by Rainbow School
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家庭菜園の勧め

ロシアには「ダーチャ(дача)」 と呼ばれる別荘暮らしの習慣があるそうです。「別荘」と聞くと、お金持ちのセカンドハウスを思い浮かべるかも知れませんが、ロシアでは普通の市民が郊外に畑つきの別荘を持っていて、週末になるとそこへ出掛けては畑仕事をして、家族でのんびりと過ごすのだそうです。1991年にソビエト連邦が崩壊した際、ロシア人たちの生命を救ったのは、このダーチャの「家庭菜園」があったおかげだと言います。何しろそれまでの計画経済が、一瞬で吹き飛んてしまったのですからね。

 

日本の食料自給率は、平成30年度データで37%。前回調査(平成22年)の39%をさらに下回り、過去最低を更新したそうです。東京都と大阪府の自給率はわずか1パーセントしかありません。カナダ264%、オーストラリア224%、アメリカ130%、フランス127%、ドイツ95%などと比べて、日本の食料自給率の低さというのは異常です。果たしてこれでいいのかな?と思います。

 

ことスマホにしろコンビニにしろ人間関係にしろ、その他多くの社会システムにしろ、依存度を高めれば高めるほど、それなしではやって行けないという生活習慣が身についてしまいます。それは、見方を変えれば、自分でコントロールできないものに支配されるということで、それらのものが自分の周囲に多くなればなるほど、自立して生きる活力が失われて行くのです。現代社会に特有の「支援」というものの罠です。

 

今度の「コロナ禍」は、今まで見過ごして来たいろんなことを改めて気づかせるきっかけにもなりました。外食業の危機に伴って、食習慣を見直さざるを得なくなったこともその一つです。この先も何が起こるか分かりません。ここはロシアの「ダーチャ」を見習って、今春から「家庭菜園」にチャレンジしてみてはどうでしょうか。禍を転じて福と為す。あなたの価値観をひっくり返す、これがよいきっかけになるかも知れませんよ。

 

「家庭菜園」は、ギリシャやイタリアや北欧でも盛んなようです。それは、食料確保といった切羽詰まった感じではなくて、自分たちが食べるものを自分たちで育てて楽しむ、というライフスタイルになっているようです。大地と太陽によって育てられた、季節ごとの野菜やフルーツやハーブの恵み。フレッシュで安全な食材を、そのつど収穫して、料理して、家族や友人たちと分け合って食べる。何が「豊かさ」と言って、これ以上の「豊かさ」はないのではないでしょうか?

 

私には不思議で仕方がないのです。都会に住んで、賃金の安い、自分が好きでもない労働に従事して、必死に働いて得たお金の3分の1を家賃に払い、コンビニ弁当とカップラーメンを食べて生きている。おかしいとは思いませんか? いったい何のための「お金」? 誰のための「稼ぎ」なのでしょうか。都会でなければ「金を稼げる仕事」がない。そういう思い込みに、未だに大勢の人が支配されています。一体いつの話なの?と思います。昭和30年代の「出稼ぎ」発想から、まだ抜け出せないんですからね。

 

地方に行けば、空き家はいくらでもある。過疎地は高齢者ばかりになって困っている。耕作放棄地もいっぱいある。そういうところは、若者の移住大歓迎で、自治体がいろんなサポートもしてくれている。なぜ、そういうところに飛び出して行かないのでしょう? 長年植えつけられて来た「ドレイ」発想を、もういい加減、捨てる時です。「金を稼げる仕事」を第一に考えるのではなく、金がなくても可能な「どんなステキな暮らしをしたいのか」を、いの一番にイメージすべきなんだよ。

 

今日というステキな一日、明日というステキな一日、それを毎日毎日ずーっと続けていれば、その人の一生はハッピーになる。でも、今日の稼ぎはいくらだ、明日の稼ぎはいくらだろう、とそれを毎日毎日ずーっと続けていたら、その人の一生涯は「お金」のドレイです。ピンチがチャンス! 今こそ、古びた「価値観」を根こそぎから変える時だ。

 

「家庭菜園」のよい点は、第一に、(うまくいけば)フレッシュで安全な野菜が手に入ること。言うまでもないことで、これがなければそもそも「家庭菜園」をやる意味がない! ところが、(うまくいけば)と書いたように、これがうまくいかないんですよね〜 (∩´﹏`∩)。初年度は、イメージした収穫の3割も獲れれば御の字ではないでしょうか。家計が助かるどころか、下手をすると足が出ちゃう。スーパーで買って来た方が、手間は掛からないし、トータルで見ても安いってことになる。

 

ことに、近年は天候不順で、プロの農家でも露地物の栽培が年々難しくなっているくらい。でも、ここで簡単に諦めてしまってはダメ。失敗したらしたで「次はこうしてみよう」と、前向きに工夫を重ねて行くと、ノウハウがしだいに蓄積され、だんだんと成果も上がって来ます。そのようなポジティブな意識を持ち続けるためには、グループを作って一緒に取り組んだり、ベテランさんを見つけて教えを乞うたりするといい。一人で、本を見てやろうとしても難しいです。何しろ、相手は自然ですから。

 

無農薬栽培とか、不耕起栽培の理想をイメージして取り組んでも、そんな甘っちょろい考えは即座に打ち砕かれる。次から次へと生えてくる雑草。春から初夏にかけての虫害は、まったくもってムシできない。菜っ葉類は、あっと言う間に丸裸。見事にレース状となった葉っぱには毛虫くんたちがウジャウジャ。長雨にカラカラ天気。全滅シリーズを一体なんど体験したか。あ、カボチャが一つ実った、トマトが二つ色づいて来た、あと三日で収穫かな?と思った矢先に、お猿さんに先を越され、食べ散らかしが空しく地面に。トホホ。食べるんだったら、残すな! もっとキレイに食え!

