by Rainbow School
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賞味期限切れのご報告

4年ほど前からものが見えづらいなと感じていたのですが、昨年暮れからさらに急激に悪化し、日常生活にも支障をきたすようになって来ました。左目は白いモヤが掛かっていてもう文字の判読はまったくできません。右目はそれよりもややマシで、20センチくらいにまで目を近づければ、大きな文字ならなんとか読めます。クルマを運転しても道路標識の文字が見えず、先日は高速を間違った方向に行ってしまいました。日没後の運転はもう無理です。

 

父方の祖父は両眼とも失明していました。父も目が見えないとこぼしていましたが、今の私の年齢よりも若くに死んでしまったので、果たしてどうだったのか? もしかすると家系的な要因があるのかもしれません。ということで、この者の「賞味期限」が迫って来ました。検査して貰ったところ、問題は白内障だけで、眼底検査は大丈夫のようです。白内障も今は手術があるので、サイボーグ化すれば、この者の「賞味期限」を引き延ばせるかもしれません。

 

お役目をいただいた以上は、これからも出来うる限りその使命を果たすべく努力したいと思っているのですが、ひょっとすると突然休止というようなことになるやも知れず、事前にお知らせしておこうと思いました。ところがですね、手術日がちっとも決まらないのです。病院は「コロナの影響で」と言っていましたが、順番待ちの人が列を作っているようです。今のところ、6月下旬から7月くらいになるだろうと言われているのですが、はてどうなるやら。

 

目が悪くなってからは、本やマニュアルが読めませんし、機器類の操作も出来なくなりました。そのため、活動の多くがストップしてしまいました。『虹の学校』もちょうど10年を経て、考えていたことの5分の1くらいは出来たかなぁという程度です。残念だったのは、全国各地に志を同じくする人たちが集まる小さなコミュニティを立ち上げたいと思っていたこと。それが出来なかった。コロナ前にもしも出来ていれば、役に立ったのに、と悔やまれます。

 

『虹の学校』に目を向けてくださる人は非常に少ないですが、それでも今まで一緒に学習をして来た同志たちとの繋がりは保持したかったので、この『気づきの啓示板』ブログだけは続けました。このブログのフォントサイズは小さいですが、でも10年前には自分にもこれが読めたのです。しかし今はまったく判読不可能。ですから、ワープロソフトを拡大して映して、そこに書いた原稿を後から流し込んでいるんです。

 

でも、もうそれも限界かな?と。ということで、休止となった場合はどうかご勘弁ください。しかしその場合でも、オペが成功すればまた戻って参ります。そして視力の回復が思った以上にあれば、頓挫していた計画も再始動するつもりです。目以外の身体は、まだ使えます。

 

さて、この『気づきの啓示板』ブログは YouTuber 全盛となった今日においては、形式的にいささか古いと言えるでしょう。しかし、文字で綴ってあるということに大きな意味があるのです。それは、読者を自分自身で考えさせる方向に導く、ということです。動画は手っ取り早いですし、解りやすいという利点があります。しかし、フロー情報として、その場でただ消費されて終わってしまうという欠点があります。

 

けれども文字は、読み手が相当気合いを入れないと、その世界観に入ることは出来ません。特に、最近の『気づきの啓示板』ブログは、私の目が悪化するのとまるで反比例するかのように、文章量がまた格段に増えました。これは、私の情報を引き出し続ける能力が向上したためです。感覚的な変化もあり、どうやらまたステージが変わったようです。

 

上は、際限なく情報の引き出しを持っていますので、テーマを絞っていても、関連情報がいくらでも出てくるのです。しかしそれを言葉に置き換えるためには、大変なエネルギーと集中と持続力が必要で、以前の私は途中でヘトヘトになって力尽きていました。けれども、最近は苦しさも半減し、長い文章をタイピングできるようになったのです。

 

しかしその結果、読者をますます限定するようになったと思います。文字を読むだけでもシンドイでしょうに、『気づきの啓示板』は、読者を自分自身で考えさせる方向に導くのですからネ。そんなものにアクセスしてくださる方は、よっぽどの変人しかいませんよ!な〜んて、あら、こりゃ失礼。でも、それでいいのです。届く人にだけ届けばいい。私が見据えているのは今ではありません。25年後です。25年後に花が咲く、その種まきを自分が今しているつもりです。

 

この活動も、よく「スピリチュアル」という言葉で括られてしまうのですが、私自身は「スピリチュアル」なことをしているつもりはありません。「スピリチュアル」業界は嫌いですし、そうしたものを見に行くこともありません。人間が「霊的存在」であるということは当たり前のことであって、こっち側からあっち側を覗いているわけではなく、あっち側から見て(つまり、あっちがこっちに逆転して)「霊主体従」の生き方を語っているのです。

 

たまに、「ブログを読んで感動した」と仰ってくださる方がおられます。それを聞いて、私もとても嬉しいのですが、その「感動」は誰がもたらしたものだと思いますか?

 

これは、とても重要なポイントです。

それは、あなた自身がもたらしたものなんですよ。

 

あなた方は〈文章を読んで感動した〉と思っています。しかし、同じ文章を読んでも、途中で眠くなってしまう人や、「けっ」と思う人だっているのです。そもそも文章など、突き詰めれば、文字のゲシュタルトに過ぎないのです。点や線が集まって一文字のゲシュタルトを構成し、文字が並べられて単語のゲシュタルトができ、単語が組み合わされて文章のゲシュタルトができ上がっているというだけです。

 

もちろんそこには「意味」が付与されているわけですが、読み手にそれが狙い通りに伝わるとは限りません。むしろそうでないことのほうが多いでしょう。その中で「感動した」というのは、その人が、自分自身の中に「感動」を見い出したということなのです。そのとき目にした文章はただのきっかけに過ぎず、「感動」の源泉は、最初からその人の内にあったのです。

 

では「源泉」とは何でしょう?

 

それは、あなたの中に宿る神性。我が内なる「神」に触れた瞬間が、あなたに「感動」をもたらすのです。ですから、そのことに自信を持っていただきたい。あなたの内に常に「わたし」がおり、大いなる「わたし」の懐の中にどのあなたもいるのです。解りますか? そしてこの関係は、永遠不滅です。ああ、「恐怖」や「不安」や「怒り」をもたらそうとするものとは、なんという違いでしょうか。

 

ですから、日常の中にもっともっと「感動」を見い出してください。そして、内なる「神」に触れてください。そうすれば、きっと「人生は美しい」と感じられるようになるでしょう。

 

さて、「コロナ禍」と「ウクライナ戦争」のことですが、前回までで、お伝えしたいことはほぼ伝え終わりました。これまで、各種予言で言われて来た「世界の破局」が、まさかこのような形で訪れるとは、私もまったく予想だにしませんでした。「破局」は今も進行中であり、世の大多数の人からすれば、「混沌」の中に投げ込まれたような、訳の分からなさがずっと続いている状態かと思うのです。

 

これから世に現れてくる事象は、今後も様々な様相を呈していくでしょうが、しかし霊的世界から見た決着は既についています。終わってみれば(事象はまだまだ進行中ですけれど)、正直言って「こんなものなのか」と、いささか拍子抜けしたような感じです。「イルミナティ」とか「ルシファー」とか「666」と言ったところで、なんだこんな程度だったのかと。支配欲と金銭欲と肉欲と嘘つきの我利我利亡者たちでしかなかった。

 

ディープ・ステートと言うくらいですから、もっとディープなものがあると思っていたのですが、それはこっちの勝手な思い込みだったのです。逆に言えば、「ディープなものがある」と人々に錯覚させる手法に、彼らが長けていただけだったのです。

 

考えてみれば、「獣の論理」にひたすら寄って行っているわけですから(ということは波動を極限まで下げるので)、ディープなものがそこに出現するはずがなかったのです。

 

そのことが解って、本当に拍子抜けしました。膝カックンという感じです。保守だリベラルだと自分の立ち位置にこだわる人や、レッテル貼りに忙しい人や、なんでも分類しなければ気の済まない人たちは、ディープ・ステートの歴史を遡って紐解いてみたり、世の中の事象をそれと関連づけて分析したりしていますが、ここまで来た以上は、いつまでもそんなことにこだわっていても仕方がないと思います。

 

問題は「なぜか?」ということです。その時に、支配欲と金銭欲と肉欲と嘘つきの我利我利亡者となった闇の支配者と、そこに媚を売るエリート層の権力者と、彼らに騙される無知な大衆という図式は、たとえ歴史がどんなに変わっても、いつも同じパターンを繰り返しているということです。そして、さらに「なぜか?」と問えば、全「魂」が「幸せ」になりたいからなのです。

 

ただ、その「幸せ」の定義が人によって違っている。

より「肉」に近寄るのか、より「神」に近づこうとするのか。

 

そして、この相克の歴史にも、いよいよ終止符が打たれたのです。

熟れすぎた果実は、いつか必ず地に落ちる。

もやは、より「神」に近づこうとする道しか残されていない。

 

AMERICAN UTOPIA最後に、最近、私が「感動」した音楽ライブ映画をご紹介しましょう。デビッド・バーン(David Byrne)主演の『アメリカン・ユートピア』です。

 

この作品は、2019年の秋にブロードウェイで行われた同ライブを、『ブラック・クランズマン』の監督であるスパイク・リーが107分の映画にまとめたものです。このライブについては評判を聞いていたので、ぜひ観たいと思っていたところ、Amazon prime video で無料公開されていたことを知りました。

 

さっそく観てみたところが、噂に違わぬ素晴らしいステージで、続けて2回観ました。思い返せば自分がまだ20代のころ、トーキング・ヘッズというバンドを組んでいた若きデビッド・バーンの『ストップ・メイキング・センス』(1984年)を観て、やはり心を躍らせたのですが、それからもう36年が経ったのですね。デビッド・バーンは、1952年生まれということですから、『AMERICAN UTOPIA』のツアーを行った時には67歳だったことになります。

 

歌唱力抜群というわけではありませんが、高音域もしっかりと出ていますし、多彩な表現力を発揮しています。デビッド・バーンの魅力はインテリジェンスと清々しい空気感でしょうか。両目が澄んでいます。そして何よりも驚かされるのが、20代の時と変わらぬ身体力。21曲を歌って踊って、合間にお喋りまでして、息が切れるということがありません。頭髪は真っ白ですが、知性の中に円熟味も加わって、若いころよりもずっとカッコいいです。

 

ステージは、先ず人間の脳の解析から始まります。脳は多彩な機能を持ってはいるが、その認識は完全ではない。我々は何かを理解したつもりになっているけれども、果たしてそうなのだろうかという問いが投げかけられます。タイトルロゴの「UTOPIA」の文字が逆さまになっていますが、これは今のアメリカがユートピアとはほど遠いという現状を半分皮肉ったものでしょう。その原因を、一気に脳の不完全さに求めるのです。

 

この視点は、岡本せつ子さんの『アセンション 宇宙からのメッセージ』で書かれていたことと一緒ですね。人間の脳は、改造によってテレパシー能力を切断されてしまったのだと。言い換えれば、それ以来、神とのコネクションを失ってしまったということです。

 

しかし、デビッド・バーンは、それでも希望を失うなと言います。理想を持ち続けよう、一緒にユートピアを築こうと言うのです。僕らには、人間どうしのコネクションというものがあるじゃないかと。アンコール曲の『ROAD TO NOWHERE』のシーンは感動ものです。この曲のサビ部分は、HONDA CITY(86年)のコマソンとして使われていたので、あ、あれか、と思われる方も多分いらっしゃるでしょう。

 

どこへ行くのかは分かってても 

どこから来たのか 誰も知らない 

何を知ってるかは分かってても 

何を見てきたのか 誰も言えない 

 

僕らは知らない場所へ向かっているんだ 

さあ 内なる世界においで

あてのない旅に出かけよう 

行く先も分からない旅へ 

 

今朝はとてもよい気分だ

知ってるかい? 

楽園を目指して出発するんだ 

さあ 行こう 一緒に行こうよ

 

自分が今どこにいるのか 不安だろう 

でも僕は気にしない 

時が僕らの味方だもの

きみを連れて行ってあげるよ あの彼方へ

そこはとても遠いけれど 

一日一日と成長していくんだ

 

奴らはきみにいろいろと命令するだろう 

きみを小馬鹿にしたりするだろう

でも、大丈夫

すべては上手くいくから

 

注目部分だけを訳しましたが、訳してみて、こんなにディープな意味が込められていたんだとは、当時は思ってもみませんでした。「come on inside」の「inside」ってのがポイントですね。私は「内なる世界」と訳してみましたが。たぶん、デビッド・バーンは宇宙人の「魂」を持つメッセンジャーだと思います。

アートやエンタテインメントは、最後は好きか嫌いかなので、自分はちょっとォ‥という方がもしおられましたらご勘弁を。

 

ああ、自分もデビッド・バーンのようにカッコよくなりたいなぁ。

7月9日掲載の記事について

7月9日に掲載した『死に逝く人のための絵本:プロジェクト』の呼び掛けに関して、自薦、他薦を含めて数名の方から、絵の描き手を希望あるいは紹介する旨のご連絡をいただきました。以下は、それらのお問い合わせへの返信となります。

 

そうしたお申し出があることをまったく想定していなかったために、ちょっと混乱してしまい、自分の悩みがなお一層深くなってしまいました。以下が、せっかくご連絡くださった方の善意を傷つけてしまうことになるかも知れないことを、最初に謝りたいと思います。ですが、複数の方から同じお申し出のご連絡を一斉にいただいて、「ああ、通じないものだなぁ」と改めて感じ、自分の運命というか、実現力のなさを再認識させられました。

 

7月9日で呼び掛けたのは、このプロジェクトの「プロデュース」をしてくださる方です。絵の描き手の募集ではありませんでした。絵の描き手は、そのプロデューサーが選ぶことになります。10年前に、自分が先ず絵の描き手を探したのは、私家版でもいいから作ってみようと思ったからで、その時分には多少の蓄えもありました。

 

けれども、それが頓挫し、またそれまでの人生を振り返ってみて、自分にはこの世界でのプロデュースは向いていないし、人を動かしたりお金を扱ったりする才能も運もないのだと思うに至りました。7月9日の記事にも書いたことですが、とにかく、やることなすこと上手くいかないのです。なんでも真剣にやってはいるのですが、思い描いた結果が出ないのです。しかし、そこにも意味があったわけで、結果的に、自分は自分が意図したわけでもないのに、今の役割へと押し出されたのです。

 

今回、10年前のお蔵入りのプロジェクトを敢えてほじくり出して来たのは、蓄えも無くなり、視力も気力も落ちて来たこのタイミングを、これからは「他の人に頼ることを学べ」という段階に来たのかなぁと解釈して、その具体化の一つにしようと思い立ったからです。しかし、「絵の描き手」の今の私への推薦は、私をふりだしにまで引き戻すことです。これは辛いし、出来ないし、もうやろうとは思いません。

 

私は、自分で自分をプロデュースすることも、自分が生み出したものを自分でプロデュースすることも、今後一切いたしません。また、メッセンジャーとしての自覚をようやく強くした今となっては、この世的なプロデュースをすることと、メッセンジャーの仕事を続けることを両立させるのは、もはや無理です。両者は、意識の置きどころが違い、この世的なプロデュースに意識の中心をフォーカスさせたら、自分のエゴ的な部分が復活するやも知れず、メッセンジャーの仕事が行えなくなってしまうでしょう。

 

視力、気力は落ちましたが、メッセージの発信はまだなんとか出来ますので、それが出来る限りは、この分野で貢献して行きたいと思っています。

 

というわけで、

これからは、他の人に、私がどんどん頼ります。

ですから、老いぼれの私にはどうかもう頼ろうとなさらないでください。

私をメッセンジャーの仕事に専念させてください。

 

このプロジェクトについても、このままプロデューサーが現れなかった場合には、実現されないことになります。でも、まあ、それならそれでいいじゃないですか。「絵を描きたい」という今のお気持ちに水を差すようで申し訳ないのですが、それをご承知おきください。もちろん、プロデューサーがもしも現れた場合には、あなたも描き手の候補の一人になります。

 

また、今回、ご寄付のお申し出もいただきました。私がチラと書いてしまったことがいけないのですが、プロジェクトが具体的に動き出したら考えようと思っていましたので、これにも面食らいました。

 

ドネーションについては、今まで、気持ち的に躊躇する部分があったのですが、今後はそれも「頼る」ことを考えて行った方がいいのかも知れません。そのお金で、Webなどのスキルを持った人に仕事を依頼する、というのも今後の選択肢としてはありなのかなと思います。

 

お問い合わせくださった方からは、振込先を教えてくださいということだったのですが、その準備がまだありません。今ある私の口座をお教えしてしまったら、どんぶり勘定となってしまうのは必定ですから、ここはきちんとした管理者を見つけて、その人に「頼る」ことを考えなくてはならないと思っています。この件については、近々グループの人と相談して、どうするかを決めたいと思います。

 

ということで、以上を、7月9日掲載の記事について、お問い合わせをいただいた方への返信とさせていただきます。

 

当方の準備不足や舌足らずの面があり、あれこれの思惑を生じさせご迷惑をお掛けしてしまいました。どうも申し訳ありませんでした。

 

老いるショック!

