多くの人は便利さを求めるので、人口が必然的に都市部に集中し、今や日本人の大半は、「生きる」ということを都市生活を前提として考えています。田舎と言っても今はクルマ社会ですから、30分も走ればショッピングセンターがあって、感覚的には都市部とそれほど違いがありません。そのような中で、取り残されたように、ますます過疎化している農村が点在しているのです。
そんなわけで、農村に暮らす人との接触も今は殆どないとは思うのですが、たまに旅に出た時、あるいはテレビ番組などで、毎日々々、黙々と畑仕事や手仕事をしているお婆さんの姿を見て、「この人は凄い!」と思わされたことはないでしょうか? 確か、司馬遼太郎さんも、「高僧よりも、農村で暮らす人間の方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜだろう」と仰っていたと記憶しています。
私も、以前NHKで放送された『秩父山中 花のあとさき ムツばあさんの秋』を観た時には、大変な感動を覚えました。「ああ、自分もこうなりたいなぁ」と思ったのです。少しでも、その心境に近づきたいと思いました。50代の半ばから、段々とそういう気持ちが膨らんでいったのですが、それで自分も、戸数6戸という今の限界集落に移り住むことを決心したのです。
巷で言われているような、いわゆる「老後」などは全く考えませんでした。
人生設計はもうしない。今を生きる。ただそれだけです。
そこにどれだけ集中できるか、命を燃やせるか、瞬間々々を喜びに感じられるか、それが自分のテーマです。
老後破産が心配だ、病気になった時を思うと不安で仕方がない、一人暮らしじゃいかにも寂しい、と多くの人は言う。そんなものがなんだというのだ。瞬間々々を、心配と不安と寂しさで満たしてしまって、一体どうしようというのか? あなたの「今の気持ち」の連続が、あなたの人生だというのに。あなたの行動の軌跡が、あなたが何者かを決めるというのに。
農村で暮らすお婆さんは、身をもって教えてくれているよ。そんな心配は無用だって。土と水とお天道様があれば、それで充分だって。
高僧よりも、農村で暮らすお婆さんの方が、人間的にずっと先を行っているように思えるのは当然なんです。なぜって、実際にそうだから。人間性というのは、霊性の、この世における顕現です。つまりは、世間で高僧と言われる人たちよりも、農村の名もなき(名前はあるんですが、高名ではない)お婆さんの方が、霊的には遥か先を行っているということです。
なぜだか解りますか? より多くのものを捨てているからです。この世で生活しながら、この世の梯子段をもうほとんど降りている。そして自然を感じながら、自然と一体となって毎日を過ごしている。そのお婆さんにとっては、それが当たり前で、特別意識していることではないでしょうが、これこそが、宇宙に生きる、神とともに生きるということです。
でも高僧と言われている人から、その拠って立つ基盤(組織や神殿や財力や衣装)と、階位を取ってしまったらどうなるのでしょう? 全部はぎ取って素っ裸にしてしまっても、なおその人は高僧でいられるのでしょうか?
そう考えると、高僧といわれる人は(必ずしも全部が全部とは言いませんけれども)、世間と同じ梯子段を、宗教界に移築した上に乗っかっているだけなのではありませんか? なぜお付きの者をズラズラと従えるんですか? なぜ儀式の動員数を誇るのですか? なぜ信者数を誇るのですか? 多い方が他宗よりも上だとでも言うのですか? それは世俗の価値観そのものではありませんか?
つまり高僧とは、高層マンションのペントハウスに住んでいる人です。だからこそ、尊敬が集められる。同じ価値観の、遥か上にいる存在のように思えるから。けれども、その豪華絢爛たる神殿は、その人のものではありませんよ。よく言えば信者の寄進、悪く言えば信者からの搾取によって建てたものではありませんか。
果たしてそんなものが必要でしょうか? 霊性向上にとって、それが無くてはならないものなのでしょうか?
どうして気づかない? あなたの目の前に、自然という神殿があるではありませんか。宇宙という神殿があるではありませんか。これ以上のものが他にあるでしょうか?
いいですか、宇宙は、そして自然は、神の顕現なのですよ。神の想いが、物理的な結果として顕れた世界です。あなたは、すでにその神殿の中に暮らしているんです。最初から暮らしていたんです。この幸福、この有り難さ。それをじっくりと噛み締めてごらんなさい。そしてその感謝の目で、周囲を見てごらんなさい。
輝きが見えませんか? あなたを見守り、いつも応援してくれているのを感じませんか?
それ以上、いったい何が必要だというのでしょうか? 土と水とお天道様があれば、それで充分だとは思いませんか?
あなたは今、この瞬間を、確かに生きているのですよ。