by Rainbow School
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Q.「無償の愛」の人になるには?

Q.私には「無償の愛」の人になるためにはどうすればよいのか、どこまでがそれなのかよく理解できません。子どもや家族への愛、職場の部下との関わり方など、見返りを求めないことは、すべて面倒を見てやるということなのでしょうか。どのように考えれば「無償の愛」の人になれるのでしょうか。

 

A.これはもう核心を突く質問で、これが解れば、人類はもうちょっとマシな道を歩んで来ただろうと思います。過去2600年くらいは宗教の時代でしたが、宗教ですらこれを間違って捉えて来ました。いや、故意に歪めて大衆に伝えて来たのです。

 

この問いに対する答えの大部分は、すでに過去の記事の中で書いています。けれどもバラバラに散ってしまっているので、全体像が見えにくいことは否めません。そこで改めて、この問いに答えてみたいと思います。

 

先ず「愛」ということなのですが、この「愛」にもいくつかの段階があります。人間がふだん「愛」と言う場合には、それは「情愛(愛情)」を指している場合が多いのです。そして「愛情」が深いことは、人間社会では、通常よいこととされています。

 

動物はみな、習わなくても生殖をし、自然と子育てをします。それは本能に基づくからなのですが、人間だけは「感情」をつねに働かせて生きていますので、ここに「感情」を絡めます。その結果、本能を超えた「愛情」という意識が生まれてゆくのです。これには功罪があります。

 

「感情」は人間を成長させるための一つのツールですから、人間に「愛情」があること自体は、「愛」の学習にとっては必要な段階なのだと言えます。しかし「情愛」深きことは、しばしばネガティブに作用してしまう場合もあるのです。本人がその感情を「愛情」だと思っていても、実は「支配」の変形であることに気づかないケースが多いのです。

 

多くの動物では、子育て期を終えると、子は後腐れなく巣立って行ってしまいます。しかし人間の親子関係は、その後も長く続きます。また子育て期に、「あなたの為を思って」と言って、子どもをコントロールしようとする親も多いです。恋人関係や夫婦関係においても、見返りを要求する「愛情」行為が頻繁に見られます。

 

このように、人間が普通「愛」という場合には、殆どが「情愛」絡みの感情を「愛」と捉えているのです。そこで組織宗教は、これを神との関係にも当てはめ、神の「愛」を語ったのです。しかしここでハッキリ言っておきますが、神の「愛」は、通常の人間の「愛(情愛)」とはレベルの違うものです。

 

そこに行き着く段階の中に「無償の愛」がある。しかし本来ならば、この言い方はおかしいわけですね。なぜなら「愛」は「愛」だからです。それをわざわざ「無償の愛」と言っているのは、人間が語る「愛」が、あまりにも「有償」だらけ、バーター取引のようになっているために、それに先ず気づいていただく必要があり、「無償」を強調しているのです。

 

さて、「愛」の段階とは何か? これには大きく言って三段階があります。「情愛」→「博愛」→「神の愛」です。他にもいろんな言い方がありますが、意味しているところは、みなこの三段階です。古代ギリシャでは、これを、エロス(ερως, eros)、フィリア(φιλια, philia)、アガペー(αγαπη, agapee)と言って、区別していました。

 

ご質問の「無償の愛」の人になるとは、先ず「博愛」の人を目指すということになります。もちろん「神の愛」も「無償の愛」なのですが、先ほども書きましたように、そのレベルに至れば、わざわざ「無償の愛」と断ることもない。「愛」は「愛」で、Universal Love(宇宙愛)に行き着いているわけです。

 

ではどうしたら「無償の愛」の人になれるのか、「博愛」の人になれるのか、という問いかけです。ここでじっくり考えてみてください。なぜ、多くの人間が「情愛」レベルに留まっているのでしょうか? そこには、先ほど書いたように「支配」の錯覚もあるのですが、根本的な問題は「情」が捨てられない、また捨てようとしないからです。

 

わが子が可愛い。これは親としては当たり前です。しかし「情」が強く入りますと、わが子以外はそれほど可愛くない、となってしまいます。しかし、もし「情」を捨てれば、子どもはみな可愛いとなり、その人は「博愛」の人に近づくのです。この理屈が分かりますか?