聞くところによると、自分は67歳になったそうです。教えてくれる人がいて「ああ、そうなのかぁ」と思うのですが、年齢など、もはや自分にとってはどうでもいいことで関心はありません。私の母親は「50を過ぎたら歳を取るんだ」と言って、49になった、48になったと、誕生日が来る度に引き算をしていたのですが、所詮ムリがあり、47歳を迎えたところで観念したらしく、それ以降は数えなくなりました。しかし、そんな私でも、身体的な変化はいろいろとやって来て、これにはさすがに参るすデイビス。

 

今のいちばんの問題は、眼が見えなくなったこと。左目はどこにも焦点が合わない。ボヤーっとしている上に、飛蚊症のムシが動き回っていて、煩わしさこの上なし。右目は、30センチくらいの距離まで近づけばなんとか焦点も合うのですが、通常の状態では、パソコン画面の文字は何度も拡大キーを押してやっと読める程度。加えて、乾燥期の冬場と春の花粉症シーズンは眼の周囲がアトピーで炎症を起こし、アレルギーのドライアイもあるので、いつも眼がショボショボしていて非常に疲れるのです。

 

この症状は10年ほど前から少しずつ悪化していたのですが、この3年で急激にそれが進みました。困ったのは、天眼鏡を使わなければ本の字も読めないので、いろんなことが億劫になって、気力が萎えました。今まで出来ていたことが出来なくなり、写真を撮ったり、それをフォトショップで加工したり、イラストレータを使ったりすることがしんどくなりました。マニュアルが読めないので、スマホも様々なアプリも使えません。もう、何でも一人でこなすということが難しくなって来ました。

 

一方で、向上したこともあります。体力がつき、心肺機能も上がって、立ちくらみや息切れが無くなりました。筋肉も多少ついて、それほどヘナチャコでは無くなって来ました。柔軟性も増し、開脚して上半身が床に着きます。前屈して膝に頭が着くまではあともう少し。これも毎日のエクササイズをご教授してくれた Y 師匠のおかげです。私を見た人は、みんな「とても67歳には見えない」と言ってびっくりします。「どう見ても、66歳にしか見えない」って。( *_* )

 

と、そんなわけですから、『虹の学校』の活動も、けっこうキビシくなって来ました。ホームページもリニューアルしたかったのですが出来ないし、他にもやりたかったことがいろいろあるのに、どれも実現出来ていません。手助けしてくれる人が現れるといいんだけどなぁ‥‥、とずっと思っていたのですが、人望も、実現力も、お金を扱う能力も自分にはないので、うまく事が進みません。もしかしたら、「手助けしたいんだけど、何をどうしたらいいか分からない」という方がいらっしゃるのかもね。

 

今は、この『気づきの啓示板』ブログで、時々メッセージを発信するだけです。これも、現在のフォーマットは開始時に何度か試行錯誤して、横幅や文字の大きさや行間を決めたのですが、今となってはまったく読めません。そこで仕方なく、Pages(Wordのようなもの)を150%に拡大した画面にテキストを打ち込んでから、それを流し込んで形にしています。本当は、このフォーマットも変えたいのですが、HTMLは打てないし、今までに挿入した画像にも不具合が生じてしまうので、そのままにして何とか継続しているという状態です。

 

内容については、このところ一段と進化した、と自分では感じています。少し前には、短い言葉の方がむしろ「気づき」に繋がるのではないかと思い、ポエティックな文章にスタイルを変えてみた時期もあったのですが‥‥。そうしたところ、ある日、全編丸ごと大阪弁というポエムがやって来たのです。「わぁ、こりゃナイスだぞ」と喜んだのもつかの間、急ぎメモを取るのを忘れてしまい、一瞬の後に、それが何処かへ飛んで行ってしまったのです。以来、ポエムの神さまが下りて来てくださらなくなりました。

 

しかしその代わりに、長〜いメッセージが書けるようになりました。これは、別に長く書こうと思っているわけではないのです。私だって、短い文の方が自分も楽ですし、読者も入り込みやすいということはよ〜く解っているのです。しかし、ある一つのテーマを、出来るだけ正確にまた丁寧に記述しようとした場合には、どうしても長くなってしまうのです。それは、こんなふうに進みます。

 

先ず、モヤモヤした毛糸玉の塊のようなものが自分の内に沸き立って来ます。それが、どんなメッセージを持っているのかは、おぼろげながら分かるのですが、詳細は不明です。ここで先ず苦労するのが、文字通りの糸口の発見です。どこに糸の先端部があるのか? その最初の一行が見つかると、これを手繰り寄せるようにして、次の言葉が出て来るのです。しかし途中で糸がこんがらがって、いくら引っ張っても、もう次が出て来ないという時がある。そんな時には、そこで糸をチョキンと切って、別の糸口を探すことになります。

 

こうして、複数の話題が次から次へと出て来てしまうので、どうしても話が長くなってしまうのです。結局、宇宙というものは「Oneness」ですから、あらゆる話題が相互に関連し合っていて、紐解いていけば際限がないのです。しかし、どこかで折り合いを付けなければなりません。この見極めがとても難しいのです。私の場合は、2度、3度と校正して、着地点を探しています。この過程で、あるブロックを丸ごとバッサリ切ったり、全体を2つに分けて別の日に掲載したりすることもあります。

 

基本的知識として、この際みなさんに知っておいて欲しいのですが、どんなチャネリングも、それを媒介する人間の自己意識というものが、多少なりともメッセージの中に混入してしまいます。これを完全に防止する方法はありません。なぜなら、地上で生活している以上は、どんなチャネラーであっても低い波動の中にいるのであって、その世界に合わせた表現をするということ自体が、必ずその人間を通した歪みを伴うものだからです。ですから、聖書、聖典の言葉を絶対視してはならないのです。

 

チャネラーは自分の意識を拡大して、波動を上げて行きます。一方の意識的存在は、人間が扱える波動領域まで振動数を下げて来ます。そうやって、両者が映画『ET』のポスターのように繋がって、チャンネルを開くのです。

 

ですが、ここで、そのチャネラーに依拠した次のような問題が発生します。

 

(1)そのチャネラーがどこまで意識を上昇させられるかによって、コンタクトできる領域と「存在」が違って来る。低い波動の場合には、自分を「神」と偽る悪魔的存在と繋がってしまう場合がある。→いわゆるニセ預言者

 

(2)アウトプットは、そのチャネラーの表現力に左右される。芸術家ならばその表現方法の力量、言葉を扱うのであれば、語彙の豊富さや知識や表現力が大いに影響して来る。

 

(3)(2)に関連して、そのチャネラーの現在の考え方や思想が、そこに混じってしまう場合がある。

 

ですから、メッセージを聞く側の人間は、そのメッセージの質を、慎重に吟味する必要があります。一般の人は「波動」の質を知覚できないので、残念ながらこの区別が容易にはつきません。しかし、判断する方法はすでにお伝えしました。

 

Bad なメッセージは、アメとムチを使って来ます。すなわち、エゴを刺激するような誘惑か、恐怖心を与えるような未来予言です。高次の存在が、このようなメッセージを発することはあり得ません。なぜなら、そんな段階を超越したからこその高次元なのですから。また、美と笑いのセンスがないことも指摘しました。(美と笑いでは、脅せませんからね)

 

一方の、メッセージを発する方も、自分が受け取ったものをよくよく吟味して、論理的なフィルターを通してから、慎重に発する必要があるのです。そうでないと、人々を惑わせてしまいますし、自分も奈落の底に転落してしまいかねないのです。

 

この活動を始めた当初、テレパシー能力抜群の K さんから、エピクロスの言葉として「隠れて生きよ」というのがあるのを教えて貰ったのです。この言葉は、なぜか私の胸に深く突き刺さったのですが、しかしその時にはまだ、言葉の意味をよく理解してはいませんでした。いつの世でも、真理を説こうとする者は投獄されたり処刑されたりして来たので、「注意しろということかなぁ」ぐらいに思っていたのです。要は、まるで解っていなかったのです。

 

ところがその後、「波動」を知覚できるようになってから、「隠れて生きよ」という言葉の、別の意味を二つ発見しました。そのうちの一つは、ここに書くことは憚られるのですが、もう一つの意味はこうです。隠れて生きていないと、自分を「先生」と呼ぶ者が現れてしまう、ということです。一体そのどこがマズいのか?と思われるかも知れません。現実世界では、あえてそれを狙ったもので溢れているからです。宗教界も、スピリチュアル業界も、学術界も、芸術界も、芸能界も、実業界も、茶道も、武道も。

 

しかし、これはダメです。崇拝されるくらいなら、罵倒された方がまだずっとマシです。罵倒されても、相手にしなければ、その人とはそこで縁が切れてしまいます。ところが、崇拝の構造を造ってしまうと、その関係は、崇拝者の眼が覚めるまでずっと続いてしまうのです。宗教は、まさにこれを利用した関係です。しかしこれこそが、地球人のアセンションを阻む最大の要因となっているのです。ですから、この構造は徹底的に破壊しなければなりません。

 

「崇拝」は、崇拝される側、崇拝する側、双方にとって、不幸しかもたらしません。先ず「崇拝される側」ですが、「先生」と呼ばれて、うっかりその気にでもなってしまったら、たちまちのうちに白色同胞団(White Brotherhood)から見放されて、梯子から転落してしまいます。もちろん、高次からのメッセージはもう来ません。

 

そればかりではありません。梯子段の一段め二段め辺りをウロチョロしている分には、落ちても大した怪我はない。でも、高みに昇ろうとして、どんどん上に昇って行った果てに落ちた場合には、地上を通過し、地下深くまでめり込んでしまうのです。そして、もう身動きが取れない。この恐ろしい状況のまま、何十億年と生き続けなくてはならなくなるのです! ひぇ〜。要は、鉱物という最下層からやり直さなければならなくなる。ですから、「光の道」を進もうとする者は、そうならないように細心の注意を払って生活しなければならないのです。

 

一方の「崇拝する側」は、崇拝する対象を自分の外側に置いている限り、永遠に「真理」には到達できないということになってしまいます。言い換えれば、これらの構造をあえて造っている宗教や精神世界の団体は、それを「信じる者」を永遠に目覚めさせないための「教え」を与えている、ということになる。

 

「教え」を「信じる」。「崇拝」対象を持ってそれに対して祈る。こうしたことが、みんな「良いこと」だと吹き込まれていて、実はそれが、最悪の Bad だとは気づかないのです。習慣化されてしまって気づけないのです。

 

そう、ただ一つ。

あなたの師となるものは、あなたの「気づき」だけだ。

そして、あなたに準備ができた時に、

その準備段階に応じた師が、あなたの前に忽然と顕れる。

しかし準備をしない者には、師は永久に訪れない。

 

先日、我が Y 師匠が、みんなの前でこんな言葉を発したのです。

「朝、瞑想をしていたら、『幸福』というのは、having でも doing でもなく、being なんだということが解った」と。

 

そう、その通り。

 

I am that I am.

 

これは究極の「気づき」の言葉だ。

 

「そうか、私は〈それ〉だったんだ。究極の〈自己〉であるところの‥‥」

 

それなのに、世の中では、having と doing が『幸福』への道であると必死になって「教え」ている。本当は真逆なのに‥‥。よく言われる「捨てる」ことが『幸福』への道だというのは本当です。何もかも捨ててしまえば、もう being しか残らないのです。あなたが「在る」ということ。「在る」だけで『幸福』なんだということ。なぜなら、あなたは〈自己〉なのだから。I am that I am.

 

アレハンドロ・ホドロフスキーというチリ出身の映画監督の作品に、『リアリティのダンス』と『エンドレス・ポエトリー』という自伝的二部作があります。前者は監督が84歳、後者は87歳の時の作品です。

 

長尺なのと、ドラマティックなストーリーがないので一般向けではなく、お勧めはしませんが、美術が好きな方ならその発想の豊かさと若々しいエネルギーに圧倒されることでしょう。そうでない方は、10分でギブアップかも。

 

作風は、テリー・ギリアム、ケン・ラッセル、フェデリコ・フェリーニ、寺山修司をもっと明るくスタイリッシュにした感じで、サーカスとミュージカルをミックスしたような映画です。

 

ホドロフスキーはこの中で、幼少時から体験して来た数々の不条理=お金、人種差別(ホドロフスキーはロシア系ユダヤ人だった)、小学校時代の除け者扱い、父親から受けた強制的教育、地元炭鉱労働者の家畜のような生活、社会的マイノリティへの偏見、独裁者の虚像、権力者に簡単に操られてしまう大衆、共産党地下活動に邁進する父親の挫折=等をカリカチュアライズ(戯画化)して描き、並行して東洋思想に触れたり、芸術への興味をしだいに膨らませていく自分を描写します。

 

そして、最後の最後は、これらの様々な体験をすべて超越して、つまりそれは〈リアリティのダンス〉に過ぎなかったのだと認識して、「人生讃歌」の〈エンドレス・ポエトリー〉へと辿り着くのです。

 

これは凄い! 多くの映画が、不条理への対抗や葛藤を描くことに終始しているのに、ホドロフスキーは全部を許して「人生バンザ〜イ!」と叫ぶのですからねぇ。これじゃ、一般受けは絶対にムリ! 韓国宮廷ドラマなんて、妬み、恨み、憎しみ、謀略、賄賂、ゴマスリ、裏切り、復讐、ばっかりですからね。それがないと話を引っ張れないしウケない。そして、第二部のエンディングでは、ホドロフスキー自身が登場して、締めに次の言葉を言うのです。

 

「歳をとるってことは、実に素晴らしいことなんだ。何でも手放せるようになるから」と。

 

(おお、そう来たか!)と思って感激して見ていると、その例として、最初に、

 

「Sex!」

 

と言うのです。いやはや、アレハンドロ・ホドロフスキーは、まさに芸術界の長老であり預言者です。

最後通告

世界情勢が緊迫の度を増して来ました。中東は一挙にキナ臭くなりましたし、今はサイバー戦、バイオ戦が主力ですから、一般人の知らないところで激しい戦いが起きている。トラック競技で言えば第4コーナー、映画で言えばラスト30分に遂に突入したと言えるでしょうか。ここでどんなド派手な演出がなされるのか、はたまた大どんでん返しはあるのか? あなたもウカウカしちゃおれないですぞ。この世界の観客であると同時に、出演者の一員でもあるのですからね。

 

知る苦怒それ行け、大団円。

世紀の大スペクタクル・ショーの結末や如何に?

