by Rainbow School
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波動療法の可能性

人が病気になる真因は、大きく分ければ以下の3つです。

 

,修凌佑良蕕痢屮ルマ」の発現として病気になる。→「魂」の問題

◆岷宙の法則」に逆らった考え方、生き方が病気をつくる。→「心」の問題

身体のケア不足が病気をもたらす。→「体」の問題

 

しかしながら、現代の「健康」「病気」「医療」の概念には、このような視点も分類もありません。「病気」をすべてひっくるめて身体(肉体)の問題として捉え、そこに「人間機械論」を背景とした、物質的対応を施しているだけです。すなわち、故障した箇所は修理するか、それが出来なければ部品を取り替えればよい、動きの悪いところには潤滑油(薬剤)を刺せばよい、といった対応です。

 

けれども、人間は機械ではありませんから、このような考え方だけで「病気」が治るものではありませんし、日々の「健康」も図れないのです。家の造作に喩えれば、「魂」の問題は基礎部分に当たり、「心」の問題は柱や梁、「体」の問題は壁や屋根に相当します。基礎が傾いたり、柱が歪んだりしていときに、ひび割れが生じた壁をパテでいくら塞いでみても真の問題は解決しません。何年かすればまたひび割れが出てきてしまう、というのはしごく当然ではないでしょうか?

 

さてここで、もう一つの視点の転換にも触れておきましょう。前段で述べたように、現代人には、先ず自己を「多次元的存在(家の造作の喩えで示した三層)」であると捉える認識がありません。加えて、「病気」を「恩寵」だと捉える考え方もないのです。「病気」になるとみな、ただ「困った、困った」「辛い、苦しい」と言って、お医者さんや薬に頼ることばかりを考えています。

 

もう時代がそうですから致し方ない面もありますが、しかしそれでは二重の「苦痛」を自らで創り出してしまうことになります。

先ずは身体的な不調に対する「痛み」です。次には、その状態を「苦しい」と思う心です。

 

さて、後者の「心」は誰のものでしょうか? その人が、自分で創り出したものです。ですから、もしそれがなければ「苦」はありません。単に「痛み」を感じている自分がそこにいるというだけです。つまり、「痛」と「苦」を一緒くたにしないようにすることが肝心なのです。

 

決して「痛」=「苦」ではありません。これを切り離し、「痛」を眺める別の自分を用意すればよいのです。この方法を「観照者」を立てると言います。そして、その前提となるのが、自己が「多次元的存在」であることに気づくことなのです。すなわち、「身体」の自己を、「魂」の自己によって観察するように仕向けるのです。今はこれを「病気」を例に語っていますが、この「観照者」を立てる方法は、他のどんな場面においても有効です。

 

大多数の人は、ショックを受けるような事件に遭遇すると、今「起きたこと」と、それによって呼び起こされる自己の「感情」を、瞬時に一緒くたにして捉えてしまいます。しかし、「起きたこと」は単に「起きたこと」であり、それをどう捉えるかはその人の「自由」意志に任されているのです。このことが理解できれば、それ以降の、その人の人生はまったく違ったものになっていきます。

 

いま私が行っている活動を『虹の学校』と称しているのは、みなさんの人生そのものが〈「虹の階梯」を上昇していくための学校になっているんだよ〉という意味であり、『虹の学校』という教育の場がここにあると主張しているわけではありません。ですから、『虹の学校』と名乗ってはいても、校舎もなければ、組織もありませんし、先生も生徒もなく、入学試験も進級試験もなく、ルールもなく、権威もなく(^_^;)、卒業もなく、ただただ「魂」の「自由」を謳っているのです。

 

みなさんの本籍地は、地上ではありません。みなさんの本体は「魂」であり、その本籍地は霊界にあります。今世、みなさんが地上に誕生してきたのは、この「地球」という物質界の場で、ここでしか味わえない体験学習をするためです。そして、その体験学習を通じて、少しずつ霊性を向上させていく旅を今しているのです。

 

そのことに、もしもハッキリと自覚が生じたなら、地上でする体験は、たとえどんなに辛いものであっても、すべてが自分へのギフトであるということが解るようになります。そして、生きる不安は消え去り、怒りも憎しみもなくなり、ただただ感謝と幸福感に満たされるようになるのです。同じ理由から、「病気」もまた「恩寵」であることに気づけるようになります。なぜなら、自分のいま学習すべき課題を「病気」が教えてくれているのですから。

 

ここで、以前にも話したように、分かれ道が生じます。―だ気垢戮課題に気づき、反省して、そこから生まれ変わって病気を克服する。病気で死ぬというプロセスを通じて、引き換えに、今世の「魂」の課題を一つ学習する。I袖い砲覆辰討癲△修譴恩寵だとは気づけずに、「カルマ」を来世にまで持ち越しにする。あなたが、もしも病気になった時には、できれば ∈把磴任皚△任△蠅燭い發里任后

 

死は敗北ではありません。地上で体験する多くのカリキュラムの中の一つに過ぎないのです。ただ、今世のために用意された「身体」を手放すという劇的変化を、その過程において伴うというだけのことです。

 

「身体」は「魂」にとってこの世を生き切る乗り物です。物質界の海を渡るために用意した自分専用の舟なのです。この舟には、それぞれの「カルマ」に応じた特別の造作がなされています。つまり、一人ひとりの身体のあり方はみな異なる。けれども、身体を構成している細胞自身は、ただ「宇宙の法則」に従った生き方をしたいと願っているのです。ところが、冒頭に挙げた3つの要因が複雑に絡んで、この邪魔をしてしまうのです。結果として「病気」が生じるのです。

 

でも、「病気」になって反省し、身体細胞の願いをちゃんと聞いて、「宇宙エネルギー」の流れに素直に乗せてあげたとしたらどうなるでしょう? 細胞は、本来の生き方に戻ることになるのでとても喜びます。結果として、「病気」が癒やされることになります。この、身体細胞を宇宙エネルギーの流れに戻してあげる操作を人為的に行う手段が「波動療法」です。乱れた細胞の「波動」を、宇宙の「波動」に同調させることで、細胞本来の活力を復元させてやるのです。

 

医者も見放した重病が、「波動療法」によって治った際などには、しばしばこれが「奇跡」と呼ばれます。しかし、物質主義に陥った現代医療から見ると、それが「奇跡」に見えるというだけであって、人が「多次元的存在」であるという観点に立てば、しごく当たり前のことに過ぎないのです。

 

では、どうすればそれが可能となるのでしょうか?

 

「波動」の性質については、これまでにも何度か語ってきました。同じ波長を持ったもの同士は引き合い、共鳴して増幅するというものです。ですから、何らかの方法によって、宇宙の聖なる「波動」を病気を患っている方の全身に強力に送り込み、これと同調するよう導いてあげることが出来れば、病変した細胞が共鳴し、自己治癒力を発揮して自然に修復を図るようになります。

 

問題は、その方法です。これについては、レメディやアロマ、ストーン、水など各種の技法が云々されて来ましたが、水以外のものについては、私自身はこれまで大きなパフォーマンスを感じたということがありません。私の感想からすると、それらが出す「波動」は、あまりにも微弱すぎて身体にはほとんど影響を与えないように思えます。水は確実に気を通し、またエネルギーを溜める能力も秘めていますが、未だ研究中のためにハッキリしたことはまだ言えません。

 

それよりも、圧倒的なパワーを有しているのが「人間」です。おそらく、前記のものの100倍とか1000倍といったパワーを発しているのではないかと思われます。次いで、ある種の「場」も、強い「波動」を発しています。

 

この、人間や場が持つ「強さ」という側面は、「高い波動」についてのみ言えるわけではなく、「低い波動」についてもそれが言えるのです。むしろ、今の世の中は「低い波動」を発する人間と場に席巻されており、敏感くんにとっては非常に生きにくい時代となっています。つまり、「低さ」が「低さ」を惹きつけ、ますます増幅して、イライラ、ギスギス、他者攻撃、鬱、といった感情のもつれがもう止まらなくなっているのです。

 

このように、人間には「低い波動」を持つ人と「高い波動」を持つ人がいます。が、「高い波動」を有効に使えば、物などにはない圧倒的なパワーをもって人を癒すことが出来るのです。

 

しかしここで、最近のよくない風潮について苦言を呈しておきます。困っている人を助けてあげたい、弱っている人を癒してあげたい、その思い自体は善いことです。ところが、「波動」の何たるかも理解していないのに、「波動」という言葉を売り物にしたり、またカウンセリングやヒーリングのテクニックを教えると言って、「家元制度」をつくり段階的にお金を積ませて「御免状」を与えるといったことをやっておられる方が引きも切らずです。

 

どうしてそのようなことをするのでしょうか?

「御免状」など必要でしょうか? その「御免状」というものは、誰が与えた、どういう権威だと言うのでしょうか?

ただ、困っている人を助けてあげたい、弱っている人を癒してあげたい、ではダメなのでしょうか?

 

こうしたものは、その人の生き方、考え方ですので、とやかく言う筋合いのものではないのかも知れません。がしかし、根本的なことを言っておきます。人を癒す力は、テクニックにあるのではありません。いついかなる時であっても、それは「愛」の力なのです。今度の「沸く珍禍」で、そのことが浮き彫りにされたのをあなたも見たでしょう。「愛」のある善良な少数の医者と、「愛」のない、金で転ぶ、ただの威者がいるということを。

 

ヒーラーが出す全体のパワーを10とすれば、テクニックはせいぜい2割、愛のエネルギーが3割、そして残りの5割は天のお働きによるものです。ですから、人を癒すのはヒーラー自身ではありません。その人の「なんとか力になってあげたい」という純粋な「愛」の思いが、同種の「宇宙エネルギー」を引き寄せて、テクニックを介して相手側に注がれるのです。

 

ヒーラーはあくまでパイプ役であって、自分の力で誰かを癒せるというわけではないのです。治しているのは患者本人であり、それは「宇宙エネルギー」への同調によって起こるのです。本来であれば、それは誰でも出来ることなのですが、その方法を忘れてしまった人たちに代わって、ヒーラーが自分をコンデンサの役割にして回路を繋ぎ、援助するのです。しかし、はたから見ていますと、あたかもそのヒーラーが癒しを行なっているように見えるというわけです。

 

ですから、ヒーラーというものは、できる限り「自我」を滅して、自分を透明のパイプにしなければなりません。また同時に、自己の「魂」をただただ純粋さの中に置いて、高い次元とアクセスするようにしなければ、エネルギーの回路が生まれず、他者を癒すことは出来ません。このような理由から、いくらテクニックを学習しても、「愛」の波動がないところには、高次の「宇宙エネルギー」は降りて来ようがないのです。

 

それと、ヒーラーやカウンセラーを安易な気持ちで目指そうとする方たちに言っておきます。自分を「救って欲しい」と願う人の中には、もの凄く低い波動状態にある「魂」もおられます。また、いわゆる憑依の状態にある「魂」も少なくありません。ヒーラーやカウンセラーというものは、高い波動を相手に流して、ある意味中和するわけですから、反対側から言えば、低い波動を引き受けるということでもあるのです。

 

そのため、ヒーリングやカウンセリングを真剣に行なった場合には、大袈裟に言えば、自分の命を縮めるほどの疲労感を覚えることもある、ということは言っておきます。ですから、その覚悟のない人、それでも自分は他者の役に立ちたいんだという人以外は、安易にこの道を目指してはなりません。

 

ところが、皮肉なことに、エゴに駆られてヒーリングやカウンセリングをおやりになっている人には、いま言った心配がないのです。なぜなら、クライアントと同じ「波動」のレベルでエネルギーをやったり取ったりしているだけだからです。そのため、いわゆる「低い波動を受ける」という心配がありません。

 

けれども、その代わりに「宇宙の法則」を故意に誤用しているという報いは、いつかは受けることになります。

 

それと、「波動療法」を受ける側の問題点も指摘しておきます。施術を行うヒーラーが、純粋で高い波動を持つ人であった場合には、時として「奇跡」が起きます。しかし、その人の「病気」は、「カルマ」→「心グセ」→「行動パターン」→「結果としての病気」というメカニズムで生じているということを、いま一度思い出してみてください。そうしますと、たとえ「奇跡」が起きたとしても、本人がそのことに感謝し、それまでの生き方を改めるということがなければ、また「カルマ」の発動に戻ってしまうのです。

 

ヒマラヤ聖者の生活探究』という本の中に、そのことが書かれています。聖者がある村を訪れた際に、病気に苦しむ村人たちが彼のもとに押し寄せて来て、治療を懇願したと。そこで聖者は、全員の病いを治してあげます。「奇跡」によって病いの消えた村人たちは、たいそう喜び聖者に感謝するのですが、しかし数日するとその念も消えてしまい、以前の好き放題の生活に戻って行ってしまったと。

 

そこに聖者の嘆きがあるわけですが、これはなかなか難しい問題ですね。もしも、相手の「魂」の成長を本当に願うのであれば、助けてあげないほうが、逆に助けになる場合もあるということを考えなくてはなりません。ヒーラーやカウンセラーになろうとする人は、そこまで見抜けなければならないということです。

 

最後に、最近話題の「Med Bed」について言及しておきましょう。「宇宙エネルギー」を、科学技術力を用いて取り出し、活用しようとする試みは半世紀以上前から行われてきました。

 

これには大きく二つの方向があり、一つは空中から無尽蔵のエネルギーを取り出そうという試みです。いわゆるフリーエネルギーです。もしもこれが実現化されれば、エネルギー問題が一挙に解決するだけでなく、政治体制から日常生活に至るまでが、きっと一変してしまうに違いありません。そしてもう一つが、「波動療法」への取り組みです。

 

しかしその両方ともが、新しいものが登場しては消え、また登場しては消えということを、これまで幾度となく繰り返して来ました。一説によると、これは「闇」のグループがそのつど邪魔をして来たからだと言われています。それらがもしも登場してしまうと、エネルギーと医療分野における絶対的支配権が脅かされてしまうだけでなく、「恐怖感」を煽ることによって操る民衆支配が出来なくなってしまうからです。

 

ところが、ここに来て急に「Med Bed」が実用化され、販売までが大っぴらになされるようになりました。これは今までになかったことで、これまでの縛りが解禁されたということは、裏側の権力構造に何らかの変化が生じたことを物語っていると思います。しかし効果については、世に出たばかりということもあって、私にはまだ何とも言えません。自分で実際に試してもいませんし、この手のものには眉唾ものも多いですし‥‥。

 

しかし、こうしたテクノロジーが実用化される可能性は大いにあります。仮に今度のムーブメントがそうでなかったとしても、いつかは両方ともが実現されるでしょう。ということで、いま出現している「Med Bed」についてどうこう申し上げることは致しませんが、「波動療法」が機器によって実現された場合の社会的影響について、考察しておきます。

 

先ず、もちろんのことながら、現在の医療システムは根底から覆されます。突発的な怪我や感染症、救急医療、以外の分野はほとんどが不要となってしまうことでしょう。というよりも、もともと意味が無かったということが、並行してバレて行ってしまいます。特に慢性疾患の類いは、「Med Bed」が普及すればみんな解決してしまいます。また「波動療法」の高いヒーリング効果から、精神疾患も改善されていくでしょう。

 

この結果、これまで莫大な利益を上げてきた製薬会社は市場を失い、縮小を余儀なくされます。そして、医療関係者の多くが失業するだけでなく、ヒーラーと称する人たちも実力のない人は機器に取って代わられてしまうでしょう。

 

しかし、「Med Bed」の使用でこうした治癒効果がたとえ実現されたとしても、前段で挙げた「カルマ」と「心グセ」の問題は、依然として未解決のままであるということにお気づきください。

 

ところが、

 

この機器を毎日使うということになると、話はかなり違ってきます。ネガティブな「カルマ」が、細胞に再び病変を起こそうとするスピードよりも、「Med Bed」による細胞修復のスピードのほうが追い越してしまうかも知れません。そうなると、もう病気の再発はありません。なんと、テクノロジーが、「愛」を凌駕してしまう事態となるのです。(@⩋⩋@)!

 

さらに、人間の「体」と「心」は、絶えず情報をフィードバックしていますので、「体」の不調がすっかり無くなれば、頑固な「心グセ」にだって変化が訪れるかも知れません。

 

ということで、『虹の学校』で推奨しているような、「瞑想」「呼吸法」「LEAF YOGA」に倦まず弛まずこつこつと勤しむという古典的な修行スタイルは、もう必要がなくなるかも知れません。

毎日「Med Bed」で眠るだけという(安易な?)方法で、アセンションが達成できるかも知れないのです!

