by Rainbow School
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覚醒への試練

霊的成長という観点から眺めたとき、地球には三段階の人間が存在します。

 

先ず初めは、「人は身体だけの存在ではなく、同時に霊的な存在でもある」ということにまだ気づいていないか、もしくはそれを否定してしまっている人たち。いわゆる「無智」の段階にある人々です。二番めは、魂の存在、あるいは霊的世界の存在に多少なりとも気づきがあり、その本質に迫りたいと願うようになった人々です。そして三番めは、もはや宇宙の本質を我がものとし、霊的世界を下敷きに生きるようになった人間、いわゆる「覚醒」を成し遂げた人物です。

 

この三段階は、霊的成長の大まかな区分を示しているのですが、あるところで急に変わるというものではなく、徐々にグラデーション状に推移して行きます。この中で、「無智」の段階にある人というのは、たぶん3割ていどでしょう。ある調査によると、日本では「無宗教」だと答える人の割合が7割を占めるということですが、自然崇拝の文化的伝統があるので、「霊的世界というものは多分あるんだろうな」という感覚は、意外にも多数の人が持っているのです。

 

ところが、「霊的世界というものがあるんだろうな」と思ってはいても、それを突き詰めようとする人となると、数はグッと少なくなります。おそらく100人に1人程度でしょう。ですから99パーセントの人は、深く追求することなく、理解を曖昧にしたまま、なんとなく「霊的世界」を信じているといった状況です。しかし、その100人に1人の中でも、運よく覚醒(ascension)への最初の扉を開けることができ、その先を進もうと決意する人は、さらに1パーセントしかいないのです。

 

この「光への道」の最初の扉は、ある日、唐突にやって来ます。宇宙を支配している超越的存在があることに、突如、気がつくのです。それはむせるような歓喜とともにやって来て、理屈によるのでもなく、言葉でもなく、法や、愛や、生命の本質というものを、いきなりドカンと、丸ごとその人は受け取ることになるのです。これが、最初の目覚め(awakening)です。

 

しかしそれは、真の覚醒(ascension)ではありません。ここで夢々錯覚してはならないのです。それは、ただ最初のスタートを切ったというだけの話。最初の扉をこじ開けたというだけであって、ここからがいよいよ本番。真の覚醒に向けての、本格的な試練が始まるのです。それは、一体どんな試練なのか?

 

それを説明する前に、「アセンションする」ということを、人間の「意識」の観点から見てみることにしましょう。アセンションとは、その主体(意識的存在)が、第三霊性密度の領域から、第四を通過し、第五霊性密度の領域へとジャンプすることを言います。さて以前に、人間の意識は一重ではない、ということをお話ししたのを覚えておられるでしょうか? 潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四重になっているということを。

 

第三から第五へジャンプするというのは、「意識」で見た場合、「顕在意識」から「超意識」への飛躍を意味します。別の言葉で言うと、「自我」から「真我」へのジャンプです。「自我」というのは、「魂」が、この世に個別的肉体を持って誕生し物質世界を生きることになったため、それに適応するようにして形成されたところの「意識」です。一方の「真我」は、霊界にいた時から継続して所持している、本当のわたし、真のわたしの「意識」です。

 

この、本当のわたしの「意識」は、個別性はまだ有しているものの、カルマが解けて、極端な偏りや尖ったところが無くなった存在になっています。そしてさらに先に、「真我」が完全に「一なるもの」に融合した状態の「神我」(=超絶意識)があるのです。この最終領域への到達が、いわゆるニルヴァーナ(涅槃)です。さて、話をシンプルにするために、超絶意識や潜在意識のことには触れずに、「自我」から「真我」への上昇という点だけに話を絞って、論を進めて参りましょう。

 

この宇宙は、(こちら側から見て*1)何もない「無」の世界から先ず誕生しました。そして誕生するやいなや二極性を生じ、この二極性をフルに展開することによって、途方もない多様性を持った現在の宇宙が出来上がったのです。その名残りが、今もハッキリと刻印されています。あなたの周囲にあるものをよく観察してみてください。極小から極大のものまで、宇宙のあらゆるものは二極性を有しています。この二極性の間に新たな創造が生まれる、という法則性*2を、宇宙は持っているのです。

 

*1こちら側から見て:「無」の反対側に別の宇宙がある可能性があります。

*2法則性:これを「三角形の法則」と言います。二極性の間に新しいものが生まれることを▽(正反合)で示し、これが末広がりに拡大することを△で示しています。

 

ちなみに、宇宙の創世に関して、『新約聖書』には次のような記述があります。「初めに言葉があった。言葉が『光あれ』と命じ、次に光と闇ができた」。この「言葉」は、ギリシャ語では「ロゴス」となっており、最初に日本語訳をした人が、悩んだ挙句に「言葉」と訳し、これが定着してしまったのです。しかし「ロゴス」は、英語の「logic」の語源ですから、むしろ「法」と訳した方が適切です。つまり、宇宙の法が、先ず二極性を産んだということを物語っています。

 

 

図1を見てください。人間の「意識」は、「真我」に迫るほど、一なるものに近づくことになるので、二極性は中央に収斂されて行きます。つまり二極の「分離」状態から「合一」へと向かうのです。

 

一方、物質世界を生きている「自我」は、まさに二極性そのものの中にあります。この結果、「自我」は、陰陽二極性の間を、絶えず、まるで振り子のように激しく揺れ動いてしまうことになるのです。右か左か、賛成か反対か、行くべきか止めるべきか、etc.。これが「心」の迷いの、実は正体なのです。

 

でも、それでは人間は気持ちが悪いので、大抵の人が心の安心を得ようとして、先ず、自分の立ち位置を決めたがるのです。これが、所属や肩書きを切望する認知欲求です。自分に鎖をつけ、柱に縛りつけることで、荒波にも絶対に流されまいと図るわけです。

 

しかし、そのようなポジションを、おいそれとは見い出せない人は、主義主張(の固定概念)にそれを仮託しようとします。そして、主義主張をより鮮明化するために、仮想敵を作って、それを攻撃するという手段に出るのです。

 

これが、現代の、国家主義や、ヘイト意識や、ディする意識の異常なまでの広がりなのです。例えば、保守を自認する人は、自分の保守思想と合致しない人たちには、みんな「左翼」のレッテル貼りをして攻撃をします。そのことで、自分が右側のポジションだということを示そうとするのです。しかし、ここにはもっと深い、「魂」レベルでの欲求が隠れているのです。

 

前に、ヘイトしたがる人の心の構造について話をしました。AさんはBさんが嫌いで、Bさんを憎んでいるとします。しかしその「思い」というのは、Aさんのものなのです。ですからAさんは、アンチBというポジションに自分を設定することで、Bさんへの思いと、アンチBという思いを、自分の中に同時に出現させているのです。そうすることで、無意識に心のバランスを取っているわけです。もちろん、本人はそんなことには気づいていません。相手をヘイトすることで、自分の承認欲求が満足させられると思っているのです。

 

これは、由々しき問題です。それは「無智」(頭の良し悪しはまったく関係なく、霊的に「無智」ということ)なるが故の行動で、実態は、自分の心の中にしじゅう股裂き状態を創造しているわけです。これが、その人の精神性にダメージを与えないわけがありません。甚だしい場合には、身体細胞にもそのアンビバレンツが及びます。そうした状態が繰り返し続けば、いつかは「病気」という形をとって、修正するよう気づきが図られることになります。

 

そのようなわけで、「無智」の段階にある人は、二極性の間を一生迷い続けて、その生涯を終えます。ところが、そのような一生の中でも、どんな人にも「真我」に触れる瞬間というものが、何度かは必ず訪れるのです。それは守護霊たちの計らいによるものなのですが、直感や、ビジョンや、言葉や、出来事としてそれが示されます。「真我」に触れた瞬間には、パーッと心が晴れたり、「感情」が動いているわけではないのに、ただただ涙が溢れ出て来たりします。

 

注意していれば、それは「思考」や「本能」や「感情」を超えた、別の「意識」であることに気づくのですが、いま書いているような知識は殆ど誰も持っていませんので、99パーセントの人が注目することなく、これをやり過ごしてしまうのです。またそれだけではなく、この世は「自我」というものを肯定する世界ですので、それを超えた「意識」については、幻覚とか錯覚とか幻聴といったレッテルを貼って、排除までしている始末なのです。

 

しかし、このような見なし方は正しくありません。それは、幼い子どもや、臨死にある人たちを観察していれば、自ずと解ることです。

 

幼い子どもの場合は、脳が未発達なために、まだ「自我」が充分に育っておらず、したがって「真我」が優位に立った状態で生きています。子どもの一人遊びは、大人から見れば「空想」の世界で遊んでいるように見えますが、子どもたちからすれば、大人の世界こそが「空想」で、自分が遊んでいる世界の方が本物なのです。7歳くらいまでの子に、「どうして我が家に生まれて来たの?」と聞けば、ちゃんと答えてくれます。

 

一方、事故などにあって臨死状態にある人が、意識不明だと聞くと、関係者は例外なく心配し、早く意識を回復して欲しいと願います。そして意識が戻ると「あぁ、よかった」と言って安心するのです。しかし、この「意識が戻る」というのは、「自我」意識のことであり、昏睡状態にある際には、幼児とは逆プロセスで、その人は「真我」を取り戻す準備に入っているのです。この時に、「魂」はいわゆる臨死体験というものをしているのです。ですから、何の心配も要りません。

 

このように、「真我」は、そもそもその人に備わっているものです。ところが、「自我」が育つ過程で、入れ替わりに忘れ去られてしまうのです。そして遂には、これがまったく顧みられなくなり、存在自体を自分で否定してしまうのです。その結果、多くの人が「無智」に陥って、代わりに嘘の情報で頭をパンパンに膨らませ、二極性の間をフラフラしたり、意識構造の中を堂々巡りしたりして、(図2)悩み続けるのです。

 

この世は、霊的世界とは価値観がひっくり返った世界です。試しに、図1の三角形をひっくり返してみましょう(図3)。ここでは「自我」が前面に出ていて、「真我」は底深くに沈んでいます。

 

あなた方の世界では、「自我」を誇示することが礼賛され、それを人生の目標とし、またそうすることが当然だと思うように教育されます。社会全体がそうですので、誰もその価値観を疑わないし、「真我」を見い出そうとする人は、全くと言っていいほどいません。

 

けれども、「真我」は失われてしまったわけではありません。「真我」はいつも、その人と共にあるのです。ただ、衣装ケースの奥深くしまい込んで、忘れてしまったというだけです。なぜ忘れてしまったのか? 「自我」が芽生えると子ども心を失くし、大人になるに従って、流行ファッションばかりを追い求めるようになったからです。自分の外にある様々な刺激的な話題が気になり、衣装ケースの表面だけを取っ替え引っ替えするので忙しい。子ども時代の一人遊びは、もう出来なくなったのです。

 

でも、この表面をすっかり取っ払ってしまったら、忘れていた「真我」は必ず現れ、その中にストンと落ちることになるのです(図3)。これが、真理の世界で、「努力は要らない」「そのままでいい」「最初から救われている」と、繰り返し説かれて来たことの理由なのです。その言葉だけを聞いたら、まるで意味が解らない。でも、とうとうこれで解ったでしょう? 「真我」は、到達すべき目標などではなく、あなたの内に最初からあるのです。今この瞬間もね。

 

Be Here Now !

努力は要らない。

そのままでいい。

 

実にシンプルです。あまりにもシンプル過ぎて、きっと拍子抜けしてしまったことでしょう。ところが、これが超難関なんですね。何がそんなに難しいかというと、「自我」を捨て切ることが、みんな出来ないのです。アセンションの難しさというのは、到達することの難しさではなく、捨て去ることの難しさなのです。でも、この逆転現象を誰も知らない。知らないまま、みんな到達に向けて必死に努力しようとしている。だから、成就できない。

 

今まで、いろんな喩えを使って、このことを表現して来ました。梯子をすべて降り切れば自動的に引っ張り上げられるとか、思い切ってバンジージャンプをすればいいとか、砂袋を捨てれば気球は自然に浮かぶとか。それらは全部、同じことを語って来たのです。逆三角形で示した図の「自我」部分をぜんぶ取っ払ってしまえば、その人は、難なく「真我」に転げ落ちる。だから努力は必要ない。しかし、「自我」にしがみついている間は、底に転げ落ちることは大変な「恐怖」に映るわけです。

 

最初の目覚めを経験したとしても、「自我」を捨てる道に進む決意をする人は、100人に1人しかいません。残りの99人は、「自我」にホームポジションを置いたまま、「スピリチュアル」という言葉に惹かれ、泉に水を汲みにやって来る。ザルで水を汲みに来ても持って帰ることは出来ないんだよ。水で満たすためには、ザルごと沈めるしかないんだよ、と言っても、「ザルごと水に沈めるんですよね」とただおうむ返しに言うだけであって、本当にそれを実行しようとする人は、まずいない。

 

そんなわけで、あなた方の大半は、「真理」の世界に触れてみたいと願いながらも、「なにがなんでも」といった強い情熱がないために、毎日その試みに失敗しているのです。受け取る器がザルだから。そして、100分の1のそのまた100分の1の、1万人に1人くらいが、ようやく「光への道」へと進んで行く。でも、その人たちの行く手に待ち受けるものは、避けて通ることの出来ない、またその段階に至った人にしか解らない、厳しい試練なのです。

 

その試練は大きく三つある。

 

第一の試練は、いわゆる「ヴァイブレーション(波動)」が知覚できるようになることです。これだけを聞くと、知らない人はよいことのように思えるかも知れません。しかし、この能力が開花すると、波動に敏感になる余り、粗雑な波動に接した際には、槍で突き刺されるような痛みや、めまいや、吐き気に悩まされることになるのです。人混みは耐え難く、買い物にもなかなか行けない。ニュースもドラマも見ることが出来ない。耳鳴りは凄まじく、自分の心臓の拍動すら知覚してしまう有り様。

 

いやはや、この世の波動の粗雑さといったら、まるでガード下で暮らしているような凄まじさです。生まれつき、こうした敏感な知覚能力を持っている人というのも、相当数いるのですが、周囲の人を見るとみんな平気な顔をしている。そこで、自分の頭がおかしいのでは?とみんな思うのです。そして精神科を受診すると、適当な病名を付けられてクスリを渡され、それを服用しているうちに、本格的な精神病に移行してしまうという人が、いーっぱいいる。まったく、何てことでしょうか。

 

第二の試練は、未だ捨てきれないエゴの残りカスが、後から後から湧いて来ることです。一つ克服できたかなと思うと、直ぐに次がやって来る。これは、外からの誘惑という形によってもたらされます。それはお試しで、そのことによって自分のエゴというものに気づかされるのですが、うっかり誘惑に乗ってしまったら、たちまちにして「自我」の世界に逆戻りです。一方、ここで適切な処理を誤れば、自分の未熟さや、不安定さや、卑小さに苛まれるということになってしまうのです。

 

そして第三の試練は、カルマの総ざらいをしなければならなくなるということです。カルマというのは、その人の前世で、うまく清算できていなかった「思い」です。この「思い」が残っているために、いま一度それと向き合い、きちんと清算するチャンスを欲して人は輪廻転生して来るのです。ですから、今世でアセンションを達成しようとした場合には、残っているカルマを総ざらいしなければならなくなってしまう。従って、その人の今世は、ずいぶんと辛いものになります。

 

別に脅しているわけではないのですが、以上の三つが避けては通れない試練で、これらは「Dark Night(暗夜)」とか「四次元(第四霊性密度)の河」などと呼ばれています。加えて、「四次元の河」を渡る途中で、河に落ち、溺れてしまうという場合もある。「信仰」や「オカルトへの興味」が誘う罠がそれです。宗教を入り口にして、「信仰」を経験した後に、これを捨てるという道はある。しかし、教義や戒律を「信じ」続けている限りアセンションは不可能です。なぜって、それを手離せてないのですから。

 