人類は歴史的ルネッサンスを選ぶのか、はたまたカタストロフィを選ぶのか。

打ちて死、止まむ。

さあさ、お立ち会い。寄ってらっしゃい、観てらっしゃい。

 

さてさて、ご自分の役どころと、出番と、セリフと、アクションの準備はもうお済みかな? 鑑賞料も参加料もいらないよ。今ならどんな役どころだってお望み次第。なぬ? 自分の役どころがまだ浮かばない? あ、そう。でも大丈夫。助監督の指示で、道の後方をただゾロゾロ着いて歩いていけばいい、奴隷9841番なんてエキストラ役だってあるからね。どうせギャラなしだし、楽したい人は、そうすればいいんじゃないのかな?

 

今の人口爆発の主原因は、この瞬間に立ち会いたいと願った「魂」が、地球に一挙に集結したからなんだよ。宇宙広しと言えども、こんな珍しい瞬間は滅多にないからね。なんてったって、二階級特進のジャンプを決める大チャンスだ。長い長い人類の歴史がこの一戦で変わるのだよ。去る珍万古の大パフォーマンスのとき、来たれり。

 

怖い⁈ どうして? 映画ならいちばんワクワクするところじゃないか。「だってぇ、これは映画じゃないもの‥‥」。だからぁ、映画なんだってばさ。「現実」は「幻術」なんだよ。いったいなんど言ったら解るのかなぁ。

 

何もかもがひっくり返ると言ったでしょう。あの時すぐにピ〜ン!と来て、逆立ちの練習を開始していた人は、世界がひっくり返った暁には、その立ち位置こそが正常になるのだよ。だから、今まで阻害され、馬鹿にされ、虐げられて来た人の方が、先に覚醒すると言ったのさ。冗談だと思ってた? う〜ん、冗談ばっかり言ってるからねぇ。でも、たまには聞き逃せないことも言っているんだよ。「い、今から、すぐに逆立ちの練習をします!」。う〜ん、間に合うかなぁ?

 

日本のテレビ・新聞しか見ておらずに、それを真実だと信じている人とは、もう会話のしようもありません。そんな人に、今さら軍産複合体だとかイルミナティだとか国際金融資本がどうのと言ったところで、「こいつ、頭おかしいんちゃう?」と思われるのがオチ。ここまで情報格差が広がってしまっていては、もうどうにもならないのです。会話が成立しない。知っている人は知っているし、知らない人はな〜んにも知らない。あとはもう、好きなようにしなさいとしか言えない。

 

私には、少々苦い思い出があるのです。10年ほど前でしょうか? 年上の知人から突然、闇の世界のことを教えて欲しいと言われて、私も未熟だったものですから、よせばいいのにカフェで小一時間ほどその手の話をしたのです。その最後で、「日本の歴代首相などはみんな操り人形で、逆らった人間は容赦なく殺されて来たんですよ」と言うと、相手は一瞬「信じられない!」という顔つきをして絶句し、数秒後に気を取り直してから、こう言ったのです。

 

「○○さん(私の本名)も、せいぜい殺されないようにしてください」。それは、侮蔑と嘲笑の入り混じった言葉だったのですが、その言葉を発することで、彼は、今まで築き上げて来た足下の石垣が、一瞬にして崩壊しようとするのを食い止めたのです。以来、人前で大っぴらにこの話をするのはやめにしました。私がしなくても、どうせ誰かがしますし、それに、本質はそこではないと後になって気づいたからです。

 

そして、気づけば気づくほど、世間のことに興味が無くなり、あれほど好きだった映画もつまらなくなり、ただひとり山奥に隠れてひっそりと暮らしたくなって来ました。しかし私には次世代のメッセンジャー発掘の使命があるので、未熟者といえども、そのアクションも果たさなければなりません。これが、きっつい! 何がそれほどキツいかと言うと、絶えず自分の未熟さを思い知らされることになってしまうから。

 

言葉をつむぎ出すのも、もちろんキツい。高い波動に二晩も三晩も集中し続け、エネルギーを振り絞ってやっているから、終えた時には精根尽き果て、もうヘトヘトになってしまいます。でもそれ以上にキツいのは、これほど精力を注いで語って来ても、「ああ、何にも通じていないんだ」ということを思い知らされた時です。自分という人間の不甲斐なさ、パワーのなさ、役割上の未熟さに、本当に嫌気が差してしまいます。

 

「方法論で何をそんなに悩むのか?」とか「自分を卑下し過ぎ」と言われることもあるのですが(その通りですし、またそれが自分の課題であることも承知しているのですが)、よく言えば、向上心を捨てられない。同じところに留まってなどいられない。自分の意識はもっともっと先へと進みたいのです。わが同志たちよ、みなさんだってきっと同じ思いでしょう?

 

同志たちは、「孤独」ということをよく解っているので、このブログのメッセージに触れても正しい使い方をしてくださっていると、私は確信しています。ただただ自分の、内なる自己(神性)を再発見するための、ドアノッカーとして用いてくださっていることを。ですから、何かを崇め奉る必要はないし、群れる必要もないし、鵜呑みにしてはならないのだし、すべてを決めるのは自分の意思であって、自分の人生は自分に責任がある、ということをよく解っておられる方たちだと信じています。

 

結局、そのような方は独立独歩で生きているので、同じように隠れて、密かに研鑽を積んでおられるのです。ですから、すでに何度も書いてきたことを再質問したりすることはないし、自己承認を求めて自分のトラウマの歴史を長々と話することもないし、(笑)と書いた笑えないジョークを送って来たりすることもないし、「期待しています」とか「頑張ってください」とかの励ましのメールを送って来ることもありません。

 

どうして赤の他人に、みんな当たり前のように「期待」などするんでしょうか? どうして他者をそんなに「頑張らせ」たいのでしょうか? 自分が「頑張れば」いいのではありませんか?

 

内閣支持率というワケの分からない指標がありますよね。一度うちにもその電話が掛かって来たのです。「第一問、あなたは現内閣を支持しますか、しませんか?」。そこで言ってやったんです。「内閣というのは支持したりしなかったりするものではなく、公約をちゃんと果たしているかどうか、監視するものだ」って。そしたら、電話の女性「どちらでもないですね」。違ーーーう!

 

自分の運命を、他の誰かにごく当たり前のように預けてしまう。それっておかしくありませんか? その罠に、知らず知らずのうちにハメられているということに、なぜみんな気づかないのでしょう? こうした意識が、まるでパブロフの犬のように潜在意識の奥深くに埋め込まれてしまっていて、誰もそれがおかしいとは思わないのです。そしてこれこそが、何度でも騙され続ける理由なのです。

 

私に励ましは不要です。みなさんがご自分を解放して、元気に活躍してくだされば、それがいちばんの励ましなのです。落胆するのは、何度語っても通じない人たちがいる、という現実を見せられたとき。結局それが嫌で耐えきれず、セミナーも止めてしまいました。初めて参加される方たちからの集中砲火のような視線。疑い、恐れ、憧憬、お世辞。動物園のパンダを見に来ているような目。さらには、こいつを暴いてやろう、実力を試してやろう。私の〇〇先生とどっちが上か確かめてやろう。

 

嗚呼、「ありのまま」であることの何と難しいことでしょう。ただ「ありのまま」でいいだけなのに、それがみんな出来ないのです。

 

最初から、私は自分がヘナチョコだと言っているのに‥‥。霊能などないと言っているのに‥‥。ただフレンドリーにやりたいだけなのに‥‥。それを解って貰えない。来る方、来る方、ありとあらゆる自分勝手な想いを、こちらに投射して来られるのです。そして、自分のイメージと違っていたと言っては、後足で砂をかけるようにして去って行ったり、罵声を浴びせて来たりする。フレンドリーにやっているのを、その馴れ合い感覚が許せない、とまで言った人もいるのです。

 

通じない人たちというのは、「沈黙」の行ということも知りません。自分の今の思いを、感情を、とにかく早くぶつけたい。そこで、上記とは真反対のメールを質問コーナーに送って来られたりする。その度に、「あ、またか」とガックリ来てしまうのです。しかし「噛んで含めるように、何度も何度もしつこく語っていかなくてはならないのかなぁ」と思って、これまでは耐えて来ました。でも、どうやら次に進むべき時が来たようです。

 

もう時間がないのです。すでに第四コーナーを廻っているのです。そこで、クソ生意気だと言われるのは覚悟の上で、これからは次のようにさせていただきます。未だにご自分の「心を治める」ことに四苦八苦されているような方への対処は、今後は一切いたしません。心の問題に関しては、もう充分に書いて来ましたし、対処法についても述べて来ました。ですから、それらを丁寧に拾っていただければ用は足ります。

 

今後は、アセンションに向けて神秘学を極めたいという人、そのための行をやり続ける覚悟のある人、そして地球人の救済のために身を捧げる情熱のある人、としか道を共にはしません。そのような人が、日本の中に最低12人は居ると、私は確信しています。すでに7・8人は見つけました。これを何とか10倍の120人は掘り起こしたいのです。そのためなら、いま自分が知っているすべてを惜しみなく伝えますし、望まれれば何処へでも行きますし、私の身をこのプロジェクトに捧げます。

 

これからは、真・善・美に生きる人とだけ、道を共有したいのです。そこで、これもクソ生意気ではありますが、次のようなご質問やお問い合わせを頂いても、申し訳ありませんが、今後は応じない旨を最後通告しておきます。

 

これがファイナル・アンサーです。

 

Q.「今後、世の中はどうなるのでしょう?」あるいは「私はこうなるのではないかと思うのですが、この見解は正しいでしょうか?

 

A.私は予言者ではないので、未来がどうなるかについては正確には分かりません。しかし未来シナリオについての予測はある程度は可能です。先ず、地球という惑星がまもなくアセンションするということは、宇宙の進化過程ですでに決定しています。一方、霊的な観点から確実に言えることがあります。それは、人類の未来は、人類の集合意識のあり方が決めるということです。ですから、受動的視点から未来がどうなるかを心配するよりも、ご自分がどんな未来にしたいかを思い描いて、未来の創造者として今を行動するようになさってください。

 

Q.「私には、AかBかで思い悩んでいることがあるのですが、どうしたらよいでしょうか?」

 

A.それはあなたが決めることであって、あなたの人生に私は関与しません。もし何かの専門的アドバイスが欲しいのであれば、その道の専門家にお尋ねになってください。

 

Q.「私は幼い頃から〇〇で、〇歳の時に、〇〇というヒドい目にあって〜(以下、延々)」

 

A.あなたの生い立ちには私は興味がありませんし、共感も持ちません。私には、あなたという「魂」の現世での成長段階と、今の心のあり方しか見えません。しかしあなたが、ご自分をさらけ出して、その体験からどんな教訓を得たかということが、他の人々にとっても役立つ普遍的なヒントを宿しているものであるならば、どうぞその体験を語ってください。喜んで紹介させていただきます。

 

Q.「私は、〇〇先生のところで〇〇を学び、次に〇〇に通って資格を取って〜(以下、延々)」

 

A.スピリチュアル業界で、今までにあなたがどんな歩みをして来られたかということを長々と語られても、履歴にはまったく関心がありませんし読みません。自己申告のベールをいくら被せても、あなたという「魂」の現世での成長段階と、今の心のあり方は全部判ってしまいます。そのような虚飾の履歴を述べるよりも、ただ、ご自分の内にある純粋さ、誠実さに素直に向き合ってください。そうすれば、そのピュアな波動がこちらに飛ぶのです。

 

Q.「どうしても、不安や絶望感から逃れられないのですが‥‥」

 

A.これも、理由や対処法については書き尽くして来ました。ですから、また尋ねられても同じことを言うだけです。しかしその言葉が、あなたには効力を持たなかったということがすでに証明されているわけですから、どこか他所を訪問していただくほかはありません。最後に、一言だけ追加しておきましょう。あなたには、不安になったり絶望感を抱いたりする、権利と自由があるということです。それどころか、病気になったり自殺したりする権利と自由もあるのです。

 

Q.「スピ系は嫌いだと仰っていますが、もし救われるのであれば、それらの門も叩いてみたいと思っているのですが、どう思われますか?」

 

A.それを私に訊きますか? すでにお話していることを、再度お尋ねになるのですか? それで、いったいどんな答えが欲しいのですか? どう言えば、今のあなたを満足させることができるでしょうか?

