by Rainbow School
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地球のアセンション

アセンション(Ascension)とは上昇すること。何が上昇するのかというと、いわゆる「次元」です。この「次元」が、三次元から、四を跳び越して、一気に五次元にジャンプする。それが「アセンション」です。

 

さて、この「次元」という言い方なのですが、この名称が多くの人に誤解を与え、「宇宙」の構造に関する理解を難しくさせてしまっています。私も時に、通例に倣って「人間は多次元的存在」などと書いたりしているのですが、誤解を増幅させてしまっているかも知れません。そこでこの際、ちゃんとしたことを書いておこうと思います。

 

これからお話することについては、簡単にですが、今までにも何回か触れたことがあります。けれども、数学や物理学に関連した話をちょっとでもすると、どうもドン引きする人が多くて、今までキチンとお伝えすることは遠慮していました。でも、今回はちゃんと話しますので、頑張って着いて来てくださいね。

 

そもそも、「アセンション」で言っているところの「次元」というのは、数学で言うところの「次元」とは、全く異なる概念なのです。これは「アセンション」に限らず、今後は、神秘学において「次元」という言葉を目にした際には、すべてそうだと考えてください。そうすれば、基本的な謎の一つが解けます。

 

数学で言うところの「次元(Dimension)」というのは、移動できる方向の数(自由度)を表しています。点は0次元(どの方向にも動けないため)、直線は1次元(直線上をどちらか一方向に動ける)、平面は2次元(タテ、ヨコの二方向に動ける)、立体は3次元(これに高さが加わり三方向に動ける)となるのです。ということは、私たちがいま住む物質世界は、数学的には3次元世界ということになります。

 

これに時間軸をプラスして、この世は4次元だとする考えもあります。ただし、時間軸は片方向にしか進めません。いわゆる「時間の矢」というものが存在するのです。しかも私たちは、“今” しか知覚・体験できません。“時間” という幅を見ることは出来ないのです。なぜ時間軸が逆行できないかは、今も物理学上の大きな謎とされています。

 

一方の神秘学で言うところの「次元」は、正しくは「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、宇宙を構成するあらゆるものを、その振動数の違いによって七階層に分類したものなのです。さてここで、先ず「振動数」という言葉が出て来ました。非物質的なものも含めて、宇宙のあらゆるものが振動しており、霊性の高いものほど微細で精妙な振動数を持ち、低くなるほど大まかで粗雑になっていくのです。

 

この説明にピンと来られない方も多分いらっしゃるでしょう。目の前にあるコーヒーカップが振動しているようには見えないからです。あるいは空気が振動しているようには見えない(空気そのものが見えない)からです。またあるいは、銀河系が振動しているようには、宇宙全体が振動しているようには思えない(観測できない)からです。

 

しかしみなさんは、物質を構成しているものが分子であることをご存知でしょう。そして、その分子を構成しているものが原子であることもご存知でしょう。これら物体を形成している粒子は、目には見えないのですが、みな細かな振動をしているのです。みなさんがよく知っている「熱」というのは、この粒子の振動状態なのです。そこで、この粒子振動を熱運動と呼びます。

 

粒子の振動が激しくなるとその物は高温となり、振動が小さくなると低温となります。一例を挙げましょう。水は、温度が0度から100度までの間に、固体、液体、気体へと変化します。気化した水であるところの水蒸気が膨張圧力を生むのは、水分子が液体時よりも激しく振動するためです。逆に自由度があまり無くなっていくと、水は氷という固体になるのです。

 

さて、最新の物理学は、原子核を構成する陽子や中性子よりもさらに微小な素粒子を発見し、今ではクォークに代表される17個の素粒子からなる「標準モデル」が確立されています。そして、自然界にある四つの力の大統一理論を探る過程で、「標準モデル」の素粒子よりもさらに微細な「素」が存在し、それは「振動するひも」である(超弦理論)という説が主流を占めるに至っているのです。

 

しかしこの「振動するひも」は、理論物理学から出て来たもので、あまりにも微小なために、大型ハドロン衝突型加速器を使っても、実験で確かめることが(今のところ)不可能とされています。一方、神秘学では、古来より、宇宙を構成する「素」は、振動するエネルギー体であるとし、それを「霊(Spirit)」と言って来たのです。つまり現代物理学は、古来より連なる神秘学に、やっと追いついて来たというわけです。

 

*霊(Spirit)については、あまりにも多くの解釈や定義づけが存在し、それぞれの人がそれぞれの説を語っておりますが、ここでは、万物を形成する唯一根源の「素」を霊(Spirit)と定義づけます。

 

よく、霊界の話をすると「そんなもの科学的じゃない」とか「トンデモ話だ」といった決めつけをなさる方がおられるのですが、現代科学は、もはやそのレベルではありません。天文学、物理学、数学が融合し、超微小世界と超巨大世界への観測技術が共に発達したこともあって、この2・30年ほどで急速な進歩を遂げています。そして、そこで得られた推論は、因の科学(現象面の裏にある本当の原因科学)が示して来たものに、どんどん近づいて来ているのです。

 

「Spirit」と「振動するひも」が、同じものだと結論づけるにはまだ早計かも知れません。ですが、『超弦理論』が、この世の常識を超える世界に踏み込んだことは、これまでの科学(現象から現象の法則性を探る)の一線を超えたと言えます。その『超弦理論』は、私たちが住む世界が実は3次元なのではなく、9次元(時間軸を含めると10次元)であるという説を立てています。残りの6次元分は畳み込まれていて観測できないだけだと言うのです。

 

さて神秘学に話を戻しましょう。神秘学では、万物を構成する素は「Spirit」であると言います。しかしこれは、大本の「振動するエネルギー体」が有する機能面の一つであり、他に「根源的生命力」と「宇宙意識」なるものを、この「振動するエネルギー体」は併せ持っているのです。この、三つの要素が、たった一つのものから成るということが、真の「三位一体」の意味なのです。

 

さてその時、元はたった一つのこの「振動するエネルギー体」が、振動数を次第に下げて行きます。すると、水で示した例と同じ様に「Spirit」の自由度がだんだんと減って行き、同種の振動数を持ったエネルギー体が塊りを形成するようになるのです。こうして、非物質であったところの「Spirit」が、半霊半物質状となり、さらに振動数を下げると、遂には物質化という現象が起こるのです。

 

ですから、人間の肉体も、「Spirit」が振動数を下げて物質化して行き、原子となり、それが分子となり、細胞を形づくって肉体を形成したものなのです。ここに、同じく「宇宙意識」の振動数を下げた「魂(Soul)」が結びつき、さらに「根源的生命力」の振動数を下げたプラーナ(気)が供給されて、あなたという一人の人間が、この地上で、この宇宙に生かされているのです。

 

このように、元々は非物質的な「振動するエネルギー体」が、振動を下げることによって、半霊半物質化、さらには物質化という現象が起き、その物質も、様々な化合を経て巨大化し、この大宇宙が出来上がっているのです。宇宙のすべては「波動」であるという言い方は、ここから来ています。ですから、「波動の法則」が「真理」であると言えるのです。それは、たった一つのものから生じているのです。

 

この時、振動数の高低差を、便宜上、七つに分けたものが、よく言われる「次元」、正しく言えば「霊性密度(Spiritual Density)」なのです。密度と、振動数と、波長は、同じことを違った視点から述べたものです。ですから、俗に言う「次元」とは、数学的次元を指しているのではなく、「振動するエネルギー体」の密度、あるいは振動数、あるいは波長を述べたものだということを、しっかり覚えてください。

 

さて、なぜ七つに分けられるのかということなのですが、振動数の違いからなる七つの領域が所持するそれぞれの性質に、大きく七つの特徴があるためなのです。そしてこの特徴をそっくり人体に移したものが、いわゆるチャクラ(中枢)の各働きであり、スシュムナー管上(背骨に重なる場所)に、七カ所に分かれて位置しているのです。

 

このことから、大宇宙(マクロコスモス)と、人体(ミクロコスモス)の相似形が言われ、人間は「神」に似せて創られたという言い方が為されているのです。また、七つの「霊性密度(次元)」を、人体が最初から所持しているという意味から、人間は「多次元的存在」であるという言い方もされるのです。

 

ところが残念なことに、地球に生まれた人間は、このチャクラが充分に目覚めていません。そこでこのチャクラを、眠りから目覚めさせ、活性化させることが求められます。これが、いわゆる「覚醒」の意味であり、完全に目覚めた人を「ブッダ」と呼ぶのです。(この七つの階層については、次回に『オクターブの法則』と題して、詳しい説明をします。えっ、もう結構ですって? まあ、そう言わずに。)

 

七つの階層のうち、上の三つが非物質界(霊界)、下の三つが物質界、そして中間の四番めに位置しているのが半霊半物質界です。地上に生活している人間は、下から三番めの「第三霊性密度」の領域に暮らしているのですが、四番めの半霊半物質界を跳び越えて、非物質界の一番下である五番めの「第五霊性密度」にジャンプすることを「アセンション」と言うのです。しかも、この肉体を持ったまま、地上に現に生活をしながら。

 

*本当はそうではないのに、そこに捕まっている状態。物質を知覚するための五感刺激に嵌まり込み、第六感以上が塞がっている。当然、チャクラも閉じたまま。

 

ややこしいのは、「第三霊性密度」を「次元」と言ってしまうと、これが「三次元」となり、数学的に言うところの「3次元」とちょうど重なり、区別がつかなくなってしまうだけでなく、英語の「Dimension」も「Density」も共に頭文字が「D」ですから、同じ「3D」と表記される場合があるのです。

 

そうしますと、「はて、3次元から5次元にジャンプするとはどういう意味なのだろうか?」「5次元世界とは何なのか?」という話になり、まるでワケが分からなくなってしまうのです。たまたま、そういうものが一致したために、多くの人に混乱を与えてしまっているのです。ということで、今日、その点を解説いたしました。

 

では、「霊性密度」上、なぜ四番めを超えるのか、また超えなくてはならないかと言いますと、半霊半物質界である「第四霊性密度」というのは、いわゆる魑魅魍魎がいる世界なのです。地上に思いを残して死んだ魂や、悪意を持った霊たちがウジャウジャいる世界です。オカルティックなことに興味を持ってはダメだよ、というのはそこです。興味を持った途端、実は、その波動の領域に捕まっているのです。

 

すると、その領域にいるタチの良くない霊たちが、「神」の名を語っていろんなことを伝えて来るのです。それはみな、人間を不安と恐怖と混乱に陥れるためのもので、その理屈を知らない霊媒が、それをそのまま下ろしてしまうのです。人間というのは、残念ながら、宇宙の「真理」を求める人よりも、恐怖の「予言」に興味を抱く人の方が圧倒的に多い。そこで、需要と供給が一致するというわけです。

 

「第四霊性密度」の領域を怖れる必要は、いささかもないのですが(むしろ怖れない方がいい)、オカルティックな興味を抱き続けている限り、アセンションすることは不可能です。なぜなら、それ以上には、自分の波動が(振動数が)上がらないということですから。ここが盲点であり、この「第四霊性密度」の川を渡るということが至難の技なのです。

 

と、以上が前置きです。う〜ん、ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、今日お話ししたいことは、別のことなのです。これも以前に書いたことがあると思いますが、今この時期にアセンションすることが運命づけられているのは、実は人間ではなく、地球なのです。地球のアセンションというものが、地球の誕生時から計画されていて、そのタイミングに、既に入ったということ申し上げたいのです。

 

地球というのは、宇宙的に見てどういう惑星であったかと言いますと、「愛の惑星」だったのです。そう聞くと、何か素晴らしい星のように思うでしょうが(実際、ある意味で素晴らしいのですが)、もう少し正確に言うと、「愛を学ぶための惑星」でした。「愛を学ぶための惑星」ということは、裏を返せば、未だ「愛」を知らないレベルの、霊的に低い星だったということです。

 

地球人というのは、私を含めてみな、霊的レベルが低い「魂」が集まっているのであり、この惑星の上に誕生することで、「愛」を学習する機会を与えられたということです。そのために、「分離」意識の非常に強い、エゴと闘争が闊歩する惑星が、太陽系の中に用意されたということなのです。一種の愛のムチと言いますか、実地体験して学びなさいという配慮です。

 

「愛」というのは、別名キリスト精神とも言って、宇宙的に見れば当たり前のものです。地球人からしますと、「愛」はホットな感じがすると思いますが、むしろクールなものです。なぜなら、それは「法則」ですから。ところが地球人は、これに「情」をつけて、「愛情」にしてしまうものですから、ホットな感じになるのです。しかし「愛情」というものは、よく見れば、煩悩そのものなのです。

 

憎悪や支配的感情よりは、「愛情」の方が一歩進んではいます。しかし、家族愛とか、民族愛とか、愛国とか、限定されたものに「愛情」を向けますと、まかり間違えば、それ以外は敵視する、排斥するということになりかねません。そこを超えて、隣人愛、博愛、全地球愛、全宇宙愛となって行けば、本当のキリスト精神に到達するのです。しかしながら、人間はなかなかそこに到達できません。

 

到達できない主原因は、前回のブログで述べました。地球のアセンションというのは、地球という惑星が、「第三霊性密度」から「第五霊性密度」にジャンプする時期にいよいよ入ったということ。それはどういうことかと言いますと、地球が「愛を学ぶための惑星」としての役割を、これで終了するということです。そして、もっと霊性の高い星へと生まれ変わる時がやって来たということです。

 

*正確に言えば、既に60年ほど前から移行期に入っており、その前半の最終章への扉が開いたという段階です。

 

さて、これから書くことを、次の点を頭に刻み込んだ上で、聞いてください。どれもみな言い古されたことですが。

・真の宇宙には、時間も空間もないのだということ

・人間の本質は「霊」にあり、肉体の消滅後も「霊」は生き続けるということ

・地上世界は、そこでしか出来ない体験をするためのものであり、霊的世界から見れば幻に過ぎないのだということ

 

この言い古された真理を、頭で理解するだけでなく、心底そうだなぁと思えるようになるまでには、長い時間がかかるかも知れません。けれども、これを前提とした上で、次にする話を聞くのと、知らないで聞くのとでは、受け取り方がまるで違って来てしまうことでしょう。

