by Rainbow School
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21世紀、これからの神学

神様。

この言葉に、あなたはどんな思いやイメージを仮託されているでしょうか?

おそらく一人ひとりが微妙に違っているだろうと思います。

まさしく、Oh My God!(おお、私の神よ!)です。

日本人と欧米人とでも、きっと大いに違う。しかしハッキリ言えることは、誰も実際には「それ」を知らないし、解らないということ。

 

犬や猫は、日々神様を考えながら生きているのでしょうか? 鳥は、神様を拝みながらさえずっているのでしょうか? 花は神様に頭を垂れて咲いているのでしょうか? たぶん、彼らは彼らを生きているだけ。ただ、人間が失くしてしまった感覚はちゃんと持っている。それは “feel” 。宇宙を、自然を、その波動を感じながら、瞬間々々を彼らはただ生きている。

 

人間は “feel” の感覚を失った代わりに、「神」概念を創造しました。

感覚から思考への転換。

そう、それは「神」そのものではなく、頭で創られた「概念」なのです。

自分は誰なのか‥‥。自分が生まれた意味、生きている意味、存在することの意味が知りたくて。自分の上位にあるものを、人間は必要としたのです。

 

あなたは、お父さんとお母さんから貰ったDNAの合体なんだよと、現代科学は説明します。でも、自分の心はどうなんだと。今ある心は、どこから生じたのかと。DNAが〈私の〉心を創り出すのかと。だとしたら、この自分は何なのだと。まったく解らないことだらけです。その解らないことだらけの一切合切を、一挙に解決する手段、それが「神」概念の創造(想像)です。

 

しかし、こうも言える。あなたが、今日の晩ご飯のおかずを創る。編み物をして靴下を創る。会議に必要な資料をパソコンで創る。そうして創り出された一切合切の前には、必ず「こう創ろう」という意志がある。だとしたら、この自然、この宇宙は、どのようにして出来上がったのか。そこにも、必ず「こう創ろう」という意志があったはずだ。でなければ宇宙は誕生しない。

 

ごく自然な論理です。しかし宇宙物理学者の大半は、また科学者の大半は、その領域に足を踏み入れることを拒絶しています。その結果、ある日突然、「無」から宇宙が誕生したということにせざるを得なくなっている。ならば「無」とは何なのか。どうしてある日突然なのか、ということになってしまう。結局「無」も「神」と同様、人間が創り出した「概念」でしかないのです。

 

人間は、どうやっても、そこを超えられない。

あまりにも次元が違い過ぎて‥‥。

 

あなたはどうお考えでしょうか? 宇宙は、ある日突然「無」から生じたのだと思いますか? だとすれば、あなたもある日突然「無」から生じたということです。それとも、宇宙は、「こう創ろう」というなにがしかの意志があって生じたのだと思いますか? だとすれば、あなたも「こう創ろう」という意志から生じたのだということです。

 

突き詰めれば、そういうことになる。さて、あなたは、どちらが納得できるでしょうか? よりしっくり来るでしょうか?

 

後者のなにがし(某)、これを精神世界では、一般に創造主とか、第一原因と呼んでいます。第一原因というのは、そこを起点として、そこからさらに色々なものが創られたということで、その大本という意味から第一原因と言っています。

 

この創造主に当たるものに、人間は様々なアイデアを与えて「神」概念を創造したのです。まさしく「創造」主です。それを能力だと捉えた人は「全智、全能」という概念を与えました。また仏教で言う阿弥陀様はア(否定)+ミタ(量る)で、「無量(限りが無い存在)」ということを現しています。またこれに人格を与えたい人たちは、それを「父」とか「母」と呼びました。

 

映画などで、人間が「神様」役を演じた場合には、たいていは白髪で、長い顎髭を生やし、白い衣を着たお爺さんということになっています。間違っても韓流スターのようなイケメン青年じゃない。女性や子どもや赤ちゃんということもまずない。それは、人間がこうであって欲しいというイメージを、そこに仮託したからそうなったのです。

 

問題は、そのようにして一度「概念」を拵えると、人間がそれを信じ込むというところにあります。そこから「宗教」が生まれました。しかし本当は、誰もそんなお爺さんを目撃したわけでもないし、誰も「それ」が本当は何であるか、どうなっているのかを知りません。そもそも、理解することは不可能だと言うことです。人間は、先ずそれを認めなくてなりません。

 

しかし、自然を崇拝したいという気持ちは、日本人ならば大抵持っています。日本人だけじゃない。アメリカ大陸の原住民も、アボリジニも、ケルト民族も、そしてスカンディナヴィア半島にも、バリ島にも、ハワイにも、イタリアのグロッタ様式にも、そこには自然崇拝があったということが認められます。おそらく世界中にあることでしょう。

 