「オカルトへの興味」というのも、これは「四次元(第四霊性密度)」世界への執着そのものであり、これに強い興味を抱き続けることは、その人の意識を「四次元(第四霊性密度)」世界に固定してしまいます。すると、何度転生して来ても、またそこに惹かれて河に落ち、結果として輪廻転生の回数を倍化してしまうことになるのです。

 

不思議現象を不思議だと思っている間は、箸にも棒にもかからない。「不思議現象などどこにもない」と思えて、初めて「四次元の河」を渡り切れるのです。

 

このように、エゴ、宗教、オカルトの三つは、アセンションの三大タブーであり、この三つをすべて手離さない限り、「四次元の河」を渡り切ることは、絶対に出来ない。要は、これらの試練を乗り越えるだけの「自由への欲求(Disire to freedom:「自我」の拘束から完全に脱却する)」の炎を、それはそれは激しく燃やすことがない限り、乗り越えられるものではない、ということです。ですから、このブログでも「覚悟しなさい」ということを、繰り返し言って来たのです。

 

日本に生まれたみなさんは、とても恵まれているのですよ。貧しくても、今日のご飯に困るという人はいないでしょう。街も比較的きれいですし、街中でドンパチ騒ぎもありません。自然が豊かで、水は豊富にあります。お店にはたくさんの商品が並んでいます。医療保険制度だってある。何を発言しようと自由ですし、また発言のせいで逮捕されたり処刑されたりということもありません。信教の自由は保証されていますし、女性もスカーフを着用する義務はありません。

 

これらの恵みは、前世までに積んだ、あなたの「徳」の賜物です。人間として生まれることだって、実は大変なことなんですよ。地球にはいま77億人がいて、人口増加がまだ続いています。この人口爆発が、今なぜ起こっていると思いますか? 今度の「地球のアセンション」の機会に、自分もあやかりたい、経過を体験したい、という「魂」が、大挙して押し寄せているからなのですよ。ま、例によって、本人はすっかり忘れてしまったみたいですけれどね。

 

それなのに、これほど恵まれた環境にあるあなたが、「よし、なにがなんでもアセンションしてやるぞ!」と決意しないでどうするのですか? この次の「転生」があるという保証は、今のところ提示されていないんですよ。この先、地球がアセンションしてしまった暁には、修行中の「魂」が生まれ変われる惑星はもうないのです。その「魂」は、数千年、ひょっとしたら数万年も、第四霊性密度に留め置かれる可能性がある。人間に生まれるというのは、それほど大変なことなのですよ。

 

地球という惑星は、第三霊性密度下にある二極性を体験学習するために、宇宙に用意された特別な星です。この惑星上では、二極性の引っ張り合いに巻き込まれるために、人間は数多くの苦悩を体験します。それは、その成長段階にある「魂」のために用意されたもので、言うなれば「気づき」を得るための「愛の鞭」なのです。あるメッセンジャーは、地球を「流刑地」と呼び、あるメッセンジャーは地球を「監獄」に喩えました。

 

*コリーヌ・セロー監督の『美しき緑の星(La Belle verte)』というコメディ映画があります。この映画は、霊性の進んだ星に暮らす宇宙人たちが、他の惑星を表敬訪問する人を定期選抜するというシーンから始まります。司会役が候補地の名を順番に上げて行くと、希望者の手が次々と挙がります。ところが「地球!」と言ったとたん、みんなショボンと下を向いてしまい、手を挙げる人が誰〜れもいなくなってしまうのです。

 

地球は、「自我」によって「自由」を奪われた、正に「監獄」です。ここでは価値観が逆転していて、ずる賢い牢名主のような人間が、他の人々の「自我」を操ることで、社会を支配しているのです。人々は、働き蜂や兵隊蜂やパシリとして支配者にコキ使われているのですが、支配されているということに全く気づいていません。それどころか、自ら進んで、働き蜂や兵隊蜂やパシリになるのです。それは、人々の「自我」が、支配者が繰り出す引っ掛けに、簡単に同調してしまうためなのです。

 

しかしこれをもって、支配者だけを糾弾するわけには行きません。よく、儲け話に引っ掛かったという話を聞くでしょう。どうして儲け話に引っ掛かるのでしょう? それは、引っ掛かった人の「自我」にも、「儲けたい」というエゴがあったからです。そこで、類は友を呼ぶ「波動の法則」によって、〈儲け話に騙される〉という現実が、両者の一致協力のもとにそこに「創造」されたのです。もしもその人に、「儲けたい」というエゴが無かったとしたら、この現実は起きないのです。

 

このようにして、地球という惑星は、エゴの突っ張り合いが社会の根底を為してしまっているのです。他ならぬ「スピリチュアル」という業界にしろ、「宗教」にしろ、所詮はエゴの塊です。「自我」を捨てる気などさらさら無く、「自我」のエゴの上に、ありがたそうな「スピリチュアル」という付加価値をくっつけて、高く売りつけているだけです。しかしそれも、それをありがたがる人がいるからで、両者の波動が合うから成立しているのです。

 

ということで、このような環境にいる以上、いくら「努力は必要ない」と言っても、「自我」の誘惑を断ち切ることは非常に難しい。だから一気には切れない。少しずつ手離して行って、ほぼ抜けたかなという心境になるまで、最低でも4・5年は掛かる。そうやって、やっとのことでアセンションが達成される。しかし、ここまで到達するには、途中99人が脱落する。

 

結局、100分の1の100分の1のそのまた100分の1で、1000000万に1人という程度しかアセンションできないということになってしまう。‥‥今まではね。今、このような活動をしているわけは、隠されたダイヤモンドの原石を掘り起こし、これを磨く手助けをして「アセンション」する人間をもっと増やせ、という司令を受けたから。私に出来ることはそこまで。

 

でも、「光への道」は、これが最終というわけではありません。その先に、真の合一(神我、ニルヴァーナ)という段階がまだ控えているのです。しかし、地上に生きながらにして、この段階に至る「魂」は極めて稀だとされ、同時代に地球上に二人は存在しないと言われています。

 

元の三角形△の形に戻りましょう。(図1)「自我」は、第三霊性密度(物質界)に対応した「意識」で、三角形の底辺部にあります。しかし、普段は意識していなくても、「真我」の意識は同時につねにあるのです。静かな環境に身を置き、心を静かにしていると、この「真我」が、あなたにメッセージを送って来ることがあります。それは、本当のあなたからの、あなた自身へのメッセージなのです。そこには重要な示唆が含まれています。ですから、これを無視しないようにしてください。

 

ただし「重要な」というのは、あくまで「魂の成長にとって」という意味ですので、これを「損得」で捉えないでください。魂の成長のために「こっちの道を行け!」というアドバイスは、「自我」の尺度では「損」に見える場合が往々にしてあります。ここで、考えたり迷ったりしていてはダメなのです。多くの人が、考えた末に「自我」に負けてしまいます。しかし、行く時には行かねばなりません。Go Go! だから、バンジージャンプをせよ、としつこく言っているわけです。

 

このようにして、「自我」を少しずつ手離して行き、四次元の河もどうやらこうやら抜けて、「真我」をホームベースに置いて生きるようになると、かつてあれほど興奮や興味を覚えたことにも、ことごとく関心がなくなってしまいます。この世界が、所詮はうたかた、幻だということが、頭だけの理解ではなく、実感として、真実だと悟るようになるのです。

 

ことここに至ると、日常生活でたとえ今までと同じことをしていたとしても、あなたの生き方は、それまでとはまったく違ったものになってしまいます。(図4)意識が「真我」に上がると、二極性の幅がグッと狭まるので、心はあまり揺れなくなります。そして、万物が、この二極性の調和の下に創造されているということが、実感として解るようになります。

 

これがよく言うところの「中道」です。「中道」というのは、どちらか一方に偏らないという意味だけではなく、両極があって一つのバランスがあるということを示しています。それは、二元対立の学習が、その時点で止むということです。そして、かつて自分が通って来た道と同じ旅の途中を、「無智」であるがゆえに同じように苦しんでいる人たちを、手助けしないではいられなくなるのです。

 

このブログが、どれほどの役に立つかは判りませんが、私は私の使命を果たすだけです。「地球に行ってくれる人はいませんか?」と、かつて言われた時に、ついうっかり「ハーイ」と手を挙げてしまったものですから。

あなたは誰あれ? ―― 自己承認欲求の本質

あなたは誰なのか。

 

これが、この世に生きるあなたへの究極的な問いかけです。

 

あなたがいま在るということ、

生きているということ、

生きて様々な体験をするということ、

体験を通じて喜怒哀楽を味わうということ、

他者と接して愛憎の渦を経験するということ、

そして生きる意味はどこにあるのかと問うこと。

 

これらすべては、ただただ、この問いに対する答えを見つけるためにあるのです。

 

あなたは誰か。

 

さて、あなたはどう答えるでしょうか?

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている、その私とはいったい誰なのか‥‥。

 

あなたは、自分の顔を、自分で直に見ることは出来ません。けれども、この事実はあまりにも日常的な体験となっているために、それが意識されることはほとんどありません。しかしこの事実は、「あなたは誰か」という根源的な問いかけに対する一つのメタファーを示しているのです。つまり、あなたは、自分の姿を見ることは出来ないけれども、自分が誰かと問うこともしないし、知らないということです。

 

でも、知らないまま、生きているのですよ! なんと。

それを許容しているのですよ! なんと。

疑問にも思わないのですよ! なんと、なんと。

これが、あなたの心から、不安や、劣等感や、嫉妬心が消えない根本原因だというのにねッ!

 

「自分が本当は誰か」を知らないあなたたちは、自分の存在意義というものを、ほとんど無意識のうちに外の世界に求めようとします。いわゆる「自己承認欲求」です。それはちょうど、鏡を見ることでしか自分の姿を把握することが出来ないのと同じように、自分の外側にあるものの評価によって、自分の「存在意義」を確認しようと、本能的に図るのです。

 

なぜなら、その欲求が満足させられなければ、たちまちにして不安や、劣等感や、嫉妬心が自分を襲い、甚だしい場合には、自分の生存の意義すらも見失ってしまうからです。そこで、外部に対して、絶えず「自己承認」を求めるという行動を人は無意識に取ろうとするのです。しかし、鏡に映った像が、実体ではなく虚像であるのと同じく、外側の評価もまた虚像であるということに、その本人は気づいていません。

 

「自己承認欲求」の出かたにはいくつかのパターンがあります。先ず第一には、自分を優秀者だと思いたいという欲求です。そのための罠は社会のいたる所に見られ、オギャーと生まれた瞬間から、人はこの優劣のスケールの中に叩き込まれるのです。赤ちゃんコンテストに始まり美人コンテスト、運動会の一等二等、書道コンクールの金銀銅、通知表に試験の点数、背が高いか低いか、金持ちか貧乏人か、有名大学出か三流大学出か、およそありとあらゆるところに優劣のスケールが存在する。

 

そして、親も学校も、「世の中には、優劣のスケールがあるんだよ」ということしか、究極的には子どもたちに教えていません。そして、「あなたは優秀者になるんだよ」「ガンバレ、ガンバレ」と吹き込みます。言い換えれば「劣等者になどなったら、大変な人生になるよ」というプレッシャーを与え続けるのです。そして、この競争に勝ち残った者たちだけが、地位、名誉、賞賛、財産を手にし、人々にそれを誇示するようになるのです。

 

しかし、この「自己承認」のパターンには大きな問題があります。どのスケールも、優秀者というのはほんの僅かな人間に過ぎず、大多数は劣等者の烙印を押されてしまうということ。これが広く社会通念になっているのですから抗いようがありません。結果、競争のプレッシャーに耐えかねて精神を病む人が激増しているのです。しかし精神を病む人というのは、実はまともな人間で、「もう、そんな時代じゃないよ」ということを、「魂」が察してSOSを発しているのです。

 

ここで私は、それぞれの能力の違いを認めたり、互いに切磋琢磨することまでも否定しようとしているわけではありません。自分の才能に気づき、それを伸ばすことは人生上の大きな喜びですし、互いに切磋琢磨することで「魂」をより向上させることが出来ます。しかしその才能の特質や能力の違いが、みな、他者の役に立つために備わっているのだ、という視点が決定的に欠けています。もしそれが理解されれば、素晴らしい社会が実現することは疑いなしです。

 

第二のパターンは、ある承認された集団に、自分が帰属するというものです。自分への直接的な承認というものがたとえ得られなくとも、ある集団に帰属することによって、自分が同じように承認されたと思い込めるわけです。これが、昔から、第一のパターンから落ちこぼれる人たちの受け皿として機能して来ました。宗教組織や、会社や、町内会や、趣味のサークルや、自助グループや、行きつけの飲み屋や、半グレ集団まで。

 

しかし、このパターンにも大きな問題があります。それは、その集団への依存傾向を強化し、そこから脱け出せなくなってしまう人を作るということです。もし脱け出したら、せっかく満たされた(と思っていた)「自己承認欲求」が、たちまちにして崩壊してしまうからです。これは、嵌まり込んだ者にとっては大変な恐怖です。そのため、この恐怖を利用して、人々をコントロールするということが、宗教を中心に広く行われて来ましたし、今でも行われています。

 

さて、この第二の「自己承認欲求」パターンですが、ネット社会が加速したことによって、近年、様相が大きく様変わりしてしまいました。日本が高度成長期をひた走っていた頃、日本社会にはまだ家族縁、地域縁、会社縁の三つのコミュニティがあって併存していました。ところが1990年代までに、先ず家族縁や地域縁が失われ、2000年代に入ると残る職場縁も崩壊してしまったのです。会社はもはや疑似家族集団ではなく、使い捨ての労働力が集まる場となったのです。

 

代わって趣味縁に支えられたグループが立ち上がるようになりました。いわゆるタコ壷文化やオタク文化の登場です。しかしその後、ネット社会に急速に移行したことによって、人と人とが直接触れ合う濃密なコミュニケーションの場というものは、どんどん失われて行きました。多くの人が、自分が傷つくことを怖れて、他者と接するのを嫌がるようになり、コミュニケーション能力のリテラシーも著しく低下しました。

 

結果として、どの共同体にも属さない「根無し草」として生きる人たちが、全世代的に爆発的に増加したのです。

 

こうした社会傾向の広がりは、反動として、一部で濃密なコミュニケーションを希求する動きも見せています。ですが、コミュニケーション経験の不足につけ込む詐欺師もやたらと跋扈するようになり、まったく心の安まる時がない、ただ騒々しい、ギスギス・トゲトゲした人間関係が拡大するに至ったのです。このような状況の中で、第一の「優秀者」にもなれず、第二の「コミュニティ」にも属せない人は、どうやって「自己承認欲求」を満足させればよいのでしょうか。

 

その顕われが、「ヘイト」や「ディスる」という行動に、人々を駆り立てています。面と向かって、自分が先頭を切って、論陣を張るまでの勇気はないが、誰かが何かを「ヘイト」したり、誰かが誰かを「ディスる」話題には瞬間的に反応し、自分も一言ツイートして、それで取り敢えずの「自己承認欲求」を満足させる。今や誰も彼もが、デモ隊の後方から石を投げる行為に夢中になっています。それは、「共同体」幻想の瞬間風速版なのです。

 

こんなことは、やめた方がいいです。それは所詮「幻想」ですし、瞬間風速的に過ぎ去ってしまうものです。その風が止めば、その人はまた次の暴風雨を見つけようとするでしょう。そんなことを続けていて何になりますか。己の「承認欲求」が満たされないのは一体どうしてなのか、という根本命題に向き合う機会を後回しにして、一時の気晴らしの為に、ただ時を浪費しているだけです。その間に、その人の心と体は、ズタズタ、ボロボロになって行っているとも知らずに。

 

いいですか。「ヘイト」や「ディスる」行為に血眼になっている人というのは、その思いを、自分が特定の相手にぶつけていると思っています。相手をやっつけていると思っています。でも、その「思い」というのは、〈その人の〉創造物なのですよ。荷物を送った相手が、その受け取りを拒否したらどうなりますか。荷物は送り主に返ります。デモ隊の後方で石を投げている人の石を、いちいち相手が受け取ると思いますか? 全部がその人のところに返っているのですよ。

