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「信仰」は「魂」の成長を足踏みさせる

私と縁のある方たちの中には、過去世で、熱心なキリスト教信者だったという人が実に多いです。そういう人はすぐに判り、修道院で暮らしていたという人もたくさんおられます。このような人は、宗教や信仰を否定している私のような者と出会い、反発心を抱かれる人も多いです。それでもなぜ、縁が生じるのか? そこが実に興味深いところです。

 

こういう方たちと出会うと、「キリスト教ってものは、まったく何てことをしてくれたんだ」と、つくづく思わされます。この人たちの不安や苦悩の原因の根本は、信仰心にあるのに、その信仰心というものを捨てられない。どう話をしようが、難攻不落で、こちらもホトホト手を焼いてしまうのです。(別に、落城させようと思っているわけではありませんが‥‥)

 

ではどうして縁が生じるかと言うと、私に接触して来る人は、すでにキリスト教は捨てているんですね。かつてはキリスト教を熱心に信仰していたけれども、今は止めてしまったという人がほとんどです。ですから「キリスト教では、どうもダメみたいだ」とは気づいているんです。ところが、過去の何回もの転生で、体に染み込ませてきた信仰心までは捨てられない。

 

今世日本に生まれて、この方たちは、キリスト教に代わる別の確たる「信仰」対象が欲しいんですね。それが自分に「安心」をもたらしてくれる筈だ、という期待感がある。でも私は、「それこそが《不安》の元凶であるし、何も信じるな」と言うわけですから、「いったい、この人は何を言っているのだろう?」と、反発心や怒りが沸いて来るのです。

 

別に、私は「神」を否定しているわけではないんです。ただ「あなたが思うような形では『神』はいないよ」と言っているだけなんです。「あなたの内側にいつもいるし、あなたはその一部でもあるんだよ」と言っているだけです。ところが、これが猛反発される。今までの「教え」の常識をひっくり返してしまうから。

 

「信仰」では、なぜ「不安」が消えないかと言うと、「信仰」というのは天上に掛けたいわば梯子段で、この梯子段を昇っていけば天上界に行けると信じているわけですが、同時にそれは、「万が一、梯子段がストンと倒れたらどうしよう」という「不安」を、奥底に内包してしまうことになるのですね。

 

その証拠に、信仰対象が人物であった場合(たとえば傑出した霊能者など)、その人物が死ぬと、信者はたちまち途方に暮れてしまいます。その結果として、次の信仰対象を求めて、血筋(世襲)を重視する派閥と、教義を重視する派閥とに分裂するというのがお決まりのパターンです。

 

このようなわけですから、一度「信仰」の道に嵌ると、しっかり握って離さないようになる。すると反作用から、「不安」もますます大きくなってしまうのです。実際、宗教界では、この心理を脅しによく使います。「いい? 離れたら、どうなっても知らないからね」と言って。ですから、いったん「信仰」に嵌った人が、それを手放すのには大変な勇気を必要とします。

 

私の家系は、300年続く修験道(山伏)の祈祷寺院で、祖父は超能力者であり大僧正でした。そこで私も、若い頃は仏教を学び、一時は「信仰」もしたのですが、最終的には捨てました。その時には、やはり勇気を必要としました。ですから、その当時の自分が、今の自分に出会っていたとしたら、やはり反発を覚えたと思います。

 

でも、何かを「信じる」ということは、そこで自分を、思考停止にしてしまうということなんですね。その先を考えなくていいので、楽かも知れませんが、でもそれは、「信じる対象」の奴隷になることを選ぶということなんですよね。それが果たして、「魂」が喜ぶことなのかどうか。そこをよく考えていただきたいと思うのです。

 

「魂」が、この世に肉体を持って転生して来る意味は、この世でしか出来ないことを体験し、それを通じて「魂」本来のあり方に、再び気づくことです。「魂」は元々あの世から来たものですから、「魂」自身は、外側の何かを「信じる」必要がないことも、自分が「神」の一部であることも、実はみんな知っているんです。

 

だから、ただそこに「気づく」だけなんですね。それがクォンタム・ジャンプ。「魂」の成長なんです。