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『ロッキー』の “I love you.”
シルヴェスター・スタローンの『ロッキー』という映画を観たのは39年前。すぐに主題曲のEP盤レコードを買って腕立て伏せなどをやり始めました(バカだね)。最後の場面は、物まねが出来るほどです。

「エイドリアーン、エイドリアーン」潰れた眼の瞳を彷徨わせて、必死に恋人の名を呼ぶロッキー。
「ロッキー、ロッキー」観客席から、リング上のロッキーのもとに駆け寄るエイドリアン。
互いを確認し、ロッキーの眼をしっかり見詰めてエイドリアン言う。「アイ・ラービュー」
ロッキーがそれに低い声で答える。「アイラブ・ユー」

映画史に残る、とても感動的な場面。でもその時自分は、本能的に「違うでしょ!」と心の中で叫んでいた。天の邪鬼といえば天の邪鬼。でもハリウッド映画を観るたびに、「なんだ、また最後は愛かよ」と、その「LOVE」の押し売りにはもうウンザリしていました。以来、「愛」という言葉を口にすることさえ憚(はばか)れるようになってしまいました。

ところが、今は堂々と「愛」と言う。「愛」がもっとも大切とまで言う。このブログでも何度も強調しています。以前と比べたらもの凄い変化なのですが、でもハリウッド式の「愛」を認めたわけじゃないんですよ。やっぱりあれは違う。

特定の人が愛しい、恋しい。いつも一緒に居たい。離れていると寂しい。私がこれほど求めるのだから、同じように私にも返して欲しい。そうやって一体感を共有したい。自分が価値あるものだということを確かめたい。

これは果たして「愛」なのかということです。互いがそれを欲し、与え合うという関係が続いている間はそれでもいい。いわゆる「ラブラブ」という期間です。ところが、相手が自分以上には与えてくれないと感じ出した途端、そこに亀裂が入ってしまう。それが更に進めば、「愛」だと思っていたものが「憎しみ」にまで転じてしまう。

そんなものが「愛」なのかということです。仏教の方では、これを「渇愛(タンハー)」と言って、煩悩の一種だとしました。「愛」という一見美しい言葉で包んでいても、それは自分の中の所有欲、支配欲、依存心、性欲、等々を満足させたいだけなんですよね。

だから、芸能人カップルが「ラブラブ」の期間が終わった途端、みなあれほど破局へと進むのです。芸能人というのは、基本的に自己顕示欲が肥大した人たちですから、本当の「愛」というものに対しては、そもそも感覚が鈍い。逆に言えば、その分本当の「愛」への渇望も強いわけで、これがしょっちゅうくっついたり離れたりする理由です。

男と女が出会う時には(同性の場合もありますが)、先ずは本能というものがあるので、最初はハリウッド式の「LOVE」であっても構わないとは思います。しかしいつまでもそうであっては成長がありません。

「愛」の本質というものは「獲得」にあるのではなく、むしろ「滅私」にあるのであって、自分の中に眠る所有欲、支配欲、依存心、性欲等々を、逆に手放して行くようでなければならない。これがいわゆる「無償の愛」です。ですから、少しずつそのような心境になれるように、自分というものをコントロールして行くことです。

そこに自覚のない人は、いくつになっても「いい男がいない」だの「私はDV男にばっかり会う」などと言い続けている。そんなものは根本的に間違っている。原因はその人自身にあると気づかなければ、始まるものも始まらない。