 

すると、どうなると思います? 自分で自分に石を投げつけているのですから、体はボロボロ、心はズタズタになるのは当たり前でしょう。でもそうやって、自分で自分の心身を傷つけているものですから、ちっとも癒されることがありません。そこで、そのイライラをぶつける次の攻撃対象をまた見いだし、瞬間風速的な「自己承認欲求」を満たそうとして、「ヘイト」や「ディスる」行為を繰り返すのです。そしてまた心身が傷つき、次の攻撃対象を探し‥‥。

 

嘆かわしいことに、そのネガティブなエネルギーが、まるでオーストラリアの森林火災のように地球に広がっています。もしもあなたが、その石つぶての攻撃に遭ったら、最善の策は受け取らないことです。投げ返すことも、防御もしないこと。そうすれば、石は投げた人に返ります。でも、その、メカニズムを知ったからと言って、「へへ、いい気味だ」などと思ったりしたらNGですよ。理由は分かりますね。その「思い」は、あなたの創造物だからです。自分への「ザマ〜見ろ」だからです。

 

あなたが、どれほど誠実に、純粋に、真摯に、また親切に生きようとしたところで、万人から好かれることは出来ません。性質も、系統も、経験も、理解度も、信念も、生き方も、価値観も、全員が異なるのです。あなたを嫌い、逆恨みし、嘲笑し、侮蔑し、攻撃し、罵倒する人は必ず出現します。それは、その人の中に沸き立つ、劣等感や嫉妬など制御できない感情を、あなたという相手を見つけて、そこに投影しているのです。投影することによって「自己承認欲求」を一時的に満たそうとしているのです。

 

ですから、それを解ってあげた上で、無視してください。関わらないことが、その人に対するいちばんの親切です。なぜなら、いま言ったことを、その人が自分で理解するようになるまでは、つまりその人に「気づき」が訪れるまでは、そうした批評グセ、批判グセ、嘲笑グセ、攻撃グセが止むことはないのです。その「気づき」を早めてあげる最善の方法は、無視して、一切を取り合わないことです。決して同調しないことです。

 

さて、このような時代の中で、一番めのエリート意識でもなく、二番めの帰属意識にも頼らず、三番めの「ヘイト」や「ディスる」行為に走るでもなく、「自己承認欲求」が満たされるにはどうしたらよいのでしょうか。あなたが、自分の存在を認め、生きていてもいいんだ、この世には生きる喜びがあるんだ、と心底から思えるようになるためには、です。これは、今日の宿題にしておきましょう。

 

ヒントは、「あなたは誰か」ということです。

あなたの外見は、鏡に映さなければ、自分で見ることは出来ない。この事実は、自分は誰かということのメタファーになっていると言いましたね。

いま挙げた三つの「自己承認欲求」パターンは、いずれも、外の鏡に自分を映そうとしているということにお気づきではないでしょうか?

でも、逆の探索ルートもあるということです。それは、内側を見るのです。

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている私とは誰か。

 

もしもこれが解ったら、(頭ではなく)心底から解ってそれと一体化したら、あなたはもう、自分の外側に「自己承認欲求」を持つことはありません。なぜなら、「私は誰か」ということをすでに知っているからです。すでに知っているものを、どうしてなおも外側に答えを見つけたいと思うでしょうか。ですから、これが「自己承認欲求」に対する究極の答えなのです。「私は誰か」がもしも解れば、「自己承認欲求」などは、そもそも起こりようがないのです。

 

幼少時に、親からの愛情をたっぷり受けたという経験のなかった人たちは、概して、大人になってからも強い「自己承認欲求」を引きずりがちです。他方、よい家庭に育った人たちは気持ちが大らかで、そのような欲求を示すことはほとんどありません。それは、自分は「周囲からちゃんと承認されていた」という記憶を、意識の底に持っているからです。ですから、今をガツガツすることがないのです。

 

ここに注目してください。つまり、「自己承認欲求」の強さというのは、自分が創り出している「想念」に過ぎないのだということです。ですから、この「想念」を満足させようとして努力を重ねることは、葛藤の苦しみしかもたらしません。その努力の結果、運よく望む地位や賞賛を手にしたとしましょう。その時には苦しみが消える。でもそれは、望むものを手に入れたからではなく、苦しみの元であった「想念」が消えたからなのです。

 

だとすれば、最初からそんなものは持たなければよいのではありませんか?

 

そもそも、「自己承認」の欲求など、うたかた(泡沫)のものです。「ねぇ、私ってかわいい?」と恋人に訊く。「ああ、かわいいよ」という答えが返って来る。でも翌日になったら、その人はまた「ねぇ、私ってかわいい?」と同じことを訊くことでしょう。なんど承認したところで、その人が満足することはありません。なぜって、本人が絶対に認めないのですからね。認めることができない自分像にずっと拘り続けているのですからね。

 

「自己承認欲求」の拘りから自由になれないという人は、自分が「要求」ばかりしていたということに気づきませんか? 以前にも書きましたが、愛を乞う人ではなく、愛を与える人になって欲しいのです。みなさんは大きな勘違いをしておられます。自分が認められない、自分を認めて欲しいという「想念」ばかりが肥大して、与えることを忘れています。だから、自分が愛を与える人になれば、自動的に「承認」が得られるという、宇宙の真理に気づけないのです。

 

与えたら返ってくる。それは、ご祝儀の半返しのようなことではありません。宇宙の本質は意識だけの世界だということを思い出してください。あなたが与える。与えたいと思う、役立ちたいと思う。その思いは、誰のものでしょうか? あなたのものです。ですから、与えた瞬間に、その人は同時にそれを得ているのです。自分が送った自分の思いをね。先ずは、ここから始めてください。そうすれば、その果てに、あなたは究極の真理を理解することになるでしょう。

 

私は誰か? 私はわたしだ。

あの人は誰か? あの人もわたしだ。

私もあの人も、同じわたしだ。

だから、あの人にすることは、私にすることであり、

私にすることは、あの人にすることと同じなのだ。

そして、すべては、一つに溶け込む。

 

これ以上の、何を求めると言うのでしょうか?

すべての答えがここにあるではありませんか。

 

さて、あなたは誰あれ?

激動の時代を生き抜くには

昨年の秋以降、金融・経済の奥の院に通じた人たちが、世界恐慌のリスクが非常に高まって来ているとみな揃って告げています。明けた今年、2020年には資本主義そのものが揺らぐほどの大クラッシュが起こるだろうと、何人もの人が予測しています。もっとも、そう言われてから20年近くも今の金融システムはが延命し続けているので、今年もどうなるかは分からないのですが、膨らまし続けている風船がいつかはバーン!と破裂するというのは、物事の道理です。

 

それと、注目すべき動きとして、いま世界各地で大規模な市民デモが続発しているのです。フランス、チリ、アルゼンチン、エクアドル、コロンビア、ボリビア、ハイチ、香港、インドネシア、レバノン、ヨルダン、イラク、イラン、アルジェリア、ジンバブエ、チェコ、モンテネグロ、セルビア‥‥。ちょっと前にはギリシャでも大規模デモが起こりましたし、お隣の韓国では、市民デモはまるで年中行事のようにして起きています。

 

その規模が、みなケタ外れの大きさになっているのです。日本のメディアがそれをどう捉え、どのような扱いをしているかを知らないのですが(何しろ10年以上、新聞もテレビニュースも雑誌も見ていない)、ここには、時代変化の大きなうねりというものが顕著に現れています。デモのきっかけは各国で異なっていて、それは公共料金のちょっとした値上げだったりするのですが、「ブチ切れる市民」という同じ怨嗟の感情が、世界同時多発的に広がっているのです。

 

さて、この現象を、どう見ればよいのでしょうか? 貧困と、格差と、失望に対する怒りが背景にあることは間違いないでしょう。

ですが私は、これは、第三次世界大戦が「縦の戦争」として始まったのではないかと見ています。

 

過去の二度の世界大戦やその後の冷戦は、みな国と国やイデオロギーの対立といった、いわば「横の戦争」でした。しかしそのあとの、宗教間対立や民族間対立というに横方向の戦争は、いずれも地域限定的なものに留まっており、未だ世界大戦化には至っていないのです。

 

軍産複合体とそのエージェントたちは、かねてより予定していた第三次世界大戦をどうしても起こしたい。そこで、謀略の火種をあちこちに蒔いて来てはいるのですが、今のところその試みは成就していません。911までは計画通りだったのですが、シリアのアサド政権が踏ん張ったことが大きかった。これ以降、彼らのシナリオがどうも狂って来たようです。

 

その代わりに(と言うと語弊がありますが)、対立のエネルギー軸が「横」方向から「縦」方向へとスライドして来ているのです。911以降、「テロとの戦い」という、戦っている相手がいったい誰なのかも判然としない戦争が18年も続いた結果、世界中の人々が疲れ果ててウンザリし、さすがに「これはおかしいぞ」と気づき始めたのではないでしょうか。

 

足元に目を落とせば、搾取的労働と貧困がどの国にも蔓延している。国家の指導者たちが、いくら戦争の「大義」を叫んでも、結局は貧しい人たちが、別の国の貧しい人たちの生活を破壊しに行っているだけじゃないか、ということが分かり始めたのだと思います。

 

加えて、政治の裏情報や機密情報の暴露が相次いで、人々が、長い歴史の裏に隠れた真実を「知る」ようになった。そうなると、「もう騙されないぞ」「向かうべき敵は別方向にある」、つまり「縦」だと気づく人々の、世界的ネットワークが出来て行く。もちろん、その気づきには温度差があり(なにしろ、依って立つ基盤がひっくり返るのですから)、そのことで市民間に激しい分断も起きています。

 

しかしこれからは、従来型の「横の戦争」を仕掛けたい戦争屋と、「縦の戦争」つまり市民による「革命」と、「革命」のフリをした戦争屋の裏工作とが、相入り乱れて綱引きを展開することになるでしょう。ただし、日本では「革命」は起きません。日本は万事「空気」が物事を決定する社会ですから。日本が変わるとすれば、いつものように、世界の顔色を伺いながら、必要に迫られてズルズルとなし崩し的に変わって行くことになるのでしょう。

 

この他にも、環境問題やテクノロジーの問題など、重要な変化ファクターがまだまだありますが、全般的に見て、2020年は「地球の大変革」に向けていよいよ最終章の幕が開いた年、と言っていいと思います。

 

さてそこで、今日お話ししたいテーマです。20という数字が二つ並んだこの年を前にして、またぞろ変なことを言い出す霊能者が登場したということを耳にしました。よくもまあ次から次へと考え出すものだなぁと感心します。これまでにも、アンゴルモアの大王とか、フォトンベルトとか、惑星直列だとか、ポールシフトとか、象徴的な年の節目節目で、そのような人類の危機を声高に煽る人たちが登場して来ました。

 

このブログの影響力は微々たるものなので、暖簾に腕押しかも知れませんが、こうしたことの繰り返しからも、いい加減に人類は解放されなくてはなりません。いや、解放される時が来たんだよ、ということです。決して、そのような危機はあり得ない、と言っているわけではありません。かねてより、起きる時には起きる、と言っています。ただ、そのようなことを心配して暮らしていても仕方がないでしょ、と言っているのです。

 

なぜなら、これも繰り返し言って来たように、

 

第一に、あなたたちが現実だと思っていることは、みな幻に過ぎないからです。

第二に、人生の目的は、この幻を(魂であるところの自我が)いかに体験するかに掛っているからです。

第三に、一見、辛く苦しいように思える体験も、すべてはあなたを成長させるために用意されたギフトだからです。

第四に、体験時の心情や解釈は選べるのであって、その選び方が、明日のあなたを形づくっていくからです。

第五に、ですから、どのような体験をしている時も、常にハッピーだと感じていれば、一生ハッピーでいられるのだということです。

 

この際、みなさんに知っておいて欲しいのは、霊能の有無と、霊性の高さとには全く相関はないということです。

 

話を解りやすくするために、霊能と霊性の二つの軸に対して、それぞれ高低を設定した四象限を考えてみますと、

 

[酣修盥發、霊性も高い

⇔酣修歪磴い、霊性は高い

N酣修蝋發い、霊性は低い

の酣修癲⇔鄒も低い

の4パターンができます。

 

このうち、,旅發の酣修鰺しながらも同時に霊性も高い、というような人物は、極めて稀にしか登場することがありません。仮に登場したとしても、大衆の前に姿を表すことはほとんどないのです。大抵はひっそりと隠れるようにして生きている。歴史上にその名を残す預言者も、当時の活動範囲はごく限られたものに過ぎず、みんな後世になって、偉大な人物物語に仕立て上げられたのです。(そのことで、また人間は自分を縛ることになってしまうのですが‥‥。)

 

ところが、の霊能は高いけれども、霊性は低いという人物は、かなり多く存在するのです。この人たちが、霊界の法則を無視した勝手なことを言い出しては、人々を惑わせるのです。みなさんの多くは、霊能者はみな特別な存在だと思っていますから、霊能者のご託宣をそっくり信じては、恐怖心を募らせたり、ただ言われたままの行動を盲目的に取ったりして、自分というものを見失ってしまうのです。

 

今回、私が驚いたのは、2020年に「霊界の法則が変わる!」と言っておられる方がいることです。変わらないからこそ「法則」なのにィ‥‥ (;´o`)。もうビーックリです。そもそも霊界というのは時間のない世界。永遠の今しかない世界です。その時間のない世界が、どうして「変わる」というのでしょうか? どうやったら「変わる」ということが、時間のない世界で起こり得るのでしょうか?

 

一方、私たちが住む物質界は、逆に変化し続ける世界。常なる状態というものが決してない「無常」の世界です。でもそれだって、時間が連続しているように感じているのは錯覚であり、実は霊界と同じように、物質界にも「今」しかないのだ、ということは前に詳しく書きました。物質界での出来事は、実は霊界にある想いの、三次元スクリーン上に投影された映し絵なのです。

 

「霊界の法則が変わる!」と言っておられる方は、もしかしたら、これを混同して言っておられるのかも知れません。物質界で起こると予想される激変に対して、「霊界の法則が変わる!」とセンセーショナルに語っているのかも知れません。しかし、たとえ物質界で激変(カタストロフィー)が起こったとしても、それらはみな「霊界の法則」の範囲内であって、「霊界の法則」が変わることなど決してあり得ないのです。

 

身の周りの小さな出来事も、超ビッグなカタストロフィーも、みんな「波動の法則」と「カルマの法則」に従って起こる出来事であるということには、いささかの違いもないのです。

 

にも関わらず、こうした刺激的なことを言う霊能者がしばしば出現するのは、人々がそうした危機を煽る情報にめっぽう弱い、という性質につけ込んでいるのです。そのウィークポイントをセンセーショナルに刺激することで、人々の耳目を自分に集めたいのです。その裏には、それによって、名声を得たいとか、お金を儲けたいとか、組織を拡大したい、といったエゴに駆られた目的があります。

 

しかしそういう方たちも、その段階に合致した人々の気づきには貢献しているわけですから、声高な非難は出来ないのですが(なぜなら自分も通った道だから)、出来れば次のステージに進んでいただけたらなと思います。

 

みなさんが耳を傾けるべき相手は、の人物ではなく、△凌擁です。路地裏に、村々に、その人たちがいます。穏やかな笑顔をいつも絶やさず、ただ黙々と働いている人を見なさい。その人たちこそが本物です。教えを乞い友とすべき真の相手です。

 

波動を感知(それは特殊能力ではなく、訓練によって誰もが獲得できます)出来ない段階の人にとっては、何が本物かを見分けることは難しいでしょうが、次に示す簡単で確実な見分け方があります。

 

それは、

 

第一に本物は、あなた方を恐怖に導いたり、不安を煽ったりするようなことは、絶対にありません。

その理由は、前の段に、五つの箇条書きとして示しました。付け加えて言えば、宇宙は一者ですので、自分が自分を脅し、それに恐怖を感じる理由など、どこにもないということです。

 