 

あなたがそうしたいと言うのなら、おやりなさい。ご自分の好きなようにしなさい。宗教がよいと思うなら宗教の門を叩きなさい。先生が欲しいのなら、誰かを「先生」と言って仰ぎなさい。サイキックやオカルトを追求したいのなら、とことん追求してみなさい。ご託宣が欲しいのなら、そういう所へ行きなさい。なにもかも自由だ。どうぞ、あなたのお好きにしなさい。

 

どんなルートを通っても頂きは一つです。神が、あなたを見捨てることは絶対にありません。

 

 

◼最後に ------ そして同志へたちの呼びかけ

 

私がこの『気づきの啓示板』と名づけたブログを書いて来た主目的は、人類の救済のために、宇宙の真理を伝え、愛の波動を送る活動をする役割を、今世、天から与えられている「魂」に対して、「さあ、出番だよ〜」と促すことでした。これは、最初からそのような意図を持っていたわけではなく、やっているうちにそのような確信がしだいに芽生えて来たのです。

 

それは、私自身、岡本せつ子さんによって背中を押されたことが、こうした活動を始めるきっかけとなったのですが、そのバトンを引き継ぐことが自分の使命である、と後になって勝手に解釈したのです。このように書くと、多くの人からは、大言壮語を言ってやがるとたぶんバカにされるでしょうが、役割を持った方には解って頂けるものと信じています。

 

さて、このメッセンジャーの役割を持った人というのは、その「魂」があまりにも純粋で気高いために、周囲の人たちからはほとんど理解されず、浮いた存在として、孤独で、貧乏で、不幸で、見捨てられた状態にあることが多いのです。そこで、先ずはこうした傷を癒してもらってから、ご自分の中に眠っている神性に目覚め、徐々に役割を思い出していただく必要があったのです。

 

ところがその過程で、心を病んだり、傷ついたり、迷ったりしている他の多くの人たちを引きつけてしまい、そのような人に、あたかも救済の手を差し伸べてあげるかのような誤解を与えてしまったのです。個人カウンセリングはいたしません、と明言はしていたのですが、藁にもすがりたい人はその垣根を超えてアプローチして来られます。

 

もちろん、このブログに書いてあることは「宇宙の真理」に沿ったものですので、それがいま抱えておられる問題の解決に少しでもお役に立てるのであれば、この上なく嬉しいことです。ところが、そうやってアプローチして来られる方というのは、「宇宙の真理」には関心がないのですね。ただ、自分の苦しい胸の内を聞いて欲しい、自分を認めて貰いたい、というだけで、そこへの共感ばかりを求めて来るのです。

 

そして、決して、そこから脱出しようとはしない。「苦しい、苦しい」と絶えず言いながら、その状態が本当は好きなのではないか、と思えるほどです。苦しみの根本は何か、それはどこから来ていのるか、を考えてみようともしないのです。このような人に、「最初から救われている」とか、「自分の中に神がいる」と話したところで、ピクリともしない。「気づき」が無いし、気づこうともしていない。そして、同じところをグルグルグルグルただ廻っている。

 

もう一つの誤解は、スピ系に興味がある人に、一種の逃げ場を与えてしまったことです。自分が、浮いた存在で、孤独で、貧乏で、不幸で、見捨てられているとずっと感じ続けていた人に、自分が承認されという思いと、特別意識を与えてしまったのです。しかしこれは、大きな誤解と言うしかありません。そんなものではないのです。

 

メッセンジャーの役割を持った人というのは、確かに大変な逆境を経験して来てはいます。しかし、それでも純粋さ、謙虚さ、情熱、普遍的な愛といったものが、意識の底に脈々と流れ続けている。ですから、このような人は、最初の覆いが取れてしまえば、一を聞いて十を知る「気づき」を得て、その後は一挙に変わって行く。同じところをグルグル廻ることはないし、キラキラ病にもメソメソ病にも決してならない。

 

*キラキラ病:自分は霊的に選ばれた人だと錯覚して、その優越感によって承認欲求を満たそうとする病。
*メソメソ病:自分が周囲に理解されないのは、ちゃんと理解してくれる人が現れないからだとして、自分を承認してくれる人を求め続ける病。

 

キラキラ病もメソメソ病も、いわゆる「霊的エゴ」と呼ばれるもので、スピリチュアル業界に首を突っ込んだ人が陥りやすいどちらも錯覚なのです。「身体を有するこの個が私」という立ち位置はあくまで替えないで、不思議世界に付加価値を求めに来ているのです。これを私は、「智恵の泉」にザルを抱えて水を汲みに来る人、と言って来ました。持っている器がザルだとも知らずに、泉への道を何度も何度も往復しているのです。

 

自分の器がまだザルでしかない人が、そのザルを水で満たすためにはどうすればいいのでしょう? ザルごと水に沈めるしかありません。残念ながら、その覚悟を持つ人がほとんど居ないのです。池のほとりにサンダルだけを残し、思い切って泉にドブン!と飛び込む。つまり、これまでの立ち位置はきれいサッパリ捨て去って、水の中で逆さ泳ぎをするのです。果たして、その覚悟があなたにあるのか!

 

一を聞いて十を知る「気づき」を自分の内に得て来た人ならば、すでに逆さ泳ぎも会得しているはず。さぞかし深苦労だったでしょう。これからは、あなたたちの力が必要になります。物質主義への傾斜は行き着くところまで行き、すでに逆ベクトルに転じています。今は、それを知らない誇大妄想の狂人たちが、まだ何とかなると右往左往しているだけです。支配による人類の解放などあり得ません。それ自体が言葉の矛盾ですし、宇宙の進化の法則に反しています。

 

これからは、アセンション後の社会を創造する下準備に入らねばなりません。新しい社会を築くまでには、今後、数世代に渡るバトンリレーが必要です。滅私、献身、そして普遍的愛に生きようとする人たちは、ここに集合してください。わたしたちは、みな同じ白色同胞団の仲間です。あなたのフィールドで、あなた才能で、宇宙意識の高い波動を固定し、周囲に発振してください。そして、求める人には「宇宙の真理」を語ってください。

 

そんなことが何になるのだろう?と思われるかもしれません。しかし、宇宙のすべては「波動」なのです。〈この世界〉というものは、「波動」の物資的顕現なのです。そもそも、現在の世界がカオス状態にまで至ったのは、物質化と物質礼賛(=波動のさらなる低下)が、病魔的な波動を持つ指導者によって誘導され、人々の意識が「神性」から次第に遠ざかって行ったためなのです。

 

ですから、高い波動が広がれば、高い波動への共鳴が強くなり、人々の間に高い意識が生まれ、善意の心根が浸透し、それが行動を変え、社会のあり方を変えるのです。こうしたことは、普通の人には理解できないことですので、それを口にすれば、馬鹿にされたり揶揄されたりすることでしょう。ですから、ひっそりとかつニコニコしながら行ってください。そしてあなたは、いま言ったことを単に頭で理解するのではなく、宇宙の根源にアクセスして実際に確認してください。

 

以上が、同志たちにお願いしたいことです。様々な困難がこの先も待ち受けています。この世的な利益は何もありませんし、誰からも評価はされません。でも、白色同胞団があなたを見て支えています。この歴史的瞬間に、チームとして、一緒に使命を果たしましょう。

今まで、そしてこれからのこと

自分のことを話すのは気が引けます。ですが、「虹の学校」を始めてからこの4月で8年め。8年といえば《オクターブ》ですので、この機会に、今までのことやこれからのことを書いておこうと思います。

 

昨年、このブログを休止すると宣言しておきながら、今もポロポロと不定期でメッセージを載せたりしていて、何となく再開したような感じになっていますが、再開したわけではありません。あのステージは、やはりあれで終わりです。今はステージが変わって、自分としては「アート」のつもりでやっています。本当は絵を描きたいのですが、その気分がまだ充分に煮詰まっておらず、苦手な文章を駆使して取り組んでいるといった感じです。

 

昨年、休止宣言をしたのは、毎週月曜にメッセージ掲載という義務を自分に課して続けていたところ、「お伝えしたいこと」よりも「義務感」の方が勝って来て苦しくなり、限界を感じたためです。と同時に、定期掲載を義務づけたことで読者も徐々に増えていったのですが、一方で、新たな「依存」を作り出してしまったことに気づかされました。迂闊でした。考えもしませんでした。そこで大いに反省し、この辺で流れを変えるべきだと判断したのです。

 

そうして暫く休んでみると、以前とはまた違った感覚が芽生えて来ました。もう全部語り尽くしたと思っていたのに、「因の科学」については、やり残していたな、という気が復活して来ました。それともう一つは、もっとポエティックな表現をしたいと思ったのです。詳しく語るのもいいのですが、時には短い言葉の方がハートに突き刺さることもあります。そこで、読者のことは考えずに、自分の「アート」表現として、書きたい時に勝手に書くということにしました。

 

その結果、前よりもずっと楽になりました。今は一件の記事を書いてアップするまでにだいたい3日くらい掛かっています。その間、自分の意識を High に持ち上げて、それをずっと維持し続けなければならないのですが、以前ほどは疲れなくなりました。でもやっぱり、始める前には緊張してしまい、「よし、やるぞ」という気分に混じり「イヤだなぁ」という気分が湧いて来ます。

 

書き出す前には、以前と同じように「今このタイミングで、人々にお伝えすると Good なメッセージは何でしょうか?」と尋ねてから始めるのですが、そのあとは、これを言っちゃって果たして理解されるだろうかとか、文章量とか、余計なことは考えずに、もう好き勝手にやっています。ですから「もし興味があれば、どうぞいらっしゃい」といった感じです。

 

インターネット・メディアもこの7年で大きく様変わりし、今は「YouTube 」が主流です。しかし私はそれをする気はありません。「映像」というものは確かに分かりやすいのですが、その分かりやすさがクセモノです。これまでのテレビがそうであったように、インターネットTVもまた、「洗脳」にはうってつけのツールになり得てしまいます。私はそれを望みません。

 

私の使命は、第一にあらゆる「洗脳」の破壊です。

そしてその後に、「あなたは誰か」ということを思い出していただくように、あの手この手を使ってガイドして行くことです。

 

およそ外から来るあらゆるものは「信じ」てはなりません。

「信じ」た瞬間、そのコントロール下に堕ちたということ意味します。

そこに「真の自由」への解放はないのです。

 

あなた方は、「深奥の自分」を頼みとする自分にメタモルフォーゼしなければならないのです。いいえ、それは義務というよりも、そうすることを誓ってみんなこの世に誕生して来たのです。ですから、思い出すだけでよいのです。ありのままでよいのです。そこに、なんの努力もいらないのです。

 

あなた方は、いずれ、その高みに必ず到達します。地上への旅路は片道切符ではありません。みんな帰りの切符を携えたうえで地上に降りて来ています。帰りの切符というのは「死」の意味ではありませんからね。誰もが、いずれ必ずアセンションに至るという意味です。それは保証します。

 

みなさんは、最終的に「旅など必要なかったんだ」と気づくための旅に出て、「最初から救われていたんだ」と気づくために救いを求め、「ガイドなど不要だったんだ」と気づくまでのガイドを、いま私がしているのです。

 

ここを理解してください。あなたがそのことを、頭ではなく、感覚として、全身の細胞として理解する日が来るまで、あなたから「不安」は消えません。「安心」とは、物質的な充足でも、状況的な安定でもなく、「心のあり方」だからです。

 

その領域に到達するまで、あなた方は、自分の外側にある情報を追い求め続けることでしょう。でもその時にも、自分がそれを発見したんだ、このタイミングで天によってそれが自分に手配されたんだ、と考えてください。実際にそうなのですから。これを習い性にしていけば、ちょっとずつ、ちょっとずつ、今までと違う新しい感覚が身に付いていきますから。

 

私が、本名も明かさず、半ば隠れるようにして活動をしているのは、みなさんのその固有の「気づき」を邪魔することがあってはならないと考えるからです。私など、単なるパイプ役。主役はいつだってあなたです。

 

ですから、私という人間になど興味を持たないでください。いつぞや「もっとご自分のことを紹介してくだされば、より親しみが持てるのですが‥‥」というメールを、ある方から頂戴しました。お気持ちはありがたいのですが、自分への親しみを持ってもらいたくてこの活動をしているわけではありません。むしろその部分は徹底的にゼロにしたいのです。

 

ということで、これから書くことは、今のこのタイミングで少し語っておいた方がいいかなと直感したまでのことで、別に方針転換したというわけではありません。聞きようによっては、何か「自分は特別だ」と主張しているかのように受け取られるかも知れませんが、そのようなつもりはありません。それは、これまでの7年間をもってご容赦ください。

 

このことは強調しておきたいのですが、そもそもこの地球上に、「特別な人間」など一人もいないのです。でも、すべての人間が、みなそれぞれ極めてユニークな存在なのです。この違いが解りますか? そのユニークな「魂」の一つであるところの私が、今世の自分の使命として、今この活動をやっているというだけなのです。

 

ですから、あなたにはあなたのアジェンダがあり、使命と役割があるのであり、そこに特別な違いは何もないのです。なぜ、万人がそれぞれみなユニークかと言いますと、何十回、何百回と転生を重ねて来た中で、「魂」がみな違った体験を重ね、それぞれが違った旅路を歩いて来たからです。自然界を見てください。一つとして同じものはないでしょう? 多様性は宇宙の摂理なのです。

 

さて、多くの人と同じように、これまでに私は、いわゆる霊能のある方のアドバイスをその時々で受けて来ました。中には怪しい人もおりましたが、概ね良きアドバイザーに恵まれて来ました。その際、お互いに関連のない複数のチャンネルから、同じことを言われた場合には、その情報の信憑性は高いと判断していました。

 

そうした中で、私は、今まさに自分がしているような、将来の自分の役割について、複数の人から聞かされていました。しかしそれを、長いこと本気にはしていませんでした。その当時は、あまりにも縁遠い話にしか感じなかったからです。また、別の複数の人からは「あなたが誕生した時、天使が嬉しくて舞い踊った」と、これも同じことを言われました。

 

はあ? 天使? まったくワケが解りませんでした。将来の役割については、一人からは「あなたの場合は、困っている人を助けるというよりも、生き方を説く人になる」と言われ、また別の人からは「あなたは、取って置かれた人です」と言われました。「取って置かれた」とはどういう意味でしょう? それに「生き方を説く」だなんて‥‥。

 

処世術は自分の最も苦手とする分野でしたし、もう50代半ばを過ぎていましたし、その時はカミさんが死んだ直後でもあり、そんなものがあれば「こっちの方が聞きたいよ!」とすら思っていました。

 

その時分には、いまこのブログで語っているようなことは何ひとつ知らず、全然無知無知片瞑りだったのです。自分をまるで信頼していませんでしたし、愛してもいませんでした。自分は、社会不適合者のヘナチョコのポンコツオヤジだと思っていました。ですから「天使が舞い踊った」なーんてのは、どうせリップサービスの類のものだろうと思っていました。

 

というのも、私には、いわゆる「霊能」というものがまったく無かったからなのです。冗談で、自分のことを「零能者」だと言っていたくらいです。

 

けれども、霊的世界のことはそれなりに探求していましたので、友人から背中を押されるようにして「虹の学校」を始めました。しかし、いま思うと初期のころはレベルが低く、自分の中にエゴがまだたっぷり残っていました。そんな折、インターネットで S.O.さんの『アセンション 宇宙からのメッセージ』と出会い、魂が揺すぶられるほどの衝撃を受けました。「これは、自分に向けて書かれたメッセージだ!」と受け取ったのです。そして、同じように感じる人がきっともっといるに違いない、と思いました。

 

そこで、S.O.さんにコンタクトを取り、出版を提案したいと思いました。しかし連絡の手段がありません。そこで、テレパシー能力に優れた友人の力を借りて、S.O.さんとコンタクトを取ってもらったのです。応答はすぐに来ました。しかし、そこで返ってきた言葉に、またもや衝撃を受けることになりました。友人の口を借りた S.O.さんが、私にこう言ったのです。「そうしてくださるのは嬉しいですが、それよりも、先ずあなた自身がアセンションすることが先決なのではありませんか?」

 

そして、続けて「あなたがアセンションするかしないかで、意味が違って来ることは、あなたにもお解りでしょう?」と言われたのです。ガーンと頭をブン殴られたような衝撃です。「あなたにもお解りでしょう?」と言われたのですが、実のところ、ぜんぜん解らなかったのです。恥ずかしい、とにかく恥ずかしかった。加えて時を同じくして、前にも書いたように、上から「何をグズグズしている!」と強い口調で叱責されてしまったのです。ああ情けなや。恥ずかしい、恥ずかしい。恥ずかしい×都合4乗。

 

