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優越意識

自分がまだ10代だったころ、オフクロは、私によくこんなことを言っていました。「ひとの良いところだけを見なさい」。これは当時、イヤな奴との軋轢に悩んでそれを吐露した際に諭された言葉です。でも当然、そんな言葉で納得するわけがありません。ますますぶんムクれて「そんな問題じゃねーんだよ」と悪態をついていたと記憶しています。

 

しかし今にして思うと、その通りだなと思うのです。その言葉は、10代の自分を直ちに変えさせるまでにはいたりませんでしたが、でもこうして今も頭の隅にずっと残っている。真実の言葉というのはそいうものだと思うのです。決して古くはならない。そして受け入れる準備が整った時に、パッとそれが解る。

 

「良いところだけを見ろ」と言われても、もちろんそんなわけにはいきませんよね。たとえば、コーヒー豆の選別を考えてみるとすると、良い豆を選ぶということは、悪い豆を取り除くということですから、この2つはいつも同時に起こるのであって、良いところだけを見るということは実際には不可能です。ま、屁理屈を言えば。

 

でも価値の置き方を選ぶことができます。ひとの粗探しばかりしていたら、その人の良い点が目に入らないし、だいいち自分の心の中をネガティブでいっぱいにしてしまうわけですから、気分がよかろう筈がありません。逆に悪い点はスルーして、良い点だけを見ていれば、こちらの心の中をいつも快適にしておけるというわけですね。

 

インターネット社会になって、嘆かわしいなぁと思うのは、この粗探しや、他者を罵倒するという行為が、もはや当たり前の感覚に育ったことです。誰も彼もが、特定のターゲットを決めては悪罵を投げつけている。節度なんて、もうどこにもない。

 

最初にこれをやったのはテレビでした。次いで夕刊紙。それ以前に週刊誌というものがあったのですが、週刊誌はあくまで裏の道でしかありませんでした。ところがテレビが、表の道でそれを解禁してしまった。とにかく、ターゲットにした人物を徹底していじめ続ける。このいじめが終わるのは、賞味期限が切れた時か、次のいじめのターゲットが見つかった時だけです。

 

そして、インターネットで匿名で個人発信が出来るようになってからは、雪崩を打ったようにその感覚が広がり、子どもたちの間でネットいじめまでが登場するようになってしまいました。皆さんは覚えておられるでしょうか? 2チャンネルが登場した当時、これに眉をひそめる人は多かったんですよ。今は全部が2チャンネル化してしまいました。

 

政治では、ジョージ・ブッシュ大統領が登場してから、タガが外れてしまいましたね。今のドナルド・トランプ大統領をご覧なさい。安倍晋三首相をご覧なさい。節度なんてどこにもない。これが今の時代の風潮。国会の場を見てください。テレビのコメンテーターを見てください。みんな、自分以外の誰かをこき下ろすことに血眼になっているじゃありませんか。

 

結局、そうした言動の奥にあるのは優越意識です。あるいは、自分が優越だと(思いたい)意識です。現代社会では、人々の間に、こうした優越意識が、異常とも言えるほど肥大してきています。この主原因は、今の人間社会から、皮膚感覚のコミュニケーションが失われてしまったためです。血縁、地域縁、職場縁、etc.。かつてあった共同体がことごとく崩壊し、みな孤立してしまった。

 

するとどうなるでしょうか? 自分を定義づける場がないのです。活躍の場がないと言ってもいい。たとえばコミュニティでお祭りか何かのイベントをするとしましょう。気心が知れた人間が集まった時には、Aさんは字がうまいから看板を書いてもらおうとか、Bさんは料理が得意だからまかないをやってもらおうとか、自然と役割が決まりました。つまり自分を定義づけられたわけです。

 

ところが、今はそれがありません。そこで、根拠のない優越意識を振りかざすことで自分を定義づけたいと思うのです。「こいつ、なんにもわかっちゃいねーぜ」とか、「ただのハゲのおっさんだろ」とか、ワンフレーズでこき下ろす。こき下ろすのですが、その理由については説明がないし、「My opinion(私の考え)」をきちんと話すこともないのです。

 

そして、この優越意識が、国家、民族、人種、ジェンダー、血筋、学歴、企業名、役職、財産、スタイル、美貌、若さ、宗教、政党、軍事力、経済システム等々、ありとあらゆるものに仮託され、自分たち以外の者をこき下ろす際の道具(ツール)となっているのです。今の世界がメチャクチャなのは、これを他ならぬ、指導者層にいる人たちが、最も率先して行っている異常さです。