 

ヤッタね! ズボラな人たちよ。(あなたのことではありません)

 

これは、とても興味深い点です。もしかしたら、それが新しい人類を創ることに繋がるのかも知れません。

真実の健康に目覚める時(3)本当に大切なのは、見えない体の健康を図ること

人間の「体」というものは肉体だけではありません。

肉体に重なって、見えない「体」が同時に複数存在しています。

 

前回にはその解説をいたしました。しかしこれは、世間一般で信じられている常識とはあまりにも掛け離れた話であるために、非科学的とかトンデモ理論といった非難や嘲笑を受けるであろうことは覚悟のうえです。

 

ところが逆に、「身体の自分」のみが自分であるという〈思い込み〉は、なんとここ半世紀ほどの間に常識化されていったものに過ぎないのです。それ以前の人々には、古代から続く別の常識が広く浸透していました。

 

それは、「霊魂」の存在を認めるということです。だからこそ、「慰霊祭」や「鎮魂」の儀というものが各地で昔から執り行われて来たのです。けれども、そうしたものは今やすっかり形骸化してしまい、文字どおり「魂」を抜かれた儀礼でしかなくなっています。故人に対して行う「お葬式」ですらそうで、葬儀社に一切合切をお任せして、みなそれでよしとしています。

 

遺族たちは、みなそこに何か割り切れないものを感じているのですが、時代の流れに押し流されてしまって、どうにもならないのです。これらは結局のところ、「霊魂」という言葉は使っていても、その本当のところについては、葬儀社も僧侶も医者も誰も何も知らないという「無智」から起きています。

 

では昔の人たちがそれを知っていたのかというと、そうではありません。何となくそう信じていたものが、「物質主義」の隆盛によって簡単に駆逐されてしまった、というのが正直なところです。そしてみんなが「無智」なまま、スピリチュアル業界で「波動」という言葉だけがやたら横行し、その言葉にありがたみを感じる人たちが、互いに騙したり騙されたりということをやっているのです。

 

「波動」の理論そのものは真理ですが、こちら側にいて向こう側を語っているのと、向こう側に行ってそれを語っているのとでは、実のところ全然違うのです。こちら側にいて向こう側を語っている限り、それは「エセ科学」と呼ばれてしまいます。しかし、向こう側に行って、向こうからそれを語るのは「因の科学」という真理なのです。ですが、残念ながらその違いを理解できる人というのはほとんどおりません。

 

人間の「体」が多次元的である(複数の霊性密度に同時に存在している)ということがちゃんと解れば、当然ながら、「病気」「治療」「健康」に関する考え方もまるで違ってきてしまうのです。


先ず、肉体というものは、アストラル体を鋳型として、その内側に造られているのですから、その人のアストラル体を物質界に投射した結果が肉体となっているのです。このアストラル体は「魂」の下部に当たり、どちらかというとネガティブな「カルマ」をそのチャクラに内包しています。その結果、肉体上にも、その人の「カルマ」を反映した気質や、体格や、歪みや、ウィークポイントが顕現するのです。

 

*「魂」の上部に当たるのがカラーナ体(英語で Causal Body、またそれを訳して原因身と言われる場合もある)

 

「カルマ」というと、普通、ネガティブな面だけが強調されています。が、「カルマ」にはポジティブな面もあります。アストラル体のさらに外側にある、カラーナ体上のチャクラにそれらが保存されています。人には、生まれつき得意な技や分野がありますが、これにはポジティブな「カルマ」が作用しています。モーツァルトは6歳で最初の作曲をしたと伝えられていますが、それは過去世で、すでにその素質を充分に磨いてきたからこそ成せる技なのです。

 

*常人は、第4霊性密度に存在するアストラル体上のネガティブな「カルマ」に翻弄されながら生きていますが、まれに第5霊性密度に存在するカラーナ体のほうが優勢という人が現れます。この人たちは「常人」に対して「天才」と呼ばれます。

 

さて、人間の「身体」を成立させている条件には、大前提としてその人の「カルマ」というものが先にあり、その上で、なおかつ物質界への適応があるということを先ず理解してください。つまり、大きく2段階の考慮すべき「体」があるのです。非物質的な体と、物質的な体です。ですから、「病気」「治療」「健康」に関する考え方は、「宇宙の真理」から見た場合、この2つの体を共に考慮することが前提になるということです。

 

先ず、後者の物質界への適応にあたっては、人間も動物ですから、身体を動かすことと、エネルギーを補充することと、適宜ケアをすることが大切であるということが、容易に解るかと思います。しかしそれ以前に、個々の人間が生まれながらにして持つ「カルマ」をいかに克服するかということが、その人の「健康」にとって最も重要なことなのです。ところが、「物質主義」に陥った現代医療や健康概念は、そこがすっかり抜け落ちているわけです。

 

結局のところ、「原因身(カラーナ体)」のあり方から考え直していかなければ、真実の「健康」の意味と実践には到達できないということです。しかし人間は、そんなとこにはまったく考えが及びません。だからこそ、人間社会から「病気」というものがなくならないのです。

 

「カルマ」というものは、非常に強力な病気要因であって、一生かかってもなかなか克服ということができません。「カルマ、カルマ」とあまり騒ぐのも考えものですが、少なくとも注意を向けて生きるようにしたいものです。それは、あなたのためなのです。

 

さらに言いますと、その人の「カルマ」は、身体条件を決定する要因となるだけではなく、そもそもが「心グセ」より発したものですから、その人の今の「心」のありようが「健康」にも極めて大きく影響するのです。よく言われる「生活習慣病」というのは、「性格習慣病」なのです。つまり、克服できない「心グセ」が、同じパターンの Bad な行動を身体にもたらし、結果として病気を発症しているのです。

 

この「心グセ」と、今の「心」のありようからくる諸問題を、現代医学では単に「ストレス」という言葉で片づけているのですが、そんなレベルのものではありません。「カルマ」と「チャクラ」の部位と「心グセ」の関係というものは全部が密接につながっており、先ずこの関係を知ることが、真実の「治療」と「健康」への道を開くのです。

 

また、エネルギー補充に関しては、清浄な「食物エネルギー」を摂るということはもちろん重要ではあるのですが、身体が必要としているエネルギーは「食物」だけではありません。むしろそれよりも、「プラーナ」と呼ばれる宇宙エネルギーを、体いっぱいに摂り込むことのほうがはるかに重要です。これは、「根源的生命力(Vital Life Force)」から放出されているエネルギーで、これ無くしては、宇宙のどんな生命活動もないのです。

 

しかし、そのような知識が現代人にはまったくありませんので、もっぱら薬や健康食品といった「物質の摂取」にのみ注目が傾き、これにさらに金儲けが絡んで、不安を煽ってはこれらを売りつける、という異常事態に今やターボが掛かっているのです。こうした状況が3世代も続けば、人々は間違った知識によってすっかり洗脳されてしまい、もはやそれが常識化してしまいます。

 

けれども、はっきり言って、CMで言っているような単一の健康食品をいくら摂取したところで、ほとんど意味がありません。人体は精密な化学工場であり、あらゆる食物を分子レベルにまで分解し、いま自分に必要なものを再合成してしまいます。ですから、何を摂らなければいけないということはなく、身体の声をよく聞いて、その時々で身体が望むものを摂取していればそれで充分なのです。

 

身体の細胞は、天の摂理に従って生きたいのです。それが身体の細胞にとっての喜びだからです。ですから、その声をよく聞いて、自然に寄り添った無理のない生き方をしていたら、何の問題も発生しません。ところが人間は、身体ではなく、頭が望むものについ手を出してしまう。頭が「これを喰いたい、飲みたい」と思うものに夢中になって、それが過ぎて病気を自分で拵(こしら)えているのです。

 

このような、「カルマ」の結果として生じた「性格習慣病」を、現代科学は、薬という「物質」で治そうとしているわけですから、そんなものでよくなるわけがないじゃありませんか。4階のトイレで生じている水漏れを、3階のトイレにせっせと詰め物をして修理しようとしているようなものです。

 

「プラーナ」は呼吸とともに人体に入ってきます。そして、主に経絡を通じて全身の細胞に運ばれます。呼吸は、ふだん誰もが意識せずに行っていますが、それが全身の細胞の活動を自動的に維持してくれているのです。ところが、この「プラーナ」の摂り込みに欠乏や鬱滞が生じると、体調不良となり、甚だしい場合には病気となります。ヨーガはそのことを知っていますので、各種の呼吸法によってこの調整を図っているのです。

 

以上をまとめますと、人間が「健康」を維持するために必要な要素は、以下のようになります。

 

1.カルマの克服

・自己の「カルマ」の特定と、それを解消していく不断の努力

・悪い「心グセ」の淘汰

 

2.心のコントロール

・ストレスがなるべく生じないような、環境、職場、家庭、人間関係の構築

・心の平静と安定化

・穏やかに、朗らかに、楽しく、向上心を持って毎日を過ごす

 

3.自然との触れ合い

・自然の中に見る生命力との接触

・深く、喜びに満ちた呼吸

・生かされていることに対する感謝の念

 

4.食養生

・汚染されていない清浄な食物を腹八分目に摂る

・体を冷やさないようにする

・毎朝の規則正しい排泄

 

5.体のケア

・関節を柔らかく保ち、骨格と筋肉を鍛える適宜な運動

・運動も精神活動も無理はしない

・充分な睡眠と、疲れが溜まる前に休息をとる

 

これらが、習慣として自然に身につき、悪い「カルマ」も生きているうちに完全に断つことができれば、その人は病気になることなく天命を全うできます。そして最期は、老衰による穏やかな移行を果たすことができるのです。これが、自然が教える「健康な生き方」に関する摂理です。

 

しかし現代では、このような生き方を実践することが非常に難しくなっています。そもそも、このような観点を人々が持っていません。1〜3については、まったくと言っていいほど考慮されていませんし、4と5も、間違った常識が知れ渡っているのです。その原因は、冒頭でも申し上げたように、「身体の自分」が自分であると思い込んでいる「唯物主義」にあります。

 

これを出発点として、この半世紀のうちに、現代の医療システムがそちら側への極端化を推し進め、ほとんど「洗脳」のレベルにまで、「健康」に関する概念を書き換えてしまいました。一方で、前記の項目とは逆行するようなライフスタイルが巷に溢れているために、人々は自ら進んで「病気」になる道を選んでいるのです。そして、いざ「病気」になると、次には間違った治療法によってさらに心身を痛めつけるという、二重の誤謬を犯すようになったのです。

 

今度の「沸く珍禍」は、その「洗脳」実態が如実に顕れたものと言えるでしょう。最初の「新型ウイルス」という脅しに始まり、PCR検査、マスク、社会的距離、そして「mRNA」という史上初の遺伝子操作型の「沸く珍」。さらには、治療薬と称するレムデシビルにモルヌプラビル。何から何まで、「物質主義」と「洗脳」に終始してきたことにお気づきでしょうか? 人々は、こんなものにコロッと騙されたのです。

 

国民を騙して、今なお虐殺をし続ける、無い格の人間や厄人に対しては、怒りとともに「なぜ、このようなことが?」という疑問が、たぶん湧くことでしょう。

 

けれども、彼らは、自分がいま何をやっているかすらも、実はよく分かっていないのです。牧羊犬としての務めを果たすことが第一義であり、そうすることが正しいと信じ込んでいるのです。思考がもうそのようにしか働かない。それ以外の考えや感覚が浮かばない。結局、彼らも、自分の「真我(ハイヤーセルフ)」の声を聴くことができない、操られた存在でしかないのです。

 

一流大学を出て、ブラック政府に雇われて、殺人者となる。憐れなり。

実に、「物質主義」と「洗脳」が、諸悪の根源。

 

でも、今度の「沸く珍禍」によって、さすがに何割かの方は、「医猟の闇」の深さに気づくことになるでしょう。しかし、「物質主義」を超えた、真実の健康概念と健康法に目覚めるまでには、あと2回ほどの世代交代が必要かも知れません。

 

以前から言っているように、「覚醒」は二段階で進みます。先ずは、政府や社会に騙されていたということに気づく目覚めです。その後に、「身体の自分」だけが自分ではないということに気づき、本当の自分(真我)に目覚めるのです。

 

さて、これまで言ってきたことを振り返りながら、次の「ヒポクラテスの格言」に眼を通してみてください。これが、これからの時代の最先端をいく言葉だと、賢明なあなたなら、きっとお感じになることでしょう。

 

■生き方

・まず、何よりも害をなすなかれ

・人生は短いが、技術は長い

 

■心の持ち方

・人生は思考するものにとっては喜劇であり、感情に流されるものにとっては悲劇である

・心に起きることは全て身体に影響し、身体に起きることもまた心に影響する

 

■自然治癒力

・人は誰でも体の内に百人の名医を持っている

・私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである

・病気は、人間が自らの力をもって自然に治すものであり、医者はこれを手助けするものである

 

■病の概念

・病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない

・人は自然から遠ざかるほど病気に近づく

・生命を維持するに役立つものは、我々を病いにもする

・理由もなしに疲労するのは病気を意味する。

・老人は若者より病気は少ないけれども、彼らの病気は彼らから去らず

 

■健康維持

・賢者は健康が最大の人間の喜びだと考えるべきだ

・人間がありのままの自然体で自然の中で生活をすれば120歳まで生きられる

・睡眠も不眠も度を越せば共に悪いしるしである

・健全なる体を心掛ける者は完全なる排泄を心掛けねばならない

 

■食養生

・全ての病気は腸から始まる

・食べ物で治せない病気は、医者でも治せない

・食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか

・汝の食事を薬とし、汝の薬は食事とせよ

・火食は過食に通ず

・飽食も絶食もその他のものも、自然の度を過ぎれば良いことはない

・満腹が原因の病気は空腹によって治る

・浄化されていない身体は、栄養を摂れば摂るほど侵される

・病人に食べさせると、病気を養う事になる。一方、食事を与えなければ、病気は早く治る

・食物によるよりも、飲料によって回復を図るほうが容易である

・月に一度断食をすれば病気にならない

 

■身体

・筋肉を十分に使っている人は病気に罹りにくく、いつまでも若々しい

・歩くと身体が軽くなる

・身体にとって良いことをするか、できなければ少なくとも悪いことをするな

 

■治療法

・病気は食事療法と運動によって治療できる・

・極度に激しい疾患には、極度に激しい治療が最も有効である

・患者に発熱するチャンスを与えよ。そうすればどんな病気でも治してみせる

・病気は神が治し、恩恵は人が受け取る

(完)

 

真実の健康に目覚める時(2)宇宙には本来「健康」しかない

世間では、ようやく人々の間にも、今度の「沸く珍禍」の恐ろしさに対する気づきが浸透し始めたようです。しかしそれは、急死したり、ターボ癌になったり、動けなくなったりする人をいよいよ間近に見るようになったからであって、その背後にある「GREAT RESET」と「人類削減計画」の全体構造に気づいた、という段階にはまだまだ至りません。魔巣込みも、殺せい奴隷労働省も、もはや隠し切れなくなったので、国民のご機嫌取りのためにちょっとだけ開示したという程度です。

 

しかし、ここまで来るのに3年の月日が掛かっています。最初からこうなることは分かっていたのに、人間というものはやはり堕ちるところまで堕ちないと気がつかないものなのでしょうか? 若干の悲しみとともに、う〜ん、と頭を抱えざるを得ません。騙すほうは金と地位と保身の我欲で動き、騙されるほうは知力と直感力のなさが原因で、搾り取られたあげくに殺されていく。

 

殺せい奴隷労働省では、辞める人が相次いでいるそうです。そりゃそうだわなぁ。まともな人間なら殺人になど関与したくないもの。それに、これからは苦し紛れの弁明に追われることになる。誰も、そんな役はやりたくないよネ。ということで、なんと省庁始まって以来の、キャリアの中途採用の募集を開始したというのです。今まではキャリアとノンキャリの厳然たる階級差別があったのに、それがキャリアの中途採用OKというんだから‥‥。

 

でも、そんな餌に惹かれて入って来る人は、それこそ保身第一の人ばかりになっちゃうじゃありませんか。いったい厄人というのは、どこまでアホなのか? 夢も希望もビジョンもないから、ロクでもない上司しかいないから、若い人がどんどん辞めちゃうんじゃありませんか。もう「親方日の丸」の時代じゃないんです世。「日の丸」号が沈没するんですよ、これから。あなた方クルーの操船のせいで。船長岸田はもう既死だ。それが解らないのかな?

 

10日には、仮想通貨交換業大手の FTX が破綻しました。幻金の崩壊も始まったよ。【闇】に惹かれていく人間たちが、なぜ途中で「ごめんなさい」と言えないのか? なぜ、愚かさのカサンドラクロスを、最後まで突っ走って谷底まで落ちていくのか? これも、結局は「無智」だからです。天には、罪も罰もありません。でも地上には罪と罰がある。その地上の罪と罰を怖れて、素直さに立ち還ることができずにカサンドラクロスを突っ走ってしまう。

 

あ〜あ、お馬鹿さんだなぁ。途中で「ごめんなさい」をしたら、地上では、そこまでに仕出かしたことの罪と罰は、当然ながら受けなくちゃなりません。破産したり、刑務所に入れられたり、場合によっては死刑になったりもする。でも、天には罪も罰もないのですから、その過程から得た体験によって、霊的にジャンプすることも可能なのです。地上世界でする体験は、所詮はスクリーンで演じた一配役に過ぎないんですから。

 

ところが、カサンドラクロスを行っちゃったら、そのことに気づけない。反省もなく、恨みや、口惜しさが残ってしまうじゃありませんか。それだけじゃないよ。迷惑をかけた、塗炭の苦しみを強いた、悲嘆に追い込んだ人たちの怨念のエネルギーが大挙してその人を襲うことになるのだよ。そうなったら、その「魂」は、次の転生でこの大カルマを解消するためのキツ〜い人生を設計しなくちゃならなくなるというのに‥‥。

 

征事家も厄人も、威者も看誤死も、本当に馬鹿だ。単なる保身と金のために、市民を虐殺している。しかし、起きたことはどうにも取り戻しようがない。これはもう原爆投下後のようなもので、死ぬ人と後遺症に悩まされる人が、世界中で今後さらに大量に発生します。みなさんは、それをこれから目撃することになる。金融と経済が崩壊し、都市はスラム化し、今日の食事にも困る人が街に溢れる。でも、恐れてはいけないよ。

 

基本的に、地上で起きる出来事は、みな何かのサイン(警告やシルシ)になっているのです。ですから、このサインを見逃さずに、背後にある意味をきちんと読み取って、反省すべきところは反省し、考えや行動を改めていけば、どんなに困難な状況もすべて人生上の学習機会に転じることができるのです。この視点の転換というものは、素晴らしいものです。実に、ここが人生の大きな分かれ道!

 

今度の「沸く珍禍」は、人類全体に対して、近代以降の「健康と医療」に関する考え方というものが、「宇宙の法則」から見て大間違いであったということを示唆してくれているのです。

 

いま世界中で起きていることは、近代、およびホワイト・アングロ・サクソン・エスタブリッシュメントによる世界支配が、いよいよここで終わるということを示しています。その過程を、いま体験しているのです。その中で、日本だけが特殊な位置にいる。日本人はアジア人であって、ホワイト・アングロ・サクソンではありません。けれども、日米欧三極委員会(Trilateral Commission)に組み入れられて、準白人の扱いを受けるかたちでG7にも所属しているのです。

 

この三極委員会の「日」の実体というのは、旧大日本帝国の延長です。アメリカが戦後、これを乗っ取る形で、白人のいない地域で、日本人を使ってユーラシア大陸(中・露)の東の蓋の役割を担わせたのです。そして、この旧大日本帝国の【裏】側で暗躍していたのが満州人脈(岸、笹川ら)だったのであり、戦後その【影】の座についたのが国際勝共連合(統一教会)でした。さらに、その奥の【闇】にはロックフェラーらがいたのです。

 

こうしたことは、長年に渡って今までずっと隠されて来ました。がしかし、殆どの日本人が何も知らないまま、この構造がここで一挙に崩壊の時を迎えたのです。大航海時代に始まる500年以上続いたホワイト・アングロ・サクソンの世界支配が、遂にここで終焉を迎える。これは凄いことです。歴史の大転換です。そして、準白人扱いをされてその気になっていた日本国も、彼らと一緒に沈没することになるのです。

 

さて、アングロ・アメリカン・エスタブリッシュメントによる世界支配の終わりと同時に、彼らが形づくって来た「近代」の様々なシステムもこれで終わりを遂げます。その兆候は、既にみなさんもたぶんお感じになっていると思います。ほんのちょっと前には、それが当たり前だったり、みんなが熱狂して来たことが、今ではひどくつまらないものに感じ出してはいないでしょうか。

 

*Anglo American Establishment:大航海時代を最終的に制したのは大英帝国で、世界各地に植民地を持ち、非白人を奴隷労働力として使役しました。その名残りが今もコモンウェルス(Commonwealth of Nations)として残り、56カ国(世界の4分の1)を束ねています。しかし第二次大戦後は、イギリスの諜報界がアメリカに支店(ワシントンDC)を出す形で間接統治する形に変わり、主力がアメリカに移りました。このようにして、アメリカのエリート層(DS)による世界支配が今日まで続くことになったのです。

 

働き方も変わりましたし、物の所有にもこだわらなくなりました。都会から田舎に脱出する人が増えましたし、食や農産物に対する考え方も随分と変化してきました。

 

「洗脳」というものは、それが解けてしまえば、「なぁんだ、そんなことだったのか」という程度のものに過ぎません。その一つに、「健康と医療」に関する現在の常識があるのです。お若い方はもちろん知るよしもないでしょうが、50年前の「健康と医療」に関する日本人の考え方は、今とはずいぶん違っていました。それが少しずつ「近代化」して行き、今の常識が形づくられたのです。その過程を、我々はみな「進歩」だと信じていたのです。

 

医療費が毎年々々膨れ上がっていっているのにも関わらず。

癌で死亡する人が、年々増えているのにも関わらず。

春の健康診断や癌検診が推進されているのにも関わらず。

 

そして今では「新規モダリティ」なる言葉までが登場し、この分野が成長産業となっているのです。はたして、この中から生まれたのが、この度の「mRNA Vaccine」というとんでもない代物です。

 

「今後数十年間に人類の遺伝子レベルで何かしら興味深いことが起こり、科学者たちの興味をそそると思われます。

遺伝子マッピングと言うのは、遺伝子情報の操作を可能にする外面的なテクノロジーです。これは善でもなければ悪でもなく、単なるテクノロジーにすぎません。

もし積極的に生命を肯定しようとする願いから遺伝子構造を変えようとするなら、それは生命を補強する手段となるでしょう。しかし生命を抑圧したり封じ込めたり、または人々を操ったり敵意から支配するといった、生命に逆らうような使い方をすれば、文明として手に負えない窮地に陥ることになるでしょう。」

『新・ハトホルの書』266ページ 2013年(1996年の改訂版)

 

人間というものは、やはりとことん堕ちなければ気がつかないもののようです。

上が、このような警告をいくら発していても、悲しいかな、わずかに縁ある人のところにしか届かないのです。

 

しかし今度のことで、「医猟」の「近代化」に関しても、さすがに〈おかしい?〉と気がつく人が増えるはずです。およそどんな分野にも、善人と悪人とがいるものですが、なぜか医療分野だけは、全員が「善人」であるかのような錯覚が、これまでずっとまかり通っていました。でもまもなく(時期は不明ですが)、この「医猟」制度のバベルの塔は崩壊します。そして、Reborn を求められるようになります。

 

さて、その Reborn は、どんなものであればよいのでしょうか?

