by Rainbow School
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お頭付き
冬の日本海の味覚としてポピュラーなものにスケソウダラがあります。自分が子どもの時には、とにかく、めったやたらと鱈でした。鱈の煮付けに鱈の味噌汁。鱈というのは水っぽい白身魚で、味があんまりありません。だから、鱈が食卓に並ぶと「またか‥‥」とガッカリしていました。

ところがこの魚は大人には喜ばれる。鱈の美味いところは、白子、タラコ、肝、頭なんですね。私もその味覚は、大人になって知ったわけで、子どもの時には親に騙されていたということが分った。親は子どもに「食べやすいところを上げるね」と言って味のない身を渡し、自分たちはいちばん美味い内蔵や頭を食べていたというわけ。

ということで、スーパーにそろそろスケソウダラが出て来る季節なのですが、ぶつ切りにされてパックに入った姿を見ると、本当にガッカリします。胴体部分しか入っていないのよね。タラコが入っていることもあるけど、白子は抜き取られて別のパックにされ、高く売られている。肝と頭は、たぶん捨てられているんでしょうねぇ。

どうして一匹丸のまま売らないのよォ。「余計なことしないで!」と言いたい。「お願いだからその頭の部分だけを私にちょうだい」と言いたい。あーあ、ひどい時代だなぁ。大根だって葉っぱが美味しいのに、ネギだって青いところが美味しいのに、全部捨てちまう。もう最初っから「捨てるもの」と思い込んでいる。現代人のこの食体験の貧しさよ。

私はよくアラを買います。ブリ、塩鮭、鯛、イカ、etc。それは、割安ということもあるけれど、アラの方がずっと美味だからなんです。肉でも魚でも、美味しいのは骨の周囲にくっついている部分。マグロの中落ちが美味いことはみんな知っていると思うけれど、それと同じことは全部に言えるわけ。鯵の干物だって、中骨に付いた部分が美味いんだからね。

中でも鯛は重宝する。霜降り(お湯の中を一度通す)して鱗や血合いをていねいに取り、小分けして冷凍しておくのですが、鯛からは実によい出汁が出る。これから冬になりますが、おでんを昆布と鯛の出汁でつくるとビックリするくらい美味い。甘辛の兜煮にしてもいいし、鯛そうめんや炊き込みごはんもとても美味しい。やっぱり鯛は王様。アラだって、あらあらと言うくらい美味しい。

「お頭付き」というのは、縁起物とされているわけですが、そればかりでなく、やっぱり「お頭」部分は骨なので、そこの肉が美味だということなんですね。ですからみなさんも、スーパーでアラを見つけたら、ぜひ買って調理していただきたい。そうしないと、そのうち、ブリのアラも鯛のアラも捨てられて、店頭に出て来ない運命になりそうだから。
居酒屋文化は万国共通
呑み屋というものの雰囲気が好きで、今までいろんなところに行きました。10年くらい前までは「居酒屋同好会」と称して、同好の士数名と都内のあちこちを探索して歩きました。選定基準の第一は、とにかく古いということです。古いということは、生き残って来た理由がそこにあるわけで、一見さんにとっては最も確かな基準となるのです。

でも、そうやって体験したお店の半分は、今では、おそらくもうなくなっていることでしょう。店舗の老朽化や世代交代などの問題もありますが、人々がお店に求めるものがガラリと変わってしまった。若い人は、小奇麗で小洒落た内装がウリの、無国籍の創作料理を出すチェーン店に行くようになってしまった。情報源も、インターネットの☆の数で判断するようになりました。

私の年代くらいが、たぶん本物の店と味を知る、最後の世代になるのでしょう。(ちなみに、小津安二郎の映画を観れば、古きよき店というものが解ります)若い人にとっては、昭和レトロ感覚は新鮮な部分もあるらしく、最近、昭和レトロ風の作りの居酒屋やラーメン店を時々見かけますが、それらはやっぱり「風」でしかないのです。本物ではない、所詮はニセモノです。

