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他者を攻撃する人の意識の奥にあるもの

5月28日、米インディアナポリスで行われた世界3大自動車レースの1つ、通称「インディ500」で、日本人の佐藤琢磨選手が優勝を果たしました。日本では「インディ500」と言っても、あまり知られていませんが、これってもの凄い快挙なんですよ。何しろ今年で101回目を数えるアメリカ伝統の耐久レース(800kmを時速350キロで3時間走る)。当日の観客数は35万人。日本人の優勝はもちろん初めてです。

 

かつて、F1に夢中になった者としては、佐藤琢磨選手のひたむきさ、誠実さ、朗らかさ、忍耐と努力の結晶がやっと実を結んだことを嬉しく思います。今は、スポーツ全般にまったく興味がなくなってしまい、(最後に見たオリンピックが、なにしろQちゃんのシドニーマラソン優勝ですから)佐藤琢磨選手の優勝にも血は騒がないのですが、生き方は大いに讃えたいのです。

 

さて、そんな晴れやかなシーンに関連して、一つの騒動が持ち上がりました。コロラド州デンバーの日刊紙『Denver Post』のあるベテラン記者が、自身のTwittter上で、佐藤琢磨選手の優勝に対して、次のようにコメントしてしまったのです。

 

“ Nothing specifically personal, but I am very uncomfortable with a Japanese driver winning the Indianapolis 500 during Memorial Day weekend. ”

「個人的に特に恨みがあるというわけじゃないが、メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の週末に、日本人ドライバーがインディ500で勝利したのは、実に不愉快だ。」

 

これが人種差別的発言だとして波紋を呼び、しばらくして、この記者は「佐藤琢磨選手に謝罪します。メモリアルデーの週末ということで感情的になってしまい、第二次世界大戦の相手国の一つへの愚かな発言をしてしまいました。」と謝罪文を出したのですが、反応した『Denver Post』が、直ちにこの記者を解雇し、それで一件落着としてしまったのです。

 

この事件を知ったとき、私は、何もかもが極めて今日的だと感じました。先ず発端が Twitter だったことです。そして内容がヘイト発言だったことです。次に、このヘイト発言が過剰な反応を引き起こし、まるで制裁を課すようにして、この人物が解雇されてしまったことです。謝罪文を出したにもかかわらずです。当の佐藤琢磨選手が「意に介していない」と言っているにもかかわらずです。

 

何か「不寛容の精神」といった、今の時代の雰囲気がモロに出ているのを見るようで、胸が痛くなりました。人間というのは、過ちを犯します。でも、それを反省するところに成長があるわけです。当の本人とは何の関係もない人々が、一つの「ネタ」をもとに、非難の応酬をして傷つけ合うということが、今やネット社会では当たり前のように行われています。が、これはその典型例です。

 

その事の収め方が、「解雇」という、「問題記者は解雇しましたから、もう当社とは何の関係もありません」で果たしてよいのだろうか、ということです。確かに、これで「炎上」という事態は収まるでしょう。その意味では賢いやり方かも知れません。けれども、「不用意にせよ、人種差別的発言をした者には厳罰を与える」では、事の裏にある本質にまったく迫れないのではないでしょうか?

 

人種差別発言はいけない。確かにいけないのですが、「おい、それは人種差別だぞ!」と、怒りの矛を向けるのも、また一つのレッテル貼りになってはいないでしょうか? 真の問題は、ポリティカル・コレクトネス(その発言が適切かどうかという、一種の言葉狩り)にあるのではありません。どうして人種差別はいけないのか、それなのにどうして人は差別をしてしまうのか、をもっと深く見つめることです。

 

それでこそ、事件が活きるというものです。反省の機会を、みなが持てるということです。本質に気づけるということです。マイナスをプラスに変えられるということです。すでに反省の弁を述べている記者一人を解雇して、「自業自得だ」と更に追い詰めても、集まったネガティブなエネルギーが行き場を失い、そのまま浮遊するだけで、誰にも、得るものは殆どありません。

 

この事件の本質はこうです。この記者は、なぜ不用意な差別的発言をしたのでしょうか? 重要なポイントは、記者と佐藤琢磨選手とは、何の関係もないということです。そればかりではありません。第二次世界大戦と佐藤琢磨選手も関係がありませんし、「インディ500」とメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)も関係がない。ただ同じ週だというだけ。要は、関係ないことばかりの組み合わせで出来上がっているということです。