 

なぜ世界から戦争と貧困がなくならないのか。なぜ地球の環境破壊が止まないのか。これらの原因は、最も強烈な優越意識を振りかざす人間が、政治、経済、教育、宗教等の指導者となって、民衆を優劣の差別意識へと駆り立てているからです。これが社会の劣悪さを生み出している元凶なのに、彼らは優越意識を正当化する言葉と行動しかしないのです。

 

そこに、一般の民衆が巻き込まれて、さらには自分たちも優劣意識の論理に染まり、その中で自由を奪われ拘束されている。これが、人類の最大の不幸であり、この不幸が、今や種としての生存さえ危うくさせる段階にまで来ているのです。人間が、種としての存続をこのまま望むのであれば、この自滅行為をストップさせねばなりません。この構造に気づくのです。

 

優越意識を持つことは、そりゃあ気持ちのよいものでしょう。周囲の人たちの尊敬を集めることができるでしょうし、人々を支配することだって可能でしょう。けれども、自分よりも優越を主張する存在が出現した時、この気持ちよさはたちまち不快に変わります。相対的に劣位に転落してしまうからです。そこで優越意識を保つために、目障りな奴は徹底して攻撃しようとするのです。

 

世の中をよくよく眺めてご覧なさい。国家 vs 国家、企業 vs 企業、政党 vs 政党、政治家 vs 政治家、宗教 vs 宗教、学者 vs 学者、コメンテーター vs コメンテーター、全部がそのような不毛な争いを延々と繰り返しているのが解るでしょう。その裏にあるものは、実に単純な衝動です。俺よりも優れた人間がいることなど絶対に許さんぞ。

 

そんなことをして苦しむのは誰でしょうか。みんなです。勝者などいない。優越意識に浸って、一時いい気持ちを味わうこともあるでしょう。ですが、これを覚えて置きなさい。他人に為したことは自分に為したことと同じである。なぜなら、全部が一つだから。他人を叩けば、自分を叩いたことと同じであり、他人を愛せば、自分を愛したことと同じになるのです。

 

あなたには個性があります。その個性は、何のためにあるとお思いですか? 優劣を確認するためにあるのではありませんよ。あなたを定義づける道具(ツール)としてあるのです。

 

あなたが編み物を始めたとしましょう。あなたはその日から「編み物をする人」になる。それが好きになって、どんどん研鑽を積んだとしましょう。あなたは「編み物が上手な人」になる。さらに研鑽を積んで独自の技を身につけたとしましょう。あなたは「編み物の達人」になる。そして、個性が輝く。あなたの個性を、他の人々に、社会に、役立てることができる。

 

それは優劣ではないのです。個性なのです。一人ひとりが、みんな素晴らしいのです。周囲に違った個性があるからこそ、あなたも個性的でいられるのです。ですから自信を持ちなさい。あなたの個性は誰にも真似できないのですから。そして、周囲の個性を讃えなさい。みんな違っていることを喜びなさい。

 

お手てつないで一緒にゴールすれば平等なのではありません。そんなことをしたら個性を圧殺してしまいます。駆けっこが速い子はそれを讃えてあげなさい。ビリの子は、剽軽でひとを笑わせるのが得意かもしれない。植物の観察に熱心かも知れない。学校では目立たないけれど家ではお母さんの手伝いを黙々とやる子かも知れない。それを見出してあげるのがエデュケーションです。

 

バラはバラであり、ユリはユリであり、ユリはバラになる必要はなく、バラよりも劣っているのではないことを、自然を手本にして子どもたちに伝えてあげなさい。バラはバラとして咲けばよいのであり、ユリはユリとして咲くことが、美しさのハーモニーを形づくっていることを伝えてあげなさい。そして、最初からそのように花咲くことが約束されていることも。

 

ひとの粗探しはもう止めにしましょう。誰かの粗探しを一つする。それは、自分の心の中に「不快」を一つこしらえたということなんですよ。自分の気分を自分で悪くするような、そんなバカなことは、もう金輪際やめましょう。

 

だから、粗探しではなくて、ひとの良いとこ探しをしなさい。そうやっていつも他者を見なさい。一つすれば、あなたの心は一つ豊かになる。いっぱいいっぱいすれば、あなたの心は豊かさでいっぱいになる。周囲の物、周囲の人に意味を与えているのは、つねにあなただということに気づきなさい。自分がどういう意味を与えるかで、不幸にも幸福にもなれることに気づくのです。