ロシアには「ダーチャ(дача)」 と呼ばれる別荘暮らしの習慣があるそうです。「別荘」と聞くと、お金持ちのセカンドハウスを思い浮かべるかも知れませんが、ロシアでは普通の市民が郊外に畑つきの別荘を持っていて、週末になるとそこへ出掛けては畑仕事をして、家族でのんびりと過ごすのだそうです。1991年にソビエト連邦が崩壊した際、ロシア人たちの生命を救ったのは、このダーチャの「家庭菜園」があったおかげだと言います。何しろそれまでの計画経済が、一瞬で吹き飛んてしまったのですからね。
日本の食料自給率は、平成30年度データで37%。前回調査(平成22年)の39%をさらに下回り、過去最低を更新したそうです。東京都と大阪府の自給率はわずか1パーセントしかありません。カナダ264%、オーストラリア224%、アメリカ130%、フランス127%、ドイツ95%などと比べて、日本の食料自給率の低さというのは異常です。果たしてこれでいいのかな?と思います。
ことスマホにしろコンビニにしろ人間関係にしろ、その他多くの社会システムにしろ、依存度を高めれば高めるほど、それなしではやって行けないという生活習慣が身についてしまいます。それは、見方を変えれば、自分でコントロールできないものに支配されるということで、それらのものが自分の周囲に多くなればなるほど、自立して生きる活力が失われて行くのです。現代社会に特有の「支援」というものの罠です。
今度の「コロナ禍」は、今まで見過ごして来たいろんなことを改めて気づかせるきっかけにもなりました。外食業の危機に伴って、食習慣を見直さざるを得なくなったこともその一つです。この先も何が起こるか分かりません。ここはロシアの「ダーチャ」を見習って、今春から「家庭菜園」にチャレンジしてみてはどうでしょうか。禍を転じて福と為す。あなたの価値観をひっくり返す、これがよいきっかけになるかも知れませんよ。
「家庭菜園」は、ギリシャやイタリアや北欧でも盛んなようです。それは、食料確保といった切羽詰まった感じではなくて、自分たちが食べるものを自分たちで育てて楽しむ、というライフスタイルになっているようです。大地と太陽によって育てられた、季節ごとの野菜やフルーツやハーブの恵み。フレッシュで安全な食材を、そのつど収穫して、料理して、家族や友人たちと分け合って食べる。何が「豊かさ」と言って、これ以上の「豊かさ」はないのではないでしょうか?
私には不思議で仕方がないのです。都会に住んで、賃金の安い、自分が好きでもない労働に従事して、必死に働いて得たお金の3分の1を家賃に払い、コンビニ弁当とカップラーメンを食べて生きている。おかしいとは思いませんか? いったい何のための「お金」? 誰のための「稼ぎ」なのでしょうか。都会でなければ「金を稼げる仕事」がない。そういう思い込みに、未だに大勢の人が支配されています。一体いつの話なの?と思います。昭和30年代の「出稼ぎ」発想から、まだ抜け出せないんですからね。
地方に行けば、空き家はいくらでもある。過疎地は高齢者ばかりになって困っている。耕作放棄地もいっぱいある。そういうところは、若者の移住大歓迎で、自治体がいろんなサポートもしてくれている。なぜ、そういうところに飛び出して行かないのでしょう? 長年植えつけられて来た「ドレイ」発想を、もういい加減、捨てる時です。「金を稼げる仕事」を第一に考えるのではなく、金がなくても可能な「どんなステキな暮らしをしたいのか」を、いの一番にイメージすべきなんだよ。
今日というステキな一日、明日というステキな一日、それを毎日毎日ずーっと続けていれば、その人の一生はハッピーになる。でも、今日の稼ぎはいくらだ、明日の稼ぎはいくらだろう、とそれを毎日毎日ずーっと続けていたら、その人の一生涯は「お金」のドレイです。ピンチがチャンス! 今こそ、古びた「価値観」を根こそぎから変える時だ。
「家庭菜園」のよい点は、第一に、(うまくいけば)フレッシュで安全な野菜が手に入ること。言うまでもないことで、これがなければそもそも「家庭菜園」をやる意味がない! ところが、(うまくいけば)と書いたように、これがうまくいかないんですよね〜 (∩´﹏`∩)。初年度は、イメージした収穫の3割も獲れれば御の字ではないでしょうか。家計が助かるどころか、下手をすると足が出ちゃう。スーパーで買って来た方が、手間は掛からないし、トータルで見ても安いってことになる。
ことに、近年は天候不順で、プロの農家でも露地物の栽培が年々難しくなっているくらい。でも、ここで簡単に諦めてしまってはダメ。失敗したらしたで「次はこうしてみよう」と、前向きに工夫を重ねて行くと、ノウハウがしだいに蓄積され、だんだんと成果も上がって来ます。そのようなポジティブな意識を持ち続けるためには、グループを作って一緒に取り組んだり、ベテランさんを見つけて教えを乞うたりするといい。一人で、本を見てやろうとしても難しいです。何しろ、相手は自然ですから。
