by Rainbow School
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『虹の学校』のこれから

ホームページをリニューアルしました。春までには改変したいと思っていたのですが、他の作業もあって延び延びになってしまいました。『虹の学校』を開いたのは2012年の4月2日。以来5年経過したのですが、3年めくらいから自分自身のホームページに違和感を持つようになりました。早く改変したくて堪らなかったのですが、進むべき方向が定まらずに逡巡していました。

 

今回、作業をする中で改めて接してみて、5年前の自分が凄く恥ずかしかったです。うちの田舎の言葉で言うと、しょうしい(笑止)です。肩に力が入っているというか、当時はまだ、あんまり解っていなかった。見切り発車でした。それに、自分を「理解して欲しい」「認めて欲しい」というエゴや、怒りや嫉妬心や憂鬱がだいぶ残っていました。そこが特に恥ずかしいです。

 

自分の「根が恥部」のところがたっぷり出ている。あー恥ずかしい。穴があったら入りたい。入って生き埋めになりたい。生き埋めになってもう死んでしまいたい! ほらまた出た、「根が恥部」が。これを、もっともっと「保持智部」に置き替えていかないとね。あと数年したら、また今回のリニューアルが恥ずかしくなるかも知れません。

 

ついでに言っておくと、自分の「根が恥部」を解消するポイントは、それを笑いに変えて周囲に語ることです。そうすれば、自分は開放されるし、周囲の人たちを和ませることができる。まさに一石二鳥。周りの人たちが笑うのを見て、「ああ、自分の思い込みに過ぎなかったんだ」と気づかされることでしょう。逆に言うと、笑って話せない間は、まだまだだってことですねぇ。

 

それが、この『気づきの啓示板』の作業を通じて、徐々に鍛えられ変わっていきました。『気づきの啓示板』というタイトルも、スタート時はダジャレのつもりで付けたのですが、今にしてみれば、これ自体が啓示だったのかなぁ、と感慨深いです。初期のものはホームページ同様、恥ずかしい部分が多々あるのですが、合作部分もありますし、成長過程をさらけ出す意味で、これは削除せずに残しておきます。

 

今度のリニューアルで、間口がいっそう狭まったと思います。自分が成長するに連れて、セミナーに来てくださる方もどんどん減り、今は5・6人。今後はもっと減るでしょう。もちろん狭めることが目的ではなく、より多くの人が「宇宙の真理」について目を見開いてくれれば、平和でハッピーな社会が実現するとは思っているのですが‥‥。

 

この数年で、自分の役割は Re-creation ではない、と意識するようになりました。破壊と創造は、いっぺんには出来ないのです。先ず破壊した後に再創造が始まる。私の役割の一つは、たぶん「破壊」です。既存の秩序、既成のものの考え方、そしてスピリチュアリティに関する今までの刷り込みまでをも破壊する。

 

ですから私はハカイダー。「正義も悪もいらないぜ!オレの名はハカイダー」。まさにこのキャッチコピーの通りです。このコピーを考えた人は凄い、本質を突いている! 今は人知れず、日陰でひっそりしているからいいのですが、これがもし目に付く存在にでもなったら、共謀罪でしょっぴかれるかも知れませんねぇ。

 

それだけじゃない。こいつのインチキを暴いてやろう(どうぞどうぞ)。トンデモ性も暴いてやろう(だから最初から解る人にしか解らないって言ってるってば)。隠し財産を暴いてやろう(そんなのないって)。不倫を暴いてやろう(残念でした、カミさん死んじゃって独身なんですぅ)。という情熱に命を燃やす人が出てくるかも知れない。そこまで行けば本物だ!

 

とまあこれは冗談ですが、ある人から見れば、危険思想であることは間違いありません。過去世でも同じことをしていて、異端として宗教界から追い落としに遭ったり、古代ローマ時代には処刑されたこともあります。そういうことも、この5年でずいぶん思い出しました。そして「宇宙の真理」についても、かなりのことを思い出しました。

 

私の役割の二つめは、それを現代の言葉で、現在の科学で、そして今どきの感覚でひも解いてお伝えすることです。私がお伝えすることに、新しいことは何ひとつありません。全部、古代から言われて来たことの焼き直しです。どの時代にもメッセンジャーがいて、みなその時々の言葉で語って来ました。私はそれを、インターネットという現代のツールを使ってお伝えするだけです。

 

たとえば、「この世は幻である」。これは古代より言われて来た真理です。あなたも、これまでに、たぶんその言葉を耳にしたことがお有りでしょう。でもそれをただ言っただけでは、現代でもなお遠すぎるのです。この世の常識とは、余りにもかけ離れているから。きっと理解の糸口さえ掴めないことでしょう。私の役割は、そこに橋渡しをすることです。虹の架け橋となって。

 

英語の Education の意味は、その人が持っているものを「引き出す」ということで、私にはそれしか出来ません。というよりも、それ以上はやってはいけないのです。日本語の「教育」という言葉は最悪で、それが正しいと信じている人は、一生懸命「教え育てよう」とする。けれども、「魂」の世界ではそんなことは必要ないことですし、やってはいけないことなのです。

 

小学校に入学してまもなく、「ここは牢獄だ」と思いました。家が「地獄」だったので、「地獄」と「牢獄」の間を行ったり来たり。いつも怯えていて、それで中三まで夜尿症が治らなかった。ここから、私の「根が恥部」が始まったのです。ですから、義務教育や学歴といったものには、反発心しか持ちませんでした。予習や復習をしたことなど一回もなく、復讐心だけをたぎらせていました。

 

教師たちはみんな、「この答えが解る人は手を挙げて」とやっていました。ですが、これは最悪のやり方です。第一に、「答えは自分が持っているぞ」と、子どもたちに押し付けている。第二に、「ジャッジするのは私だからね」と言っている。第三に、「私の答えに近づけた人は、他の人より優秀なのよ」と思わせている。これぞ、ロボット化教育の最たるもの。Education とは真逆です。

 

見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。ロボット化教育のこれぞ成果ではありませんか。

 

ということで、教育一つ取ってみても、「宇宙の真理」から語ることは、この世の常識とはまるでかけ離れているので、常識人にはトンデモ話にしか映らない。これが、歴代のメッセンジャーたちが打ち壊せなかった人間世界の厚い壁なのです。私も同じことになってしまうかも知れませんが、しかし役割は役割。自分はハカイダーとしてこの先も生きます。

 

「宇宙の真理」を掴むことは、実は非常に簡単なことなのです。(これも、きっと遠くに聞こえるでしょうが)あなたは、最初から知っているのです。だから、それを思い出すだけでいい。『虹の学校』は、それをエデュケートする(引き出す)手助けをするだけです。ただし、そうするためには、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めなくてはならないのです。

 

「なんだ、そんなこと?」と思えるでしょうが、これが今の地球人には難しいのです。誰かがした観察結果を教えられて、それを信じ、誰かの考えに賛同し(いいね)、誰かの言いつけによって行動することが、身体の隅々にまで染み付いているからです。あまりにも深く染み付いているので、自分がロボットになっていることにすら気がつかないくらいです。

 

前にも書きましたが、みんなスマホやコンビニを使っていると思っているのでしょうが、それらに使われていることに気づいていない。自分の思考回路が、すでにそのシステムに組み込まれているんですよ。ですから、新しいツール(道具)は、よほど用心しないといけない。これからAI(人工知能)がさらに進化し、ロボットが生活の隅々にまで進出して行くでしょうが、その暁には、地球人類は存在意義を失ってしまうことでしょう。

 

あなた方は、みんな梯子段の上に乗せられているのです。人によって、今いるところの段数は違うのですが、「もっと上を目指すんだよ」「上に昇ると、きっといいことがあるよ」と言われて、既にそこまで昇って来ているのです。上の方にいる人たちの中には、下から上がって来る人たちを「もう来るな!」と言って蹴っ飛ばす人もいるのです。

 

しかしどうでしょう。人間、昇ることは比較的容易なのですが、降りる方が難しいのです。子どもの頃、木の上に昇ったはいいけれど、降りられなくなったという経験はありませんか? 一度昇ると、降りるのが怖い。高ければ高いほど怖い。ですから、しがみつくのです。見なさい。今の内閣を、大臣たちを、国会議員たちを。「地位に恋々として」いる人たちを。

 

「宇宙の真理」は、実に簡単で、たった一つのことから始まり、あなたが、ご自分で、そのたった一つのことを類推していけば、全部の答えが出てしまうのです。グル(導師)もいらなければ、信仰もいらなければ(むしろ邪魔)、聖典も教典もいらない。もちろん、このサイトだって、『虹の学校』だっていらない。秘儀も秘教もない。あなたの中に、最初から答えが全部ある!

 

えっ、「そのたった一つのこととは何か」ですって? いま言ったじゃないですか。気がつきませんでしたか? たった一つのことですよ。

そう、それです。

 

ところが、いま昇っている梯子段から降りるのが難しい。第一に怖い。第二に、果たして降りて行っていいものかどうか確証が持てない。そこで多くの人は、その梯子に乗ったまま、空中に手を伸ばして何かを掴もうとする。ですが、そんなところに「真理」はない。先にも言ったように、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動することを決めない限り、「真理」には出会えないのです。

 

あなた方は、親からの刷り込み、学校からの刷り込み、会社からの刷り込み、世間からの刷り込み、マスコミからの刷り込み等々で、がんじがらめの中に暮らしていて、「この社会はちょっとおかしい?」という直感は抱きながらも、思い切って梯子段を降り始めるということが出来ない。自分を信じ切ることが出来ないし、落ちてもセーフティネットがあることを信じられない。

 

でも、その中でも、ごく少数の人たちが勇気を出して梯子段を降り始め、少しずつ少しずつ降りて、数年かかってついに地上に降り立つ。これがホップ。次いで、自分の直感に従って、自分の好きな方向にステップを踏む。すると、そこに扉が開いている。そこをくぐると、あなたは自動的に光に導かれてジャンプする。なんの努力もいらない。そこで、「そうか、実に簡単なことだったんだ」と、やっと解る。

 

その少数の勇気ある人を探して、休止していたセミナーを再開することにしました。「アセンション・クラス」という年間講座です。9月から1年間、毎月最終土曜日の10時から16時半です。私はここで、自分が60年かかったことを1年間でお伝えしたいと思っています。そしてこの人たちが、将来の Re-creation の担い手になってくださることを願っています。これが私の三つめの役割。

 

ごくごく小さな集まりですが、ピン!と来る方は、必ずいらっしゃると信じています。

 

もし私が、由緒正しい家系の出で、有名大学を卒業して、成功者で、資産家で、大規模な組織の長で、著作が何点もあったら、人々の見る目は違うでしょう。また、霊視をウリにして、高い料金設定のセミナーをすれば、「ひょっとして何かあるかも」と思うでしょう。が、そのいずれも私にはありません。

 

もし私が、自分を「先生」と呼ばせて、これこれの講座の修了者には、しかじかのお免状を与えるし、マントラもお授けするし、チャクラも開いて上げると言えば、がぜん学習意欲が沸いて、元を取らなきゃと思うでしょう。「そうか、この人は先生か」と近寄り難く思うでしょう。が、そのいずれにも私は興味がありません。

 

実にそこが問題なのです。私ではなく、あなた方がです。私は馬の骨です。しかし私がこう言ったら、あなた方はどうするでしょうか? ここに、シャネルと、アルマーニと、ドルチェ&ガッバーナと、ZARAと、ユニクロと、GUと、しまむらの服を並べて、「どれでも好きなものを一つあげるよ。タダだよ」と言ったら。ただし、ネームタグは全部切ってあります。

 

誤解しないでくださいよ。しまむらよりシャネルの方が上だって言ってるんじゃないですよ。アルマーニを選んだあなたには審美眼があると言いたいんじゃないんですよ。(他と比べて)『虹の学校』を選べと言っているんじゃないんです。何を選んだっていい。どのみち自分の段階に応じたものしか選ばないし、選べない。

 

そうではなく、タダのものこそ、タダになった時こそ、自分にとっての本当の価値の意味が炙り出されると言いたいのです。

 

世間が決めた価値指標から離れたあなたは、きっとご自分の好みや直感を駆使して選ぶことになるでしょう。そうなってこそ、あなたが自分で観察し、自分で考え、自分で行動した一歩となったのです。それが、一つ自由になるということです。一段、梯子段を降りるということです。そして、梯子段をぜーんぶ降りた時、あなたは完全な自由を知る。そしてジャンプの準備が整う。

 

解りましたか? えっ、解らない? 困ったなぁ。でも、共感して下さる方が必ずいらっしゃると思っていますし、上の存在からは、「縁ある人は私がアレンジする」と明言をいただいています。ですから「この機会を待ってました!」という人は必ずいる。案内をお読みになって、「これだ!」という方は、どうそお問い合わせください。特に今回は、地方在住の方に来ていただきたいです。

 

それと、東京の自宅を開放して、ささやかな集会所を作りました。6人も入ればいっぱいになってしまうようなところですが、ここから温かな波動を日本全国に拡げたいと思っています。心の底からリラックスして、思い切り自由を感じられるような場にしたいと思っています。前に縁があったけど、その後、遠ざかってしまったという方も、よければ気楽にお越しいただければと思います。

真理の世界は彼岸ではない

宇宙の真理は一つです。真理というのは、何かを成り立たせている根源的な理法(Fundamental  Theory)のことを言います。何かを成り立たせている背景には、必ず成り立たせている理由と法則があるのです。秋に庭に埋めておいた球根から、春先になって芽が出て花が咲く。このような現象一つとっても、そうなる理由と法則があってそうなっているのです。

 

では宇宙全体を考えたらどうなるでしょう。宇宙が成り立っているということは、そこにも成り立たせている理由と法則があるということです。そして宇宙は一つなのですから、当然、真理は一つということになります。理論物理学ではマルチ・ユニバース(複数の宇宙)という考え方も提唱されていますが、Multi-universe を包む全体を考えれば、やはり一つです。

 

仮に真理が二つあったとしましょう。AとBです。Aは我こそが真理だと主張する。BはBで、我こそが真理だと主張する。そうすると、AからすればBは真理ではないということになり、BからすればAは真理ではないということになって、矛盾が生じます。結局、AもBも包含するCを立てなければいけなくなり、結論は、やはり「真理は一つ」というところに帰着するのです。

 

既成宗教が犯してきた間違いは、そのほとんどが「我こそが真の道」と言って憚らないことです。そして我以外は邪宗、邪教だと言って攻撃してきました。これがどんなに欺瞞的な言葉であるかは、いま言ったことを考えていただければ容易にお解りでしょう。どんな道を通ってもよいのです。どんなルートを通っても、頂(いただき)は常に一つです。

 

