by Rainbow School
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Q.「ちゃぶ台返し」をしてしまったことの課題とは?

前回のブログで「ちゃぶ台返し」の話題を書いたところ、ある方から、次のようなご質問をいただきました。

 

Q.最近、職場内であまりにも理不尽なことがあって、「ちゃぶ台返し」をしてしまいました。後でこれは自分への課題であったのでは思いました。そう考えたら受け入れるべきであったのか、「ちゃぶ台返し」がよかったのか分からなくなりました。課題であると気づかなかったときは、自分は正しいという思いが強かったのですが、今はモヤモヤ感が強くなっています。この感覚そのものが自分へのギフトなのでしょうか。答えは無くてもよいのでしょうか。

 

A.いつもメッセージを読んでくださり、また励ましの言葉をかけていただき、ありがとうございます。さて、ご質問ですが、「ちゃぶ台返し」をしたと書かれてあるところを見ますと、あなたが、瞬間的に感情を爆発させるような反応をしてしまったものと理解してよろしいでしょうか? そうであるとすると、ここには3つの問いが合わさって投げかけられていると思います。

 

ー分が理不尽だと思った要求を、受容すべきだったのかどうか?

⊆分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?

この事件から学ぶべき「課題」とは何か?

 

通常、人が「どうしていいか分からなくなる」という時には、そこには複数の、次元の異なる問題が同時に含まれているものです。人間というのは多次元的存在ですから、どうしてもそういうことが起きてしまうのです。上記で、,詫性的な判断を要する問題、△牢蕎霤な問題、は「魂」の世界の問題です。

 

この中で最も重要なのは、の「魂」の世界の問題です。しかしこれは、世間からすればちょっと非常識な捉え方であり、世間で問題にするのは、常に,鉢△任后このブログの熱心な読者であるあなたは、にこそ「生きる」うえでの根本的な課題があると気づいておられるのですが、そのアプローチは世間常識とはあまりにも違うために確信が持てず、,鉢△留洞舛鮗けて心が揺らいでしまっているのです。

 

アジアの都市を見ますと、交差点は大渋滞というところが多いですよね。人も、クルマも、バイクも、荷車もみんな我先にと急ぐ。人が「わけが分からなくなる」時というのは、大体こんな状態です。混乱した交差点の状況を改善しようと思ったら、どうするでしょうか? 先ず、車道と歩道と自転車道を分けて、次に信号機を設置して通過する順番をコントロールしようとするでしょう。これと同じです。

 

こんがらがった、次元の異なる複数の問題を、先ずはノートに箇条書きして整理をし、上から眺めて見ることをお勧めします。これで、混乱していた頭が、随分スッキリすると思います。さてその上で、順番に検討していきましょう。

 

先ず、,痢崋容すべきだったのかどうか?」ということですが、私の口からは「こうすべきだった」ということは申し上げられません。ただ、そのような発想はしない方がいいとは申し上げたいと思います。その時点での判断はすでに下されたのです。ですから、遡ってそれを思い悩むのではなく、今のこととして、もし訂正した方がよいと思ったら、直ちに行動を起こしてください。

 

朝令暮改が大切です。必要だと思った時には、どうか勇気を持って朝令暮改をしてください。世間では、どうも朝令暮改を「ブレた」と言っては非難し、頑固一徹や信念を重んじる傾向がありますが、「魂」の世界から見たら、それは誉められたものではありません。今の政府を見てください。一度ウソをついたら、次から次へとウソをつき続け、もうどうにならないところまで突き進んでいるでしょう。

 

頑固さゆえに、朝令暮改のタイミングを失してしまったのですね。「朝令暮改はダメ」じゃないんです。問題は、朝令暮改の方向です。それが、良い方向であるならば、人は朝令暮改を喜んで受容します。逆に悪い方向であれば、その改は責められるかも知れません。あなたは、「自分は正しいという思いが強かった」と書かれていますが、今もそうであるなら、もちろん改める必要はありません。

 

さてここで、「正しい」とは何か、という問題です。宇宙から見た場合、「正しい」とは、たった一つのことでしかありません。それは、宇宙の「理」に適っているかどうか、これだけです。ところが、人間の世界は違うのです。大多数の人間は「宇宙の真理」というものを知りません。そのため、、人間の世界では「正しい」ということに、「正義」や「倫理・道徳」を当てはめがちなのです。

 

しかし、「正義」や「倫理・道徳」の観念は、その時の社会体制によって、容易に変化するものです。その端的な例は、戦後すぐに実施された墨塗り教科書の指導です。ということは、「正義」や「倫理・道徳」といったものは、その時の為政者にいいように利用されてしまう危険性をつねに孕んでいるということです。なぜ戦争というものが起こるのかと言えば、それは大部分「正義」が原因です。

 

では、宇宙から見て「正しい」とはどういうことでしょうか? 何度も言うように、「宇宙の真理」は、「全部が一つ、一つが全部」たったこれだけです。ここからすべてが派生しています。ですから、大本にある「真理」をじっと見つめて考えれば、あらゆることのセオリーが、自ずと導き出されていきます。ちなみに、もし何かに迷った時には、この原点からじっくりと考えていけば、すべてに答えが見出せます。

 

やってみましょう。「全部が一つ」なのですから、自分と他者は一つです。自分と神も一つです。自分が神なら、あの人も、この人もみな神です。「全部が一つ」なのですから、自分が為したことは、宇宙に為したことになり、あの人に為したことは自分に為したことと同じなのです。するとどうなるでしょうか? 誰かを傷つけることは、自分を傷つけることと同じなのです。 

 

このようにして、自分が為したことは自分に還ります。これが、いわゆる「カルマの法則」です。自分が蒔いた種は、いつか必ず自分が刈り取ることになるのです。これに例外はありません。結果がすぐには表れないために、このことに、きっと疑問を持たれるとは思いますが、長い目でみれば、必ず帳尻が合うようになっています。

 

ですから、愛を与えれば愛が還り、憎悪を与えれば憎悪が還り、他人から何かを奪えば、次には自分が奪われるのです。人類全体でも同じことです。地球を痛めつければ、次には地球から痛めつけられるのです。でもこれを「罰」とは捉えないでください。天に「罰」はありません。「罪」もありません。あるのは冷徹な法則だけです。自分が為したことは自分に還る。ただそれだけです。

 

ですから、天から見て「正しい」こととは何かと言うと、この「全部が一つ」というセオリーをちゃんと理解して行動をしているのか、ということに尽きるのです。理解しているのであれば、自ずと行動は、利他、奉仕、無条件の愛へと向かっていきます。ですから、相談者の方も、この点から、自分が下した判断、とった行動が「理」に適っていたかを見てください。

 

そして、「理」に適っていたのであれば、たとえそれを主張することで、自分の立場が悪くなったりしたとしても、それを貫き通してください。理由は、前に書いた通りです。

 

次に、△痢崋分が示した感情的な反応が、それでよかったのかどうか?」という点です。「怒り」は自分を傷つけます。それは心理的な面だけではなく、身体の細胞にもダメージを与えます。ですから怒らないに越したことはありません。しかし、だからといって、「怒り」を抑えつけようとはなさらないでください。これは「怒り」を出すことより、さらに悪いダメージを与えます。

 

前段に書いた「全部が一つ」という感覚が、身体に沁み通ってくれば、次第に「怒り」という感情そのものが無くなっていきます。ですからそれまでは、上手な「怒り」の表出の仕方を学んでください。「ちゃぶ台返し」も、コミュニケーションの表現の一つです。それによって、周囲の人に新たな気づきを与えられるかも知れません。

 

感情のコントロールで大事なことは、これまでにも何度も書いて来ましたが、二次災害に発展させないということです。パッと感情を出して、それで終わりにしてすぐに忘れる。これがコツです。ちょっとやり過ぎたなと思ったら、すぐに謝るなどして終わりにしてしまう。自分の感情の動きと、そうさせた原因というものを一緒くたにせずに、区別して考えるクセをつけてください。

 

さて、最後の「この事件から学ぶべき『課題』とは何か?」という点です。冒頭にも書いたように、実はこれがいちばん重要なことです。もし失礼があればお許しいただきたいのですが、相談者の方は、もしかすると「課題」というものを誤解されているのではないでしょうか? 「ちゃぶ台返し」をしなければいけないような事件があった。その事件を「課題」と捉えてはいないでしょうか?

 

そうではないのです。「魂」の世界から見た場合の「課題」とは、「事件」にあるのではありません。人は、いつも「事件」を問題にします。「事件」の中身について、あれこれと憶測したり、解釈しようとしたりして時間を浪費しています。しかし、極端な話「事件」などはどうでもよいのです。怒られることを承知でいえば、どんな大事件であろうと、全部が大したことではないのです。

 

なぜそんなことが言えるのかと言いますと、答えは簡単です。「事件」はあの世へは持っていけないからです。あの世へ持って行ける(行かされる)のは、あなたがした、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解、これらだけなのです。すべての「事件」は、これらを味わうための、いわばきっかけに過ぎないのです。

 

その証拠をお示ししましょう。あなたは、ご自分が過去世で体験した「事件」を覚えているでしょうか? えっ、過去世そのものを覚えてないですって? いやいや、そうじゃないんですよ。あなたの性格、あなたの心グセ、あなたのこだわり、あなたの容貌、あなたの体躯、あなたの境遇、これらは全部、あなたが過去世で体験して覚えて来たものの結果なんですよ。だから、同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、全員の個性が違うのです。

 

いいですか、もう一度言いますよ。あなたは「事件」をきっかけとして、そこから、感情的体験、感覚的体験、生命というものへの本質的な理解、愛というものの理解等を徐々に深め、今世で掴みきれなかったものを来世への課題(カルマ)として残すのです。そして、その課題克服のために、「事件」のシナリオを設定して、また物質世界に誕生して来る。

 

このようにして、「事件」のきっかけを通じて、その時々の体験を存分に味わい、自分のものとして行く。これが、霊的成長を図るということなのです。そしてこれこそが、あなたが、この世に誕生して来た目的なのです。ですから、「課題」とはそこです。「事件」ではありません。「事件」に接した際の、自分のリアクションの中に「課題」が隠れているのです。

 

ですから、そこにこそ着目してください。「事件」はすべて、天から贈られたギフトです。自分が自分に贈ったといってもいいです。なぜなら、もしそれが贈られなければ、霊性向上のチャンスには出会えないからです。さてその時に、自分が同じパターンのリアクションを繰り返していないかを見てください。感情の動かし方、口の利き方、態度、処理方法等です。そこにあなたのカルマが現れています。これは、そのことに本人が気づくまで、何度も贈られます。

 

これまでを、じっくり振り返って見てください。お中元お歳暮の恒例ギフトにしてはいなかったでしょうか。もうそろそろ、受け取り拒否にしてはいかがでしょうか。これを読んでくださっているみなさんは、今日、たぶん多くの謎が解けたと思います。そのきっかけを与えてくださったのは、この質問者の方です。そのギフトに感謝して、自分の生をしっかりと全うしていきましょう。

高い波動に生きる

インターネット社会になって変わったなぁと思うのは、他者を誹謗中傷するハードルが著しく下がったこと。いつでもどこでも、スマホを使って、誰もが手軽に、無料で、見知らぬ人を、匿名で罵ることが可能という、実に便利な世の中になりました。こうしたツールを待ち望んでいた人々にとっては、まさに願ったり叶ったり。我が世の春の到来でしょう。

 

私がヤング(死語?)の頃は、新聞にも雑誌にも、一応「読者投稿欄」なるものがあったのですが、そこで採用されるのは物凄い難関でした。編集部の人が、何百、何千と来る投書の中から一つ二つを選ぶわけですから、当然ながら、的外れなものや、お粗末なもの、余りにもお下劣なものは、初期段階でオミットされていたわけです。

 

投稿する側も、切手代と手間がもったいないから、そんな箸にも棒にもかからないような投稿は、そもそもしませんでした。採用されるための知恵を絞って、技を磨くというか、互いに切磋琢磨するような雰囲気がありましたね。それがインターネット時代になって、一挙に、検閲なしの民主化が(別の言葉で、野放し状態とも言いますがね)達成されたのであります。やったぁ、バンザーイ!