 

「情愛」から「情」を取れば、文字通り「愛」だけになるのですよ。

言われてみれば簡単なこと。

でも人間には、これがなかなか出来ないんですねぇ。

 

どうしてでしょうか? 人間社会では、「愛情」深きことが、よいこととして推奨されているからです。ですから、「博愛」の人は、しばしば激しい非難の的となります。一般の人には、「博愛」が理解できないのです。「博愛」の人は「情」のない人、「薄情」の人に見える。一般の人というのは、エゴの裏返しで「私だけを愛して欲しい」のです。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、こうした非難覚悟で「薄情」の人とならなければならない。「博愛」と「薄情」とは、ちょうどトレードオフの関係になっているんですね。でも、それでもなお、あなたは「博愛」の人を目指すべきだ。それが道なのだから。

 

「博愛」は、何も困難ばかりではありません。「博愛」の人には「博愛」の人にしか解らない幸福感がある。これこそ光。至福への道。

 

「無償の愛」という言葉から、「見返りを求めない」という部分に、どうしてもひっかかりが出てくることは否めません。私も誤解を与えたかも知れません。しかし今ご説明したように、そこがポイントなのではないのです。「情」を捨てれば、自動的に「見返り」などは求めなくなっている。だからこそ「博愛」の人なのです。

 

しかしこれも、「愛情」を信じている人からは、誤解や反発を生むかも知れませんね。「情」を捨てるというよりも、「情」を超えると言った方がいいでしょうか?

 

ですから、「すべて面倒を見てやる」ことが、「博愛」ではないということは明白です。もし逆の立場だったら、あなたはひとから「すべて面倒を見て貰いたい」でしょうか? それが、あなたという個性を活かす道へと通じることなのでしょうか?

 

あなたがもし誰かを援助したいと思ったら、相手の状態をよく見極めて、適切に判断することが必要です。心に深い傷を負った人には、先ず寄り添って癒してあげることが必要でしょう。けれども、自分の足で歩み始めた人にまで過干渉してしまったら、自立の道を絶ってしまいかねません。

 

どうしたらいいかに迷った時には、お手本を見習えばよいのです。これ以上ない、最高のお手本‥‥。それは「神の愛」です。

 

「神」は、手取り足取り何かしてくれたでしょうか? 「神」は、ああしろこうしろと、あなたに迫ったでしょうか? 「神」は、これが出来ないとお前を罰するぞ、と脅したでしょうか? 「神」は、私がこうしてやるからその分お前はこう返せ、と迫ったでしょうか?

 

何も言わない。ただ、あなたに限りない自由を与えて、静かに自立を見守っているだけだ。それは、この上なく「薄情」だとは言えないでしょうか? でも全部を掌握している。なぜなら、「神」は創造された全部であり、かつ創造者自身でもあるからです。この「愛」。「愛」しかない「愛」。これが「神の愛」。

 

困っている人を前にして、あなたが全部を見てあげようと思い詰めなくても、あなたに専任の守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのと同じように、相手にも守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのです。すべては一つ。その人には、その人の学びがあり、その人は、その学びの瞬間を、いま生きているのです。

 

ですから、大いなる安心の上に立って、相手の状態をよく見極めて、あなたがいま出来ることを、した方がよいと思われることを、相手が喜び、そしてあなたも喜びながら行えば、それで充分なのです。そして、その一歩々々が、「博愛」への道へと通じているのです。

 

●参考

Universal Love

エロスの愛について

仏教が「愛」を説かない理由

「我」という意識の進化