 

以上を頭に刻み込んでいただいた上で、地球がアセンションするとはどういうことかと言いますと、この地球のアセンション時期に合わせて、アセンション出来なかった「魂」は、アセンション後の地球には、もはや居られなくなるということを意味します。惑星地球からは一掃されるということです。地球に輪廻転生して来ることも、もはや出来なくなるということです。つまり、この機会が、地球学校におけるラストチャンスということになります。

 

また、これも言い古されたことですが(言い古されたということは、万事「神」のご計画どおり進んでいるという証明でもありますが)、アセンションまでの途中には、地球に大変革が起こるということです。いわゆる「浄化」です。新しいものを生み出す前の産みの苦しみの時期です。そして、これも以前に書きましたが、「浄化」とは、カルマを受けることを意味します。

 

受けることによって、「浄化」が為されるのです。個人にとっても、人類全体にとってもそれは同じです。そして、より広範囲なカルマの方が優先されますから、人類全体で作って来たカルマは、人類全体で受けることになります。このカルマの「浄化」から、自分だけ逃れて助かろうと思ってもそうは参りません。そもそも「助かる」ということが、地上的な欲であり、宇宙的には最初から全部の「魂」は救われているのです。

 

賢明なみなさんは、今後の数十年をどう過ごしていけばよいか、既にお解りでしょう。いつも言っている通りです。素直に、元気で、朗らかに、周囲に親切を尽くして生きなさい。もはや、個人的な悩みがどうのこうのと言っている段階ではないのです。個人的なカルマ、社会的・政治的なカルマ、地球環境的なカルマは全部一直線に繋がっているのです。そのことに思いを馳せなさい。じっくり瞑想してみなさい。

 

人類の集合意識とは、一人ひとりの意識の集合体です。あなたの意識もそこに影響を与えています。この機会を、ワープ航法のように使って、自分がアセンションするためのチャンスとしてください。

 

既に、アセンション後の次の人類(第五原人種)の先遣隊が50年ほど前からポツポツと誕生し、各地で成長しています。あなたもそのお一人かも知れません。この人たちが、次の地球の礎(いしずえ)を創ることになっています。今日のこのメッセージは、そういう「魂」にリーチすることを目的に書かれました。役割を思い出していただくためです。

 

一方で今、旧人類の、エゴを剥き出しにする人々の活動が、一層エスカレートしています。この最終段階に現出する二極化現象も、言い古された預言です。これは彼らの危機意識の顕れとも取れますが、より長い視点から見れば、アセンション前の「浄化」を促進させてくれているとも言えるのです。彼らも、そうやって「神」のご計画に参加しているのです。皮肉なことですが。

 

ということで、みなさんには、この地球のアセンションの機会を、ぜひ上手に使っていただきたいと思います。

生まれ変わりとカルマの法則を知れば、人を倫理・道徳で縛る必要はなくなる

NHK放送文化研究所が参加している国際調査機関、International Social Survey Programme(45カ国が加盟)が、2008年に「宗教意識(10年毎に行っており、2008年は3回目)」に関する調査を行いました。この中で「生まれ変わりはあると思うか?」という問いに対して、日本人は42%が「ある」と回答しています。「ない」と答えた人は33%、残り25%は「わからない」です。

 

ちなみに、アメリカでは31%が「ある」と回答。教義上は否定しているキリスト教圏の国でも「生まれ変わり」を認める人が増えているのです。ただしこの内実は、日米でかなり違うと思います。日本人がそう思うのは、長年培われて来た自然観から。アメリカ人が認め出したのは、ニューエイジ思想などの広がりによって、キリスト教教義の不自然さを自覚する人が多くなっているのだと思います。

 

「生まれ変わりはあるか・ないか」という問いは、「死後世界はあるか・ないか」に次いでポピュラーな問いでしょう。死後世界の存在を認めない人が、生まれ変わりを認めるわけがありませんから。でも、死後世界の存在は認めても、生まれ変わりは認めないという人はいます。三つの一神教はいずれもそうであり、仏教でも「釈迦は生まれ変わりを説かなかった」と、それを強調して言う人もいます。

 

この問い掛けを巡っては、過去半世紀くらいの間に、急激に(それはメディアの発達のおかげが大きい)、多くの情報が蓄積されて来ました。70年代までは、まだ霊媒がもたらした心霊主義的な情報が大部分だったのですが、イアン・スティーヴンソンが1987年に『前世を記憶する子供たち』を出版すると、こうした学術的、実証的なアプローチ方法が採られるようになりました。

 

その後、「臨死体験」をした人たちの証言が集められるようになり(それまでは、体験をしても口をつぐんでいる人が多かった)、臨死体験者がほぼ共通した体験を語ることがしだいに明らかにされて行きました。また同時期に、「退行催眠」という手法を用いて、被験者から、中間世にいた時の「あの世」の状況や、前世の記憶を聴きだすという調査も数多く行われるようになりました。

 

*しかしいずれの方法にも一短があります。前世を記憶する子どもたちの例は、前世で突然死を遂げた特殊例が多く、そのために次の生まれ変わりまでに要する期間が極端に短い。また7歳を過ぎると記憶が消えてしまうという問題点があります。「臨死体験」は死に切れずに戻って来た人の体験談であり、死んでしまった後のことが分からない。「退行催眠」は本人の想像が混じることを避けられません。

 

このようなことが総合されて、「生まれ変わり」に関しての考え方、捉え方は、以前とは大きな様変わりを見せています。しかし、そのような状況になっても、一般の人々の間に届いている情報は、いずれも断片的なものに過ぎず、総合的な知識を持たないというのが実情です。これは宗教者でも同様であり、それだからこそ、宗教者が語る古臭いドグマが、真実味を持たなくなって来ているように感じます。

 

「虹の学校」としては、「生まれ変わり」の証拠を探し求めることにはもはや関心がなく、あまり意味がないと考えています。「認めない」という人は、どんな証拠(に見えるもの)を提示したとこで、認めませんからね。先ず「否定」ありきから論理を構築していきますから。

 

それに、いくら探査したところで、客観性と観察を重んじる今の「科学」的常識においては、所詮は不確かな証拠しか得られません。たった一例を探査するにしても、ある一つの「魂」の、前世から中間世を経て今世に至るまでの経緯を、他の観察者が横にいて観察・記録し続けてみなければ、本当の意味での証拠とは認められないでしょうから。ですが、そんなことは不可能です。

 

それよりも「生まれ変わり」を認めた上で、そのようなメカニズムがなぜ存在するのかという理由や、またメカニズムが働く原因とプロセスを知ること、つまり「因の科学」にダイレクトに迫った方がずっと意義があります。なぜなら、「生まれ変わり」を前提とした上で、人生をどう生きるかを考えた際には、生き方がまるで違って来ますから。

 

それは信じるとか、信じないというレベルの問題では、もはやないのです。新しい神学や、因の科学(現象から法則性を導く今の科学ではなく、もっと裏にある真の原因を探る科学)の領域に、足を踏み入れるかどうかという、人類にとっての転換点の問題なのです。そしてこれは、実は新しくも何ともない。古代から変わらぬ「真理」の叡智を、ようやく出せる環境と時期が整ったから出すというだけの話です。

 

それに否定派も、どうせご自分が死ぬ時には、死んでも死なないということを知るのですから。その日のために、今から言っておきます。死んだ後は、自分が思っていた世界に行き着くということ。それは、そういう世界が在るというのではなく、自分が創造に加担するということです。ですから、死後は「無」だと思っていた人は、ご希望通りに「無」の世界に入って生き続けるのですぞ。

 

想像できますか? 真っ暗闇の「無」の世界で、なんの手応えもなく、永遠に生き続けることになる自分を。

 

さて、「生まれ変わり」というのは、一面から見れば、大層しんどいシステムのように思えます。ですが、冷静になって考えて見れば、また霊性になって見れば、「魂」の救済システムであることが容易に解ると思います。何しろ、やり直しが効くわけですから。人生を振り返って、「ああ、あれとこれはどうも間違えちゃったかな」というところを、再び、時には逆の立場を通じて再挑戦できるのですから。

 

この時に「カルマの法則」というものが働く。それは、前世で未消化に終わってしまったものを、つまりは落第・留年になってしまった課題を、もう一度学び直せるというチャンスの再提供であり、自分が自分に贈ったギフトなのです。ところが、そうやって「生まれ変わり」を果たしても、7歳を過ぎると、人はそんな決意を忘れてしまい、またもやエゴをむき出しにした人生を送るようになってしまうのです。

 

このようにして、大半の人が、一つの人生をあまり進化することなく終えてしまう。そして、また同じところをグルグル回る輪廻転生を繰り返しているわけです。それもこれも、「生まれ変わり」と「カルマの法則」について、人々が無智だからです。ただ無智なだけではありません。間違った知識を、宗教者やオカルト信者や哲学者や科学者からてんでバラバラに吹き込まれているからです。

 

しかし、「生まれ変わり」と「カルマの法則」のことを、みなが当たり前のように知るようになれば、そしてそれが体に染み通れば、世界は一変します。いま生きていることの意義や、生き方が全く変わってしまいますから。

 

先ず人生の目標が、様々な体験を通じて、普遍的な「愛」を身に付けることだと知ります。そうすれば、人生上で起こる様々な困難も、自分への何らかの「気づき」がそこには隠されているのだということが解り、不平・不満がなくなります。また「カルマの法則」が念頭にあれば、エゴを剥き出しにしたり、陰で悪事を働くといったこともなくなるでしょう。そうして、一生涯が学習なんだということも解る。

 

そうすれば、職業やお金や地位なんてものは、単なる舞台装置や道具に過ぎないということも解り、いま置かれた状況の中で、無条件の愛の人になることを目指し、今この瞬間を、クリエイティブに、楽しく生きれば、それでよいということも解るでしょう。このようにして、あなたの「魂」が、明るく艶やかなものに磨かれていくこと。それが、霊的進化なのです。

 

人生の目的はこれしかありません。こうして、一段進化した「魂」が、肉体の死後も生き続け、あの世へ行って癒された後、次の学年へ進級するのです。このようなメカニズムを理解した上で、一生涯学習を続けようと決意した「魂」は、自己制御のもとにそれを行うようになります。ですから、「倫理・道徳」によって、外側から考え方や行動を縛る必要など、一切無くなってしまうのです。

 

逆に言えば、「倫理・道徳」教育の必要性が叫ばれるのは、外側から行動を抑えつけなければ人間は正常にコントロールできない、放っておいたら人は何を仕出かすか分からない、と思っている人がいるからであり、また、無智であるがために自己制御が出来ない段階に、未だ人類があるということを指し示しています。

 

けれども、以前にも言いましたが、「倫理・道徳」や「正義」は、結局は為政者の支配の道具としていいように使われてしまうのです。しかし世の人々は「倫理・道徳」も「正義」も、ともにアプリオリに良い事と信じて疑いません。実際には、「倫理・道徳」を語る者ほど裏では倫理・道徳観に乏しく、「正義」を語る者ほど悪を為している例が多いのですが。

 

ともあれ、そのようなことで、「生まれ変わり」と「カルマの法則」を、みなが当たり前のように知れば、地球は一変してしまうのです。そして、それこそが、求められる「地球のアセンション」に他ならないのです。

 

果たして、その日が、いつになることか。

個人のカルマと人類のカルマ

カルマというのは、宇宙を支配する法であり、最も基本的な法則の一つです。法則ですから、宇宙のすべてのものがこの法の支配下にあり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。では「カルマの法則」とは何か? 一言で言えば、それは「自分が為したことは自分に返る」ということです。よく言われるところの、善行善果、悪行悪果です。

 

善い行いをすれば善い結果が返って来るし、悪い行いをすれば悪い結果が返って来るということ。けれども、今ここに書いた「善・悪」という言葉には注意が必要です。地上で「善・悪」と言っているものと、宇宙でのそれとでは、重なっている部分もあるけれども、実はかなり違うということです。

 

地上では、対立する二つの概念があるとき、片方が「善」を主張すれば、もう片方は自動的に「悪」ということにされてしまいます。実際、そのような「決め付け」がまかり通っているのが地上世界です。ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い出してみてください。でもこの「善・悪」の決め付けは、反対側の立場に立つ者にも同様に言えてしまいます。

 

ですから、地上では、「善・悪」をめぐって、国家間の対立や、宗教間の争いが絶えないのです。そして互いに「正義」を主張しては、殺し合いをしているというのが戦争です。テレビも映画も、「正義」を掲げる〈人殺し〉をヒーローにしている作品のいかに多いことか。皮肉なことに、我は「善」なりと主張する者ほど、「悪」を為すというのが、地上での論理になってしまっています。

 

しかし、宇宙で「善・悪」と言った場合には、このような相対的なものではなく、そこにはたった一つの基準しかありません。それは、友愛、許容、統合、という oneness の方向へ向かっているか、支配、排斥、分離、という anti-oneness に向かっているか、だけです。本当は、「善・悪」という言葉すら無く、進化しているかどうかだけなのですが、便宜上そう言っているまでです。

 

*「進化しているかどうか」という基準が民衆には解りにくいために、便宜上、宗教が「善・悪」という地上の言葉を使って語って来たことが、逆に人間に大きな混乱をもたらしました。

 

いま言ったことは非常に重要で、人間が今後、正しい神学に脱皮できるかどうかの一つの試金石となっています。善行善果、悪行悪果、という法則については間違いはありません。けれども宗教は、このうちの「善・悪」概念を、自分たち教団に都合のよい論理にすり替えて、戒律にしては信者に従わせて来ました。ですが、宇宙基準からすれば、「正義の戦争」などあり得ないことが容易に解るのではないでしょうか。

 

さて、カルマというものが、どのようなメカニズムで生じ、地上にある人間にとって、それがどのような意味を持っているかについては、これまでにも何度かお話しして来ました。が、ここで別の視点も加えて、おさらいをしておきましょう。

 