 

この、互いに関係のないピースの接着剤となったのは、たまたま佐藤琢磨選手が日本人だったということ、ただそれだけ。その日本人が、これぞアメリカとも言うべき、伝統の「インディ500」レースに、なんと勝ちやがった。メモリアルデーの週末だというのに、敵国だった、しかも敗戦国の日本人にやられちまった。あー、胸くそ悪い。

 

と、これは、全部が、この記者の、実は「観念(信念)」が創り上げた、勝手な「想い」であったということです。この点に、すべての人が気づかなければいけません。それを、やれ「人種差別的発言だ」「新聞記者が人種差別なんてもってのほかだ」「絶対に許せない!」「クビ? ザマーみろだ」などとやっていたのでは、何の進歩もありません。

 

日本は島国であったために、たまたま、世界の中では、非常に特殊な、(ほぼ)単一の民族性というものを有しています。この特殊性というものを考慮せずに、最近、単純な国家主義を打ち出して、周辺国を小バカにする、貶める、脅威を強調するという態度が、とても目立つようになってきています。

 

特に日本は、多民族・多人種社会の経験がないために、差別的発言に関しては規制が非常に緩く、野放し状態になっています(決して規制すべきと、言っているわけではありませんので、誤解なきよう)。それらの奥にあるものも、結局は同じだということ。自分の「信念」が創り上げた、自分の「想い」に過ぎないということに気づいていただきたいのです。

 

それは、「信念」と、そこから生じた「想い」に過ぎないのですから、「信念」を変えれば、「想い」などいくらでも変わってしまうのです。人間はみな同じで、どの人も貴く、生きる価値があり、能力があり、愛があり、解り合えるという「信念」を持っていれば、全く別の「想い」と行動原理が生じて来るのです。そのようなものだということです。

 

そこで、いいですか、どんな戦争も「防衛」が口実になって行われているということに注意を向けてください。なんと「防衛」の為の「先制攻撃」というロジックまでもが大真面目に存在し、実際にそれが遂行されているのです。こんな奇妙な話があるでしょうか? 先制攻撃された側の一般市民は、その時、それをどう思うでしょうか?

 

戦争はいけない、でも防衛は必要だと、みんなそう思っています。けれども、「防衛」という意識そのものが、他国や他陣営との分離、差別意識が下敷きとなって生じている、ということまでは、さすがに誰も考えない。それが当たり前だと思っているから。(でも世界には、軍隊を持たない国だってあるんですよ)

 

このことは、個人に還元して考えてみればよく解るでしょう。あなたは、個人と個人の関係においても、根底に「防衛」意識を持つべきだと考えている人でしょうか? それとも、人類みなアミーゴだと考える人でしょうか?

 

実にこれこそが、人類が進歩できない、そして同じ過ちを何度でも繰り返す根本原因なのです。人間、みんな同じだということが解っていない。深いところで解っていない。人間は別々だと思う。優劣があると思う。宗教ですら、上下を作り、優劣を説き、誰かを崇め奉る一方で、分離意識をけしかけている。ご覧なさい。今日の戦争の大部分は、宗教が説く「信念」がもとになっています。

 

民衆レベルでは、「どの国の、どの民族の人も、同じなんだよね」「みんな、平和でハッピーに暮らしたいだけなんだよね」ということは、感覚的にけっこう解っています。『世界ふれあい街歩き』や『関口知宏の◯◯鉄道の旅』や『コウケンテツの世界幸せゴハン紀行』や『世界入りにくい居酒屋』を観れば、実にそれがよく解る。

 

ところが、政治指導者がそうではないのです。政治指導者が、故意に、周辺国の脅威を煽り、「防衛」を声高に主張し、メディアがそれを流し、民衆がそこに巻き込まれ、犠牲となって行くのです。それが戦争の歴史です。要は、政治指導者こそが、最も差別意識の高い「信念」に凝り固まっていて、そこから生じる「想い」を、自己の行動原理にしているということなのです。

 