無農薬栽培とか、不耕起栽培の理想をイメージして取り組んでも、そんな甘っちょろい考えは即座に打ち砕かれる。次から次へと生えてくる雑草。春から初夏にかけての虫害は、まったくもってムシできない。菜っ葉類は、あっと言う間に丸裸。見事にレース状となった葉っぱには毛虫くんたちがウジャウジャ。長雨にカラカラ天気。全滅シリーズを一体なんど体験したか。あ、カボチャが一つ実った、トマトが二つ色づいて来た、あと三日で収穫かな?と思った矢先に、お猿さんに先を越され、食べ散らかしが空しく地面に。トホホ。食べるんだったら、残すな! もっとキレイに食え!
考えてみますと、春夏秋冬のサイクルを経験できるのは、1年に1回なんですよね。10年やったとしても、たった10回の経験にしかならない。稲作を50年間やって来たというベテランの農家さんであっても、50回の収穫体験しかないわけですよ。だからこそ一日一日が貴重と言いますか、「家庭菜園」をやってみると、人間の営みと自然の恵みとの不可分の関係、そしてそれによって生かされている自分がある、ということがちょっとずつ解って来るのでげす。
ひと昔前なら、こんなことはごく当たり前の感覚だったんでしょうけれど、都市化した生活システムにどっぷり浸かって生きている現代人には、それが解らない。解らないことが当たり前になっちゃっている。生命の営みの実感を喪失した中で、グルメとか、キャリアアップとか、老人介護とか、鬱だとか、コロナだとか、スピリチュアルだとか、言っている。まったく、ちゃんちゃらおかしいよね〜。木を見て森を見ずだ。いや、枝葉を見て大地を見ず、大宇宙を見ずだ。そのことに気づかされるのが、「家庭菜園」をやることの第二の意義。
そして第三に、心も身体も健康になれるというのがある。田舎で、うまずたゆまず農作業をしているお爺さんやお婆さんというのは、たいてい元気で長生きです。なぜだか分かる? 「自然の理」に適った生き方をしているからさ。現代人は、あまりにもおかしな健康論を吹き込まれ過ぎてしまって、「自然の理」というものをすっかり忘れてしまったんだね。西洋式の人間機械論が日本の医学界を席巻し、動きが悪ければ油を差せばいい(投薬)、壊れたら修理すればいい(手術)と、みなそれが当たり前に考えるようになってしまった。
医者は「健康」を〈語る〉けれど、現代の医者は「健康」のことなど何も知らないです。第一、自分が実践できていない。診療に忙殺されていて、合い間の僅かな時間にコンビニからカップラーメンを買って来て啜っている。それで、どうして患者を元気づけることができると言うの? 心と身体の関係についても何も知らない。だから、全部を「ストレス」の一言で片づけている。そりゃ、確かに「Stress(重圧)」ではあるけれど、「ストレス」のメカニズムや、その根元にあるものついては、それ以上考えてみようともしない。
人間の身体は機械などではありません。細胞が集合した生命体であり、個々の細胞にも、ちゃんと「意思」があるのです。この細胞の「意思」は、宇宙の理に沿った活動を自動的に行おうとしている。ところが、「心(その本体は「魂」の意識)」が、宇宙の理に反した行動を取り続けていると、両者の間に齟齬が生じ、この不調和がノイズとなって細胞に入るのです。そこから細胞のコピーミスが生じ、ガンを初めとする様々な病気が発症するのです。ですから人体を一つの楽器と捉えて、美しい和音を響かせればよいのです。
また、心と身体は、絶えず情報のフィードバックを行っていますので、心の不調が身体の不調を生じさせ、逆に身体の不調が心の不調を誘発します。ということで、心と身体との間で情報の善循環が起きていれば、人は快活に生きられますし、逆にこれが悪循環サイクルに陥りますと、病気が深刻化してしまうのです。あなた方は「栄養」を物質的なものと捉えています。しかしそうではありません。真の栄養素は、物質に載っかっている「振動エネルギー」なのです。その主要かつ最高の栄養源は、空気と水です。
現代の「健康論」の最大の問題点は、人を脅して不安にさせるような情報ばかりを、真っ先に、そして熱心に流布していることです。そうするのは、言うまでもなく、不安を掻き立てて人々の注目をそこに集めたいからです。が、これでは「健康」になるどころか、かえって不健康を助長することにもなりかねません。決して西洋医学全部を否定するわけではありませんが、「人間機械論」に基づいた医療技術と健康情報が、慢性疾患にほとんど成果を挙げていないことには、もう気づいてもよいのではないでしょうか?