それを計るには、そもそもこのボタンのかけ違いが、どこから始まったかを考えなくてはなりません。

 

ここで「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスのことを話しても、たぶん今から2500年も前の、文明も科学も発達していない時代の人間が語った戯れ言、くらいにしか思われないでしょう。しかしこれは、他の「ギリシャ哲学者」と言われる人たちと同じで、現代人の「無智」からきた偏見なのです。確かに、当時は文明も科学も今のようなレベルではありませんでした。けれども、「人間とは何か」「生命とは何か」については、彼らは現代人よりも遥かに高い智恵を有していたのです。

 

今の大西洋にあったアトランティスが水没する前、それを事前に予見していた聖人のグループが、東は現在のエジプトに、西は中南米方向に逃れました。そうしてそれぞれの地にエジプト文明とインカ文明が花開きました。形は違えども、両者にピラミッドがあるのは偶然ではありません。また、両地とも長頭族が治めていました。その後、エジプトにいた高い霊性を持った人たちの一部が、ギリシャへと移っていったのです。

 

*大西洋:Atlantic Ocean の名に、アトランティスの名が残されている。

 

このようにして、ギリシャにもアトランティス時代の真理の智恵が移築されていきました。ですから、プラトンがアトランティスのことを語ったのです。けれども、後の人々には、もうそのようなことが解らなくなってしまいました。「グノーシス」という言葉も誤解されていて、Wikipedia には〈古代ギリシア語で「認識・知識」を意味し、物質と霊の二元論に特徴がある〉などと書かれてあるのですが、そうではありません。

 

「グノーシス」というのは、地上世界における「認識・知識」を言っているのではなく、「宇宙の真理」に関する「智恵」のことを指しているのです。ですから「物質と霊の二元論」が特徴だったというのは誤りであり、「Oneness」(一元論)を語っていました。「Oneness」の中には、物質と霊の全部が含まれるので、素直にそれを語っていただけなのです。

 

視点の逆転ところが、なんでもかんでも二元論で考える人(特に西洋人)や、こっちからあっちを見る癖が抜けない現代人には、その意味がどうしても理解できません。そこで、自分の常識的な見方を「ギリシャ哲学者」にも投射して、誤った解釈をしているのです。

 

ですから、「Oneness」が解らない人たちは、グノーシス主義とか、エッセネ派とか、カタリ派とか、スーフィ主義とか、ドゥホボール派とか、「○○主義」や「○○派」という名称をつけて、主流の分派として無理やり解釈しようとします。

 

ですが、これはまったくの的外れなのです。どのような時代であっても必ず、「Oneness」を知り、その真髄を理解するごく少人数のグループが、全世界に散らばってひっそりと存在してきたのです。けれども、一般の人々には「Oneness」の真髄が理解できず、異端者にしか見えません。現代においてもこれは同じことで、いくら「因の科学」の話をしても、エセ科学とか、トンデモ話とかと言われて糾弾されるだけなのです。

 

『虹の学校』も、ある人から「アセンション派」と呼ばれたことがあり、その時にはびっくりしました。こちらとしては普遍の真理をただ語っているだけなのに‥‥。何かを解釈しようとするときに、ビンの中に入れて、レッテルを貼らなければ気が済まない、という人たちがいるのです。悲しいことですが、しかたありません。

 

ヒポクラテスも同じで、彼は「宇宙の真理」を知っていました。そして、そこから引き出した本当の智恵を周囲に説いたのです。「宇宙の真理」は、永遠であり不変です。そこには時間というものがありませんので。ですから、ヒポクラテスが語ったことは、古代の人間が語った古くさい考えなどではなく、今日にも完全に通じる普遍的な真理を話しているのです。

 

現代の医療と、ヒポクラテスが語った真理とでは、いったい何がいちばん違うのでしょうか? それは、第一には「人間とはどういう存在なのか」ということであり、第二には「病気はなぜ起こるのか」ということに対する見解です。

 

第一の問題は、言い換えれば「私はだれか?」ということです。

あなたも、ご自分に問うてみてください。

私はだれか? どこから来たのか? そしてどこへ行くのか?

 

これは「人間存在」と「個」というものに関する究極的な問いかけです。この「人間存在」と「個」に関する疑問が解けない限りは、次の「病気はなぜ起こるのか」という問いの答えも見つかるわけがありません。なぜなら、「病気」は放っておいたら「存在」の消滅にまでつながるのですし、ある人は「病気」になるが、ある人は「病気」にならないという違いがどうして生じるのかも解らないからです。

 

ヒポクラテスの格言を引いているサイトは多くありますが、その意味を解説しているものに、いまだ私はお目にかかったことがありません。どれも、格言をただ載せているだけです。例えばこの言葉。

 

「病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない」

 

これは、いったいどういう意味なのでしょうか? これを、現代人の視点でいくら解釈しようと思っても、理解はできません。ヒポクラテスは、その言葉の中で「宇宙の真理」を示したのです。しかし現代の「医猟」システムは、「物質科学」の基盤の上に構築されたものです。結果から結果を推論しているだけであって、真の原因というものを知りません。物質科学のさらに奥の「因の科学」へと踏み込まない限り、ヒポクラテスの語った意味というものは解らないのです。

 

「病気の概念は存在しない」

 

これは、宇宙には、本来的に言って「病気」はない、ということを語っています。ちょうど、宇宙には罪も罰もない、というのと基本的に一緒です。でも地上世界には、罪と罰があるでしょう。それと同じように、地上世界には病気もあるのです。これはどちらも、「人間」が作り出したものなのです。それはある意味、地上世界への適応、つまり物質化への適応を人間が果たしたということでもあります。

 

人間の身体は、一重ではありません。物質化した身体以外のボディが、他にも重なって存在しています。次の図は、身体の多層構造を表にしたものです。

 

身体の多重構造

 

「霊性密度」の概念はもう何度も説明してきましたので、すでにお解りでしょう。全宇宙の素となっているものは、たった一つの「振動するエネルギー体」で、それがただ振動数を変えるだけで、あらゆるものを創り出しています。人体というものは、この振動数がだんだんと低下していき、ある領域(第4霊性密度)を経て劇的に低下した結果、物質化して形をなしたものです。

 

この物質化した身体は、あなた方の眼にはきっと確かな存在に感じられることでしょう。けれども、細胞を構成している1個1個の原子の中というのはどれもスカスカなのです。これは、机であろうと、金属であろうと、いちばん硬いダイヤモンドであろうと変わりがありません。水素を例にして、中心にある原子核をバスケットボール大に見立て東京駅に置いたとすると、電子はピンポン玉くらいの大きさで小田原あたりの位置になります。

 

つまりそのあいだは、すべて空間だということです。この極小の世界を覗き見たイメージを、そのまま保持した状態で、物質の成り立ちを想像してみてください。どんな物質も、だだっ広い空間の中に局所的に素粒子が出現し、その素粒子が集まって原子を構成し、原子が分子を構成し、水や他の物質をかたち創っているのです。この構造は、大宇宙と相似形であることにお気づきでしょう。

 

*そこで、極小世界をマイクロコスモス、極大世界をマクロコスモスと言います。

 

さて、人体のスカスカ部分には何があるのでしょうか? 「空間」というのは、何もない場ということではありません。そこには素粒子(物質化したもの)は存在しないけれども、もっと高い(物質化する以前の)振動数のエネルギーが満ちているのです。言うなれば、このエネルギーの海の中に、ポツポツと物質化した素粒子が漂っているという感じです。そして、このエネルギーの海こそが「あなた」を構成している「意識体」なのです。

 

あなたという存在は、物質だけのものではありません。いわゆる身体(肉体)は、「第3霊性密度」の振動領域に形成された体です。がこの他に、「第4霊性密度」には「アストラル体」、「第5霊性密度」には「カラーナ体」と呼ぶ、見えない体(意識体)が、重なった状態として存在しています。この両者を一括りにして、一般に「魂」と呼んでいるのです。「アストラル体」は「魂」の下部で、ここに「カルマ」が保持されています。

 

そして、さらに上の「第6霊性密度」には「プルシャ」があります。「プルシャ」になると、純粋精神だけとなってしまい、もう体は持ちません。振動数が高くなるほど「時空間連続体」から離れて行き、時間も空間もない世界に溶け込んでいくためです。このように、あなたという存在は、複数の霊性密度にまたがった状態としてあります。そこでこれを、一般に「多次元的存在」と言っています。

 

*次元とは密度のこと。つまり振動数の帯域を差します。

 

いま言ったことを逆から並べますと、純粋精神である「プルシャ」の中に先ず「カラーナ体」が作られ、その中に「アストラル体」ができ、そしてさらにそれらを鋳型として「物質的身体」が形成されているというわけです。このようにして、振動数を下げることによって、あなた方は地上に降り立った(誕生した)のです。言葉を換えますと、物質界への適応を果たしたのです。

 

さて、この物質界への適応(この世への誕生)の出発点は「プルシャ」という純粋精神でした。しかし「プルシャ」には体がありません。したがって「プルシャ」は無病です。ということは、宇宙にはそもそも病気はないということです。ところが、振動数を落として物質化し、人間として誕生する過程で「病気」という状態が発生していくのです。これが、ヒポクラテスの語った「病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない」の意味です。

 

ヒポクラテスは、ここを出発点として次に、地上で生きる際の健康法と治療法を具体的に示しました。つまり彼は、霊界と地上世界とのブリッジ役を果たしたのです。ヒポクラテスを理解しようと思ったら、先ずこの点をきっちり押さえておかなければなりません。ここをしっかり捉えていたら、彼の語ったことが、文明の未発達だった古代人が語った戯言などではないということが直ぐに解るはずです。彼はすべて、宇宙の本質についてを語っていました。

 

宇宙には本来「病気」などはない。「病気」を創っているのは人間なのだ。

彼はそう言っています。

 

では、人間の何が、またどういう行いが「病気」を生み出しているというのでしょうか?

これについても、ヒポクラテスはちゃんと語ってくれています。

 

「人は自然から遠ざかるほど病気に近づく」

「まず、何よりも害をなすなかれ」

「人は誰でも体の中に百人の名医を持っている」

「私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである」

「病気は神が治し、恩恵は人が受け取る」

 

ヒポクラテスは、「自然」から遠ざかると病気になるリスクが高まると言っている一方で、「自然治癒力」こそが真に病気を治すものだとも言っています。つまり「自然」が鍵ということなのですが、この「自然」とは何を意味しているのでしょうか? 

 

「自然から遠ざかるほど病気に近づく」の意味を、ただそのまま読んだところでは、おそらく大多数の人が、都会地を離れた田舎の景色を思い浮かべられるのではないかと思います。もちろんそれも含んでいますが、彼が言った「自然」には、もっと大きな意味があります。

 

前のところで、みなさんは複数の体を持った「多次元的存在」だという話をしました。あなたという「個」の本質は、物質的身体にあるのではなく「意識体」にあります。身体も個別性を有してはいますが、これは前のところでも述べたように、あなたという「個」が、縁ある両親のDNAを選んで、その組み合わせによって自分用に創造したものなのです。

 

つまりあなたの身体は、物質界を生きるための道具、いわば乗り物としてあるのです。そして、このDNAの組み合わせを決定づけているものこそ、その「魂」が背負ってきたカルマなのです。「魂」は、前世までに積んだカルマを、次の人生で清算する(刈り取り)ことを目標にして、そのカルマがわざわざ顕れるように自分の心身を設計し、その上でこの世に転生して来るのです。よく「親は選べない」と言いますが、そうではなく「魂」は親を選んで誕生してきているのです。

 

*最近では「親ガチャ」という言葉もあるそうです。

 

しかし、あなた方の世界ではそのようには考えないので、もっぱら家系の遺伝にばかりフォーカスを当てて、無意味な議論を繰り返しています。この「家系の遺伝」に縛られて、どれほどの人がしなくてもよい苦労をしていることでしょうか。中には、家系を誇りに思っているという方もおられるでしょう。でもそれも、宇宙から見れば、単なる「執着」でしかありません。

 

さて、この乗り物は、誰が日常の整備点検をしてくれているのでしょうか? あなたは、ドライバーとしてこの乗り物を日々使う一方で、時々はメンテナンスもしています。食事と運動です。しかし、このメンテナンスにどのていど気を使っているかは、人それぞれです。中には乱暴に扱ったあげくに放ったらかしという人も少なくありません。しかしそれでも、この乗り物は、けなげに、律儀に動いているのです。

 

ここで考えてみてください。心臓は誰が動かしているのでしょうか? 消化は誰が行っているのでしょうか? 血液やリンパ液の循環は誰がしているのでしょうか? 免疫の働きは誰が行っているのでしょうか? 細胞分裂は誰の命令で行われているのでしょうか?

 

あなたではありません。あなたが、それらをコントロールすることは出来ません。それらは「自然」に動いているのです。これが、ヒポクラテスが語った「自然」の意味です。ですから、「人は誰でも体の中に百人の名医を持っている」と言ったのです。百人の名医が、日々それらを調整してくれているのです。

 

あなたの身体細胞は、それ自体が、己の意志で宇宙の摂理にしたがって、ただ生きようとします。そのとき、細胞の生き方が「宇宙の真理」と完全に合致していれば、宇宙は基本的に無病なのですから、身体は病気にはなりません。ところが、その人が「宇宙の真理」に逆らうような生き方をしていた場合には、その「意識」がノイズとして身体細胞に混入してしまうのです。なぜなら「意識体」の中に「身体」がつくられていくのですから。その結果、細胞のコピーミスが起こり、癌を始めとする様々な病気が発生します。

 

大自然に病気はありません。自然界では、生き物たちが互いに助け合って、みな健康に生きています。植物でも動物でも、病気が発生するのは人間の近くにいるものたちだけなのです。人間が、自己の都合のよいように手を加える、つまり「自然」から遠ざければ遠ざけるほど病気が発生してしまうのです。人間に飼われたペットには、飼い主の波動が伝播します。そのため、飼い主の波動がネガティブな気持ちで満ちていた場合には、ペットにもそれが伝染し、ペットが病気に罹るのです。

 

「まず、何よりも害をなすなかれ」と、ヒポクラテスが言った意味とはこれです。「害」とは「宇宙の真理」に逆らう生き方をしてしまうということです。「病気」をうんぬんする前に、まず「害」をなさない生き方が重要であると。ちゃんと「自然」に寄り添って生きよと。「自然」から遠ざかるほど病気になってしまうのだぞ、と言っているわけです。そして、もしも「病気」になった場合には、「自然」なあり方に回帰すれば治るのだと。これを「病気は神が治し、恩恵は人が受け取る」と言って説明したのです。

 

ヒポクラテスは、こうした「因の科学」のセオリーを大前提とした上で、次に具体的な養生法や治療法を示しました。ところが、現代人には「因の科学」が理解できません。物質偏重の科学を、真の科学だと信じ切っていて、逆に「因の科学」をエセ科学といって断罪までする始末です。その結果が、今度の「沸く珍禍」を引き起こしているというのに、そうなってもまだこの過ちに気がつかないのです。地球人たちは。

 

人の遺伝子を操作するなどという発想は、「自然」とは対極に位置するものであり、まさに神への反抗です。666のルシファーが為せる技です。それを今度の「沸く珍禍」では、上から下までが一斉に賛同して行ったのです。‥‥‥‥‥。

 

しかしここで、「病気」というものが示しているもう一つの側面にスポットを当てることができれば、まだ救いがあります。病気は「自然」から遠ざかるほど、言い換えると「宇宙の真理」に背いた生き方をするほど発生するのですから、人が「病気」になった時には、その人の生き方の間違いを、「病気」というサインが示してくれているということになります。

 

今度の「沸く珍禍」では、それが個人の生き方の問題だけにとどまらず、集団としての人類の生き方の誤りまでをも示してくれたのです。このことにもしも気がつければ、個人としても、また人類としても、「病気さん、ありがとう」と言うことも出来るのです。そして、心底から反省し、これまでの生き方を根本的に是正すれば、人類の「病気」もやがては癒えていくことになります。

 

生き残るあなた方は、これからはそれを根本に据えて、先ず自分の生活を立て直し、次いで他の人々を手助けできるよう、ますます元気に生きていかなくてはなりません。悪いものは、これから一掃されます。世の中は一見メチャクチャになりますが、それは明るい波動が還ってくるということで、言うなればデトックス作用であり好転反応なのです。

 

ですから、その時期が過ぎれば、ストレスのない真の健康生活が、これから送られるようになります。しかしそこには、視点の転換が掛かっています。みなさんは先行してそれを実践し、周囲の人たちに明るい波動をどんどん振り撒いていってください。今までよく耐え忍びました。これからは、純粋さと、誠実さと、真理に生きる人たちが活躍する時代です。そうです、あなたたちの時代が来ました。

 

次回には、癒しと健康のための具体的なポイントについてを述べます。

真実の健康に目覚める時(1)医猟の闇に気づくのだ

嘘の「パンデミック」(Plandemic)と「沸く珍禍」は、地球人類を次の地平へと押し出しました。今もって、これが「大惨事世界大染」だと気づかない人たちも大勢いるのですが、この未曾有の出来事は、これまで隠され続けて来た多くの社会常識の裏にいったい何があるのかを浮き彫りにしてくれました。メディアの大嘘、政府の腐敗、謀略に満ちた国際政治、そしてそれらを操る「闇のグループ」の存在。

 

でもなぜ、そんなマンガみたいな(今になって振り返ってみればの話ですが)歴史が、人々にまったく気づかれることなく、数千年にもわたって維持し続けて来られたのでしょうか? そこには、「洗脳」に簡単に染まってしまうという、地球人類共通の性格的特質がありました。これは、地球人類の DNA に深く刻み込まれた根本的な欠陥だと言えます。そしてこの欠陥は、そもそも人類が、奴隷・家畜人種として創作されたことに起因しているのです。

 

*『アセンション 宇宙からのメッセージ』308ページ「あなたたちの使命 ー 第六感以上を切断された DNA の修復」を参照のこと。

 