 

考えてみますと、春夏秋冬のサイクルを経験できるのは、1年に1回なんですよね。10年やったとしても、たった10回の経験にしかならない。稲作を50年間やって来たというベテランの農家さんであっても、50回の収穫体験しかないわけですよ。だからこそ一日一日が貴重と言いますか、「家庭菜園」をやってみると、人間の営みと自然の恵みとの不可分の関係、そしてそれによって生かされている自分がある、ということがちょっとずつ解って来るのでげす。

 

ひと昔前なら、こんなことはごく当たり前の感覚だったんでしょうけれど、都市化した生活システムにどっぷり浸かって生きている現代人には、それが解らない。解らないことが当たり前になっちゃっている。生命の営みの実感を喪失した中で、グルメとか、キャリアアップとか、老人介護とか、鬱だとか、コロナだとか、スピリチュアルだとか、言っている。まったく、ちゃんちゃらおかしいよね〜。木を見て森を見ずだ。いや、枝葉を見て大地を見ず、大宇宙を見ずだ。そのことに気づかされるのが、「家庭菜園」をやることの第二の意義。

 

そして第三に、心も身体も健康になれるというのがある。田舎で、うまずたゆまず農作業をしているお爺さんやお婆さんというのは、たいてい元気で長生きです。なぜだか分かる? 「自然の理」に適った生き方をしているからさ。現代人は、あまりにもおかしな健康論を吹き込まれ過ぎてしまって、「自然の理」というものをすっかり忘れてしまったんだね。西洋式の人間機械論が日本の医学界を席巻し、動きが悪ければ油を差せばいい(投薬)、壊れたら修理すればいい(手術)と、みなそれが当たり前に考えるようになってしまった。

 

医者は「健康」を〈語る〉けれど、現代の医者は「健康」のことなど何も知らないです。第一、自分が実践できていない。診療に忙殺されていて、合い間の僅かな時間にコンビニからカップラーメンを買って来て啜っている。それで、どうして患者を元気づけることができると言うの? 心と身体の関係についても何も知らない。だから、全部を「ストレス」の一言で片づけている。そりゃ、確かに「Stress(重圧)」ではあるけれど、「ストレス」のメカニズムや、その根元にあるものついては、それ以上考えてみようともしない。

 

人間の身体は機械などではありません。細胞が集合した生命体であり、個々の細胞にも、ちゃんと「意思」があるのです。この細胞の「意思」は、宇宙の理に沿った活動を自動的に行おうとしている。ところが、「心(その本体は「魂」の意識)」が、宇宙の理に反した行動を取り続けていると、両者の間に齟齬が生じ、この不調和がノイズとなって細胞に入るのです。そこから細胞のコピーミスが生じ、ガンを初めとする様々な病気が発症するのです。ですから人体を一つの楽器と捉えて、美しい和音を響かせればよいのです。

 

また、心と身体は、絶えず情報のフィードバックを行っていますので、心の不調が身体の不調を生じさせ、逆に身体の不調が心の不調を誘発します。ということで、心と身体との間で情報の善循環が起きていれば、人は快活に生きられますし、逆にこれが悪循環サイクルに陥りますと、病気が深刻化してしまうのです。あなた方は「栄養」を物質的なものと捉えています。しかしそうではありません。真の栄養素は、物質に載っかっている「振動エネルギー」なのです。その主要かつ最高の栄養源は、空気と水です。

 

現代の「健康論」の最大の問題点は、人を脅して不安にさせるような情報ばかりを、真っ先に、そして熱心に流布していることです。そうするのは、言うまでもなく、不安を掻き立てて人々の注目をそこに集めたいからです。が、これでは「健康」になるどころか、かえって不健康を助長することにもなりかねません。決して西洋医学全部を否定するわけではありませんが、「人間機械論」に基づいた医療技術と健康情報が、慢性疾患にほとんど成果を挙げていないことには、もう気づいてもよいのではないでしょうか?

 

あなた自身の「健康」にとって最も大切なことは、ご自分の「健康」を疑わないことです。そして、朗らかに、正直に、他の人々に対しては思いやりを持って接し、宇宙のあらゆるものに感謝して生きることです。そういう生き方への扉を「家庭菜園」はこじ開けてくれます。ベランダ・ガーデニングでも結構。小さなところから始めましょう。大事なのは継続すること。継続する中から、身体意識や、宇宙との関係や、自然のありがたさや、そして自分が生かされている意味を発見して行くことになるでしょう。

 

ことに、いま「鬱」気味だという人には、「家庭菜園」の取り組みをぜひお勧めしたいです。人が鬱状態にある時には、生命エネルギーであるところの「プラーナ」の取り込みが不足しているのです。「鬱」のそれが直接原因というわけではありませんが、プラーナ不足は鬱の状態を助長してしまうのです。言うなればプラーナは、人が生きていくための土台を形づくるのです。ですから、日光に当たって、土いじりをしていれば、プラーナが自然と入って来て、徐々に心も快復していきます。

 

「鬱」というのは、「鬱」だという思いへの囚われ、つまり一種の極度の精神集中状態なのです。ですから、この囚われから離れれば、自然と「鬱」は治るのです。けれども、薬物を用いたり、自助グループなどに参加していますと、そのつど自分が「鬱」だと認識させられることになります。その結果、囚われがますます強化され、かえって脱け出せなくなってしまうのです。従って、精神集中のターゲットを他のものに置き換えて、いつの間にか「鬱」を忘れているように仕向けることが、遠回りのようでいて結局は早道なのです。

 

しんどくて、「家庭菜園」など、とてもじゃないが出来ないという人は、散歩から始めてください。毎日、決まった時間帯に歩くことを習慣づけてください。そして、お天気のよい日には、空を見上げたり、ゆったりした雲の流れを眺めたり、木々の葉や路傍に咲く花に眼を向けたりしてください。時には、小鳥のさえずりに耳を澄ましてください。汗をかいて、頬を撫でる風の爽やかさを感じてください。そして、それらの生命の息吹を、深呼吸とともに体内に取り込んでください。

 

手塚治虫さんの名作『ブッダ』の中に、こんなシーンがあります。危険人物と見なされ牢屋に入れられた若き日の釈迦が、自分の身の不運を嘆いて泣き叫び、涙もようやく枯れ果てた時、がっくりと頸をうなだれた視線の先に、ふと一輪の小さな花が咲いているのを見るのです。花の周囲には陽だまりが出来ていて、光の先をたどると、それは格子の嵌った高窓から、わずかに差し込む陽の光であることが判ります。この瞬間、釈迦は雷に打たれたように生命の実相を理解するのです。

 

花は、そこが牢獄であることを意識していません。でもそんな暗いところにも、光が注いでいるから、こぼれ落ちていた種は花を咲かせたのです。花は、ただ自分の存在に忠実であろうとしただけです。なにゆえ、自分が、いま牢獄にあることを嘆くのか。石垣の間に、ひび割れた地面の片隅に、散歩をしている途中、あなたも生命の輝きをいくつもいくつも発見するでしょう。それは以前からもあったのに、見ることを忘れていたから、見えなくなっていたのです。

 

大切なものは何ですか? 生きるって何ですか?