第二に、本物は、決して対立構造を描きません。善が悪を駆逐するという物語を語ったものはすべてニセモノです。

この理由も簡単です。宇宙は一者だからです。二元は対立しているのではなく、互いに補完し合っているのです。光があるから影ができ、影あるところ必ず光があるのです。

 

この二つを肝に命じて、今後あなたが遭遇する様々な情報を、このフィルターに掛けて見れば、それが本物かニセモノかは直ぐに判るのです。

 

*ちなみに『虹の学校』の HPに推薦図書の紹介ページがあるのですが、ここで紹介している本には、この二つの要素は全くないということにお気づきください。

 

最後に、これからの激動の時代を生き抜くための智慧をお伝えしましょう。世の中が大きく動く時には、様子見をしていてはダメです。波が小さい時には様子見も結構でしょうが、大波が来る時にじっと動かずに様子見をしていたら、気がついた時には波に呑み込まれてしまいます。

 

みなさんは、ご自分が、時代の大きなうねりの上に浮かんだ無力な小舟に過ぎない、と思われているかも知れません。ですが、ここで大胆な発想の転換が必要なのです。それは、うねり任せで浮かぶ小舟から、うねりを起こす側に自分が回るということです。しかも、今までとは違った価値観によって。そんなこと出来るの? 出来ます。そして、これこそが、時代変化の方向を決するのです。

 

つまり、あなた方の集合意識の「あり方」が、次の時代を創造するのです。

 

ひっくり返ることで起こる混乱を心配するよりも、どのようにひっくり返った方が、今の社会をもっとよい方向に変えられるかを考え、行動を開始することです。どのようにひっくり返れば、安心して生活が営めるのか。どのようにひっくり返れば、子どもたちが伸び伸びと自由に成長できるのか。どのようにひっくり返れば、思いやりと活力のある社会ができるのか、etc.。

 

生きる上での価値観を根底から問い直すのです。

2020年、「革命」ではなく、令和「以心」をこの日本から成し遂げましょう。

そして、そのハートを世界に「伝心」しましょう。

 

あなたが、それを強く想い描いて行動すれば、不安は楽しみへと変わります。絶望が希望へと変わります。ですから、それを実行してください。不安や恐怖を煽るようなどんな情報にもケ・セラ・セラで接してください。あなたの心の奥底に巣食う不安を、全部追い出してください。心の中を、楽しい企画で満たしましょう。唄や笑い声で満たしましょう。思いやりや助け合い精神で満たしましょう。

 

そして、幻の世界を、思う存分楽しみ、味わい尽くしましょう。

それが、あなたという「魂」の、大いなる成長を約束するのですから。

人間関係において、自分の相手役をしてくれている「魂」が、そのせいでカルマを積み増ししてしまうという可能性はないのか?

次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.(頼まれてやっている)カルマの人間関係と、カルマの上積みについての質問です。地球に生まれてくる段階で、事前に自分で決めていた課題があるかと思います。過去生で、なんらかの理由によりその課題をクリアできなかった場合に、同じような課題を再度設定して生まれてくることがあるかと思います。

 

その課題のために、交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。困った人の役を引き受けてやっているとはいえ、それに伴う地上での立ち振る舞いでカルマを上乗せしてしまうことはないのだろうか・・?という疑問です。

 

頼まれてやっているとしても、波動の法則が存在する以上、自分が出した波動は自分で受けることになります。また、転生前に交流があったということは、霊界は純然たる階層社会なので、あまりに自分と波動が違う相手と交流することはないはずです。

 

そういう存在が困った役を引き受けることによって、結果、図らずともカルマを上乗せしてしまった的なことにならないのかな、とその点でもやもやしています。ご回答よろしくお願いします。

 

A.先ず、「カルマ」ということの意味なのですが、これはもともとサンスクリット語で「行為」を表す言葉であり、「行為」のプロセスと、その結果を同時に包含した概念を意味しています。ですから、人間は生きている以上、なんらかの「行為」を必ず為すのであり、その意味では、人生行動そのものが「カルマ」だとも言えるのです。

 

「カルマ」と言いますと、一般的には「宿命的な災い」のようにばかり捉えられがちですが、必ずしもそうではなくて、悪いことだけではなく、善いことにもみな「カルマの法則」が働いているのです。さて今、「悪いこと/善いこと」と書いたのですが、この「善悪」概念も、あくまで主観的なものに過ぎず、厳密に言えば、宇宙に「善悪」というものはないのです。

 

「善悪」概念が主観的なものに過ぎないということは、例えば、ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い起こしてみれば、直ぐに解ることでしょう。あの時ブッシュは、イラン、イラク、北朝鮮を「悪」の国家と断じる一方で、自国アメリカを「善」の国と位置づけて、諸国に「さあ、どっち側につくんだ」と迫ったのです。そして、日本もその「善」の側に加担しました。

 

その結果がどうなったのか、またそこに至るまでの裏側には何があったのか。これはもうみなさんが知る通りです。けれども、このような例を挙げても、「いいやそんなことはない。誰もが認める悪はある。たとえば殺人だ」と仰る向きもたぶんおられることでしょう。でも果たしてそうでしょうか? 人間は、戦争で人殺しをすることは、国際法で認めているではありませんか。

 

このように、「善悪」概念など、所詮は主観的なものに過ぎないのです。ただし、宇宙的にみて敢えて言えば、こういうことは言えます。〈分離〉意識に向かう行為は「悪」的であり、〈合一〉意識に向かう行為は「善」的である、と。しかしこれも、あくまで「的、ぽい」ということであって、「絶対」ではないのです。宇宙に「絶対善」や「絶対悪」はありません。

 

そもそも、個々の「魂」がなぜ一者(神)から分かれて生じたのかと考えますと、〈分離〉を、即「悪」だと決めつけることは出来ません。これを「悪」だと決めつけたものが、いわゆる「原罪論」です。しかし「原罪論」には矛盾があります。宇宙の一切合切を仕切るものを「神」だとすれば、個々の「魂」を〈分離〉させた存ものは「神」です。

 

すると、その行為を「罪」だとすると、「罪」を犯したものは「神」ということになり、そう断じるものは(原罪を有した)「人間」であるという逆転のパラドックスが生じてしまいます。さらに、「原罪」を持つ「人間」に「罰」を与えるとなると、「罪」を創ったのも、「罰」を与えるのも同じ「神」ということになり、非常におかしなことになってしまいます。

 

では、なにゆえに、個々の「魂」が一者のもとから〈分離〉したのでしょうか? あるいはさせられたのでしょうか? それは、〈合一〉を体験するためなのです。〈合一〉したままでは〈合一〉は体験できません。〈分離〉することによって初めて、〈合一〉に向かう「行為」というものが体験できるのです。実に、「カルマ」の意味はそこにあるのです。

 

ですから、「カルマの法則」というものが、決して「罪」や「罰」に起因した法則ではなく、それ自体が「神のギフト」であるということが、これでお解りになるでしょう。したがって、「カルマの法則」を恐れる必要はいささかもありません。「カルマ」というのは、あなた方の、瞬間々々での「生き方の選択」なのです。〈分離〉意識をより強めた体験をそこで選ぶのか、〈合一〉意識をそこに見い出すのか、という。

 

そのことを踏まえた上で、ご質問にお答えします。さて、質問者は、「交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。」という仮定から、質問に至る論を展開されておられます。ですが、そのようなことはそもそもありません。ですから、ありえない仮定のもとに、疑問を投げかけておられるのです。

 

ではなぜ、質問者にそうした仮定が生じたのかと推理しますと、人間関係におけるこの世的な貸し借りを、「魂」の世界や輪廻転生の仕組みに、そのまま当てはめて見ている節があります。ですが、これは誤りです。霊的世界に貸し借りはありません。自分の本心を押し殺して、他者のために◯◯役を「演じる」というようなことは出来ないのです。何もかもがお見通しの世界なのです。

 

その「魂」の、素っ裸の霊性度合いに応じて、万事よろしく設計されて、次の転生計画が決められているのです。その際に、個々の「魂」は、全員が、自分の人生の主役なのです。その主役の周囲に、縁の濃い「魂」たちによって脇役が設定されます。主役から見れば、周囲の人たちは、あたかも自分の課題を助ける役を演じてくれているように見えるかも知れません。その見方はある意味で正しいのですが、それは、同時に相手側の人にも言えることなのです。

 

Aさん、Bさんという縁のある「魂」がいたとしましょう。Aさんにとって、Bさんは自分に何らかの気づきを与えてくれる存在です。しかし、人間関係というものは、つねに「間(あいだ)」に生じるものであり、そこで生じている「関係」に対しては、その関係者はすべてイーブンの影響を受けているのです。ですから、両方が互いに主役なのです。

 

こんな例を考えてみましょう。Aさんは寝たきりで、自分一人では身の回りのことが何ひとつ出来ません。Bさんは、このAさんに付きっ切りでずっと看護をしています。果たして、Aさんは貰うばっかり、Bさんは与えるばっかりなのでしょうか? この世的に見れば、そう見えるかも知れません。けれども、霊的に見れば、そのような一方的なことはまったくないのです。

 

このAさんとBさんとの「間」に、看護という「行為(=カルマ)」が行われた時、両者はそれぞれの視点で、この体験を分け合っているのです。ここには貸し借りはありません。それは両者にとって、互いに自分のカルマを解消するための絶好のチャンスとしておとずれた体験なのであり、その出逢いは完璧に設計されています。ですから、質問者のような心配は、する必要がないのです。

 

AさんとBさんとの「間」に生じた出来事は、AさんはAさんの視点で自分の学習課題として捉えるのであり、BさんはBさんの視点で自分の学習課題として捉えるのです。この時、両者で協力して為した体験を、〈分離〉意識的に捉えるか、はたまた〈合一〉意識的に捉えるかは、それぞれの人の自由意志によるのです。

 

Aさんは〈合一〉意識的に捉えたのに、Bさんは〈分離〉意識的に捉えたとしましょう。Aさんは、その体験を通じてちょこっとだけ霊性の向上を図ることができました。でもBさんは、体験を通じても気づきがなく、ネガティブな「カルマ」をかえって強化してしまいました。このBさんの「カルマ(行為)」に対して、Aさんには何の責任もありません。そもそも責任の取りようがありません。

 

これは、Bさん自身の体験学習であって、そこにはなんぴとも介入することは出来ないのです。人間の思考からすれば、これはクール過ぎて、いささか冷たい感じがするかも知れませんが、法則とは元来がそのようなものです。でも、もっと大きな視点で見て欲しいのです。個々の「魂」は、どれほどすったもんだがあったとしても、全部がいつかは一者のもとに還るのです。

 

何度も何度も輪廻転生を重ねる中での、たった一つの人生の、さらに瞬間の出来事に対して、責任論で思い悩む必要などありません。「カルマの法則」全体がギフトなのであり、それぞれの場面での選択は、その「魂」が、その成長段階において、その時に正しいと思って下した選択です。その結果が、この世的に見て、善い悪いの差があったとしても、常にそれは、その「魂」にとって、「神のギフト」であり続けるのです。

 

最後に「カルマの積み増し」ということについて述べておきましょう。どういう時に、カルマ(ここでは負のカルマ)の積み増しになるのかということです。これも極めてシンプルなことで、〈合一〉に向かう「行為」が為されればそのカルマが消え、〈分離〉に向かう「行為」が為されればカルマが積み増しされるということです。

 

トラックの荷台を思い浮かべてください。そこには、今世で荷下ろししなければならないあなたへの課題が積まれています。あなたが苦しみに遭遇する時、その根本原因に気づいて、エゴを反省し、〈合一〉への気づきを得れば、その荷を下ろすことが出来ます。でも、過去世でしたことと同じような衝動で、今世また行動してしまえば、荷は雪だるまのように膨らんでしまうわけです。

 

また仮に、〈合一〉への気づきをなんとか得たとしても、その過程で為した「行為」に、別の〈分離〉意識行動が含まれていれば、今度はまた違う荷を荷台に引き入れるのです。こうして、載せたり下ろしたりを繰り返しながら、最終的にはすっかりネガティブな荷を下ろし終わり、そこで輪廻転生が止むのです。

 

ということで、あなたもそこを目指して、瞬間々々を、どうか伸び伸びと生きていってください。

 

参考:善、偽善、罪悪感、悪

アセンションとは? ーーー アセンションに関してのメッセージ

アセンション(ascension)は、「昇る」という意味の動詞である“ascend”の名詞形で、精神世界では一般に「次元上昇」と訳されています。ここで注意が必要なのですが、ここで言っている「次元」は、数学で言うところの「次元(Dimension)」とは全く別の概念を意味しているのです。

 

ところが、この両者が混同され、今まで多くの人に混乱を与えて来ました。ここで言う「次元」は、宇宙を構成している全存在を、バイブレーション(振動数)の高さによって大きく7段階に分けた際のレベルを意味しています。正式には「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、「次元」はその通称として使われている言葉なのです。

 

それを先ず解っていただいた上で、「アセンション(次元上昇)」というのは、三次元から五次元へ、つまり第三霊性密度から、第四霊性密度を飛び越え、第五霊性密度へと上昇することを意味します。いったい何が? さて、それが問題です。ここには二つの対象物があるのです。人間と地球です。

 

人間の「アセンション」というのは、これまで「解脱」とか「覚醒」と呼ばれていたことと基本的には同じことを意味しています。それがなぜ、近年になって急に「アセンション」と言われるようになったかと言えば、もう一つの対象物であるところの地球の「アセンション」と、それが大いに関係しているためです。

 

これは、古来より言われて来たことですが、地球というのは、第三霊性密度の学習段階にある「魂」の、学習のための受け皿として、物理空間に用意された惑星でした。この惑星が、アトランティス文明の成立後、そこに住む人間たちに対して、2万6千年ごとに第五霊性密度への上昇の機会というものを与えられていたのです。

 

しかし、伝説として残されているように、今よりも遥かに高度な文明を誇ったアトランティス人でしたが、霊性の堕落によって、過去2回のチャンスを逸したばかりでなく、アトランティス文明そのものも海中に没して跡形もなく消えてしまったのです。そして今回が、3回目のチャンスとなるのです。

 

しかし、今度のチャンスは、前の2回とは大きく違った点があるのです。それは、今回は、地球そのものが「アセンション」してしまうということです。「アセンション」が、人間よりも前に、地球に対して起こることが、予め決められているのです。地球という惑星が、宇宙の中での第三霊性密度の受け皿としての役目を終了して、第五霊性密度へと移行するということです。

 

ですから、主役は地球なのです。これに伴って、今度の機会に「アセンション」出来なかった人間は、これ以降は、もう地球に輪廻転生して来ることが出来なくなるという点が、過去の2回とは大いに異なる点なのです。つまり、地球学校に来ている「魂」にとっては、これが卒業のラストチャンスだということです。

 

そう思って、現代という時代をよくよく眺めて見れば、その兆しがいたるところに現れているのを、あなたもお感じになることでしょう。AIやゲノム編集などの科学技術が急速に発達していることや、人間を奴隷ロボットにするシステムがますます巧妙になっているのは、アトランティスを滅亡に導いた当時の科学技術者たちが、現代にも一斉に転生しているからです。また、金融やグローバル経済に見られる強欲さは、アトランティス末期のカルマをそのまま映し出しています。

 

そして、これまで長きに渡って秘匿されて来た「闇の支配者」の実態が、ここに来て急に炙り出されて来たのは、宇宙からの強い光が当たっていることもさることながら、地球がすでに第四霊性密度のバイブレーションに突入したことを示しています。つまり第四の領域に入ったので、第四に隠れていた実態が見えるようになったのです。

 

もちろん、異常気象や自然災害に見られる極端化現象も、これらと大いに関係があります。それらは天罰ということではなく(宇宙には、そもそも罪も罰もありません)、今の人間意識の総体としてあり方が、それらを物質化させているのです。そしてこれも、アトランティス人の末期が辿った道と、そっくりになりつつあります。

 

多くの予言や霊言が、みな共通して語って来たように、これからの時代は大転換を迎えます。それは、地球が第五霊性密度の惑星へと移行するということなのですが、同じ場所に新しい家を建てる際には古い家を壊さなければならないのと同じように、古いシステムと古いシステムを作り出している人間の意識のあり方が、一掃される時期が目前に迫りつつあります。