彼らが、なぜ差別意識の権化になっているかと言えば、その思想を絶えず民衆に植え付けることによって、自分たちがその上に君臨するためなのです。ここに気づかなければ、民衆が、使い捨ての駒にされてきた長年の悲劇から抜け出すことは、永遠に出来ません。時代は今、そこに差し掛かっています。すべての嘘、すべてのカラクリ、そしてその根本原因を見抜くのです。

 

誰かが誰かを攻撃する。こういう場面を目撃した際、よく観察してみれば、そこには、表面上の問題の奥に隠れて、必ず二つの原因があることが見えるはずです。一つは、攻撃する側の人間の「心の投射」です。自分の中の、不安、不満、絶望感、やり切れなさ、怒りなどを他の人間に投射している。それが、結果として、表面的には他者攻撃に映るのです。

 

もう一つは、いま述べてきた「信念」です。自分の「信念」にそぐわない者は、自分の「信念」を犯す可能性があるので排除しようとする。それは「信念」ですから、その人は、自分が正しいことをしていると思っているのですが、根底には、他者との分離意識や優越感というものが色濃く横たわっているのです。

 

どのような他者攻撃も、基本的に、この「信念」と、自分の「心の投射」との組み合わせによって成り立っています。強固な「信念」を持つ人は、いつもそのフィルターを通して世の中を見ています。そのため、フィルターにちょっとでも引っ掛かるものがあるとすぐにイラッと来て、自分の感情の「想い」を、簡単に対象に「投射」してしまうのです。

 

その人は、相手がすべて悪いのだと思っています。そう信じ込んでいます。でも、そのようなフィルターを掛けて相手を見ているのは自分なのですし、そこで抱いた感情も、たくさんある選択肢の中から自分が選んだ感情です。要は、すべて自分が起こしている。しかしそのことに気づかないまま、適当な相手を探しては、それをぶつけているだけなのです。

 

このようなわけですから、その人が持っている「信念」が強ければ強いほど、攻撃的な性格を帯びることになります。それが宗教戦争であり、テロリズムであり、権力者による弾圧です。

 

アメリカはどうして戦争ばかりしているのか。それは、「自分たちは常に世界一でなければならない」「世界中に民主主義(という名の、実は属国化支配)を根付かせなければならない」「我こそが正義であり、悪は殲滅されねばならない」「行動に際しては、弱腰であってはならない」という、権力者によって刷り込まれた強固な「信念」を、アメリカ国民の大半が共有しているからなのです。

 

結局のところ、小学生が教室でやるイジメも、教育者が子どもに対してするイジメも、大人が職場でやるイジメも、権力者がメディアを使ってやるイジメも、国家が他国に対して行うイジメも、原因はみんな同じです。歪んだ「信念」と、その人の「心の投射」の組み合わせから成っている。

 

ですから、みなさんにお願いしたいのは、ここをよく観察して見抜いていただきたいということです。あ、今の発言は「心の投射」が30%で「信念」が70%だなとか、今度の行動は「心の投射」が90%は出ているな、という具合にです。攻撃的な人を、じっくり観察するのです。

 

相手が繰り出して来る「心の投射」に、こちらも「心」で反応してしまってはいけません。投げられたボールは受け取らないことです。もしキャッチボールなどしてしまったら、相手が作る土俵に入れられてしまいます。相手は、その返って来るボールをエネルギーとしているのですから。

 

そうではなくて、「心の投射」の原因となっている苦しい「想い」を見抜いて、憐れんであげてください。彼らにも、育って来た中で身につけてしまった原因があるのです。そして「信念」に関しては、その「信念」でガチガチになっている不自由さ、自分で自分を牢獄に閉じ込めている不毛状態から、早く脱することが出来るように、愛の波動を送ってあげてください。

 

心優しいあなたなら出来るはずです。先ずあなたから、この世界のひどい混乱状況を、ここで打ち切るのです。憎しみの連鎖、傷つけ合いの連鎖に終止符を打つのです。そうすれば、やがてあなたに感化される人も出て来ます。世界を覆い尽くす分離意識に、今こそストップをかけるのです。そして、さらにその先を行くのです。

 

すべての現実は、意識の具体化であるというセオリーを思い出してください。世界の現実は、人類全体の意識の具体化なのですよ。ですから、あなたが必要なのです。あなたの愛と能力が必要なのです。ともに頑張りましょう。そして、みながハッピーに暮らせる社会を創りましょう。