 

『虹の学校』では、4年前から「家庭菜園」に取り組み始めました。最初は直感で「やりたい、やろう」と決めて始めただけだったのですが、「コロナ禍」と出遭い、あれはこれからの方向性を示してくれていたんだなぁ、と思いました。同じ時期、カルチャースクールで畑を学習していた人がいて、リーダー役を引き受けてくれたのも天の采配でした。本稿で書いたことは、そうして実践しながら徐々に解っていったことです。

 

相変わらず失敗続きですが、仲間と工夫しながら、ちょっとずつ前に進んでいます。獲れた野菜は調理して食べたり、漬物にしたり。ぬか漬けは、始めてから10年くらい経ちます。味噌づくり、梅干しづくりは3年め。このほか、梅酒、カリン酒、スギナエキス、蛇苺エキス、ヨモギ茶、スギナ茶、ドクダミ茶、紫蘇ジュース、ブルーベリージャム、イチゴジャム、ハーブティー、パンづくりやケーキづくりなどにも挑戦して、仲間と一緒に楽しむところまで来ました。

 

今年は、もっとよいロケーションの畑に移ったので、今から作業が楽しみです。すでに、堆肥を入れた土づくりを1回行いました。

 

最後に、ナチュラルライフを送るための、よい手引書を紹介しておきましょう。先ずは東城百合子さんの『家庭でできる自然療法 誰でもできる食事と手当法』です。

 

東城百合子さんは、2020年に94歳で天寿を全うされたのですが、自然療法に関する実践的知識に関しては、当代随一の方です。私の母と同年生まれらしく、この本の中のいくつかの治療法には、私にも馴染みがあります。

 

1978年の出版で、装丁もいささか古くさいのですが、改訂版を合わせた累計が、なんと100万部を超える隠れたベストセラーなのだそうですよ。びっくりですよね。100万部を超えているということは、いかに時代が変わったと言っても、「自然療法」に活路を見出したいという強いニーズがやはりある、ということを示しているのでしょう。逆にいえば、現代の医療や健康に関する知識を、嘘くさいと感じている人がかなりいるという証左なのかも知れません。

 

東城さんは大正生まれですが、嘘とまがい物ばかりが横行した平成の30年間が終わり、年号が令和に代わった今、昭和のもっと前の大正生まれの知識が、かえって本物であると感じさせてくれます。もっと言えば、東城さんは、この知識を伝達することを使命として、この時代に遣わされた「魂」なのです。西のエリザベス・キューブラー・ロスと並ぶ、東にそびえた偉大な城です。

 

生い立ちを見ますと、いちど生死の境を経験してから、この道を歩まれました。東城さんは、コーチに目を付けられた有望選手だったのです。そして、ご自分の役割をしっかり全うされてから天に帰られました。東城さんの喜びは、私たちが、この書を今後も上手に活用することです。その東城さんの意志を大いに使わせていただきましょう。

 

次にご紹介したいのは、食べられる山野草を探すという観点からの2冊。このジャンルも出版点数がけっこう多く、最後は「好み」ということになってしまうのかも知れませんが、入門者にとっての候補として捉えてください。

 

1冊めは『よくわかる山菜大図鑑―新芽 葉 実 花』(今井国勝、今井万岐子著 2007/3/1)。これは、見つけた山野草の名前や特徴、食べ方などを調べる際に便利です。都会でも、公園や川の土手に行けばかなりのものを見つけることが出来ます。写真も大きめで見やすいです。

 

もう1冊は、『野草と暮らす365日』(山下智道著 2018/6/16)です。こちらは野草男子こと山下智道さんという若い青年が、山野草をステキなライフスタイルへ取り入れるアイデアを紹介したものです。

 

本の装丁やビジュアルもおしゃれで、「こんなことが出来たらいいなぁ」という素朴な願望を掻き立ててくれます。この本と、『山菜大図鑑』を交互に使っていけば、夢と実用がうまくバランスされると思います。興味があれば、手にしてみてください。

食の大切さ、その奥にある深い意味

スーパーに行くと、小アジを詰めたパックが、「唐揚げ用」という表示を付けて安く売られていました。私はドがつく貧乏人ですので、目ざとくそれを買ったのですが、買いながら(今時こんなものを買う人は、居ないだろうなぁ)と思いました。家庭に出刃包丁がないでしょうし、ぜいごの取り方も知らないでしょうし、揚げ物もしないでしょう。

 

もう「料理」以前の問題で、その前提が崩壊してしまっている。出刃包丁を持っていなくちゃ魚は下ろせないですが、出刃は鋼ですから、しょっちゅう研いで手入れをしていないと直ぐに錆びてしまいます。その砥石も、今の家庭には無いでしょうし、刃物の研ぎ方だって知らないでしょう。でもね、わずか50年前は、そうしたものが各家庭に当たり前にあったんですよ。

 

インターネットを見ると、たくさんの料理レシピが載っています。ですがどれも、基本を無視した「なんちゃって料理」ばかりで驚きます。(ああ、これが今の人の普通の感覚なんだろうなぁ)と嘆かわしくなるし、これでは現代人の「心の問題」など、永遠に解決しやしないだろうなとつくづく思います。う〜ん、こんなこと言ってる私の方が、時代遅れの浦島太郎なんでしょうかねぇ?

 

私は、マクドナルドのハンバーガーというものは、むか〜し1回食べたことがあるだけ。コンビニ弁当というのは2回くらいあるかな。それは何かの会合で、他の人が買って来たものを「要らない」とは言えなくて、仕方なく食べました。レトルトとか冷凍食品とか「なんとかの素」の類は一切使いません。毎食、ささやかなものですが、自分で作って食べています。

 

先日、あるお母さんから聞いたのですが、小学生の息子さんが野球部に入っていて、次期卒業生のお別れ会があったんだそうです。そこで、親御さんたちが集まって食事を何にしようかという話になり、コンビニ弁当という案と、カップラーメンという案が出て、さすがにカップラーメンはないだろうということで、コンビニ弁当に落ち着いたと言うのです。

 

いやはや、もう私の想像を超えておりますな。私の中では、エプロンをして、お母さんたちが一緒に楽しそうにカレーライスを作っている姿が浮かぶのですけれどねぇ。そうすれば、子どもたちも匂いに惹かれて集まって来て、楽しく食事が出来ると思うんですけれどねぇ。いったいどうして、こんなことになってしまったんでしょうねぇ?

