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権力者の姿

権力者には、権力者の地位に着くことが目的の権力者と、人々の住みやすい暮らしと幸福実現の理想を持って、そのために権力構造を活用しようとする権力者がいます。ところが今の人間社会においては、後者は圧倒的に少ないのです。殆どいないと言ってもいい。これは今の人間社会が、基本的に欲得を基盤として動いているためです。

 

イ・ビョンフン監督の韓国宮廷ドラマでは、王様は常に民の幸福を考え行動しようとしているのに対し、高級官僚である両班(ヤンバン)の中に派閥があって、王様をお助けしようとする一派と、権力を利用して私腹を肥やそうとする一派が暗闘を繰り広げるというのが、いつもの筋書きとなっています。

 

これは王様に、そういう理想像を仮託して描いているわけで「現実にはそんな宰相なんていないよね」「いたらいいけどね」というのは、韓国人ならずともみんな分かっていることです。とにかく、政治家の汚職、腐敗、堕落というのは世界中の国々で見られ、日本も最低レベルにあります。

 

2016年7月10日の参議院選挙では、自民党が大勝したわけですが、「ああ、これでまた自分の首括りロープを、多くの人が用意したんだなぁ」と、この時は本当にガックリ来ました。小泉政権誕生(2001年)の時には、恥ずかしながら私もまだ見抜けなくて、自分の首括りロープをせっせと用意した口です。でも一度騙されれば、もう充分。

 

2016年の参議院選挙では、若者の多くが自民党に投票したという分析がなされています。どこにも拠り所となるものが見られない、この不安な時代に、外敵を想定して強い国家主義を掲げることは、確かに分かりやすいフラッグ(旗)ではあります。

 

でも、国家主義を掲げる人たちというのは実は対米追従でしかなく、本音では国民のことなど何も考えておらず、国を憂える人たちの方が逆に「反日」と言われているネジレ現象までは、さすがに若い人たちにはまだ見抜けなかったのでしょう。ちなみに私は、愛国でも反日でもなく、国家は、地球上の地域行政単位に過ぎないと思っています。

 

もう、国がどうのこうのと言っている時代じゃありません。そんな考えは狭いし古い。同じ情報が一瞬にして世界を駆け巡る時代に生きているんですよ。もっと地球的、いや宇宙的に思考する必要がある。私たちは、みんな同じだということを知る段階に来ています。そうでなければ、人類の進歩はありません。

 

2016年選挙にはガッカリした私ですが、今は考えが変わりました。今の安倍首相と内閣は、私たちに「権力者の姿とはこういうものだ」ということを、身を挺して示してくれていると思っています。なにもかもが必然です。私たちは、単に「安倍やめろ」ではなく、ここから「権力者」というのはどういうものかを学ぶチャンスを与えられています。

 

「嘘つきは政治家の始まり」と、前に私は書いたのですが、日本国の総理大臣になるためには、この資質だけではどうやら不充分なようです。これにさらに「恥知らず」「強弁」「すぐにカッとなる性格」「知性がない」「ルビ付きの原稿なしでは語れない」「外交センスがない」ことも、重要な資質のようです。とまあ、皮肉のひとつも言いたくなりますよねぇ。

 

どうもゴメンナサイ。安倍さんと私は同い年だから、これくらい許してね。

 

国家主義を標榜する人たち、愛国を謳い、日の丸を掲げ、現政権に何が何でも味方するぞという人たちに言いたいです。上の資質プラス、内閣がみな税金泥棒、かつ秘密警察まで組織して法を無視する国家が、あなた方が志向する理想国家なのかと。この状態をもし憂えるのであれば、あなたはたちまち「反日」側に立つことになるんですよ、と。

 

森友・加計学園問題での安倍総理の言動を見ていて、私は最初、不思議に思いました。「もし関与があったら議員も辞める」と自分で言っておきながら、その後、関与の証拠がたくさん出て来て、バーベキューの写真やら、昭恵夫人が「男たちの悪巧み」と題してSNSに投稿した写真まで出る始末で、どこからどう見ても真っ黒なのに、シラを切り通すというこの感覚です。

 