こうなったら、もう腹を括るしかありません。ソフトランディングなんて甘いことを考えてちゃダメなんだと悟り、ハードランディングに切り替え自分を追い込むことにしました。そのために、次の四つのことを自分に課しました。一つめはアルバイト仕事を止めることです。ひと月働いて4万、5万という収入しか得られないのであるなら、いっそのこと止めてしまおうと思いました。「仕事をして収入を得なければならない」という思い込みを、先ず断ち切ったのです。

 

二つめは田舎に引っ越すこと。その時期には、目を閉じるたびに農村の風景が浮かび、これは「田舎へ行け」とのメッセージかなと思い、それに従ったのです。しかしやってみて、すぐに「ああ、なんてバカなことをしたんだろう」と後悔の念に駆られました。山奥の朽ち果てた廃屋で、ひとり裸電球の下でサバ缶を食べていたら、身体がガタガタと震え出し、しばらく忘れていたパニックが蘇って来ましたし。この不安症状を乗り越えるまでには3年ほど掛かりました。

 

三つめは「行」に取り組むことです。私は、勇気がなく、体力も継続力もありませんでしたので、これを何としても克服したいと思っていました。そんな時に、いま『ヨーガクラス』のコーチをしてくださっている Yoko 師匠が出現したのです。彼女が考案したオリジナルのエクササイズを習い、これに熱心に取り組んでいると、体力も継続力もしだいに向上して行きました。ですから、彼女の存在なくして今の私はありません。この出会いは、天から私へのプレゼントだったと思っています。

 

四つめは、生活スタイルを変えることです。私が目指したのは「超人」になることではありません。ごく「ふつう」の人になりたかったのです。「超人」となって空中浮揚ができるようになったところで、せいぜいサーカス団でスターになれるくらいのもの。あ、あと、梯子を使わずに屋根の修理ができたり、ゴンドラを使わずビルのガラス拭きができるかも。でもそれがなんだと言うのでしょう? そう言えば、空中浮揚をウリにした某宗教団体の教祖がいましたっけね。

 

そんなことよりも、「ふつう」であることがどんなに尊いことなのか。幸福なことなのか。逆に難しいことなのか。毎食、自分で料理をして食べること。食べ終わった後の皿洗いや後片づけをきちんとやること。部屋をこまめに掃除すること。乾いた洗濯物をたたむこと。怖がらずに運転ができること。自分が食べる野菜を作ること。草取りを面倒がらずに黙々とすること、等々。こうしたことが、自分にはなかなか出来ませんでした。

 

長いこと、「ふつう」には価値がなく、世の中においては「秀でている」ことが必要だと思い込んでいましたから。でも、それまでの一切合切を捨てて、目標を切り替えました。ゴミ屋敷と化していた東京の家の中を片づけ、不用品や本を処分しました。テレビニュースも新聞も見るのを止めました。生命保険や定期購読は全部解約しました。年賀状を止め、古い友人たちとの付き合いも全部断ち切りました。古い自分を抹殺したのです。そうやって、徐々に「ふつう」のことがこなせるようになって行きました。

 

そうした取り組みを継続していったところ、ちょっとずつ宇宙からのメッセージを受け取る感覚が芽生えて行きました。そして気がつくと、あれまぁ、いつの間にか「生き方」を語っていたというわけです。「生き方を説く人になる」とは、処世術のことではなくて、真の自分発見への道、宇宙の真理探求へのプロセスのことだったんですねぇ。それが解りかけた時、すっかり忘れていた、自分が確か7歳か8歳のころに経験したある強烈な想いが甦って来ました。それは、

 

将来、自分は、人々に感動を与える人間になるんだ。

あっちとこっちをつなぐ虹の架け橋になるんだ。

 

というものでした。そして、いくつかの過去世の断片を思い出し、そのルーツが別の星にあるらしいことも分かって来ました。そしてある日、明晰夢の中で、その星にいた時の自分の名前を告げられました。それが Ota Yoto です。本当は一語で Otayoto なのですが、人名っぽく聞こえるかなと思って間を区切ったのです。でも、ハッキリ言ってピンと来ないし今もって馴染む感じがしません。そのうち、これは自分の名ではなくて、「バーソロミュー」と同じようなメッセージ・ソースの名前なのかな?と思うようになりました。

 

まあ、自分にとっては、名前も過去世もルーツも、もはやどうだってよいのです。わたしはわたし。今を生きる、のみです。

 

何事も、経験に裏打ちされた言葉以外は説得力を有しないと思っています。その意味で、私(という媒体)を通じた言葉が、もし説得力を持つとすれば、霊能もなく、無知な、社会不適合者のヘナチョコオヤジであっても、本気を出せば「アセンション」できるのだ、ということです。このブログを通じて、その経過と実例を示しました。ですから、あなたも、必ずや「アセンション」できる。それを願えば、乞い願い続ければ。‥‥必ず。

 

私の、これまでの霊的探求の道は、「こうするといいよ」と示されたことが殆どなく、「そのやり方はよくないね」という体験を学び続けて来た歴史でした。もしかすると、「こうするといいよ」という啓示はあったのに、自分が見逃していたのかも知れません。いや、そうではなく、「そのやり方はよくないね」という気づきが、結果として「こうするといいよ」というアドバイスになっていた、という高度なテクニックが使われていたのかも知れません。

 

私が最初に学習したのは「宗教」でした。「宗教」じゃダメだ、と気づくまでに15年ほど掛かりました。「宗教」のどこがいけないかと言いますと、先ず、自分で考えたり、自分の「直感」を信じる力を奪い取って、一つの偏向した教義に人を隷属させてしまう点です。加えて、信じる対象が、自分の内にではなく外(本尊、教祖、教義、教団、聖典)にあると思わせることで、見せかけの安心を与えていること。

 

しかしそれは、本当の安心ではありません。対象が失われたら、たちまちにして消えてしまうが如きものです。でも、それが却って、「依存」という強い求心力を維持し続ける構造になっているのです。

 

次に向かったのは精神世界でした。しかしその世界は(あえて「スピリチュアル業界」と呼ぶことにいたしますが)、「宗教」よりもさらにひどい世界でした。そこは、「エゴ」が「スピリチュアル」というファッションを着てのし歩いている世界だったのです。それはファッションですから、とにかくトレンドや、ブランドや、見た目の派手さばかりがもてはやされる。

 

でも一皮めくって見れば、本質は「エゴ」そのもので、純粋さや、誠実さや、素直さがまったく通用しない。他人を利用したり、支配したり、蹴落とすことばかり考えている人間たちの集まりでした。「スピリチュアル」という言葉そのものには何の罪もないのですが、私はすっかり嫌気が差し、もう「ス」と聞いただけで、コメカミ辺りが「ピリッ!」となるほど、「スピリチュアル」という言葉も業界も嫌いになってしまいました。ですから、今の業界動向というものをまったく知りません。

 

その時に学んだことは、スターを創ってはダメだということです。自分をスターにしてもいけないし、誰かをスターに仕立て上げてもいけない。スターを創ってしまったら、その人に対する憧れや、より近づきたい、自分だけ寵愛されたいという思いを育てます。それが、序列やヒエラルキーや派閥を生み、真のスピリチュアリティとは真逆の暗闘世界を作り出すのです。


セミナーに来られた人の中で、私のことを「先生」と呼ぶ人がたまにおられるのですが、「虹の学校」ではその言葉は禁句です。世間でよく見られるこの悪弊を真似するのは止しましょう。目の前の人間を「先生」と呼んだら、その瞬間から、その人は「生徒」になっちゃいますよ。そして次には、「先生」と呼ばれた人は「先生」を演じるようになり、呼んだ方は「生徒」を演じるようになってしまいます。どちらも、自分を檻に入れた道を歩くのです。

 

それと「スピリチュアル業界」は、そこに足を踏み入れる人たちを、独特の世界に引き摺り込みます。そもそも精神世界に興味を持つような人は、(私もそうでしたが)自分は現実社会にうまく適合できていないという思いを抱えている人が多い。そこに「不思議世界」が提示されると、こっちの方が本当だと思うようになるのです。

 

さて、ここからが分かれ目。それは、確かに霊的世界への目覚めの第一歩ではあるのですが、社会適合がうまくできないというコンプレックスを解消できないままそっち側にのめり込んで行くと、これが「選民意識」に化けてしまうのです。なぜかと言うと、不思議世界と自己承認欲求とを単純にカップリングしてしまうために、その世界を知る「自分は特別」という思いを育ててしまうのです。そしてついには、「選民意識」を持つ者同士の醜い競争が起こるのです。

 

ここで考えてみなければならないのは「社会適合化」という問題です。今のこの腐った社会に、適合する必要が果たしてあるのか?ということです。その必要はありません。むしろ「適合化」を強いられることで、多くの人たちが苦しんでいます。しかし、現実世界は腐った面ばかりではなく、それと同じくらい喜びを感じる場面もあるのです。「スピリチュアル」に逃げ込む人たちというのは、その場面すら怖がって拒絶している人たちが実に多い。これではいけません。

 

いったい何のために物質世界に誕生して来たのか。陰陽二極性が相争うこの地球にわざわざ誕生して来たのか。それが嫌だったら、ずっと霊界にいればよかったのです。でも転生して来たからには、「よし、今度こそは」と決意して生まれて来たわけでしょう? その誓いを忘れてはなりません。

 

確かに、現実世界にはひどいことが多い。でも、ひどい社会だからこそ学べることも多いのです。筋トレに負荷が必要なのと同じで、霊トレにも負荷が必要なのです。それなのに、苦しいエクササイズを放棄して、逃げ込んだ「スピリチュアル・ワールド」をもひどい世界に変えて、一体それでどうするんですか? 本末転倒も甚だしいと言わねばなりません。

 

「スピリチュアル業界」のおぞましさというのは、これだけじゃない。今のような時代の転換期や年号の節目になると、必ず変なことを言い出す人が登場します。「○年○月までに××しないと、救われる最後の機会を失うぞ」とか、「大地震が来るぞ、火山が噴火するぞ」などと言っては人々を脅します。地球に暮らす人間は、こっちからあっち側を見ようとするクセが、どうしても抜けないものですから、このような不安を煽る言葉にはすぐに反応してしまいます。

 

でもいいですか? あっち側の本当の世界は「無時間」の世界なんですよ。それなのに、どうして制限時間を設けるんですか? 「ハイヤーセルフ」って何です? すでに完成の域に達している自分じゃないですか。未来のどこかにゴールした自分がいるんですよ。全部の「魂」が等しく「神」の子なのに、どうして「救われない」なんてことが起こり得るんですか。「脅し」に引っ掛かるなんて、あまりにもバカげています。宇宙の本質は生々流転です。地震や火山噴火が起きるのは当たり前じゃないですか。

 

浮遊霊や動物霊の手下となって働いている人は、8割、9割、本当のことを言って、あとの1割、2割で引っ掛けて来ますからね、ご用心。『引き寄せの法則』なんてのはその典型。同じ波長が引き合うというのは本当です。でも、このテクニックを使えば、お金だって、仕事だって、恋人だって、何でも引き寄せられますよって、人間のエゴを刺激しているのが解りませんか?

 

高次元の存在が、エゴを刺激したり、恐怖を煽ったりすることは絶対にありません。なぜって、その領域を卒業した「意識体」が、高次元(第六霊性密度)の存在なのですからね。でもそのような、人々を惑わすようなことを言う人たちも、その段階にある学習者たちには大いに寄与しているわけです。これぞ、まさに『引き寄せの法則』。需要と供給とがガッチリ噛み合っているわけです。

 

「神」は、あなたに、いつもあなた専用のスペシャルな「生け花」を生けて見せてくれています。その「生け花」をどう見るかはあなた次第。気づかずに通り過ぎることもできます。「あ、花だ」と、目を留めることもできます。「キレイだなぁ」としばし見とれて心を癒やすこともできます。ジーッと見た花の奥に、生命の神秘と輝きを見い出すこともできます。かと思えば、今まさに見せてくれている美を見ずに、枯れる日が来ることを心配して眺めることもできるのです。

 

あなたが見る「現実」は、あなたが「創る」のです。

さて、どう創る?

 

これまで見て来たことは、結局、全部が自己の解放を妨げ、「わが内に神がいる」という発見を阻害する要因になって来たのです。その真実に気づくまで、実に50年を要しました。これじゃダメ、これもダメ、この道もダメ、ダメ、ダメ、ダメ、というダメ出しの連続です。今になって思えば、それはみんな、今ある私のために用意されたギフトだったんですね。

 

さあ、それを、今度はみなさんにプレゼントです。みなさんは、もう私と同じ50年を過ごす必要はありません。10分で通り過ぎればいい。真理はすでに明らかです。

 

わたしの本質は身体ではなく、心奥にある「真我」であること。

そしてその「真我」は、有限ではなく無限の存在であって、

いつも宇宙とつながっているということ。

ゆえに、わたしの中に、つねに「神」が存在している、ということ。

 

エゴ、宗教、オカルトは、「アセンション」への三大阻害要因です。これらの誘惑に引っ掛からないように気をつけて、自分を信じて、熱心に行を続けていれば、7年のうちに必ず「アセンション」できます。今度のコロナ騒動で、私はそれを確信しました。もの凄い追い風の到来です。

 

ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine)」は、何も悪いことの便乗だけではないのです。「コロナ騒動」があったおかげで、人々の意識が大きく変わる可能性が出て参りました。この騒動が、本当に大切なものは何か、生きるとはどういうことか、を根底から考え直させるきっかけを与えてくれています。「アセンション」というものが、どこかの風変わりなオッサンが一人、トンデモ話を一生懸命になって吠えている、だけのものでは無くなる可能性があります。

 

私は「虹の学校」の活動を通じて、隠れたダイヤモンドの原石を発見し、自分が死ぬまでに、12人の「アセンション」達成者を生み出そうという目標を立てていました。しかしそれを今、10倍の120人のオーダーに変えようと思っています。そうすれば、次の世代には、120×120で14400人になる。今度の「コロナ騒動」が、それを後押ししているような気がするのです。

 

昨年から、来年度は変化の時だ、という予感がしていました。東京での人材発掘を終了して、これからは外に出て行こうと思っていました。(昨年65歳の誕生日を迎え、年金額が少し上がり、年間収入が127万円になりました。これで、年に3回くらいは、どうやら外出できそうな感じです!)その最初が1月の大阪だったのですが、今度の「コロナ騒動」で、あとが続かなくなってしまいました。

 

また昨年は、3泊4日の合宿形式で「アセンション・クラス」を都合4回開講してみたのですが、参加者には好評だったものの、定員割れが生じたりして、このやり方もイマイチだなと感じました。その際に、毎回、同じ話をするのなら、いっそのことビデオテキストを作った方がいいのかなと考えていました。そこへ今度の「コロナ騒動」が起き、Zoomというテレビ会議システムが脚光を浴びていることを知って、これを使えばインターネット上で『瞑想クラブ』が出来るかも?と考えました。

 

そのためには、スペックの強力なノートパソコンと、映像編集ソフト、ほか機材が必要です。購入費用については分割でなんとかなりそうなのですが、問題は10年間、あえて最新テクノロジーを拒絶して来たので、完全な浦島太郎状態であること。それと、一昨年から視力が急激に低下し、細かい文字で書かれたマニュアルがまったく読めない。近視に老眼に乱視に飛蚊症に白内障にドライアイにアレルギーも加わって、天眼鏡を使ってもよく見えない! さて、どうしたらいい?