宇宙の本質というのは、物質世界を超えた、目に見えない世界(霊界)にあります。そこは振動する微細なエネルギー体によって形成された世界で、いわゆる「波動の法則」というものが厳然と作用しています。このことから、振動数の違いによって、霊界には階層が生じています(同レベルの振動が引き合うため)。一方、振動数の高低というのは、霊性の高低を表しており、「魂」がこの階層を上に登って行くことを、霊性の進化・向上と言っているのです。

 

階層の上下を決めているのは、先に書いた、統合と分離という、相反する意識の割合によります。あなたという存在は、まず「個別化した霊(Spirit)」から生じました。臼の中にある大きなお餅から、お団子を一つひねり出すようにして生じたのです。この時点ではまだ振動数は高いままですが、その後振動数を下げて行き、より個性化を強めた「魂(Soul)」となって行ったのです。

 

そして「魂」が、さらに低い波動を出し、その波動を鋳型として、一つの受精卵(その精子と卵子の組み合わせも自分で選び)から作り上げて行ったものが、今あなたが纏っている「肉体(Body)」なのです。このようにして、あなたという存在は、大きく霊・魂・体の三重構造を持ったうえで、いま地上にあるのです。これが、人間が「多次元的存在」だと言われるゆえんです。

 

あなたの「心」、その本体は「魂」です。「脳」は単なるハードウェア(肉体の機能的一部)に過ぎません。「魂」がソフトウェアであり、「脳」という機能を使って「心」というアウトプットを生じさせているのです。しかし、地上の科学は頑としてこれを認めません。そのため、いくら心理学や大脳生理学や精神医学を駆使しても、「心」をつかめず、よって「心の病」も治せないのです。

 

さて、霊・魂・体の三重構造となって地上に降り立った人間は、それぞれ、そこで個別の体験をします。体験とは、視点を変えれば、その人の「行為」です。この「行為」には、必ず思考と感情が付随します。行ったことそのものの記憶は、その人の死後は地上に留め置かれてしまうのですが、体験を通じて獲得した思考パターンや感情のクセは、死後も「魂」と共に運ばれることになるのです。

 

これが、その人固有のカルマを形成する元になるのです。そして、分離から合一へという霊的進化を、その「魂」がちゃんと果たしていけるように、言い換えれば、無条件の愛の人にいつかはなれるように、前世で体験した行為の内容が点検され、間違ったところは修正を促され、もう一度学び直せるよう次の人生をマスターらと相談して基本設計し、その上でまた地上に降り立つのです。

 

一方、地上に残された記憶は、同種のものが集合すれば、それなりの力を有するようになります。これが、土地のカルマ、家系のカルマ、民族のカルマ、そしてもっと大きく地球のカルマ、人類のカルマまでをも形成して行くのです。すると人は、個人的なカルマの他にも、外的なカルマを何重にも背追い込んでいるということになります。

 

その際に、重大なことは、より広範囲のカルマの方が優先されるということです。例えば、私はいま日本という国に所属して、日本列島に住んでいるわけですが、それは日本国および日本列島が有するカルマの上に乗っかっているということであり、ここから逃れる術はないということです。同様に、人類全体が創って来たカルマ、地球のカルマからも逃れる術はないということを意味します。

 

そして今、地球および人類は、これまでに積み重ねたカルマの一大清算の時期に突入しています。これは皆さんも、日ごろ重々お感じになっておられることでしょう。そのために、異常気象は苛烈さを極め、強欲が際限なく拡大し、暴力が世界中に蔓延し、政治は信じがたいほどの幼稚さを露呈し、個々人の健康や幸せが脅かされるという、ますます醜い世の中へとどんどん向かっています。

 

いま「醜い」と書いたのですが、人類全体としてそちらへ向かっているということは、この現状を「醜い」とは思わない人たちが多いということです。そしてまさに、それがカルマの発現です。為したことは返ってくる、いま返って来ているということです。しかしこれは、何度も言いましたが、強い光が当たっているからこそ、隠れていたものが炙り出されて来ているということです。

 

よく言われることですが、これは産みの前の苦しみ。地球は、来るべき世界の、陣痛の時代に入っているのです。ここをしっかり抑えることが大切です。そのことをよく理解した上で、現在の世の中の動き、世界の動きを俯瞰的に見てください。

 

さて個人は、自分を包む、より広範囲なもののカルマからは逃れる術はないと書きました。だとしたら、個人のカルマに向き合い、これを乗り越えるという努力、霊性向上への取り組みは、やってもムダなことになってしまうのでしょうか? いいえ、そうではありません。全体は全体、個人は個人です。それに、今あなたが現に地上にあるということは、個人的なカルマ清算の機会を与えられているという何よりの証拠です。

 

ただ、一昔前とは、その意義が違って来ているということです。より、重要度を増して来ている。人類全体のカルマ清算の機会が増大したことによって、あなた個人のカルマ清算というテーマが、もはや単独の、全体とは無関係のものとしてはあり得ず、リンクの重要度をいや増ししているということです。そして、ここからが重要なところであり、あなたに是非ともお願いしたいことなのです。

 

今まで、人類が積み重ねて来た負のカルマには、環境破壊や、戦争や、奴隷制度を初めとして様々なものがありますが、その出発点にあるものを問えば、結局のところ次の三つに集約されます。一つは富への執着、二つめは他者支配への欲望、そして三つめが生命の成り立ちへの誤解です。この三つが組み合わさって、様々な現象面での問題を引き起こして来ました。

 

言い換えれば、人類がそれらのカルマを背負っているということは、いま挙げた三つのことへの気づきが、何千年何万年の時を経ても、人間たちにちっともないということなのです。進化していないということなのです。だからこそ、あなた個人のカルマ清算というテーマが大きな意義を持ってくるのです。

 

つまり、あなたが先ずこれらの清算を果たせば、他の人々のお手本になれるということです。そんなことに、一体どれほどのパワーがあるのかと思われるかも知れません。個人に比して、人類全体というのはあまりにも巨大に思えますから。けれども、見えないエネルギー世界では、「波動の法則」というものが厳然たるセオリーとして働いているのです。

 

あなた方の中には、「正義の殺人者」を賞賛する文化があるのと同様に、武力が平和を実現すると硬く信じている人たちが、未だに大勢います。核兵器禁止条約に賛成することは、核なき世界につながらないとまで主張する人がいる。けれども、未だかって、武力を以って恒久平和が実現されたためしなど一度もありません。それは、カルマの法則のことを考えればお解りでしょう。

 

一見、夢物語のようで、悠長な道に見えることが、結局はいちばんの早道なのです。健全で、素直で、明るくて、愛に満ち溢れた波動をあなたが出せるようになれば、周囲の人々はその影響を受けます。そして、そういう人たちがあちこちに増えれば、百匹目の猿現象で、ある時期からは雪崩を打ったように、人類全体が変わって行くことになるのです。その灯台に、あなたになっていただきたい。

 

よいですか、これは予め設定された宇宙の計画なのですよ。だから友よ。あなたにも是非ともその一員になって欲しいのです。先ずあなたが、無条件の愛の人にお成りなさい。完全なる奉仕の人と成りなさい。そして周囲の人々に、その愛を分けてあげるのです。さあ、歩め。友よ。栄光の道に向かって。

思考が現実化するということ

思い(想い)は現実化する。スピリチュアルなことに関心の強い方なら、多分どこかで、このことをお聞きになったことがあるでしょう。それって本当なのなの? いや、そんなこと信じられない。自分など、しょっちゅうある事を想い続けているけど、ちっとも実現しやしないよ。それとも、隠されたもっと深い意味でもあるのだろうか? 反応は、きっと様々でしょう。

 

想いが現実化する。これは、一面において確かです。けれども、この言葉を正しく理解するためには、いくつかの関門を通らなければなりません。普通に考えていたのでは、これをちゃんと理解することは出来ません。ところが、前回のブログでも述べたように、不思議現象としてこれを捉え、そこに付加価値を与えては人々を誘い込み、金銭を巻き上げようとする業界人?が後を絶ちません。

 

これは人の弱み(この場合は、誰しもがエゴを持っていること)につけこんだ商法です。エゴの誘いにエゴが反応してしまうのですね。そういう意味では、ここでも「想いは現実化する」という法則が、皮肉なことに立派に?生きているわけです。そうやって、手痛い失敗を何度か経験すれば、そのうちに次の気づきへと進めることになるでしょう。ま、懲りない人というのもたまにおられますがね。

 

先ず、「現実化」ということを考えなくてはなりません。「現実化」というのは、いったい何を指して言っていることなのか? これは重要なポイントで、この前提条件が違えば、「想いは現実化する」という言葉が持つ意味そのものが違ってきてしまいますから。しかしそこに踏み込むのは後回しにして、ひとまずは、これを普通に「目の前に展開される物質的世界」のことだとしておきましょう。

 

その上で、「想いは現実化する」というメカニズムを考えてみましょう。想えば、何でも現実化するのか? しません。えっ、さっき言ったことと違うじゃないか、ですって? 想っただけでは現実化しないことは明らかです。いまメロンを無性に食べたいと強く思う。そうすれば、目の前にメロンがパッと現れるのか? 現れません。少なくとも、買いに行かなければメロンは食せない。

 

けれども、こういうことは言えます。行動を起こすには、「想い」が先ず必要だということです。あいにくメロンを売っているお店が、歩いて15分のところにしかない。しかも外はカンカン照りだ。さて、どうしよう? ここで「想い」の強さというものが影響して来ます。メロンを食べた〜いという「想い」が、障碍を上回るほど強ければ、食卓の上にメロンが現れる可能性が高くなります。

 

ですから、第一の関門は、

・想っただけでは実現しない。

・想うと同時に、行動が伴わなければ、実現はしない。

・さらに、降り掛かる困難も、何するものぞとの強い想いを抱き、行動し続けていれば、実現する可能性が高くなる。

と言えます。

 

しかしこれでは、「なぁんだ、そんなことか」と思われるでしょう。これじゃあ、よくある自己実現方法のレクチャーとほとんど変わりがない。それを信じて必死に努力を重ねても、夢を叶えることが出来ないから、多くの人が落胆し、挫折感を味わったりしているわけですよね。かく言う私もそうでした。もうその連続でした。これはどうしてなのでしょう?

 

そこに、第二の関門として、人知を超えたセオリーが存在するのです。それは次のようなものです。人は、中間世にある時に、次の人生における課題と、誕生する場を決めてから転生します。すると、いくら自由意志を保証されていると言っても、初期設定の環境要因は、誕生後にはもう変えられませんし、課題から大きく外れるということもないのです。(課題に気づかないということはあります)

 

*中間世(生);前世と今世との中間にある、霊界に戻って生きているいる期間

 

そこから、宿命論、運命論といったものが巷間言われたりするわけですが、宿命論や運命論が間違っているのは、「人生は変えられないもの」とする捉え方です。いま言ったように、確かに初期設定の環境要因を変えることは出来ませんし、課題から外れることもありません。しかしその中で、課題を達成し、幸福に生きることは誰もが出来るのです。そして、まさにそれこそが魂の “課題” なのです。

 

さて、そうしますと、いくら強い願望と意志を持っていたとしても、また必死に努力を重ねたとしても、その課題から大きく逸脱するようなことは決して実現しない、ということになるのです。これが、実に盲点なのです。

 

今、私はこんなことをしておりますが、これは自分が願ったことではなく、思ってもみないことでした。複数のチャンネルを通じて、将来の役割というものを言われてはおりましたが、全く信じていませんでした。しかし、子ども時代から幾度となく続いた、不運、失敗、挫折、屈辱、病気と、他方、首の皮一枚で拾い上げられた経験が、全部、今やっていることに結果的に役立っているのです。

 

「なるほど、こういうことだったのか」「このためだったのか」と、つくづく思わずにはいられません。全てが完璧。それは本当のことでした。そして最近になって、やっと自分の課題と役割が見えて来ました。さて、「盲点」というのはここです。若い時には気づかないし、気づけないのですね。自分が実現したいと想う外面的な願望でいっぱいで。

 

ですから、それに挫折すると当然ながらガックリ来ますし、そういうことが何度も何度も続けば、もういい加減、腐ってしまうわけですね。それで破れかぶれになったり、クスリやアルコールに溺れたり、自己否定に向かうということになってしまう。ところが、もっと長い目で人生を見ると、それらは全部、天がくれたギフトになっていて、自分が設定して来た課題からは少しも逸れていないということが解るのです。

 

問題は、「いつ気づくか」ということです。気づくのが先か、腐るのが先なのか。あなたを応援する天の存在たちは、同じ過ちを何度冒したとしても、実に辛抱強く、またあなたに気づきと修正を促して来ます。その転換、つまり、自己実現とは、職業や外面や形にあるのではなく、自己の意識の変化、もっと言えば「魂」の成長にあるのだと悟ったその瞬間、その人にパッと光が射すのです。

 

若い時には、外面的、物質的に何かを獲得することが自己実現だとみな考えています。しかし、願望も含めて、そうしたものは全部、その人を「課題」に向き合わせるための材料に過ぎないのです。ですから、初期設定という縦糸と、誕生後に自由意志で選んだ横糸を組み合わせて、その人が、自分独自の「課題」に向き合う人生を、周囲の協力のもとに編み上げて行くのです。

 

現実は、不公平に見えます。大金持ちもいれば、着の身着のままの貧乏に泣く人もいます。名家に生まれる人がいれば、ひどい親の下に生まれる子もいます。名声を獲得する人もいれば、一生うだつが上がらず底辺で暮らす人もいます。この差に、目をくらまされてはなりません。それらはみんな、今度の人生における、単なるキャスティングに過ぎないのです。

 

そう、それはまさに配役によるお芝居であって、お芝居のテーマは、あなたという主人公に、自分自身の今世の「課題」に気づかせ、それを達成するよう促すことです。名家の出や、イケメンや美女だけが主人公なのではありません。全員が自分の人生ドラマの主人公であり、同時に全員が他の人の脇役をこなし、複雑なタペストリーをこの世で織り上げているのです。

 