以前なら一大疑獄事件になったはずなのに、また以前の政権ならちょっとしたスキャンダルでも内閣が吹っ飛んだはずなのに、もの凄い幼稚さを発揮することで逆に踏ん張っている。そりゃあ、マスコミを手なずけている、警察・検察を押さえている、官僚人事は全部握っているという、権力をほしいままにしているということは解りますよ。

 

私が解らないのは、「人間として」という感覚です。少しは胸が痛まないのだろうか? この強弁はいったいどこから来るのだろうか? 安倍さんは自分の人生で何が楽しいのかなぁ? 昭恵夫人という人の感覚もよく解らない。関係者が祝杯を挙げている写真を Twitter に投稿して、しかも「男たちの悪巧み」というタイトルを付けるセンス。う〜ん。

 

そしたら、「この事件の最初に、すべてが示されているよ」というメッセージがやって来ました。「え、どういうこと?」と聞き返しましたが、答えはありません。しかし数秒して、「なるほど!」と膝を叩きました。事件は、幼稚園で始まり、小学校を開設しようとして頓挫した。この経過が明るみに出たのです。

 

「あなたたちは、小学校はまだ無理ネ」という明確なメッセージです。この事件に関連した、一連の内閣側の言動を見ていると、これを大人たちがやっていることだと思うから不思議に感じるのであって、幼稚園で繰り広げられていることだと見れば、すべてに納得がいきます。ここで幼稚園、小学校というのは「霊性」の成長段階のことです。

 

「人間性」というのは、「霊性」を下敷きにして、(身体を持つ物質的次元に)表出されているものの一部で、「人間性」が優れている人、徳の高い人というのは、それ以前に「霊性」が高いのです。逆に言えば、「霊性」が低い人は、どこをどう取り繕ったところで、高い「人間性」を示すことはできません。必ずボロが出る。

 

ここにA少年とB少年がいるとしましょう。どちらも、幼稚園で他の子たちに意地悪をしたり、他の子の持ち物を横取りしたりしています。ある時、そのことがバレてしまった。保母さんたちの追及に、A少年は「ごめんなさい。意地悪して僕が悪かったです」と言ったのですが、B少年はそうしませんでした。

 

「僕が悪いんじゃない。Cが僕をいじめるから、僕は反撃しただけなんだ。悪いのはあいつなんだ」そう言って、いつも徒党を組んでいるE少年を呼びつけて「いいかい、あのことは黙っているんだぞ。聞かれても『知らない』って言うんだ。そうしたら君にいいものをあげるからね。ついでに、分からないように、Cの奴をとっちめちゃってくれよ」

 

7月1日の秋葉原での、安倍さんの「こんな人たち」発言は、確かにマズかった。代議員というものが、有権者の代表としてあることや、民主主義(主権は民衆にある)という立て前を、完全に無視する発言を、国の長たる内閣総理大臣がしたわけですから。けれどもそれ以前に、安倍さんの「人間性」がそこに如実に表れている。

 

「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と、殆ど反射的に安倍さんは言いました。ここに、つね日ごろから思っていることが、全部出ているのです。「こんな人たち」と「私たち」を分けて考える。しかも「私たち」の方が上だという意識。そして、「こんな人たち」に「勝つ」ことが至上命題だと、彼は思っているのです、本気で。

 

それがいったいどこから来たのか? 私には、幼い安倍少年が、母親の愛を得ようとして、気に入られようとして、必死に奮闘している姿が見えます。安倍少年は、「あなたも、お爺さまのような総理大臣になるんですよ。お父さまは道半ばで叶わなかったけれど、あなたがその敵(かたき)を取るんですよ」と言われて育ったのです。

 

安倍さんには結局これしかありません。タカ派的な発言をしていますが、この人に国家観や理想といったものは無く、「敵に勝って、お爺さまの悲願を自分が成し遂げる」しかないのです。タカ派的な言動は、祖父や母親との関係で培われてきた自分の想いを、国家対国家という図式に、単に投影しただけです。「私たち」を脅かす「こんな国」に負けるわけにはいかない!