人類というのは、檻の中で飼われた羊です。それは「家畜」ですから、飼い主の言うことをよく聞くようにみな飼育されて来ました。それが「洗脳」です。そして、家畜の中の一部に、「牧羊犬」としての地位を与えてエリート意識を持たせ、他の家畜を管理させたのです。しかしあまりにも数が増え過ぎたので、そろそろ屠殺処分の時期が来たと「闇のグループ」たちは考えました。そして科学技術が追いついた今のこのタイミングで、かねてからの計画を実行に移したというわけです。

 

彼らにとって、優生学的に劣る人間は「家畜」ですから、屠殺処分することについては何の心の痛みも感じません。この「闇」に操られた、おバカなエリートたち(牧羊犬)が、これまたおバカなために、何の心の痛みも感じずに、同じ人間をせっせと屠殺場へと送り込んでいるのです。彼らは、あまりにもおバカなために、そうすることで、自分の命運も一緒に尽きていることにすら気づきません。完全に「洗脳」ロボット化しているのです。

 

さて、「パンドラの箱」の蓋が一挙に開いて、あらゆる分野の不正が暴かれていくという過程を、いま世界中の人々が同時に目撃しています。その中の一つに、現代の「医猟」システムもあります。しかしこの「洗脳」は、あらゆる分野の中で、お金に次いで強力なものとなっています。そもそも、今度の「沸く珍禍」に多くの人がハメられてしまったのは、「医猟」の闇というものを知らず、「威者」の言うことをただ盲目的に信じてしまった結果、そうなってしまったと言えるのです。

 

「医猟」の「洗脳」がとりわけ強力なわけは、それが「死の恐怖」と直結しているためです。ですから、「恐怖」で人を操るというセオリーにいちばん近い話題をつねに提供できました。お若い方はご存知ないと思いますが、現在の「医猟」システムや健康常識についての考え方は、この半世紀間に徐々に確立されていったもので、最初から今のようなものであったわけではありません。少しずつ少しずつ歪められて行き、今では、間違った健康と医療に関する概念が、世間で完全に常識とされるまでに至ったのです。

 

これは、2019年末に「Plandemic」が開始されてから、今日に至るまでの過程を振り返って見れば、容易に想像できるのではないでしょうか。「Plandemic」以前と以後では、人々の常識が大きく変わった(変えさせられた)ことが解るはずです。また、この「洗脳」スピードには、加速度がついて来ているということもお解りいただけるでしょう。

 

「早期発見、早期治療」「素人判断せずに直ぐにお医者さんへ」といったスローガンや、春の健康診断が定着するまでには、それなりの時間が掛かりました。また2009年の「子宮頸癌ワクチン」の導入に際しては、人々の間にまだ抵抗する意思があったように思います。

 

ところが今度の「沸く珍」では、それが従来型のワクチンではなく、人間の遺伝子を操作するというとんでもない発想のしろものであったのにも関わらず、あっというまに普及していきました。しかも、予防効果などなく、打てば打つほど感染しやすくなるというデータが明確に出て来ても、多くの人々がブースターまで接種してしまったのです。加えて、医療関係者が率先してそれを推進しているという事実にはまったく驚きを隠せません。 

 

つくづく「洗脳」というものの恐ろしさを感じます。とにかく上から下までが、玉突き的に一気に「洗脳」されていくのです。まさに、「終えりゃあ洗脳」という世界。現代の「医猟」は、「ヒポクラテスの誓い」を忘れてしまった、エリートたちのための羊狩り(Sheep Hunting)となってしまいました。

 

「ヒポクラテスの誓い」の第四条から第八条にはこうあります。

 

4.自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。

5.依頼されても人を殺す薬を与えない。

6.同様に婦人を流産させる道具を与えない。

7.生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。

8.どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。

 

どうでしょう? 「闇」に操られた現代の「威者」たちは、これと真逆のことに精を出しているのではありませんか? 金と地位が欲しいばかりに‥‥。

 

しかし、今度の「沸く珍禍」は、多くの犠牲者を出すことと引き換えに、現代「医猟」の化けの皮を剥がすことにも繋がっていくことになります。15年前、私が「新聞やテレビニュースは見てないんだ」と知人に語ったときには、「ほんとォ?」とまだ不思議そうな顔をされていました。でも今は、若い世代の大部分がマスコミなど歯牙にもかけていないでしょう。それと同じことが今後、「医猟」と「威者」についても起こります。

 

でも、まだもう少し時間が掛かる。何しろ、この「洗脳」は深過ぎる。先ずは、良心の療法家がどんどん現われて、いま苦しんでいる人たちに本当の医療を施すようになることが先決です。これは急務です。

 

「医猟」の「洗脳」の深さというのは、単にそのシステムだけの問題に留まりません。これは二重の構造になっているのです。

 

確かに、システムだけを見ても問題は大ありです。製薬会社、医療機器メーカー、政治家、医療系の学校、免許制度、厚生労働省、医師、病院、健康保険、自治体、広告、メディア、WHO、etc.。これらはまるでお城の石垣のようなもので、互いが互いをガッチリ支え合う構造になっていてまったくビクともしません。それは、「軍産複合体」に並ぶ「医産複合体」の強力な利権構造を保っているのです。そして、そのボンド(Bond)となっているものが病気と医療に関する「洗脳」です。

 

しかし、この石垣を崩す方法が一つだけあります。みんなが一斉に、春の健康診断など受けなくなればいいし、病院などにも行かなければいいのです。「えっ! なんという暴論」と思ったあなた。それこそが、深く深く「洗脳」されてしまった証拠ですぞ。「早期発見、早期治療」という謳い文句で、癌になる人が減りましたか? 逆にどんどん増えているじゃありませんか。「素人判断は危険、直ぐにお医者さんへ」と言われてどうなりましたか? 「病気」にされた挙句に、国民医療費も猛烈に増えたじゃありませんか。

 

癌死亡者の推移

 

国民医療費の推移

 

おかしいとは思いませんか? しかし、明らかにおかしいということを、データがちゃんと示していたとしても、大多数の人々はそれをおかしいとは思いません。20年とか50年の長いスパンで見れば、データは歴然としたものを示しています。しかし変化というものは、たいていは緩やかにやって来ますので、人々も変化にすぐに慣れてしまい、それまでの常識が気がつかない間にちょっとずつ更新されていくのです。

 

そもそも、人々はデータやエビデンスになどは関心がありません。思考や分析は大の苦手です。それよりは真っ先に「感情」を動かして直ぐにアクションしてしまう。一に恐怖心、二に嫉妬、三に怒りです。人類のその欠陥的性質を、巧みに突かれ、これが支配者に利用されてしまうのです。マスコミや操作されたSNSは、絶えずこれらの「感情」を刺激し続けることによって、大衆をコントロールしています。

 

*政権に不祥事や隠したいことが起きると、芸能人の不祥事ネタを差し込んでそっちを大きく扱わせたり、今なら「北朝鮮がミサイルを打った」というニュースを流して、防衛意識にすり替えを図ったりする。

 

ですから、「洗脳」は単にシステムだけの問題で起こるのではなく、「洗脳」される側の「意識」の目覚めが遅れているという、人類のカルマに起因する根の深い問題が背後にあるのです。

 

けれども、今度の「Plandemic」はその展開がかなり性急であったために、茹でガエル的なじっくりとした「洗脳」とはなりませんでした。急に「つべこべ言わずに打て!」ということになった。それでも、恐怖心の煽りが非常に大きかったために、多くの人がそれに従いました。が、3年が過ぎようとする現在、この性急さが、逆に綻びに転化し出したのではないでしょうか。おそらく、「闇のグループ」の中に、完成されたシステムに対する過信というものがあったように思います。

 

ともあれ、「沸く珍」による「人類削減計画」は、すでに一定の成果を挙げました。これまでに犠牲になった方、そしてこれから犠牲になってしまう方やそのご家族はお気の毒ですが、どうにもならないのです。縁なき衆生は度し難し。自分で耳をブロックしてしまった人たちには、どんな言葉も届きません。真実の言葉よりも、嘘の言葉を好む人には、真実が嘘に聞こえてしまうのです。悲しいことですが、どうしようもありません。

 

この3年弱というものを観察しておりますと、自分の耳をブロックしてしまった人たちというのは、共通して次のどれか、もしくは複数の罠にハマってしまっていることが特徴として見受けられます。

 

1.政府発表およびマスコミ報道を真に受ける

2.権威を信用する

3.科学の嘘に騙される

 

ところが、この言い方は、その枠組みの外に飛び出てみて初めて解るものであり、それぞれをいま信じ切っている人たちにとっては、このような指摘はトンデモ話(いやゆる陰謀論)や、ひどく傲慢なもの言いにしか映りません。宗教を信じ切っている人たちとまったく一緒です。

 

ですから、あまり強く言うことは出来ません。そんなことをしたら、たちまち喧嘩になってしまいます。喧嘩をしたら、そこでまた一気に波動が下がります。ですから、説得しようとしても労力の無駄なのです。これはもう、本人の気づきを辛抱強く待つしかありません。感情を交えずに、真実だけを淡々と述べればそれでいいのです。

 

しかしこれは、いま挙げたものを「疑え」ということを主張しているわけではありません。「疑う」視点を持って見ることも、また別の「信」を持つことに他ならないのです。そうではなく、これらの罠にハマる根本原因は、別のところにあります。煎じ詰めれば、それは、次の無知と無智無知:知識がない、無智:知恵がない)に起因しているのです。

 

1.政府発表およびマスコミ報道を真に受ける → 支配構造の闇を知らない

2.権威を信用する → 自分で判断をしない

3.科学の嘘に騙される → 真の科学を知らない

 

1.の「支配構造の闇」については、これまでにも何度も語って来ました。知らない人は、国連加盟の国々はみな独立した存在で、各国政府はその代表であると教科書で習ったことを素直に信じています。ところが実際には、国連は「闇のグループ」の傘下にあって、各国政府などは、この国連、および諜報機関、シンクタンク、中央銀行、大企業、富豪の投資家らに操られた存在でしかないのです。またマスコミも、この支配構造のプロパガンダ機関でしかありません。

 

2.の「自分で判断をしない」という慣習は、教育とマスコミによって醸成されました。普通に考えれば、まったく逆のように思うでしょう。教育が思考能力を育て、マスコミがその材料を提供するのだと。ところがそうではありません。

 

これは巧妙に仕組まれたトリックで、先ずは「教育」の名の下に人間に優劣をつけます。ここで、優越感を持った少数の人間だけを「牧羊犬」へと養成し、エリートとそうでない人間との格差を生み出します。そして、劣等意識を持った大勢の羊たちに対しては、マスコミを通じていわゆる3S(Sports、Sex、Screen)の娯楽を与え、牧場の中で毛を刈りながら(つまり搾取しながら)飼うのです。そこで、教育は「矯育」であり、マスコミは「魔巣込み」というわけです。

 

こうして「自分で判断をしない、判断できない」人間が大量に育成されているのです。このような土壌の中に「専門家」という肩書きの人を投げ込まれたら、大衆はひとたまりもありません。「専門家」というのは、特別メダルを付与された「牧羊犬」です。首にぶら下げたそのメダルの輝きの前には、大衆はみな頭(こうべ)を垂れるしかありません。なぜって、「専門」的なことは、難し過ぎて一般大衆にはからきし分からない(ということにされている)のですからネ。

 

さて、この「専門家」のトップの位置に君臨してきた NIH(アメリカ国立衛生研究所)の Dr.ファウチが、コロナ騒動の真っ最中、こう発言したことがあります。「私が科学なんだ」。ファウチの発言には、〈私が科学を代表しているのだから、これ以上は問答無用!〉という意味が込められています。が、その言葉の前提には、「科学」というものに対する「絶対的信仰」が、この世界にすでに幅広く浸透しているということが分かるではないでしょうか? 早い話が、科学迷信です。

 

*Dr.ファウチ(Anthony Stephen Fauci):今度のコロナ・パンデミックの首謀者の一人で、NIAID(アメリカ国立アレルギー・感染症研究所)所長。NIAID は NIH の下部機関。

 

3.の「真の科学を知らない」は、この状況に対して根本からの修正を迫ります。この「知らない」には、二重の意味が含まれています。一番めは、「専門家」のところでも述べたように、「科学」の専門家が話すことを、一般の大衆がほとんど理解できないという点です。

 

では「科学」の専門家が、「宇宙の真理」を本当に知っているかというと、実は彼らのほとんどが何も知らないのです。これが二番めの「知らない」の意味です。自分が「知らない」ということを知っている謙虚な科学者も稀にはいますが、大多数は、ファウチのように「知っている」と自負することによって、その穴にマスキングテープを貼って誤魔化しているのです。

 

アセンション 宇宙からのメーセージ』の本の解説にも書きましたが、この世で「科学」と称しているものは、みな結果から結果を導き出しているものに過ぎません。一応、原因を探ろうと努力はしているのですが、どうやっても真の原因には迫れません。なぜでしょうか? それは、彼らが「科学」と称しているものが、みな物質界内の現象を追いかけるだけのものに留まっているからです。

 

ここで、問います。

「存在」とは何でしょうか?

「生命」とは何でしょうか?

「意識」とは何でしょうか?

これらを説明できる科学者が、果たして今、いるのでしょうか?

 

いま挙げたものは、みな物質界で普通に見られる実体です。しかも、「この世」の基盤を構成しているものばかりです。ところが誰も、それが何であるか、どうして「在る」のかを説明できません。驚くべきことに、ちゃんと説明ができないのに、みんな普通に生活しているのです。

 

実は「不安」の大元は、ここより発生しています。基盤の大元を知らないのに、生き続けているということによる「不安」です。自分はなぜ生まれたのか? 何のために生きているのか? どうせ死ぬと解っているのに、生きることにどんな意味があるのか?

 

この世で言う「科学」は、その答えを知りません。提示できません。そもそも、この世に「在る」ということは、何かの結果としてそれが今「在る」のです。これは「あなた」という存在に関しても同じです。いま「在る」ことには、必ずその「原因」がある。でも、それを知ろうと思ったら、「結果」の「原因」にまで遡らなくてはなりません。つまり、物質界を超えた領域(非物質界)に踏み込まざるを得ないのです。

 

この因果関係を説明したロジックが「因の科学」です。それは、物質科学をはるかに凌駕した宇宙哲学なのです。

 

しかし、現在の人類の「この世界」に関する認識は、「因の科学」からは大きく遠ざかってしまいました。物質文明の発達に伴って、逆に著しく後退して行ったと言ってもよいほどです。これが、「健康」や「医療」や「環境」の分野において、多大のマイナスの影響を与えるに至っているのです。

 

ひとことで言えば、西洋文明(中でもアングロ・サクソンのはかりごと)によって、「因の科学」が脇に追いやられてしまったのです。その背景には、666の獣の論理があります。物質科学への偏重があまりにも強化されて行き、もはや回復不能な状態にまで、人類は「洗脳」されてしまいました。

 

けれども、今度の「沸く珍禍」は、少なくともそこに疑問をさし挟む機会を与えることになったと思います。これまでにも何度か言って来ましたが、地球人類のアセンションは、大きく二つの段階を経て達成されることになります。最初は、自分が巨大な社会システムに操られていたと気づくことです。そして二段階めは、自分が身体だけの存在ではないということに気づいて、それ以上のものを知覚することです。これによって、その人は真の「自由」を思い出し、サナギから蝶へと変身するのです。

 

いま言ったことは、そっくりそのまま、「健康」「医療」「環境」の分野についても当てはまります。間違った(意図的に歪曲された)知識が、これらの分野を席巻してしまい、今では人々がすっかり「洗脳」された状態にあります。しかし、今度の「大惨事世界大染」は、「闇のグループ」が意図していた方向とは違う気づきを、多くの人に与えることになりました。現代の「医療」システムが、「医猟」(Sheep Hunting)になっていることに、人々がやっと気づき始めたのです。

 

みなさんには、先行する旅人として、単に「医猟」の「闇」に気づくだけではなく、「因の科学」が示す、真の医療と癒しに目覚めていただきたいのです。このブログを読んでくださっている方々の中には医療関係者がたくさんいらっしゃいます。彼らは一様に苦悩しています。自分の志と、現在の「医猟」現場とのあまりにもの乖離に。

 

今が、真実の「健康」に目覚める時です。

「真理」に時の経過はありません。

いついかなる時代でも「真理」は変わらず「真理」であり続けるのです。

だからこそ「真理」なのです。

 

ヒポクラテスはこう言っています。

 

人は誰でも体の中に百人の名医を持っている。

私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである。

 

これは「因の科学」より発せられた真実の言葉です。

ヒポクラテスは過去の人などではありません。

今でも、人々を救おうとして生きておられるのです。

ほら、あなたのすぐ横に。

 

(つづく)

この連載は、飛び飛びで掲載されることになるかも知れません。

小宇宙としての人体と、真の健康のあり方(2)

人体が「小宇宙」だということの理由として、人間は多次元的存在(宇宙の7階層のオクターブすべてを本来的に有する存在)であるから、ということを前回でお話ししました。しかしそれ以外にも、人体の「小宇宙」性を物語るものがあります。

 

『創世記』には、人間が、泥で造った人形に神の息を吹き込んだ結果誕生したとあります。これは本当のことで、人体というものは、泥(つまり宇宙にある塵と水=物質)によって造形されており、そこに神の息(ソウルおよび根元的生命力)がプラスされたものが、人間なのだという意味です。

 

人体の6〜7割は水、つまり水素(H)と酸素(O)です。たんぱく質は、これに炭素(C)と窒素(N)と硫黄(S)が加わったもの。骨の主成分はカルシウム(Ca)とリン(P)ですから、どれもありふれた元素ばかりです。この他に、微量元素が80種類くらい発見されていますが、宇宙にない元素はありません。ということで、人体は、まさに土に水を加えて練った泥人形なのです。

 

韓国テレビドラマの名作『ホ・ジュン』の中にこんなシーンがあります。医術の道を目指すことを決心したホ・ジュンが薬草を求めて山中を探索しているときに、鋭利な刃物で腹を裂かれた動物の死体を見つけるのです。「はて?、これは何者の仕業か」とおののいていると、やがてその理由が分かります。それは、後に師の一人となるアン・グァンイクが解剖の実験をした後だったのです。そのアン・グァンイクが、ホ・ジュンにこう言って聞かせるのです。

 

人体は宇宙と似ている。

生命の根源はそれと同じだ。

頭の円形は天をかたどり、足の方形は地をかたどる。

天に四季があるように、人には四肢がある。

天には五行、人には五臓がある。

    五行:木、火、土、金、水

    五臓:肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓

天には六極(りっきょく)、人には六腑、

    六極:天、地、東、西、南、北

    六腑;胃、小腸、大腸、膀胱、胆嚢、三焦

天には九星があり、人には九竅(きゅうきょう)

    九竅: 口、両眼、両耳、両鼻孔、尿道口、肛門の九穴

天には十二時(じゅうにとき)があり、人には十二経脈がある。

    十二経脈:五臓六腑を巡る気血の主要通路

天には二十四節気があり、人には二十四兪(ゆ)がある。

    二十四兪:陰部から顎への一直線上にある24の経穴

天が365日であるように、人には365の関節がある。

    ※最後のこれだけはどうも間違いで、関節数は265のようです。

 

こじつけといえばこじつけですが、現代ではもう失われてしまった智慧が、ここにはあります。

 

医療の「医」の字は、「醫」の略字で、高度成長期前の昭和の時代には「○○醫院」という看板の表記が、まだけっこう残っていました。さらに時代を遡ると、元々の字は「毉」と書きました。下部が巫女になっているんですね。「医」は矢を納めた箱で、「殳(ほこづくり)」は打ちはらうの意味。「医+殳」の「殹」の字は「エイ」と読みます。また「酉」は薬草酒を注いだ酒器の意味です。

 

ということで、巫女が病魔退散を祈願して矢を「エイ!」と放ったのち、病人に薬草酒を飲ませたというのが医術の起源です。同じような風習は世界各地にあって、西洋医学がまだそれほど浸透していない部族社会には、今もシャーマンが医者の役割を果たしているところがあります。現代の日本社会で、そうした呪術的なものを信じている人はさすがにいないでしょうが、医術の起源がどういうものであったかを知っておくことは、とても重要です。

 

今の医療は、病気の原因を「物質」としての身体に探し、治療も「物質」によって行っています。これが全くの的外れであるということは前回に述べました。人間は、何よりも先ず霊的存在であり、その人の「魂」が脳を使って自己意識(=心)を生み出し、「心」が身体状況の形成に深く影響を与えているのです。したがって、「病気」を本当に治そうと思ったならば、「身体」→「心」→「魂」へと原因を遡っていかなければ、本当の治療というものは行えません。

 

残念ながら、現代のお医者さんおよび医療システムに、そのような観点は皆無です。医者も患者も、全員が物質主義に洗脳されていて、本当の医術というものを知りません。しかしこれは、いずれ是正されて行きます。行き着くところまで行けば、現代医療の闇に気づく人も、物質主義に疑問を持つ人もしだいに増えて行くでしょう。今度の「コロナ禍」はそれを加速させる可能性があります。そうなった暁には、最先端科学と、古代より伝わる秘術をブリッジする人物が必ず現れます。その時を待ちましょう。

 

物質主義の行き過ぎは、現在の「健康食品」ブームにも如実に表れています。大口スポンサーが逃げ出したことで、テレビ・新聞などのオールド・メディアの広告費がガクンと下がり、この穴を「健康食品」の広告が埋めるようになりました。高齢化社会ということもあるのでしょう。お年寄りをターゲットにした「健康食品」の広告がやたらと増えたことには、きっとみなさんもウンザリされているのではないでしょうか?