今度の配役は、今世がそうであるということだけであって、何十回、何百回と繰り返す輪廻転生のドラマにあっては、王子になったり乞食になったり、男になったり女になったり、実に様々な境遇を、「魂」の霊的完成に至るまで経験していくのです。ですから、ご自分の出自や、境遇や、容姿や、病気や、傷害を呪ってはいけません。呪ったところで何にもなりません。かえって自分を辛くさせるだけです。

 

いま言ったことが解れば、幸福とはどういうことなのか? 幸福を実現するにはどうすればいいのか、も同時に解るはずです。全てはあなたの「思い」しだい。あなたが今この瞬間を幸福だと思えば、幸福なのです。なぜなら、幸福とは条件ではなく、自分の感じ方なのですから。一杯のお茶、一皿のカレーライス、窓に広がる景色、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり、全てが幸福のハーモニーを奏でてくれるのです。

 

さてそこで、第三の関門に近づきました。冒頭に語った「現実化」とは何かということです。最初の仮定では「目の前に展開される物質的世界」を、一応「現実」だとみなしました。これは多くの人が考えている一般的な解釈です。しかし論を進める中で、重要なのは、自分の感じ方や思いなのだということになって来ました。

 

知らない土地を、旅人のあなたが歩いていると、だんだん腹が空いて来た。すると疲れた顔の旅人を見て、ある家のご主人が、休んで飯でも食べていきなさいと声を掛けてくれた。いや、ありがたい。ところが、出された食事は薄いスープ一椀と硬いパンが一切れだった。ここであなたは、「なんだ、こんなもの!」と思うことも出来るし、「いやいや、本当に助かりました」と思うことも出来る。

 

結局、「現実」というものは、また自分が「現実」だと思っているものは、あなたの「認識」でしかないということです。そこでこのブログでは、これを「リアリティ」と言って、区別して来ました。いわゆる「現実」というものは、多分あるのでしょう。けれども、これが「現実」だと言える確かなものは、実際にはどこにもないのです。あるのは、各人それぞれの「リアリティ」だけなのです。

 

これは奇妙な話に聞こえるかも知れませんが、量子力学においては常識です。あなたが夜空を見上げて、いま出ている月を見ない限りは、つまり見ていない間は、月が実際にそこにあるかどうかは判らないのです。見て初めて、「あ、今夜は月が出ているな」と判る。しかしそれも、突き詰めれば、あなたの「認識」がそう認めたというだけに過ぎないのです。

 

そこで、よく言われる次の言葉が出てくるのです。この世は幻に過ぎない。これは真理です。ですが、多くの人は、そう聞いてもピンと来ないでしょう。なぜなら、この「現実」だと思っている世界に、肉体を持って現に存在し、五感を使って知覚しているものに、確かな手応えを感じているのですから。ですから、前回も言ったように、「霊主体従」の感覚に至らなければこの言葉は解りません。

 

「霊主体従」に生きて、それが身体の隅々にまで染み通って、この世とあの世が逆転した時に初めて、この世は幻に過ぎないと解るのです。さてそうなった時に、じゃあ生きる意味は何なのか、という疑問が当然わくでしょう。この世が幻と言うのであれば、その幻の世界を生きることに、一体どんな意味があると言うのか? あまりにも虚し過ぎる話ではないのか?

 

そう、実にそこなのです。ですから、みんなこの物質世界になんとか手応えを見出したくて、物資的価値、物質的満足を必死になって求めようとするのです。ところが、そこにどうしても超えられない壁が立ちはだかる。人はいずれ、みんな死んでしまうということです。死んだら一巻の終わり。だとしたら、人生の意味とは何なのだ。そこで、哲学というものをひねり出すのですが、いくら考えても答えが出ない‥‥。

 

やあ、なんだか振り出しに戻っちゃいましたねぇ。この世が幻だと言っても虚しいし、物質世界を追い求めてもやっぱり虚しい。そんな人生に、果たして意味はあるのか。

 

人生に、意味などない。でも目的はある。この世のすべてが幻であっても、あなたは死なない。あなたの本質である霊魂は、肉体の死後もずっと生き続ける。その時、あなたの「魂」が携えて行くのは、この世でした体験から得られた感情と解釈と技能というソフトウェアだけなのです。ハードウェアは一切持っていけない。このソフトウェアを、輪廻転生するたびに、何度も磨きながら、あなたという「魂」は霊的完成を目指すのです。それが人生の目的。

 

これで解ったでしょう。人生劇場というものの成り立ちが。

幻の世界を生きることは、決して虚しいことではありません。自己の本質と、裏側にある真実の世界をつねに意識しながら、なおかつ幻の世界を生きるのです。

 

あなたが「現実」だと思っているものは、あなたが認識する「リアリティ」に過ぎない。言い換えれば、あなたが創る「現実」です。あなたの人生は、初期設定による境遇や、いま置かれている環境や、周囲の人間関係によって、制約された世界の中にあります。けれども、その制約された世界の中で、あなたは、自由に「想う(思う)」ことは出来るのです。そこに一切の制約はありません。

 

実に素晴らしいことだとは思いませんか? だから、善なる「リアリティ」をお創りなさい。木々の緑の中に、生命の輝きを見なさい。青空の中に、精霊たちが飛び交うのを見つめなさい。鳥のさえずり、虫たちの声に、命への讃歌を聴きなさい。水面の輝きに、永遠の光を見出しなさい。そして、出会う人々の心に、等しく神性が宿っていることを発見しなさい。

 

あなたが想えば、それは現実化するのです。想像は創造。さあ、お行きなさい。あなた自身の道を。

神は一神であって二格

このところ、ずっと一神教と二元性のことについて話をして来ました。神は一つである。これは間違いのないことです。論理的に考えても、またそうでなくても。論理的に考えれば、神は一者という帰結が矛盾のないただ一つの結論ですし、論理によらないものとしては、いついかなる時代のメッセンジャーも、「oneness」を秘教として伝え続けて来たというのがその何よりの証拠です。

 

しかし、この超シンプルな真理が、ついぞメジャーになることはありませんでした。古代の人々はこれを知っていたのですが、人間が物質主義に傾き、堕落するに連れて、この真理が忘れ去られて行きました。そして宗教までもが、権威主義、拝金主義、独善主義、排他主義の基盤に立った「我が神」の教義を振り撒くようになったのです。

 

二元性(duality)というものは、いったん理解してしまえば、「なんだそういうことだったのか」という程度のものなのですが、それを本当に、身体の細胞の隅々にまで納得させるのはかなり難しい。なぜかと言いますと、何世代にも渡る人類史の中で、誤った認識の二元論がすでに細胞の奥深くにまで浸透し、刻み込まれているからです。

 

あなたはきっと、一度ならずこう思ったことがお有りでしょう。どうして、この世に善と悪が存在しているのか? もし神がいるとしたら、この世が善だけでないのはどうしてなのか? そこに、一つの考えが忍び寄ります。神は善なのだが、悪を為そうとする別の親玉がいるのだ。それがサタンやルシファーであり、善なる神は、奴らとの戦いに勝利することをお望みだ。

 

これが一神教の二神論へのすり替えです。善と悪の戦いという図式にしたところで、その両者を統御しているものはいったい何者なのか、という疑問には答えていないのですが、その発想は人々の心情にフィットしたのです。なぜなら、社会の矛盾や人間関係を見れば、なるほど日常が戦いだし、自分自身の内部においても、善と悪との戦いが昼夜繰り広げられているからです。

 

左の図を見てください。三角形の頂点に位置するのが、宇宙の創造者です。創造神といっていいでしょう。この創造者は、万物を創造する際に、先ず二つの極性を設けたのです。これが陽と陰です。二つの極性を設ければ、その間に、配合の違いによって様々なものが生み出されることになります。さらにそれら同士の組み合わせで、もっと多様なものが生み出されて行きます。こうして万物が創造されたのです。

 

これを「三角形の法則」と言います。三角形の頂点から、陽極と陰極に別れて、末広がりに万物が創られて行きました。そこで、「ハ(末広がりに)」に「刀」で切ると、「分ける」という字になるのです。また、創造神から万物へは、バイブレーションの違いによって七段階に階層化されました。そこで「七」に「刀」が「切る」という字になっているのです。

 

二極性に分かれた原初の痕跡は、あらゆるものに見出され、二極性を持たないものはおよそ宇宙に存在しません。何しろ素粒子の世界が、プラスとマイナス、左スピンと右スピンといった具合に、全てが対で出来ているのですから。みなさんの身近においても、光と影、昼と夜、南と北、右と左、表と裏、押すと引く、男と女、等々いろいろなところで二極性を確認できるでしょう。

 

このように、万物が二元を基本にしているということは間違いありません。しかしそれは、前にも言いましたように、対立構造ではなく、補完機能なのです。つまり、互いがあるからこそ、互いを認識できるのです。これは非常に重要な点です。なぜ一者であったものが、自己の内に二極性を創造したのか? それは一者のままでは、自分を自分と認識できないからです。そこで二元が生じました。

 

図で、頂点が一神教。その最初の分岐が二元論。それよりさらに下ると、神々という多神教。底辺になると、自然のすべてに神が宿るという自然崇拝、そして全部をひっくるめて三角形を見ると、汎神論となるのです。つまり、「神」とは何かについてのこれらの違いは、一つのものの、視点の置き場所の違いに過ぎないのです。そして結論は一つです。全部が一つ、一つが全部です。

 

いま見て来たように、二元性というものは、今の宇宙が宇宙であるための、最もシンプルな初期条件だったのですが、これに人間は余計なものを付け加えました。善と悪、優と劣、強と弱、積極と消極といったように、尺度を設けて一方が一方を裁くような価値観を醸成したのです。これは、支配と被支配の構造を創りたい者にとっては、非常に好都合なツールとなりました。

 

ここで、勘のいい方はすぐにお気づきのように、支配と被支配という考え方自体が、一方が他方を裁く尺度になっています。そこで、ここから類似の尺度が次々と生じたのです。その根本原因は、これまで何度も言って来たように、根源(=神)から別れて、個我となった「魂」の中に、自由の一面である「分離」意識を発達させて、自分がよい思いをするためには他者を支配するしかない、と思い至った「魂」が出現したことによるのです。

 

こうした支配的な行動原理を持つ「魂」は、割合としてはそれほど多くはありません。けれども、狡猾で知力に長けているために、上記のような尺度に基く価値観を、子どもの時分から大衆に吹き込んで、広く信じ込ませることによって、自分たちの立場を盤石なものにしたのです。

 

しかし、上記で示したような価値観は、本来は、善悪→宇宙の法に則っているか反しているか、優劣→才能と表現の多様性、強弱→強靭と柔軟、積極と消極→活動と休息のように見るべきだったのです。

 

このように、二極性には本来、優劣というものはないのですが、腕力の強さ弱さという視点から、性別にもこの尺度を当てはめようとする考えが生じました。いわゆる男尊女卑です。これは社会的、政治的に是認されて来ただけではなく、一部の宗教では、女性に対して虐待的な倫理規範を設けたり、女性の聖職者は認めないなどとして来たのです。しかしこれらは全て、支配のための屁理屈です。

 

モーガン・フリーマンさんという俳優さんをご存知でしょうか。この方が以前、笑いながら、こんな話をしていました。「自分が、絶対やりたくないと思っていた役が一つあるんだ。そしたら、先日、そのオファーがついに来ちゃったんだよ。それは“神様”なんだ」と。

 

「神様」は、どういうわけか白い顎髭を生やしたお爺さんで表わされることが多いですよね。もちろん「神」が、このような人間の姿をしているわけはないのですが、そこに人格的なものを見出したいたいという願望が、長老のイメージを与えるんですね。キリスト教でも、「父なる神」という言い方をして、「神」に男性格を付与しています。しかしこれは間違いなのです。間違いどころか、多大な悪影響を与えて来ました。

 

「神」は男性格ではありません。これまでの話からお判りのように、宇宙の創生において、創造主は原初に二極性を持ちました。しかしそれ以前の、創造主そのものには、まだ極性がないのです。ですから、これに人格を見出した場合には、当然、極性登場後の人格を見ることになります。そして、これもまた当然ながら、男性と女性という二極性があるのです。これは他の二極性と同じく補完機能であって、そこには優劣はありません。

 

ですから、「父なる神」は間違いであり、「父でもあり、母でもある神」が正しいのです。時に父性を大いに見せ、時に母性を見せる両極性の存在が、真実の「神」です。この「気づきの啓示板」ブログでも、突如、口調が変わることがありますが、男性口調であったり、女性口調であったと変化します。以前は気になって、後で修正していたのですが、最近はそのままにしています。

 

では、男性格と女性格とではどのような違いがあり、宇宙において、どのような補完機能を構成しているのでしょうか。解りやすいのは、やはり女性格です。それは出産というものがあるからです。このことから、女性格は、新しいものを生み出す母体、大地、海、物質、そして命を育む優しさ、温かさ、愛、感情、直感、などの性質を持っています。

 

これに対して男性格は、意志、方向づけ、論理、包容、陰で全体を支える、などの性質を持っています。この男性格と女性格のバランスが上手に取られることによって、次の生命が誕生し、引き継がれていき、なおかつ、それぞれの「魂」の霊的成長というものが図られるのです。しかし、性質を誤用してしまうと、女性は感情や物質に流されやすい面が出て、男性は闘争や暴力に傾きやすくなるのです。

 

俯瞰して言うと、男性格はこうしようという聖なる「意志」、女性格は全体を連ねる「愛」を表現していると言えましょう。創世記では、エヴァはアダムの肋骨から創られたとなっています。これは、心臓のある位置、つまりハートのチャクラを抜き出して女性が創られたということなのです。また、人間は神に似せて創られたとあるように、神に男性格と女性格があるので、地上にも男性と女性がいるのです。

 

ところで、いま言ったことを、男性とはこうあるべき、女性とはこうあるべき、とは捉えないでください。あくまで二つの極性の意味を言っただけで、陽中陰、陰中陽と言って、男性の中にも女性的部分がありますし、女性の中にも男性的な部分があります。というよりも、そうやって、一人の人間の中に、二極性のバランスが取れて行くことが、人間完成に至る道なのです。

 

