してきました。それは、無学な人が多かった時代、また科学が未発達な時代には仕方のないこと、むしろ必要なことだったと思います。けれども宗教は、同時に大きな弊害をもたらしました。それは、自分の頭で考えないようにさせるということ。つまり、人間をロボットにしてしまうということです。

 

宗教家は「信仰」の大切さを説きます。時に、「やっぱり信仰がいちばん大切ですか?」といった質問を私も受けることがあるのですが、「いえ、信仰は必要ありません」と答えると、その質問者はびっくりした顔をして、眼が空中を泳ぐのです。そりゃそうです。自分が昇って来た梯子を、いきなり蹴倒されたようなものですから。それで、呆れ返って去って行かれるわけですが‥‥。

 

信じて仰ぐ。私は、人類にとってこれは最悪な行動だと思っています。自分にはとうてい理解し難い、不可視、不可思議な現象については、もう信じて仰ぐしかないと、多くの人が考えているわけです。問題は、ではその「信じるもの」を誰が提供するのか、ということです。これが、教祖、教団、教義、教典になっている。でもなぜそれが、それのみが「信じる」に足ると言えるのでしょうか?

 

そこで、宗教者はこう言うのです。「ゴチャゴチャ言わんと帰依せい。あれこれ考えるヒマがあったら信仰しろ。他力におすがりするんだ」と。そこで、半信半疑のまま信仰の道に入る。そして、いったん入ると、周囲にも同じような人たちがいますから熱心になるし、理解し合える友だちが出来て救われたような気にもなる。そうして、ますます信仰にのめり込んで行く。

 

こうなるともう抜け出せません。「信仰」は自分を支える柱ですから、もしこれが倒れたら自分が自分でなくなるという恐怖が生じて来るのです。そこで、ただひたすら「信仰」に忠実であることを選ぶ。ところがその先には、避けては通れない関門が必ず待っているのです。その教団の霊的支柱(教祖や後を継いだ者)の死です。ここで、自分を支えていた柱がポッキリ折れる。

 

ですから、宗教教団というものは、その後の跡目争いを巡って、必ず内紛状態に陥り、担ぐ人を立てて、いくつかの宗派に分裂し、やがては互いを非難するようになります。シーアとスンニの争いもそれですし、日本のある大教団も今そうなりつつあります。いったい何のための「宗教」だったのか、「信仰」だったのか、という原点を、権力闘争の陰でみんな忘れてしまうのです。

 

これが「信仰」というものの恐ろしさです。自分で気がつくということをさせずに、他力にすがるようにさせる。それは他力のロボットになるということです。ですから、他力次第で、自分がいいように操られてしまう。今の世界を、混乱と破壊に陥れているものの元凶は、実にこれです。人々の「信仰」が、そして「信仰」の縄張り争いが、今の世界を破滅へと向かわせているのです。

 

「信仰」は、なにも宗教だけの世界とは限りません。資本主義、物質主義、拝金主義、グローバリズム、科学万能主義、国家主義、排他主義、その他もろもろ。あなたを信じ込ませ、自分の意識で気づかせないようにさせているものは、みんな「信仰」です。そしてこの「信仰」同士のぶつかり合いが、バトルロイヤル(battle royal)化してしまったのが、今の世界情勢です。

 

Love is blind.(恋は盲目)。無条件で「信じて」しまったら、人は盲目になってしまいます。どうして宗教どうしが争うのでしょうか? 宗教は、もともと、人々を幸福にしたいと願って始まったものではないのでしょうか? それが今、かつてないほどの殺し合いを、世界各地でまた始めているのです。

 

自分の頭で(あるいは心で、直感で)ちょっと考えれば、それがいかに矛盾したものであるか、愛の対極にある行為であるかはすぐに解るはずです。ところが、それすらも気づかせずに、人をロボットにしてしまう、殺人兵器にまでしてしまう「信仰」というものの恐ろしさ。そして、その恐ろしい行為を、みな「正義」だと信じていることの凄まじい狂気。

 

なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか? その原因は、各宗教が、自分たちの信じる「神」以外は「神」にあらずと、互いに主張し合うからです。これほど馬鹿げた、かつ矛盾した話はありません。なぜなら、「神」は万物の創造者であり、同時に被造物でもあり、よって一者であることは自明だからです。各宗教は、「家の神」と真実の「神」の、区別がついていないのです。

 

あなたも宇宙の被造物です。ですから全体の一員です。ということは、同時に創造者の一員でもあるのです。つまり「神」はあなたの中にある。あなたも「神」の一部なのだ。しかしこのことを、今まで、どの宗教も説いて来ませんでした。宗教は、「神」はあなたの外側にいると主張しました。だから、様々な神、我が神、我々だけを愛する神が創られたのです。そう信じる人間たちの手によって。

 

その結果、創られた神、人間が想像した神(想像神)どうしが戦うようになってしまったのです。これが、今の世界の現状です。私たち日本人にはとうてい理解し難いことですが、西洋社会ならびにイスラム社会においては、同じ中東より発した3つの一神教が、大衆の精神にあまりにも深く浸透しており、一神教であるがゆえに、互いの憎悪がますます酷くなって来ているのです。

 

このような中で、今後、宗教の和が成るのかどうか。和が実現しなければならないことは勿論ですが、そのためには、各宗教が「違い」ではなく「同じ」部分に気づく必要があるのです。果たしてそれができるかどうか。今まで他との「違い」ばかりを強調して来た各宗教にとって、それは180度違う展開になるわけですから、その宗教の解体につながりかねません。その勇気を持てるかどうか。

 

「SOUL」というのは、Singular Outflow of Universal Life の頭文字をとったものという説があります。魂というのは、全てであるものが個別化したものだというわけです。まさに言い得て妙。あなた方はみな、一つのもの(Univers には、宇宙という意味と、普遍的という意味があることに注意)から、物質的身体を纏うことによって、個別化したものなのです。

 

なぜ個別化したのか、それが鍵です。それを、よーく考えてみてください。ヒントはこの文章の中にすでに書かれています。あなた方は、大霊(神)と、個別の魂との間で、行ったり来たりするエレベーターに乗っているようなものなのです。上階(界)行きのボタンを押せば、一者に向けてどんどん融合して行き、下階(界)行きのボタンを押せば、どんどん分離が広がっていくのです。

 

重要なポイントは、各宗教が今どの階のボタンを押しているかということです。上階を押せば融合は深まり、下階を押せば分離が拡大する。個人においてもこれは同じです。あなたが上界行きのボタンを押せば、人はみな同じということに気づき、したがって融和と愛が深まっていく。でも下界行きのボタンを押せば、人はみな違うという意識が強まり、優劣と闘争意識が強まっていくのです。

 

けれども、もしあなたが、「神」は既にそれぞれの内にいるという真理を知ったとしたらどうでしょう? すべての人の中に「神」がいるのですから、最初から一つです。そこには分離はありません。最初から一つなのですから、改めて組織化する必要もないし、教祖、教団、教義、教典も、何も必要がないのです。あなたは最初から完璧であり、ただ在るだけで祝福されているのです。

 

実に簡単なことです。あまりに簡単過ぎて、今までほとんど知らされて来なかったのです。いや、知らそうとして来た人はいつの時代にもいたのですが、人々は、もっと有り難みのあるもの、権威のあるもの、自分が支配されることを求めるものですから、常にその声が無視されて来たのです。でも、人類はもう崖っぷちまで来ました。さあ、あなたはどうしますか? どうしたいですか?