 

たぶんそれは、そうするのが面倒くさいというよりも、自分の調理技術のなさを他の人に知られるのがイヤで、お互いに牽制し合った結果、落とし所をそこに求めたのでしょう。日本人が伝統的家庭料理を捨ててから、二代、ないし三代が既に経過しています。核家族化の影響もあり、家庭の味の伝承がとうについえてしまって、もう戻れるところがありません。

 

同じ豊かな食文化を持つイタリアが、ファストフードの入国を拒否して、マンマの味をまんま守ろうとしたのに比べて、日本人は、まあなんとあっさり自国の伝統文化を捨ててしまったのでしょうねぇ。アメリカ文化を有り難がって、アメリカ流のプアーな食を真似して、それがおしゃれだと勘違いして、子どもたちをその習慣にすっかり馴染ませてしまいました。

 

今や “家庭”料理は「外食」でしか味わえないという、笑えない冗談みたいな時代になっちゃった。

 

それでいったい、何を代わりに得たのでしょう? 食事を作らなくなって、自由に使える時間が増えましたか? FFやコンビニがあるので、お弁当や水筒を持たなくても済むようになりましたか? 家族団欒はチェーンの居酒屋や回転寿しで出来るし、後片付けもしなくていいし。便利な世の中になって、本当によかったですねぇ。で、あなたは何を得ましたか?

 

病院の関係者から、今の恐るべき実態をお聞きしました。入院患者の食事は、外部の納入業者が運び込んで、病院側はただそれを温めるだけなんだそうです。栄養士はいろいろ計算しているのでしょうけれど、食べずに残す人がいっぱいいる。そりゃそうです。私はまずあのプラスティクの器がダメ。見ただけでげんなり。職員は、医師も看護師も時間に追われて、コンビニ弁当やカップラーメンが当たり前なんだそうですよ。

 

毎日の、家庭の食事や、団欒の場が崩壊していても、そこに危機意識を持たない。それどころか、忙しさを言い訳にして、さらなる崩壊の道を突き進んで行く。そして、その穴を埋めるように、健康食品の情報だけはやたらと詳しくなって、あれがいいとか、これがいいとか、ダイエットだとかと言って騒いでいる。何かが、根本的に間違っているとは思いませんか?

 

自然界に暮らす鳥を見てください。親鳥が雛に餌を与えるのは当たり前です。人間は、それをより美味しく、楽しく、また食卓に集う人が分かち合って食べられるようにと工夫し、各地固有の文化にまで発展させて来ました。その食文化を、現代人は、作るのが面倒くさいと言ってあっさり捨てたのですからね。もはや「生きる」意欲を見失ったとしか思えません。

 

子どもの頃に、家庭の味をしっかり覚えた人は、大人になっても決して身を崩すということがありません。どんなに辛い目にあったとしても、ギリギリのところで踏ん張れるのです。それは「家庭の味」というものの記憶が、体に刷り込まれているから。手作りの、我が家の味こそが、その人にとって、親から確かに「愛されていた」という自信と証明になるのですから。

 

愛のこもった食事。それは、ただのエサとは違うのですよ。そう聞いても、信じられないでしょうね。食べ物は食べ物だ。手作りであろうが何であろうが違いやしない。重要なのは成分だ、栄養価だ。それが今の風潮であり、主流の考え方です。いや、それ以上に、空腹を満たせればそれでいい、と考えてる人だって大勢いる。

 

でも、大切な点は、そこじゃないのです。人間にとって、食は確かに大切です。でもそれは、みなさんが考えているように、物質的な側面だけからの話ではないのです。むしろ、物質的側面は、さほど重要ではないのです。と言ったら、驚かれるでしょうね。中には反発を覚える人もいるかも知れません。今の栄養学の常識とは掛け離れておりますから。

 

一日何品目食べろとか、手のひらに当てて量を計れとかの「栄養指導」なるものが盛んに行われていますが、そこに神経質になる必要はありません。身体というものは素晴らしい化学工場で、摂取した食べ物はみんな、分子、原子レベルにまで細かく分解し、自分の身体に必要な栄養素へと再構成してしまう能力を持っているのです。

 

ですから、動物は極端な偏食にも耐え得るし、だからこそ、人類も古代より生き延びて来られたのです。ご覧なさい。情報過多で、飽食の現代人の方が、よほど病気持ちが多いではありませんか。その病気を脅しにしてまた、あれを食べろ、これを飲めと、情報洗脳している輩がいることが判りませんか?

 

それよりも重要なのは、分子、原子の間にあるものです。分子、原子の間? そう、間。スキマです。あなた方は、物質が目に見えるものだから、いや物質しか見えないものだから、物質が確固たるもの、目の前の物質がすべてだと思い込んでいます。そしてそこから、あらゆる考えを構築しようとする。でも、その固い物質というものは、実はスキマだらけなんですよ。

 

水素原子を例にとると、中心にある原子核の大きさは、原子のおよそ10万分の1でしかありません。東京駅に直径1m大のボールを置き、これを原子核だと仮定すると、電子の軌道は、なんと100km先の銚子あたりということになるのです。つまりその間はスカスカ。ニュートリノの検出が困難なのはそのためです。ほとんどがその間を通り抜けて行ってしまうのです。

 

さらに言えば、(これは現代物理学ではまだ認めてはいませんが)物質というのは、空間の縄張り的主張なのです。宇宙のベースになっているものは、超ミクロの振動するエネルギーです。このエネルギーが、振動数を下げて行った時に物質化して素粒子となる。その素粒子がさらに集まって原子を作る。この時に、無時間・無空間の宇宙に「時空間」が主張(produce)されるのです。

 

ですから、喩えて言いますと、超ミクロの振動するエネルギーの海に、ダスト(埃)のような素粒子がプカプカ漂っているような状態です。海流に乗って流されて行く小さな木片思い浮かべてみてください。すると、このダストは、海の流れ、波の影響といったものを当然受けます。影響を受けるどころか、海流にほぼ支配されていると言ってもよいくらいです。さてここからです。

 

人間の想念というものは、非物質的なエネルギーです。ですから、この超ミクロの振動するエネルギーの海に、想念が溶け込むということになるのです。それらは同質のものですから。あなたの出す想念エネルギーが、あなたの周囲に、想念の海流を創るのです。ですから、食事を構成している原子のスキマにもそれが入る。食事の際に、人はそれらを一緒に頂くことになるのです。

 

さあ、そこで考えてみてください。栄養価はしっかり考えられているけれども、工場で大量生産された食事と、粗末だけれども、愛のこもった手作りの食事。そのどちらが、食べた人を癒し、喜ばせてあげられるのでしょう? 当然ながら後者です。何しろ、原子核の大きさよりも、スキマの方が遥かに広大なのですからね。

 

人は、どうしても物に惑わされてしまいがちです。ですが、目をつむって、物が一切無い世界に、いま自分は居ると想像してみてください。それが真実の世界なのですから。そうすれば、直ちに解ります。あなたが食べているものは何なのか? あなたが食べたいと欲しているものは何なのか? あなたを癒し、勇気づけ、健康で、朗らかな気持ちにしてくれるものは何なのか?