いったい何が違うかと言えば、店の経営者、つまり大将の心意気が、自分が知る昭和時代の店とはまるで違う。そもそも、昭和レトロ風の店づくりをするというところが、すでにウケ狙い、トレンド狙いであって、「美味しいものを、安く提供して、みんなに喜んで貰おう」という発想じゃないのです。

居酒屋評論家の太田和彦さんは、よい店の定義として「いい酒、いい人、いい肴」と言っておられます。この三条件に関しては、私も全くその通りだと思いますが、私の場合は「いい人」がトップに来る。店は、大将やおかみさんの想い、考え方、技術がそっくり出る場で、それは大将やおかみさんの「表現」なんです。

なぜそこを味わおうとせずに、ブラックな経営者のチェーン店に行って、アルバイトが出すチンした料理に人々が向かうのかが、私にはさっぱり解りません。友人の一人に、どこへ行ってもマクドナルドに入る男が居て、「どうしていつもマクドナルドなのか?」と訊いてみたことがあります。すると「安心だから」という答えが返って来て、ビックリ仰天しました。

「安心」という感覚が、もう私などとはまるっきり違うんですね。私は大企業など信用していないから、店の大将やおかみさんという人物を見る。ところが彼は、今まで一度も会ったこともない、大将やおかみさんに接するというのがすでに不安なんです。そこで、いっつもマクドナルドへ行く。

世界入りにくい居酒屋』という番組があって、毎週楽しみに観ているのですが、つくづく居酒屋文化というものは世界共通だなぁという感じがします。これを観てハッキリ判るのは、太田和彦さんの言う通り、「いい人」が絶対条件なんですよね。オーナの人柄に惹かれて客が集まって来て、疲れやストレスを解消する楽しい時間を、大勢で共有する。

この感覚は万国共通で、こういう場で庶民同士が交流をすれば、世界から戦争なんて無くなると、本気で思います。私が突然ぶらりと行ったとしても、「おう、日本人、よく来た。一緒に呑もうぜ」という話にすぐになると思う。日本の古きよき居酒屋は壊滅状態だから、もうこうなったら、海外に行くしかないか。

いけねぇ、旅費がない!
忘れ去られた『マクガバン・レポート』
日本の国民医療費は、昭和35年以降、毎年1兆円ペースの増加を続け、現在では40兆円に迫ろうとしています。年間の税収は50兆円前後しかないのにこれですから、いかに巨額でかつアンバランスなものであるかが解ると思います。ここでハッキリ言えることは、今の政治は医療費を削減することに、全く関心がないということです。

国民の健康と財産を守るのが国家の一つの仕事であるはずなのに、実際には病人を増やし続けているのが今の医療行政です。もし本当に「健康」が実現できているのなら、医療費は減少していなければおかしいではありませんか。しかし「健康不安」を餌に、誤った思想をどんどん吹き込んだ結果、健康どころか、病人がうなぎ登りに増えているのです。

1960年代のアメリカは、国民一人当たりの医療費が世界第一位で、平均寿命も26番目でした。このままでは国家財政が破綻すると危機感を抱いた当時の政府は、上院に栄養問題の特別委員会を設け、食と健康に関する世界規模の調査を行いました。この調査結果は、1977年に5000ページに及ぶ、通称『マクガバン・レポート』として発表され物議を醸しました。

なぜかと言いますと、アメリカ人に多い死因のうち、ガンや心臓病など6つの病気が「食生活」に大きく関連していることを指摘していたからです。そして報告書は、肉、卵、乳製品、砂糖などの摂取を控えて、穀物中心の食事に転換するよう提言していました。

これは当然ながら、指摘された関係団体の猛烈な非難を浴び、結局『マクガバン・レポート』は、葬り去られる運命に終わってしまったのです。一方、この『マクガバン・レポート』で高く評価されていたのが「日本食」でした。以来「日本食」は、世界中で、ヘルシーフードとして今も高く評価されています。