あなたが富士登山をするとしましょう。先人たちが作った歩きやすいルートが、吉田ルート、須走ルート、御殿場ルート、富士宮ルートと4つある。あなたはこの中のどの道を選んでもいいし、あえて選ばなくてもいいのです。選ばずに、人跡未踏の道を、自分で開拓して行っても構わない。でも変わらないものがある。それは頂上は一つということです。

 

頂上は、どんな人にも頂上であり、そこに今あり、燦然と輝いている。これは素晴らしいことだとは思いませんか? どんな人も差別したりしていないんですよ。お前は来るなとは決して言わない。いつでもそこにあるんですよ。「さあ、どうぞ、いらっしゃい」と。

 

ただ「ある」ということを、意識して生活するかどうか、山登りをしてみようという気になるかどうか、そして実際に登り始めるかどうかで、歩みに差が出てきます。山登りにまったく興味がない人にとっては、目の前に後光が射す山が聳えていても、その人の目にはそれがありがたいものだとは、ちっとも映らないのです。でもその人だって、いつかは山登りを始めるのです。

 

私たちは宇宙の一員です。ということは、最初から真理の中にいたのです。以前にザルの例えを書きましたね。ザルで水を掬いに来ても、みんなジャージャーとこぼれてしまうんだと。ではザルを水で満たすにはどうしたらいいのか。それはザルごと水に沈めることだ、と書きました。実はこの話には、まだ続きがあったのです。

 

ザルは、最初から水の中に沈んでいるんです。ですから、自分の身を水の中に沈めるというのは、そんな断崖絶壁から湖に飛び込むというような、格別の勇気を必要とするものでもない。ただ、そこに気づくだけでよかったのです。

 

山は、いつでも目の前にあるんだと。自分は、その頂上に至る地平に、今まさに立っているんだと。

 

真理の世界というのは、彼岸(向こう岸)にあるのではありません。この世があって、あちら側にあの世があるのではないのです。あの世の中にこの世が最初から含まれている。この世というのは、物質的世界から霊的世界までを含む、すべての宇宙の、ごくごく限定された世界に過ぎないのです。私たちは最初から、真理の海の中に生かされているのです。

 

それなのに、どうしてこの世は、こんなにも混乱しているのでしょうか? それはこの構造に気づく人があまりにも少ないからです。みなさんから見れば、霊的世界というのは、とても不思議なものに思えるでしょう。でも多次元的世界にいる者たちからすれば、人間たちの方が不思議です。

 

人間たちは、どうして争いごとを止めないのでしょう。争いごとが決して幸福をもたらさないということはみんな分かっているはずなのに、せっせとそっちへ向かおうとする。あまつさえ、そういう人を賞賛する文化まである。平和を希求する人を「平和ボケ」と言って揶揄する人すらいますが、全世界の人が「平和ボケ」になったら、どんなに素晴らしい地球になるでしょうか。

 

全世界の富の半分を、わずか62人の大富豪が握っています。その一方で、貧困に喘ぐ人々の数は減るどころか、むしろ拡大しているという矛盾。一生かかっても使い切れないほどのお金を、大富豪たちが貯めこむ理由は、一体どこにあるのでしょうか? お金というのは、経済循環のための単なる道具です。動かないお金を分け与えて動くようにしたら、人々にどんなに笑顔が戻るでしょうか。

 

宇宙から見れば、人間たちの行動はとても不思議です。どうしてこんな簡単なことすら解らないんだろうか、と思うのです。競争をして、奪い合って、勝ち負けを作って、それで勝ちほこる人と負けて悲嘆にくれる人を分けて、みんな心をズタズタにして、それでも奴隷のようになって働いて、そして人生が解らない、生きる意味が見つからないと言っている。

 

宗教家ですら、この世における「成功」という幻想をエサに、霊的世界のドレッシングをかけて、「さあ、お食べ」「うちしか、こんなにおいしいものはないからね」と言っている。まったく不思議です。

その何が面白いのか、楽しのか、ハッピーなのか。

 

あなたの視点を、ずっとずっと上に上げて行って、宇宙にまで引っ張り上げて、地球に暮らす人間たちの姿を見てご覧なさい。今日もドタバタと、どうでもいいことに血眼になって騒いでいる人たちの姿が見えませんか? 内閣改造?あなたに何か関係がありますか? 松井一代さん?あなたに何か関係がありますか? 謙さんの不倫?あなたに何か関係がありますか? 

 

自分には何の関係もない、どうでもいい話にばかり振り回されて、しょっちゅう目をキョロキョロさせていたら、目の前にある山になど、気づくはずがないではありませんか。本物と偽物を見分ける目が、育つ筈がないではありませんか。自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのか、解るはずがないではありませんか。

 

人間たちよ、目を覚ますのです。この集団催眠状態から抜け出すのです。気づいた人たちから、先ず歩み始めなさい。山はいつでも、変わらずにある。あなたのすぐ横にある。あなたが気がつき、登り始めるのをいつでも待っている。

自分の波動が上がるということと、そうなった時の対処法

最近、続けざまにお二人の方から、体調および身体感覚の急激な変化や、周辺環境の激変といった事態に関しての、ご相談を受けました。

 

お二人とも、最近、急にスピリチュアルなことに興味が湧きだして、特段、「行(ぎょう)」をしているというわけでもないのに、それ以来、どうも体調が優れず、心が不安定になったり、家庭や職場環境が大きく変わったりし出して、「いったいこれは何だろう?」と思い、不安になって相談に見えられたのです。

 

それを聞いて、私自身が「なるほど」と気づかされ、そういう方は、もしかしたら他にもいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、なぜそのような体調や心や環境の激変が起きるのかということと、そうなった場合の対処法や注意点について、お話しておきたいと思います。

 

地球は今、非常に大きな転換期を迎えていて、その転換を促すために、地球には、宇宙からとても強いエネルギーが大量に注がれています。このエネルギーは、もちろん人間の目には見えませんし、今ある機器で観測することもできません。これは、非常に精妙な、振動するエネルギー体で、象徴的に「光」と呼ばれることが多いのですが、高い周波数を持った、いわゆる「波動」です。

 

*「アセンション」のこと。地球の霊的次元が、三次元から五次元に移行する。

 

「光」「波動」と聞いて、きっと眉をしかめる方もおられるでしょう。けれども、地上に降り掛かるエネルギーが非常に高まっていることは確実です。

みなさんは、その影響が及ぼす「結果の世界」を見ています。社会の混乱、人心の荒廃、そして気候の極端現象というかたちで。

 

先に書いた、ご相談に見えられた方というのは、この「波動」の追い風をいっぱいに受けて、心身の覚醒が、特段の「行」をせずとも、ナチュラルに進んでいるものと思われます。もちろん、そうなる資質があったからこそなのですが、このブログの読者には、同様の感じを抱かれている人もきっと少なくないと思いますので、今日の話をよく読んで、対処していただきたいと思います。

 

先ず、みなさんに知っておいていただきたいのは、この高い「波動」のエネルギーは、どの人にも満遍なく注がれているということです。

 

しかしそこで、大きく二つの生き方に分かれるのです。このエネルギーを追い風にする生き方と、向かい風にしてしまう生き方です。風はどの人にも公平に吹いている。でも進む方向が違えば、同じ風が、追い風にも、向かい風にもなってしまうのです。さあ、どっちへ行くか。選ぶのは自分です。

 

このエネルギーを「光」だと考えてみてください。ふんわりした暖かさを求めている人にとっては、縁側でうたた寝している時のような、それはとても心地よいものでしょう。でも、日陰のじめじめしたところが好きな人にとっては、眩し過ぎて、すぐに立ち去ってしまいたくなるでしょう。それに、隠しておきたかった部分に「光」が当たってしまうので、大いに困る人も出てきます。

 

ここで、その人の今までの生き方や、理想に対する想いの違いが、はっきりと影響を持って出てきてしまうのです。これは何度も言ってきたことですが、いま世の中に見られる混乱というものは、地球に、宇宙からの強い「光」が注がれるようになったことで、今まで「闇」に隠されていたものが表にあぶり出されるようになったことから、それが見えているのです。

 

これは、宇宙の非常に長いサイクルの中の上昇期、季節で言えば夏に当たっていて、すぐに秋や冬になるということはありません。しかし、今まで「闇」に居たものは、また「闇」で栄華を誇っていたものは、変化に抵抗を示して、今までの権勢をなんとか維持し続けようとするでしょう。しかしそれは、宇宙の自然な流れに逆らうことですから、そこで様々な混乱状態が起きて来るのです。

 

みなさんもきっと不思議に思っていることでしょう。権力者が、まるで幼稚園児かと思うような、誰が聞いてもすぐに嘘だと分かるような嘘を平気で言う。そうかと思えば、まるで駄々っ子のように、我儘を言い、相手を脅しつけ、癇癪を起こしてオモチャ(それは人の命までも奪ってしまうものですが)を投げつける権力者もいる。それはみな、今までの権勢を維持したいという焦りからの行動なのです。

 

はっきり申し上げて、人や物に対する支配欲が強大だからこそ、権力者になれるのです。人や物に対する搾取欲が強大だからこそ、大資本家やグローバル企業の経営者になれるのです。名声欲や名誉欲が強大だからこそ、大先生や時代の寵児(ちょうじ)になれるのです。そしてこれが、人間社会に特有の、霊性とは真逆の、狂った尺度なのです。

 

今までの世の中というのは、そういう上下の物差しの中に、人間の価値というものが規定されるのだとみんなが信じ、そこで頑張ったごく少数の者が、権力やお金や名声を得て来ました。でもその構造が維持され続けるためには、みんながその価値観を共有しなければなりません。そしてそれを信じ続けなければなりません。

 

そこで、学校教育や、マスコミや、著名人の講演会などを通して、繰り返しその価値観が植え付けられて来たのです。そして、幼い頃から他人と自分とを比較させられ、みんなとちょっとでも違っていれば「障害者」のレッテルを貼られ、競争をさせられ、優劣の判定を下され、大多数の人が「私は社会にとって価値のない人間」と思い込まされて来たのです。

 

ある意味、権力者や大資本家や時代の寵児というのは、その価値観に最も洗脳された人たちだとも言えます。でもそれが、ひっくり返ってしまったらどうなるのでしょう。1パーセントを生み出すために、99パーセントが奴隷としてコキ使われ、搾取され、嘘を吹き込まれ、幸福になることすらも破壊されていると、民衆が気づいてしまったらどうなるのでしょう。

 

当然ですが、成り立ちません。いま地球に起きている大変化というのは、まさにその過程にあるのです。一般の民衆からすれば、今まで気づいていなかったこと(社会の裏にある支配の構造)にだんだんと気づく。権力者や大資本家や時代の寵児にとっては、その構造基盤が揺らぎ始める。その変化の過程を、今まさにみなさんが見ているのです。

 

ここで大事なことは、目の前で展開されていく変化に、いちいち反応しないことです。マスコミなどは、どうせ嘘八百の話を捏造して流し、いっときある話題で盛り上げても、賞味期限が過ぎれば全部を尻切れとんぼのままスッと終わらせ、また次のネタを流すだけです。こんなものに付き合って一喜一憂していたら、世の中の変化の裏側にある真実が全く解らなくなってしまいます。

 

そうではなく、そういう個々の現象の裏に、どういう意味が隠れているのか、どうしてそんなことがいま起きているのかを俯瞰して見るのです。宇宙の視点から見るのです。そうすれば、個々の事件が、いま言った大変化の過程で噴き出している膿(うみ)のようなものだということが解るでしょう。これが、これまでに何度も言ってきた「カルマの浄化」なのです。

 

「カルマの浄化」とは、「受けること」だということは前にも申し上げました。誰かにカルマを取って貰うということは出来ません。自分が撒いた種は自分で刈り取る。これが「カルマの法則」であり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。自分が為したことは、必ず自分に返って来るのです。片方に振られた振り子が必ず逆振れするように、そうやって宇宙のバランスが保たれるのです。

 

この「カルマの浄化」が、地球に注がれるエネルギーが強くなったことで、今まで隠れていた暗闇にも光が当たるようになり、表にどんどん出て来ているのです。このため、闇に生きて来た人たちは苦しくなって、苦し紛れの、破れかぶれの行動をエスカレートさせているのです。ですから、みなさんは、それらに巻き込まれることのないようにしなければなりません。

 

そこでもまた、起きている現象をちょっと離れて見るということが大切です。そうすれば、彼らがいかに幼稚な、馬鹿げたことをしているかが容易に解るはずです。

 

実は、当たった光がみんなに公平であるのと同じく、「カルマの浄化」もみんなに公平に起きているのです。公平に起きてはいるのですが、二つの点で、その顕われ方に差が出て来ます。一つは、それまでに自分が何を為してきたかということ。「カルマ」というのは、何も悪いことばかりとは限らないのです。そしてもう一つは、噴き出した「カルマ」に対して、自分がどのように対処したかです。

 

「カルマの浄化」は、自分が為したことの清算であり、そこには何らかの建設的な意味が必ず含まれています。自分の周囲に起きる物事に意味を与えているのは、常にその人自身なのです。ですから、どんな意味を見出すかによって、同じ起きた出来事を、生かすことも殺すことも出来るのです。霊的成長というのは、そこに気づきを見出して、反省すべき点は反省するというところから起こります。

 

そのためには、噴き出した「カルマ」にきちんと向き合って、そこに示されているメッセージをしっかりと掴むことです。これを日々心がけて生きているかいないかによって、その人の霊性の成長度合いというものは大きく違って来ます。ただし、そうするためには、何よりも先ず素直で、正直でなくてはなりません。これがなかなか出来ないのです。エリートと言われる人ほど出来ないのです。

 

なぜかと言いますと、素直で正直になって自分を見つめることは、今までの自分を形づくって来た価値観および環境が根底からひっくり返ることになってしまうために、恐怖が先走るのです。そのため、とっさに嘘をつく。本人は、それが自分を守るためだと思っているのですが、自分の「魂」に嘘をつくのですから、実は自分をますます痛めつけているということになるのです。

 

これも無智なるがゆえです。 もし「カルマの法則」というものを知っていたら、カルマの雪だるまを転がすような、そんな馬鹿なことは決してしないでしょう。結局のところ、社会の刷り込みによって出来たエリート意識の価値観にガチガチに染まっていて、それ以外の生き方というものを全く知らないのです。憐れには思いますが、本人がそれを選択したのですから仕方ありません。

 

さて、冒頭の話に戻ります。心身の急激な変調に関しては、いま申し上げたような「カルマの浄化」というものが一つには影響しています。しかし、みなさんの場合には、その影響はそれほど大きくはありません。なぜかといえば、みなさんは、きちんと向き合おうとされる人たちだからです。むしろ、向き合い過ぎて、考えす過ぎないようにした方がよいかも知れません。

 

