by Rainbow School
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博愛の人は、薄情な人のように見える

「博愛」を Wikipedia で引くと、《「博(ひろ)く愛すること」の意であり、「平等愛」のこと》と出ています。しかしこれは、私に言わせると、ちょっと違うんですね。「博く愛する」はその通りですが、「平等愛」というのは、結果としてそうなるということです。「平等愛」を目指して「博愛」を実現しようと思っても、それは無理というもので、下手をすれば偽善に流れてしまいます。

 

そうではなくて、「博愛」の前には、「無条件の愛」が無ければならないのです。「無条件の愛」であるからこそ、それは自然と「博く愛する」ことになり、結果として「平等愛」になるわけです。

 

ところが、一般に「愛」と言った場合には、それは「情愛」のことを差しています。「私だけを愛して欲しい」「あなただけを愛する」という具合に、それは限定的で、しかも「条件付き愛」(私がこうして上げるから、あなたはこう返してくれ)である場合が、大半なのです。

 

これは悪いことではありません。動物を見ても、親子愛、家族愛というのは、そこから出発しています。ペンギンやアホウドリなど、群れを作って繁殖する鳥がいますが、あれほど大きなコロニーを作っていても、餌を取りに行った親鳥は、ちゃんと我が子を見つけます。人間から見たら、全部同じに見えてしまうのに、凄い能力です。

 

ですから「情愛」というのは、繁殖と生き残りのためには必要なものです。けれども、この「情愛」を拡大していって、周囲の人々を平等に愛せば「博愛」になるかというと、それは無理なんです。「情愛」というのは、そもそも限定的なものですから、これを拡大して「博愛」を目指そうとすると、矛盾から葛藤が生じてしまいます。結果として、それは偽善的になる。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、いつも言っているようにジャンプが必要になるのです。「無条件の愛」の人に、変身しなければならないのです。ある意味、それは「情愛」を捨てて行くということでもあります。

 

楽しみにしていた韓国ドラマの『ホジュン』が終わってしまい、ちと寂しいのですが、この『ホジュン』は、イ・ビョンフン監督の作品の中でも最高のものだと思います。だからこそ、その後2回もリメイクされているのでしょう。

 

『ホジュン』では、他のイ・ビョンフン作品にはある復讐譚といった要素がなく、徹底した「博愛」と、それに対する「迫害」というものが描かれています。連続ドラマを引っ張って行く主軸を、復讐劇ではなくて、「博愛」と「迫害」という対比に据えているんですね。そこが、『チャングムの誓い』『トンイ』『イサン』『馬医』『商道』などとは違う。

 

『ホジュン』の主人公であるホ・ジュンと、その医術の師であるユ・ウィテは、共に医療を通じて「博愛」を目指しているのですが、これが周囲の人たちからは殆ど理解されません。ユ・ウィテは妻や息子からは薄情な親と思われて軽蔑され、ホ・ジュンもまた、息子からは家族のことを考えない薄情な親と思われ、非難されています。

 

宮廷の両班たちは、ホ・ジュンの才能の妬み、「博愛」が理解できずに、「裏に何か策略があるのではないか」と邪推して、ホ・ジュンを引き摺り落とそうとしたり、逆に利用しようとしたりします。ホ・ジュンの評判を聞いて押し寄せる患者たちに至っては、ただ己の病気を治して貰いたいだけで、「治せなければ罪を償って貰うぞ」と脅す始末です。

 

これらの「分からず屋」の迫害にひたすら耐えながら、ホ・ジュンは「博愛」の人であり続けようとするんですね。ここに、迫害・弾圧というものが起きる典型的な要因が示されています。要は、人は自分の眼鏡でしかものを見られない、ということです。

 

ジャンプしていない者にジャンプした者は理解できない。まさに「準備ができた者だけに、それは与えられる」と言われる通りです。普通の人には、「博愛」と「偽善」の区別すらつきません。むしろ「偽善」の方が、ストレートで解りやすい分、好まれるのです。

 

ですから、「博愛」の人というのは、「分からず屋」さんたちから見れば「薄情」に見えます。〈自分だけを愛して〉はくれないからです。もっとすると「無情」にすら思える。そこで、蔑み、小馬鹿にし、罵声を浴びせる。「博愛」であり続けようとする人は、それでもなお、そういう人たちにも「無条件の愛」を降り注いでいかなければならないのです。

 

でもね、「神」の愛というものを考えてみてくださいよ。それが、〈あなただけ〉を愛するものなのでしょうか?

 

あなたには、これまで生きて来て、「神も仏もあるものか!」と思った瞬間が、一度ならずなかったでしょうか? 一生懸命お頼みしたのに、呼びかけにちっとも応えてくれないじゃないか。なんて「薄情」なんだ。「無情」な奴なんだ。どうして苦しみばかり自分に与えるんだ。神様のバカヤロウ!

 

そう、罵声を浴びせたことがなかったでしょうか? 同じじゃありませんか。それが「博愛」、つまり「無条件の愛」の発露ということなんですよ。