ところが肝心の日本人は、それとは逆行するように、アメリカナイズされた不健康な食習慣をどんどん取り入れて来ました。いまスーパーマーケットに行きますと、どこもベーカリーを主力のコーナーとしています。お米の消費量は年々減り続け、パン食に切り替わっているのです。小さい子に「何が食べたいか」と訊くと、ポテトとハンバーガーと答えます。

「日本食」は、それほど危機的な状況です。イタリア人が、ファストフードを拒否し自国の食文化を守ろうとしている態度と比べると、なぜこれほどの差がついたのかと思います。一つ考えられるのは、イタリア人は大家族主義で「mammaの味」に誇りを持っているという点。ところが日本人は、核家族化によって、調理技術の伝承が途絶えてしまったんですね。

パン食になっていくのも、ご飯を炊くということが、もう面倒くさくてできない。しかしパンはどこでも買えるし、そのまま置いといても腐らない。すると、おかずがパンに合わせたものになっていくわけです。一方の汁も、出汁の取り方すら解らない。出汁を取らないわけですから、水の料理である「和食」は、もはや絶滅と言っていい状況です。

毎日のことなのに、健康体をつくるための基本であるはずなのに、どうしてこれほどまでに「食」を破壊して平気なのかが、私には理解できません。それでいて健康食品にはやたらと関心がある。おかしいとは思いませんか? 
現代栄養学のデタラメ
今ほどの知識がなかった若かりしころ、私はアメリカでサプリメントがブームになっていることを知り、それから間もなくして、片手に山ほどのサプリメントとプロテインを飲むようになりました。まるで取り憑かれたような感じで、都合五年間くらいは続けたと思います。アトピー性皮膚炎に悩まされていたということもあって、意識がそこに集中してしまったんですね。

その後、「命」を永続させているエネルギーは食物だけではないと知り、その洗脳?から、目が覚めました。

「命」を育んでいるエネルギーの主力は、食物ではなくてプラーナです。よく知られた言葉では「気」です。この元は、宇宙にあまねく存在している宇宙エネルギー(Vital Life Force)で、プラーナは呼吸によって体内に取り込まれます。つまり「息」は「生き」ということを示していて、呼吸が停止したときに「魂」が肉体を離れ、人はこの世での一つの人生を終えます。

一方で、肉体を構成している細胞は、絶えず増殖と死滅の新陳代謝を繰り返していますので、この肉体補修に必要な材料を取り込む必要があります。これは「食物」によってなされます。

さてここで重要な点は、人体は精密な化学工場であり、接種した「食物」を、分子レベルや原子レベルにまでバラバラに分解してから取り込むということです。そして、いったんバラバラにした素材を、また必要に応じて合成し直すのです。この化学工場の性能は、実に驚くべきもので、ムダを出さないよう徹底したリサイクルまで行って材料を用い尽くすのです。

生きていく上での必要な三大栄養素として、炭水化物、たんぱく質、脂肪というものを習ったと思いますが、炭水化物とたんぱく質は、お互いに補完し合えるほどなのです。

そのことから言えることは、健康食品でコラーゲンとかヒアルロン酸とか、いろんなことを言っておりますが、それらを摂取してもあまり意味がないということなのです。課題は、化学工場としての人体の再構成力に掛かっていて、コラーゲンを摂っても、一応その材料はあるよというだけで、それを体内でまたコラーゲンに再構成するかどうかは別問題なのです。

私見ですが、おそらくその再構成力は、その人の「心のあり方」と密接に関係していると思います。「老化防止のために、コラーゲンを飲まなくっちゃ」と思っていたとすると、「老化する(ネガティブ)」+「その否定」の文脈ですから、むしろ「老化」現象を促進する方向に体が向かって行ってしまう。そうではなくて、「私はいつも若々しい、元気はつらつである」と思っていれば、再構成力が高まり、そんなものを摂取する必要はなくなると思います。