「カルマの浄化」に際しては、起きている出来事に対して、いちいち「これはカルマなんだろうか?」と詮索して、あれこれネガティブなことを考えるよりも、「これによって、自分にいま示されているメッセージはなんだろうか?」と建設的に考えて、反省して、次の行動に向かった方がずっとよいのです。「カルマの浄化」は、過去の自分が送った、自分へのギフトだと思ってください。

 

みなさんの場合は、「カルマの浄化」によって心身に変調を来しているのではなく、ご自身の波動が上がったことによって、変調が訪れている可能性の方が、むしろ高いと思います。

 

これを聞いて、「えっ、波動が高くなるのにどうして?」とたぶん不思議に思われるでしょう。これはどういうことかと言いますと、宇宙から来ている高い波動に対して、先ず自分の奥にある霊性が反応を起こします。そして興味を持つだけでなく、心をピュアに保つ努力をしていると、高い波動との同調が起き、高い波動に引っ張られて、自分の波動の振動数が上がるのです。

 

そうしますと、宇宙エネルギーの受容器官であるチャクラ(頭頂部から尾骶骨にかけて、背骨に沿って7箇所ある)が、それに対応して高い波動にも反応するようになるために、その過程において心身のバランスが一時的に崩れるのです。これは、それまで低い波動レベルでそれなりに安定していたものが、自分が出す波動が高くなるために、バランスが崩れてしまうことから起こります。

 

このバランスの崩れ(実際は上昇であり覚醒)が、どのように出るかは人によって違い、その人のウィークポイント(課題)であったチャクラの部位に対応した箇所に、変調が起こります。痛みを覚えたり、マグマの噴火のような感じがあったり、頭痛がしたり、肩や腰が重くなったり、気持ちが不安定になったり、イライラしたりと、症状はいろいろです。

 

これらの変調ないし不調の期間は、長くとも1年半くらい続き、それからしだいに終息に向かいます。しかしこれは1回で終わりなのではなく、一つのチャクラが覚醒し終わると、また別の部位に変調が来るといった感じで段階的に進みます。ですから、全部のバランスが整って来るまでには4・5年は掛かることを覚悟しなければなりません。

 

この間は、長いですしちょっと辛いです。私の場合は、誰も指導してくれる人がいなかったので、病気にでもなったのかと思って、とても苦労しました。しかし、そのような変調は、自分の波動が上がって行く過程で起きる一時的なものだということをよく理解して、慌てたり、心配したりしないようにしてください。過程の調整期間が過ぎれば、以前よりも体調がグッと良くなって来ます。

 

ここで、大切な注意点を二つ言っておきます。一つは、その調整期間における変調や感覚的なものの変化を、不安に思ったり、怖れたりしないようにしていただきたいということです。

 

自分の波動が上がりますと、以前には感じなかった波動が敏感に感じ取れるようになります。先ず、聴覚が極端に敏感となり、冷蔵庫のモーター音や、蛍光灯のフリッカー音、外で吠えている犬の鳴き声、自分の心臓の鼓動や血の流れなどの音が聞こえて来ることがあります。これを気にしだすとノイローゼになってしまいます。また、ひどい耳鳴り状態がずっと続くかもしれません。

 

他にも、身体の特定の部位に、今までとは違った感覚が走ったり、声が聞こえたり、光が見えたりすることがあります。自分が接した物や、人間や、テレビや、インターネットなどが出す波動にも非常に敏感になり、低い波動を出している存在に対しては、吐き気のような嫌悪感が生じて来ます。特に今は、社会全体にカルマが噴き出しているので、敏感な人は辛いと思います。

 

いわゆる「波動に敏感になる」という状態ですが、この時に、低い波動を出して来る存在に対して恐怖感を持ったりしてはダメなのです。恐怖感を持つということは、自分の波動を一気に下げるということですから、その隙を突いて、心霊界(第四霊性密度)にいる、動物霊や浮遊霊や闇の宇宙人グループなどの存在がスッと入って来てしまいます。

 

これが、要するに「魔が刺す」ということで、イエスにしろ釈迦にしろ、みんなそういう経験を経ているのです。私もノイローゼになりましたし、何度か憑依されたこともあります。この時は、心がズブズブに沈みますし、肩が異常に重いのでそれと分かります。ですからみなさんには、そういうことのないように、あらかじめよく理解しておいていただきたいのです。

 

要は「怖れるな」ということです。それを「怖いもの」にしているのは、その人の「思い」です。対象物ではありません。闇というのは「光」が嫌いなわけですから、自分の波動を下げないようにして、いつも元気に、正直に、朗らかにを心掛けていれば、それらに入られることはありません。そうやって楽しく生きることが、自分を魔から守ることにもなるのです。

 

霊能を持っておられる方の多くは、この理屈が解っていないのです。自分の感覚だけを頼りにしているので、闇を怖いと思い、その恐怖心から自分の波動を下げ、反対に闇と同調してしまい、そこが発する「恐怖の予言」を、天からのものだと錯覚して降ろしている。そういう人が大半です。早い話が、そうやって闇の手先となってしまっているのです。

 

ここでハッキリ言っておきますが、高次元の存在が「恐怖の予言」などをしてくることは、絶対にありません。なぜだか解りますか? 高次元の存在というのは、すでに波動を高いところに固定化させた存在です。だからこそ高次元の存在なのです。ですから、何を今さら「恐怖の予言」など出しましょうか? そのような低い波動を出すことは、彼らにはもはや出来ないのです。

 

それと、闇の者たちも、同じく神が創った魂なのだということを、よく考えてみてください。なにゆえ、それを怖れる必要があるでしょうか? 彼らは、ちょっと寄り道をしているだけなのです。地上の人間にも、いっぱいいるじゃありませんか。悪さをしたり、からかったり、いたずらをして喜んだりと、寄り道している人間が。

 

それと、もう一つ気をつけていただきたいことは、ご自分の波動が上がるにつれて、いわゆる霊能というものが、いろいろと発現してまいります。その時に、くれぐれも錯覚しないようにしていただきたいのです。霊能というものはオマケのようなものであって、あなたがすべきことは、あくまでご自分の霊性を高めて行くことです。

 

それを、ちょっと霊能が出たからといって、自分を特別だなどと思ったり、商売のネタにしたり、それをエサにして誰かを取り込もうなどとしたりしては、その人の波動は、エゴが発する低い波動にどーんと落ちてしまいます。一般の人は波動が読めませんので、そういう人間に心惹かれてしまうかも知れませんが、そのようなことをする人は、当然大きなカルマを積むことになります。

 

私がいつも残念に思うのは、スピリチュアルな学習を始めた人の大半が、いま言った二つの点で、心霊界に入っていってしまうということです。いわゆるオカルトの方に興味を集中させて行ってしまうのです。どうしてかな?と思います。私たちがスピリチュアルな学習を進める意味は、あくまで人間としての完成を求めるためだということを肝に銘じていただきたいと思います。

 

それと、身の周りの環境が激変するということについても説明しておきます。リアリティというものが何であるかということについては、これまでにも度々説明して来ました。復習しますと、我々というのは、客観的な「現実」というものの存在を証明することは、絶対に出来ないということです。我々が、当然あると思っている世界は、その人の、あくまで「認識した世界」なのです。

 

つまり、我々が「在る」と思っている世界は、実は、個々の人間の中に形成された「リアリティ」に過ぎないのだということです。ではその個々の「リアリティ」は、どうやって創られているかと言いますと、その人の選択行動によります。これは、好みとか興味、心グセ、習慣といったことでも説明できるのですが、もっと底辺を規定しているものは、その人が持つ「波動」レベルです。

 

外に広がる世界というのは、単一のように見えて、実はそうではなく、ミルフィーユのような多次元構造を持っています。これを精神世界ではパラレルワールド(parallel world)と言います。あなたが、ミルフィーユのどの層を食べるかは、その人が持つ「波動」の高さによるのです。ということは、自分の「波動」の高さが変化すれば、見える世界(選択する世界)も当然違って来るということになります。

 

今まであれほど興味を持っていたことが急につまらなく感じられたり、食べ物の好みや、音楽の好み、ファッションや、読む本や、付き合う人まで、何から何までが変わります。見える景色も、その色や輝きも違って来ます。このような「選択の変化」の結果が、その人にとっては、まるで身の周りの環境が激変したように感じられるのです。

 

ですから、一見、外側にあるものが変化したように見えますが、実はあなたの「波動」が変化しているのです。「選択」というものはつねに二段階で起きており、一段階めはその人の「波動」の高さ、その周波数の範囲内で二段階めの選択が行われています。そして「波動の法則」により、その変化した高さに合った世界を、自分の周囲に展開させているというわけです。

 

この変化には、肉体の変化と同様に、辛い時期が訪れる可能性が大いにあります。それまで親しかった人との別れが起きたり、職場が変わったり、住む場所や家が変わったりです。しかしこれらはみな、あなたの「波動」が上昇したことに伴って起きる現象だということを理解してください。

 

何かを喪失したり、別れたりすることは、一時的に痛みを伴います。ですが、ずっと後になれば、それは必要なことだった、必然だったということが分かります。ですから、それまでが辛抱です。

 

ということで、覚醒が始まった人は、しばらくはちょっと苦しい時期が続きますが、踏ん張って、ご自分を信じて、道を生きて欲しいと思います。世間の人たちから見れば、そんなことに何の意味があるのかと思われるでしょうが、光の道に入った人は、もうそうする以外では生きられないのです。

 

それが、その人の使命であり、人々を喜ばせ、幸せにすること以外では、自分を輝かせることは出来ないからです。

ですから、そのような人たちに、あえて苦難の道をゆく人たちに、私のアミーゴたちに、エールを送っておきます。

 

目覚め始めた者たちよ。

歩め、歩め。歩みを緩めるな。あなたの手助けを世界が待っている。

新しい霊性

社会がどのような体制になろうとも、経済活動がどのように変化しようとも、科学がどのように発達しようとも、人間が霊性(Spirituality)に拠りどころを求めようとする気持ちは決して無くなりません。それは、大多数の人々が、自分の本質は「魂」にあるということを、無意識のうちにも感づいていて、その「魂」が、真に幸福な生き方を求めるからです。

 

でも世の中は、一見、霊性とは関係ないところで動いていて、普段の暮らしも、人間関係も、健康や病気に関することも、教育も、心の問題も、それぞれがそれぞれの領域で語られたり、専門家と称する人のアドバイスを受けたりしています。けれども、最後の最後は、人間、霊性です。霊性に帰着する。それは自分という存在の出発点であったのであり、廻り廻って、最後はそこに眼が向けられることになるのです。

 

それを、いったいどの時点で気づくことになるのか? 幼少時なのか、青年期なのか、壮年期なのか、老人になってからなのか、はたまた死ぬ直前なのか。死の間際になっても、結局気づくことなく臨終を迎えてしまうのか。それとも、死にそうな大病をして、あるいは身内を突然失って、あるいはすっかんピンになって、それでハタと気づくのか。

 

多くの人は、人間、最後の最後は「霊性」だと予感していても、世間の手前や、社会の常識の刷り込みや、日常の忙しさ(そのほとんどはスマホに眼を釘付けにしたりというどうでもいいこと)にかまけて、冷静に「霊性」に向き合う瞬間というものがありません。それと、もう一つの大きな原因は、その求める気持ちに、本当に応えるもの、本物がないということです。

 

いや、正確に言えば、本物はいつの時代にもあるのです。けれども多くの人は、それを発見することができない。なぜ発見できないのでしょうか? それは、自分の中に潜むエゴを捨てられないから。捨てられないから、エゴが喜ぶものを追い求める。よくしたもので(と言っていいのかどうか?)、それに応える、エゴに「霊性」をデコレーションしたスイーツが、世の中にはいっぱいあるのです。

 

それを人々はパクッと食べる。そして満足する。でもしばらくするとまた食べたくなる。結局、いつまで経っても食べることをやめない。あっちにおいしい店があると聞けばすぐに出掛け、こっちに有名パティシエの新作が出来たと聞けば行列に並ぶ。見知らぬお宅を訪問しては「あなたも絶対にこれを食べるべきよ。今すぐに!」と言う。そうして、スイーツを売っている人たちを儲けさせる。

 

そんなことしなくていいのに‥‥。自分の中にすべてがあるのに。

 

これまで、人間が求めて止まない「霊性」に回答を示し、応えようとして来たのは、まぎれもなく宗教です。しかし宗教は、いくつかの点で大きな誤りを犯して来ました。その一つに、多くの宗教は、神との交信が出来た霊能者(今の言葉でいえばチャネラー)を創始として興ったのですが、このチャネラーを、神に準ずる崇拝の対象にしてしまたのです。この図式は、新興と言われる宗教においても何ら変わりがありません。

 

逆に言えば、人間は、自分以外の誰かを、崇め奉るのが好きだということです。ここで、崇め奉られるのが好きな人と、崇め奉るのが好きな人の、ニーズが合致する。波長がぴったりと合ってしまう。両者を合致させているものが何かと言えば、お互いが持っているエゴです。「霊性」の皮を被った実はエゴ。人間には上下があって、上に立つ者が偉いんだ、尊いんだという価値観を、互いに共有し合っている。

 

ところが、これが大問題なのです。エゴを抱えている限り、本当に高い次元の真理には絶対に到達できないだけではなく(なぜなら、波長が合わないから)、支配と被支配、依存と共依存(依存者を支え続ける依存)という関係から抜け出せなくなってしまうからです。

 

Love is blind. そこに嵌まり込んだ人は、喜んで、支配と被支配、依存と共依存という関係に精を出していく。そうすることが、神に愛されることだと、ひたすら信じて。

 

騙される者がいて、騙す者が成り立つ。

本当なら、そのチャネラーはこう言わなければならなかったのです。

 

誰もが、内なる神に出会えるんですよ。

あなたも神の子。ただいるだけで、すでに素晴らしい存在なんです。

自分は、そのことに、ほんのちょっと、先に気づいただけ。

だから私は、私の役割として、あなたたちに道を示します。

さあ、歩みなさい。ご自分の道を。

 

霊能は、霊性の高さを保証するものではありません。ただの能力の一つ。それなのに、自分は霊能を持つから特別だ、人より優れているなどという、人間社会のエゴを剥き出しにした者に、みんな簡単に引っ掛かってしまう。そして創始者が死ぬと、この「特別さ」を巡って、必ず跡目争いが勃発する。「特別さ」は血に、つまりDNAに引き継がれると主張する一派と、教えをいちばんよく理解した高弟、つまり教義によって引き継がれるとする一派とに分裂する。

 

いったい人間は、何をやっているのだ。

自分の「魂」が幸福になる道を歩みたかったのではなかったのか。

自分が何者だということを知りたかったのではなかったのか。

教団の維持と、保身と、他者攻撃にばかり精を出して、それでどうするのだ。

それが、「霊性」を獲得する道だとでも、お前は言うのか。

いい加減に目覚めよ。

己のエゴを徹底して排除しなければ、高みになど昇れないことは、解りきったことではないか。

それなのに、エゴを剥き出しにしておきながら、「神よ、私を救ってください」などと言う。

みんなを愛することが、自分を救ける道だということが、なぜ解らないのだ。

こんな簡単なことが、なぜ解らないのだ。世の指導者たちよ。

 

世界中で起きている戦争は、結局、宗教か、領土・権益争いが原因となって起こっています。「最終戦争」などという馬鹿げた予言を信じ込ませる宗教まであるのです。霊性を求めたはずの宗教が、およそ霊性とは真反対な行動原理に走っている。それもこれも、盲信度合いに応じて、人間に上下の評価を与えるという、とんでもないエゴによる価値観をそこに持ち込んだためです。

 

人間が、新しい霊性に(それは古くて新しいものですが)、本当の霊性に、目覚めなければならない時が来ています。

もう既に、多くの人は気づき始めています。自分の「魂」は、喉の乾きを覚えるほどに霊性を求めている。でも、今まであった教えというのは、どうも違うようだと。本物はどこにあるんだと。

 

本物は、あなたの内にある!