 

しかしこれなども、無智のなせるわざです。健康というものは、「魂」→「心」→「身体」へと続くトータルなバランスの上に成り立つものです。それを、たった一種類の「健康食品」を摂り続けて、どうなるというものでもありません。かえってバランスを壊すのではないでしょうか。無智な人たちは、広告をそのまま信じて、健康によいとされている成分を経口から摂取すれば、それがそのまま人体に回るものだと考えています。しかしそんなわけにはいきません。

 

「人体」というものは、極めて精密な化学工場なのです。胃に回った食べ物は、その後さまざまな工程を経て、一度はみな分子レベルにまで分解されてしまいます。そして、「人体」自身が、必要な栄養素を自分で再合成するのです。ですから、ビタミンとミネラル類を除き、特定の栄養成分を摂ったからと言って、狙い通りの成分が体内でちゃんと生成されるという保証はどこにもありません。

 

「人体」が持つ、この代謝能力というものは実に素晴らしいもので、三大栄養素と言われる、糖質、蛋白質、脂質でさえも、三つを含む食品を必ず摂らなければならないというものではないのです。糖質は脂質やアミノ酸に変換できますし、蛋白質は糖質や脂質に変換できます。

 

もちろん「人体」は、植物のような光合成はできませんので、三大栄養素プラス、ビタミン、ミネラル類は、基本的に言って、体外から摂り込まなくてはなりません。しかし、入り口部分であまり神経質になる必要はないということです。現代人は情報過多で、あまりにも耳年増になってしまって、自分の身体の声を聴く、ということを忘れています。自我(エゴ)によって情報をこねくり回し、身体細胞の自発的な生命力をかえって阻害しています。

 

ここで、みなさんにお訊きしますが、「人体」のこの素晴らしい代謝能力は、いったい誰の命令で動いているのでしょうか? あなたではありません。これは明白です。「人体」がそれ自身で勝手に動いている。言い換えれば、「自然」があなたの身体細胞を動かしているのです。これは、あなた方、ほぼ全員が見落としている重要なポイントです。あまりにも当たり前過ぎて、誰も本質に気づかないし、気づこうともしないし、気づけないのです。

 

では「自然」とは何でしょうか?

ありのままということです。ありのままに在る「宇宙」であり「生命力」です。

そして、その全部が、「神」の働きによるということなのです。

 

近年、「ヴィーガン(Vegan)」と呼ばれる「完全菜食主義」を実行する人々のことが話題となっています。これは健康のためというよりも、動物を殺して食べることへの抵抗感や忌避感が大きなモチベーションとなっているようです。これに、殺生を禁じた東洋的宗教思想や、環境保護運動(SDGs)、WHOの指針なども絡んで、ヴィーガンには、何やら作られた政治的極端主義の臭いがプンプンします。

 

確かに、欧米食文化の中では、肉食が過ぎた面があります。また、近年のFFチェーン、レストランチェーンは、肉を売り物にし過ぎていると思います。しかし、食文化というものは、その地域固有の風土の中で、何世代にも渡って創り上げられて来たものですから、それを極端な主義主張で全否定したりするのはよくありません。北極圏に住む人たちなどは、野菜が獲れずに栄養素を海獣から摂取するしかならなかったという事情もあります。

 

それに、ヴィーガンの人たちの「生命観」は、ごく狭い領域しか見ていません。物質的宇宙というものを俯瞰して見れば、鉱物(土)が植物を育て、植物が昆虫や鳥や草食動物を育て、草食動物が肉食動物を育てている、という食物連鎖の構造が解るはずです。これらすべて(鉱物すらも)が、宇宙においては「生命体」なのです。もっと言えば、宇宙そのものが「生命体」なのです。

 

このことを、先ずは認識してください。ですから、どのような個体も、他の生命を殺して自分を生かすために供する、という「自然界の掟(おきて)」からは逃れ得ないのです。その視点からすると、動物を殺してはいけないが、植物は殺してもよいというのは、偏った「生命観」から生み出された、とてもおかしな考えであるということが分かります。けれども、この「自然界の掟」を、罪深き人間といったキリスト教原罪論のように捉えることも、また間違いです。

 

「自然界の掟」は、決して〈罪〉などではなく、それが〈ありのまま〉であるということに着目してください。「生命」というものの、全体構造を見てください。Aという命がBを生かし、Bという命がCを生かす。その連続の中では、AもBも、Cの中で生きているのです。解りますか? これが宇宙における「生命」の実相なのです。みなさんは表面的な個体の生死ばかりを問題にしています。しかしそうではなく、トータルの「宇宙生命」というものは、変化し続けながらも永遠に連続しているのです。

 

だからと言って、スポーツ狩りのために他の生命を殺すことも許される、と言っているわけではありません。人間社会では、己の欲望や利益のために、平気で他人を殺します。ハンティングを楽しんだり、戦争で他人を殺したりするのは、「宇宙生命」の実相というものを、何ひとつ理解していないからこそ出来ることです。もし「生命」の本質というものを正しく理解していたとしたら、毎度の食事にも、感謝の念しかないのではないでしょうか。

 

京料理の職人世界には「工夫と始末」という言葉があります。同じ意味で「成仏させる」という言い方もします。これは、いただいた貴重な命は、何ひとつ無駄にすることのないように、工夫して用い尽くすという意味です。刺身に引いた後の魚のあらも、捨てずにあら炊きにしたり、お吸い物にしたりして全部きれいに食べ尽くす。それが「成仏させる」ということです。同じことは、アイヌ文化にも、「カムイ」の名によって色濃く反映されています。

 

ついでに、みなさんに言っておきますが、ヴィーガンのような極端な思想は、それが何であれ、捨てるべき「こだわり」の一つでしかありません。世の中には善的なものと、悪的なものがあります。それは事実であり世の実相です。しかし「善・悪」にこだわるということは、もうそれは、己の執着なのです。例えば「正義」にこだわる。しかし「正義」など、己の勝手な定義に過ぎません。立場が違えば、同じことが、たちまちにして「不義」に変わってしまいます。

 

「執着」というものは、たいていが「良いこと」であるという点に気づいてください。「良いこと」だと思っているからこそ、その「執着」が捨てられないのです。「お金」への執着が捨てられない人がいるとしましょう。それは、その人にとって、「お金」を持つことが「良いこと」だからなのです。闇の支配者はその心理を絶妙に突いて来ます。誰も反対できないような一見「良いこと」をフラッグにして、大衆をその方向へと従わせるのです。

 

話を戻して、毎回の「食事」シーンにおいていちばん大切なことは、感謝を持って、楽しく、美味しく、そしてステキに演出して食事をいただくことです。これがまた、「健康」にもいちばんよいのです。なぜならば、私たちは「食事」で、ただ栄養物を摂取しているのではないからです。食事に載った「バイブレーション」を取り込んでいるのです。

 

ですから、ああでなければいけない、こうでなければいけない、という献立や食べ方は、その「こだわり」のネガティブ・エネルギーが、食事に入ってしまいます。入院患者に供されている今の病院食などは、この点でまったくもって最低の食事、元気を萎えさせるだけの食事と言っても過言ではありません。これも無智から生じていることで、物質主義の栄養学からしか考えていないために、そうしたことが起きてしまうのです。

 

また、いただく際には、自我が喜んでいる(たいていの人はこれで、ヨダレを垂らしています)のではなく、身体の細胞が喜んでいることを強く意識しながら召し上がってください。

 

食事が目の前に供されたら、次のようにします。両手のひらを食事の上にかざして、先ず大きく息を吸い込みます。そして息を止めて眼を閉じます。その後、山、川、畑、海を思い浮かべてそれらの恵みに感謝を捧げます。このようにすると、自然界のエネルギーが手のひらを通して食事に転写されます。そして最後に、今日の糧が満足に得られない人も、この場に集まって一緒に喜んでくれるようにと祈ります。以上をまざまざとイメージした後で、どうぞ食事を召し上がってください。

 

さて、何を食べたらよいかということなのですが、清浄なものであれば制限はありません。身体に聞いて、(自我ではなく)細胞が欲しがるものを摂ればよいのです。前段にも書きましたが、何を食べればよいかということは、さほど重要ではありません。その証拠に、動物はたいていが極端な偏食です。それで何の問題もありません。ところが人間だけが、そのことばかり気にしており、栄養士さえそのような指導をしています。しかし、そうした窮屈さは、かえって健康を損なうおそれがあります。

 

それに、人間にとって最も大切な栄養素は、まったく別のところにあるのです。人間にとって最重要の食事、それは「呼吸」です。プラーナ、つまり宇宙エネルギーの取り込みなくして、人間が地上で生きのびることは出来ません。ところが、この最重要の食事のほうはおざなりにされ、顧みられることなく放置されているのです。しかし、「呼吸」を正しく行いさえしていれば、何を食べても太るということもなく、基本的な健康が維持されるのです。

 

肉類の摂取に関しては、歯を見れば自ずと答えが解ります。草食動物の歯は臼歯が並んでいます。これは硬い穀物や繊維をすり潰すためです。一方の肉食動物の歯は上下が噛み合わず、前歯と奥歯の間に隙間があります。これは、獲物に噛み付いて、隙間に肉を挟み込んで食いちぎるようにして食べるからです。

 

人間の歯は、親知らずを入れると32本、親知らずを除けば28本です。前歯は噛み切るためのものですからこれを除きますと、犬歯と臼歯の割合は、1:5ないし1:4となります。ですから、肉類もこの割合で摂取すればよいのです。17〜20パーセントくらいが目安です。完全な菜食主義は、必須アミノ酸や一部のビタミン類に不足を招くことがあり、お勧めできません。それらはサプリで補えばよいとの考えもありますが、それでは本末転倒になってはいやしないでしょうか?

 

私は、脂質も糖質もかなり多く摂っています。これは普段の食事だけでなく、スイーツも自分で作るようになったためです。コーヒーやお茶もよく飲みますし間食もします。たまにはお酒も飲みます。肉はそれほど食べませんが、まったく摂らないということはありません。青魚は好きでよく食べます。それで、春の健康診断はこの10年以上受けたことがなく、したがってデータも持っていません。またそれを気にしたこともありません。

 

これらを、自分自身を使ってずっと人体実験して来ました。その結果言えることは、世間で「健康」のためと称していることは、どれも逆効果しか生んでいないということです。実は、かつての自分は今とは真逆だったのです。アール・ミンデルの『Vitamin Bible』を読んで以降、健康情報オタクと化していた私は、毎日、片手に山盛りになるほどのサプリメントを飲んでいました。当時は、それが最先端で、正しいことだと固く信じていたのです! あー、恥ずかしい。

 

自分の「意識のあり方」が、自分の「身体に影響を与えている」などということは、当時は思いもつきませんでした。何よりも「健康不安」がいちばんいけません。世間で言っている「健康」は、どれも「健康不安」を刺激したり助長するものばかりです。不安にさせて、脅しておいて、そうなりたくなければこれがあるよ、というのが世間の手口です。でも、「意識」が「身体」を創るのですから、「健康不安」は、「健康」どころか「不健康」を生み出すだけなのです。

 

最後に、真の「健康」のために心がけておきたい習慣を、より大切なものから順に列挙しておきましょう。

 

1.ストレスなく暮らし、気持ちを穏やかに、かつ明るく朗らかにして、毎日を楽しむことです。➡朗らかな心

2.自然とともに生き、自然と心を通わせ、自然が与えてくれる恵みに感謝して生きることです。➡自然と共生

3.深く、大きく、ゆっくり、一息が長〜い腹式呼吸を、日常生活で習慣化することです。➡深い呼吸

4.身体の柔軟性と筋力を失わないように、毎日、体操をすることです。➡体を動かす

5.自分の身体に、今なにが欲しいかを尋ねて、その求めに応じた食事を、適量、楽しく、かつ感謝しながらいただくことです。➡楽しく食事

 

以上の5つを習慣化すれば、あなたのカラダは医者いらずになります。なぜなら、宇宙エネルギーの流れと、体細胞とが同調するようになるからです。これが、「自然」であり、「ありのまま」ということなのです。

 

どれも取り立てて難しいことではなく、かつ実行するためにはお金が必要というものでもありません。必要なのは根気だけです。ずっと続けていれば、6カ月めを過ぎたあたりから、心身に変化が起きて来て、効果を実感できるようになるでしょう。そうなった時には、現代社会が押し付けて来る「健康」概念が、いかに不要で、間違ったことばかりを人々に吹き込んでいるかに、改めて気づくことになるでしょう。

 

それでは、本日からさっそく実行を。

あなたが、健康で、活力に満ちた生き方ができますように。

小宇宙としての人体と、真の健康のあり方(1)

人々の健康への関心はとても強いです。ところが、これほど間違った健康意識が普及してしまったことは、かつて無かったのではないでしょうか。その証拠に国民医療費は毎年うなぎ上りで上昇し続け、一人当たりの医療費は直近(平成29年データ)で、33万9,900円にも上っています。これはもう「医療」というよりも「病気産業」と言うべきだと思いますが、人々の健康意識の高まりとはまったく逆に、「病気」になる人が明らかに増やされているのです。

 

この業界にも、深い「闇」があるということを一般の人は知りません。それは「軍産複合体」に並ぶ「医産複合体」とも呼べる巨大な組織体を形づくっています。しかし、金融や軍産の闇をほとんど誰も知らないのと同様、一般の人は何も疑いを持っていません。この組織体の中にいる人たちも、自分の役割の周辺部分のことしか知らないので、全体構造の深い「闇」に気づくことはないのです。

 

「軍産複合体」は、軍需産業と軍隊、また国防の予算権限を持つ政府・議会、それと英・米・イスラエルの諜報界が結びついた巨大なネットワークで、諜報界が世界中の主要マスコミをことごとくコントロール下に置いています。最近ではこれに新興主流メディアとなったビッグテックも加わって、今までのようにマスコミを通じて偽情報を流すだけでなく、ビッグテックが市民一人ひとりの発言や行動を監視する体制を整えるまでになっています。

 

これと似て、「医産複合体」は、医薬品産業と医療業界、保険業界、それらの許認可権限を持つ政府・省庁、WHO、大学、研究機関、論文発表の場を提供する科学雑誌等が結びついた、これも巨大なネットワークです。「軍産」も「医産」も、その総元締めは同じ国際金融資本家たちですから、「医産」も当然、マスコミを使って偽情報を流すだけではなく、ビッグテックを使って市民の発言と行動を逐一監視しています。

 

知っている人は知っているでしょうが、現在の世界で見たり聞いたりしている社会的なニュースは、すべてがマッチポンプです。自分で火をつけておいて、「さあ、たいへん!」と消火するフリを次にする。「軍産」は、対立構造を煽って武器を買わせ、謀略によって戦争を起こし、それを使わせて破壊に導いてから、今度は復興でまた金を儲けるのです。これと同じで、「医産」は、健康不安を煽って、人々を病気にさせて、それを次に治療と称して金を儲けるのです。

 

マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー『シッコ(SiCKO)』(2007年)を観ると、アメリカの医療と保険の制度がいかにひどいものであるか、また日本の医療制度が日米双方の権力者たちの手によって、どんどんアメリカ並みに近づけられて行っていることが解ります。人を喰い物にしか考えない。そのようなアメリカの保険会社が日本郵政に入って、かんぽ生命の詐欺販売のような事件が起きているのです。

 

みなさんは、医師免許を持たない人間は医療行為をしてはならないという法律をどうお考えになりますか? おそらく大多数の人は、安心感のためにはそうすることが当然、と考えているのではないでしょうか。

 

しかし、この裏には、誰も気づかない点が隠されています。それは、一つには、これが医療行為における「医産複合体」による独占を保証する仕組みになっているということ。そしてもう一つは、それ以外の考えを、決して起こさせない(つまりは完全に洗脳する)仕組みになっているということです。

 

この仕組みを構築したのは石油王のロックフェラーです。石油王がなぜ?と思うかも知れませんが、さすがは「闇」を仕切る人間で、先見の明があったということです。ついでに「病み」も仕切って、のちに巨大産業となる「医産複合体」を見事に組織化した。怖れと脅しで人々をコントロールしていく際に、「命」と「病気」は、格好の材料だったのです。今は、ロックフェラーに代わり、新興成金のビル・ゲイツが仕切っていてWHOと製薬会社を傘下に納めています。

 

でも「軍産」のことを知る人は多少はいても、「医産」を知る人はまだほとんどいません。それだけ、洗脳の闇が深いということです。もっとも「医産複合体」というのは、私がたったいま作った造語ですけれどネ。

 

『虹の学校』を訪れる人の中には、医療関係者がけっこうおられます。この人たちは善意の人で、自分の良心と、現場との矛盾や確執にそうとう悩まれている。善意の人であればあるほど、悩みが深いのです。ですが、今度の「沸く珍」が、史上最大の薬害だと認識されるころには、唖然とする人たちもきっとたくさん出てくることでしょう。「医産」の闇に気づく、これがきっかけとなるかも知れません。

 

ところで、今や千円札の顔となっている野口英世という人物のことですが、こんな美談を聞かされたことはありませんか? 幼いころ囲炉裏に落ちて手を大火傷し、みんなから「てんぼう」とあだ名されバカにされていたけれども、手術を受けて治ったことから、自分も医学の道に進むことを決意した。そして苦学してアメリカに渡ると、黄熱病の病原体発見などで細菌学の権威となり、医学の発展に大いに貢献した。しかし自身も研究中に黄熱病に罹患しこの世を去った、と。

 

この野口英世が在籍していたのが、ロックフェラー医学研究所です。つまり野口はロックフェラー財団から、細菌研究の資金援助を受けていたのです。野口が発見したとする黄熱病の病原体は、後にウイルスと判明したために(野口の時代には顕微鏡しか無く、ウイルス発見は不可能だった)否定されてしまい、それ以外にも、梅毒スピロヘータの純粋培養、小児麻痺病原体の特定、狂犬病病原体の特定、トラコーマ病原体の特定など、野口の研究成果と言われているものは、今日ではことごとく否定されているのです。

 

野口英世という人物は、どうやら功名心が非常に強かったようです。そこで論文発表を焦って、精査せずにいわば捏造していった。彼には人体実験スキャンダルすらあるのです。けれども、その努力の?成果は着実にあって、日本に帰国した際には大いに名声を得て、その後美談も作られたし、お札の肖像画にもなったのです。でもなぜ、このような疑惑の人物が、美談の主人公となり、お札の顔にまでなっているのでしょうか?