 

と冗談はこれくらいにして、今の世の中が醸し出している、こうしたギスギスした雰囲気にウンザリしておられる方もきっと多いことでしょう。本当に疲れる社会ですよねぇ。これじゃあ、気が変にならない方が変です。

 

モラルハザード、倫理・道徳の欠如を指摘され、嘆く方もおられます。現象面だけを見れば、確かにそうなんでしょうけれども、倫理・道徳のタガを、また以前のように嵌めて何とかしようと思っても、今さらどうにもなりません。世の中の仕組みそのものが大きく変わってしまったんですから。それに、倫理・道徳などそもそも必要ないもの。本質はそこじゃないのです。

 

仕組みの変化の中で、今まで自己抑制できていたものが、大っぴらに外に飛び出した。まるでオモチャ箱をひっくり返したみたいに。そこに一切のタブーが無くなった。それは、倫理・道徳のタガを嵌めなければコントロールできないような性質を、人間がそもそも持っているということ。そして、技術がいくら進歩しようとも、その部分に関しての進歩はあまりないということを示しています。

 

気に食わない奴はやっつけたい。癪に障る奴にはひとこと言ってやりたい。という思いは、誰しもが持っているものです。しかしそれを持っていても、またそういう思いを抱いたとしても、今まではそれを表現する方法が無かった。せいぜい夕陽に向かって「バカヤロー!」と叫ぶくらいが関の山だった。それがテクノロジーの進歩で、思ったら即、ワン、ツーでパッと反応して、誰も憚らなくなったということです。Like、Dislike ボタンなどその最たるもの。

 

ひと呼吸置くということがない。ある意味、感情の動きに忠実。でもそれは、モラルの欠如なのではなくて、「想像力」の欠如から来ているのです。こんなことを言ったら相手がどう思うだろうかとか、この言葉を使ったら相手の心を傷つけてしまうのではないかとか、今これを言ったら社会的にネガティブな影響を与えてしまうのではないか、といった「想像力」が、現代人には殆どない。

 

殆どないまま、大統領から、首相から、市長から、庶民まで、みんなワン、ツーパンチを反射的に繰り出している。そして貰った方も、すかさずワン、ツーパンチで応酬する。さらには、双方に味方して応援団旗を振る人間までもが加わり、場外乱闘戦が展開される。これが、今の社会をもの凄く不安定にさせ、ギスギスした雰囲気で空を覆いつくし、人々の心を蝕む原因になっているのです。

 

そのことに、人々は殆ど気づいていません。気づいていないからこそ、そんなことが平気で出来るのだとも言える。しかしその隠れた影響は、みなさんが考える以上に、みなさんの心身の奥深くにまで及んでいるのですよ。なぜなら、「思い」とは振動するエネルギー体であり、それ自体が Force(力)を有するものだからです。振動するエネルギーは、その「波」としての性質を、周辺のものにあまねく及ぼしているのです。

 

物理的世界に作用を及ぼせる力は、物理的な力ものだけだと思っているでしょう。でもそれは違う。行動の前には、それに先行して、必ず「こうしよう」という「思い」があります。類は友を呼ぶで、似通った「思い」が一箇所に集まった際には、そこに非常に大きなエネルギーが生じるのです。よく言う「革命のエネルギー」とはそれです。カール・ユングは、その見えない力を「集合的無意識」と呼びました。

 

宇宙のすべては、つまるところ、振動するエネルギーです。この振動するエネルギー(略して「波動」)は、超微細な波長を持つものから、超巨大な波長を持つものまでが、連続的な変化をしながら、この大宇宙が構成されているのです。地上に暮らす私たち人間が、五感によって知覚できるのは、そのうちの極く極く狭い帯域に過ぎません。

 

*振動するエネルギー:現代物理学では、それを「振動するひも(Super Strings)」と仮説・定義づけています。

 

例えば、あなたが使っているスマホ。こんな箱でどうして動画を見たりすることが出来るのかと言えば、眼に見えない電波が空中を飛び交い、それをスマホが受信しているからです。この電波は、五感では知覚できません。一方、紫外線は同じく眼で見ることは出来ませんが、日焼け現象によって皮膚は知覚していますし、赤外線も熱として知覚できる。放射能(線)も眼には見えませんが、細胞を破壊します。

 

このように、五感で知覚できるかできないかという境目にある波動もある。人間の「思い」というものも、実はこの境目に存在しています。五感では知覚できなくても、第六感で知覚できるし、みなさんも通常それを行っているのです。ただ、それについてのセオリーを習ったことがありませんし、第六感を強化する訓練もしていませんし、普段意識することなく生活しているのです。

 

*注:同じ帯域という意味ではなく、象徴的に「境目」にあるという意味。

 

しかしみなさんは、普段から、確実にそれを知覚しています。その証拠となる言葉が「なんとなく」です。「なんとなく」“何か”を感じた瞬間、あなたは、眼に見えない「想念」を知覚しています。知人の「想念」がテレパシーとして入って来たという経験をお持ちの方も、たくさんおられるでしょう。入って来た瞬間、「あら、そうねン」と分かる。なーんちゃって。

 

とにかく分かる。えっ、「私は分からない」ですって? それは、チャンネルを開いていないから。チューニングをそこにフォーカスしていないから。何かに集中している時には、周囲の物音が全く聞こえなくなっているでしょう? また、雑踏の中で、はぐれた家族を見つけようとした時には、あなたは聞き慣れた家族の声に一生懸命に耳を澄まそうとするでしょう? それと同じこと。

 

このようにして、あなたは、周囲に溢れる多様な「想念」というものを、特別意識することなく、常時受け取っているのです。さてその際に気をつけることは、精細ないわゆる高い波動を受け取った時には、心は晴れやかで、穏やかで、明るいものとなり、逆に粗野で低い波動を受け取った時には、心はザワザワとして落ち着かず、不安や怒りが胸の内に沸き起こって来るということです。

 

この違いは、実験してみればすぐに解ります。敏感な人は、すでにその違いに、体験的に気がついているはずです。

では何が、波動の「高い / 低い」を決めているのでしょうか?

それは、「融合」と「分離」という、背反した意識の程度差によるのです。

 

この「融合 / 分離」意識は、あなたという「魂」の成立に起因しています。あなたという「魂」は、宇宙の法則を経験するために、全体から別れて、個別化しました。これが前回書いた「孤独」の意味です。なぜそんなことをするかと言えば、全体の中に留まっている限りは「全体(=融合)」しか知覚できないからです。そのために、あえて個別化して、自分だけの体験をすることを望んだのです。

 

思春期を迎えて、どうしても家を出たくなったハイティーンに例えれば解りやすいでしょうか。こうして、あなたは自由を獲得します。この自由は、責任と同義語で、地上世界であなたがする経験は、確実にあなたに新しい意識の拡張をもたらします。この時、拡張の方向性には、大きく言って二方向があるのです。それが、「融合 / 分離」という二律背反です。

 

この二つの背反する意識は、もともと一つだった宇宙意識から、あなたという「魂」が個別化したことによって生じました。思春期を迎えて、あなたは家を出たい。自分なりの経験をしたい。でも経験すればするほど、我が家の有り難み、あのとき親から言われた一言の意味が身に沁みるというわけです。

 

ですから、この二つは互いに不可欠なものです。「融合」の世界だけでは、「融合」の有り難みが解らない。「分離」があるからこそ、「融合」の大切さが身に沁みて解るのです。

 

この二極化は、宇宙成立のまさに根本で、「陽 / 陰」として示されたり、「他者愛 / 自己愛」の区別として語られたり、一部の宗教においては「天使 / 悪魔」の対立、戦争として語られたりして来ました。しかしこれを、対立と捉えてはなりません。ましてや戦争の正当化に使うなどもっての外です。どちらもが有って、宇宙が成り立っているのです。宇宙を見れば自明のように、最終的には融和です。

 

さてこのようにして、地上にある全ての「魂」は、「融合」と「分離」という背反する意識の間をあっちにこっちにと揺れ動きながら、体験学習を進めて行きます。この時、「融合」を説くものは、あなたに高い波動を与えますが、逆に「分離」を説くものは、あなたに低い波動をもたらすのです。これによって、あなたの心はザラつき、不安になったり、怒りを抱いたり、攻撃的になったりします。

 

今の世界は、その「思い」が、際限なく膨らみ、四方八方に飛び交っている状態です。でもそれは、ハッピーなことでしょうか? あなたの本質が望んでいることでしょうか? 今これを読んで下さっている方は、「違う!」と力強く言ってくれることを確信しています。でも残念ながら、世の中の趨勢は、そうではありませんね。

 

国家の最高権力者は「対話より圧力」を説き「武器」をチラつかせて脅し、グローバル企業は自分たちだけの「利潤」を追求し、金融に携わる人は「投資とリターン」で煽り、官僚は「自己保身と出世」のために本分を忘れ、教育者は「優劣」を推奨し、マスコミは「虚偽報道と弱い者イジメ」を平気でする。これらは全部、「分離」意識を基にし、かつこれを賞賛するものです。

 

なぜ、「分離」意識を賞賛するのでしょうか?

 

第一には、それが正しいと信じているからです。彼らの固い「信念」です。第二には、その方が世間の耳目をより集めるからです。融和と安心を説いても、世間からは見向きもされません。闘争と不安の喚起が常に人々の注目を集めるのです。第三には、それらによって、自分自身が、「分離」意識の構造の上位に立てるからです。それは、正しいと信じる、自分の「信念」の実現に他なりません。

 

時間があれば、政治家や、政治評論家や、有識者と言われる人たちの言動を観察してみてください。多くの人が、自分の立ち位置(信念と派閥)を先ず決めた上で、それと対立する考えを持つ人やグループを、バカだチョンだと言ってこき下ろしています。そして、自分こそ、自分たちこそいちばん頭がいいのだと主張して憚らない。この行動原理は、宗教派閥とそっくり同じです。

 

そこには、社会や人々を「分離」意識の視点で眺めて、自分が上に立ちたいという、潜在意識の奥深くに刷り込まれた、強烈なエゴがあるのです。しかしハッキリ言っておきます。そのようにして頂点に立ったとしても、その「思い」は、必ずや自分自身を傷つけます。自分が蒔いた種は自分で刈る。それが「宇宙の法則」というものだから。その「思い」の、最大級の〈信者〉は自分自身だから。

 

それでもそうしたければ、続けるがよい。

 

悪代官がいなければ、時代劇も成り立たない。

 

結局のところ、彼らは命を張って、そういう役割を演じてくれているのです。その奉仕を無駄にしないようにしなければいけませんね。いま言った、彼らの言動の背後にあるものを見抜くのです。そして、安易に同調しないようにして、自分にとっての幸福は何か、また人類にとっての幸福は何か、地球にとっての幸福は何かを、自分自身に問い質すきっかけとしてください。

 

あなたの周囲は、低い波動を発するもので溢れ返っています。人間はもちろんのこと、人々が発する言葉や、表情、その映像、文章、メール、広告、エリア、スポット、物なども、みんな固有の波動を出しています。そこに興味を持って、スッと引き寄せられ、一瞬、我を忘れた時、あなたの波動は、そこで発しているものと瞬時に同調しています。

 

その時、それが低いものであった場合には、あなたの波動も一気に下がります。一度下げてしまった波動を再び高めるのは、下げる時よりもずっとずっと難しい。低い波動に同調するのは、自分の波動をただ下げるだけでいいのですが、高い波動に合わせるためには、自分の意識を、よりピュアで澄んだ状態に引き上げなくてはならないためです。

 

なぜならば、高い波動というものは、精緻で、精妙であるために、通常の意識状態ではなかなか知覚しにくいのです。ですから、いま説明したこの原理をよく理解して、日常生活での適応を心がけてください。よくよく考えれば、世の中に溢れ返った情報は、所詮どうでもいいことばかりだと気づくことでしょう。

 

いちばんいいのは、あなた自身が、いつも高い波動を出すことを心がけることです。心の中に微笑みを絶やさず、正直に、親切に、誠実に生きなさい。自分と他者を比べず、他者に為したことは自分に為したことと同じである、という「宇宙の法則」をつねに頭の隅に置いて人と接しなさい。そして、楽しく、前向きに、喜びを持ってできる表現活動に邁進しなさい。あなたは、できる!

 

そうすれば、低い波動は、近寄って来れなくなります。あなたが高い波動を出していれば、あなたの周囲には、自然と、同じような高い波動を持つ人たちが集まってきます。家族や職場などの固定した関係でも、だんだんと仲がほぐれていきます。そうすれば、周囲のみんなが、正直で、誠実で、親切な人たちばかりですから、あなたの毎日から、辛さがどんどん遠ざかっていきます。

 

よいですか? 先ず、あなたが変わるのですよ。不幸というのは、周囲の環境のせいなのではありません。あなたがそういうものを引き寄せているのです。それが解れば、幸福への第一歩が、今日から直ちに始まります。だから、心の中で、こう唱えてみてください。「ああ、自分は幸せだ。なんて幸せなんだろう」ほら、もう第一歩が始まったよ。

無智ということ

物欲、支配欲、名誉欲、不親切、物惜しみ、執着、狡猾、猜疑心、怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、無智、不節制、自暴自棄、‥‥。程度の差こそあれ、人間には誰しも、こうしたいわゆる悪感情や、悪い心グセ、性格というものが備わっています。若いころの自分にとっては、これらの克服が大テーマで、いろんなことを試しましたし、苦しみもしました。そしてそのチャレンジは今も続いています。

 

でも最近は、世間の話題として、そういうことをあまり聞きませんねぇ。もはや「煩悩」解禁になったと言いますか、むしろ剥き出しの「煩悩」を競い合うのが当たり前の世の中になってしまったなぁと感じています。「煩悩」の克服ということが、もはや人生上のテーマでは無くなったのでしょう。もしかしたら、「煩悩」という言葉自体、すでに死語になってしまったのかも知れません。

 

さて、人間にこうした様々なネガティブな感情や性格がある中で、古来より、いちばんの問題は「無智」なのだとされて来ました。「無智」こそが悪の大親分であって、そこにたくさんの子分が従っているのというのです。釈迦もこれと全く同じことを言っていて、仏教では「無明」と言うのですが、明るくないこと、光が差さないことをもって「無智」という状態を示したのです。

 

ではこの「無智」とは、何を意味しているのでしょうか? いったい何を知らないというのでしょうか? そしてそれが、どうして全ての悪の親玉だと言うのでしょうか?

