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自分探し、あなたという存在

自分は何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか?

 

日常の喧騒から離れてひとり静かにしている時、ふとそのような思いが沸き起こって来た経験というものが、誰しもあると思うのです。そして大抵は結論を見出せぬまま「余計なことは考えないでおこう」とその思いを打ち消し、また日常の喧騒の中に戻っていく。なぜかと言えば、そんなことを相談できそうな人が、自分の周囲にいそうもないから。言い換えれば、誰しもが分からない。

 

あなたがもし、それを堂々と言葉に出して、周囲の誰彼となくぶつけたりしたら、下手をすると「この人、鬱病かしら」と思われかねない。あなたという「今の存在」の成立に手を貸した親に聞いたとしても、たぶん満足な答えは得られない。学校の先生に訊いてもおそらくは知らない。宗教家に尋ねたら、自宗のマニュアルに載っている見解を、ただ棒読みするだけでしょう。

 

でもね、あなたが「自分は何者なのか」と考えることは、決して無駄なことではないんですよ。それこそが大いなる旅の出発点なんです。この壮大な「宇宙」というものを知るための。そして、「宇宙」と「自分」との関係を知るための。

 

フランスの画家、ポール・ゴーギャンの作品に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』とタイトルが付けられた、タヒチを題材とした大作があります。タイトルから分かる通り、ゴーギャンは人間存在のこの基本的な命題にストレートにアプローチしようとしていました。それはアーティストならではの直感によって、日常を超えた真理に迫ろうとしたのです。

 

あなたは何者なのか? 実はこの命題については、古(いにしえ)より答えは明かされているのです。しかしその答えを知るためには、あなたという存在が「霊主体従」であるということを、自覚する必要があるのです。なぜなら、この答えは霊的な世界にしか見出せないからです。

 

「この世」という物質世界だけから見ていたのでは、「誕生と死」という人間存在に関する両局面の意味を正しく解釈することはできません。なぜなら、扉の向こう側が、依然不明のままだからです。だからこそ「どこから来て、どこへ行くのか」という疑問も湧いてくるのです。

 

時空間というものが支配する、この物質世界だけから見れば、確かに、この世に肉体を持った「生」が、ある日誕生し、そしてまたある日消滅するように見える。しかし、それを見つめただけでは、この自分という「意識」が、その前後でどうなるのだという疑問は解けないのです。

 

これはちょうど、「宇宙」の創生ということと相似形を為した命題になっているのです。

 

今の『ビッグバン理論』では、ある日ある時、「無」から突如「宇宙」が誕生したのだと言い、誕生したからには消滅する日もきっとあるのだろうと言っています。では、「ある日ある時」というのは何なのでしょうか? その瞬間はどうやって決まるのでしょうか。どうすれば、「無」から突如「ある日ある時」が生じるというのでしょうか? それまでは「時間」も「空間」も無かったのですよ。

 

「無」から、ある日ある時、自発的に「有」が生じるということであれば、それは「無」ということにはならないのではないでしょうか? そうさせる何らかのフォースが加わらなければ、変化など起きようがないのではないでしょうか。そして、そのフォースが有ったということになれば、「宇宙」が誕生する以前は「無」だったという前提そのものが崩れてしまいます。

 

このように、宇宙の創世に関する疑問は、人間の誕生に関する疑問と、完全に相似形を為しているのです。どちらも、物質世界だけから説明しようとした際には必ず論理的矛盾にぶち当たる。そもそも「無」とは何なのでしょう? 「無」を簡単に口にする、科学者、哲学者、宗教家には、「これが無だ!」というものを、ぜひここに見せていただきたいと思います。

 

宇宙というのは、完全なホログラフィック構造を持っていて、大きいものも小さいものも、超巨大なものから極小のものまで、組成はみな同じなのです。大宇宙をマクロコスモスといい、人間をミクロコスモスというゆえんです。人間は神に似せて創られたということの意味はそこにあり、人間の肉体を構成している元素も、実際宇宙と同じものです。

 

「宇宙」には始まりも終わりもなく、したがって「無」もなく、「宇宙」はただただ「変化」し続けているのです。そしてこの「変化」こそが「生命」の実相なのです。「宇宙」の別名はまだまだあります。「宇宙」は真理、「宇宙」は自由、「宇宙」は愛、「宇宙」は知恵、「宇宙」はつながり、「宇宙」は永遠、「宇宙」はエネルギー、「宇宙」はバイブレーション、「宇宙」はプロセス。そのどれもが正しい。

 

これらの一切合切が「宇宙」。

よって「宇宙」は一つ。一つが全部。

All is one.  One is all.