さて、この二極性のバランスということが、宇宙的にはあらゆる面で大切なことなのですが、今までの地球社会は、男性性というものが前面に出過ぎていたのです。それも悪い面の男性性です。しかし深いところでは、そのピークは過ぎて、すでに衰退に向かっています。けれども、社会というのは巨大なシステムですから、巨大タンカーと同じで急には方向が変わりません。そのため、今は惰性で進み続けているのです。

 

今の、悪い男性性を有した支配層も、その変化を内心で感じており、自分たちの危機意識から、これまでの体制を何とか維持しようとして、無理に無理を重ねているので、あちこちに綻びや矛盾が噴出しているのです。強権的な発言や、マスコミの言論統制や、個人の自由や権利を奪う法改正は、みな、実は危機意識から発しているのです。強さに見える、裏の弱さです。

 

あくまで一般論ですが、男性というのは、どうしても「枠組み」発想から逃れられません。自分では気づいていないのですが、無意識に「枠組み」発想をしてしまうのです。男性は、先ず、自分の所属や立ち位置を決めてからでないと、意見を述べるということが出来ません。一般に、女性は短慮で、男性は思慮深いと言われていますが、男性は「枠組み」を考えているので、そのように見えるのです。

 

自分の立場でこれを言ってもよいだろうか? 言ったことで影響はどうなるのだろう? あの人を敵に回してしまわないだろうか? 自分のポジションがこれで危うくならないだろうか? 等々、いろんなことを考える。それが「思慮深い」ように見えるのです。男性が、名刺の肩書に拘るのも同じ理由。権力者は、そういう男性の操り方を知っていて、地位や名誉をチラつかせては、自分の陣営に引き込むのです。

 

しかし、いったん「枠組み」を得て、そのポジションに満足しますと、今度はそれを失うのが恐怖に思えてきます。自分のアイデンティティを「枠組み」に代表させてしまうので、それが無くなることは、自己の存在理由の崩壊にまで繋がってしまうのです。その行き着いた先が自殺。そこで、そうならないように、保身のためには嘘だって何だって、平気でやってしまうのです。

 

これを聞いても、女性の大半は、おそらくピンと来ないでしょう。そういう感覚が、ワケが解らないことでしょう。バッカじゃなかろうか、と思うかも知れません。そうなのです。実際、こんなバカみたいな発想で、男性社会が動いている、いや動いていたのです。男尊女卑という「枠組み」を作ったのも、男性が、このバカみたいな幼児性を糊塗するためであったに違いありません。

 

さてそこで、これからの、女性格が持つ役割です。これまでの、男性格による政治、男性格による経済、男性格による外交、男性格による報道、男性格による教育、男性格による雇用、男性格による医療、こういったシステムが、すべて限界にぶち当たっていて、最早うまく機能していません。今は惰性で動いているので、継続しているように見えますが、実際には崩壊に向かっています。

 

*女性格:女性格の性質という意味で、「女性が」という意味ではありません。

 

それは、少数者による人類支配というカルマが、溜まりに溜まって、いよいよ清算の時を迎えているのです。支配層は、支配の継続と完遂を狙っていますから、これから、大衆の家畜化、奴隷化の勢いをさらに強めて行こうとしています。しかし、この試みは成功しません。なぜかと言えば、宇宙の法則に反しているからです。たとえ一時的に成功したかに見えても、人類全体で作ったカルマは、いずれ必ず刈り取りの時を迎えます。

 

そこでみなさんにお願いしたいのは、先ず、今の社会の動きを見るときに、(悪い面の)男性格が衰退して行っている状況を、きちんと見抜いて欲しいのです。うわべの瑣末な動きには惑わされないようにしましょう。そうすれば、今の社会の変化というものが、とてもよく解ります。

 

ここで気をつけなければならないのは、駄々っ子の利かん坊が、自棄のやんぱちを起さないようにすることです。追い詰めてはいけません。彼らの霊性はまだ幼稚園児なのです。幼児性に付き合って、暴発させてしまってはダメです。では、どうすればいいのか。それこそ、女性格の「愛」で包み込み、溶かしてしまうのです。

 

これまでの人類社会は、「愛」が足りなさ過ぎました。男性格の悪い面ばかりが突出し、女性格を抑え付けて、表に出ないようにさせて来ました。このような歴史は、もう終わらせましょう。

 

『虹の学校』に縁が生じる方の95パーセントは女性です。これは「直感」が働くからで、女性は、今の時代の風を、追い風としてキャッチしているのです。しかし、男性は逆です。多くの男性が、可哀想にも、奴隷化、家畜化のシステムに組み込まれ、でもそのことに気づかずに、ますます酷くなる仕事環境、生活状況に疲弊し、本来の機能(聖なる「意志」)を発揮できなくなっています。

 

この状況を改め、バランス化して行くには、女性格の「愛」を前面に押し出して行くしかありません。女性の社会進出と言っても、男性に伍して闘っていてはダメです。それでは今までと変わりがありません。

 

そうではなくて、女性格による政治、女性格による経済、女性格による外交、女性格による報道、女性格による教育、女性格による雇用、女性格による医療に、社会システムそのものを変えて行かなければ、地球人類の次の進歩はありません。

 

みなさんは、全員が、父なる神、母なる神の、共通の子なのです。そこに例外はありません。みなさん一人ひとりが、みな違う個性を持っているのは、そこから互いに学び合うためです。違っているからこそ、「愛」の学習になるのです。でも、全員が、兄弟、姉妹であることは、忘れないでください。宇宙はワンワールドです。限りない多様性を許容し、包含するワンワールドなのです。

 

ですから地球も、「支配」によるワンワールドではなく、「愛」によるワンワールドを目指してください。それを実現させて行くことが、人類に課せられた次の課題です。今は過渡期にありますので、もうしばらくは混乱が続くでしょうが、どんな状況になっても、希望を持って、「愛」によるワンワールドの実現に貢献して行って欲しいと思います。

 

それが、これを読んでくださっている、あなたに与えられた課題でもありますから。

Q.「ちゃぶ台返し」をしてしまったことの課題とは?

前回のブログで「ちゃぶ台返し」の話題を書いたところ、ある方から、次のようなご質問をいただきました。

 

Q.最近、職場内であまりにも理不尽なことがあって、「ちゃぶ台返し」をしてしまいました。後でこれは自分への課題であったのでは思いました。そう考えたら受け入れるべきであったのか、「ちゃぶ台返し」がよかったのか分からなくなりました。課題であると気づかなかったときは、自分は正しいという思いが強かったのですが、今はモヤモヤ感が強くなっています。この感覚そのものが自分へのギフトなのでしょうか。答えは無くてもよいのでしょうか。

 

A.いつもメッセージを読んでくださり、また励ましの言葉をかけていただき、ありがとうございます。さて、ご質問ですが、「ちゃぶ台返し」をしたと書かれてあるところを見ますと、あなたが、瞬間的に感情を爆発させるような反応をしてしまったものと理解してよろしいでしょうか? そうであるとすると、ここには3つの問いが合わさって投げかけられていると思います。

 

ー分が理不尽だと思った要求を、受容すべきだったのかどうか?

⊆分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?

この事件から学ぶべき「課題」とは何か?

 

通常、人が「どうしていいか分からなくなる」という時には、そこには複数の、次元の異なる問題が同時に含まれているものです。人間というのは多次元的存在ですから、どうしてもそういうことが起きてしまうのです。上記で、,詫性的な判断を要する問題、△牢蕎霤な問題、は「魂」の世界の問題です。

 

この中で最も重要なのは、の「魂」の世界の問題です。しかしこれは、世間からすればちょっと非常識な捉え方であり、世間で問題にするのは、常に,鉢△任后このブログの熱心な読者であるあなたは、にこそ「生きる」うえでの根本的な課題があると気づいておられるのですが、そのアプローチは世間常識とはあまりにも違うために確信が持てず、,鉢△留洞舛鮗けて心が揺らいでしまっているのです。

 

アジアの都市を見ますと、交差点は大渋滞というところが多いですよね。人も、クルマも、バイクも、荷車もみんな我先にと急ぐ。人が「わけが分からなくなる」時というのは、大体こんな状態です。混乱した交差点の状況を改善しようと思ったら、どうするでしょうか? 先ず、車道と歩道と自転車道を分けて、次に信号機を設置して通過する順番をコントロールしようとするでしょう。これと同じです。

 

こんがらがった、次元の異なる複数の問題を、先ずはノートに箇条書きして整理をし、上から眺めて見ることをお勧めします。これで、混乱していた頭が、随分スッキリすると思います。さてその上で、順番に検討していきましょう。

 

先ず、,痢崋容すべきだったのかどうか?」ということですが、私の口からは「こうすべきだった」ということは申し上げられません。ただ、そのような発想はしない方がいいとは申し上げたいと思います。その時点での判断はすでに下されたのです。ですから、遡ってそれを思い悩むのではなく、今のこととして、もし訂正した方がよいと思ったら、直ちに行動を起こしてください。

 

朝令暮改が大切です。必要だと思った時には、どうか勇気を持って朝令暮改をしてください。世間では、どうも朝令暮改を「ブレた」と言っては非難し、頑固一徹や信念を重んじる傾向がありますが、「魂」の世界から見たら、それは誉められたものではありません。今の政府を見てください。一度ウソをついたら、次から次へとウソをつき続け、もうどうにならないところまで突き進んでいるでしょう。

 

頑固さゆえに、朝令暮改のタイミングを失してしまったのですね。「朝令暮改はダメ」じゃないんです。問題は、朝令暮改の方向です。それが、良い方向であるならば、人は朝令暮改を喜んで受容します。逆に悪い方向であれば、その改は責められるかも知れません。あなたは、「自分は正しいという思いが強かった」と書かれていますが、今もそうであるなら、もちろん改める必要はありません。

 

さてここで、「正しい」とは何か、という問題です。宇宙から見た場合、「正しい」とは、たった一つのことでしかありません。それは、宇宙の「理」に適っているかどうか、これだけです。ところが、人間の世界は違うのです。大多数の人間は「宇宙の真理」というものを知りません。そのため、、人間の世界では「正しい」ということに、「正義」や「倫理・道徳」を当てはめがちなのです。

 

しかし、「正義」や「倫理・道徳」の観念は、その時の社会体制によって、容易に変化するものです。その端的な例は、戦後すぐに実施された墨塗り教科書の指導です。ということは、「正義」や「倫理・道徳」といったものは、その時の為政者にいいように利用されてしまう危険性をつねに孕んでいるということです。なぜ戦争というものが起こるのかと言えば、それは大部分「正義」が原因です。

 

では、宇宙から見て「正しい」とはどういうことでしょうか? 何度も言うように、「宇宙の真理」は、「全部が一つ、一つが全部」たったこれだけです。ここからすべてが派生しています。ですから、大本にある「真理」をじっと見つめて考えれば、あらゆることのセオリーが、自ずと導き出されていきます。ちなみに、もし何かに迷った時には、この原点からじっくりと考えていけば、すべてに答えが見出せます。

 

やってみましょう。「全部が一つ」なのですから、自分と他者は一つです。自分と神も一つです。自分が神なら、あの人も、この人もみな神です。「全部が一つ」なのですから、自分が為したことは、宇宙に為したことになり、あの人に為したことは自分に為したことと同じなのです。するとどうなるでしょうか? 誰かを傷つけることは、自分を傷つけることと同じなのです。 

 

このようにして、自分が為したことは自分に還ります。これが、いわゆる「カルマの法則」です。自分が蒔いた種は、いつか必ず自分が刈り取ることになるのです。これに例外はありません。結果がすぐには表れないために、このことに、きっと疑問を持たれるとは思いますが、長い目でみれば、必ず帳尻が合うようになっています。

 

ですから、愛を与えれば愛が還り、憎悪を与えれば憎悪が還り、他人から何かを奪えば、次には自分が奪われるのです。人類全体でも同じことです。地球を痛めつければ、次には地球から痛めつけられるのです。でもこれを「罰」とは捉えないでください。天に「罰」はありません。「罪」もありません。あるのは冷徹な法則だけです。自分が為したことは自分に還る。ただそれだけです。

 

ですから、天から見て「正しい」こととは何かと言うと、この「全部が一つ」というセオリーをちゃんと理解して行動をしているのか、ということに尽きるのです。理解しているのであれば、自ずと行動は、利他、奉仕、無条件の愛へと向かっていきます。ですから、相談者の方も、この点から、自分が下した判断、とった行動が「理」に適っていたかを見てください。

 

そして、「理」に適っていたのであれば、たとえそれを主張することで、自分の立場が悪くなったりしたとしても、それを貫き通してください。理由は、前に書いた通りです。

 

次に、△痢崋分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?」という点です。「怒り」は自分を傷つけます。それは心理的な面だけではなく、身体の細胞にもダメージを与えます。ですから怒らないに越したことはありません。しかし、だからといって、「怒り」を抑えつけようとはなさらないでください。これは「怒り」を出すことより、さらに悪いダメージを与えます。

 

前段に書いた「全部が一つ」という感覚が、身体に沁み通ってくれば、次第に「怒り」という感情そのものが無くなっていきます。ですからそれまでは、上手な「怒り」の表出の仕方を学んでください。「ちゃぶ台返し」も、コミュニケーションの表現の一つです。それによって、周囲の人に新たな気づきを与えられるかも知れません。

 

感情のコントロールで大事なことは、これまでにも何度も書いて来ましたが、二次災害に発展させないということです。パッと感情を出して、それで終わりにしてすぐに忘れる。これがコツです。ちょっとやり過ぎたなと思ったら、すぐに謝るなどして終わりにしてしまう。自分の感情の動きと、そうさせた原因というものを一緒くたにせずに、区別して考えるクセをつけてください。

 

さて、最後の「この事件から学ぶべき『課題』とは何か?」という点です。冒頭にも書いたように、実はこれがいちばん重要なことです。もし失礼があればお許しいただきたいのですが、相談者の方は、もしかすると「課題」というものを誤解されているのではないでしょうか? 「ちゃぶ台返し」をしなければいけないような事件があった。その事件を「課題」と捉えてはいないでしょうか?