 

このブログでは、これまでにも「無智」という言葉や「智慧」という言葉を何度か使って来ました。目ざとい方は、私が「知」ではなく「智」という漢字を使っていることにお気づきだと思います。が、これは意識してそうしていたのです。「智」という漢字は、「知」の下に「日」が付いています。ですから「日」の基に「知る」ということであり、この「智」は、いわゆる「知識」ということではないのです。

 

*「智」という漢字の部首については「日」(ひへん)に分類している辞書の他に、「日」(いわく・ひらび)に分類している辞書もあります。「ひ」と「いわく」は、今日の活字では同じ形ですが、本来は別字です。ここでは、あえて「日」(ひへん)説をとっています。

 

知識人と言われる方たちの中には、知識を持たない人々を小バカにする傾向がありますが、彼らとて「智慧」を有しているとは限りません。「知識」と「智慧」とは別物です。「知識」とは相対的なものであって、自分は「知識」があると言ったとしても、その人が何もかも知っているわけではありません。例えば歴史を考えてみてください。歴史の全てを知ることは不可能です。

 

「日」を基礎にして「知る」ということ、あるいは「日」を「知る」ということが、どういう意味なのか? 「日」の象形文字は「⦿」です。これは「◯」の中に「・」を納めた形で、「宇宙」を表すシンボルの一つになっています。「宇宙」を表すシンボルにはたくさんあって、◯、⦿、+、T、⊕、☯、✡、卍、などは、みなちょっとずつ意味を違えながら、それぞれが「宇宙」を表しています。

 

その中で「⦿」がどういう意味を持っているかと言いますと、中心の「・」が宇宙の始まり、周囲の「◯」が現在の宇宙全体を表していて、一つのものから宇宙が誕生したというシンボルになっているのです。つまり「全一(全部が一つ、一つが全部)」というものをシンボライズしているのです。ですから、「全一」という真理を知っているよということが、この「智」の意味なのです。

 

そこで、釈迦の言った「無明」という言葉と結びついて来ます。宇宙のバイブレーションは、しばしば「光」に例えられますから、その「光」を知らないことが「無明」、すなわち「無智」というわけです。つまり「無智」というのは、「宇宙の法則」を知らない「無智」を意味しているのです。そしてこれは根本ですから、よって最大の悪とされたのです。

 

話を戻して、人間のあらゆる煩悩の大元は実に「無智」にあるのだと。言い換えれば、あらゆる不幸の原因は「無智」なればこそなんだと、歴史上の多くのメッセンジャーが、みな同じように指摘して来たのに、どうして人類は、今もって「無智」のままなのでしょうか? これだけ知識の溢れた世界に、真の「理解」というものがほとんどない。信じがたいことですが、それが現実です。

 

なぜ「理解」がないのかと言えば、一つには宗教が邪魔をして来たということがあります。各宗教が、自分たちが創案した教義を信者に信じ込ませて来たために、宇宙というものへの正しい理解が進まなかったのです。

 

そしてもう一つは、「知」と「智」を取り違えて来たということ。「無知」が最大の問題だと言われると、みんな、じゃあ知らなきゃな、学習しなくちゃなと思うでしょう。でもそうじゃないのです。この「無智」とは、知識を増やせということではないのです。

 

知識は、なるほど思索を深めるきっかけや道具になってくれます。ですが使い方を誤ると危険ですらあります。なぜならば、知識は「信念」を生むからです。歴史上の大きな過ちは、暴君によってではなく、むしろ知識人によってもたらされて来ました。例えば核兵器です。科学の知識がなければ、人類は核兵器を生み出すことはできませんでした。

 

「知性はあまりにも頻繁に我々を騙す。」

「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」ジャン=ジャック・ルソー

 

問題は知識なのではありません。「智」を知らないことにある。もっと正確に言えば、「智」があることに、気づいていないことにある。あなたには、実は最初から「智」があるのです。どこに? ソウル(魂)に。

 

あなたは多次元的存在で、この物質世界だけではなく、第四霊性密度にも、第五霊性密度にも、第六霊性密度にも同時に存在しています。それを、今は意識できないかも知れませんが、意識できようとできまいと、多次元的存在であることは間違いありません。なぜって、そのように創られたのですから。

 

ですから、「無智」から脱するためには、「智」を求める必要はなにもなく、ただ思い出すだけでよかったのです。教科書も先生も、全く必要がなかったのです。ではどうやって思い出せばいいのでしょう? 「知性」に騙されるのを、もういい加減に止めればいい。そうすれば、入れ替わりに、あなたの中にある「智」が浮かび上がって来ます。

 

現代人の不幸は「知識」が無いことにあるのではありません。むしろ逆で、外側から、まるで津波のように、後から後から押し寄せてくる来る「知識」という濁流に、完全に飲み込まれてしまっていることにあるのです。「知識」が有り過ぎて、それに振り回され、かえって自分を見失っている。でも本当に大切なものは「知識」ではありません。

 

それよりも大事なものは、「普遍的な智」の基盤に立って生きることです。それこそ真のあなた。あなたがあなたたる由縁の本質です。ですから、外側から来るものに対しては、勇気をもって、「そんなもの関係ない」「わたしはわたし」と宣言するのです。そして、ご自分の直感やインスピレーションを信じるのです。

 

世の中が激動すればするほど、喧(かまびす)しくあれば喧しくあるほど、あなたはあなたであることを保ってください。そうすれば、幻の中に生きて、右往左往している人たちのことがハッキリと見えて来るでしょう。

 

今日、ここで述べたことをテーマに、できれば瞑想を行ってください。瞑想は、外から来る情報と内なる情報とを切り替えるための最高のツールです。それが、あなたに「智」への扉を開かせてくれるようになるでしょう。

大きな安心の上に立って、小さな心配の日々を生きる

人間、死ぬ気になれば何でもできる。これは本当です。この言葉は、何か大きなことにチャレンジをする際の常套句となっていますが、人間にとって、覚悟の最たるものとは「死ぬ気」であるということを端的に表しています。

 

誰もが日常的に抱くちょっとした不安や心配事。失うこと、傷つくこと、病気になること、奪われること、犯されること、不当に扱われること、間違うこと、罰せられること、etc.。これらのちょっとした不安が、どうして生じているかを「なぜ、なぜ?」と追求していくと、最後は必ず「もしかしたら、死ぬかもしれない」というところに落ち着きます。

 

嘘だと思ったら、試してみてください。あなたがいま不安に思っていること、その原因は何かと自分に問うて、考えた答えを紙に書きます。そうしたら、いま紙に書いた事柄は、どのような原因から生じてるのかを、また自分に問いかけてみてください。こうして、この作業を、梯子を掛けるように下へ下へと掘り下げていきます。

 

今のプロジェクトは、うまくいかないかも知れない。

    ↓

もし失敗したら、激しく叱責されるだろう。

    ↓

出世の道が閉ざされるだろうし、居場所もなくなるかも知れない。

    ↓

クビになったら、生活に困る。

    ↓

自分の年齢では再就職も難しい。

    ↓

家族の生活が維持できなくなる。

    ↓

ひょっとしてホームレスになってしまうかも。

    ↓

もう生きていけない。

    ↓

自分は、死んでしまうかも。

 

すると、およそどんなことでも、最後の最後は「自分が死ぬかもしれない」というところに辿り着くはずです。この作業を通じて解ることは、人間が抱く恐怖というものは、結局、みな「死」から出発しているということです。

 

では、なぜ「死」が恐怖の大元なのでしょうか? それは、「死」のさらに先にあると思われる原因が、「死」という言葉の裏側を支配しているからです。それが何か、分かりますか? 「消滅」です。何もかもが「消滅」して無に帰してしまうのではないか。これが、人間を支配している「恐怖」というものの根本です。そして、これは全くの幻想なのです。

 

人間は、「この世」に誕生した瞬間から、「この世」で言うところの「死」に向かって、直ちに走り始めます。ところが、人間はその事実を直視しようとはしません。赤ちゃんが生まれると、みんなが「おめでとう」と言って祝福する一方、死期が真近に迫り、いよいよとなって臨終を迎える時には、沈痛な表情で「ご愁傷様です」と言うのです。

 

誕生→成長→成熟→死というサイクルを、まるで植物の一生と同じように捉えていて、だからこそ、血縁の(自分の想いを託したDNAを持つ)子孫(次の種)を残すことに非常にこだわるのです。そして、成長することについては大いに喜び、死を迎えることについてはこれを忌み嫌い、出来るだけ触れないようにして生活しているのです。

 

だからこそ、「生きる意味が解らない」などと言う言葉が出るのです。直視しようとせずに逃げてばかりいるのですから、解るはずがないではありませんか? そして、矛盾に満ち満ちた行動を取っています。

 

人は、急激にもたらされる「死」はひどく怖れる一方、ゆっくりと進む「自殺」は自ら好んで選択しています。過食、喫煙、過労、過度の飲酒、薬物の摂取、夜ふかし、体を動かさない、等々。肉体は借り物という意識がないので、労わらないし、きちんとメンテナンスをしようという気もあまりありません。

 

これらはみな、「生命」というものを、ただ表面的にしか捉えていないために起きていることです。たとえ、地上で「死」と言われる現象が、いま直ちにあなたに起きようとも、宇宙から、あなたが「消滅」することは絶対にありません。それは、「生命」というものを、じっくり観察していれば自ずと解ることです。

 

春先に、一粒の種から芽が顔を出し、夏に大きく成長し、そして秋に豊かな実をつける。やがて冬枯れし、跡形も無くなったようになってしまう。でも、その植物は「消滅」したのではありません。その植物を構成していた元素は、一部は気体となり、一部は土に帰ります。そしてまた、他の植物や動物のために供されるのです。あなたの肉体を構成していた元素も、これとまったく一緒です。

 

「誕生」や「死」は、そうした変化のサイクルの、ある局面に、そうした名前を付けただけのものであって、自然界を冷静に観察すれば、トータルで失われるものは何もないのです。ただ「変化」のみがあるのです。これこそが「生命」の実相であり、「生命」とは「宇宙の変化」と同義語なのです。ですから、あなたの「生命」も、失われることは絶対にありません。

 

しかし、そう言ったとしても、あなたの中には釈然としないものが残るでしょう。図らずも、それは、「あなたという存在は何か?」という命題につながっています。あなたという存在は何か? あなたをあなた足らしめているものは「意識」です。“ Cogito, ergo sum ” 我思う、ゆえに我あり。あなたは、あなたという「意識」を持つ存在です。

 

さて、この「意識」が、どこから生じているかが問題です。現代科学の常識では、「脳」が「意識」を生じさせていると説明します。しかしこれは、これまでも繰り返し言ってきたように、完全な誤りです。もしそうだとして、ではその「脳」を動かしているものは何なのでしょうか? 「脳」が自発的に動いて、その人の「意識」を創り出すとでも言うのでしょうか?

 

そうだとすれば、その人の「脳」とは何なのでしょうか? 「意識」のあたかも支配者として振る舞う「脳」は、いったい何ものであって、何のためにそのようなことをするのでしょうか? まったく馬鹿げた仮説です。このような矛盾だらけの仮説を「科学」だと言って信じ込み、反対に真実である「魂」の実在を否定して、右往左往しているのが今の文明社会なのです。

 

あなたの「意識」は、物質世界という一つの次元(霊性密度)にだけ存在しているのではありません。あなたの「意識」は、階層化した多次元にまたがって、今のこの瞬間も、同時に存在しているのです。ところが、肉体を纏っている時には、五感というセンサーの刺激に強く引っ張られているために、他の次元で働いている「意識」があまり意識化されていないのです。

 

でも、皆無ではありません。パッとあかりが灯るようにやってくる、直感やインスピレーション。なんだか知らないけれども沸き上がるイヤーな気分。以前にも出会ったことがあるような懐かしい気持ち。「そっちじゃないよ」と危険を知らせる空耳。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに胸に沸き上がる感動。これらはみな、あなたの別の次元にある「意識」です。

 

あなたが、地上で言うところの「死」を迎えると、肉体を構成していた元素はバラバラになり、それまで物質世界を捉えるためにあった五感というセンサーがなくなります。そうなって初めて、あなたは、ご自分が本来の多次元的存在であることにハッキリと気がつくのです。この存在が、いわゆる「魂」です。つまり「本当のあなた」です。

 

肉体というのは、ある一つの時代の「生」を生き抜くドレスに過ぎず、次に生まれ変わる時には、また素材を集めて染色し(DNA)、糸を織り上げて(細胞分裂)、新しいドレスに着替えるのです。この間、母親は、自分の胎内に生じるものをコントロールすることは出来ません。それでも、赤ちゃんが創造され、誕生するのです。その「魂」自身の意思によって。

 

いま言ったこと(魂の永遠)を、私はここで証明しようとは思いません。前世の記憶を持つ人や、臨死体験の事例をいくら述べたところで、「そんなもの信じない」という人はどうしようもありません。そもそも、限定された世界から、多次元的世界の全容を知ることは不可能です。ですから、いつも通りこう申し上げるしかありません。解る人には解ると。解る人というのは、「信じている」のではないのです。知っているのです。

 

さて、このように、あなたの肉体を構成していた元素が、宇宙から「消滅」することはあり得ず、また、あなたという「意識的存在」が「消滅」することも、絶対にありません。それは、論理的に考えても解るはずです。

 

全智、全能、全存在は、宇宙(=神)というものを、それぞれ別の視点から眺めたものです。これらは一つのもので、それゆえ三位一体と呼ばれます。全智とはすべての知恵や知識。全能とはすべてのエネルギーであり力(Force)。全存在とは、文字通りあらゆるものです。この三位一体は、増えることも減ることもないし、ただ変化だけがあるのです。

 

なぜ変化し続けるのか? それ自身が、体験して成長するためです。そして、あなた方はそのための学徒として宇宙に放たれました。あなた方は、全員が、宇宙を構成する一員なのです。あなたの意識は「全智」の一部であり、あなたの活動エネルギーは「全能」の一部であり、あなたの身体は「全存在」の一部なのです。それがどういうことか、お解りですか?