 

それと、オープンではなくて、クローズドの仕組みにしたいんですね。不特定多数の人に顔を晒すことなんてとても耐えられない。拡散なんか望みません。むしろひっそりしていたいんです。大勢じゃなくていい。「なにがなんでもアセンションしてやるぞ」という真剣さを持った人だけ訪れてくれればいいんです。

 

「虹の学校」では、セミナーに来た人にはニックネームのプレートを付けてもらうだけで、どこの誰かといったことは一切尋ねません。「魂」だけを見る。その人の「魂」が、どの学習段階にあって、今の心の状態はどうであるかということは、部屋に入って来られた瞬間に分かります。いちいち指摘したりはしませんけれど。ですから、私の前で嘘はつけません。嘘をつけばすぐに分かってしまいます。その場の波動が一瞬にしてサッと変わるから。

 

これは、訓練によって後から身についたもので、「アセンション」すれば、誰でもそうなります。ごくたまにですが、最初から私に疑いの眼差しを向けて来たり、こいつの実力を一つ試してやろうとか、ノウハウを盗んでやろうとやって来られる方もいらっしゃいます。それらも全部分かります。年に2・3人は、私を激しく罵倒する人が現れます。それも事前に分かります。波動が分かるって、なかなかシンドイものなんですよ〜。

 

何でも見通してしまう人間は、もしかしたら怖いと思われるかも知れませんが、でも大丈夫。防御姿勢のバリアを張っていると、直ちにそれがキャッチされ、その穴から理由までが透けて見えます。ところが、オープン・ハートで来られる人は、それ以上は見えないんです。オープン・ハートのエネルギーで全身が包まれているから。北風よりも太陽。素直で、明るく、純粋であること以上に強いものはないんです。

 

オカルティックな知識満載の人や、サイキック体験への興味津々の方も、ご遠慮願いたいです。「虹の学校」はそういうところじゃないですから、来てもすぐに幻滅されると思います。

 

「虹の学校」は「ふつう」で「ありのまま」を目指したいんです。そうすると、メンバーシップの形態を取らないといけなくなるかも知れませんね。これらをどうしたらいいのか。映像面をその道のプロにお願いしたら費用が発生するでしょうから、そうなれば、メンバーシップ制に多少の課金も必要になって来るかも知れません。何かよい案やアドバイスがあれば、教えていただきたいです。

 

もし自分が神ならば、残る期間、この男をどのように使えばよいだろうか、といつも考えています。まだ、使い道は残っているだろうかとも考えます。もし気功治療をやらせれば、かなりの実力を発揮するでしょう。でもそれは、私でなくてもできる人がいる。リトリートや個人カウンセリングも、できなくはないでしょう。でもそれは、私には向いていない。となると、やっぱり「科学」と「美」と、その中間の「アート」を通じて語るのが、いちばん向いているのかな?

 

「虹の架け橋になりた〜い」と誓ったあの日の熱情が続く限り、そしてまだ使い道が残っている限り、宇宙の真理を説く活動を、私は続けて行きたいです。

お願い

ブログに書かれているメッセージの発信主体と、私(このBlogの管理人)とを同一視しないでください。私は単にパイプ役を果たそうとしているだけであり、ごく普通の人間です。それもどちらかと言えばヘナチョコの。私に興味をお持ちになっても、裏切られた思いになるだけです。

 

それよりも、メッセージ内容そのものに関心をお持ちになってください。メッセージが繰り返し語って来たのは、自分の内に光を見い出しなさいということと、自分の意志で行動しなさいということです。あなたに響く言葉が、もしもメッセージの中にあったなら、それは、今このタイミングに、ドンピシャリで天が直接あなたに送ったものと解釈してください。

御礼

先週の「ブログ掲載休止のお知らせ」の後、何人かの方から慰労のお言葉を頂戴いたしました。中には、海外在住の方からのものもあり、届くところには届くんだなぁとびっくりいたしました。時間を割いて、労いのお言葉をお寄せくださった方々、また同様の思いでおられる多くの方々にも改めて御礼申し上げます。

稚拙な文にも関わらず、これまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

共に学んで来てくださった皆さんへ ― 掲載休止のお知らせ

この『気づきの啓示板』は、2012年の4月2日に第1回めがスタートしました。ということで、4月1日の今日でちょうど7年が経過したわけです。書き始めた頃にはさしたる目的があったわけでもなく、わずか10行にも満たない文章量でしたが、途中で何回かの感覚的な変化があり、どんどん体裁が変わって行って、最後は今のような形になりました。

 

実は一年くらい前にも、またもや感覚的な変化があったのですが、その感じをうまく言葉で表現することは出来ません。しかし、なんとなく「もう終わりかなぁ」とは感じていました。それからは、週1回のペースでメッセージを掲載して行くことの義務感と、「終わりかなぁ」と思うことのせめぎ合いの中で、取り敢えずは頑張って掲載を続けて来ました。

 

一時は、「一生続けよう」という気にもなったのですが、それが2週間ほど前に、突然「止めよう」に変わりました。その時、この4月1日で、ちょうど7年を終えることに気がつきました。「そうか、7年経ったのか。こりゃあいい」と思いました。7は神秘数で、一つの段階的終了を意味します。それが分かったら、なんだか気持ちが開放感で満たされて、晴れ晴れして来ました。

 

この一年間ほどは、1回分を仕上げるのに3日くらい掛かっており、やっと掲載を終えてほっと一息つくと、もう次のテーマを探さなくてはならないのです。書く前には、完全に一人きりになって「今、このタイミングで、人々に有益な、最も適切なメッセージをお授けください」とお願いしてから、インスピレーションがやって来るのをじっと待ちます。ですが、すんなり事が運ぶことは滅多にありません。

 

最初の1ブロックが固まるまでがとにかく苦しい。2時間、3時間経っても何も浮かばない時には、焦る気持ちも出て来て、余計に混乱してしまいます。そんな時に無理やり言葉をひねり出しても、後で修正されてしまうのがオチです。時には、一日掛かって書いた文章がそっくりゴミ箱行きなんてこともあります。だんだんコツを掴みかけて来てはいるのですが、最後まで、上手い方策は見つかりませんでした。これが私の限界なのでしょう。

 

けれども、この7年間で、私は多くの「智恵」を授かりました。この予期せぬ仕事を設定されたことによって、私は大いに鍛えられました。それは、私にとっては一つの行でしたが、その成果のおすそ分けを、世の中に出すことも出来ました。このブログの読者数は非常に少ないのですが、今まで熱心に読んでくださった人たちは、共に学習を続けて来た同志であると、私は思っています。

 

しかし、友よ。机上での学習の段階はもう終わりです。『虹の学校』も、次のステージへと向かう時が来ました。これからは、あなた自身が、実践的な生き方を通じて、周囲の人たちに、高い波動を投げ掛けて行くのです。いつまでも、他の誰かを通じて得られるメッセージに期待し続けていてはいけないのです。自信を持って、自分自身の内なる声に耳を澄ましてください。あなたには、それが出来ます。それでこそ本物。あなたは本物となります。

 

10年前、私は、そろぞれの接点が全くない3つのチャンネルから、自分の将来の役割について、同じことを聞かされました。いわく「“生き方”を説く人」になるというのです。「生き方」だってぇ? それを聞いた時には、全くわけが分かりませんでした。私は50代半ばを過ぎておりましたし、カミさんを亡くした直後で、仕事はないし、鬱だったし、そんなものがあればこっちの方が聞きたいと思っていました。

 

しかし、背中を押されるようにして始めた『虹の学校』の活動と、この『気づきの啓示板』ブログが4年めを迎えた頃になると、いつの間にか、本当に「生き方」についてを語り出している自分がいたのです。その時になって、自分が大変な誤解をしていたことに気づきました。「“生き方”を説く」というのは、この世的な「生き方」ではなく、霊的な「生き方」のことだったのです。

 

若い頃は、私も人並みに社会的な成功を夢見ていました。そして、そのための必死の努力もして来ました。ですが、何をやっても挫折の連続で、ついぞ報われるということはありませんでした。しかしその体験が、今になって大きな意味を持っていたことに気がついたのです。つまり、それは「チャンネルを変えろ!」という示唆を得ていたのですね。表側と裏側の。

 

実は、表が裏なのであり、裏が表なのだということです。これは、古代より言われて来た「真理」の一つなのですが、多くの人と同様、私も言葉としては知っていても、その意味を〈実感として〉掴んでいたわけではありませんでした。実に、ここがポイントで、霊的世界を全否定する人はもちろんのこと、肯定する人であっても、99.99パーセントの人が誤解している部分なのです。

 

どういうことかと言いますと、霊的世界を肯定したり大いに興味を抱く人であっても、その視点は、〈こちら側から、あちら側を覗き見る〉という立ち位置を、どうしても捨てきれないのです。すると、本籍地はあくまで「この世」に置いた中で、向こう側を見ようとするのです。そのため、そこから垣間見える世界は、不思議ワールドであったり、オカルトであったり、全部が、いわゆる超「常」現象になってしまうのです。

 

これが、人智を超えた特別な「価値」に見え、人々にエキサイティングな興味を抱かせるのです。嘆かわしいことには、ここに「この世」的な成功のスケールを当てはめて人々を誘う、自称「霊能者」がワンサカといるのです。けれども、これらは、全くの本末転倒と言わねばなりません。なぜならば、そうした視点は、エゴのために霊的パワーを利用するという、自分の「カルマの強化」にしかなっていないからです。

 

ですが、このことを、多くの人は理解できません。逆に言えば、それほど「この世」的な成功を夢見させる「カルマ」の力は、絶大だということです。そもそも、「この世」に生まれた目的を、〈霊的向上を目指すため〉と捉えている人は非常に少ない。加えて、そのためには〈得るのではなく、捨てるのだ〉となったら、その道に飛び込むのには、大変な勇気を必要とします。まさに、天と地が引っ繰り返るほどの、価値観の大転換です。

 

そこで、アセンション出来る人というのは、10万人に1人とか、100万人に1人となってしまうのです。いったい何がそれほど難しいかと言えば、高みを目指して、階段を昇る努力をひたすらするということではないのです。むしろ逆、階段をすっかり降りてしまうことだったのです。これが、〈生きることとは、社会的存在であり続けること〉と刷り込まれている現代人には、もの凄く難しいハードルなのです。

 

この『気づきの啓示板』で繰り返し語られて来たことの一つは、この〈社会的存在が自分だ〉という思い込みが、実は錯覚でしかないということに気づいてもらうことでした。そして反対に、これも繰り返し語られて来たことは、あなたの本体(非肉体的なもの)は、いついかなる瞬間であっても「自由」なのだということです。これこそが、まさに天と地が引っ繰り返る逆転なのです。

 

ところが人間は、実は表と裏が逆転しているのだということに気づきませんし、その意味も理解できません。そこで皮肉なことに、「社会的存在」であろうとして、自分で自分の自由を奪い、自分で自分を苦しめ、自分で自分を不幸にさせているのです。でも、「実は逆転しているのだ」ということにさえ気づけば、茶番劇ももっと有意義な演じ方ができますし、また、そういう人が増えれば、地球人は今度こそ、このカルマを清算できるのです。

 

もういい加減に、あなた方はこの逆転の「真理」に目覚めるべきです。あと20年。あと20年の間に、目覚める人から目覚めて行って欲しいのです。

そこで今日は、締めくくりのメッセージとして、今後の行動の指針にしていただくためのポイントをいくつかお伝えしておきます。

 

◉あなた方は「多次元的存在」

ここで言う「次元」は、何度も言って来たように、数学的次元を指すものではなく、宇宙全体を成り立たせているところの「振動するエネルギー体」を、振動数別に大きく7つに分けたものです。正式には「霊性密度」と言います。この振動数の違いは、階段状(算術級数的)ではなく、渦巻状(幾何級数的)に変化しているのですが、それを便宜的に7段階に分けて、各段階を「次元」と言っているのです。

 

7段階の階層は、音階のドレミファソラシに対応していることから「宇宙鍵盤」とか「オクターブ」とも呼ばれます。この他、虹の7色と対応して説明されたり、チャクラとの関係や、日月火水木金土の惑星との関係で説明されたりもしています。このように「7」という数字は、様々なところで見られる神秘数になっているのですが、そこで示していることは、宇宙の巨大構造というものは、実はたった一つの「振動するエネルギー体」の、振動数の違いだけで全てが成り立っているということです。

 

さらに注目すべき点は、人間は、この全ての次元(霊性密度)を、同時に所持している存在だということです。つまり、成り立ちにおいて、人間と大宇宙とは相似形を為しているのです。これが、ヘルメスが説くところの「下なるものは上のごとく、上なるものは下のごとく」の意味なのです。大宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)とは、基本的に同じだということです。

 

大宇宙を大海に喩えれば、あなたは一滴の雫です。ほんとうに小さな小さな一滴の雫ではありますが、しかしその一滴の雫が集まって、大海を構成しているのです。しかもその一滴の雫は、間違いなく大海の同じ成分を有しているのです。そこで、もしも大海を「神」と呼ぶのであれば、「神」はあなたの外側にあるのではなく、紛れもなくあなたの内側に存在すると言えるのです。これが、異端とされて来た実は真実の神学なのです。

 

◉意識もまた多次元に存在する

さて、「多次元的存在」というものを別の視点から眺めてみましょう。それは「意識」です。あなた方の「意識」は、決して一種類ではありません。起きている時の意識と、眠っている時の意識、またウトウトしている時の意識には、明らかな違いがあることをあなたもお認めになるでしょう。実は、あなた方の「意識」は、これだけではなく多層階に渡ってあるのです。

 

それは、「存在」の階層構造と基本的に同じなのです。勘の言い方は、先ほど、大宇宙はたった一つの「振動するエネルギー体」の振動数の違いだけで成り立っている、と言った部分にピン!と来ることでしょう。そうです。「存在」と「意識」とは、実は同じものなのです。えっ、「存在」と「意識」が同じだってぇ? これは、地球に普通に暮らしている方からすれば、驚くべき結論であることでしょう。

 

今までに、そんな説明は聞いたことがないでしょうし、意味もまるで解らないでしょうから。あなた方の常識とは全く違いますからね。でも、こんな例を考えてみてください。あなた方は、宇宙が138億年前のビッグバンから始まったと聞かされます。すると「そういうものかなぁ」と思って、もし宇宙の誕生から今までを1日の時間にしたら、人類誕生は23時59分34秒過ぎだ、などと言って済ましています。

 

でも、ここにはパラドックスがいくつも隠れていることに気づいていません。仮にそのように始まったとして、始まる前はどうだったのでしょうか? 素朴な疑問です。また、空間が膨張したと言って、その模式図を描いたりしていますが、外側に描かれている “場” はいったい何なのでしょうか? あるいは、138億年前に誕生したという「存在」については、いったい誰がそれを「認識」出来たと言うのでしょうか? もしも「認識」出来る主体(それも存在)が無かったとしたら、「在る」ということの「認識」は不可能です。

 

よって、こう考えるしかありません。「存在」と「認識」とは、同時に、パラレル(並行的)に誕生したのです。当たり前です、元々が同じものなのですから。そして、それは「無」から誕生したのではなく、別の宇宙から絞り出されたのです。宇宙は、我々が認識できる「この宇宙」だけではありません。無数の別の宇宙があるのです。このようにして、宇宙は明滅を繰り返しながら、永遠の無時間を生きているのです。