以上を考えますと、「一日30品目」などというのは、根拠がないどころか、最悪の栄養学だと思います。長い人類史を見ても、人間は、その時期そこにある物を食べていたのであり、地域や季節の違いによって、みな極端な偏食であったわけです。それでも生存できたのは、いま言った精密化学工場としての、人体の優れた能力があるおかげなのです。

人類は長年にわたって飢えに耐え忍んで来た経験から、人体にはこれに耐えるための機能はたくさん持っていますが、飽食に対してはめっぽう弱く、インスリンで調整するくらいしか手段がありません。ですから「食」に関しての現代の諸問題は、栄養不足ではなく、むしろ栄養過多と、ジャンクフードの氾濫にあるのです。

「一日30品目」も摂取できた人間は、昔であれば貴族しかいなかったでしょう。化学工場のラインを考えてみてください。単一の材料が入って来た時には、そのラインを効率的に動かすことができますが、次々と違う材料が押し寄せて来たら、その都度ラインを変更しなければならず、処理し切れなくなってしまいます。

この結果、消化器に過重な負担が掛かりますし、腸内にガスが発生するなど、よいことは一つもありません。以上のことを考慮しますと、食養生としては、一汁一菜に代表される「粗食」が望ましく、栄養バランスを考えるよりも、汚染されていない、生気に溢れた、旬のものを頂くことの方が、よほど重要であることが解ります。

さらに言えば、肉体を造る根本は「心」にあるのですから、四季の恵み、大地の恵み、海の恵みに感謝して、一食一食をおいしく頂くということも重要です。
「病気」とは「気」が病む(止む)こと、「元気」とは「気」の元が充分供給されているということです。毎食を、「元気な心」で、楽しく頂くようにしてください。
旬を食べよう
私の母親は、決して贅沢はしませんでしたが「食い道楽」で、うまいものは何かをよく知っていました。日本海側なので、鱈の煮付けをよく食べさせられたのですが、子供には「骨の少ないところを上げるね」と言って尻尾の方を食べさせ、自分はチャッカリいちばんうまい頭のところをおいしそうに食べていました。

その母親の口癖が、「ああ、これで七十五日生き延びた」。これは、「初物食えば七十五日生き延びる」の諺を言ったものですが、季節の旬のものを食べた時には、必ずそう言っていました。なぜ七十五日かについては諸説ありますが、「人の噂も七十五日」と同じく、それくらい経てば次に移っていくということだと思います。

「旬」の「勹」は、日をぐるっと回る回転を表していることから、季節の巡りが「旬」ということです。この「旬」をいただくということが、生命体にとっては重要なんですね。今はハウス栽培で、冬でも夏野菜が出回っているわけですが、あれはあんまりよろしくない。

「夏」と「冬」の字にはどちらも「久」があります。これは時が長いという意味で、「夏」は一ノ日が長いと書く。「冬」の「冫」は「冷」を表していますから、寒気が長いということ。ですから、夏には陽をいっぱい浴びた地上の物がよく、冬は寒気を避けた地中の根菜類を食べると良いのです。

また「春」は、桑の葉が日に当たって伸びた字、「秋」は「禾(いね)」の借り入れが終わり暖房が欲しくなる頃です。ですから、春先は新芽の息吹をいただくと力が漲ってくる。ワカメ(若芽)と筍の椀はその代表です。秋は、収穫の時期ですから、その恵みを存分に味わうのです。

これらのことは、人類が何十万年も生きてきて、体に覚えこませた自然の摂理ですから、みな理に適っているのです。春には春の物を、おいしくいただきましょう。
『いろはクッキング教室』終了
1月末から6回に渡って行った『いろはクッキング教室』をやり終えました。参加者は少なかったけれど、一生懸命やりましたし、達成できてよかったです。これを次につなげていきたいと思います。参加してくださったみなさん、どうもありがとうございました。

主催のyyさんが、役所で調理関係のイベントをしている人に『いろはクッキング教室』のプログラムを見せたところ、「これでは人を呼べない」と言われたそうです。「出汁を取るなんてことはめんどくさいし、『ひな祭り』とか、そういうイベント・クッキングを前面に出さないと‥‥」とアドバイスをされたとか。