自信を持って言う。甘い言葉の食べ歩きなど、もうしなくていいのだ。

なにゆえ、自分から束縛を求めに行くのだ。

あなたは自由なのだ。

自由こそ、あなたの「魂」が喜ぶ、唯一の道なのだ。

本当の霊性に目覚めよ。

だから、私は言う。

 

誰もが、内なる神に出会えるんですよ。

あなたも神の子。ただいるだけで、すでに素晴らしい存在なんです。

自分は、そのことに、ほんのちょっと、先に気づいただけ。

だから私は、私の役割として、ここに道を示します。

さあ、歩みなさい。ご自分の道を。

すべてに偶然はないということと、シンクロニシティの意味

この世に、偶然というものは何一つない。

スピリチュアルなことに興味のある方なら、たぶん一度は目にしたことのある言葉でしょう。裏を返せば、「自分の身に起こるすべては必然」だというのです。これを、あなたは信じられるでしょうか?

 

あなたには自由意志が与えられています。選択の自由です。このブログでも、何度も強調して来ました。あなたが為している、今この瞬間の行動は、山ほどもある選択肢の中から、自由意志によって、あなたが確かに選び取ったものです。言い換えれば、捨てた選択肢の方が山ほどある。それなのに、あなたが選んだたった一つのことは、必然なのだと言うのです。

 

イベントの余興でやっている三角くじ。あれを想像して貰えれば解りやすいでしょうか。箱の中には、当たりくじを含むたくさんの券が入っています。その中から「どうか一等が当たりますように」と念じて一枚を引く。それがもう偶然ではなく、必然だというのですから‥‥。

 

えっ、自分はハズレばっかりですって?

私もそうですよ、もうハズレばっかり! (ノ_-。)

 

これはどういう意味なのでしょう?

(だから、ハズレばっかりの意味じゃなくて、選んだ券が常に「必然」だということの意味ね)

 

一方で、シンクロニシティ(Synchronicity)という言葉もあります。これは、一般的には、同じようなことが重なる現象だと説明されています。たぶんあなたにも、何かしらの経験がお有りでしょう。ちょうど思い浮かべていた人に街でバッタリ出会ったり、一日に二度も交通事故を目撃したり、何かの数字が同じだったり、たまたま手に取った本に、疑問に対する答えが書いてあったり。

 

分かりやすいシンクロニシティに出会った時には、本当にびっくりしますよね。でも、前に書いたこととはちょっと矛盾していませんか? シンクロニシティは、〈偶然〉の重なり、と説明されることが多いです。でもすべてが必然なら、偶然の重なりもなにもない。すべて必然なのですから、必然の中に、重なり現象が見られたということに過ぎません。

 

実はその通りなのです。分かりやすいシンクロニシティ現象に出会った時には、ちょっとびっくりしてしまいますが、それは何かに気づかせるためのサインとして、わざわざそのような形をとって示されたものです。言って見れば、狭義のシンクロニシティ。でも実際には、身の上に起きていることのすべてが、シンクロニシティだと言ってもよいのです。今日はこれを説明しましょう。

 

宇宙のあらゆるものを構成している基本要素は、たった一つです。それは振動するエネルギー体です。万物は、この振動するエネルギー体の振動数が、ちょっとずつ違うことで、あらゆるものが形づくられているのです。物も、電磁波も、想念も。このことは、現代物理学もかなりのところまで迫って来てはいますが、まだ完全に証明されたわけではありません。

 

なぜ証明できないかと言いますと、我々が暮らしている三次元(第三霊性密度)の物質世界が、多次元的宇宙全体からみれば、ごく限られた範囲の振動数しか知覚できないからです。それはちょうど、ごく狭いスリットから、向こう側の広大な世界を覗こうとしているようなものです。しかしその限られた範囲であっても、いま言ったことの一端はかいま見ることは出来ます。

 

あなたがよく知っている、X線、紫外線、可視光線、赤外線、音波等。これらが、それぞれ異なる性質と働きを持っているというのはご存知でしょう。ではそれらに異なる性質を与えているものは何だと思いますか? 実に、これが振動数だけなのです。あるいは、波長、密度と言い換えてもいいです。全部が、波には違いがないのですが、それぞれの振動数が異なるのです。すると、性質がまるで違ったものになってしまうんですね。

 

このことを、私はセミナーなどでもよくお話しているのですが、なぜかみなさん感動がないのですよ。なぜでしょうねぇ。

 

私が最初にこれを知った時には、もの凄く感動しました。なんだ、そうだったのか。元はたった一つだったんだ。古代から言われて来たエーテルっていうのは、本当のことだったんだ。なんてシンプルな結論なんだ。なんて Beautiful なんだろう。そうか、「神」ってぇやつは、結局‥‥と、部屋の中で一人で小躍りしていたくらいです。

 

それはさて置き、宇宙のすべては「波」である、「振動するエネルギー体」である、ということを(少なくともこのブログを読んでくださっている方には)最初に認めていただきたいのです。音波や電磁波が「波」だということは、すぐにお認めになるでしょうが、固い物質も、人間の想念も、みんな「波」なのです。「振動するエネルギー体」なのです。

 

ということは、「波」というものが持っている性質や特徴が、物質にも、想念(思考や感情、感覚等)にも当てはまるということなのです。その一つを簡単に言うと、調和する波長は互いに惹かれ合い、合わない波長は反発し合うということが起こるのです。これを音楽で説明すると、共鳴(同調)、和音(調和)、不協和音(不調和=離反)の大きく3つの状態があるのです。

 

物質では、共鳴した時には結晶となり、和音となった時には化合し、不協和音となった時には分離します。人間関係でも同じです。共鳴する関係、調和する関係、不調和となる関係が存在します。物と人間との関係においても同じことが言えます。好む物と好まない物が生じるのは、同調、調和、不調和のセオリーが見えないところで働いているからです。

 

これらのセオリーを、精神世界では、一般に「波動の法則」と言っています。しかしこの「波動の法則」については、頭から毛嫌いする人も多く、インテリを自認する人は「エセ科学」などと言って、小馬鹿にしたり、罵声を浴びせたりしています。このような人たちは、結果から結果を見る狭い科学しか認めず、因の世界と結果の世界との関係を知ろうとする、真の科学というものを知りません。

 

私はどのように馬鹿にされても、糾弾されても構わないのですが、「波動の法則」は真理です。しかも最重要の。これが真理だと確信を持って言えるわけは、この世の機器では計測できない「波動」を、私はハッキリと知覚することが出来るからです。しかしこれは、何も自分が特別だなどと言いたいわけではありません。それどころか、人間誰しもが持っている普通の能力なのです。

 

あなたにも、ちゃんと「波動」は知覚出来ています。ただ、それを認めなかったり、理論を知らなかったり、気のせいだと解釈したりしているだけのことです。あなたが「ふと」思う。「なんとなく」そう感じる。急に何かの味や匂いを思い出した。空耳が聞こえた。ちょっとした事件が重なった。体が熱くなった。涼しい空気を感じる。気分が清々しい。etc.これらはすべて、あなたが知覚した「波動」です。

 

今これを言ったのは、そのことを意識して、セオリーを正しく学んで、正しく生活に応用していけば、あなたの生活が、よりよいものに変わるということを申し上げたいからです。人間は、今、そのことを真摯に学ぶ時期に来ています。あなたは、ただ物質世界に生きているだけの人間ではありません。多次元世界を知覚できる、多次元的存在なのです。そしてそれが、本当の人間の姿なのです。

 

ここで強調した「正しく」の意味は、「波動の法則」の応用には、エゴを一切持ち込んではならないということです。自分の欲のために「波動の法則」を応用しようという本末転倒があまりにも多いために、あえて強調しました。

 

さて、あらゆるものには固有の振動数というものがあります。あなたの肉体を造っているそれぞれの細胞、またその元である原子も、それぞれの振動数を持っています。またあなたの魂も想念も振動数を持っています。そしてこれらを総合して、今のあなたは、ご自分の「波動」というものを、絶えず周囲に発散しているのです。この「波動」を、オーラの色として見分けられる人もいます。

 

その時、互いの人間が出す「波動」、物が出す「波動」、インターネットやテレビが出す「波動」、文字が出す「波動」、自然が出す「波動」、等々の間で、先に言った、同調、調和、不調和のセオリーが正しく働いているのです。同じレベルの「波動」や似通ったものを含む「波動」を持ったもの同士は惹かれ合い、著しく離れたものは反発し合います。

 

高い波動を持った人間と、低い波動を持った人間が出会った場合、低い波動を持った人間は、大きく二つの反応に分かれます。その高い波動に親しみや共感を覚える場合と、嫌悪する場合です。その人の「魂」が反応すれば、近づきたいという願望が自然に生じ、「心」が反応すれば、今の自分を変えられたくないという防御意識(=怯え)が生じて、自然と嫌悪する態度に変わります。

 

強さを誇示する、強圧的態度に出るなどは、すべて弱さ、不安の裏返しです。

 

あなた方が、日々、テレビやインターネットで見ている怒号や、悲鳴や、罵り合いや、相手を小馬鹿にした態度などは、すべてそうした自己の防御意識の結果として顕れ出たものです。もちろん逆もあります。あたたかな、ふんわりした、リラックスできる、ほのぼのとした愛を感じるものです。また、魂の奥深くに突き刺さるような、深い感動を覚えるといった瞬間もあるでしょう。

 

ここで注目していただきたいのは、あなたが、どんなものに同調意識を持つか、ということです。先ほども申し上げたように、同じもの、似たもの同士は互いに惹き付け合います。ということは、怒号や、悲鳴や、罵り合いや、小馬鹿にした態度などに心惹かれるという人は、その「波動」に、現在の自分がよく調和しているということなのです。

 

通販広告で、これを飲みさえすれば努力なしに痩せられるとか、見違えるような素肌になれるとか、自宅にいて何もせずにお金が稼げるとかの誘いに反応する人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。北朝鮮から核ミサイルが飛んでくるぞと言って怯えたり、いつ来るかも分からない大地震を不安に思ったりする人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。

 

美女が、肌もあらわに「うっふーん」なんてのに興奮するのは、そのレベルの「波動」に合っているということです。(あ、俺か!)

 

ということで、人間というものは、所詮は自分の「波動」レベルに応じたものしか取捨選択しないものなのです。例えばこの『気づきの啓示板』ブログもしかりです。はなから全く興味関心がない人、誰かに勧められて読んでも「つまらん」と思う人、一つつまみ喰いでもしてみようかなという人、何かを感じすべてを知りたいと思う人、もの凄く感動したという人、などいろいろです。

 

すべては「波動の法則」です。あなたが見たもののすべては、あなたが決している。あなたは、今の自分のレベルに応じた色メガネを掛けて、それで世の中を見ています。そこでは、その色メガネに反応したものしか、あなたに興奮や、興味関心をもたらさないのです。これが、広義の意味でのシンクロニシティ。つまり、あなたのレベルと、周囲にあるもののレベルが同調した「瞬間」なのです。

 

狭義のシンクロニシティ(同じことが重なる現象)は、あなたのガイド(守護霊)や、マスターや、他の多次元的存在や、ハイヤーセルフが、何かの気づきを与えようとして仕組んできます。そこにどんなメッセージがあるかは、すぐには解らなくても、しばらくしてからパッと解る時があります。

 

もうお解りでしょう。「この世に偶然というものは何一つない」ということの意味が。あなたの周囲に起きていること、あなたが体験するあらゆることは、すべてシンクロニシティなのです。今のあなたに、必然的に顕れたものです。そして、あなたが選んだその瞬間々々の軌跡が、あなたの人生を決め、あなたが何者であったかを明らかにすることになるのです。

 

だからこそ、ここであなたにお願いしたいのです。ご自分を高めなさい。あなたには、あなた固有の凄い能力が与えられています。その能力を喜ばせ、そして周囲の人も喜ばせてあげなさい。それを、今日からの、あなたのシンクロニシティとしなさい。あなたがご自分を高めなければ、世の中は高まらないのですよ。社会は、個々の能力の集合体であることを、肝に命じて生きていってください。

生と死の意味

長年に渡り訪問医療を推進され、家での看取りを続けて来られたある医師の今を記録したドキュメンタリー番組を見ました。

 

この医師は、90歳を超えて自身が癌を患い、在宅医療を受ける側となって、こう自問するのです。「在宅医療は天国だと、自分はずっと言い続けてきたけれども、これはひょっとしたら地獄かもしれない」と。天国から地獄へ。医師として、長年患者を看取ってきた立場から、看取られる立場に変わって、どういう心境変化があったのか?