 

現代社会の破壊的構造は、こうした面がほとんど顧みられなくなっていることにあります。みんなが「家庭の味」を忘れ、エサを食べることをよしとし、エサを供給する産業が大手を奮い、その中に平気で身を任せている。それがどれほど、精神を荒廃させ、生きる本能すらも奪っていることか。見よ! プアーな食先進国アメリカの、人々の精神の荒廃ぶりを。そしてそれを後追いする日本を。

 

今や、心を病んだ教師たちが、次代の子どもたちを脅育し、矯育している。心を病んだ医師たちが、訪れる人を薬漬けにしている。そして、インターネット・ゲームという麻薬が、子どもたちを幼い時から重症の中毒者に仕立てあげる。その仕組みを作ったのは、それを「よし」とする前の世代の大人たち。そして、その大人たちを育てたのは、その前の前の世代の大人たち。その大人たちを育てたのは‥‥

 

地球人たちよ。いい加減に目覚めるのです。この壮大なカラクリに。カラクリを作り上げているものの根本的な理由(ワケ)に。

 

こんな状態で、傷ついた心が癒されるわけがないではありませんか。悩み、傷つき、病んだ人を救えるのは、テクニックなどではありません。ましてや薬などではない。一杯のスープ。温かな心のこもった食事です。そのベースがあってこそ、人は初めて、生きている実感、生きていることのありがたさ、他の人から支えられて自分もある、ということが解るのです。

 

社会の風潮に流されるままであってはいけません。便利を追求すれば、便利の奴隷に成り下がってしまいます。不便の中にこそ、工夫と楽しみがあることを知りなさい。大切なのは「意識」の自由なのです。人間は本来的にクリエイティブな存在です。表現せずにはいられない存在なのです。そこに、どうでもよいような便利の蓋を被せて、自分を檻に入れてしまわないようにしなさい。

 

あなたはあなたです。ご自分の才能をもっと活かしなさい。他者に認められようが認められなかろうが、あなた自身を生きなさい。それでこそ、生きている甲斐があるというものです。自由は、そのために与えられたのですから。

お頭付き
冬の日本海の味覚としてポピュラーなものにスケソウダラがあります。自分が子どもの時には、とにかく、めったやたらと鱈でした。鱈の煮付けに鱈の味噌汁。鱈というのは水っぽい白身魚で、味があんまりありません。だから、鱈が食卓に並ぶと「またか‥‥」とガッカリしていました。

ところがこの魚は大人には喜ばれる。鱈の美味いところは、白子、タラコ、肝、頭なんですね。私もその味覚は、大人になって知ったわけで、子どもの時には親に騙されていたということが分った。親は子どもに「食べやすいところを上げるね」と言って味のない身を渡し、自分たちはいちばん美味い内蔵や頭を食べていたというわけ。

ということで、スーパーにそろそろスケソウダラが出て来る季節なのですが、ぶつ切りにされてパックに入った姿を見ると、本当にガッカリします。胴体部分しか入っていないのよね。タラコが入っていることもあるけど、白子は抜き取られて別のパックにされ、高く売られている。肝と頭は、たぶん捨てられているんでしょうねぇ。

どうして一匹丸のまま売らないのよォ。「余計なことしないで!」と言いたい。「お願いだからその頭の部分だけを私にちょうだい」と言いたい。あーあ、ひどい時代だなぁ。大根だって葉っぱが美味しいのに、ネギだって青いところが美味しいのに、全部捨てちまう。もう最初っから「捨てるもの」と思い込んでいる。現代人のこの食体験の貧しさよ。

私はよくアラを買います。ブリ、塩鮭、鯛、イカ、etc。それは、割安ということもあるけれど、アラの方がずっと美味だからなんです。肉でも魚でも、美味しいのは骨の周囲にくっついている部分。マグロの中落ちが美味いことはみんな知っていると思うけれど、それと同じことは全部に言えるわけ。鯵の干物だって、中骨に付いた部分が美味いんだからね。

中でも鯛は重宝する。霜降り(お湯の中を一度通す)して鱗や血合いをていねいに取り、小分けして冷凍しておくのですが、鯛からは実によい出汁が出る。これから冬になりますが、おでんを昆布と鯛の出汁でつくるとビックリするくらい美味い。甘辛の兜煮にしてもいいし、鯛そうめんや炊き込みごはんもとても美味しい。やっぱり鯛は王様。アラだって、あらあらと言うくらい美味しい。

「お頭付き」というのは、縁起物とされているわけですが、そればかりでなく、やっぱり「お頭」部分は骨なので、そこの肉が美味だということなんですね。ですからみなさんも、スーパーでアラを見つけたら、ぜひ買って調理していただきたい。そうしないと、そのうち、ブリのアラも鯛のアラも捨てられて、店頭に出て来ない運命になりそうだから。
居酒屋文化は万国共通
呑み屋というものの雰囲気が好きで、今までいろんなところに行きました。10年くらい前までは「居酒屋同好会」と称して、同好の士数名と都内のあちこちを探索して歩きました。選定基準の第一は、とにかく古いということです。古いということは、生き残って来た理由がそこにあるわけで、一見さんにとっては最も確かな基準となるのです。

でも、そうやって体験したお店の半分は、今では、おそらくもうなくなっていることでしょう。店舗の老朽化や世代交代などの問題もありますが、人々がお店に求めるものがガラリと変わってしまった。若い人は、小奇麗で小洒落た内装がウリの、無国籍の創作料理を出すチェーン店に行くようになってしまった。情報源も、インターネットの☆の数で判断するようになりました。

私の年代くらいが、たぶん本物の店と味を知る、最後の世代になるのでしょう。(ちなみに、小津安二郎の映画を観れば、古きよき店というものが解ります)若い人にとっては、昭和レトロ感覚は新鮮な部分もあるらしく、最近、昭和レトロ風の作りの居酒屋やラーメン店を時々見かけますが、それらはやっぱり「風」でしかないのです。本物ではない、所詮はニセモノです。

いったい何が違うかと言えば、店の経営者、つまり大将の心意気が、自分が知る昭和時代の店とはまるで違う。そもそも、昭和レトロ風の店づくりをするというところが、すでにウケ狙い、トレンド狙いであって、「美味しいものを、安く提供して、みんなに喜んで貰おう」という発想じゃないのです。