全くその通りなんでしょう。そして、そういう時代なんでしょう。だからこそ『いろはクッキング』を企画したわけで、人を呼ぶことを目的にしたわけではありません。ですから、それで参加者が少なかったとしても、参加してくださった方を大事にしてしっかりお伝えしたいと思いました。

そもそも、集客できる「料理教室」を継続したいと考えたことはないんです。「いろは」を覚えて、家に帰って、「家庭料理」を継続して貰いたかったのです。『ひな祭り』のイベント・クッキングもいいでしょうけれど、毎日『ひな祭り』をするわけにはいかないですからね。

「料理教室」で覚えた料理を、家に帰って一回やったらそれで終わり、では意味がないじゃないですか。普段の毎日の食卓こそが重要であって、これが「家族愛」というものと「健康」のベースを作るのです。現代の人々が、どうして普段の食事をないがしろにして、イベント・クッキングに走るのかが、私には理解できません。

私には29歳の一人息子がおりますが、10日に一遍くらい、何の予告もなしにひょっこり家に帰って来ます。その時の会話は「お腹すいてないか?」とか「食べたいものはあるか?」といったこと。それで「15分待って」と言って、あるものでチャチャッと作るわけですが、それが出来るのは自分に調理技術があるここと、息子の側に「わが家の味」の記憶があるからです。

そういう「家庭料理」の積み重ねが、ボンディング(接着剤)の機能を果たしているんですね。もしそれが無かったとしたら、10日ぶりに会う親父と息子の間には、殺伐とした空気しか生まれないと思うんです。うちはカミさんが早くに死んでしまったので、一人息子にとっても、それがたぶん一本の細い糸だと思います。

自分は、幼いころから母親に料理を習って、それ以来興味を持って作り続けて来たのですが、それが役に立っているし、一人暮らしでも楽しく食事ができています。でもそういう当たり前のことが通じない世の中になってしまいましたね。毎日の食事づくりをメンドクサイと拒否して、それで代わりに手に入れたものは何ですか?

『いろはクッキング教室』のレポートはこちら ▶
サービスのあり方
磯子のセミナーに行った折、昼食を取る時間がなくて、仕方なしにファストフード店に入りました。ファストフードと言ってもチェーンのうどん店です。私の場合、ギリギリの妥協といったところでしょうか。

店内に入ると非常に混んでいました。向かって右側がデシャップレーン(Dish Up Lane)、左側の壁はカウンター席になっています。運よくそこに空いた場所を見つけたので、私は転がしていたキャスター付きの大きなバッグをそこに置こうとしました。

ところが、ホールの案内係の女性に制止されてしまいました。先ずレーンに並べと。最初に席を取ってはいけないというのです。そこで仕方なく、片手でキャスターバッグを転がしながら、もう一方の手で汁の入った丼を載せたお盆を持って、さながら海老一染之助のようにして移動したわけです。(全然おめでたくないけれど)

そして、くだんの案内係の女性に導かれて座った席が、なんのことはない、最初に私が荷物を置こうとした席なのです。アホくさ。これだから、チェーン店はいやなのです。

その女性は、店のルールを客に順守させることが、自分の仕事だと思っているのです。そういう風に店から教育されていて、客の立場に立って考えるという発想が全くない。いったいそれがサービスなのか、ということです。

カウンター席で、不味いうどんを啜っていると、自分がケージに入れられた鶏のような気がしてきて、早く逃げ出したくなりました。エサを取りに行くのも自分、食べ終わった器を返しに行くのも自分です。客は店のシステムに合わせて、ベルトコンベアーを移動してエサにありつき、そしてお金を払うのです。

でも見ていると、そんなことに疑問を抱いているお客さんは誰もいないようです。お客も、それが当たり前だと教育されて育っている。でも私はイヤだな。サービスというのは個人技です。だからヨーロッパでは、給仕係は年配のベテランが務める。ベテランの方が、お客というものをよく知っているから。