 

「結局、医療をどうにかしたところで、生活の苦しみがなくならないことには何も解決しない」と、今になって気づいたんだと、その医師は語ります。そして、「だから、総合人間医療のようなものが必要だ」と思うに至るのですが、その答えが見つからないと言って、煩悶しておられるのです。

 

とても熱心で真面目な方です。「医師として」真面目すぎるくらい真面目です。

けれども、この方が、人生の終末期に差し掛かって、天から示された《学びのテーマ》は、明らかです。「医師として」ではなく、「患者として」でもなく、「人として」その日を迎える体験をするということです。

 

一般論とするために、「生活の苦しみがなくならないことには」と、ぼかして語っておられるのですが、この方にとっての「生活の苦しみ」とは、端的に言えば「死への恐怖」です。

 

人間、誰もが死ぬ。ですからそれは特別なことではなく、「人として」当たり前のことです。ところが、「医師として」のもう一人の自分が、その問題に介入して来るために、今ある状況を素直に見つめられなくなって煩悶しているのです。死にゆく自分と、生かし続けようとする医師が、自分の中で激しく闘っているのです。

 

これは、現代の「医療」が持つ、ある種の観念性の問題を端的に示していると思います。医療者は、生命が何であるかを知りません。生とは何か、死とは何か、自分がなぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、を知りません。ただ、「生きている」という状態、「死んだ」という状態に対する知見だけがあって、それで「生」と「死」というものを捉えているのです。

 

ですから、多くの人は、その時が来て初めて「自分は何も知らない」と気づく。知らないから、ただ「死」を忌み嫌い、恐怖し、「生きている」ことだけを善しとした医療行為を行い、延命治療に精を出すのです。そして、「いろいろ手を尽くしましたが、ダメでした」となってから、やっと関係者全員が「それなら、仕方ないね」と納得する。

 

これが、今の「死」に対する考え方、対処の仕方のスタンダードになっています。

 

しかしここで、考えていただきたいのです。「生」とは何か、「死」とは何かを知らないまま、(ということは人生の目的を知らないまま)いくら「延命」をしたところで、所詮この世でいうところの「死」は避けられません。だとすれば、現代医療というものは、結局は苦悩の時を長らえさせるだけになってしまっている、とは言えないでしょうか?

 

50年前には、今のような考え方は「常識化」されてはいませんでした。わずか半世紀で、常識が一変してしまったのです。自分が子どもの頃には、「寝たきり」という老人は殆ど見かけませんでした。基本的に、ピンピンコロリ(死ぬ直前まで元気で、脳溢血等でコロリと死ぬ)でした。病気で床に着くようなことになっても、ほどなくみんな死んだのです。

 

ですから、「ポックリ逝きてぇ」というのが、その時分の老人の共通の願いで、そのために多くの人が願かけ(ポックリ寺というものがある)までしていたのです。深沢七郎氏の『楢山節考』には、歳を取っても自分があまりにも元気なものだから、このままでは世代交代がうまくいかないと気にした老婆が、石で自分の前歯を打ち砕くという描写まであるのです。

 

ところが今は、介護ベッド、看護ベッドを自分のホームベースにさせられて、各種の検査データをしょっちゅう取られ、安静と服薬を誓わされて、ヨレヨレの状態になりながらも、でも「できるだけ長く生きること」が、関係者みんなの願いになっている。生きて何をするのか? 「生きる」質を問うことなく、ただ「生きている」という証拠だけが尊ばれています。

 

たぶん、あれは7、8歳の頃だったと思うのですが、「人間、死んだらどうなるのだろう?」「なぜ、自分は生まれてきたのだろう?」「死後の世界というものはあるのだろうか?」といったことの疑問が、しだいに膨らんで、親に尋ねてみたことがあるのです。ところが明確な回答はありません。それで学校へ行って、理科の先生に訊いてみました。でも、先生も知らない。

 

この時は、もの凄いショックを受けました。生きる理由を知らなくても、みんな生きている。疑問など持たずに生きている大人がいる、という事実にです。みんな平気な顔をして、毎日を生きている。それで、そんな疑問を抱く自分はおかしいんだろうか。そんなことを気にしている自分は、よっぽどの小心者なんだろうか、と思いました。

 

それからは、自分が人一倍小心者であるということを気づかれまいとして、そうした素朴な疑問を口に出すことは、一切止めたのです。代わりに、内部でブツブツつぶやきを始める習慣が始まり、そのうち、内部の声がうるさすぎて、頭の中が爆発しそうになったのです。

 

でも冒頭の、医師の例に見るように、終末期における煩悶は、結局、「人間なぜ生きるのか?」「死んだらどうなるのか?」という基本問題に、答えを見つけぬまま「生きている」ということから、発しているのではないでしょうか?

 

人は、人生にとって、重要な問題ほど後回しにする。

そして、どうでもいいことばかりに時間を費やして、大切な一生を終わる。

 

大人になってから、「生きる意味」を考える学問があるということを知りました。「哲学」です。「生きる意味」を考えることは、別にタブーでは無かったのです。ですが「哲学」では、この問いに、真の答えを見つけることは出来ないと、結局知りました。この世の「現象」から推論した、結果の世界の「哲学」には、自ずと限界があるからです。

 

なぜなら、宇宙の始まり、宇宙の存在に関しての合理的な答えが、「哲学」というものにはないのです。根本であるところの宇宙の存在に関しての答えが見つからないのですから、その上に「生きる」ことに、合理的な回答が得られる筈がありません。結局のところ、「現象」から、さらに奥の「因の世界」にまで踏み込んだ「宇宙哲学」に、答えを見つけるしかなかったのです。

 

けれども、「宇宙哲学(=真理)」を語ることは、依然としてタブーです。数学でも、科学でも、医学でも、哲学でも、「結果の世界」だけを語る者には権威が与えられ、「因の世界」にまで踏み込んで考えようとする者には、「トンデモ」とか「ニセ科学」とか「インチキ」といったレッテルが貼られ、罵詈雑言と、バッシングの栄誉が与えられるのです。

 

これはもう仕方がありません。解る人には解るし、解らない人には解らない、としか言えない。それは知識だけの問題ではありませんから。ある種の「感覚」の目覚めを伴うものですから。本当は、この「感覚」は誰でも持っていて、それを呼び覚ましたり、鍛えることも可能なのですが、この世の「常識」がそれを否定し、封印させているので、気づく人は本当に少ないのです。

 

人間の本質は「魂」にあります。肉体であるあなたが、あなたの全てなのではありません。それはあなたが選んだ、この世における活動のための器官なのです。一般に言われている「生」と「死」の境界は、実は大した問題ではなく、この世という三次元世界を生きるための、活動器官を持ったか、手離したかという問題でしかないのです。いわゆる肉体の死後も、あなたの「魂」は生き続けます。

 

そもそも、宇宙には「誕生」も「死」もありません。あるのは「生」の循環だけです。我々が「生きている」とか「死んだ」と呼んでいるものは、循環時の、ある変化の「状態」を特定して、「生きている」とか「死んだ」とか、勝手に名づけているだけなのです。

 

では、あなたにお訊きしたい。あなたは「宇宙」が「死んだ」のを見たことがあるでしょうか? 絶対に無いはずです。なぜって、あなたも「宇宙」の一員なんですから。その「宇宙」が死んだら、あなたも生きてはいません。「宇宙」が「死んだ」ことを分かる人は、もうどこにもいない。

 

結局、「宇宙」には、永遠の「生」しかないのです。ただ「変化(=無常)」のみがあるのです。それが「輪廻」と呼ばれる現象です。「宇宙」に「死」はあり得ない。ですから、「宇宙」の一員であるあなたにも「死」があるわけがありません。あるのは「状態」の変化だけです。それが「輪廻転生」なのです。

 

かりに私に、この世で言うところの「死」が訪れたとしましょう。かつて私を構成していたその肉体を庭先に埋めておくと、やがてそこからは植物が芽を生やすでしょう。その時、かつて肉体だった元素は、植物の栄養となるべくして使われたのです。つまり「生命」が、次のものに運ばれたのです。このように「宇宙」に「死」というものはないのです。

 

では「意識」はどうなるのでしょうか? 現代科学では証明されていませんが、「意識」はエネルギー体です。「魂」の「意識」は、脳を失っても、無くなることはありません。真のホームである霊界に帰還し、休息をとった後、そこでいくつかの選択肢を示された上で、地上での活動をもう一度経験したいと願う「魂」に対しては、その機会が与えられ、また転生してくることになります。

 

こうしたことは「知識」として知っただけでは不充分です。そこにある種の「感覚」というものが伴わないと、なかなか納得していただけないとは思います。しかし最近では、臨死体験や体外離脱体験を語る人も多くなりましたし、深い瞑想状態に至ることで、「宇宙」の永遠性と「魂」の存在の確証についての感覚をしだいに掴むようになることは可能です。

 

疑い深い人は、それでもなお、こうした超意識の感覚を、脳の活動のみによって説明しようとするでしょう。そういう人を説得しようとは思いません。ただ「体験してみては?」と言うことしか出来ません。どの道、地上の今の物質科学では証明することが出来ませんから。

 

しかし反対にこうも言えます。どんな地上の機器を使っても、「感覚」を丸ごと捉えることは不可能だということ。データというものは、「感覚」の一部を切り取って、ある指標(スケール)の上に置き換えたものに過ぎません。

 

あなたに、最近どうも体調が悪いという「感覚」があったとしましょう。そこでいろいろと検査をして、データを収集します。血圧がどう、血糖値がどうとか。その結果、「どこも悪いところはありません」と言われるかも知れません。でもあなたには、「いつもとは変だ」という「感覚」がある。この「感覚」を、他者に丸ごと示し、理解してもらうことは、不可能なのです。

 

しかしここで、驚くべき点に注目していただきたいのです。臨死体験や、体外離脱体験や、深い瞑想体験によって得られた情報が、古今東西で、ほとんど同じだということです。「宇宙」の永遠性や、「魂」の存在や、「輪廻転生」についても、太古の昔から同じことが繰り返し述べられているということです。

 

これは、私が何度も言っているように、「元は一つ」ということの間接的な証明になってはいないでしょうか? ですから、組織宗教になど頼る必要はないのです。霊能者のご託宣などを仰ぐ必要もないのです。何をどうしようが、帰るところは一つ。みんな一緒。ただ、早いか遅いかの違いがあるだけ、ということです。

 

いま言ったことを、信じる必要はありません。疑っていただいて結構なのです。けれども、唯物主義を振りかざす方に尋ねてみたい。あなたが、この世で「死」と呼んでいる現象を迎えたあと、自分がどうなると言うのか? そこには「虚無」しかないのか? 「虚無」しかないとすれば、それまであなたが生きて来たことに、どんな意味があったと言うのか?

 

この迷いこそ、医師が直面したものだったのではないでしょうか?

 

この世は栄枯盛衰です。どんな物も、あの世へは持っていけない。その通りです。ならば「生きる」ことにどんな意味があるのか? 何をやっても、人間、最後は死ぬのなら、人生に意味などないではないか? まさしくその通り。

 

でもちょっと違う。意味はないけれど、あなたの「意識」は残る。「魂」によって運ばれて、この先もずっと、ずっと‥‥。

 

さてそこで、

あなたの「意識」とは、常に〈今ここ〉のものである、ということに気づいて欲しいのです。

Be Here Now. 今ここ。

 

3分前にこういうことがあった。昨日こういう経験をした。学生時代にこういうことがあった。幼少時に親からこんなふうにされた。それは「過去」じゃないんです。「過去」なんてものはどこにもない。そういう体験をしたという、〈今ここ〉の想い、〈今ここ〉の解釈があるだけなのです。解りますか? あなたとは、あなたという「魂」とは、「〈今ここ〉を想う存在」なのです。

 

ルネ・デカルトは、そこでこう言いました。

Cogito, ergo sum 我想う、ゆえに我あり。

 

ということは、〈今ここ〉の想いを変えれば、「過去」の意味など容易に変わるということです。自分が変わるということなのです。そして、この「変わる」きっかけをもたらすものとして、人生におけるあなたの様々な「体験」がある。そのシナリオを、あなたは、霊界において、自分であらかじめ設定した上で、この世に誕生して来ました。

 

人が感じるあらゆる「不安感」の底には、結局のところ、「死」に対する誤った観念というものがあるのです。死んだら何もかも終わりだ。自分という存在が消滅してしまう。「死」は怖い。人生など所詮は空しい。そこで厭世的気分に落ち込む人がいる一方で、刹那的に生きたり、享楽に耽ったり、贅沢三昧をしたり、他者を支配したり、他人の財産を奪い取ったりする人が出てくるのです。

 

つまり、人が「死」と呼んでいるものに対する無智が、これまで地球人類の成長を阻んできた大きな原因になっているのです。

 

しかし、自分の本質は「魂」にあって、自分が「永遠に〈今ここ〉を想う存在」であると知れば、誕生の目的、そして人生の目的がどこにあるのかは、もうお解りでしょう? 成功でも、名声でも、何かを Get することでもない。様々な体験にチャレンジし、それを存分に味わい、そこに何かの意味を見出す(与える、創造する)ことです。

 

そうやって築いた、「魂」の意識だけが、次に運ばれるのです。

 

同じ体験も、辛いと想えば辛い。不幸だと想えば不幸。でも楽しいと想えば楽しい。幸福だと想えば幸福になる。すべては、「〈今ここ〉を想う存在」である、あなたの選択いかんなのです。そして、前者を出来るだけ手離し、後者の想いを増やして行った時、それを指して、宇宙では「魂」の成長と言うのです。

 

いま言ったことは、生と死の意味を正しく理解し、「魂」の永遠性に気づかなければ、どんなに「哲学」を学んだところで、解り得ないことです。結局は、最期になって煩悶する。人生は、そんなに難しいことじゃない。己を信じて、周囲に思いやりを持って、互いに助け合って、楽しく、生き生きと、〈今ここ〉を、思う存分体験すればいい。

 

体験だけがすべて。体験の「解釈」だけが、あの世へそして次の生へと運ばれる。ですから、その時には、辛く苦しいと思ったことでも、全部が役に立っている。あなたの「意識」の層を豊かに積み重ねるについては、全部の体験が貢献しているのです。「苦労は買ってでもしろ」と言われるゆえんです。

 

辛く苦しいことほど、ジャンピングボードのバネが厚い。つまりそれは、「魂」の成長にとって、飛躍のチャンスが与えられたということ。だからあなたも、この「宇宙の真理」を知って、日々をたくましく生きなさい。失敗などどこにもなく、あなたを責めるものなど何もなく、宇宙からは完全に愛されているということを、胸にしっかりと受けとめなさい。

宇宙の健全、身体の健康

これから書くような知識を、あの時に自分が持っていたら、死をまぬがれることは出来なかったにせよ、もっと違った展開になっていたかも知れません。いや、たとえ自分だけが知識を持っていたところで、本人も、医者も、医療関係者も、友人知人も、親戚も、マスコミも、ほぼ全部が現代の医療システムの中に埋没している状況下では、やはりどうにもならなかったことでしょう。

 

あの日あの時、カミさんの癌死という手痛い出来事を体験させられ、いかに自分が馬鹿であったか、未熟であったか、無智であったかを痛感し、そして今日があります。やはりその体験は必然で、今では「伝える」という役目を果たすために、自分が選んだ学習だった気がしています。そのストーリー創りに、彼女は身をもって協力してくれたんですね。

 

さて、いきなり核心に迫る質問です。

あなたは、「宇宙」に病気があると思いますか? 言い方を変えると、「神」が病気になることがあると思いますか?

