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本物とニセモノ

昨日書いた伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』には、実は真贋論争があるのです。この絵の題材と同じ物が2幅あると書きましたが、ある美術史家がプライス・コレクションの方に「これは若冲の作ではない」とケチをつけた。それでプライスさんが怒って、この美術史家が企画する展覧会には自分のコレクションを出さないということにまでなったようです。

 

本物とニセモノ。

本物とは何で、ニセモノとは何か? 私もよく「この人は本物だ」と言ったりしています。その時に、自分はどういう意味で言っているのか?

 

世間で言う「本物」とは、たとえば伊藤若冲作と思われる絵があった時に、それが本当に若冲が描いたものなのか、それとも他の人が描いた「似せもの」なのかを問うていると思います。なぜそれを問題にするかというと、伊藤若冲というブランドがすでに権威になっていて、その権威に対して巨額の値が付くからです。

 

「似せもの」が跋扈することは、この権威の希少性というものを犯すことになり、コレクター市場を掻き乱すことになりかねません。そこで真贋が厳しく問われるわけです。これは人間社会においては、ある意味仕方のないことで、そのため真贋を鑑定するいわゆる目利きという人も存在するのです。そういう人にとっては、真贋の鑑定というのは仕事です。

 

でも私にとっては、そんなことはどうでもよい。と、そう思っています。物事を見る時に、いったい何を見るのか、見ているのかということです。骨董屋でふと見つけた絵が素晴らしいと思い、大枚をはたいてそれを購入した。署名を見るとどうも有名な作者のものらしい。そこで『なんでも鑑定団』に出した。そうしたら「似せもの」と鑑定されちゃった。あちゃー。

 

その瞬間、自分が「素晴らしい」と思った絵は、突如ガラクタに変わってしまうというのでしょうか? おそらく大多数の人はそうなのでしょう。『なんでも鑑定団』で見せる反応を見るとそうですから。でもだとしたら、その人は、何を見ていたのか、ということです。絵を見ていたのでしょうか、それとも権威を見ていたのでしょうか?

 

目の前に飾られている絵という「物」自体には、作者に関する真贋もあるし、権威がたっぷり上乗せされているというものだって確かにあります。けれども、それを見るあなたの見方、感じ方は自由だということ。どのように見ても、感じてもいい。それはあなたのもので、その時点で、絵という「物」からは離れた、あなたの固有の思念なのです。

 

私が「この人は本物だ」と言ったりするのは、相手の真贋を言っているわけではありません。その人の言動や存在感から感じる、自分の思念が「本物」だと思うから「本物」と言っているわけで、相手の権威や肩書きなど、関係ないのです。そんなものはどうだっていい。

 

相手が大会社の社長や有名人だったら媚びへつらうようにし、相手が市井の無名の人であったら尊大な態度を取るのか? (そういう人は多いですけれども)そういう人は、結局、自分がニセモノだということです。自分がニセモノだから、ニセモノしか発見できない。それで、相手の真贋、つまり肩書きや権威の方をつねに気にするのです。

 

よく、アートを見て「さっぱり意味が解らない」という人がおられるのですが(それも反応の一つではありますが)、解るとか解らないというのは本来どうでもよいことで、〈自分が〉何を感じたか、思ったかが、すべてなのです。要は鑑賞者の問題。アートはクイズじゃない。作者の意図を知ることが目的なら、わざわざアートにする必要などないわけですからね。

 

自然を見る。その時と一緒です。自然のどこをどう見て、何を感じるかは、あなたの自由。同じ旅をしても、たっぷり感じる人と、何も感じない人がいる。後者の人は、景色を見ているんだけれども、実は何も見ていないのです。

 

見るということは、結局、自分を見ることなんですね。だから、自分をたっぷり見られる人は、豊かな人です。でもそのためには、人は何よりも自由でなければならないのです。