ところが日本では、若くてピチピチした子が優先される。私もアルバイトに何度か応募したけれど、先ず年齢で撥ねられて雇ってもらえない。結局サービスをする人を、使い捨ての労働力としか見ていないんですよね。サービスほど難しい個人技はないのに、そこに価値を置いていないの。

同じ日の夜、4人で老舗の居酒屋へ行ったのですが、そこは丸で違っていましたね。サービスを受け持つのはベテランのおば様。こちらが最初のオーダーをすると「お刺身の盛り合わせいかがですか。いま旬の魚がちょっとずつ入って、おいしいですよ。4人で1.5人前くらい」と言われて、乗せられて注文してしまいました。

「ポテトもいかがですか?」じゃないんですよ。ちゃんと自分で考えた言葉があって、客をその気にさせて落としているんです。1.5人前というところがミソ。1人前3,000円だったから2人前頼むと6,000円になっちゃう。4人で割るとそれだけで1,500円だ。

でも通常のオーダーにない1.5人前というと、無理を聞いてもらったスペシャルな感じがするでしょ。そうやって「お客様のこと考えているんですよ」と思わせながら、実は3,000円じゃなくて、4,500円落とさせているわけです。これがプロのサービス技術というもの。

飲食店というのは、ただ入って食べてお金を払うところじゃないんです。サービスの技と対決する場所なんです。そこが一番楽しい。そのためには、客側のこっちも食べまくり飲みまくりの場数を踏んでいないと太刀打ちできないということ。

でもそれを体験しようにも、チェーン店ではどうしようもありません。我が愛する老舗店は絶滅危惧種になっちゃった。老舗が死に瀬の瀬戸際です。つまんない時代だなぁ。
日本人が、外人から和食を習う日
昨年の夏、親戚の家に行ったときのことです。奥さんが夕食を出してくださった。その家には10年ほど前にもお邪魔したことがあったのですが、そのとき初めてアシタバを食べた。私が「おしいしい」と言うと、「そう、じゃあもっと出すね」と言って、裏の畑から摘んできてサッと茹でて出してくれました。

そのときの印象が強くて、他にも食卓には何品もの料理が並び、私の頭の中には奥さんは料理上手という思い込みがすっかり出来上がっていたのでした。しかし今回は印象が違った。何かがおかしい。丸茄子の煮付けを食べてみたのですが、私にはその味の成分がなんなのか分かりませんでした。

そこで訊いてみた。「これの出しは何を使っているんですか?」
すると、驚くべき答えが返ってきた。「ううん、使ってないの」
びっくり仰天している私に、奥さんが続けて言った。「出し入り醤油の、いいのがあるんですテ」
そのとき初めて、世の中に「出し入り醤油」というものがあることを知ったのです。

東京に帰ってきてスーパーに行くと、「出し入り醤油」なるものが特売コーナーに山盛りにされていることにやっと気がつきました。たぶん今までにもあったのでしょうが、全く目に入っていなかったのです。

あの料理上手だった奥さんを変えさせてしまったものは、何だったのでしょうか? それほど「出し入り醤油」は魅力的な商品なのでしょうか?

一度「出し入り醤油」を使ったレピシを覚えてしまったら、次からは「出し入り醤油」がなければ料理ができなくなってしまいます。出しと調味料との関係が解らないから、バリエーションも味付けの変化も利きません。出し入り味噌、なんとかソース、なんとかの素、すべて同じです。

これでは我が家の味ではなくて調味料メーカーの味になってしまう。お袋の味ではなくて袋の味になってしまう。それが果たして豊かさなのでしょうか? 私には、添加物だらけで、不健康で、不味くて、喜びのない食事に、なぜ人々が惹かれていくのかがサッパリ解らないのです。