 

「神」とは全てです。宇宙の総体です。創造主であり同時に被創造物です。従って宇宙には、(特定の宗教で強調されているような)罪や罰はありません。もし罪と罰があるとするならば、「神」は、おイタをする自分の左手を、自分の右手で「コラ!」と言ってひっぱたくということになってしまいます。まるで、漫才のボケとツッコミを一人でするようなものです。こんなバカな話はありません。

 

同じように、宇宙に病気はありません。総体であるところの「神」が、どうして自分で自分の病気を創り、自分で治す必要があるでしょうか? つまり宇宙は、そのままで、ありのままで、まったくの「健全」だということです。言い換えれば、宇宙はつねに「健全」であるように「生きている」ということ。「健全」のもとに自動調整されるということ。それが宇宙の本質であり、真理だということです。

 

ところで、あなたという存在は何であったでしょうか? そうです、「神」の落とし子です。だとすれば、「神」の一部であるあなたが、「病気」になるわけがありません。本来、人間に「病気」はないのです。ところが人間社会では、「病気」が頻繁に見られます。他の動物よりもはるかに高い割合で「病気」なるものが発生しています。これは一体どうしてなのでしょうか?

 

その答えは、前に書いた文中にあります。人間が、「ありのまま」に生きていないからです。自然界に生きる動植物も、人間に飼育された途端に病気になりやすくなるのは、「ありのまま」に生きられなくなるからです。そして人間は、「ありのまま」を忘れただけでなく、「健全」のもとに「自動調整される」ことを信じなくなりました。その代わりに、こう信じた。

 

人は病気になるものだ。齢をとったら体にガタが来るものだ。世の中には病原菌や危険なウイルスが溢れている。病気予防に定期健康診断を受けなさい。早期発見早期治療が大切です。ちょっとおかしいと思ったら、自己判断をせずにすぐに病院へ。今はいい薬がどんどん開発されているし、ハイテクの高度医療機器だってあります。でも、ちとお金が掛かるのね。だから、まさかの時に備えて保険にはちゃんと入っておきたいものですね。

 

過去半世紀で、この刷り込みが、あまりにも壮大な規模で、あまりにも徹底したものですから、今ではその宣伝に疑いを差し挟む人など、ほとんどいません。その延長上に、健康食品ブームがあり、多くの人があれを飲まなきゃ、これを食べなきゃと、ほとんど強迫観念のようにして摂取しています。

 

でもおかしいとは思いませんか? そうやって医療費や健康関連の支出がどんどん増えているということは、健康〈不安〉産業の成長が止まらないということなんですよ。もし本当に「健康」が図られるのであれば、また実現されるのであれば、これらの支出は減っていかなきゃならない。でも逆に増えている。ということは、今のシステムが根本的に間違っているということを明白に示しています。

 

今こそ、あなた方は、「健康」の源泉がどこにあるかということの宇宙的な知識と、「ありのままに生きる」ということの意味を学ぶ時です。

 

宇宙に、想念なしに実体化するものなど、なに一つありません。これはすでに何度も書いてきたことですが、宇宙の根本原理として、ぜひ頭に入れておいて欲しい事柄です。またここで「実体化」と言った時に、それは必ずしも形あるものだけを意味しません。他ならぬ、想念自体(思考や、感情や、感覚など)が、すでに「実体化」なのです。

 

「想念」は目には見えませんが、振動するエネルギー体であって、それ自体がパワーを持っています。その証拠に、「想念」を他者に伝達して影響を与えることが出来ます。たとえば上司が部下に命令を下す。この時、通常は言葉を使うわけですが、それは言語に変換されたところの上司の「想念」なのです。そして、言葉を受け取った部下は、次にこの言葉を自分の「想念」に再構成します。

 

このようにして、普段あまり意識することはありませんが、人間は「想念」パワーによって、互いに周囲に影響を与え合っているのです。今のは言葉を使った例ですが、「目は口ほどにものを言う」という諺もあるように、人はテレパシック(telepathic)な伝達も日常的によく行っておりますし、中には植物と会話したり、動物と会話できるという感覚を持つ人だっているのです。

 

一方、身の回りにある道具や衣服などが、すべてその製作者の「想念」を下敷きに創られたものであるということはすぐにお分かりでしょう。では、物質化している「想念」と、物質化に至っていない「想念」とは、何がどう違うのでしょうか?

 

私たちはみな肉体を持ち、三次元(3D)の世界に身を置いているせいで、自分の周囲をつい「物」ベースで見て、あるとかないとかと言う癖があります。でもここで、ちょっと想像力を働かせ、ドラえもんのポケットの中から、見えるものと見えないものが逆転するメガネを取り出して掛けてみてください。すると、物質化している・いないに関わらず、様々な「想念」が行き交っている姿が見えることになります。これが、いわゆる霊的世界なのです。

 

霊的世界においては、物質化しているかどうかということは大きな問題ではないのです。たとえばあなたが、あることの実現化に向けて、Aプラン、Bプラン、Cプランを構想したとしましょう。あなたにとっていちばん思い入れが強かったのはAプランだったのですが、諸般の事情でBプランが実現化したとします。この場合、霊的世界においては、BよりもAプランの方が「実体」として強く残り続けるのです。

 

つまり、霊的世界というのは「想念」だけの世界であり、ですから消滅することはなく、永遠に記憶として残り続けるのです。一方、物質化された世界というのは、エネルギー体が振動数を下げた時に出現する世界であり、物質の元となる素粒子は、吸引、反発、粘着、凝集という四つの力の作用によって、絶えず離合集散を繰り返します。これが、物質界の掟、いわゆる「無常(常なるものは何も無く、全てが変化し続ける)」です。

 

*実際には、霊的世界に「時間」というものはないので、この言い方はおかしいのですが、三次元に住む我々には「無時間」という概念が理解し難いので、仮にそう表現しています。

 

よく、「この世は幻」とか「この世は映し絵」と言われるわけは、このような理由によるものなのです。つまり、あなたという「魂」が真に〈生きて〉関わっている世界は、実は霊的世界の方なのです。この世は、物質世界でしか味わえない体験学習をするために、あなたが自ら希望して入学してきた寄宿舎つきの学校というわけです。

 

ですから、高い授業料(生涯費用2億円!)の、元をしっかり取って帰らないといけませんね。はて、あなたは、元、取ってるかな?

 

あなたに限らず、人間たちは、たいてい自分の身体というものと意識というものを、分離して考えています。特に、脳科学がクロースアップされるに連れて、この傾向はますます強まっています。しかし、これまで述べて来たように、すべての物質には、それが成立するための理由(四つの力を組み合わせて行使している原因)があります。言い換えれば、背後に何らかの「意識」があるのです。

 

ということは、あなたの身体も、身体を構成する各器官、各細胞も、脳とは別の「意識」を持っているということなのです。あなたの皮膚上にある古傷がそれを証明しています。皮膚細胞はどんどん新陳代謝を繰り返しているのに、古傷が生じた際の記憶は、新しく作り出される細胞にもちゃんと伝達されているのです。

 

さてこの「意識」ですが、以前にも述べたように、多層構造を為しています。この分類や呼び方については各種のバリエーションがありますが、今回は、その意味をもっとも的確に表現していると思われる「sense mind(感覚的な意識)」と「cause mind(原因の意識)」という言葉を使って説明しましょう。「sense mind」が顕在意識、「cause mind」が潜在意識(無意識)に当たります。

 

あなたがいま借り受けている身体は、いくつかの系、系を構成する器官、器官を作る細胞、細胞を作る分子、分子の素である原子、原子を構成する素粒子という階層構造で構成されています。ここまでは現代物理学においても常識化されています。がしかし、素粒子というものも、結局は万物を形づくっているたった一つの原因、無形の振動するエネルギー体(Sprit)から生じているのです。

 

この「Sprit」は、物質が形成される際のたった一つの根本的原因なのですから、宇宙全体は常に「Sprit」のもとに連動しており、それゆえ「宇宙意識」と繋がった状態での個別の「意識」を持っているのです。これが「cause mind」、因の意識です。ここで「宇宙意識」は、別名「神」の意識と言ってもよいわけですから、結局「cause mind」は、「神」の意識に従っていると言えるのです。

 

もし人が、「cause mind」だけの意識体であれば、人間は病気にはなりません。なぜなら、「宇宙」は完全に「健全」のもとに働いているからです。ところが人間は、「sense mind」を、「cause mind」の上に上乗せする形で動かしています。これは物質世界を知覚し、物質世界を生きるための方策として必要なものであり、いわゆる五感というセンサーから取り入れる情報により形成されています。

 

ここで問題が起きるのです。「sense mind」が、「cause mind」を無視した自由な振る舞いをするということです。しかも、一般的に言って、「cause mind」が自分の身体の深部を支えているという認識を持っている人は、ほとんど皆無に等しいのです。その結果、多くの人間は、与えられた自由意志をエゴに突き動かされる形で行使しているのです。しかもこのエゴには、前世から引きずった意識が含まれているのです。

 

するとどういうことが起きるでしょうか? 「sense mind」と「cause mind」の意識内衝突です。「cause mind」は、深いところで「宇宙意識」に沿った生き方を希求しているのですが、エゴが創り出した「sense mind」がそれを否定し、「こっちの方がいいよ」というメッセージを自分に送り出します。そしてメッセージは、直ちに全身に伝えられ、身体を構成している細胞に影響を与えるのです。

 

このようにして、両意識間に生じた軋轢が、調和を乱し、「病気」というものを発生させるのです。人間社会では、ひとこと「ストレス」で片付けられていますが、その背後にあるメカニズムはいま言った通りで、「ストレス」があらゆる病気の元というのは、正しい見解です。こうして軋轢に精神が耐えられなくなれば、心に病いが生じ、身体が耐えられなければ、そのエゴの性質に対応した身体の箇所に病変を創り出して行きます。

 

*このエゴの性質、言い換えればあなたという「魂」にとっての今世における課題と、生じた病変箇所との関係については、対応表が出来ています。が、今回は説明を割愛します。

 

ここで、おそらくこういう疑問を持たれる方もいらっしゃることでしょう。自分がそれを選んでいるのだとすれば、なぜわざわざそんなムダと思えることをするのかと。しかしこれこそが、この世でしか体験出来ない学習というものであり、自分の周囲で起こるあらゆる出来事同様、「病気」も、使い方によってはその人の「魂」を成長させる大きなジャンピングボードと成り得るのです。

 

要は、そこにどんなメッセージを感じ取るか、そして次に活かしていくかということです。そしてこれが、本ブログのタイトルにもなっている『気づき』なのです。本稿をお読みになって、あなたが「宇宙の健全」と「身体の健康」との密接な関係に気づき、「sense mind」を「cause mind」と調和する生き方を選択して行くとき、あなたは「病気」の不安から解放されます。これが「ありのまま」に生きるということです。

 

また今「病気」を患っている方も、そこから受け取れるメッセージをよく吟味し、「宇宙の法則」に則った生き方をするように、日々心がけていれば、しだいに健康を回復して行きます。あなたの身体を創造しているのは、間違いなくあなたの「意識」です。身体は、そして表情は、あなたの「意識」の鏡であり、あなたの今の「意識」のあり方を、そこに正しく映し出しています。

 

ですから、先ずは自分の「心」の有り様を見つめ直してみてください。いったい自分のどこがいけなかったのか? そして改めるべきは改め、次に向かってください。その際、「病気を治す」とか「病気と闘う」とは思わないでください。ただただ、元気で、活力に満ちて、朗らかに、心を清々しくして、満面に笑顔を浮かべている自分の姿を強く強く想像してください。

 

その上で、適切な呼吸、適切な食事、清浄な水の摂取、血行を促進し身体をほぐす運動を心がけ、一日の中にリラックスタイムを頻繁に設けてください。

未来は明るい。そのことに自信を持って、この体験の機会を活かして参りましょう。

近親者の「自殺」ということについて

これからお話することは、ある人にとっては、感情を逆撫でするような腹立たしさを誘発してしまうことになるかも知れません。しかしある人にとっては、大いに慰めとなり、生命(いのち)というものについての理解がいっそう進むものになるかも知れません。私としては、できれば後者であって欲しいと願って、今日このテーマを書くことにします。

 

実は先日、同様の件である方から相談を受け、お話をする機会がありました。その時には、その方のご事情に添った回答をして差し上げたのですが、後で同じように悩まれている方も多くいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、普遍的な観点から、「魂」および「宇宙の法則」に照らして「自殺」というものをどう考えていったらよいかをお話することにしました。

 

統計によると、平成10年から14年連続して3万人を超えていた年間自殺者数も、ここ3年は減少に転じ、平成26年は2万5千人ほどであったそうです。しかしこの数字は、警察庁の基準に照らして「自殺」と断定されたもののみの人数です。そのため、実際にはもっと多いのではないかという声もあります。私の親戚にも自殺者がおりますし、友人の中で親兄弟が自殺したという人も何人かおられます。

 

さて、最初にみなさんに考えていただきたいことは、病死、老衰死、事故死といった死亡原因と、「自殺」とでは何がどう違うのかということです。さらに言えば、殺人、孤独死といったものと「自殺」とでは、何がどう違うというのでしょうか? 何か「自殺」だけを、特別視しなければいけない理由というものがあるのでしょうか?

 

「自殺」を特別視してしまう理由は解ります。自殺者がそれを決意し実行するに至った心境をおもんぱかって、自分の心がザワザワと騒ぐからです。さぞかし無念であったろう。どうして早く気づいてやれなかったのだろうか。もっと自分が思いやりを示していれば、なんとかしてあげることも出来たのではないだろうか。あの一瞬、あの時のひとことが悔やまれる‥‥。etc.