 

そうではないのです。「魂」の世界から見た場合の「課題」とは、「事件」にあるのではありません。人は、いつも「事件」を問題にします。「事件」の中身について、あれこれと憶測したり、解釈しようとしたりして時間を浪費しています。しかし、極端な話「事件」などはどうでもよいのです。怒られることを承知でいえば、どんな大事件であろうと、全部が大したことではないのです。

 

なぜそんなことが言えるのかと言いますと、答えは簡単です。「事件」はあの世へは持っていけないからです。あの世へ持って行ける(行かされる)のは、あなたがした、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解、これらだけなのです。すべての「事件」は、これらを味わうための、いわばきっかけに過ぎないのです。

 

その証拠をお示ししましょう。あなたは、ご自分が過去世で体験した「事件」を覚えているでしょうか? えっ、過去世そのものを覚えてないですって? いやいや、そうじゃないんですよ。あなたの性格、あなたの心グセ、あなたのこだわり、あなたの容貌、あなたの体躯、あなたの境遇、これらは全部、あなたが過去世で体験して覚えて来たものの結果なんですよ。だから、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、全員の個性が違うのです。

 

いいですか、もう一度言いますよ。あなたは「事件」をきっかけとして、そこから、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解等を徐々に深め、今世で掴みきれなかったものを来世への課題(カルマ)として残すのです。そして、その課題克服のために、「事件」のシナリオを設定して、また物質世界に誕生して来る。

 

このようにして、「事件」のきっかけを通じて、その時々の体験を存分に味わい、自分のものとして行く。これが、霊的成長を図るということなのです。そしてこれこそが、あなたが、この世に誕生して来た目的なのです。ですから、「課題」とはそこです。「事件」ではありません。「事件」に接した際の、自分のリアクションの中に「課題」が隠れているのです。

 

ですから、そこにこそ着目してください。「事件」はすべて、天から贈られたギフトです。自分が自分に贈ったといってもいいです。なぜなら、もしそれが贈られなければ、霊性向上のチャンスには出会えないからです。さてその時に、自分が同じパターンのリアクションを繰り返していないかを見てください。感情の動かし方、口の利き方、態度、処理方法等です。そこにあなたのカルマが現れています。これは、そのことに本人が気づくまで、何度も贈られます。

 

これまでを、じっくり振り返って見てください。お中元お歳暮の恒例ギフトにしてはいなかったでしょうか。もうそろそろ、受け取り拒否にしてはいかがでしょうか。これを読んでくださっているみなさんは、今日、たぶん多くの謎が解けたと思います。そのきっかけを与えてくださったのは、この質問者の方です。そのギフトに感謝して、自分の生をしっかりと全うしていきましょう。

高い波動に生きる

インターネット社会になって変わったなぁと思うのは、他者を誹謗中傷するハードルが著しく下がったこと。いつでもどこでも、スマホを使って、誰もが手軽に、無料で、見知らぬ人を、匿名で罵ることが可能という、実に便利な世の中になりました。こうしたツールを待ち望んでいた人々にとっては、まさに願ったり叶ったり。我が世の春の到来でしょう。

 

私がヤング(死語?)の頃は、新聞にも雑誌にも、一応「読者投稿欄」なるものがあったのですが、そこで採用されるのは物凄い難関でした。編集部の人が、何百、何千と来る投書の中から一つ二つを選ぶわけですから、当然ながら、的外れなものや、お粗末なもの、余りにもお下劣なものは、初期段階でオミットされていたわけです。

 

投稿する側も、切手代と手間がもったいないから、そんな箸にも棒にもかからないような投稿は、そもそもしませんでした。採用されるための知恵を絞って、技を磨くというか、互いに切磋琢磨するような雰囲気がありましたね。それがインターネット時代になって、一挙に、検閲なしの民主化が(別の言葉で、野放し状態とも言いますがね)達成されたのであります。やったぁ、バンザーイ!

 

と冗談はこれくらいにして、今の世の中が醸し出している、こうしたギスギスした雰囲気にウンザリしておられる方もきっと多いことでしょう。本当に疲れる社会ですよねぇ。これじゃあ、気が変にならない方が変です。

 

モラルハザード、倫理・道徳の欠如を指摘され、嘆く方もおられます。現象面だけを見れば、確かにそうなんでしょうけれども、倫理・道徳のタガを、また以前のように嵌めて何とかしようと思っても、今さらどうにもなりません。世の中の仕組みそのものが大きく変わってしまったんですから。それに、倫理・道徳などそもそも必要ないもの。本質はそこじゃないのです。

 

仕組みの変化の中で、今まで自己抑制できていたものが、大っぴらに外に飛び出した。まるでオモチャ箱をひっくり返したみたいに。そこに一切のタブーが無くなった。それは、倫理・道徳のタガを嵌めなければコントロールできないような性質を、人間がそもそも持っているということ。そして、技術がいくら進歩しようとも、その部分に関しての進歩はあまりないということを示しています。

 

気に食わない奴はやっつけたい。癪に障る奴にはひとこと言ってやりたい。という思いは、誰しもが持っているものです。しかしそれを持っていても、またそういう思いを抱いたとしても、今まではそれを表現する方法が無かった。せいぜい夕陽に向かって「バカヤロー!」と叫ぶくらいが関の山だった。それがテクノロジーの進歩で、思ったら即、ワン、ツーでパッと反応して、誰も憚らなくなったということです。Like、Dislike ボタンなどその最たるもの。

 

ひと呼吸置くということがない。ある意味、感情の動きに忠実。でもそれは、モラルの欠如なのではなくて、「想像力」の欠如から来ているのです。こんなことを言ったら相手がどう思うだろうかとか、この言葉を使ったら相手の心を傷つけてしまうのではないかとか、今これを言ったら社会的にネガティブな影響を与えてしまうのではないか、といった「想像力」が、現代人には殆どない。

 

殆どないまま、大統領から、首相から、市長から、庶民まで、みんなワン、ツーパンチを反射的に繰り出している。そして貰った方も、すかさずワン、ツーパンチで応酬する。さらには、双方に味方して応援団旗を振る人間までもが加わり、場外乱闘戦が展開される。これが、今の社会をもの凄く不安定にさせ、ギスギスした雰囲気で空を覆いつくし、人々の心を蝕む原因になっているのです。

 

そのことに、人々は殆ど気づいていません。気づいていないからこそ、そんなことが平気で出来るのだとも言える。しかしその隠れた影響は、みなさんが考える以上に、みなさんの心身の奥深くにまで及んでいるのですよ。なぜなら、「思い」とは振動するエネルギー体であり、それ自体が Force(力)を有するものだからです。振動するエネルギーは、その「波」としての性質を、周辺のものにあまねく及ぼしているのです。

 

物理的世界に作用を及ぼせる力は、物理的な力ものだけだと思っているでしょう。でもそれは違う。行動の前には、それに先行して、必ず「こうしよう」という「思い」があります。類は友を呼ぶで、似通った「思い」が一箇所に集まった際には、そこに非常に大きなエネルギーが生じるのです。よく言う「革命のエネルギー」とはそれです。カール・ユングは、その見えない力を「集合的無意識」と呼びました。

 

宇宙のすべては、つまるところ、振動するエネルギーです。この振動するエネルギー(略して「波動」)は、超微細な波長を持つものから、超巨大な波長を持つものまでが、連続的な変化をしながら、この大宇宙が構成されているのです。地上に暮らす私たち人間が、五感によって知覚できるのは、そのうちの極く極く狭い帯域に過ぎません。

 

*振動するエネルギー:現代物理学では、それを「振動するひも(Super Strings)」と仮説・定義づけています。

 

例えば、あなたが使っているスマホ。こんな箱でどうして動画を見たりすることが出来るのかと言えば、眼に見えない電波が空中を飛び交い、それをスマホが受信しているからです。この電波は、五感では知覚できません。一方、紫外線は同じく眼で見ることは出来ませんが、日焼け現象によって皮膚は知覚していますし、赤外線も熱として知覚できる。放射能(線)も眼には見えませんが、細胞を破壊します。

 

このように、五感で知覚できるかできないかという境目にある波動もある。人間の「思い」というものも、実はこの境目に存在しています。五感では知覚できなくても、第六感で知覚できるし、みなさんも通常それを行っているのです。ただ、それについてのセオリーを習ったことがありませんし、第六感を強化する訓練もしていませんし、普段意識することなく生活しているのです。

 

*注:同じ帯域という意味ではなく、象徴的に「境目」にあるという意味。

 

しかしみなさんは、普段から、確実にそれを知覚しています。その証拠となる言葉が「なんとなく」です。「なんとなく」“何か”を感じた瞬間、あなたは、眼に見えない「想念」を知覚しています。知人の「想念」がテレパシーとして入って来たという経験をお持ちの方も、たくさんおられるでしょう。入って来た瞬間、「あら、そうねン」と分かる。なーんちゃって。

 

とにかく分かる。えっ、「私は分からない」ですって? それは、チャンネルを開いていないから。チューニングをそこにフォーカスしていないから。何かに集中している時には、周囲の物音が全く聞こえなくなっているでしょう? また、雑踏の中で、はぐれた家族を見つけようとした時には、あなたは聞き慣れた家族の声に一生懸命に耳を澄まそうとするでしょう? それと同じこと。

 

このようにして、あなたは、周囲に溢れる多様な「想念」というものを、特別意識することなく、常時受け取っているのです。さてその際に気をつけることは、精細ないわゆる高い波動を受け取った時には、心は晴れやかで、穏やかで、明るいものとなり、逆に粗野で低い波動を受け取った時には、心はザワザワとして落ち着かず、不安や怒りが胸の内に沸き起こって来るということです。

 

この違いは、実験してみればすぐに解ります。敏感な人は、すでにその違いに、体験的に気がついているはずです。

では何が、波動の「高い / 低い」を決めているのでしょうか?

それは、「融合」と「分離」という、背反した意識の程度差によるのです。

 

この「融合 / 分離」意識は、あなたという「魂」の成立に起因しています。あなたという「魂」は、宇宙の法則を経験するために、全体から別れて、個別化しました。これが前回書いた「孤独」の意味です。なぜそんなことをするかと言えば、全体の中に留まっている限りは「全体(=融合)」しか知覚できないからです。そのために、あえて個別化して、自分だけの体験をすることを望んだのです。

 

思春期を迎えて、どうしても家を出たくなったハイティーンに例えれば解りやすいでしょうか。こうして、あなたは自由を獲得します。この自由は、責任と同義語で、地上世界であなたがする経験は、確実にあなたに新しい意識の拡張をもたらします。この時、拡張の方向性には、大きく言って二方向があるのです。それが、「融合 / 分離」という二律背反です。

 

この二つの背反する意識は、もともと一つだった宇宙意識から、あなたという「魂」が個別化したことによって生じました。思春期を迎えて、あなたは家を出たい。自分なりの経験をしたい。でも経験すればするほど、我が家の有り難み、あのとき親から言われた一言の意味が身に沁みるというわけです。

 

ですから、この二つは互いに不可欠なものです。「融合」の世界だけでは、「融合」の有り難みが解らない。「分離」があるからこそ、「融合」の大切さが身に沁みて解るのです。

 

この二極化は、宇宙成立のまさに根本で、「陽 / 陰」として示されたり、「他者愛 / 自己愛」の区別として語られたり、一部の宗教においては「天使 / 悪魔」の対立、戦争として語られたりして来ました。しかしこれを、対立と捉えてはなりません。ましてや戦争の正当化に使うなどもっての外です。どちらもが有って、宇宙が成り立っているのです。宇宙を見れば自明のように、最終的には融和です。

 

さてこのようにして、地上にある全ての「魂」は、「融合」と「分離」という背反する意識の間をあっちにこっちにと揺れ動きながら、体験学習を進めて行きます。この時、「融合」を説くものは、あなたに高い波動を与えますが、逆に「分離」を説くものは、あなたに低い波動をもたらすのです。これによって、あなたの心はザラつき、不安になったり、怒りを抱いたり、攻撃的になったりします。

 

今の世界は、その「思い」が、際限なく膨らみ、四方八方に飛び交っている状態です。でもそれは、ハッピーなことでしょうか? あなたの本質が望んでいることでしょうか? 今これを読んで下さっている方は、「違う!」と力強く言ってくれることを確信しています。でも残念ながら、世の中の趨勢は、そうではありませんね。

 

国家の最高権力者は「対話より圧力」を説き「武器」をチラつかせて脅し、グローバル企業は自分たちだけの「利潤」を追求し、金融に携わる人は「投資とリターン」で煽り、官僚は「自己保身と出世」のために本分を忘れ、教育者は「優劣」を推奨し、マスコミは「虚偽報道と弱い者イジメ」を平気でする。これらは全部、「分離」意識を基にし、かつこれを賞賛するものです。

 

なぜ、「分離」意識を賞賛するのでしょうか?