 

宇宙には始まりも終わりもなく、ただ変化があるのみ(=無常)です。一見、誕生や死として見える局面も、この変化のサイクルの中の一つの場面に過ぎず、あなたが「消滅」することは、絶対にないのです。あり得ません。この大いなる安心の上に立ちなさい。いや、すでに立っていることに気づきなさい。「最初から救われている」という意味は、実にこれなのです。

 

何を不安に駆られているのですか?

何を怖れているのですか?

世間が繰り出す脅しに、何をそんなにビクビクしているのですか?

 

たとえ世界が破滅しようとも、あなたが消滅することはありません。あなたは、わたしの一部なのですよ。そのわたしが、どうして、あなたに恐怖を与えますか? 何のためにそんなことをしますか? 右手で左手を叩くとでも言うのですか? よく考えてみてください。

 

今の人間たちを見ていると、わたしですらも悲しくなってしまいます。なんのために地上に生を受けたのですか? あなたの役目を果たしなさい。宇宙の法則に則った生き方をしなさい。自分を愛し、そしてすべての人々を愛しなさい。もうグズグズしている暇はありません。あなたが世界を変えるのです。

 

いつまでもフォロワーであり続けていてはいけません。

誰かに期待したら、その誰かに裏切られます。

あなたはあなた。

わたしがそのように創ったのです。そのことを忘れたのですか?

 

繰り返し言います。

あなたの役目を果たしなさい。

そして今の混乱した世界を、愛の世界に変えなさい。

あなたをいつも見守り、応援していますから。

自分探し、あなたという存在

自分は何者なのか、どこから来て、どこへ行くのか?

 

日常の喧騒から離れてひとり静かにしている時、ふとそのような思いが沸き起こって来た経験というものが、誰しもあると思うのです。そして大抵は結論を見出せぬまま「余計なことは考えないでおこう」とその思いを打ち消し、また日常の喧騒の中に戻っていく。なぜかと言えば、そんなことを相談できそうな人が、自分の周囲にいそうもないから。言い換えれば、誰しもが分からない。

 

あなたがもし、それを堂々と言葉に出して、周囲の誰彼となくぶつけたりしたら、下手をすると「この人、鬱病かしら」と思われかねない。あなたという「今の存在」の成立に手を貸した親に聞いたとしても、たぶん満足な答えは得られない。学校の先生に訊いてもおそらくは知らない。宗教家に尋ねたら、自宗のマニュアルに載っている見解を、ただ棒読みするだけでしょう。

 

でもね、あなたが「自分は何者なのか」と考えることは、決して無駄なことではないんですよ。それこそが大いなる旅の出発点なんです。この壮大な「宇宙」というものを知るための。そして、「宇宙」と「自分」との関係を知るための。

 

フランスの画家、ポール・ゴーギャンの作品に『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』とタイトルが付けられた、タヒチを題材とした大作があります。タイトルから分かる通り、ゴーギャンは人間存在のこの基本的な命題にストレートにアプローチしようとしていました。それはアーティストならではの直感によって、日常を超えた真理に迫ろうとしたのです。

 

あなたは何者なのか? 実はこの命題については、古(いにしえ)より答えは明かされているのです。しかしその答えを知るためには、あなたという存在が「霊主体従」であるということを、自覚する必要があるのです。なぜなら、この答えは霊的な世界にしか見出せないからです。

 

「この世」という物質世界だけから見ていたのでは、「誕生と死」という人間存在に関する両局面の意味を正しく解釈することはできません。なぜなら、扉の向こう側が、依然不明のままだからです。だからこそ「どこから来て、どこへ行くのか」という疑問も湧いてくるのです。

 

時空間というものが支配する、この物質世界だけから見れば、確かに、この世に肉体を持った「生」が、ある日誕生し、そしてまたある日消滅するように見える。しかし、それを見つめただけでは、この自分という「意識」が、その前後でどうなるのだという疑問は解けないのです。

 

これはちょうど、「宇宙」の創生ということと相似形を為した命題になっているのです。

 

今の『ビッグバン理論』では、ある日ある時、「無」から突如「宇宙」が誕生したのだと言い、誕生したからには消滅する日もきっとあるのだろうと言っています。では、「ある日ある時」というのは何なのでしょうか? その瞬間はどうやって決まるのでしょうか。どうすれば、「無」から突如「ある日ある時」が生じるというのでしょうか? それまでは「時間」も「空間」も無かったのですよ。

 

「無」から、ある日ある時、自発的に「有」が生じるということであれば、それは「無」ということにはならないのではないでしょうか? そうさせる何らかのフォースが加わらなければ、変化など起きようがないのではないでしょうか。そして、そのフォースが有ったということになれば、「宇宙」が誕生する以前は「無」だったという前提そのものが崩れてしまいます。

 

このように、宇宙の創世に関する疑問は、人間の誕生に関する疑問と、完全に相似形を為しているのです。どちらも、物質世界だけから説明しようとした際には必ず論理的矛盾にぶち当たる。そもそも「無」とは何なのでしょう? 「無」を簡単に口にする、科学者、哲学者、宗教家には、「これが無だ!」というものを、ぜひここに見せていただきたいと思います。

 

宇宙というのは、完全なホログラフィック構造を持っていて、大きいものも小さいものも、超巨大なものから極小のものまで、組成はみな同じなのです。大宇宙をマクロコスモスといい、人間をミクロコスモスというゆえんです。人間は神に似せて創られたということの意味はそこにあり、人間の肉体を構成している元素も、実際宇宙と同じものです。

 

「宇宙」には始まりも終わりもなく、したがって「無」もなく、「宇宙」はただただ「変化」し続けているのです。そしてこの「変化」こそが「生命」の実相なのです。「宇宙」の別名はまだまだあります。「宇宙」は真理、「宇宙」は自由、「宇宙」は愛、「宇宙」は知恵、「宇宙」はつながり、「宇宙」は永遠、「宇宙」はエネルギー、「宇宙」はバイブレーション、「宇宙」はプロセス。そのどれもが正しい。

 

これらの一切合切が「宇宙」。

よって「宇宙」は一つ。一つが全部。

All is one.  One is all.

全部が “それ” 。“それ” が全部。

この “それ” を、ある人は「神」と呼ぶ。

 

あなたは何者なのか? どこから来て、どこへ行くのか?

その答えが、ここにあります。

 

あなたは「全部」の一員だ。だから「全部」のことを、もし「神」と呼ぶのであれば、あなたはご自分のことを、堂々と「神の一部」だと言っていい。いやもっと「私が神だ」と言っても構わない。なぜって、それが事実なのだから。でも忘れちゃいけないよ。全員がそうなのだということを。全員が「神の一部」なのだということを。そしてその総体が「神」なのだということを。

 

あなたは「神」より出でて「神」に還る。地上での体験を、自由に行うために。その乗り物として借りたものが今のあなたの肉体だ。だから、乗り物をいたわってあげなさい。粗末に扱ってはいけないよ。乗り物が発する警告を聞きなさい。手入れを上手にしてあげなさい。そして、この乗り物を最大限使って、自分の想いを表現し、行動し、体験するのです。それが、あなたという人間を決める。

 

あなたは「神」だ、「神の一部」だ。これが一つの結論。でも、そこから一部(a part)となって分かれたあなたには、もう一つの「自分探し」が待っている。それが、今のあなたという存在、その意味だ。

 

人生に意味はあるのか? それを、いくら探そうとしてもダメだ。ジェネラルな意味なんて所詮ないのだから。人生に意味などないんだ。目的はあってもね。

 

「えっ」と驚くことはないし、途方に暮れることもない。目の前を見回してご覧なさい。コーヒーカップがあるとしましょう。でもそれがコーヒーカップだと決めたのは誰なんだろう。それにご飯をよそって食べたっていいし、味噌汁を入れたっていい。お米を量るのに使ってもいいんだ。いいかい、ここで重要なのは、周囲のものは全部あなたが意味を与えているってことなんだよ。

 

ものごころが付き始めた幼い子と付き合ってご覧なさい。うるさいくらいに「ねえ、これなあに?」って訊くよ。それは、まだ意味を与えていないってことなんだよ。典型例はゴミだ。その瞬間までは有効に使っていたものを、ある瞬間からあなたはゴミという意味に変えてしまう。でもそれを拾い上げた人が、骨董という新たな意味を与えるかも知れないよ。

 

ここに気づくんだ。今の世の中の不幸は、外側の条件が、自分というものを規定させていく(と思い込む)ように仕向けられていることなんだよ。いわく、あなたは金持ちだ、貧乏人だ、どこそこ出身だ、職業はこうだ、肩書きはこうだ、障害者だ、病気持ちだ、独身だ、老人だ、デブだ、ヤセだ、etc.。

 

「ねえ、これなあに?」と訊いた、無垢なあの日を、ほとんどの人間が忘れてしまったんだ。そして、外側からやってくる「意味」を、他の誰かが作り出した「意味」を、無条件に受け入れてしまっている。この状態を「洗脳」と言うんだよ。

もう一度言うよ。周囲のもの全部に意味を与えているのは、実はあなただ。

 

なぜ、自分にだけは、自分で意味を与えない?

 

いいかい、人生に意味などない。意味を与えるのは、あなたなんだよ。そしてそれは自由なんだ。大切なのは、「自分はこういう存在としてありたい」と、自分が決めることなんだよ。それが、実は「自分探し」ということなんだ。チルチルとミチルの話を何度かしたけど、自分を探そうとして、いくら外に旅に出たって発見などはできない。自分が自分に意味を与えた時、わたしが決まるんだ。

 

あなたが、「こういう存在でありたい」と決めた時、あなたの思考が決まり、あなたの行動が決まる。それを Be Here Now で生きて、その生きた連続した軌跡が、あなたの人生なんだよ。それがハッピーというものなんだよ。だから、あなたにはお願いしたいんだ。素直な存在、誠実な存在、苦しんでいる人を助ける存在、溢れんばかりの愛に包まれた存在となることを。

 

今ここで、そういう人になることを宣言して欲しい。

 

そう、分かった。あなたの宣言を受け止めたよ。

『虹の学校』のこれから

ホームページをリニューアルしました。春までには改変したいと思っていたのですが、他の作業もあって延び延びになってしまいました。『虹の学校』を開いたのは2012年の4月2日。以来5年経過したのですが、3年めくらいから自分自身のホームページに違和感を持つようになりました。早く改変したくて堪らなかったのですが、進むべき方向が定まらずに逡巡していました。

 

今回、作業をする中で改めて接してみて、5年前の自分が凄く恥ずかしかったです。うちの田舎の言葉で言うと、しょうしい(笑止)です。肩に力が入っているというか、当時はまだ、あんまり解っていなかった。見切り発車でした。それに、自分を「理解して欲しい」「認めて欲しい」というエゴや、怒りや嫉妬心や憂鬱がだいぶ残っていました。そこが特に恥ずかしいです。

 

自分の「根が恥部」のところがたっぷり出ている。あー恥ずかしい。穴があったら入りたい。入って生き埋めになりたい。生き埋めになってもう死んでしまいたい! ほらまた出た、「根が恥部」が。これを、もっともっと「保持智部」に置き替えていかないとね。あと数年したら、また今回のリニューアルが恥ずかしくなるかも知れません。

 

ついでに言っておくと、自分の「根が恥部」を解消するポイントは、それを笑いに変えて周囲に語ることです。そうすれば、自分は開放されるし、周囲の人たちを和ませることができる。まさに一石二鳥。周りの人たちが笑うのを見て、「ああ、自分の思い込みに過ぎなかったんだ」と気づかされることでしょう。逆に言うと、笑って話せない間は、まだまだだってことですねぇ。

 

それが、この『気づきの啓示板』の作業を通じて、徐々に鍛えられ変わっていきました。『気づきの啓示板』というタイトルも、スタート時はダジャレのつもりで付けたのですが、今にしてみれば、これ自体が啓示だったのかなぁ、と感慨深いです。初期のものはホームページ同様、恥ずかしい部分が多々あるのですが、合作部分もありますし、成長過程をさらけ出す意味で、これは削除せずに残しておきます。

 

今度のリニューアルで、間口がいっそう狭まったと思います。自分が成長するに連れて、セミナーに来てくださる方もどんどん減り、今は5・6人。今後はもっと減るでしょう。もちろん狭めることが目的ではなく、より多くの人が「宇宙の真理」について目を見開いてくれれば、平和でハッピーな社会が実現するとは思っているのですが‥‥。

 

この数年で、自分の役割は Re-creation ではない、と意識するようになりました。破壊と創造は、いっぺんには出来ないのです。先ず破壊した後に再創造が始まる。私の役割の一つは、たぶん「破壊」です。既存の秩序、既成のものの考え方、そしてスピリチュアリティに関する今までの刷り込みまでをも破壊する。

 

ですから私はハカイダー。「正義も悪もいらないぜ!オレの名はハカイダー」。まさにこのキャッチコピーの通りです。このコピーを考えた人は凄い、本質を突いている! 今は人知れず、日陰でひっそりしているからいいのですが、これがもし目に付く存在にでもなったら、共謀罪でしょっぴかれるかも知れませんねぇ。

 

それだけじゃない。こいつのインチキを暴いてやろう(どうぞどうぞ)。トンデモ性も暴いてやろう(だから最初から解る人にしか解らないって言ってるってば)。隠し財産を暴いてやろう(そんなのないって)。不倫を暴いてやろう(残念でした、カミさん死んじゃって独身なんですぅ)。という情熱に命を燃やす人が出てくるかも知れない。そこまで行けば本物だ!