これは、今日の視点で考えると、「自然が恵みをもたらしてくれるから」という解釈がもっぱらですが、実はそれだけではないのです。自然というのは、先の論理で言えば、創造主の自己表現物に他なりません。「こう創ろう」という意志の具体化です。ですから、目に見える表現物を通して「神」を感じる、ということがあったのです。そして実際に、「それ」は感じられたのです。それが “feel” です。

 

あなたもきっと感じたことがお有りでしょう。静かな森の中や、神社の敷地内を歩いている時に、スーッと風が通り抜けたような感覚を覚える時が。あるいは、何か大きなものに包まれたような感覚になることが。ぜひ、この「感覚」を大切にしていただきたいのです。

 

今日では、多くの人が都会暮らしをするようになって、もうみんな、すっかり “feel” を忘れてしまいましたし、土地のお祭りだと言っても、様式化形式化した儀式をやって、あとは飲めや歌えやの宴会に成り変わってしまい、それでみんなが満足しています。でも、耳を澄ましてさえいれば、自然の後ろに何かがあることくらいは、たいていの人間ならみんな分かる筈なのです。

 

なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる(西行)

 

そして研鑽を積めば、高次元の存在と繫がることも、時に人間には知り得ないメッセージを受け取ることも出来るのです。そのことから、「それ(第一原因=創造主)」が何であるかまでは解らないとしても、少なくとも高次元の存在がいるということだけは、解る人には解る。そこで、この高次元の存在を、神道では神々と呼び、仏教では仏と呼び、西洋では天使と呼んだのです。

 

ですから、神々と、仏と、天使は同じものです。みな高次元にいる存在で、その実体は、いつも書いているように「想念エネルギー体」です。こう書くとありがた味が無くなってしまうかもしれませんが、この中には、純粋に想念だけで創られた存在も、転生を終えた魂から成るものあります。その括り方に各種があって、色んな名前をつけて、各宗教や民族がそれぞれに呼んでいるのです。

 

これを聞いて「えっ」と思う方や、反発を覚える方も、たぶんいらっしゃるかも知れません。しかし、今のこの、21世紀になって必要なことは、結局「みんな同じ」だと知ることです。宗旨宗派の様式を頑固に守ろうとすることは、結局、一つのとらわれに過ぎないのです。

 

高次元の存在たちに、自分たちが好きな名前を付けるのはいいとしても、それで縄張り争いをしたり、ひどい時には代理戦争までさせてどうするのですか? そんなものが〈高〉次元の存在だとでも言うのですか。えっ、そんな戦争大好きの存在が‥‥。本当の高次元の存在にしたら、はた迷惑以外の何ものでもありません。まったく人間が考えることといったら、訳が分かりません。

 

さて、いま見て来たように、一口に「神」と言っても、それが意味するものもイメージも、人それぞれであって、迂闊に「神論」を語るということは出来ないのです。みんな、それぞれの神〈概念〉を持っていて、共通するものを見出しにくいからです。しかし唯一「神論」を語れる分野がある。それが「創造主」についてです。

 

なぜならば、宇宙を創った、万物を創った、「こう創ろう」と考えた存在は、一つでなければならないからです。一つでなければ、辻褄が合わないからです。

 

仮に「創造主」が二つだったとしましょう。AとBです。すると、AからすればBが、BからすればAは、いったい何ものが創ったのかということになってしまいます。だって、自分が創ったものではないのですから。それはハッキリしているわけですからね。

 

これは大きな矛盾です。

結局のところ、AもBも、互いが「創造主」だと主張する根拠が怪しいということになって、AとBとを創ったもう一つの存在、Cがその上位に必要となります。こうして、行き着くところは、創造主は「ただ一つ」という結論に帰着してしまうのです。

 

それと、「創造主」を考える際に押さえておかなければならない、もう一つの重要なポイントは「被創造物」、つまり万物、宇宙との関係です。「創造主」が宇宙を創った、万物を創ったと。ここまではいい。しかし「創造主」と「被創造物」とを分ける考え方には、またもや大きな矛盾が生じてしまいます。なぜならば、「創造主を創ったのは誰か」という新たな大問題が生じるからです。

 

「創造主」がいるという発想は、宇宙が「無」から突然生じたとする荒唐無稽さを回避できる論理だったのに、これでは、「創造主」がある日突然、創造されたという、同じような話になってしまいます。これは変です。そこで、次のような結論に落ち着かざるを得ません。それは、「創造主」と「被創造物」とは同じである、ということです。

 

つまり「創造主」は自らを創った。そして今も創り続けている。これが、高次元の存在から教えられた結論です。きっと「えっ」と思われる方もいらっしゃるでしょう。これも荒唐無稽と言えば、荒唐無稽です。けれども、創造者と被創造物との関係はどこまでも続き、最後に留め置くためには、第一原因は、創造者と被創造物は同じだという結論に至らざるを得ません。

