by Rainbow School
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私の役割?

週1回のペースで投稿をするようになって9ヵ月余りが過ぎました。今は月曜日に投稿する原稿を、その前に2日間かけて書いています。全文を先ず1日でザーッと書き、2日目に文章を手直ししています。このペースにも馴れ、エネルギーの使い方がうまくなったせいか、以前のような疲労困憊という感じはなくなりました。毎回が冷や汗ものながら、今のところまだ続けられています。

 

原稿を書く前には、いつも「どうぞ、人々に有益となるメッセージをお授けください」とお祈りしてから始めています。ですが、書き出すまでの苦しさは、以前とあまり変わりません。いつも、ある畏れを感じながら事に当たっています。チャンネルがうまく開かれないんじゃないか、ちゃんと伝えられないんじゃないか、誤りを犯してしまうんじゃないか、という緊張感が拭いきれません。

 

3rd ステージに入って大きく変わった点は、ご覧いただいている通り、文章量の長さです。自分でもびっくりです。長文が好まれないというのはよく解っているのですが、情報ソースとしては「しっかり伝えたい」という想いがあるようです。この、文章が長い、くどい、同じことの繰り返しが多いというのは、高次元の存在から来るメッセージに見られる、共通した特徴なのです。

 

よく、「あんな長い文章を書いて疲れないの?」と言われるのですが、文章量の長さは別に苦ではありません。次々に入って来ますから。それよりも、チャンネルを開いて、トランス状態を維持し続けるというのが難しくとても苦しい。一人になってグーッと集中しなければいけませんし、その時の自分の心の状態や健康状態にも影響されるので、瞑想をして、事前に調整することが必要です。

 

また、満腹状態ではまったくダメですし、逆にお腹が空き過ぎてもうまく入ることができません。近くに人がいると、その念が入って来るのでこれもダメです。ザワザワした場所では吐き気がしてきますし、テレビが点いていたりすることは、もちろん論外です。そうすると、必然的に、世間とは離れて孤独の中に身を置かなくてはならなくなります。

 

私はこれを、「自分の役割」だと勝手に想って、自分を鼓舞して、やっとの思いで切り抜けているのですが、ふとした時に魔が射して、「自分は何をやっているんだろうか?」という思いに囚われ、沈むこともしばしばです。自分を理解して貰いたいとは思いませんが、「自分の役割」という想いは、実は「錯覚ではないか」という畏れが、今もって完全には消えないのです。

 

私はテレパシー能力は高くはありません。オーラは見えませんし、声も時々しか聞こえません。スプーンだって曲げられません。でもインスピレーションは入って来ます。波動についてもかなり敏感な方だと思います。今までに3人の方にリーディングをしましたが、その3件はいずれもお酒を飲んでいた時で、問わず語りで自然と出て来たものです。ですから、頼まれたからと言って出来ません。

 

この『気づきの啓示板』は、インスピレーションが来た時にメモを取っておき(すぐに忘れてしまうので)、後でそのメモを頼りに、その時の感覚に再びアクセスして、背後の概念を拾いそれを言語化するというプロセスを踏んでいます。ということで、インスピレーションを、自分が持っている知識と、論理展開と、時々やって来るジョークの神様のヘルプで補っているのです。

 

このやり方が、結局、自分の自信のなさ、畏れというものに繫がっています。チャネリングのスタイルにはいろいろとあるようなので、自分のやり方にも、もっと自信を持っていのかも知れませんが、『セス』や『神との対話』シリーズや『アセンション〜宇宙からのメッセージ』などを読むと、そのテレパシー能力の高さや、内容の素晴らしさには圧倒されてしまいます。

 

以前よりは多少よくなりましたが、自信の “信度” はいまだ4弱くらいです。この『気づきの啓示板』では、しばしば「自分を信じろ」ということが言われているのですが、自分を信じ切るというのは、本当に難しいものだと思います。もしかしたら、「自分を信じろ」というメッセージは、他ならぬ、自分に対していちばんに向けられた言葉なのかも知れません。

 

今、図らずも書いたように、このブログで語られている内容と、私個人という人間は別ものです。私は至って下世話、かつ未熟な人間です。ブログでは、一人称に「私」を用いているのですが、この「私」は、自分でもあるし情報ソースでもあるし、その境い目は、遠近両用眼鏡の「バリラックス」のようなもので(たとえが古過ぎ?)、自分でもよく分かりません。

 

今まで、ソースが自らを名乗ったことは一度もありません。私は、たぶん「あれ」だと思っているのですが、「あれ」が途中で入れ替わりに入って来ます。その瞬間の感覚は解ります。左前頭葉に繫がった感覚があるし、身体が熱くなる。そして何より、嬉しくも悲しくもないのに涙が溢れて来る。これが高次元の存在と接触した時の特徴なのです。

 

このことに関連して、最近、私は次のメッセージを貰いました。

「感動は、感情の延長上にあるのではない」

なるほど、と思いました。

このことについては、また別の機会に解説するつもりです。

 