 

とまあこれは冗談ですが、ある人から見れば、危険思想であることは間違いありません。過去世でも同じことをしていて、異端として宗教界から追い落としに遭ったり、古代ローマ時代には処刑されたこともあります。そういうことも、この5年でずいぶん思い出しました。そして「宇宙の真理」についても、かなりのことを思い出しました。

 

私の役割の二つめは、それを現代の言葉で、現在の科学で、そして今どきの感覚でひも解いてお伝えすることです。私がお伝えすることに、新しいことは何ひとつありません。全部、古代から言われて来たことの焼き直しです。どの時代にもメッセンジャーがいて、みなその時々の言葉で語って来ました。私はそれを、インターネットという現代のツールを使ってお伝えするだけです。

 

たとえば、「この世は幻である」。これは古代より言われて来た真理です。あなたも、これまでに、たぶんその言葉を耳にしたことがお有りでしょう。でもそれをただ言っただけでは、現代でもなお遠すぎるのです。この世の常識とは、余りにもかけ離れているから。きっと理解の糸口さえ掴めないことでしょう。私の役割は、そこに橋渡しをすることです。虹の架け橋となって。

 

英語の Education の意味は、その人が持っているものを「引き出す」ということで、私にはそれしか出来ません。というよりも、それ以上はやってはいけないのです。日本語の「教育」という言葉は最悪で、それが正しいと信じている人は、一生懸命「教え育てよう」とする。けれども、「魂」の世界ではそんなことは必要ないことですし、やってはいけないことなのです。

 

小学校に入学してまもなく、「ここは牢獄だ」と思いました。家が「地獄」だったので、「地獄」と「牢獄」の間を行ったり来たり。いつも怯えていて、それで中三まで夜尿症が治らなかった。ここから、私の「根が恥部」が始まったのです。ですから、義務教育や学歴といったものには、反発心しか持ちませんでした。予習や復習をしたことなど一回もなく、復讐心だけをたぎらせていました。

 

教師たちはみんな、「この答えが解る人は手を挙げて」とやっていました。ですが、これは最悪のやり方です。第一に、「答えは自分が持っているぞ」と、子どもたちに押し付けている。第二に、「ジャッジするのは私だからね」と言っている。第三に、「私の答えに近づけた人は、他の人より優秀なのよ」と思わせている。これぞ、ロボット化教育の最たるもの。Education とは真逆です。

 

見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。ロボット化教育のこれぞ成果ではありませんか。

 

ということで、教育一つ取ってみても、「宇宙の真理」から語ることは、この世の常識とはまるでかけ離れているので、常識人にはトンデモ話にしか映らない。これが、歴代のメッセンジャーたちが打ち壊せなかった人間世界の厚い壁なのです。私も同じことになってしまうかも知れませんが、しかし役割は役割。自分はハカイダーとしてこの先も生きます。

 

「宇宙の真理」を掴むことは、実は非常に簡単なことなのです。(これも、きっと遠くに聞こえるでしょうが)あなたは、最初から知っているのです。だから、それを思い出すだけでいい。『虹の学校』は、それをエデュケートする(引き出す)手助けをするだけです。ただし、そうするためには、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めなくてはならないのです。

 

「なんだ、そんなこと?」と思えるでしょうが、これが今の地球人には難しいのです。誰かがした観察結果を教えられて、それを信じ、誰かの考えに賛同し(いいね)、誰かの言いつけによって行動することが、身体の隅々にまで染み付いているからです。あまりにも深く染み付いているので、自分がロボットになっていることにすら気がつかないくらいです。

 

前にも書きましたが、みんなスマホやコンビニを使っていると思っているのでしょうが、それらに使われていることに気づいていない。自分の思考回路が、すでにそのシステムに組み込まれているんですよ。ですから、新しいツール(道具)は、よほど用心しないといけない。これからAI(人工知能)がさらに進化し、ロボットが生活の隅々にまで進出して行くでしょうが、その暁には、地球人類は存在意義を失ってしまうことでしょう。

 

あなた方は、みんな梯子段の上に乗せられているのです。人によって、今いるところの段数は違うのですが、「もっと上を目指すんだよ」「上に昇ると、きっといいことがあるよ」と言われて、既にそこまで昇って来ているのです。上の方にいる人たちの中には、下から上がって来る人たちを「もう来るな!」と言って蹴っ飛ばす人もいるのです。

 

しかしどうでしょう。人間、昇ることは比較的容易なのですが、降りる方が難しいのです。子どもの頃、木の上に昇ったはいいけれど、降りられなくなったという経験はありませんか? 一度昇ると、降りるのが怖い。高ければ高いほど怖い。ですから、しがみつくのです。見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。「地位に恋々として」いる人たちを。

 

「宇宙の真理」は、実に簡単で、たった一つのことから始まり、あなたが、ご自分で、そのたった一つのことを類推していけば、全部の答えが出てしまうのです。グル(導師)もいらなければ、信仰もいらなければ(むしろ邪魔)、聖典も教典もいらない。もちろん、このサイトだって、『虹の学校』だっていらない。秘儀も秘教もない。あなたの中に、最初から答えが全部ある!

 

えっ、「そのたった一つのこととは何か」ですって? いま言ったじゃないですか。気がつきませんでしたか? たった一つのことですよ。

そう、それです。

 

ところが、いま昇っている梯子段から降りるのが難しい。第一に怖い。第二に、果たして降りて行っていいものかどうか確証が持てない。そこで多くの人は、その梯子に乗ったまま、空中に手を伸ばして何かを掴もうとする。ですが、そんなところに「真理」はない。先にも言ったように、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めない限り、「真理」には出会えないのです。

 

あなた方は、親からの刷り込み、学校からの刷り込み、会社からの刷り込み、世間からの刷り込み、マスコミからの刷り込み等々で、がんじがらめの中に暮らしていて、「この社会はちょっとおかしい?」という直感は抱きながらも、思い切って梯子段を降り始めるということが出来ない。自分を信じ切ることが出来ないし、落ちてもセーフティネットがあることを信じられない。

 

でも、その中でも、ごく少数の人たちが勇気を出して梯子段を降り始め、少しずつ少しずつ降りて、数年かかってついに地上に降り立つ。これがホップ。次いで、自分の直感に従って、自分の好きな方向にステップを踏む。すると、そこに扉が開いている。そこをくぐると、あなたは自動的に光に導かれてジャンプする。なんの努力もいらない。そこで、「そうか、実に簡単なことだったんだ」と、やっと解る。

 

その少数の勇気ある人を探して、休止していたセミナーを再開することにしました。「アセンション・クラス」という年間講座です。9月から1年間、毎月最終土曜日の10時から16時半です。私はここで、自分が60年かかったことを1年間でお伝えしたいと思っています。そしてこの人たちが、将来の Re-creation の担い手になってくださることを願っています。これが私の三つめの役割。

 

ごくごく小さな集まりですが、ピン!と来る方は、必ずいらっしゃると信じています。

 

もし私が、由緒正しい家系の出で、有名大学を卒業して、成功者で、資産家で、大規模な組織の長で、著作が何点もあったら、人々の見る目は違うでしょう。また、霊視をウリにして、高い料金設定のセミナーをすれば、「ひょっとして何かあるかも」と思うでしょう。が、そのいずれも私にはありません。

 

もし私が、自分を「先生」と呼ばせて、これこれの講座の修了者には、しかじかのお免状を与えるし、マントラもお授けするし、チャクラも開いて上げると言えば、がぜん学習意欲が沸いて、元を取らなきゃと思うでしょう。「そうか、この人は先生か」と近寄り難く思うでしょう。が、そのいずれにも私は興味がありません。

 

実にそこが問題なのです。私ではなく、あなた方がです。私は馬の骨です。しかし私がこう言ったら、あなた方はどうするでしょうか? ここに、シャネルと、アルマーニと、ドルチェ&ガッバーナと、ZARAと、ユニクロと、GUと、しまむらの服を並べて、「どれでも好きなものを一つあげるよ。タダだよ」と言ったら。ただし、ネームタグは全部切ってあります。

 

誤解しないでくださいよ。しまむらよりシャネルの方が上だって言ってるんじゃないですよ。アルマーニを選んだあなたには審美眼があると言いたいんじゃないんですよ。(他と比べて)『虹の学校』を選べと言っているんじゃないんです。何を選んだっていい。どのみち自分の段階に応じたものしか選ばないし、選べない。

 

そうではなく、タダのものこそ、タダになった時こそ、自分にとっての本当の価値の意味が炙り出されると言いたいのです。

 

世間が決めた価値指標から離れたあなたは、きっとご自分の好みや直感を駆使して選ぶことになるでしょう。そうなってこそ、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動した一歩となったのです。それが、一つ自由になるということです。一段、梯子段を降りるということです。そして、梯子段をぜーんぶ降りた時、あなたは完全な自由を知る。そしてジャンプの準備が整う。

 

解りましたか? えっ、解らない? 困ったなぁ。でも、共感して下さる方が必ずいらっしゃると思っていますし、上の存在からは、「縁ある人は私がアレンジする」と明言をいただいています。ですから「この機会を待ってました!」という人は必ずいる。案内をお読みになって、「これだ!」という方は、どうそお問い合わせください。特に今回は、地方在住の方に来ていただきたいです。

 

それと、東京の自宅を開放して、ささやかな集会所を作りました。6人も入ればいっぱいになってしまうようなところですが、ここから温かな波動を日本全国に拡げたいと思っています。心の底からリラックスして、思い切り自由を感じられるような場にしたいと思っています。前に縁があったけど、その後、遠ざかってしまったという方も、よければ気楽にお越しいただければと思います。

真理の世界は彼岸ではない

宇宙の真理は一つです。真理というのは、何かを成り立たせている根源的な理法(Fundamental  Theory)のことを言います。何かを成り立たせている背景には、必ず成り立たせている理由と法則があるのです。秋に庭に埋めておいた球根から、春先になって芽が出て花が咲く。このような現象一つとっても、そうなる理由と法則があってそうなっているのです。

 

では宇宙全体を考えたらどうなるでしょう。宇宙が成り立っているということは、そこにも成り立たせている理由と法則があるということです。そして宇宙は一つなのですから、当然、真理は一つということになります。理論物理学ではマルチ・ユニバース(複数の宇宙)という考え方も提唱されていますが、Multi-universe を包む全体を考えれば、やはり一つです。

 

仮に真理が二つあったとしましょう。AとBです。Aは我こそが真理だと主張する。BはBで、我こそが真理だと主張する。そうすると、AからすればBは真理ではないということになり、BからすればAは真理ではないということになって、矛盾が生じます。結局、AもBも包含するCを立てなければいけなくなり、結論は、やはり「真理は一つ」というところに帰着するのです。

 

既成宗教が犯してきた間違いは、そのほとんどが「我こそが真の道」と言って憚らないことです。そして我以外は邪宗、邪教だと言って攻撃してきました。これがどんなに欺瞞的な言葉であるかは、いま言ったことを考えていただければ容易にお解りでしょう。どんな道を通ってもよいのです。どんなルートを通っても、頂(いただき)は常に一つです。

 

あなたが富士登山をするとしましょう。先人たちが作った歩きやすいルートが、吉田ルート、須走ルート、御殿場ルート、富士宮ルートと4つある。あなたはこの中のどの道を選んでもいいし、あえて選ばなくてもいいのです。選ばずに、人跡未踏の道を、自分で開拓して行っても構わない。でも変わらないものがある。それは頂上は一つということです。

 

頂上は、どんな人にも頂上であり、そこに今あり、燦然と輝いている。これは素晴らしいことだとは思いませんか? どんな人も差別したりしていないんですよ。お前は来るなとは決して言わない。いつでもそこにあるんですよ。「さあ、どうぞ、いらっしゃい」と。

 

ただ「ある」ということを、意識して生活するかどうか、山登りをしてみようという気になるかどうか、そして実際に登り始めるかどうかで、歩みに差が出てきます。山登りにまったく興味がない人にとっては、目の前に後光が射す山が聳えていても、その人の目にはそれがありがたいものだとは、ちっとも映らないのです。でもその人だって、いつかは山登りを始めるのです。

 

私たちは宇宙の一員です。ということは、最初から真理の中にいたのです。以前にザルの例えを書きましたね。ザルで水を掬いに来ても、みんなジャージャーとこぼれてしまうんだと。ではザルを水で満たすにはどうしたらいいのか。それはザルごと水に沈めることだ、と書きました。実はこの話には、まだ続きがあったのです。

 

ザルは、最初から水の中に沈んでいるんです。ですから、自分の身を水の中に沈めるというのは、そんな断崖絶壁から湖に飛び込むというような、格別の勇気を必要とするものでもない。ただ、そこに気づくだけでよかったのです。

 

山は、いつでも目の前にあるんだと。自分は、その頂上に至る地平に、今まさに立っているんだと。

 

真理の世界というのは、彼岸(向こう岸)にあるのではありません。この世があって、あちら側にあの世があるのではないのです。あの世の中にこの世が最初から含まれている。この世というのは、物質的世界から霊的世界までを含む、すべての宇宙の、ごくごく限定された世界に過ぎないのです。私たちは最初から、真理の海の中に生かされているのです。

 

それなのに、どうしてこの世は、こんなにも混乱しているのでしょうか? それはこの構造に気づく人があまりにも少ないからです。みなさんから見れば、霊的世界というのは、とても不思議なものに思えるでしょう。でも多次元的世界にいる者たちからすれば、人間たちの方が不思議です。

 

人間たちは、どうして争いごとを止めないのでしょう。争いごとが決して幸福をもたらさないということはみんな分かっているはずなのに、せっせとそっちへ向かおうとする。あまつさえ、そういう人を賞賛する文化まである。平和を希求する人を「平和ボケ」と言って揶揄する人すらいますが、全世界の人が「平和ボケ」になったら、どんなに素晴らしい地球になるでしょうか。

 

全世界の富の半分を、わずか62人の大富豪が握っています。その一方で、貧困に喘ぐ人々の数は減るどころか、むしろ拡大しているという矛盾。一生かかっても使い切れないほどのお金を、大富豪たちが貯めこむ理由は、一体どこにあるのでしょうか? お金というのは、経済循環のための単なる道具です。動かないお金を分け与えて動くようにしたら、人々にどんなに笑顔が戻るでしょうか。

 

宇宙から見れば、人間たちの行動はとても不思議です。どうしてこんな簡単なことすら解らないんだろうか、と思うのです。競争をして、奪い合って、勝ち負けを作って、それで勝ちほこる人と負けて悲嘆にくれる人を分けて、みんな心をズタズタにして、それでも奴隷のようになって働いて、そして人生が解らない、生きる意味が見つからないと言っている。

 

宗教家ですら、この世における「成功」という幻想をエサに、霊的世界のドレッシングをかけて、「さあ、お食べ」「うちしか、こんなにおいしいものはないからね」と言っている。まったく不思議です。

その何が面白いのか、楽しのか、ハッピーなのか。

 

あなたの視点を、ずっとずっと上に上げて行って、宇宙にまで引っ張り上げて、地球に暮らす人間たちの姿を見てご覧なさい。今日もドタバタと、どうでもいいことに血眼になって騒いでいる人たちの姿が見えませんか? 内閣改造?あなたに何か関係がありますか? 松井一代さん?あなたに何か関係がありますか? 謙さんの不倫?あなたに何か関係がありますか? 

