by Rainbow School
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「信仰」と「信念」に関して

これまで、私は反発を覚悟で、「信仰」も「信念」も〈持ってはいけない〉と書いてきました。一般的には、「信仰」や「信念」を持つことは良いこととされ、特に精神世界の一部では、その重要性が強調されています。それなのに、自分は「NO!」と言う。これは、何をもって「信仰」と言い、何を「信念」と言うかという定義にもよるのですが、今日はこのことについて、詳しくお話ししたいと思います。

 

先日、遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』という映画を観に行って来ました。この題材は、スコセッシ監督が30年間も温め続けていたというもので、「神の沈黙」というテーマ、そして「信仰」という問題にどういう落とし所を与えているかに、私としては非常に興味がありました。けれども観終わって、やはりこのテーマは既に「終わっている」という感慨に至りました。

 

欧米社会というのは、キリスト教という一神教が極めて深く根付いた文化の上に構築されています。この感覚は日本人には到底理解できないもので、たとえば国会乱闘というものがある国は、日本と韓国くらいだと言われています。なぜかと言いますと、欧米では、国会というものは「神」の下に位置し、「神」に預かった場、という意識があるからなのだそうです。そんな神聖な場で、野蛮な乱闘などはあり得ないというわけです。

 

いま世界では、移民や難民が大きな社会問題となっています。実はこの問題の背景には「宗教」があるのです。どういうことかと言いますと、移民や難民となって移動して来る人々というのは、もれなく「宗教」を携えてやって来るのです。この新しく流入してくる「宗教」が、それまでその地にあった「宗教」が醸し出して来た秩序や雰囲気を脅かしてしまうわけですね。それで、欧米社会では排斥運動が沸き起こっている。(難民を作り出したのは欧米なんですけれども‥‥)

 

ところが日本人というのは、南米や北米やハワイその他へ移民しても、現地の宗教にあっさりと切り替えてしまうわけです。何が何でも神道を守り続けるとか、仏教の◯◯宗を守り続けるなんて人はほとんどいない。よく言えばもの凄く柔軟性がある。この、無節操に何でも取り入れてしまう特性は、日本人独特のものです。結局、日本人には「一神教」というものの感覚が解らないのですね。

 

ですから太平洋戦争中は、日本も欧米を真似て国家神道を打ち立て植民地に強制しようとしたのですが、結局うまく行きませんでした。天皇制も、そもそもは明治初期に岩倉具視らの使節団が欧米を視察した際、欧米社会において「一神教」が果たしている社会的役割と構造に気づき、その代替に設定しようとしたものだという研究が最近になって報告されています。

 

このように、欧米人にとって「一神教」をベースにした「宗教」は、正に生きていく上での基盤(fundamental:原理)になっているわけです。ですから、近代以降の今の世界に見られる混沌や混乱をどう解決していくかということを考えた時に、「信仰」というテーマをどのように超克していくかは、欧米人にとっては非常に大きな問題なのです。

 

‥‥とまあ思っていたのですが、『沈黙』という映画は、なんだか肩透かしでしたねぇ。スコセッシ監督があまりにも長期間温め過ぎて、時代変化に取り残されてしまったのでしょうか。期待されたアカデミー賞にも、ノミネートされたのは撮影賞だけ。作品内容的には、アメリカ人にもほとんど注目されなかったということなのかなぁ?

 

アメリカ社会に詳しい人の話を聞くと、アメリカでも今は教会離れがかなり進んでいるのだそうです。キリスト教にしてもイスラム教にしても、メディアで過激主義ばかりが取り上げられるのは、それだけ従来の「信仰」意識が弱まっているということの証左なのかもしれません。つまり、弱いボンドでは、人々を「宗教」にもう繋ぎとめられなくなっているということなのでしょう。

 

と、ここまでは前置きです。さて、冒頭で語った「信仰」と「信念」に関する問題を考えるに当たっては、先ず人間の「意識」というものに着目しなければなりません。私たちが普通「意識」という時には、漠然と、それは思考や感情や感覚などの「心」の働き全般のことだと捉えています。そしてその「意識」なるものは、自分が全てをコントロールしているんだと。でも本当にそうでしょうか?

 

あなたの心臓は誰が動かしているのでしょうか? あなたの胃や腸の蠕動は誰が命じているのでしょうか? 化学作用による栄養素の分解や、血液によってそのエネルギーを運ぶことの指令は誰が出しているのでしょうか? さらには、ふと訪れる直感やインスピレーション。これはあなたの脳が考えたものなのでしょうか? また眠っている時に見る夢は、どこからやって来るのでしょうか?