 

しかしそうやっていくら考えても、死んだ者は戻っては来ません。そこに、処理しきれない感情がいつまでも残ってしまうのですね。でもね、そのことは、病死であっても、老衰死であっても、事故死であっても、殺人であっても、孤独死であっても、みな同じことなのではないでしょうか? 要は、遺された者が、その「死」に対してどのような意味をそこに見出すかということです。

 

釈迦は、説法に歩いた旅先で供養に出された食事(一説によると毒キノコだったと言われている)に当たって亡くなりました。この時の弟子たち、さらにはさまざまな生き物たちがこぞって嘆き悲しむ姿を描いた絵が『釈迦涅槃図』です。この時、釈迦は自分の死に際して、「死は珍しいものではない。だから弟子たちよ、みな力強く生きよ。」と語ったと伝えられています。

 

そうなんです。「死」は珍しいものではありません。どの「死」も「死」です。「死」に特別な意味を見出している、あるいは付与しているのは、遺された者たちの方なのです。それは、残された者の心の中に創り出された「観念」であるということ。そしてこの「観念」をどう創り出すか、身近な者の「死」に対してどんな「意味」を付け加えるかは、自由意思に任されているということです。

 

さらに言えば、これまで何度も申し上げてきたように、この世で言うところの「死」は消滅ではありません。「魂」は永遠であって、肉体の死後も生き続けますし、肉体を構成していた原子も決して消滅することはなく、組成を変えて他の生命を育む素になって行くのです。つまり、この世で「死」と呼ばれている現象は、「魂」の永遠性の中の一つの変化に過ぎないのです。

 

一般的に言って、人は「死」という現象を重々しく捉え過ぎています。このことは、とりもなおさず「生」に対しても重々しく考え過ぎているということを意味しています。「生きること」を重々しく考え過ぎているから、反対の「死」も重々しいものになってしまうのです。そこでは、「生きていること」のみに価値があり「死んだら何もかも終わり」という概念がまかり通っているのです。

 

結局のところ、「生命(いのち)」というものの実相について何も理解しないまま、多くの人はただ「死」を忌み嫌い、その延長で、「自殺」することや「自殺」の話題に触れることをタブー視しているのです。

 

いいですか。人生は「たった一度きり」なのではありません。

 

霊性の向上を目指し、物質界でしか味わえない体験をするために、「魂」は何度も何度も生まれ変わります。この時、個々の「魂」は、みな次の「生」での課題を自ら設定し、この世に誕生を果たしているのです。その意味でも、自分の「生」に関して、全面的に責任を有しているのは、その人自身なのだということです。このことは肝に命じてください。

 

私たちは一生のうちに、実にたくさんの人と出会います。そして相互に影響を与えあっています。中でも近親者は、過去世においても縁の深かった「魂」である場合が多く、輪廻転生する過程で、役どころを変えて再び縁を結びます。なぜそうなるかと言えば、前世までに積んだカルマを解消するチャンスとして、そのようなチャンスが設けられているのです。

 

さて、人間関係というものは常に相互的なものであって、一方通行ということは絶対にありません。たとえそれが支配と被支配の関係だったとしても、その関係を成立させているのは、お互いの意思による相互作用の結果なのです。そのことから、次のように言うことができます。あなたは、他の「魂」のこの世における生死について、責任を負うことは出来ない。

 

これは多分に誤解や反発を与えてしまう言葉かも知れません。この世の常識とはまるで違うからです。たとえば、飛行機を操縦するパイロットは乗客の命に対して責任はないのか、人の命を奪った殺人者に罪はないというのか、といったことです。しかしここでは敢えて、霊的世界における真実を述べておきます。そもそも宇宙には罪も罰もないのです。それを設定したのは、人間社会なのです。

 

この件については、いつかまた詳しく取り上げるかも知れませんが、今ここで強調しておきたいことは、近親者の「死」に関して、あなたが過度の責任観念を持つ必要は一切ないということです。一時は、激しいショックに襲われるかも知れません。また、喪失の悲しみに打ちひしがれるかも知れません。しかし、それをいつまでも引きずってしまってはなりません。

 

そう言うと、薄情な気がして納得がいかないかも知れませんが、では逆を考えてみてください。あなたが自殺をしたとして、今は「魂」のみとなったあなたは、遺された近親者に対して、いつまでも自責の念に駆られていて欲しいと望むでしょうか? たぶん逆でしょう。元気に、明るく暮らして欲しいと願うのではないでしょうか。なぜなら、そのように「生きる」ことは、〈彼ら自身の責任〉だからです。

 

こうして人は、それぞれが自分の「生」に対してのみ責任を持っているのです。それは、転生時に設定して来た課題の現実化にちゃんと向き合い、その体験から意味を引き出し、そして乗り越えるという人生行路です。人間関係というものは、そのために設定されたドラマの配役なのです。そこでは、誰もが主役であり、そして同時に他者の脇役としても存在しているのです。

 

と、ここまで語っても、「いや、自殺は特別だ」となお納得できない方もきっとおられることでしょう。それは、自殺者の「魂」の行方について、誤った知識が世間に流布されているからです。いわく、「自殺者の森に閉じ込められる」「無間地獄に堕ちてさまよう」「永遠に成仏できず、懲罰的苦しみを得る」等々。ここでハッキリ言っておきますが、そのようなことは絶対にありません。

 

中間生に帰ってから、今世での課題にちゃんと取り組まなかったことに気づいて恥ずかしい思いをすることはあったとしても、「自殺」もやはり一つの「転化」のバリエーションに過ぎないのです。しばらくすれば、「今度こそ」と、再び課題に取り組むチャンスが与えられます。

 

また、思いを残して逝った、混乱のまま亡くなったという「魂」に対しては、落ち着くまでの癒しの場が、ガイドたちによって提供されますのでどうぞ安心してください。

 

まれにですが、現世の物質的世界に非常に執着の強かった「魂」の中には、自分が死んだことに気づかないで、生前に縁のあった場所に留まる場合があります。しかしそうした場合であっても、成長スピードは遅いかも知れませんが、いつかは必ず元へ帰って行くことになります。

 

重要なことは、そうした「魂」の存在を怖れないことです。怖れなければ実害はありません。考えてみてください。実害ということで言えば、生き霊(つまり生きている人間)の方がはるかに怖いじゃありませんか。なにしろ、生き霊が繰り出したパンチは、あなたの顔面を確実にヒットすることになるんですからね。

 

ということで、「いま地獄をさまよっている」などと言う怪しげな霊能者の口車には乗らないようにしてください。そういう脅しや、不安を掻き立てる者の言うことに耳を傾けたら、その術中にハマってしまいますよ。いいですか? あなたのリアリティというものは、常にあなたの想像が創造しているんですよ。

 

不安を煽るようなことを言う者はみな無智なのです。宇宙の全てを創造した創造主が、なにゆえ自身の子であるところの「魂」に、恐怖や不安や罰を与えると言うのでしょうか? 宇宙の法則から言って、そんなことは絶対にありません。なぜなら、宇宙の全創造物、それは創造主ご自身でもあるからです。

 

ですから、何も心配することなく、明るく、元気に、楽しく生きることです。それが、あなたの今度の「生」に対する責任を全うするということであり、同時に来世にもつながるポジティブなカルマを演出する元にもなって行くのですから。

細胞の記憶と輪廻転生

あなたに終わりはありません。この世で「死」と呼んでいるものでさえも、ただ「変化」というもののドラスティックな一局面に過ぎないのです。春に蒔いた種モミから芽が顔を出し、青々とした葉が繁る。夏の強い陽射しを受けた茎はグングン成長し、やがて実をつけ黄金色に染まる。熟した実は刈り取られて、そして精米され胃袋に収まる。さてその時、そこで稲は死んだのでしょうか?

 

宇宙で、ただ一つの変わらないもの。それは「変わり続ける」ということだけです。始まりもなく、終わりもなく、ただ「変化」し続けている。それが、宇宙というものの真実の姿です。あなたも、間違いなく宇宙の一員なのですから、同じく「変化」し続けるだけなのです。病気で死のうが、誰かに殺されようが、自殺しようが、あなたに終わりはありません。

 

「輪廻転生」と言うとき、そこには二つの側面があります。あなたの本質は、あくまで「魂」にあり、今世で得た肉体は、いわば乗り物です。たくさんある乗り物の中から、事情があって、とにかく今のものを選んだのです。その乗り物のパイロットはあなたです。ですから、あなたはご自分の乗り物をいたわり、メンテナンスを心掛け、上手にコントロールしていく義務を負っています。

 

「魂」は、地上でしか出来ない学習をするために、地球に人間として誕生します。そして成長し、様々な体験をし、齢を重ね、やがてまた元のところへと帰って行くのです。でも残念ながら、今の地球人はそれほど賢くはないので、学習は遅々として進まず、何度も何度も留年を重ね、また地上に戻って来るのです。これが一つめの「輪廻転生」です。

 

では、乗り物であったかつての肉体はどうなったのでしょう? それは死んだのでしょうか? この世で「死」と呼ばれている「変化」を迎えると、その肉体は、大抵は焼かれるか土中に埋められます。骨は比較的長く形態を持ち続けますが、その他の部分は一年もしないうちに腐ってバクテリアに分解されてしまいます。いずれにせよ、最後はみんな「土」になってしまいます。

 

「土に還る」とか、人が「土から生まれた」というのは本当のことで、象徴的意味合いで言われているのではありません。人体の70パーセントは水分です。あとは炭素やカルシウムや他の微量元素で、言ってみれば、泥だんごから肉体が造られているのです。今では90種類くらいの元素が人体から見つかっています。それはとりもなおさず、人体が「神に似せて創られた」、つまり大宇宙を模した小宇宙(microcosmos)に他ならないということを証明しています。

 

さて、土に還った肉体は、その後どうなるのでしょうか? その土は、また何かの植物を育てるための養分となります。そしてその植物を、昆虫や小動物が食べ、さらにそれを大型の動物が食べ、回り回ってまた人間の肉体を維持するための栄養素として取り込まれて行くのです。これがもう一つの「輪廻転生」であり、実は「生命(いのち)」というものの本質なのです。

 

「生命」とは何か? それは、宇宙エネルギーの永遠のバトンリレーと言えるのです。

さて今、「輪廻転生」という言葉が持つ、二つの側面を挙げました。「魂」の輪廻と「物質」の輪廻です。でもこの両者は、究極的に見れば、同じことなのです。それをもう少し説明しましょう。


「魂」とは何か? これは「宇宙意識」という芯(core)の周りを、「想念エネルギー」が包みこんだ塊と思ってもらえばよく、それ自体が、目に見えない一つのエネルギー体です。そうですねぇ、梅干しオニギリを思い浮かべてみると解りやすいでしょうか? (*「宇宙」の総体をもし「神」と呼ぶとすれば、「神に通じる意識」と言ってもいい)

 

みなさんは、誰もが、宇宙の本体そして総体であるところの「宇宙意識」から放たれた一つのピース(かけら)なんです。ですから、芯の部分には、ちゃんと「宇宙意識」との繋がりを宿しているのです。でもそれが、地上で様々な体験を重ねるうちに、たくさんの「想念」を持つようになり、それが芯の周りにペタペタくっついて、そこに「魂」の個性というものが生じて来るのです。

 

この個性は、想念の違い、また想念の深さによって多種多様なヴァリエーションを生み出し、一つとして同じものはありません。実に73億人全員が異なるのです。でもコアは一つに繋がっている。ところが、「想念」が「観念」を生み、「観念」が「信念」を育てるように教育されてしまうと、いつしか、自分の主体が「宇宙意識」に在ったことを忘れてしまい、「信念」の亡者になってしまうのです。

 

恐ろしいことに、地上では「信念」を持つことが逆に「良いこと」とされています。強い「信念」でリーダーシップを取る人に、多くの民衆がフォロワーとなって付いていってしまうのです。誰かが「正義のための戦争だ!」と言うと、何度悲惨な戦争体験を重ねようが、「そうだ、敵をやっつけろ!」と賛同する人が必ず出てくる。これが、地球人がちっとも進歩しない最大の理由なのです。

 

「信念」と言うと、みんな良いことのように思っていますが、別の言葉で言えば「偏狭なこだわり」です。これを人間は、まるで雪だるまを作るように芯の周りに積み重ね、真ん中にある「宇宙意識」を覆い尽くして行く。最近では「こだわりのラーメン屋」などど言って、「こだわり」という言葉すら「良いこと」を意味するようになってしまったのですから、もうどうしようもありません。

 

「こだわり」の漢字「拘り」は、「拘束」の「拘」の字なんですけどねぇ。人間はみんなそうやって、自ら好んで縛られる道を選択する。そうして「苦しい、苦しい」と言っている。金品・財産を持っては自分を縛り、地位・名声を誇っては自分を縛り、資格・肩書きを得ては自分を縛り、先生をあがめ立てては隷属して自分を縛る。この「拘り」を、ヨーガでは「カルマ」と呼んだんですね。

 

そして、「そんなものは無意味である」「真の自由とは何か」を心底から実感するまで、何度でも転生して来るというわけです。ああ、まったく気の長い話です。そして、転生する際には、今世の課題であるところの「カルマ」の解消を果たすために、いちばん相応しい肉体と環境とを選ぶのです。さらに、選ぶだけではありません。選んだ肉体を、次には自分の自由意思をもって、育てて行くのです。

 

船を操るのも、修繕するのも、磨き上げるのも自分です。あなたの自由意志です。手荒に扱うのも、いたわりながら扱うのもあなた次第。つまり、あなたの今の意思が、次のあなたの「肉体」を創り出すのです。でもたぶん、今のあなたはそれを信じないでしょう。かつての私もそうでした。前後不覚になるまで大酒を飲むこともしょっちゅう(渋谷駅の階段から転げ落ちた)。自分で自分の心を不安定にさせては、調子が悪いとこぼしていました。

 

俳優の渡辺謙さんが二度の白血病の発症を克服され、国際的に大活躍されていることはご存知でしょう。私は「この人には、何かがある」とずっと思っていました。すると、あるインタビュー番組で、<白血病の細胞をプチプチと潰していく瞑想を行っていた>と語っておられるのを聞いて、「やっぱりね」と、大いに納得したものです。セオリーをご存知であったかは分かりませんが、それは全く理に適ったことです。

 

これは医学界では証明されていませんが、全身の細胞にも「意識」があり、「記憶」というものを持っているのです。たとえば皮膚細胞は、神秘数の7の4倍の28日周期で新陳代謝していますが、新しい細胞とどんどん入れ替わっているというのに、なぜ古傷やホクロが消えないのでしょうか? これは細胞が持っている記憶が、新しい細胞にも伝達されていくためです。

 

この細胞の「脳」に相当する箇所が「核」です。ですから「核」は宇宙意識とつながっていて、一つひとつの細胞はみな知性を持っています。だからこそ、肉体細胞は血液を通じて独自に栄養を取り入れ、老廃物を排出できるのです。またシャーレの中での培養も可能なのです。この細胞群の知性と、あなたの意識のネットワークが、円滑に、かつ健全に保たれていれば、あなたは健康体をずっと維持できます。

 

しかし、自然の理に背くようなことをしたり、心に過度のストレスを溜めたりすれば、ネットワークに齟齬を来し、やがて細胞は悲鳴を上げます。そして不協和音が混入したコピーを創り出します。これが癌です。また癌にまで至らなくても、様々な不調を、体を通じて訴えかけて来ます。それは、あなたの生き方が「正しくない方向に向かっているよ」という警告なのです。

 

蟻が大挙して一つの目的に向かって動く。モズの大群が衝突することなくサッと方向を変え乱舞する。大魚に狙われたイワシの大群が、まるで一匹の魚のように集まって渦を作り出す。コンダクターもいないのに、一体どうしてこんな芸当が出来るのでしょうか? 曲技飛行もマーチングバンドも、人間は相当な練習を積まなければ、同じことはできません。

 

これは、一匹の個体が、人間で言えばちょうど一つの細胞のように機能し、全体として大きな意識を共有しているからなのです。人間は、意識の主体が脳に傾きすぎていて、それと肉体全体の細胞とのネットワークを形成するようになっています。でも、蟻やモズやイワシは、一つの個体が一つの細胞のように機能し、同時に全体が一つの脳でもあるのです。ですから、衝突することなく、瞬時に方向を変えられるのです。

 

彼らは、このネットワークを「feel」という感覚でつないでいるのです。(ブルース・リーが語ったあの「feel」です)自然界の動植物は、すべてその感覚を有しています。ところが人間だけは、「feel」を忘れて(それは、あまりにも脳に傾き過ぎたということ)、退化させてしまったために、自然と会話することや、生命を感じることや、テレパシーでやり取りすることも、殆ど出来なくなってしまったのです。

 

さて、細胞の記憶は、細胞が腐って分解された後にはどうなるでしょうか? 一つの細胞は、何十種類かの元素によって構成され、それは分解された後には別のものに変化します。しかし、元素の総量自体は変わりません。別のものに変化するだけです。その中には、何百万年も地中に留まり、鉱物になるものだってあることでしょう。これらの中にも、ちょっとずつ記憶は宿るのです。

 

自称霊能者の中には「自分は◯◯の生まれ変わりだ」と公言する人がおられます。その◯◯は、大抵は歴史上の有名人。「自分は親鸞だった」と主張する人は10人を下らない。驚くなかれ、前世が「釈迦だった」という人まで居るのにはもうびっくり! 生まれ変わりを終えた存在がブッダなのに‥‥。(´ー`;)ゞ

 

そうかと思えば、時に前世が亀だったとか、ワシだったとか、大木だったとか、レタスだったとか言ったりする人もいます。釈迦だって、人間になる前にいろんな動物の生まれ変わりを経験してきたということになっています。果たしてこれは、本当でしょうか?