 

その本当のところは分かりませんが、明治から昭和へという時代を考えると、日本人に対して、西洋医学への信奉という価値観を植え付けることに関しては、野口英世の存在が多大な貢献を果たしたことは確かです。しかしそれは同時に、人体をどう見るか、生命体というものをどう考えるかということの、西洋的見方への転換を促すことになって行ったのです。

 

非常にザックリと言って、西洋と東洋とでは、人体や生命体に関する考え方がまるで違っています。西洋では、機械論的人間観が主流であり、人体を構成している様々な器官は、それぞれ独立した構成部品であるとみなすのです。

 

故障したクルマの修理というものを考えてみてください。昔ならば、エンジン音とか振動とかこれまでの経験や知識によって、故障箇所をズバリ見抜く達人がいたものです。しかし今は、先ず検査をして各種データをチェックする。そして故障箇所を特定し、そこに油を注したり(薬)、部品を交換したり(手術)するというのが当たり前になっています。

 

それはテクノロジーの進歩なのですが、問題は、生命体にも同じ論理が通用するのか、ということです。これに対して東洋的な考え方は、あくまで全体を診て、骨格や血流や神経や経絡や体温や心や気の〈バランス〉が、今どうであるかと考えるのです。バランスが崩れたから不調が生じているのであって、バランスが崩れた原因はどこにあるかということを、総合的に判断しようとするのです。

 

現代のお医者さんにかかると、本人がいくら不調を訴えても「検査の結果は異常なし」と言われることが多々あります。これは、バランスを診るという考え方が欠けているために、個々の部品検査からは発見できない漏れてしまう原因というものが、実はたくさんあるということを物語っています。特に、心と身体との関係、気と心身との関係については、現代のお医者さんたちはまるで解っていません。それらは、すべて「ストレス」の一言で片づけてしまっています。

 

では、この問題について、神秘学はどう語って来たのでしょうか?

 

神秘学では、人体というものを一重の体だけとは見ません。私たちが「肉体」と呼んでいるものは、第3霊性密度の周波数帯にある物質化したボディなのであって、その他にも見えない体が複数、重なってあると主張するのです。先ず、「肉体」の一つ上の第4霊性密度にあるボディのことを「アストラル体」と言います。そしてさらに上の第5霊性密度にあるボディを「カラーナ体」と呼ぶのです。

 

*アストラル体;別名として、サイキック体、Subtle Body、それを翻訳した微細身などの言い方がある。

*カラーナ体:別名として、メンタル体、Causal Body、それを翻訳した原因身などの言い方がある。

 

*微細身、原因身と書いてある書物では、「肉体」は粗大身(Gross Body)と表記されている。これは、振動数の粗さから、第3(粗大)、第4(微細)、第5(原因=物質的振動からはもはや離れたその奥の原因の意味)のボディを語った言い方になっている

 

その上の第6霊性密度になると、もうボディはありません。純然たる意識体だけとなって、これは「プルシャ」と呼びます。また、「肉体」と「アストラル体」の間にも通称「エーテル体」と呼ぶもう一つのエネルギー体があるのですが、これは、身体から放射されている「気」が作っているものです。これを特殊な装置を使って撮影した画像がキルリアン写真です。

 

図は、いま言ったボディの関係を表したものです。「肉体」のすぐ外側(黄色で示す)が「エーテル体」、その周りの緑の部分が「アストラル体」、さらにその外側の青く示した部分が「カラーナ体」です。

 

これらの重なりを総合したものが、いわゆる「オーラ(aura)」です。図の色は、各ボディの関係を表すために、仮に色分けしたもので、オーラ・カラーがこうだという意味ではないことにご注意ください。

 

世の中には、このオーラ・カラーが見えるという人が(私は見えませんが)、ごく少数ながらいます。

 

この中で、「カラーナ体」のオーラはその「魂」の進化状況を表わし、「アストラル体」のオーラはその人のカルマと現在の精神状態を表わし、「エーテル体」のオーラは肉体を流れる今の「気」の状況を表わしています。これらが、それぞれ、現在の状況に応じた独特の色合いを発し、全体が混じり合って、その人固有のオーラ・カラーを発するのです。

 

したがって、オーラ・カラーを見れば、その人の「魂」の進化状況から、心身の健康状態までがすべて分かるのです。どのような場合にどのような色を発しているかということについては、それを記載した文献があります。いま言ったことは、波動療法の一つである「色彩療法」の可能性を示唆しています。

 

*色彩療法:病気の時と健康な時のオーラ・カラーの違いが分かるのであるから、病気の人に対して、健康時の色をフィルターを掛けて照射してやれば治癒する可能性がある。

 

いま、各霊性密度のボディを「肉体」から外側に向けて順番に説明していったのですが、実際の成り立ちは逆で、「カラーナ体」の中に「アストラル体」が作られ、この「アストラル体」を鋳型にして「肉体」が形成されているのです。つまり、現在の身体のあり方を決定づけているのは「アストラル体」であり、「アストラル体」を形づくっているのは「カラーナ体」ということになります。

 

さて、「アストラル体」は「魂」の下部に位置する意識体であり、これは「カルマ」を保持すると共に、現在の「心」の主要な原因を形成している場所です。これが鋳型となって、今の身体のあり方を決定づけているのですから、その人の「カルマ」と、今の「心」のあり方が、身体に如実に影響を与えるということです。実は「病気」の原因のほとんどはこれなのです。逆に「肉体」面だけを原因とする「病気」というものは、ごくわずかしかありません。

 

いま述べたことは、物質主義を基盤に置いた人間機械論、および今の医療のあり方とはあまりにもかけ離れた主張ですので、現代人が受け入れるのは困難だと思われます。しかし、医学の父であるヒポクラテスは、かつてこう言いました。「人間は誰でも体の中に百人の名医を持っている」と。さらに「人は自然から遠ざかるほど病気になる」「私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである」とも語っています。

 

「そんな大昔の人の言うことなんて‥‥」と思われるかも知れません。しかし、もし今の医療が進歩していると言うのであれば、ヒポクラテスの時代からすでに2400年以上が経って、人類はもう「病気」をとっくに克服していてもよさそうなものではないでしょうか? でもそうなってはいません。逆に医療費はどんどん膨らみ、健康不安も増すばかりです。何かが、根本的に間違っているとは思いませんか?

 

「細胞」は機械部品ではありません。それぞれが「意識」を持った生命体なのです。この「意識」は、人間が頭で考えるような「意識」とは異なります。でも考えてみてください。心臓は誰が動かしているのでしょう? 消化吸収は誰が命じているのでしょう? 新陳代謝は誰が操作しているのでしょう? みんな勝手に動いています。それらの勝手に動いている細胞の集合体に支えられて、その上にあなたの「意識」がちょこっと乗っかっているのです。

 

あなた方は、このことを普段まったく意識していません。自分のカラダはぜんぶ自分のものだと思っています。ところが、一部の筋肉組織以外の「細胞」は、(常人の場合)ほとんどが自分の意思のコントロール下にはないのです。では、誰がそれをコントロールしているのでしょう? それは「細胞」自身です。「細胞」自体が、生命体の摂理に従って、〈自然に〉生きようとするのです。

 

ですから、〈自然に〉生きることを心がけていれば(=ありのまま、自然体)、各「細胞」が生きようとする生命力は、本来のあり方と方向が合致するので、病気にはなりません。これが、ヒポクラテスが言った「人は自然から遠ざかるほど病気になる」ということの意味なのです。

 

しかし人間は、「ありのまま」であろうとはしません。「自然体」で生きようとはしません。怖れと不安を抱え、過ぎ去った出来事にいつまでもこだわり、他者を恨み、蔑み、闘争し、特定の信念に肩入れし、自分を取り繕って生きようとします。なんと窮屈な鎧を、自分自身に着せてしまうのでしょうか?

 

この鎧が、〈自然に〉生きようとしている「細胞」の動きを阻害してしまうのです。癌は、「細胞」のコピーミスによって生じます。「細胞」自体の「意識」は、ただ〈自然に〉新陳代謝して新しい細胞に置き換わりたいのに、身体の上に乗っかっている人間の「意識」が、そこに自然ではないノイズを差し込んでしまうのです。その結果、コピーミスが生じるのです。しかし「細胞」は、ただ生きたいので、有害なノイズも区別することなく取り込んで増殖するのです。

 

癌以外の病気も、基本原理はみな同じです。その人特有のこだわりや執着が、そのこだわりや執着に応じた病気を創造するのです。しかしそれは、見方を逆にすれば、現われた「病気」というものが、その人が克服しなければならない精神上の課題を示している、ということになります。つまり「病気」は、「これこれのこだわりを捨てなさいよ」という、その人への警告になっているのです。

 

よく、「医者にも見放されていた病人が奇跡的に治った」という話を聞くでしょう。これはその本人が、「病気」をきっかけにして、自分のそれまでの行動や心根の間違いに気づき、深く反省をし、心を入れ替えた場合に起きるのです。ですから、「病気」も使いようです。悪いことばかりではありません。

 

残念ながら、現代の医療はあまりにも物質主義に偏っており、かつお医者様の言うことが絶対ですので、このような観点に至る人はほとんどいません。しかし、あなたにはいま言ったことを知識として頭の隅に入れておいて欲しいのです。次に示したものは、病気の種類と、それが示している霊的課題との関係図です。(図をクリックしていただければ拡大します)

 

 

人体は「小宇宙」であり、「大宇宙」の7階層の霊性密度に応じたエネルギーセンターが、見えない体に7箇所あって(=チャクラ)、これと対応した肉体上の部位に、その階層が意味するところの課題の病気が発症するのです。これらの病気は、大抵は過去世からのカルマを引きずっています。言うなれば、しつこい原因を持っているということです。ですから、これを完全に切るというのはなかなか大変なことです。

 

*この場合の「人体」とは、肉体を含む全階層を総合したものの意味。このたび上梓した『アセンション 宇宙からのメッセージ』の巻末には、付録として「大宇宙」と「小宇宙」との関係図がつけてあります。

 

しかし、前にも言いましたが、「浄化」とは、カルマを回避できるようにするということではなく、受けることを言います。宇宙の大原則は、自分が為したことは自分に還るということです。自分が作ったカルマは、必ず清算しなければなりません。借金を踏み倒してトンズラするというわけにはいかないのです。

 

「病気」の場合の「浄化」には、大きく二つの選択肢があります。一つはカルマを清算して治ることです。もう一つは、清算と引き換えにして、今度の人生を終了することです。治るか、それとも死んでしまうのか。この差は、普通の人の感覚からすると、大違いのように思われるでしょう。ですが、霊的観点からすれば、それほど違いはありません。

 

「魂」の側からすれば、何度も何度も生まれ変わってちょっとずつ山を登るか、今度の人生では少し頑張って1000メートルくらいを一気に駆け上がってみようか、という感じです。この選択は、気づきと粘りのレベルに応じて、本人自身が決めるのです。死期が迫って来た時には、「魂」は霊的世界の方がずっと魅力的であることを思い出します。ですから、粘りのない「魂」は、「今世はもう疲れちゃったから、まあこんなところでいいかなぁ」という気になるのです。

 

ということで、今の風潮のように、何が何でもこの世に生かそうとすることは、「魂」本人の、自然な移行を阻害することになります。

 

一般の人も、また医療従事者も、あまりにも「宇宙の真理」を知らなさ過ぎるのです。

 

私は誰か? なぜ誕生したのか? どこから自分はやって来たのか? 生きるとは何か? 生命とは何か? 存在するとは何か? 宇宙とは何か? どうせ死ぬと分かっているのに、生きることにどんな意味があるのか? 死とは何か? 死んだらどうなるのか? 自分はどこへ行くのか?

 

ごく日常的に、生と死を扱い、人間の誕生にも手を貸していながら、本質を何一つ知らないのです。驚くべき無智さ加減です。それでも「医産」が成り立っているというのが、さらに不思議ではありませんか? このようなことも、現代医療が改めて行かなくてはならない点です。

 

ここまで歪んでしまった医療常識を、一気にひっくり返すことは難しいでしょう。しかし人間が、この先もっと目覚めていけば、生命の本質にもやがて気づくことができるでしょう。それまで、あなたには一歩も二歩も先を走っておいて欲しいのです。人体が「小宇宙」であることをよく理解して、真の健康に至る道を研究し、実践して、ともに歩いて行きましょう。(つづく)

他山の石とする

他山の石:他人のつまらない言行、誤りや失敗なども、自分を磨く助けとなる、の意。(Wikipedia)

 

Aさんが、お辞めになることを発表いたしました。記者会見で何を言うのかなぁと思っていると、最後の最後まで「嘘ツキ」である自己を貫き通していて、この方の「魂」が痛々しく思え、可哀想になりました。Aさんの「魂」は、決してそんなふうには成りたくなかったのです。でも、この方の「自我」部分は、そういう行為(Action)を継続的に選択し、アイデンティティを構築して行ったのです。結果、「魂」と「自我」が引き裂かれて、病気に至ったのです。

 

「痛恨の極み。志半ばで断腸の思い」と彼は言いました。まさにそれが、自分で自分の病気を作っていた、ということをこの人は知りません。「恨み」「極み」「志半ば」という〈強い思い〉が、「痛み」「断腸」という現実を身体上に出現させたのです。潰瘍というのは、奥に隠れた病いのサインになっていて、「心得違いを、早めに修正しなさいよ」と促してくれています。しかしそれを無視していますと、やがては本格的な病気へと移行してしまうのです。

 

Aさんであるところの「魂」は、今世で「自由に羽ばたく」ということが、課題でした。ところが、家系のしがらみや家族、取り巻きの人々、坊ちゃん育ちであったことなどが、彼が「自由」であろうとすることを、まるで包囲網を作るようにして阻害したのです。でもそれは、彼に用意されたハードルでした。それでもなお、そのハードルを乗り越えていくことが求められたのです。またそれは、中間生にいた時に、自分自身が設定して来た課題でした。

 

*中間生:前世と今世との間にある、あの世での生。マスターやガイドのアドバイスを受けながら、次の転生での課題を設定する。

 

良い家系の一族やお金持ちの家に生まれることは、世間的に見たら、羨ましく思えることでしょう。でも、実はそうでもなくて、その人たちなりの気苦労があるのです。それは、恵まれた環境から脱け出すことが困難であるということと、家柄にふさわしくあれというプレッシャーを絶えず受け続けるということです。これは、見方を変えれば、「楽園」の形をした「監獄」にいる状態なのです。

 

ここで、釈迦を思い出してください。彼は釈迦族の王子でした。身の回りのことはすべてお付きの者たちがやってくれましたし、実父であるスッドーダナ王は、王子に苦労をさせまいとして、お城の外へはずっと出さなかったのです。まさに楽園の中に彼はいました。ところが、青年になってから、釈迦は初めて城を出て市中に出かけ、そこで驚愕の体験をするのです。世の中には「苦」というものが存在することを知るのです。で、彼はどうしたか。釈迦は、何もかも捨ててお城を出て、一介の行者となったのです。

 

Aさんにも、そのような勇気が必要でした。それが「自由に羽ばたく」ということです。「自由」とは何ものにも拘束されないこと。地位や名声やお金や所有といった欲望から自分を解き放すことです。Aさんにはお兄さんがいて、Aさんは次男でした。しかしお兄さんは、「俺は政治家にはならないよ」と、早くに親の期待からはエスケイプしていたのです。その分が、お坊っちゃま育ちであったAさんの上に、さらにプレッシャーとしてのし掛かりました。

 

でも、Aさんの本音は「自分も自由になりたい」だったのです。ところが、親や周囲の人たちに巻き込まれて政界入りし、次第に自分もその気になって行ったのが間違いのもとでした。後に引けないのなら、前に進むしか道はありません。Aさんは、ハッキリ言って、政治家の器でも無ければ、大勢のトップになれる器でもありませんでした。でも逆にそこが狙われたのです。お神輿の上に担がれ、自分が操られていることにも気づかないほど、鈍い感性の持ち主でした。

 

2017年7月の東京都議選の応援演説中に発したひとこと「こんな人たちに負けるわけにはいかない」に、Aさんの心情がぜんぶ表現されています。私たちと、こんな人たちとを分ける。そして、こんな人たちに勝つことが、自分の存在意義であり存在理由である、と固く信じていたのです。憲法改正とか、その他の政策などは別にどうでもよかった。私たち(権力を分け合う仲間)が、それ以外の者たちに勝利し、彼らの上に君臨する。この人にはそれしかなかったのです。

 

でもそれは、家系から来るプレッシャーの、歪んだ発露でした。一度お神輿の上に乗った以上、彼が自分の存在意義を感じ続けていられるのは、その状態の維持継続しかありません。そのことを彼は本能的に知っていました。そこで、アメリカ大統領選挙でそれまで支持していたヒラリーが敗れると、ひらりと手の平を返して、トランプのポーカー相手のネギ鴨になりに出掛け、わが神輿の担ぎ手たちには、国庫から盗んだ金を配りまくったのです。そうやって、長期安定政権が維持されました。

 

Aさんが在任期間中に何を成し遂げたのか。なに一つ成果が無いじゃないか、と言う向きがありますが、そんなことはありません。日本の産業をここまで落ちぶれさせたし、国際的な信用力を失わせたし、雇用不安を増大させたし、若者の未来を奪ったし、文化を破壊したし、公約で掲げた「鬱苦強い日本」を見事に実現させた。こんなことは、他の人には到底出来なかったことです。まさにAさんだからこそ出来たことであり、末永く歴史に刻まれるレガシーです。

 

これは皮肉で言っているんじゃありません。アメリカさんから見たら、あるいは闇の支配者から見たら、「よく頑張ったね。もういいよ、君の役目は終わったよ。今までどうもお疲れさん」と言ってあげたくなるのではないでしょうか。Aさんの自我は、それらに利用される道を選んだのですが、Aさんの「魂」は、その行為を通じて「他者を傷つけることは、自分を傷つけることと同じ」ということを学んでいる最中なのです。

 

惜しむらくは、最後まで「嘘ツキ」であることを曲げなかったことです。ちょっとは本音を漏らしました。でも真実は述べませんでした。本当に可哀想な人だなと思います。嘘をつくことが、自分を守ることだと習わされ、それを信じ込み、習性にまでなってしまったのです。でもこれはAさんだけではありません。Aさんを取り巻く人たち全員がそうです。自分を守るために嘘をつくこと。それが彼らにとっての「正しい」行動原理なのです。 南妙法蓮華経だってそれを許容しているわけですから。

 

ですから、日本を「鬱苦強い国」にしてしまった責を、Aさんだけに負わせることは出来ません。Aさんの取り巻きのお友達、Aさんを担いだ政治家たち、Aさんを持ち上げた知識人、「嘘」を垂れ流し続けたマスコミ、利権に与かろうと近寄った宗教団体、保身に精を出す役人、国会に送り込んだ有権者、そして政治に無関心な人まで含めて、全員が、自分の行動の範囲内において、そのようにして来た責任があるのです。

 

「鬱苦強い国」は一人の力だけでは出来ません。みんなで力を合わせて、そういう国を実現させたのです。ここが肝心なところ。でも、そのメカニズムを、みんな解っていません。社会を構成するみんなの、隠れたところにある願望が、ちょっとずつ集まって、その望み通りに「鬱苦強い国」を実現させたのです。「鬱苦強い国」、それは人々の、今の「鬱苦強い心」の、外界への投影です。外界と内面とはつねにパラレルな関係にあるのです。

 

ですから、みんなの「心」が変われば、世界は変わるのです!