 

みなさんの周囲にあるものを見回してください。洋服でもスマホでもコーヒーカップでも結構です。今その形にあるものを創った素材というものが必ずある筈です。でもその素材も、何かを素にして創られているでしょう。そしてその素も、何かを素にして創られている。

 

このようにして遡っていくと、限りがありません。(実は、これが生命の意味でもあるのですが)これをずーっと遡っていった根本というのが、第一原因であり、この連続に終止符を打つためには、最後の最後で、創造者=被創造物という結論を導かざるを得ないのです。

 

これは、「時間とは何か」が人間には解らないのと同様、人知を超えた次元における結論です。しかし、高次元の存在(彼らは人間よりも、より第一原因に近い位置にいることに注意)が、そのように知らせてくれるのですから、我々としてはそれを信じるしかないのです。

 

「創造主」と「被創造物」とは同じである。「創造主」は自らを創った。自らのすべてを創った。よって、「創造主」を「神」と呼ぶならば、宇宙そのものが神であり、自然は神であり、木々は神であり、草花は神であり、獣や鳥や虫も神であり、あなたも神であり、私も神である。すべてが神である。言い方を変えましょう。どれもが神の一部であることには疑いがない。

 

たぶん、めまいを起こすような結論でしょう。しかしこれが、21世紀に、人間がどうしても知らなければならない新たな「神学」、真実の「神学」なのです。数千年、いや数十万年にわたって歪められて来た「神」に関する概念が、根本的に改められなければならない時が来ているのです。

 

全部が一つ、一つで全部。始まりも終わりもなく、ただ生命のいとなみが連綿と続いていく。あなたの思考が、あなたの行動が、そのまま神の一部になっているのだということです。

 

神は一つ。この論理は正しい。

けれども、長きに渡って地球世界を席巻して来た「一神教」は、今まで大きなゴマカシをして来ました。

 

一つには、「創造主」と「被創造物」を分けてしまいました。

その結果、神は自分の外側にあって手の届かない存在であり、その恩寵を得るためには、熱心に崇拝して祈らなければならないとしました。実に、これこそが彼らがもっとも嫌う「偶像」に他ならないのです。

 

二つには、善と悪とがあって、悪行は悪魔の仕業ということにしてしまいました。

これでは、二神論になってしまうのですが、そんな矛盾は無視して、悪を叩き潰すことが善になるという、まさしく独善的考え方を蔓延させてしまいました。

 

三つには、人間は不完全なものだから、戒律によって統御すべしとしました。

これが、人間から、人間にとってもっとも大切な自由を奪い、卑屈さを植え付け、神を頂点とするピラミッド構造の中で、上下関係と、支配被支配の関係を生む基となったのです。

 

すべては、教会や聖職者、そしてそれを政治に利用する者たちの手によって、自分たちの都合のよいように、宇宙の真理が歪められて来たのです。そしてあろうことか、真実を語ろうとして、その時代々々に登場したメッセンジャーたちに「異端」のレッテルを次々と貼っては、闇に葬り去って来たのです。

 

今の世の中を、そして世界を見てください。それが結果です。宗教の時代,魚座の時代の結果なのです。まさに「思ったことは実現する」です。「一神教」の人々は、自然崇拝を原始的と言って小馬鹿にします。でも、そうではないのだということ。自然こそは、神の表現物であることを、堂々と、論理的に、主張して欲しいのです。それが、日本人に課せられた役割です。

 

しかし、よくなったこともある。今は「異端」を堂々と語っても、「あ、こういう人もいたんだね」くらいなもので、命まで奪われるということは無くなりました。街角に出て話さなくても、インターネットで話せるようになりました。誰かに何かを無理強いされるということも無くなりました。勇気と決心しだいで、自分の想いのままに生きることが、充分可能な時代になったのです。

 

そこでみなさんにお願いしたいのです。この、今の時代のよい面を、大いに活用して、ご自身を輝かせて欲しいのです。宗教が今まで流布してきた教義などは、もういい加減に無視して欲しいのです。今さら宗教を学んで、何になるでしょう? 所詮はデタラメの上に構築されたフィクションです。もう全くの時代遅れです。宗教側もそれが分かっているからこそ、焦っているのです。

 

信仰も、戒律も必要ない。ましてや、独善に陥り、他者を傷つけることなどあってはならない。21世紀のこの時代にあっては、あなたの、自分の、直感を信じて欲しいのです。

 

誰にも頼むな、ただ自分に頼め。

 

あなたは、野の花と同じように、そこに存在するだけで既に意義があるのであり、どこまでも自由であって、ただ自分を、本当の自分を生きることが出来るのだということ。

そして、それこそが、同じく野の花と同じように、幸福に生きるということなのだと、気がついて欲しいのです。