出しをまがいものに変えるということは、イタリア人がオリーブオイルとニンニクとトマトにまがいものを使うようになることと同じです。イタリア人はそんなことをするでしょうか? マンマの味をずっと誇りにし続けることでしょう。それがファミリアを支える、いちばんの素だということをちゃんと知っているから。

それなのに、日本人は、おマンマの味をアッサリ捨てたのです。こんな国民がどこにあるでしょうか? 和食が世界文化遺産に登録されたことや、健康食だということから、欧米の人々の和食に対する関心が高まっています。このままだと、日本人が、外人から和食を習う日も近いです。

1月22日から、永山公民館で「いろはクッキング教室」を開催します。
今さら聞けない和食のいろはを、楽しくお伝えします。
ご案内はこちら ▶︎
グルメガイド考
大磯方面に出掛ける用事があり、それだけではもったいないので、かねてから行きたいと思っていた、藤沢の老舗の居酒屋に立ち寄りました。5時開店と同時に入ったのですが既に予約客で満席で、空いたら携帯に電話して貰ういう約束で待ちました。1時間45分待って、やっと入れました。

店名は書きませんが、今日日これだけの店はなかなかないと思います。なぜかというと、先ず第一に古い。新しい店は作れますが、古い店はどうやっても新しく作れないのです。それを作ろうとすると、昨今ありがちな「昭和レトロ風」という、まがい物になってしまうわけです。

最近は、深〜く反省して、呑んべいをもうやめたのですが、先月は古くからの友人と浅草の老舗居酒屋に行きました。(えっ、反省してない? ごもっとも)そこで二人で、インターネットの「各種の《飲食店ナビ》ってのは、ありゃいかんね」という話になりました。

12月に、長野からの帰り道、ちと足を伸ばして松本で一杯やって帰ろうかと、インターネットで居酒屋を検索したのです。すると、なんとそれらのサイトの上位は、ぜーんぶチェーン居酒屋なのでした。「何これ?」と思いました。どうして松本まで足を伸ばして、全国チェーン居酒屋に入らなきゃならないのさ?

検索画面には「松本で居酒屋を探すならここ!」なんて表示されているけれど、この地名に、別の地名を入れたとしても、結果はどこもぜーんぶ同じチェーン店の名前が並ぶ。いったいこれってどういうこと? ガイドブックの意味ないじゃん。ガイドブックがチェーン店にハイジャックされちゃってるよ。ひどいよね。

私が行きたそうな個人店は、5ページくらい捲らなきゃ出てこない。それに輪をかけてひどいと思うのは、☆何点という点数評価の仕組み。これは一見、客観性を持っているように見せているけれど、各人が5点満点で印象評価したものの平均値を出しているだけ。評価基準はそれぞれの勝手な印象なんですから、その平均値に果たして意味があるのかどうか?

たとえば、私が「この古さはなかなか得がたい」と感心して5点をつけたとしましょう。ところがBさんは「古臭い店だ」と断じて1点をつける。そうすると、その平均点は3点です。それを今度はCさんが見る。Cさんは店の雰囲気などどうでもよくて、味だけにしか関心がない。そういうCさんは、その3点を味の評価だと思い込んでしまうでしょう。

私が気の毒だと思うのは、昨日行った藤沢の名店も、点数評価はわずか3点台なのです。いい店というものはどういうものかも知らない、チェーン店しか行ったことのない、食体験もほとんどない人たちが、めいめい「点数評価」なるものを下すから、まれにみる名店であっても、チェーン店より低い評価になっちゃっている。

そういう人たちにとって、古い店は単に古臭い店にしか見えなくて、何がどう面白いのか、良いのか、さっぱり分からないんだね。料理をお出ししている人たちが、どれほど精魂込めてやっているかなどお構いなしに、「はい、ここは☆2つ」なんて、よくそんなこと出来るなと私は思います。

自分がお店側の立場だったら、きっと悲しくなると思う。意味のないイージーな点数評価などはやめるべきです。貶すのは快感かも知れないけれど、「評価」ではなくて「応援」をしてあげて欲しいと思う。
『いろはクッキング教室』を開催します
来年1月22日より、週1回、全6回のシリーズで、料理教室を行うことにしました。名づけて『家庭料理を取り戻そう!/いろはクッキング教室』です。