 

Aさんの政権は、国の秩序・安定と、国民の生活を破壊し、富を貪り尽くしました。しかしそれも、タイミングと役割があってそうしたことです。重病にでもならない限り、自分が犯した間違いに気づけない人のように、そこまで落ちなければ気づけない部分が、日本人にはあったということです。いわば日本国のカルマ、日本人のカルマです。その清算の時期が到来したということ。Aさんは、自分が病気になってまで、その引導を渡す辛い役割を引き受けました。

 

しかし、Aさんであるところの「魂」にとっては、あまり成長がなかったばかりでなく、エゴを積み増ししてしまった体験でした。残るチャンスは死の間際です。そこに至って反省が起きるかどうか。もし反省が起きなければ、次の人生は、おそらく逆パターンを選択するでしょう。家系的に恵まれた今回の条件というものをじゅうぶん活かし切れなかったので、次回は、彼が国民に与えた苦痛のティピカルな状況を体験できるような家庭を選択して、生まれて来ることになるでしょう。

 

どうかAさんを憐れんであげてください。そして、Aさんの生き方を「他山の石」としてください。自己の「魂」に嘘をつく生き方は、いちばんしてはいけないことです。なぜなら、「魂」の本質とは「自由」だからです。その「自由」の叫びや感動に、じっと耳を傾けて、従順に生きて行ってください。それが「ありのまま」ということなのです。「ありのまま」である限り、宇宙の理法に沿っていますから病気にはなりません。この点でも、「他山の石」としてください。

 

そのようにみんながすれば、結果として、Aさんの「魂」も、世の人々に寄与したことになりますから。

認知症の背後にある意味

Q.医療関係の仕事に従事している者です。私が勤務している病棟では、認知症になっておられる患者さんが多くいらっしゃいます。霊的学習に関する最近の私の理解では、人が怪我をしたり病気になったりすることや、またどのように死ぬかということも、究極的にはその人が自分で決めていることだと捉えております。こうした理解は正しいでしょうか? またそれが正しいとした場合、自分が認知症になることを選択し、人生を忘れていくということは、その人にとってどのような意味があるのでしょうか?

 

A.先ずは前半の質問に関してです。これには「運命論」ということを考えなくてはなりません。人の運命は、予めすべて決まっているのだという考え方です。人生の不条理に接した時に、そのような考えに至る人は大勢います。また人によっては、「宿命」と「運命」という言葉を分けて、「宿命」は変えられないものだが「運命」は変えられる、と言う人もいます。本当はどうなのでしょうか?

 

これらは半分は当たっているが、半分は間違っていると言えます。先ず、「人の運命は、予め決まっている」と言った場合、そこには、自分の外側にある、何らかの不可抗力によって〈決められている〉というニュアンスが多分に含まれているのではないでしょうか? だとすると、これは正しくはありません。外側から〈決められている〉ものはありません。あなたには、あなたの人生を生きる「自由意志」が与えられているのです。

 

これは、「魂」が持つ根本的な性質であって、この「自由意志」をどう使うかが、その「魂」にとっての個別の旅なのです。さて、「魂」は輪廻転生をします。その際に、中間生(あの世)において、次の転生の目的と、大まかな人生プランを、まさに自分の「自由意志」によって設計するのです。ですから、これをもし「運命」と呼ぶならば、「運命」は自分で〈決めている〉のです。

 

*この時には、自分のガイド役やマスターとの話し合いやアドバイスがあります。

 

問題は、現世(この世)に誕生し、物心がつくようになると、この世の知覚認識能力がだんだんと向上するのと入れ替わりに、中間生で自分がしてきた人生プランを忘れてしまうということです。その結果、自分で「運命」を〈決めている〉のに、外側からの不可抗力によって〈決められている〉と思い込んでしまうのです。しかしこの忘却には、とてもよい面があります。それは、人が大いに迷い、悩む、ということです。

 

えっ、迷い、悩むことが、どうしてよいことなの? と、首を傾げられる方が少なからずおられるでしょう。でも、人生の岐路において、大いに迷い、悩むからこそ、それをジャンピング・ボードにして、その「魂」の霊的な成長が図られるのです。そこで、これまでにもしばしば、それが「ギフト」だと言ってきたのです。あなたが出遭う試練は、言わば「魂」の「筋トレ」です。それは、あの世にいた時のあなたが、自分自身に贈っておいた「ギフト」なのです。

 

さて、以上を理解していただいた上で、改めて質問者の「怪我や、病気や、死ぬことも自分が決めている」という捉え方を見ますと、そこには若干の誤解があるようです。確かに、究極的には何もかも自分が〈決めている〉と言ってもよいのですが、怪我を未然に防いだり、病気にならぬように心身を鍛えたり労ったりすることは充分に可能ですし、またそうすべきです。何でもかんでも「運命論」に帰すべきではありません。

 

「死」に関しては、今回は深くは触れませんが、人は、自分で設計して来た目的を果たすまでは、この世で言うところの「死」を迎えることはありません。必ず目的を果たしてから死ぬのです。そう言うと、きっとたくさんの疑問が沸くでしょうが(特に個別の事例として)、今はそこまでで留めておきます。

 

次に「認知症」に関してです。ここで最初に考えなければいけないのは、「認知症」という言葉が、2004年になってから作られた、比較的新しい言葉だということです。それまでは、一般には「ボケ」とか「痴呆症」と言われていました。この言葉の置き換えには、それ以前の言葉に含まれていた差別的ニュアンスを払拭したいという考えがあったと思いますが、同時に、医学会の中で医学用語っぽくしたいという別のベクトルも大いに働いていたと思います。

 

そして、この試みは成功しました。今では「認知症」という言葉を誰もが知るところとなり、25歳以下では、おそらくそれが当たり前の言葉と認識になっていることでしょう。今日、それは堂々と「病気」の仲間入りをし、親が「認知症」になったら介護が大変とか、歳を取ったら自分も「認知症」になるかも?、という新たな「病気不安」を人々に植え付ける結果となりました。

 

ところが、「ボケ」とか「痴呆症」という言葉が使われるもっと以前には、別の言い方がされていたこともあったのです。今日、その言葉を知る人は少ないようですが、それは「二度わらし(童子)」と呼ばれていました。人生の最晩年期に、二度めの童子に還るという意味です。そしてこの意味は、今日「認知症」と呼ぶようになった症状の、最も適切な捉え方を示しています。

 

ここで、これまでにも何度か触れてきた、心と脳と魂の関係についておさらいをしておきましょう。今日の科学では、心は脳の活動によって生じる、という考え方が主流を占めています。しかし、この考えは全くの誤りです。心のそれぞれの顕れ方によって、脳の特定部位が活動をしているというのは、観察に基づいた事実です。しかし、だからと言って、脳が心を生み出しているという理由にはなりません。

 

もし、脳が心を生み出しているのだとすれば、ではその脳は誰が動かしているのか、何が動かしているのか、心の真の支配者は誰なのか、という疑義が生じます。現行の「科学」と称するものは、この点には頰被りして、原因は脳だ脳だと言うばかりなのです。これも、心の問題を脳の機能障害に帰することで、「病気」にしてしまいたいという輩が、暗躍している結果の現象なのです。

 

しかし「脳」というものは、コンピュータでいうところのハードウェアに過ぎないのです。そして、みなさんがよくご存知のように、コンピュータはハードだけでは動きません。動かすにはソフトウェアが必要です。そのソフトに当たるものが「魂」なのです。「心」は、「魂」というソフトウェアが、「脳」というハードウェアを使って演算した結果の、この世におけるアウトプット(出力)なのです。

 

今の時代、「心」を病んでいる人が非常に多いと言われています。かく言う私も、過去に鬱病を経験いたしました。しかしそれは、「脳」の機能に障害があるのではありません。ハードではなくソフト、つまり「魂」の側が傷ついているのです。傷ついた「魂」が、「脳」の演算を狂わせているのです。ですから、脳機能を正常化しようとしていくら薬物を使っても、真の問題は解決しません。

 

真の問題解決のためには、傷ついた「魂」を癒やす必要があるのです。ではどうやって癒やすのか。それには先ず、なぜ「魂」が傷ついているのかを知らなくてはなりません。「魂」が傷つく理由は、自分の本体が「魂」にあるということを知らずに、肉体を持った自分が自分だと思い込み、この世の論理に合わせようとして無理をするからです。そこで、「魂」が持つ本来の「自由」が、阻害されてしまうのです。

 

けれども、自分は大河の一滴だと気づき、宇宙の流れに逆らうことなく、真理のままに生きていれば、本当の自分、つまり「真我」が発見でき、その奥の院は「神我」に繋がっているのだということを知るようになります。そうすれば、「魂」は癒やされ、この生きにくい世の中にあっても、明るく、朗らかに、楽しく生きることが出来るのです。このように、理屈は至ってシンプルなのですが、この世で受けた「洗脳」を解くのが、とても難しいのです。

 

「認知症」というものも、近年になってから作られた、そのような社会「洗脳」の一つです。一般に「心」の病いと言われている人々の中で、脳機能に本当に障害があるという人は、極めて稀です。大多数の人は、そう思い込まされているか、あるいは自分で思い込んでいるという状態です。ところが、認知症はそうではありません。老化に伴って、実際に脳機能(つまりハードウェア)が低下して行ってしまうのです。

 

脳も筋肉と同じで、使わなければだんだんと衰えて行ってしまいます。自分で考えたり、工夫したり、創造したりするということを止めて、生活を他人まかせにしてしまうと、脳の老化は一気に進んでしまいます。今の時代は、「他人まかせ」が横行している時代です。めんどくさいことは一切しない。そういう感覚に慣らされていますし、スマホやAIやロボットの登場で、この傾向はますます強くなっています。

 

現代社会というのは、「認知症」になるための危険なワナでいっぱいです。ですから、認知症になっている患者さんを大勢見るというのは、しごく当然の結果なのです。今の病院システムは、入院患者の自力を阻み、籠の中の鶏同様にしてしまっていますからね。認知症になるというのは、他の身体的病気と同様、身体のケア不足、この場合は「脳のケア不足」が原因ということになります。ここに、先ず、その人の今世で、新たに(あるいは再び)作った課題があります。

 

さて今、認知症は「脳」というハードウェアの機能的衰えだと書いたのですが、他者から見て、アウトプット(=心)がおかしいように見えても、ソフトウェア(=魂)に関しては、以前と変わらずに活発に活動しているのです。ただし、ハードウェアに支障が出てきているので、以前のようには思考したり行動したりするということが困難になり、本人は大層もどかしい思いをしているのです。

 

と、ここまでの説明を聞いて、ピン!と来た方はいらっしゃいませんか? あなたも過ごした、いつかのあの段階とそれは同じです。そう、乳幼児の段階です。ですから、昔の人は認知症のことを「二度わらし」と呼んだのです。紙に山形のカーブを描いてみてください。脳機能の発達のカーブです。生まれてから脳がどんどん発達し、そしてあるピークを迎えて、それからは徐々に低下して行く。

 

脳機能は、他の身体機関と同じように、発達と衰退の時を経るのですが、その間、ソフトウェアとしての「魂」は、連続的に活動しているのです。しかし、赤ちゃんの時には、脳だけではなく、身体の骨格や筋肉組織も充分には発達していないので、全面的に誰かのお世話にならなければ生きて行くことは出来ません。ところが老人の場合は、身体機能はまだそこそこ動くので、いわゆる徘徊やその他の困った問題が起こるのです。

 

けれども、今言ったこの認識に従って、赤ちゃんと老人とを比べると、今の社会の人間が、老人に対していかに冷淡であるかが解るのです。なぜなら、赤ちゃんと老人は、人生サイクルの上昇期と下降期の一局面を示していて、同じような状態にあるのにも関わらず、身の回りのことを自分で出来ずに、時々むずかったりする赤ちゃんに対しては、「認知症」とは言わないのはどうしてでしょうか?

 

それは、今はそうであっても、その後にはやがて「成長」するだろうという暗黙の希望があるからです。ところが、その逆回路は、「衰退」と「死」をイメージさせるので、反対に忌み嫌われるのです。これは、人間が「死」の本当の意味を知らない、「生命」の本当の意味を知らないところから来ているのです。「人生死んだら終わり。生きているうちが花なのよ」と、ほとんどの人がそう思っているのです。

 

ですがこれは、この半世紀で、急速に広まった考え方です。身近なところで「死」を見るという機会がほとんど無くなってしまい、大多数の人々は「死」を出来るだけ遠ざけるようにして、ただ享楽的に今を生きています。ですが、「死に方」が解らない人には、「生き方」も解らないのです。現代社会が息苦しい(生き苦しい)のは、その部分をみんな避けて生きようとしているからです。

 

先ほど書いていただいた山形のカーブの端と端を、下部に円を描くようにして結んでください。指輪のような形になるでしょう。これが輪廻転生のサイクルです。山形の部分が、いわゆる「この世」での活動期間。しかしこれを終えても、あの世での生が続き、ぐるっと廻ってまた次の誕生へと繋がっているのです。「魂」は、この円環状を連続的に生き、少しずつ霊的成長を遂げながら、スパイラル状に旅を続けて行くのです。

 

乳幼児期と認知症期では、「脳」がうまく機能していませんので、その「魂」の霊性の発達の度合いというものがもろに出ます。乳児はまだ自分ひとりでは動けませんが、幼児を観察していますと、2歳くらいから個性が見え始めます。それは、その「魂」が今世に持ち越して来た自分なのです。

 

一方、認知症の人の中には、暴言を吐いたりする人もいるかと思えば、終始ニコニコしている人もいます。それは、その「魂」の、現在の霊的な発達段階を示しているのです。社会の中で取り繕って来た蓋の部分が外れてしまったので、今の「魂」のあり方そのものが表出しているのです。

 

周囲にいる人たちは、そのメカニズムをよく理解した上で、どの「魂」にも同じ労わりの心を持って接してあげてください。なぜなら、発達段階に違いがあるとは言え、どの「魂」もみな等しく神の子なのですから。それが神の視点なのですから。そして、その「魂」が、少しでも霊的に向上して行けるように手助けしてあげてください。それがあなたの役割です。存在意義です。

 

具体的には、もどかしい気持ちをなだめてあげて、本当の自分(魂の自分=真我)を見つめ直すように促すこと。そしてその奥には「神我」が繋がっていることを繰り返し話してあげてください。遅くはありません。「魂」には、いつでも聞く耳があるのです。ヒーリング・ミュージックをお聞かせするのもよいです。

 

そのようにして、その人にチャンスを与えてください。真理を理解しようとせずに人生を過ごし、霊的な学習をずっと避けて来たからこそ、その人は今そうなっているのです。人間、いよいよとならなければ、簡単には目を覚まそうとはしないものです。その人は、認知症というギフトを頂いて、認知症のもどかしさを経験する中で、ようやく「魂」の学習を始めようとしているのです。

 

また、このチャンスは、本人だけではなく、周囲にいる人たちにも与えられています。何度も書いて来たように、人間関係とは、つねに両者の間にあるものであり、どちらか一方ということは無いのです。認知症を患っている人は、そのもとでの課題を生きることになりますが、それをお世話してあげる人も、お世話してあげるところに自分の課題があるのです。これは認知症だけではなく、すべての看護、介護についても同じことが言えます。

 

そして、「How Can I Help ?」という課題を、あなたは、ご自分の意思で、自由に選び、行動することが出来るのです。たとえば、

 

・いやだから、やらない。

・いやだけれど、まあやってみる。

・あれこれ考えずに普通にやる。

・喜んで、楽しんで、やる。

 

目標をどこに置くかも、あなたの自由です。

宇宙には、罪も罰もありません。

すべてが、あなたの自由意志。あなたに任されているのです。

 

さて、あなたの自由意志は、どうすることを選びますか?