 

自分には何の関係もない、どうでもいい話にばかり振り回されて、しょっちゅう目をキョロキョロさせていたら、目の前にある山になど、気づくはずがないではありませんか。本物と偽物を見分ける目が、育つ筈がないではありませんか。自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか、解るはずがないではありませんか。

 

人間たちよ、目を覚ますのです。この集団催眠状態から抜け出すのです。気づいた人たちから、先ず歩み始めなさい。山はいつでも、変わらずにある。あなたのすぐ横にある。あなたが気がつき、登り始めるのをいつでも待っている。

自分の波動が上がるということと、そうなった時の対処法

最近、続けざまにお二人の方から、体調および身体感覚の急激な変化や、周辺環境の激変といった事態に関しての、ご相談を受けました。

 

お二人とも、最近、急にスピリチュアルなことに興味が湧きだして、特段、「行(ぎょう)」をしているというわけでもないのに、それ以来、どうも体調が優れず、心が不安定になったり、家庭や職場環境が大きく変わったりし出して、「いったいこれは何だろう?」と思い、不安になって相談に見えられたのです。

 

それを聞いて、私自身が「なるほど」と気づかされ、そういう方は、もしかしたら他にもいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、なぜそのような体調や心や環境の激変が起きるのかということと、そうなった場合の対処法や注意点について、お話しておきたいと思います。

 

地球は今、非常に大きな転換期を迎えていて、その転換を促すために、地球には、宇宙からとても強いエネルギーが大量に注がれています。このエネルギーは、もちろん人間の目には見えませんし、今ある機器で観測することもできません。これは、非常に精妙な、振動するエネルギー体で、象徴的に「光」と呼ばれることが多いのですが、高い周波数を持った、いわゆる「波動」です。

 

*「アセンション」のこと。地球の霊的次元が、三次元から五次元に移行する。

 

「光」「波動」と聞いて、きっと眉をしかめる方もおられるでしょう。けれども、地上に降り掛かるエネルギーが非常に高まっていることは確実です。

みなさんは、その影響が及ぼす「結果の世界」を見ています。社会の混乱、人心の荒廃、そして気候の極端現象というかたちで。

 

先に書いた、ご相談に見えられた方というのは、この「波動」の追い風をいっぱいに受けて、心身の覚醒が、特段の「行」をせずとも、ナチュラルに進んでいるものと思われます。もちろん、そうなる資質があったからこそなのですが、このブログの読者には、同様の感じを抱かれている人もきっと少なくないと思いますので、今日の話をよく読んで、対処していただきたいと思います。

 

先ず、みなさんに知っておいていただきたいのは、この高い「波動」のエネルギーは、どの人にも満遍なく注がれているということです。

 

しかしそこで、大きく二つの生き方に分かれるのです。このエネルギーを追い風にする生き方と、向かい風にしてしまう生き方です。風はどの人にも公平に吹いている。でも進む方向が違えば、同じ風が、追い風にも、向かい風にもなってしまうのです。さあ、どっちへ行くか。選ぶのは自分です。

 

このエネルギーを「光」だと考えてみてください。ふんわりした暖かさを求めている人にとっては、縁側でうたた寝している時のような、それはとても心地よいものでしょう。でも、日陰のじめじめしたところが好きな人にとっては、眩し過ぎて、すぐに立ち去ってしまいたくなるでしょう。それに、隠しておきたかった部分に「光」が当たってしまうので、大いに困る人も出てきます。

 

ここで、その人の今までの生き方や、理想に対する想いの違いが、はっきりと影響を持って出てきてしまうのです。これは何度も言ってきたことですが、いま世の中に見られる混乱というものは、地球に、宇宙からの強い「光」が注がれるようになったことで、今まで「闇」に隠されていたものが表にあぶり出されるようになったことから、それが見えているのです。

 

これは、宇宙の非常に長いサイクルの中の上昇期、季節で言えば夏に当たっていて、すぐに秋や冬になるということはありません。しかし、今まで「闇」に居たものは、また「闇」で栄華を誇っていたものは、変化に抵抗を示して、今までの権勢をなんとか維持し続けようとするでしょう。しかしそれは、宇宙の自然な流れに逆らうことですから、そこで様々な混乱状態が起きて来るのです。

 

みなさんもきっと不思議に思っていることでしょう。権力者が、まるで幼稚園児かと思うような、誰が聞いてもすぐに嘘だと分かるような嘘を平気で言う。そうかと思えば、まるで駄々っ子のように、我儘を言い、相手を脅しつけ、癇癪を起こしてオモチャ(それは人の命までも奪ってしまうものですが)を投げつける権力者もいる。それはみな、今までの権勢を維持したいという焦りからの行動なのです。

 

はっきり申し上げて、人や物に対する支配欲が強大だからこそ、権力者になれるのです。人や物に対する搾取欲が強大だからこそ、大資本家やグローバル企業の経営者になれるのです。名声欲や名誉欲が強大だからこそ、大先生や時代の寵児(ちょうじ)になれるのです。そしてこれが、人間社会に特有の、霊性とは真逆の、狂った尺度なのです。

 

今までの世の中というのは、そういう上下の物差しの中に、人間の価値というものが規定されるのだとみんなが信じ、そこで頑張ったごく少数の者が、権力やお金や名声を得て来ました。でもその構造が維持され続けるためには、みんながその価値観を共有しなければなりません。そしてそれを信じ続けなければなりません。

 

そこで、学校教育や、マスコミや、著名人の講演会などを通して、繰り返しその価値観が植え付けられて来たのです。そして、幼い頃から他人と自分とを比較させられ、みんなとちょっとでも違っていれば「障害者」のレッテルを貼られ、競争をさせられ、優劣の判定を下され、大多数の人が「私は社会にとって価値のない人間」と思い込まされて来たのです。

 

ある意味、権力者や大資本家や時代の寵児というのは、その価値観に最も洗脳された人たちだとも言えます。でもそれが、ひっくり返ってしまったらどうなるのでしょう。1パーセントを生み出すために、99パーセントが奴隷としてコキ使われ、搾取され、嘘を吹き込まれ、幸福になることすらも破壊されていると、民衆が気づいてしまったらどうなるのでしょう。

 

当然ですが、成り立ちません。いま地球に起きている大変化というのは、まさにその過程にあるのです。一般の民衆からすれば、今まで気づいていなかったこと(社会の裏にある支配の構造)にだんだんと気づく。権力者や大資本家や時代の寵児にとっては、その構造基盤が揺らぎ始める。その変化の過程を、今まさにみなさんが見ているのです。

 

ここで大事なことは、目の前で展開されていく変化に、いちいち反応しないことです。マスコミなどは、どうせ嘘八百の話を捏造して流し、いっときある話題で盛り上げても、賞味期限が過ぎれば全部を尻切れとんぼのままスッと終わらせ、また次のネタを流すだけです。こんなものに付き合って一喜一憂していたら、世の中の変化の裏側にある真実が全く解らなくなってしまいます。

 

そうではなく、そういう個々の現象の裏に、どういう意味が隠れているのか、どうしてそんなことがいま起きているのかを俯瞰して見るのです。宇宙の視点から見るのです。そうすれば、個々の事件が、いま言った大変化の過程で噴き出している膿(うみ)のようなものだということが解るでしょう。これが、これまでに何度も言ってきた「カルマの浄化」なのです。

 

「カルマの浄化」とは、「受けること」だということは前にも申し上げました。誰かにカルマを取って貰うということは出来ません。自分が撒いた種は自分で刈り取る。これが「カルマの法則」であり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。自分が為したことは、必ず自分に返って来るのです。片方に振られた振り子が必ず逆振れするように、そうやって宇宙のバランスが保たれるのです。

 

この「カルマの浄化」が、地球に注がれるエネルギーが強くなったことで、今まで隠れていた暗闇にも光が当たるようになり、表にどんどん出て来ているのです。このため、闇に生きて来た人たちは苦しくなって、苦し紛れの、破れかぶれの行動をエスカレートさせているのです。ですから、みなさんは、それらに巻き込まれることのないようにしなければなりません。

 

そこでもまた、起きている現象をちょっと離れて見るということが大切です。そうすれば、彼らがいかに幼稚な、馬鹿げたことをしているかが容易に解るはずです。

 

実は、当たった光がみんなに公平であるのと同じく、「カルマの浄化」もみんなに公平に起きているのです。公平に起きてはいるのですが、二つの点で、その顕われ方に差が出て来ます。一つは、それまでに自分が何を為してきたかということ。「カルマ」というのは、何も悪いことばかりとは限らないのです。そしてもう一つは、噴き出した「カルマ」に対して、自分がどのように対処したかです。

 

「カルマの浄化」は、自分が為したことの清算であり、そこには何らかの建設的な意味が必ず含まれています。自分の周囲に起きる物事に意味を与えているのは、常にその人自身なのです。ですから、どんな意味を見出すかによって、同じ起きた出来事を、生かすことも殺すことも出来るのです。霊的成長というのは、そこに気づきを見出して、反省すべき点は反省するというところから起こります。

 

そのためには、噴き出した「カルマ」にきちんと向き合って、そこに示されているメッセージをしっかりと掴むことです。これを日々心がけて生きているかいないかによって、その人の霊性の成長度合いというものは大きく違って来ます。ただし、そうするためには、何よりも先ず素直で、正直でなくてはなりません。これがなかなか出来ないのです。エリートと言われる人ほど出来ないのです。

 

なぜかと言いますと、素直で正直になって自分を見つめることは、今までの自分を形づくって来た価値観および環境が根底からひっくり返ることになってしまうために、恐怖が先走るのです。そのため、とっさに嘘をつく。本人は、それが自分を守るためだと思っているのですが、自分の「魂」に嘘をつくのですから、実は自分をますます痛めつけているということになるのです。

 

これも無智なるがゆえです。 もし「カルマの法則」というものを知っていたら、カルマの雪だるまを転がすような、そんな馬鹿なことは決してしないでしょう。結局のところ、社会の刷り込みによって出来たエリート意識の価値観にガチガチに染まっていて、それ以外の生き方というものを全く知らないのです。憐れには思いますが、本人がそれを選択したのですから仕方ありません。

 

さて、冒頭の話に戻ります。心身の急激な変調に関しては、いま申し上げたような「カルマの浄化」というものが一つには影響しています。しかし、みなさんの場合には、その影響はそれほど大きくはありません。なぜかといえば、みなさんは、きちんと向き合おうとされる人たちだからです。むしろ、向き合い過ぎて、考えす過ぎないようにした方がよいかも知れません。

 

「カルマの浄化」に際しては、起きている出来事に対して、いちいち「これはカルマなんだろうか?」と詮索して、あれこれネガティブなことを考えるよりも、「これによって、自分にいま示されているメッセージはなんだろうか?」と建設的に考えて、反省して、次の行動に向かった方がずっとよいのです。「カルマの浄化」は、過去の自分が送った、自分へのギフトだと思ってください。

 

みなさんの場合は、「カルマの浄化」によって心身に変調を来しているのではなく、ご自身の波動が上がったことによって、変調が訪れている可能性の方が、むしろ高いと思います。

 

これを聞いて、「えっ、波動が高くなるのにどうして?」とたぶん不思議に思われるでしょう。これはどういうことかと言いますと、宇宙から来ている高い波動に対して、先ず自分の奥にある霊性が反応を起こします。そして興味を持つだけでなく、心をピュアに保つ努力をしていると、高い波動との同調が起き、高い波動に引っ張られて、自分の波動の振動数が上がるのです。

 