居酒屋評論家の太田和彦さんは、よい店の定義として「いい酒、いい人、いい肴」と言っておられます。この三条件に関しては、私も全くその通りだと思いますが、私の場合は「いい人」がトップに来る。店は、大将やおかみさんの想い、考え方、技術がそっくり出る場で、それは大将やおかみさんの「表現」なんです。

なぜそこを味わおうとせずに、ブラックな経営者のチェーン店に行って、アルバイトが出すチンした料理に人々が向かうのかが、私にはさっぱり解りません。友人の一人に、どこへ行ってもマクドナルドに入る男が居て、「どうしていつもマクドナルドなのか?」と訊いてみたことがあります。すると「安心だから」という答えが返って来て、ビックリ仰天しました。

「安心」という感覚が、もう私などとはまるっきり違うんですね。私は大企業など信用していないから、店の大将やおかみさんという人物を見る。ところが彼は、今まで一度も会ったこともない、大将やおかみさんに接するというのがすでに不安なんです。そこで、いっつもマクドナルドへ行く。

世界入りにくい居酒屋』という番組があって、毎週楽しみに観ているのですが、つくづく居酒屋文化というものは世界共通だなぁという感じがします。これを観てハッキリ判るのは、太田和彦さんの言う通り、「いい人」が絶対条件なんですよね。オーナの人柄に惹かれて客が集まって来て、疲れやストレスを解消する楽しい時間を、大勢で共有する。

この感覚は万国共通で、こういう場で庶民同士が交流をすれば、世界から戦争なんて無くなると、本気で思います。私が突然ぶらりと行ったとしても、「おう、日本人、よく来た。一緒に呑もうぜ」という話にすぐになると思う。日本の古きよき居酒屋は壊滅状態だから、もうこうなったら、海外に行くしかないか。

いけねぇ、旅費がない!
忘れ去られた『マクガバン・レポート』
日本の国民医療費は、昭和35年以降、毎年1兆円ペースの増加を続け、現在では40兆円に迫ろうとしています。年間の税収は50兆円前後しかないのにこれですから、いかに巨額でかつアンバランスなものであるかが解ると思います。ここでハッキリ言えることは、今の政治は医療費を削減することに、全く関心がないということです。

国民の健康と財産を守るのが国家の一つの仕事であるはずなのに、実際には病人を増やし続けているのが今の医療行政です。もし本当に「健康」が実現できているのなら、医療費は減少していなければおかしいではありませんか。しかし「健康不安」を餌に、誤った思想をどんどん吹き込んだ結果、健康どころか、病人がうなぎ登りに増えているのです。

1960年代のアメリカは、国民一人当たりの医療費が世界第一位で、平均寿命も26番目でした。このままでは国家財政が破綻すると危機感を抱いた当時の政府は、上院に栄養問題の特別委員会を設け、食と健康に関する世界規模の調査を行いました。この調査結果は、1977年に5000ページに及ぶ、通称『マクガバン・レポート』として発表され物議を醸しました。

なぜかと言いますと、アメリカ人に多い死因のうち、ガンや心臓病など6つの病気が「食生活」に大きく関連していることを指摘していたからです。そして報告書は、肉、卵、乳製品、砂糖などの摂取を控えて、穀物中心の食事に転換するよう提言していました。

これは当然ながら、指摘された関係団体の猛烈な非難を浴び、結局『マクガバン・レポート』は、葬り去られる運命に終わってしまったのです。一方、この『マクガバン・レポート』で高く評価されていたのが「日本食」でした。以来「日本食」は、世界中で、ヘルシーフードとして今も高く評価されています。

ところが肝心の日本人は、それとは逆行するように、アメリカナイズされた不健康な食習慣をどんどん取り入れて来ました。いまスーパーマーケットに行きますと、どこもベーカリーを主力のコーナーとしています。お米の消費量は年々減り続け、パン食に切り替わっているのです。小さい子に「何が食べたいか」と訊くと、ポテトとハンバーガーと答えます。

「日本食」は、それほど危機的な状況です。イタリア人が、ファストフードを拒否し自国の食文化を守ろうとしている態度と比べると、なぜこれほどの差がついたのかと思います。一つ考えられるのは、イタリア人は大家族主義で「mammaの味」に誇りを持っているという点。ところが日本人は、核家族化によって、調理技術の伝承が途絶えてしまったんですね。

パン食になっていくのも、ご飯を炊くということが、もう面倒くさくてできない。しかしパンはどこでも買えるし、そのまま置いといても腐らない。すると、おかずがパンに合わせたものになっていくわけです。一方の汁も、出汁の取り方すら解らない。出汁を取らないわけですから、水の料理である「和食」は、もはや絶滅と言っていい状況です。

毎日のことなのに、健康体をつくるための基本であるはずなのに、どうしてこれほどまでに「食」を破壊して平気なのかが、私には理解できません。それでいて健康食品にはやたらと関心がある。おかしいとは思いませんか? 
現代栄養学のデタラメ
今ほどの知識がなかった若かりしころ、私はアメリカでサプリメントがブームになっていることを知り、それから間もなくして、片手に山ほどのサプリメントとプロテインを飲むようになりました。まるで取り憑かれたような感じで、都合五年間くらいは続けたと思います。アトピー性皮膚炎に悩まされていたということもあって、意識がそこに集中してしまったんですね。

その後、「命」を永続させているエネルギーは食物だけではないと知り、その洗脳?から、目が覚めました。

「命」を育んでいるエネルギーの主力は、食物ではなくてプラーナです。よく知られた言葉では「気」です。この元は、宇宙にあまねく存在している宇宙エネルギー(Vital Life Force)で、プラーナは呼吸によって体内に取り込まれます。つまり「息」は「生き」ということを示していて、呼吸が停止したときに「魂」が肉体を離れ、人はこの世での一つの人生を終えます。

一方で、肉体を構成している細胞は、絶えず増殖と死滅の新陳代謝を繰り返していますので、この肉体補修に必要な材料を取り込む必要があります。これは「食物」によってなされます。

さてここで重要な点は、人体は精密な化学工場であり、接種した「食物」を、分子レベルや原子レベルにまでバラバラに分解してから取り込むということです。そして、いったんバラバラにした素材を、また必要に応じて合成し直すのです。この化学工場の性能は、実に驚くべきもので、ムダを出さないよう徹底したリサイクルまで行って材料を用い尽くすのです。

生きていく上での必要な三大栄養素として、炭水化物、たんぱく質、脂肪というものを習ったと思いますが、炭水化物とたんぱく質は、お互いに補完し合えるほどなのです。

そのことから言えることは、健康食品でコラーゲンとかヒアルロン酸とか、いろんなことを言っておりますが、それらを摂取してもあまり意味がないということなのです。課題は、化学工場としての人体の再構成力に掛かっていて、コラーゲンを摂っても、一応その材料はあるよというだけで、それを体内でまたコラーゲンに再構成するかどうかは別問題なのです。