静かに内観をして、自分があの世でして来た約束を思い出してみてください。

そう、それですよ。では、行ってらっしゃい。

健康談議

先日、東京某所の集まりにいらっしゃったあるお婆ちゃんがこう言うのです。「私、生まれて初めて人間ドックというものを受診しました。そしたらね、○○の値が高いって言われて、すぐに専門の先生のところに行きなさいって言われました」。それを聞きながら、私は「ああ、またか」と思いました。最近の「健康談議」というものは、どうしてこんな話ばかりなんでしょうねぇ。

 

これじゃ「不健康談議」でしょう。検査、数値、通院、クスリの話ばっかし。ちょっと顔を合わせれば、みんなで不健康自慢大会。それがどんなにおかしなことか、誰も気づいていないのです。

 

このお婆ちゃんは以前も、「検査をしたら血圧が高いって言われて、いま降圧剤を飲んでいるんですけどね、それ以来、頭がフラフラするんですよ」と仰るので、「それは降圧剤を飲んでいるからですよ」と言ってあげたのですが、解ったのか解らないのか「あ、そう。いいことお聞きしました」と帰って行かれ、翌月お会いした時には、今度はこう言うのです。

 

「あれからね、しばらく薬をやめたんですけど、娘にそれを話したら『お母さん、そんな、やめちゃダメだよ』と言うもんですしね、お医者さんに言ったら「勝手にやめないでください」と言われてしまいまして、元に戻しました」ですと。そりゃ、そうだよ(>_<)。医者に話したら「勝手にやめるな」って言うさ。だから、こっそりやめるか、医者に掛かることそのものをやめなくちゃ。

 

毎年、春に市役所から送られて来る「定期健康診断のご案内」。私は、封も切らずそのまんまゴミ箱に放り込んでます。もう「その手にゃ乗らんぞ!」って感じです。免疫系が弱くてアトピーとリウマチの持病があるんですけど、日課の体操と呼吸法でやりくりしていますし、このまま小康状態で死ぬまで行ければ、もうそれでOK。それに何より「日々、自分は健康になっている!」と信じている。

 

東京と長野の山奥との往復生活を続けているのですが、お年寄りの生き方がまるで違う感じがします。山奥のお年寄りは暗い顔なんかしていないし、杖を頼りにヨタヨタ歩いている人もいない。70、80になっても、腰が曲がってもみんな農作業をやっている。この違いは何なのでしょうねぇ? 結局、都会のお年寄りはヒマなのだと思う。そこで、不健康談議と、身内のことと、ペットのことしか話題がないのだと思う。

 

ところが、こんな山奥にまで、魔の手が忍び寄って来たんです。健康の為の食事指導があるというので、わたしゃ言われた通り、指定日時に部落の公民館に出向きました。その前年には、太鼓を叩いてグーチョキパー体操をやらされたんですけどネ。どうも、こういうのはかなわんよねぇ。でもお付き合いだから仕方がないの。俺はヤダ!なんて言えん。64歳で年寄りのフリも、つらいもんだよォ。

 

さてしばらくすると、日本財団の顔マークの付いた車がやって来て、30代と思しき女性が降り立ちました。席に着くと、その指導員女性は開口一番、「定期健康診断の結果はお持ちですか」と言うのですね。もちろん自分は持っていないわけですが、他の人たちは全員それを広げるのです。すると、○○の値はこの範囲内に収まっていなくてはいけない、とかのお決まりの話がそこで始まるのです。

 

ああ、こうやってみんなを洗脳していくのか‥‥と、内心、それを聞きながら私は思いました。

 

食事指導の話に移ると、手のひらの部位に合わせて各食材の一日の必要量を測れと言われ、牛乳を飲めだの、肉を喰えだの、それまで山暮らしの人間がして来た生活習慣を変えさせようとする。そして「なぜ、肉を食べる必要があると思いますかぁ?」と言った指導員の、次の言葉を聞いた瞬間、私は椅子から転げ落ちそうになりました(畳部屋だったけど)(慣用句として)。彼女、なんて言ったと思います? 「人間は、動物だからで〜す」ですって。

 

おいおい、ちょっと待ってよ。じゃあ牛くんはどうなのよ? 草しか食べてないよ。草しか食べてないのに全身たんぱく質の塊だよ。パンダは竹ばっかりだし、コアラなんてユーカリばっかりの超偏食じゃないか。と、ツッコミを入れたかったのですが、その場では自分はよそ者ですし、せっかくの会合をぶち壊してはいけないと、つい忖度してしまい、黙っておりました。

 

でも、そもそもこの会合は根本的に間違っていると思いました。長野県の平均寿命は、直近データ(平成27年度)で、女性が87.67歳で全国1位、男性は81.75歳で2位なのです。そこに集まった人たちは70代、80代で元気に農作業をしている人たちです。その先輩方々に、「長生きの秘訣を訊く」というのなら分かるけど、30代の小娘が、逆にどうして健康指導、食事指導なんて出来るんでしょうか?

 

いやはや、狂っているなと、改めて思いました。もっともその女性も、マニュアル通りにただ話しているだけで、誰かがそういうことを考えてやらせているんでしょうけど。

 

昔、自分が習った「歯磨き指導」なんて、コロコロ変わって行った。最初は、横磨きはいけない、縦にブラッシングしろと盛んに言っていた。それが今は、ブラシを歯ぐきの境目につけて横に動かせと言っている。ブラシの形状も、最初は先端を折り曲げたものが隅々まで磨けると言い、次に湾曲をつけたブラシが登場してこれなら裏側まで磨けると言い、結局ストレートハンドルがいちばんだとなって元に戻った。

 

歯磨きペーストは、フッ素が歯を強くすると言って盛んにフッ素入りを勧められ、フッ素混入の水道水も現れ、そのあとでフッ素には毒性があるということになった。もう次から次へと「指導」なるものが変わって行ったのですが、それまでの指導は間違っておりました、と謝罪したドクターは一人もいない。私が知る限り「日本中の人を騙していました」と正直に告白したのは、ケーシー高峰さんだけだ。(ニセ医者だけど)

 

というわけで、健康と医療に関する洗脳は、今や日本国中、津々浦々まで広く覆い尽くしている。ですから、今ここで私が何か言ったところで、無力なのは承知しています。でも私には、医者に掛かってアトピーを決定的に悪化させてしまった経験もあるし、カミさんを集団検診から僅か10カ月で死なせてしまったという苦い経験もある。それもこれも、自分が無智だったから。私自身が、当時はまだ洗脳が解けなかったからなんです。

 

身体に顕れた病気は、身体に原因があるのではありません。それは結果であり、原因は心にあるのです。同様に心に顕れた病気は、心に原因があるのではありません。それは結果であり、原因は魂にあるのです。あなたの「魂」の今のあり方が、今のあなたの「心」を創り、今のあなたの「心」が、あなたの身体を創っている。原因は、すべて一段階前にあるのです。

 

このことが解らないと、健康も、病気も、治病ということも、いっさい何も解らない。そして残念ながら、現代ではほぼ100パーセントの人が、何も解らない状態に置かれてしまいました。

 

以前は、そうでもなかったのですが、この50年間で決定的に変わりました。そこには、「そうしたい」という闇の支配者側の戦略があったのですが、半世紀をかけてジワジワと、身体の病気の原因は身体にあり、心の病気の原因は心にあるんだと、何の抵抗もなく、万人が思い込まされるようになったのです。まさしく「洗脳」です。

 

そのエビデンス(証拠)として使われているのが検査データです。現代の医者は、患者の顔色など見ません。表情から、心の状態を読むと言ったことにも全く注意を払いません。ただ、検査データが表示されたモニターだけを見ています。そして、機械的人間論に従って、動きの悪いところには油を刺せばいい(薬)、壊れたところは交換すればいい(手術)とやって、これが医療だとしている。

 

患者の側は、お医者さんというのは病気を治す人だと思っていますが、現代の医者は病気を治す人ではありません。現代の医者は、検査データを基にして「病名」を付ける人です。つまり「病名」の名付け親です。医者が「病名」を付けた瞬間から、その病気を抱えて生きる人生が、その人の上に始まるのです。言い換えれば、現代の医者とは、「病気」を創造している人です。

 

どんな場合であっても、病気を治すのは、その人自身です。そして、その人自身が治すことを、上手に誘導してあげたり、手助けしてあげられる人が、よい療法家なのです。よい療法家は、決して「自分が治してやる」などとは言わないでしょう。そんなことは出来ないということを知っているからです。「自分はただ神の手足となって、パイプ役を全うするだけです」と、言うことでしょう。

 

しかし、どれほど優れた療法家との縁が生じたとしても、病気を治すのはあくまでその人自身なのですから、本人がそのことに気づかない限りは、病気は治りません。いったん治ったかに見えても、また再発したり、別のところに病気が顕れたりします。この「気づき」とは、身体の病気の場合には「心」の不調和が原因だと気づくことですし、心の病気の場合には「魂」のあり方に原因があると気づくことなのです。これは、じっくり内観してみれば分かります。

 

そもそも「病気」とは、その原因となっている何らかの行為の誤り、自分の心得違い、創り出している不調和、清算すべきカルマ、等に気づかせるためのギフトです。ですから、「ああ、これはギフトなんだ」と理解して、そのことに感謝して、因を修正していけば病気は治ります。よほど深いカルマが原因でない限りは治る。病気を克服したという人をよく観察すれば、以前とは心が変わっていることに気づくはずです。

 

私の場合はアトピーとリウマチという持病があるのですが、これは体質であって、体質というものは治りにくいです。生まれ変わりの際に、そのようなDNAの組み合わせを受精時に選択したわけです。ですから、自分がそのような初期設定を与えて、その後の身体を創造した。そこにも意味があるのであり、身体をちゃんとケアしなさいということを、私は教えられました。

 

さて、現代人の不幸は、いま言ったような視点には、もはやなかなか立てないということです。機械的人間論があまりも深く広く浸透していて、医者も患者も、今ではみんなそれを当たり前のように思っています。あなたの健康度を計るのは、電気やガスや水道メーターの定期検診と同じで、あなた自身がどう感じているかなどはお構いなし。

 

「病いは気から」という言葉は完全に無視され、日々、「健康のために」と称して、脅して不安にさせるような情報ばかりが吹き込まれる。そして、医療機械の高度化、分析技術の発達、AIの導入などによって、この傾向がますます加速しています。患者はその進歩に抗うことなどとても出来ずに、用意されたベルトコンベアの上に、ただちょこんと乗るだけになっています。

 

結局、「健康のために」と言いながら、みんなどれほどの回り道をしていることでしょう。本当に「健康」でありたいのなら、ただ一直線の近道を行けばいいのに‥‥。

 

それは、自分を信じるということ。

 

思いが、明日のあなたを創るんだよ。「自分は病気だ」と思えば病気になるし、「健康だ」と思えば健康になる。簡単なことさ。毎朝、起きがけに言ってごらん。「さあ、今日も元気いっぱい。今日一日を楽しむぞ!」って。床に着いたら言ってごらんよ。「今日も一日ありがとう。明日もどうぞよろしく寝」。それを習い性にしてごらんなさい。もうそれだけで、健康一直線なんだよ。

不正直であり続けることは、自分の身体を傷つける

正直に生きる。人間にとって、それは最も大切なことです。

 

でもここで言っている「正直」は、世間で言われているところの「正直」とは、ちょっと意味が違います。「嘘をつかない」「正直に生きる」ことが大切だと言うと、これを杓子定規に捉えて、たとえば他者に対して、自分が思っていること感じていることを何でもかんでもぶつけるのがいいのかという方もいらっしゃるのですが、そうではありません。

 

世間で言う「正直」「嘘をつかない」は、他者に対する態度として言っていることですが、ここで言う「正直」「嘘をつかない」は、自分に対して言っていることなのです。つまり、自分の「魂」に対して、「嘘をつかない」「正直に生きる」ことが、何よりも大切だと繰り返し言ってきたのです。そして、これを言い換えると、「自由」に生きるということになるのです。

 

自分の「魂」に「正直に生きる」とは、どういうことを言うのでしょうか? また、なぜそれが最も大切なのでしょうか?

 

あなたの本質は「魂」にあります。そして、そのコアを形成する部分は、宇宙意識から「自由」を求めて別れたものであり、別れた状態にあっても、なおテレパシーによって常に繋がっています。このことから、あなたが、自己の「魂」の純粋な部分にアクセスすれば、それは自動的に宇宙意識とのチャンネルを開くことになるのです。

 

このようにして繋がった宇宙意識は、「宇宙の真理」そのものなのですから、それと繋がっている自己の「魂」に「正直に生きる」ということは、「宇宙の真理」のまさに体現となるわけですね。ですから、自分の「魂」に嘘をつかず、日々を正直に生きれば、不安もなく、間違いもなく、「自由」そのものを生きられるということになるのです。

 

他者に対して「嘘をつく」ということと、自分に対して「嘘をつく」ということは、重なっている部分も多くあるのですが、意味合いは大いに違います。他者に対して「嘘をつく」ことは、道義的な責任を問われることがある一方で、バレなければ御の字だという発想も生んでいます。ところが自分に対して「嘘をつく」ことは、その責任と結果から誰も逃れようがないのです。

 

このことを、人間は解っていません。他人に対してついた「嘘」は、隠し通せることもあると、図々しい人たちは思っています。その時、自分に対しても「嘘」をついていることは、完全に忘れているのです。自分に対して「嘘」をついているという感覚が、そもそもないのです。自分という存在は、この肉体を持ち、思考している存在だと考えているからです。

 

そうではありません。何度も言うように、あなたの本質は「魂」にあるのです。では、「魂」に「正直に生きる」とは、どういう状態を言うのでしょうか? あなたが、充分にリラックスしていて、ホンワカとした温かな気持ちにある時、あなたは「正直」に生きています。逆に、緊張して、ギスギス、ザワザワしている時には、「正直」に生きてはいません。

 

さらに言うと、嬉しくも悲しくもないのに、つまり感情は動いていないのに、ただ涙が溢れてくる。このような感動が内部から押し寄せてきた時というのは、あなたの「魂」が、宇宙の真理を掴んだ時です。言い換えると、自分が、何者であったかを思い出した瞬間なのです。それは、五感で感じる感動とは、全く異質のものです。これは、「正直」に生きているがこその感動なのです。

 

さてそう考えると、日常生活の中で、緊張を強いられたり、気持ちがギスギスしたり、ザワザワしたりすることの、なんと多い社会に、現代人は暮らしていることでしょうか? これらはみな、「魂」に「正直」に生きていないということを、正直に物語っています。

 

その原因は、一体どこにあるのでしょう? 結局それは「〜ねばならない」という数多くの「信念」を、子どもの時からイヤというほど刷り込まれ、そのまま大人になり、今度は自分が言う番になって、また多くの人々をその「信念」に従わせるということが、何万年にも渡って続いてきたからです。そして恐ろしいことには、こうした歪んだ「信念」を、強固に持つ人ほど人間社会では高い地位につけるのです。

 

倫理、道徳、正義、善、富、これらを人間社会では尊びます。悪い社会というのは、これらが失われた社会だと、多くの人が考えています。でも、世の中をよく観察してみてください。そこには、異なる倫理、異なる道徳、異なる正義、異なる善、異なる富の基準があって、互いに非難の応酬をし合っているのが現実だということを。

 

Aさんは、倫理、道徳、正義、善、富に関する自分の「信念」を持っている。今の世の中は、それらのものが失われていてけしからんと思っている。でもそれは、一人の人間の思い込みに過ぎなくて、Bさん、Cさんは、全く別の倫理、道徳、正義感というものを持っているかもしれない。「信念」を持つ人たちからは、そうした発想が抜け落ちているのです。

 

政府やメディアが断定するテロリストだって、彼らの「正義」によって行動しているんですよ。仮に、私があなたに自爆テロを命じたとしましょう。当然、誰もそんな馬鹿なことはしないでしょう。でも「正義」のためならば、人殺しだって、自分の命を捨てることだって、人は厭わないのです。

 

そんなものが、本当に宇宙の理法だとお思いでしょうか? 神のご命令だと、あなたはお思いでしょうか? ところが、宗教的信念は、その矩(のり)を、簡単に乗り越えてしまうのです。世界は一握りの狂人によって操られている。このもの凄い歪みが、ただ「信念」だけによって、今の人間社会では簡単に起きてしまうのです。

 

人間はまだ、倫理、道徳、正義や、善や富に関する価値基準そのものが不要なんだということまでは気づいていません。実にこれこそが、人間がいつまでも覚醒できない理由なのです。しかし、そうした「信念」を、綺麗サッパリ捨て去ることが、真の「自由」というものへの目覚めであり、「幸福」への扉なのです。つまり、人間社会でふつう言われていることとは、真逆だということです。

 

そして「正直に生きる」ことには、あなた方が知らない、もう一つの重要な意味合いがあります。それは、健康の基本だということ。生命を繋ぐ基本だということ。逆に言えば、「不正直」に生きることは、自分の身体を傷つけることになるということ。深刻な病気になる可能性が高いということです。

 

これは因果応報ということで言っているのではありません。宇宙の理法からして、そうなる可能性が高いということなのです。

今日は、このメカニズムについてお話ししましょう。

 

あなた方の意識が、底の部分では宇宙意識と常に繋がっているということは、いま説明しました。人間以外の動植物は、この繋がっている「feel」という感覚を自然に持っているのですが、人間だけは著しく退化してしまったのです。それは、いわゆる五感と知能との連携プレーの部分のみを発達させ過ぎたために、「feel」に蓋をしてしまったからです。

 

一方、脳がつかさどる意識とは別に、身体上の細胞にもそれぞれの意識が存在します。このことは、現代科学ではまだ認めていませんが、子供時代の古傷が同じ箇所にずっとあるというのは、細胞が記憶を持つということの何よりの証拠ですし、過去世との絡みで、過去世に拷問を受けたとか、槍が突き刺さったなどの部位に斑紋があったり、痛みを覚えたりするという人もたくさんおられます。

 

さて、そうした身体上の各細胞は、宇宙の真理に沿った生き方を、自動的に選ぼうとします。なぜならば、それが、自分が(つまり個々の細胞が)生きたい道だからです。それが理に適っていると、細胞は知っているからです。ところが、そこに、「脳が創る意識」が介入してくるのです。

 

自分の「意識」が現実を創るということは、これまでにも何度かお伝えしました。覚えておられるでしょうか? これは、何も周辺の環境のことだけを言っているのではないのです。あなたの身体も、あなたの「意識」が創り出します。あなたが「もっと食べたい、もっと食べたい」と意識し、そのように行動していれば、それに応じた身体が創り出されます。

 

その意味で、私がいま非常に懸念していることは、現代人が健康についての「脅し」を掛けられ過ぎているということです。やれ、◯◯障害じゃないか、精神疾患じゃないか、定期検診を受けないと癌で命を落とすぞ、新しいウィルスが蔓延してるぞ、というような不必要な情報で雁字搦めにされている。

 

しかも、「健康情報」と言って、新しい言葉がどんどん作られ、「最新の研究から、◯◯が発達障害の原因であることが分かりました」とか「癌の原因になることが分かりました」などという、更ななる「脅し」が、メディアを通じてバラまかれています。これらは、ある意図があって、故意に行われていると思いますが、人間の身体にとってはマイナスの作用しか及ぼしません。

 

話を戻します。身体の各細胞は、本来の状態で生きたいと思っているのですが、そこに「脳が創る意識」が介入してきます。その「意識」が、「魂」に「嘘をつく」生き方をしていますと、「正直」に生きたい身体の細胞と、脳が命じてくる「嘘をつく」生き方との間に、乖離が生じるのです。意識間の矛盾と葛藤です。これがよく言われる「ストレス」というものの正体なのです。

 

医者は、単に「ストレス」としか言いませんが(それは今のようなメカニズムを知らないために、その言葉で逃げているだけですが)、細胞レベルでは、今後の生き方に関して、激しい葛藤が続いているのです。特に「嘘をつく」ということは、奥深いところでの自己否定ですから、それが身体の細胞に伝われば、細胞の生き方否定にまで繋がってしまうのです。

 

ですから、一時的に葛藤が生じたとしても、早めに反省して修正し、充分リラックスして身体細胞をいたわってあげれば、元の元気を回復します。ところが、「嘘」をつき続けておりますと、こうした修復の時間がないばかりではなく、細胞否定をし続けることになってしまい、ついにはバランスの限界を超えて、重大な病気が発生します。

 

この、病気の発生箇所は、脊髄に沿ってある7箇所のエネルギーセンター(通称チャクラと呼ばれ、肉体上ではなく、アストラル体上にある)と、これにつながる経絡、および神経がおよぶ範囲の臓器や骨格、筋肉等に出現します。

 

各エネルギーセンターには、霊性上における課題がそれぞれ振り分けられているのですが、その課題に関して問題のある箇所に、病変が出現するのです。たとえば、常にカッカしているような人は、感情をつかさどるマニピューラチャクラに対応した部位である、胃腸に病変が出現します。逆に言えば、病気の箇所が分かれば、その人の霊性上の課題が分かります。

 

ということで、「正直に生きる」ということが、健康をつかさどる意味においても、いかに大切であるかがお解りでしょう。あなたの身体は、借り物です。借り物である身体を、自分のエゴによって傷つけないように、いつも大切に思って充分にケアしてあげることが必要です。食事、運動はもちろんですが、正直に、朗らかに、愛を持って、楽しく生きることが、健康のためにはいちばんなのです。