 

すべてを貫いているのは、母親によって、また名門という家系によって刷り込まれた「信念」です。麻生副総理も、家系によって刷り込まれた「信念」で動いている。早い話が、庶民というのは下等な連中くらいにしか思っていません。目的が全然違うのです。欲しいのは権力であって、人民への奉仕などは露ほども思っていません。

 

ですから、目的である権力を失ったら、アイデンティティ・クライシスが起きてしまう。自分は何者なのかという、それを保証していた肩書きが無くなってしまう。肩書きがなくなったら、空っぽ(お金はたっぷりありますが)になってしまう。そのことは自分がいちばんよく知っているので、必死になってしがみついているのです。

 

菅官房長官が「地位に恋々として」と言っていましたが、これは自分のことを言っているのです。ネットでも新聞でもテレビでも、相手を陥れようとして、時々酷いことを言う人がおりますが、同じものを見ても、人は自分のメガネの性能以上のものは見られないのです。自分の色メガネに照らして周囲を見てしまうということです。

 

ですから、誰かを陥れようとして発する誹謗中傷の汚い言葉というのは、全部自分のレベルをさらけ出しています。ターゲットにした相手を、そのように見たいということです。それは、自分の想いの投射、自分の「人間性」の投射なのです。今の政権を批判した人物は、ネットですぐにバッシングされていますが、意図とは逆の効果しか生んでいません。読売新聞も自分をさらけ出しました。

 

「僕は何も悪いことしているわけじゃないんだけど、僕を貶めようとして印象操作をする人がいるから、つい強い口調で反論してしまうんだ。だからそこは反省しなくちゃと思ってます」と、側近の作文による、奇妙な反省の弁を述べた舌の根も乾かないうちに、秋葉原で印象操作?をする人に、つい強い口調で「こんな人たちに、負けるわけにはいかない」と言ってしまう幼稚さ。

 

国民の多くは、誰が嘘を言い、誰が真実を述べ、どの人の「人間性」が高くて、どの人が幼稚園レベルかということは、みんな分かっています。「人間性」の低い人たちだけが、自分のことが分からないのです。「こんな人たち」と「私たち」は、別人種なんだと思っているから。

 

アベ友というのは言い得て妙で、何度も言ってきたように、同じ波長の者たちは引き合います。ですから、アベ友の人たちというのは、同じレベルの波長を持つ人たちが集まっているということです。盛り友と家系ファーストで生きている。この、霊性が幼稚園レベルの人たちに国が動かされているので、信じられないような光景を私たちが目にしているというわけです。

 

前川さんも仰っていましたが、私は、7月5日付で国税庁長官になった佐川さんを気の毒に思います。佐川さんはこの人事を受けるべきではありませんでした。栄転とか論功とかと言われていますが、そうではありません。これは口封じです。口封じの方法には二つあって、抹殺するか、側近にするかです。金王朝を見れば解るでしょう?

 

佐川さんには何度もチャンスがあった。「NO!」と言うチャンスです。この人には、自分が大蔵省に初登庁した時のフレッシュな意気込みを思い出して欲しかったです。それが、自分の意志に反して巻き込まれて、そのままズルズルと行ってしまった。佐川さんはそんなに無恥で強い人ではありません。表情にすでに怯えが見られます。

 

これから彼は、針の筵でしょう。なにしろ税金泥棒が国税庁の長官になったのですから、示しがつきません。みんな税金を払うのが馬鹿らしくなってしまうでしょう。払った税金は、アベ友に渡ちゃうんですからね。もし査察に入られても、「関係する書類は全て廃棄しました」「担当者は目下、病気療養中」「うちのシステムは即座にデータが抹消される仕様になっております」と言えばいい、というお手本まで示したわけですから。

 

国民の怒りを集めただけでなく、同時に、税務に関わる職員全員の信頼を、地の底に落としたのですから、大変な禍根を残しました。一度失われた信頼を取り戻すのは容易ではありません。もしあなたが職員だったとして、こんなトップが栄転で来たらどうしますか? その人物を尊敬できますか? 「よく頑張ったね、守り通したね、あなたこそ役人の鏡です」って言いますか?