 

想念エネルギーの塊である「魂」は、人間にしか転生しません。人間にペットとして飼われていた犬が、人間に昇格したという報告を一回聞いたことがありますが、神秘学では人間以外のものへの転生はないというのが大方の結論です。でもいま言った、細胞の記憶、原子の記憶、もっと小さい単位では素粒子の記憶、(もっと小さくすると「Sprit(霊)」の記憶)ということにまで遡れは、それが全く無いとは言えないのです。

 

私たちは、生きるために、他の生命を取り込みます。ですからレタスを食べたら、レタスの記憶が体に入る。そのレタスを育てた土や水には、大勢の人や動物の記憶が含まれていたかも知れません。ですから、好意的に見れば、同じ時期に「私は親鸞の生まれ変わり」と自称する人が10人居たとしても、「そんなの嘘だろう?」とは言えないのです。

 

このように、「記憶」というものは、結果的に全部につながっているのです。そこで、「宇宙」はこれまでの記憶を全部持っているということになり、自分が本体である「宇宙意識」に帰って、「宇宙」と一体となれば、そこから、あらゆる情報を引き出すことも、理論上は可能ということになるのです。これが、いわゆる「アカシック・レコード」というものの意味です。

 

この「宇宙」を形づくっているものは、究極的には一つです。それは振動するエネルギー体であるということは、これまでにも何度もお話して来ましたね。そしてこの振動するエネルギー体は、その働きから、大きく三つに分けられます。知性(意識)と、物質を作り出す元になるSprit(霊)と、生命を維持するためのエネルギーとにです。これは働きが違うというだけで、元々は一つです。

 

さてこの時、知性(宇宙意識)は、分かれて「魂」を創り出します。また「Sprit(霊)」は、物質を創り出し、これに生命エネルギーが加わることによって、生物が創られて行くのです。実を言うと、鉱物もただ振動数が低い(ということは変化のスピードが遅い)というだけであって、生きているのです。その証拠に、かつての海底であったところが、高い山に隆起している例はたくさん見られます。

 

冒頭では、「魂」の輪廻転生ということと、「自然界」の輪廻転生という二つの側面を別々に見て来たわけですが、このように、結局は同じことであると言えるのです。

二度目の生まれ変わりと、即身成仏

「よくよくあながたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(『ヨハネによる福音書』3:3

イエスは、ファリサイ派の教師であったニコデモに向かい、そう断言しました。お時間がある方は、先ずリンク先の該当文章を読んでみてください。

 

この文中にある「新しく生まれる」とは、いったいどういう意味なのでしょうか? どうして「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のでしょうか? この「新生」の意味は、「輪廻転生」を指しているのではなくて、実はこの身をもって二度目の生まれ変わりをするということ。すなわち、空海が言うところの「即身成仏」と全く同じことを言っているのです。

 

ところが、キリスト教も仏教も、この意味の深淵をはかりかねて、非常に歪んだ解釈をしたまま今日に至っています。いま深淵と書きましたが、この文が示している「意味」そのものは、それほど難しいものではありません。ですからイエスは、この後でニコデモに向かって、「イスラエルの教師でありながら、こんなことも知らないのか」と嘆いて言っているのです。

 

しかし、たとえ「意味」が解ったとしても、その「感覚」を掴むのは容易ではありません。いつも言っている通り、「解る」にも三段階があり、頭で解る → それが体に入って来る → そして一体となる、というところまで行かなければ、本当の意味で「解った」ことにはならないのです。イエスは「地上界の論理も理解できない者に、天のことを説いても解るはずがない」と、続けてニコデモに言うのでした。

 

だからというわけではないのですが、キリスト教では、この「新しく生まれる」ということの意味を、「水による洗礼」というイニシエーション(入門儀式)に置き換えてしまいました。これは、同じ『ヨハネによる福音書』第3章の中に、「誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と重ねて説かれているからです。この文言中の「水」を、キリスト教は文字通りの「Water」にしてしまったんですね。

 

このようにしたのも、おそらくは組織宗教を形成していくための意図的な改ざんだったのでしょう。もし本当のことを説いてしまったら、宗教がいらなくなってしまいますし、教会に人を集めることも出来なくなってしまうからです。そしてキリスト教では、ただバプテスマ(洗礼)を受けただけでは不充分で、その後もクリスチャンとして歩み続けなければ「神の国」に入ることは出来ないと説いているのです。

 

ではこの「水」とは何なのでしょうか? 「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」とイエスが語っていることの真意は、先ずここで、「水と霊」の二つが揃っていなければダメなんだよと言っているのです。そして、よく見てください。「水」が「霊」に対比する形で述べられています。ですから、これが単に「Water」を意味しているのではないことは明らかです。

 

さて、この5節の次の文に「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」とあります。これは人間の本当の姿、「霊主体従」の二重性を語っています。そして、「肉(物質的な体)」しか見ない視点も、「霊」しか見ない視点も、共に誤りなんだよと言っているのです。両方揃っているのが人間なんだよ、ということです。

 

ではなぜイエスは、「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない 」と断言したのでしょうか? 今を生きる私たちは、誰でもが「肉と霊」から生まれた存在です。これが、地上世界への最初の誕生です。でも「神の国」に入るためには、これを「肉と霊」から「水と霊」に置き換えなければならないとイエスは言っているのです。これが二度目の生まれ変わりということです。

 

「肉」のままではダメで、「肉」を「水」に変える必要があるというわけですね。さて改めて、「水」とは何でしょうか? 地球のことを「水の惑星」と言います。宇宙から見ると、地球は青く見える。これは地球の大部分が海表面に覆われていて、それが光を青色に反射しているからです。それほど、この地上世界には「水」が豊富にあるということです。

 

また、私たちの肉体の70パーセントは「水」です。ですから肉体というものは、一見しっかりした固体のように見えて、実は「水」の中に他の分子がプカプカと泳いでいるようなものなのです。大根だって、キュウリだって、トマトだって9割以上が「水」。私たちは「水」があるからこそ生きていられるのです。そのようなことから、「水」というのは先ず「生命」を育むものとしての意味があります。

 

もう一つ重要なのは、「水」は万能の溶剤で、ほとんどのものをその中に溶かすのです。現に海水中には、地球上に存在するほとんど全ての元素が溶けています。「水」はこれらの元素を溶かすことによって、その元素を「運ぶ」役割を担っているのです。言い換えれば、「生命」を運ぶ通路であり、「生命」のコミュニケーションを仲立ちする媒体だと言えるのです。

 

何かが運ばれるためには、その担い手となる「媒体」が必要です。霊的世界のエネルギーやテレパシーを運ぶ「媒体」が、よく言われるところの「エーテル」であり、物質世界でこれと同等の役割を果たしているものが、実は「水」なのです。整理しますと、霊的世界における万能媒体が「エーテル」、物質世界における万能媒体が「水」というわけです。

 

そして「水」は、いわゆる宇宙の「波動」を非常によく通し、かつ保持する性質を持っています。このことから、高い波動を注入した「波動水」というものも存在するわけなのです。このように、「水」は「物質界」における「生命」というものの成り立ちを根本で支え、決定づけるとともに、この「真理(法則)」を象徴する意味合いも持っているのです。

 

つまり、イエスが「水と霊とから生まれなければ」と語った意味は、今までの「肉」の論理(物質そのもの)ではなくて、「水」の論理(すなわち物質界における「生命」に関する「真理」)を理解することがなければ、決して次へは進めないんだよ、と語っているのです。ですからイエスは、「地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」と言って、嘆いたのです。

 

「水と霊とから生まれる」とは、〈物質界における「生命」の意味・仕組みというものを理解した上で、改めて、霊的存在であるところの本来の自分に立ち返りなさい。そうして、宇宙人として宇宙に再び生まれ変わりなさい。〉という意味なのです。それなくしては、「神の国(宇宙の本当の姿)」を見ることは出来ない、とイエスは断言しているのです。

 

次のことは以前にも書きましたが、霊的世界こそが「眞(まこと、魔)」の世界(“因”の世界)で、古来よりこれを「火」で象徴しています。「火」は「日」に通じ、「日」は「陽」であり、すなわち「光」のことです。また陰陽の「陽」でもあります。この、鏡の向こう側にこそあらゆるものの真の原因があるということを、図では下側を向いた「▽」で表し、「下」つまりそれを「火(カ)」と言ったわけです。

 

この「“因”の世界」から、物質界が、つまりは「結果の世界(現象界)」が生まれて、どんどん広がって人間の目に見える世界ができる。これを、今度は上側を向いた「△」図(頂点の一点から陰陽の末広がりになる)で表し、いま述べた「水(ミ)」をもって象徴しているのです。上側を見るとは「御(ミ)」であり、「上」は「カミ」です。また物質界は、陽である「“因”の世界」に対しては「陰」の世界となります。

 

この、「▽」と「△」が合わさると、皆さんがよくご存知の「🔯六芒星」、いわゆる「ダビデの星」、日本で言うところの「籠目紋(かごめもん)」となるのです。これは陰陽二つの世界の統合、つまり真実の宇宙の姿を表しています。そのため、小宇宙である人間もまた、同じ二重性を有しているのです。

 

こうして、「▽(カ)」と「△(ミ)」が合わさって、「カミ」となるのです。このようにして、宇宙全体の構造を理解し「“因”の世界」へ帰るということが、イエスの説いた「生まれ変わり」だったのです。

 

そしてこれは、空海も「即身成仏」と言って、全く同じことを説いているのです。「即身成仏」とは何でしょうか? この身を持って(持ったまま)仏になるということです。これは一般には、「肉体の死を迎えることなく仏(つまりブッダ=覚者)となること」と解釈され、これが極論を生んで、生きたまま土中で行をし続け、その果てに入滅すること、のようにされてしまいました。

 

しかしこれは全く違うのです。このような曲解が生じた原因には、「仏(ほとけ)」というものに対する誤った解釈が流布してしまったことがあります。「仏陀(Buddha)」というのは「目覚めた人」の意味で、個人名ではなくて、釈迦がそのような意識状態に至ったので「仏陀」と言ったわけですね。そしてご承知のように、釈迦は、生きたままそのような意識にまで到達しました。

 

つまり「仏陀」というのは、もともとが「即身成仏」を言っていたのです。ところが、漢訳経典を日本語読みして行く過程で、「仏陀」は「仏」と略され、それが「仏(ほとけ)」と訓読みされて、いつしか死者のことを表すようになってしまったのです。ここには、死んだら地上の一切の苦しみから解放され天国へ行けるという庶民の願望と、宗教的な方便の応答がありそうなってしまったのでしょう。

 

イエスの言う「生まれ変わり」も、「Reborn」であって「Reincarnation」ではないことに注意してください。「re」は再びということ。「born」は生まれるですが、「in-carnation」は肉に入るという意味、すなわち「受肉」です。ですから「Reincarnation」は「輪廻転生」のことですが、「Reborn」は、「即身成仏」のことを語っているのです。

 

しかし、残念ながら、ただ肉を滅しただけでは、天国(神の国)へは行くことは出来ません。もともと「死」というものは宇宙にはありませんし、「神の国」へ行けないからこそ、人は何度も何度も地上世界に「輪廻転生」して来ているわけです。このことをよくよく考えれば、「魂」が「輪廻転生」を繰り返すことの意味はもう明らかです。

 

あなたは、「輪廻転生」を、カルマの働きによる「罰」のようにだけ考えてはいないでしょうか? 確かに、メカニズムとしてはそういう力学が働いています。しかし同時に、もっと重要なことがあるのです。それは、地上世界でなければ「仏陀に成る(=成仏)」ことは出来ないということです。つまり「輪廻転生」は、「即身成仏」へのいわばチャンスとして与えられているのです。

 

ですからイエスは、この同じ章の13節で「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、誰も天に上った者はない。 」と語っているのです。この言葉には三つの意味があります。一つは、いま言ったように、天から下った(輪廻転生して来た)者でなければ、天に上れないということです。つまり、それはチャンスなのだということ。

 

二つめは、「その者」は、もともと天に居たものが、下ってきた「魂」なのだということです。どうして下って来たのか? それは自ら希望してである。何のために? 地上世界での出来事を体験するために。ずっと天に居ればよいものを、わざわざ記憶を無くしてまで地上に生まれ、そこで様々な体験を重ねる。そういう道を、あなたという「魂」も選んだのです。いったいどうしてそんなしちめんどくさいことをするのか?

 

それが永遠の進化だからです。生命の実相だからです。その果てしない活動が、宇宙の息(Breath=生き)であり、「神」というものだからです。ですから、「神」のかけらである一人ひとりは、みな「神」より出発し、そうやって新たな体験を積み重ねて、ちょとずつ霊性を高めながら、やがて「神」の本体に帰って行くのですね。そのようにして、総体であるところの「神」自身が果てしなく成長している。

 

この意味において、個々の「魂」に一切の差別はありません。誰もが等しく愛されている。その永遠の旅の、地上における終止符が「即身成仏」であり、イエスが語った「生まれ変わり」ということなのです。