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相模原の事件に際して

相模原で痛ましい事件が起きました。この件で、どのような報道がなされているかを私は知りません。けれども、日本障害者協議会代表の藤井克徳氏が、犯行を行った人物は、ナチス・ドイツが行った「T4作戦(独: Aktion T4)」のことを知っていたのではないか、という指摘をされております。


「T4作戦」というのは、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策のことを言います。「T4」というのは通称で、安楽死管理局の所在地がベルリンのティーアガルテン通り4番地にあったことから、第二次世界大戦後にそう呼称されるようになったそうです。


ナチス・ドイツがユダヤ人を虐殺したことは広く知られていますが、それに先立つ1939年10月(ドイツ軍がポーランドへ侵攻した直後)から、この作戦が開始され、推定では20万人以上のいわゆる障害者が亡くなったとされています。この際の一連のプロセスが、その後のユダヤ人虐殺にも応用されて行ったのです。


「T4作戦」のおぞましさは、一つには「ダーウィニズム(Darwinism)」から派生した「優生学思想」に基盤を置いていることです。「優生学(eugenics)」の父と呼ばれるフランシス・ゴルトンは、人の才能は遺伝によって大部分が受け継がれるものであって、家畜の品種改良と同じように、人間にも人為的選択を適用すれば、より良い社会が形成できると論じました。


これが、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に取り入れられ、二つめとして、民族の血を劣化させる「生きるに値しない命」 は、根絶するべきであるという「T4作戦」の具体化に繫がったのです。「生きるに値しない命」とは、生産することも、兵隊になることもできない命という意味でした。


この安楽死政策は、ヒトラーの秘密命令によって法律もなく始められ、当初は法務省も事態を把握していませんでした。しかしこれが明るみに出ると、2年後にヒトラーは安楽死の中止を命令します。ところが、三つめとして、精神病患者の収容施設などでは、その後も医師や看護師による患者の殺害が継続されたのです。


この事実は、もはや国家の統制を失ったという意味で「野生化した安楽死」と呼ばれています。今度の事件の犯人は、より良い社会のためには、「生きるに値しない命」は抹殺すべきなんだと考えた。まさに、これはナチス・ドイツの「優生学思想」を彷彿とさせるものです。


さて、私自身は「障害者」という言葉があること自体が嫌いです。世の中には「障害者」などいないと思っていますし、逆に人間は全員が「障害者」だと言ってもいいと考えています。確かに、五感や四肢の機能に特別な不自由さを感じている方はおられるでしょう。しかし、この境界を越えたら「障害者」で、それ未満は「健常者」だという、今の常識には違和感を覚えます。

 

仮に、オリンピックの選考基準をクリアできる身体能力の持ち主のみが、身体的に「正常」だという基準を設けたとしましょう。すると、この基準に達しない者は全員が「障害者」ということになってしまいます。何を言いたいかといえば、能力というものは相対的なもので、基準は恣意的なものに過ぎないということです。それなのに、「障害者」に等級まで設けて認定行為を行っている。


「障害者」差別を失くせ、と人は言います。けれども、レッテルを貼るから区別が生じ、区別が生じるから、差別が生じるのです。ある一定基準によってグループ分けをし、保護することは、それ自体がすでに「差別」なのです。今の社会では、「保護」や「支援」の名の下に、こうしたレッテル貼りが蔓延し常識化している。こうした風潮にこそ、私はそら恐ろしさを感じます。


「優生学思想」の決定的な誤りは、人間を物質としてしか捉えていないところにあります。社会にとって有用であるべき優秀な個体は、遺伝の操作によって生み出せると考えている。まさに「物」です。


しかし、そうではありません。肉体というのは乗り物であって、その生命の本質は、あくまで「魂」にある。そして「魂」は、完成を目指して何度も輪廻転生していくのです。その一つの人生における肉体は、輪廻転生という長大なドラマの中の、わずか一つの選択に過ぎないのです。


わけあって、今世はその肉体を選択した。しかしそれは、多様な生命の表現における「個性」に過ぎません。優秀とか劣等というのは、人間が人為的な基準によって(たとえば兵隊になれるかどうか)勝手に決めていることであって、「生命」そのものには優劣などないのです。「生命」は、ただ連続して運ばれるだけなのです。


ですから、すべての「生命」には存在している意味があるのです。あなたにも、そして別のあなたにも。あなたは、自身だけではなく、周囲の人々にも、その「個性」が存在していることを通じて「意味」の気づきを与えているのです。このようにして、すべての「生命」が、互いに意味を分かち合っているのです。


棒を一本、横に置いてみてください。左端と右端があります。左は右があるから左であり、右は左があるから右でいられるのです。でも左側が邪魔だと思って、半分から左側を切り落としてしまったらどうなるでしょう。残った右側に、やっぱり左が生じるでしょう。これは棒磁石でやっても同じです。切った端には必ずS極とN極ができる。

 

これが陰陽二元性の法則です。陰中陽、陽中陰と言って、一見、陰極性、陽極性を表現しているものにも、必ず反対の要素が含まれている。陰陽太極図の中の、白黒を反転した小さな丸は、それを表しています。


お解りでしょうか? 「物質」だと見なしている人間の一部を、いくら排除したところで、「魂」は輪廻転生します。前世までにこしらえたカルマを、解消するチャンスを与えられた肉体を、自ら選択して。そこには、その人だけでなく、その人と関わる周囲の人々にも、ある学習のチャンスが与えられているのです。


このようにして、「生命」というものは、宇宙の下にまったく平等にあるのです。この普遍的「真理」を知らない限り、いくら倫理や道徳といった人間社会のルールを持ち出したところで、人間社会で起きる矛盾を乗り越えることは出来ません。いつも言っているように、その「観念の枠組み」そのものからのジャンプが必要なのです。


自然界に、なにゆえ、これほど多種多様な「生命」が存在すると思われるでしょうか? 植物が動物を育み、動物が排泄物を出し、その排泄物をバクテリアが食べ、無機塩類と二酸化炭素に分解し、これが植物を育てる。すべてが完璧です。すべての「生命」が相互依存によって成り立っている。意味のないものなど、一つもないのです。


これが「生命」の尊重ということの真の意味です。あなたには、生きていく価値があり、同様に周囲の人たちも、みな生きていく価値があるのです。あなたは私であり、私はあなたでもあるわけですから。