全部が “それ” 。“それ” が全部。

この “それ” を、ある人は「神」と呼ぶ。

 

あなたは何者なのか? どこから来て、どこへ行くのか?

その答えが、ここにあります。

 

あなたは「全部」の一員だ。だから「全部」のことを、もし「神」と呼ぶのであれば、あなたはご自分のことを、堂々と「神の一部」だと言っていい。いやもっと「私が神だ」と言っても構わない。なぜって、それが事実なのだから。でも忘れちゃいけないよ。全員がそうなのだということを。全員が「神の一部」なのだということを。そしてその総体が「神」なのだということを。

 

あなたは「神」より出でて「神」に還る。地上での体験を、自由に行うために。その乗り物として借りたものが今のあなたの肉体だ。だから、乗り物をいたわってあげなさい。粗末に扱ってはいけないよ。乗り物が発する警告を聞きなさい。手入れを上手にしてあげなさい。そして、この乗り物を最大限使って、自分の想いを表現し、行動し、体験するのです。それが、あなたという人間を決める。

 

あなたは「神」だ、「神の一部」だ。これが一つの結論。でも、そこから一部(a part)となって分かれたあなたには、もう一つの「自分探し」が待っている。それが、今のあなたという存在、その意味だ。

 

人生に意味はあるのか? それを、いくら探そうとしてもダメだ。ジェネラルな意味なんて所詮ないのだから。人生に意味などないんだ。目的はあってもね。

 

「えっ」と驚くことはないし、途方に暮れることもない。目の前を見回してご覧なさい。コーヒーカップがあるとしましょう。でもそれがコーヒーカップだと決めたのは誰なんだろう。それにご飯をよそって食べたっていいし、味噌汁を入れたっていい。お米を量るのに使ってもいいんだ。いいかい、ここで重要なのは、周囲のものは全部あなたが意味を与えているってことなんだよ。

 

ものごころが付き始めた幼い子と付き合ってご覧なさい。うるさいくらいに「ねえ、これなあに?」って訊くよ。それは、まだ意味を与えていないってことなんだよ。典型例はゴミだ。その瞬間までは有効に使っていたものを、ある瞬間からあなたはゴミという意味に変えてしまう。でもそれを拾い上げた人が、骨董という新たな意味を与えるかも知れないよ。

 

ここに気づくんだ。今の世の中の不幸は、外側の条件が、自分というものを規定させていく(と思い込む)ように仕向けられていることなんだよ。いわく、あなたは金持ちだ、貧乏人だ、どこそこ出身だ、職業はこうだ、肩書きはこうだ、障害者だ、病気持ちだ、独身だ、老人だ、デブだ、ヤセだ、etc.。

 

「ねえ、これなあに?」と訊いた、無垢なあの日を、ほとんどの人間が忘れてしまったんだ。そして、外側からやってくる「意味」を、他の誰かが作り出した「意味」を、無条件に受け入れてしまっている。この状態を「洗脳」と言うんだよ。

もう一度言うよ。周囲のもの全部に意味を与えているのは、実はあなただ。

 

なぜ、自分にだけは、自分で意味を与えない?

 

いいかい、人生に意味などない。意味を与えるのは、あなたなんだよ。そしてそれは自由なんだ。大切なのは、「自分はこういう存在としてありたい」と、自分が決めることなんだよ。それが、実は「自分探し」ということなんだ。チルチルとミチルの話を何度かしたけど、自分を探そうとして、いくら外に旅に出たって発見などはできない。自分が自分に意味を与えた時、わたしが決まるんだ。

 

あなたが、「こういう存在でありたい」と決めた時、あなたの思考が決まり、あなたの行動が決まる。それを Be Here Now で生きて、その生きた連続した軌跡が、あなたの人生なんだよ。それがハッピーというものなんだよ。だから、あなたにはお願いしたいんだ。素直な存在、誠実な存在、苦しんでいる人を助ける存在、溢れんばかりの愛に包まれた存在となることを。

 

今ここで、そういう人になることを宣言して欲しい。

 

そう、分かった。あなたの宣言を受け止めたよ。