3rd ステージに入ってから、ハッキリ解ったことがあります。これはみなさんにも、様々なメッセージに接した時、その情報が高次元からのものか、低次元からのものかを見抜く際の参考にしていただきたいのですが、チャネラーが高次元の存在と繫がるためには、先ず何より、その人が次のようでなければなりません。

 

・恐怖の予言には目をくれないこと

・オカルティックな方向に走らないこと

・自分のエゴを徹底して滅すること

・大仰なことを言わないこと

・無条件の愛の人になること

 

これらをなぜ破ってはいけないのかは、すべて「波動の法則」によって説明がつきます。「波動の法則」の一つに、同じレベルの波動は引きつけ合うというものがあります。「あの人とは波長が合わない」という言い方がありますが、これは正に「波動の法則」を映していて、波長が合うもの同士(それは人間だけに限らず、物や情報を含みます)が引きつけ合うのです。

 

そうすしますと、いま挙げた五条件に、もしも反することをしたとしたら、どうなるでしょうか。そのチャネラーは、恐怖を集め、オカルトを集め、エゴを集め、嘘つきを集め、愛なき人間たちを集め、それらの念を、自分の所に引きつけることになってしまいます。

 

人間社会というのは、欲得が支配する世界ですので、そこを刺激すれば(たとえば「引き寄せの法則」をエゴの道具に使う)多くの人々の注目を集めることが出来ます。しかしそんなことをすれば、誰にとっても不幸しかもたらしません。エゴの増幅が始まってしまうのです。そのチャネラーも、きっと顔つきが悪くなり、肌は黒ずむか青白くなって精気を失い、しまいには病気になってしまうことでしょう。

 

以前、シンクロニシティの話をしようとして、自分の身に起きた現象を例として挙げたことがあります。数日して、お会いしたある方から、その事例が「面白い」と言われて、私は「しまった!」と思いました。私としては、その裏にある「真理の法則」を読み取って欲しかったのですが、その方には、不思議現象に対する興味しかもたらさなかったのです。

 

もっともっと用心しなければと反省しました。自分をどこまでも Pure にしていく必要があるのです。これを疎かにしてしまったら、高次元の存在とは繋がれないし、情報も入って来ません。その理由は、もうお解りでしょう。これも「波動の法則」の支配を受けるからです。けれども、この Pure ということと、次に述べることを取り違えてはなりません。

 

「美し過ぎる世界」には要注意です。実は、私がいちばん吐き気を催すのは、スピリチュアルな世界、とりわけ「美し過ぎる世界」なのです。スピリチュアルなことに興味をもたれる方の多くが、誤解をしています。「美しい世界」が神の世界なのではありません。「ありのままの世界」が神の世界なのです。それは、自然を見れば一目瞭然ではありませんか?

 

美しい景色だけが自然ではありません。大災害をもたらす脅威も自然の一面なのです。光当たるところ、必ず影あり。それが自然というものであり、宇宙の真の姿です。聖地、聖所、聖なる言葉、聖書、聖人、賛美歌、等々。あまりにも「美し過ぎる」演出をされたものは、すべて人間が拵えた歪みです。自然を映してはいません。それは「美し過ぎる」という、実は汚れなのです。

 

「美し過ぎる」ものが、なぜいけないのか、解りますか? 「美しさ」を、真、善と規定する者は、反対側に「醜さ」を規定します。「美しさ」というのは相対尺度ですから、反対のものがなければ際立ちません。そうすると、自分たちが信じるものは美しいが、それ以外のものは醜いという発想に、だんだんとなっていくのです。美と醜、善と悪というものを分けてしまうのです。

 

組織宗教は、正にそれを利用しました。人間、誰の心の内にも、善悪や美醜の両面が存在します。しかし、自分の中の悪や醜い面は誰しも見たくない。なぜなら「神とは絶対的に美しいもの」だから。そうなった時、悪や醜い面を、自分たち以外の人間にすべて押っ被せてしまえば、自分たちは「美しい」側の存在として、神の寵愛を受けられる、としてしまったのです。

 

そうではありません。すべて「ありのままの世界」が神の世界なのです。ですから、あなたが「ありのままの自分」を発見できた時、妙な頑張りなどはしなくてもよいのだと気づいた時、自分を認め相手も認めた時、あなたは神の世界に入ります。そして、そのすべてをもって「美しい」と言う時には、ファウストが言ったように「この世は美しい!」と言えるのです。

 

神の世界は、遥か遠くにあるのではありません。ましてや祭壇上やシンボルの上にあるのではない。あなたのすぐ横にあるのです。あなたが今、目にし、聞き、触れるところのすべてが、すでに神の世界なのです。そしてあなたも、神の世界の重要な一部だということ。それを、美しいと感じられるかどうかは、結局、あなた次第なのです。

 

ですから、ご自分を、美しいものにしなさい。ありのままを認め、正直に、素直に、朗らかに、周囲の人々に誠を尽くして生きなさい。どこまでも Pure でありなさい。そうすれば、周囲にあふれるものすべてが、美しく輝いているのを見ることになりますから。