あなた自身の「健康」にとって最も大切なことは、ご自分の「健康」を疑わないことです。そして、朗らかに、正直に、他の人々に対しては思いやりを持って接し、宇宙のあらゆるものに感謝して生きることです。そういう生き方への扉を「家庭菜園」はこじ開けてくれます。ベランダ・ガーデニングでも結構。小さなところから始めましょう。大事なのは継続すること。継続する中から、身体意識や、宇宙との関係や、自然のありがたさや、そして自分が生かされている意味を発見して行くことになるでしょう。
ことに、いま「鬱」気味だという人には、「家庭菜園」の取り組みをぜひお勧めしたいです。人が鬱状態にある時には、生命エネルギーであるところの「プラーナ」の取り込みが不足しているのです。「鬱」のそれが直接原因というわけではありませんが、プラーナ不足は鬱の状態を助長してしまうのです。言うなればプラーナは、人が生きていくための土台を形づくるのです。ですから、日光に当たって、土いじりをしていれば、プラーナが自然と入って来て、徐々に心も快復していきます。
「鬱」というのは、「鬱」だという思いへの囚われ、つまり一種の極度の精神集中状態なのです。ですから、この囚われから離れれば、自然と「鬱」は治るのです。けれども、薬物を用いたり、自助グループなどに参加していますと、そのつど自分が「鬱」だと認識させられることになります。その結果、囚われがますます強化され、かえって脱け出せなくなってしまうのです。従って、精神集中のターゲットを他のものに置き換えて、いつの間にか「鬱」を忘れているように仕向けることが、遠回りのようでいて結局は早道なのです。
しんどくて、「家庭菜園」など、とてもじゃないが出来ないという人は、散歩から始めてください。毎日、決まった時間帯に歩くことを習慣づけてください。そして、お天気のよい日には、空を見上げたり、ゆったりした雲の流れを眺めたり、木々の葉や路傍に咲く花に眼を向けたりしてください。時には、小鳥のさえずりに耳を澄ましてください。汗をかいて、頬を撫でる風の爽やかさを感じてください。そして、それらの生命の息吹を、深呼吸とともに体内に取り込んでください。
手塚治虫さんの名作『ブッダ』の中に、こんなシーンがあります。危険人物と見なされ牢屋に入れられた若き日の釈迦が、自分の身の不運を嘆いて泣き叫び、涙もようやく枯れ果てた時、がっくりと頸をうなだれた視線の先に、ふと一輪の小さな花が咲いているのを見るのです。花の周囲には陽だまりが出来ていて、光の先をたどると、それは格子の嵌った高窓から、わずかに差し込む陽の光であることが判ります。この瞬間、釈迦は雷に打たれたように生命の実相を理解するのです。
花は、そこが牢獄であることを意識していません。でもそんな暗いところにも、光が注いでいるから、こぼれ落ちていた種は花を咲かせたのです。花は、ただ自分の存在に忠実であろうとしただけです。なにゆえ、自分が、いま牢獄にあることを嘆くのか。石垣の間に、ひび割れた地面の片隅に、散歩をしている途中、あなたも生命の輝きをいくつもいくつも発見するでしょう。それは以前からもあったのに、見ることを忘れていたから、見えなくなっていたのです。
大切なものは何ですか? 生きるって何ですか?