私見ですが、おそらくその再構成力は、その人の「心のあり方」と密接に関係していると思います。「老化防止のために、コラーゲンを飲まなくっちゃ」と思っていたとすると、「老化する(ネガティブ)」+「その否定」の文脈ですから、むしろ「老化」現象を促進する方向に体が向かって行ってしまう。そうではなくて、「私はいつも若々しい、元気はつらつである」と思っていれば、再構成力が高まり、そんなものを摂取する必要はなくなると思います。

以上を考えますと、「一日30品目」などというのは、根拠がないどころか、最悪の栄養学だと思います。長い人類史を見ても、人間は、その時期そこにある物を食べていたのであり、地域や季節の違いによって、みな極端な偏食であったわけです。それでも生存できたのは、いま言った精密化学工場としての、人体の優れた能力があるおかげなのです。

人類は長年にわたって飢えに耐え忍んで来た経験から、人体にはこれに耐えるための機能はたくさん持っていますが、飽食に対してはめっぽう弱く、インスリンで調整するくらいしか手段がありません。ですから「食」に関しての現代の諸問題は、栄養不足ではなく、むしろ栄養過多と、ジャンクフードの氾濫にあるのです。

「一日30品目」も摂取できた人間は、昔であれば貴族しかいなかったでしょう。化学工場のラインを考えてみてください。単一の材料が入って来た時には、そのラインを効率的に動かすことができますが、次々と違う材料が押し寄せて来たら、その都度ラインを変更しなければならず、処理し切れなくなってしまいます。

この結果、消化器に過重な負担が掛かりますし、腸内にガスが発生するなど、よいことは一つもありません。以上のことを考慮しますと、食養生としては、一汁一菜に代表される「粗食」が望ましく、栄養バランスを考えるよりも、汚染されていない、生気に溢れた、旬のものを頂くことの方が、よほど重要であることが解ります。

さらに言えば、肉体を造る根本は「心」にあるのですから、四季の恵み、大地の恵み、海の恵みに感謝して、一食一食をおいしく頂くということも重要です。
「病気」とは「気」が病む(止む)こと、「元気」とは「気」の元が充分供給されているということです。毎食を、「元気な心」で、楽しく頂くようにしてください。
旬を食べよう
私の母親は、決して贅沢はしませんでしたが「食い道楽」で、うまいものは何かをよく知っていました。日本海側なので、鱈の煮付けをよく食べさせられたのですが、子供には「骨の少ないところを上げるね」と言って尻尾の方を食べさせ、自分はチャッカリいちばんうまい頭のところをおいしそうに食べていました。

その母親の口癖が、「ああ、これで七十五日生き延びた」。これは、「初物食えば七十五日生き延びる」の諺を言ったものですが、季節の旬のものを食べた時には、必ずそう言っていました。なぜ七十五日かについては諸説ありますが、「人の噂も七十五日」と同じく、それくらい経てば次に移っていくということだと思います。

「旬」の「勹」は、日をぐるっと回る回転を表していることから、季節の巡りが「旬」ということです。この「旬」をいただくということが、生命体にとっては重要なんですね。今はハウス栽培で、冬でも夏野菜が出回っているわけですが、あれはあんまりよろしくない。

「夏」と「冬」の字にはどちらも「久」があります。これは時が長いという意味で、「夏」は一ノ日が長いと書く。「冬」の「冫」は「冷」を表していますから、寒気が長いということ。ですから、夏には陽をいっぱい浴びた地上の物がよく、冬は寒気を避けた地中の根菜類を食べると良いのです。

また「春」は、桑の葉が日に当たって伸びた字、「秋」は「禾(いね)」の借り入れが終わり暖房が欲しくなる頃です。ですから、春先は新芽の息吹をいただくと力が漲ってくる。ワカメ(若芽)と筍の椀はその代表です。秋は、収穫の時期ですから、その恵みを存分に味わうのです。

これらのことは、人類が何十万年も生きてきて、体に覚えこませた自然の摂理ですから、みな理に適っているのです。春には春の物を、おいしくいただきましょう。
『いろはクッキング教室』終了
1月末から6回に渡って行った『いろはクッキング教室』をやり終えました。参加者は少なかったけれど、一生懸命やりましたし、達成できてよかったです。これを次につなげていきたいと思います。参加してくださったみなさん、どうもありがとうございました。

主催のyyさんが、役所で調理関係のイベントをしている人に『いろはクッキング教室』のプログラムを見せたところ、「これでは人を呼べない」と言われたそうです。「出汁を取るなんてことはめんどくさいし、『ひな祭り』とか、そういうイベント・クッキングを前面に出さないと‥‥」とアドバイスをされたとか。

全くその通りなんでしょう。そして、そういう時代なんでしょう。だからこそ『いろはクッキング』を企画したわけで、人を呼ぶことを目的にしたわけではありません。ですから、それで参加者が少なかったとしても、参加してくださった方を大事にしてしっかりお伝えしたいと思いました。

そもそも、集客できる「料理教室」を継続したいと考えたことはないんです。「いろは」を覚えて、家に帰って、「家庭料理」を継続して貰いたかったのです。『ひな祭り』のイベント・クッキングもいいでしょうけれど、毎日『ひな祭り』をするわけにはいかないですからね。

「料理教室」で覚えた料理を、家に帰って一回やったらそれで終わり、では意味がないじゃないですか。普段の毎日の食卓こそが重要であって、これが「家族愛」というものと「健康」のベースを作るのです。現代の人々が、どうして普段の食事をないがしろにして、イベント・クッキングに走るのかが、私には理解できません。

私には29歳の一人息子がおりますが、10日に一遍くらい、何の予告もなしにひょっこり家に帰って来ます。その時の会話は「お腹すいてないか?」とか「食べたいものはあるか?」といったこと。それで「15分待って」と言って、あるものでチャチャッと作るわけですが、それが出来るのは自分に調理技術があるここと、息子の側に「わが家の味」の記憶があるからです。

そういう「家庭料理」の積み重ねが、ボンディング(接着剤)の機能を果たしているんですね。もしそれが無かったとしたら、10日ぶりに会う親父と息子の間には、殺伐とした空気しか生まれないと思うんです。うちはカミさんが早くに死んでしまったので、一人息子にとっても、それがたぶん一本の細い糸だと思います。

自分は、幼いころから母親に料理を習って、それ以来興味を持って作り続けて来たのですが、それが役に立っているし、一人暮らしでも楽しく食事ができています。でもそういう当たり前のことが通じない世の中になってしまいましたね。毎日の食事づくりをメンドクサイと拒否して、それで代わりに手に入れたものは何ですか?