 

第一には、それが正しいと信じているからです。彼らの固い「信念」です。第二には、その方が世間の耳目をより集めるからです。融和と安心を説いても、世間からは見向きもされません。闘争と不安の喚起が常に人々の注目を集めるのです。第三には、それらによって、自分自身が、「分離」意識の構造の上位に立てるからです。それは、正しいと信じる、自分の「信念」の実現に他なりません。

 

時間があれば、政治家や、政治評論家や、有識者と言われる人たちの言動を観察してみてください。多くの人が、自分の立ち位置(信念と派閥)を先ず決めた上で、それと対立する考えを持つ人やグループを、バカだチョンだと言ってこき下ろしています。そして、自分こそ、自分たちこそいちばん頭がいいのだと主張して憚らない。この行動原理は、宗教派閥とそっくり同じです。

 

そこには、社会や人々を「分離」意識の視点で眺めて、自分が上に立ちたいという、潜在意識の奥深くに刷り込まれた、強烈なエゴがあるのです。しかしハッキリ言っておきます。そのようにして頂点に立ったとしても、その「思い」は、必ずや自分自身を傷つけます。自分が蒔いた種は自分で刈る。それが「宇宙の法則」というものだから。その「思い」の、最大級の〈信者〉は自分自身だから。

 

それでもそうしたければ、続けるがよい。

 

悪代官がいなければ、時代劇も成り立たない。

 

結局のところ、彼らは命を張って、そういう役割を演じてくれているのです。その奉仕を無駄にしないようにしなければいけませんね。いま言った、彼らの言動の背後にあるものを見抜くのです。そして、安易に同調しないようにして、自分にとっての幸福は何か、また人類にとっての幸福は何か、地球にとっての幸福は何かを、自分自身に問い質すきっかけとしてください。

 

あなたの周囲は、低い波動を発するもので溢れ返っています。人間はもちろんのこと、人々が発する言葉や、表情、その映像、文章、メール、広告、エリア、スポット、物なども、みんな固有の波動を出しています。そこに興味を持って、スッと引き寄せられ、一瞬、我を忘れた時、あなたの波動は、そこで発しているものと瞬時に同調しています。

 

その時、それが低いものであった場合には、あなたの波動も一気に下がります。一度下げてしまった波動を再び高めるのは、下げる時よりもずっとずっと難しい。低い波動に同調するのは、自分の波動をただ下げるだけでいいのですが、高い波動に合わせるためには、自分の意識を、よりピュアで澄んだ状態に引き上げなくてはならないためです。

 

なぜならば、高い波動というものは、精緻で、精妙であるために、通常の意識状態ではなかなか知覚しにくいのです。ですから、いま説明したこの原理をよく理解して、日常生活での適応を心がけてください。よくよく考えれば、世の中に溢れ返った情報は、所詮どうでもいいことばかりだと気づくことでしょう。

 

いちばんいいのは、あなた自身が、いつも高い波動を出すことを心がけることです。心の中に微笑みを絶やさず、正直に、親切に、誠実に生きなさい。自分と他者を比べず、他者に為したことは自分に為したことと同じである、という「宇宙の法則」をつねに頭の隅に置いて人と接しなさい。そして、楽しく、前向きに、喜びを持ってできる表現活動に邁進しなさい。あなたは、できる!

 

そうすれば、低い波動は、近寄って来れなくなります。あなたが高い波動を出していれば、あなたの周囲には、自然と、同じような高い波動を持つ人たちが集まってきます。家族や職場などの固定した関係でも、だんだんと仲がほぐれていきます。そうすれば、周囲のみんなが、正直で、誠実で、親切な人たちばかりですから、あなたの毎日から、辛さがどんどん遠ざかっていきます。

 

よいですか? 先ず、あなたが変わるのですよ。不幸というのは、周囲の環境のせいなのではありません。あなたがそういうものを引き寄せているのです。それが解れば、幸福への第一歩が、今日から直ちに始まります。だから、心の中で、こう唱えてみてください。「ああ、自分は幸せだ。なんて幸せなんだろう」ほら、もう第一歩が始まったよ。

無智ということ

物欲、支配欲、名誉欲、不親切、物惜しみ、執着、狡猾、猜疑心、怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、無智、不節制、自暴自棄、‥‥。程度の差こそあれ、人間には誰しも、こうしたいわゆる悪感情や、悪い心グセ、性格というものが備わっています。若いころの自分にとっては、これらの克服が大テーマで、いろんなことを試しましたし、苦しみもしました。そしてそのチャレンジは今も続いています。

 

でも最近は、世間の話題として、そういうことをあまり聞きませんねぇ。もはや「煩悩」解禁になったと言いますか、むしろ剥き出しの「煩悩」を競い合うのが当たり前の世の中になってしまったなぁと感じています。「煩悩」の克服ということが、もはや人生上のテーマでは無くなったのでしょう。もしかしたら、「煩悩」という言葉自体、すでに死語になってしまったのかも知れません。

 

さて、人間にこうした様々なネガティブな感情や性格がある中で、古来より、いちばんの問題は「無智」なのだとされて来ました。「無智」こそが悪の大親分であって、そこにたくさんの子分が従っているのというのです。釈迦もこれと全く同じことを言っていて、仏教では「無明」と言うのですが、明るくないこと、光が差さないことをもって「無智」という状態を示したのです。

 

ではこの「無智」とは、何を意味しているのでしょうか? いったい何を知らないというのでしょうか? そしてそれが、どうして全ての悪の親玉だと言うのでしょうか?

 

このブログでは、これまでにも「無智」という言葉や「智慧」という言葉を何度か使って来ました。目ざとい方は、私が「知」ではなく「智」という漢字を使っていることにお気づきだと思います。が、これは意識してそうしていたのです。「智」という漢字は、「知」の下に「日」が付いています。ですから「日」の基に「知る」ということであり、この「智」は、いわゆる「知識」ということではないのです。

 

*「智」という漢字の部首については「日」(ひへん)に分類している辞書の他に、「日」(いわく・ひらび)に分類している辞書もあります。「ひ」と「いわく」は、今日の活字では同じ形ですが、本来は別字です。ここでは、あえて「日」(ひへん)説をとっています。

 

知識人と言われる方たちの中には、知識を持たない人々を小バカにする傾向がありますが、彼らとて「智慧」を有しているとは限りません。「知識」と「智慧」とは別物です。「知識」とは相対的なものであって、自分は「知識」があると言ったとしても、その人が何もかも知っているわけではありません。例えば歴史を考えてみてください。歴史の全てを知ることは不可能です。

 

「日」を基礎にして「知る」ということ、あるいは「日」を「知る」ということが、どういう意味なのか? 「日」の象形文字は「⦿」です。これは「◯」の中に「・」を納めた形で、「宇宙」を表すシンボルの一つになっています。「宇宙」を表すシンボルにはたくさんあって、◯、⦿、+、T、⊕、☯、✡、卍、などは、みなちょっとずつ意味を違えながら、それぞれが「宇宙」を表しています。

 

その中で「⦿」がどういう意味を持っているかと言いますと、中心の「・」が宇宙の始まり、周囲の「◯」が現在の宇宙全体を表していて、一つのものから宇宙が誕生したというシンボルになっているのです。つまり「全一(全部が一つ、一つが全部)」というものをシンボライズしているのです。ですから、「全一」という真理を知っているよということが、この「智」の意味なのです。

 

そこで、釈迦の言った「無明」という言葉と結びついて来ます。宇宙のバイブレーションは、しばしば「光」に例えられますから、その「光」を知らないことが「無明」、すなわち「無智」というわけです。つまり「無智」というのは、「宇宙の法則」を知らない「無智」を意味しているのです。そしてこれは根本ですから、よって最大の悪とされたのです。

 

話を戻して、人間のあらゆる煩悩の大元は実に「無智」にあるのだと。言い換えれば、あらゆる不幸の原因は「無智」なればこそなんだと、歴史上の多くのメッセンジャーが、みな同じように指摘して来たのに、どうして人類は、今もって「無智」のままなのでしょうか? これだけ知識の溢れた世界に、真の「理解」というものがほとんどない。信じがたいことですが、それが現実です。

 

なぜ「理解」がないのかと言えば、一つには宗教が邪魔をして来たということがあります。各宗教が、自分たちが創案した教義を信者に信じ込ませて来たために、宇宙というものへの正しい理解が進まなかったのです。

 

そしてもう一つは、「知」と「智」を取り違えて来たということ。「無知」が最大の問題だと言われると、みんな、じゃあ知らなきゃな、学習しなくちゃなと思うでしょう。でもそうじゃないのです。この「無智」とは、知識を増やせということではないのです。

 

知識は、なるほど思索を深めるきっかけや道具になってくれます。ですが使い方を誤ると危険ですらあります。なぜならば、知識は「信念」を生むからです。歴史上の大きな過ちは、暴君によってではなく、むしろ知識人によってもたらされて来ました。例えば核兵器です。科学の知識がなければ、人類は核兵器を生み出すことはできませんでした。

 

「知性はあまりにも頻繁に我々を騙す。」

「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」ジャン=ジャック・ルソー

 

問題は知識なのではありません。「智」を知らないことにある。もっと正確に言えば、「智」があることに、気づいていないことにある。あなたには、実は最初から「智」があるのです。どこに? ソウル(魂)に。

 

あなたは多次元的存在で、この物質世界だけではなく、第四霊性密度にも、第五霊性密度にも、第六霊性密度にも同時に存在しています。それを、今は意識できないかも知れませんが、意識できようとできまいと、多次元的存在であることは間違いありません。なぜって、そのように創られたのですから。

 

ですから、「無智」から脱するためには、「智」を求める必要はなにもなく、ただ思い出すだけでよかったのです。教科書も先生も、全く必要がなかったのです。ではどうやって思い出せばいいのでしょう? 「知性」に騙されるのを、もういい加減に止めればいい。そうすれば、入れ替わりに、あなたの中にある「智」が浮かび上がって来ます。

 

現代人の不幸は「知識」が無いことにあるのではありません。むしろ逆で、外側から、まるで津波のように、後から後から押し寄せてくる来る「知識」という濁流に、完全に飲み込まれてしまっていることにあるのです。「知識」が有り過ぎて、それに振り回され、かえって自分を見失っている。でも本当に大切なものは「知識」ではありません。

 

それよりも大事なものは、「普遍的な智」の基盤に立って生きることです。それこそ真のあなた。あなたがあなたたる由縁の本質です。ですから、外側から来るものに対しては、勇気をもって、「そんなもの関係ない」「わたしはわたし」と宣言するのです。そして、ご自分の直感やインスピレーションを信じるのです。

 

世の中が激動すればするほど、喧(かまびす)しくあれば喧しくあるほど、あなたはあなたであることを保ってください。そうすれば、幻の中に生きて、右往左往している人たちのことがハッキリと見えて来るでしょう。

 

今日、ここで述べたことをテーマに、できれば瞑想を行ってください。瞑想は、外から来る情報と内なる情報とを切り替えるための最高のツールです。それが、あなたに「智」への扉を開かせてくれるようになるでしょう。

大きな安心の上に立って、小さな心配の日々を生きる

人間、死ぬ気になれば何でもできる。これは本当です。この言葉は、何か大きなことにチャレンジをする際の常套句となっていますが、人間にとって、覚悟の最たるものとは「死ぬ気」であるということを端的に表しています。

 

誰もが日常的に抱くちょっとした不安や心配事。失うこと、傷つくこと、病気になること、奪われること、犯されること、不当に扱われること、間違うこと、罰せられること、etc.。これらのちょっとした不安が、どうして生じているかを「なぜ、なぜ?」と追求していくと、最後は必ず「もしかしたら、死ぬかもしれない」というところに落ち着きます。

 

嘘だと思ったら、試してみてください。あなたがいま不安に思っていること、その原因は何かと自分に問うて、考えた答えを紙に書きます。そうしたら、いま紙に書いた事柄は、どのような原因から生じてるのかを、また自分に問いかけてみてください。こうして、この作業を、梯子を掛けるように下へ下へと掘り下げていきます。

 

今のプロジェクトは、うまくいかないかも知れない。

    ↓

もし失敗したら、激しく叱責されるだろう。

    ↓

出世の道が閉ざされるだろうし、居場所もなくなるかも知れない。

    ↓

クビになったら、生活に困る。

    ↓

自分の年齢では再就職も難しい。

    ↓

家族の生活が維持できなくなる。

    ↓

ひょっとしてホームレスになってしまうかも。

    ↓

もう生きていけない。

    ↓

自分は、死んでしまうかも。

 

すると、およそどんなことでも、最後の最後は「自分が死ぬかもしれない」というところに辿り着くはずです。この作業を通じて解ることは、人間が抱く恐怖というものは、結局、みな「死」から出発しているということです。

 

では、なぜ「死」が恐怖の大元なのでしょうか? それは、「死」のさらに先にあると思われる原因が、「死」という言葉の裏側を支配しているからです。それが何か、分かりますか? 「消滅」です。何もかもが「消滅」して無に帰してしまうのではないか。これが、人間を支配している「恐怖」というものの根本です。そして、これは全くの幻想なのです。

 

人間は、「この世」に誕生した瞬間から、「この世」で言うところの「死」に向かって、直ちに走り始めます。ところが、人間はその事実を直視しようとはしません。赤ちゃんが生まれると、みんなが「おめでとう」と言って祝福する一方、死期が真近に迫り、いよいよとなって臨終を迎える時には、沈痛な表情で「ご愁傷様です」と言うのです。

 

誕生→成長→成熟→死というサイクルを、まるで植物の一生と同じように捉えていて、だからこそ、血縁の(自分の想いを託したDNAを持つ)子孫(次の種)を残すことに非常にこだわるのです。そして、成長することについては大いに喜び、死を迎えることについてはこれを忌み嫌い、出来るだけ触れないようにして生活しているのです。

 

だからこそ、「生きる意味が解らない」などと言う言葉が出るのです。直視しようとせずに逃げてばかりいるのですから、解るはずがないではありませんか? そして、矛盾に満ち満ちた行動を取っています。

 

人は、急激にもたらされる「死」はひどく怖れる一方、ゆっくりと進む「自殺」は自ら好んで選択しています。過食、喫煙、過労、過度の飲酒、薬物の摂取、夜ふかし、体を動かさない、等々。肉体は借り物という意識がないので、労わらないし、きちんとメンテナンスをしようという気もあまりありません。

 

これらはみな、「生命」というものを、ただ表面的にしか捉えていないために起きていることです。たとえ、地上で「死」と言われる現象が、いま直ちにあなたに起きようとも、宇宙から、あなたが「消滅」することは絶対にありません。それは、「生命」というものを、じっくり観察していれば自ずと解ることです。

 

春先に、一粒の種から芽が顔を出し、夏に大きく成長し、そして秋に豊かな実をつける。やがて冬枯れし、跡形も無くなったようになってしまう。でも、その植物は「消滅」したのではありません。その植物を構成していた元素は、一部は気体となり、一部は土に帰ります。そしてまた、他の植物や動物のために供されるのです。あなたの肉体を構成していた元素も、これとまったく一緒です。

 

「誕生」や「死」は、そうした変化のサイクルの、ある局面に、そうした名前を付けただけのものであって、自然界を冷静に観察すれば、トータルで失われるものは何もないのです。ただ「変化」のみがあるのです。これこそが「生命」の実相であり、「生命」とは「宇宙の変化」と同義語なのです。ですから、あなたの「生命」も、失われることは絶対にありません。

 

しかし、そう言ったとしても、あなたの中には釈然としないものが残るでしょう。図らずも、それは、「あなたという存在は何か?」という命題につながっています。あなたという存在は何か? あなたをあなた足らしめているものは「意識」です。“ Cogito, ergo sum ” 我思う、ゆえに我あり。あなたは、あなたという「意識」を持つ存在です。

 

さて、この「意識」が、どこから生じているかが問題です。現代科学の常識では、「脳」が「意識」を生じさせていると説明します。しかしこれは、これまでも繰り返し言ってきたように、完全な誤りです。もしそうだとして、ではその「脳」を動かしているものは何なのでしょうか? 「脳」が自発的に動いて、その人の「意識」を創り出すとでも言うのでしょうか?