 

◉自分の「意識」を意識して生活する

話を人間の「意識」に戻しましょう。人間が「多次元的存在」であるということは、「意識」もまた多次元に渡って存在するということなのです。ごく大雑把に言って、人間の意識は、三次元(心)、四次元(魂の下層)、五次元(魂の上層)の間で、たえず揺れ動いています。本当は、全部の「意識」を同時に働かせているのですが、フォーカスを与えている中心点がどこか一部に偏るのです。

 

*この他に、一・二次元、六・七次元の意識もあるのですが、通常の状態では知覚できません。

 

それはちょうど、アナログ式のチューナーの針を動かしているようなものです。あなた方は三次元的な「意識」だけではなく、四次元的な「意識」や、時に五次元的な「意識」をも活性化させています。そういう瞬間があるにも関わらず、普段そのことを全く意識していません。それは、そのような理屈を誰からも聞かされたことがありませんし、また多次元に渡ってある「意識」に、意識的にフォーカスを当てる訓練も積んでいないからです。

 

そのため、せっかく直感やインスピレーションを得ても、これを「気のせいだ」と思ってみんな無視してしまいます。その代わりに、肉体が知覚する三次元的な「意識」にだけは素早く反応し、そこで得た「認識」が本当の現実だと、強く思い込んでいるのです。近年、静寂な時が失われたせいで、この傾向がますます強まっています。しかし、事実は全く逆で、それらは全て幻なのです。本当のあなたの「認識」は、肉体的な知覚を超えた領域にあるのです。

 

なぜかと言えば、肉体的な知覚によって生じた「意識」は、肉体の消滅と同時にみんな消えて行ってしまいます。ところが、その体験から解釈した「認識」の一部は、四次元的「意識」や五次元的「意識」に変換されて蓄えられるのです。これが、いわゆる「カルマ」となり、あなたの「霊魂」にアイデンティティを付与します。そして、この「カルマ」を清算するために、また地上に輪廻転生して来るのです。

 

ですから、このメカニズムをよく知った上で生きれば「生き方」が違ってくるのです。確かに「この世」は生きにくい。不正や、不条理や、暴力が横行しています。けれども、あなたが自ら望んで誕生して来たことです。そこには目的があるのです。ですから、地上世界を全否定してはなりません。地上でしっかり生きながらも、三次元的な「意識」には出来る限り囚われることなく、いつも五次元的な「意識」を働かせながら行動して行く、ということが大切なのです。

 

そして、それは可能です。例えば、草取り一つする時でも、三次元的「意識」にフォーカスを当てるのではなく、五次元的「意識」にフォーカスを当てながら同じことをしていくのです。そうすれば、あなたの「意識」には五次元的エネルギーが流れ込み、あなたをハッピーにしてくれます。幸福とは、条件ではありません。幸福だと感じている「意識」状態です。あなたの「意識」がそうなれば、周囲の景色がきっと輝いて見えるはずです。

 

三次元的「意識」が生み出す感動と、五次元的「意識」が生み出す感動は、全く異質なものです。この違いを、よ〜く感じ取って区別しなさい。三次元的な感動は「感情」が生み出した感動です。けれども、五次元的な感動は、本質と出会った際の「魂」の震え(バイブレーションの共鳴)なのです。「これだ!」「ここに真実があったのか!」という。あなたにも、きっと経験がおありでしょう。嬉しいわけでも悲しいわけでもないのに、ただ涙が溢れ出て来たということが。

 

◉「瞑想」を習慣化し、高い波動を固定する

そして、このような「意識」をコントロールする訓練が、いわゆる「瞑想」なのです。ですから「瞑想」は、霊的向上を目指す者にとっては、必須の生活習慣です。「瞑想」習慣を日常的に取り入れて習熟すれば、「意識」のコントロールが次第に出来るようになり、「心」の暴走にも悩まされることがなくなります。そして、やがては、内なる真実の声に、耳を傾けることが出来るようになることでしょう。

 

でも、そうなるためには、何より静寂の中に身を置かなくてはなりません。小川のせせらぎを聴いたり、月夜に鈴虫の鳴き声を聴いたりしていた時代とは違って、現代社会ではこんなことすら非常に難しいのです。街もお店も絶えず騒音で溢れ返り、メディアはひっきりなしに暴力的で刺激的な情報を垂れ流しています。多くの人は、もう麻痺してしまって解らないのでしょうが、これらの波動はもの凄くザラザラ、トゲトゲしているのですよ。

 

それらの粗雑なバイブレーションに休みなく晒されて、今や現代人の心はズタズタに傷ついています。結果として湧きあがる不安感を、なんとか埋めようとして、さらに情報の虜になって行くという悪循環。しかし情報は、決して心のスキマを埋めてはくれませんよ。むしろスキマに入り込んで、傷口を押し広げます。あなたの心のスキマを埋めてくれるものはただ一つ。その奥にある、心を超えたチャンネルだけなのです。どうか、そこに目を向けて欲しい。

 

チャンネルが開いた時、あなたは、自分にも周囲にも、高い波動を送り出せる存在となっています。「何を為すか」は問題ではありません。「どのように為すか」が重要なのです。あなたは、あなたの特性を活かし、ご自分が出来ることをすればそれでよいのです。全てのことを、自分一人で出来る人間は誰もいないのです。誰もが支え合って存在しています。その時に、自分が為す行為に、いつも高い波動を載せて行うということが、何よりも大切なのです。

 

そうすれば、その波動が、周囲の人々に影響を与えます。全ては「波動」です。「波動の法則」によって展開しています。あなたが高い波動を出せば、周囲に高い波動が伝播し、あなたが低い波動を出せば、低い波動が伝播して行くのです。実に簡単な理屈です。しかし人間は、その簡単な理屈を知りません。そのため、故意に、刺激的な「低い波動」を出す者たちによって、コントロールされてしまっています。

 

◉激動の時代を、高い波動で生き切る

これからは、これまで以上の激動の時代に突入します。その時に、あなたを狙う罠に、簡単に引っ掛からないようにしてください。と言っても、怖れることはありません。むしろ「怖れ」そのものが罠なのですから。不正や、不条理に対しては、黙認するのではなく、きちんと向き合い声を挙げてください。でも、闘争は勧められません。なぜなら「闘争」そのものが、波動を低める罠なのですから。

 

ひとから、どんなにバカにされても、蔑まれても、罵倒されても、叩かれても、蹴られても、あなたは、どこまでも「愛」に生きてください。『北風と太陽』のあのイソップ寓話を思い出しましょう。闘うのではなく、愛のエネルギーによって、固まった結び目をほどくのです。ご自分の底に流れる、この力を信じてください。

 

この道を歩く者には、この世的に言って良いことは少しもありません。むしろイバラの道です。けれども、あなたは既にご存知のはずです。自分が、そうせずにはいられないことを。そのイバラの道を行くことが、自分の最高の喜びであることを。

 

最近になって、私も、7歳の時に突如内側から沸き上がった言い知れぬ感動とともに「自分はブリッジの役割を果たすぞ」と誓った日があったことを思い出しました。「ブリッジ」などと言う言葉はもちろん知りませんでしたが、その時、そのような概念がまざまざと浮かんだのです。そしてまさに、気がつけば、「虹の架け橋」の仕事を、50年後に、導かれるようにして私はしていたのです。

 

すべては、このためにあったのですね。その役目が、どれだけ果たせたかは判りません。けれども、とりあえずは、インターネット上でお話し出来ることは、これまでのメッセージを通じてすべて伝え切りました。7年前に、S.O.さんとした約束も、これで果たせたかな?と思っています。いつか、このブログのメッセージを、テーマ別にまとめてくださる方が現れないかなぁとも思っております。どなたか手を挙げてくださいませんか?

 

身近な人に「終了」を告げましたら、何人かの方から、月1回でいいから、それがダメなら気が向いた時でもいいから、続けて欲しいと言われました。そこで、一応「休止」としておきましたが、同じ形式での再開はたぶんないだろうと思います。質問があればお受けします。今はとにかく少し休みたいです。休んでから、次のステージに進みたいです。この次には、もう少し、自分が楽しんで出来ることをしたいです。

 

最後に、これまで私を支えてくださった皆さんに感謝の意を捧げたいと思います。特に、私に健康体操を伝授してくださったYさん、また体調不良の時に治療をしてくださったもう一人のYさんには格別の謝意を。あなたたちとの出会いがなければ、とても続けられませんでした。そして、相談事に乗ってくださったり、お金や食べ物を恵んでくださった多くの方々にも。また励ましのメールをくださった方々にも、接触のあった全ての人にも御礼を言います。

 

ありがとう。皆さんの励ましによって生きて来られました。

後から来た者が先になる

今年の夏頃から、この『気づきの啓示板』へのアクセス数が急に増えました。と言っても、全部の数はやはり少ないのですけれど。宣伝っぽいことは何もしていないので(むしろ隠れるようにしているので)、影響力のあるどなたかが紹介してくださったのかも知れませんね。そのうちの何割かの方たちは、引き続きバックナンバーを熱心に読んで下さっているようです。ありがたいことです。

 

私はいつも、最後は排斥され、時に罵倒され、いじめられて孤立し、周囲の人たちの無理解というものに、子どもの頃から悲しい思いをして来ましたので、たとえ少人数でも、私の話に耳を傾けて下さったり、セミナーに来て下さったりする人がいることはとても嬉しいです。すべては、今あるための出来事であったと、その計らいに納得し、責任感に身が引き締まる思いでいます。

 

アクセス数のことは気にしないようにしています。ですが、投稿の際に、前日のアクセス数というものをイヤでも目にします。投稿スペースの横にそれが表示されるようになっていますので。それで時々、エッとびっくりすることがあるのです。これまでにも、そのようにして、階段を昇るように何段階かの突然の上昇というものがあり、読者が少しずつ増えていきました。

 

その突然の変化というのは、私にとっても同様で、ある日を境に、急に感覚的なものが変わるのです。その変化が、気持ち的にどんどん楽になって行けば良いのですが、ますます重苦しく、辛くなって来ています。以前は4、5時間で一篇が書けていたのですが、今は丸々2日、下手をすると3日を費やすこともあります。その間、集中力を切らさず、憑依状態を維持し続けるのは大変です。いつも逃げ出したい気持ちを半分抱きながら、なんとか凌いでいるというのが実情です。

 

なぜそんなに時間が掛かるのかと言いますと、一つには、一つ一つの言葉を選択するのに何回も試行錯誤を繰り返しているためです。自分は文章が下手なので、出来る限り破綻のないように、スッと読んで頂けるようにと、幾度も書き直しを行っています。ちょうど絵描きさんが、何度も筆を重ねるような感じでしょうか。「よし、これでいい」となるまでに、もの凄く時間が掛かってしまいます。

 

もう一つは、以前のようにはインスピレーションが入って来なくなったことです。左前頭部に感じていた、繋がっているという感覚が無くなってしまったのです。これには動揺しました。しかしこれまでにも、およそ半年スパンで次々と感覚的な変化が起きていたので、もしかしたら、入っては来ているのだけれど、その感覚が変わったというだけのことなのかも知れないと思い直し、勇気を鼓舞して続けました。

 

そのような時に、ホワイト・イーグルから、ずばり次のようなヒントを頂いたのです。「新しいことを知らせる時には、レコード板に新しい溝を刻まなければならないが、その者(霊媒)が既に理解している時には、われわれとしてはそちらの方向に針を押し出すだけでよい」と言うのです。そして、「霊媒を使えるようにするまでにはとても苦労する」とも語っていたのでした。

 

*レコード板を知らない世代には、この喩えは、聞いても解らないかもネ?

 

これには驚きました。私はずっと、自分がアクセスにあくせくしているのだと思っていました。ところが、そうじゃなかったのです。上の存在の方が苦労していたんですね。目を付けたこいつを、どうにか使えるようにしてやろうと、向こうが試行錯誤していたのです。それを知った時に、「なるほど」と深く納得し、指導に当たる存在の忍耐というものを知ったのでした。

 

とにかく、そんなこんなで、このワークを継続することが、自分にとって今は非常な難行苦行となっています。「苦行はダメだよ」と書きながら、自分では苦行にしちゃっているのですから情けないです。未熟です。ですが、そこを出来るだけ出さないように、今という時代における、自分の役割を信じて、爽やかな風と、暖かな光を、毎週お届けしたいと思っているのですが‥‥ネ。

 

さて、タイトルの「後から来た者が先になる」は、混んだエレベーターに乗り合わせた際によく見られる現象(先に乗り込んだ人は、後から来た人を入れてあげようと苦労しているのに、降りるに時は後から来た人の方がサッサと先に出て行く)‥‥を、別に言ってるわけじゃあないです。これは『マタイによる福音書』(19章30節)にある「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」をもじったものです。

 

私としては、基本的には、旧約・新約の各『聖書』というものがどうしても好きにはなれません。歪みがあり過ぎるからです。ですが、このブログでも何度か『聖書』の中にある言葉を引用しています。それは、その言葉が、比較的よく知られているということと、中には真理を突いた言葉もあるからで、決して『聖書』に権威を置き、その内容を解説しようとしているわけではありません。念のため。

 

この『マタイによる福音書』(19-30)は、天国に行く(『虹の学校』流に言えばアセンションする)ことを目指して、以前からずーっと頑張ってきたような人の多くは、天国行きが後回しになってしまうのであり、そうではなくて、むしろぽっと出のような、new comer(新参者)の人の方が、先にアセンションすることになるだろうね、ということを言っているのです。

 

えーーーっ!と、ある意味で、これは衝撃的発言ですよね。これじゃまるで、本当に混雑時のエレベーターと同じことになってしまい、ひどく理不尽なように思えませんか? それで、『マタイによる福音書』では、それがどういう意味かということを解説するために、次の章に、喩えとしてぶどう園での日雇い仕事の話を持ち出して来るのです。

 

それはこんな話。夕方近くになっても仕事にありつけない人がいた。ぶどう園の主人は、その人を雇い入れ、作業終了後にみんなと同じように1デナリオンの報酬を支払ったというのです。これで、朝から働いていた人は怒っちゃった。「そんなの不公平じゃないか!」って。すると主人が言うのです。「私のお金を私がどうしようと、私の自由じゃないか。それをあなたは妬むのか」と。

 

この喩え話をした上で、もう一回「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20-16)とわざわざ強調しているのです。

 

う〜ん、でもこの喩え話は、うまくいっているとは思えませんねぇ。一応、最初に「これは天国の喩え話だよ」と断ってはいるのですが、「仕事」と「報酬」ということを、(それは、誰もが解る身近な概念に置き換えて、ということだったのでしょうけれど)どうしても地上世界の論理で見てしまいますから、喩え話を聞くほど、却って訳が解らなくなっていってしまいます。

 

あなた、解ります?