 

佐川さんは、国民の怒りと、職員の冷ややかな眼の、両方の巨大なネガティブ・エネルギーを、これからずーっと全身に受けなくてはならなくなったのです。果たしてそれに耐えられるかどうか。私なら3日で胃に穴があく。家族も、その低いエネルギーに合わせなければいけなくなったわけで、耐えきれなければ、家族間に亀裂が生じるかも知れません。

 

国税庁長官の地位が、果たしてそれと引き換えにするほどのものであったのか。魔が射すというのは、本当に恐ろしいものだと思います。佐川さんには「いつでもやり直せるからね」と言ってあげたいです。もちろんこれは霊的な意味においてですけれども。安倍さんにも菅官房長官にも、その他の閣僚にも、同じ言葉を言ってあげたいです。いつでもやり直せるからね。

 

ただしそのやり直しをするためには、地位、名誉、名声、金、敵味方、に関する今までの「信念」をスッパリ捨てなければなりません。実にここがポイントです。ある人にとっては別に何でもないようなことが、ある人にとってはもの凄く難しい。それだけ強い「信念」に洗脳されているためです。でも本人は、自分が洗脳されているとはちっとも思っていないのです。

 

「自由」というものの裏側には、「捨てる」ということがあるのです。一つ捨てれば、一つ自由になる。そしてぜーんぶ捨てれば、人は完全な自由になるのです。でも全部捨てたら空っぽになると信じ込んでいる人は、怖くてとてもそんなことは出来ない。自分の本質が何かということを、考えたこともないし、全く知らないのです。どうせ最後は、誰でも全部捨てることになるのに‥‥。

 

今度の事件は、枝葉末節を取ってしまえば(もちろん、枝葉末節を明らかにすることは必要で、そこから転換が始まるのですが)、根っこにあるものは幼稚園レベルの話でしかありません。安倍さんは、そのことを、身を挺して、頑張って、国民に知らしめました。そういう役割をこなしました。これを無駄にしてはなりません。

 

私たちは、権力者から、実に様々な刷り込みを受けていますが、そういう権力者たちそのものが、非常に低レベルの刷り込みを受けて育った人間たちであるということを、この機会に、みなさんがしっかりと学習して欲しいのです。同じことを何度も繰り返すのは、もう止めにしましょう。ここを超えなければ、人間の進歩はありません。

 

都議選では「都民ファースト」が圧勝したわけですが、既成政党の凋落と新興勢力の大躍進という、いま世界中で起きているムーブメントと同様のことが首都東京でも起こったにせよ、それがいま言った構造からのジャンプを示しているのかと言えば、決してそうとは言えないでしょう。やはり、振り子を逆振りしただけなのではないでしょうか。

 

政治家は「政策」ということを言いますが、短期間の選挙で、「政策」を見て判断するなどということは、どだい無理です。しかも、今やマニフェストなど、当選後は平気で破るというのが当たり前になってしまいました。かといって、怒りやムードで代議員を選んでしまったら、また裏切られるということになってしまいます。

 

いちばん確実なのは、「人間性」を見ることです。その人の思考も言葉も行動も、すべては「人間性」から発せられます。ですから、よい「人間性」を持った人は、必ずよい政治をしようとします。そういう人を見出して、政治の世界に送り込むのです。ただしそうなるためには、有権者自身が先ず変わらなくてはなりません。

 

冒頭で〈今の人間社会が、基本的に欲得を基盤として動いているため〉と書いたのはそこです。出身校や家系や肩書きなどに惑わされることはもう止めにしなくてはなりません。今度の事件は、素晴らしい人物もいることを、対照的に、見事に炙り出してくれましたね。これもご計画であり、必然なんですよ。

 

腐った政治家の二世、三世、四世は、もう要らないのです。腐った家系の、腐った薫陶を受けて育った坊ちゃんお嬢ちゃんたちに、よき政治を期待してもどだい無理です。政治は期待するものではなく、監視するものです。森友・加計疑獄事件は、そのメッセージをハッキリと訴えかけています。今度の事件を通して、幻想の世界から目覚めて、真理の世界をしっかりと見ていただきたく思います。