指導は、恥ずかしながら、小生が行います。プロの料理人でもない「私ごときが‥‥」という思いも多分にあるのですが、どこにでもいる料理好きのオバチャンになったつもりで、ズーズーしくやってみたいと思います。私ならではの部分も、もしかしたら伝えられるかも知れません。

そもそもこの企画は、私が知り合ったある子育て中の主婦が、料理がうまく出来ないことに悩みを抱えていたことから、個人的に数回、指導に行っていたことで始まりました。その方の話では、そういうお母さんはいっぱいいるというのです。だったら、集めて料理教室をやろうと考えました。

私はプロではありませんが、この半世紀の家庭料理の変化というものを、つぶさに見てきました。小学校の低学年の時から、母親の手伝いを始めたのですが、先ずやらされたことは「鰹節削り」です。鰹節は硬くて、すぐにカンナの刃が鈍(なま)ってしまいます。その過程で、刃物の研ぎ方も覚えました。

我が家から「鰹節削り器」が追放されたのは、1960年後半です。母親が、「味の素」の「ハイミー」を使い始め、その後「ほんだし」に代わり、面倒なカンナは駆逐されてしまいました。そのころのCMの「かつお風味のほんだし〜♪」や「お箸の国の人だもの。」のコピーは、今でも耳にこびりついています。

その頃は、「ほんだし」が鰹だしを濃縮し乾燥させたものだと、本気で思い込んでいました。「ほんだし」が「味の素」に鰹の風味づけをしただけの商品であったと知ったのは、なんと20年以上経ってからです。広告代理店の「味の素」担当の人から直接聞いて、びっくり仰天しました。

いま振り返ってみると、家庭料理が崩壊した第一原因は、そこにあったと思います。和食は、なんといっても「出し」が基本です。その「出し」をまがいもので置き換えてしまったのですから、日本料理の概念が根底から崩れてしまいました。

私の母親は一昨年94歳で他界しましたが、その年代の母親ですらそうだったのですから、あとは推して知るべし。家庭料理の伝承は、ごく限られた人にしか行われていないと見るべきでしょう。

そこに、ファストフードや、コンビニ、冷凍食品、レトルト食品、たれレシピ、食の情報化などの変化が加わり、料理の組み立てが全く判らなくなってしまったというのが、今の状態です。調理技術が崩壊してしまったのに、食の安全や健康やグルメに関する情報ばかりが、逆に肥大しているのです。

私が現状を憂いているのは、単に調理技術に関する問題だけからなのではありません。家庭の温かな料理は、家族の接着剤であり、帰っていける「ふるさと」だと確信しています。

親の愛情を示せる、最も身近で深い行為は、温かな食卓なのです。ないがしろにしてしまうことは簡単ですが、心の「ふるさと」は毎日の積み重ねによってしかできません。そして、「生きる」とは、「家族」とは、そういうなんでもない日常を温かなものにしていくことに最大の意味があるのです。

今回企画した『いろはクッキング教室』では、まさに家庭料理の基本中の基本を学びます。「『味』の組み立て」「お出し」「献立づくりの基本」の3つがテーマです。ということでベテランさんには物足りないでしょうが、一歩一歩前進して行きたいと思っています。

年末を挟んでしまったことやネットワークが不十分なため、告知活動がうまくいきません。さらに平日の昼間ということで、果たして参加者がおられるかどうかクエスチョンなのですが、たとえ一人しかいなくても実施します。

会場は多摩市永山公民館です。お近くにお住まいのお知り合いの方がいらっしゃったら、お声がけしてくださると助かります。主催は、子育て支援サークル「セサミ・クラブ」です。こちらも立ち上がったばかりで、いま手伝ってくださる会員を募集しています。

詳細は、こちらのホームページで▶︎ http://sesame-club.net