 

これを、怖れることなく、冷静に見守って行ってください。そして、あなた自身のアセンションを目指してください。

 

これも、多くの予言や霊言が語って来たことですが、戦争に明け暮れして右往左往する多くの人たちと、小規模で平和に暮らすコミュニティとに、世の中が真っ二つに割れます。それは一見すると、闇と光との闘争、悪と善との凌ぎ合いに見えますが、これらを煽る者に巻き込まれないようにしてください。それこそが、闇の戦略なのです。二元性の真理は「闘争」にあるのではありません。両者が揃っての「合一」にあるのです。

 

また、センセーショナルなことを語りたい人たちは、「生き残り」ということにスポットを当てるでしょうが、「生き残り」は大した問題ではありません。地上では、人はみな、遅かれ早かれ全員が死ぬからです。しかし一方で、「魂」は永遠だということに注目してください。だからこそ、この機会にアセンションするのです。その意味をしっかり捉えて、この機会にお臨みください。

4次元の川を超える

世に、霊能の強い人がいるということは否定しません。でもそれは、生まれつき絵や音楽の才能があったり、足が速かったり、手先が器用だったりするのと一緒で、単に一つの能力に過ぎません。その表れ方を観察してみれば分かるように、各分野の感受性と表現方法には多種多様なバリエーションがあって、能力にもピンからキリまであるのです。これは霊能とても同じです。

 

そして、ここが肝心なところですが、霊能と霊性の高さとには、何の相関関係もないのです。霊性の高さは、この世(物質界)においては、人間性の高さとして顕われます。では、絵が上手な人は、みな人間性も優れているでしょうか? 音楽的才能がある人は、みな人間性も優れているでしょうか? 足の速い人は、みな人間性も優れているでしょうか? そんなことはありません。金銭欲に取り憑かれた人もいれば、身内のゴタゴタを抱えた人もいます。

 

ただし、何であれ、その道を追求して来た人の中には、同時に優れた人間性に到達した人もいます。それは、能力がそうさせたのではなくて、その分野を借りて、「道」を追求する姿勢を持ち続けたからこそ顕れたものなのです。そこを混同してはなりません。それと同じことで、霊能者が即霊性も優れていると思い込むのは早計です。むしろ、霊性の高い霊能者は極めて稀にしか存在しない、と思った方がよいのです。

 

ところが、これがみな解らないのですね。なぜ解らないかと言えば、見分ける眼というものが、まだその人に備わっていないから。なぜ見分ける眼が備わっていないのか? 欲得で曇ったフィルターが、その人の眼の上に厚く覆い被さっているからです。この欲得フィルターが、ものごとをありのままに見るということ、ことの本質を見るということを妨げているのです。

 

足の速い人は、その人が走っている姿を見れば、その能力は誰にでも直ぐに解ります。でも芸術となると、もう大多数の人は解りません。そのため、素直でない人は、ブランド(作家名)を見て解ったような気になろうとする。ですから『なんでも鑑定団』のような番組も成り立つのです。土蔵に長年放ったらかしにしてあったゴミが「1000万円!」と知って人々はみな驚くわけですね。

 

でも、その「驚き」は、何に対する驚きなのでしょうか? 「お金」という世間が示しているスケールであって、芸術そのものではありません。結局のところ、芸術に感動したわけではなく、自分の欲得フィルターに引っ掛かった価値を見ているだけなのです。その人に、もし芸術を見る眼があれば、無名の作家の絵にも、河原の石ころの中にも、青空に浮かぶ雲の中にだって芸術を見出すことでしょう。

 

そしてこれが「霊能」ということになると、判断基準はさらに大甘となってしまうのです。なぜなら、そこには「絵」すらも介在しないから。ブランド価値を認めようもないから。いわゆる「見えない世界」のことだから。そこで人々は、それを「信じるか」「信じないか」というただ一点で捉えるしかなくなってしまう。そして「信じる」と決めたときには、細部の誤謬に眼を配る余裕もなくなり、人は完全に盲目となってしまうのです。

 

*ブランド価値をくっつけたい人は、自分を歴史上の有名人の生まれ変わりだと言って信用させようとする。

 

では、「信じる」背景にあるものとは何でしょうか? 突き詰めれば、それは無智と欲得です。無智と欲得が、人々を「信じる」行為へと駆り立てるのです。考えてみてください。もし、その人に宇宙の智恵が備わっていて、欲得も滅しているのであれば(この言い方は正確ではなく、智恵を得た人は欲得も滅しているのであり、欲得を滅した人は同時に智慧を得ている)、もはや「信じる」必要などは無いはずです。

 

ハッキリ申し上げて、自称「霊能者」の9割方(いやそれ以上かも?)はニセモノです。ここで言うニセモノというのは、「霊能が無い」という意味ではありません。本人が繋がっていると称している領域のことです。霊能がまったく無いのに「霊能者」の看板を掲げている確信的な詐欺師は、殆どいないと思います。なぜなら、あなたにだって霊能はあるわけですからね。人はみな人間であると同時に霊的存在なのですから。

 

ですから、自分を「霊能者」だと公言して憚らない人というのは、よっぽどズーズーしい人か、本当に自分がそうだと「信じ切っている」人です。ところが、こういう方たちの大半は、宇宙の真理や構造については殆ど何も知らないのです。知らないで、ただ自分の「霊能」の感覚だけでやっているのです。ですから、無智に基づく誤認や、自分が操作されているとは気づかずに、周囲を惑わす発言をしている人も多いのです。

 

問題は、そういうニセモノの「霊能者」のほうが、人々には、より刺激的かつ魅力的に見えることです。理由は、前に述べたように、人々の「欲得フィルター」に引っ掛かる可能性がそれだけ高くなるからです。ここに需要と供給がマッチし、そういうスピリチュアル・ワールド(しかしその実態は、真逆のエゴ・ワールド)が創られることになります。ニセモノを求める人々の強い願望が、ニセモノの「霊能者」を育てるのです。

 

余談ですが、以前、ご主人の浮気に関する相談をされたことがあります。私は個人的な相談事には応じていないのですが(というのは、そういう相談者の殆どが「判断」を求めて来るからで、私はその人に代わっての「判断」というものはいたしません)、たまに、出会い頭にそういう事態に出っくわしてしまうことがあります。その時、その女性は、こう言ったのです。この件について、信頼している霊能者に尋ねてみたのだと。

 

だったら、もう私に聞かなくてもいいじゃないか、とも思ったのですが、まあ黙っていました。すると、その霊能者から「ご主人は、未熟で幼い魂である。でもあなたはご主人と別れることは出来ない。なぜなら、それが今世の学びだから」と言われたというのです。それを聞きながら、私だったらそんなことは絶対に言わないな、と思いました。なぜって、その言葉は、その相談者の想いをそのまんま読んだものだからです。

 

だから「当たり!」となる。それで相談者としては一時的には溜飲が下がる。「やっぱりそうかぁ」と。でもそれで、その人が、その事件を、自分の成長の機会へと繋げられたのでしょうか。霊能者にはそう言われたものの、やっぱりモヤモヤ感が残る。葛藤状態が消えない。それで私に相談して来た。だから私は言ってやったんです、その人に。「離婚は出来ますよ」と。「役所に離婚届を出せばね」って。すっご〜く意地わるく。

 

さてここで、宇宙の構造についての話をしましょう。宇宙を形づくっているものは、詰まるところ、すべてがバイブレーション(波動)であると言ってよく、振動数の低いものから高いものまでが、連続的な階調をつくっています。ごく大ざっぱに言って、振動数が低くなれば物質化が起きて物質界をつくり、振動数が高くなれば非物質化して行き、その先に霊的世界をつくるのです。この全体構造を、宇宙鍵盤とか、オクターブと呼んでいます。

 

ピアノの鍵盤を見ますと、1オクターブ中に白鍵が7つ並んでいます、そして8つめになると、1オクターブ音階が上がります。しかしこの音階の振動数(波長)というのは、階段状に(つまり算術級数的に)等間隔で上下しているのではありません。ギターのフレット間の幅を見れば分かるように、幾何級数的(別の言葉で言えばスパイラル状に)に増減しているのです。

 

神秘学では、この宇宙を、振動数の違いから大きく7つに分けています。この7つの領域には明確な境界線があるわけではなく、虹色を7色で代表しているように、便宜上、大まかに7つに分け、それを振動数の低い領域から順番に、第1、第2、第3、・・・第7霊性密度と呼んでいるのです。「密度」というのは「振動数」と同じ意味の別名です。

 

紛らわしいのは、一般的にはこれを「次元」と呼ぶ習わしがあるので、殆どの人が数学的次元と混同してしまい、ワケが分からない状態に陥っています。例えば、「アセンションというのは、3次元から5次元にジャンプすることだ」と言うと、「はて?」ということになってしまうわけです。ですが、この「次元」という言葉は、数学的次元のことではなくて、振動数の違いによる階層を表しているのだと理解してください。

 

*この宇宙:〈この〉と付けているのは、実は、宇宙は〈この〉宇宙だけではないからです。〈この〉宇宙の7層をジャンプすれば、つまり1オクターブ上がれば、別の宇宙もあるということです。しかしながら、〈この〉宇宙内にいる以上、別の宇宙を知覚することは、我々には不可能です。

 

さて、この7層のうち、振動数の低い1〜3までが物質界、高い5〜7を一般的に霊界と呼んでいます。では、中間にある第4霊性密度(四次元)は何かと言いますと、文字通り中間の「半霊半物質界」なのです。これはどちらの性質も半分ずつ有するということで、中有と呼ばれたり、人によっては心霊界と言ったり、また西洋ではアストラル界と呼ばれたりしています。

 

この第4霊性密度(四次元)の領域を、物質界側(つまり「この世」)から見ますと、そこには霊界の性質の一部(それも最下層)が漏れ出てきているのが伺えるわけです。そしてこの領域を、古くは宗教で「地獄」と呼んで来たのです。スウェデンボルグやJ.S.ワードもそう呼んで、地獄の見聞記を著しました。この層を「地獄」と呼んだのは、そう言って脅した方が、宗教的ドグマを植え付ける際には単純で解りやすかったからです。

 

しかし20世紀に入って、ロバート・モンローがこの階層構造を再精緻化し、第4霊性密度に当たる領域を「信念体系領域(別名「囚われ領域」)」と名づけ直したのです。これは正に言い得て妙で、その階層の特徴を見事に表現していました。

 

「地獄」と言いますと、何か地の底にあるおどろおどろしい世界のようなイメージがするかと思いますが、実際にはそうではないということです。この領域は、第5霊性密度(つまり天国に向かう入り口)の手前にあります。そのため、第5霊性密度の領域に踏み込むためには、第4霊性密度(=囚われ領域=かつての地獄)の川を通過して行かなければならないのです。これがアセンションのジャンプの意味です。ところが、実に、これが至難の技なのです。

 

なぜ至難かと言いますと、宇宙には絶対的とも言える「波動の法則」なるものがあって、同種のバイブレーションしか引き合えないからです。ですから、高次元の存在と出会うためには、先ずは自分の波動を、第5霊性密度の領域に引き上げる必要があるのです。一方、高次元の存在は、敢えて振動数を低下させて第5霊性密度まで降りて来ます。そのようにして出会えた場合にのみ、高い波動とのチャンネルが開かれるのです。

 

ではどうすれば、第4霊性密度の川を超えて、第5霊性密度の領域に入って行けるのでしょうか? 答えは簡単です。ですが、それを実行するとなると極めて難しいのです。思い出してください。第4霊性密度というのは、どんな領域だったでしょうか。そうです。「信念体系領域」または「囚われ領域」と呼ばれる場所です。ですから、「信念」や「囚われ」を持っていては、ここを通過できないのです。

 

少しでも、自分にそうしたものが残っていると、それと同じ波長を有した第4霊性密度の領域に捕まって、川に落ちてしまうのです。そこで、古来より「執着を捨てよ」ということが繰り返し言われて来たのです。ところが、ウケ狙いの自称「霊能者」が言うことは、そうではありません。聴き手のエゴを刺激したり、優越意識を持たせたり、恐怖心を与えたり、さも有り難みのあるような言葉を吐いて、それがホンモノだと錯覚させていくのです。

 

しかし、その「霊能者」本人にはそうした自覚はありません。騙しているという意識はないのです。本当に自分はホンモノだと思っている。でもそれは、第4霊性密度特有の「囚われ」や「執着」や「信念」から拾って来た言葉を、自分で「神の言葉」だと思い込んで語っているのです。こうした理屈を、一般の人は何も知りません。実はそのようにして、「霊能者」を代理人に仕立てて、人々を操っている「存在」が、そこにいるのです。

 

ですから、私は「信じるな」といつも言っているのです。「信仰」はダメだよと言っているのです。もし「信じ」てしまうと、「欲得フィルター」の上に、さらにもう一枚「信仰フィルター」というものが掛かってしまう。こうなると、操る者の思う壺で、執着を手離すことがさらに難しくなってしまいます。信仰者たちは、みな喜んで鎖に繋がれ「牢獄の中にいる安全」に身を委ねるようになって行くのです。

 

この『気づきの啓示板』とて、もちろん例外ではありません。一切を「信じ」てはなりません。他人の言葉を信じるのではなくて、それを刺激に、ご自分の中に、メッセージを「発見」して欲しいのです。あなたを成長させる要素は、究極的にはあなたの「気づき」の中にしかありません。外にあるものはみな、あなたの背景でしかないのです。外から来るものを「信じ」たら、あなたはそのロボットにされてしまうことでしょう。


メッセージとは何でしょうか? このブログは、あなた宛に書かれたものではありません。でも、「うん、正にドンピシャ。これは今の自分へのメッセージだ!」と読むのは、まったく正しい読み方です。それは、その瞬間、あなたが、本当に自分に贈ったメッセージなのです。このブログに限りません。あなたの周囲はメッセージで溢れかえっています。その中で、あなた自身が「発見」したことだけが、自分へのメッセージとなるのです。

 

ですが、次が肝心。あなたは、今の自分の「純粋さ」に応じたメッセージしか受け取ることが出来ないのです。目の粗いフルイには、エゴというゴツゴツした石しか引っ掛からないのですよ。執着を手離せていない人に、どんなに光り輝く宝石を降らせてみても、みんな粗い網目から零れ落ちてしまう。ただ「純粋さ」のみが、同じ「純粋さ」の精妙な波動をキャッチ出来るのです。

 

神はお節介を焼きません。お節介を焼いたところで、「純粋さ」のフルイがその人の中に育っていなければ、何んの役にも立たないのです。ですから、神は、あなたから欲得の皮がすっかり剥げ落ちて、「純粋さ」の青々とした新芽が顔を出すのを、今か今かとじっと待っているのです。ここを、しっかりと理解しなくてはなりません。すべては、あなたの今の「あり様」に掛かっているということです。

 

ですから、「自分は霊能者だ」と言って、近寄って来る者には気をつけなさい。特に、善意の忠告をして来る者にはね。本物は、自分の役割を解っていますし、自分の言動の下に誰かを従わせようとすることなど絶対にありません。本物とニセモノを見分けてください。目覚めた者が、他者の上に君臨することなど不可能なのです。なぜって目覚めているのですから。

 

目覚めているということは、「あなたとわたしは同じである」ということを、知っているということです。そのような極みに達した人間が、どうして自分と他の人を分けて、自分を王様の地位に置けるものでしょうか? 霊能者を先生と呼んでありがたがったり、霊能者もそう呼ばれることに満足しているようなあり方は、互いの「分離」意識を強めて行くだけです。それはonenessではありません。

 

霊能者のご託宣を聞きたい。そう思っている間は、まだ自分が「分離」意識の中にあるということです。そういう段階も、確かに学びの一つには違いありません。でも、いつまでもいつまでもそのままであっては進歩がありません。そんなことをしなくても、それぞれが、自分の内なる声を聞けばよいのです。また、究極的には、それしかないのです。

 

なぜなら、

 