 

ぶどう園というのは「天国」の喩えですから、そこの主人というのは「神」のことです。その「神」は、「みんなに等しく1デナリオンを与えることを、私は決めているんだよ」というわけです。この場合の「お金」とは、もちろん、愛とか救いとか祝福ということを言っています。ですから、そこに一切の不平等は無いのです。でもそれを不公平だと感じるのは、先に「仕事」に着いた者が、「報酬」を「労働」の対価だと考えていたからです。つまりは「契約」です。

 

早くから来た人は、「朝から夕方までちゃんと働くから、その分の報酬はきちんと頂きますからね」と思っている。そこへ、夕刻近くに来て、たった1時間くらいしか働かない人も同じ報酬を受け取ったものだから、「神」に文句を言ったわけですね。「よう、神さんよ。そりゃ、ねえだろう。俺は、朝からずっと働いていたのによ。後からちょこっと来たこいつにも同じ金額だなんて」。

 

もう、なぜ「多くの先の者が後になる」かがお解りでしょう。決して全員がそうなるとは言っていないのです。(多くの)と言っている。そうなりがちな傾向があるよ、というわけです。熱心な信仰者ほど、「自分はこれだけ信じているんだから、これほど熱心にやっているんだから、きっと神の祝福を貰える」と考える。そして、後から来る新参者には、先輩風を吹かす。

 

でも、ぶどう園の主人は、つまり「神」は、そんなの関係ないよ、というわけです。「私は、誰にも同じ報酬を(つまり祝福を)与えるんだよ」と。でも、その「受け取り方」に違いが出て来てしまうということです。同じ1デナリオンでも、「ああ、ありがたい」と思う者もいれば、「これほど信仰しているのに、これじゃ少ない」と思う者もいれば、「あの人に比べて、自分は損をしている」と思う者さえもいる。

 

もし、あなたが「神」の立場だったら、より熱心な人に、より古株の人に、より多くの報酬を与えますか? だとしたら、随分と狭量な神様ですねぇ。

 

でも、あなたなら、きっとそんなことはしないでしょう。どの人にも、分け隔てなく、慈愛の目を向けることでしょう。そして、人間社会を見て「おやおや、まあなんと、困ったものだねぇ」と、時々こぼすのではないでしょうか。さて、今度は地上にいるあなたです。そんな「神」の想いを汲むには、どう生きたらいいと、あなたなら考えますか? そう、その通り。いつも言っているそれですよ。

 

最近になって、「後から来た者が先になる」には、もう一つの意味があることに気づきました。これはインスピレーションで入って来ました。すべては波動です。波動の法則です。『虹の学校』だって、5年前よりは大きく成長しているのですよ。宇宙の真理への理解が、ずっと深まっているのです。ということは、後から来た人は、今のこの波動を受け取る用意が出来ている人、合っている人ということになります。

 

ですから、「後から来た者が先」になってしまうのです。先日、初期の頃からずっと残っていて下さるごくごく少数の方の前で(99パーセントの方は、早々に去って行かれます 。•́︿•̀。 )その話をしたら、「じゃあ、あたしたちはどうなんだ」と突っ込まれ、「それは‥‥、共に成長して来たということです」と、冷や汗をかく想いをしたんですけれどネ。あ、イヤ、それは本心ですよ。

 

結局、生きることが、すでに学校なんです。何も、必ず『虹の学校』に来て学ばなくちゃならない、な〜んてことは微塵もない。日々、体験する出来事、苦悩、辛さ、そういったものが激しければ激しいほど、あなたの「心」というものが耕やされ、鍛えられていっているわけです。そんな時に、どういうわけか『虹の学校』に縁が生じて、モヤモヤしていたことの理由が、まるでパッと灯りが点ったように解る。

 

それで、いいわけなんです。その一瞬でいい。そこに価値がある。

その後、また別の道に行ったっていいんです。

 

結局、時間というものは無いのです。

言い古されたことですけれど‥‥。

そして、相変わらず意味が解らないでしょうけれども‥‥。

 

「後から来た者が先になる」というのは、この世の時間軸概念の中で見た時に、そう見えることもある、というだけのこと。周囲に起こる出来事は、すべて、あなたにとってのグッドタイミングで動いているのです。でもその意味は、受け取る側のあなた自身のあり方と、解釈によって変わってしまうということ。グッドタイミングを、生かすも殺すもあなた次第。

 

ですから、捕球の仕方を、日頃からよく練習して起きなさい。

ふいに来た豪速球も、しっかりと受けとめられるように。

今この瞬間の気づきが、あなたを変えるんですからね!

よくある質問

セミナーなどでよく訊かれる質問をまとめてみました。

 

Q.あなたは霊能者なのですか?

 

A.いいえ、霊能者ではありません。人間誰しもが持っているという意味においては、私にも少しは霊感があります。しかし、いわゆる「霊能者」と言われる人のような特別な能力は所持していません。アカシックも読めませんし、予言もできませんし、オーラも見えませんし、スプーンも曲げられません。どちらかと言えば、劣等意識の強い「0能者」で、へなちょこ人間です。

 

メッセージの語り手と、私とは全くの別人です。私も、日々、反省と忍耐と努力を重ねる、ただの一人の求道者に過ぎません。

 

Q.宇宙と繋がったメッセージを下ろしているとのことですが、なぜそんなことが出来るのですか?

 

A.最初から出来たわけではなく、徐々に鍛えられたのです。上からによって、用いられるように。この『気づきの啓示板』も、最初のころと今とでは、レベルやスタイルがまったく違って来ているのがお分かりいただけると思います。途中、一段また一段と、階段をジャンプするような感覚的な変化があり、その度に内容が変化していきました。

 

いちばん最初は、「神」という言葉を出すことにもかなりの抵抗感がありました。しかし今では平気です。初期のものは未熟で恥ずかしいのですが、変化の過程をありのままに見ていただいた方がよいと考えて、そのままにしてあります。誰もが同じことが可能だということを、敢えてみなさんにお伝えするためにも。

 

Q.具体的には、何と繋がっているのですか?

 

A.ソースが何であるか、またどの霊性密度にいる存在なのかも、今のところ、私には分かりません。これは私のテレパシー能力が低いせいでもありますが、ソースにとっては、名前を明かすことが別に本意ではない、という面もあると思います。どうも複数おられるようで、男口調になったり、女口調になったり、軽いノリでジョークを言ったりと、様々です。

 

Q.どのようにして、このメッセージを書いているのですか? これは自動書記のようなものですか?

 

A.いいえ、自動書記ではありません。私のコントロール意識は失われておらず、ボーッとした感じではありますがちゃんと起きております。そのため、タイピングしたメッセージ内容が、果たして自分の考えなのか、上からのものなのか、区別が判然としません。そのことに、これまでの間ずっと葛藤があり、コンプレックスも感じています。

 

自分の場合、声が聞こえるわけでも、文字が見えるわけでも、イメージが浮かぶわけでもありません。何かもやっとした概念があり、それを、自分の引き出しにある言葉から、適当なものを選び出しては、彫刻のように創り上げていくといった感じです。

 

この、言葉を選び出すという作業が非常に忍耐のいるもので、自分の未熟さ、無能ぶりがさらけ出されるのでとても恥ずかしいです。そのため、文字校正以外では、自分がタイピングしたものを読み直すことはありません。その場限りで、全部、忘れるようにしています。

 

構成のようなものは一切考えておらず、いきなり書き始めます。呼び水のために、自分のことや、身近な出来事や、社会現象を先ず取り上げることが多いです。とにかく、最初の1ブロックが書き上がると、後からは、次から次へと次のブロックの概念がやって来ます。

 

よく「長過ぎる」というお叱りを受けるのですが、長く書こうと思っているわけではありません。やはりシンドイですし、私も出来れば短い方がいいのですが、後から後からモヤモヤがやって来るのです。きっと、しっかり伝えたいという思いが、上の存在たちにはよほど強いのでしょう。

 

そうやって、連携パスのようにブロックを繋いでいくと、だんだんと自分の波動も上がって来て、ついには憑依したような言葉が出て来ます。この状態の時の一人称は「わたし」と書いており、前半の「私」とは区別しています。これはハッキリ分かれるというよりも、どちらが優勢にあるかという違いです。私には明確な区別がつきません。

 

ですから、ニールさんの『神との対話』シリーズを読んだ時には大変な衝撃で、その内容もさることながら、どうやって「自分」と「神」との言葉を分けて記述できたのかと、驚嘆しました。(一度だけ、同じような感覚になったことがあります。)

 

そのようなわけで、コンプレックスと恥ずかしさを抱えながら継続している作業なのですが、最近になってようやく観念したと言いますか、自分は自分、自分がやれるスタイルでやるしかない、これが自分の役割、と思うようになりました。

 

考えてみますと、自分にさしたる「霊能」が無かったことは、今世におけるギフトであったかも知れません。もし「霊能」があれば、「霊能」に溺れて錯覚し、「真理」探求の姿勢を持てなかった可能性が大です。そう考えると、私は、この私の今世の役割を、徹底していく他はなさそうです。

 

これからも、出来るだけ慎重であり続けます。どう受け止めるかはみなさん次第です。批判もどうぞなさってください。それは自由です。みなさんの今後の人生の気づきに、霊性の向上に、このブログのメッセージが少しでもお役に立てれば幸いです。

 

Q.なぜ、普通の人が知り得ないことを知っているのですか?(2018.8.12 追記)

 

A.私がお伝えしていることに、目新しい情報は殆どありません。古代より伝えられて来た普遍的真理を、現代の言葉で、現代のツールを使って、現代人のハートにも響くように、焼き直しして語っているだけのです。ですから、お伝えしている情報はみなどこかに原典があるのであり、皆さんが直接お知りになることも可能です。

 

宇宙には、あらゆる情報が詰まった書庫、通称「アカシック・レコード」があります。この書庫から自由に情報を取ったり、また高次元の存在が語り掛けて来る言葉を受信できるという能力を持った人が、いつの時代にも少数ながらおられます。そして、そのようなプロセスを経て地上に下された言葉が、すでにたくさん公開されているのです。

 

私自身にはそのようなテレパシー能力はないのですが、どこにどんな情報があるかということを(上から)タイミングよく知らされ、それによって知識を増やして来ました。また、私には本物とニセモノの違いが直感的に判ったほかに、異なった場所にあるAという情報とBという情報の関連性や構造的位置づけといったことが、パッと絵が浮かぶようにして分かったのです。

 

そのようなことで、だんだんと、普通の人の目にはなかなか触れない、隠れた、深部にある、本物の智恵が、自分に届けられるようになりました。しかしながら、残念ではありますが、世に溢れる、この分野の情報の99パーセントは、どうでもよいことか、ニセモノか、あなたを魔界に引きずり込もうと狙っている情報ばかりです。それは、人類の段階がまだそこに留まっているから。

 

智恵というものは、その人の成長度合いに応じて届けられるものです。小さな器にいくら水を注いでも、大半は零れてしまいますからね。ですから、今あなたが、このメッセージに目を留めて下さったというのは偶然ではありません。あなたの器の準備が整い、レベルが合って、そうしたタイミングが訪れたということを示しています。ですからどうぞ、ここを踏み台になさってください。

 

虹の学校は、あなたのような真の智恵を求めている方に、もう右往左往しなくても済むように、早道の場を提供してあげたい。そして、純粋であるがゆえに躓いてしまった人たちを、「大丈夫だよ」と励ましてあげたい。そのために、道しるべとなる言葉を、現代人のハートにも届くように語り直すことが、今世の自分の使命だと考えております。

 

Q.この『気づきの啓示板』ブログには、どうしてコメント欄がないのですか? またFacebookなどのSNSを利用されていないのはどうしてですか? 読者が少ないと書かれていますが、利用すれば、もっと多くの人に届けられると思うのですが。

 

A.そうすることの意義を感じていないからです。アクセス数を上げることには関心がありません。そんなことをしたところで、結局は、「波動の法則」によって、ある程度似通った波動の人のところにしかメッセージは届かないのです。また、もし自分が、名声や金銭などの誘惑に負けてしまったら、たちまちにして、上から見放されてしまうことでしょう。

 

それに、「気づき」は純粋に個人的な体験です。このブログに掲載しているメッセージは、共通した何かをお知らせしようというよりも、それぞれの方のドアノッカーの役割を果たしているに過ぎません。「気づき」というのは、あなたが、自分の中に元々あったものに気づくのです。またそれは、その人の霊性の発達段階に応じて顕れるものなのです。

 

コメント欄を活用したり、Facebookなどを用いれば、読者の方々が、自分の想いを言えることができ、それはそれで別の「気づき」にもなり、活性化することでしょう。しかし、今のインターネット状況では、デメリットの方が大きいと考えます。

 

多様な個人的な体験が行き交うことによって、そこに軋轢が生じることは、どうしても避けられないでしょう。それは、私が望むところではありません。また、私自身も、そうした軋轢の影響を受けてしまい、それ以降のメッセージの受信が困難になってしまうことでしょう。高次元の存在からのメッセージは、静寂の中にしか下りることがないのです。

 

ここで大切なことを申し上げます。現代人の不幸は、「情報」の虜にされてしまっていること。「情報」の虜になっている限り、霊性の向上は望めません。入り口にすら立てない。重要なのは「情報」ではなく「感覚(feel)」なのです。「智」は外にあるのではなく、あなたの中にすでに備わっています。その「智」の扉を開くためには、「情報」はむしろ遮断しなければならないのです。

 

古代人の霊性が高かったのはなぜでしょうか? 自分の「感覚(feel)」を大切にし、森や、海や、花や、水や、風と共に生き、それらと会話が出来たからです。現代人に欠けている勇気は、何よりも「情報」を捨てる勇気、そして「お金」を捨てる勇気、「孤独」になる勇気です。

 

Q.貧乏だということですが、セミナーなどの料金をもっと上げられてもいいのではないですか?

 

A.貧乏というのは相対的なもので、世間的に見れば確かに貧乏ですが、それを惨めには感じておりません。むしろ自由です。貧乏である原因は単純で、金銭が得られるような仕事を殆どしていないためです。それに割く時間があったら、『虹の学校』の活動に一身を捧げたいと、ある時期を境に決心しました。

 

また同時に、宇宙の仕事には付加価値を求めない、とも決めました。なんとなれば、「宇宙」は誰のものでもなく、「真理」はタダだからです。それと、私がすでに年金生活者であり、月に8万円弱をいただけているので、それで充分だということです。しかし、もし年金が破綻したりすれば、お恵みをいただかなくてはならなくなるかもしれません。

 

ということで、「清貧」を気取っているわけではありません。私は「清貧」思想は嫌いです。霊性の高さと、貧富とは、何の関係もないと思います。イエスが「貧しき者は幸いである」と言った意味は、貧しい人の方が困難に遭う機会が多い(つまり、それだけ「気づき」のチャンスが多い)という意味で言ったのです。貧しくても、「気づき」がなければ、どうしようもありません。

 

Q.生徒さんは、何人くらいおられるのですか?

 

A.生徒という人はおりません。「虹の学校」は先生も生徒もなく、みな等しく宇宙の子です。あなたを指導してくださるマスターは天上界にいて、その「聖徒」となるかどうかはあなた次第です。あなたが「聖徒」であり続ければ、マスターはいつでも援助の手を差し伸べてくださいます。しかし、少しでも道理に反するようなことがあれば、静かに去って行かれることでしょう。

 

Q.どうして駄洒落とかが多いのですか?

 

A.ジョークは神様の発明品、とだけ答えておきましょう。