『いろはクッキング教室』のレポートはこちら ▶
サービスのあり方
磯子のセミナーに行った折、昼食を取る時間がなくて、仕方なしにファストフード店に入りました。ファストフードと言ってもチェーンのうどん店です。私の場合、ギリギリの妥協といったところでしょうか。

店内に入ると非常に混んでいました。向かって右側がデシャップレーン(Dish Up Lane)、左側の壁はカウンター席になっています。運よくそこに空いた場所を見つけたので、私は転がしていたキャスター付きの大きなバッグをそこに置こうとしました。

ところが、ホールの案内係の女性に制止されてしまいました。先ずレーンに並べと。最初に席を取ってはいけないというのです。そこで仕方なく、片手でキャスターバッグを転がしながら、もう一方の手で汁の入った丼を載せたお盆を持って、さながら海老一染之助のようにして移動したわけです。(全然おめでたくないけれど)

そして、くだんの案内係の女性に導かれて座った席が、なんのことはない、最初に私が荷物を置こうとした席なのです。アホくさ。これだから、チェーン店はいやなのです。

その女性は、店のルールを客に順守させることが、自分の仕事だと思っているのです。そういう風に店から教育されていて、客の立場に立って考えるという発想が全くない。いったいそれがサービスなのか、ということです。

カウンター席で、不味いうどんを啜っていると、自分がケージに入れられた鶏のような気がしてきて、早く逃げ出したくなりました。エサを取りに行くのも自分、食べ終わった器を返しに行くのも自分です。客は店のシステムに合わせて、ベルトコンベアーを移動してエサにありつき、そしてお金を払うのです。

でも見ていると、そんなことに疑問を抱いているお客さんは誰もいないようです。お客も、それが当たり前だと教育されて育っている。でも私はイヤだな。サービスというのは個人技です。だからヨーロッパでは、給仕係は年配のベテランが務める。ベテランの方が、お客というものをよく知っているから。

ところが日本では、若くてピチピチした子が優先される。私もアルバイトに何度か応募したけれど、先ず年齢で撥ねられて雇ってもらえない。結局サービスをする人を、使い捨ての労働力としか見ていないんですよね。サービスほど難しい個人技はないのに、そこに価値を置いていないの。

同じ日の夜、4人で老舗の居酒屋へ行ったのですが、そこは丸で違っていましたね。サービスを受け持つのはベテランのおば様。こちらが最初のオーダーをすると「お刺身の盛り合わせいかがですか。いま旬の魚がちょっとずつ入って、おいしいですよ。4人で1.5人前くらい」と言われて、乗せられて注文してしまいました。

「ポテトもいかがですか?」じゃないんですよ。ちゃんと自分で考えた言葉があって、客をその気にさせて落としているんです。1.5人前というところがミソ。1人前3,000円だったから2人前頼むと6,000円になっちゃう。4人で割るとそれだけで1,500円だ。

でも通常のオーダーにない1.5人前というと、無理を聞いてもらったスペシャルな感じがするでしょ。そうやって「お客様のこと考えているんですよ」と思わせながら、実は3,000円じゃなくて、4,500円落とさせているわけです。これがプロのサービス技術というもの。

飲食店というのは、ただ入って食べてお金を払うところじゃないんです。サービスの技と対決する場所なんです。そこが一番楽しい。そのためには、客側のこっちも食べまくり飲みまくりの場数を踏んでいないと太刀打ちできないということ。

でもそれを体験しようにも、チェーン店ではどうしようもありません。我が愛する老舗店は絶滅危惧種になっちゃった。老舗が死に瀬の瀬戸際です。つまんない時代だなぁ。
日本人が、外人から和食を習う日
昨年の夏、親戚の家に行ったときのことです。奥さんが夕食を出してくださった。その家には10年ほど前にもお邪魔したことがあったのですが、そのとき初めてアシタバを食べた。私が「おしいしい」と言うと、「そう、じゃあもっと出すね」と言って、裏の畑から摘んできてサッと茹でて出してくれました。

そのときの印象が強くて、他にも食卓には何品もの料理が並び、私の頭の中には奥さんは料理上手という思い込みがすっかり出来上がっていたのでした。しかし今回は印象が違った。何かがおかしい。丸茄子の煮付けを食べてみたのですが、私にはその味の成分がなんなのか分かりませんでした。

そこで訊いてみた。「これの出しは何を使っているんですか?」
すると、驚くべき答えが返ってきた。「ううん、使ってないの」
びっくり仰天している私に、奥さんが続けて言った。「出し入り醤油の、いいのがあるんですテ」
そのとき初めて、世の中に「出し入り醤油」というものがあることを知ったのです。

東京に帰ってきてスーパーに行くと、「出し入り醤油」なるものが特売コーナーに山盛りにされていることにやっと気がつきました。たぶん今までにもあったのでしょうが、全く目に入っていなかったのです。

あの料理上手だった奥さんを変えさせてしまったものは、何だったのでしょうか? それほど「出し入り醤油」は魅力的な商品なのでしょうか?

一度「出し入り醤油」を使ったレピシを覚えてしまったら、次からは「出し入り醤油」がなければ料理ができなくなってしまいます。出しと調味料との関係が解らないから、バリエーションも味付けの変化も利きません。出し入り味噌、なんとかソース、なんとかの素、すべて同じです。

これでは我が家の味ではなくて調味料メーカーの味になってしまう。お袋の味ではなくて袋の味になってしまう。それが果たして豊かさなのでしょうか? 私には、添加物だらけで、不健康で、不味くて、喜びのない食事に、なぜ人々が惹かれていくのかがサッパリ解らないのです。

出しをまがいものに変えるということは、イタリア人がオリーブオイルとニンニクとトマトにまがいものを使うようになることと同じです。イタリア人はそんなことをするでしょうか? マンマの味をずっと誇りにし続けることでしょう。それがファミリアを支える、いちばんの素だということをちゃんと知っているから。

それなのに、日本人は、おマンマの味をアッサリ捨てたのです。こんな国民がどこにあるでしょうか? 和食が世界文化遺産に登録されたことや、健康食だということから、欧米の人々の和食に対する関心が高まっています。このままだと、日本人が、外人から和食を習う日も近いです。

1月22日から、永山公民館で「いろはクッキング教室」を開催します。
今さら聞けない和食のいろはを、楽しくお伝えします。
ご案内はこちら ▶︎