あなたも神の一部なのですから。

霊能と霊能者について

世間には、様々な霊能(超能力)を主張する、自称「霊能者」がたくさんいらっしゃいます。しかし、「霊能」とはどういうものかということについても、また「霊能者」にもピンからキリまでいるということについても、その実体や詳細についてはあまり知られておりません。いや、まったく知られていないと言った方がよいくらいでしょう。そのため、この分野には、21世紀に入っても、未だに中世と同レベルの混乱状況が続いています。

 

20世紀の後半から、理論物理学や宇宙天文学が急速な発展を見せ、今や超ミクロの世界と超マクロの世界が一体のものとして明らかにされつつあります。これまでの「現象を追う科学」が、いよいよ「因の科学」に迫ろうかという段階に至っているのです。もう中世の時代ではありません。宇宙の構造について本当の知識が必要な時期にきているのと同様に、この分野にも本当の知識が必要となっているのです。

 

先ず、「霊能」というものは特殊な能力ではない、ということを知っていただきたいと思います。それは、誰にも備わっているものなのです。人間は本来、誰もが超能力者なのです。なぜなら、そのようにして創造されたのですから。ただしその能力には、人によって差があります。駆けっこを思い浮かべてください。早い人、遅い人、いろいろいるでしょう。それらと何も変わりがありません。

 

生まれつき足が早く、子どもの頃から大会に出場すればいつも一等という人もいれば、高校までの部活ではそれほど目立たなかったのに、その後よき指導者についてオリンピック選手にまでなったという人だっています。また、将来を嘱望されていたのに、悪い連中に捕まってしまい、曲がった道へ入ったという人だっています。それと、何ら変わりがありません。

 

つまり「霊能」は、人間がいろいろ持っている能力の一分野に過ぎないのです。それなのに、「霊能」だけが特別扱いされているのは、他の能力の多くが、いわゆる「五感」に基づいて構築されているのに対して、「霊能」は「五感」を超えた能力(いわゆる「第六感」以上)であるためです。大半の人々は、この分野についての知識が全くと言っていいほどありません。そこで、特殊な感じがするというだけなのです。

 

ところが、これは知られていないことですが、本人が通常の能力だと思ってやっていることでも、実は「第六感」以上の助けを借りてやっているという場面が少なくないのです。最近では「Zone に入る」という言い方をするようですが、いわゆる「神懸かり」という心境です。何かに没頭して作業をしている時に、信じられない力が湧く。ふとした瞬間に光が射したようにインスピレーションが入る。これらはみな、あなたが超能力者になった瞬間です。

 

超能力を意味する、英語の「psychic(サイキック)」、略して「PSY(サイ)」などと使われることも多いですが、この語源は、古代ギリシア語の「Ψυχή:Psyche(プシュケー)」から来ています。プシューというのは、息を吐く時の擬声語で、元々は「呼吸」を意味しました。それが、以前にも書いたように、息→生き→生命→魂→精神→心、といった概念にまで拡大使用されて行ったのです。

 

このような、言葉の成り立ちを見ても、「霊能」は決して特殊能力ではないということがお解りいただけるでしょう。泥(それは宇宙にあまねく存在する元素)をこねた(組み合わせた)人形に、息(SOUL 及び生命エネルギー)を吹き込んで人間が出来たという「神話」は、本当のことを模写したものなのです。ですから、人間は本来、誰もが超能力者なのです。

 

それなのに、なぜ、能力差が存在するのでしょうか? これには三つの理由があります。一つは先天的なものです。先天的ですから、DNAに秘密があります。しかし、そういうDNAの配列を、両親を選んで、組み合わせを決めて誕生して来たのはその人自身、つまりその人の「魂」です。ですから、先天的な違いというのは、元を辿れば、「魂」の成長段階や役割に違いがあったということになります。

 

同じ人間であるのに、DNAの配列に「霊能」差が生じているのは、人類の創生にその秘密があります。多くの人類学者が主張し、教科書で教えられている「人類誕生の物語」は正しくはありません。人間は、類人猿から進化したのではありません。これも神話に書かれているとおり、霊魂が堕落し(振動数を下げ)、楽園から追放された(流刑にあった)ことによって物質化し、肉体を持った「人間」というものが誕生したのです。

 

これは、わずか数世代で成し遂げられ、五色人(それぞれ黒、白、黄、赤、青色の肌を持つ人類)が、ほぼ同時期に地球上に誕生しました。しかしその後、人類を奴隷にして支配したい者が現れ、そのために「第六感」以上を切断された改造人間が、支配者層によって新たに創造されたのです。やがて「第六感」を持つ者と、持たない者との混血が進み、今のような能力差が生じるに至ったのです。

 

さて、二番めの理由は、今も少し触れたように、その人の「魂」の、成長度合いと役割に違いがあるためです。すべての「魂」は、ただ一者から生じ、地球人として地上に誕生した「魂」は、ここで「愛」についての実地学習体験を重ねながら、元の一者へと還る旅を続けます。その際に、輪廻転生を何度も繰り返す中で、先を歩む者、早く行く者と、遅れる者、遅い者との差がしだいに出て来るのです。

 

そして、三番めは、訓練です。いま言ったことを、自覚しながら生きるのと、知らないで生きるのとでは、「魂」の進み方が違って来るのです。今の自分にサイキックな能力は何もないと感じておられる方でも、訓練によって、切断された「第六感」を回復させることは可能です。ただし、これを「超能力開発」とは捉えないでください。実体は、「本来の自分に帰る」というただそれだけのことなのです。

 

*「超能力開発」は、決して誉められたものではありません。むしろ避けるべきもの、慎重に取り組むべきものです。その理由は、次に書くことから解っていただけるでしょう。

 

私たちの大半は、いま生きている、この物質世界が宇宙のすべてだと思い込んでいます。ところが、最新の研究成果によれば、物質的宇宙は、全宇宙のたった5パーセントに過ぎないという結論が導き出されているのです。あとの95パーセントは、どうやら物質ではないもので構成されているらしい、というところまで来ているのです。このことは、もっと詳しい数字で、前回にも触れました。

 

この「物質ではないもの」が何かについては、現代科学の学問上では未だ「謎」とされているのですが、「霊的な世界」と言って間違いはありません。その際に、注意しなければならないのは、この「霊的な世界」なるものは、決して「物質世界」と対峙するような形で存在しているわけではないということです。コインの裏表のような、「この世」に対する「あの世」ではないということですね。

 

実際には、宇宙全体が「霊的な世界」によって包含されているのです。それは無時間、無空間の、非局所的な世界です。その宇宙の中に、振動数の揺らぎが生じ、それによって塊りが生まれ、さらに振動数が下がることによって半霊半物質化して行き、ついには物質が現れるという、振動数によるヒエラルキーが構成されているのです。そういう全体構造の中で、物質化したものはたったの5パーセントに過ぎないということなのです。

 

ちょっと専門的になりますが、非局所的な、振動するエネルギーの海の中に、局所的な場が誕生するのです。私たちが「物」だと思って目にしているものは、局所的に出現した原子が、主張する縄張りのようなもので、物質の間はスカスカであり、その間にも実は「霊的な世界」が満ちているのです。これらの総量を計算すると、ざっと物質が5パーセント、半霊半物が25パーセント、霊的エネルギーが70パーセントになるということです。

 

さて、前回までの話を思い出してください。半霊半物界というのは、第4霊性密度(4次元)の領域(この振動数の帯域)です。そしてここは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する世界、別名「地獄」だということを申し上げたと思います。しかしこれは方便であり、実際には「地獄」というものはありません。これは、ロバート・モンローが言ったように、様々な「信念」体系を持ったグループが集まる帯域となっているのです。

 

サイキックな能力が出て来た(あるいは生まれつきある)と主張する人の大半は、この第4霊性密度(4次元)領域に波長を合わせることが出来るのです。それは、第3霊性密度(3次元)の領域にいる人間から見れば、通常の人にはない「超能力」のように見えます。そこで、「超能力」を有り難がる人と、「超能力」をウリにしたい人との需要と供給がガッチリ噛み合い、オカルティック・ワールドが、商売としてあちこちに成立するのです。

 

その中には、法外なお金を取って「霊視して上げるよ」と言ったり、「あなたには悪い霊が憑いているから」と言っては、「除霊して上げますから、ハイ、○万円」と言ったり、「この石を持てば幸福になれるよ」と説いたりする人もいるのです。また、「何月何日に大地震が来るぞ」「巨大隕石が衝突するぞ」などど言っては、大衆を震え上がらせる人もいます。

 

しかし、これも何度も言いましたが、高次元(第5、第6霊性密度)の存在が、そのような脅しをしたり、悪さをしたりすることは、絶対に絶対にありません。なぜ「絶対に」と言い切れるのか? 脅しや悪さをするようなレベルにある「魂」が、第5、第6霊性密度に上がることは、そもそも不可能だからです。霊界というところは、純然たる階層構造(その階層は、振動数=霊性の違いによる)から成り立っているのです。

 

あなた方に認識していただきたいのは、霊能の有無と、霊性の高さとは何の関係もないということです。ここを間違ってはいけません。駆けっこの早い人がみんな人間性が高いのかと言えば、決してそうじゃない。それと一緒です。霊能は、単なる一能力に過ぎないのです。けれども、アスリートとして抜群の能力を持ち、かつ人間性も高いという人が稀にいるように、霊能と霊性の高さが一致した人がごく稀にいるというだけの話です。

 

では、先の例に挙げたような霊能者は、いったい何とつながって、どんな情報を下ろしているのでしょうか。多くの霊能者は、第4霊性密度の存在とつながって、その言葉を下ろしています。第4霊性密度には、地上世界と同じように、ある「信念」を持った特定グループや宗教団体が数多くあって、こことコンタクトした霊能者が、それを「神」の言葉として称して、信者さんたちに下ろしているのです。

 

それは、その霊能者に、そういう自覚がないから出来ることです。本当に「神」の言葉だと思っているのです。驚くべきことに、自称「霊能者」の大半は、霊界の構造のことも、真理の法則についても、何も知識がありません。ましてや、人間の心理やそのケアについての技量も習熟しているわけではありません。ただただ、自分の感覚だけでやっているのです。けれども、一般の人も同様な無智の中にありますから、それでお互いが成り立っているのです。

 

こうした現象がちっとも是正されないのは、やはり、人々がまだ、「この世」に意識を留めたまま、「この世」の視点から、物資的世界を超えた不思議世界を垣間みようとする意識が抜けないためです。そうすると、このような人たちにとっては、第4も、第5も、第6霊性密度も、まったく区別がつかないわけですね。全部をひっくるめて不思議ワールドなわけです。

 

むしろ、高い次元の言葉ほど、当たり前に見えてつまらなく思え、素通りしてしまう。それよりも、4次元の話の方がずっとエキサイティングだし刺激的です。大地震とか、株価とか、UFOとか、古代ロマンとか、憑依とか、スプーン曲げとか、夢を叶えるとか、お肌スベスベとか。それで、残念ながら「光への道」を本当に歩もうとする人は、極めて少数になってしまうのです。

 

これで、なぜ「超能力開発」が誉められたものではないのか、もうお解りでしょう。オカルティックなものに興味を持った人は、すぐにその領域の虜にされてしまいます。それは、その帯域の波長(振動数)に、自分の波長を合わせてしまうということです。そのように誘導することで、支配を目論む輩がいるのですよ。彼らは、そうして集まる人々のエネルギーを吸い取って生活しているのです。

 

しかし、21世紀という時代、新しい神学が必要とされる時代に既に入ったのですから、これからは逆に見て欲しいということです。宇宙のすべては、先ず「霊的世界」というものが先にあり、そこに包含される形で、半霊半物界と、物質界がちょこっとだけある。その全体構造が俯瞰して見えれば、半霊半物界(オカルト世界)とつながって下ろされた言葉が、いかに中途半端なものであるかが、想像できるのではないでしょうか。

 

高次元の存在たちは、つねに、自分たちの手足となって働いてくれるメッセンジャーを求めています。そして、一人ひとりの成長を見守りながら、早くパイプ役になってくれないかなぁと期待しています。

 

そう、それはパイプ役。パイプに成り切るには、いかに「自分」を滅するかが問われるのです。エゴや、特定の信念や、オカルト的興味やらが残っていたのでは、先ずもってまったくお話になりません。それらを滅した上で、メッセンジャーにはさらに二つの資質が問われるのです。その人の「霊性進化」の度合いと、ツール(パイプ役)としての技量です。

 

「霊性進化」の度合いは、伝える内容のレベルを決定づけます。パイプ役になる者は、自分の振動数を上げて上に近づき、他方、高次元の存在たちは、振動数を下げてこちらと握手しようとして来ます。その握手地点を出来るだけ高いポイントで行うためには、パイプ役となる者が、つねに高い霊性を目指し、かつそれを保つように、自分を律して生きなければならないのです。

 

一方、技量というのは、例えば、言葉でメッセージを伝える役ならば、語彙の豊富さや、構成力、文章力、語り口などの影響が、メッセージに如実に反映されてしまうのです。ある「概念」が下りて来たときに、それを地上の言葉に置き換える方法は何百、何千通りとある。それをどうするかによって、個性が出てしまうわけですね。同様に、絵描きならば絵の技量、音楽家ならば音楽の技量、料理人ならば料理の技量に表現が左右されてしまうということです。

 

そこで常々、「完全なる奉仕の人となれ」と言っているわけです。しかし、いかに厳しく律したとしても、地上にある者は、所詮は「人間」であることを、メッセージを送る者も自覚し、メッセージを受け取る者も考慮することが大切です。いま述べたようなメカニズムから、どんなメッセージにも、必ず「歪み」が入るのです。ですから、どんなメッセージも、これを単純に絶対視したり、丸呑みしたりしてはいけません。

 

また、メッセンジャー本人を神格化してもいけません。イエスにしろ、ブッダにしろ、(決して貶めようというわけではないのですが)その時代のメッセンジャーの一人に過ぎないのです。同様に、言行録やリーディングによって書かれた聖書や聖典の類も、決して絶対視してはなりません。後世、人によってまとめられた書物というものは、「歪み」だらけなのです。なぜなら、それは「組織」の合意を経て表されたものなのですから。

 

あなた方には、先ず、本物と偽物を見分ける眼、霊的に高いものと低いものを嗅ぎ分ける鼻が必要です。どんなメッセージも、「これは、いま自分のために、自分に向けて届けられたものである」と読むことが大切です。実際にそうなのですから。すべてはグッド・タイミング。これを、あなたはまだ不思議現象だと捉えますか? いま言ったばかりでしょう。私たちのベースにあるものは、非局所的、無時間、無空間の世界なのだと。

 

それを、「この世」的に見ると、グッド・タイミングに見えるというだけの話です。この理屈が、解りますか? すべては、自分が創造しているのですよ。あなたの創造の瞬間に、いま必要な言葉が、オーダーメイドで用意されるのです。ああ、なんて素敵なのでしょう。だから、あなたは自分を信じて、より善き人となりなさい。瞬間、瞬間で受け取るギフトを、余すところなく受け取りなさい。

 

それが、あなたを成長させる。友よ、待っているよ。あなたの活躍を。

オクターブの法則

物質的なものから非物質的なものまで含めて、「宇宙」というものが階層構造からなるということは、いにしえの時代より繰り返し指摘されて来たことでした。ところが、この階層構造の分け方や名称というものに、まったく統一性がないのです。残念なことに、これが霊的な世界、とりわけ「真理の法則」への理解を阻む大きな要因となってしまっています。

 

例えば、このブログを読んでくださっている方なら、現界、幽界、霊界、神界といった名称を、多分どこかでお聞きになったことがあると思います。これは全体を4層に分けています。しかし、ひとによっては、神界を仏界と呼んだり、幽界を冥界と呼んだりもしています。また幽界と現界との間に幽現界を設ける人もあり、それですと5層ということになります。

 

仏教の方ですと、霊的世界を上品、中品、下品(品は “ぼん” と読む)の大きく3つに分け、さらにそれを上生、中生、下生に分ける分け方(これですと9層、現界を含めれば10層になる)や、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏陀という段階を設定した「十界論」が知られています。また親鸞は、霊界の上部を、化身土、真仏土、無上仏に分類しました。