そうしますと、宇宙エネルギーの受容器官であるチャクラ(頭頂部から尾骶骨にかけて、背骨に沿って7箇所ある)が、それに対応して高い波動にも反応するようになるために、その過程において心身のバランスが一時的に崩れるのです。これは、それまで低い波動レベルでそれなりに安定していたものが、自分が出す波動が高くなるために、バランスが崩れてしまうことから起こります。

 

このバランスの崩れ(実際は上昇であり覚醒)が、どのように出るかは人によって違い、その人のウィークポイント(課題)であったチャクラの部位に対応した箇所に、変調が起こります。痛みを覚えたり、マグマの噴火のような感じがあったり、頭痛がしたり、肩や腰が重くなったり、気持ちが不安定になったり、イライラしたりと、症状はいろいろです。

 

これらの変調ないし不調の期間は、長くとも1年半くらい続き、それからしだいに終息に向かいます。しかしこれは1回で終わりなのではなく、一つのチャクラが覚醒し終わると、また別の部位に変調が来るといった感じで段階的に進みます。ですから、全部のバランスが整って来るまでには4・5年は掛かることを覚悟しなければなりません。

 

この間は、長いですしちょっと辛いです。私の場合は、誰も指導してくれる人がいなかったので、病気にでもなったのかと思って、とても苦労しました。しかし、そのような変調は、自分の波動が上がって行く過程で起きる一時的なものだということをよく理解して、慌てたり、心配したりしないようにしてください。過程の調整期間が過ぎれば、以前よりも体調がグッと良くなって来ます。

 

ここで、大切な注意点を二つ言っておきます。一つは、その調整期間における変調や感覚的なものの変化を、不安に思ったり、怖れたりしないようにしていただきたいということです。

 

自分の波動が上がりますと、以前には感じなかった波動が敏感に感じ取れるようになります。先ず、聴覚が極端に敏感となり、冷蔵庫のモーター音や、蛍光灯のフリッカー音、外で吠えている犬の鳴き声、自分の心臓の鼓動や血の流れなどの音が聞こえて来ることがあります。これを気にしだすとノイローゼになってしまいます。また、ひどい耳鳴り状態がずっと続くかもしれません。

 

他にも、身体の特定の部位に、今までとは違った感覚が走ったり、声が聞こえたり、光が見えたりすることがあります。自分が接した物や、人間や、テレビや、インターネットなどが出す波動にも非常に敏感になり、低い波動を出している存在に対しては、吐き気のような嫌悪感が生じて来ます。特に今は、社会全体にカルマが噴き出しているので、敏感な人は辛いと思います。

 

いわゆる「波動に敏感になる」という状態ですが、この時に、低い波動を出して来る存在に対して恐怖感を持ったりしてはダメなのです。恐怖感を持つということは、自分の波動を一気に下げるということですから、その隙を突いて、心霊界(第四霊性密度)にいる、動物霊や浮遊霊や闇の宇宙人グループなどの存在がスッと入って来てしまいます。

 

これが、要するに「魔が刺す」ということで、イエスにしろ釈迦にしろ、みんなそういう経験を経ているのです。私もノイローゼになりましたし、何度か憑依されたこともあります。この時は、心がズブズブに沈みますし、肩が異常に重いのでそれと分かります。ですからみなさんには、そういうことのないように、あらかじめよく理解しておいていただきたいのです。

 

要は「怖れるな」ということです。それを「怖いもの」にしているのは、その人の「思い」です。対象物ではありません。闇というのは「光」が嫌いなわけですから、自分の波動を下げないようにして、いつも元気に、正直に、朗らかにを心掛けていれば、それらに入られることはありません。そうやって楽しく生きることが、自分を魔から守ることにもなるのです。

 

霊能を持っておられる方の多くは、この理屈が解っていないのです。自分の感覚だけを頼りにしているので、闇を怖いと思い、その恐怖心から自分の波動を下げ、反対に闇と同調してしまい、そこが発する「恐怖の予言」を、天からのものだと錯覚して降ろしている。そういう人が大半です。早い話が、そうやって闇の手先となってしまっているのです。

 

ここでハッキリ言っておきますが、高次元の存在が「恐怖の予言」などをしてくることは、絶対にありません。なぜだか解りますか? 高次元の存在というのは、すでに波動を高いところに固定化させた存在です。だからこそ高次元の存在なのです。ですから、何を今さら「恐怖の予言」など出しましょうか? そのような低い波動を出すことは、彼らにはもはや出来ないのです。

 

それと、闇の者たちも、同じく神が創った魂なのだということを、よく考えてみてください。なにゆえ、それを怖れる必要があるでしょうか? 彼らは、ちょっと寄り道をしているだけなのです。地上の人間にも、いっぱいいるじゃありませんか。悪さをしたり、からかったり、いたずらをして喜んだりと、寄り道している人間が。

 

それと、もう一つ気をつけていただきたいことは、ご自分の波動が上がるにつれて、いわゆる霊能というものが、いろいろと発現してまいります。その時に、くれぐれも錯覚しないようにしていただきたいのです。霊能というものはオマケのようなものであって、あなたがすべきことは、あくまでご自分の霊性を高めて行くことです。

 

それを、ちょっと霊能が出たからといって、自分を特別だなどと思ったり、商売のネタにしたり、それをエサにして誰かを取り込もうなどとしたりしては、その人の波動は、エゴが発する低い波動にどーんと落ちてしまいます。一般の人は波動が読めませんので、そういう人間に心惹かれてしまうかも知れませんが、そのようなことをする人は、当然大きなカルマを積むことになります。

 

私がいつも残念に思うのは、スピリチュアルな学習を始めた人の大半が、いま言った二つの点で、心霊界に入っていってしまうということです。いわゆるオカルトの方に興味を集中させて行ってしまうのです。どうしてかな?と思います。私たちがスピリチュアルな学習を進める意味は、あくまで人間としての完成を求めるためだということを肝に銘じていただきたいと思います。

 

それと、身の周りの環境が激変するということについても説明しておきます。リアリティというものが何であるかということについては、これまでにも度々説明して来ました。復習しますと、我々というのは、客観的な「現実」というものの存在を証明することは、絶対に出来ないということです。我々が、当然あると思っている世界は、その人の、あくまで「認識した世界」なのです。

 

つまり、我々が「在る」と思っている世界は、実は、個々の人間の中に形成された「リアリティ」に過ぎないのだということです。ではその個々の「リアリティ」は、どうやって創られているかと言いますと、その人の選択行動によります。これは、好みとか興味、心グセ、習慣といったことでも説明できるのですが、もっと底辺を規定しているものは、その人が持つ「波動」レベルです。

 

外に広がる世界というのは、単一のように見えて、実はそうではなく、ミルフィーユのような多次元構造を持っています。これを精神世界ではパラレルワールド(parallel world)と言います。あなたが、ミルフィーユのどの層を食べるかは、その人が持つ「波動」の高さによるのです。ということは、自分の「波動」の高さが変化すれば、見える世界(選択する世界)も当然違って来るということになります。

 

今まであれほど興味を持っていたことが急につまらなく感じられたり、食べ物の好みや、音楽の好み、ファッションや、読む本や、付き合う人まで、何から何までが変わります。見える景色も、その色や輝きも違って来ます。このような「選択の変化」の結果が、その人にとっては、まるで身の周りの環境が激変したように感じられるのです。

 

ですから、一見、外側にあるものが変化したように見えますが、実はあなたの「波動」が変化しているのです。「選択」というものはつねに二段階で起きており、一段階めはその人の「波動」の高さ、その周波数の範囲内で二段階めの選択が行われています。そして「波動の法則」により、その変化した高さに合った世界を、自分の周囲に展開させているというわけです。

 

この変化には、肉体の変化と同様に、辛い時期が訪れる可能性が大いにあります。それまで親しかった人との別れが起きたり、職場が変わったり、住む場所や家が変わったりです。しかしこれらはみな、あなたの「波動」が上昇したことに伴って起きる現象だということを理解してください。

 

何かを喪失したり、別れたりすることは、一時的に痛みを伴います。ですが、ずっと後になれば、それは必要なことだった、必然だったということが分かります。ですから、それまでが辛抱です。

 

ということで、覚醒が始まった人は、しばらくはちょっと苦しい時期が続きますが、踏ん張って、ご自分を信じて、道を生きて欲しいと思います。世間の人たちから見れば、そんなことに何の意味があるのかと思われるでしょうが、光の道に入った人は、もうそうする以外では生きられないのです。

 

それが、その人の使命であり、人々を喜ばせ、幸せにすること以外では、自分を輝かせることは出来ないからです。

ですから、そのような人たちに、あえて苦難の道をゆく人たちに、私のアミーゴたちに、エールを送っておきます。

 

目覚め始めた者たちよ。

歩め、歩め。歩みを緩めるな。あなたの手助けを世界が待っている。

新しい霊性

社会がどのような体制になろうとも、経済活動がどのように変化しようとも、科学がどのように発達しようとも、人間が霊性(Spirituality)に拠りどころを求めようとする気持ちは決して無くなりません。それは、大多数の人々が、自分の本質は「魂」にあるということを、無意識のうちにも感づいていて、その「魂」が、真に幸福な生き方を求めるからです。

 

でも世の中は、一見、霊性とは関係ないところで動いていて、普段の暮らしも、人間関係も、健康や病気に関することも、教育も、心の問題も、それぞれがそれぞれの領域で語られたり、専門家と称する人のアドバイスを受けたりしています。けれども、最後の最後は、人間、霊性です。霊性に帰着する。それは自分という存在の出発点であったのであり、廻り廻って、最後はそこに眼が向けられることになるのです。

 

それを、いったいどの時点で気づくことになるのか? 幼少時なのか、青年期なのか、壮年期なのか、老人になってからなのか、はたまた死ぬ直前なのか。死の間際になっても、結局気づくことなく臨終を迎えてしまうのか。それとも、死にそうな大病をして、あるいは身内を突然失って、あるいはすっかんピンになって、それでハタと気づくのか。

 

多くの人は、人間、最後の最後は「霊性」だと予感していても、世間の手前や、社会の常識の刷り込みや、日常の忙しさ(そのほとんどはスマホに眼を釘付けにしたりというどうでもいいこと)にかまけて、冷静に「霊性」に向き合う瞬間というものがありません。それと、もう一つの大きな原因は、その求める気持ちに、本当に応えるもの、本物がないということです。

 

いや、正確に言えば、本物はいつの時代にもあるのです。けれども多くの人は、それを発見することができない。なぜ発見できないのでしょうか? それは、自分の中に潜むエゴを捨てられないから。捨てられないから、エゴが喜ぶものを追い求める。よくしたもので(と言っていいのかどうか?)、それに応える、エゴに「霊性」をデコレーションしたスイーツが、世の中にはいっぱいあるのです。

 

それを人々はパクッと食べる。そして満足する。でもしばらくするとまた食べたくなる。結局、いつまで経っても食べることをやめない。あっちにおいしい店があると聞けばすぐに出掛け、こっちに有名パティシエの新作が出来たと聞けば行列に並ぶ。見知らぬお宅を訪問しては「あなたも絶対にこれを食べるべきよ。今すぐに!」と言う。そうして、スイーツを売っている人たちを儲けさせる。

 

そんなことしなくていいのに‥‥。自分の中にすべてがあるのに。

 

これまで、人間が求めて止まない「霊性」に回答を示し、応えようとして来たのは、まぎれもなく宗教です。しかし宗教は、いくつかの点で大きな誤りを犯して来ました。その一つに、多くの宗教は、神との交信が出来た霊能者(今の言葉でいえばチャネラー)を創始として興ったのですが、このチャネラーを、神に準ずる崇拝の対象にしてしまたのです。この図式は、新興と言われる宗教においても何ら変わりがありません。

 

逆に言えば、人間は、自分以外の誰かを、崇め奉るのが好きだということです。ここで、崇め奉られるのが好きな人と、崇め奉るのが好きな人の、ニーズが合致する。波長がぴったりと合ってしまう。両者を合致させているものが何かと言えば、お互いが持っているエゴです。「霊性」の皮を被った実はエゴ。人間には上下があって、上に立つ者が偉いんだ、尊いんだという価値観を、互いに共有し合っている。

 

ところが、これが大問題なのです。エゴを抱えている限り、本当に高い次元の真理には絶対に到達できないだけではなく(なぜなら、波長が合わないから)、支配と被支配、依存と共依存(依存者を支え続ける依存)という関係から抜け出せなくなってしまうからです。

 

Love is blind. そこに嵌まり込んだ人は、喜んで、支配と被支配、依存と共依存という関係に精を出していく。そうすることが、神に愛されることだと、ひたすら信じて。

 

騙される者がいて、騙す者が成り立つ。

本当なら、そのチャネラーはこう言わなければならなかったのです。

 

誰もが、内なる神に出会えるんですよ。

あなたも神の子。ただいるだけで、すでに素晴らしい存在なんです。

自分は、そのことに、ほんのちょっと、先に気づいただけ。

だから私は、私の役割として、あなたたちに道を示します。

さあ、歩みなさい。ご自分の道を。

 

霊能は、霊性の高さを保証するものではありません。ただの能力の一つ。それなのに、自分は霊能を持つから特別だ、人より優れているなどという、人間社会のエゴを剥き出しにした者に、みんな簡単に引っ掛かってしまう。そして創始者が死ぬと、この「特別さ」を巡って、必ず跡目争いが勃発する。「特別さ」は血に、つまりDNAに引き継がれると主張する一派と、教えをいちばんよく理解した高弟、つまり教義によって引き継がれるとする一派とに分裂する。

 

いったい人間は、何をやっているのだ。

自分の「魂」が幸福になる道を歩みたかったのではなかったのか。

自分が何者だということを知りたかったのではなかったのか。

教団の維持と、保身と、他者攻撃にばかり精を出して、それでどうするのだ。

それが、「霊性」を獲得する道だとでも、お前は言うのか。

いい加減に目覚めよ。

己のエゴを徹底して排除しなければ、高みになど昇れないことは、解りきったことではないか。

それなのに、エゴを剥き出しにしておきながら、「神よ、私を救ってください」などと言う。

みんなを愛することが、自分を救ける道だということが、なぜ解らないのだ。

こんな簡単なことが、なぜ解らないのだ。世の指導者たちよ。

 

世界中で起きている戦争は、結局、宗教か、領土・権益争いが原因となって起こっています。「最終戦争」などという馬鹿げた予言を信じ込ませる宗教まであるのです。霊性を求めたはずの宗教が、およそ霊性とは真反対な行動原理に走っている。それもこれも、盲信度合いに応じて、人間に上下の評価を与えるという、とんでもないエゴによる価値観をそこに持ち込んだためです。

 

人間が、新しい霊性に(それは古くて新しいものですが)、本当の霊性に、目覚めなければならない時が来ています。

もう既に、多くの人は気づき始めています。自分の「魂」は、喉の乾きを覚えるほどに霊性を求めている。でも、今まであった教えというのは、どうも違うようだと。本物はどこにあるんだと。

 

本物は、あなたの内にある!