 

結局あなたの「意識」というものは、「心」の中にだけあるのではないということです。「意識」というものは多層構造になっているのです。あなたが普段、自分で考えたり感じたりしている「意識」は表に顕れている意識、つまり「顕在意識」です。これがいわゆる「心」と呼んでいるもの。でもその奥に、普段は隠れている「潜在意識」があり、そしてさらに奥には「深層意識」と呼ばれるものがあるのです。

 

*意識の多層構造については、2層に分ける考え方と3層に分ける考え方があります。また、各層の呼び名についてもいろいろな言われ方がされていますが、ここではあまり厳密に考えずに概念だけを把握してください。

「顕在意識」→「表層意識」「客観意識」、「潜在意識」→「無意識」、「深層意識」→「下意識」など。

 

さて、例によって梅干しおむすびを思い浮かべてください。芯に梅干しがあって、そのまわりにご飯層があって、表面に海苔が巻いてある。これで言うと、梅干しが「深層意識」、ご飯が「潜在意識」、海苔が「顕在意識」です。あなた方は、普段は「顕在意識」にのみフォーカスが当たっていて、これが自分の「意識」の全てだと思い込んでいるのです。つまり海苔しか食べていない!

 

ところが、タバコを吸う人や、甘い物が好きで止められないという人に聞くと、「無意識」のうちに手が動いていると言います。実際には「無」ということはあり得ないわけで、この名称はおかしいのですが、とにかく自分がコントロールしているという意識は「無」い。このように、潜在的な「意識」があなたを動かしているという場面も実は多々あるわけです。(ああ、やっとご飯にありつけた)

 

「心」とは何か? 「心」がどのようにして生じているかと言いますと、外部刺激に対する諸々の反応として起きる自覚的な「意識」、それが通常「心」と呼ばれているものです。

 

私たちは、外部情報をキャッチするための感覚器官(いわゆる五感)というものを肉体上に持っています。この五感がキャッチした刺激を信号に変え、神経回路を通して脳に送ります。脳はこの信号から、反射的に反応したり、感情を動かしたり、記憶と比較したり、類推したり、判断したりという処理を行って、その結果を瞬時にアウトプットします。それが「心」です。

 

つまり「五感」というものは、あなたの「心」の窓になっているわけですね。

 

このことは、あなたが、全て自分でコントロールしていると思っている自分の「心」が、実は外部刺激によって、逆に絶えずコントロールされているということを意味しています。現代人は、そのことを、それこそ意識していないだけではなく、外部刺激の流入に対してあまりにも無防備なのです。これが、現代人に特有の「心」の不安が増大している最大の理由です。

 

「心」の不安を埋めようとして、みんな眼を皿のようにして外部刺激を追い求めています。そこで、ますます「心」の不安が増大していくのです。なぜだか解りますか? 外からやって来るものは、所詮あなた自身のものではないからです。あなたの「顕在意識」をただ興奮させ、一時的な逃避に導いているだけだからです。

 

電車に乗った際には、周囲を見回してご覧なさい。ゾンビになってしまった人がいかに多いことか。

では逆に、このような始終めまぐるしく変わる外部刺激の不毛に疲れ、不動の「信仰」や「信念」を、この「顕在意識」と「潜在意識」の部分に取り入れてしまったとしたらどうなるでしょうか?

 

あなたは、特定の「信仰」や「信念」に感激して、それを意識に取り込みます。もうその他の外部刺激にフラフラすることはないので、「心」が定まったかに見え安心します。やがて、その「信仰」や固い「信念」を持つ姿こそが、本当の自分だと思うようになる。そして、そのような「信仰」や「信念」を持たない人間を、憐れんだり、蔑んだりするようになって行くことでしょう。

 

でもね、それは外から来たものなのですよ。凍えているあなたに掛けられた、いわば厚手のコートのようなもの。ですから、一度身につけたコートはもう手離せない。脱がされるのが、今度は怖くなる。そこでコートの襟をしっかり立てて、ますますギュッと身体に密着させて、風雪の中を歩いて行くしかなくなってしまう。これを脱ぐのには、もの凄い勇気を必要とするのです。

 

問題は、このコートが一種類ではないということ。「一神教」だと言いながらも、いろんなカラーがある。おかしいじゃありませんか? もし本当に「一神」なら色は一つのはずでしょう? それなのに、それぞれがみな、自分たちのものこそ真実、自分たちこそ本物、それ以外はみんな邪宗、邪教だと言い合って、あげくの果てに戦争までしている。いったい戦争をするのが宗教の目的なのか、と言いたいです。