 

『シャーロック・ホームズ』で有名なアーサー・コナン・ドイルは、霊界の研究家でもあったのですが、両端に地上界と天界を置き、その間を三品(さんぼん)と同じように大きく3×3の9層に分ける見方をとっています。神智学を顕したマダム・ブラヴァツキーは、全体を7層に分けていますが、最下層に物質界を置き、上の6層全部は霊的世界とし、各層に特殊な名称を付与しています。

 

また、神秘学やヨーガの方では、エーテル界、アストラル界、カラーナ界、プルシャ界といった名称を使うことが多く(英語とヒンディー語がごちゃまぜ)、ひとによっては、カラーナ界をコーザル界と言ったり、さらにはそれらを日本語訳した、原因、微細、粗大といった言葉もあって、とにかくもうバラバラ。何が何やらさっぱり解らないという混乱状態が今もって続いているのです。

 

さて、そうしますと、初めて三品説を聞かされた人は「ああ、そうなのか」と思うでしょうし、4層説を聞かされた人は「そういうものかなぁ」と思うでしょう。「十界論」を聞かされた人は「なるほど」と思うかも知れません。そして、ただ思うだけではなく、これこそが真実だと言って周囲に吹聴する人も現れるでしょう。

 

すると、宇宙が階層構造であるという考え方はみな共通しているのに、その理解を巡っては議論百出。下手をすると、争いが生じるということにも成りかねないのです。現に、宗教間ではそのような問題が生じています。そういうことがあるために、外から教えられた情報は何も「信じるな」と、私は言っているわけです。もちろん、ここで私が書いてることも「信じ」てはいけません。最後の最後は、あなたが自分に問うて欲しいのです。

 

けれども私は、この混乱状態をなんとかしたいと思いました。なぜならば、私自身が、初期においてこの混乱に巻き込まれ、大変な苦労をしたからです。およそ20年の回り道をしたと言ってもよいでしょう。前回も触れたように、アセンションというものがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのか、ということすらも解らなかったのです。

 

そこで、この無用の混乱を解いて、もっとシンプルで解りやすい、普遍的な構造体系を示せれば、後に続く人たちは、自分と同じような回り道はせずに、すーっと「宇宙の真理」「宇宙の法則」「光への道」へと入って行けるだろうと考えました。またそれが、私に示された役割なのだろうと、後に思うようになりました。

 

その後、(それが、いつ、どのようにしてだったかは忘れてしまったのですが)電撃的に、前回に書いた「霊性密度(Spiritual Density)」の概念と、構造とを理解するに至ったのです。その結果、7つのチャクラとの関係性や、宇宙と人体が相似形であることや、ヘルメスの言った「下なるものは上なるもののごとく」の意味も、まるで明かりがポッと灯ったように解ったのです。無明からの脱出です。

 

ヒントになったのは、ロバート・モンローの「Focus」という概念とその数え方でした。「Focus」というのは「焦点」という意味であり、モンローは、霊的世界の階層構造に番号を付けて、瞑想を行う際に、この番号に意識を絞る(焦点を当てる)という技法を用いて、各階層への旅を恣意的に実現する道を開いたのです。それは、まさに画期的と言ってよい偉業でした。

 

このモンローの「Focus」番号が、1〜49番まで付けらているのです。49という数字は、7×7です。階層を大きく7つに分けて、さらにそれを7分するという考え方は、すでに有ったのですが、ロバート・モンローはこれを科学的かつ論理的に示した最初の人でした。

 

このモンローが示した「Focus」概念と、その他で示されていた情報を付き合わせると、ほぼ合理的な一致が見出せることを私は突き止めました。以来、「虹の学校」では、この7つの階層をチャート化したものをベースに、宇宙の構造をお話ししています。そして、このチャートを見れば、アセンションがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのかということも、すんなり理解ができるのです。

 

*チャートは、それに関係したセミナーを行った際に、参加者にお渡ししています。

 

さて、以上が前置きです。この、宇宙が7×7の階層になっていること、そしてこの階層を決めているものは、ただ一つ「振動数(=密度)」の違いによるということを示したものが「オクターブの法則」です。オクターブ(octave)と聞いて、音楽用語にそれがあることを、みなさんすぐに思い浮かべられるでしょう。この語源は、ラテン語で8番めを意味する “octavus” です。ちなみに足が8本ある蛸は、英語で “Octopus” と言いますよね。

 

ハテ? 7階層なのに、なぜ8番めを意味する「オクターブ」なのか。とここで、疑問に思われた方もきっとおられるでしょう。そこで、解りやすくドレミファで示しますと、7番め(シ)の次の音階(つまり8番め)は、次のドの音となります。この時、1オクターブ上がったという言い方をします。その音の振動数は、元の1オクータブ下のドのちょうど2倍になるのです。これを「倍音」と言います。

 

つまり、振動数が1から2に至るまでの間を、7つに分けた階層が「オクターブ」なのです。ではこれを、いつ、誰が、どのようにして、何を理由に、7つに分けることを決めたのでしょうか? この「7音階」を定めた人が、誰あろう、みなさんよくご存知のピュタゴラスなのです。ピュタゴラスは、今日では数学者ということにされていますが、実際には「宇宙の真理」を届けるメッセンジャーでした。

 

ピュタゴラスは、振動数が1〜2倍に変化する間に、協和する振動数がないかを探ろうとしました。斉唱を男女混成で行いますと、普通は男女で1オクターブの音程差があります。場合によっては2オクターブ(3倍)、3オクターブ(4倍)の開きがあることもあります。でも、n倍音の差で斉唱を行っている場合には、まったく違和感がなく、協和しているように人は感じます。

 

そこでピュタゴラスは、1から2の間で、他に協和する音を探るために、3倍音に注目しました。これは倍音ですから無条件に協和します。しかしこのままでは2を超えていますので、3を2で割ったのです(3倍音を2倍音と考えてその半分にすればよいから)。こうして元の音に対して、1.5という数字が導き出されました。ドを1とすると、1.5の振動数に当たる音、それがソです。

 

次に、このソの振動数を元にして、再び3倍し、また2以下に収まるまで2で割るという繰り返し作業を行い、3×3=9、割ることの2×2×2=8、つまり9/8=1.125という数字が導き出されました。この音が、レに相当します。以下、同様にして、次々と音階を求め、この作業を12回行ったところで打ち止めにしたのです。

 

*ただしピュタゴラスのこの方法では、3のn乗/2のn乗=2に相当する数が、3も2もともに素数であるために存在しません。いちばん近い値は、3の11乗/2の18乗で、2.02729...と端数が出てきてしまうのです。そこで現在は、次に述べる¹²√‾2の周波数比をとった「平均律」が採用されています。これによって、響きは多少犠牲になるのですが、移調というものが可能になりました。

 

こうした結果、1オクターブ間に12の音階が並ぶことになりました。ピアノの鍵盤を見ますと、白鍵、黒鍵合わせて、1オクターブ間に12個の鍵盤があります。このうち白鍵の数は7個です。12個は周波数比で、¹²√‾2=1.0594...の間隔に配置されており、これが半音。半音2つの幅をとったものが全音となります。そして、全・全・全・半・全・全・半の間隔を選んでいった音が、ドレミファアソラシという白鍵の7音階なのです。

 

さて、12と7という数字が出てきましたね。これは別の回にも書きましたが、ともに神秘数であり、12は量的な総数を表し、7は段階的な総数を表しています。12は円形を分けるのに便利なのです。丸いケーキを思い浮かべてください。2にも、3にも、4にも、6にもすぐに分けられます。そこで、時計、1年、星座、方位など、円環を描くものが12分割されているのです。

 

一方の7という数字は、ドレミファだけでなく、一週間がそうですし、電子の軌道も7つです。また結晶構造の数も7つあることが知られています。このように7という数字は段階的なものを表している数なのです。では、「虹の七色」というのはどうなのでしょうか?

 

白色光をプリズムで分解しますと、波長別に屈折率の違いが出るために、いわゆる虹色が見えます。雨が上がった空に虹が見えるのは、空気中の水滴がプリズム効果をもたらすためです。

 

さて、「虹の七色」と言って、この言葉を何の疑問もなく使っているのですが、スペクトルをよく見ますと、虹色は実際にはグラデーション状に変化しており、決して七色の帯ではないことが判ります。つまり、「虹の七色」というのは、実際にはグラデーション状に連なっている色の変化を、人為的に7つに分けたものなのです。

 

さあ、これで冒頭に書いた、宇宙の階層構造には様々な異論がある、ということの理由がお解りでしょう。まったく同じ理由によります。実際には、振動数というものはグラデーション状に変化しているのですが、それをどう分けるか、切るかという見方の違いにより様々な説が生じているのです。当の「虹の七色」も、日本以外では6色に数えるところも多いんですよ。

 

さらに言いますと、このグラデーション状の振動数変化というのは、冪乗(べきじょう)で変化しているのです。これを示してくれたのが、大橋正雄さんとイームズです。この振動数の連続的変化を図示すると、対数螺旋(ベルヌーイカーブ)となり、結局、渦巻き状に無限縮小、無限拡大しているという構造になります。また、対数螺旋を部分で切り取ると、いわゆる黄金比(1:1.618)が現れます。それで神殿建築(神が宿る場所)には黄金比が多用されているのです。

 

では、なぜ7つに分けるのか、ということです。これも人為的に7つに切ったわけですが(7つに刀で分けたのが「切」という文字)、7つに分けると、7段階をそれぞれ象徴している意味が、非常に明快に解釈出来るためです。また、人体上のチャクラの数が7つであり(12説もある)その関連性も極めて明快に説明できるのです。もちろん7が神秘数であるということもあります。

 

さて、宇宙というものは、ただ一つの「振動するエネルギー体」が素となり、これが振動数を下げていくことで塊りをつくり、魂(Soul)となり、また他方では物質化という現象が起こっているということを前回に述べました。別の言い方をすれば、物質的なものも、非物質的なものも、宇宙のすべては「振動するエネルギー体」が変化したものだということです。

 

その時、7つの階層に対して下(振動数の低いもの)から番号を付けていくと、第1、第2、第3霊性密度が物質界、第5、第6、第7霊性密度が非物質界(霊界)となるのです。そして中間にある第4霊性密度は、文字どおり中間の、半霊半物質界ということになります。ですから、「アセンション」というものが3から5にジャンプするというのは、この領域を超えてしまうということを意味します。

 

ところで、最新の宇宙物理学では、今まで、それが宇宙のすべてであると思っていた「物質」(星々に代表されるもの)が、実際には、全宇宙のたった4.9%に過ぎないということが計算上から弾き出されています。そして、26.8%がダークマター(dark matter:暗黒物質)、68.3%がダークエネルギー(dark energy:暗黒エネルギー)であると、(今のところ)結論づけられているのです。

 

このダーク(暗黒)というのは、「悪いやつ」という意味ではなく、光学的に観測できない(遠くの星を観察するには、光を見ることになるのですが、その光が見えない)ために、その名がつけられています。それが何であるかは判らないけれども、宇宙には、見えな物質らしきものが26.8%あり、見えないし物質でもないエネルギーが、さらに68.3%あるというのです。

 

これも、これまで現象面をずっと追いかけて来た現代科学が、因の世界にグッと近づいた一つの例です。神秘学では、物質的世界など、全宇宙からすればほんの僅かなものであるということは、ずっと言い続けてきたことです。ダークマターが第4霊性密度の世界、ダークエネルギーが第5、第6、第7霊性密度の非物質界(霊界)のことだと考えてみてください。すんなり理解が出来るのではないでしょうか。

 

ではここで、第1から第7までの霊性密度にドレミファソラシを当てはめてみましょう。そうすると、第3から第4に移行する時に半音階、第7からその上の第8に移行する時に、また半音階が来ていることがお解りでしょう。ゲオルギイ・グルジエフは、これを「ショック」と呼びました。ミ→ファと、シ→ドへの移行部分に半音階の「ショック」があるのです。

 

*ゲオルギイ・グルジエフ:エニアグラムを世に紹介したことで有名。

 

さて、どんな「ショック」なのでしょうか? ミ→ファのショックは、物質界から非物質界へと突入するというショックです。シ→ドは、この宇宙の最高のもの、つまり創造神から、それよりも高い「何か」へとジャンプするというショックです。さて、創造神よりも高い次元のもの(第8霊性密度)とはいったい何なのでしょうか?

 

言うなれば、それが絶対神です。宇宙の創造神と、絶対神とは違う。宇宙の創造主は、現にこうして被創造物である宇宙がある以上、その創造者も、論理的に考えれば有る(在る)はずです。しかし有る(在る)ものは変化しますから、それは「絶対」とは呼べません。では「絶対」と呼べるものが、果たして宇宙にはあるのでしょうか? もしあるとすれば、それは「無」だけです。「無」は変化しませんから。そのような結論に至ります。

 

しかし、この論理は矛盾を孕んでいます。「無」が「有る」と言ってしまうと、それは「無」ではなくて「有」になってしまいます。ですから、「無」はどこまでいっても「無」です。「無」が何かと言われても答えようがない。「無」は「無」としか言いようがありません。しかし、「無」以外に変化しないもの、つまり「絶対」はないのです。

 

すると、私たちとしては、こう考えるしかありません。この「宇宙」の創造主すらも超えた、「絶対」なる何かがきっとおわすのだろう。しかしそれは「無」なのだから、あるとは言えない。結局、私たちがどう考えようが、その問題には結論が出ない。だから「無」だ。つまり考えても「無駄」(シャレです)。となってしまうのです。どうも、お後がよろしいようで。

 

今日のところはそこまでにしましょう。この第8霊性密度については、別の考えもあります。それはまた機会があればお話することにいたしましょう。

生まれ変わりとカルマの法則を知れば、人を倫理・道徳で縛る必要はなくなる

NHK放送文化研究所が参加している国際調査機関、International Social Survey Programme(45カ国が加盟)が、2008年に「宗教意識(10年毎に行っており、2008年は3回目)」に関する調査を行いました。この中で「生まれ変わりはあると思うか?」という問いに対して、日本人は42%が「ある」と回答しています。「ない」と答えた人は33%、残り25%は「わからない」です。

 

ちなみに、アメリカでは31%が「ある」と回答。教義上は否定しているキリスト教圏の国でも「生まれ変わり」を認める人が増えているのです。ただしこの内実は、日米でかなり違うと思います。日本人がそう思うのは、長年培われて来た自然観から。アメリカ人が認め出したのは、ニューエイジ思想などの広がりによって、キリスト教教義の不自然さを自覚する人が多くなっているのだと思います。

 

「生まれ変わりはあるか・ないか」という問いは、「死後世界はあるか・ないか」に次いでポピュラーな問いでしょう。死後世界の存在を認めない人が、生まれ変わりを認めるわけがありませんから。でも、死後世界の存在は認めても、生まれ変わりは認めないという人はいます。三つの一神教はいずれもそうであり、仏教でも「釈迦は生まれ変わりを説かなかった」と、それを強調して言う人もいます。

 

この問い掛けを巡っては、過去半世紀くらいの間に、急激に(それはメディアの発達のおかげが大きい)、多くの情報が蓄積されて来ました。70年代までは、まだ霊媒がもたらした心霊主義的な情報が大部分だったのですが、イアン・スティーヴンソンが1987年に『前世を記憶する子供たち』を出版すると、こうした学術的、実証的なアプローチ方法が採られるようになりました。

 

その後、「臨死体験」をした人たちの証言が集められるようになり(それまでは、体験をしても口をつぐんでいる人が多かった)、臨死体験者がほぼ共通した体験を語ることがしだいに明らかにされて行きました。また同時期に、「退行催眠」という手法を用いて、被験者から、中間世にいた時の「あの世」の状況や、前世の記憶を聴きだすという調査も数多く行われるようになりました。

 

