by Rainbow School
<< November 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 現代人が手放せない二つの信念 | main | 日本画家、堀文子さん >>
聖書、聖典類を絶対視しない

宇宙は永遠です。(永遠ということは、実は「無時間」ということなのですが)それゆえ、いつの時代にも偉大なるマスターが存在します。マスターは、天上の世界と地上の世界をブリッジする存在で、地上に暮らす人々に「宇宙の真理」を伝え、人々の霊的進化を助ける役割をします。

 

マスターはこのような役割を持っているのですが、同時に超人的な能力を有しているがために、人々からは崇められる存在となります。しかし一方で、そうした超人的な能力を危険視する人たちからは、迫害を受けることになります。彼らのよって立つ基盤を破壊する恐れがあるためです。そのためマスターは、めったに地上に姿を現しません。

 

さて、歴史を紐解きますと、宗教が成立した時代にも、多くのマスターが登場しました。この時代には、一般の民衆はまだ無学であったために、「宇宙の真理」を伝えるために、マスターは、数々の「奇跡(miracle)」を先ず見せざるを得ませんでした。これには仕方のない面もあったのですが、その結果、マスターを神格化して見るということが生じてしまいました。

 

実際には、マスターは「誰でもこう成れるよ」という手本を示しただけなのですが、人々はそうは見なかったのです。自分の内なる可能性としてではなく、外側に、崇め奉る信仰の対象を置いてしまったのです。こうして、組織化された宗教が誕生して行きました。

 

マスターが生きている間は、マスター自身が信仰の対象となっていたのですが、マスターが転化(地上でいう「死」)してしまうと、信仰の対象をどこに置いていいか、人々は途方に暮れてしまいます。そこで、宗教においては、開祖の死後は必ず二つの道に分かれます。ミラクルを起こせる能力は血統にこそ受け継がれると見る「血脈派」と、生前の教えを重視せよという「教義派」です。

 

イスラム教のシーアとスンナの対立も、元を正せばこれです。しかし、ミラクルを起こせる能力は、転生してきた「魂」の元のレベルにあるのであって、血統という物質的なものに遺伝するわけではありません。したがって「血脈派」は、幻想の中に子孫を担ぎ上げ、その権威を利用して実権を握るようになって行きます。

 

一方「教義派」は、開祖亡き後は、もう開祖を超える人間など現れよう筈もないだろうから、意識を転換して、開祖の「教え」を守って行こうと考えます。これは発想としては正しいのですが、組織化された宗教としては、ミラクルがないため吸引力が弱いのです。そこで、教義や言行録を成文化し、これに絶対性を付与して、開祖に代わる信仰の対象に仕立て上げて行くのです。

 

そうしますと、聖書、聖典類が、まるで憲法のようになって行き、聖書のこの言葉に照らして、この行為は間違っている、罪である、罰を与えなければならない、という発想が生まれて来るのです。組織化された宗教は、それを利用して、聖書、聖典類の内容を、自分たちに都合のよいように改ざんさえして行きます。

 

本来であれば、地上にマスターが降りたのは、人々に、自由と、自分の内なる可能性について気がついて貰うためでした。それが、組織化された宗教の登場によって、自由を奪い、自己の可能性に蓋をして、罪と罰に怯えながら生活する道を示すことに、変えられてしまったのです。まったくもって、マスターたちの嘆きが聞こえてきます。

 

聖書、聖典類には、確かにマスターたちのエッセンスが含まれています。けれども、いま申し上げた理由によって、これを絶対視してしまうことは、あなたのためにはなりません。聖書、聖典類に隷属してしまっては、元も子もないのです。あなたはあなたです。

 

そうではなくて、気づきの扉を開けるノックだと思って、こうした書物に触れていただきたいのです。あなたには、最初からすべてが与えられています。あなたは、最初からすべてを知っているのです。ただ、蓋をしていることに気づいていないだけなのです。ですから、ご自分の可能性を信じて、聖書、聖典類を上手に活用していただくことを願います。