 

だから、私は「信じちゃダメだ」と言っている。そう言っている私の言葉だって「信じちゃダメ」です。とにかく、一切合切「信じちゃダメ」です。

 

と言うと、あなたはご自分を凧の切れた糸、間違えた、糸の切れた凧のように感じてしまうかも知れません。でもご安心を。あなたの不動の本質というものは「深層意識」にある。つまりは梅干し部分です。「心」という意識ではなく、「魂」の意識にこそ、あなたの本質があるのです。そしてこの「意識」は、全智であるところの「宇宙意識」と常に繋がっているのです。

 

あなたはその「宇宙意識」の一員(member)だ。

そして、その真実を思い出すのが re-member 。

 

ですから、この「意識」を常に意識している者は、どんな人もみな等しく、「光」の道に向かって歩むことが出来るのです。人種や国籍や性別なんて関係ない。組織に所属する必要もない。師から師へと渡り歩く必要もない。法外な授業料を払う必要もない。神殿にぬかずく必要もない。苦行をする必要も、マントラを唱える必要もない。ただ自分の内側を見つめるだけでいい。

 

これこそが、今まで説かれなかった秘密。実は「秘密など何もない」ということが大いなる秘密だったのです。なぜかと言えば、この真理を知ってしまったら、宗教が成り立たなくなってしまうから。そこで各宗教・宗派は、それぞれが勝手なドグマを打ち立て、「信じなさい」「信仰に励みなさい」「固い信念を持て」「ついては、お布施もよろしくね」と言って来たのです。ここで、尋ねたい。

 

あなたは誰なのか?

 

名前? そんなものは単なるレッテルだ。◯◯株式会社 次長? おいおい、その肩書きが無くなったとしたらどうなるんだい? そうじゃない、あなたはいったい何者だと訊いているんだ。あなたはどこから来たのか? そしてどこへ行くつもりなんだい? さあ、どう答える?

 

自分を記録したということになっているアルバムを引っ張り出して来て、よくご覧なさい。そこには、あなたの両親が写した、幼少時のあなたが居るでしょう。確かに今の顔立ちと似た特徴もあるし、ホクロの位置も同じだ。でもそこに写っている人間は、今のあなたとはほとんど別人です。1年前の写真だって違う。でもあなたは、それを自分だったと思っている。

 

どうしてでしょうか? 姿形が変わっても、あなたに、そのように自分が連続していると思わせている something が確実にあるからです。その something とは何か? あなたの「意識」です。つまり、あなたの主体とは「意識」なのです。肉ではないのですよ。そしてこの「意識」は、今までも途切れずに続いてきたように、肉体の死後も続いていくのです。

 

中間生(いわゆるあの世)に帰っても、来世に誕生しても。梅干し部分とご飯部分の一部は繋がっていく。眼を閉じて、その連続を想像してご覧なさい。生まれて死んで、また生まれて、新しいことを体験してはまた死ぬ。そしてやり切れなかったことを反省して、「今度こそは」とまた誕生する。それが、あなたなんですよ。

 

さあ、もうお解りでしょう。

汝自身を知れ。さすれば全てが解る。

ということの意味が。

 

外部刺激を断って、静かに自分を見つめる。自分を知る。それは糸の切れた凧じゃないんです。それこそが大大大セーフティーネットに繋がっている唯一の道なのです。

 

だから、自分に自信を持ちなさい。自分を信頼しなさい。自分を敬いなさい。他者は結局は自分と同一なのですから、誰にでも誠を尽くしなさい。そして、もしそうすることを「信仰」とか「信念」と呼びたいならば、そう呼んでも構わない(実際、そう語っている本もあります)。でもそれは、世間で言うところの「信仰」や「信念」とは、全くの別次元であることを理解して欲しい。

 

それぞれが、「我こそ本物」と言い合いをしているようなものの、いったいどこに「真理」があるというのでしょうか? 人を選ばず、地域を選ばず、時を選ばず、いついかなる時代でも、永遠に通じる普遍性を有するもの。それだけが「真理」の名に価するであろうことは明白です。そしてそれは、すでにあなたの中にある! 行脚などする必要はなかったのだ。青い鳥だったのだ。

 

宗教の時代はもう終わりです。自信を持って、自分の内側の旅に出でよ。そしてあなたも、永遠の真理をつかむのだ。