自信を持って言う。甘い言葉の食べ歩きなど、もうしなくていいのだ。

なにゆえ、自分から束縛を求めに行くのだ。

あなたは自由なのだ。

自由こそ、あなたの「魂」が喜ぶ、唯一の道なのだ。

本当の霊性に目覚めよ。

だから、私は言う。

 

誰もが、内なる神に出会えるんですよ。

あなたも神の子。ただいるだけで、すでに素晴らしい存在なんです。

自分は、そのことに、ほんのちょっと、先に気づいただけ。

だから私は、私の役割として、ここに道を示します。

さあ、歩みなさい。ご自分の道を。

すべてに偶然はないということと、シンクロニシティの意味

この世に、偶然というものは何一つない。

スピリチュアルなことに興味のある方なら、たぶん一度は目にしたことのある言葉でしょう。裏を返せば、「自分の身に起こるすべては必然」だというのです。これを、あなたは信じられるでしょうか?

 

あなたには自由意志が与えられています。選択の自由です。このブログでも、何度も強調して来ました。あなたが為している、今この瞬間の行動は、山ほどもある選択肢の中から、自由意志によって、あなたが確かに選び取ったものです。言い換えれば、捨てた選択肢の方が山ほどある。それなのに、あなたが選んだたった一つのことは、必然なのだと言うのです。

 

イベントの余興でやっている三角くじ。あれを想像して貰えれば解りやすいでしょうか。箱の中には、当たりくじを含むたくさんの券が入っています。その中から「どうか一等が当たりますように」と念じて一枚を引く。それがもう偶然ではなく、必然だというのですから‥‥。

 

えっ、自分はハズレばっかりですって?

私もそうですよ、もうハズレばっかり! (ノ_-。)

 

これはどういう意味なのでしょう?

(だから、ハズレばっかりの意味じゃなくて、選んだ券が常に「必然」だということの意味ね)

 

一方で、シンクロニシティ(Synchronicity)という言葉もあります。これは、一般的には、同じようなことが重なる現象だと説明されています。たぶんあなたにも、何かしらの経験がお有りでしょう。ちょうど思い浮かべていた人に街でバッタリ出会ったり、一日に二度も交通事故を目撃したり、何かの数字が同じだったり、たまたま手に取った本に、疑問に対する答えが書いてあったり。

 

分かりやすいシンクロニシティに出会った時には、本当にびっくりしますよね。でも、前に書いたこととはちょっと矛盾していませんか? シンクロニシティは、〈偶然〉の重なり、と説明されることが多いです。でもすべてが必然なら、偶然の重なりもなにもない。すべて必然なのですから、必然の中に、重なり現象が見られたということに過ぎません。

 

実はその通りなのです。分かりやすいシンクロニシティ現象に出会った時には、ちょっとびっくりしてしまいますが、それは何かに気づかせるためのサインとして、わざわざそのような形をとって示されたものです。言って見れば、狭義のシンクロニシティ。でも実際には、身の上に起きていることのすべてが、シンクロニシティだと言ってもよいのです。今日はこれを説明しましょう。

 

宇宙のあらゆるものを構成している基本要素は、たった一つです。それは振動するエネルギー体です。万物は、この振動するエネルギー体の振動数が、ちょっとずつ違うことで、あらゆるものが形づくられているのです。物も、電磁波も、想念も。このことは、現代物理学もかなりのところまで迫って来てはいますが、まだ完全に証明されたわけではありません。

 

なぜ証明できないかと言いますと、我々が暮らしている三次元(第三霊性密度)の物質世界が、多次元的宇宙全体からみれば、ごく限られた範囲の振動数しか知覚できないからです。それはちょうど、ごく狭いスリットから、向こう側の広大な世界を覗こうとしているようなものです。しかしその限られた範囲であっても、いま言ったことの一端はかいま見ることは出来ます。

 

あなたがよく知っている、X線、紫外線、可視光線、赤外線、音波等。これらが、それぞれ異なる性質と働きを持っているというのはご存知でしょう。ではそれらに異なる性質を与えているものは何だと思いますか? 実に、これが振動数だけなのです。あるいは、波長、密度と言い換えてもいいです。全部が、波には違いがないのですが、それぞれの振動数が異なるのです。すると、性質がまるで違ったものになってしまうんですね。

 

このことを、私はセミナーなどでもよくお話しているのですが、なぜかみなさん感動がないのですよ。なぜでしょうねぇ。

 

私が最初にこれを知った時には、もの凄く感動しました。なんだ、そうだったのか。元はたった一つだったんだ。古代から言われて来たエーテルっていうのは、本当のことだったんだ。なんてシンプルな結論なんだ。なんて Beautiful なんだろう。そうか、「神」ってぇやつは、結局‥‥と、部屋の中で一人で小躍りしていたくらいです。

 

それはさて置き、宇宙のすべては「波」である、「振動するエネルギー体」である、ということを(少なくともこのブログを読んでくださっている方には)最初に認めていただきたいのです。音波や電磁波が「波」だということは、すぐにお認めになるでしょうが、固い物質も、人間の想念も、みんな「波」なのです。「振動するエネルギー体」なのです。

 

ということは、「波」というものが持っている性質や特徴が、物質にも、想念(思考や感情、感覚等)にも当てはまるということなのです。その一つを簡単に言うと、調和する波長は互いに惹かれ合い、合わない波長は反発し合うということが起こるのです。これを音楽で説明すると、共鳴(同調)、和音(調和)、不協和音(不調和=離反)の大きく3つの状態があるのです。

 

物質では、共鳴した時には結晶となり、和音となった時には化合し、不協和音となった時には分離します。人間関係でも同じです。共鳴する関係、調和する関係、不調和となる関係が存在します。物と人間との関係においても同じことが言えます。好む物と好まない物が生じるのは、同調、調和、不調和のセオリーが見えないところで働いているからです。

 

これらのセオリーを、精神世界では、一般に「波動の法則」と言っています。しかしこの「波動の法則」については、頭から毛嫌いする人も多く、インテリを自認する人は「エセ科学」などと言って、小馬鹿にしたり、罵声を浴びせたりしています。このような人たちは、結果から結果を見る狭い科学しか認めず、因の世界と結果の世界との関係を知ろうとする、真の科学というものを知りません。

 

私はどのように馬鹿にされても、糾弾されても構わないのですが、「波動の法則」は真理です。しかも最重要の。これが真理だと確信を持って言えるわけは、この世の機器では計測できない「波動」を、私はハッキリと知覚することが出来るからです。しかしこれは、何も自分が特別だなどと言いたいわけではありません。それどころか、人間誰しもが持っている普通の能力なのです。

 

あなたにも、ちゃんと「波動」は知覚出来ています。ただ、それを認めなかったり、理論を知らなかったり、気のせいだと解釈したりしているだけのことです。あなたが「ふと」思う。「なんとなく」そう感じる。急に何かの味や匂いを思い出した。空耳が聞こえた。ちょっとした事件が重なった。体が熱くなった。涼しい空気を感じる。気分が清々しい。etc.これらはすべて、あなたが知覚した「波動」です。

 

今これを言ったのは、そのことを意識して、セオリーを正しく学んで、正しく生活に応用していけば、あなたの生活が、よりよいものに変わるということを申し上げたいからです。人間は、今、そのことを真摯に学ぶ時期に来ています。あなたは、ただ物質世界に生きているだけの人間ではありません。多次元世界を知覚できる、多次元的存在なのです。そしてそれが、本当の人間の姿なのです。

 

ここで強調した「正しく」の意味は、「波動の法則」の応用には、エゴを一切持ち込んではならないということです。自分の欲のために「波動の法則」を応用しようという本末転倒があまりにも多いために、あえて強調しました。

 

さて、あらゆるものには固有の振動数というものがあります。あなたの肉体を造っているそれぞれの細胞、またその元である原子も、それぞれの振動数を持っています。またあなたの魂も想念も振動数を持っています。そしてこれらを総合して、今のあなたは、ご自分の「波動」というものを、絶えず周囲に発散しているのです。この「波動」を、オーラの色として見分けられる人もいます。

 

その時、互いの人間が出す「波動」、物が出す「波動」、インターネットやテレビが出す「波動」、文字が出す「波動」、自然が出す「波動」、等々の間で、先に言った、同調、調和、不調和のセオリーが正しく働いているのです。同じレベルの「波動」や似通ったものを含む「波動」を持ったもの同士は惹かれ合い、著しく離れたものは反発し合います。

 

高い波動を持った人間と、低い波動を持った人間が出会った場合、低い波動を持った人間は、大きく二つの反応に分かれます。その高い波動に親しみや共感を覚える場合と、嫌悪する場合です。その人の「魂」が反応すれば、近づきたいという願望が自然に生じ、「心」が反応すれば、今の自分を変えられたくないという防御意識(=怯え)が生じて、自然と嫌悪する態度に変わります。

 

強さを誇示する、強圧的態度に出るなどは、すべて弱さ、不安の裏返しです。

 

あなた方が、日々、テレビやインターネットで見ている怒号や、悲鳴や、罵り合いや、相手を小馬鹿にした態度などは、すべてそうした自己の防御意識の結果として顕れ出たものです。もちろん逆もあります。あたたかな、ふんわりした、リラックスできる、ほのぼのとした愛を感じるものです。また、魂の奥深くに突き刺さるような、深い感動を覚えるといった瞬間もあるでしょう。

 

ここで注目していただきたいのは、あなたが、どんなものに同調意識を持つか、ということです。先ほども申し上げたように、同じもの、似たもの同士は互いに惹き付け合います。ということは、怒号や、悲鳴や、罵り合いや、小馬鹿にした態度などに心惹かれるという人は、その「波動」に、現在の自分がよく調和しているということなのです。

 

通販広告で、これを飲みさえすれば努力なしに痩せられるとか、見違えるような素肌になれるとか、自宅にいて何もせずにお金が稼げるとかの誘いに反応する人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。北朝鮮から核ミサイルが飛んでくるぞと言って怯えたり、いつ来るかも分からない大地震を不安に思ったりする人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。

 

美女が、肌もあらわに「うっふーん」なんてのに興奮するのは、そのレベルの「波動」に合っているということです。(あ、俺か!)

 

ということで、人間というものは、所詮は自分の「波動」レベルに応じたものしか取捨選択しないものなのです。例えばこの『気づきの啓示板』ブログもしかりです。はなから全く興味関心がない人、誰かに勧められて読んでも「つまらん」と思う人、一つつまみ喰いでもしてみようかなという人、何かを感じすべてを知りたいと思う人、もの凄く感動したという人、などいろいろです。

 

すべては「波動の法則」です。あなたが見たもののすべては、あなたが決している。あなたは、今の自分のレベルに応じた色メガネを掛けて、それで世の中を見ています。そこでは、その色メガネに反応したものしか、あなたに興奮や、興味関心をもたらさないのです。これが、広義の意味でのシンクロニシティ。つまり、あなたのレベルと、周囲にあるもののレベルが同調した「瞬間」なのです。

 

狭義のシンクロニシティ(同じことが重なる現象)は、あなたのガイド(守護霊)や、マスターや、他の多次元的存在や、ハイヤーセルフが、何かの気づきを与えようとして仕組んできます。そこにどんなメッセージがあるかは、すぐには解らなくても、しばらくしてからパッと解る時があります。

 

もうお解りでしょう。「この世に偶然というものは何一つない」ということの意味が。あなたの周囲に起きていること、あなたが体験するあらゆることは、すべてシンクロニシティなのです。今のあなたに、必然的に顕れたものです。そして、あなたが選んだその瞬間々々の軌跡が、あなたの人生を決め、あなたが何者であったかを明らかにすることになるのです。

 

だからこそ、ここであなたにお願いしたいのです。ご自分を高めなさい。あなたには、あなた固有の凄い能力が与えられています。その能力を喜ばせ、そして周囲の人も喜ばせてあげなさい。それを、今日からの、あなたのシンクロニシティとしなさい。あなたがご自分を高めなければ、世の中は高まらないのですよ。社会は、個々の能力の集合体であることを、肝に命じて生きていってください。