『虹の学校』では、4年前から「家庭菜園」に取り組み始めました。最初は直感で「やりたい、やろう」と決めて始めただけだったのですが、「コロナ禍」と出遭い、あれはこれからの方向性を示してくれていたんだなぁ、と思いました。同じ時期、カルチャースクールで畑を学習していた人がいて、リーダー役を引き受けてくれたのも天の采配でした。本稿で書いたことは、そうして実践しながら徐々に解っていったことです。
相変わらず失敗続きですが、仲間と工夫しながら、ちょっとずつ前に進んでいます。獲れた野菜は調理して食べたり、漬物にしたり。ぬか漬けは、始めてから10年くらい経ちます。味噌づくり、梅干しづくりは3年め。このほか、梅酒、カリン酒、スギナエキス、蛇苺エキス、ヨモギ茶、スギナ茶、ドクダミ茶、紫蘇ジュース、ブルーベリージャム、イチゴジャム、ハーブティー、パンづくりやケーキづくりなどにも挑戦して、仲間と一緒に楽しむところまで来ました。
今年は、もっとよいロケーションの畑に移ったので、今から作業が楽しみです。すでに、堆肥を入れた土づくりを1回行いました。
最後に、ナチュラルライフを送るための、よい手引書を紹介しておきましょう。先ずは東城百合子さんの『家庭でできる自然療法 誰でもできる食事と手当法』です。
東城百合子さんは、2020年に94歳で天寿を全うされたのですが、自然療法に関する実践的知識に関しては、当代随一の方です。私の母と同年生まれらしく、この本の中のいくつかの治療法には、私にも馴染みがあります。
1978年の出版で、装丁もいささか古くさいのですが、改訂版を合わせた累計が、なんと100万部を超える隠れたベストセラーなのだそうですよ。びっくりですよね。100万部を超えているということは、いかに時代が変わったと言っても、「自然療法」に活路を見出したいという強いニーズがやはりある、ということを示しているのでしょう。逆にいえば、現代の医療や健康に関する知識を、嘘くさいと感じている人がかなりいるという証左なのかも知れません。
東城さんは大正生まれですが、嘘とまがい物ばかりが横行した平成の30年間が終わり、年号が令和に代わった今、昭和のもっと前の大正生まれの知識が、かえって本物であると感じさせてくれます。もっと言えば、東城さんは、この知識を伝達することを使命として、この時代に遣わされた「魂」なのです。西のエリザベス・キューブラー・ロスと並ぶ、東にそびえた偉大な城です。
生い立ちを見ますと、いちど生死の境を経験してから、この道を歩まれました。東城さんは、コーチに目を付けられた有望選手だったのです。そして、ご自分の役割をしっかり全うされてから天に帰られました。東城さんの喜びは、私たちが、この書を今後も上手に活用することです。その東城さんの意志を大いに使わせていただきましょう。
次にご紹介したいのは、食べられる山野草を探すという観点からの2冊。このジャンルも出版点数がけっこう多く、最後は「好み」ということになってしまうのかも知れませんが、入門者にとっての候補として捉えてください。
1冊めは『よくわかる山菜大図鑑―新芽 葉 実 花』(今井国勝、今井万岐子著 2007/3/1)。これは、見つけた山野草の名前や特徴、食べ方などを調べる際に便利です。都会でも、公園や川の土手に行けばかなりのものを見つけることが出来ます。写真も大きめで見やすいです。
もう1冊は、『野草と暮らす365日』(山下智道著 2018/6/16)です。こちらは野草男子こと山下智道さんという若い青年が、山野草をステキなライフスタイルへ取り入れるアイデアを紹介したものです。
本の装丁やビジュアルもおしゃれで、「こんなことが出来たらいいなぁ」という素朴な願望を掻き立ててくれます。この本と、『山菜大図鑑』を交互に使っていけば、夢と実用がうまくバランスされると思います。興味があれば、手にしてみてください。