 

そうだとすれば、その人の「脳」とは何なのでしょうか? 「意識」のあたかも支配者として振る舞う「脳」は、いったい何ものであって、何のためにそのようなことをするのでしょうか? まったく馬鹿げた仮説です。このような矛盾だらけの仮説を「科学」だと言って信じ込み、反対に真実である「魂」の実在を否定して、右往左往しているのが今の文明社会なのです。

 

あなたの「意識」は、物質世界という一つの次元(霊性密度)にだけ存在しているのではありません。あなたの「意識」は、階層化した多次元にまたがって、今のこの瞬間も、同時に存在しているのです。ところが、肉体を纏っている時には、五感というセンサーの刺激に強く引っ張られているために、他の次元で働いている「意識」があまり意識化されていないのです。

 

でも、皆無ではありません。パッとあかりが灯るようにやってくる、直感やインスピレーション。なんだか知らないけれども沸き上がるイヤーな気分。以前にも出会ったことがあるような懐かしい気持ち。「そっちじゃないよ」と危険を知らせる空耳。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに胸に沸き上がる感動。これらはみな、あなたの別の次元にある「意識」です。

 

あなたが、地上で言うところの「死」を迎えると、肉体を構成していた元素はバラバラになり、それまで物質世界を捉えるためにあった五感というセンサーがなくなります。そうなって初めて、あなたは、ご自分が本来の多次元的存在であることにハッキリと気がつくのです。この存在が、いわゆる「魂」です。つまり「本当のあなた」です。

 

肉体というのは、ある一つの時代の「生」を生き抜くドレスに過ぎず、次に生まれ変わる時には、また素材を集めて染色し(DNA)、糸を織り上げて(細胞分裂)、新しいドレスに着替えるのです。この間、母親は、自分の胎内に生じるものをコントロールすることは出来ません。それでも、赤ちゃんが創造され、誕生するのです。その「魂」自身の意思によって。

 

いま言ったこと(魂の永遠)を、私はここで証明しようとは思いません。前世の記憶を持つ人や、臨死体験の事例をいくら述べたところで、「そんなもの信じない」という人はどうしようもありません。そもそも、限定された世界から、多次元的世界の全容を知ることは不可能です。ですから、いつも通りこう申し上げるしかありません。解る人には解ると。解る人というのは、「信じている」のではないのです。知っているのです。

 

さて、このように、あなたの肉体を構成していた元素が、宇宙から「消滅」することはあり得ず、また、あなたという「意識的存在」が「消滅」することも、絶対にありません。それは、論理的に考えても解るはずです。

 

全智、全能、全存在は、宇宙(=神)というものを、それぞれ別の視点から眺めたものです。これらは一つのもので、それゆえ三位一体と呼ばれます。全智とはすべての知恵や知識。全能とはすべてのエネルギーであり力(Force)。全存在とは、文字通りあらゆるものです。この三位一体は、増えることも減ることもないし、ただ変化だけがあるのです。

 

なぜ変化し続けるのか? それ自身が、体験して成長するためです。そして、あなた方はそのための学徒として宇宙に放たれました。あなた方は、全員が、宇宙を構成する一員なのです。あなたの意識は「全智」の一部であり、あなたの活動エネルギーは「全能」の一部であり、あなたの身体は「全存在」の一部なのです。それがどういうことか、お解りですか?

 

宇宙には始まりも終わりもなく、ただ変化があるのみ(=無常)です。一見、誕生や死として見える局面も、この変化のサイクルの中の一つの場面に過ぎず、あなたが「消滅」することは、絶対にないのです。あり得ません。この大いなる安心の上に立ちなさい。いや、すでに立っていることに気づきなさい。「最初から救われている」という意味は、実にこれなのです。

 

何を不安に駆られているのですか?

何を怖れているのですか?

世間が繰り出す脅しに、何をそんなにビクビクしているのですか?

 

たとえ世界が破滅しようとも、あなたが消滅することはありません。あなたは、わたしの一部なのですよ。そのわたしが、どうして、あなたに恐怖を与えますか? 何のためにそんなことをしますか? 右手で左手を叩くとでも言うのですか? よく考えてみてください。

 

今の人間たちを見ていると、わたしですらも悲しくなってしまいます。なんのために地上に生を受けたのですか? あなたの役目を果たしなさい。宇宙の法則に則った生き方をしなさい。自分を愛し、そしてすべての人々を愛しなさい。もうグズグズしている暇はありません。あなたが世界を変えるのです。

 

いつまでもフォロワーであり続けていてはいけません。

誰かに期待したら、その誰かに裏切られます。

あなたはあなた。

わたしがそのように創ったのです。そのことを忘れたのですか?

 

繰り返し言います。

あなたの役目を果たしなさい。

そして今の混乱した世界を、愛の世界に変えなさい。

あなたをいつも見守り、応援していますから。

自分探し、あなたという存在

自分は何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか?

 

日常の喧騒から離れてひとり静かにしている時、ふとそのような思いが沸き起こって来た経験というものが、誰しもあると思うのです。そして大抵は結論を見出せぬまま「余計なことは考えないでおこう」とその思いを打ち消し、また日常の喧騒の中に戻っていく。なぜかと言えば、そんなことを相談できそうな人が、自分の周囲にいそうもないから。言い換えれば、誰しもが分からない。

 

あなたがもし、それを堂々と言葉に出して、周囲の誰彼となくぶつけたりしたら、下手をすると「この人、鬱病かしら」と思われかねない。あなたという「今の存在」の成立に手を貸した親に聞いたとしても、たぶん満足な答えは得られない。学校の先生に訊いてもおそらくは知らない。宗教家に尋ねたら、自宗のマニュアルに載っている見解を、ただ棒読みするだけでしょう。

 

でもね、あなたが「自分は何者なのか」と考えることは、決して無駄なことではないんですよ。それこそが大いなる旅の出発点なんです。この壮大な「宇宙」というものを知るための。そして、「宇宙」と「自分」との関係を知るための。

 

フランスの画家、ポール・ゴーギャンの作品に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』とタイトルが付けられた、タヒチを題材とした大作があります。タイトルから分かる通り、ゴーギャンは人間存在のこの基本的な命題にストレートにアプローチしようとしていました。それはアーティストならではの直感によって、日常を超えた真理に迫ろうとしたのです。

 

あなたは何者なのか? 実はこの命題については、古(いにしえ)より答えは明かされているのです。しかしその答えを知るためには、あなたという存在が「霊主体従」であるということを、自覚する必要があるのです。なぜなら、この答えは霊的な世界にしか見出せないからです。

 

「この世」という物質世界だけから見ていたのでは、「誕生と死」という人間存在に関する両局面の意味を正しく解釈することはできません。なぜなら、扉の向こう側が、依然不明のままだからです。だからこそ「どこから来て、どこへ行くのか」という疑問も湧いてくるのです。

 

時空間というものが支配する、この物質世界だけから見れば、確かに、この世に肉体を持った「生」が、ある日誕生し、そしてまたある日消滅するように見える。しかし、それを見つめただけでは、この自分という「意識」が、その前後でどうなるのだという疑問は解けないのです。

 

これはちょうど、「宇宙」の創生ということと相似形を為した命題になっているのです。

 

今の『ビッグバン理論』では、ある日ある時、「無」から突如「宇宙」が誕生したのだと言い、誕生したからには消滅する日もきっとあるのだろうと言っています。では、「ある日ある時」というのは何なのでしょうか? その瞬間はどうやって決まるのでしょうか。どうすれば、「無」から突如「ある日ある時」が生じるというのでしょうか? それまでは「時間」も「空間」も無かったのですよ。

 

「無」から、ある日ある時、自発的に「有」が生じるということであれば、それは「無」ということにはならないのではないでしょうか? そうさせる何らかのフォースが加わらなければ、変化など起きようがないのではないでしょうか。そして、そのフォースが有ったということになれば、「宇宙」が誕生する以前は「無」だったという前提そのものが崩れてしまいます。

 

このように、宇宙の創世に関する疑問は、人間の誕生に関する疑問と、完全に相似形を為しているのです。どちらも、物質世界だけから説明しようとした際には必ず論理的矛盾にぶち当たる。そもそも「無」とは何なのでしょう? 「無」を簡単に口にする、科学者、哲学者、宗教家には、「これが無だ!」というものを、ぜひここに見せていただきたいと思います。

 

宇宙というのは、完全なホログラフィック構造を持っていて、大きいものも小さいものも、超巨大なものから極小のものまで、組成はみな同じなのです。大宇宙をマクロコスモスといい、人間をミクロコスモスというゆえんです。人間は神に似せて創られたということの意味はそこにあり、人間の肉体を構成している元素も、実際宇宙と同じものです。

 

「宇宙」には始まりも終わりもなく、したがって「無」もなく、「宇宙」はただただ「変化」し続けているのです。そしてこの「変化」こそが「生命」の実相なのです。「宇宙」の別名はまだまだあります。「宇宙」は真理、「宇宙」は自由、「宇宙」は愛、「宇宙」は知恵、「宇宙」はつながり、「宇宙」は永遠、「宇宙」はエネルギー、「宇宙」はバイブレーション、「宇宙」はプロセス。そのどれもが正しい。

 

これらの一切合切が「宇宙」。

よって「宇宙」は一つ。一つが全部。

All is one.  One is all.

全部が “それ” 。“それ” が全部。

この “それ” を、ある人は「神」と呼ぶ。

 

あなたは何者なのか? どこから来て、どこへ行くのか?

その答えが、ここにあります。

 

あなたは「全部」の一員だ。だから「全部」のことを、もし「神」と呼ぶのであれば、あなたはご自分のことを、堂々と「神の一部」だと言っていい。いやもっと「私が神だ」と言っても構わない。なぜって、それが事実なのだから。でも忘れちゃいけないよ。全員がそうなのだということを。全員が「神の一部」なのだということを。そしてその総体が「神」なのだということを。

 

あなたは「神」より出でて「神」に還る。地上での体験を、自由に行うために。その乗り物として借りたものが今のあなたの肉体だ。だから、乗り物をいたわってあげなさい。粗末に扱ってはいけないよ。乗り物が発する警告を聞きなさい。手入れを上手にしてあげなさい。そして、この乗り物を最大限使って、自分の想いを表現し、行動し、体験するのです。それが、あなたという人間を決める。

 

あなたは「神」だ、「神の一部」だ。これが一つの結論。でも、そこから一部(a part)となって分かれたあなたには、もう一つの「自分探し」が待っている。それが、今のあなたという存在、その意味だ。

 

人生に意味はあるのか? それを、いくら探そうとしてもダメだ。ジェネラルな意味なんて所詮ないのだから。人生に意味などないんだ。目的はあってもね。

 

「えっ」と驚くことはないし、途方に暮れることもない。目の前を見回してご覧なさい。コーヒーカップがあるとしましょう。でもそれがコーヒーカップだと決めたのは誰なんだろう。それにご飯をよそって食べたっていいし、味噌汁を入れたっていい。お米を量るのに使ってもいいんだ。いいかい、ここで重要なのは、周囲のものは全部あなたが意味を与えているってことなんだよ。

 

ものごころが付き始めた幼い子と付き合ってご覧なさい。うるさいくらいに「ねえ、これなあに?」って訊くよ。それは、まだ意味を与えていないってことなんだよ。典型例はゴミだ。その瞬間までは有効に使っていたものを、ある瞬間からあなたはゴミという意味に変えてしまう。でもそれを拾い上げた人が、骨董という新たな意味を与えるかも知れないよ。

 

ここに気づくんだ。今の世の中の不幸は、外側の条件が、自分というものを規定させていく(と思い込む)ように仕向けられていることなんだよ。いわく、あなたは金持ちだ、貧乏人だ、どこそこ出身だ、職業はこうだ、肩書きはこうだ、障害者だ、病気持ちだ、独身だ、老人だ、デブだ、ヤセだ、etc.。

 

「ねえ、これなあに?」と訊いた、無垢なあの日を、ほとんどの人間が忘れてしまったんだ。そして、外側からやってくる「意味」を、他の誰かが作り出した「意味」を、無条件に受け入れてしまっている。この状態を「洗脳」と言うんだよ。

もう一度言うよ。周囲のもの全部に意味を与えているのは、実はあなただ。

 

なぜ、自分にだけは、自分で意味を与えない?

 

いいかい、人生に意味などない。意味を与えるのは、あなたなんだよ。そしてそれは自由なんだ。大切なのは、「自分はこういう存在としてありたい」と、自分が決めることなんだよ。それが、実は「自分探し」ということなんだ。チルチルとミチルの話を何度かしたけど、自分を探そうとして、いくら外に旅に出たって発見などはできない。自分が自分に意味を与えた時、わたしが決まるんだ。

 

あなたが、「こういう存在でありたい」と決めた時、あなたの思考が決まり、あなたの行動が決まる。それを Be Here Now で生きて、その生きた連続した軌跡が、あなたの人生なんだよ。それがハッピーというものなんだよ。だから、あなたにはお願いしたいんだ。素直な存在、誠実な存在、苦しんでいる人を助ける存在、溢れんばかりの愛に包まれた存在となることを。

 

今ここで、そういう人になることを宣言して欲しい。

 

そう、分かった。あなたの宣言を受け止めたよ。