*しかしいずれの方法にも一短があります。前世を記憶する子どもたちの例は、前世で突然死を遂げた特殊例が多く、そのために次の生まれ変わりまでに要する期間が極端に短い。また7歳を過ぎると記憶が消えてしまうという問題点があります。「臨死体験」は死に切れずに戻って来た人の体験談であり、死んでしまった後のことが分からない。「退行催眠」は本人の想像が混じることを避けられません。

 

このようなことが総合されて、「生まれ変わり」に関しての考え方、捉え方は、以前とは大きな様変わりを見せています。しかし、そのような状況になっても、一般の人々の間に届いている情報は、いずれも断片的なものに過ぎず、総合的な知識を持たないというのが実情です。これは宗教者でも同様であり、それだからこそ、宗教者が語る古臭いドグマが、真実味を持たなくなって来ているように感じます。

 

「虹の学校」としては、「生まれ変わり」の証拠を探し求めることにはもはや関心がなく、あまり意味がないと考えています。「認めない」という人は、どんな証拠(に見えるもの)を提示したとこで、認めませんからね。先ず「否定」ありきから論理を構築していきますから。

 

それに、いくら探査したところで、客観性と観察を重んじる今の「科学」的常識においては、所詮は不確かな証拠しか得られません。たった一例を探査するにしても、ある一つの「魂」の、前世から中間世を経て今世に至るまでの経緯を、他の観察者が横にいて観察・記録し続けてみなければ、本当の意味での証拠とは認められないでしょうから。ですが、そんなことは不可能です。

 

それよりも「生まれ変わり」を認めた上で、そのようなメカニズムがなぜ存在するのかという理由や、またメカニズムが働く原因とプロセスを知ること、つまり「因の科学」にダイレクトに迫った方がずっと意義があります。なぜなら、「生まれ変わり」を前提とした上で、人生をどう生きるかを考えた際には、生き方がまるで違って来ますから。

 

それは信じるとか、信じないというレベルの問題では、もはやないのです。新しい神学や、因の科学(現象から法則性を導く今の科学ではなく、もっと裏にある真の原因を探る科学)の領域に、足を踏み入れるかどうかという、人類にとっての転換点の問題なのです。そしてこれは、実は新しくも何ともない。古代から変わらぬ「真理」の叡智を、ようやく出せる環境と時期が整ったから出すというだけの話です。

 

それに否定派も、どうせご自分が死ぬ時には、死んでも死なないということを知るのですから。その日のために、今から言っておきます。死んだ後は、自分が思っていた世界に行き着くということ。それは、そういう世界が在るというのではなく、自分が創造に加担するということです。ですから、死後は「無」だと思っていた人は、ご希望通りに「無」の世界に入って生き続けるのですぞ。

 

想像できますか? 真っ暗闇の「無」の世界で、なんの手応えもなく、永遠に生き続けることになる自分を。

 

さて、「生まれ変わり」というのは、一面から見れば、大層しんどいシステムのように思えます。ですが、冷静になって考えて見れば、また霊性になって見れば、「魂」の救済システムであることが容易に解ると思います。何しろ、やり直しが効くわけですから。人生を振り返って、「ああ、あれとこれはどうも間違えちゃったかな」というところを、再び、時には逆の立場を通じて再挑戦できるのですから。

 

この時に「カルマの法則」というものが働く。それは、前世で未消化に終わってしまったものを、つまりは落第・留年になってしまった課題を、もう一度学び直せるというチャンスの再提供であり、自分が自分に贈ったギフトなのです。ところが、そうやって「生まれ変わり」を果たしても、7歳を過ぎると、人はそんな決意を忘れてしまい、またもやエゴをむき出しにした人生を送るようになってしまうのです。

 

このようにして、大半の人が、一つの人生をあまり進化することなく終えてしまう。そして、また同じところをグルグル回る輪廻転生を繰り返しているわけです。それもこれも、「生まれ変わり」と「カルマの法則」について、人々が無智だからです。ただ無智なだけではありません。間違った知識を、宗教者やオカルト信者や哲学者や科学者からてんでバラバラに吹き込まれているからです。

 

しかし、「生まれ変わり」と「カルマの法則」のことを、みなが当たり前のように知るようになれば、そしてそれが体に染み通れば、世界は一変します。いま生きていることの意義や、生き方が全く変わってしまいますから。

 

先ず人生の目標が、様々な体験を通じて、普遍的な「愛」を身に付けることだと知ります。そうすれば、人生上で起こる様々な困難も、自分への何らかの「気づき」がそこには隠されているのだということが解り、不平・不満がなくなります。また「カルマの法則」が念頭にあれば、エゴを剥き出しにしたり、陰で悪事を働くといったこともなくなるでしょう。そうして、一生涯が学習なんだということも解る。

 

そうすれば、職業やお金や地位なんてものは、単なる舞台装置や道具に過ぎないということも解り、いま置かれた状況の中で、無条件の愛の人になることを目指し、今この瞬間を、クリエイティブに、楽しく生きれば、それでよいということも解るでしょう。このようにして、あなたの「魂」が、明るく艶やかなものに磨かれていくこと。それが、霊的進化なのです。

 

人生の目的はこれしかありません。こうして、一段進化した「魂」が、肉体の死後も生き続け、あの世へ行って癒された後、次の学年へ進級するのです。このようなメカニズムを理解した上で、一生涯学習を続けようと決意した「魂」は、自己制御のもとにそれを行うようになります。ですから、「倫理・道徳」によって、外側から考え方や行動を縛る必要など、一切無くなってしまうのです。

 

逆に言えば、「倫理・道徳」教育の必要性が叫ばれるのは、外側から行動を抑えつけなければ人間は正常にコントロールできない、放っておいたら人は何を仕出かすか分からない、と思っている人がいるからであり、また、無智であるがために自己制御が出来ない段階に、未だ人類があるということを指し示しています。

 

けれども、以前にも言いましたが、「倫理・道徳」や「正義」は、結局は為政者の支配の道具としていいように使われてしまうのです。しかし世の人々は「倫理・道徳」も「正義」も、ともにアプリオリに良い事と信じて疑いません。実際には、「倫理・道徳」を語る者ほど裏では倫理・道徳観に乏しく、「正義」を語る者ほど悪を為している例が多いのですが。

 

ともあれ、そのようなことで、「生まれ変わり」と「カルマの法則」を、みなが当たり前のように知れば、地球は一変してしまうのです。そして、それこそが、求められる「地球のアセンション」に他ならないのです。

 

果たして、その日が、いつになることか。

個人のカルマと人類のカルマ

カルマというのは、宇宙を支配する法であり、最も基本的な法則の一つです。法則ですから、宇宙のすべてのものがこの法の支配下にあり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。では「カルマの法則」とは何か? 一言で言えば、それは「自分が為したことは自分に返る」ということです。よく言われるところの、善行善果、悪行悪果です。

 

善い行いをすれば善い結果が返って来るし、悪い行いをすれば悪い結果が返って来るということ。けれども、今ここに書いた「善・悪」という言葉には注意が必要です。地上で「善・悪」と言っているものと、宇宙でのそれとでは、重なっている部分もあるけれども、実はかなり違うということです。

 

地上では、対立する二つの概念があるとき、片方が「善」を主張すれば、もう片方は自動的に「悪」ということにされてしまいます。実際、そのような「決め付け」がまかり通っているのが地上世界です。ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い出してみてください。でもこの「善・悪」の決め付けは、反対側の立場に立つ者にも同様に言えてしまいます。

 

ですから、地上では、「善・悪」をめぐって、国家間の対立や、宗教間の争いが絶えないのです。そして互いに「正義」を主張しては、殺し合いをしているというのが戦争です。テレビも映画も、「正義」を掲げる〈人殺し〉をヒーローにしている作品のいかに多いことか。皮肉なことに、我は「善」なりと主張する者ほど、「悪」を為すというのが、地上での論理になってしまっています。

 

しかし、宇宙で「善・悪」と言った場合には、このような相対的なものではなく、そこにはたった一つの基準しかありません。それは、友愛、許容、統合、という oneness の方向へ向かっているか、支配、排斥、分離、という anti-oneness に向かっているか、だけです。本当は、「善・悪」という言葉すら無く、進化しているかどうかだけなのですが、便宜上そう言っているまでです。

 

*「進化しているかどうか」という基準が民衆には解りにくいために、便宜上、宗教が「善・悪」という地上の言葉を使って語って来たことが、逆に人間に大きな混乱をもたらしました。

 

いま言ったことは非常に重要で、人間が今後、正しい神学に脱皮できるかどうかの一つの試金石となっています。善行善果、悪行悪果、という法則については間違いはありません。けれども宗教は、このうちの「善・悪」概念を、自分たち教団に都合のよい論理にすり替えて、戒律にしては信者に従わせて来ました。ですが、宇宙基準からすれば、「正義の戦争」などあり得ないことが容易に解るのではないでしょうか。

 

さて、カルマというものが、どのようなメカニズムで生じ、地上にある人間にとって、それがどのような意味を持っているかについては、これまでにも何度かお話しして来ました。が、ここで別の視点も加えて、おさらいをしておきましょう。

 

宇宙の本質というのは、物質世界を超えた、目に見えない世界(霊界)にあります。そこは振動する微細なエネルギー体によって形成された世界で、いわゆる「波動の法則」というものが厳然と作用しています。このことから、振動数の違いによって、霊界には階層が生じています(同レベルの振動が引き合うため)。一方、振動数の高低というのは、霊性の高低を表しており、「魂」がこの階層を上に登って行くことを、霊性の進化・向上と言っているのです。

 

階層の上下を決めているのは、先に書いた、統合と分離という、相反する意識の割合によります。あなたという存在は、まず「個別化した霊(Spirit)」から生じました。臼の中にある大きなお餅から、お団子を一つひねり出すようにして生じたのです。この時点ではまだ振動数は高いままですが、その後振動数を下げて行き、より個性化を強めた「魂(Soul)」となって行ったのです。

 

そして「魂」が、さらに低い波動を出し、その波動を鋳型として、一つの受精卵(その精子と卵子の組み合わせも自分で選び)から作り上げて行ったものが、今あなたが纏っている「肉体(Body)」なのです。このようにして、あなたという存在は、大きく霊・魂・体の三重構造を持ったうえで、いま地上にあるのです。これが、人間が「多次元的存在」だと言われるゆえんです。

 

あなたの「心」、その本体は「魂」です。「脳」は単なるハードウェア(肉体の機能的一部)に過ぎません。「魂」がソフトウェアであり、「脳」という機能を使って「心」というアウトプットを生じさせているのです。しかし、地上の科学は頑としてこれを認めません。そのため、いくら心理学や大脳生理学や精神医学を駆使しても、「心」をつかめず、よって「心の病」も治せないのです。

 

さて、霊・魂・体の三重構造となって地上に降り立った人間は、それぞれ、そこで個別の体験をします。体験とは、視点を変えれば、その人の「行為」です。この「行為」には、必ず思考と感情が付随します。行ったことそのものの記憶は、その人の死後は地上に留め置かれてしまうのですが、体験を通じて獲得した思考パターンや感情のクセは、死後も「魂」と共に運ばれることになるのです。

 

これが、その人固有のカルマを形成する元になるのです。そして、分離から合一へという霊的進化を、その「魂」がちゃんと果たしていけるように、言い換えれば、無条件の愛の人にいつかはなれるように、前世で体験した行為の内容が点検され、間違ったところは修正を促され、もう一度学び直せるよう次の人生をマスターらと相談して基本設計し、その上でまた地上に降り立つのです。

 

一方、地上に残された記憶は、同種のものが集合すれば、それなりの力を有するようになります。これが、土地のカルマ、家系のカルマ、民族のカルマ、そしてもっと大きく地球のカルマ、人類のカルマまでをも形成して行くのです。すると人は、個人的なカルマの他にも、外的なカルマを何重にも背追い込んでいるということになります。

 

その際に、重大なことは、より広範囲のカルマの方が優先されるということです。例えば、私はいま日本という国に所属して、日本列島に住んでいるわけですが、それは日本国および日本列島が有するカルマの上に乗っかっているということであり、ここから逃れる術はないということです。同様に、人類全体が創って来たカルマ、地球のカルマからも逃れる術はないということを意味します。

 

そして今、地球および人類は、これまでに積み重ねたカルマの一大清算の時期に突入しています。これは皆さんも、日ごろ重々お感じになっておられることでしょう。そのために、異常気象は苛烈さを極め、強欲が際限なく拡大し、暴力が世界中に蔓延し、政治は信じがたいほどの幼稚さを露呈し、個々人の健康や幸せが脅かされるという、ますます醜い世の中へとどんどん向かっています。

 

いま「醜い」と書いたのですが、人類全体としてそちらへ向かっているということは、この現状を「醜い」とは思わない人たちが多いということです。そしてまさに、それがカルマの発現です。為したことは返ってくる、いま返って来ているということです。しかしこれは、何度も言いましたが、強い光が当たっているからこそ、隠れていたものが炙り出されて来ているということです。

 

よく言われることですが、これは産みの前の苦しみ。地球は、来るべき世界の、陣痛の時代に入っているのです。ここをしっかり抑えることが大切です。そのことをよく理解した上で、現在の世の中の動き、世界の動きを俯瞰的に見てください。

 

さて個人は、自分を包む、より広範囲なもののカルマからは逃れる術はないと書きました。だとしたら、個人のカルマに向き合い、これを乗り越えるという努力、霊性向上への取り組みは、やってもムダなことになってしまうのでしょうか? いいえ、そうではありません。全体は全体、個人は個人です。それに、今あなたが現に地上にあるということは、個人的なカルマ清算の機会を与えられているという何よりの証拠です。

 

ただ、一昔前とは、その意義が違って来ているということです。より、重要度を増して来ている。人類全体のカルマ清算の機会が増大したことによって、あなた個人のカルマ清算というテーマが、もはや単独の、全体とは無関係のものとしてはあり得ず、リンクの重要度をいや増ししているということです。そして、ここからが重要なところであり、あなたに是非ともお願いしたいことなのです。

 

今まで、人類が積み重ねて来た負のカルマには、環境破壊や、戦争や、奴隷制度を初めとして様々なものがありますが、その出発点にあるものを問えば、結局のところ次の三つに集約されます。一つは富への執着、二つめは他者支配への欲望、そして三つめが生命の成り立ちへの誤解です。この三つが組み合わさって、様々な現象面での問題を引き起こして来ました。

 

言い換えれば、人類がそれらのカルマを背負っているということは、いま挙げた三つのことへの気づきが、何千年何万年の時を経ても、人間たちにちっともないということなのです。進化していないということなのです。だからこそ、あなた個人のカルマ清算というテーマが大きな意義を持ってくるのです。

 

つまり、あなたが先ずこれらの清算を果たせば、他の人々のお手本になれるということです。そんなことに、一体どれほどのパワーがあるのかと思われるかも知れません。個人に比して、人類全体というのはあまりにも巨大に思えますから。けれども、見えないエネルギー世界では、「波動の法則」というものが厳然たるセオリーとして働いているのです。

 

あなた方の中には、「正義の殺人者」を賞賛する文化があるのと同様に、武力が平和を実現すると硬く信じている人たちが、未だに大勢います。核兵器禁止条約に賛成することは、核なき世界につながらないとまで主張する人がいる。けれども、未だかって、武力を以って恒久平和が実現されたためしなど一度もありません。それは、カルマの法則のことを考えればお解りでしょう。

 

一見、夢物語のようで、悠長な道に見えることが、結局はいちばんの早道なのです。健全で、素直で、明るくて、愛に満ち溢れた波動をあなたが出せるようになれば、周囲の人々はその影響を受けます。そして、そういう人たちがあちこちに増えれば、百匹目の猿現象で、ある時期からは雪崩を打ったように、人類全体が変わって行くことになるのです。その灯台に、あなたになっていただきたい。

 

よいですか、これは予め設定された宇宙の計画なのですよ。だから友よ。あなたにも是非ともその一員になって欲しいのです。先ずあなたが、無条件の愛の人にお成りなさい。完全なる奉仕の人と成りなさい。そして周囲の人々に、その愛を分けてあげるのです。さあ、歩め。友よ。栄光の道に向かって。